瑛九について

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第22回

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第22回

埼玉県立近代美術館「版画の景色――現代版画センターの軌跡」


「現代版画センター」では、わずか11年の間で約80名の作家により700点あまりのエディションが積み上げられたという。今回の訪問先である埼玉県立近代美術館の展示では、青山以前の綿貫氏らの活動を知る好機となったばかりか、久保貞次郎の思想が同センターの人たちの中にミームとなって受け継がれ、それがまた多く美術家やそのコレクターのもとに届いていることを知った。「熱中せよ!」と、生前の久保貞次郎が教え子に言っていた言葉のとおり、展示室のそこかしこには、良い作家を全力で紹介しようとする、熱気に包まれていた。本展では、現代版画センターの活動の一部として、学芸員の選りすぐりの45名の作家が紹介された。

埼玉県立近代美術館01埼玉県立近代美術館入口。この日はあいにく曇り空であったが、格子状の建物と窓ガラスにやわらかな光が差しこみ、見事に調和していた。

埼玉県立近代美術館02展示室入口。グレーを基調としている今回の展覧会。図録をはじめ、ヴィジュアル・ブックの地色も同じくグレーである。版画の余白部分に入れられるサインやエディションなどをトリミングせずによく見せるためであろう。出品目録も版画に特化した仕様で、刷り師の名が加えられ、サインも自筆・スタンプ・刷り込みかどうかの違いまで分かるようになっている。コレクターや玄人好みの体裁で、非常に良くできていると思う。

埼玉県立近代美術館03入口をはいってすぐ、靉嘔の作品が展示されている。先陣を切る意味合いを含むアーティスト名で、期待を裏切らない定位置と華やかさに心が躍った。《虹の花》は、岡部徳三による刷りである。靉嘔の虹色のシルクスクリーンは、この人物あっての作品ともいわれるほどで、NYまで同行したことがあったという。展示の中盤のガラスケースにも《花の時間》などがあることから、同センターと靉嘔の付き合いの深さや彼の活躍ぶりを窺い知ることが出来る。

埼玉県立近代美術館04オノサト・トシノブのシルクスクリーン。
瑛九とは宮崎時代から長く付き合っている人物である。オノサトの作品も、安定的にコレクターが付いている作家のひとりである。オノサトもまた靉嘔と同様に展示は二ヵ所にあった。

埼玉県立近代美術館05関根伸夫が展示されているコーナー。もの派として活躍する中で、同センターを通じて制作された作品や活動もあった。《絵空事―風船》は、シルクスクリーンであるが、一部手彩色で一点ものの作品というニュアンスを含む。なお、プロジェクターで映し出された映像には、若かりし頃の関根の姿が見られるため、立ち止まって観てほしい。

埼玉県立近代美術館06『画譜』第3号特装版に添えられた戸張孤雁の後刷り。「新版画」を掲げたり、頒布会を開いたり、さらにアメリカ留学を果たした気高い人物である。若くして病に倒れ、その才能が惜しまれた。版画の普及活動も行っていた孤雁に対する尊敬の念もあったのだろう。


埼玉県立近代美術館07同センターで刊行された『版画ニュース』や『print communication』がファイリングされているコーナー。実際に手に取って読むことが出来る。展覧会、オークション、講演会、シンポジウムなど様々な活動が行われていたことが分かる。


展示を担当した埼玉県立近代美術館学芸員の梅津元によると、この展覧会の準備のために約3年を掛けて聞き取り調査と、次々と出てくる膨大な作品や史料と対峙をされたという。一見すると、奇を衒った印象を持つ企画展ではあるが、そもそも、従来の展覧会という枠組みでは納まり難い、圧倒的な情報と作品の質量であったため、結果として今の形に辿りついたと梅津氏は語った。確かに、作品の傾向を紐解くと、そこには、版画家だけでなく、画家、彫刻家、建築家、工芸家、映像作家までも制作していて、セットものの作品が数十点出品されている作家がいれば、1・2点しか出品していない作家までもいて、大小さまざまな形態である。また、質に着目すれば、加山又造のような日本画の作家の他、もの派、具体、デモクラート、自由美術、フルクサスなど、まさに多種多様な作家の作品が同じ展示室内に並べられているのである。作品ひとつを見ても、各々力のある独特の世界観を宿しているが、「現代版画センター」が中心に据えられていることで、個々の作品が独り歩きすることも、衝突することもなく、一括りの対象物として鑑賞できるようになっていた。作品の展示は、非常に気をつかったようで、アートフェアのように細かく区切られたブースが、一作家の個性を引き立たせていた。版画を中心した作品展とは思えないほど、躍動的でエネルギーに満ちていた。

埼玉県立近代美術館08島州一の作品。ジャンパー、ジーンズ、チェ・ゲバラをモチーフにしている作品もある。


埼玉県立近代美術館09(寄託含む)建築家磯崎新の作品。


埼玉県立近代美術館10菅井汲の作品。34点という本展で随一の出品数を誇る。さまざまなパターンの色面が和音を響かせながら変容する作品群で、ひとつひとつのメロディーをたどってゆくと、徐々に心が湧きたってくるような感覚があった。


埼玉県立近代美術館11山口勝弘の版画集『ANTHOLOGICAL PARINTS 1954-1981』に収録された作品。


「現代版画センター」を企画展として形成するために、梅津氏は次の3本の柱を立てたという。それは、「メーカーとしての現代版画センター」「オーガナイザーとしての現代版画センター」「パブリッシャーとしての現代版画センター」の3本である。「メーカー」としての活動は、オリジナル・エディションの制作と展覧会および頒布会であり、「パブリッシャー」としては、エディションの総目録をはじめニュースなどの刊行物の発行をしていたこと、「オーガナイザー」としては、数々の事業を自発的に行ってきたということを俯瞰してみることで浮かび上がったことで、展覧会では年譜や見取り図などでその影響力のほどを知ることができる。これは、三部構成となっている本展の図録にも「テキスト・ブック」「ヴィジュアル・ブック」「アトラス」というかたちで反映されている。要するに、現代版画センターが担った「メーカー」「パブリッシャー」「オーガナイザー」という3つの役割によって、作家だけではなく、コレクター、評論家、画廊、美術館、出版社とその他の異業種の者が分け隔てなく関わりあうことができて、それが結果として美術普及という大きな役割を果たしていたのである。まるで、台風の目のようだ。豪雨と強風により爪痕を残し、過ぎ去った後の空を仰ぐと雲一つない眩しいくらいの光で目の裏に残像をつくった。権力的・物質的なことだけではない「美術作品」を所有するという意味は、実に深いところから形成されていることを学んだ。

埼玉県立近代美術館12難波田龍起の作品。生前は瑛九を知る人物のひとりであった。


埼玉県立近代美術館13北川民次の作品。民次と次に紹介する瑛九、駒井哲郎の3作家は、現代版画センターのオリジナル・エディションではなく、特別にコレクション作品として展示している。


埼玉県立近代美術館14瑛九《海辺の孤独》1957年、リトグラフ、左下に鉛筆で「20/35」と右下に「Q Ei」のサインあり。


埼玉県立近代美術館15上の作品は、瑛九《離陸》1957年、リトグラフ、左下に鉛筆で「Epreuve d artiste」と右下に「Q Ei/57」あり。下の作品は、《着陸》1957年、リトグラフ、鉛筆により左下「1/20」と右下「Q Ei/57」とあり。


埼玉県立近代美術館16上から瑛九《作品2(works2 Yellow and Green)》1950年頃、木版、《作品1(works1 Yellow)》1950年頃、木版。
ともにインクで「瑛九作 谷口都」とあり。谷口都は、瑛九のパートナーである。瑛九が48歳という若さで逝去したあと、サインの無い作品にこのような署名をいれて、美術館や知人に預けた。

埼玉県立近代美術館17駒井哲郎の作品。

オリジナル・エディションではない3作家である北川民次、瑛九、駒井哲郎が本展に含まれているのは、その根底に好きな作家を後世に伝えるという意思とコレクターとして作品を所有する喜びを伝える上で、欠くことのできない存在なのだろう。

一方、現代版画センターがこれらの運動の軸としていた「オリジナル・エディション」づくりには、誰に版画制作の依頼をするかの会議を開き、様々な人に意見を募って決めていたという。この制作側と鑑賞者側(コレクター)が接点を持つ切っ掛けを「作品」を通じてつくるスタイルは、久保貞次郎が行っていた「小コレクター運動」が元になっていたと考えられ、梅津氏はこの運動が現代版画センターにスピリットとなって宿っているという。

ところで、小コレクター運動が本格始動するのは、1958(昭和33)年5月に真岡市の久保貞次郎邸で行われたのを第一回目とされているが、実はその一年前の1957年6月に「版画友の会」が発足し、頒布会が行われている。おそらく、これで手応えを感じ、継続的な運動へ発展することになったのであろう。丁度、久保が企てた小コレクター運動発足前の「会議」の様子を窺える書簡があるため、以下に紹介したい。

12月27日の夜、浦和の武さし野荘に、画家、蒐集家などのメンバーが集まり、良い画家を育てる方法とか、絵を集める話など、皆で一晩話し会いたいと云うプランをたてました。/27日の夜武さし野荘に10人位泊れるかどうか都合を聞いて、岩瀬さん宛返事を知らせて下さい。宿泊の金額も、その時知らせて下さいませんか。/大変ごめんどうなお願いですがよろしくお願いします。宿舎がOKなら通知はぼくの方でだします。その通知の時に印刷物に、発起人として、あなたとぼくの名前を使いたいと思いますが、よろしいでしょうか。要項は次の通りです。
…銘里鮟个好瓮鵐弌
アイオー、池田〔満寿夫〕、磯辺〔行久〕、木村利三郎、瑛九、尾崎〔正教〕、野々目〔桂三〕、大野〔元明〕、高森〔俊〕、砂山、ミセス野々目、岩瀬〔久江〕、長尾、高山和孝、伊藤善〔市〕、島崎〔清海〕、久保〔貞次郎〕、片岡(新潮社有望なる蒐集家の卵)
期日  12月27日午後1時〜28日昼解散
H駘僉 ―蒜馮饉己負担、会費150円
ぅ董璽沺〆廼瓩両霾鷂魎控擇啌┣茲僚集についての話し合い
ソ仞兵圓僚君に見せたい作品があったら、ご持参下さい。
以上の通りです。どうぞよろしくおねがいいたします。返事は折り返し至急お願いします。
久保貞次郎
m ikeda〔池田満寿夫〕
磯辺行久
岩瀬久江

(1957年12月20日付、久保貞次郎書簡より)※〔 〕は筆者による



上記のなかには、現代版画センターの創立に関わり、わたくし美術館運動を提唱した尾崎正教の名前があり、瑛九、池田満寿夫磯辺行久、靉嘔、木村利三郎の名前も確認することができる。この「武さし野荘」とは、浦和市常磐町(現在のひなぎく幼稚園のあたり)にあった公立学校共済組合による宿泊施設である。瑛九が浦和に移り住みついたころから、久保は、創造美育協会事務局を瑛九宅として、島崎清海を通じて重要な会議の場に武蔵野荘を選んでいた。小コレクターの会を発足するために話し合われた場が、埼玉県立近代美術館と同じ町内(常盤)というのは、やはりスピリットとしてこの土地に依拠しているからかもしれない。現代版画センターは、このような久保貞次郎の意志を引き継いだ持続可能な活動拠点となったことで、安定した作家支援と美術普及の形を実現した。

埼玉県立近代美術館18大沢昌助《机上の空論 黒》《机上の空論 赤》1982年、リトグラフ。
菅井汲竹田鎮三郎などの刷りも担当した森仁志(森版画工房)によるもの。世界最大級のプレス機を入れた2年後に制作された横2mを超す作品である。

埼玉県立近代美術館19右が内間安瑆の木版、左3点は藤江民のリトグラフである。共に版画とは思えないほど、色の表情が豊かである。


埼玉県立近代美術館20彫刻家舟越保武の石版画集に収録された作品。


埼玉県立近代美術館21資料閲覧および休憩スペース。展示室内に現代版画センターの関係資料が設置されているところは、3か所もあった。


埼玉県立近代美術館22柳澤紀子の銅版画。手彩色が施されている。


埼玉県立近代美術館23草間彌生の作品が展示されている風景。


埼玉県立近代美術館24建築家安藤忠雄のシルクスクリーン。


埼玉県立近代美術館25アンディ・ウォーホルのシルクスクリーンと1983年に行われた展覧会ポスターが展示されている。


埼玉県立近代美術館26映画作家ジョナス・メカスの作品。展覧会実行委員会との共同エディション。
常に新しいイメージを追い求め、新しい試みに挑戦していたことがわかる。

梅津氏によると、展覧会が始まると、当時勤めていた同センターのスタッフがあちこちから集まり、同窓会のように喜んでいたという。また、私のように当時を知らない鑑賞者は、ここまで熱く、ダイナミックな活動を展開していたことに驚く声も多かったという。

それから、本展図録の「A.テキスト・ブック」には、梅津元氏の論考に加え、細かく丁寧に取られた基本情報が収録されている。コレクターや初心者でも親しみ易い体裁にまとまっていて、『現代版画センターニュース』をはじめとする主要刊行物の総目録は、手元に置いておきたいものである。では、最後に1974年現代版画センターの創立後ほどなくして『版画センターニュース』(Vol.1,No.6、1975年7月20日)に掲載されていた「没後15年先駆者瑛九を囲む人々展」の開催文を下記に引用したい。

瑛九とはそもそも何者なのでしょう。瑛九には多くの友人と呼ばれる人、そして多くの弟子と伝える人々がいました。彼らは瑛九から学び、瑛九に何かを教えた人々です。その多彩な人間関係の中に、あのドロドロとした、洗練という言葉からは程遠い作品群があり、人間瑛九をめぐるドラマに尽きない興味が湧いて来るのは何故でしょう。靉嘔はじめ池田満寿夫、磯辺行久ら瑛九の教える人達のそのはじまりは、瑛九のタッチそのままであり、その後彼らは、各々の道を歩みながら着実にその世界を築いて行きました。作家瑛九は、同時に教育者、指導者瑛九でもあったわけです。

本展は、「現代版画センター」の活動全体を45名の作品から見るものであり、瑛九が特別に扱われていたわけではない。しかし、上記のように同センターの刊行物を参照すると、活動の起爆装置として、瑛九が挙げられていたことがわかる。この他にも尾崎正教、針生一郎、ヨシダ・ヨシエ、細江英公、北川フラム、難波田龍起などによる瑛九の関連記事が認められ、また、「ギャラリー方寸」のオープン企画も瑛九であったことも付け加えておきたい。(http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53192197.html

***

ちょっと寄道…


今回の取材先は版画に特化した展覧会であり、埼玉であることから、以前から伺いたいと思っていた金森茂のご遺族のところにおじゃました。瑛九が旧浦和市に越してきて、リトグラフ(石版画)を学んだのが常磐町1丁目にあった金森茂の印刷工場であった。金森茂(1911年8月12日〜1976年6月27日)は東京に生まれ、もとは京橋の印刷屋に勤めていた。太平洋戦争で焼け落ちたあと、浦和に疎開し、そのまま工場の拠点とした。

埼玉県立近代美術館27瑛九のアトリエとゆかりの地。瑛九は1951年9月〜1952年2月までは、仲町の関口留吉の借家に住み、1952年3月からは本太に戸建てのアトリエに落ち着き、晩年をここで過ごした。線路を挟んで、現在のうらわ幼稚園向かいのマンションあたりに金森茂の印刷工場があった。金森と知り合った翌年の1957年には、寺内萬治郎らによって進められた美術館建設運動が功を奏し、別所沼のほとりには「埼玉県立美術館」が開館している。建設前から行われていた埼玉県展では、瑛九が審査員に加わっていることから、美術館建設に向けて何らかの形で協力、もしくは作品の展示計画があった可能性も考えられる。なお、久保貞次郎の書簡にあった「武蔵野荘」の位置はポイントしたところで、都夫人が買い物にいっていた「太陽堂薬局」「魚屋(魚徳 新井)」や浦和での初の個展会場「コバルト画房」は、それぞれ店構えが変わっているものの現存している。浦和には、戦前から美術家が集まりはじめて、活動しやすい環境作りが地元美術家や美術教師によって行われていた。瑛九にとっても浦和での生活は、充実していたことが窺える。
(出典:山田志麻子「瑛九のアトリエ――浦和での足跡をたどって」、『公済時報』12巻5号、参考:「浦和市全図」1958年)


瑛九は、1956年3月頃から工場に来るようになった。そのきっかけを与えたのは、瑛九と共著(『やさしい銅版画の作り方』1956年、門書店)を執筆した美術教師島崎清海の紹介であった。瑛九は、昼過ぎくらいにいつも妻都を連れ立って工場に現れたという。金森茂は、名刺や賞状などの印刷の依頼を受けていた職人で、美術関係に通じる仕事はしていない。そのため、工場では、口数の多い方でもない金森から特別に瑛九が教わっている様子ではなかった。瑛九は、黙々と作業をする金森の背中を見て、技術を学んでいたようである。瑛九も特に話しかける様子もなく、お互い無口だった。瑛九は、2・3人の職人が仕事をしている横で、自身の制作の機会を伺っているようでもあったという。制作中、都は現場を見るわけでもなく、金森の妻と奥の掘り炬燵に入って「おしゃべり」を楽しんでいたという。また、瑛九と都は、時々金森家でご飯を食べて帰る家族ぐるみの付き合いをしていた。巨大な口のようなイメージのリトグラフ《拡声器》《森の中》《大喰い》は、金森家に足を運んで着想を得たのかもしれない。

話を伺っていた中で、特に気になったのは、金森茂がたとえ中古であっても仕事道具の石板を譲るつもりになったことである。出会ってすぐに譲ったわけではないことから、瑛九のリトグラフに対する真摯な姿勢を認めたからではないかと想像する。瑛九が福井の美術教師木水育夫に送った書簡の中では、熱っぽく自らを「リト病」「職人のよう」と表現するほど、リトグラフにのめり込んでいた時期である。

埼玉県立近代美術館28金森茂のご遺族が所蔵するエッチング1点とリトグラフ2点。右上《赤いシグナル》1956年、リトグラフ、左下「7/10」、裏に「瑛九内 谷口都」サイン
右下は、《鳥と女》後刷り、エッチング、1953制作(版画集『瑛九・銅版画 SCALE II』1975)、鉛筆で左下に「48/60」と右下にスタンプサイン、裏に「瑛九内 谷口都」サイン
《太陽の下で》1956年、リトグラフ、左下に「5/14」、裏に「瑛九内 谷口都」サイン


調査には、長女久枝氏と孫孝司氏にご協力いただいた。また、今回は、金森茂の調査から突然に瑛九のアトリエの話に大きく飛躍し、特別にアトリエにも訪問することとなった。

埼玉県立近代美術館29瑛九のアトリエ兼住宅の外観。
孝司氏は、瑛九に会ったことは無かったが、小さい頃、犬に会うために来ていたという。瑛九はもともと犬嫌いであったが、犬の本を読んだら克服できて、犬を飼うようになった。

埼玉県立近代美術館30表から玄関に向かう敷石。
瑛九や池田満寿夫、靉嘔、細江英公、河原温、磯辺行久等も歩いたのだろう。

埼玉県立近代美術館31「アトリエでくつろぐ瑛九」(出典:「思わず誰かに話したくなるアートの話 美のひととき展」)

埼玉県立近代美術館32宮崎県立美術館で作成されたアトリエ内の見取り図(出典:「思わず誰かに話したくなるアートの話 美のひととき展」)瑛九が使用していた画材道具などは、宮崎で保管されている。常設展には瑛九のコーナーが設置され、アトリエ内の再現展示を行うこともある。


埼玉県立近代美術館33現在の瑛九のアトリエ内部。瑛九の作品は一点もない。瑛九が逝去して58年が経過し、都夫人の居住空間になっている。展示で使用したであろうパネルを捨てずに立てかけているところをみると、都夫人は人を招いたときの解説用として使用していたのだろうか。また、瑛九のいないアトリエにならないために写真を置いて、寂しさを紛らわしているのかもしれない。


埼玉県立近代美術館34梁と壁面の間には、珍しい細工が施してある。真っすぐではない自然のままの木材も親しみやすくて良いと思った。


埼玉県立近代美術館35今回、撮影に同行いただいた久枝氏は、アトリエがじきに無くなると話していた。
お皿の網目模様が、瑛九のフォト・デッサンに入れられた模様と重なって見えた。光を通さない皿の模様が印画紙に写るわけはないが、困惑しながら瑛九の痕跡を探そうとシャッターを切った。
瑛九のアトリエについては、うらわ美術館学芸員の山田志麻子「瑛九のアトリエ――浦和での足跡をたどって」(『生誕100年記念瑛九展』2011)に詳しく書かれている。

埼玉県立近代美術館36この戸を開けると、すぐに庭が続いている。瑛九がいた頃、ここはよく開け放たれていた。久枝氏が若かったころ、瑛九のいるこの前を通るとき、緊張してしまい避けていたと語った。右側に設置されている蛇口は、フォト・デッサンを現像するときに使っていたようだ。

埼玉県立近代美術館37室内で手鏡が掛かっているのを見つけた。おそらく、瑛九の次のフォト・デッサンのモチーフになっていたものである。

埼玉県立近代美術館38《お化粧》1954年、フォト・デッサン、宮崎県立美術館蔵(出典:『瑛九フォト・デッサン展』2005)

瑛九のアトリエをこのまま取り壊してしまうのは惜しいと、長年思い続けていただけに、今回このような形で紹介できて良かったと思う。2011年の3館共同の「生誕100年記念瑛九展」開催時にも周りからの勧めもあって、意見を伺うためにあちこちの瑛九関係者を尋ね歩いたことがあった。元は手元に置いておくための記録だが、今回のアトリエの話題に関連するものとして、一部公開することにした。なお、都夫人の他はすべて名前を伏せ、プライベートに関わるところは割愛した。



瑛九のアトリエ保存に関する聞き取り> 
実施期間:2011年6月6日〜11月6日
2011年7月4日 谷口ミヤ子(瑛九夫人):アトリエを残すことは、賛成。本当なら茅葺き屋根のまま残しておきたかったと話す。屋根が傷んでから、本当は葺き直したかった。今は、瓦屋根になっている。アトリエには、池田満寿夫や靉嘔たちが来て、電車が無くなるギリギリまでおしゃべりしていて、いつも走って帰っていった。皆、若かったから、「私が食べさせなければいけない」と思って、都は自転車で野菜を安く売ってくれるところまで買いに行っていた。満寿夫は、珍しく生魚が食べられず、都が漬けた漬物は喜んで食べた。

その他、瑛九関係者及び瑛九の作品を扱う美術関係者11名:アトリエに関して聞き取りを行ったところ、概ね4本の課題があることがわかった。
仝⇒関係の明確化/⊇ね、移築、管理するための資金源/A反イ鼎り/こ萢冓法について。以下には、簡単にまとめたものを掲載する。

仝⇒関係の明確化
・現在、アトリエの所有者や権利関係は誰にあり、その後は、どこで所有することにするのか。遺族か、近所の世話人か、市・県か? 権利が遺族や世話人にあるのなら、解放して利用して良いか交渉する必要がある。
・敷地(アトリエ)が担保になっている可能性がある。
・瑛九のアトリエに関して、(他人が)動くべきではないのでは。
・今はプライバシーの関係で、個人に踏み込んで聞くことができない。そのため、所有権がどこにあるのかわからない。著作権については、以前、親族関係ではない人が持っていた。(数年前に切れている)
・谷口ミヤ子さんが万が一亡くなったとして、そのあとの所有者がはっきりしないと保存会も立ち上げられない。
・ミヤ子さんの世話人に事情を伺う必要がある。

⊇ね、移築、管理するための資金源
・おそらく、アトリエの運営・管理を行政に頼むと、断られるだろう。
・市や県は、財政上負担したくないはず。
・民間(ボランティア)で運営・管理するとして、行政には補助金や広報のバックアップを頼むなどの方法がある。ただし、民間で運営・管理を負担する場合、市・県には「土地利用」として申請することになり、商品等の販売ができなくなる。
・募金をつのる。アトリエの修復・維持管理費。また光熱・水道・人件費。これらを賄えるだけの資金が回収できるのか。
・埼玉が無理なら宮崎に移築してもいいのでは。
・アトリエにものがなく、都さんの生活した跡が色濃く残っている。もし、アトリエを開放するのであれば、瑛九が現存していた当時を再現しなければならない。
・宮崎県立美術館でアトリエを移築する計画があった。現在はわからない。
・アトリエを残すなら埼玉でしか意味をなさない。
・アトリエの状態がとても悪い。シロアリやネズミの被害がある。
・宮崎に移築する計画はあったが、県民の同意を得るのは、現状として難しく、動くことは不可能。
・「わの会」に瑛九の作品を所有するコレクターがいて、資金があるのでは。
・美術館の経営も難しい昨今、アトリエを市で管理するのは難しい。
・公開したときに誰がアトリエを管理するのか。
・ヒアシンスハウスと違い、(移築したとしても)広い土地が必要。
・アトリエの維持管理という面だけではなく、建物と庭の時価が相当上がっているはずである。買い取るとなると億単位になるのではないか。少なく見積もっても1億。以前、レイモンドの建築を保存するため民間団体で活動したことがある。そのときは、3億で落としたが、結局、維持管理が難しく、市に寄付することになった。建築の管理を民間で行うのは、今のご時世では無理だろう。

A反イ鼎り
・さいたま市では、ヒアシンスハウスの前例がある。ヒアシンスハウスの建設に関わった人に相談すること。市とどのように話し合ったのか。人と資金はどのように集めたのか。
・ヒアシンスハウス設立までの経緯。文芸と建築の団体が協力している。建築の団体はボランティアにも定期的に入り、運営に大きく関わっているという。
・市または県に何を求めるか、説得をどうするのか。
・保存活動をするならば、組織を明確にしたほうがいい。どういう団体なのか。具体的な活動内容をまとめ、客観的に見えやすくする必要がある。また、著名人を募り、どのような職種の人物が組織にいるのか、外から見ても分かりやすくするといい。
・実際に動ける若い人を集める。美術に限らなくてもいい。地域の人。学生、建築家、行政に詳しい人物。
・アトリエの保存には賛成だが、主要メンバーとして活動するのは無理。
・有名な人を先に味方につければ、鶴の一声で実行可能でしょう。
・立場上、保存会に参加するのは難しいが、できるだけ協力はしたい。
・今は無理でも地域で呼びかけがあれば県も動くかもしれない。青木繁のアトリエ保存が現在進んでいる。ほかにも実現したケースはあるはず。

こ萢冓法
・瑛九展開催中にアトリエを保存するよう呼びかけてはどうか。まだあるのに勿体ない。地域で残すべき。
・瑛九のアトリエは残すべきだと思っている。
・瑛九のアトリエの保存には賛同したい。浦和には画家のアトリエが点在しているが、親族が抱えきれなくなり壊された例が数件ある。瑛九のアトリエと奥瀬英三のアトリエは残していきたい。
・活用方法を明確にしないと難しい。
・将来的にアトリエをどのように活用するのか。
・修繕・保存するだけではいけない。利用価値と目的を明確にする必要がある。
・かつて「瑛九のサロン」と呼ばれていたアトリエ。議論の場を提供、都さんの漬物を再現。アトリエに通っていた芸術家には、池田満寿夫、細江英公、AY-O、河原温、磯辺行久がいる。聞き取り調査等が必要だが、これらを売りにできるのでは。
・瑛九のアトリエを宮本三郎記念館のように、美術館の別館として存在させるのが理想ではないか。
・財産(作品等)がない状態で何を売りとするのか。
・アトリエにあった作品は、すべて埼玉や宮崎の美術館へ寄贈されている。その他、画材やエッチングプレス機は、宮崎県立美術館が所蔵しているため、展示は無理ではないか。ものがないとアトリエとして公開する価値はない。
・瑛九は埼玉の画家であり、アトリエは地域の財産である。

以上

なかむら まき


◆埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が開催されています。現代版画センターと「ときの忘れもの」についてはコチラをお読みください。
詳細な記録を収録した4分冊からなるカタログはお勧めです。ぜひご購入ください(2,200円)。
会期:2018年1月16日(火)〜3月25日(日)
埼玉チラシAY-O600現代版画センターは会員制による共同版元として1974年〜1985年までの11年間に約80作家、700点のエディションを発表し、全国各地で展覧会、頒布会、オークション、講演会等を開催しました。本展では45作家、約280点の作品と、機関誌等の資料、会場内に設置した三つのスライド画像によりその全軌跡を辿ります。

○<(西洋美術館)新館の版画素描展示室で開催中の「マーグ画廊と20世紀の画家たちー美術雑誌『デリエール・ル・ミロワール』を中心に」
なにか埼玉県立近代美術館で開催中の『版画の景色 現代版画センターの軌跡』と通じるものがありましたね。

(20180316/タカハシさんのtwitterより)>

○<#埼玉県立近代美術館 の#版画の景色 展覧会を見てきましたよ〜
版画オールスター展覧会みたいで、とても面白かったです!

(20180121/uma_kunさんのinstagramより)>

○<日本に請われてウォーホルが描いた原画を元に日本の職人が摺ったキクが何とも言えない色合いで素敵でした。「版画の景色 現代版画センターの軌跡(埼玉県立近代美術館)」
(20180317/k_2106さんのtwitterより)>

西岡文彦さんの連載エッセイ「現代版画センターという景色は1月24日、2月14日、3月14日の全3回掲載しました。
草創期の現代版画センターに参加された西岡さんが3月18日14時半〜トークイベント「ウォーホルの版画ができるまでー現代版画センターの軌跡」に講師として登壇されます。

光嶋裕介さんのエッセイ「身近な芸術としての版画について(1月28日ブログ)

荒井由泰さんのエッセイ「版画の景色―現代版画センターの軌跡展を見て(1月31日ブログ)

スタッフたちが見た「版画の景色」(2月4日ブログ)

倉垣光孝さんと浪漫堂のポスター(2月8日ブログ)

嶋吉信さんのエッセイ〜「紙にインクがのっている」その先のこと(2月12日ブログ)

大谷省吾さんのエッセイ〜「版画の景色−現代版画センターの軌跡」はなぜ必見の展覧会なのか(2月16日ブログ)

植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ 第47回(3月4日ブログ)

土渕信彦さんのエッセイ<埼玉県立近代美術館「版画の景色ー現代版画センターの軌跡」展を見て(3月8日ブログ)

現代版画センターに参加した刷り師たち(3月11日ブログ)

現代版画センターの生みの親 井上房一郎と久保貞次郎(3月13日ブログ)

塩野哲也さんの編集思考室シオング発行のWEBマガジン[ Colla:J(コラージ)]2018 2月号が展覧会を取材し、87〜95ページにかけて特集しています。

毎日新聞2月7日夕刊の美術欄で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が紹介されました。執筆は永田晶子さん、見出しは<「志」追った運動体>。

○3月4日のNHK日曜美術館のアートシーンで紹介されました。

朝日新聞3月13日夕刊の美術欄で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が紹介されました。執筆は小川雪さん、見出は<版画に込めた情熱と実験精神>。

○月刊誌『建築ジャーナル』2018年3月号43ページに特集が組まれ、見出しは<運動体としての版画表現 時代を疾走した「現代版画センター」を検証する>。

○埼玉県立近代美術館の広報誌 ソカロ87号1983年のウォーホル全国展が紹介されています。

○同じく、同館の広報誌ソカロ88号には栗原敦さん(実践女子大学名誉教授)の特別寄稿「現代版画センター運動の傍らでー運動のはるかな精神について」が掲載されています。
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現代版画センターエディションNo.643〜No.650 岡田隆彦・柳澤紀子 詩画集『海へ』
現代版画センターのエディション作品を展覧会が終了する3月25日まで毎日ご紹介します。
表紙奥付

岡田隆彦・柳澤紀子 詩画集『海へ』
岡田隆彦:詩8篇
柳澤紀子:版画(銅版+手彩色)8点
刷り:山村兄弟版画工房
装幀:五十嵐恵子
発行日:1984年5月23日
発行者:綿貫不二夫、原勝雄
発行所:現代版画センター、浜松アートデューン
印刷・製本:クリキ企画印刷株式会社

サイン岡田隆彦サイン

I
I 詩

I
また海へ出るのだ、
荒れ狂う心をしずめるために。
おれの小舟よ、涙をぬぐえ!
行方知れずの母よ、
おれはいま、波を押しかえす。

II
II 詩

II
自分を洗っている海へ。
(語るなかれ) 海へ。
時が結晶してゆく、
したたかな器官のような
石のごとく物言わぬかたちへ
泳ぎついて、おれはつかむ。

III
III 詩

III
港の灯はクイーンズ・ネックレス。
船は和音を静かに食べている。
青い風は嗚呼、若い草を吹く。
溺れてしまいたい、だが
必ず浮上する。

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

パンフレット_05
出品作家45名:靉嘔/安藤忠雄 /飯田善国/磯崎新/一原有徳/アンディ・ウォーホル/内間安瑆/瑛九/大沢昌助/岡本信治郎/小田襄/小野具定/オノサト・トシノブ/柏原えつとむ/加藤清之/加山又造/北川民次/木村光佑/木村茂/木村利三郎/草間彌生/駒井哲郎/島州一/菅井汲/澄川喜一/関根伸夫/高橋雅之/高柳裕/戸張孤雁/難波田龍起/野田哲也/林芳史/藤江民/舟越保武/堀浩哉 /堀内正和/本田眞吾/松本旻/宮脇愛子/ジョナス・メカス/元永定正/柳澤紀子/山口勝弘/吉田克朗/吉原英雄

ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサートのご案内
第7回 愛といのち

日時:2018年4月3日(火)18:00〜
会場:ときの忘れもの
出演:メゾ・ソプラノ/淡野弓子
   スクエアピアノ/武久源造   
プロデュース:大野幸
*要予約=料金:1,000円
予約:必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申し込みください。

info@tokinowasuremono.com

◆ときの忘れものは「植田正治写真展ー光と陰の世界ーPart 供を開催しています。
会期:2018年3月13日[火]―3月31日[土] 11:00-19:00
※日・月・祝日休廊(但し3月25日[日]は開廊
昨年5月に開催した「Part I」に続き、1970年代〜80年代に制作された大判のカラー作品や新発掘のポラロイド写真など約20点をご覧いただきます。
201803_UEDA

●書籍・カタログのご案内
表紙植田正治写真展―光と陰の世界―Part II』図録
2018年3月8日刊行
ときの忘れもの 発行
24ページ
B5判変形
図版18点
執筆:金子隆一(写真史家)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
価格:800円(税込)※送料別途250円

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植田正治写真展―光と陰の世界―Part I』図録
2017年
ときの忘れもの 発行
36ページ
B5判
図版33点
執筆:金子隆一(写真史家)
デザイン:北澤敏彦(DIX-HOUSE)
価格:800円(税込)※送料別途250円


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
20170707_abe06新天地の駒込界隈についてはWEBマガジン<コラージ12月号>をお読みください。18〜24頁にときの忘れものが特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

比田井一良「瑛九の初期印画紙作品について」

「瑛九の初期印画紙作品について」

銀遊堂 比田井一良

小さな写真作品が一点「ときの忘れもの」に入ってきました。
キャビネサイズのそれは、山田光春著『瑛九 評伝と作品』第一章・萌芽期の扉に<「踊り子」フォトグラム ’31>として掲載されている作品と同一のもので、前年にオリエンタル写真学校に入学した瑛九弱冠二十歳の作品ということになります。ちなみにオリエンタル写真学校の修業期間は三ヶ月で、彼の二年後には植田正治が入学しています。
*山田光春著『瑛九 評伝と作品』(1976年 青龍洞)27ページ所収

山田光春瑛九伝600山田光春著『瑛九 評伝と作品』(1976年 青龍洞)

山田光春瑛九伝27ページ600
同書27ページ


01<写真1 オリジナル画像>
ゼラチンシルバープリント(印画紙)
サイズ:14.6×10.6cm

書籍に印刷されていた写真は今回のヴィンテージプリントより濃度があるように見えますが、これは印刷用に使った別なプリントが有ったのかも知れず、またヴィンテージプリントの経年変化によるという理由もあるでしょう。
だがしかし一見してわかるように、これはフォトグラム作品ではありません。むしろ普通にカメラで撮影された作品のように見えます。ではこの不思議なプリントはどういう方法で作られたものかその説明が聞きたい、というのが綿貫さんからの設問でした。
作品を拝見した後、おそらくこういう方法だろうという推定を口頭でご説明したのですが、言葉の説明だけでは十分ではないので、推定に従って実際に同じようなプリントを作ってみましょうという事になりました。
推定した方法は二種類で、撮影時の二重露光と、プリント時のネガの重ね焼きです。

以下、製作実験の過程を、順を追って説明いたします。
まず、プリント制作のための素材を準備します。一つは女性の顔のアップの写真です。背景が黒いものを選びます。

もう一つは踊り子の写真です。瑛九作品では踊り子の別々の写真を三点別々に用意していますが、今回は再現実験なのでそこは簡略化して、同じ写真を三点大きさだけを変えたものを作りました。踊り子の写真は、切り抜いて黒紙の上にレイアウトしてコラージュを作ります。黒紙は普通の黒画用紙を使いました。

02<写真2 踊り子たち複写の様子>


撮影時の二重露光の方法では、「顔アップ」の写真を複写した後、フィルムを巻き上げずにそのまま「踊り子たち」のコラージュを複写します。
ネガシートの一列目中央のネガがその結果で、二つの画像が重なって写っています。

03<写真3 ネガシート>


このネガからプリントしたものが次の写真です。

04<写真4 二重露光>


この方法は手順が簡単なので製作は比較的容易なのですが、二つの画像の位置関係が撮影時に決定されてしまい、あとで修正できないという欠点があります。この作例でも踊り子たちのレイアウトが右に少しずれていて、画面にまとまりがありません。
これに対してプリント時のネガの重ね焼きでは、「顔」と「踊り子たち」を別々に複写します。その際に露光を変えて何種類かのネガを作っておきます。ネガシートの二列目以下がその結果です。
プリントのときに二枚のネガを重ね合わせて引き伸ばし機にセットしますが、そのときに二枚のネガの相対的な位置関係をずらすことができるので、合わせ具合のレイアウトを確認しながらプリントすることができます。

05<写真5 重ね焼き1>


この作例では、ネガシートの二列目左から二枚目のネガと四列目右から三番目のネガを重ね合わせてプリントしています。ネガの重なり具合を調整したので踊り子たちをうまく中央にレイアウトすることができました。この方法にはもう一つ良い点があって、重ね合わせるネガの濃度を変えることでプリントの印象を大きく変えることができます。次の作例では、ネガシートの二列目一番右の薄いネガと、前と同じ四列目右から三番目のネガを組み合わせています。結果は顔が暗くなって、踊り子たちが浮かび上がってきます。このようにしてネガの組み合わせを変えることで、いろいろなトーンのプリントを作ることができます。

06<写真6 重ね焼き2>


二重露光と重ね焼きのこの二つ方法は、手順は違いますが結果はほぼ同じになるので、瑛九がどちらの方法でやったかは残念ですが確定できません。位置合わせの問題も、画家瑛九だったらはじめにコンテを描いて、かなり正確に構図を決める事ができたかも知れません。

この作品のネガが現存しているかは不明だそうですので、以上のことは推測の域を出るものではありません。もしネガを見ることができれば、話は簡単に済んでしまうと思われます。しかし「まったく同じ」とは言えないにせよ「かなり似ている」プリントができたので、今回の推理は大きく的外れではないと思っています。
ひだい かずよし

*画廊亭主敬白
2017年最後のビッグニュース
長いこと瑛九を追いかけていると、珍しい作品に遭遇することがありますが、今回私たちが入手した印画紙作品は間違いなく超弩級、瑛九の最初期の写真作品の発見です。
瑛九が少年の頃からカメラを買ってもらい、多くの写真を撮ったことはよく知られています。撮影された写真は当時の写真雑誌『フォトタイムス』1931年10月号などに掲載されている。
ところが今回ご紹介する「踊り子」という作品、名著の誉れ高い山田光春『瑛九 評伝と作品』第一章の扉にどーんと掲載されているので瑛九に詳しい方なら誰でも知っている(はず)。実物がなかなか見つからなかった。しかも山田さんがつけたキャプションが問題です。
図版の右肩に<「踊り子」フォトグラム ’31>とあります。サイズの表記はありません。
不思議なのは<フォトグラム>と技法を表記していることです。
ご承知のとおり、瑛九が創始した(造語した)フォトデッサンという技法は=フォトグラムです。カメラ(フィルム)を使わず、印画紙に直接光をあてて制作するのがフォトグラム=フォトデッサンです。プリントの専門家比田井一良さんが指摘するごとく、この作品はどう見てもフォトグラム(=フォトデッサン)ではありません。
山田さんの同著には油彩、水彩、リトグラフ、銅版、吹きつけ、フォトデッサン、フォトコラージュなどの画像が多数掲載されていますが、<フォトグラム>としているのは27ページの「踊り子」ただ一点だけです。
山田さん自身この作品が他の印画紙作品と異なる技法によって作られた(らしい)ことを承知していたと思われるのですが、では何なのか、わからなかった(のではないか)。
苦し紛れに<フォトグラム>とつけたのではないかと亭主は邪推しています。
今回名プリンター比田井さんに教えを乞うたところ、再現実験までしてくださいました。感謝の言葉もありません。ありがとうございました。

◆冬季休廊のお知らせ/ときの忘れものは本日12月29日(金)から新年1月4日(木)まで休廊します。
画廊は休みますが、ブログは年中無休。年末年始もどうぞご愛読ください。

◆埼玉県立近代美術館で新春1月16日〜3月25日の会期で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」が開催されます。
会員制による共同版元として現代版画センターは1974〜1985年に約80作家、700点のエディションを世に送り出しました。全国各地で展覧会、頒布会、オークション、上映会、講演会、パネルディスカッション等を頻繁に開きましたが、今回の展覧会では、その中から埼玉近美が選んだアンディ・ウォーホル、瑛九など45作家、約300点の作品と、11年間に発信された機関誌など資料が一部展示換えをしながら展観されます。
パンフレット_04


●書籍のご案内
版画掌誌5号表紙600
版画掌誌第5号
オリジナル版画入り美術誌
ときの忘れもの 発行
特集1/ジョナス・メカス
特集2/日和崎尊夫
B4判変形(32.0×26.0cm) シルクスクリーン刷り
A版ーA : 限定15部 価格:120,000円(税別) 
A版ーB : 限定20部 価格:120,000円(税別)
B版 : 限定35部 価格:70,000円(税別)


TAKIGUCHI_3-4『瀧口修造展 III・IV 瀧口修造とマルセル・デュシャン』図録
2017年10月
ときの忘れもの 発行
92ページ
21.5x15.2cm
テキスト:瀧口修造(再録)、土渕信彦、工藤香澄
デザイン:北澤敏彦
掲載図版:65点
価格:2,500円(税別) *送料250円
*『瀧口修造展 I』及び『瀧口修造展 II』図録も好評発売中です。


安藤忠雄の奇跡安藤忠雄の奇跡 50の建築×50の証言
2017年11月
日経アーキテクチュア(編)
B5判、352ページ
価格:2,700円(税別) *送料:250円
亭主もインタビューを受け、1984年の版画制作始末を語りました。
ときの忘れもので扱っています。

国立新美術館の「安藤忠雄展―挑戦―」は、大盛況のうちに終了しました。
展覧会については「植田実のエッセイ」と「光嶋裕介のエッセイ」を、「番頭おだちのオープニング・レポート」と合わせ読みください。
ときの忘れものでは1984年以来の安藤忠雄の版画、ドローイング作品をいつでもご覧になれます。


●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
新天地の駒込界隈についてはWEBマガジン<コラージ12月号>をお読みください。
ときの忘れものには小さな庭があります。彫刻家の島根紹さんの作品を2018年1月末まで屋外展示していますので、ご来廊の折にはどうぞご覧ください。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第21回

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第21回

富岡市立美術博物館
平成29年度 常設展示
「昭和の前衛―日本のシュルレアリスムと作家たち―」


今回の訪問先は、富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館。その名称のとおり、美術館・博物館・記念館の機能が融合した複合施設である。また、道を挟んだ斜め向かいには、県立自然史博物館もあり、まさに知の集積地となっている場所である。今回は有難いことに、肥留川裕子学芸員から画廊宛に瑛九の作品を展示しているというお知らせを受けて、取材することが叶った。

富岡市立美術博物館_01一面灰色の空から出現したかのような雲形の屋根を持つ建物。聞くところによると、富岡の山(建物のある地形)から着想を得て設計されたという。特徴的な建物であることから、建築を学ぶ学生たちが見学に訪れることもある。設計は、東京都現代美術館の設計も手掛けた建築家柳澤孝彦(1935-2017)である。


富岡市立美術博物館_02入口に続く回廊を歩いていると、来館者を観察するような視線を注ぐ女性像がある。見慣れない者を見て「あら、遠いところよく来たね」と声を掛けてきそうな表情を浮かべている。こちらは、掛井五郎《母》(1991)の作品である。


富岡市立美術博物館_032階ロビーには、開けた休憩スペースが広がっている。天候や季節によって刻一刻と変わる空をガラス越しに望むことが出来る。ここには、コーヒーメーカーも設置されており、展示を観て疲れた身体に嬉しいセルフ式の挽きたてコーヒーを楽しめるサービスもある。この他に館内は、1階に市民ギャラリー、ミュージアムショップ、図書室を配し、2階には、郷土資料展示室、企画展示室、常設展示室、福沢展示室1〜3があり、各展示物にあったスペースを備えている。


富岡市立美術博物館_04展示室入口。本展の開催動機ともいえる、郷土作家の福沢一郎(1898-1992)の存在は大きく、福沢と同世代の画家に着目し、特に1920年代後半から30年代後半にかけての作品に見受けられたシュルレアリスムの表現に注目している。


展覧会の冒頭では、以下のような紹介がなされている。「本展では、当館の収蔵作品から戦前〜戦後にかけて活動し、シュルレアリスムの影響を受けた作家たちとその作品をご紹介します。彼らは昭和という激動の時代の中で、シュルレアリスムを通して何を描き出そうとしたのでしょうか。彼らの作品を通して、昭和期に花開いた日本の前衛絵画の一端に触れていただければと思います」
肥留川学芸員は、日本人画家によるシュルレアリスムの作品を積極的に公開することで、西洋の「シュルレアリスム」についての理解度ではなく、一人一人の作品の特徴を浮き彫りにしていきたいと語り、一点一点の作品について解説していただいた。

富岡市立美術博物館_05右側の120号の大きな油彩は古沢岩美(2012-2000)の作品。戦後に再制作された作品である。古沢は福沢一郎等と共に1939年に立ち上げた美術文化協会の同人である。


左側2点は築比地正司(1910-2007)の作品。彼は群馬県邑楽郡出身で、中学卒業後に上京し、川端画学校を経て1929年東京美術学校に入学した人物である。1938年から約2年間福沢絵画研究所に通っていた。展示中の戦前の作品は、アカデミックでありながらも、シュルレアリスムのような異空間を演出していることから、福沢一郎の影響が考えられる例である。戦後は、農民の生活風景を描いたことから、地元では「群馬のミレー」と称されているという。

富岡市立美術博物館_06右から早瀬龍江(1905-1991)、杉全直(1914-1994)、白木正一(1912-1995)の作品が並ぶ。彼らは福沢絵画研究所に通っていた画家として紹介している。
杉全直は、東京美術学校在学中に所属していたグループ「貌」で、福沢一郎を招いた研究会を開くほど、早くから福沢に傾倒していたようである。1942年制作の《土塊》はシュルレアリスムに興味を持っていた当時の作品である。


富岡市立美術博物館_07こちらは、早瀬龍江と白木正一の作品である。2人は、福沢絵画研究所に通っていた当時に意気投合し、夫婦になった。1958年からはニューヨークに住み、制作活動を展開し、帰国した1989年以降は埼玉県飯能に住み、画廊や美術館で作品を発表した。彼らが夫婦になる前後や渡米する前後の表現の違いにそれぞれ注目して欲しいと肥留川学芸員は語る。特に早瀬の《戯れ》は、それ以前のヒエロニムス・ボス風の奇怪な空想上の生きものを描いていた《楽園》《水の中》の頃とは違い、自己の内面をえぐり出した「自画像」を描き、内向的な視点を外に向かわせようとする試みが見えてくる。


富岡市立美術博物館_08画像は、瑛九の作品《曲乗り》(1955-56年、油彩・カンヴァス、60.5×73.0)および《母》(1953年[1974年刷]エッチング・紙、29.3×24.0)である。《曲乗り》の大きな車輪の下には、「Q.Ei 55-6」という書込みがある。


前者のタイトルである《曲乗り》は、自転車にまたがり曲芸を披露する人物と考えられ、回転する車輪を象徴するような同心円が背景に描かれ、サーカスの高揚感が色彩で以て表現されている。多くのシュルレアリストにとって、サーカスは格好の題材として取り入れられていたが、具体的に新聞やサーカス史を調べてみると、戦前から戦後に掛けて様々なサーカス団が技を競い合っていた時期と重なっていることが分かる。ただの想像や模倣ではなく、実際に実物を見てからイメージを変容していった可能性も否定できないのである。大正2年頃には、自転車がサーカスの演目に加えられていることが、新聞などから辿ることができ、特に「日本アームストロング」という団体は、海外遠征をするほど躍進を遂げていたことが先行研究で明らかになっており、自転車5人曲乗りや一輪車の曲乗りが披露されていた(阿久根巌「木下サーカス草創期の記録を探す」『木下サーカス生誕100年史』2002年)。また、作品が制作された前年1954年については、木下サーカス団が丸テントを設置する興行スタイルをはじめた年であり、一般層も気軽にサーカスを観覧できるようになったと考えられ、新聞などではサーカスに関するニュースが度々報じられた。

富岡市立美術博物館_09参考資料:「日本アームストロング一行木下巡業隊」絵葉書より


なお、瑛九にかんしては、サーカス団員の姿を捉えようとしただけではなく、都夫人の自転車を乗る姿も重ねているともいえないだろうか。というのは、都夫人によるとさいたま市(旧浦和市)にアトリエを構えた1950年代、彼女はよく自転車に乗って野菜を買いに出かけていたのである。特に自転車に乗ることが出来なかった瑛九は、都夫人の自転車を乗りこなす姿を見るうちに、いつしかサーカス団員のイメージを思い浮かべていたとも考えられる。肥留川学芸員による解説パネルでは、「特定のジャンルや表現、イムズに囚われることなく、常に真摯に己の真実を求め続けたその制作態度は、日本のシュルレアリスムの流れの中でもとりわけ異彩を放っていると言えるでしょう」と、瑛九を評価している。確かに瑛九は当時の「イムズ」を学びながらも、自己の身の回りの物事や表現材料をよく見てから作品を制作するため、オリジナリティに溢れている。おそらく、《曲乗り》についても、どこかで見た経験がかたちとなった可能性は十分に考えられる。

富岡市立美術博物館_10画像は、2011年に行われた展覧会『生誕100年記念 瑛九展』(宮崎県立美術館、埼玉県立美術館、うらわ美術館)の図録に掲載されている自転車やサーカスに着想を得た作品群である。
※ No.6-46《自転車にのる女》、No.6-47《(題不明)》、No.6-48《自転車》、No.6-49《自転車のり》、No.6-50《サーカス》


ちなみに、福沢と瑛九の接点は認められないが、読書家である瑛九はアトリエ社発行の福沢一郎著『シュールレアリズム 超現実主義:近代美術思潮講座』(4巻)を手にとっていたはずである。また、山田光春による評伝でも触れられているように、瀧口・福沢の逮捕の一件は前衛芸術界に大きな波紋を呼んだ。当時は、美術家グループ(団体)を作って、作品展示をするのに共産主義の大会として活動をした方が、物事が上手く運んだようであり、瑛九については、1946年日本共産党に入党し、「新宮崎美術協会」を創立、展示を終えるとすぐに離党している。1936年フォト・デッサンを発表した瑛九は、いよいよ大きく羽ばたこうと空を仰いだ途端に、「戦争」という暗雲が立ち込めて視界が遮られてしまった。戦時下の瑛九は、やはり思うように活動が出来なかったようで、鬱積した気持ちを抱えたまま疎開地や友人宅を転々とし、身を隠すような生活を送っていたのである。

***

ちょっと寄道…


富岡市立美術博物館_11福沢一郎記念美術館は同じ建物内にあり、「特集展示 福沢一郎と『本』」と「福沢一郎 物語を描く」が開催されていた。画像は、覘きケースに福沢一郎が手掛けた装丁の図書や雑誌類が展示されている風景である。福沢一郎は富岡市出身であり、1991年93歳にして文化勲章を受章するなど、生前から評価が高かった。そのため、福沢一郎の画業を顕彰し、未来へと作品を引き継ぐ方法として、美術館博物館建設の構想中に個人記念館も設置された。このような複合施設は、今ではそれほど珍しくない空間設計ではあるが、開館した1995年においては画期的な試みであった。創立から20年以上経った今では、認知度も高まり、福沢一郎の作品に関する相談を受けるようになったという。個人の美術館として、アトリエを改装した「私立」が多い中で、「公立」の施設は、長期的な作品の維持管理を考える上では理想的といえる。


富岡市立美術博物館_12こちらは、福沢一郎のアトリエを再現した展示スペースである。戦前から使用されてたイーゼルには、あちこち油絵が付着している。後方の昇降台は、大型の作品制作の時に使用していたようだ。隣には、1992年の絶筆とされる作品が置かれている。
なお、福沢一郎が1898-1992年に使用したアトリエとして、世田谷に今も現存しており、1994年には「福沢一郎記念館」として開館している。さらに、現在は八王子市夢美術館で行われている展覧会「昭和の洋画を切り拓いた若き情熱 1930年協会から独立へ」でも福沢一郎の作品《骨董店》と《寡婦と誘惑》が展示されている。


富岡市立美術博物館_132014年世界遺産に登録された旧富岡製糸場にも足を運んだ。こちらは、表玄関にもなっている「東置繭所」である。現在は、主に展示室として利用されているところである。富岡市では、製糸場を含む関連施設を回遊するバスが走り、観光客向けの店舗が少しずつ増えているようであった。あいにくこの日は雨であったが、赤煉瓦の建物と赤いサルビアの鮮やかさに目を見張った。


富岡市立美術博物館_14東置繭所2階の内部。この場所には、チョークで書いたような落書きがある。現地に訪れた際は探して欲しい。


富岡市立美術博物館_15製糸場の浮世絵が制作されている。20名ばかりの女性が横並びでフランス式の機械を操る様は、たいへん珍しい光景であったと思う。女性の表情や顔の向きはバラバラであることから、隣の人と会話をしたり、仕事ぶりを見に来た男性の事を噂したりしているのかもしれない。
一曜斎国輝《上州富岡製紙場之図》明治5年(1872)頃(富岡市立美術博物館編「錦絵にみる器械製糸―美術博物館の収蔵品から」より)


富岡市立美術博物館_16フランス式繰糸器(復元)の展示と実演の様子。繭をお湯で煮てほぐれた一本の糸口を見つけ出し、機械で巻き取っているところである。繊細で髪の毛よりも細い糸を扱うため、女性の小さい手の方が向いていたのだろう。


富岡市立美術博物館_17巻き取りが終わりそうな繭があると、素早く別の繭の糸を絡ませている。


富岡市立美術博物館_18グレーの巨大な円盤は、UFOではなく鉄製の水槽である。明治8年頃に設置され、その貯水量はおよそ400tにもなる。奥には長い煙突があり、これらで先に紹介したように生糸を巻き取る際のお湯を沸かすために使用されていた。


富岡市立美術博物館_19こちらは、西置繭所の保存修理を見学できる施設である。ヘルメットを借りて、内部に入ることができる。私が見学したときは、素屋根の解体中であった。修理の様子は、行く時期によって変わるようである。滅多に見ることのできない特別な瞬間をぜひとも見学していただきたい。


最後にひとこと書き添えておきたいことがある。富岡製糸場という世界遺産を抱えるようになったことで、同市内にある美術館への来場者は増加したのではないかと、私は想像していたが、どうやらあまり変化はないようであった。理由は、同市であっても製糸場からは距離があり、「車」でしか来られないのである。製糸場の見学者は、どのみち知の集積地である同館にも関心が繋がっているはずであり、製糸場の周辺を回るバスが美術館の方へも行通ってくれたら、かなり行き易くなるのではないかと思う。
なかむら まき

●展覧会のご案内
平成29年度 常設展示
「昭和の前衛―日本のシュルレアリスムと作家たち―」
会期:2017年9月9日[土]〜11月30日[木]
会場:富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館
休館:月曜日(祝日・振替休日にあたる場合はその翌日)
時間:9:30〜17:00(入館は16:30まで)

●中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。

●今日のお勧め作品は、瑛九です。
20171118_qei_115瑛九《風景》
板に油彩
23.7×33.0cm(F4)
サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

*画廊亭主敬白
11日のブログにメキシコ地震被災地支援・チャリティー頒布会出品全100点のリストを掲載した直後から多くの参加の申し込みをいただきました。皆様の暖かなお気持ちに感謝するばかりです。しかし無情にも今度はイラン・イラク国境地帯でM7.3という大地震が襲い、多くの死傷者が出ているようです。少しでも被害が食い止められることを祈らずにはおられません。

●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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この秋、瑛九が観られる美術館

中村茉貴さんによる連載「美術館に瑛九を観に行く」もおかげさまで連載が20回を数えました。
当初は全国各地の美術館での瑛九の展示を複数の人にレポートしてもらうことを考えていたのですが、なかなか立候補者がおらず、結果的に中村さん単独での日本縦断・瑛九紀行になりつつあります。
長年、瑛九を研究している中村さんならではの視点で、瑛九の多面的な魅力が読者の皆さんに伝われば嬉しい。今後ともご愛読をお願いするとともに、瑛九に関しての情報をぜひお寄せください。

この秋、瑛九が観られる美術館をいくつかご紹介します。

芦屋市立美術博物館(兵庫県)
『交差するアーティストたち―戦後の関西』
会期:2017年7月15日(土)〜9月18日(月・祝)
自由な表現、創作活動に制限のあった第二次世界大戦期を経たアーティストたちは、終戦の1945年以降、抑圧への反動を大きな力として様々な活動を進めていきました。新たなグループの結成、戦前に活動した団体の再興、今までにない表現の希求など、徐々に美術の動向は活発化します。それらの動きは、彼らが互いに強い影響を与え合って生まれたものと考えられます。本展ではコレクション作品のなかより、阪神間といわれる神戸から大阪を範囲とする地域ゆかりの長谷川三郎、吉原治良、津高和一を柱にして、アーティストたちの活動や交流を紹介します。(芦屋市立美術博物館ウェブサイトより)
出品:瑛九『夜の子供たち(瑛九フォトデッサン集「真昼の夢」)』1951年 ゼラチンシルバー・プリント 芦屋市立美術博物館蔵

宮崎県立美術館
「たんけんミュージアム 夢みるアート」
会期:7月15日[土]〜9月10日[日]

収蔵作品を紹介するコレクション展。
出品:瑛九は19点展示。
〜〜
第3期コレクション展
会期:9月16日[土]〜12月20日[水]
瑛九の代表作品「空の目」など出品。


富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館(群馬県)
会期:9月12日[火]〜11月頃までの予定
出品:瑛九《曲乗り》(1955年)1点を展示。


下関市立美術館(山口県)
「所蔵品展 夢見る版画」
会期:9月28日[木]〜10月22日[日]

出品:瑛九の版画作品


リアス・アーク美術館(宮城県)
戦後日本・発展の光と影展 目黒区美術館コレクション
会期:2017年7月8日(土)〜8月27日(日)
既に会期は終了しています。宮城県気仙沼市にあるこの美術館は石山修武先生の設計で1995年日本建築学会賞に輝いたユニークな美術館ですが、まさかそこで瑛九が展示されたとはうかつにも知りませんでした。亭主はtwitterで知りましたが、既に終了しており後の祭り。

まだほかにも瑛九を展示する美術館があるかも知れません。皆さんからの情報をお待ちしています。

●今日のお勧め作品は、瑛九の初期作品です。
20170823_qei17-005瑛九
《作品》
1936〜39年頃
フォトデッサン
30.3×25.2cm
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第20回

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第20回

豊田市美術館
特別常設展示「岡乾二郎の認識―抽象の力―現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」


「抽象芸術」について説明を求められたときに、すんなりと回答を云えるだろうか。一般的に「抽象芸術」とは、モチーフを具体的に表現するよりも色や形(質感、量感)の表現を追求した言語化し難い美術表現のひとつである。また、芸術家の名前を挙げて作品のあるがままを解説しても、聞き手は理解できないかもしれない。しかし、そのような「抽象芸術」のイメージに一石を投ずる画期的な展覧会が行われた。

豊田市美術館チラシ-1豊田市美術館チラシ-2
※本展は既に終了した展覧会であり、掲載時期が大幅に遅れたことを予めお詫びしたい。
なお、本展の担当者である千葉真智子学芸員は、ときの忘れものの2017年5月9日ブログに展示にかんする記事を寄稿している。
また、企画者である岡乾二郎「抽象の力」を併せて参照されたい。
【岡乾二郎:http://abstract-art-as-impact.org/jp-text.html

豊田市美術館_01丘の上に佇む美術館。自然に溶け込むフォルムでありながら、8カ所の展示室、ギャラリー、ミュージアムショップ、レストラン、ライブラリーを備えた広々とした空間がある。表の広場には彫刻が設置され、別棟に茶室もある。


今回、取材にご協力いただいた千葉真智子学芸員は、本展について「作品が生き生きしている」という印象を語られた。美術館で行われる展覧会は、たとえば、「没後50周年記念展」というように作者の生没年を念頭に掲げた記念事業として開催される場合が多々ある。しかし、本展は岡乾二郎氏が担当した展示企画が際立つものであり、岡氏が作品一点一点を選定し、最新の研究成果を取り入れていることで、「抽象」の見方、例えば当時の技法や地域的な広がり、時代性、思想などを考えるきっかけを与えるものであった。そもそも、博物館法に則って運営されている美術館では、当然学芸員が常駐し、展覧会を企画している。本展で変わっていた点は、特別展ではなく常設展(主に同館収蔵の展示物を活用したもの)を外部の人物が企画したということに驚きを感じた。遠巻きに考えれば、同館学芸員がコレクションの新たな活用法を模索した結果であったとしても、この取り組みにより、千葉学芸員が「作品が生き生きしている」と感じたことは、鑑賞者である我々にも通じるものとなった。様々な発見を予感させる、非常にポジティブな雰囲気に包まれた会場であった。

豊田市美術館_02展覧会の入り口はバウハウス、デッサウを思わせるデザイン。


豊田市美術館_03会場では、そこかしこに作品理解を深めるための工夫があった。
壁一面に展示されているのは、明治9年発行の教科書『幼稚園(おさなごのその)』である。玩具を通して色、形、数の基礎について学び、また、整然と並べられた玩具から子供の創造力を養うことを目的とした冊子である。さまざまな幾何学的な図像が教科書にちりばめられ、観ていると好奇心が湧いてくる。


豊田市美術館_04原色で彩られた木製の玩具。背景に展示されている田中敦子《’94B》(1994年、合成樹脂エナメル塗料、カンヴァス)とイメージが重なる。


豊田市美術館_05モジャモジャと絡まりあって球状の形態になった針金は、高松次郎《点》(1961年、ラッカー、針金)の作品である。これも田中敦子の《’94B》とリンクする。それはまた、神経細胞の染色体かシナプスか、宇宙空間に浮かぶ塵をも想像させる。インスピレーションを得た芸術家は手先や頭を動かし、試行錯誤を重ねる。ことばをひとつひとつ紡いで物語がつくられるように、「作品」は制作される。


本展は、これまで位置づけられてきた「抽象芸術」の概念を解きほぐすような展示で抽象芸術に関する作品一点一点と向き合うことに重きが置かれた。一点を集中的にみると、「抽象芸術」として紹介されている作品が、はたして今までそういう位置づけであったかという疑問を感じるだろう。

ところで、作品を理解する方法として体系的に論じているE・パノフスキー『イコロジー研究』は、図像解釈の方法を段階的に示したもので、第一段階の自然的主題は、色や形(質感、量感)等を視覚から得る理解のこと。第二段階の伝習的主題は、作品に表現された図像の具体的なモチーフから意味や物語の理解を深めること。第三段階は、作品が制作された背景に着目するもので、時代・地域・文化(習慣)・思想(宗教)等、作品の着想や根源的なものに迫ることである。とりわけ「美術史」に位置づけられる有名作品は、少なくともこれら三つの段階を見出す事ができる、というのである。近代は「視覚の時代」といわれる。評論家や観衆の客観的な視点が加わり、次第に作品制作へ傾ける美術家の意識やモチベーションは変わっていった。パノフスキーを挙げたのは、図像を解釈しようとする行為そのものに近代の個人主義的なまなざしがあり、その後にあらゆる美術史家や哲学者、批評家、そして美術家に影響を与えることとなったことを頭の片隅に置く必要があると感じているためである。このような環境で芸術作品の表現が深まり、抽象芸術は派生してきたのかもしれない。

たとえば、会場には、熊谷守一《シヂミ蝶》(1958年、油彩、板)が展示され、その隣には、うごめく無数の虫を記録した日記帳(1902–1922年)があった。熊谷守一は、見たものを寝かせてから筆をおろす画家である。実際に日記帳を見返してこの作品を描いたのかどうかは定かではないが、脳裏に焼き付いたイメージであったに違いない。芸術家がどのように作品制作に至ったかを日記帳を通じて視覚的にみることができる。小さな体で石ころの周りをひらひらと舞う紫色のシジミ蝶。そこには、シジミ蝶が見せる穏やかな生の痕跡が美しく表現されている。

豊田市美術館_07壁一面に展示されているバインダーは、『現代建築大観』(1929年頃、個人蔵)の一部が挟み込まれている。元は帙に入っている作品集のようだが、このように一枚一枚展示されているところを見ると、かなりヴォリュームが増して見えた。バインダーを使用した展示は、一見遊び心を感じさせるが、建築デザインを見比べられる機能的な面も備えた展示空間に仕上がっていた。手前には、ドナルド・ジャッドがデザインしたミニマルな形状の《椅子》(1988年制作、マホガニー)が展示されている。


テクノロジーの発達でモノが豊かになり、集団(共同体)ではなく個人で物事を考える社会が「近代」である。個人主義的な発想はモノの見方や創作物にも表れ、次第に個人の「感覚」、「感情」が重要視されるようになった。やがて、個人でありながら万人にも受け入れられる客観的な意識をも作品に込めようとする。岡乾二郎氏は、恩地孝四郎の作品を例に次のように書いている。

『月映』は北原白秋、萩原朔太郎、室生犀星、山村暮鳥という同時代の詩人たちの仕事との共鳴をもって結成されたが、これらの詩人たちの仕事はいまだ表出されなかった感情、思考の流れを強い視覚的イメージによって喚起、結びつけることにおいて、象徴主義からイマジズムへの架け橋をするような新しさがあった。『月映』はそれに呼応し、見慣れた外部世界には対応物をもたない、より喚起力のあるイメージの創出こそを目指したのである。
(中略)
つまり版画は複数の別の画面を重ねて、一枚の画面を作り出す、統合の芸術だということだ。最後に統合されて出現するイメージは元の個々の版木のどこにも存在しない。まさにフレーベルの《恩物》(積み木)の幾何形態を回転したときに現れる像と同様である。イメージは版を刷るという作業の中でのみ現れる僥倖だった、ともいっていいだろう。
(「抽象の力」より)

豊田市美術館_08こちらは、坂田一男《コンポジション》など3点。フランスでポスト印象主義やキュビスムを学んだことが基礎となっているものの、帯状に連続するモノトーンの情景は、抽象ともミニマリズムともいえる。作家独自の表現が展開されている。


豊田市美術館_09向かって右側の熊谷守一の作品の隣には、ハンス・アルプ《灰色の上野黒い形態の星座》(1937年、木)、《ひと、ひげ、へそ》(1928-29年、木)があり、左側に斎藤義重《作品》、《トロウッド》(1973年再制作)が展示されている。色・形が似通ってみえるユーモラスな作品群。覗きケースは、ジョン・ケージによって点・線・面が組み合わされた独特な楽譜《Fontana Mix》(1982年、シルクスクリーン、個人蔵)の展示があった。


豊田市美術館_10長谷川三郎の版木とその作品の《自然》(1953年、木版)。ひと彫りひと彫りの積み重ねで版木が作られ、版木6点が組み合わさって、一つの画面(版画作品)が生まれる。その過程が、視覚的に示されている。


第二次世界大戦後、長谷川は、可変的なトポロジカルな構造を形成する方法として《マルチ・ブロック》という版画技法を開発する[fig.135]。蒲鉾板を使い彫ったブロック状の版木をランダムに画面にばらまき、そのつど異なる画面を構成する手法である。《環境》という用語を長谷川が用いていたように、これは環境デザインや音楽の作曲にも応用できる方法である。戦後、長谷川と交流をもった現代音楽家ジョン・ケージ(1912-1992)の図形楽譜はあきらかに長谷川の絵画の構造を踏襲してもいた。
ところで「新しい写真と絵画」という論考は実はそもそも、長谷川が瑛九の作品に見出した可能性を論じた文章だった。1930年代という重苦しい時代になされた、もっとも奇蹟的な達成は瑛九のフォトデッサンにあったといっていい。
 (中略)
1936年1月、瑛九は長谷川三郎を訪ね、のちに『眠りの理由』(1936)[fig.137]としてまとめられることになる一連のフォトデッサンを見せる(そして、もちろん長谷川はその可能性を見逃さなかった)。その翌年、瑛九を加えて自由美術家協会が結成される。
 瑛九のフォトデッサンの上では、本来、異なる時間に属するモノ(当然、同じ空間尺度も持ちえない)たち、また、そのモノたちを照らした、同じく別の時に輝いたはずの光たちが、一つの画面を充たし、ありえるはずがない一つの光として溶解し互いを反照しあっていた。いつ、どこにも定位できない時間と空間。にもかかわらず、これらの異なる次元にあるモノたちはありえるはずのない同じ《いま、ここ》で一緒に一つの光を呼吸しあっている。その確実性が驚くべき実在感をもって顕現している。
(「抽象の力」より)

岡氏が指摘するように瑛九は意識的に光を駆使して作品を制作していることが分かるテキストがある。瑛九は1930年「フォトグラムの自由な制作のために」(『フォトタイムス』7巻8号)の中で「光にたいする鋭敏なる印画紙の力をかりてかつてなにものをも他の材料の使用をゆるさなかったコンストラクションが生まれ、又ぼうだいなる現実を構成せんとすれば作者の意のままに表現できる」と書いている。若くして核心に触れるこのフォトグラム論は、今では、瑛九の作品評価に欠かせないものである。写真(印画紙)の際限のない可能性と、現実を捉え表現しようと果敢に取り組む意欲が上記の一文に垣間見える。これが長谷川三郎をも巻き込む瑛九作品の根底にあるものなのだろう。

豊田市美術館_11向かって左側には、恩地孝四郎《ポエムNo.22 葉っぱと雲》(1953年、マルチブロックプリント)、隣は瑛九がフォト・デッサンを制作する際に作られた型紙(制作年不詳、紙、個人蔵)と、1936年頃に制作された瑛九のフォト・デッサン(1936年、個人蔵)である。瑛九は、自作の型紙や身の回りの物、ペン書きしたセロファンを印画紙の上に置き、様々な表現を実験的に組み合わせて、ひとつの画面をつくりあげた。切り取る型紙も様々で、印画紙を再利用することもままあった。2011年ときの忘れもので瑛九の型紙が一堂に展示され、うらわ美術館でも2015年「作家の手の内――スケッチ、デッサン、エスキース」展で瑛九の型紙が展示された。


豊田市美術館_12こちらも瑛九の作品。フォト・デッサン集『眠りの理由』表紙の別バージョン(1936年、個人蔵)。また、白い輪と眼鏡のある作品、ぼんやりと車輪のある作品、赤や緑で着彩された作品などひとつとして同じフォト・デッサンはない。何れも実験的に様々な工夫で画面構成を試みている1936年頃の作である。


インターネットの普及や物流の発達により、個人の「感覚」、「感情」が地域や国を超えて表現できるようになった昨今。私たちは別のステージに昇ったのかもしれない。そろそろ俯瞰的に日本で表現活動をした芸術家ついて見直し、当時の「抽象芸術」を再評価する動きがもっと活発になってよい頃である。岡乾二郎氏企画の「抽象の力」展は、そのような気構えが感じられた展覧会であった。


***

ちょっと寄道…



愛知県への取材は、今回で2度目となった。瑛九と何かと縁のある愛知県。前回の訪問では、愛知芸術文化センター内の愛知県美術館やアートライブラリーへお邪魔した。こちらには、瑛九研究の大著『瑛九 評伝と作品』(1976年、青龍洞)の著者山田光春の収集資料が保管されている。山田は1912年愛知県生まれであった。

今回、名古屋市美術館へも足を伸ばす事になったのは、豊田市美術館への取材が叶ったことが大きいが、同館で積極的にコレクションしている作品に関心があった為である。

以下に挙げる展示は、やはり会期が終了したあとで恐縮だが、興味深い内容であった為に紹介したい。それは、常設展示として企画されていた「メキシコ・ルネサンス:日本に与えた影響―北川民次と二科会の画家」展である。

名古屋市美術館は開館以前の1983年から収集をはじめており、1985年以降は、郷土ゆかりの作家である荻須高徳、北川民次、荒川修作、河原温、桑山忠明の5人を重要作家として位置付け、彼らと関係の深い4つのジャンルを収集の柱に据えている。それは、「1、郷土の美術/2、エコール・ド・パリ/3、メキシコ・ルネサンス/4、現代の美術」である。このなかで、北川民次と河原温については、瑛九とも関係があった人物である。特に北川民次については、瑛九が美術教育に関心をもちはじめた当時から一目を置いていた人物であった。

名古屋市美術棺_01名古屋市美術館前。開館30分前に到着し、建物の写真撮影のために公園内を散策した。すると、改修工事に入るという告知が貼られていた。美術館建設ラッシュに開館した建物は、都市部を中心にどこもかしこも老朽化による改修工事ラッシュに突入している。


名古屋市美術館_02こちらは常設展示室の一室で、向かって右側から
フリーダ・カーロ《死の仮面を被った少女》1938年、北川民次《赤津陶工の家》1941年(左下に朱書きで「二千六百一年/北川民次寫/赤津陶工ノ家」とある)、ディエゴ・リベラ《プロレタリアの団結》1933年【部分】。解説パネルには、冒頭次のように書かれていた。「オロスコ、リベラ、シケイロスの三巨匠による壁画運動をはじめ、1920年代から40年代にかけて展開したメキシコ近代美術は、同時代の美術家たちに少なからぬ影響を与えています。」
建物を取り壊す際に撤去されることの多い壁画で、更に中心的人物のひとりであるリベラの作品が、一部でも名古屋市美術館で観覧できるのは、たいへん貴重なことである。


ところで、メキシコの美術運動は、昭和戦前期の1923年に北川民次がメキシコに渡ったことから日本へ伝えられ、影響を受けた芸術家は多い。その中でも、瑛九、藤田嗣治、岡本太郎については壁画の制作にも取り組んでいる。周知のとおり、岡本太郎の作品の中でも格別に大きい《明日の神話》は、渋谷駅構内(JRと井の頭間の連絡通路)で見られる。もとはメキシコにあった壁画で2008年に移設された。また、藤田嗣治が制作した大壁画としられている《秋田の行事》についても、2013年に新設された秋田県立美術館へと移設された。瑛九の代表作のひとつである《カオス》は、元は真岡市の久保ギャラリー(現久保記念観光文化交流館・美術品展示室)の外壁に設置されたが、現在東京都現代美術館に収蔵されている。

北川民次に影響を受けた芸術家の中でも、愛知県出身の竹田鎮三郎は、若い頃から民次に師事し、現在もメキシコで活動を続けている。近年では、2006年跡見学園女子大学花溪記念資料館、2013年プロモ・アルテギャラリー、2015年川崎市岡本太郎美術館で個展が開催された。また、竹田の活動は自身の創作活動だけに留まらず、岡本太郎の《明日の神話》移設に携わった他、児童美術の活動も行っており、非常にバイタリティのある作家である。彼の活動記録を確認できる例である「ガテマラと児童画交換 メキシコにいる、竹田鎮三郎君の世話で神奈川、埼玉の幼小中の児童画五十二点をガマテラに送った。ガマテラの日本児童画展は十月九日より十六日まで開かれ、新聞、TVなどでさわがれ、すこぶる好評だった。引きつづき各地に巡回されるよし」(1964年、創造美育)という記述からは、民次のメキシコでの美術教育を継承し、久保貞次郎の仕事にも協力していたことが分かる。日本から遠く離れたメキシコの地で、地道に活動を行ってきた民次の弟子である竹田鎮三郎が検証される日がくることを期待したい。

名古屋市美術館_03手前は、北川民次《トラルパム霊園のお祭り》1930年
画面にところどころ明るい色を配し、細部にわたって描かれている本作は、民次の作品の中でも比較的珍しい。続いて、マリア・イスキエルド《生きている静物》1947年、ホセ・クレメンテ・オロスコ《メキシコ風景》1932年などが並ぶ。


名古屋市美術館_04右側から、安藤幹衛《守る》1975年、《解放》1957年、北川民次《雑草の如く供1948年。画面を見ると大胆で力強いイメージが描き出される一方で、何度も置いている筆跡からは繊細な一面も併せ持っていることが分かる。特に二次大戦前後に反響のあったメキシコ美術は、庶民の生活を逞しく描く特徴があり、日本においても芸術家を始め多くの人々の心に響いた。大画面にもなるメッセージ性の強い表現から、公共の場における美術の可能性が開け、人種や宗教などの社会問題を体現する美術表現として評価されるようになった。


美術館に伺った際に同時開催していた「異郷のモダニズム−満洲写真全史−」展についても非常に興味深く拝見させていただいた。異国の地での写真撮影で、報道写真や記録写真が充実するのは想像に難くない。しかし、そればかりでなく、幽玄な風景や見慣れない建物や調度品を目の当たりにして撮影されたピクトリアリズム写真も展示されていたことも、この当時の写真の面白いところであった。霞か煙が一面に漂うシルエットの写真、荒れた大地の凹凸をメインに捉えた写真など。瑛九も活動していた1930年頃の写真動向についても何れこの場を借りて言及したい。

今回、豊田市と名古屋市の美術館を訪れたが、何れもコレクションが豊かで、どの会場も鑑賞者が多かった。おそらく、利用者へのサービスが長けており、駅から美術館への導線はもちろんのこと、近隣施設との連携や街歩きのガイドマップも充実しているためであろう。また、まだ日本で定着していない寄付金制度を設けており、リーフレットの作成・配布は好感が持てた。地域の人や他県の人も安心して鑑賞できる展示会場づくりには、従来行ってきた事と時代にあった動向とを吟味しながら、将来を見据えた活動を展開していく必要がある。豊田市や名古屋市は新旧を意識し、しっかりとした軸を持っていることが分かり、美術館としての機能を最大限生かそうという努力が感じられた。

なお、これまで展覧会の会期中に記事を執筆することを第一の目的としていたが、展覧会終了後に記事を掲載することになり、取材先の美術館および読者にお詫び申し上げたい。現在の豊田市美術館では「奈良美智 for better or worse」展、「森千裕-omoide in my head」展を開催している。また、名古屋市美術館は、現在は改修工事のために休館中で10月7日からは「ランス美術館」展、「中村正義をめぐる画家たち」展が開催される予定である。
なかむら まき

●今日のお勧め作品は、瑛九です。
20170830_qei_169瑛九
《(作品名不詳)》
フォトデッサン
27.0×22.0cm
裏面にサインあり


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

駒込Las Casasより、瑛九の初期フォトデッサン

7月7日の七夕にお披露目した新生ときの忘れものですが、青山時代とはまったく異なるコンクリート打ち放し空間に作品をどう展示するか、四苦八苦しました。
その成果やいかに。「移転記念コレクション展」から、順次出品作品をご紹介してまいります。
先ずは、ときの忘れもの最重要作家である瑛九です。

qei_photodessin-hukituke瑛九
作品名不詳
フォトデッサン+吹き付け
23.0×38.3cm
裏に《瑛九作 都》と記載あり

qei17-007瑛九
《作品》
1936年
フォトデッサンに着彩
25.2×30.5cm

qei17-005瑛九
《作品》
1936〜39年頃
フォトデッサン
30.3×25.2cm
裏面に自筆サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

瑛九をどういう場所に展示したかといいますと、
01
ドアを開けるとエントランスホール、右から北郷悟のテラコッタ、舟越直木のブロンズ、尾形一郎・優の大型写真作品

06
圧巻の尾形作品を見ながら、階段を二階に上っていただきます

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左手に見えるのがお客様専用の「図書室」です。

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図書室にあるこの壁面、200平米もある建物の中で自由に釘を打てるのはここだけです(トホホ)。展示スタッフの苦衷をお察しください。
左から松本竣介(2点)、オノサト・トシノブ、そして瑛九のフォトデッサン2点。ブルーのテーブルに見覚えのある方は初代青山の一軒家時代からのお客様です。


日本人の油絵信仰(タブロー信仰)はわが敬愛する瑛九にまで及んでいます。
日本の美術市場においては、先ず油彩点描(晩年の作品)へ高い評価が与えられ、サムホールの小品でも500万円近い価格になることもしばしばです。

しかるに瑛九の印画紙作品(フォトデッサン、吹き付け、コラージュなど)となると、まるで評価が低い。
20世紀は映像の時代であったことを疑う人はいないでしょう。
瑛九が1930年代からなしたことを思えば、マン・レイたち先行者と伍して堂々と渡り合える(それも膨大な)印画紙作品を生涯にわたりつくり続けたことは特筆に価いします。
ときの忘れものは瑛九で始まり、瑛九で食っている画廊でありますが、ここ数年の動きを見ると、フォトデッサンの名品はことごとく海外の美術館、コレクター、写真ギャラリーに買われています。
それをよく知っているのは全国の学芸員たちでしょう。
某美術館の学芸員が、「このままじゃあ瑛九の重要なフォトデッサンがみんな海外に行ってしまいますね」と嘆いたのもむべなるかな。
上掲3点をネットで紹介すると問い合わせがあったのはほとんど海外からです。

海外のスターたちの作品をん十億円でお買いになるのも、もちろん素晴らしいことではありますが、せめてその何分の一かをもって自国の作家たちへの敬意を表してくれないものでしょうか。

移転記念コレクション展
会期:2017年7月8日(土)〜7月29日(土) 11:00〜18:00 ※日・月・祝日休廊
※靴を脱いでお上がりいただきますので、予めご了承ください。
※駐車場はありませんので、近くのコインパーキングをご利用ください。
201707_komagome
出品作家:関根伸夫、北郷悟、舟越直木、小林泰彦、常松大純、柳原義達、葉栗剛、湯村光、瑛九、松本竣介、瀧口修造、オノサト・トシノブ、植田正治、秋葉シスイ、光嶋裕介、野口琢郎、アンディ・ウォーホル、草間彌生、宮脇愛子、難波田龍起、尾形一郎・優、他

ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

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JR及び南北線の駒込駅南口から約10分、名勝六義園の正門からほど近く、東洋文庫から直ぐの場所です。

中村茉貴〜宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて 特別篇 2

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第19回
宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて


ちょっと寄道….特別篇 2

「美術館に瑛九を観に行く」の執筆依頼があったとき、愉しみな反面、「瑛九」にかんする記事を私に書けるかどうか不安があった。瑛九を展覧会で扱う学芸員をはじめ、瑛九のコレクター、瑛九に関心をもつ研究者、瑛九と親交のあった方、はたまた瑛九にそれほど関心がない方、さまざまな立場の方の眼に触れることを想定すると、ストレートな内容を書くだけでは面白みがない。そのような考えが頭をよぎって、展覧会レポートに+αとして「ちょっと寄道…」を加えた。その「寄道」が今回も大幅な「寄道」になってしまい、返ってお叱りをうけてしまうのではないかと思いながら、前回に引き続き瑛九が生まれ育った街について、かつて瑛九の(エスペラント語の)教え子であった鈴木素直氏の案内や山田光春『瑛九―評伝と作品』(青龍洞、1976年)を頼りにお届けしたい。なお、今回も宮崎県の銘菓「金城堂」の包装紙に使用されていた地図「宮崎市街図」とGoogleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」を参照しながらご一読願いたい。
https://drive.google.com/open?id=1cUFoWwqKUy8CARQBsUp2qtNQtuM&usp=sharing

特別篇_07作者不明「宮崎市街図」出版社不明、1930年頃
地図が制作された年代は昭和5年頃であり、解説と表記が異なることもある。
※下記、括弧内のページ番号は出典先『瑛九―評伝と作品』の掲載頁を表す。
※アルファベットは、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」と対応している。


L.宮崎尋常高等小学校[現宮崎市立宮崎小学校](pp.47-49他)
特別篇_08現在の宮崎小学校。手前に古い門柱が残る。

山田光春は『瑛九―評伝と作品』(以下、「評伝」と表記する)に、瑛九こと杉田秀夫の小学校在学時について次のように書いている。「一九一八(大正七)年の四月一日、秀夫は直に付き添われて宮崎尋常高等小学校(現宮崎小学校)に入学した。(中略)彼は幼稚園には行かず、この時はじめて集団生活を経験することになったのだから、そこに大きな抵抗を感じたのは、自然な成り行きであった。そのため、毎朝彼を学校に送り出すことは栄にとっての大きな苦労となって、坂本という気丈な看護婦が彼を押し出すようにして玄関から送り出すと、栄は急いで二階に上り、無事に行ってくれるようにと念じながら、カーテンの陰にかくれて、薩摩屋という家具屋の角を曲って姿が見えなくなるまで見送ったものだったという。しかし、そうしてほっとするのもつかの間で、学校から帰りを迎えるのがまた大変であった。」
文中にあった家具店「薩摩屋」は、杉田眼科から左に向かい、一つ目の角を右にまっすぐ進むと右手にある。地図上には示さなかったが、前回の上半分の「宮崎市街図」に「サツマヤ家具店」と表記された場所を確認する事ができる。

M.安楽寺・馬車(p.40、p.51-53)
安楽寺の裏手には、馬車乗り場があり、1914(大正3)年6月家族総出で馬車に揺られて青島へ出かけたことがあった。日豊線が鹿児島まで全通する1916(大正5)年頃まで、大淀川を渡って青島方面に行くには馬車を利用していた。1915(大正4)年母雪が病のため死去したことから、秀夫にとってはこの一日限りの小旅行が印象強く残っていたという。
また、小学5年生のときの秀夫は、毎日のように安楽寺へ訪れ、仏具(如意)に関心を示していた。住職の弘中慧見と秀夫は親しい仲になり、秀夫は住職から「サブ」と呼ばれ、住職は「ロマ」と呼んでいた。安楽寺という場所は、彼にとって日常から非日常へと放たれるところであったのかもしれない。

N.宮崎県立図書館(p.308、p.322、p.339)
特別篇_09宮崎県立図書館子供室入口(焼失)

現在は、宮崎県立美術館と同じ「宮崎総合文化公園」にあるが、旧県立図書館は、1915年に県庁の近くに建てられた。1950年には宮崎県立宮崎図書館から宮崎県立図書館に改称したことが切っ掛けとなり、1951年に帰郷した瑛九のもとに図書館の内装に関わる大きな仕事が待っていた。このことについて、評伝より以下に抜粋する。「宮崎に帰った瑛九は制作に打ちこむ傍で改装中の県立図書館の子供室入口の周囲に、館長中村地平の依頼による壁画を描いた。海と子供をテーマにしたその壁画は、この舘がその年の六月に開館されて以来長く子供たちに親しまれたが、惜しくも一九五九(昭和三四)年四月に同館が全焼した時、その建物と運命を共にしてしまった」ちなみに、壁画完成後から火事で焼ける前まで、図書館では下記の通り瑛九の展覧会が度々開催されていた。

1951年8月16〜20日「瑛九画伯個人展」
1952年3月21〜24日「瑛九画伯個展」
1955年4月21〜25日「瑛九個展」
1957年6月〜3日「瑛九近作個展」

1951年に行われた瑛九の展覧会では、油彩とフォト・デッサンに加え、エッチングが出品される。そのとき目録が発行され、そこに添えられたエッチングにかける瑛九の想いを振り返ってみたい。「創作版画というと日本では木版画を意味しますが、ヨーロッパやアメリカではエッチングと石版画が画家自身の手になる版画として愛されています。レンブラントはじめほとんど偉大な画家たちがエッチングを手掛けていますが、日本では単なる技術としてもてあそばれていて、すぐれた作家も一、二にすぎません。/日本が、浮世絵の為に世界の版画国と思われながら、日本の現代画家たちの手になるエッチングや石版がないのは残念です。僕も長年の版画への夢を最近実現しはじめた所です。僕のエッチングが鑑賞の手引きとなり、そして多数のエッチング愛好者を見出す事が出来たらうれしく思います。」(評伝より「個展目録『瑛九氏の言葉』」)
猪突猛進するタイプのように見えて、実は冷静に機を待っていたことが瑛九の発言から見て取れる。瑛九は国内外の美術動向の中で自分の立ち位置を俯瞰し、次にステップアップする方法として「エッチング」に取り組んでいる。

O.教育会館(pp.307-308)
特別篇_101950年2月11〜14日に教育会館で行われた「瑛九作品展」の展示会場。右から瑛九、都夫人、兄正臣である。
このときの出品作は、油絵92点、フォト・デッサン7点(うち着彩2点)、フォト・コラージュ2点、デッサン2点、水彩4点、合計107点にも及ぶ大個展であった。


特別篇_111945年頃の教育会館の外観写真である。教育会館は、昭和7年頃教員と県民の有志の資金援助で建てられた。正面玄関の二階部分に丸窓があるモダンな建物で、戦災を免れるも2000年に入って老朽化のため解体された。


P.宮崎商工会議所(pp.314-315)
旧商工会議所は大淀川沿いにあった。瑛九は商工会議所でも展覧会を開催している。評伝を紐解くと、1951年1月に本所において35点のフォト・デッサンを出陳したとあり、個展はたいへん盛会で半数が売約された。また、本展で瑛九の熱狂的なサラリーマンのファンが表れた。今まで全く芸術に関心の無かった人物であったが、瑛九の芸術論に心を奪われ、アトリエに毎日のように通った。古代から現代まで展開された瑛九の美術談話を彼はノートに取った。話は夜の1時2時過ぎまで続いたのにもかかわらず、翌朝アトリエに出かけると、真っ白だったキャンバスが作品に変わっていたという。彼は瑛九が魔法使いではないかと疑ったようだ。瑛九の講義ノートが明るめに出ることを願いたい…

Q.日房(p.99)
山田光春は、瑛九と知り合った直後、どのような親交を結んでいたのか、次のように述懐している。当時の瑛九と山田が戯れた地を転々と示していることから、少し長くなるが引用する。
「宮崎の地で秀夫という、唯一の友人をもつことになったぼくは、その後は土曜の午後になると急いでバスに乗って宮崎に生き、橘通りの停留所から郡司家に「ヒデチャンいますか?」と電話するようになった。電話嫌いの彼の電話口での応対はそっけなかったが、間もなくそこへやって来て、それから日曜の夜までのぼくらの生活が始まるのだった。よく橘橋の袂にあった日房というレストランの二階へ上って、霧島連峰や大淀川の静かな流れを眺めながらビールで気炎をあげたもので、それからは大淀川の堤の上を歩いたり、街に戻って古本屋をのぞいたり、時には映画を見たりして、結局は郡司家の彼の部屋にたどりついて夜遅くまで話したのであって、翌日もまた近郊を歩いたり、彼の画質に集って来る若者たちと語り、夜になって妻に帰るのだった。」(※「妻」は宮崎市から北に約30km離れたところにある地名。山田の赴任先の宮崎県児湯郡妻尋常高等小学校があった)
なお、日房があった場所は、現在宮崎市役所になっている。

R.橘橋(p.96他)
特別篇_12現在の橘橋から望む大淀川風景

鈴木氏、佐々木学芸員(県立美術館)、祝迫学芸員(都城市立美術館)に瑛九ゆかりの地を質問したとき、必ず出てきた場所が「橘橋」であった。評伝でも度々出てくる「大淀川」に掛かる橋で、宮崎市街と都城市・鹿児島方面を結んでいる。瑛九は、宮崎を訪れた友人を橘橋の袂に広がっている河原によく連れて行ったようだ。
評伝の中でひときわ目を引く橘橋にまつわるエピソードがある。1934年青島からの帰り道、大淀駅(現南宮崎駅)で下車して橘橋を渡る時であった。秀夫は、「これから四つんばいでどこまで行けるか競争しよう」と従妹や甥っ子に声を掛けて競走しはじめた。子供たちは恥ずかしさから早々に止めても、必死で続ける秀夫の異様な姿に周囲は心底心配したという。
秀夫はこの時期、作品制作を通じて経験を積み上げ、画家として生きる決心を固めていた。ところが、憧れの三岸好太郎を訪ねようとした矢先に、他界した事実を突きつけられ、ショックを受けている。この橘橋での一件は、何であっても「納得するまで、最後までやり抜きたい」という思いからこのような行動に至ったと想像する。

S.青島・海水浴場(p.95、p.207、p.246)
海水浴場のある青島へ行くのが杉田家の恒例行事であり、静養目的で赴くこともしばしばあった。1934年橘橋の一件と合わせて語られているのが青島でのエピソードである。秀夫は生魚を頭から食べはじめ、周囲を驚かせた他、肩まで海の波が押し寄せても座禅を組み続け、鬱積した気持ちをコントロール出来ずにいた。しかし、こうした中でも常に周りから支えられているところをみると、彼は本当に恵まれていると思う。
青島の風景は、実際に瑛九が描いた場所のひとつである。(生誕100年記念瑛九展図録「瑛九油彩画カタログレゾネ」No.38《青島の海》1940年)

T.宮崎農林高等学校(pp.98、99他)
現在の宮崎県総合文化公園(美術館、図書館、芸術劇場)がある敷地に本校は存在した。外観については、都城市立美術館を取材した第14回でも紹介した絵葉書のとおり、かなり洒落た洋風建築であった。
瑛九と親交のあった北尾淳一郎(1896-1973)は本校の教授であった。北尾は元々東京帝国大学農学部で動物学(昆虫)を専攻し、東京農工大学の学長も務めた人物である。瑛九は本校の美術展に出品されていた北尾の写真を見たことが切っ掛けで親しくなる。北尾は、宮崎の風景を被写体にした写真を発表していた。また、北尾が収集したレコードを聴くために、瑛九は度々農林高等学校の官舎に訪れていた。

U.宮崎県宮崎大宮高等学校 [旧宮崎県立宮崎中学校](p.78、p.297、pp.302-303他)
特別篇_13現在の大宮高校前

1924(大正13)年4月瑛九は宮崎県立中学校に入学するが、翌年春には退学している。この場所は、後に大宮高校となった場所で、瑛九はエスペラント語の指導者として本校に訪れていた。評伝には、画家の瑛九とは別の顔をのぞかせている場面を、次のように説明している。「彼はその頃、宮崎エスペラント会の機関誌が戦争のために廃刊されていたのを復刊するために、自ら原稿を書き、編集にも当たって、「LAGOJO」(よろこび)として刊行したが、これも日本人の精神を回復するための一つとして行ったのであろう。彼もまた、湯浅と佐藤が発足させた大宮高校エス語同好会を援助し、講演会を開いて後輩を指導した。同好会の機関誌「Studento en Nova Sento」(新時代の学生)の一号には、その第一回初等講習会の講師が瑛九と都であって、十名が参加したことなどが報道され、彼の筆によって、次のようにその指導法の一端が紹介されている《会話をなるべくエス語でやろう(中略)》(’50・11・5 Studento en Nova Sento 一号)」/このようにエス語習得の心構えを説いた言葉によって、勝れた啓蒙家であり教育者であったといわれる瑛九の一面を垣間見ることができるであろう。ところで大宮高校エス語同好会は翌年交友会の一つの部として認められ、三年生になった湯浅と佐藤との指導による第二回初等講習会には、実に百二十名を超す受講者が集まるまでに成長し、瑛九の直接の指導からは離れていった。」
先に挙げた1950年に教育会館で行われた瑛九の展覧会については、開催日前日にこの当時の大宮高校エスペラント部員の手によって作品が運び込まれ、陳列されたようだ。

V.宮崎県立宮崎大淀高等学校(現宮崎県立宮崎工業高等学校)(p.290)
妹杉子の結婚相手となった栗田恒雄は、大淀高校の教師をしており、彼の推薦から瑛九は本校でエスペラントを教えていたこともあった。なんと、丸島住宅へ引っ越しするときには、大淀高校のエス語の弟子たちがリヤカーを曳いて手伝ったという。ここでも瑛九は慕われた存在であったことが伺える。

W.宮崎神宮(p.43、p.61、p.177、pp.290-291他)
宮崎神宮を取り囲む森林の中には宮崎県総合博物館があり、宮崎県立美術館も近いため、ぜひ足を伸ばしてほしい場所である。神宮は地元では「神武さま」と呼ばれ親しまれているところで、瑛九もまたよく参拝していたところである。評伝には1939年に瑛九が宮崎神宮の社務所で神官と話している様子を郡司盛男が写真に撮ったと書かれている。この頃、眼鏡をはずし、袴にステッキというスタイルでいた瑛九は、生母の墓前や宮崎神宮で静座をしたり、詩を吟じたりして毎日過ごしていたようだ。
また、1949年谷口都を妻として迎えたときにも宮崎神宮へ参拝している。評伝の中で紹介された父直の日記には、簡潔にこう記されている。「九月五日 晴 神宮参拝 秀夫ノ結婚式ヲ行フ 谷口長太氏及婿児玉氏同道来駕タクシー送迎ヲナス 午後五時来リ七時共晩餐辞セリ」とある。なお、この時、杉田家の座敷で挙げた結婚式では、杉田家と谷口家の近親者のみが参列し、モンペ姿の花嫁に仕事着の花婿が三々九度の盃を交わした。そして、義父となる直から都は、次のことを告げられた。「あなたが、抱いている爆弾がいつ爆発するかわからないような秀夫と結婚して下さることは父親として心からうれしく、深く感謝いたします。しかし、秀夫は普通の者とはちがって芸術に進むという大きな問題をもっていますので、いつかは一緒にやって行けない時が来るかも知れません。もしもそんな時が来たならば、いつでもかまいませんから別れて下さい。私からそのことをこの席で特にお願いしておきます」このような優しくも厳しい言葉を都はずっと心に閉まって、瑛九とは最期まで片時も離れなかった。そして、未亡人となっても再婚することなく、先日106歳の誕生日を迎えたという。

X.岡山公園[現平和台公園](pp.171-172)
以前、第2回のアーツ前橋への取材でこの場所については取り挙げたことがあるが、評伝の中でも気に入っている場面のため、改めて下記に抜粋する。岡山公園は宮崎市を一望できる北尾淳一郎一押しの場所である。「午前中に瑛九兄弟と太佐との四人でフミタ写真館で記念撮影をして、午後には北尾の案内で岡山公園へ出かけた。平和公園となった今日では観光客で賑っているそこも、当時は訪れる人とてない小松林の平凡な小山に過ぎなかった。しかし、そこから宮崎平野を望む眺めは北尾が推奨するだけのことはあって、崇高さすら感じさせる壮麗なものであった。われわれが枯草の上に腰をおろして、その広濶な風景にみとれている間に姿を消した瑛九がいつまで待っても戻ってこないので不安になって探しにいったところ、彼はくさむらの茂みのかげにうづくまって、涙で顔をくちゃくちゃにして泣いていた。彼は風景の美しさに感極まって嗚咽していたのである」その後、北尾の書斎では瑛九を慰めるようにバッハのレコードがかけられていた。なんとも言い難い不思議な時間であったと想像する。

話が横道にそれてしまうが、この場面について気にかかってならなかったのは、このとき日名子実三《平和の塔(八紘之基柱)》が既にあったのか、無かったのか、である。公に出ている年号からたどれば、本作は紀元二千六百年記念の事業の一環として1939(昭和14)年5月に着工され、1940(昭和15)年11月には完成している。公園の近所にある宮崎神宮が神武天皇を祀っていることから記念事業が行われるのは、当然と言えば当然で、瑛九らが観に行った当時(1938年1月)は、着工の一年前で既に計画が発表されていたことが予想される。本書には一切この彫刻に触れていないが、瑛九はこの計画を既に知っていた可能性が高い。というのは、次のページには「その翌朝、油絵作品のすべてが片づけられた瑛九の部屋の壁に、『日の丸の 旗はためく 日本の風景』と毛筆で書かれた半紙の貼られていたのを見た」とあるからだ。瑛九は《平和の塔》が建立されることを知っており、ただ宮崎平野の風景に感激したわけではなく、変わりつつある未来の風景を見据えて涙を流していたのだろう。このような鋭敏な感覚の持主であったからこそ、瑛九は表現者として成功することになった。

特別篇_14現在の平和台公園。


特別篇_15エスペラント部の生徒と写る瑛九。1950年頃か。《平和の塔》に続く階段横で撮影されたことが分かる。


Y.宮崎大学(p.316、p.296)
宮崎大学で教鞭を執っていた塩月桃甫(1886- 1954、本名:善吉)について、評伝の中で次のように紹介されている。「桃甫は宮崎市外三財村の出身で東京美術学校卒業後台湾に渡って台湾美術展を創設し、それから三十年間を台湾美術振興のために力を尽くした人物である。敗戦後は宮崎に帰って宮崎大学で後進の指導に当り、瑛九はこの人を宮崎における唯一人の信頼できる先輩画家であるとして次のように言っている。/《宮崎で僕は一人の信頼する老画家を発見してよろこんでゐます。(中略)生活のケウイ〔脅威〕さえなければ、僕も宮崎にゐても、塩月氏がおる以上芸術上はさびしくないような気もしてゐます。しかし生活は仲々つらいし、内職はないので上京をけいかくしたのです。塩月氏としたしくなったのもごくさいきんなのです》(’49・11・?山田宛)」瑛九は、塩月の生活態度や啓蒙活動に強い関心を示していたようだ。
また、瑛九は宮崎大学からの依頼で「バイト」をしていた。いわゆる「仕事」が出来なかった瑛九が「バイト」と呼ぶのは、肖像画を描く事で、安中前宮崎県知事と甲斐善平前宮崎県会議長をモデルにした作品制作のことである。しかし、彼は湯浅英夫への書簡の中で「ぼくは食うために写真を見て肖像を描くといういやな仕事を今日までしなければならなかった」と訴えている。不服そうな顔をして筆を持つ瑛九の姿が目に浮かぶが、どこかほほえましくもある。

Z.宮崎駅(pp.99-100他)
瑛九は勤め人ではないが、当時としたらかなり列車を利用していると思う。車中でどのように過ごしていたか、書いている一文があるため紹介する。「その朝ぼくが広瀬から乗り込んで行った列車に、宮崎駅で写生用具を持って乗ってきた彼は、その頃毎晩のように見るという三十円の月給取になった夢について語り出し、鹿児島につくまでの四時間程の車中をしゃべり続けた」

特別篇_16宮崎駅で列車を待つ瑛九


特別篇_17戦時中に空襲で焼失した後に建てられた宮崎駅の駅舎。昭和30年代に撮影されたもので、この頃にも丸々と成長した特徴的なフェニックスがある。


a.一ッ葉浜(pp.50-51、p.207他)
特別篇_18一ッ葉浜の風景。2011年鈴木素直氏に案内していただいたときに撮影した。評伝に度々出てくるのは、宮崎市街地から一番近い海辺だからである。評伝によると、「秀夫が何時はじめて一ッ葉浜へ行ったのか明らかではないけれども、直の日記に見える限りでは、彼が二年生の夏休みを迎えた七月二十七日に、“正臣秀夫良氏一ッ葉浜へ行く”とあるのが最初になっている」と書かれ、その後も母や姉妹、学校からの遠足で一ッ葉浜へ行っているとある。

b.料亭「松月」(p.210)
評伝によると、1939年に北尾淳一郎は、「宮崎に帰ってきた瑛九を誘って一つ葉に遊び、入江に臨んだ料亭「松月」で一風呂浴びた後ぼら料理で酒を酌み交わしながら芸術談に時を忘れた」という。今はこの場所に「PILAW」というナポリピザの店がある。

c.住吉神社(p.49)
宮崎県の住吉神社は、日向住吉(旧二郎ケ別府)駅から東へ約2卆茲砲△襦I湘舛任盻撒反声劼何度か出てきており、最初に訪れたのは、秀夫が小学1年生になって間もない頃、3人の姉と継母栄と共に神社へ参詣している。

d.宮崎競馬場[現宮崎育成牧場](p.43)
父直の親友岡峰寅二郎がこの場所の近くで開業医(岡峰医院)をしていた。この野外広場では、簡易的な活動写真(映画)の上映会や飛行機のショーなどの巡業があった。小学生の秀夫は二階の窓からその様子を見物していたようだ。

e.富松良夫宅(p.100)
1929(昭和4)年に詩人富松良夫(1903-1954年、宮崎県出身)は26歳のときに自宅敷地内に絵画グループ「白陽会」のアトリエを建てる。瑛九が彼を訪ねて行ったときには、アトリエに転がり込んだと推測できる。瑛九は熊本滞在中に「大阪」という店などでビールを飲み、絵具の購入費に手持ちのお金をつぎ込んでしまう。豪遊の末、お金に困り借金をしようと良夫の所へ行ったこともあった。なお、このとき彼らは言い出せずに再び宿泊先に戻っている。

f.杉田家の墓
特別篇_19杉田家の墓に佇む兄正臣


特別篇_20現在の杉田家の墓(下原墓地)近くに郡司家の墓もある。
鈴木素直氏によるとこのモノクロ写真に掲載されている墓地と現在ある墓地は場所が異なるという。以前は、「宮崎市街図」下半分の左端(西側)辺りに掲載されている「墓地」に杉田家の墓があった。
その他、具体的な場所は特定できなかったが宮崎県内の瑛九ゆかりの地を以下に列挙する。また、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」には今回、掲載しきれなかったが、評伝に出てくる場所としてg〜nのマークをした。

◆画材店「王様」(pp.24-25)
図画教師中心に活動が展開されていた「宮崎美術協会」の創立総会は、この場所で行われていた。山田光春が宮崎の地を踏んで間もない頃、本総会に参加した。山田は1934(昭和9)年東京美術学校図画師範科を卒業し、赴任した先は知らない土地で知らない顔ばかり、このとき心細さは計り知れず「宮崎に来て、ピカソについて語り合う友達のいないことは淋しい」などと訴えていた。総会終了後、青年杉田秀夫(瑛九)が山田に声を掛けたことから、2人の親交がはじまっている。残念なことにこの画材店は、調査不足で確認できなかった。瑛九が画材を調達していたことも考えられるため、いずれ明らかにしたいと思う。

◆大潮社(p.202)
1939年6月9日〜12日「瑛九・杉田秀夫個人展覧会」が開かれる大掛かりな展示だったようである。宮崎市内にあるよう。

◆民芸店「杉」(年譜)
1968年に開催された遺作展では、県立図書館を第一会場とし、この場所を第二会場として活用していた。

◆うどん屋(p.305他)
評伝には「うどん屋」が何回か出てきている。海老原喜之助が宮崎に来た時にも案内している。気になる一行を紹介したい。「海老原は翌年の四月にも宮崎に来た機会に瑛九を激励し、瑛九の作品をもっているうどん屋などへ出かけて、瑛九が大へんお世話になっているそうですが、どうか今後もよろしくお願いします、と挨拶して廻り、デパートに寄って、彼を顧問に招聘するようにと話をして帰ったのだった。」
この「うどん屋」は県内でも老舗の「山盛りうどん」という話を宮崎滞在中に伺った。評伝では確認できなかった。

◆野尻村(pp.255-274)
1945年5月から終戦を迎えるまで疎開していた場所。このとき瑛九は筆ではなくペンを執り小説を書いた。または、書物を読みレコードを聴き、夕方は散歩をする毎日だったようだ。

以上で宮崎県内における瑛九のゆかりの地の調査報告は、いったん終了としたい。私が住む街である埼玉のことも同じように調査したいが、埼玉時代のことについては、評伝から確認できるところが非常に少ない。島崎清海氏からもっと話を伺いたかったと後悔の念が沸き上がるばかりである。ともあれ、埼玉・東京における瑛九の活動場所も少しずつ突き止めていきたいと思う。
今回の記事は、何よりも鈴木素直氏が現地で同行してくださったおかげで、机上で見ていた瑛九の活動場所を立体的に理解することができた。この場を借りて感謝を申し上げたい。なお、後になってご家族から知らされたことだが、私が調査に伺ったときに鈴木氏はかなり体に無理をされていたようである。しかし、迎えてくれた鈴木氏の「瑛九のことを伝えたい」という熱心な思いに背を向けて引き返す気持ちにはなれず、甘えてしまった。その後、体調が優れないようで心配である。一刻も早く回復することを祈っている。

最後に鈴木素直氏が瑛九の「現実について」(『アトリヱ』14巻6号、1937年)を読んで書かれたことをご紹介したい。

「最も時代的な精神はすぐれた知性をもつものと最も単純な生活とにあり」ミルクホールのおかみさんや散髪屋の親方の実話をあげながら、「単純な生活人は知性の実体を無意識な生き方の中で感得している」と述べている。そして「芸術家が単純な生活人の感得だけではすまされないのは、彼には表現しなければならぬ一事があるからだ」と言う。

たとえば、さきの大淀川、一ツ葉浜、宮崎高農など、県民に親しまれ瑛九が愛したものの様相や変容を、私たちは最も時代的な精神でとらえているだろうか。表現しなければならぬ芸術家は現実をどう描いているのだろうか。時の流れを傍観していいはずがない。


参考図版:
「宮崎市街図」1930年頃
杉田正臣編著『瑛九抄』杉田眼科内「根」、1980年
鈴木素直『瑛九・鈔』鉱脈社、1980年
宮崎日日新聞社編『写真集 宮崎100年』宮崎日日新聞社、1982年
野口逸三郎、富永嘉久編『写真集 明治大正昭和 宮崎』国書刊行会、1986年
山田光春『瑛九―評伝と作品』青龍洞、1976年

なかむら まき

●今日のお勧め作品は、瑛九です。
20170513_qei_159瑛九
《子供》
フォトデッサン
25.2×18.9cm

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五十殿利治『非常時のモダニズム 一九三〇年代帝国日本の美術』

新刊の拙著『非常時のモダニズム 一九三〇年代帝国日本の美術』について

五十殿利治


20170514五十殿利治
非常時のモダニズム 1930年代帝国日本の美術
2017年
東京大学出版会 発行
576ページ 21.8x15.8cm
価格:税込7992円/本体7400円


 本書は2008年同じ書肆(東京大学出版会)から上梓した『観衆の成立 美術雑誌・美術展・美術史』以来の単著である。つまり10年をかけて、ようよう一冊をものした。しかも、定年退職の月に、である。
 冒頭から懺悔のようで面目がないが、校正が終わり、著者の手を離れてしまうと、本を手にする喜びは束の間で、むしろ到らなかった点があれこれと浮かび上がってくる。表紙に掲載された個人蔵の瑛九作品をはじめ、資料の入手などで長らく世話になっている画廊主の求めに応じたものの、拙著についてなにかを書くとならば、こうして弁解気味になってしまうのだが、そもそも手前勝手の目論見では、2011年に還暦を目安にして一冊、そして2017年に退職に際して一冊と、皮算用をしていたが、ものの見事に目算が外れたという次第である。既発表の論文をまとめるものでさえ、この始末。それだけ知的な生産力が貧弱であるという以外に、説明のしようがない。
 実際に、本書に収録された一章には、初出が1996年、つまり20年以上も前に発表した論文に基づくものがある。筆者としては、それだけこだわりのあるテーマであると弁解したいところだが、単に自分の拘泥だけでまとめるという誹りを受けるかもしれない。
 当然のことだが、すべて初出がそのまま掲載されたものはない。個々の論文の対象や発表時期の相異による問題意識の溝を埋めるため、互いに関連づけるように配慮しつつ、管見で限りはあるが、近年の研究成果を盛り込むように努めた。
 そうした作業の中で気づいた、というよりも励まされたのは、何よりも先行研究であったことはいくら強調してもしたりない。
 一つは、すでに定評のある研究である。たとえば、田中淳氏の一連の仕事、特に『「絵画」の成熟 1930年代の日本画と洋画』展(東京国立近代美術館、1994年)であり、あるいは山田諭氏による日本のシュルレアリスムの基礎研究(「日本のシュールレアリスム:1925−1945」、名古屋市美術館、1990年)である(ちなみに、CiNiiで検索してみると本カタログは全国の大学図書館9館で所蔵されるだけである。嘆かわしい)。いずれも、現在でも、これを凌駕したと思わせるように説得力のある提案、あるいは手元におく事典的な業績はないといえば極論だろうか。とはいえ、新潟県立近代美術館の澤田佳三氏による企画「昭和の美術 1945年まで <目的芸術>の軌跡 」(2005年)、また速水豊氏による企画「昭和モダン 絵画と文学 1926-1936」展(兵庫県美術館、2013年)の貢献は評価したい。

20170513『絵画の成熟 1930年代の日本画と洋画』展図録
東京国立近代美術館 1994年

20170506『日本のシュールレアリスム:1925−1945』展図録
名古屋市美術館 1990年

 一方、昨年になって、この時代に関わる意欲的な、しかも浩瀚な著作がつぎつぎに上梓されて、地道な調査研究が一気に開花したような現象が見られた。
 一つは、大谷省吾の660頁の大著『激動期のアヴァンギャルド: シュルレアリスムと日本の絵画一九二八―一九五三』(国書刊行会)であり、またこれも600頁に近い黒沢義輝『日本のシュルレアリスムという思考野』(明文書房)である。一昨年に上梓された山口泰二の500頁ちかい『変動期の画家』(美術運動史研究会)も加えることができよう。この三著もさることながら、三者には資料面、論考面等でも負うところが大であった。また山口にはしばしば『美術運動史研究会ニュース』にわがままな寄稿をお願いした。この場を借りて、改めて謝意を表したい。
校正が出始めたころに、山田光春の瑛九評伝を裏付ける資料、すなわち大谷による瑛九書簡の翻刻と注解が公刊された(「瑛九 1935−1937 闇の中で「レアル」をさがす」展、東京国立近代美術館、2017年、113−147頁)。その一方、本書には登場しないスターであるが、神奈川県立近代美術館別館での「松本竣介 創造の原点」展(2016年10月)では、《画家の像》と同じ二科展(1942年)に出品された《小児像》の絵葉書が展示された。これほど繰り返し回顧展が催され、美術書・美術全集等で定番の画家でも、なお新出資料の発掘があることに驚かされた。

201606大谷省吾大谷省吾
『激動期のアヴァンギャルド シュルレアリスムと日本の絵画 一九二八−一九五三』

2016年 国書刊行会
著者からのメッセージ

 こうした高度な先行研究に加えて『非常時のモダニズム 一九三〇年代帝国日本の美術』を出版し、世に問う理由とはなにか。読んでいただくに限るといいたいが、とにかく私にはこの問いに答える義務があるように思われる。
 これまでの研究歴でいえば、本書はこの10年間の集大成である。共編著では、2003年からこれまで1930年代に関わる論集を三冊上梓していることもあり、その延長線上にある。ただし、この三論集に掲載した文章はいずれも再録してはいない。もっとも、それ以外の書籍に収録されてあるもので再掲した論文はある。ひとつは巴里東京新興美術展についてのもの、そして英文日本美術年鑑についてのものである。大幅な加筆を加えて、初出とは資料面でも、論点の整理でも、一歩進めてあるけれども、なお論集として編む理由として十分ではないかもしれない。
 では、なにを求めたのか。すでに1930年代美術を論じる視点として提出した「モダニズム/ナショナリズム」、「クラシック モダン」、そして「対外美術戦略」に加えて、さらにそれを包括するような議論の場を用意するということである。その結果として、脳裏に浮かんだのが、この10年間を覆うような、ある意味で融通がきく語が「非常時」であった。なぜなら、それは美術界に限らずに、広く通用していたからだ。大陸に派遣される従軍画家、聖戦美術展といった動向とシンクロする1930年代の美術現象を形容する語としては腑に落ちるところがあろう。その一方で、昨今の政治状況、日本に限らず、世界的にもみても、この語は予期せぬ残響を残しそうだ。
しかし、人間の暮らしは、最前線の戦場にも日常的な時間が流れるときがあるのと同じように、常に非常時にあるということがないことも明白である。美術現象にも同様にして、非常時を体現するものがあり、また非日常的な枠内で日常的なものが生起する。その一例として、雲岡石窟の観光に注目した。もともとは、柳瀬正夢や長谷川三郎が絵筆ではなく、カメラを手にして雲岡石窟を訪れたことを問題にしていた。とくに長谷川については藪前知子による議論(「抽象絵画の沈黙――長谷川三郎における「古典」と「前衛」」、『クラシック モダン 1930年代日本の芸術』所収、せりか書房、2005年)に啓発されたのだが、異なる視点で考察するようになった。
日中戦争開戦時から、ほどなくして1937年9月日本軍が進出してすぐにも遺跡保護が始まるが、やがてバスが開通するなど、観光地化が進展する。たまたま古書で入手した架蔵の案内書には、石仏についての細かいメモが記されているとともに、見返しには、「山西大同雲岡石仏古寺」や「石仏古寺」の印とともに「16.6.30」の日付のある「青島 中華航空株式会社」の丸スタンプが押されている。むろん、入手した当初は、スタンプなど見過ごしていたというより、鉛筆の書き込みのような資料的な価値と無縁な夾雑物と思っていたのだが、改稿するなかで、再考をうながされた。
こうしたツーリズムの視点については、ケネス・ルオフ著『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』(朝日選書、2010年)に大いに啓発されたし、同書はまた瑛九が30年代の宮崎においておかれた状況を考え直す契機ともなった。現平和公園に聳え立つ日名子実三の《八紘之基柱》と、彷徨期を迎える瑛九のフォト・デッサンが同存すること、それはなるほど大都市ならば理解できなくはないだろう。だが、紀元二六〇〇年記念で高揚する宮崎県。宮崎神宮があり、肇国神話の舞台となる地となれば、大都会とは事情が違い、そうした高揚感が横溢する周囲から瑛九という個人を単純に切り離せないだろう。この時期、瑛九の盟友であった北尾淳一郎が、1937年銀座の画廊「ブリュッケ」における二人展のあと、宮崎での美術活動について雑誌『アトリヱ』に寄せた一文のタイトルに「聖都、宮崎市」を掲げたことは雄弁な証拠である。
なお、瑛九について、ひとつ訂正が必要な記述がある。拙著第七章で瑛九が「海外超現実主義作品展」を見たことが判明していると述べているが(294頁)、これについての疑問を識者から指摘された。なるほど、この時期、瑛九が宮崎から同展が開催された東京、京都、大阪、名古屋、福井へ行ったという確たる文献資料等がなく、私の勘違いであった。この場をかりて、訂正させていただきたい。

ところで、論文という体裁で執筆するので、書くこと自体があまり楽しみということはないのだが、それでも、第4章「シベリア横断の画家と小説家によるパリ美術生活案内」については調べること自体が、自分がちょうどツーリストとして旅をするような気分が高揚したところがあったといえばおおげさだろうか。
林芙美子のことは『マヴォ』に寄稿している詩人で、マヴォイストの周辺にいた小説家として、『砂漠の花』の平林たい子と同じように特別な関心を抱いて、「放浪記」を熱心に読んだことがあるが、そうした関心をさらにシベリア旅行の考察へと導いたのは、拙著でも述べたとおり、森まゆみの『女三人のシベリア鉄道』(集英社、2003年)であり、また同著者によって脚色された劇化され、劇団銅鑼の公演(俳優座劇場、2014年3月)であった。著者は若いころ断念したシベリア鉄道旅行を実行することを執筆動機のひとつに挙げているが、いまひとつ、旅によって「女三人」が変貌を遂げたことにも触れている。
「とにかくこの旅をへて、みな人生を変えた。与謝野晶子は夫を選び直し、宮本百合子は思想を選び直し、林芙美子は恋人を選び直した。」(森まゆみ「旅へ、旅へ、うずく心――自分の本を脚本にして」、公演パンフレット「劇団銅鑼No.45 女三人のシベリア鉄道」、2014年3月)。
旅が人を変える、それはたしかに魅力的なテーマだ。
一方、ずっと以前のことだが、第一次世界大戦中にモスクワに滞在した山本鼎について論じたこともあって、日ソ国交が樹立した後に、シベリア鉄道旅行の往路復路で乗換のためにモスクワに立ち寄った美術家が、美術館を訪問してどんな感想を抱いたかということも以前から興味があったので、管見の限りで、考察をまとめることにした。
林芙美子については、幸いなことに、すでに今川英子による委細を尽くした先行研究『巴里の恋―巴里の小遣ひ帳、一九三二年の日記、夫への手紙』(中央公論新社、2001年)があり、モスクワでの乗換と市内観光について触れ、また私にとっては主役級の林芙美子と島村三七雄に対するところの、貴重なバイプレーヤーである顔水龍、そして平山昌(子)を見出すことができた。顔水龍は戦前の美術学校で学び、戦後故郷の台湾で活躍した作家であり、2011年台北市立美術館での回顧展「走進公衆・美化台湾」を企画した中央研究院の顔娟英から貴重な示唆を得ることができた。あいにく後者については、本画廊主が編纂した『資生堂ギャラリー七十五年史』(資生堂企業文化部、1994年)に収録した経歴以上は、いまだ十分に人物を把握できていない(なお、顔娟英から、顔水龍の回想として平山昌に言及した未発表の会見記の一部を提供されたが、画家の遺族との連絡がとれず、今後の課題とした)。また川崎賢子『彼等の昭和―長谷川海太郎・潾二郎・濬・四郎』(白水社、1994年)の潾二郎が登場するとは思いもよらないことであった。
林芙美子の経験したパリは不況にあえぎ、画廊が激減したパリであった。芙美子の交友圏には画家がしばしば登場するとはいえ、そして「シュール」の言及もあるとはいえ、彼女自身は前衛的な傾向とはすれ違ったままのパリの街を下駄で歩き回ったのだった。たとえば、美術ジャーナリストの松尾邦之助とは交流したのであるから、岡本太郎と出会ってもおかしくはないといえばおかしくはない。だが、灰色の色調による具象画で知られるピエール・ラプラードを愛好する林芙美子にかりに出会ったとしても、その当時の岡本はまだピカソ作品に衝撃を受けて間もない時期であった。やがて1936年ベルリン・オリンピックの取材のために訪れる横光利一を、あのアドルフ・ロース設計のトリスタン・ツァラ邸に引き連れていくほどに、パリの美術界での知己を得てはいなかった。
林芙美子のパリは、それでも、まさに美術生活という語がぴたりと当てはまる。到着したパリ北駅での出迎えの一人は画家別府貫一郎であった。当時同地の在住日本人では画家が圧倒的な多数派であったから、当然といえば当然であったのだが、それでも、林の日記や書簡では、先述の美術ジャーナリスト松尾のほか、画家では青山義雄、建築家白井晟一、美術史家今泉篤男、と狭いコミュニティーならではだが、著名となる人物がつぎつぎと登場するのである。林芙美子とともに、パリの美術生活を楽しみたくなるというものだろう。

東京大学出版会編集者によれば、前著『観衆の成立』は毎年、着実に購入されている由である。じつは日本のダダについての長文を収めた共編著Eastern Dada Orbit(G.K. Hall, 1998)も僅か数部であるが、毎年、米国の出版社からその旨の連絡が来る。研究書とはそういうものだと、えらそうなことはいえない。前述で誤記を訂正したばかりだ。それでも『非常時のモダニズム』も息の長い研究書となればと念願している。
おむか としはる

『非常時のモダニズム 一九三〇年代帝国日本の美術』目次:
序章
第一部 帝国の美術戦略
第一章
もうひとつの「日本美術年鑑」と対外文化宣伝
— The Year Book of Japanese Art (『英文日本美術年鑑』)について
1 番付から年鑑へー美術の社会化と歴史意識
2 二つの美術年鑑
3 国際連盟協会学芸協力委員会と美術界
4 The Yearbook of Japanese Art (『英文日本美術年鑑』)の刊行
5 Introductionと日本美術界紹介
6 主要展覧会の紹介と付録記事
7 まとめ

第二章
美の聖域と競技場(アリーナ)
ー一九三六年べルリン・オリンピック美術展について
1 芸術競技初参加ーロサンゼルス大会、一九三二年
2 べルリン大会ー準備から展示まで
3 べルリン大会が終わって

第三章
日中戦争期における雲岡石窟と日本人美術家
ー柳瀬正夢と長谷川三郎を中心に
1 遺跡と観光
2 観光地としての雲岡石窟
3 雲岡石窟ブーム
4 雲岡石窟の記述ー専門書と一般書
5 モダニストの中国旅行と写真への関与
6 柳瀬正夢の雲岡行ーカメラを手にした画家の視線
7 帰国後の写真の展示公開ー雑誌と展覧会
8「女」と「こども」と「平民」の世界ーツーリストの視線
9 長谷川三郎と雲岡石窟
10 写真との出会い、嘆九との出会い
11 第一回自由美術家協会展と写真
12 雲岡石窟の評価と写真作品
13 中国旅行後の「前衛」なる「閑人」
  結語に代えて
補遺 美術関係の一つの記録写真ー大陸とモダニストのカメラ

第二部 越境するモダニスト

第四章  
シべリア横断の画家と小説家によるパリ美術生活案内
ー島村三七雄と林芙美子
1 シべリア鉄道の旅
2 林芙美子のパリ美術生活
3 パリの日本人社会と林芙美子ー顔水龍と平山昌

第五章
モダニズムの展示
ー巴里新興美術展をめぐって
1 企面過程—第三形而同盟から巴里・東京新興美術同盟へ
2 展覧会開催—会期、会場、出品目録、出品作品
3 反響と余波
4 モダニズムの展示

第六章
岡本太郎とスイス・コネクション
ーネオ=コンクレティスムと一九三〇年代の「総合」の芸術
1 なぜスイス美術なのか
2 シュランデパンダン展と抽象創造協会への参加
3「稀有な若人」ー松尾邦之助そしてセリグマンとの出会いについて
4 交友圏の拡大と美術活動
5 ジャコフスキと岡本太郎
6 一九三五年ルツェルン美術館開催の「措定、反措定、止揚」展をめぐって
7「総合」の芸術
8 クールティヨンと『オカモト』ーネオ=コンクレティスムの位置づけ
9 おわりに

第七華
セリグマン来日と日本の「前衛」
1 セリグマン来日
2 セリグマン個展
3 ネオ=コンクレティスム
4 セリグマンの代弁者としての長谷川三郎
5 英九にとってのセリグマンーガラス絵の意味

第三部 帝都の展示空間 上野恩賜公園とモダン銀座街頭
第八章 
近代美術館から現代美術館へ
—美術館建築と「現代美術」
1 東京府美術館と美術館建築
2 美術館機能の改善
3 現代美術館か、近代美術館か
4 現代美術の「街頭展」ー現代美術館の小展示室

第九華 
一九三○年代東京における「街頭展」とモダニズムの新拠点
ー「ブリュッケ」と「日本サロン」にっいて
1 銀座の展示空間
2「新芸術の為の展示室」ー画廊「ブリュッヶ」
3「ブリュッケ」における展覧会
4 英九と北尾淳一郎の二人展にっいて%
5 ゲオルゲ・グロツス作品及文献展示会
6 「写真関係の建築」と海外超現実主義作品展—日本サロン
7 板垣鷹穂の紹介記事
8 日本サロンと「海外超現実主義作品展」の展示空間

第十章  
アマチュア写真から写真壁画まで
ーー板垣鷹穂と写真展月評という舞台『アサヒカメラ』一九三三~一九四ニ
1 写真展月評への姿勢ー局外者、学生、アマチュア
2 アマチョァ写真評とモダニズム批判
3 写真の社会性、カメラ報国、写真国策
4 展示、美術館、画廊
5 地方色と郷土芸術
6 日本的なるもの
7 ドイツと板垣月評
8 おわりに

■五十殿利治 Toshiharu OMUKA
1951年 生まれ。
1978年 早稲田大学大学院後期課程中退、北海道立近代美術館学芸員、筑波大学講師を経て、筑波大学芸術系教授。
主要編著書:
『大正期新興美術運動の研究』(スカイドア、1995年、毎日出版文化賞奨励賞)
Gerald Janecek(co-editor), The Eastern Dada Orbit: Russia, Georgia, Ukraine, Central Europe and Japan(G.K.Hall, 1998)
『日本のアヴァンギャルド芸術―〈マヴォ〉とその時代』(青土社、2001年)
『モダニズム/ナショナリズ―1930年代日本の芸術』(共編著、せりか書房、2003年)
『クラシック モダン―1930年代日本の芸術』(共編著、せりか書房、2004年)
『観衆の成立―美術展・美術雑誌・美術史』(東京大学出版会、2008年)
『「帝国」と美術―1930年代日本の対外美術戦略』(編著、2010年、国書刊行会)
『美術批評家著作選集』(監修、全21巻、2010年−2017年、ゆまに書房)

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中村茉貴〜宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて 特別篇 1

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第18回
宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて


ちょっと寄道….特別篇 1

「美術館に瑛九を観に行く」の第14〜17回では、宮崎県立美術館と都城市立美術館で開催されていた展覧会の模様を紹介した。実はこちらの取材を進めながら、もう一つ並行して取り組んでいたことがあった。「瑛九の聖地巡礼」である。宮崎と云えば瑛九の出身地であることから、宮崎県に訪れたら、ぜひやりたいと長年胸に秘めていたことであった。とはいえ、宮崎の土地勘は全くない。情報不足で読み物に出来るか分からなかったが、生前瑛九と親交のあった宮崎在住の詩人鈴木素直氏の協力を得たことで、ぼんやりとしていた視野がクリアになった。そこで、表題のとおり「ちょっと寄道….特別篇」という枠を設けて、瑛九ゆかりの地を掘下げ、少しでも当時の空気感を届けることができたらと思う。

まず、現地へ行く前に私は『瑛九−評伝と作品』(青龍洞、1976年)から宮崎県に関する地名等をピックアップした。40年以上前に書かれた本書が現在の地名や建物(店舗)名と一致するかどうか、全く皆無に等しかったが、とりあえずめぼしいところを30カ所ほど列挙し、事前に鈴木素直氏と連絡をとった。

宮崎で鈴木氏に対面し、ひとつひとつ状況を伺ってみると、そのうちのほとんどが現存しない、あるいは遠隔地でとても今回のスケジュールではいけないという具合であった。しかし、その中でも瑛九の実家である杉田眼科、宮崎小学校、杉田家の墓標、郡司邸跡地などへは鈴木氏が車で案内できるということで、ガイドをお願いした。

以下には、鈴木氏の証言をもとに瑛九の実家や彼が通った場所を地図上で確認しながら、『瑛九―評伝と作品』に書かれた内容をいくつか参照したい。
参照先:「瑛九の聖地@宮崎」
https://drive.google.com/open?id=1cUFoWwqKUy8CARQBsUp2qtNQtuM&usp=sharing

特別篇_01杉田眼科医院および郡司邸(金城堂包装紙部分)
なお、こちらの画像は、宮崎の老舗銘菓「金城堂」の包装紙に印刷された地図「宮崎市街図」(出版社不明、昭和5年頃)の一部である。これを見ると中央部に横切る「南廣島通り三丁目」付近に「杉田眼科医院」があり、左中央部「南広島通り二丁目」沿いには、「郡司邸」とある。この地図入りの包装紙は、土産選びの最中に偶然見つけ、過去の地名を辿るのに大いに役立った。

特別篇_02「宮崎市街図」上半分・北側(出版社不明、昭和5年頃)
※地図が制作された年代は昭和5年頃であり、解説と表記が異なることもある。
※下記、括弧内のページ番号は出典先『瑛九―評伝と作品』の掲載頁を表す。
※アルファベットは、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」と対応している。


A. 杉田眼科[杉田眼科医院](p.28他)
特別篇_03現在の杉田眼科
瑛九こと杉田秀夫は宮崎県宮崎郡宮崎町大字上別府(現宮崎市橘通東3丁目)に生まれる。『瑛九―評伝と作品』(以下「評伝」)の中で紹介されている瑛九の父直の日記には1911年4月28日に「格別ノ陣痛ナク午後六時三十分男子分娩」と記録されている。杉田家の父直は俳人としての活動をする一方で眼科医院の院長をしていた。

B. 郡司邸(p.50、pp.90-91、pp.116-117、p.211他)
特別篇_04画像の中央にある石碑には、「西郷隆盛駐在之跡」とある。かつてこの地にあった民家に西郷隆盛が約2か月滞在したことを伝える。実は、この場所、杉田家の親戚にあたる郡司邸があったところだと鈴木氏から教えていただいた。「生誕100年記念 瑛九展」の巻末にある油彩画カタログレゾネをみるとNo.81《郡司家の庭》(1942年)という作品がある。

郡司家は代々由緒ある家系で「佐土原島津家の家老職」であった。杉田家とは元々つながりはなかったが、姉杉田君子が郡司良(浜田家から郡司家の嫡子となる)と結婚し、郡司家と深い付き合いを持つようになる。なお、その後の郡司家は、義兄の良を含む3人が相次いで他界したことから、1932(昭和7)年に秀夫は用心棒として郡司家に身を置くようになる。この時期、かなりの数の油絵を制作したようだが、現存するものは極わずかしか存在ない。

特別篇_05郡司家で行われた送別会(「生誕100年記念瑛九展」p.221)
郡司邸は、人を送り迎えする玄関口として度々使用されていた。画像は1940年3月16日に開かれた上京する北尾淳一郎(1896-1973)の送別会の様子である。広々とした洋風の内装が目を惹く。なお、1935年エスペラント特派使節として宮崎に来ていた久保貞次郎の歓迎会も郡司邸で行われ、瑛九はその折に久保と知り合いになった。瑛九は「弟の秀夫です」と久保にあいさつをし、画室でシュルレアリスムの話をしたようだ。


C. フミタ写真館(p.120)
杉田家の向かいにあったという写真館。残念ながら現存しない。こちらの館主は、瑛九に対し、たいへん協力的であったと伝えている。こちらの写真館がなければ、瑛九の「フォトデッサン」の傑作は生まれなかったかもしれない。評伝の中に書かれた内容をみると、古賀春江画集を見たあとに制作意欲が高まっていた瑛九は「フミタ写真館の暗室へ飛び込んで猛然と制作を開始した。この時杉子や盛男を助手に頼んだけれども、そこの館主府味田安彦もこれを応援し、薬品の調合などを手伝っただけでなく、時々はウィスキーのサービスもしたものだと語っている」とある。このとき制作されたのが、『眠りの理由』(10点1組)を含む百点にも及ぶフォトデッサン(印画紙による作品)であった。その後も瑛九は、フミタ写真舘の暗室を借りることがあったようだ。「生誕100年記念 瑛九展」の巻末にある油彩画カタログレゾネNo.57には、当館をモチーフにした《フミタ写真館》(1941年、45.4×33.7、宮崎県立美術館蔵)が掲載されている。

D. 知事官舎(p.110)
当時、知事官舎は郡司邸の隣りにあった。1935年瑛九は、知事官舎に滞在中の清水登之(1887-1945年、栃木県出身)に会うことになっていたようだが、上野で開かれた中央美術展を見てきた帰りで、非常に気が立っており、ついに会うことはなかった。山田宛の書簡には「清水にはアワン。大家などにはアワンことにするです。本をかって、そいつをよむです。ハチきれるゼツボウ感でキャンバスをタタこう。ゼツボウが出発だ。」と綴っている。
なお、知事官舎が近いためか《安中宮崎県知事》(1951年、宮崎大学所蔵、「生誕100年記念 瑛九展」レゾネNo.216)という作品がある。1945年宮崎県知事に就任した安中忠雄を描いた肖像画である。

E. 谷口外科医院[私立宮崎県立病院](p.252)
1944年5月瑛九は宮崎神宮で腹痛に襲われ、この病院で腸捻転の手術を受けている。このとき瑛九は、担当医のことを次のように書いている。「院長の谷口熊雄は宮崎県立病院の院長として九州大学から召聘され、後に谷口外科医院を創設したこの土地の名士であり、担当の南田弘は文学芸術に関心をもつ若い医師で、回診の際に彼のところで画集を見ながらしばらく話して行くようなこともしばしばあったという」
術後の回復は良好とはいえず、瑛九は再入院するが、そのときも瑛九は南田医師のことを書簡に書き記している。瑛九は、手術後一年は重いものも持たないようにと南田医師からは注意を受けていたが、院長は特に注意するようにとは口にしなかったために、特に用心しなかった。「医術は経験だけではない」と瑛九は感じたようだ。
病院があった場所は、現在みやざきアートセンターが建つ。

F. 八幡社[八幡神社、現宮崎八幡宮](p.38)
杉田家の氏神を祀る神社であり、秀夫誕生のお宮参りはこちらであったと父直の日記に綴られている。

G. 安心堂書店(p.172)
瑛九は父親譲りの無類の読書好きで、小学生の頃には読書に集中しすぎるあまり、教員に怒られるほどであった。「古本屋」は、評伝の中で度々目にするが、兄正臣の日記から家の近くの「安心堂」であることが分かる。

なお、地図上の水色部分は、それぞれ墓地、教会、映画館である。鈴木氏によれば、「墓地」と書かれた場所にかつて杉田家の墓があった。杉田家の向かいにある「教会」は絵のモチーフになった可能性があるためにマークした。また、瑛九は、しばしば映画館に通ったことが評伝で確認することができる。「大成座」が果たして馴染みのところだったか定かではないが、可能性のひとつとしてマークしておいた。なお、杉田眼科医院の横の通りを北に進むと現在山形屋があり、その場所に「ロマン座」という映画館もあった。

以下は、「宮崎市街図」から外れたところにある瑛九ゆかりの地である。杉田家からみて北側にある地で位置情報は、冒頭で示した「マイマップ」の方で確認してほしい。

H. 橘通りロータリー
特別篇_06橘通りロータリー 現橘通り三丁目付近(『写真集 宮崎100年』宮崎日日新聞社、1982年、p.371)
鈴木素直氏よるとかつて橘通りの交差点にあったロータリーに、瑛九はよく酔っぱらって大の字で寝ていたという。ちなみに評伝では居酒屋「真」や「巴」に瑛九が通っていたことを伝えている。(p.172)


I. ヒマワリ画廊(p.290)
特別篇_07従弟の鳥原茂之が宮崎市広島通りに画廊を設立する。記念すべき第一回は、杉田作郎(父直)の傘寿の祝いで「杉田作郎氏短冊色紙展」が行われる。収集した芭蕉、蕪村、一茶の他、親交のあった紅葉、子規、虚子、不折、芋銭など、著名な人物のものが展示された。画像は、今の画廊で、一階は画材店で二階は会場として利用している。

J. 西村楽器店(p.114、p.117、p.148)
記憶に新しい東京国立近代美術館の常設展で展示物の中に、「西村楽器店」の会場名が入った資料があった。評伝によると店主池田綱四郎のはからいにより、瑛九らは2階のスペースを会場として度々活用していた。まさにこの場所で「ふるさと社」の展示、および宮崎での初の瑛九個展(1936年6月12・13日)が開催された。また、エスペラント劇「ザメンホフの夕べ」もこちらで行われていた。

特別篇_08宮崎県立美術館の佐々木学芸員から伺って、店舗のあった橘通り西3丁目訪ね歩いた。今はコーヒーショップに変わってしまったが、白い建物内に入っている店舗の説明を見ると「ニシムラビル」とあった。楽器店はなくなってしまったわけではなく、宮崎市内清水1丁目と大淀川に渡った先の中村東3丁目に店舗が移った他、九州・四国へと拡大している。


K. 丸島住宅(p.290、p.300、p.304)
特別篇_09画像は、瑛九がエスペラントを教えていた宮崎大宮高校の生徒たちと写っている丸島住宅の様子。鈴木氏から提供いただいた。
瑛九は1948年谷口都と結婚し、丸島町の市営住宅に引っ越すが、まだ戦災後の復興中で適当なところは無く、画像のとおり木造のバラックであり、実家暮らしとは目に見えてかなりの落差があったよう。海老原喜之助が瑛九を訪ねた時について、評伝では以下のように書かれている。「海老原は須田〔国太郎〕に誘われるままに宮崎へ来たのであった。そして内田〔耕平〕から瑛九のいるところを聞くとすぐに案内をたのみ、途中で杉田家を見て丸島町の彼の家へ行った。杉田家の門前に立った海老原は中へ入ろうとはせず、〔中略〕都に「この世に人間はいくらでもいるけれども、本当の人間というものはまれにしかいないのだから、どうか瑛九を大切にしてください。よろしくお願いします」と、丁寧に頭を下げて頼んだ」
2人きりになった瑛九と妻都は、普段からエスペラント語で会話していたようだ。慎ましやかな暮らしであっても、実りの多い暮らしであったことが想像される。

今回は、美術館の作品鑑賞ではないが、瑛九の誕生・芸術家デビュー・上京・病気・結婚など、人生の節目節目を地図上の場所から辿ることが出来た。瑛九が生活した環境や体験場所を地図上から探ることで、作品が描かれた「地」がどういうところだったのか、どういう経験を経て作品が制作されたのか想像しやすくなった。具体的に主な制作地をあげると、実家の杉田家・郡司邸・フミタ写真館・丸島住宅であったが、評伝でこれらの場所を見ると、各地での経験が瑛九に様々なインスピレーションを与えていたことが伺い知れる。郡司家では油彩画制作に傾倒し、フミタ写真館で印画紙による作品(フォトデッサン)を作り、丸島住宅では妻都の姿を多く描いている。想像以上に「画家と場所」が密接な関係にあることに気付かされた。

まだまだ紹介したいことは山盛りあるが、果たしてまとめきれるだろうか…次回は、「宮崎市街図」南側を中心に瑛九の足跡をたどりたい。

なかむら まき

*20170504/21時5分画廊亭主より追伸
石原輝雄さんからコメントをいただきました(下記参照)。この原稿をつくるのにヘロヘロになった中村さん、連休はひっくりかえっていたらしいけれど、石原さんのコメントで元気回復したらしい。読んでくださる方あってこそのブログです。引き続きのご愛読をお願いします。

●今日のお勧め作品は瑛九のフォトデッサンです。
20150504_qei_140_work瑛九
「作品」
フォトデッサン
40.8x31.9cm


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瑛九誕生日に寄せて/梅津元「ガラスの光春 ― 瑛九の乱反射」

瑛九が生きていれば明日4月28日には106歳を迎えることになります。
浦和のアトリエはいまもあり、都夫人もご健在です。
瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(表)瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(裏)

東京国立近代美術館で昨年11月22日〜2017年2月12日の会期で「瑛九 1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」展が開催されました。
それに関連して先日、埼玉県立近代美術館の梅津元先生からお知らせをいただきましたので、ご紹介しましょう。

<東京国立近代美術館『現代の眼』(622号)に寄稿しました
少し前ですが、「瑛九 1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」のレビューを寄稿しました。
瑛九と山田光春の密接な交流に着目して、「ガラスの光春 ― 瑛九の乱反射」と題するテキストを書きました。

以下でPDFでもお読みいただけます。(p.10〜11)

http://www.momat.go.jp/ge/wp-content/uploads/sites/2/2017/02/622web_201702.pdf/

機会がありましたら、手に取り、お読みいただき、忌憚のないご意見・ご感想いただけましたら大変うれしく思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
梅津>

近美の企画担当者大谷省吾先生が「この展覧会の最大の収穫は梅津論文です」と激賞したように、画期的な論文です。
ぜひお読みください。

なき瑛九の106歳の誕生日を寿ぎ、都夫人のますますのご健勝を祈る次第です。
亭主は上記東京国立近代美術館の展覧会に合わせて2016年11月24日から最終日の2017年2月12日まで毎日<瑛九情報!>を発信しましたが、その総目次はコチラをご覧ください。
ときの忘れものは、今後も瑛九の顕彰紹介につとめてまいりますが、シリーズ企画「瑛九展」が一昨年の第26回展で中断したままです。この空間での最後の展示は瑛九でしめたいのですが、はたしてどうなることやら・・・・

●今日のお勧め作品は瑛九です。
瑛九「離陸」
瑛九「離陸
1957年 リトグラフ
イメージサイズ:32.0x21.0cm
シートサイズ:54.3x38.5cm
Ed.22(E.A.) サインあり

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◆4月29日(土、祝日)から始まる連休中・日曜・月曜・祝日は休廊です(暦通り)。
5月2日(火曜)と6日(土曜)は開廊。連休明けは5月9日(火曜)から営業します。

◆ときの忘れものの次回企画は「植田正治写真展―光と陰の世界―Part I」です。
会期:2017年5月13日[土]―5月27日[土] *日・月・祝日休廊
201705UEDA_DM
初期名作から晩年のカラー写真など約15点をご覧いただきます。どうぞご期待ください。
●イベントのご案内
5月13日(土)17時より、写真史家の金子隆一さんによるギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。
必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申し込みください。
info@tokinowasuremono.com
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