植田実のエッセイ

植田実のエッセイ「本との関係」第8回

植田実のエッセイ「本との関係」第8回

粕谷栄市がいた


 に、大学で詩を書く学生たちの部活のことを書いたが、それは早稲田詩人会という。まだ存続しているのかどうかは知らない。この早稲田詩人会の会誌「早稲田詩人」は、第6号が手元に残されている。私が1年生の終わりの年の発行。全6作品が掲載されているが、3作品が1年生による。限られた予算のなかで、1年生に発表の場を優先して与えられたにちがいない。巻末の同人一覧を見ると、12人。もっとほかの名もあったような気がするが、あるいは他の大学の学生だったのかもしれないし、入会しても早やばやと辞めていった学生もいたのだろう。寺山修司のアドレスは新宿区西大久保中央病院302号室。ここに彼を訪ねたことも前に書いた。私の住まいは大田区久ヶ原。これもすでに書いたが、建築家・山口文象邸に、そのスタッフだった兄が居候していた離れの一室をさらに私が居候していた時期である。
 私の作品はこの第6号の巻頭に掲げられているが、多分これ1回限りで、まもなく早稲田詩人会を退部したのだと思う。思うことあってそれまで買い集めていた数多くの詩集を処分し、詩を書くこと自体をやめてしまったからである。その理由はのちに話すことになるだろうが、6号の目次欄を見ると、自分でカットを描いたりして、本文構成は先輩に委ねているものの、印刷物としての体裁には生意気にもけっこう口出ししていたようだ。
 会の先輩のひとりに、粕谷栄市がいた。この頃は無名だったから、まだ「粕谷栄市という人」である。私よりひとつ年上で商学部に在学していた。実家がお茶屋さんで、新入りも先輩もおしなべて議論好きで有名詩人の作品をケナしたり、お互いの作品評を身勝手にわいわい言いあっていたなかで、長身の彼はほとんどそんな話に加わらず、自分の作品を黙って示すだけ、みたいな感じだった。形式にとらわれ、感傷的でひ弱な、いかにも学生くさい作品が多いなかで、粕谷さんの詩は強く、生々しく、言葉の輪郭がはっきりしていた。北園克衛を意識しているでもなく荒地同人の影が見えるのでもない。ひとりだけの詩の状況。暗黙のうちにみなの尊敬を集めていたと思う。彼をよく知る前に私は退部していたので、人としての付き合いはそれきりになったが、十数年後、粕谷さんは最初の詩集『世界の構造』(詩学社 1971)を上梓する。懐かしい名にひかれて本を買い、早稲田詩人会以降の彼の展開を知り、驚く。
 思潮社の「現代詩文庫」という詩人別に編まれた作品選集のなかの『粕谷栄市詩集』(1976)には、上の第1詩集全篇とともに組み込まれた未刊詩集『副身』全篇があるが、その後はすべて単独詩集として刊行され現在に及ぶ。『悪霊』(思潮社 1989)、『鏡と街』(同 1992)、『化体』(同 1999)、『轉落』(同 2004)、『鄙唄』(書肆山田 2004)。
 大学時代に詩を書かなくなって以来、読む関心も薄れ、詩集を買うこともまれになったが上記の粕谷さんの本だけは全て揃えている。その人に、早稲田詩人会の部室でちょっとでも接触があったことにどこか特別の気持がある。
 粕谷さんは「早稲田詩人」時代にはいわゆる分かち書き(というのか)の作品を書いていたが(上記の現代詩文庫にも2篇が収録されている。いま読んでもじつに大人)、『世界の構造』以降はすべて散文詩である。しかも詩的表現を駆使するというより、「私」が見た事実をボソボソと語るような内容で、「見た事実」といってもそれは悪夢のなかの光景に近い。つまり、すべて想像力圏内でのイメージなのだが、現実の底知れない重さ、暗さを精選して引き寄せ、しかもすべての詩がイメージで終るのではなく、物語として完結しているから、想像力が現実に転換され、現実が想像力のなかで再構築される。これが粕谷栄市独自の方法として、全詩集に貫徹している。
 橋や塀や船の甲板やさまざまな構築物が突然現われる。死体や首のない人間や血だらけの全裸の娘や老婆がそこにあふれている。そのすべてが物語の構成要素であり、こうした場面にこうした人間たちが登場するとなると、グロテスクな諧謔味を一様に帯びてくる。こうした粕谷の作品をブラック・ユーモアと形容する人もいるらしいが、それに物語という性格を加えると、ある傾向の短篇小説みたいにみえてくるかもしれないが、私としては全く違うと思う。7冊もの詩集にそれぞれ40篇前後の作品が納められているので、物語として読もうとするとずいぶん多くの夢の世界が展開されると思えるが、それは小説というより絵画に近く、同じような夢がくり返し語られる、いや、描かれる。その街にある建物はすべて同じ質屋だった、夜、集まってきた老人たちのすべてが同じ酔いつぶれの男だった、といったイメージが反復される。しかしそのことで逆に緊迫感が高まってくる。同じ山を、同じ橋を、同じ人物をモチーフとして執拗に描き続けるセザンヌやジャコメッティなどの作品を思い出すのだ。つまり作品として完結していない。まだ書き続けている詩として読む者に開かれている。
 雑誌などではエッセイや批評を書く機会もあるのだろうが、本としては散文詩集のみ。その内容もタイトルも同一性に傾斜しているといっていい。だから次々と詩集を上梓するほどに作品としての本の数が増えていくのではなく、むしろただ1冊に、さいごは還元されていくのではないかという印象さえ受ける。私の手元にあるなかでは最新の、『鄙唄』はタイトルどおり、夢は都市的光景から田野的世界に入っていく気配がある。登場する男や女や馬や犬が消えていったあとには、着ていた衣服の切れ端や道具ひとつが残されるだけの光景。それもフェードアウトする。死さえもが死んでいき、あとに無だけが支配する世界である。それがありありと描かれていることで、読む者は支えられる。
 それは詩集はもちろんだが、批評集も出す、絵画論・映画論も本になる、講演集も刊行されるといった、ある詩人たちの多彩な展開とは逆だ。
 粕谷さんの、ついには1冊に還元されるべき本は、私にとっても理想の本のあり様である。



後記:粕谷栄市は今年度の芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、との報をいつだったか新聞で知った。ファンとしては何とも嬉しかったが本人はどういう気持だったのだろう。これまでも、『世界の構造』で第2回高見順賞を受賞したのをはじめ、藤村記念歴程賞、詩歌文学館賞を獲得してきたが、今回の賞はとりわけイカめしい。『早稲田詩人』第6号の同人アドレス表によれば粕谷栄市は茨城県古河市に住む。その後のエッセイなどを読むと、ずっとここに住み、この愛する町で死ぬだろうと書いている。茶園のなかに佇む彼の姿が見える。


001『早稲田詩人』 1956年3月 第6号 目次
発行:早稲田詩人会
発行日:1956年3月1日 
サイズほか:21.0×15.0cm、16頁


 以上は、2006年8月、ときの忘れものホームページに書いたものに多少の加筆をして、今回ブログに再登場させている。
 思潮社の現代詩文庫には『続・粕谷栄市詩集』(2003)もあり、こちらには『悪霊』全篇、『鏡と街』『化体』から選ばれた詩篇その他が収録された普及版で、表紙裏には詩人の略歴のわきに、松浦寿輝が寄せた一文がすばらしい。
 「一度か二度、車で古河を通過したことがある。この町に現代日本の最高の詩人が茶舗を営みつつ静かに実直に暮らしているのだと考えると、何やら奇妙な感慨が込み上げてきたが、それが言葉にならないうちに車はあっという間に町の外に出てしまった。」
 この導入のあとに詩人とその作品の核心に一気に達する短い描写が続くのだが、私はまず、ただ古河の町を通り抜ける瞬間の感慨が自分のうちに起こったような実感に襲われた。粕谷栄市という人そのものが、日本の現代詩にとって批評的存在であることを、松浦は描き切っている。その仕事を概観できる現代詩文庫第67、173巻はじつにありがたい資料だが、これを契機として元の単独詩集もぜひ手にとってもらいたい。内容に直結した、実感の装丁である。何よりも単独詩集は、散文詩を詩として読みやすい。
 この話、大学キャンパスの端っこにあった小さな部室の、60年前の小さな記憶にすぎないので、自分ひとりの備忘メモとして書きとめた。つもりだったのが、当時、直ぐ粕谷さんから連絡をいただいて驚いた。そういう時代になっていたのだ。
うえだ まこと

●今日のお勧め作品は、植田実です。
ueda_77_hashima_07植田実 Makoto UYEDA
《端島複合体》(7)
1974年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
26.9×40.4cm
Ed.5
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


ときの忘れもの・拾遺 第9回ギャラリーコンサート
武久源造コンサート」のご案内

日時:2018年11月24日(土)15:00〜
会場:ときの忘れもの
出演:武久源造
プロデュース:大野幸
今回は午後3時開演。ちょうど近くの六義園の紅葉のライトアップの時期です。
*要予約=料金:1,000円(定員に達し次第締切ります)
予約:必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申し込みください。
info@tokinowasuremono.com

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊です。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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植田実「美術展のおこぼれ」第49回〜「建築」への眼差し―現代写真と建築の位相

植田実のエッセイ
「美術展のおこぼれ」第49回


「建築」への眼差し―現代写真と建築の位相
会期:2018年8月4日(土)〜10月8日(月)
会場:建築倉庫ミュージアム


 この企画展を見に、はじめてこの場所を訪ねた。
 「建築倉庫」って名前がいいな、と前から思っていた。写真や図面、模型や素材見本が勿体振らずにそのまま並べられているイメージだ。「ミュージアム」はその「倉庫」が閉じているのではない、訪ねてくる者に開かれていることを告げる肩書にすぎないのだろう。
 「「建築」への眼差し」は、その建築倉庫ミュージアム展示室Aを使った企画展だ。ちらしには内外13人(日本人写真家は7人)の出品写真家の名と「建築写真における「記録」と「表現」」と題された、企画・鈴木布美子による簡潔・適確な主旨が載っている。
 それを会場で実際に確かめると、それぞれ1件の建築(住宅、集合住宅、教会、博物館、美術館、音楽室など)を撮影した、さまざまなサイズのプリントが展示されている。その建築家は、青森県立美術館を手がけた青木淳のほかは海外の、それもミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエ、メリニコフ、バラガン、ジョンソン、ニーマイヤーなどの巨匠から、ホライン、サフディ、ズンドー、リベスキンド、ヘルツォーク&ド・ムーロンといった現代建築の中枢的作家が勢揃いし(青木はそのなかで最年少)、それぞれの代表作を写真家たちがカメラを通して見た、その見かたをほぼ40点(1建築作品につき写真1点から5、6点でまとめられている)のプリントから私たちは教わる。そのような企画展示である。
 ずいぶん下世話な紹介になってしまって申しわけないのだが、建築倉庫ミュージアムの入場料が一般3,000円、大学生/専門学校生2,000円、高校生以下1,000円という、一般の美術館と比べてやや特別な額であることにたいしての感想を、予備知識ないままにここを訪ねてきた一入場者として言っておきたいのである。入場料を記したすぐあとに、展示室Bの分も含む、といった案内もついており、そちらの質と量もメイン会場・展示室の副次的な展示でもおまけでもない充実ぶりなのだが、私はメインの展示だけで入場料の価値、十分にあったと感じた。
 13人の写真家がそれぞれ、よく知られている建築家の設計した建築を撮影した。それは例えば竣工時の建築を、建て主、設計者、施工者あるいは出版社や読者のために記録をとる、いわゆる建築写真家という専門業の営為と同じにみえて、平たく言えばただの竣工写真にはしていない。
 ジェームズ・ウェリングはジョンソンの自邸である「グラスハウス」とその庭や近くに配した別のパビリオンを撮影し、その「プリント面にアクリル絵具を塗布する 注1 」ことで絵画的なタッチを垣間見せ、またマリオ・ガルシア・トレスは建築としてのバラガン邸を庭の繁みのなかに隠し、コロリンのチジミ、トマトソースかけやカスタードケーキ風のフランなど、「彼が愛した料理のレシピ 注2 」を庭の写真にあしらうことで、バラガン邸の味わいを伝えようとしているかにみえる。ルイザ・ランブリの、円筒の壁に縦六角形の窓を無数に開けたメルニコフ自邸の、その変形開口部だけを凝視することで説明を超えたところに建築の全体を感じさせる眼も、個人の戸建て住宅がありえなかったあの時代あの国を位置づけるために、なまなかの建築写真を否定した「アート」を引き寄せている。
 ここには宮本隆司のプリントもある。その写真歴のはじまりから建築専門誌において数々の建築の工事過程、竣工、生活を撮影してきたプロとしての経歴が長く、その後に同じ建築を対象にしながらそれを見る視線の方向を突然変異的に転換してしまう。ここでは彼はリベスキンドによるユダヤ博物館を5点のプリントで見せているが、工事中や竣工時の記録であることを拒否し、廃墟的であることの傍らをサッと通り抜けて一種完全な建築に辿り着いてしまう。そんな光景に入っていける。
 ことばを変えれば、ここではどの写真もいわば写真集という印刷物の枷から降ろされて伸び伸びとしている(私の仕事はその印刷物をつくることなのだが)。端的には本のサイズを超えたプリントが、思いもかけない写真体験に直面させるのだ。こんなに簡単な仕掛けはほかにない。それを徹底して、見る者の自意識に接触してくる、印刷物はもちろんのこと、展示でもじつはほとんどない。
 畠山直哉が、サフディの「アビタ‘67」を撮った写真に驚いた。タイトルどおり1967年のモントリオール万国博で建設された集合住宅で、プレキャスト・コンクリートの箱形ユニットを隙間なく、ではなく隙間たっぷりありで12階の高さまで積み上げた。会期後は一般に分譲あるいは貸与されている。個々の住宅の存在が、集合のなかに埋もれるのではなく、ちゃんと見えるというサフディ年来の考えが博覧会建築のチャンスを得て遺憾なく発揮された作品だが、実際に年間を通して住むとなると外気に接する面(上階ではとくに)の大きさが問題になるかもしれない。この事例に限らず現代建築の見た眼と使い勝手の微妙な境界を、畠山は冷静に、愛情をもって私たちに見せているのだ。
 そのためには出版物ではあまりあり得ないプリント・サイズ(60×47僉2点)が重要になるだろう。ほかにもホンマタカシがニーマイヤーによるカノアスの邸宅を撮った写真は150×200僂3点。彼の写真集で見る、じつに自由だがツボは絶対にはずさない建築が大プリントで自分に近づくと、幸福感は眼で見ることを超える。つまりはそこにとどまる身体になる。
 そして会場の入り口正面の壁には、杉本博司による「無限の倍という焦点距離を設定 注3 」してのル・コルビュジエのサヴォア邸の写真。「優秀な建築は、私の大ぼけ写真の挑戦を受けても溶け残るということを発見した 注4 」その1点だろう。このシリーズに初めて接したときは、どうしてこんな発想ができるのか驚嘆するばかりだったが、今回対面したのはこれまでにない大きなサイズで、近づくほどに自分の視界が翻弄されてしまう。「大ぼけ写真」の魔力がたしかにあった。
 図柄、ディテール、テクスチャ、これら写真のどれもが絵画とはまるで違う症状を呈しはじめている。それを余計な説明や演出ぬきでストレートに展示している。会場設計は田根剛。一昨年のポンピドゥー・センター傑作展(東京都美術館)で画期的ともいえる会場構成を手がけた建築家が、こんどはじつに可愛らしい悪戯で遊んでいる。
 この企画展は、私の取材が遅れたためにあと数日で終わり。ごめんなさい。次は10月21日から「新素材×旧素材」展が始まり、入場料はやはり一般3,000円。こちらも期待できそうだ。
(2018.10.2 うえだまこと

注1、2「建築への眼差し」案内より。
注3、4「杉本博司」展(森美術館2006-07)カタログより。写真家のコメント。


IMG_001会場入口タイトルパネル
撮影:おだちれいこ


IMG_010ホンマタカシ《カノアスの邸宅》(建築:オスカー・ニーマイヤー)
2002
インクジェットプリント
各150x200cm
撮影:おだちれいこ


IMG_013畠山直哉
アビタ '67(建築:モシェ・サフディ)
2005
ラムダプリント
各60x47cm
撮影:おだちれいこ

〜〜〜
●10月6日はル・コルビュジエの誕生日。巨匠に敬意を表して本日のお勧め作品は代表作ユニテです。
33_corbusier_unite-11〈ユニテ〉より#11b
1965年
カラー銅版画
57.5×45.0cm
Ed.130  Signed

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


ときの忘れものは倉俣史朗 小展示を開催します。
会期:2018年10月9日[火]―10月31日[水]11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
倉俣史朗(1934-1991)の 美意識に貫かれた代表作「Cabinet de Curiosite(カビネ・ド・キュリオジテ)」はじめ立体、版画、オブジェ、ポスター他を展示。 同時代に倉俣と協働した磯崎新安藤忠雄のドローイングも合わせて ご覧いただきます。
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●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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植田実のエッセイ「本との関係」第7回

植田実のエッセイ「本との関係」第7回

高橋睦郎の「友達」


 『高橋睦郎のFriends Index友達の作り方』(1993年マガジンハウス刊)のなかで、西部版『毎日中学生新聞』の詩の欄に投稿していた頃のことが書かれている。その後は「短歌、俳句、作文の欄でも入賞が続き、三年に進級する頃には西日本の少年文壇のちょっとした星だった」。週に数通は来ていたというファン・レターのなかに大人の文字の葉書があった。差出人は、山口県萩市明倫小学校柳井正一。生徒ではなく先生である。上記の新聞などで注目した少年たちと連絡をとり、西日本少年文壇の同人誌を作ろうとしていた。1952年の大晦日にそれは実現した。40ページの『でるた』という冊子である。そこに作品を寄せている「俊秀たち」を、「アトランダムに名前を挙げれば、日野孝之、八尋舜右、植田実、小田亨・・・」と10人ばかりを列挙し、「八尋舜右氏は現在朝日新聞社図書出版室長、植田実氏は建築評論家、・・・」といま知られる消息が紹介されている。
 それによると私の作品も載ったらしい同人誌『でるた』は、手元にないばかりか、そんな冊子がつくられたこと自体まるで記憶にない。けれど、柳井正一先生から私にも来た葉書や手紙は残っている。小倉高校に入学した年、その春の運動会に先生は私を訪ねてこられた。坊主頭に白鉢巻の私と並んだ写真も残っている。『でるた』第1号刊行後、柳井先生は強度の神経衰弱に羅り他界された、と詩人は伝えている。
 ユニークな交友録によってここまで記憶をたどってきたところで、すっかり忘れ果てていたことに思い当たった。現代詩の入門書などに接して自分ははじめて詩を書きはじめたつもりでいたのだが、じつは中学1年の頃から、まぁいかにも中学生らしい詩を書きはじめ、同じように西部版『毎日中学生新聞』に投稿していたのである。(今回、資料を探していたら、中学時代の詩をまとめた手書き詩集『クレヨンの匂い』という小冊子が出てきたのでそのことを知ったのだ。ある作品には「中毎に掲載」などの但し書きが付いている。清書してしばらく放っておいたのを、高校2年の終わりにあとがきを書き、表紙を付けた。文字やデザインに、その頃は花森安治に傾倒していたことがバレている)。
 当時、高橋さんの名は同じ欄を通して知っていたに違いない。ただ直接手紙をやりとりしたことはなく、いわゆるペン・フレンドなら、高橋さんが「俊秀たち」のなかに名を挙げられた小田亨がいる。前回に触れた、寺山修司『忘れた領分』の存在を訴えたのはこの人である。彼とは長く音信が絶えていたが、そのときの新聞記事で、現在はたしか静岡あたりに住んでいることをはじめて知った。
 小田さんとは中学高校時代に会うことがあったのか定かでないが、大学に入って親交を深めた。彼は他の大学に行っていたのだが、受験時代を通過して、お互いに訪ねあえる余裕がはじめてできたのだろう、とにかくよく会った。当時私が住んでいたアパート近くの洗足池でボートを漕いだり、新宿で飲んだり。前回にも触れた「ガラスの髭」にも彼は入会し、一緒に『忘れた領分』を読む仲となる。高橋睦郎さんとはその前からとくに親しく、上記の本によれば「まるで恋文のような手紙をやりとり」していた。この頃、詩を書いたノートを貸し借りし合う習慣があり、そうして彼が高橋さんの手書き詩集を丸写しした(あるいは編集して書き写した)ノートを私が借り受け、同じ手書きでコピーのコピーをした『高橋睦郎詩集』が手元に残った。約100頁、80篇近くが万年筆で丁寧に書かれている。いまの私より格段にきれいな筆蹟だ。小田さんが高橋詩集をノートに書き写し、私がさらにそれを丸写ししたのはともに大学に入った年。
 しかし私の大学生活は1年目の夏に中断する。母の病いが重く、見舞に小倉に戻ったのだが、いつ深刻な事態になるか先が読めないという医者の見立てで、東京に帰れなくなってしまったのだ。これでは死を待っているみたいだと、病床の母を励まし東京に帰りつくや否や訃報が追いかけてきて、また小倉にとんぼ返りする破目になった。親しい人、しかももっとも親しい人の死はわが人生の最初の出来事で、結局、大学を1年休学し、一年下のクラスで授業を受けることになる。
 高橋さんとはじめて会って言葉を交わしたのはずっと後である。もちろん彼はすでに高名な詩人であった。その後、何度か会うことがあったが、例の手書きの『高橋睦郎詩集』を見せて勝手に書き写したことへの了承をいただくと同時に、さらに厚かましく、サインを乞うたときがある。苦笑とも困惑ともみえる表情をにじませながら、しかし真剣に書いてくれた名と日付は、私が彼の手書き詩集をつくった日からちょうど30年後になっている。『現代詩文庫19 高橋睦郎詩集』(1969年 思潮社刊)には「初期詩篇から 1953-1959」として9篇が収録されているが、うち2篇は、多少手を加えてはあるものの、この手書き詩集のなかにもある。当時はもちろん、彼のきらめくような言葉にこちらはなす術もなかった気持だったか、今あらためて読み返してみると、この人はやはり書く理由があってこそ詩を書いていたのだとしみじみ思う。
 前回に触れた寺山修司との出会いからはじまる、こうした一切が大学1年の春から夏までに起こった。面会謝絶となった寺山さんとはそれきりで、後年、渋谷の食べもの屋で近くの席にいた「天井桟敷」の主宰としての彼を見掛けたりするが声はかけなかった。当然、彼のほうは私を覚えていなかっただろう。しかし私の姪はいつのまにか「天井桟敷」の衣装担当になっており、海外公演にもついていっていた。そのような形でも寺山さんへの関心はいつもどこかで繋ってはいたのである。
 前回参照した、『寺山修司全詩歌句』(1986年 思潮社刊)に併載されている年譜にまた戻ると、「チェホフ祭」で短歌研究新人賞を受賞した際、「自作の俳句を短歌にアレンジしたことと、俳句の中村草田男、西東三鬼、秋元不死男の影響が強かったために俳壇で問題となる」とある。この問題はその後も彼につきまとう。ようするに規範を守らず真似ごとに終始したという寺山像がくりかえし、さまざまな論者によって描かれる。だが私の実感からすれば、そうした局面にこそ彼の天才の資質が否応なく見られ、それに圧倒されていたのである。俳句でも詩でも小説でも映画でも、寺山修司の言葉は接したもの全てにたちまち染まっていく。その自然体ともいえる同化のなかに彼独自の世界がすでに確立されている。ものを創る人間にはこうした弱点的資質が備わっていなければならないのだと、私は確信したにちがいない。なかでも俳句・短歌には誰がなんと言おうと寺山修司のエッセンスそのものがあると勝手に思っている。結局「チェホフ祭」を書いて世に知られた、ひとりのハイティーンをさいごまで私は追いつづけたのだった。

 上の文には、2006年7月28日の日付が入っている。「ときの忘れもの」のホームページに書いたのだ。今回、表現には多少の手が入っているが内容はそのままで再録している。これを読んだ人が高橋さんに知らせ、結局は大学ノートに手書きの『高橋睦郎詩集』を表紙から裏表紙までそっくりゼロックスコピーでとって高橋さんにさしあげることになった。当画廊社長の綿貫令子さんがその仲介と作業を引き受けて下さり、彼女の手になる立派な造本(ルリュール)によって、ノートのたんなるコピーではなく、貴重な図書が残されたのである。すなわち、高橋睦郎詩稿ノート→小田享の編集・書き写しによるノート(1955年3月)→植田による丸写しノート(1955年7月)→それに高橋さんの署名をいただく(1985年7月)→綿貫令子造本によるゼロックスコピーを高橋さんに進呈。といった流れのなかに『高橋睦郎詩集』という「本」が漂っている。1字1字に敬意をこめた写しであり、いつどこでもだれでも再生産できるが、目的は本をつくることではなく「読む」ことの身体化であり、それは元のかたちに向き合い生き続ける「本」でもある。
 もしこれが高橋さんの詩業を残す印刷・出版物に加えられるとすれば、この流れを遡って小田享ノート(彼はたぶん保管している)にまで、可能ならさらに高橋睦郎詩稿にまで辿りつく必要があるだろう。もっとも現実に近い「本」はそこから始まる。いまのところ最終的なコピー本(日付を入れ忘れたのは残念だが)は私も1部いただき、綿貫令子さんの手元にも控えとして1部同じ造本で残されているらしい。興味のあるかたは駒込に来廊された折に申し込めば、手にとって見ることができるかもしれない。


001002『高橋睦郎詩集』大学ノートに手書きの表紙と本文の一部
発行:1955年 限定1部
サイズほか:21.0×15.0cm、100頁


DSC_0952ルリュール:綿貫令子

003『クレヨンの匂い』手書きの表紙
発行:1953年 限定1部
サイズほか:17.5×13.0cm、54頁

うえだ まこと

●今日のお勧め作品は、植田実です。
ueda_76_hashima_06植田実 Makoto UYEDA
《端島複合体》(6)
1974年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
26.9×40.4cm
Ed.5
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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植田実「美術展のおこぼれ」第48回〜「建築の日本展」

植田実のエッセイ
「美術展のおこぼれ」第48回


「建築の日本展」
会期:2018年4月25日〜9月17日
会場:森美術館

 六本木に展示を見に行った6月下旬にはカタログがまだ出来てなかったので、代金を先払いし住所氏名を書いて帰ってきた。7月に入って郵便が届いた。展覧会のカタログはこれでいいと私は思っている。会場の入り口で作品リストなどをもらえるし、会場内にはさまざまな解説のパネルがある。展覧会での自分なりの印象を煮つめる時間に、その場で買えるカタログの論文や図版は邪魔なことだってある。とくに印刷された図版はサイズも精度も、会場でその作品の全的存在に少しでも近づけたと思う一瞬を、もとの図柄の記憶に戻してしまう慣性が働くのがふつうだ。
 そもそも見本もなしで先に本代をいただきますという仕組みは、ぜったいにいいカタログをお渡ししますという美術館の自信にたいする楽しみにもなっているのだ。そして建築展のカタログは、とくに平面作品の再現に大きく比重がかかる美術展カタログとは別の、編集のバランスや精度に建築のリアリティが左右される。建築そのものは展示できないという言いわけは納得されないのだ。
 7月に入って郵便が届き、中味を見てまず嬉しかったのは要所々々に会場の写真があったことだ。ふつうのカタログには間に合わない。オープニング直前まで展示作業が続いているからだ。建築展は写真・模型・図面と、見せかたの方法が多様であり、その全体を覚えるのはたいへんだから会場写真がカタログに組みこまれているのはありがたい。けれども展示会場写真というのは(それが見事に、あるいは下手に撮られているかどうかの関係なく)、なぜか記憶のポテンシャリティを低めることが多い。撮影者が悪いのではない、もっと構造的な問題なんだと思うがうまく説明できない。最近は作品リストと一緒に会場構成の略図などを配布して下さる美術館が増えてきて、とても助かる。展示計画とその解説が複雑になってきている。それはむしろ、壁面に例えば油彩の作品を並べるだけといったごく基本の展示にも、不可避的に向かっていってしまう意識の存在に関わっている。
建築の日本展カタログ_扉
「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの」カタログより展示風景。森美術館、2018年、撮影:来田 猛

 この企画展では、「縄文の住居から現代建築まで100のプロジェクト」が、模型・写真・図面・関連資料など、およそ400点で紹介されている。プロジェクト100点という数字は、結果ではなく最初から設定した枠だろう。なんといっても縄文から現代までの全建築史という途方もない時間のスパンを見渡し、その現代には石上純也、前田圭介、田根剛、吉村靖孝など1970年代生まれの建築家たちの仕事までしっかり見せているのだ。100のプロジェクトは「可能性としての木造」「安らかなる屋根」「開かれた折衷」「集まって生きる形」「発見された日本」「共生する自然」ほか9つのセクションに分けて集められている。それぞれのタイトルで内容がほぼ想像できるかもしれないが、9つに分けた構成自体がきわめて正統的というか、あえて新しい切り口は避け、日本建築についての定説を集大成して若い世代あるいは海外の読者に示そうとしたようにも思える。執筆者も建築家のほかに研究者30人あまりが数えられる。それで2000年近くの建築史を分担執筆し、しかも歴史を俯瞰する全体を表すための文体統一の配慮も必要だったにちがいなく、企画・監修者には負担がかかったと思う。でもそのコントロールが拘束的ではないのは読めば分かる。自由であり思いがけない発見や指摘がある。とくにうまいと思ったのは現代の建築については基本的にはその設計者が主旨を書いている。全体が歴史的方向を印象づける俯瞰的文体のなかで、建築家による建築とその説明が毛羽立っている。つまり小さいが自己主張のテクスチャがある。ここで研究者の共同執筆による教科書などとはちょっとちがう本が顔を出している。もともと「日本」と建築家による「建築」との関係をいうとするならば、もっとずっと多くの作品例を出すべきだろうが、本展では「現代」(あるいは「現在」)を思い切り強くアピールするために、「現在」に至るまでの多くの建築家による先行作品を割愛し、いまもっとも元気な建築家たちによる織目を微妙に変えた文体できれいに繕った。ここでは、展示を、カタログが主導している。そしてすべての説明に英文が併記されていることは重要だ。この展覧会は、日本の建築界内だけのものではなく、またその外側に、突飛な切り口によっていきなり剥き出しにする意図もないのだ。

 あらためて考えるのは、ここで選ばれたプロジェクトの100という数字である。プロジェクトを最終的に何点に絞るかについてはいろいろなアイデアが出されたなかで最適な数字が出されたにちがいない。100のプロジェクトはけっして多くはないと思うが、建築関係外の人たちにはめんどくさい数かもしれない。木造の、屋根の、空間構成の、対自然の、歴史と現在とが結び付けられる共通項が明快過ぎて、建築の理解をかえって妨げてしまうかもしれないので。例えば旧閑谷学校(1701年)について「建築をつくる前に、学校全体の環境を計画した。人々が集まってくるための広場、山火事から学校を守る日除けのための丘、防災のための池、学校を火事や災害から守るための長大な石塀、石塀で閉ざした内側の治水を制御するための石造りの埋設管による排水路など、(中略)建築についても当時の建築の常識から大きく逸脱した、徹底した工学的アプローチによって計画されている。まず平面形は極めて純粋な内陣・外陣の幾何学的構成をとっており、他の聖堂建築に類例がない。立面においても(以下略)」と、藤原徹平がわずか1000字近くの解説でこの名建築の魅力をみごとに描いているが、当のカタログでは写真3点、見開き2ページ。これを100プロジェクト全部見ていくのはたいへん。展示そのものも同様だろう。たとえば藤原の解説をすべて展示に、小学生にもよく分かるように具体化する。そのためにプロジェクトを10に厳選し、残り90は小さい扱いだがそこに至る流れをさらによく分かるように位置づける(結果として旧閑谷学校がその10点に残るかどうかは別だが)。と、あらぬ妄想に足を取られた。
 とにかく建築をもっと多くの人々に理解してもらいたいのである。なんだか迫力があり専門的威嚇的で面白そうというのではなく、信用されたいのである。
 長くなってしまったので中途半端のまま終わらせてもらうが、あとひとつだけ必見の展示。待庵(1582年頃)の原寸再現。究極の最小限空間などと言われる待庵。自分でそれを体験できる。なかに入らせていただいて直ぐ分かった。国宝内部空間のかつての体験の異様さを、私はずっと寸法にも結びつけて考えていたが、その記憶が押し出されて別の身体性がどこかの闇の中から戻ってくるのを、再現された茶室のなかで逆に、痛切に感じたのだった。
(2018.9.6 うえだまこと) 

建築の日本展カタログ_表紙「建築の日本展」カタログ
サイズ:A4
ページ数:324ページ
言語:日英バイリンガル
価格:3,672円(税込)
制作・発行:森美術館/Echelle-1
販売場所:森美術館ミュージアムショップ
詳細はこちら

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*画廊亭主敬白
久しぶりに植田実先生の<美術展のおこぼれ>です(前回第47回はコチラ)。
今回の「建築の日本展」は評判の大展覧会であり、会期終了が迫っているので、急ぎ掲載する次第です。
画廊では「吉田克朗 LONDON 1975 」展が先週末9月8日に無事終了しました。
会期末はたくさんの方に来ていただいたのですが、亭主と社長は毎年9月の恒例となった「アートフェアアジア福岡」に出展のため九州に出張しており、失礼いたしました。
福岡は雨模様の天気でしたが、おかげさまで気持ちの良いフェアを楽しませていただきました(いずれブログで報告します)。
吉田克朗先生とは現代版画センター時代に僅か1点ですが版画エディションをしていましたが、展覧会(個展)は今回が初めてでした。
43年前の吉田先生の銅版画集『LONDON 』の完璧な保存状態のものを縁あって入手することができ、初めての個展開催となった次第です。
7月からの猛暑の日々で、お客様には申し訳ないことでしたが、生前の吉田先生を知る方、直接の面識はないけれど作品に刺激され研究されている方など熱心な吉田ファンの存在に励まされた3週間でした。
それにしても台風21号(高波、強風、落雷、豪雨)や北海道での大きな地震の被害を思うと、たまたま東京に襲来しなかっただけで、「無事」だったことをありがたく思いますが、明日はわが身。
被災された皆さんには心よりお見舞い申し上げます。

●今日のお勧め作品は、植田実です。
ueda_110_dojun_edogawa_05植田実 Makoto UYEDA
《同潤会アパートメント 江戸川》(5)
(2014年プリント)
ラムダプリント
16.3×24.4cm
Ed.7
サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
ただし9月20日[木]―9月29日[土]開催の野口琢郎展は特別に会期中無休です
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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植田実のエッセイ「本との関係」第6回

植田実のエッセイ「本との関係」第6回

寺山修司の病室


 大学という場所に通いはじめた、とくに最初の1年間の記憶は、褪せも消えもしない痕跡の、経年変化が深まってゆく亀裂みたいにつよい。中学や高校や予備校入学時の明快さを欠いている。説明できない。
 授業がはじまった最初の1週間の印象というか受けた打撃は、単純な失望とはいえない。この1週間で、講義をされる先生方の顔ぶれと今後1年間に毎週話される授業内容の全貌がほぼ予測できてしまうわけで、それが丸見えてしまったのでがっかりしたのだろう。中学、高校における授業の楽しさと厳しさはその地域の先生と子どもたちが一体化しているからだし、予備校の講義が受講者たちの能力を一挙に全開するような説明力は、見方によれば受験という一瞬のハードルを飛び抜けるだけの頭の使いかただったのかもしれない。
 つまり授業がはじまるその直前まで、大学とは小中高および予(人によっては)と連続していて、もちろんその頂点に位置していると私は考えていたのだがそれは間違いで、むしろ大学以降の学びの場はどこからも切り離され自立している、それを学生たちに伝えるのに先生方はとても苦労されている。そのように自分の先入観を必死で変えようとした気持ちが残っている。失望したくなかったからだ。
 ずいぶん古い時代のはなしだ。書いていて気が付いた。

 クラス担任あるいは講義の先生方やカリキュラムなどよりもっとずっと激しく、自分を危機に追いつめた、あるいは救ったものが、大学にあった。学生たちとの出会いである。それも専修が同じクラスの学生たちとは毎日会っているが、それぞれの個性や考え、目標としているものなど直ぐにはわからないのに対して、部活の部屋に集まってきたのは誰もが詩を書いている連中だからそれなりにわかりやすい、しかも2年から4年生までの先輩がいて全体の動きもはっきりしている。そういう出会いのなかに巻きこまれた。
 その最初の日は先輩たちと新入生との顔合わせ会で、私たち新入生は10人あまり、先輩たちはそれよりちょっと多めだったかもしれない。さいごにいかにもリーダー格の、穏やかな笑顔の学生と、それとは対照的な、むしろ怒っているかのような鋭い目つきの学生が連れだって部屋に入ってきた。これほど眼光の強い男を見たことがなかった。おまけに学生服の上着を、前ボタンを全部外したまま羽織っているのでいちだんと立ってみえる詰め襟に、削げた蒼白い頬が埋もれている。勢揃いしたところでまず上級生からの自己紹介があり、例のどこか不良っぽいスタイルの学生はひとこと、「寺山修司です」とだけ名乗った。
 その名をつい最近知ったのだった。1954年11月に「チェホフ祭」50首が第2回短歌研究新人賞を受賞する。それを発表した「短歌研究」が代々木駅前の本屋の店頭に平積みになっていて、それは私の通っていた予備校の真向かいでもあったので目についた。読書断ちの日々だったのに、しかもまったく縁のないジャンルの雑誌だったのに、つい手にとって立ち読みし、いっぺんに魅せられた。しみじみと読まなくても、体験したことのない新鮮な言葉が頭のなかを通りはじめたのだ。店頭にその発表誌を見たのは54年の暮か、遅くても翌年早々である。その1955年の春に部活の会でその作者といきなり出会ったのである。東京とはこのようなかたちで人を知ることがある都市なんだという実感が急に迫ってきたと同時に、大学とはそれこそが当たり前の場と納得したように覚えているが、たしかにこの集まりのすぐあと、5月には10人ほどが集まった部室に谷川俊太郎さんに来ていただいて話をきく贅沢な会を実現したりしている。でも寺山さんとの出会いは違う。遠くに見えた知らない男が突然私の横に現れて私の名を呼んだのである。
 寺山さんとはその後は大学で会うことはなかったと思う。詩の会の部屋に来ることもなかった。『寺山修司全詩歌句』1986年思潮社刊の巻末に付けられている年譜によれば短歌研究新人賞受賞の年、混合性腎臓炎のために立川の病院に入院、退院後さらにネフローゼ発病とある。翌年、新宿の社会保険中央病院に入院するが、(私の記憶ではおそらく夏以降に)病状が悪化し、面会謝絶となる。大学の部活の会に顔を出したときの厳しい印象は、病いをおして会のために出席した律儀さだと説明できたのかもしれない。
 部活の会で知り合った同じ1年生の、だが学部は違う女子学生と、JR新大久保駅から歩いてまもなくの、上記の病院に寺山さんを見舞いに行った。今度はベッドの上の寝巻姿で表情もずっと穏やか。ゆっくり言葉を交わすことができた。枕元においてあった彼のノートの表紙にお気に入りの女性たちの顔写真がいくつも貼られており、一緒に見舞った彼女の写真もすでにそのなかにあって、寺山さんのチェックのはやさに唖然とした。ノートのページにはさまざまなメモのほかに新刊書籍発売の新聞広告もじつにまめにスクラップされていて、思うように外出できない人ならではと思いながら、寺山さんにはすべてがためらいなく動いている、そのことを痛感するばかりだった。
 ネフローゼという病名は寺山さんの口からはじめて知った。一日の塩分摂取量が制限されていて、小指ほどの小瓶は許される微量の塩が入っているのを見せてくれた。面会謝絶となった同じ年に詩劇グループ「ガラスの髭」を組織し、大学の詩祭にその旗揚げ公演のための戯曲『忘れた領分』まで自分で書き下ろしている。このグループには私も参加し、補欠的な役割で上の本の読み合わせに付き合ったのでよく覚えている。学外からの参加の顔ぶれも充実していて、詩人の山口洋子、作家の河野典生らが出演、舞台美術は野中ユリ。だが寺山さんの姿はなかった。その年に続く日々も、病気の悪化と、休みを知らないどころかさらに急ピッチで展開される創作活動とが繰り返されていく。
 ずっと後、今から20年ほど前だったか、その存在が知られず、寺山修司戯曲全集にも入っていなかった『忘れた領分』台本発見のことが新聞で大々的に報じられて、私も手元においていた素朴な謄写版の資料的価値にあらためて気づいたのだった。けれども私にとって寺山修司の存在を強く残している「本」は、彼の病室で見たノートである。ノートだけでなく、あの白い病室そのものが彼の「本」だった。寺山修司の「本」とは完成の表れではなく、動きそのものの形だった。
 田中未知編による寺山修司未発表歌集『月蝕書簡』2008年岩波書店刊は、寺山没後に編まれた、晩年の、しかもまだ完成に至っているとはいえない試行を集めた歌集である。資料として使っている上記の『全詩歌句』のほか、私の手元にあるのはこれ1冊だけである。私が出会った人の記憶にとても近い。いつも1、2首だけ読んで本を閉じる。

001寺山修司『忘れた領分』1955年
手書き(植田による)の表紙と謄写版刷りの本文の一部

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うえだ まこと

●今日のお勧め作品は、植田実です。
ueda_95_dojun_daikanyama_04植田実 Makoto UYEDA
《同潤会アパートメント 代官山》(4)

ラムダプリント(2014年プリント)
24.4×16.3cm
Ed.7  サインあり
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●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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植田実のエッセイ「本との関係」第5回

植田実のエッセイ「本との関係」

第5回「沙漠」の50年


 第4回の続き。受験に落ちた。
 私にとってそれよりもっと大きな事件は、8年ぶりに東京に帰ってきたことである。やっと病い癒えての安らかな気持ちになった。生まれ育った下北沢に戻りたいわけではなく、遊園地や盛り場にもう一度行きたかったのでもない。東京の途方もない大きさだけが恋しかった。だったらもう高校生なんだからアルバイトで小遣い稼いで数日でも東京にいってくればよかったのに、自ら行動することは人生の出来事にはならないという理屈感覚が自分にはあり、それはいまに至るまで変わらないようである。当時「何でも見てやろう」と単身海外に出ていった小田実には感動したけれど、それは「出来事」とは正反対だと思っていたらしい。
 大学受験を機に東京行きの列車に乗った。目標は逃したけれど東京に止まった。11歳上の長兄がRIA(Research Institute of Architecture 建築綜合研究所)の創設期スタッフで、その主宰である山口文象の自邸の離れに居候しており、その居候の居候として私もその一室に転がりこんだからだ。このまま小倉に戻ったら、君は二度と東京には帰ってこれないよと、ほかならぬ山口先生に強く諭され、山口邸最寄りの池上線久が原駅から国電代々木駅前の予備校通いが始まる。授業というものがわが生涯でもっとも面白くなった1年間だった。
 この夏、姉とその知人である松本哲夫さん、佐藤恒子さんたちが鎌倉に行くときに声をかけてもらった。映画断ち読書断ち態勢になった浪人生の気晴らしを考えてくれたのだろう。古い寺社を訪ねた。2年前に竣工したばかりの広瀬 鎌二自邸「SH−1」を訪ねた。強烈な印象を受けた。その時はまるで理解できなかったので。これが私にとっては日本人建築家による戦後初期住宅を知る最初の体験で、それを読み解くための長い時間がその後にやってきた。
 ついでに思い出した。だいぶあとのことだが、思いがけない人が日常生活から私を連れ出して思いがけない場所に行った。山口先生とふたりで巨人軍の試合を見に野球場。どの球場だったか相手チームがどこだったか思い出そうとしたことがない。監督水原茂、一塁手川上哲治、三塁手長島茂雄をとにかく見た。巨人の勝敗より川上の日々の打率を新聞に読んでいたころで、それを知った先生がつい男気を出して誘ってくれてしまったのか。さいごは相手投手のボークで巨人の三塁ランナーがホームベースを踏み、おかしなサヨナラだったが「延長戦にならなくてよかったよ」と、先生の帰り支度は早かった。私のスポーツ観戦はこのとき突然頂点にあってあとは川上が監督になろうが、ほかの種目でも日本人選手が世界でどれほど活躍しようが、この日を超える事件はない。打席に入るなり不動で立つ川上の白いユニフォーム姿や、水原に軽口めいた注意とともに頭をポンとたたかれて守備位置に戻っていった長島の笑顔は、野球の最後の絵だった。体調を押して御一緒して下さった山口先生には、感謝以上に申しわけなさで今も思い出すだに身がすくむ。

 はなしを浪人生時代に戻す。
 受験が再び眼前に迫った1955年正月、福岡県行橋市に住む詩人麻生久から、久が原に居候している私に届いた5円の年賀葉書が手元にある。「高野喜久雄(荒地同人)や小田雅彦(九州作家)の賞讃があなたの背後を盛大なものとしている。決戦の今年の貴君に過分な期待の残酷なのは百も承知で沙漠の第一バイオリンを弾かれることを期待する。」
 高校文芸部発行の詩のアンソロジー『愛宕』や仲間たちと謄写版の同人誌をつくっていた同じときに、私は上の『沙漠』という詩誌にも関わっていた、そこに引っ張り込まれたきっかけは覚えていないが、実社会の職業に就いている詩人たちが出していた同人誌で、リーダー格だった麻生は当時安川電機の労組委員長でもあり、彼について小田久郎は著書『戦後詩壇私史』(1995 新潮社)のなかで「この戦前の尖鋭なモダニストは、戦後の北九州の労働運動の渦中で、こういう詩を書くコミュニスト詩人に変貌していたのだった」と書いて「弟たち」という作品を紹介し、さらに、戦前はこんな詩を書いていたと「転身前の」作品も引用している。
 『沙漠』の会合に顔を出すようになってはじめて同人のみなさんやその作品を知るようになった。麻生さんの作品にはとくに魅かれたが、詩壇における彼の位置づけに多少なりとも触れえたのは上の本を読んでだから、ずっとあとのことだ。高校生ということで会費を免除してもらい、そのくせ同誌に作品発表をさせてもらっていた(大学生もいなかった)ふしぎな一時期は、自分が東京に帰って以来次第に遠のいた。詩そのものからも自分が遠のいた。でもそれっきりで終わることなく、今から10年ほど前に小倉で麻生さんと、やはり当時同人のいちばん若手だった河野正彦さんとに再会している。とりわけ驚いたのは、『沙漠』がずっと続いて刊行されているという事実だった。そのときの写真や資料がまだ見つかっていないのだがわが家のどこかにあるはず。とりあえず『沙漠』の会の集合写真です。

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1953あるいは54年。現在の北九州市小倉区内で。前列左端が麻生久、その右に河野正彦。後列左端の学生服が植田。
うえだ まこと

●今日のお勧め作品は、植田実です。
ueda_74_hashima_04植田実 Makoto UYEDA
《端島複合体》(4)

1974年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
26.9×40.4cm
Ed.5
サインあり

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●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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植田実〜本との関係 第4回「学校の謄写版」

植田実のエッセイ「本との関係」

第4回 学校の謄写版


 中学生だったとき、謄写版をよくやっていた。原紙を切り、謄写機で1枚ずつパタンパタンと刷っていた。個人用の学級日誌をつけるために、いちにちのことを1ページに記入するフォーマットを印刷し、1ヵ月分ずつ綴じる。あとは毎日の天気や授業や課外活動などについて書けばいい。クラスごとの、担当の生徒が毎日交代で記入するいわばオフィシャルな学級日誌はちゃんとあるのに、しかもどのように許可をとったのか、その印刷作業はひとり職員室で道具やインクを使ってやっていた。
 先生がたの姿が見えない、しんと静まった職員室の記憶がある。東京・下北沢のわが家が敗戦の3ヵ月前の空襲で炎上したとき、そこに私は居なかった。学童集団疎開で長野県内の温泉旅館や村の集会所を転々としていた。家やまちを呑みこむ火に出会うのは避けられたが、いきなり焼跡の何もない地面と対面した。そこは今も日々大きくなっている。だれもが、「帰る」ことを生涯的に奪われていた。私は小学5年から高校卒業まで、母の故郷である福岡県小倉市(いまの北九州市内)をあちこち仮暮らしのあいだ、置き去りにしてきた東京の焼跡をずっと見ていた。中学校の職員室は失われたまちの記憶の調停役になっていたのかもしれない。私的学級日誌はひとに伝える目的のない、逆に学校生活の完全に閉ざされた記録を目指していた気もする。
 やはり小倉市内の高校に入っても謄写版は続けていた。こんどは文学同人誌で、作業場所は空いている教室である。しかも無断拝借、授業までサボってのことだ。中学時代の伸び伸びした空気、好きな授業は数学と生物(生物部に入っていた)に比べて、高校では就職と進学とのクラスに分かれることで生徒同士の交流も重苦しく、大学受験を控えての授業から生物は遠のき、数学は突然その視界がなくなった。同人誌を通して新しい友人は増えたが文学仲間はけっこう面倒だ、ということも分かってきた。謄写版の同人誌なども真っ当すぎる。第1号を出しただけで終わった。
 中学の終わり頃、たまたま北川冬彦の著書を読み、現代詩というジャンルの存在をはじめて知った。北川自身を含む多くの詩人たちの作品が紹介されていて、その異常な美しさにたちまち魅せられた。自分でも現代詩といえるものをつくりはじめた。いや実際にはつくったのではなく真似しただけなのだが。同時にそれらの詩集の、本としての斬新さは私にとんでもない贅沢を強いた。詩を扱う専門の古書店が東京にいくつもあることを知り、高校に入ってからはとくに渋谷の宮益坂上の中村書店から目録を定期的に送ってもらい、そこから選んで注文していたのである。親から渡される授業料をこっそり書籍料にあてていたのだが、その穴をどう埋めたのか覚えていない。1952年、高校2年のときに谷川俊太郎『二十億光年の孤独』、翌年に早くも次作『62のソネット』が出版されてこれは小倉の書店で買ったと思うが、そのときには現代詩のもうひとつ新しい時代が見えてきたという印象で、北園克衛、西脇順三郎、安西冬衛、村野四郎などの詩集は1940年代に刊行されていた。それらを東京から送ってもらっていたのである。
 初版詩集のコレクションも、謄写版の学級日誌も同人誌も手元に残していない。あるのは高校文芸部で正式にまとめられた詩のアンソロジー『愛宕』(固苦しい誌名は学校がある場所の名)だけである。掌におさまるほどの小さな本だがシャレている。部長の小峯昇先生のデザインだったのか。先生は教室では英語を教えておられたが作家でもあり、芥川賞候補になられたこともある。このアンソロジーには詩を寄せられている。あとは部員生徒たちの作品。

001詩集『愛宕』
発行日:1953年9月20日
著者:愛宕詩人同人
発行所:小倉高等学校文芸部
81ページ
15.1×10.3cm


 現代詩を書く高校生はまだ少なかった頃で、小峯先生が部員を自宅に招いて下さったり国語の長野先生も興味をもたれて話しかけられてきた。長野先生にはまちのレストランで紅茶とケーキを御馳走になったが、いかつい風貌の先生とふたりきりの座では緊張のあまり紅茶のカップをソーサーにぶつけてその顫える音がいつまでも止まず困ったことがある。こういうヒイキって今の学校でもあるんだろうか。でも『愛宕』に載っている私の作品はどんな言いわけもできないくらいひどい。好きな詩人のスタイルをただコピーしている、それだけ。ちょっと変わった生徒にたいして甘かったとしか言いようがない。
 授業を受けたかったのにうちのクラスには来てもえらえなかった数学の中村先生に声をかけられたことがある。「君、詩を書くのに数学は不可欠だよ」。大学受験をバカにしていたのか、その報いで1年目は見事に落ちた。
うえだ まこと

●今日のお勧め作品は、植田実です。
20180629_ueda_84_hashima_14植田実
《端島複合体》(14)
1974年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
40.4×26.9cm
Ed.5  サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


●植田実のエッセイ「本との関係」は毎月29日の更新です。

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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映画『蝶の眠り』からの住宅論

映画『蝶の眠り』からの住宅論

植田実


 映画のなかに現れる建築や都市が虚構をめざすとき、あちこちの建築や都市の断片をつなぎ合わせ、ときにはセットを加えて現実から逃げようとしているのが面白い。あるいはよく知られた街にいっさい手を加えないままに、例えばサンフランシスコの街なかで実際にはあり得ない激しいカーチェイスの一部始終を撮影するとき、坂の起伏だけを身体接触でたどる街に切り替えられて、サンフランシスコは虚構になる。あるいは違反に向かう速度が外科手術的に摘出した、サンフランシスコの真実になる。テリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』ではパリ郊外の集合住宅「アブラクサス」の屋内通路にやはり破壊的なカーチェイスが挿入される時、ふだんは子どもたちが遊んでいる安全な場所が見知らぬ都市空間に移植される。リドリー・スコットの『ブレードランナー』ではロサンジェルスの歴史的建築の玄関側ファサードをつくり変え、館内の床を水浸しにするだけで本来の建築が奪い去られて、見知らぬ建築が居坐っている。
 そのような作品がいくつかあるというのではなく、すべての映画のなかで建築と都市がウソとホントとのあいだを行ったり来たりしている。物語られる全プロセスが眼に見えるようにつくられる、それが映画の宿命でありエンタテイメントにもなっている。気楽に見ているテレビ・ドラマでも、外観は超高層の企業本社ビルや贅をつくした政治家の邸宅の、一歩屋内に入ればあきらかに別のところで撮ったにちがいないエントランスロビーや応接間との辻褄あわせが楽しい。まさに物語のなかの建築になっているのだ。

 今年三月に試写会で見せてもらった『蝶の眠り』は素晴らしかった。映画のなかの建築が否応なく虚構と現実とに向き合わされるというより、以前からよく知っていたつもりの建築が映画の視線によって思いがけない読まれ方をしている。そこを実際に訪れたという信頼できるはずの体験、図面やスティル写真を中心としたメディアでの再現がいかにも狭く弱く思えてしまう。ただの動画も同じである。物語をつくる映画だけに可能な建築の解読、それを『蝶の眠り』は示唆していると思ったのだ。
 主人公の小説家(中山美穂)の住まいでも仕事場でもある建築がそれで、建築家の阿部勤さんの、現在はひとり住まいの自邸を、居抜きじゃないが生活していた状態をほとんどそのままに阿部さんから明け渡してもらって、あとはたぶん監督(チョン・ジェウン)の判断で家の内外にあるもの、家具その他の道具類から書物までを見繕いながら撮影したように思われる。1974年の竣工時の取材から始めて私は何度か訪ねているので、映画のなかには見覚えのある椅子や壁に架けられた絵の気配が濃く残っていて、けれどもそこには阿部さんはいわば住んでいない。つまり物語というトンネルを抜けて懐しく親しい家を訪ねている。
 肝心のその物語の流れは忘れてしまって申しわけないのだが、女性小説家は街で偶々知りあった韓国人留学生(キム・ジュウク)に自分の仕事を手伝ってもらうことになる。彼は手に障害がある彼女の口述筆記役をつとめ、あるときは愛犬散歩係を引き受ける。現実の阿部邸は東京西郊の緑が多い美しい住宅地の一画にある。1階は鉄筋コンクリート造。その上に木造の2階が載る建物だが、まさにその家の前から犬を連れた青年は歩き出す。すぐ広々とした公園のなかを歩いている。背後に超高層建築軍が迫っている。新宿中央公園らしい。所沢と新宿と、ふたつの場所の縫い合わせはごく自然である。と同時に不可解な隔たりもちゃんと残されている。それは家そのものがまとっている雰囲気、設計する側からすれば、ある独自の構成のせいだ。

 ここからがじつは本論、あるいは結論というとおおげさだけど、言いたかったことのまとめである。私には、家の本来の在り方としてその土地に繋ぎとめられ土地の顔になっているなどという、つねに変わらぬ住宅論の息苦しさがこの映画作品によって窓を思い切り開け放ったように消えていくのに気がついた。青年と犬のあとを追って家が、建っている場所から辷り出していくような動きを感じたのだ。
 この家の例えば配置図を見るといい。住宅地のなかの十字路に面した4つの敷地に4軒が建ち、その1軒が阿部邸なのだが、この家だけ敷地に約30度斜めに振られている。家の正面が十字路の中心に向き、しかも塀も生垣もない三角形の空地をつくり出して建っている。もし他の3軒も同じように家を斜めに振り塀をやめて配置したら十字路は広場に変わるだろうが、1軒がそのようにしただけでも住宅地の風景が一新されたことがすぐ分かる。
 阿部邸はこれまで、私有地を閉ざさず公共空間に連続させていると評価されてきた。けれども映画を見ると向こう三軒両隣にだけ貢献しているのではない。この建築自体の特性として、はるか遠くにまで辷り出していくような、移動するような性格を帯びていることがわかってくる。配置だけでない。平断面計画の至るところに同じ特性が見られる。これ以上詳しい説明は省くが、映画はそこをじつに的確に描写している。それは阿部さんが手がけたほかの建築にも通じている特性なのだ。いつも旅へ誘っているかのような。
 小説家には厖大な蔵書がある。作家別あるいは項目別に書棚に並べてあるが彼女はその全体を把握しきってしまっているために目をつむったままでも目的の本を取り出すことができ、逆にそれで悩んでいる。本を新しく読むことができないのだ。青年は蔵書全部を並べ替える。内容に関係なく背表紙の色に則して揃えてゆく。結果は虹のように色調が移り変わる美しい書棚になり、内容は脈絡がつかない。アナーキーな整理法で蔵書を「新生」させたのだ。
 これ、阿部さんの設計手法と思いがけないところでつながっている気がする。これから考えたいことだ。小説家の家はその後は住まい手がさらに増えたかのように、変わって街の小さな図書館になっていた。
(うえだまこと

【メイン】蝶の眠り
5月12日(土)、角川シネマ新宿ほか全国ロードショー
配給:KADOKAWA

small16-07-2416-07-24-0003阿部勤さん自邸。玄関ホールから見る左はアプローチ、右は屋内

small16-08-0416-08-04-0010阿部勤さん自邸。正面外観

*東京都内での上映は6月17日(日)までですが、そのほかの地域では上映中、もしくはこれから上映する予定です。詳しくは公式サイト『蝶の眠り』をご覧くださいませ。
*ときの忘れものの新米スタッフによる「中心のある家」阿部勤邸訪問記もお読みいただければ幸いです。

関根伸夫展
会場:銀座・ギャラリーせいほう
会期:2018年6月18日[月]―6月29日[金] ※日曜休廊
さきほど(16日午前10時)関根先生から「ロサンゼルスから無事帰国した」との電話をいただきました。
初日18日(月)17時より関根伸夫先生を囲みオープニングを開催します。皆様のご来場をお待ちしています。

関根伸夫展_Gせいほう_案内状


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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植田実〜本との関係 第3回『アンジェロ・マンジャロッティ 1955-64』

植田実のエッセイ「本との関係」

第3回『アンジェロ・マンジャロッティ 1955-64』


 建築系の編集者として最初につくらせてもらった単行本は『アンジェロ・マンジャロッティ/ANGELO MANGIAROTTI 1955−64』である。月刊誌「建築」の編集作業だけでも手一杯だったのに、無謀な企画をひとりで勝手に起こし、ミラノのマンジャロッティに手紙を出して資料を送ってくれるよう依頼してしまった。当時の編集部では私がいちばん下っ端だったから誰かに手伝ってもらうつもりもなかったし、そのために雑誌の仕事を軽減してもらうのも嫌だった。まもなく資料や作品集としての方向づけの指示が良い頃合いでミラノから送られてきたのに、肝心の東京では一向に進まない。

01『アンジェロ・マンジャロッティ 1955-64』
1965年5月1日
青銅社 発行
企画・製作:植田実
140ページ
26.0×26.0cm
和・伊・英文
表紙:ハードカバーにジャケット、ケースつき


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 月刊「建築」の創刊は1960年9月号である。その翌年には海外の建築家に直接依頼状を送り、写真、図面、テキストを送ってもらい、掲載号とともに資料を返却するというやり方を覚えて、建築家の選定と手紙のやりとりを私が担当することになった。フィリップ・ジョンソン、エーロ・サーリネン、ジオ・ポンティ、オスヴァルト・マティアス・ウンゲルス、ピエル・ルイジ・ネルヴィ、アトリエ・ファイヴ、ミース・ファン・デル・ローエなどの建築を紹介している。ジョンソンやネルヴィは1号分のほぼ全ページに及ぶ大特集にまでなっている。
 そのなかでマンジャロッティも「建築」特集号の1冊に当てれば、作業を先輩たちが手助けしてくれるし、誰かに建築家論を書いたり話したりしてもらって誌面を盛りあげることもできたはず。なぜ単行本という、未経験で苦難の道に踏みこんでしまったのか。この本につきまとっている記憶ときたら後悔ばかりだったのだが、今回書くにあたって、あらためてゆっくりページをめくりながら思い出してみると、たぶん単行本でしかマンジャロッティの仕事は紹介できないという気持ちに強くとらわれていたのだ。
 アンジェロ・マンジャロッティ(1921-2012)は1960年代の日本ではその名を知る人は少なかったと思う。いまでもあまり変わりないかもしれない。当時はミラノで出されていた、編集長ジオ・ポンティによる建築・デザイン誌「ドムス domus」でよく紹介されていたマンジャロッティの仕事は、工場や教会や集合住宅などの建築も、時計や花器や棚などのプロダクトも同じように、とても明快、しかし幾何学的な表現に頼るというよりは自然の形態にむしろ近い。たとえば樹木や貝殻を連想するような。といって自然造形の表現主義に傾くことなく、可愛らしいとでも言うべき性格を感じさせながら透明度の高いモダニズムを貫徹させていた。
 建築と家具と什器のデザインのなかに同じ精神が、手法を切りかえたりすることがないかのように循環している。同じような傾向が見られるイタリアの建築家たちのなかで、達者という以上にピュアな一貫性をもっとも強く見せているマンジャロッティには雑誌の特集は似合わない。そこから切り離され自立したメディアが必要で、単行本なら余計なデザイン要素を払拭して成り立つ。本文も表紙も判形も、彼のデザインに等しいようにつくりたい。そのように考えての決断、いや盲進だったにちがいない。
 そのころ、ひとりの若い建築家が私に会いに青山の編集室に訪ねて来た。彼はこれからマンジャロッティのアトリエでしばらく働くことになったが、日本を発つ前に植田という編集者に会って作品集の進捗状況をきいてきてほしいとマンジャロッティに頼まれたのだった。ほどほどの言い訳をしたが、私にとってはタイミングよい催促でもあった。その後はさらに必死に作業してなんとか本を完成させることができた。おまけにその若い建築家、藤井博巳とは以来ペンパルになって最新のヨーロッパの建築情報とそれについての彼の考えに接することになる。藤井さんはミラノで数年働いたあと、ロンドンのアリソン&ピーター・スミッソンの建築事務所に移り、帰日してそのまま自分のアトリエを開設して、現在まで独自の建築作家として国内よりむしろ海外での評価が高く、展覧会に出品することも多い。私にとっても個人的な付き合いがとくに長く続いている建築家である。

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 この作品集がマンジャロッティに届けられた時点では私は本人に会っていないし、彼の建築を実際に見てもいない。大体からして海外に出るのは「建築」から退いて「都市住宅」を創刊してからである。そんな状態で本や雑誌をつくるのは当たり前の時代で、自分の生涯にヨーロッパを訪ねる可能性が果してあるのか分からぬままに彼の地の建築に夢中になっていたのだ。ずっとあと、マンジャロッティ来日の機会にやっと会えて握手して、それでお終い。彼を歓迎する建築家たちの会で三輪正弘さんが「これは世界で最初につくられたマンジャロッティさんの作品集です」と紹介して下さった。さらにずっとあと、「デザインの現場」2006年2月号(美術出版社)のブックデザイン特集号でもクローズアップされ、「それまで彼の仕事を断片的に見てはいたが、この本によって知った全貌はあまりにも衝撃的だった」とコメントを寄せたデザイナーの川上元美さんは、作品集刊行の翌年から約3年間をマンジャロッティのもとで過ごすことになる。それ以後も彼のアトリエには日本人スタッフが次々と引き継がれるようにつねに存在していたという。作品集の奥付に記されている協力者、河原一郎、田島学、藤井博巳は、その先達である。
うえだ まこと

●今日のお勧め作品は、植田実です。
20180529_ueda_77_hashima_07植田実
《端島複合体》(7)
1974年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
26.9×40.4cm
Ed.5
サインあり


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆ときの忘れものは「没後70年 松本竣介展」を開催しています。
会期:2018年5月8日[火]―6月2日[土]
11:00-19:00  ※日・月・祝日休廊

ときの忘れものは生誕100年だった2012年に初めて「松本竣介展」を前期・後期にわけて開催しました。あれから6年、このたびは小規模ですが「没後70年 松本竣介展」を開催します。本展では素描約16点をご覧いただきます。
201804MATSUMOTO_DM


「没後70年 松本竣介展」出品作品を順次ご紹介します
15出品No.8)
松本竣介
《作品》

紙にペン
Image size: 20.5x29.5cm
Sheet size: 22.7x30.3cm


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●本展の図録を刊行しました
MATSUMOTO_catalogue『没後70年 松本竣介展』
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 
テキスト:大谷省吾(東京国立近代美術館美術課長)
作品図版:16点
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
税込800円 ※送料別途250円


◆植田実のエッセイ「本との関係」は毎月29日の更新です。

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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2018年から営業時間を19時まで延長します。
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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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植田実のエッセイ「本との関係」第2回

植田実のエッセイ「本との関係」

第2回 『関根伸夫』


 今年に入ってすぐ、埼玉県立近代美術館で「版画の景色――現代版画センターの軌跡」のタイトルでとてもユニークな回顧展があった。これについてはすでに同じこのブログに書いた(2018.3.4付)ので繰り返さないが、270点あまりの展示作品のなかでとりわけ懐かしく見たのは関根伸夫のコーナーで、20点ほどの版画がある。その前に出現した、彼の代表作といわれる≪大地―位相≫(1968)は私にとって、当時それだけでは現代アート状況のどこに位置づけできるかよく分からなかったのだが、この版画センターのエディション作品がじつに雄弁でチャーミングな解説になっていたのだ。
 例えば≪絵空事―鳥居≫(1975)がある。
 2本の赤鉛筆を左右の手でそれぞれ垂直に握ったその上にもう一本、水平にのせて鳥居に見立てている。背景は海の水平線と雲ひとつない青空。その強く明快な形と色彩、同時に次の瞬間には危うく崩れてしまうような面白い発想は他の彫刻・環境作品にダイレクトに通じている。これを迷うことなく購入したのが、私にとってはじめてのアート体験になる。次いでずっと前から1点だけでいいからと念願していた駒井哲郎の版画もその勢いで綿貫不二夫さんから譲ってもらった。≪森の中の空地(小)≫(1970)を前に置いて、それまでの所蔵者その他の作品由来を綿貫さんが荘重に述べるのを神妙に聞いていた。そんな嬉しい儀式もあった時代に、版画センターに出入りしていた、ゆりあぺむぺるの主宰、北川フラムさんから、関根伸夫作品集の編集を依頼されたのだった。

01『関根伸夫』
1978年
ゆりあぺむぺる 発行
120ページ(見返しを含む)
26.0×25.0cm
表紙ソフトカバーにビニールジャケット付き


07関根伸夫
《Project-石の風景》
※A版(限定250部)に収録


 今、この本を見直すと何とも不思議な作品集だ。ブッキラボーで即物的。序文も作家論も作家の言葉も、あらためて書かれてはいない。表紙をめくると前見返しから本文の大きさいっぱいの写真(すなわち三方截ちの)が何の説明もなく始まり延々と続く。デッサンや図面も同じ扱いである。まず作家が大地から円筒状に土の層を掘り抜いている。作業は進み、例の≪大地―位相≫の完成写真にいたる。それに続くディテール写真には「関根伸夫」のサインが重ねられて、動きのなかの扉ページ。映画みたいな構成ともいえるが、その後に他の彫刻や油土によるエスキスなどの写真が原則的に同じ三方截ちでひたすら続く。
 本の前半部はこのように紙の白地を排するかのように画像を拡大している。モノそのものを押し出そうとしている。対して後半部は一転して余白と版面(はんづら)までのモデュールを見せるように構成されている。全345点の作品図版とデータがカタログレゾネ風に収録されたページだ。編年体で13期に分けられたそれらの作品と併せて、その時期の年譜、新聞や雑誌での紹介記事、作家のコメントなどがコラージュされている。13に分けられた各時代の作家活動の特性を要約する「仏像・鉱物」「消去」「位相・大地」「水・油土」などのキーワードで章立てされているがその題字を関根さんに書いてもらった。ときにはスケッチから文字が発芽したかのような書の姿が素晴らしかった。
 関根さんとフラムさんと3人で、アイデアを出したり、関根さんに字を書いてもらったり、また前の見返しは一面小石に覆われたどこかの河原、後見返しは同じ小石河原に関根さんの彫刻がいくつか顔を出しているといった漠然としたイメージだけでフラムさんに写真撮影の手筈を整えてもらったり、いや誰が案を出し、誰が受けたか分からないほどに即興的編集だった気がするが、まわり道もせず迷わず1冊の本にたどりつくことができたのは、関根さんの仕事がそれだけ明確だったからだ。

02『関根伸夫』前見返し


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 表紙は、白いマット紙の中央に「関根伸夫」の明朝活字、その真下に小さく「Nobuo Sekine 1968-78」が同じグレーのインクで刷られ、タイトル上部にやや重なるかたちで「n. sekine」と墨でサインが入っている。じつは当初の意図とは少し違った。活字のタイトルに完全に重ねて、ローマ字ではなく同じ大きさの漢字で関根伸夫と墨でサインが入ることになっていた。「版画の景色」展でも出品されていた、≪おちるリンゴ≫(1975)などを参照すれば、この表紙の意図が分かるだろう。だが実際に刷り上ってきたタイトルロゴが指定以上に濃かったために、活字から書き文字が「おちる」視覚効果が出ない。その場で関根さんが工夫して今の体裁に修正してくれたのだが、表紙の真ん中にいきなりサイン、という面白さはちゃんと残されている。
 本や雑誌の形式をまず整える要素は、なるべく取っ払ってしまう。それは私の編集癖なのかもしれない。フラムさんの義兄である、建築家の原広司さんが、編集者の名を見なくても誰がつくった本かすぐ分かったよと言ったらしい。褒めことばのようで実はこれから先のマンネリを戒められたのかもしれない。
うえだ まこと

*画廊亭主敬白
植田実先生の本についてのエッセイ、当初はホームページに以前掲載したものの再録のつもりだったのですが、さすが(というか予想外のことでしたが)植田先生、全面的に書き直しされてしまいました。申し訳ないやら、嬉しいやら、ぜひホームページの文章と読み比べてください。お気づきでしょうが以前は三人称(九曜明)で「関根伸夫」編集の経緯を書かれていますが、今回書き直しにあたり一人称に切り替えています。
〜〜〜
ボブ・ウィロビー写真展〜オードリー&マリリン@ときの忘れもの(2018/04/25)
今日の夕方はときの忘れものに。現在開催されているのはボブ・ウィロビーの写真展。ハリウッド映画のメイキングをフリー写真家として撮影してきた人で、全盛期には『ライフ』や『ヴォーグ』などの有名雑誌に彼の写真が載らない週はなかったそう。
今回展示されているのはオードリー・ヘップバーンとマリリン・モンローの写真。多くの写真が「あ、どこかで見たことがある」と感じさせるもので、本当に彼女らのパブリックイメージを形作った作品がずらりと並んでいる様は圧巻。
今回の展示には作家が生前にプリントしたオリジナルプリントと、ここ5年ほどの間にオリジナルのネガからプリントし直されたエステートプリントとの、2種類の作品が並んでいる。こので「いやオリジナルプリントの方が味がある」と言えばアートに含蓄があるっぽく聞こえるけど、僕はエステートプリントの方に心が惹かれた。オリジナルプリントは経年変化で緩い印象が出てきているんだけど(もちろんそれが「味」なのだが)、エステートプリントは息を呑むような艶めかしさだけではなく、大女優と巨匠写真家が向かい合う緊張感がしっかり伝わってくる。会津八一の「あせたるを ひとはよしとうびんばくはの ほとけのくちは もゆべきものを」という歌を思い出した。

林光一郎さんのブログ)より>
おかげさまでボブ・ウィロビー写真展は大盛況のうちに昨日終了しました。今回も予想外の売り上げで、早速アメリカのご遺族に追加注文を出しました。お買い上げいただいたお客様には少々納品が遅れますが心より御礼を申し上げます。
どこでお知りになったのか初めてのお客様が続々と来られるのには正直驚きました。青山時代の芳名簿は一冊で二三ヶ月はもったのですが、駒込に来てからは二週間で一杯になります。住所は圧倒的に「文京区」、ご近所の皆さんが多い! 道で挨拶されることもしばしばで、これじゃあ悪いこともできませんね。

●本日4月29日(日)から連休となりますが、ときの忘れものはカレンダー通りの営業となります。
4月29日(日)、30日(月)は休廊
5月1日(火)、2日(水)は普段通り営業します。
5月3日(木・祝日)〜7日(火)は休廊

●本日のお勧め作品は、安藤忠雄です。
ando_mizu安藤忠雄
「水の劇場」
オフセットリトグラフにドローイング
イメージサイズ:99.4×69.5cm
シートサイズ:102.5×72.4cm
サインあり


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は随時更新します。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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