瑛九について

駒込Las Casasより、瑛九の初期フォトデッサン

7月7日の七夕にお披露目した新生ときの忘れものですが、青山時代とはまったく異なるコンクリート打ち放し空間に作品をどう展示するか、四苦八苦しました。
その成果やいかに。「移転記念コレクション展」から、順次出品作品をご紹介してまいります。
先ずは、ときの忘れもの最重要作家である瑛九です。

qei_photodessin-hukituke瑛九
作品名不詳
フォトデッサン+吹き付け
23.0×38.3cm
裏に《瑛九作 都》と記載あり

qei17-007瑛九
《作品》
1936年
フォトデッサンに着彩
25.2×30.5cm

qei17-005瑛九
《作品》
1936〜39年頃
フォトデッサン
30.3×25.2cm
裏面に自筆サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

瑛九をどういう場所に展示したかといいますと、
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ドアを開けるとエントランスホール、右から北郷悟のテラコッタ、舟越直木のブロンズ、尾形一郎・優の大型写真作品

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圧巻の尾形作品を見ながら、階段を二階に上っていただきます

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左手に見えるのがお客様専用の「図書室」です。

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図書室にあるこの壁面、200平米もある建物の中で自由に釘を打てるのはここだけです(トホホ)。展示スタッフの苦衷をお察しください。
左から松本竣介(2点)、オノサト・トシノブ、そして瑛九のフォトデッサン2点。ブルーのテーブルに見覚えのある方は初代青山の一軒家時代からのお客様です。


日本人の油絵信仰(タブロー信仰)はわが敬愛する瑛九にまで及んでいます。
日本の美術市場においては、先ず油彩点描(晩年の作品)へ高い評価が与えられ、サムホールの小品でも500万円近い価格になることもしばしばです。

しかるに瑛九の印画紙作品(フォトデッサン、吹き付け、コラージュなど)となると、まるで評価が低い。
20世紀は映像の時代であったことを疑う人はいないでしょう。
瑛九が1930年代からなしたことを思えば、マン・レイたち先行者と伍して堂々と渡り合える(それも膨大な)印画紙作品を生涯にわたりつくり続けたことは特筆に価いします。
ときの忘れものは瑛九で始まり、瑛九で食っている画廊でありますが、ここ数年の動きを見ると、フォトデッサンの名品はことごとく海外の美術館、コレクター、写真ギャラリーに買われています。
それをよく知っているのは全国の学芸員たちでしょう。
某美術館の学芸員が、「このままじゃあ瑛九の重要なフォトデッサンがみんな海外に行ってしまいますね」と嘆いたのもむべなるかな。
上掲3点をネットで紹介すると問い合わせがあったのはほとんど海外からです。

海外のスターたちの作品をん十億円でお買いになるのも、もちろん素晴らしいことではありますが、せめてその何分の一かをもって自国の作家たちへの敬意を表してくれないものでしょうか。

移転記念コレクション展
会期:2017年7月8日(土)〜7月29日(土) 11:00〜18:00 ※日・月・祝日休廊
※靴を脱いでお上がりいただきますので、予めご了承ください。
※駐車場はありませんので、近くのコインパーキングをご利用ください。
201707_komagome
出品作家:関根伸夫、北郷悟、舟越直木、小林泰彦、常松大純、柳原義達、葉栗剛、湯村光、瑛九、松本竣介、瀧口修造、オノサト・トシノブ、植田正治、秋葉シスイ、光嶋裕介、野口琢郎、アンディ・ウォーホル、草間彌生、宮脇愛子、難波田龍起、尾形一郎・優、他

ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

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JR及び南北線の駒込駅南口から約10分、名勝六義園の正門からほど近く、東洋文庫から直ぐの場所です。

中村茉貴〜宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて 特別篇 2

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第19回
宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて


ちょっと寄道….特別篇 2

「美術館に瑛九を観に行く」の執筆依頼があったとき、愉しみな反面、「瑛九」にかんする記事を私に書けるかどうか不安があった。瑛九を展覧会で扱う学芸員をはじめ、瑛九のコレクター、瑛九に関心をもつ研究者、瑛九と親交のあった方、はたまた瑛九にそれほど関心がない方、さまざまな立場の方の眼に触れることを想定すると、ストレートな内容を書くだけでは面白みがない。そのような考えが頭をよぎって、展覧会レポートに+αとして「ちょっと寄道…」を加えた。その「寄道」が今回も大幅な「寄道」になってしまい、返ってお叱りをうけてしまうのではないかと思いながら、前回に引き続き瑛九が生まれ育った街について、かつて瑛九の(エスペラント語の)教え子であった鈴木素直氏の案内や山田光春『瑛九―評伝と作品』(青龍洞、1976年)を頼りにお届けしたい。なお、今回も宮崎県の銘菓「金城堂」の包装紙に使用されていた地図「宮崎市街図」とGoogleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」を参照しながらご一読願いたい。
https://drive.google.com/open?id=1cUFoWwqKUy8CARQBsUp2qtNQtuM&usp=sharing

特別篇_07作者不明「宮崎市街図」出版社不明、1930年頃
地図が制作された年代は昭和5年頃であり、解説と表記が異なることもある。
※下記、括弧内のページ番号は出典先『瑛九―評伝と作品』の掲載頁を表す。
※アルファベットは、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」と対応している。


L.宮崎尋常高等小学校[現宮崎市立宮崎小学校](pp.47-49他)
特別篇_08現在の宮崎小学校。手前に古い門柱が残る。

山田光春は『瑛九―評伝と作品』(以下、「評伝」と表記する)に、瑛九こと杉田秀夫の小学校在学時について次のように書いている。「一九一八(大正七)年の四月一日、秀夫は直に付き添われて宮崎尋常高等小学校(現宮崎小学校)に入学した。(中略)彼は幼稚園には行かず、この時はじめて集団生活を経験することになったのだから、そこに大きな抵抗を感じたのは、自然な成り行きであった。そのため、毎朝彼を学校に送り出すことは栄にとっての大きな苦労となって、坂本という気丈な看護婦が彼を押し出すようにして玄関から送り出すと、栄は急いで二階に上り、無事に行ってくれるようにと念じながら、カーテンの陰にかくれて、薩摩屋という家具屋の角を曲って姿が見えなくなるまで見送ったものだったという。しかし、そうしてほっとするのもつかの間で、学校から帰りを迎えるのがまた大変であった。」
文中にあった家具店「薩摩屋」は、杉田眼科から左に向かい、一つ目の角を右にまっすぐ進むと右手にある。地図上には示さなかったが、前回の上半分の「宮崎市街図」に「サツマヤ家具店」と表記された場所を確認する事ができる。

M.安楽寺・馬車(p.40、p.51-53)
安楽寺の裏手には、馬車乗り場があり、1914(大正3)年6月家族総出で馬車に揺られて青島へ出かけたことがあった。日豊線が鹿児島まで全通する1916(大正5)年頃まで、大淀川を渡って青島方面に行くには馬車を利用していた。1915(大正4)年母雪が病のため死去したことから、秀夫にとってはこの一日限りの小旅行が印象強く残っていたという。
また、小学5年生のときの秀夫は、毎日のように安楽寺へ訪れ、仏具(如意)に関心を示していた。住職の弘中慧見と秀夫は親しい仲になり、秀夫は住職から「サブ」と呼ばれ、住職は「ロマ」と呼んでいた。安楽寺という場所は、彼にとって日常から非日常へと放たれるところであったのかもしれない。

N.宮崎県立図書館(p.308、p.322、p.339)
特別篇_09宮崎県立図書館子供室入口(焼失)

現在は、宮崎県立美術館と同じ「宮崎総合文化公園」にあるが、旧県立図書館は、1915年に県庁の近くに建てられた。1950年には宮崎県立宮崎図書館から宮崎県立図書館に改称したことが切っ掛けとなり、1951年に帰郷した瑛九のもとに図書館の内装に関わる大きな仕事が待っていた。このことについて、評伝より以下に抜粋する。「宮崎に帰った瑛九は制作に打ちこむ傍で改装中の県立図書館の子供室入口の周囲に、館長中村地平の依頼による壁画を描いた。海と子供をテーマにしたその壁画は、この舘がその年の六月に開館されて以来長く子供たちに親しまれたが、惜しくも一九五九(昭和三四)年四月に同館が全焼した時、その建物と運命を共にしてしまった」ちなみに、壁画完成後から火事で焼ける前まで、図書館では下記の通り瑛九の展覧会が度々開催されていた。

1951年8月16〜20日「瑛九画伯個人展」
1952年3月21〜24日「瑛九画伯個展」
1955年4月21〜25日「瑛九個展」
1957年6月〜3日「瑛九近作個展」

1951年に行われた瑛九の展覧会では、油彩とフォト・デッサンに加え、エッチングが出品される。そのとき目録が発行され、そこに添えられたエッチングにかける瑛九の想いを振り返ってみたい。「創作版画というと日本では木版画を意味しますが、ヨーロッパやアメリカではエッチングと石版画が画家自身の手になる版画として愛されています。レンブラントはじめほとんど偉大な画家たちがエッチングを手掛けていますが、日本では単なる技術としてもてあそばれていて、すぐれた作家も一、二にすぎません。/日本が、浮世絵の為に世界の版画国と思われながら、日本の現代画家たちの手になるエッチングや石版がないのは残念です。僕も長年の版画への夢を最近実現しはじめた所です。僕のエッチングが鑑賞の手引きとなり、そして多数のエッチング愛好者を見出す事が出来たらうれしく思います。」(評伝より「個展目録『瑛九氏の言葉』」)
猪突猛進するタイプのように見えて、実は冷静に機を待っていたことが瑛九の発言から見て取れる。瑛九は国内外の美術動向の中で自分の立ち位置を俯瞰し、次にステップアップする方法として「エッチング」に取り組んでいる。

O.教育会館(pp.307-308)
特別篇_101950年2月11〜14日に教育会館で行われた「瑛九作品展」の展示会場。右から瑛九、都夫人、兄正臣である。
このときの出品作は、油絵92点、フォト・デッサン7点(うち着彩2点)、フォト・コラージュ2点、デッサン2点、水彩4点、合計107点にも及ぶ大個展であった。


特別篇_111945年頃の教育会館の外観写真である。教育会館は、昭和7年頃教員と県民の有志の資金援助で建てられた。正面玄関の二階部分に丸窓があるモダンな建物で、戦災を免れるも2000年に入って老朽化のため解体された。


P.宮崎商工会議所(pp.314-315)
旧商工会議所は大淀川沿いにあった。瑛九は商工会議所でも展覧会を開催している。評伝を紐解くと、1951年1月に本所において35点のフォト・デッサンを出陳したとあり、個展はたいへん盛会で半数が売約された。また、本展で瑛九の熱狂的なサラリーマンのファンが表れた。今まで全く芸術に関心の無かった人物であったが、瑛九の芸術論に心を奪われ、アトリエに毎日のように通った。古代から現代まで展開された瑛九の美術談話を彼はノートに取った。話は夜の1時2時過ぎまで続いたのにもかかわらず、翌朝アトリエに出かけると、真っ白だったキャンバスが作品に変わっていたという。彼は瑛九が魔法使いではないかと疑ったようだ。瑛九の講義ノートが明るめに出ることを願いたい…

Q.日房(p.99)
山田光春は、瑛九と知り合った直後、どのような親交を結んでいたのか、次のように述懐している。当時の瑛九と山田が戯れた地を転々と示していることから、少し長くなるが引用する。
「宮崎の地で秀夫という、唯一の友人をもつことになったぼくは、その後は土曜の午後になると急いでバスに乗って宮崎に生き、橘通りの停留所から郡司家に「ヒデチャンいますか?」と電話するようになった。電話嫌いの彼の電話口での応対はそっけなかったが、間もなくそこへやって来て、それから日曜の夜までのぼくらの生活が始まるのだった。よく橘橋の袂にあった日房というレストランの二階へ上って、霧島連峰や大淀川の静かな流れを眺めながらビールで気炎をあげたもので、それからは大淀川の堤の上を歩いたり、街に戻って古本屋をのぞいたり、時には映画を見たりして、結局は郡司家の彼の部屋にたどりついて夜遅くまで話したのであって、翌日もまた近郊を歩いたり、彼の画質に集って来る若者たちと語り、夜になって妻に帰るのだった。」(※「妻」は宮崎市から北に約30km離れたところにある地名。山田の赴任先の宮崎県児湯郡妻尋常高等小学校があった)
なお、日房があった場所は、現在宮崎市役所になっている。

R.橘橋(p.96他)
特別篇_12現在の橘橋から望む大淀川風景

鈴木氏、佐々木学芸員(県立美術館)、祝迫学芸員(都城市立美術館)に瑛九ゆかりの地を質問したとき、必ず出てきた場所が「橘橋」であった。評伝でも度々出てくる「大淀川」に掛かる橋で、宮崎市街と都城市・鹿児島方面を結んでいる。瑛九は、宮崎を訪れた友人を橘橋の袂に広がっている河原によく連れて行ったようだ。
評伝の中でひときわ目を引く橘橋にまつわるエピソードがある。1934年青島からの帰り道、大淀駅(現南宮崎駅)で下車して橘橋を渡る時であった。秀夫は、「これから四つんばいでどこまで行けるか競争しよう」と従妹や甥っ子に声を掛けて競走しはじめた。子供たちは恥ずかしさから早々に止めても、必死で続ける秀夫の異様な姿に周囲は心底心配したという。
秀夫はこの時期、作品制作を通じて経験を積み上げ、画家として生きる決心を固めていた。ところが、憧れの三岸好太郎を訪ねようとした矢先に、他界した事実を突きつけられ、ショックを受けている。この橘橋での一件は、何であっても「納得するまで、最後までやり抜きたい」という思いからこのような行動に至ったと想像する。

S.青島・海水浴場(p.95、p.207、p.246)
海水浴場のある青島へ行くのが杉田家の恒例行事であり、静養目的で赴くこともしばしばあった。1934年橘橋の一件と合わせて語られているのが青島でのエピソードである。秀夫は生魚を頭から食べはじめ、周囲を驚かせた他、肩まで海の波が押し寄せても座禅を組み続け、鬱積した気持ちをコントロール出来ずにいた。しかし、こうした中でも常に周りから支えられているところをみると、彼は本当に恵まれていると思う。
青島の風景は、実際に瑛九が描いた場所のひとつである。(生誕100年記念瑛九展図録「瑛九油彩画カタログレゾネ」No.38《青島の海》1940年)

T.宮崎農林高等学校(pp.98、99他)
現在の宮崎県総合文化公園(美術館、図書館、芸術劇場)がある敷地に本校は存在した。外観については、都城市立美術館を取材した第14回でも紹介した絵葉書のとおり、かなり洒落た洋風建築であった。
瑛九と親交のあった北尾淳一郎(1896-1973)は本校の教授であった。北尾は元々東京帝国大学農学部で動物学(昆虫)を専攻し、東京農工大学の学長も務めた人物である。瑛九は本校の美術展に出品されていた北尾の写真を見たことが切っ掛けで親しくなる。北尾は、宮崎の風景を被写体にした写真を発表していた。また、北尾が収集したレコードを聴くために、瑛九は度々農林高等学校の官舎に訪れていた。

U.宮崎県宮崎大宮高等学校 [旧宮崎県立宮崎中学校](p.78、p.297、pp.302-303他)
特別篇_13現在の大宮高校前

1924(大正13)年4月瑛九は宮崎県立中学校に入学するが、翌年春には退学している。この場所は、後に大宮高校となった場所で、瑛九はエスペラント語の指導者として本校に訪れていた。評伝には、画家の瑛九とは別の顔をのぞかせている場面を、次のように説明している。「彼はその頃、宮崎エスペラント会の機関誌が戦争のために廃刊されていたのを復刊するために、自ら原稿を書き、編集にも当たって、「LAGOJO」(よろこび)として刊行したが、これも日本人の精神を回復するための一つとして行ったのであろう。彼もまた、湯浅と佐藤が発足させた大宮高校エス語同好会を援助し、講演会を開いて後輩を指導した。同好会の機関誌「Studento en Nova Sento」(新時代の学生)の一号には、その第一回初等講習会の講師が瑛九と都であって、十名が参加したことなどが報道され、彼の筆によって、次のようにその指導法の一端が紹介されている《会話をなるべくエス語でやろう(中略)》(’50・11・5 Studento en Nova Sento 一号)」/このようにエス語習得の心構えを説いた言葉によって、勝れた啓蒙家であり教育者であったといわれる瑛九の一面を垣間見ることができるであろう。ところで大宮高校エス語同好会は翌年交友会の一つの部として認められ、三年生になった湯浅と佐藤との指導による第二回初等講習会には、実に百二十名を超す受講者が集まるまでに成長し、瑛九の直接の指導からは離れていった。」
先に挙げた1950年に教育会館で行われた瑛九の展覧会については、開催日前日にこの当時の大宮高校エスペラント部員の手によって作品が運び込まれ、陳列されたようだ。

V.宮崎県立宮崎大淀高等学校(現宮崎県立宮崎工業高等学校)(p.290)
妹杉子の結婚相手となった栗田恒雄は、大淀高校の教師をしており、彼の推薦から瑛九は本校でエスペラントを教えていたこともあった。なんと、丸島住宅へ引っ越しするときには、大淀高校のエス語の弟子たちがリヤカーを曳いて手伝ったという。ここでも瑛九は慕われた存在であったことが伺える。

W.宮崎神宮(p.43、p.61、p.177、pp.290-291他)
宮崎神宮を取り囲む森林の中には宮崎県総合博物館があり、宮崎県立美術館も近いため、ぜひ足を伸ばしてほしい場所である。神宮は地元では「神武さま」と呼ばれ親しまれているところで、瑛九もまたよく参拝していたところである。評伝には1939年に瑛九が宮崎神宮の社務所で神官と話している様子を郡司盛男が写真に撮ったと書かれている。この頃、眼鏡をはずし、袴にステッキというスタイルでいた瑛九は、生母の墓前や宮崎神宮で静座をしたり、詩を吟じたりして毎日過ごしていたようだ。
また、1949年谷口都を妻として迎えたときにも宮崎神宮へ参拝している。評伝の中で紹介された父直の日記には、簡潔にこう記されている。「九月五日 晴 神宮参拝 秀夫ノ結婚式ヲ行フ 谷口長太氏及婿児玉氏同道来駕タクシー送迎ヲナス 午後五時来リ七時共晩餐辞セリ」とある。なお、この時、杉田家の座敷で挙げた結婚式では、杉田家と谷口家の近親者のみが参列し、モンペ姿の花嫁に仕事着の花婿が三々九度の盃を交わした。そして、義父となる直から都は、次のことを告げられた。「あなたが、抱いている爆弾がいつ爆発するかわからないような秀夫と結婚して下さることは父親として心からうれしく、深く感謝いたします。しかし、秀夫は普通の者とはちがって芸術に進むという大きな問題をもっていますので、いつかは一緒にやって行けない時が来るかも知れません。もしもそんな時が来たならば、いつでもかまいませんから別れて下さい。私からそのことをこの席で特にお願いしておきます」このような優しくも厳しい言葉を都はずっと心に閉まって、瑛九とは最期まで片時も離れなかった。そして、未亡人となっても再婚することなく、先日106歳の誕生日を迎えたという。

X.岡山公園[現平和台公園](pp.171-172)
以前、第2回のアーツ前橋への取材でこの場所については取り挙げたことがあるが、評伝の中でも気に入っている場面のため、改めて下記に抜粋する。岡山公園は宮崎市を一望できる北尾淳一郎一押しの場所である。「午前中に瑛九兄弟と太佐との四人でフミタ写真館で記念撮影をして、午後には北尾の案内で岡山公園へ出かけた。平和公園となった今日では観光客で賑っているそこも、当時は訪れる人とてない小松林の平凡な小山に過ぎなかった。しかし、そこから宮崎平野を望む眺めは北尾が推奨するだけのことはあって、崇高さすら感じさせる壮麗なものであった。われわれが枯草の上に腰をおろして、その広濶な風景にみとれている間に姿を消した瑛九がいつまで待っても戻ってこないので不安になって探しにいったところ、彼はくさむらの茂みのかげにうづくまって、涙で顔をくちゃくちゃにして泣いていた。彼は風景の美しさに感極まって嗚咽していたのである」その後、北尾の書斎では瑛九を慰めるようにバッハのレコードがかけられていた。なんとも言い難い不思議な時間であったと想像する。

話が横道にそれてしまうが、この場面について気にかかってならなかったのは、このとき日名子実三《平和の塔(八紘之基柱)》が既にあったのか、無かったのか、である。公に出ている年号からたどれば、本作は紀元二千六百年記念の事業の一環として1939(昭和14)年5月に着工され、1940(昭和15)年11月には完成している。公園の近所にある宮崎神宮が神武天皇を祀っていることから記念事業が行われるのは、当然と言えば当然で、瑛九らが観に行った当時(1938年1月)は、着工の一年前で既に計画が発表されていたことが予想される。本書には一切この彫刻に触れていないが、瑛九はこの計画を既に知っていた可能性が高い。というのは、次のページには「その翌朝、油絵作品のすべてが片づけられた瑛九の部屋の壁に、『日の丸の 旗はためく 日本の風景』と毛筆で書かれた半紙の貼られていたのを見た」とあるからだ。瑛九は《平和の塔》が建立されることを知っており、ただ宮崎平野の風景に感激したわけではなく、変わりつつある未来の風景を見据えて涙を流していたのだろう。このような鋭敏な感覚の持主であったからこそ、瑛九は表現者として成功することになった。

特別篇_14現在の平和台公園。


特別篇_15エスペラント部の生徒と写る瑛九。1950年頃か。《平和の塔》に続く階段横で撮影されたことが分かる。


Y.宮崎大学(p.316、p.296)
宮崎大学で教鞭を執っていた塩月桃甫(1886- 1954、本名:善吉)について、評伝の中で次のように紹介されている。「桃甫は宮崎市外三財村の出身で東京美術学校卒業後台湾に渡って台湾美術展を創設し、それから三十年間を台湾美術振興のために力を尽くした人物である。敗戦後は宮崎に帰って宮崎大学で後進の指導に当り、瑛九はこの人を宮崎における唯一人の信頼できる先輩画家であるとして次のように言っている。/《宮崎で僕は一人の信頼する老画家を発見してよろこんでゐます。(中略)生活のケウイ〔脅威〕さえなければ、僕も宮崎にゐても、塩月氏がおる以上芸術上はさびしくないような気もしてゐます。しかし生活は仲々つらいし、内職はないので上京をけいかくしたのです。塩月氏としたしくなったのもごくさいきんなのです》(’49・11・?山田宛)」瑛九は、塩月の生活態度や啓蒙活動に強い関心を示していたようだ。
また、瑛九は宮崎大学からの依頼で「バイト」をしていた。いわゆる「仕事」が出来なかった瑛九が「バイト」と呼ぶのは、肖像画を描く事で、安中前宮崎県知事と甲斐善平前宮崎県会議長をモデルにした作品制作のことである。しかし、彼は湯浅英夫への書簡の中で「ぼくは食うために写真を見て肖像を描くといういやな仕事を今日までしなければならなかった」と訴えている。不服そうな顔をして筆を持つ瑛九の姿が目に浮かぶが、どこかほほえましくもある。

Z.宮崎駅(pp.99-100他)
瑛九は勤め人ではないが、当時としたらかなり列車を利用していると思う。車中でどのように過ごしていたか、書いている一文があるため紹介する。「その朝ぼくが広瀬から乗り込んで行った列車に、宮崎駅で写生用具を持って乗ってきた彼は、その頃毎晩のように見るという三十円の月給取になった夢について語り出し、鹿児島につくまでの四時間程の車中をしゃべり続けた」

特別篇_16宮崎駅で列車を待つ瑛九


特別篇_17戦時中に空襲で焼失した後に建てられた宮崎駅の駅舎。昭和30年代に撮影されたもので、この頃にも丸々と成長した特徴的なフェニックスがある。


a.一ッ葉浜(pp.50-51、p.207他)
特別篇_18一ッ葉浜の風景。2011年鈴木素直氏に案内していただいたときに撮影した。評伝に度々出てくるのは、宮崎市街地から一番近い海辺だからである。評伝によると、「秀夫が何時はじめて一ッ葉浜へ行ったのか明らかではないけれども、直の日記に見える限りでは、彼が二年生の夏休みを迎えた七月二十七日に、“正臣秀夫良氏一ッ葉浜へ行く”とあるのが最初になっている」と書かれ、その後も母や姉妹、学校からの遠足で一ッ葉浜へ行っているとある。

b.料亭「松月」(p.210)
評伝によると、1939年に北尾淳一郎は、「宮崎に帰ってきた瑛九を誘って一つ葉に遊び、入江に臨んだ料亭「松月」で一風呂浴びた後ぼら料理で酒を酌み交わしながら芸術談に時を忘れた」という。今はこの場所に「PILAW」というナポリピザの店がある。

c.住吉神社(p.49)
宮崎県の住吉神社は、日向住吉(旧二郎ケ別府)駅から東へ約2卆茲砲△襦I湘舛任盻撒反声劼何度か出てきており、最初に訪れたのは、秀夫が小学1年生になって間もない頃、3人の姉と継母栄と共に神社へ参詣している。

d.宮崎競馬場[現宮崎育成牧場](p.43)
父直の親友岡峰寅二郎がこの場所の近くで開業医(岡峰医院)をしていた。この野外広場では、簡易的な活動写真(映画)の上映会や飛行機のショーなどの巡業があった。小学生の秀夫は二階の窓からその様子を見物していたようだ。

e.富松良夫宅(p.100)
1929(昭和4)年に詩人富松良夫(1903-1954年、宮崎県出身)は26歳のときに自宅敷地内に絵画グループ「白陽会」のアトリエを建てる。瑛九が彼を訪ねて行ったときには、アトリエに転がり込んだと推測できる。瑛九は熊本滞在中に「大阪」という店などでビールを飲み、絵具の購入費に手持ちのお金をつぎ込んでしまう。豪遊の末、お金に困り借金をしようと良夫の所へ行ったこともあった。なお、このとき彼らは言い出せずに再び宿泊先に戻っている。

f.杉田家の墓
特別篇_19杉田家の墓に佇む兄正臣


特別篇_20現在の杉田家の墓(下原墓地)近くに郡司家の墓もある。
鈴木素直氏によるとこのモノクロ写真に掲載されている墓地と現在ある墓地は場所が異なるという。以前は、「宮崎市街図」下半分の左端(西側)辺りに掲載されている「墓地」に杉田家の墓があった。
その他、具体的な場所は特定できなかったが宮崎県内の瑛九ゆかりの地を以下に列挙する。また、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」には今回、掲載しきれなかったが、評伝に出てくる場所としてg〜nのマークをした。

◆画材店「王様」(pp.24-25)
図画教師中心に活動が展開されていた「宮崎美術協会」の創立総会は、この場所で行われていた。山田光春が宮崎の地を踏んで間もない頃、本総会に参加した。山田は1934(昭和9)年東京美術学校図画師範科を卒業し、赴任した先は知らない土地で知らない顔ばかり、このとき心細さは計り知れず「宮崎に来て、ピカソについて語り合う友達のいないことは淋しい」などと訴えていた。総会終了後、青年杉田秀夫(瑛九)が山田に声を掛けたことから、2人の親交がはじまっている。残念なことにこの画材店は、調査不足で確認できなかった。瑛九が画材を調達していたことも考えられるため、いずれ明らかにしたいと思う。

◆大潮社(p.202)
1939年6月9日〜12日「瑛九・杉田秀夫個人展覧会」が開かれる大掛かりな展示だったようである。宮崎市内にあるよう。

◆民芸店「杉」(年譜)
1968年に開催された遺作展では、県立図書館を第一会場とし、この場所を第二会場として活用していた。

◆うどん屋(p.305他)
評伝には「うどん屋」が何回か出てきている。海老原喜之助が宮崎に来た時にも案内している。気になる一行を紹介したい。「海老原は翌年の四月にも宮崎に来た機会に瑛九を激励し、瑛九の作品をもっているうどん屋などへ出かけて、瑛九が大へんお世話になっているそうですが、どうか今後もよろしくお願いします、と挨拶して廻り、デパートに寄って、彼を顧問に招聘するようにと話をして帰ったのだった。」
この「うどん屋」は県内でも老舗の「山盛りうどん」という話を宮崎滞在中に伺った。評伝では確認できなかった。

◆野尻村(pp.255-274)
1945年5月から終戦を迎えるまで疎開していた場所。このとき瑛九は筆ではなくペンを執り小説を書いた。または、書物を読みレコードを聴き、夕方は散歩をする毎日だったようだ。

以上で宮崎県内における瑛九のゆかりの地の調査報告は、いったん終了としたい。私が住む街である埼玉のことも同じように調査したいが、埼玉時代のことについては、評伝から確認できるところが非常に少ない。島崎清海氏からもっと話を伺いたかったと後悔の念が沸き上がるばかりである。ともあれ、埼玉・東京における瑛九の活動場所も少しずつ突き止めていきたいと思う。
今回の記事は、何よりも鈴木素直氏が現地で同行してくださったおかげで、机上で見ていた瑛九の活動場所を立体的に理解することができた。この場を借りて感謝を申し上げたい。なお、後になってご家族から知らされたことだが、私が調査に伺ったときに鈴木氏はかなり体に無理をされていたようである。しかし、迎えてくれた鈴木氏の「瑛九のことを伝えたい」という熱心な思いに背を向けて引き返す気持ちにはなれず、甘えてしまった。その後、体調が優れないようで心配である。一刻も早く回復することを祈っている。

最後に鈴木素直氏が瑛九の「現実について」(『アトリヱ』14巻6号、1937年)を読んで書かれたことをご紹介したい。

「最も時代的な精神はすぐれた知性をもつものと最も単純な生活とにあり」ミルクホールのおかみさんや散髪屋の親方の実話をあげながら、「単純な生活人は知性の実体を無意識な生き方の中で感得している」と述べている。そして「芸術家が単純な生活人の感得だけではすまされないのは、彼には表現しなければならぬ一事があるからだ」と言う。

たとえば、さきの大淀川、一ツ葉浜、宮崎高農など、県民に親しまれ瑛九が愛したものの様相や変容を、私たちは最も時代的な精神でとらえているだろうか。表現しなければならぬ芸術家は現実をどう描いているのだろうか。時の流れを傍観していいはずがない。


参考図版:
「宮崎市街図」1930年頃
杉田正臣編著『瑛九抄』杉田眼科内「根」、1980年
鈴木素直『瑛九・鈔』鉱脈社、1980年
宮崎日日新聞社編『写真集 宮崎100年』宮崎日日新聞社、1982年
野口逸三郎、富永嘉久編『写真集 明治大正昭和 宮崎』国書刊行会、1986年
山田光春『瑛九―評伝と作品』青龍洞、1976年

なかむら まき

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20170513_qei_159瑛九
《子供》
フォトデッサン
25.2×18.9cm

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五十殿利治『非常時のモダニズム 一九三〇年代帝国日本の美術』

新刊の拙著『非常時のモダニズム 一九三〇年代帝国日本の美術』について

五十殿利治


20170514五十殿利治
非常時のモダニズム 1930年代帝国日本の美術
2017年
東京大学出版会 発行
576ページ 21.8x15.8cm
価格:税込7992円/本体7400円


 本書は2008年同じ書肆(東京大学出版会)から上梓した『観衆の成立 美術雑誌・美術展・美術史』以来の単著である。つまり10年をかけて、ようよう一冊をものした。しかも、定年退職の月に、である。
 冒頭から懺悔のようで面目がないが、校正が終わり、著者の手を離れてしまうと、本を手にする喜びは束の間で、むしろ到らなかった点があれこれと浮かび上がってくる。表紙に掲載された個人蔵の瑛九作品をはじめ、資料の入手などで長らく世話になっている画廊主の求めに応じたものの、拙著についてなにかを書くとならば、こうして弁解気味になってしまうのだが、そもそも手前勝手の目論見では、2011年に還暦を目安にして一冊、そして2017年に退職に際して一冊と、皮算用をしていたが、ものの見事に目算が外れたという次第である。既発表の論文をまとめるものでさえ、この始末。それだけ知的な生産力が貧弱であるという以外に、説明のしようがない。
 実際に、本書に収録された一章には、初出が1996年、つまり20年以上も前に発表した論文に基づくものがある。筆者としては、それだけこだわりのあるテーマであると弁解したいところだが、単に自分の拘泥だけでまとめるという誹りを受けるかもしれない。
 当然のことだが、すべて初出がそのまま掲載されたものはない。個々の論文の対象や発表時期の相異による問題意識の溝を埋めるため、互いに関連づけるように配慮しつつ、管見で限りはあるが、近年の研究成果を盛り込むように努めた。
 そうした作業の中で気づいた、というよりも励まされたのは、何よりも先行研究であったことはいくら強調してもしたりない。
 一つは、すでに定評のある研究である。たとえば、田中淳氏の一連の仕事、特に『「絵画」の成熟 1930年代の日本画と洋画』展(東京国立近代美術館、1994年)であり、あるいは山田諭氏による日本のシュルレアリスムの基礎研究(「日本のシュールレアリスム:1925−1945」、名古屋市美術館、1990年)である(ちなみに、CiNiiで検索してみると本カタログは全国の大学図書館9館で所蔵されるだけである。嘆かわしい)。いずれも、現在でも、これを凌駕したと思わせるように説得力のある提案、あるいは手元におく事典的な業績はないといえば極論だろうか。とはいえ、新潟県立近代美術館の澤田佳三氏による企画「昭和の美術 1945年まで <目的芸術>の軌跡 」(2005年)、また速水豊氏による企画「昭和モダン 絵画と文学 1926-1936」展(兵庫県美術館、2013年)の貢献は評価したい。

20170513『絵画の成熟 1930年代の日本画と洋画』展図録
東京国立近代美術館 1994年

20170506『日本のシュールレアリスム:1925−1945』展図録
名古屋市美術館 1990年

 一方、昨年になって、この時代に関わる意欲的な、しかも浩瀚な著作がつぎつぎに上梓されて、地道な調査研究が一気に開花したような現象が見られた。
 一つは、大谷省吾の660頁の大著『激動期のアヴァンギャルド: シュルレアリスムと日本の絵画一九二八―一九五三』(国書刊行会)であり、またこれも600頁に近い黒沢義輝『日本のシュルレアリスムという思考野』(明文書房)である。一昨年に上梓された山口泰二の500頁ちかい『変動期の画家』(美術運動史研究会)も加えることができよう。この三著もさることながら、三者には資料面、論考面等でも負うところが大であった。また山口にはしばしば『美術運動史研究会ニュース』にわがままな寄稿をお願いした。この場を借りて、改めて謝意を表したい。
校正が出始めたころに、山田光春の瑛九評伝を裏付ける資料、すなわち大谷による瑛九書簡の翻刻と注解が公刊された(「瑛九 1935−1937 闇の中で「レアル」をさがす」展、東京国立近代美術館、2017年、113−147頁)。その一方、本書には登場しないスターであるが、神奈川県立近代美術館別館での「松本竣介 創造の原点」展(2016年10月)では、《画家の像》と同じ二科展(1942年)に出品された《小児像》の絵葉書が展示された。これほど繰り返し回顧展が催され、美術書・美術全集等で定番の画家でも、なお新出資料の発掘があることに驚かされた。

201606大谷省吾大谷省吾
『激動期のアヴァンギャルド シュルレアリスムと日本の絵画 一九二八−一九五三』

2016年 国書刊行会
著者からのメッセージ

 こうした高度な先行研究に加えて『非常時のモダニズム 一九三〇年代帝国日本の美術』を出版し、世に問う理由とはなにか。読んでいただくに限るといいたいが、とにかく私にはこの問いに答える義務があるように思われる。
 これまでの研究歴でいえば、本書はこの10年間の集大成である。共編著では、2003年からこれまで1930年代に関わる論集を三冊上梓していることもあり、その延長線上にある。ただし、この三論集に掲載した文章はいずれも再録してはいない。もっとも、それ以外の書籍に収録されてあるもので再掲した論文はある。ひとつは巴里東京新興美術展についてのもの、そして英文日本美術年鑑についてのものである。大幅な加筆を加えて、初出とは資料面でも、論点の整理でも、一歩進めてあるけれども、なお論集として編む理由として十分ではないかもしれない。
 では、なにを求めたのか。すでに1930年代美術を論じる視点として提出した「モダニズム/ナショナリズム」、「クラシック モダン」、そして「対外美術戦略」に加えて、さらにそれを包括するような議論の場を用意するということである。その結果として、脳裏に浮かんだのが、この10年間を覆うような、ある意味で融通がきく語が「非常時」であった。なぜなら、それは美術界に限らずに、広く通用していたからだ。大陸に派遣される従軍画家、聖戦美術展といった動向とシンクロする1930年代の美術現象を形容する語としては腑に落ちるところがあろう。その一方で、昨今の政治状況、日本に限らず、世界的にもみても、この語は予期せぬ残響を残しそうだ。
しかし、人間の暮らしは、最前線の戦場にも日常的な時間が流れるときがあるのと同じように、常に非常時にあるということがないことも明白である。美術現象にも同様にして、非常時を体現するものがあり、また非日常的な枠内で日常的なものが生起する。その一例として、雲岡石窟の観光に注目した。もともとは、柳瀬正夢や長谷川三郎が絵筆ではなく、カメラを手にして雲岡石窟を訪れたことを問題にしていた。とくに長谷川については藪前知子による議論(「抽象絵画の沈黙――長谷川三郎における「古典」と「前衛」」、『クラシック モダン 1930年代日本の芸術』所収、せりか書房、2005年)に啓発されたのだが、異なる視点で考察するようになった。
日中戦争開戦時から、ほどなくして1937年9月日本軍が進出してすぐにも遺跡保護が始まるが、やがてバスが開通するなど、観光地化が進展する。たまたま古書で入手した架蔵の案内書には、石仏についての細かいメモが記されているとともに、見返しには、「山西大同雲岡石仏古寺」や「石仏古寺」の印とともに「16.6.30」の日付のある「青島 中華航空株式会社」の丸スタンプが押されている。むろん、入手した当初は、スタンプなど見過ごしていたというより、鉛筆の書き込みのような資料的な価値と無縁な夾雑物と思っていたのだが、改稿するなかで、再考をうながされた。
こうしたツーリズムの視点については、ケネス・ルオフ著『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』(朝日選書、2010年)に大いに啓発されたし、同書はまた瑛九が30年代の宮崎においておかれた状況を考え直す契機ともなった。現平和公園に聳え立つ日名子実三の《八紘之基柱》と、彷徨期を迎える瑛九のフォト・デッサンが同存すること、それはなるほど大都市ならば理解できなくはないだろう。だが、紀元二六〇〇年記念で高揚する宮崎県。宮崎神宮があり、肇国神話の舞台となる地となれば、大都会とは事情が違い、そうした高揚感が横溢する周囲から瑛九という個人を単純に切り離せないだろう。この時期、瑛九の盟友であった北尾淳一郎が、1937年銀座の画廊「ブリュッケ」における二人展のあと、宮崎での美術活動について雑誌『アトリヱ』に寄せた一文のタイトルに「聖都、宮崎市」を掲げたことは雄弁な証拠である。
なお、瑛九について、ひとつ訂正が必要な記述がある。拙著第七章で瑛九が「海外超現実主義作品展」を見たことが判明していると述べているが(294頁)、これについての疑問を識者から指摘された。なるほど、この時期、瑛九が宮崎から同展が開催された東京、京都、大阪、名古屋、福井へ行ったという確たる文献資料等がなく、私の勘違いであった。この場をかりて、訂正させていただきたい。

ところで、論文という体裁で執筆するので、書くこと自体があまり楽しみということはないのだが、それでも、第4章「シベリア横断の画家と小説家によるパリ美術生活案内」については調べること自体が、自分がちょうどツーリストとして旅をするような気分が高揚したところがあったといえばおおげさだろうか。
林芙美子のことは『マヴォ』に寄稿している詩人で、マヴォイストの周辺にいた小説家として、『砂漠の花』の平林たい子と同じように特別な関心を抱いて、「放浪記」を熱心に読んだことがあるが、そうした関心をさらにシベリア旅行の考察へと導いたのは、拙著でも述べたとおり、森まゆみの『女三人のシベリア鉄道』(集英社、2003年)であり、また同著者によって脚色された劇化され、劇団銅鑼の公演(俳優座劇場、2014年3月)であった。著者は若いころ断念したシベリア鉄道旅行を実行することを執筆動機のひとつに挙げているが、いまひとつ、旅によって「女三人」が変貌を遂げたことにも触れている。
「とにかくこの旅をへて、みな人生を変えた。与謝野晶子は夫を選び直し、宮本百合子は思想を選び直し、林芙美子は恋人を選び直した。」(森まゆみ「旅へ、旅へ、うずく心――自分の本を脚本にして」、公演パンフレット「劇団銅鑼No.45 女三人のシベリア鉄道」、2014年3月)。
旅が人を変える、それはたしかに魅力的なテーマだ。
一方、ずっと以前のことだが、第一次世界大戦中にモスクワに滞在した山本鼎について論じたこともあって、日ソ国交が樹立した後に、シベリア鉄道旅行の往路復路で乗換のためにモスクワに立ち寄った美術家が、美術館を訪問してどんな感想を抱いたかということも以前から興味があったので、管見の限りで、考察をまとめることにした。
林芙美子については、幸いなことに、すでに今川英子による委細を尽くした先行研究『巴里の恋―巴里の小遣ひ帳、一九三二年の日記、夫への手紙』(中央公論新社、2001年)があり、モスクワでの乗換と市内観光について触れ、また私にとっては主役級の林芙美子と島村三七雄に対するところの、貴重なバイプレーヤーである顔水龍、そして平山昌(子)を見出すことができた。顔水龍は戦前の美術学校で学び、戦後故郷の台湾で活躍した作家であり、2011年台北市立美術館での回顧展「走進公衆・美化台湾」を企画した中央研究院の顔娟英から貴重な示唆を得ることができた。あいにく後者については、本画廊主が編纂した『資生堂ギャラリー七十五年史』(資生堂企業文化部、1994年)に収録した経歴以上は、いまだ十分に人物を把握できていない(なお、顔娟英から、顔水龍の回想として平山昌に言及した未発表の会見記の一部を提供されたが、画家の遺族との連絡がとれず、今後の課題とした)。また川崎賢子『彼等の昭和―長谷川海太郎・潾二郎・濬・四郎』(白水社、1994年)の潾二郎が登場するとは思いもよらないことであった。
林芙美子の経験したパリは不況にあえぎ、画廊が激減したパリであった。芙美子の交友圏には画家がしばしば登場するとはいえ、そして「シュール」の言及もあるとはいえ、彼女自身は前衛的な傾向とはすれ違ったままのパリの街を下駄で歩き回ったのだった。たとえば、美術ジャーナリストの松尾邦之助とは交流したのであるから、岡本太郎と出会ってもおかしくはないといえばおかしくはない。だが、灰色の色調による具象画で知られるピエール・ラプラードを愛好する林芙美子にかりに出会ったとしても、その当時の岡本はまだピカソ作品に衝撃を受けて間もない時期であった。やがて1936年ベルリン・オリンピックの取材のために訪れる横光利一を、あのアドルフ・ロース設計のトリスタン・ツァラ邸に引き連れていくほどに、パリの美術界での知己を得てはいなかった。
林芙美子のパリは、それでも、まさに美術生活という語がぴたりと当てはまる。到着したパリ北駅での出迎えの一人は画家別府貫一郎であった。当時同地の在住日本人では画家が圧倒的な多数派であったから、当然といえば当然であったのだが、それでも、林の日記や書簡では、先述の美術ジャーナリスト松尾のほか、画家では青山義雄、建築家白井晟一、美術史家今泉篤男、と狭いコミュニティーならではだが、著名となる人物がつぎつぎと登場するのである。林芙美子とともに、パリの美術生活を楽しみたくなるというものだろう。

東京大学出版会編集者によれば、前著『観衆の成立』は毎年、着実に購入されている由である。じつは日本のダダについての長文を収めた共編著Eastern Dada Orbit(G.K. Hall, 1998)も僅か数部であるが、毎年、米国の出版社からその旨の連絡が来る。研究書とはそういうものだと、えらそうなことはいえない。前述で誤記を訂正したばかりだ。それでも『非常時のモダニズム』も息の長い研究書となればと念願している。
おむか としはる

『非常時のモダニズム 一九三〇年代帝国日本の美術』目次:
序章
第一部 帝国の美術戦略
第一章
もうひとつの「日本美術年鑑」と対外文化宣伝
— The Year Book of Japanese Art (『英文日本美術年鑑』)について
1 番付から年鑑へー美術の社会化と歴史意識
2 二つの美術年鑑
3 国際連盟協会学芸協力委員会と美術界
4 The Yearbook of Japanese Art (『英文日本美術年鑑』)の刊行
5 Introductionと日本美術界紹介
6 主要展覧会の紹介と付録記事
7 まとめ

第二章
美の聖域と競技場(アリーナ)
ー一九三六年べルリン・オリンピック美術展について
1 芸術競技初参加ーロサンゼルス大会、一九三二年
2 べルリン大会ー準備から展示まで
3 べルリン大会が終わって

第三章
日中戦争期における雲岡石窟と日本人美術家
ー柳瀬正夢と長谷川三郎を中心に
1 遺跡と観光
2 観光地としての雲岡石窟
3 雲岡石窟ブーム
4 雲岡石窟の記述ー専門書と一般書
5 モダニストの中国旅行と写真への関与
6 柳瀬正夢の雲岡行ーカメラを手にした画家の視線
7 帰国後の写真の展示公開ー雑誌と展覧会
8「女」と「こども」と「平民」の世界ーツーリストの視線
9 長谷川三郎と雲岡石窟
10 写真との出会い、嘆九との出会い
11 第一回自由美術家協会展と写真
12 雲岡石窟の評価と写真作品
13 中国旅行後の「前衛」なる「閑人」
  結語に代えて
補遺 美術関係の一つの記録写真ー大陸とモダニストのカメラ

第二部 越境するモダニスト

第四章  
シべリア横断の画家と小説家によるパリ美術生活案内
ー島村三七雄と林芙美子
1 シべリア鉄道の旅
2 林芙美子のパリ美術生活
3 パリの日本人社会と林芙美子ー顔水龍と平山昌

第五章
モダニズムの展示
ー巴里新興美術展をめぐって
1 企面過程—第三形而同盟から巴里・東京新興美術同盟へ
2 展覧会開催—会期、会場、出品目録、出品作品
3 反響と余波
4 モダニズムの展示

第六章
岡本太郎とスイス・コネクション
ーネオ=コンクレティスムと一九三〇年代の「総合」の芸術
1 なぜスイス美術なのか
2 シュランデパンダン展と抽象創造協会への参加
3「稀有な若人」ー松尾邦之助そしてセリグマンとの出会いについて
4 交友圏の拡大と美術活動
5 ジャコフスキと岡本太郎
6 一九三五年ルツェルン美術館開催の「措定、反措定、止揚」展をめぐって
7「総合」の芸術
8 クールティヨンと『オカモト』ーネオ=コンクレティスムの位置づけ
9 おわりに

第七華
セリグマン来日と日本の「前衛」
1 セリグマン来日
2 セリグマン個展
3 ネオ=コンクレティスム
4 セリグマンの代弁者としての長谷川三郎
5 英九にとってのセリグマンーガラス絵の意味

第三部 帝都の展示空間 上野恩賜公園とモダン銀座街頭
第八章 
近代美術館から現代美術館へ
—美術館建築と「現代美術」
1 東京府美術館と美術館建築
2 美術館機能の改善
3 現代美術館か、近代美術館か
4 現代美術の「街頭展」ー現代美術館の小展示室

第九華 
一九三○年代東京における「街頭展」とモダニズムの新拠点
ー「ブリュッケ」と「日本サロン」にっいて
1 銀座の展示空間
2「新芸術の為の展示室」ー画廊「ブリュッヶ」
3「ブリュッケ」における展覧会
4 英九と北尾淳一郎の二人展にっいて%
5 ゲオルゲ・グロツス作品及文献展示会
6 「写真関係の建築」と海外超現実主義作品展—日本サロン
7 板垣鷹穂の紹介記事
8 日本サロンと「海外超現実主義作品展」の展示空間

第十章  
アマチュア写真から写真壁画まで
ーー板垣鷹穂と写真展月評という舞台『アサヒカメラ』一九三三~一九四ニ
1 写真展月評への姿勢ー局外者、学生、アマチュア
2 アマチョァ写真評とモダニズム批判
3 写真の社会性、カメラ報国、写真国策
4 展示、美術館、画廊
5 地方色と郷土芸術
6 日本的なるもの
7 ドイツと板垣月評
8 おわりに

■五十殿利治 Toshiharu OMUKA
1951年 生まれ。
1978年 早稲田大学大学院後期課程中退、北海道立近代美術館学芸員、筑波大学講師を経て、筑波大学芸術系教授。
主要編著書:
『大正期新興美術運動の研究』(スカイドア、1995年、毎日出版文化賞奨励賞)
Gerald Janecek(co-editor), The Eastern Dada Orbit: Russia, Georgia, Ukraine, Central Europe and Japan(G.K.Hall, 1998)
『日本のアヴァンギャルド芸術―〈マヴォ〉とその時代』(青土社、2001年)
『モダニズム/ナショナリズ―1930年代日本の芸術』(共編著、せりか書房、2003年)
『クラシック モダン―1930年代日本の芸術』(共編著、せりか書房、2004年)
『観衆の成立―美術展・美術雑誌・美術史』(東京大学出版会、2008年)
『「帝国」と美術―1930年代日本の対外美術戦略』(編著、2010年、国書刊行会)
『美術批評家著作選集』(監修、全21巻、2010年−2017年、ゆまに書房)

●今日のお勧めは、瑛九です。
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中村茉貴〜宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて 特別篇 1

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第18回
宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて


ちょっと寄道….特別篇 1

「美術館に瑛九を観に行く」の第14〜17回では、宮崎県立美術館と都城市立美術館で開催されていた展覧会の模様を紹介した。実はこちらの取材を進めながら、もう一つ並行して取り組んでいたことがあった。「瑛九の聖地巡礼」である。宮崎と云えば瑛九の出身地であることから、宮崎県に訪れたら、ぜひやりたいと長年胸に秘めていたことであった。とはいえ、宮崎の土地勘は全くない。情報不足で読み物に出来るか分からなかったが、生前瑛九と親交のあった宮崎在住の詩人鈴木素直氏の協力を得たことで、ぼんやりとしていた視野がクリアになった。そこで、表題のとおり「ちょっと寄道….特別篇」という枠を設けて、瑛九ゆかりの地を掘下げ、少しでも当時の空気感を届けることができたらと思う。

まず、現地へ行く前に私は『瑛九−評伝と作品』(青龍洞、1976年)から宮崎県に関する地名等をピックアップした。40年以上前に書かれた本書が現在の地名や建物(店舗)名と一致するかどうか、全く皆無に等しかったが、とりあえずめぼしいところを30カ所ほど列挙し、事前に鈴木素直氏と連絡をとった。

宮崎で鈴木氏に対面し、ひとつひとつ状況を伺ってみると、そのうちのほとんどが現存しない、あるいは遠隔地でとても今回のスケジュールではいけないという具合であった。しかし、その中でも瑛九の実家である杉田眼科、宮崎小学校、杉田家の墓標、郡司邸跡地などへは鈴木氏が車で案内できるということで、ガイドをお願いした。

以下には、鈴木氏の証言をもとに瑛九の実家や彼が通った場所を地図上で確認しながら、『瑛九―評伝と作品』に書かれた内容をいくつか参照したい。
参照先:「瑛九の聖地@宮崎」
https://drive.google.com/open?id=1cUFoWwqKUy8CARQBsUp2qtNQtuM&usp=sharing

特別篇_01杉田眼科医院および郡司邸(金城堂包装紙部分)
なお、こちらの画像は、宮崎の老舗銘菓「金城堂」の包装紙に印刷された地図「宮崎市街図」(出版社不明、昭和5年頃)の一部である。これを見ると中央部に横切る「南廣島通り三丁目」付近に「杉田眼科医院」があり、左中央部「南広島通り二丁目」沿いには、「郡司邸」とある。この地図入りの包装紙は、土産選びの最中に偶然見つけ、過去の地名を辿るのに大いに役立った。

特別篇_02「宮崎市街図」上半分・北側(出版社不明、昭和5年頃)
※地図が制作された年代は昭和5年頃であり、解説と表記が異なることもある。
※下記、括弧内のページ番号は出典先『瑛九―評伝と作品』の掲載頁を表す。
※アルファベットは、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」と対応している。


A. 杉田眼科[杉田眼科医院](p.28他)
特別篇_03現在の杉田眼科
瑛九こと杉田秀夫は宮崎県宮崎郡宮崎町大字上別府(現宮崎市橘通東3丁目)に生まれる。『瑛九―評伝と作品』(以下「評伝」)の中で紹介されている瑛九の父直の日記には1911年4月28日に「格別ノ陣痛ナク午後六時三十分男子分娩」と記録されている。杉田家の父直は俳人としての活動をする一方で眼科医院の院長をしていた。

B. 郡司邸(p.50、pp.90-91、pp.116-117、p.211他)
特別篇_04画像の中央にある石碑には、「西郷隆盛駐在之跡」とある。かつてこの地にあった民家に西郷隆盛が約2か月滞在したことを伝える。実は、この場所、杉田家の親戚にあたる郡司邸があったところだと鈴木氏から教えていただいた。「生誕100年記念 瑛九展」の巻末にある油彩画カタログレゾネをみるとNo.81《郡司家の庭》(1942年)という作品がある。

郡司家は代々由緒ある家系で「佐土原島津家の家老職」であった。杉田家とは元々つながりはなかったが、姉杉田君子が郡司良(浜田家から郡司家の嫡子となる)と結婚し、郡司家と深い付き合いを持つようになる。なお、その後の郡司家は、義兄の良を含む3人が相次いで他界したことから、1932(昭和7)年に秀夫は用心棒として郡司家に身を置くようになる。この時期、かなりの数の油絵を制作したようだが、現存するものは極わずかしか存在ない。

特別篇_05郡司家で行われた送別会(「生誕100年記念瑛九展」p.221)
郡司邸は、人を送り迎えする玄関口として度々使用されていた。画像は1940年3月16日に開かれた上京する北尾淳一郎(1896-1973)の送別会の様子である。広々とした洋風の内装が目を惹く。なお、1935年エスペラント特派使節として宮崎に来ていた久保貞次郎の歓迎会も郡司邸で行われ、瑛九はその折に久保と知り合いになった。瑛九は「弟の秀夫です」と久保にあいさつをし、画室でシュルレアリスムの話をしたようだ。


C. フミタ写真館(p.120)
杉田家の向かいにあったという写真館。残念ながら現存しない。こちらの館主は、瑛九に対し、たいへん協力的であったと伝えている。こちらの写真館がなければ、瑛九の「フォトデッサン」の傑作は生まれなかったかもしれない。評伝の中に書かれた内容をみると、古賀春江画集を見たあとに制作意欲が高まっていた瑛九は「フミタ写真館の暗室へ飛び込んで猛然と制作を開始した。この時杉子や盛男を助手に頼んだけれども、そこの館主府味田安彦もこれを応援し、薬品の調合などを手伝っただけでなく、時々はウィスキーのサービスもしたものだと語っている」とある。このとき制作されたのが、『眠りの理由』(10点1組)を含む百点にも及ぶフォトデッサン(印画紙による作品)であった。その後も瑛九は、フミタ写真舘の暗室を借りることがあったようだ。「生誕100年記念 瑛九展」の巻末にある油彩画カタログレゾネNo.57には、当館をモチーフにした《フミタ写真館》(1941年、45.4×33.7、宮崎県立美術館蔵)が掲載されている。

D. 知事官舎(p.110)
当時、知事官舎は郡司邸の隣りにあった。1935年瑛九は、知事官舎に滞在中の清水登之(1887-1945年、栃木県出身)に会うことになっていたようだが、上野で開かれた中央美術展を見てきた帰りで、非常に気が立っており、ついに会うことはなかった。山田宛の書簡には「清水にはアワン。大家などにはアワンことにするです。本をかって、そいつをよむです。ハチきれるゼツボウ感でキャンバスをタタこう。ゼツボウが出発だ。」と綴っている。
なお、知事官舎が近いためか《安中宮崎県知事》(1951年、宮崎大学所蔵、「生誕100年記念 瑛九展」レゾネNo.216)という作品がある。1945年宮崎県知事に就任した安中忠雄を描いた肖像画である。

E. 谷口外科医院[私立宮崎県立病院](p.252)
1944年5月瑛九は宮崎神宮で腹痛に襲われ、この病院で腸捻転の手術を受けている。このとき瑛九は、担当医のことを次のように書いている。「院長の谷口熊雄は宮崎県立病院の院長として九州大学から召聘され、後に谷口外科医院を創設したこの土地の名士であり、担当の南田弘は文学芸術に関心をもつ若い医師で、回診の際に彼のところで画集を見ながらしばらく話して行くようなこともしばしばあったという」
術後の回復は良好とはいえず、瑛九は再入院するが、そのときも瑛九は南田医師のことを書簡に書き記している。瑛九は、手術後一年は重いものも持たないようにと南田医師からは注意を受けていたが、院長は特に注意するようにとは口にしなかったために、特に用心しなかった。「医術は経験だけではない」と瑛九は感じたようだ。
病院があった場所は、現在みやざきアートセンターが建つ。

F. 八幡社[八幡神社、現宮崎八幡宮](p.38)
杉田家の氏神を祀る神社であり、秀夫誕生のお宮参りはこちらであったと父直の日記に綴られている。

G. 安心堂書店(p.172)
瑛九は父親譲りの無類の読書好きで、小学生の頃には読書に集中しすぎるあまり、教員に怒られるほどであった。「古本屋」は、評伝の中で度々目にするが、兄正臣の日記から家の近くの「安心堂」であることが分かる。

なお、地図上の水色部分は、それぞれ墓地、教会、映画館である。鈴木氏によれば、「墓地」と書かれた場所にかつて杉田家の墓があった。杉田家の向かいにある「教会」は絵のモチーフになった可能性があるためにマークした。また、瑛九は、しばしば映画館に通ったことが評伝で確認することができる。「大成座」が果たして馴染みのところだったか定かではないが、可能性のひとつとしてマークしておいた。なお、杉田眼科医院の横の通りを北に進むと現在山形屋があり、その場所に「ロマン座」という映画館もあった。

以下は、「宮崎市街図」から外れたところにある瑛九ゆかりの地である。杉田家からみて北側にある地で位置情報は、冒頭で示した「マイマップ」の方で確認してほしい。

H. 橘通りロータリー
特別篇_06橘通りロータリー 現橘通り三丁目付近(『写真集 宮崎100年』宮崎日日新聞社、1982年、p.371)
鈴木素直氏よるとかつて橘通りの交差点にあったロータリーに、瑛九はよく酔っぱらって大の字で寝ていたという。ちなみに評伝では居酒屋「真」や「巴」に瑛九が通っていたことを伝えている。(p.172)


I. ヒマワリ画廊(p.290)
特別篇_07従弟の鳥原茂之が宮崎市広島通りに画廊を設立する。記念すべき第一回は、杉田作郎(父直)の傘寿の祝いで「杉田作郎氏短冊色紙展」が行われる。収集した芭蕉、蕪村、一茶の他、親交のあった紅葉、子規、虚子、不折、芋銭など、著名な人物のものが展示された。画像は、今の画廊で、一階は画材店で二階は会場として利用している。

J. 西村楽器店(p.114、p.117、p.148)
記憶に新しい東京国立近代美術館の常設展で展示物の中に、「西村楽器店」の会場名が入った資料があった。評伝によると店主池田綱四郎のはからいにより、瑛九らは2階のスペースを会場として度々活用していた。まさにこの場所で「ふるさと社」の展示、および宮崎での初の瑛九個展(1936年6月12・13日)が開催された。また、エスペラント劇「ザメンホフの夕べ」もこちらで行われていた。

特別篇_08宮崎県立美術館の佐々木学芸員から伺って、店舗のあった橘通り西3丁目訪ね歩いた。今はコーヒーショップに変わってしまったが、白い建物内に入っている店舗の説明を見ると「ニシムラビル」とあった。楽器店はなくなってしまったわけではなく、宮崎市内清水1丁目と大淀川に渡った先の中村東3丁目に店舗が移った他、九州・四国へと拡大している。


K. 丸島住宅(p.290、p.300、p.304)
特別篇_09画像は、瑛九がエスペラントを教えていた宮崎大宮高校の生徒たちと写っている丸島住宅の様子。鈴木氏から提供いただいた。
瑛九は1948年谷口都と結婚し、丸島町の市営住宅に引っ越すが、まだ戦災後の復興中で適当なところは無く、画像のとおり木造のバラックであり、実家暮らしとは目に見えてかなりの落差があったよう。海老原喜之助が瑛九を訪ねた時について、評伝では以下のように書かれている。「海老原は須田〔国太郎〕に誘われるままに宮崎へ来たのであった。そして内田〔耕平〕から瑛九のいるところを聞くとすぐに案内をたのみ、途中で杉田家を見て丸島町の彼の家へ行った。杉田家の門前に立った海老原は中へ入ろうとはせず、〔中略〕都に「この世に人間はいくらでもいるけれども、本当の人間というものはまれにしかいないのだから、どうか瑛九を大切にしてください。よろしくお願いします」と、丁寧に頭を下げて頼んだ」
2人きりになった瑛九と妻都は、普段からエスペラント語で会話していたようだ。慎ましやかな暮らしであっても、実りの多い暮らしであったことが想像される。

今回は、美術館の作品鑑賞ではないが、瑛九の誕生・芸術家デビュー・上京・病気・結婚など、人生の節目節目を地図上の場所から辿ることが出来た。瑛九が生活した環境や体験場所を地図上から探ることで、作品が描かれた「地」がどういうところだったのか、どういう経験を経て作品が制作されたのか想像しやすくなった。具体的に主な制作地をあげると、実家の杉田家・郡司邸・フミタ写真館・丸島住宅であったが、評伝でこれらの場所を見ると、各地での経験が瑛九に様々なインスピレーションを与えていたことが伺い知れる。郡司家では油彩画制作に傾倒し、フミタ写真館で印画紙による作品(フォトデッサン)を作り、丸島住宅では妻都の姿を多く描いている。想像以上に「画家と場所」が密接な関係にあることに気付かされた。

まだまだ紹介したいことは山盛りあるが、果たしてまとめきれるだろうか…次回は、「宮崎市街図」南側を中心に瑛九の足跡をたどりたい。

なかむら まき

*20170504/21時5分画廊亭主より追伸
石原輝雄さんからコメントをいただきました(下記参照)。この原稿をつくるのにヘロヘロになった中村さん、連休はひっくりかえっていたらしいけれど、石原さんのコメントで元気回復したらしい。読んでくださる方あってこそのブログです。引き続きのご愛読をお願いします。

●今日のお勧め作品は瑛九のフォトデッサンです。
20150504_qei_140_work瑛九
「作品」
フォトデッサン
40.8x31.9cm


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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

瑛九誕生日に寄せて/梅津元「ガラスの光春 ― 瑛九の乱反射」

瑛九が生きていれば明日4月28日には106歳を迎えることになります。
浦和のアトリエはいまもあり、都夫人もご健在です。
瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(表)瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(裏)

東京国立近代美術館で昨年11月22日〜2017年2月12日の会期で「瑛九 1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」展が開催されました。
それに関連して先日、埼玉県立近代美術館の梅津元先生からお知らせをいただきましたので、ご紹介しましょう。

<東京国立近代美術館『現代の眼』(622号)に寄稿しました
少し前ですが、「瑛九 1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」のレビューを寄稿しました。
瑛九と山田光春の密接な交流に着目して、「ガラスの光春 ― 瑛九の乱反射」と題するテキストを書きました。

以下でPDFでもお読みいただけます。(p.10〜11)

http://www.momat.go.jp/ge/wp-content/uploads/sites/2/2017/02/622web_201702.pdf/

機会がありましたら、手に取り、お読みいただき、忌憚のないご意見・ご感想いただけましたら大変うれしく思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
梅津>

近美の企画担当者大谷省吾先生が「この展覧会の最大の収穫は梅津論文です」と激賞したように、画期的な論文です。
ぜひお読みください。

なき瑛九の106歳の誕生日を寿ぎ、都夫人のますますのご健勝を祈る次第です。
亭主は上記東京国立近代美術館の展覧会に合わせて2016年11月24日から最終日の2017年2月12日まで毎日<瑛九情報!>を発信しましたが、その総目次はコチラをご覧ください。
ときの忘れものは、今後も瑛九の顕彰紹介につとめてまいりますが、シリーズ企画「瑛九展」が一昨年の第26回展で中断したままです。この空間での最後の展示は瑛九でしめたいのですが、はたしてどうなることやら・・・・

●今日のお勧め作品は瑛九です。
瑛九「離陸」
瑛九「離陸
1957年 リトグラフ
イメージサイズ:32.0x21.0cm
シートサイズ:54.3x38.5cm
Ed.22(E.A.) サインあり

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◆4月29日(土、祝日)から始まる連休中・日曜・月曜・祝日は休廊です(暦通り)。
5月2日(火曜)と6日(土曜)は開廊。連休明けは5月9日(火曜)から営業します。

◆ときの忘れものの次回企画は「植田正治写真展―光と陰の世界―Part I」です。
会期:2017年5月13日[土]―5月27日[土] *日・月・祝日休廊
201705UEDA_DM
初期名作から晩年のカラー写真など約15点をご覧いただきます。どうぞご期待ください。
●イベントのご案内
5月13日(土)17時より、写真史家の金子隆一さんによるギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。
必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申し込みください。
info@tokinowasuremono.com

中村茉貴〜宮崎県立美術館「第4期コレクション展 瑛九の世界III」

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第17回

宮崎県立美術館
「第4期コレクション展 瑛九の世界III」


瑛九の収蔵作品数国内一である宮崎県立美術館に訪れた。今回、取材に応じていただいた佐々木明子学芸員によると、美術館所蔵の作品の総点数は980点。油彩100点、水彩41点、素描80点、版画589点、写真170点である。加えて1階展示室3は、別名「瑛九展示室」として、常時瑛九の作品や関係資料が展示されている。

宮崎県立美術館_01夕暮れ時の宮崎県立美術館外観。美術館は県総合文化公園の中に施設され、同じ公園内に県立図書館、県立芸術劇場が併設されている。美術館から見て左側の図書館には、父杉田直が収集した「杉田文庫」が保管され、右側の芸術劇場には瑛九の《田園B》を再現した緞帳がある。宮崎大学教育学部教授石川千佳子先生が《田園B》について詳しく書かれているため、下記に紹介する。
(参考:影山幸一「瑛九《田園B》──発光する反近代『石川千佳子』」、art scapeアート・アーカイブ探求2016年10月15日号より、http://artscape.jp/study/art-achive/10128470_1982.html


宮崎県立美術館_02会場入口。デモクラート美術家協会の宣言文と写真パネル、瑛九の略年譜が展示されている。


本展は、コレクション展示の第4期目「瑛九の世界掘廚任△襦1誘紊梁召法◆峙楮蠅糧術掘廖◆嵬症淵戰好鉢掘廖◆屬△佞譴襯ぅ瓠璽検廚3本のコレクション展が同時開催されていた。第1~3期にも瑛九の特設展示が開催され、第1期目は版画集を中心にした展示、第2期目は子供向けのミュージアム探検の企画に合わせて瑛九の作品を出品し、第3期目は音楽をテーマにしたものであった。第4期目については、グループに着目した展示である。つまり、年間を通して瑛九の作品を盛り込んだ展示が実施され、いつ来館しても鑑賞できるようになっている。

宮崎県立美術館_03《花の散歩》1954年、33.3×24.0、油彩・板、「QEi」のサインあり


宮崎県立美術館_04《作品- E》1936 年、45.7×53.4、油彩・キャンバス
初期の抽象的な作例のひとつ。2種類の長方形の物体をスタンプのように、幾度も画面に押し付けて構成している。


宮崎県立美術館_05向かって右から《女》1952年、27.5×22.5、フォト・デッサン
《Visitors to a Ballet Performance》、1950年、45.7 ×55.8、フォト・デッサン
フォト・デッサン集『眠りの理由』より、1936年、22.3×27.2、フォト・デッサン
「フォト・デッサン」の中でも異なる表現方法が認められる3点。《女》は印画紙にスプレー状のやわらかな彩色を施している。真ん中は、感光時に型紙を移動して、イタリア未来派のような効果を狙った表現を試みている。


宮崎県立美術館_06右から《鳥》1956年、52.9×45.4、油彩・キャンバス、「QEi」のサインあり
《蝶と女》1950年、80.7×65.5、油彩・合板、「Q」のサインあり
《並樹A》1943年、33.3×24.3、油彩・キャンバス


宮崎県立美術館_07《花火C》1957年、45.5×53.1、油彩・合板、「QEi」のサインあり
個々の色が画面を動き回っているような作品。W・カンディンスキーの抽象絵画を想わせるが、瑛九の作り出す画面には鋭さはなく、牧歌的な暖かさを感じる。


宮崎県立美術館_08左《飛びちる花びら》1958年、80.3×116.3、油彩・キャンバス、「Q」のサインあり
右《田園B》1959年、130.7×194.0、油彩・キャンバス、「QEi」のサインあり


宮崎県立美術館_09《田園B》部分
オレンジ色を差した「光源」には、《作品- E》のスタンプのような表現が見受けられる。瑛九の作品は、技法材料が変わっても過去の技法がふっと現れることがある。そこを発見するのが作品鑑賞時のたのしみのひとつである。


宮崎県立美術館_10《つばさ》1959年、259.0×181.8、油彩・キャンバス
佐々木学芸員によると、瑛九を目的として訪れる来館者は、特に晩年の作品を好むため、本作か《田園B》のどちらか1点を必ず瑛九展示室で公開しているという。


実は、本作《つばさ》を制作していた前後の瑛九のようすについて、文通仲間による記録が残っている。1959年10月美術教師木水育夫は、浦和(現さいたま市)の瑛九のアトリエを訪問し、次のことを目の当たりにしていた。

瑛九はランニングシャツ一枚で脚立に乗って二〇〇号の油絵にとりくんでいました。見とれていたぼくを見つけて、「筆がね、こうしてすーっと画面に吸い込まれるのですよ。」これがそのときの挨拶でした。「寝不足がたたって、こんなに足が腫むのです。」と足をさするのです。彼はアトリエいっぱいに立ててある大作を指さして、「弾丸は出来た。来年は大いに暴れましょう。」と元気に語ったのですが、その後彼は病魔におそわれたのです。

十一月。瑛九入院のしらせを受け、浦和の病院へ見舞いました。彼はベッドの上で、「大作が出来ているから、庭に出して張りめぐらしその中で見てほしい。」といいました。ぼくたちはアトリエから大作を庭に出して、彼のいうように見ました。

(P.Sプランニング編「木水さん語録」『瑛九からの手紙』瑛九美術館、2000年、p.179)

この当時の瑛九は、体調不良により半分無意識で点を打つ作業を続けていたのだろう。抽象画ではあるが、制作過程を想像するとシュルレアリスムの「自動筆記」のような状態であった。妻都によれば、食事もろくに採らずに絵筆を握っていたと証言している。陽光がさす庭に張り巡らされた瑛九の大作を鑑賞した木水等にとっては、光に包まれ、まさに夢心地だったと思う。

宮崎県立美術館_11向かって左から
《森の会話》(SCALE Iより、林グラフィックプレスによる後刷り、ed.11/60)1953 年、36.1 ×27.2、銅版画
《れい明》1957年、52.9×42.0、リトグラフ、「QEi」のサインあり
《舞台のピエロ》1957年、53.4×40.5、リトグラフ、「QEi」のサインあり、ed.17/20


宮崎県立美術館_12ここからは、グループに所属していた当時の作品や同志の作品が展示されたコーナー。向かって左側から、
《タバコを吸う女》1935年、32.4×23.7、油彩・ボール紙
《街》1947年、116.8×91.5、油彩・キャンバス、「Q Ei」のサインあり
《プロフィル》1950年、22.7×19.3、フォト・デッサン


《タバコを吸う女》本作は西村楽器店にて第1回「ふるさと社」展に出品された。「ふるさと社」のメンバーは、第15回都城市立美術館に列挙した通り、主に宮崎の有志と結成された。後者の《街》は第13回「自由美術家協会」展に出品され、《プロフィル》は第1回「デモクラート美術家協会」展の出品作。

宮崎県立美術館_13左から 難波田龍起《古代図様》1938年、31.5×40.4、油彩・キャンバス、矢橋六郎《竹林》1940年、80.3×99.8、油彩・キャンバス


1937年、瑛九は自由美術家協会の創立会員のひとりであるが、翌年に出品を見送り、その後退会して復帰している。創立当初から入退会や「改称」の多い団体で著名な人物が会を通じて作品を出品していた。2人も自由美術家協会に所属しているが、矢橋は山口薫等と1950年に退会し、難波田は1959年退会している。瑛九の関係者から伺った話では、戦時下にあった当時、「自由」や「創造」などを掲げた活動が難しく、常に目を気にするような状況があったようだ。戦後も美術界の活気が戻らず、「毎日連合展」が企画されることなる。山田光春『瑛九―評伝と作品』(青龍洞、1976年)には、その当時の様子を次のように書いている。少し長くなるが、当時のようすを伝える貴重な証言のためご紹介したい。

自由美術の仲間には、小野里[オノサト・トシノブ]のようにシベリヤに抑留された者や、荒井[竜男]のように家族とともに京都や北海道を転々とした末に東京に舞い戻った者などもいたけれども、多くは山口[薫]の群馬県箕輪や矢橋の岐阜県赤坂といったように、それぞれの郷里へ疎開したままになっていた。そのために出足はおくれ、一九四八(昭和二三)年の一月に小規模ながら三越で会員展を開き、その秋大阪で戦後はじめての公募展を開いたのがやっとであった。
しかしまだ、本格的な活動を始めたとはいえず、敗戦後の厳しい現実の中で、どのように活動を進めて行くべきかとの意見をまとめることは出来なかったので、翌年の二月、難波田、森[芳雄]、荒井等の在京会員に長谷川[三郎]らを加えた数名の会員が箕輪の山口の所に集まって協議をした。そこでの中心課題が、今後会をどのように発展させるべきかとの方針と方策の決定にあったことはいうまでもなく、討議は会の組織の改革という点にしぼられていった。戦後の荒波を乗り越えて会を前進させるには会員十数名といった貧弱な組織では困難だから、会員を充足することが目下の急務だとの意見は一致したけれども、その具体的な実現方法については、一挙に大量の会員を補充して会の体質改善を図るべきだとする説と、急速な建て直し策には危険が伴うから、徐々に拡充を進めるべきは早急に会員を大幅に増強して、名称を自由美術協会(家を除く)と改めて再出発することを決定した。そこで、新しい会員にはこれまでの会友と、麻生三郎、井上長三郎、糸園和三郎、小山田二郎、大野五郎、寺田正明、末松正樹、鶴岡政男、吉井忠、佐田勝、松本俊介、広幡憲等の新人を迎えることにしたのであって、瑛九の会員復帰もこうした改革の波に乗ったものであった。[中略]こうして戦後の活動を開始した自由美術協会は、この年の五月に設けられた「毎日連合展」にも参加し、十月には会場をこれまでの美術協会から東京都美術館に移して第九回展を開いたのであって、瑛九もそれに参加した。[pp.295‐296]

※このとき瑛九が毎日連合展に出品した作品は、《鳩》(生誕100年展図録レゾネNo.191)《窓を開く》(レゾネNo.189《窓をあける》)
※[ ]は筆者によるもの

宮崎県立美術館_14デモクラート美術家協会会員の作品。左から
泉茂《作品(蝶)》1959年、33.3×45.3、油彩・キャンバス
幹英生《風景》1953年、38.0×45.5、油彩・キャンバス
内田耕平《作品》年代不詳、27.2×21.9、油彩・ボール紙
加藤正《敗戦ヒロシマ(赤)血の爆発》1953年、60.4×72.6、油彩・キャンバス


宮崎県立美術館_15左の3冊は機関紙「DEMOKRATO」No.1-3、右は「デモクラート美術家協会解散通知」葉書


内田耕平と加藤正はともに宮崎県串間市出身である。今回は展示されていなかったが、同協会の井山忠行もまた宮崎出身である。

ちょっと寄道…

宮崎県立美術館_16みやざきアートセンター
ここは、2009年10月に宮崎市橘通3丁目にオープンした複合文化施設で、展示ギャラリー、創作アトリエ、小ホール、交流サロン、キッズルーム、多目的室、ライブラリー、屋上庭園が設置されている。市が管轄する施設ではあるが、運営は民間団体に委託されている「指定管理者制度」が導入されている。建物にはそこここに利用者がいて、「場」に活気があった。センター入口前の広場では、ペンキで塗られたアップライトピアノがあり、ひとりの若い男性がショパンの「華麗なる大円舞曲」を軽快に弾いていた。ニット帽に革のジャケット姿というラフな格好の彼は、ただそこにピアノがあったから弾いているというようすであった。時々通行人がベンチに腰を落ち着かせて、ピアノに耳を傾けていた。このような場所は中々課題が多いという噂を耳にするがここは、「箱もの」にならず、すっかり地域に馴染んでいるようすであった。このとき、イラストレーター「生鯣狼繊彭犬行われ、盛況だった。80年代の映画「スター・ウォーズ」等のポスターを手掛けたことで全国的に知られているが、宮崎ゆかりの人物として地元で高く評価されている。


ところで、こちらの5階アートスペースでは、宮崎ゆかり作家を紹介する常設展が行われていることもある。このときは、企画展の会場として利用されていたが、瑛九の作品も公開することがあったという。私は図々しくも瑛九の作品について何か紙ベースで閲覧できる資料がないか伺ったところ、宮崎市地域振興部文化スポーツ課の久米徳太郎氏が急きょ要望に応えてくださった。取材や研究目的といっても、忙しい合間をぬって機転を利かせていただいたことは非常に嬉しかった。聞くと久米氏は県立美術館の佐々木明子学芸員の教え子だったという。今回の記事を書くにあたって、お二人にはたいへんお世話になった。この場を借りて厚く感謝申し上げたい。

宮崎市が所蔵する瑛九の作品総点数は38点。
版画28点(銅版画18点、リトグラフ10点)
フォト・デッサン10点

本稿ではフォト・デッサンのタイトルを以下に抜粋する。
《波のたわむれ》25.4×30.5
《想い出》22.6×28.0
《光と影》22.15×28.4
《シルク》21.2×28.4
《プロフィル》22.15×27.3
《家族》不詳
《犬》21.9×26.8
《夢》22.0×22.0
《あこがれ》21.8×27.6
《二人》不詳

今後、5階ギャラリーで瑛九が展示される機会があるかどうかはわからないが、現代美術を中心にした展示や市展などが開催されている。県外から宮崎県立美術館に足を伸ばすときには、ぜひ立ち寄りたいアートスポットのひとつである。
会場:みやざきアートセンター
休館:毎週火曜日(火曜日が休日の場合は翌平日)は、18:00まで(入場は17:00まで)
時間:10:00〜22:00(入場は19:30まで)

宮崎県立美術館_17宮崎県立美術館のすぐ近くに宮崎神宮がある。銅鳥居に銅版葺きの屋根。以前、参拝したときは野生の鶏がいたが寒さのためどこかに隠れてしまったのだろうか。


宮崎県立美術館_18宮崎神宮の境内にある宮崎神宮徴古館。登録有形文化財である。このときは「揮毫作品展会場」として内部公開していた。


なかむら まき

●展覧会のご案内
「第4期コレクション展 瑛九の世界III」
会期:2017年1月5日[木]〜2017年4月16日[日]
会場:宮崎県立美術館
休館:月曜、祝日の翌日(土・日曜日、祝日を除く)
時間:10:00〜18:00(展示室への入室は17:30まで)

宮崎市出身の瑛九(本名:杉田秀夫)は、生涯を通じて常に新しい表現を求め、写真や版画、油彩など様々な技法に取り組みました。またその作品も、初期から晩年に至るまで、印象派やシュルレアリスム(超現実主義)風、抽象的な作品など、多彩に変化しました。
20代でフォト・デッサン集『眠りの理由』を刊行し、一躍美術界で脚光を浴びた瑛九は、様々な技法や表現を模索した後に、その集大成ともいえる点描による絵画空間へたどり着きました。
 今回の展示では、油彩や版画など、各領域の代表的な作品に加え、瑛九の美術団体における活動を特集して紹介します。没後60年近くを経て、今なお輝き続ける瑛九作品の魅力をお楽しみください。
(宮崎県立美術館HPより転載)

●今日のお勧め作品は瑛九のフォトデッサンです。
瑛九「子供」
瑛九
子供
フォトデッサン
25.2×18.9cm

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

3月10日は瑛九の命日/瑛九情報!総目次

明日3月10日は瑛九の命日です(1960年3月10日死去 享年48)。

東京国立近代美術館で昨年11月22日〜2017年2月12日の会期で開催された「瑛九1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」展に合わせ、2016年11月24日から最終日の2017年2月12日まで毎日<瑛九情報!>を発信しました。
瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(表)瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(裏)

ときの忘れもののブログは年中無休ですが、81日間、毎日のブログ記事をアップした上に、さらに末尾に<瑛九情報!>を一日も欠かさず追加発信するのはさすがに瑛九=命の亭主でもへろへろになりました。
以下、81日間の<瑛九情報!>総目次です。(この目次を作成するのも一苦労でありました)

11月24日1960年の四人の作家展

11月25日「近美のtwitter

11月26日「この人はコラージュがまじやばいからみといたほうがいいよ。坂口恭平

11月27日「瑛九は1911年(明治44年)生まれ、岡本太郎と同い年

11月28日「展覧会を企画した大谷省吾さん

11月29日「松本竣介と瑛九

11月30日「通りすぎるもの

12月1日「瀧口修造【瑛九へ「ノートから 1951」】より

12月2日「瀧口修造【瑛九のエッチング】『美術手帖』No.74 1953年10月号より

12月3日「瑛九はけっしていわゆる孤絶の人なぞではなかった。いつも社会にむかってひらかれた心を持ちつづけたといってよいだろう。〜瀧口修造

12月4日「瀧口修造【ひとつの軌跡 瑛九をいたむ】『美術手帖』1960年5月号より

12月5日「何事も平均化され、うやむやにされがちな現状にとって、山田光春氏の多年にわたる瑛九探求が『瑛九』として刊行されることはうれしい〜瀧口修造【『瑛九』を待ちながら】
瑛九伝山田光春著『瑛九 評伝と作品』1976年 青龍洞 480頁 瑛九の盟友だった画家山田光春が全国をまわり資料・作品を蒐集調査、克明に瑛九の生涯を追った伝記

12月6日「写真は光線の言葉だといわれます〜瀧口修造『1955年1月・瑛九 フォート・デッサン展目録』より

12月7日「瑛九の父杉田直(すぎた なお)は息子を送った九ヵ月後の1960年(昭和35年)12月7日に亡くなりました。享年92

12月8日「1891年(明治31年)宮崎初の眼科医院を開業した杉田直は医学界の発展に貢献する傍ら俳句をよくし、荻原井泉水の層雲同人として活躍しました

12月9日「たゞ一つ湯婆残りぬ室の隅 漱石/明治41年12月22日夏目漱石から瑛九の父・杉田作郎に送られた俳句

12月10日「1951年瑛九と泉茂らによって大阪で結成されたデモクラート美術家協会には多くの若者が集まりました

12月11日「月が静かにさしよればフラスコにある球面 月月虹/秋田の医師船木綱春は瑛九の父杉田直の俳句仲間でした

12月12日「本展企画者・大谷省吾さんの講演会〜書簡から読み解く 1935 -1937年の瑛九〜は 12 月17 日と1月7日に開催されます

12月13日「なんでも鑑定団に出演したKさん所蔵の油彩大作『田園』が寄託されています、必見です

12月14日「近美の至宝『青の中の丸』は1981年3月1日ギャラリー方寸の開廊記念展で展示された作品です

12月15日「一度は国立近代美術館に展示されながら、その後海を渡ってしまった名作もあり

12月16日「中村茉貴〜美術館に瑛九を観に行く〜第12回

12月17日「瑛九の故郷、宮崎県立美術館では<第三期コレクション展より 瑛九の世界供笋魍催

12月18日「瑛九の多くの文献資料には、早くから瑛九をコレクションし、瑛九の顕彰展を開催してきたある美術館の名がすっぽりと抜け落ちています

12月19日「山形県酒田の本間美術館は瑛九のほぼ全てのリトグラフ作品を所蔵し、7回もの瑛九展を開催してきた

12月20日「酒田の本間美術館は1974年(昭和49)2月2日〜2月23日に瑛九リトグラフ展を開催しています
瑛九石版レゾネ本間美術館のコレクションが基礎となり刊行された『瑛九石版画総目録』1974年 瑛九の会 限定1000部 74頁 1951〜1958年に制作されたリトグラフ158点を収録

12月21日「写真家・細江英公の原点は瑛九
20170107_1
2004年8月21日「第15回瑛九展/1936年画家の出発」
ときの忘れものにて細江英公先生(右)

12月22日「磯辺行久は高校時代にデモクラート美術家協会に入会、最年少

12月23日「デモクラートの解散声明は靉嘔が執筆

12月24日「建築家・磯崎新は学生時代に浦和の瑛九アトリエを訪ねた

12月25日「池田満寿夫の色彩銅版画は瑛九の助言で生まれた

12月26日「12月26日は瑛九の兄・杉田正臣さんの命日
瑛九展小田急レセプション4靉嘔1979年6月新宿・小田急「現代美術の父 瑛九展」レセプションにて
左から杉田正臣さん(瑛九の兄)、郡司君さん(瑛九の姉)、杉田都さん(瑛九夫人)、靉嘔先生


12月27日「新人スタッフの英文レポート

12月28日「瑛九の会の設立趣意書と八人の発起人

12月29日「中村茉貴〜美術館に瑛九を観に行く〜第13回

12月30日「瑛九畏るべし。ほぼ数年おきに回顧展が開催されるというようなことは他の抽象画家では例がありません

12月31日「お正月に瑛九を見られる美術館は七つ

2017年
1月1日「沖縄県立博物館・美術館は元旦から開館、瑛九を展示しています

1月2日「お正月に瑛九を展示している美術館

1月3日「お正月に瑛九を展示している美術館

1月4日「瑛九を所蔵している美術館は亭主の把握しているだけでも48館

1月5日「瑛九のガラス絵〜府中市美術館・ガラス絵 幻惑の200年史展

1月6日「瑛九の会機関誌〜眠りの理由 No.1創刊号
nemuri_1
瑛九の会『眠りの理由 創刊号
瀧口論文の他に、山田光春「瑛九伝」第一回、杉田都「雪とEi Q」、杉田正臣「思い出すことなど」が掲載された。1966年4月20日発行

1月7日「瑛九の会機関誌〜眠りの理由 No.2

1月8日「瑛九の会機関誌〜眠りの理由 No.3

1月9日「瑛九の会機関誌〜眠りの理由 No.4

1月10日「瑛九の会機関誌〜眠りの理由 No.5

1月11日「瑛九の会機関誌〜眠りの理由 No.6,7合併号

1月12日「瑛九の会機関誌〜眠りの理由 No.8

1月13日「瑛九の会機関誌〜眠りの理由 No.9,10合併号

1月14日「瑛九の会機関誌〜眠りの理由 No.11

1月15日「瑛九の会機関誌〜眠りの理由 No.12

1月16日「瑛九の会機関誌〜眠りの理由 No.13

1月17日「瑛九の会機関誌〜眠りの理由 No.14

1月18日「瑛九の会の発起人たち

1月19日「瑛九を支えた人々〜福井県鯖江の木水育男さん

1月20日「瑛九を支えた人々〜尾崎正教さん

1月21日「細江英公〜瑛九と私

1月22日「瑛九を支えた人々〜福井県勝山の原田勇さん

1月23日「田中章夫〜本間美術館と瑛九

1月24日「瑛九を支えた人々〜福井県大野の堀栄治さん
瑛九展小田急レセプション2原田1979年6月新宿・小田急「現代美術の父 瑛九展」にて
左から一人おいて、堀栄治さん、中村一郎さん、中上光雄さん、原田勇さんたち、いずれも福井瑛九の会のメンバー。

1月25日「貴重な記録集〜堀栄治・編<福井創美の歩み>

1月26日「1938年のスケッチ帖〜立正大学新聞臨時増刊・青年の読物特輯
表紙瑛九スケッチ帖 「青年の読物特輯」


1月27日「福井県勝山の中上光雄・陽子ご夫妻と瑛九
20150103中上コレクション展 表2015年1月福井県立美術館「福井の小コレクター運動とアートフル勝山の歩み―中上光雄・陽子コレクションによる―」

1月28日「浦和のアトリエを守る都夫人

1月29日「瑛九の銅版画について

1月30日「初期スケッチ帖

1月31日「スタッフMの瑛九展を見て

2月1日「初期抽象画〜作品ーB(アート作品・青)

2月2日「スタッフSの<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>レポート

2月3日「1941年制作の油彩・逓信博物館 A

2月4日「中村茉貴〜都城市立美術館・瑛九芸術の迷宮へ〜その1

2月5日「瑛九の吹き付け作品

2月6日「スタッフAの瑛九展を見て

2月7日「生前、海外での作品発表の機会がただ一度ありました

2月8日「最大の支援者・久保貞次郎の瑛九コレクション
瑛九展小田急レセプション1泉茂1979年6月新宿・小田急「現代美術の父 瑛九展」レセプションにて
左から、オノサト・トシノブ先生、久保貞次郎先生、マイクを握っている泉茂先生、瑛九の会事務局長の原田勇さん、右端の背広姿は瑛九の会代表の木水育男さん

2月9日「中村茉貴〜都城市立美術館・瑛九芸術の迷宮へ〜その2

2月10日「ときの忘れものの第20回瑛九展と第23回瑛九展のカタログ紹介

2月11日「46の光のかけら/フォトデッサン型紙ポスター

2月12日最終回瑛九の生前最後の個展の案内状
瑛九油絵展1
「瑛九油絵展」案内状
会期:1960年2月23日〜28日
会場:銀座・兜屋画廊



以上、お時間のあるときに再読いただければ嬉しいです。

●本日のお勧め作品は瑛九です。
qei_165瑛九
《花々》
1950  油彩
45.5x38.2cm(F8号)

瑛九 ペン素描
瑛九《作品
1959年
ペンデッサン
イメージサイズ:28.5×18.0cm
シートサイズ:35.1×24.9cm
ペンサインあり

瑛九_フォトデッサン_2瑛九
《作品》
1950年
フォトデッサン
27.8x22.0cm
サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

中村茉貴〜都城市立美術館「瑛九芸術の迷宮へ」その3

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第16回

都城市立美術館
UMK寄託作品による「瑛九芸術の迷宮へ」その3


 都城市立美術館で行われた展覧会に関するレポートも今回で最後を迎える。本展は、「1. 瑛九のはじまり」、「2. 増大するイメージ」、「3.色と形の挑戦」と三部構成になっており、その1では、1階会場1・2章のフォト・デッサンおよびガラス絵、初期油彩画を見てきた。その2は2階会場で展示されていた都城市ゆかりの詩人富松良夫と瑛九について、そして、その3では、2・3章に出品された銅版画、リトグラフ、晩年の油彩画等を紹介したい。

都城市立美術館_26階段を2階に上がると、《神話》(1956年、紙・エッチング、右下に鉛筆で「Q Ei」のサインあり、[特])が目に付くところに展示されている。会場を見渡すと瑛九の版画が整然と並んでいる。広々とした会場をも埋め尽くす作品点数の多さは、まさに圧巻である。
向かって右側の壁には、林グラフィックプレスが発行した銅版画の後刷り画集「SCALE」のシーリーズが展示されている。手前からSCALE兇茲蝓圓いり》(1957年、紙・エッチング)、SCALE靴茲蝓塢と少女》(1957年、紙・エッチング)、SCALE靴茲蝓埓院奸1956年、紙・エッチング、ドライポイント、ルーレット)、SCALE兇茲蝓圓燭燭い》(1956年、紙・エッチング)、SCALE垢茲蝓埒垢寮此奸1958年、紙・エッチング、館蔵品)、SCALE垢茲蝓埀世硫屐奸1958年、紙・エッチング、館蔵品)


都城市立美術館_27右から《街B》(1953年、紙・エッチング)、《なやみ》(1953年、紙・エッチング、[特])、《忘れた道》(1957年、紙・エッチング)


都城市立美術館_28《叫び》(1954年、紙・エッチング)、《小さな人魚》(1954年、紙・エッチング)

都城市立美術館_29参考画像:林グラフィックプレスで刷られたエッチングにはスタンプによる裏書がある。


original etching by Ei Q
limited edition of 60
published by Hayashi Graphic Press

林グラフィックプレスを設立した林健夫は、池田満寿夫と親交のあった人物としても知られる。都夫人の許可のもと瑛九が残した銅版の原版から後刷りされた版画集「SCALE」は、機銑后1974-76年、83年刊行)まであり、カタログも発行している。未発表作を含め全278点の銅版画(後刷り)が収録されていることからレゾネとして代用されることもしばしばある(全作品ではないが)。

銅版画のコーナーの次は、リトグラフの作品が並ぶコーナー。リトだけでも23点あり見応えがある。

都城市立美術館_30向かって右側から《蟻のあしあと》(1956年、紙・リトグラフ、[特])、《白い丸》(1956年、紙・リトグラフ、[特])、《街の燈》(1956年、紙・リトグラフ)、《スケート》(1956年、紙・リトグラフ)、《舟》(1956年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり)、《青の構成》(1956年、紙・リトグラフ、「Q」[特])、《夜明けに飛ぶ》(1956年、紙・リトグラフ、スタンプサインあり)※スタンプ(真岡市蔵)は久保貞次郎制作


都城市立美術館_31左から《航海》(1956年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《輪》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《拡声器》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《海底》(1957年、紙・リトグラフ、[特])、《考える鷺》(1957年、紙・リトフラフ)


都城市立美術館_32右から《迷路》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《風が吹きはじめる》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《舞台のピエロ》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《春の風》(1957年、紙・リトグラフ)


都城市立美術館_33右から《赤き微小》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり)、《飛ぶ》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり)、《流れるかげ》(1958年、紙・リトグラフ、「Q」あり、[特])


都城市立美術館_34右から《壁》(1958年、26.0×21.0、「Q Ei」あり、フォト・デッサン)、《顔》(1958年、25.5×20.5、「Q Ei」あり、フォト・デッサン)


都城市立美術館_35《森のささやき》(1958年、25.5×18.0、ボード・水彩、鉛筆により「Q Ei」、[特])、《春のめざめ》(1958年、43.5×28.5、紙・水彩、「Q Ei」あり、[特])、《虚ろな記憶》(1959年、38.5×22.5、紙・水彩、ペン、「Q Ei」あり、[特])


都城市立美術館_36《空の旅》(1957年、41.0×31.8、キャンバス・油彩、「Q Ei」あり、[特])、《土の中》(1957年、27.3×22.0、キャンバス・油彩、「Q」あり、[特])、《丸の遊び》(1958年、板・油彩、「Q」あり、[特])、《森》(1959年、キャンバス、油彩、「Q」あり、[特])


3回に渡って宮崎県の都城市立美術館の展覧会を紹介してきた。こちらの美術館に訪問して感じたことは、郷土の美術家を展示することが実に自然であるということ。家族写真を飾るかのように、シンプルで気持ちのいい雰囲気があった。いつからか地方美術館でも人気取りのための展示と高額な観覧料を払わないと入場できなくなってきたが、ここでは特別展以外は従来の博物館法に近いスタンスで作品を無料公開している。また、どこの館も展覧会事業費や、まして作品購入費は開館時よりもグッと落ち込んでいるはずであるが、それを見かねてか、テレビ宮崎(UMK)が代わって作品をコレクションしている。良いバランスで美術館が保たれている。薩摩藩の気風によるものかもしれない。平日の昼下がり、確かに来館者は少なかった。しかし、2人組のご婦人が「瑛九さん…」と親しげに呼んで作品を覗く様子に、ほっとする思いがした。

***

ちょっと寄道…

前回、瑛九と親交のあった都城市の詩人「富松良夫」を紹介した。
美術館で展示されていた詩集は高値で入手困難であるが、宮崎県の出版社「鉱脈社」で下記のように再編されている。

都城市立美術館_37富松良夫『黙示』表紙


都城市立美術館_38杉田正臣『父、暁天、瑛九抄』表紙


巻末を見ると、本書は「みやざき21世紀文庫」シリーズとして今まで刊行されたタイトルがズラリと並んでいる。小さな字でそれに付随して本シリーズが出来た経緯を書いている。たいへんユニークで興味深い取り組みをされているので下記に紹介したい。

平成七年秋に宮崎県立図書館で開催され、好評を得た「21世紀の子供たちに伝えるみやざきの100冊の本」展。「宮崎にもこんないい本があったのか」と評判を呼び「ぜひ手に入れたい」という声が相次ぎました。こうした県民の声に応えて、100冊の本を逐次刊行していこうと編集委員会が結成され、平成八年八月から「みやざき21世紀文庫」として第一期(全40巻、解説付。カバー絵・瑛九)の刊行が始まりました。

これこそ郷土愛の結晶である。史料編纂所が発行する県史とは別に読み物として親しみやすい。「郷土誌」ではあるが、ただの「郷土誌」ではない存在感である。一部の巻はネットショップで購入できて、つい最近まで東京国立近代美術館で行われた瑛九展の会期中には、兄正臣の著書がミュージアムショップで平置きされていた。そして、下線で示したように本シリーズは、全て「カバー絵・瑛九」なのである。宮崎県が瑛九をいかにだいじにしているのか一目瞭然である。

宮崎訪問時には、本シリーズの表紙を確認したいと思い宮崎県立図書館へ立ち寄ったものの、手に取る時間がなかった。宮崎でやり残してきたことのひとつで頭の片隅に置き、ブログ記事の構想を練っていると、段々と表紙のことが気になり、頭の中心にまでにじり寄ってきた。「このシリーズは100冊まであるのか。出版されているとすれば、瑛九名品100選ということになるのではないか」と、妄想が膨らんだ。

そこで、駄目もとで出版社に直接問い合わせをしたところ、有難いことに、鉱脈社の鳥井氏が対応していただいた。現在の発行されているタイトルと表紙絵について情報提供していただいたので、下記にリストを公表したい。

<鉱脈社 「みやざき21世紀文庫」シリーズ>
富松良夫『新編 黙示』 1996年: 《つばさ》 1959年、油彩、宮崎県立美術館蔵
中村地平『日向』 1996年: 《田園B》 1959年、油彩、宮崎県立図書館蔵
若山牧水『郷里の山河』1996年: 《泉》 1959年、油彩、個人蔵
石川恒太郎『日向ものしり帳』1996年: 《ブーケ(花束)》 1959年、油彩、宮崎県立美術館蔵
黒木淳吉『タ映えの村』1996年: 《題不明》1958年、油彩、宮崎県立美術館蔵
戸高保『白い浮雲の彼方に』1996年: 《蟻のあしあと》 1956年、リトグラフ、宮崎県立美術館蔵
三戸サツヱ『幸島のサル』1996年: 《丸のあそび》 1958年、油彩、宮崎県立美術館蔵
小野和道『浮上する風景』1996年: 《まと水》 1957年、油彩、長島美術館蔵
小川全夫『よだきぼの世界』1996年: 《丸( 2 )》 1958年、油彩、福岡市美術館蔵
城雪穂『藤江監物私譜/笛女覚え書』1996年: 《題不明》1957年、油彩、宮崎県立美術館蔵
渡辺修三『新編 谷間の人』1997年: 《愛の歌》1957年、油彩、宮崎県立美術館蔵
青山幹雄『宮崎の田の神像』1997年: 《まつり》 1958年、油彩、宮崎県立美術館蔵
岩切章太郎『無尽灯』1997年: 《ながれ一たそがれ》 1959年、油彩、個人蔵
中村地平『中村地平小説集』1997年: 《風船(仮)》1956年、油彩、個人蔵
松田壽男『日向の風土と観光』1997年: 《眼が廻る》 1955年、油彩、宮崎県立美術館蔵
黒木清次『日向のおんな』1997年: 《鳥》 1956年、油彩、宮崎県立美術館蔵
三原七郎『三等院長のメモ』1997年: 《アブストラクション》制作年不明、水彩、宮崎県立美術館蔵
三上謙一郎『死者を追って』1997年: 《花火》制作年不明、油彩、宮崎県立美術館蔵
賀来飛霞『高千穂採薬記』1997年: 《子供たち》1955‐56年、素描、宮崎県立美術館蔵
宮永真弓『海から聞こえる笛/つゆ草の花』1997年: 《芽》 1954年、油彩、宮崎県立美術館蔵
大迫倫子『娘時代』1998年: 《青の動き》 1956年、油彩、宮崎県立美術館蔵
神戸雄一『詩集 鶴、小説集番人』 1998年: 《空》 1957年、工ッチング、宮崎県立美術館蔵
安田尚義『高鍋藩史話』1998年 : 《蜃気楼》1957年、油彩、個人蔵
渡辺綱纜『紫陽花いろの空の下で』1999年: 《街》 1947年、油彩、宮崎県立美術館蔵
みやざき21世紀文庫編集委員会編『宮崎縣嘉績誌』1999年: 《題不明》制作年不明、フォト・デッサン、宮崎県立美術館蔵
若山甲蔵『日向の言葉』2000年: 《だだっこ》 1954年、油彩、宮崎県立美術館蔵
杉田正臣『父、暁天、瑛九抄』2000年: 《明るい森の中》 1958年、水彩、宮崎県立美術館蔵
以上、27巻

作品の所蔵先は宮崎県立美術館が大半であるが、中には長島美術館、福岡市美術館、個人蔵もある。なかでも気になる表紙タイトルは、『中村地平小説集』の《風船(仮)》1996年(生誕100年記念瑛九展レゾネNo.284)である。「風船」はご存知の通り、東京国際版画ビエンナーレに出品されたリトグラフ《旅人》(1957年)の画面上に表れているモチーフである。いずれも瑛九がつけたタイトルかどうか定かではないが、造型上何か関連がある可能性もある。また、著者の中村地平は、全国的に著名な人物であるが、宮崎県立図書館の館長を勤めるなど地域に貢献した人物でもある。1951年5月県立図書館に設置された「子供読書室」の瑛九の壁画(焼失)や、「花と絵の図書館」を館内に設けて児島虎次郎、塩月桃甫、瑛九の作品を展示したのは、彼が着任中のことである。

なお、本シリーズとは別に、鉱脈社の出版物では、福富健男『画家・瑛九の世界』2011年も刊行している。合わせて参照したい論文である。
なかむら まき

●展覧会のご案内
瑛九芸術の迷宮へ「瑛九芸術の迷宮へ」
会期:2017年1月5日[火]〜2017年2月26日[日]
会場:都城市立美術館
休館:月曜(祝日・振替休日の場合、その翌日は休館)
時間:9:00〜17:00(入館は30分前)
主催:都城市立美術館
入館料:無料


 本展では平成27年度にテレビ宮崎から寄託された瑛九作品を中心に、過去にテレビ宮崎が収集した特別出品作品を加えた、写真や銅版画、リトグラフなど約80点を展示いたします。宮崎ゆかりの美術作品が散逸することを防ぎ、県内の文化・芸術を長く伝え残したいという理念のもと築かれたこのコレクションは、代表的な版画やフォトデッサンに加えて、初期の油彩画やガラス絵など。今までほとんど紹介されていない貴重な作品も含まれています。
 当館は開館以来、瑛九作品の収集と企画展示を行ってきましたが、この度の寄託を機会に、瑛九の画業全体がより広く理解されることとなりました。この展示を通じて、瑛九の自由な時代精神を感じ取っていただければ幸いです。(本展HP「ごあいさつ」より転載)

取材にご協力いただいた都城市立美術館の祝迫眞澄学芸員、鉱脈社の鳥井氏には、この場をかりて深く感謝の意を表したい。

※第14回「美術館に瑛九を観に行く」の訂正とお詫び
「富松良夫宛 杉田秀夫書簡 昭和10年8月21日」より抜粋した文章に誤りがありました。訂正箇所は以下のとおり。
[誤]小さな花のもたらる → [正]小さな花のもたらす
[誤]目がくれて → [正]日が暮れて

あれからずーと油絵をかいていました〜東京国立近代美術館の瑛九展は最終日です。

11月22日から始まった東京国立近代美術館の<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展は遂に最終日を迎えました。
瑛九=命の亭主としては、あの会場は瑛九記念室にして永久に保存して欲しい。
瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(表)瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(裏)

「瑛九1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」
会期:2016年11月22日[火]〜2017年2月12日[日]
会場:東京国立近代美術館 2Fギャラリー4
主催:東京国立近代美術館

雪のちらつく先日、竹橋に行ってきました。

レール  瑛九
  雪がふる
  胸の中を赤い雪がふる
  ガラスがこわれて そこに心ぞうがとまる
  ふるへてゐる部屋
  トウフやのラッパに少年のリンゴのほほがはずむ。
  母。
  風はたえずレールの上を流れる

  (1936年3月9日山田光春宛書簡より)

今回の展覧会は山田光春旧蔵の作品を中心にデビュー前後の瑛九作品が展示されています。
画廊コレクションにも同じ時代の作品があります。
瑛九作品(吹きつけ)
瑛九「作品
1937年 鉛筆・吹き付け
イメージサイズ:25.5x21.5cm
シートサイズ:28.5x25.0cm
サイン・年記あり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから


今回、ときの忘れものは皆さんが少しでも竹橋に足を運んでいただけたらと、連日●本日の瑛九情報! を発信してきました。

最終回の●本日の瑛九情報!は、瑛九の生前最後の個展の案内状です。
瑛九油絵展1
「瑛九油絵展」案内状
会期:1960年2月23日〜28日
会場:銀座・兜屋画廊


瑛九油絵展2
個展案内状の裏に印刷された瑛九のメッセージ
(クリックしてください、拡大します)

既に病篤く浦和中央病院に入院中だった瑛九は展示にも立ち会えず、初日の翌日には東京神田の同和病院に転院、3月10日朝、48歳の生涯を閉じました。
会期中、兜屋画廊には盟友オノサト・トシノブが桐生から毎日電車で通い店番をしました。


瑛九の死去から僅か49日後の4月28日、今泉篤男率いる国立近代美術館は急遽瑛九回顧の展示を敢行しました。
四人の作家1960 表紙
「四人の作家」展目録
会期:1960年4月28日―6月5日
国立近代美術館
出展作家:菱田春草、瑛九、上阪雅人、高村光太郎
没後直後のドキュメントをお読みください。

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二ヶ月以上にわたり、瑛九情報をお読みいただき、ありがとうございました。
ときの忘れものはこれからも瑛九の紹介に微力をつくしたいと思います。

中村茉貴〜都城市立美術館「瑛九芸術の迷宮へ」その2

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第15回

都城市立美術館
UMK寄託作品による「瑛九芸術の迷宮へ」その2


 前回に引続き、都城市立美術館で開催されていた「UMK寄託作品による 瑛九芸術の迷宮へ」展の報告である。今回は、2階会場に展示されていた瑛九と富松良夫の関係資料に着目したい。

 富松良夫(1903−1954)は、都城市で「南の宮沢賢治」として地元で愛されている詩人で、瑛九と若い頃から親しい関係にあった。良夫の弟富松昇(元宮崎市助役)は、1934年11月に瑛九のアトリエを訪ね、12月には瑛九と山田光春が富松家を訪ねる。翌35年には、瑛九、岡峰龍也、杉田杉(瑛九の妹)、富松昇、藤田頴男、山田光春が洋画研究グループ「ふるさと社」を結成する。

都城市立美術館_16会場の中心に展示された資料。覗きケースには、書簡2通と詩集1冊がある。壁には、瑛九のリトグラフやエッチングが展示されている。


都城市立美術館_17「富松良夫宛 杉田秀夫書簡 昭和10年8月21日」(1935年、都城市立図書館所蔵、部分)


本書簡に記載された内容を下記に少し抜粋したい。

 私は絵画藝術とソの今迄のジャンルに従ひたくはありませぬ。ヱかきは描くものであって、観る人ではありませぬ。ゆえに私はヱカキの批評に全てにといってもいいくらいキタイをおいておりませぬ。又ヱカキのみかたとソのめがねをかけてやるこの国の美術批評家の批評は画家以上に私には他人です。私は人間のコヱ(声)をほっします。ろうごくの窓からみえる一りんの小さな赤い花によする囚人の感情、一りんの小さな花のもたらす囚人への言葉に言えない様な一種の希望を。そういった所に絵画をおいて考へたく思っております。
(中略)
 今年になって、絵筆がにぎれない精神のじょうたいにいます。すこし評論をかこうかと思ひ、それによる自己成長をはかつております。自己と世界の対決で、日が暮れてしまふのです。一歩もうごけやしません。


東京国立近代美術館の「瑛九1935−1937闇の中で『レアル』をさがす」展に展示されていた山田光春宛の書簡と富松良夫宛の書簡はどこか違う雰囲気がある。尻込みせずに自論を主張する瑛九節は健在ではあるものの、言葉の端々に緊張感が漂っている。瑛九とほぼ同い年の山田に比べて良夫は7歳ばかり年上だった為かもしれないが、おそらく、それだけではない。書簡が書かれた時期は、杉田秀夫(瑛九)が画家を志してスタートを切った頃である。すでに詩集を出版している「文学者」と対峙して、自分は「絵描き」と称して考えを説明するも、まだ不慣れで硬さがある。良夫とは土俵は違っても同じ表現者としてシンパシーを感じていたようで、希望や自論をぶつけている。いわば、山田は何でも打ち明けられる同志で、良夫はもっとも身近な表現者の先輩という存在であったのかもしれない。瑛九はこの良夫との往復書簡を通じて「絵描き」として自己形成を図っていったのではないだろうか。

都城市立美術館_18「富松良夫宛 杉田秀夫書簡」(年代不詳、都城市立図書館所蔵)
上記の書簡より少し抜粋する。


 私の制作は量だけで、すこしもうまく行きませぬ。油絵之具になれることすらまだ中々に遠い事を思ふとちょっと困るので、わん力的大作にかりたてるわけです。

 「絵描き」同志ではないため、鼓舞するようなところはない。冷静に自分をふりかえって、良夫に報告している。

都城市立美術館_19ケースに入っている本は、富松良夫『詩集 黙示』1958年、龍舌蘭。
表紙は、瑛九の抽象的なフォト・デッサンで飾られている。上部の表題部分は帯状に裁断され、裏表紙の方に回り込んでいる。本書は、1954年良夫が亡くなったあとに編集された。表紙にフォト・デッサン、普及版にデッサン2枚(金属板印刷)、100部限定にエッチング2葉付きで販売された。


都城市立美術館_20本書に挿入されている作品。シュルレアリスムと抽象のあいだのようなスケッチである。タイトルはない。


都城市立美術館_21同書に挿入された作品。タイトルはない。細かな線は幾重にも重なり、花びらや貝殻のようなシルエットが見えてくる。それは、形を変え次第に上昇して消えてゆく、「言の葉」をあらわしているのだろうか。


以下に富松良夫の詩3篇を紹介したい。

   山によせて
ひかりの箭(や)をはなつ朝
山は霧のなかに生まれ
むらさきの山体は
こんじきの匂ひをもつ
あたらしい日を信じ
あたらしい世界のきたるを信じ
さらに深い山の発燃を信じ
にんげんの哀しさも
国の面する悲運のかげも
世界の精神的下降の現実も
わすれてはてるわけではないが
いまこのあざやかな
朝のひかりにおぼれ
悠々と非情の勁さにそびえてゐる
山にまなぼう


   聴く
ふかい夜のめざめ、しんとして揺るがない星の光を額にあてている、
わたしは信ずる、この秋の夜を徹る虫の音は白銀の穂尖だ
脳髄の心をすずしくすずしく刺しとおしてくる……繊やかさ
わたしの肉身はこゝに傾く、ああわたしはしづかに胸を反らすのだ
わたしは死なないであろう、そして無上にわたしは生きるのであろう
星にぬれ、露に濡れ、この窓にわたしの映像をいつまでも填め
わたしは信ずる、生存のはてしなく涼しいその一念を。


   雲
山は風に澄んでいる
凛然と霽れきつた山をわれはまつすぐに受けている
われは坐ったまま、白雲となつて飛ぶ
からだを透きとおらせ
白々と風とあらそう無際辺の旅をする
山脈を超えるとき、われはやまはだに触れて見るのだ
鋼いろのそのつめたさが胸にとおつてくるとき
爽々とわがこころを膊つ一脈の青韻があつた


良夫は日々の生活で得た刺激をあざやかな言葉にかえて、体験した感覚をよみがえらせようとしている。6歳で脊椎カリエスにかかり良夫の体は不自由であるが、詩は空中で生き生きと跳ねあがり、エネルギーに満ちている。情景豊かな表現は、秀夫(瑛九)の影響だろうか。以上のように瑛九と富松の二人の交流関係の結晶として展示されていた資料を詳しく見てみると、互いにいい影響関係にあったことが想像できる。

都城市立美術館_22参考資料:鈴木素直「同時代の軌跡―富松良夫と瑛九」(宮崎日日新聞、2001年11月16日)瑛九と富松良夫の関係を詩人鈴木素直氏は、新聞で次のような点を書いている。一部抜粋する。


・文学の道を歩む富松は美術への関心と共感に支えられ、画家瑛九の世界は文学に育てられた。一九二二、三年ごろから始まる友好関係の中で、文学と美術、さらに音楽の世界をたえずクロスさせながらお互いを刺激し続けた。

・両人とも「就職」することなく、経済的には恵まれない芸術創造だけの生涯を選んだ。

・兵役義務に従事していない。(中略)両人の負い目や戦争観の検証はあまりされていない。

・両人とも数多くの手紙を誠実にまた激しく書いている。


鈴木氏の指摘のとおり都城市立美術館の学芸員祝迫眞澄氏によると、富松関係資料の所在はあまりよくわかっていないという。書簡や瑛九の作品がどこかにある可能性は十分に考えられる。たとえば、愛知県美術館の山田光春アーカイブには、富松良夫に関係する書簡の写しやコピーが保管されている。

同じ宮崎県内でも「瑛九」については宮崎県立美術館(宮崎市)で展示されるという意識が高く、これほどまでボリュームのある展示はしてこなかったと語る祝迫学芸員。これを機に富松と瑛九の関係を、引き続き調査したいと意気込んでいた。

本展の続きは次回にまわし、
ちょっと寄道...

都城市立美術館のとなりには、市立図書館が併設されている。中に入ると、さすが都城市のスターである富松良夫のコーナーが設置されていた。良夫は、瑛九と連絡を取り合う前から美術に関心があり、1928年には絵画グループ「白陽会」を創立し、自らも絵筆を握っていた人物でもある。

都城市立美術館_23富松良夫『詩集 現身』龍舌蘭、1971年
本書の表紙も瑛九のフォト・デッサンで飾られている。


都城市立美術館_24オリジナルエッチング《雨》
雨のなかに妖しく佇む奇妙な構造物。わずかに開いた隙間を除くと何が見えるのだろうか。


都城市立美術館_25オリジナルエッチング《おとぎの国》
家々が立ち並び、全体的に賑やかな作品。3人の男女の他にも、よく見ると家のなかにも人の姿がある。傘をもつ男性に手を振り上げて挨拶をする人。太陽と星、光と影が同居する世界でどのような物語が展開されるのだろうか。


なかむら まき

●展覧会のご案内
瑛九芸術の迷宮へ「瑛九芸術の迷宮へ」
会期:2017年1月5日[火]〜2017年2月26日[日]
会場:都城市立美術館
休館:月曜(祝日・振替休日の場合、その翌日は休館)
時間:9:00〜17:00(入館は30分前)
主催:都城市立美術館
入館料:無料


 本展では平成27年度にテレビ宮崎から寄託された瑛九作品を中心に、過去にテレビ宮崎が収集した特別出品作品を加えた、写真や銅版画、リトグラフなど約80点を展示いたします。宮崎ゆかりの美術作品が散逸することを防ぎ、県内の文化・芸術を長く伝え残したいという理念のもと築かれたこのコレクションは、代表的な版画やフォトデッサンに加えて、初期の油彩画やガラス絵など。今までほとんど紹介されていない貴重な作品も含まれています。
 当館は開館以来、瑛九作品の収集と企画展示を行ってきましたが、この度の寄託を機会に、瑛九の画業全体がより広く理解されることとなりました。この展示を通じて、瑛九の自由な時代精神を感じ取っていただければ幸いです。(本展HP「ごあいさつ」より転載)
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ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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