コレクターの声

林光一郎さんのブログから〜木坂宏次朗展

木坂宏次朗−AT THE STILL POINT@ときの忘れもの(2015/07/10)

林光一郎


今日の夕方はときの忘れものにお邪魔した。現在開催中なのは木坂宏次朗氏の個展。案内のハガキにあった、夜の海の水平線を描いたような深い色の作品に妻ともども惹かれ、スケジュールを合わせて一緒に出掛けることにした。

ギャラリーで実際に作品を見てみるとハガキで見たものとはかなり印象が違う。作品の表面にはベニヤ板のような凸凹が見え、その凸凹の線ごとに少しずつ色が違う。近づいてみるとその細密なテクスチャに目が行くが、少し離れてみるとまるで点描のように個々の線の印象が消え、ただ暗い海と空が仄かに光る様子が広がる。

今日は作家さんが在廊でいろいろお話を伺うことができた。この作品はテンペラで描かれたそう。テンペラと言うと細密画や古典画というイメージがあったのでどうしてこういう抽象画でテンペラを、と伺うと、自分の思う色のイメージがテンペラでしか出せなかったから、とのこと。作品は石膏を何層も塗り重ねてつるつるに磨いた後、面相筆でテンペラを何度も塗り重ねるという方法で作成したもの。木目のように見えたものは筆のタッチだったのだ。何年と言う膨大な時間をかけて少しずつ塗り重ねていき、「これは違う」というところは石膏面まで削って塗り直し。なので作品の前に立つとその製作にかけた時間や思いがよみがえってきて苦しくなるんですよ、というお話にちょっと言葉を失った。命を削って作品を作るというのはこういうことか。

この絵のイメージは煉獄で、他人が祈ってくれることでそこから抜け出て天国に行けるのを待つ場所、ということを何度も考え、灼熱地獄ではなくこのようなイメージになったのだとか。

久しぶりに芸術の凄味を感じることができた時間。作者と話しながら作品を見るのってやっぱりいいな。

はやしこういちろう
*Luv Pop TYO (Pop U NYC跡地 )より転載

1_ReprosKojiro01_MG_7413_WRK_FIN_M
1. 木坂宏次朗 Kojiro KISAKA
Still Point
2010
卵テンペラ/木パネル、綿布、石膏
Egg tempera / wood panel, cotton, gypsum
48.0×110.0cm
Signed

2_ReprosKojiro04_MG_7433_WRK_FIN_M
2. 木坂宏次朗 Kojiro KISAKA
Purgatory
卵テンペラ/木パネル、綿布、石膏
Egg tempera / wood panel, cotton, gypsum
41.0×75.0cm
2013
Signed

3_ReprosKojiro08_MG_7446_WRK_GapWhite_FIN_M
3. 木坂宏次朗 Kojiro KISAKA
Still Point ― 4 Segments
卵テンペラ/木パネル、綿布、石膏
Egg tempera / wood panel, cotton, gypsum
94.0×232.0cm(1枚94.0×58.0cm×4枚)
2009  Signed

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

*画廊亭主敬白
林さんは私どもの画廊の直ぐ近くにお住まいなので、展覧会のたびに奥様と仲良くいらっしゃる。
亭主が好もしいと思うのは、
一に、奥様と必ずお二人で展覧会や音楽を楽しまれていること、
二つに、作家がいれば作家に、いないときは不肖この亭主に作品について質問し、それを(私たちの展覧会だけでなく)ちゃんとブログにご自分の言葉で感想を書いていること。
できるようでなかなかできません。
私たちが尊敬するコレクター、例えば笹沼俊樹さんが繰り返し強調している「常にいいものをきちんと見ること」「なぜいいか、なぜ感動したかを論理的に考え、自分の言葉でまとめること」を自然に(楽しげに)実践している素敵なカップルです。

深野一朗「ドイツに200人」

深野一朗のエッセイ

[ドイツに200人]

現在実家JIKKAでは飯山由貴さんの個展を開催中で、昨夜は武蔵大学教員の香川檀(かがわまゆみ)先生をお招きして、

「忘却に抗うアート ドイツの記憶アートから考える」

というテーマでトークがありました。

飯山さんはネット・オークションで落札したスクラップ・ブックを手掛かりにリサーチを行い、それをインスタレーションなどで表現する作家さんです。
リサーチ・タイプの作家さんと言われて、素人の僕でもすぐに思い浮かぶのは英国のサイモン・スターリング、我が国では眞島竜男さんや田村友一郎さんもそうでしょうか。

リサーチの対象となるのは、歴史に埋もれた事実や表では語られることのない裏の歴史などが多いのですが、歴史学者はリサーチの結果、新たな歴史を提示するのが仕事であるのに対して、アーティストはそこで掘り起こされた「固有」の事柄から、いかに現代にも通用する「普遍」のテーマを表現するのかが問われます。

今回飯山さんがリサーチの対象としたのも、我々日本人が知らなくてはならない、そして忘れてはならない歴史の断片ですが、この「忘れてはならない」アートの先進国(?)がドイツであるということで、香川先生とのトークはそれがテーマになりました。
ドイツが忘れてはならない歴史というのは、言うまでもなく第二次世界大戦におけるナチスによるホロコーストです。本来ならば、加害者としてもまた早く忘れたい忌まわしい記憶を、敢えて忘れないために「痕跡」として残す。ドイツにおける痕跡としてのアートを香川先生は、スライドを使って見せてくださいました。
01ユダヤ人のボルタンスキー

02ベルリン生まれのヨッヘン・ゲルツ

0372年にドクメンタ(カッセル)、78年にはミュンスターの彫刻展に参加しているレベッカ・ホルン。2009年には都現美で個展も開催されています。

04女性作家のジークリット・ジグルドソン

これらの作家たちについて香川先生はご著書も出されています。
05想起のかたち―記憶アートの歴史意識
作者: 香川 檀
出版社/メーカー: 水声社
発売日: 2012/11
メディア: 単行本

香川先生によると、ドイツにおけるこれらの「記憶アート」は80年代中盤から急増したといいます。
80年代中盤というのは、「68年世代」、すなわち68年に世界で同時多発的に生じた異議申立に学生として参加していた連中が、教員や指導者になった時代です。
ドイツ人にとって、かつての忌まわしい過去から脱却し、新しい世界を作る手段として現代美術が有効に機能したと香川先生は仰います。実際、ドイツで現代美術の展覧会に行くと、お年寄りの多いことに驚かされるそうです。
ミュンスターの彫刻展が始まった背景にもそれは深く関わり、とりわけ戦中に生を受けた68年世代にとって新しい一歩を踏み出すための足掛かりとして盛んに制作されたのが「記憶アート」だったとのこと。

このお話しを伺って僕は、ドイツ人の現代美術コレクターのことを考えました。

昨年の暮れから今年の2月にかけてNYのMoMAでは“Tokyo 1955-1970”と題して日本の前衛美術を紹介する展覧会が開催されました。同じく2月からはNYのグッゲンハイムで“Gutai: Splendid Playground” と題して「具体派」の展覧会が開催されました。その後春にはLAのギャラリー、ブラム&ポーで日系アメリカ人の吉竹美香さんによってキューレーションされた「もの派」の企画展「太陽へのレクイエム:もの派の美術」が開催。7月からは東京の新美で『「具体」−ニッポンの前衛 18年の軌跡』が行われました。さらに今年のヴェネツィア・ビエンナーレ会期中にはスーパー・コレクターのピノーが自身の美術館プンタ・デラ・ドガーナで『プリマ・マテリア』と題して、もの派とアルテ・ポーヴェラを同時に見せるという展覧会を開いています。

これだけ見ていると、まるで世界的に「もの派」や「具体」が再評価され、ちょっとしたブームになっているかのようです。
それとドイツ人コレクターに何の関係があるのか。

最近こんな本を買いました。
06現代美術コレクションの楽しみ―商社マン・コレクターからのニューヨーク便り
作者: 笹沼 俊樹
出版社/メーカー: 三元社
発売日: 2013/07
メディア: 単行本

この本の中で著者の笹沼氏は自身の古い日記から抜粋しているのですが、1990年6月12日の日記に、

白髪はドイツで、非常に重要な作家になっている

と記しています。さらに笹沼氏は91年6月16日のバーゼル(・バーゼル)で、ベルリンから参加していたノートルファー画廊のオーナーから、

白髪のコレクターはドイツに200人ぐらいいる

と聞かされています。そこで笹沼氏は価格面から検証します。

90年1月に東京画廊で開催された白髪の個展での価格は以下の通り。制作年はいずれも88〜89年です。
181×227センチ:330万円
194×260センチ:400万円

一方90年6月にパリのスタドラー画廊にあった61年の白髪は、
162×130センチ:約770万円

そして91年のバーゼルで前述のノートルファー画廊が付けていた白髪の価格は、
195×130センチ:約2,320万円(61年制作)
81×116センチ:約1,485万円(62年制作)

制作年の違いという事実を差し引いても、当時の日本では想像すらできないこの驚嘆すべき価格の背景に「ドイツのマーケットでの需要の裏打ちがある」と笹沼氏は書いています。

1986年の暮れからパリのポンピドゥーでは「前衛芸術の日本 1910-1970」展が開催されていますから、北米はともかく、欧州で日本の前衛が当時すでに評価されていたのはなんとなく分かるのですが、ここで驚いたのはドイツのアート・コレクターの層の厚さです。

先述した90年の東京画廊での白髪は大作8点が全て完売しました。90年。そうバブルです。
泡がはじけた我が国で再び白髪が売れるようになったのは2006年。この年の12月に笹沼氏は銀座の複数の画廊で、
「白髪一雄の作品が、急に、売れ始めた」
と聞かされました。この時ですら買い手は、欧州のコレクター、遅れてアメリカのコレクターだったそうです。
恐らく欧州の市場で白髪の作品が払拭し、ようやく「本国」の我が国にコレクターが目を付けたのでしょう。銀座の画廊が英語によるHPを完備していたら、それよりもっと早く売れていたに違いありません。

インゼル・ホンブロイヒ美術館のカール・ハインリヒ・ミュラーぐらいしか知らなかった僕にとって、このドイツのコレクター層の厚さは驚きでした。

ドイツ人にとって現代美術は、戦後の新しい価値観の創造に有効な役割を果たしている。

現代美術にお詳しい方には周知の事実かもしれませんが、「美術オンチ」の僕には、笹沼氏の著書で知ったドイツ人コレクターの層の厚さと、昨日の香川先生のお話しが、ピタリと符合して、トークを聴きながら一人勝手に合点していたというわけです。

それにしても、まだまだ知らないことは沢山ありますね。

だからこそ楽しいのは言うまでもありません。
ふかのいちろう

深野一朗さんのブログ「ジャージの王様」2013年9月8日付記事より転載

*画廊亭主敬白
久々の深野さんの登場です。
それにしてもコレクター歴のそんなに古くない深野さんの猛勉強ぶりには驚かされます。
笹沼さんの著書「現代美術コレクションの楽しみ」は、珍しいヨコ組み、ちょっと読みずらいと思ったのですがあまりの面白さに一気に読了。

「自分の好みの作品をコレクションしているのだから、それでいいんですよ。価値が出なくても・・・・」感情にまかせて一途に動くコレクターからよく聞く言葉だ。やがて、(後略)

「美術書」を丁寧に読み、「美術館」に足しげく通い、優れた「画商」との出会いを積極的につくる。日々研鑽、過去に学ぶ姿勢は闘うコレクター笹沼さんの面目躍如。
ぜひ一読をお薦めします。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子さんのエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・土渕信彦さんのエッセイ「瀧口修造の箱舟」は毎月5日の更新です。
 ・君島彩子さんのエッセイ「墨と仏像と私」は毎月8日の更新です。
 ・植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は最終回を迎えました。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・鳥取絹子さんのエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は毎月16日の更新です。
 ・井桁裕子さんのエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
  バックナンバーはコチラです。
 ・小林美香さんのエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
 ・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月28日の更新です。
 ・飯沢耕太郎さんのエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
 ・浜田宏司さんのエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
 ・深野一朗さんのエッセイは随時更新します。
 ・荒井由泰さんのエッセイ「マイコレクション物語」は終了しました。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。

今までのバックナンバーはコチラをクリックしてください。

●カタログのご案内
表紙『具体 Gコレクションより』展図録
2013年 16ページ 25.6x18.1cm
執筆:石山修武 図版15点
略歴:白髪一雄、吉原治良、松谷武判、上前智祐、堀尾貞治、高崎元尚、鷲見康夫
価格:800円(税込)
※送料別途250円
※お申し込みはコチラから。

荒井由泰「マイコレクション物語」第11回

荒井由泰「マイコレクション物語」第11回(最終回)

コレクションの公開&コレクションとは何かについて(まとめ)
荒井由泰


コレクションの公開
福井市の北の庄通りにE&Cギャラリーがある。2009年に福井大学の美術科の先生・学生が運営するNPO法人の画廊としてオープンした。EはEdge(周縁)、CはCenter(中心)を意味しており、文化の受信地であり、発信地でありたいという気持ちが込められている。最初の展覧会が福井県にアトリエを持つ宇佐美圭司展でファインアートの発信地を目指す意気込みを感じ取っていただけると思う。E&Cギャラリーのホームページをのぞいていただくと分かるが、4年間にわたり、積極的に企画展を開催している。また、ポスターや案内状・ちらしのデザインも学生達が担当し、作品展示についても先生の指導のもと、すべてやってくれるので出展する方としては本当にありがたい。このギャラリーで、先生方の依頼もあり、3度ばかり私のコレクション展を開催させていただいた。コレクションを公にするのは初めての経験で、最初は戸惑いを感じたものの、結果的にはすばらしい経験となった。「駒井哲郎版画展」(2009)、「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」(2011)、「人物博覧会」(2012)がそれらであり、A氏コレクションよりという形で展示させてもらった。「駒井哲郎版画展」では駒井作品を30点ほど展示し、ときの忘れものの綿貫氏にギャラリートークをお願いした。「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」展では前回出品のなかった駒井作品に加え、長谷川潔恩地孝四郎ルドン、ブレスダン、メリヨンの作品を展示した。「人物博覧会」では私のコレクションから人物表現の作品を集め展示した。ルドンの「光の横顔」ほか、駒井哲郎、舟越桂池田満寿夫、藤森静雄、谷中安規等の作品が並んだ。この展覧会では各人好きな作品を3点投票してもらったが、ベスト3にはルドン、藤森、モーリッツ作品が選ばれた。投票結果を見て、好みにはバラツキがあることを改めて実感した。これらの展覧会ではE&Cギャラリーの湊先生と一緒にギャラリートークもさせてもらった。コレクションの苦労話や作家・作品にまつわる物語など、みなさん熱心に聞いてくれたのは楽しい思い出となった。
2009 駒井哲郎版画展600「駒井哲郎版画展」
2009

駒井哲郎版画展1「駒井哲郎版画展」
ギャラリートーク

駒井哲郎版画展2「駒井哲郎版画展」
ギャラリートーク

駒井哲郎版画展3「駒井哲郎版画展」
ギャラリートーク

2011 駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達600「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」
2011

600「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」
ギャラリートーク

600「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」
ギャラリートーク

600「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」
ギャラリートーク

2012 人物博覧会600「人物博覧会機
2012
 
人物博覧会_01「人物博覧会I」
ギャラリートーク

人物博覧会_02「人物博覧会I」
ギャラリートーク

人物博覧会_03「人物博覧会I」
ギャラリートーク

600「人物博覧会I」

コレクションを公開して感じたことを記してみる。.ャラリーで自分のコレクションを並べてみると違って見える。(家ではスペースが限られているし、より客観的にコレクションをみることができる。)∈酩覆鯆未靴涜燭の方とコミュニケーションができる。(特に学生さんとのコミュニケーションが楽しい。)8開されることで自分のコレクションに対して自信が深まるとともに責任も感じることにもなった。
ちょっと大げさに言えば、コレクションはあくまで「預かりもの」であり、文化財を次の世代に伝える義務と責任があることを強く感ずるとともに、コレクションという行為についても考えたり、述べたりする絶好の機会にもなった。展覧会のトークの時にも話をしたが、コレクションというとお金があって、楽な遊びと見えることが多いなか、身銭を切っての真剣勝負であり、自分なりの美を追求する「自己表現」のひとつの形であることを自分なりに発信させてもらった。

コレクションをするとは
先日、芥川喜好著の「時の余白」(みすず書房)を読んでいたら、コレクションに関する話で芥川氏は昭和の民芸運動を主導した柳宗悦の「集める者は、物の中に<他の自分>を見いだしているのである。集まる品はそれぞれに自分の兄弟なのである。血縁の者がここで邂逅するのである」の言葉を引用して、「“自分のいい兄弟たち”を集め、それによって自分自身を語ろうとする―その辺がコレクションの要諦でしょう。」と締めている。いままでは自分と共感できる自分の分身を集めることで、コレクションされた作品を並べて、「これらすべてが自分です」と言う、まさにコレクションは自己表現のひとつの形ですと言ってきたが、「いい兄弟たち」と思うのも悪くないと感じた。しかし、真剣勝負で見いだす行為であることは強調したいが・・・・

コレクションの充実のために
次にコレクション充実の極意というか、姿勢について少し述べてみたい。実際、私の経験から言うとコレクションはまずは心を打つ美しい作品と出会い、そして是非とも欲しい、手に入れたいと強く思うことからはじまる。私の場合は予算的な枠があり、50万、100万円となると気持ちよくあきらめられるが、分割払いでなんとかなる20〜30万円までのいい作品に出会うと心が動く。現在は不況のせいか、かつては100万円以上した作品が、そんな値段で手に入ることがあるから、幸せな出会いを思い・待ち続けながら画廊等に足を運ぶことが重要だ。その強い思いによって、アーティストや作品との出会いが偶然に、突然に、タイミング良くやってくる。それはまさに必然というほかない。それがコレクションの醍醐味でもあろう。なお、出会った作品のコンディション(保存状態)についての考え方だが、基本的にはコンディションを重視したい。特に新しい作品については必要条件と思っている。しかし、4,50年以上前の作品となれば、ある程度は妥協するが、作品の持っている印象を重視して、Yes or No を決めている。古い作品では裏がベニヤヤケでひどいものやマージン部分を勝手にカットしたものを見ると心が痛む。また、日焼けやスポット的なかび汚れを補修してあるものも見かけるが、オリジナルの色・印象をどこまで残っているかで判断するほかない。額装して飾っておけば必ず日焼けがおこるので、こまめに変えることが大切だ。前にも述べたが版画は手に持ってフレッシュな印象を楽しむのが一番だ。

コレクションの今後
コレクターにとっては最終的に自分のコレクションをどうするのか(どうなるのか)?という大きな課題を抱えている。コレクションした作品にはそれぞれ物語があり、どんな形で次の世代につなぐにしても、コレクターの感動や思いを正確に引き継ぐことは不可能であり、コレクター一人でしか完結しえないもののように思う。元気なうちに、作品を整理して、ムンクなどの好きな作品、数点にしぼりこむことも考えてみたが、やっぱり、多くの兄弟達と一緒の方がいいし、好きな作家・作品との出会いを楽しんだ方がベターであると現在は思っている。コレクションは家族にとっては財産的な価値がクローズアップされるが、コレクター本人にとってはプロセス・物語の集大成であり、まったく違った価値観のうえに成り立っている。しかし、最近はある時点では自分のコレクションの行方をすべて他人にゆだねるより、自分が元気なうちある程度の整理をすることは必要でないかと感じるようになった。と言っても、ある時点がいつなのか、どのように整理するのか、などなど難しい決断が待っており、ついつい先送りになる。コレクションに対する情熱が失せた時なのか、ある程度の年齢になった時なのか、この課題は消えることがない。

ところで私自身、偶然あるいは必然として、版画に出会い、そのおかげで人生が豊かになったことに心から感謝をしている。版画に限らず、自分が夢中になれて、かつより深く入り込める分野を持つことは、様々な出会いや好奇心の広がりにつながり、必ずや人生を豊かにすると感じている。そんなことで皆さんには「コレクションそれも版画のコレクションをお薦めしたい。」

全11回にわたり勢いにまかせてエッセイを綴ってきたが、「マイコレクション物語」をそろそろ終わりとしたい。私は現在64歳、私のコレクション物語はもう少し続くことになるとは思うがどんな形の結末になるのか、興味があるが、私自身にも分からない。

長い期間にわたり拝読いただいた皆様に感謝申し上げたい。少しはお役にたったのかなあ。とにかく、ありがとうございました。また、このような機会を与えてくれたときの忘れものの綿貫夫妻にも厚くお礼を申し上げて、筆をおく。
(あらいよしやす)

荒井由泰「マイコレクション物語」第10回

「マイコレクション物語」第10回   荒井由泰

もう一つのマイコレクション:同時代を生きるアーティスト達


私のもう一つのコレクションテーマは私と同時代を生き、私のこころにしっかり響くアーティスト達のことを紹介したい。(すでに登場している作家達であるが)これらの作家・作品は意識をして集めたものでなく、縁があって、気になる作家・作品としてコレクションに加わったものである。気に入った作家については最低数点はコレクションしたいと考えていたこともあり、縁があって(このときの縁とは気に入った作品と購入可能なお金がやりくり可能な状態を言う)、一点一点購入した結果として、コレクションが構成されたものである。
作家・作品論については評論家でないのでうまく表現できないが、独断と偏見で自分なりの「惹かれる理由」を自分のなかで見つめてみたい。

メクセペル・モーリッツ・デマジエール
海外アーティストからはじめよう。最初はメクセペル(Friedrich Meckseper 1936〜)だが正直なところあまりドイツの作家には興味がないが、彼の静物画にはなぜか惹かれる。アルファベット・筒・玉・分度器とかが、繰り返し作品に現れる。ドイツらしく強い存在感を感じる。背景となる空間にはなんとも言えない銅版画のマチエールがにじみ出ており、抑えた色彩とともに、私を魅了する。最近、かつては高嶺の花であった「四つの玉」(1968)を格安で手に入れた。市況が悪いのか、版画の人気がないのか、好みの変化なのか、為替の問題なのか、真なる原因は分からない。「四つの玉」を見ながら、「良いものは良い」「作品としての価値は変わらない」と勝手に納得している。次はモーリッツ(Phillipe Mohlitz 1941〜 )、彼はビュラン(エングレービング)の名手である。ヨーロッパの伝統的な技術を受け継ぐ版画家の一人だ。彼もブレスダンやルドンと同じくボルドーの出身であり、幻想の世界に身をおいている点で彼らとつながっている。フィッチのところで作品に出会って以来、モーリッツの幻想的かつシニカルな世界に魅せられた。拡大鏡を片手に作品を見ると楽しい。図柄で好きなものを70年代中心に集めたが、モーリッツも最近はあまり人気がないようだ。作品を見る機会が減っていることも原因かもしれない。オークション等に初期の名品が手頃な価格で出ていることもあり、初期の好きな作品をコレクションに追加している。本年7月に福井のE&Cギャラリーで開催した「人物博覧会」に3点のモーリッツを出品したところ、若い人に人気があった。どうも劇画的な描き込みが心を捉えたようだ。人の心が変わるように、人の好みも時間とともに変化する。私自身も「ちょっと重すぎると感じはじめた」ことと、一時価格が異常に高かったこともあり、70年代の作品でコレクションを停止した。海外作家の最後がデマジエール(Erik Desmazières 1948〜)だ。彼は私と同世代だ。彼を知ったにはフィッチが出版した「銅版画のルネッサンス」という5人の作家の版画集(1975 限定100部 浜口陽三、メクセペル、デマジエールほか)を購入したときが初めてだったように思う。この版画集のなかの作品は石の大きな構築物が崩壊する瞬間をエッチングで描いたもので、迫力満点の作品だ。彼の銅版画はヨーロッパの伝統技法を受け継いでおり、少し古風な雰囲気があるものの、銅版画の好きな方にはたまらない魅力がある。最近の作品では古書をテーマにした作品が好きだ。下総屋画廊で出版された「迷宮供廚鰐症覆世隼廚辰討い襦今後とも好きな作品をコレクションに加えようと思っている。
-2 600メクセペル
「4つの玉」 
1968

-4 600モーリッツ   
「L'eglise(教会)」
1975

-6 600デマジエール   
「Labryinth供別袖椨供法
2003


野田哲也舟越桂小野隆生・柄澤齊・北川健次
紙面も限られているので、日本人作家に移ろう。日本人作家についてはすでに紹介しているので、なるべく簡略にすすめたい。最初に野田哲也(のだてつや1940〜):写真、シルク、木版の組み合わせと日記シリーズという物語性に彼の才能が加わり、魅力的な野田ワールドをつくり出している。奥様も含め、何度かお会いしているがその気さくで優しい人間性にも惹かれる。日記シリーズに本人、奥様、娘さんも登場しているので、なぜか家族ぐるみのお付き合いが続いている感じがするから不思議である。コレクションは50点近くになった。お気に入りは日記:1970年4月27日でニューヨークで池田満寿夫、リラン、川島猛が登場する作品だ。空の色は池田のブルーで当時の熱気が伝わってくる。次は舟越桂(ふなこしかつら1951〜)。今や人気の彫刻家・アーティストだ。彫刻のみならず、版画の様々な技法にチャレンジしてくれるのはうれしい。もう少し好みの作品を集めたいところだが、値段が高くて苦しい。一番最近のコレクション作品は「戦争を視るスフィンクス」(2005 銅版画)だ。殺し合いをする愚かな人間達を悲しみの心で見つめるスフィンクスが描かれている。赤い色は戦火を表現しているのだろうか。好きな作品だ。次は小野隆生(おのたかお1950〜)。アートフル主催の企画展は4回を数えた。肖像が好きで、私としては珍しく版画でなく、テンペラ作品もコレクションさせてもらった。強く・主張する女性から少しずつマイルドになっているのが気にはなるが、変化も含めてコレクションするのは楽しい。彼の肖像にはモデルがいないとのことだが、どこからイメージが沸いてくるのか、いつも不思議に感じている。次は柄澤斉(からさわひとし1950〜)。一番長いつきあいの作家だ。版画作品のみならず、挿画本にこだわったり、自分で「SHIP」という版画入り雑誌を発刊したりで、作品のテーマも含め、共感できることの多い作家だ。そんなことで「肖像シリーズ」をはじめ、コレクション数が一番多い。やっぱり「肖像シリーズ」が一番お気に入りである。アートフルの展覧会で購入した「岸田劉生」(2007 木口木版・手彩色)は秀作だ。版画のみならず、表現領域を広げており、今後の活躍が楽しみだ。出来る限り応援を続けたいと思っている。しんがりは北川健次(きたがわけんじ1952〜)。彼は福井出身だが、お付き合いの面では一番最近のアーティストだ。少しばかり古風でノスタルジックなイメージの中に彼の鋭い感性・美意識が走る。ちょっと重い感じがしないでもないが、軽いものが蔓延しているなかでは光っている。とにかく彼の感性とかこだわり、さらには自信を持って自分自身をアピールする姿勢には敬服している。また、アートにとって厳しい世の中にもかかわらず、版画集、オブジェ作品、コラージュ、ミクストメディア作品を積極的に発表しつづける姿勢にも大いに評価したい。今のところ、私のコレクションは版画集が中心だが、彼の発表する写真作品にも興味を抱き、コレクションに加えている。彼のこれからの活躍に期待して、微力ながら応援したいと思っている。
-8 600野田哲也
「池田満寿夫と仲間たち」 
1970日記:1970年4月17日
 
-11 600舟越桂 
「戦争を視るスフィンクス」
2005

-12 600小野隆生 
「少女像」
1980 
テンペラ

-13 600小野隆生
「アイマスクの女」 
肖像図98-13
1998  
テンペラ

-14 600 柄澤斉
「肖像検A.ランボー」 
1982
 
-15 600柄澤斉 
「肖像XLV掘ヾ濺栂生」
2007
 
-16 600北川健次
「回廊にて」 
2007

  
同時代を生きたアーティスト達とは異なるが、気になる作家で、何点か作品をコレクションしている作家を挙げてみたい。谷中安規、難波田龍起オノサトトシノブ、藤森静雄、戸村茂樹、若手で気になる作家は青木野枝、小林孝亘、光嶋裕介らである。

改めて自分のコレクションを見つめると様々な技法・表現の作品があり、果たして脈絡のしっかりしたコレクションと言えるのかと不安になるが、私が生きてきた時代のなかで心にひっかかり、所有したいと願った作品群であることは確かだ。

次回が最終回となるが、コレクションとは何か、コレクションの公開についてなど、まとめの形で述べてみたい。
(あらいよしやす)

*画廊亭主敬白
荒井さんのエッセイ、亭主としてはもっともっと聞きたいところですが、次回が最終回となります。
いま開催中の松本竣介展(後期)初日に、偶然野田哲也先生と土渕信彦さんがいらっしゃいました。RIMG11914_600
野田哲也先生(右)
2013年1月9日
土渕さん撮影

石原輝雄「マン・レイのパリ 1972」第3回

マン・レイのパリ 1972年」第3回

石原輝雄


京都・四条河原町のギャラリーマロニエを会場にした企画展『マン・レイのパリ 1972年』が、無事に終わり、飲み疲れた頭でこれを書いている。展覧会では準備した本人の予測を超える出来事が次々に生まれて驚いた。それは、シュルレアリスム的偶然の産物と云えるし、全国各地から「いざ京都(鎌倉)へと馳せ参じてくださった」皆さんの、お力によるものと感謝申し上げたい。

[今に続く、1972年]

 展覧会の情宣については、ネットでの情報発信が主流となった昨今であっても、葉書の効果、紙のカタログの魅力が功を奏し、日刊紙の朝日新聞、京都新聞、美術雑誌の版画芸術、月刊ギャラリー等が紹介してくれた。封筒から取りだした時の感触が担当者を刺激したのかと思う。有り難いことである。

600四運動画廊とフランシス・トリニエ画廊。この角から会場へどうぞ……。

 今展の狙いは、エフェメラを基にマン・レイの仕事を世界へ知らしめる事にあり、カタログを欧文表記中心で制作した事については、前回報告した。すると閉廊した「四運動画廊」を「ギャラリー1900-2000」に繋げたマルセル・フレイスから、同画廊が1988年に開催した『マン・レイ アトリエにあった油彩とデッサン展』のカタログが送られてきた。頁を開くと前日内示展でマン・レイと若いマルセルが並んだ写真が掲載されている。6年前にボナパルト通り8番地を訪ねた時、大きな椅子に包まれうたた寝をしていた老人が、この人だったと判った。話しかければ良かったと写真を見ながら思う、ご存命なのだ。
 旧知のオークションハウスのディレクターからも手紙をいただいた。彼は6月にあったセールの案内状を同封し「もしパリに来られたら、72年の前日内示展の折に、マン・レイの為に撮ったプレス用の写真があるのでお見せしますよ」と書いてくれた。それで、「ギャラリートークに使いたいから画像を提供してよ」とお願いした。マン・レイの事になると、図々しくなる自分にあきれるけど、しかたがない。彼が選んで添付してくれた二枚の写真には、マン・レイを挟んでパトリック・ワルドベルグとティニー・デュシャン、もう一枚にはリー・ミラーとジュリエットとジョルジュ・ポンピドゥー夫人が写っている。リーが大好きなわたしは、メールのJPGファイルを開きながら1972年1月7日の会場に居るような気分になった。カタログを二冊持ってリーが昔の恋人を見ているのよ、足腰の弱ったマン・レイを案じているようで、最高なんです。
 鉄製アイロンの底部に鋲を引っ付けたオブジェ『贈り物』を表紙に使った同年11月開催のフランシス・トリニエ画廊カタログには、マン・レイ研究の世界的権威となったヤーヌスがテキストを寄せている。日本で最初にマン・レイの写真集が刊行(朝日新聞社)された1981年に論考「哲学的省察の芸術」を載せたのがヤーヌスで、撮影された人物の特定をわたしがやった。30年以上前の話である。最近、そのヤーヌスが元気なのを知って展覧会をお知らせすると、心のこもった手紙をいただいた。氏は筋鉦入りのマン・レイ狂い、同病者の気持ちを判ってくれたようだ。それで、ギャラリートークに託けて、会場画像を添付しメッセージをお願いした。

 40年前の展覧会関係者が存命であり、連絡をいただくことになるとは思っていなかった。時間が繋がり、パリと京都が通底器の両端であるような感覚を持てたのは、幸せである。きっと、40年間途切れることなくマン・レイを愛したご褒美だろう(本人が書くのは、かっこ悪いね)。

[センター合わせ、145センチ]

 準備万端と待機していたら、搬入直前に雨が降った。紙モノに湿気は大敵、急いで梱包を補強しタクシーで会場へ。河原町御池を右折すると京都ホテルオークラのクリスマスイルミネーションが輝いて見え、濡れたブルーの光がわたしの二週間を祝福するかのようだった。
 そして作業。展覧会の評価は展示のコンセプトに左右され、見せ方の工夫が魅力を倍加させると思う。エフェメラ類をガラスケースではなく、壁に固定し、視線を歩く人に合わせる発想はわたし独自である。視線の動きと空間のバランス、色彩の効果を考えた図面も、実際に飾り付けるとなると、「物」の存在感がモニター上のバランスを越えて主張する。展示はセンターを床上145センチに合わせ微調整を幾つか、電卓を横に置いてのネジ留め位置の決定は、プロの仕事で西川寛と北村公亮の技によった。わたしでは、上手く出来ないし、時間もかかる。スイスクリップが活躍した会場写真をお示しするが、どうです、綺麗でしょ、センスが良いですよね(本人が言っちゃいけないか)。展覧会の楽しみは、こうした自画自賛にあるけど、一年に亙った作業の集大成とお許し下さい。

600五月革命

600パリ国立近代美術館

600ユンヌ画廊とボンソワール・マン・レイ


[初日の贈り物]

 初日から沢山の人が来てくれた。展示の工夫を含めお褒めの言葉を頂戴し、マン・レイならばこそと、敬愛する作家に寄り添った人生の幸せを感じた。夕方からのオープニングパーティは家人の協力で準備され、赤白のワインを飲みながら、友人、知人、関係者の皆さんと話した。そして、お持ち下さった品々──未見の展覧会カタログに驚き、若い友人手製のアングルのヴァイオリンを模したクッキーに感激し、京都写真クラブの仲間からの清酒・万歳(まんれい)発見の報に驚喜、その他にも素晴らしいオマージュの連続──に、この世の春かと思った。花嫁を紹介する新郎の喜びと云うか、会場に飾られた34点がもたらす光射す海底の情景は、宝石箱の中にいるようで、酔いしれて花嫁の魅力を語り出したら止まらない、わたしの口は、そんな状態だったかと思う。マン・レイが好きなんです。彼の展覧会につながる案内状やカタログやポスターが会場を飛び回っているのです。

600澤山建史(臨川書店)、高橋貴絵(写真家)、竹田雅弘(写真家) 撮影: 土渕信彦

600安東奈々(版画家) 撮影: 土渕信彦

600 小笠原圭彦(写真家)、吉永昭夫(会社員) 撮影: 山内功一郎

600京都写真クラブ恒例の集合写真。


[それは、あなた……]

 毎夕、仕事を済ませて会場に顔を出した。芳名録を手にすると、不在を申し訳なく思う名前の連続で参った。しかし、サラリーマンの身では会社を休む事が出来ない。収集を続ける為には仕事が必要だし、社会との接点を無くすと、収集が自己癒着してしまう──としておこう。それでも、友人、知人と会場で話し、閉廊後には飲みながら続けた。研究者からの質問は「どうやって手に入れたの」だったが、「一番好きなのは」とか、「マン・レイを一番表しているのは」に混じって「一番高いのは」なんてのもあって苦笑。34点の内の一番、そんなの判らないよ、それぞれの魅力は、子供や恋人と同じだよ、どれもが一番なんだ。

 会期後半にギャラリートークを行った。スライドを使ってマン・レイの仕事の概要を紹介した後、彼も「パリに憧れたアメリカ人のひとり」だったと始め、戦前パリの絵葉書を数点示し、今展へと展開した。最晩年の1972年になって、やっと仕事が認められるようになった画家の勝ち誇った笑顔に隠れた、悲しみへの共感、大衆から表面的に理解されるのではなく、少人数であっても深く愛される事を求めたマン・レイの生涯から、エフェメラを使って過ぎ去った1972年と遠く離れたパリの街を京都に再現する試みの、現在進行中の事象について、上手く話せたかどうか、本人には判らない、でも楽しかった。前述のヤーヌスが寄せてくれたメッセージは「VOICI MON TEXTE」、短い場合は自由に解釈したら良いですよと、来場されたフランス語の先生が助言してくれたけど、「VOICI」には、物を手にして「これだよ」と見せる意志があるようで、展覧会そのものが彼のテキスト(その場に居たからね)になっていると共感したからこその「これが僕のテキスト」だったと思う。

600ギャラリートークで「VOICI MON TEXTE」

600羽良多平吉(デザイナー)、古多仁昴志(稲垣足穂研究)

600金井杜道(写真家)


 展覧会の素晴らしさは「たったひとりの人」との出会いにあり、会場でそれぞれの方に「お好きな背景で写真を一枚」とお願いした。1968年にパリに居た方は「ヌーベル・レピュブリック」の前に立たれたし、ドイツで現代美術を学んだ作家は『レイの手』のポスターを選ばれた。画廊主の西川勲は「マン・レイはこれだね」と『天文台の時刻に──恋人たち』を表紙にしたカタログを、瀧口修造研究の土渕信彦は「ブルトンのこれだね」とガラス作品の『危険』を版画にしたユンヌ画廊のポスター。総じて女性陣は美しいブルーの四運動画廊のポスターに進まれ、グラフィック系の方々は『永遠のモチーフ』の前だった。この後、写真を使って限定版のカタログを作る予定にしているので、楽しみにお待ち願いたい。皆さん有難う、「たったひとりの人」それは、あなたです。
(いしはら てるお)

荒井由泰「マイコレクション物語」第9回

荒井由泰「マイコレクション物語」第9回

駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達について:
ルドン、ブレスダン、メリヨン、長谷川潔そして恩地孝四郎


駒井哲郎・長谷川潔・ルドン・ブレスダン・メリヨン

すでにお話したように、私のコレクションの骨格をなしているテーマは「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」である。駒井の最後の著作「銅版画のマチエール」がまさにバイブルである。彼が敬愛したアーティスト達の作品と共感できる喜びからマイコレクションができあがっていると言っても過言でない。
駒井がエッチングと初めて出会ったのが1935年ごろで慶應義塾普通部美術部エッチング講習会だったようだ。エッチングの普及に取り組んでいた西田武雄が主催していた。エッチングに惹かれた駒井は西田の手元にあったレンブラント、メリヨンらの西洋版画とともに長谷川潔の作品に出会い、そのすばらしさに感動し、尊敬の念を抱いた。駒井は1954年に渡仏しているが、その折、長谷川にはいろいろアドバイスをいただいたようだ。またアクワチントによるレース表現の技法についても、長谷川から学ぶことが多かった。まさに長谷川を師とあおぎ、美の追求者としての目標とすべき存在でもあった。
その長谷川潔は1918年末に日本を出発し、パリに向かったが、彼はルドンを敬愛し、ルドンに会うことが目的のひとつであったようだ。しかし、ルドンは1916年に没しており、面会はかなわなかった。パリにたどり着いたあと、ルドン夫人のもとを訪ね、作品も購入している。長谷川にとってはルドンの存在は大きく、初期のエッチングではルドンの影響を強く受けた作品を何点か残している。長谷川の真善美を追究する一途な作風とルドンの幻想的作風とはアプローチは異なるが、美や真理を追い求める姿には相通ずるもの感じる。駒井が共感した長谷川やルドン作品のコレクションを通じ、私自身も同じ共感を持つことができる喜びはこのうえなく大きい。
実は長谷川潔にお会いしたことがある。正確に言えば、彼のパリの住居で2階から窓越しで会話を交わしたことがある。先に、1976年に私が掘り出したアクワチント作品「切子グラスに挿した草花」にフィッチがサインをもらってきてくれた話を書いたが、そのお礼をしなければと思い、1978年、仕事でパリに出向いた折、アポなしで訪問したのだ。窓越しにお礼を言った。長谷川からは「ちゃんとアポイントを取って来なさい」とたしなめられたのを覚えている。長谷川の性格もあり、アポイントなしでは人と会わなかったようだ。長谷川は1980年に亡くなった。今となればちょっと残念な思い出だ。
私の長谷川潔コレクションのなかに、「ダリア」(愛の天使の窓掛け1932 ドライポイント)があり、献辞と署名がついている。献辞には「Pour á mon cher ami E.Delâtre」(親愛なる友・ウージーヌ・ドラ-トルに)とある。このドラートルは刷師であり、版画家であり、長谷川の友人でもあった。また、彼はブレスダンやメリヨン等の作品を刷った高名な刷師のオーギュスト・ドラートル(Auguste Delâtre)の息子であり、父の後を継ぎ刷り工房を開いていた。私のメリヨンおよびブレスダンコレクションになかにもA.ドラートル刷りの作品が何点かある。長谷川は1929年のビブリス(Byblis:Miroir des arts du livre et l'estampes )という版画雑誌の限定版(100部)にドライポイントによる「水よりあがる水浴の女」とともに交錯線を使ったメゾチント作品、「サンポール・ド・バンス村」を挿画しているが、その刷りはウージーヌ・ドラートルが担当した旨、かつて眼にしたこの雑誌に明記されていた。私のコレクションにビブリス版とは別に刷られた「サンポール・ド・バンス村」がある。たぶんこの作品もドラートル刷りであろう。
-2長谷川潔
「ダリア(愛の天使の窓掛け)」 
1932
ドライポイント

-1長谷川潔 
「サン・ポール・ド・ウ゛ァンス村」 
1929 
マニエール・ノワール

マイ長谷川潔コレクションは版画技法を意識して木版、エッチング、ドライポイント、エングレービング(ビュラン)、アクワチント、メゾチント(マニエール・ノワール:交差線あり、なし)技法の好みの作品で構成されている。長谷川作品は高価なので点数は限られるが、メゾチント技法の「幾何円錐形と宇宙方程式」(1962)とアクワチント技法の「切子グラスに挿した草花」(1944-45)は大切な作品だ。彼の高潔で、きりりと引き締まった美意識にはいつも心が動かされる。
-4長谷川潔
「幾何円錐形と宇宙方程式」 
1962
マニエール・ノワール
(メゾチント)

長谷川が生前残したコレクションのなかに、ルドン、ブレスダンやメリヨンがあったと聞く。また、ルドンは1860年代にボルドーでブレスダンから版画の手ほどきを受けており、彼の初期銅版画には「ブレスダンの弟子」と記した作品が残っている。
駒井の師は長谷川潔であり、ここで駒井哲郎、ルドン、長谷川潔、ブレスダン、メリヨンがすべてつながる。なお、ブレスダンとメリヨンだが同時代を生きているが、出会いがあったのかどうか定かでない。ご存じの方があればお教え願いたい。
マイ・ルドンコレクションは10点、ブレスダン、メリヨンは各数点程度のコレクションである。ルドンでは今回のブログで紹介した「光の横顔」をはじめ、「賭博師」(版画集:「夢のなかで」より)、「マレーヌ王女」(1892 エッチング)、ブレスダンでは代表作の「よきサマリア人」(1861 リトグラフ)、「死の喜劇」(1854 リトグラフ ロドフィーヌ版)、メリヨンではパリシリーズの「プチ・ポン」(1851)、「ノートルダムの揚水機」(1852)そして「海軍省」(1865)が主な作品だ。
-5ルドン
「賭博師」 
1879  
リトグラフ

-7ブレスダン
「死の喜劇」 
1854  
リトグラフ

-9メリヨン
「プチポン」 
1850  
エッチンク 
A.ト゛ラートル刷り

-11メリヨン
「海軍省」 
1865  
エッチング
A.ドラートル刷り


恩地孝四郎
「銅版画のマチエール」にはないが、駒井にとってのもう一人の大きな存在は恩地孝四郎であった。駒井と恩地の関係、芸術面での影響など、あまり研究されていない。私の知る限り、林洋子氏が書かれた「銅版画憧憬―1950年代の駒井哲郎と浜田知明をめぐって」(1999、東京都現代美術館刊)が一番詳しい。この冊子に目を通しながら、私見も入れて、少しばかり言及してみたい。駒井哲郎(1920年生まれ)と恩地(1891年生まれ)の年齢差は約30歳で親子ほどの差である。彼が慶応義塾普通部の学生だった頃、エッチングの指導者であった西田武雄とともに九州に講習会に出かけた際、恩地に会っている。(1937年)その後関野準一郎のすすめで1948年頃から、恩地家で毎月第一木曜日に開かれていた「一木会」に参加する形で再会した。恩地の創作に対する真摯な姿勢など彼からいろいろ刺激を受けたようだ。そして49、50年には一木会メンバーによる版画集「一木集」に私の好きな「肖像(ジル・ド・レ)」や「ラジオアクティビティ・インマイルーム」を作品提供している。
駒井は恩地の美の追求者としての姿に尊敬の念を強く持つとともに、作品制作にも影響を強く受けた。代表作のひとつである「孤独な鳥」や「肖像」(どちらも1948年)等には恩地が木版でチャレンジしていた、木の葉やヒモなど様々な材料を素材に使うことに刺激を受けた形跡が見える。創作への限りない情熱に共感したはずである。
駒井は1954年パリに向かったが、恩地が横浜港まで見送っている。1955年、パリで恩地の訃報を聞いた。きっと大きな悲しみを感じたに違いない。
恩地の研究者である桑原規子先生に「ぜひとも駒井と恩地の関係について研究してください」とお願いしたことがある。木版画とエッチングでは技法は異なるが、作品制作への姿勢において深くつながるものを強く感じる。二人の心のつながりと作品との関係をすっきりさせて欲しいと願っている。(ときの忘れもののブログでも紹介されたが、最近、桑原先生はせりか書房より「恩地孝四郎研究―版画のモダニズム」を出版された。恩地の偉大さそして魅力を再発見できるすばらしい著書だ。多くの方に読んでもらいたい。)
次回はマイコレクションのもう一つのテーマである「同時代を生きるアーティスト達」のことを書きたいと思っている。
(あらい よしやす)

石原輝雄「マン・レイのパリ 1972年」第2回

「マン・レイのパリ 1972年」第2回

石原輝雄


 昨日はエフェメラへの思い入れを書かせていただいた。この回は、展覧会を個人で組み立てたいと思う方の参考になる事を期待して、準備作業の詳細を報告したい。

[スイスクリップを見付ける]

 展覧会の会期は年初1月、西川氏をはさんで京都写真クラブの森岡誠、奥野政司と調整して12月と決められた。毎年、同クラブが中心となって催すHow are you PHOTOGRAPHY ? 展と京都写真展の露払い(祇園祭の山鉾巡行にたとえるのは大げさか)での日程。京都写真クラブが後援してくれるのは有り難い。酒好き写真好き話好きが自由で気ままに集まる同クラブは、若い人達を巻き込んで写真の楽しみ、人生の楽しみを進めている。展覧会まで一年あるのだから、しっかり準備できると考えたのは、浅はかだった。
 600Invitation, 10.6 × 14cm

 最初にしなければならないのは、展示什器の仕様決定。額装されたポスターのよそ行き加減や、ケースに入れられたカード類を見下ろす視線の重さが嫌で、それぞれが、流通していた状態で会場に置きたいと願う。ボードとアクリル板の間に現物を入れて留めるスイスピンが最強のアイテムなのだが、手許には必要数がない。画材店の話しでは、既に在庫はなくメーカでも製造中止、ネット検索で「スイスピン」と探しても、ある女流画家のエッセイがヒットするばかり。ポスターの展示方法を中心に公立美術館の展覧会を観ると、アクリルブロックを使った仕様が多く、直接の壁固定でも雰囲気は良く、これならいけると判断した。ところが、8月に画材店などを回ったら「そのような物はありません、特注でしょう」とつれない返事、焦りました。今回の展覧会は間違えると、図書館などが催す資料展となってしまう。パリの街路で招待状を手にした臨場感の再現には、その場にあったような演出が必要な訳で、さりげなさはアクリル板に挟んで壁面に掲げる方法でなくてはと、追い込まれた。それで気付いたのが「スイスクリップ」とする表記だった。財布代わりのお札挟みではなくてポスター挟み。ネットの画像検索で確認すると「スイスピン」も現れ、海外では、こう呼ばれていたのだと反省。さっそく、イリノイ州のブリック・アート・マテリアルに発注した。この時代はフェデックスの追跡サービスを使うと、荷物の移動情報をリアルタイムで捕捉する事が出来る。郵便時代の「ある日ポストに」と云った楽しみを失った反面。パソコン上のストリートビューに感情が入る。これでは、エフェメラの魅力を後世に伝える者がいなくなってしまう(涙)、10日ほどで届けられた。 

[たったひとりの人]

 報告が前後するが、会場の様子を想像しながら、カタログのテキストを書き始めたのは4月の頃。字数の設定はカタログの頁割を展示目録と英文表記、案内状を含めた郵送時のグラム数(25g以内)を勘案して行った。A4用紙の二つ折A5版6頁で日本語は2頁のおよそ1500字。フォント(小塚明朝Pro)が大きすぎても小さすぎてもいけないし、A5版に適した大きさと英語フォント(Times New Roman)とのバランスも考えた。「そんな事より、テキストの内容だよ」とお叱りを受けそうだけど、判型、用紙、読まれる場面を想定しないと、わたしは書けない。今までもそうだし、今回も同じだった。1972年の京都とパリを関連付け、当時、京都書院で買い求めたマン・レイの対談本『Bonsoir, Man Ray』の思い出と日本語版刊行に至るエピソードで始めたが、うまく纏まらず、最晩年のマン・レイの生活と、アトリエを訪ねた映像作家・吉岡康弘とを、わたし自身に重ね、マン・レイが展覧会カタログに寄せたテキスト『告知』から「大勢のために考えたり感じたりすることはできないし、一緒に何かをする場合も、たったひとりの人とがせいいっぱいなのです。」(平出和子訳)と云う部分を引き写した。彼にとっての「たったひとりの人」になる道程が、この40年間であったのではないか、未亡人のジュリエットに誘われフェルー街のアトリエを家人と共に訪ねた新婚旅行の日が思い出される。
600Catalogue, 27.4 × 22cm, PP.14-15

 マン・レイの展覧会は、諸外国へ発信せねばならない。彼らに理解してもらうために、テキストと詳細な展示品目録を英文で仕上げるのは、最初からのプラン(邦文の方が従の扱い)。英訳はアメリカ生まれのイギリス育ち、愛すべき人物であるデイビット・ユーニスにお願いした。彼の母国語でわたしのイメージが幾倍にも膨らむ。彼の論理的な思考回路に、視覚の感動だけを綴った、わたしの文章の拙さを知らされ、さらに、ボールドとイタリックの使い分けやダッシュ前後のスペースの意味など、英文表記の原則についての助言もいただいた。カタログに図版があると楽しいのだが、諸般の制約があり断念。しかし、表紙のレイアウトなど、わたしとしては神経を使って仕上げたつもりである。

[プリンターが悲鳴]

 作業としては、この後が大変で、500冊作ろうとすると用紙1500枚、印刷3000回を家庭用プリンター(EPSON PX-A650)で出力せねばならない。インクを何度も交換し発熱を気にしながらの毎日、最後には給紙機構が故障し予備のプリンター(EPSON PX-503A)に変更する始末。ところが、紙のくわえが微妙にズレて面付けのやり直しが発生。印刷の後に折丁しスチロール板に拡げてからセンターをホッチキスで打ち、裏返してから千枚通しとドライバーを使って固定。これを1000回繰り返して完了となった。苦にはならないが時間はかかる。寡黙な職人になった気分だけど、職人はこんな風に書いたりしないか(笑)。

 案内状のデザインも自分でやった。エフェメラ好きなのだから、品質を求めてしまう。『マン・レイのパリ 1972年』にピッタリのイメージ、エフェメラの物質感を表現する写真を用意しなくては(写真部に在籍したのだから、上手でなくちゃ)と、自然光で、折った状態の「ヌーベル・レビュブリック」紙を撮った。レイアウト指示、画像圧縮、スクリーンショットの添付と全てが初体験の中、奥野政司の助けを借りながら印刷通販の会社へネット出稿。こちらの必要数は2500枚。色調など出来上がるまで不安だったが、合格点は取れたのではと自画自賛。
600Catalogue, 21 × 14.9cm,
Postcard, 14.8 × 10cm, 
Flyer 21 × 14cm

 10月の初めから、雑誌社を中心に広報。紹介してもらえれば有り難いが、こればかりは相手次第。まあ、良い結果も生まれるだろう。続いて海外の美術館、図書館、研究者、もちろん画廊と古書店を重点に郵送。国内分も11月中旬には手配を終えた。
 もっとも、カタログと案内状を手にした友人、知人は共通して記載された家人の名前に眼を止めた。日本では夫婦連名のコレクションというのは認知されていないようで、本人の方が戸惑った。サラリーマンのコレクションは家族の協力がなければ成り立たない、30年の感謝の言葉なのである。

 並行して展示什器の最終調整。アクリル板用の支持体強度を検討し、現物との遊びを何ミリにするか、スイスクリップの食い込み加減への配慮もしながら、アクリル板をカットしていると、ちょっとした作家気分。しかし、熱中しすぎると大切なエフェメラを痛めてしまう、注意しなければ。結局、小型のものは自作、大判は発注とした。

 オープニングまで二週間と迫って、気がつくと衆院選が4日公示、16日投開票と発表されている。この展覧会の日程と見事に重なって苦笑、会場にも街宣車からの連呼が聞こえることだろう。その間をこちらに向かって歩いてくる「たったひとりの人」をわたしは待ちたい。
(いしはら てるお)

展覧会の詳細(石原さんのブログより転載)

「マン・レイのパリ 1972年」
会期:2012年12月4日(火)--16日(日) 
   月曜休廊 
  *15日(土)15:00よりギャラリートーク
   12:00--19:00 日曜日18:00迄
会場:ギャラリーマロニエ 3階  
   京都市中京区河原町四条上ル塩屋町 
   電話075-221-0117

1968年の「5月革命」を基点に、40年前のパリで開催された4つの「マン・レイ展」へ誘う---カタログ、ポスター、案内状、写真、新聞などを展覧。(西川勲企画、京都写真クラブ協賛)  

●カタログより
 この展覧会では、「大勢のために考えたり感じたりすることはできないし、一緒に何かをする場合も、たったひとりの人とがせいいっぱいなのです。」という作者を訪ね、できれば近作を拝見し、「たったひとりの人」となるための招待を頂く手助けをしたい。その為にはアトリエに行かねばならないし、気に入られなければならない。まずはマロニエに「写真」の花が咲く12月、街を歩いてマネキンの手が玩具のボールを掴んだ「レイの手」や、マン・レイと書かれた「自然絵画」の色彩感あふれるポスターに足を止める事。1972年のパリ国立近代美術館に出品されていた292点を思い描くのは楽しいし、再見する手立てもふんだんに用意されていると思うが、過ぎ去った時間をたぐり寄せる最善の方法は、オリジナル作品ではなく、カタログと招待状とポスターといった会期の終了とともに捨てられるエフェメラ類の訴求力である。案内状は会場に向かう観客の指先を追体験させる、40年後のわたしたちも、その場に居るのである。

●出品目録

「五月革命」 

 雑誌 「インフォーメーションとドキメント」1972年2月号

 版画 「自画像」 1972年 限定100部第99番 サイン入

 書籍 「壁は語る 学生はこう考える」 竹内書店 1969年刊

 写真集 「10.21とは何か」 無刊記

 写真集 「'69 11.3-17 佐ト訪米阻止斗争」 無刊記

 新聞 アクション 第2号 1968年5月13日 

 新聞 ヌーベル・レピュブリック 第7193号 1968年5月13日 新聞 ヌーベル・レピュブリック 第8305号 1972年1月8日 

 書籍 「革命なき革命家たち」 アンドレ・ティリオン著 1972年刊


「マン・レイ回顧展」 パリ国立近代美術館 1972年1月7日─2月28日

 広報資料

 ポスター 「レイの手」

 ポスター 「自然絵画」

 招待状

 案内状 灰色版

 案内状 赤色版

 案内状 赤色版・見開き

 カタログ

 カタログ 「告知」 テキスト・マン・レイ

 会場写真 撮影ルネ・コモン

 新聞 展覧会通信

 雑誌「ボーグ」抜き刷り

「マン・レイ版画展」 ユンヌ画廊 一1972年1月12日─

 ポスター 「危険」

「ボンソワール・マン・レイ」ピエール・ブルジャッド著 ビエール・ベルフォンド 1972年刊

 書籍 「ボンソワール・マン・レイ」 限定100部第81番サイン入 

 版画 「ボンソワール・マン・レイ」 限定100部第81番サイン入

 写真 アトリエでのマン・レイとピエール・ブルジャッド

 写真 アトリエでのマン・レイとピエール・ブルジャッド

 版権契約書 ピエール・ベルフォンド/銀紙書房 日本語版

 封筒 ピエール・ベルフォンドから石原輝雄宛て 

 書籍 「マン・レイとの対話」 銀紙書房・水声社 1995年刊 

「マン・レイ 40レイヨグラフ展」 四運動画廊 1972年2月25日─3月25日

 ポスター 「レイヨグラフ」

 案内状

 カタログ 

「マン・レイ展」 フランシス・トリニエ画廊 1972年11月7日─12月15日

 ポスター 「永遠のモチーフ」

 カタログ
--------------------------------

ときの忘れもののコレクションからマン・レイ作品をご紹介します。
ジュリエットポートレート
マン・レイ
《ジュリエット》
1946(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
28.8x22.8cm
裏にスタンプあり

マン・レイ「アイロン」600
マン・レイ
贈り物
1921年/1974年 マルチプル
サイズ:H16.5×10.0×8.2cm
Ed.5000 
作品証明カードにサインあり
*1921年に最初作られた作品を、1974年にマルチプルとして制作したもので、作品証明カードが付いています。

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

石原輝雄「マン・レイのパリ 1972年」第1回

「マン・レイのパリ 1972年」第1回

石原輝雄


 久しぶりに展覧会をすることになった。会期は12月4日(火)から16日(日)までの二週間、会場は京都・四条河原町のギャラリーマロニエ。今回はわたしのマン・レイコレクションからカタログ、ポスター、案内状といった展覧会資料を中心としたエフェメラ類を展示させていただく事とした。一般的にコレクション展は、並べるだけと揶揄されやすいので、展示構成の意図と一年以上に及ぶ準備作業について、二回に別けて報告させていただきたいと思う。もっとも「ときの忘れもの」の画面をクリックされる方々は、「そんな事はないよ、いまさら」と温かい言葉を掛けてくださると期待するのだが(笑)。エフェメラというのは、蜻蛉などの短命な生き物、はかない存在を指す言葉を語源とする。今日では一枚だけの印刷物や役割を終えれば処分されるものに使われ、近年脚光を浴びる美術館アーカイバルの横断的収集分野として見直されている。わたしのコレクションの特色は展覧会資料にあるが、現物志向が強いので、デジタル発信をねらうこの風潮からは遠い。

[手には招待状]

 それはさておき、展覧会はギャラリーマロニエの西川勲氏の企画。わたしの方は氏の好意に甘え、自由に展示構成を設計する立場。氏から「面白い展覧会をやりましょう」と頼まれていた。話が具体化したのは、国立国際美術館で開催された森山大道展のオープニングレセプションに向かう道で氏と顔を合わせた事による。具体美術協会のピナコテカがあった辺りだったろうか。二人の鞄には、当日の招待状が入っていて、当代一の写真家による展示が近作と旧作との競演でどんな様子になっているのか、期待しながらの会話だった。これが、マン・レイ存命中の展覧会に向かう石畳の街路だったらポスターが貼られ、手にする招待状の意匠を楽しみつつ、作家の生涯と未来についての話題になっていた事だろう。パリの街路だったらと思うと氏の申し入れによるコレクション展は、レセプションに向かう高揚感を再現できるものでなくてはならない。

600Invitation, 15 × 10.5cm

 例えば、1972年1月7日(金)のパリ。わたしはプレジダン・ヴィルソン通りを国立近代美術館へ向かって歩いている。手にした小さな案内状は、名前をモチーフにした自然絵画で「マン・レイ」の文字が赤く刷られている。ポスターもこの絵柄で、カフェで見たしメトロの構内にも貼られていた。パリ画壇で商業的価値など無いと軽視され続けた芸術家に、現代美術の先駆者の一人としての評価を見出し、連帯の挨拶を贈る大規模な回顧展。彼は写真を出品するのを了承しただろうか、肖像やファッションは拒否したままだろうな。オブジェの展示はどうしただろう、リブレリ・シスで個展をした時のように取られてしまったらいけないし、ケースに入れたら力が弱くなる、解決策を見付けただろうか。およそ60年にわたる創作活動を俯瞰して見せるのか凝縮するのか、ジャン=ユベール・マルタンの腕の見せ所だなと、美術館を前にして期待が高まる。そして、展示を観たら昼食会に出席しなくちゃ、誰が来ているだろう。招待状を呉れたのは懇意にしている古書店の親父で、会場はサン・ジェルマン大通りのラテンアメリカ会館。酔っぱらって高額品を買う事になったらどうしよう。
 翌朝の日刊紙「ヌーベル・レビュブリック」の第一面を見ると展覧会の紹介が掲載されていた。メトロノームに眼の写真を引付けた『永遠のモチーフ』を頭に乗せ、おどけた調子のマン・レイが笑っている。太縁眼鏡も似合う勝ち残った芸術家。狂人扱いされた若い時代から、自分自身であり続けた長く孤独な闘いにやっと光が射したのだと、こちらも嬉しくなった。11日からはラ・ユンヌ書店で新作の版画展、来月には四運動画廊でレイヨグラフの展示も開かれる。街中にマン・レイが拡がる興奮はいつまで続くのだろう。これでは、身体も財布も保たないよ。── 40年前のパリに住んでいたら、こんな調子だと展覧会のエフェメラを前にした夢想は果てしない。
600Poster, 60 × 40cm

 わたしが『マン・レイのパリ 1972年』と題する展示で示したいのは、こうした時間旅行の楽しみである。西川氏と話をした時に国立近代美術館での展覧会資料を使った「乗り物」のアイデアは直ぐに出た。展覧会エフェメラの三種の神器であるカタログ、ポスター、案内状の他に、プレスリリースと昼食会の招待状、会場写真、新聞と雑誌の抜き刷りも手許にあるので、同年の他の展覧会と合せてギャラリーマロニエの空間をマン・レイ展への「期待」で充満できると考えた。切符となるカタログと案内状のイメージも現れた。しかし、1972年だけを切り取る事には違和感も持った。86年の生涯から一年だけを切り取るのは、俯瞰と凝縮のどちら側だろう、画家は82歳を迎え、わたしの方は20歳になったばかり。名古屋から京都に移り住んでコレクションを始めた時期。いつも、どうしてコレクションをするのだろうと自問する。どうしてマン・レイなのだろうと初恋を思う。この道筋を前段に置いてこそ展示に奥行きが生まれる、「乗り物」の乗り心地が良くなるのだと思う。

[五月革命]

 もちろん、わたくし事だけど、高校生の頃にダダとシュルレアリスムの書物に出会った。書店では、ちょっとしたブームではなかったのかと、今にして思う。70年安保前の時代で、高校生は三無主義と言われた。たまたま、写真部に在籍した関係で、わたし達は時代へのコミットを求め様々な事象にカメラを向けた。学生運動もそのひとつである。フランスデモの渦の中に入った事も全日本学生写真連盟の影響を受けた地域設定の集団撮影も行った。結果としては個人主義に帰ってしまったのだが、アンドレ・ブルトンの著作『ナジャ』からマン・レイへの道が開けた。以降、40年以上に亙る収集と研究生活の原点が、エリュアールやペレやデスノスの肖像写真にあったと振り返る。図版下に置かれた「それから数日ののち、バンジャマン・ペレがやってきたのだ…」とか「私はいま、ロベール・デスノスを、ふたたび眼前にしている…」といった説明(巖谷國士訳)に、一般的な読書と異なる参加の意識、ともに生きる街路の思想を持った。読書は頁を進むと薄くなり閉じられるが、撮影は通りを進むと宙づりになる。時間が止められてしまうのだ。残された時間は互いに干渉し合って別の世界を生み出そうとする。
600Newspaper, 43.5 × 30cm

 以上の意図を含んで展示は五月革命を基点に、1972年にパリで開催されたマン・レイの四つの展覧会を開催日順に巡る構成とした。国立近代美術館(1月7日〜2月28日)、ラ・ユンヌ書店(1月12日〜 )、四運動画廊(2月25日〜3月25日)、フランシス・トリニエ画廊(11月7日〜12月15日)。そして、同年に刊行されたマン・レイとピエール・ブルジャッドの対談をまとめた書籍『Bonsoir, Man Ray』の日本語版に関する資料を間に置いた。原書の限定版には、瓶の中で抱き合う男女のシルエットが描かれた版画が挿入されているが、五月革命の折に「新聞を信じるな」と書いて街頭に張り出されたポスターの絵柄と同様の仕掛けで、ふたつの類縁に興味を持った。

 展示品は全34点。内訳はカタログ(4)、ポスター(5)、案内状 (5)、新聞(4)、写真(3)、書籍(4)、写真集(2)、雑誌(1)、版画(2)、その他の紙モノ(4)とした。その内、五月革命の最中に配布された5月13日の日付を持つ新聞『アクシオン』第2号は、表紙面の写真に機動隊を配置して、訴求力があると思う。

 マン・レイ展のエフェメラが流通したパリの街路にも、前段階の喧噪があっただろうし、68年の前にも多くのバリケードが築かれ、取り除かれていった。唐突に1972年を持ち出すのではなく、個人的な青春期の体験が、その前にあった事を、いわば、マン・レイイストとなった必然をわたしは示したいと思った。
(いしはら てるお)
20121204マン・レイのパリ1972年 表20121204マン・レイのパリ1972年 裏

*画廊亭主敬白
マン・レイイストとして夙に有名な京都の石原輝雄さんから上掲の案内状をいただきました。
コレクターによるコレクション展はいま流行りでもありますが、あの石原さんがただコレクションを並べるだけの展示をするはずがない。
石原さんは2009年4月の「マン・レイ展」ギャラリートークの講師にお招きしましたので、そのコレクションの徹底ぶりに感銘を受けた方も少なくないでしょう。
さっそく今回のコレクション展への思いを存分に語っていただきたいとお願いのメールを出しました。
石原さんからの返信は、

ご依頼の原稿「マン・レイのパリ 1972」の思いの丈は書きすぎてしまいました、(略)
(展覧会は)充分、余裕をもって準備してきたつもりですが、ここに来て、バダバタになっています。
なんとか、しなければと、毎晩 孤軍奮闘です。
また、展覧会の結果報告のようなものを、この後、3回目として書かせていただけたら嬉しく思います。


というわけで、まず今日と明日の2回連載し、全3回の連載をお届けします。
終了報告の第3回は、12月の末に掲載します。

マン・レイのパリ一九七二年

------------------------------------

ときの忘れもののコレクションからマン・レイ作品をご紹介します。
ray_16_les-grands-transparentsマン・レイ
「les grands trans-parents」
スクリーンプリント・鏡
64.2×49.1cm
Ed.100
アクリルに「MR」の刻サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

荒井由泰「マイコレクション物語」第8回恩地孝四郎

荒井由泰「マイコレクション物語」第8回

装幀・挿画本コレクション&恩地孝四郎との出会い


今になって思い返すと、本との最初の出会いは2000年だった。ヤフーオークションで堀口大学の訳詩集「月下の一群」(初版、函なし)を落札した。ドキドキしながら“オークション終了”の表示を待った。落札価格は3万8千だった。今まで本にこんな大金を払ったことはなかった。この本を入手したいと思ったのは扉絵に長谷川潔の木口木版(ふくろう)が挿画されていたからだった。「月下の一群」の落札を契機に本の装幀や挿画への関心が広がった。堀口大学の処女詩集「月光とピエロ」をはじめ、長谷川潔が装幀をしたり、長谷川の作品が挿画された本の蒐集がはじまった。最初に長谷川潔、次に駒井哲郎そして恩地孝四郎、谷中安規と広がっていった。大正から昭和の初期(戦前)の本の価値は今と比べると比較にならないほど高い価値と存在感をもっていた。そんな時代の本を手にすると、その重さや美しさが実感でき、本への愛着・愛情は高まった。その思いが装幀本・挿画本のコレクションへの大きな原動力になった。あくまで本のアートそしてデザインという視点からのコレクションをスタートさせた。一方、思わぬ副産物もあった。装幀や挿画に関心がなければ絶対に出会わない本を手にし、また読む(目を通す)ことができた。装幀の世界から世界が広がるのを実感できたわけだ。
-1 堀口大学 月下の一群 扉絵600堀口大学
訳詩集
「月下の一群」
扉絵

特に恩地孝四郎装幀本との出会いは今となっては重要な契機となった。最初に手にしたのが神田の古書店で偶然見つけた小型の美しい本・「白秋詩集」(1920 アルス刊 函入りの小型本)であった。価格は1500円、たいへんうれしかったのを覚えている。さらなるステップは2002年頃に阿部出版から出された「装本の使命」(恩地孝四郎装幀美術論集 1992)を古書店から手に入れたことにはじまる。恩地の装幀に対する考え方、「本は文明の旗だ。本は美しくなければならない」に象徴される言葉に共鳴するとともに、装幀(恩地は装本と言った)は本の内容とも密接に関係していることも再認識した。同時に恩地の装幀本リストが眼に入った。このリストがマイブックコレクションのバイブルとなった。
「装本の使命」の入手時期が一方では、古書業界の大変革期と重なった。それまでは古書店の目録が唯一の情報源であり、地方では目録なしでは購入が難しかった。しかし、入手したいリストがあればネットで全国の古書店から購入できる時代になった。
「日本の古本屋」を活用して夜な夜な本の購入がはじまった。古書店には一部の稀覯本以外は装幀に対する意識が低く、思いのほか安値で多くの古書が入手できた。全国の古書店から次々と本が届いた。
一方、装幀本リストは必ずしも全部網羅しているわけではないことも知った。恩地の場合、「本の美術」(1952)や「恩地孝四郎・装本の業」(恩地邦郎編 1982)に記載されていない装幀本が相当数ある。恩地の装幀本の特徴が分かると古書店で偶然発見することもあり、なかなか面白い探索の旅となった。恩地装幀と明記があるものは問題ないが、恩地らしいが明記のないものもあり、この辺はむずかしい。この裏付けとなる書籍の広告や文章の中の表記等、根拠を見つけるのもおもしろい。
現在の私のブックコレクションは長谷川潔50点、駒井哲郎130点、恩地孝四郎300点、谷中安規50点というところだ。最近はうらわ美術館のように美術館のコレクションに装幀・挿画本を加えているところもあり、装幀・挿画本への興味・関心が広がっていることはうれしいことだ。
私のブックコレクションの重要なものを記しておく。長谷川潔では雑誌の表紙を最初に担当した「聖盃」(1913)をはじめ、彼の木版画が表紙を飾った「仮面」「水甕」(1914〜17)、堀口大学の詩集・訳詩集「月光とピエロ」(1919)、「水の面に書きて」(1921)、「新しき小径」(1922)、「月下の一群」(1925)、そして「砂の枕」(1926)などである。「転身の頌」の初版・限定本(限定100部)をコレクションに入れたいところだが高価であきらめざるを得ない。
-4 長谷川潔 聖盃 表紙(最初の絵)600長谷川潔
「聖盃」 
表紙(最初の絵)

-5 長谷川 仮面 表紙長谷川潔
「仮面」 
表紙

恩地装幀・挿画では彼の最初の装幀本「悪人研究」(1911)からはじまり、萩原朔太郎の処女詩集「月に吠える」(1917 初版・カバ欠)、室生犀星の「愛の詩集」(1918 初版・函欠)、抒情小曲集(1918 初版・函付)など文学と関わりの深い名著が並ぶ。また、大正から昭和にかけての版画雑誌(「詩と版画」「風」など)の装幀・挿画本に加え、1935年に創刊された「書窓」(アオイ書房)も創刊号から何冊かコレクションに納まっている。この「書窓」は当時の先端技術の写植を使ったモダンなデザインに加え、扉には手摺りの木版画が挿画され、さらには本に関する豊富な情報が満載で、本好きの人にはたまらない雑誌だ。
-7  恩地 最初の装幀本 悪人研究600恩地孝四郎
「悪人研究」
最初の装幀本

-7  恩地 月に吠えるの挿画恩地孝四郎
「月に吠える」
挿画

恩地孝四郎の版画のコレクションについては、出版創作と言われる挿画本のコレクションからスタートしている。2002年には「季節標」(1935 オリジナル木版「虫」が挿入)、「海の童話」(1934 版画荘刊)を手始めに、翌年「虫・魚・介」(1943 アオイ書房)が加わった。「飛行官能」(1920 版画荘)はぜひともコレクションに加えたい本だが、残念ながら入手できていない。
版画の単独作品では2003年に「あるヴァイオリニストの印象」(1946)をヤフーオークションで入手したのが第一号だった。この作品は1955年の平井刷りで、まだ自摺作品はコレクションになかった。最初の自摺と思われる作品は「失題」(室生犀星「青い猿」の挿画作品)であった。その作品はネットでアメリカの画廊で見つけた。サザビーオークションに出品されたジュダコレクションからの来歴の作品だった。作品を気に入り、思い切って購入した。後でこの作品が室生犀星著の「青い猿」(1931)の挿画用に作られた作品であることを知った。その後、もう一点、この本からの挿画作品を別途入手できた。2004年には小品の「海」(1930)を手に入れた。自摺の作品は汚れがあったり、にじみがあったりでとてもきれいな刷とは言えないが、勢いがあり、味わいがある。たとえば平井刷り作品をみるときれいな刷りだが、どうしても工芸的なにおいがしてしまう。その後、「五月の風景」(1948)や「若い世代」(1954)などの抽象作品もコレクションに加わり、平井刷りの「氷島の詩人(萩原朔太郎像)」など、本人刷り出ないものを含め、コレクションとしての形ができてきた。
-13 恩地 虫・魚・介 表紙600恩地孝四郎
「虫・魚・介」 
表紙

-15 1931 青い猿 失題恩地孝四郎
「失題」
(室生犀星「青い猿」の挿画作品)
1931

-14 恩地 青い猿600恩地孝四郎
「青い猿」

-17 恩地 海 1930恩地孝四郎
「海」
1930

7 五月の風景 1948恩地孝四郎
「五月の風景」
1948

-18 恩地 若い世代 1954恩地孝四郎
「若い世代」
1954

恩地は日本では最初のプロの装幀家の一人であり、装幀家としてお金を稼ぐことができたから、自らの創作活動においてはいわゆる「売り絵」を作る必要がなく、自ら求める物を追求できたと言われている。戦後は既存の木版画にとらわれず、自由な発想のなかで抽象作品に積極的に取り組んだ。彼の作品は戦後の米国駐留時代、アメリカ人の愛好家から高い評価を受け、主要な作品がアメリカを中心に海外に持ち出された。版画は複数芸術と言われているが、彼はその点にこだわらず、一点一点オリジナルのような姿勢で作品を制作した。そのため制作数もたいへん限られており、作品があまり日本に残っていないのが残念だ。恩地の著作や作品を通して、彼がだれも踏み入れたことのなかった領域に果敢にチャレンジしてきた生き様が見えてくる。恩地孝四郎という人物は日本で最初に抽象画を描いた人、創作版画の推進者、詩人、装幀家、写真家、現代美術家などと表現されているが、それだけでは不十分だ。まさに芸術表現を通して、時代を表現し続けた偉大なアーティストの一人だ。残念ながら、まだまだ恩地のことを知る人は限られている。彼の功績が正当に評価されることを願ってやまない。次回は私のコレクションテーマに一つである「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」について言及してみたい。
(あらいよしやす)

荒井由泰さんのエッセイ「マイコレクション物語」は、毎月11日に更新します。
今までのバックナンバーはコチラをクリックしてください。

荒井由泰「マイコレクション物語」第7回

荒井由泰「マイコレクション物語」第7回

バルテュスのこと、そしてマイ駒井哲郎コレクションについて
荒井由泰


七夕の季節になると思い出すことがある。私のアートライフでのもっとも大きな出来事となったバルテュス(Balthus)との出会いのことだ。バルテュスと聞いて、「あのバルテュス」と言ってくれる人は相当のアート通だ。手元に手漉きの名刺がある。その名刺にはCte.& Ctesse B. de Rola(ローラ伯爵夫妻)と記してある。ローラ伯爵と言ってしまえば、ヨーロッパの一貴族にすぎないが、アートの歴史のなかでは燦然と輝く巨匠の一人である。欧米の美術館(ポンピドー、メトロポリタン、MOMA)には彼の名作が並ぶ。時間が止まったような街や自然の風景あるいは妙に色っぽい肢体をさらす少女達がわれわれを魅了する。その巨匠とふるさと勝山で対面し(1984年)、また1986年にはスイスの田舎町にあるグランシャレ(Grand Chalet)と言われる巨大木造邸宅(1750年代に作られ、かつてはホテルとして使われた)で歓待を受け、宿泊までさせてもらったのだ。バルテュスフアンの方には申し訳ない経験であった。かつて、現代版画センターの機関誌に特別寄稿「巨匠の素顔に接して」として書かせてもらったが、その原稿を思い出しながら、手短にこの物語を述べることにする。
-1 84バルテュス600バルテュス
1984

-2グランシャレグランシャレ
Grand Chalet

ご存じの方も多いかと思うがバルテュスの奥様は日本人で、着物姿が美しい節子夫人だ。バルテュスが1962年に当時のフランスの文化大臣アンドレ・マルローの依頼でパリでの日本展の作品選びのために来日された際、通訳としてお世話をしていた節子さんを見初め、結婚された(1967年)。1973年には娘の春美(Harumi)ちゃんが生まれた。バルテュス一家の住むスイスのグランシャレに偶然にも福井にある調理師学校出身の家族が代々住み込みの料理人をしていたことからこの出会いがはじまった。1984年の当時、大規模な個展がポンピドーそしてメトロポリタン、最後に京都市美術館と巡回した。その折、お忍びで福井に見えるという話を漏れ聞き、ぜひともお会いしたいと思い、調理師学校の理事長にお願いした。ところが、うれしいことに、反対に案内役をまかされてしまったのだ。ということで1984年7月7日七夕の日、勝山市にある白山信仰の拠点であった白山平泉寺等をご案内し、昼食をわが家で食べていただいた。当時、バルテュスは気むずかしい人で、写真も撮ることができないなどのうわさがあり、たいへん緊張しての初対面となった。しかし、思いのほか心優しいジェントルマンで内心ほっとしたことを思い出す。わが屋では私の最初のコレクションであるアンドレ・マッソンの女性像やブレスダンの「よきサマリア人」などを興味深く見ていただいた。マッソンの作品を前にして「彼は私の大の友人でねぇ」の言葉もあり、現代アートの歴史そのものと遭遇したような気分になった。さらには、会話のなかで日本文化にたいする造詣の深さに驚かされた。
2年後の1986年3月に仕事でスイスに出向くチャンスがあり、節子夫人のお招きに甘えて心臓にも一人でチューリッヒからグランシャレのあるロシニエールに出向いた。ロシニエールでの一泊二日の旅はまさにわが人生でもっとも印象深い時間となった。巨匠との会話の時間、すばらしいディナータイム等々すべてが夢のようだ。客間にはジャコメッティの彫刻、また壁にはモランディのドローイング、ボナールとドラクロアの版画もあった。バルテュスから子供時代のアイドルは宮本武蔵であったことなどの話もきいた。言葉の問題もあり、深い話までできなかったが、すばらしい体験であった。翌日はバルテュスはじめ一家全員で駅まで送りに来てくださり、ロシニエールを離れた。グランシャレのたたずまい、近くまで迫る山々の姿など懐かしく思い出す。バルテュスは2001年逝去され、現在グランシャレの一部がバルテュス記念館の形でオープンされているようだ。ぜひとももう一度出かけてみたい。ところで、バルテュスに関するコレクションだが、ささやかなものだ。バルテュスにサインを入れてもらった2枚のポスターおよび図録そして後日手に入れた2枚のリトグラフだ。コレクション以上にたくさんの思い出がわが宝である。
余談であるが、グランシャレを気に入り、二人で購入をきめたが、その代金についてはニューヨークのピエール・マチス画廊に3点か5点かの作品を売って、お金を作ったとのことである。50室もあるホテルを自分の作品を売って、買えるとはやっぱりすごい。
-3 86バルテュスとともに (2)600バルテュスとともに
1986

-4 86バルテュスとともに600バルテュスとともに
1986

私にとってもう一人の重要なアーティストのことを述べねばならない。駒井哲郎である。残念ながら、私が日本に戻ったときにはすでに亡くなられており、お会いしたことはない。
現在のマイコレクションにおいては駒井作品が一番重要な位置を占めている。しかし、最初から駒井作品の蒐集を決めたわけではない。駒井作品の実物はN氏コレクションで見せてもらったのが最初だったと思う。気になる作家であることは確かだった。そんなことで、ニューヨークにいるとき、当時の現代版画センターの案内を見て、「レースのある静物」(1975)を購入した。確か4万円だったと思う。また、彼の最後の著作となった「銅版画のマチエール」の特装本(限定125部)も手に入れた。しかし、その次の作品購入はバブルがはじけた後の1992年頃であり、空白の時間があった。バブルで駒井作品が高価になり、手に入れにくくなったことが主な原因だった。実際、ニューヨークで手に入れた「レースのある静物」も何かの作品の下取りとして、手放してしまった。日本に戻り、福原コレクションを含め、実際の作品を見るにつけて、駒井への関心は高まった。一方、すでに書いたように、私は「銅版画のマチエール」で取り上げられている「長谷川潔」「ロドルフ・ブレスダン」「オディロン・ルドン」等の作品からコレクションをスタートさせた経緯もあり、逆ルートで「駒井哲郎」にたどり着いた。価格面で少し落ち着いた1992年以降、出会いがあるたびにコツコツと蒐集を続けてきた。そして20年かけて、1948年から50年代の作品を中心に30点あまりのコレクションとなった。私は小品ながら光を放つ作品が好きだ。私は勝手にダイアモンドと呼んでいる。また、モノクロ作品が好みだ。もちろんカラー作品も気になるが、高価なので安心する。「孤独な鳥」(1948)「ジル・ド・レの肖像」(1948)、「ラジオアクティビティ・イン・マイルーム」(1950)、「小さな幻影」(1950)などが大好きだ。少し大きめの作品では「三匹の小魚」(1958)、「果実の受胎」(1959)が気に入っている。「果実の受胎」と画廊で対面したときには、思わず「美しい」と声が出た。やりくりしながら、駒井作品を蒐集していくなかで、私のコレクションの柱を「駒井哲郎と彼が敬愛したアーティスト達」としようと心に決めた。駒井作品に加え、オディロン・ルドン、ロドルフ・ブレスダン、シャルル・メリヨン、長谷川潔、さらには駒井が師と仰いでいた恩地孝四郎が加わった作品群がメインのコレクションとして形作られることになる。 
次回は装幀に興味を抱き、本の蒐集をはじめた話、さらには恩地孝四郎との出会いについて書いてみようと思っている。引き続き読んでいただければ幸いだ。
-5 1948 孤独な鳥
「孤独な鳥」
1948

-6 1948 肖像1 「ジル・ド・レの肖像」
1948

-7 1950 ラジオアクティビティ「ラジオアクティビティ・イン・マイルーム」
1950

-8 1950 小さな幻影600「小さな幻影」
1950

-9 1958 三匹の小魚「三匹の小魚」
1958

-10  1959 果実の受胎「果実の受胎」
1959

(あらいよしやす)
ときの忘れもの
blogランキング

ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
ときの忘れもの
ホームページはこちら
Archives
Categories
最新コメント
記事検索
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ