ウォーホルを偲んで

巨大地下空間でのウォーホル展

Today, we have suddenly received several inquiries from across the globe on HAGURI’s works. If you could inform us where you have heard or seen his works, we will be much appriciated.
(スタッフSから問い合わせ者への返信メールより)

昨日朝、出勤した大番頭おだちがパソコンをあけて見たものは、カナダから2件、オーストラリアから1件、フランスから1件、テキサスから1件、中国から1件合わせて6件の価格の問い合わせメールでした。
海外から一日数件の問い合わせがあるのは普通のことなので、どうということはないのですが、その内容が全て葉栗剛作品に関してなので驚いたようです。

I am interested in the prices of the wood carvings listed above by Takeshi Haguri, and how much shipping would be to Canada.

サンタフェ惨敗の責任を一身に負って大番頭は何も言わなかったのですが(言い訳になると思ったらしい)、実は現地での評判は掛値なく良く、マスコミの取材も多く、雑誌に掲載されたり、ラジオ出演までしたらしい。
その結果が何かのメディアに紹介されたのでしょう。
数時間のうちにあの巨大彫刻への価格問い合わせが6件も集中してあるのは尋常ではありません。冷やかしでないことは、ほぼ全員が詳しい住所まで書いていることでわかります。本気で買う気なのでしょう。
国内と違い、海外からの問い合わせでは3件に1件は成約しているので確率は高い!
落ち込んでいた大番頭の喜ぶまいことか。
こういうときの決断は亭主や社長なんかより数段早い。
ピコピコ携帯を鳴らして、代休をとっているスタッフSを叩きおこし、出勤を命じたのにはびっくりしました。亭主なんか休み中の社員に電話するなんてとてもおっかなくてできない。
眠い目をこすりながら出勤させられたスタッフSは休み返上で深夜まで海外とのやり取りに忙殺されたのでした(同情します)。
ネットサーフィンしてみると、私たちの知らないところで葉栗剛作品が掲載されていたり、驚いています。ネットの力はすごいですね。

http://beautifuldecay.com/2015/06/18/takeshi-haguri-sculpts-beautifully-detailed-tattooed-characters-traditional-japanese-art/
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本日7月23日は亭主にとって忘れられない思い出の日です。
美術業界に入って約40年、大小さまざまな展覧会を企画し、さまざまな場所、会場で開催してきましたが、一番印象に残っているのが、今から32年前の1983年夏に栃木県宇都宮市大谷の屏風岩石材店(渡辺興平さん所有)の地下巨大空間で開催した「巨大地下空間とウォーホル展」です。
32年前の今日1983年7月23日がオープニングでした。
東京からも貸し切りバス数台を仕立て真夏の大谷に向かいました。
現代版画センター企画による「アンディ・ウォーホル全国展」の一環で、同年6月7日に渋谷パルコPart3で開催した全国展オープニングに続く大イベントでした。
外が36度の猛暑、会場の中は8度という「地下巨大空間」での展覧会でした。
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「巨大地下空間とウォーホル展」
会期:1983年7月24日〜8月20日
*オープニングは7月23日
会場:大谷町屏風岩アート・ポイント

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展示は数日前からスタッフが泊り込み、会場構成を担当した関根伸夫先生に指示のもと巨大な地下空間にウォーホル作品を多数展示しました。

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外気との温度差30度、そのため上空に霧がうずまく幻想的な会場となりました。

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(上掲の会場写真は村井修先生の撮影です)

日本発のウォーホルの版画作品「KIKU」「LOVE」を刷った石田了一さんがオープング当日の様子をビデオで撮影していてくれていました。
家庭用の機械ですから、今見るとピンボケではありますが、展示の様子、華やかなオープニング、船田中、大島清次、関根伸夫はじめ錚々たる人たちの挨拶。
記者発表での渡辺興平さん、亭主のスピーチも終わり頃に収録されています。
大反響を呼んだNHKニュースの映像も石田さんは収録しておいてくれたのですが、それはここでは掲載できませんが、貴重な映像です。


建築用石材としてブロックに代わられるまで、大谷石は江戸時代から職人たちの手で掘り続けられ、その採掘杭口が当時まだ百三十も残っていました。その中でも最も巨大な穴が渡辺興平さんの所有する屏風岩石材部の地下空間でした。
他の穴が縦杭しかないのに、渡辺家の所有する穴は太平洋戦争末期に軍部がこの穴の底に大本営を移す計画をたて突貫工事で斜坑を掘ってくれたおかげで地下100Mまでトラックが入れる、実に幻想的というか、古代ローマのカタコンベを連想させる地下空間でした。

渡辺家は船田家とともに作新学院をつくり、足尾鉱毒事件の田中正造をはじめ、孫文、室生犀星らを暖かく迎え入れた地元の旧家ですが、当時のご当主の渡辺興平さんと知人の紹介で知り合った亭主が、この巨大空間を何か文化的なものに使えないかと興平さんに相談されたのがそもそものきっかけでした。

このときのウォーホル展はNHKの夕方6時の全国ニュースにのり、全国から人が押し寄せ、関東バスは臨時便を出すわ、渡辺家は道路の整備はもちろん、仮設トイレの設置やら大騒ぎで、空前の大イベントとなりました。この展覧会がきっかけで、大谷石の地下が俄然注目され、映画の撮影や山海塾の公演、コンサートなどと波及していきます。
20150723_1500『Casa BRUTUS』2014年3月号
アンディ・ウォーホル特集
掲載された亭主の記事
(*画面を二度クリックして拡大してください)

19830723大谷ウォーホル展母と令子
左から社長、亭主の母、亭主。
親不孝な亭主でしたがこのときの展覧会には母も大谷まで来てくれ喜んでくれたようです。

19830723大谷ウォーホル展石田了一
ウォーホルのエディション「KIKU」「LOVE」連作を刷った刷り師の石田了一さんと亭主。
背後の巨大な石柱に展示されたマリリン像も石田さんが現場(大谷石の穴の中)でシルクスクリーンで刷りました。
1983年7月23日

ウォーホルと栗山豊を偲んで

本日2月22日はアンディ・ウォーホル(1987年没)と栗山豊(2001年没)の命日です。
史上最強のウォーホル・ウォッチャー栗山がウォーホルの命日に死んだことは以前にも書きました。
栗山の集めた膨大なウォーホル資料に助けられながら亭主が企画した「ウォーホル全国展」を渋谷パルコを皮切りに開催したのは1983年のことでした。
栗山資料の概要はそのときのカタログに掲載されています。
parco22栗山豊
栗山豊(左)
1983年6月7日
渋谷パルコ
「アンディ・ウォーホル全国展」オープニングにて


それから何年も経って、死の予感があったのかウォーホル資料を亭主に託して栗山は路上に倒れ、看取る人もないまま逝ってしまった。膨大なAW資料を受け取った亭主も老年を迎え、はてこれはいかにしたものかと思い煩うこのごろです。
(ときの忘れもので一部を展示したこともあります。)

昨年森美術館で大規模なウォーホル回顧展が開催され、立派なカタログが出版されましたが、謝辞をささげられた人々の中に「(故)栗山豊」とあります。栗山資料を参照した森美術館の学芸員の好意です。栗山にとっては何よりの供養でしょう。

過日、栗山の盟友で栗山亡き後の最強のウォーホルオタクの根本寿幸(ギャラリー360)が、「栗山からもらったテープが出てきたよ」と一巻のビデオテープを「栗山資料」に加えてくれた。
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クリックしてください。
貧乏な栗山がいかに執着をもってウォーホルを追いかけ続けたか、おわかりになるでしょう。

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テレビ局はこれらの映像を果たして記録しているだろうか、ましてやCMなど。
いずれ機会をつくって栗山テープの鑑賞(上映)会を開きましょう。

●ウォーホルについては森下泰輔さんのエッセイ「私のAndy Warhol体験」もお読みください。

●今日のお勧め作品は草間彌生です。
20150222_43_shoes草間彌生 Yayoi KUSAMA
《靴》
1984年
リトグラフ
イメージサイズ:31.2×40.7cm
シートサイズ:43.0×56.5cm
Ed.30 サインあり
※レゾネNo.43(阿部出版 2011年版)


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森下泰輔のエッセイ「私の Andy Warhol 体験」 第6回(最終回)

森下泰輔のエッセイ

私のAndy Warhol体験 - その6(最終回) 
A.W.がモデルの商業映画に見るA.W.現象からフィクションへBack Again


 映画は芸術として残された作品からの解釈のみならず、作家の死後、活動期の作家の人となり、少なくとも世間がいかに見ていたかの例証を提示しうる。また、その時代や作家登場の背景を時間的に空間的に把握できるという利点も有す。ともすれば抽象的なアートワールドというものが映画では描写しやすい。逆にアートワールドの発生が薄いエリアでは芸術家の映画は成立しにくいのである。日本では、戦前・戦中・戦後における藤田嗣治でさえ映画にはなっていない。あるいは岡本太郎や瀧口修造、吉原治良を主人公とした商業映画もない。そこはやはりアメリカである。

 アンディ・ウォーホルが大衆向け映画に登場する最初は、「DOORSドアーズ」(1991 アメリカ映画)であった。主演はヴァル・キルマー、監督はオリヴァー・ストーン。これはジム・モリソンを描いた作品だ。確かにジム・モリソンはザ・ドアーズのヴォーカリストだったが、べつにザ・ドアーズは彼だけのバンドではない。だから、このタイトルは厳密にいえば正しいとはいい難い。
 1966年、ザ・ドアーズはロサンゼルスのクラブで演奏する。ジムが「親父を殺せ、お袋を犯せ」などと歌ったために出入り禁止となる。だがエレクトラ・レコードのプロデューサーに気に入られ、レコーディングをすることになる。1967年、彼らはニューヨークで人気番組「エド・サリバン・ショー」に出演することになるが、放送禁止の歌詞を変更せずに歌ってしまう。この後、ジムとアンディ・ウォーホルとの出会いとファクトリーでのパーティー・シーンが登場する。
 現実の1967年、アンディ・ウォーホルは、依然シルヴァー・ファクトリーにいた。「自画像」シリーズのキャンバスを制作するものの、映画製作に主力を移していた時期だ。映画「ドアーズ」に登場するウォーホルは、得体のしれないどこか不気味な存在として描かれている。ヴェルヴェットの生演奏が響き渡るなかで行われるファクトリーのドラッグ・パーティーもどちらかといえば1965〜1966年初期あたりの雰囲気で描かれている。人々はいう。「アンディ・ウォーホル自体がアートだ」。彼のカリスマ性はまさにポップの司祭にふさわしい描かれ方だ。このあたりは事実だろう。ウォーホルが酩酊状態のジムに、「この電話は天国にかけられるそうだ。僕には神様は必要ないから君にあげるよ」というシーンは演出じみている。しかし、ここでのウォーホルの雰囲気こそ、東京で私が60年代後期に捉えていたウォーホルのイメージとぴたり重なる。ということは少なくとも1965年のアンディ・ウォーホルはニューヨークにとっても同様なイメージだったのだ。実際には1967年のアンディ・ウォーホルは少しビジネスライクになっていた。この期の彼を「POPism」から引用してみよう。

「その夏(*1967年8月)はずっとビートルズの「サージェント・ペパー」がはやっていた。そしてそのときは「サージェント・ペパー」のジャケット(*ミリタリースタイルの上着)が男の子たちのふつうの制服だった。(中略)ジム(*モリソン)は「ザ・シーン」で演奏するためちょうど街(*ニューヨーク)に来ており、ぼくらの映画「アイ、ア・マン」に出ることになっていた。」(アンディ・ウォーホル、パット・ハケット共著 高島平吾訳「POPism」リブロポート刊 1992(原著1980)P305 )

 ここでは、カリフォルニアのヒッピー文化がニューヨークにも影響を及ぼしていたこと、アンディがリムジンを借りるとヒッピーたちから体制的だと批判されたこと、ドアーズ「ライト・マイ・ファイアー(*邦題:ハートに火をつけて)」がそこここでなっていたこと、ニコがジム・モリソンとならウォーホル映画で共演してもいいといっていたこと、などが挙げられている。だが、結局、ジム・モリソンは「アイ、ア・マン」(*この映画にはあとに言及するヴァレリー・ソラナスも出演していた)には出演できなかった。ゆえに映画「ドアーズ」のアンディ・ウォーホルとの遭遇シーンはたぶんにフィクションであると思われる。

 ウォーホルをモデルにした映画は時代で分類できる。ビジネスアート以前なのか以後なのか、以前ではビジネスそのものがコンセプトになっていたが、以降ではそのまんまビジネスになっている、という形でアンディ・ウォーホルは描かれている。

「BASQUIAT」(1996年 監督ジュリアン・シュナーベル)を見てみよう。この映画の舞台、80年代が遠い過去に思える。情報化時代はウォーホルの当時よりさらに同時多発的に拡張をしている。ために時代が情報を消費するための演算速度が加速し、現在の1年は20年前よりも長くなっている。したがってウォーホルより最近なのにバスキア、ヘリングはもはや遠い伝説に思えるのだ。デヴィッド・ボウイがアンディ・ウォーホル役、スイスの画商ビショップベルガーに今は亡きデニス・ホッパー、ボウイはアンディを歌にし、「アンディ・ウォーホルは銀幕(シルヴァー・スクリーン *ウォーホルは鏡というのに等しい。中立的に時代を映していたという意味もあるのか)」と歌った。一方のホッパーは俳優の傍ら、アンディ以上にアメリカをカメラを通して表現してきた。バスキア役のジェフリー・ライトがカフェに入る2人を見かけ絵を売り込むその時の会話、「この絵は入念に描かれた絵じゃないから5$だね」(ウォーホル)。「じゃ、あんたの絵は入念に描いているのかい?」(J.M.バスキア)。なるほど。80年代NYのDJ文化も垣間見られる。まさにアート&サブカルチャーの時代。その記録(*シュナーベルという渦中の作家が監督なのも真実味がある)。
バスキアの友人がいう。「社交をして有名人と知り合いになれ、そして同じタイプの作品を作り続けろ。有名になったらまた同じ作品を作り続けるんだ」、「機械と闘うな」。このセリフでウォーホル的なアートの在り方もわかる。ポップ・アートが、何を変えたのかが明白だ。つまりエンタープライズの経営者的ものの考え方がアートの世界に導入されている。ニューヨーク画壇の攻防史、自ら登場するシュナーベルの作品世界も理解できる。それはラテン文化のニューヨークへの潜在影響について、とか、批評にさらされるすべてのアートとアートワールドについて描かれている。思ったのはこの時期、アンディ・ウォーホルというのは、公的なイメージは、あるいは本質は「ディズニーの外套を被ったアートのセールスマン」だったのかもしれないと思わせる。この80年代アートワールドに比べると60’sはまだ牧歌的だった。そのくらい時代は、アートシーンは殺伐としている。

 1996年にはもう一本の映画が作られている。「 I SHOT ANDY WARHOL アイ・ショット・アンディ・ウォーホル」(監督・脚本メアリー・ハロン)もアメリカ映画。アンディ・ウォーホルを銃撃して重傷を負わせ、またラディカルなフェミニズム宣言である“SCUM Manifesto”を提唱したヴァレリー・ソラナスの物語である。この映画のヘッドコピーはこうだ。「1968年6月3日、午後4時15分。不世出の天才アーティスト、アンディ・ウォーホルが撃たれた・・・・」。
 ソラナスは当時のヴィレッジによくいる過激な主張を持った女性だった。“SCUM=全男性撲殺団(Society for Cutting Up Men)”は、ほとんどソラナス一人の組織だ。「男性の劣性遺伝子」を徹底的に嫌悪している。極端なフェミニズム、ジェンダリズムの持ち主である。

「今や男性の助けなしに(さらに言うと女性の助けもなしに)生殖を行い、女だけを再生産することが技術的に可能になる。すぐにこれをはじめなければならない。男性というものを維持しておくのは、生殖という目的にとって必要かどうかもよくわからない。男性は生物学的には偶発事故である。Y(男性)遺伝子はできそこないのX(女性)遺伝子であり、できそこない染色体なのだ。いうならば、男性はできそこないの女性であり、歩く水子、遺伝子の段階で流産された者なのである。」(ヴァレリー・ソラナス “SCUM Manifesto”より 1968 )

 ソラナスは幼少の頃から性的虐待を受けて育ち、男性に恨みを抱く偏向した性格になった。アンディ・ウォーホルが映画製作をしていることを知ったソラナスは、自分の台本を見せるためファクトリーに接近する。ところがアンディはこの台本に興味はなく、受け取ったものの紛失してしまう。それを「自分が利用されている」と考えた彼女は、男性である(*といっても彼はゲイだったという説も存在する)アンディ・ウォーホル殺害計画を立てる、というものだ。1968年にはウォーホルはすでに伝説のシルヴァー・ファクトリーを引き払いユニオン・スクエア・ウェスト33番地にスタジオを移転していた。この映画は比較的忠実にソラナスの生い立ち、なぜウォーホルを射殺しようとしたかまでを丹念に描いている。現在、フェミニズム・アート、あるいはジェンダー・アートといわれるものは、80年代のカリフォルニア、90年代のロンドン(*たとえばトレーシー・エミンやサラ・ルーカス)を経て美術史の重要な一翼を担う概念となったが、60年代にはまだ黒人同様差別の対象になっていた。ソラナスも今日ではフェミニズム運動の先駆者と評価する向きもある。アンディ・ウォーホルのファクトリーというものがオープンハウス的で、来るものを拒まず、自由に出入りさせていたことの弊害のひとつだ。
「みんなは僕がファクトリーの連中を束ねているように思っているけど、実は僕のほうが彼らからインスピレーションをもらっているんだ」(アンディ・ウォーホル)という言葉からも分かるように、ウォーホルは、ファクトリーの人々や考え方も自分のアートにしていた。これなどもファクトリーの人々や現実の出来事(*単なるニュースソース)もロウ→ハイにする彼のハイアート製造法だろう。例の「生け花方式」でもある。それは当時、下手をすれば命を失いかねない大変な危険領域を綱渡りしていた結果だったと確認させる。

 2006年に公開された「ファクトリー・ガールFactory Girl 」(監督ジョージ・ヒッケンルーバー)は、アンディ役のガイ・ピアースがウォーホルに瓜二つというのもあり、イーディー・セジウィック(シエナ・ミラー)もよく雰囲気を出していてウォーホルものでは一番原像に近い気がする。
 物語は「60年代ひとりの人間に魅了された。それは恋愛に似た感情だったろう」というウォーホルの言葉で始まる。イーディー・セジウィックは富豪の娘、ニューヨーク1965年、ケンブリッジ美術学校在籍からわずか1年でNYのスターになった。A.W.の60'sのポジションがつぶさに再現されている。シルヴァー・ファクトリーも詳細に描かれる。当時、オックスフォード閥とケンブリッジ閥が存在したNYアート社交界、これが発展してアートワールドとなる。イーディー・セジウィックはギルバート&ジョージに先行するアンディ・ウォーホルのリヴィング・スカルプチャー(生きた彫刻)だった。彼女はそれを望んでいたが画廊デビューはできなかった。女性差別的な当時のアート界で無垢なものが犠牲になった。現在のアートシーンはその反省に立っているともいえるだろう。当時はアヴァンギャルドがシリアスとポップに分離中だった。有名なインタビューの再現シーンも登場する。当時のA.W.の考えが、考えというより、アートに向かう態度がよくわかる。イーディーはボブ・ディランとも接触があり(*映画では盛り上げるために恋愛仕立てにしてあるが、どこまで本当か分からない)、ファクトリーでのウォーホルとディランの邂逅などがハイライトだ。当時ファクトリーの公認カメラマンだったナット・フィンケルスタインによれば、「ニューヨークのアンダーグラウンドを2分するゲルフス組とギベラインズ組みたいなもの」だった両者は出会うのだが、ディランはこの時はウォーホルを認めていなかった。1965年のニューヨーク・シーンというのは20世紀後半の芸術が生成される場として特別な位置にあり、機会があればより深く掘り下げて語ってみたいと思う。
 ウォーホルの60年代を研究して忠実に再現されている。結局は生死というシェイクスピア的で重厚な主題にとらわれており、ファクトリーへの批判・不満も描かれている。一筋縄ではいかないところにアンディが存在していたことがよくわかる。60'sを証言集合的に再現したものだといえよう。
 ボブ・ディランはこの作品の中で、自身がイーディー・セジウィック堕落の原因にあたるような描写がされているとして公開中止を訴えたが、公開された。その後、ディランの名前がビリー・クィンという架空の名前に変えられた。

 あとは、「オースティン・パワーズ Austin Powers: International Man of Mystery」 (1997)やウォーホルは宇宙人だったという「Men in blackメン・イン・ブラック3」(2012)にも登場するがコメディの扱いなので割愛する。

 ウォーホルを語るとき、必ず「ウォーホルとは誰か」と問われてきた。メディア上の彼はアーティストというより映画スターやロックスターのように扱われたが、それこそ彼が操作し望んだものだったのではないか。旧来彼の全貌をつかまえようとしても、つねにパラドックスにつきまとわれ、その像はまた反転してしまう。だが、アンディ・ウォーホルはいまや間違いなく美術史上の作家となり存在している。ウォーホルが何をなしたのか、はより未来にならなければ明確化されないのかもしれない。いえることは彼は「アート」というものに対して決して否定的には対処してこなかった、ということだ。それがデュシャンとは異なる点である。やはり「アートワールド」に接合しなければ彼は存在できなかった。むしろアートや芸術というものを口実にしていた何者か、という気さえしてくる。つまり、今日いうところの「アートワールド」こそ、現代美術の存在意義を問うべき最重要の場所だといえるのである。今もこの「芸術、思想の流通フィールド」はフル回転している。そして、アンディ・ウォーホルと自身が虚構に過ぎなかったというアートが存在したのは、芸術の定義をめぐり人生を巻き込んで回転しているそのような幾多の「時代の渦」の只中であった。彼のアートが虚か実かは別にして、ウォーホルの生きた時代(*その時代が彼をつくりだした。レゾンデートルを問われ続けた激しい時代であった。美術史のみの平坦な解釈ではマニュアルのようにフラット化されている。この時代潮流も同時に捉えなければA.W.出現の謎を解くことはできない)を伴い長く語りつがれることだろう。(敬称略)
もりした たいすけ
終り

バスキア600
「BASQUIAT」監督:ジュリアン・シュナーベル 発売元:パイオニアLDC


I SOOT ANDY WARHOL600
「I SHOT ANDY WARHOLアイ・ショット・アンディ・ウォーホル」監督・脚本:メアリー・ハロン 発売元:20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

ファクトリーガール600
「Factory Girl ファクトリー・ガール」監督:ジョージ・ヒッケンルーバー 発売元:エイベックス・ピクチャーズ

Warhol&Dylan600
シルヴァー・ファクトリーでのアンディ・ウォーホルとボブ・ディラン(ゼラチン・シルヴァー・プリント1965)撮影:ナット・フィンケルスタイン(筆者蔵)

ソラナス・レター600
ヴァレリー・ソラナス直筆レター(1980年代)。ローマから投函されている。SCUMマニフェストについても触れらている。(筆者蔵)


■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。先日、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

*画廊亭主敬白
森下泰輔さんが半年間にわたり、ご自身の体験をもとにウォーホルとその時代を詳細に論じてくれた連載が完結しました。
森下さん、ご苦労さまでした。
ウォーホルについては、故・栗山豊に託された膨大な資料がときの忘れものに残されており、亭主が元気なうちにその始末もつけなければなりません。森下さんたちの協力を得て、新たな企画に取り組みたいと考えております。
画廊は「第25回 瑛九展 瑛九と久保貞次郎」を開催中で、28日まで無休で営業しています。

ところで亭主の故郷群馬の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が正式に世界遺産に登録されたました。
以前それに関連しての余話をこのブログで書きましたが、故郷の人々も喜んでいるに違いない。おめでとう。

森下泰輔のエッセイ「私の Andy Warhol 体験」 第5回

森下泰輔のエッセイ

「私のAndy Warhol体験 - その5 アンディ・ウォーホル365日展、1983年まで」


アンディ・ウォーホルは60年代、自己というものを消去する重要ないくつかの行為を行っている。そのひとつは、ジョン・ドゥ (*山田太郎といった匿名的名称。「訴訟で実名不明のときに付ける当事者(原告)の男性の仮名:並みの人」) への改名だ。これなどもデュシャンの「ローズ・セラヴィ」と比較される。しかし、ほどなく戻した。ちなみに私が80年代に制作し、現在ドイツのメディア・アート美術館、ZKMに収蔵されている非常階段、ホワイト・ホスピタルに協力を仰いだ全編ノイズまみれの映像作品「Jane Doe 66」(1989)は、また、ジョン・ドゥ的概念で制作された。元来、米国では身元不明死体にもこの名称を用いている。男性はジョン・ドゥ、女性がジェーン・ドゥである。私は当時起こったロス疑惑において砂漠で発見された身元不明死体がジェーン・ドゥとあったことからこのビデオ作品を作った。
また70年代「マンガNo.1」という大赤字を出した自主制作マンガ雑誌を発刊した漫画家の赤塚不二夫は、一時「山田一郎(太郎ではなく一郎というのがミソ。*そもそも日本には山田太郎という名前の歌手がすでに存在したせいか)」に改名したが、「ああ、ウォーホルの影響だな」と思ったことも付け加えておく。赤塚は生前、アンディ・ウォーホルについて、「僕らの時代の孤独を知っている男だ」とコメントしている(*私はかつて赤塚不二夫の漫画担当編集者だったこともあった)。

「60年代はアンディ・ワーホールと呼んでいたのが、いつの間にかアンディ・ウォーホルに変った。彼は一度「山田太郎」みたいなティピカルな名に改名したことがあったが、また元にもどした。匿名になりたかったんだろう。」(横尾忠則)

さらに、60年代、アラン・ミジェット(*小人という意味もある)というソックリさんを雇い、ウォーホル自身の影武者にして、大学の講演会にいかせたこともあった。誰一人本物のアンディを疑う者はいなかった。サインを求められれば「A.M.」と書く。「A.W.」というアンディのイニシアルのサインと区別がつかなかったという。フォーク歌手、ボブ・ディランの英国ツアー・ドキュメント映画「Don’t Look Back」(1965)にもこんなシーンがある。ディランがツアーでのあまりのブーイングに耐え兼ね、「別のボブ・ディランを雇って、そいつにやらせる」というのだ。60年代とは、自己というもの、あるいはメディアのイメージというものに関して疑義を呈した時期でもあった。あのポール・ゴーギャンの有名な作品「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのかD'ou venons-nous ? Que sommes-nous ? Ou allons-nous ?」(1897〜1898)のような自己同一性に対する見解がさまざまなところに存在した時代だったのである。ウォーホルのアノニマスへの興味と言及もそんな背景と関係していた。

「僕の絵はシルクスクリーンで簡単に作れる。みんなが僕の絵を作るようになったらいいのに」「僕はみんなが同じ顔、同じ名前だったらいいと思う。そうすれば差別はなくなるから」(アンディ・ウォーホル)

 しかしながら一方で、このことに関連してまだいくつかの事柄がある。たとえば、ウォーホルは自己同一性の否定のような禅問答を語っているかと思いきや、他方では、彼の言葉通りにマリリンのシリーズを制作しようとしたドイツ人とベルギー人の若い2人組に対し、はじめはヨーロッパ・エディション版のマリリン・シリーズを許可しながらも途中で拒否したらしい。彼らは、サンデー・B・モーニングと名乗り、ファクトリー・エディションのマリリン・モンロー・シリーズと全く同じ作品を量産した。裏面には「Fill in your own signature」とあり、作者はサインをした人、という、むしろウォーホル流のイロニーに満ちていた(この経緯については諸説あるのも間違いないが)。だが、このシリーズに、「This is not by me」とアンディ・ウォーホルが書いたものがあり、私はその証拠といえるものを入手している(*画像参照。この件はウォーホルのプリント・カタログ・レゾネ「Andy Warhol Prints フェルドマン&シェルマン版」にも注釈として掲載されている)。思うに60年代に提示したシリアス・アート時代の概念を70年代になって「ビジネス・アート」に変節したウォーホルは反故にしてしまった感が強い。ビジネス・アーティストになったウォーホルは、作者性・ブランド性を主張せざるを得なくなったのだと考えられる。そこが、アンディ・ウォーホルの概念の、またはアートというものの限界点でもあった。

もうひとつ、アンディ・ウォーホルは今日いうところの「アートワールド」の発生に深くかかわっているように思える。きらきらとしたアートのパラダイス、幻想の共同体。これはウォーホルが発明したひとつの成果だろう。365日アートで都市がきらきらわくわくしている。現在のアートワールドはロンドン、ニューヨークはもちろん香港、北京、上海、ソウル、シンガポール、ドバイを巻き込みきらきら人工的なまばゆい光を放ち続けている。だが、なぜか東京はそこからボイコットされているようだ。東京は美術館企画主導型の古い美術界のままで、ますます自国内で閉塞していくようにも見える。海外が注目するのはポップ・カルチャー(*海外からはオタクカルチャーは単にジャパニーズ・ポップ・カルチャーと呼ばれる)だけだが、日本のポップ・アートではないようだ(*村上隆が奮闘しているにせよ)。
それはこの国が想像以上に伝統的なファンタズマ(幻影)を独自に根深く内部に抱え込んでしまっているせいもあるかと思われる。

大きくいうと哲学者、アーサー・ダントーがその評論「アートワールド(1964)」で指摘していたとおり、ウォーホルを解釈するのにアートワールドが必要だということだ。アンディ・ウォーホルの60年代とは今日でいうところのアートワールドが発生した最初の契機となった。現代アーティスト、美術館キュレーター、コレクター、ギャラリスト、アート・ジャーナリスト、アート関係者、カメラマン、ダンサーや演劇人、ロックスター、モデル、ハリウッドスターなどのセレブリティ、映画監督、ビートニク、ヒッピー、ジャンキー。これらが入り交じって華やかなアートワールドを形成していた。ウォーホルが記録しているのは芸術の中身に関してというより、こうした人々の生態であるともいえる。というより彼らの生態そのものがアンディのアート作品でもあった。そして、まるで株式市況のニュースのように皆が次のアートスターを求めて夜通し何らかの話題を提供している。ダントーは「アートワールドがなければウォーホルの作品は存在できなかった」といったが、確かに彼こそアートワールドが作った最初の美術家だったのかもしれない。
ウォーホルの自伝「POPism」(アンディ・ウォーホル、パット・ハケット著 A Harvest刊 1980)を読んで、驚くことのひとつはまだアーティスト・デビューしたての無名時代、63年にすでにマルセル・デュシャンやデビュー直前のミック・ジャガーやストーンズと親しかったということだ。ストーンズがレコードを発売する前である。このときミック・ジャガーはまだロンドン経済大学(London School of Economics)在学中だった。それどころかメトロポリタン美術館の大物キュレーター、ヘンリー・ゲルツァーラーや当時レオ・キャステリ・ギャラリー(*私はNYでキャステリに2度、東京で1度会ったが)にいたアイヴァン・カープとも親しかった。つまりアートワールドは初めからウォーホルを受け入れていたのだ。彼が有名になってから人脈ができたのではなくて、人脈があったので偉大な芸術家になれたのである。これは美術とは人脈である、ということを分かりやすく物語っている。そして初期ウォーホルの目標は「ピカソが僕を認識すること」だった。彼がピカソを尊敬していたのは作品の内容ではなく、「作品の数がべらぼうに多いから」。なるほどと思う。ここでもウォーホルは発想の転換をしている。それでシルクスクリーンを使用し数時間で1枚キャンバスが仕上がるような方法論をとり、膨大な作品の”生産”に入った。彼にとってはアートワールドという外部にできるだけたくさんの作品を提供する、その際、作品の内容は退屈なほうがいい、まるでテレビからくるイメージのように、そのような戦略だったわけで、この概念は最大の皮肉を含みながら正確に実行された。なぜその辺に転がっているできるだけ退屈なイメージを使用したのかというと、クリシェ(陳腐)なイメージは人々には空気みたいなもので実は見えないからなのだ。イメージがあるのだけれども、当時モダン絵画からミニマルに至った道程を彼は意識していたとしか思えない。つまりイメージを意図的にできるだけ消去し、ミニマルの概念を使用する、キャンバスの“端”を見せる効果をそこにもたらすためだと思われる。メディアのイメージ(たぶんインターネットも)が幽霊(ファンタズマ)であることを証明し、自らも幽霊となった。仕上げはアートワールドという幻影のなかで自らの幻影がもてはやされ、作品が高額になることだった。彼の作品は現在100億をゆうに超えるので、見事にやってのけたのだ。あっぱれとしかいいようがない。このこと自体がひとつのバカバカしいイロニーに見えるように意図的にそれは行われた。なんということだろう。ここまでやられるとこの方法論は二度とつかえない。永久欠番だ。次代のアーティストはこれを模倣せずにこれを乗り超えなければならない。さて、難問だ。もちろんレディメイド・イメージで構わなくなったのには先人デュシャンの存在があったわけで、ウォーホルはそれもたくみに利用している。初期にデュシャンを撮影するのだが、彼の脳裏にあったのは「デュシャンはすごいけど、もう老人だ。僕の方が新しい世代なのだ」という自覚だった。

さて、話を日本におけるウォーホル受容史に戻そう。先日、森美術館で1983年、「アンディ・ウォーホル365日展(*アンディ・ウォーホル展 1983〜1984)」の際のジャパン・エディション「KIKU」の誕生物語に関する講演があり、私も聞きに行った。本ブログの管理者、「ときの忘れもの」亭主(綿貫不二夫)も登壇していた。摺師・石田了一が当時ビデオ撮影したウォーホルやスタジオ風景は貴重なものだし、興味深く拝見させていただいた。この講演の内容やこの時のことに関しては、ご当人たちがより詳しく述べると思うので、ここでは少し印象に残ったことを書いてみることにする。
まず、この企画を持ち込んできたのが、1974年の大丸個展時もかかわった映像作家の宮井陸郎だったことについて。「大丸の時は話題にはなったが、まだ、ウォーホルは日本で本格的には評価されなかった。今回は、ウォーホルの真のすごさを日本に定着させたい」(宮井)というのが動機だったという点において、日本でのアンディ・ウォーホル評価が想像以上に立ち遅れていた感は否めないものがある。いまでこそ彼の美術史での評価はともすればピカソを超えている(*一例として。金融経済通信社ブルームバーグによると、オークションでのウォーホル作品の売上総額は2012年で3億8030万ドル(約387億円)に上り、パブロ・ピカソを抜いてトップだった )が、当時は日本ではスキャンダラスな色物扱いであった。ウォーホル自身も「あらゆる世界の流行がたちまち日本に取り入れられるのに、現代美術だけがどうして流行らないのだろう」といっていたという。この状況はある意味、現在まで尾を引いている。原因はいろいろあるだろうが、ここでは枚挙にいとまはない。
もう一つ講演で印象に残ったことは、はじめ、ウォーホル日本エディションの画題候補が、「長嶋茂雄、美空ひばり、山口百恵、富士山だった」(GALLERY 360°ディレクター、根本寿幸)という話。この時のカタログに東野芳明、日向あき子、寺山修司、石岡瑛子らにまじり私も執筆させていただいたが、次のように書いていた。「世田谷の大宅文庫では、著名人の週刊誌上での露出頻度をリストアップしている。今のところナンバー・ワンは田中角栄、2番目が長嶋茂雄だ。初期のA.W.はこれと似た方法を用い、映画スターや、ごくありふれた洗剤の箱をモチーフにしている。(中略)ビートルズ同様に社会現象になったA.W.は、今度は自らがメディアのキーステーションとなって、マスイメージの仕掛け人の側に回った」と。つまり、同様のプランを展覧会実行委員会側が立案していたのだ。エルビス、マリリンなどの肖像をシルクスクリーン・プリントして登場した彼にしてみれば当然の提案だったろう。だが、ウォーホルはこれらを却下したのか、最終的に菊と桜から菊の写真を選択した。「菊は日本の象徴(天皇)だから」とアンディ・ウォーホルが誰かにいっていたという噂もある。ならば彼らしい持って行き方だと心得る。大阪万博のときの「レイン・マシン」でひな菊をモチーフにしたが、水に濡れてダメになり本懐を遂げられなかったことへのリベンジだった可能性もあるだろう。彼がもうこの世に存在しないことから真意は特定できないままである。

この図録中で記憶に残った言葉を引用しよう。

「ウォーホール(*ママ)、15分四方に花を活け Warhol arranges a Flower in fifteen square minutes.」(ガリバー・安土修三)

74年、大丸個展の時にウォーホルは「いけばな」シリーズ全10点をエディションしたがその評価は芳しくなかった。だが、この「いけばな」という概念はアンディの作品観に極めて近いのではないか? しいていうなら「人間生け花」もしくは「物事の生け花」、が彼の作品だとしたら納得がいく。彼はみんなが知っている「人」「こと」「もの」を「生け花」にしていたのである。ここでもアンディ・ウォーホルは間違いなく日本的な感覚を使用していたのだ。
あとは、日本のTDKのTVコマーシャルにアンディ・ウォーホルが出演したことや、サントネージュ・ワインのカレンダーのためにアンディが坂本龍一をモデルに3作品(*この作品は新宿西口の三菱銀行ショーウィンドウに展示され、私はそのとき見にいっている。そのカレンダーも入手している)を受注制作したことなどはいずれも1983年に集中して起こっており、このことが「365日展」がらみであったことなども講演会で興味深く拝聴した。1987年2月22日にウォーホルは半ば医療ミス同然で急逝したので、この期にジャパン・エディションを成し遂げたことは、本当に大変なご苦労だっただろうが偉業だったと思う。

「僕の墓には何も書かないのがいいと前から考えていた。墓碑銘も名前も。まあ、僕としてはこういいたいんだ。みんな“虚構”でしたと」「死んだらぱっと消えてなくなったらいいと思う」「もし生まれ変われるものならエリザベス・テイラーの指輪になりたい」(アンディ・ウォーホル)

(敬称略)
もりしたたいすけ
続く

jane doe66
森下泰輔映像作品「Jane Doe 66」(1989)

サンデーbモーニング
サンデー・B・モーニング版「マリリン・モンロー」(筆者蔵)

this is not by me
裏面に「This is not by me. Andy Warhol」と書かれたサンデー・B・モーニング版(1970年代)

Claudes_show_
「Claude Pelieu Show」に出演したアラン・ミジェット(左)

渋谷パルコオープニング1983
「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」パルコでのオープニング(1983)

菊を刷る石田了一
菊を刷る石田了一(1983)

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。先日、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・新連載・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
 ・新連載・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」は毎月8日の更新です。
 ・新連載・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
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 ・新連載・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日に更新します。
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中谷芙二子「ウォーホル 東京の夜と朝 」(再録)

「ウォーホル 東京の夜と朝」
中谷芙二子


(草月・一九七五年二月号より再録)

 マリリン・モンロー毛沢東、ニクソン、ジャッキー・ケネディ、リズ・テーラー、ローシェンバーグなど、多くのスター、芸術家、政治家の肖像画を描いたアンディ・ウォーホルが、彼の日本での個展で最新作「いけばな」シリーズ一〇点を披露したことは、昨秋の美術界でもちょっとした話題になった。そのアンディ・ウォーホルが、今度は勅使河原蒼風氏の肖像画を描きたいというのである。
 さっそく勅使河原霞さんにお願いし、来日したウォーホルと蒼風さんの顔合せの席をもうけていただいた。この現代芸術の巨匠お二人の出逢いを機会に幾多の伝説につつまれたアーティスト・ウォーホルの知られざる側面、日常を垣間見てみよう。
 目だたないサファリ・カットの黒っぽい上着に、細かい水玉模様の細めのネクタイ。絵具のついた靴だけが控え目に絵描きを主張している。髪は真白、眉毛も真白。一九二八年生まれとも三二年生まれともいう。「僕はいつも神秘なままでいたい。自分の生い立ちは話したくない。だからいつも聞かれるたびに違った答えをするのだ。」
 しかし現実の彼はシンプルそのもの。多弁ではないが、実に率直に見たこと感じたことをことばにする。彼はシンプルでありたいと願う。そして「機械になりたい」とさえいう。機械は人間より問題が少ないという単純な発想からなのだ。しかし、このことばが現代芸術の個性神話を解体してしまうのである。彼の魔力はこのシンプルの構造にある。禅がひとつの論理ならば、彼の短絡回路もそれに近いものだろう。時には禅問答のように、こちらが気張れば肩透しを食う。
 「日本では僕がイエスと答えるのをみんなが期待するから、僕はイエスと答える。そうするとボブ(ウォーホルのインタビュー・マガジン編集長)がアンディが“イエス”というのはこういう意味だと説明してくれる。このシステムは悪くないから、これからも使おうかな」と、気が向けば自分の言動のカラクリまでも気安く話してくれる。
「日本のシンプルなところ、日本人のシンプルな考え方、こなし方が好きだ」と彼はいう。箒を片手に長い柄つきの塵取りで、いとも簡単に、それゆえにほとんどエレガントに道端のごみを拾っている清掃夫を見かけて、「ニューヨークでもあれをすべきだ。そうすれば町がきれいになる。」そして「ここでは人びとがまだまだ働こうという気になっている。ニューヨークの人たちは、もう誰も何もしたがらない。」ともいう。
 “シラケの王子”と呼ばれたウォーホル。しかし本当にシラケた人がこんなことをいうだろうか。
 新橋の料亭“K”へ着くと、もう蒼風さん、奥様、霞さんがお待ち兼ねだった。ウォーホルは手みやげに持参したマン・レイの肖像画のポスターを「あとでサインしましょう」といって手渡す。お酒が運ばれ、早速「いけばな」の話になる。「いけばなに興味をもたれた動機は」との蒼風さんの問に、「ビューティフルだから」とひとこと。
 本当にそれ以外に意味はないのである。彼の題材は、彼の選択以前にすでに選ばれている。人びとによって、事実によって。日本人のあらゆる階層の生活の中で、いつもスターの座を失わずにいるのは「いけばな」なのだ。“いつも床の間という最上の場を与えられているではないか”ととぼけて答えるウォーホルの声が聞こえそうだ。彼はただ、その単純な事実を表面化しただけに過ぎないのだろう。彼は自分を媒体(メディア)と思っているのだから。
「日本のどこが気に入りましたか」とい蒼風さんの問に、ウォーホルは少し考える風だった。「お寺を訪ねると必ず菊があって、懸崖の菊が素晴しかった。特に僕は白い菊が好きでした。」
 つぎつぎに運ばれてくる美しいお料理に、ウォーホルは素朴に感動し、器の美も見逃さない。「すべての人がアーティストだ」と感じ入る。中でも最も美事な生造り(いけづくり)の大皿が運ばれると「これは芸術だから食べられない」と真顔になる。実は彼はナマの魚だけは好きではないのだと、隣りに座った編集長が教えてくれる。
 勅使河原宏氏が出席できなかったことを残念がり、「あれ程よい映画を作ったグレート・フィルム・メーカーなのに、もうやめてしまったのですか。“砂の女”はニューヨークでもヨーロッパでも大成功だったのに。また作るのでしょうね」と熱心に問う。
 新しい草月会館完成の折には、現代美術の展示会場ができることを蒼風さんから聞いて、ウォーホルは大変喜んだ。そして「あらゆる世界の流行が忽ち日本にとり入れられるのに、現代美術だけがどうして日本で流行らないのだろう。」と不思議がる。
 二人展の提案がでると、話ははずんだ。ウォーホルも蒼風さんも、是非とも実現させたいと協力を約束し合う。ニューヨークのメトロポリタン美術館で蒼風さんの個展ができたら素晴しい。お手伝いしましょう、とも彼はいった。
 日本料理は本当に好きらしい。ほとんど全部平らげてしまう。石焼ステーキを神戸で食べ、その石の保温の妙に感心したという。最近はロングアイランドのモントークの別荘で夏を過ごすことが多いが、来夏は石焼きを試すのだと嬉しそうに話す。焚火のあと、どうしていつまでも温もりが残るのか、と子供心に不思議に思っていたという。
 本当に無垢(ナイーヴ)な人なのだ。すべてを受け入れシンプルに徹することによって禅の修業をしてしまったような人なのだろう。十九年前に日本を訪れて以来、いつも日本風になろうと努力していると来日のことばの中でも語っている。
 地唄舞が披露された。「黒髪」である。“扇子を落した瞬間のえもいわれぬ美しさ”をウォーホルは静かに語る。蒼風さんがそれを、一瞬忘我(無の境地)に入った“恋う心”と説明されると、「ビューティフル」。彼のお得意のことばだ。
 芸者さんがタバコの薄紙をこよりにしてバレリーナを、チリ紙を結んで松茸を作る。「誰も彼もみんなアーティストだ。みんな映画に撮るべきだ」と何度も繰り返す。彼の一五〇篇にものぼる映画作品の多くは、こうした現実の在るがままの姿を映し撮ったものである。
 「初めて日本へ来たとき竜安寺の石庭を見て、そこからヒントを得て“エンパイア”など一連の作品を作ったのです。」
 “エンパイア”と題された映画は、ニューヨーク摩天楼のスター、エンパイア・ステート・ビルを、日没から明け方まで、延々八時間、据えっぱなしのカメラで撮った作品である。台本があって演出をするという映画の一般通念どころか、映画は動くもの、という基本概念の土台までも裏返しにしてしまった現代映画史上の試金石といわれる作品である。
 余興がひと通り終ると、ウォーホルは「今度は僕がアートをする番だ」といって立ち上り、白い襖をバックに蒼風さんの顔写真を撮り始める。メガネをかけた顔、はずした顔、手にポーズをつけたもの。蒼風さんの写真嫌いは有名だが、ウォーホルはなかなか出来栄えをよしとしない。肖像画を描くとき、普通一〇〇枚ぐらいのカラー・ポラロイド写真を撮るという。カメラの色調を調節しながら四〇枚ほど撮る。次は霞さんである。前夜ほとんど徹夜で草月展のいけこみをされていたはずなのに、疲れの片鱗も見せない。素晴しい写真が次々とポラロイドから出てくる。一枚できるごとにウォーホルは、じっくりと手にとって見、考え、微妙な調整をしながら再びシャッターを切る。
 晩餐のあと、青山のクラブに立寄った。ナイトクラブはあまり好まず、家で寝ていた方がいいといっていたウォーホルだが、お花でいっぱいのこのクラブは大いに気に入って「ニューヨークへ帰ったらフラワー・クラブを開こう。グッド・アイディアだ」と喜ぶ。
 九州旅行や草月展でお疲れの蒼風さんは、途中でそっと席を立たれた。蒼風さんがお帰りになったことに気づいたウォーホルは、「日本へ来て今夜が一番楽しかった。お礼を言いたかったのに」と残念がった。「座を白けさせては、と気遣われたのでしょう」と説明する。彼はゆっくり頷き「僕もいつもそうするんだ」。アンディはよくパーティに出かけるが、いつも片隅に座って何も語らず、いつの間にか消えてしまうという伝説がある。その晩、彼は人を見ているのが好きなんだといってなかなか帰ろうとしなかった。
 翌日昼の出発をひかえて、是非草月展を見たいというので、朝八時すぎ、霞さんが会場へご案内する。朝のいけ替えの最中だった。ウォーホルはひとつひとつをゆっくり見て廻りながら「ビューティフル」を連発する。「古都」の書が描かれた蒼風さんの金屏風に特に感銘し、宏さんのつぼ、霞さんの大作にみとれながら「なんと才能に恵まれた一家だろう。彼らにはファミリーがあるのか」と、まるで天才は一代で終わるのが世の常なのだとでもいいたげであった。
 いけている人ひとりひとりに、目で敬意を表しながら次へと進む。「あなたの芸術と共通するところがあるのでは」との質問に、「どんなアーティストがこれまで試みたよりも、もっと素晴しい“生きた彫刻”だ」と答える。彼は、いけられた花ばかりでなく、いける人、そしていける作業を通して自然と対話する人びとの心を、ひとつの“生きた彫刻”として飽かず眺めていたのに違いない。
なかや ふじこ

*画廊亭主敬白
ウォーホルを同時代的には知らない、亭主が30年前何をしたかも知らない、そんなスタッフSの昨日のレポートはなぜか好評で、アクセスも多かったようです。
森美術館で開催中のウォーホル展の関連イベントで、大丸展から9年後の1983年に亭主がエディションした「KIKU」シリーズについておしゃべりしました。おかげで昔(30年前)の記録を引っ張り出したりしていろいろ思い出すことになりました。
亭主が主宰していた現代版画センター企画「アンディ・ウォーホル全国展 1983-84」について、このブログでも少しづつ紹介しましょう。(乞うご期待、といきたのですが・・・・・)
上掲の中谷さんの文章は、1975年に『草月』誌に掲載され、1983年に亭主が刊行した「アンディ・ウォーホル全国展 1983-84」カタログにも再録させていただいたものです。今回あらためて著者のご許可をいただき掲載させていただきました。

1974年の東京・神戸の大丸での大展覧会から40年、ウォーホルと交友した人たちもだんだん少なくなってきました。
ウォーホルと親しく、今も世界各地で「霧の彫刻」を展開している中谷芙二子さんは、1938年札幌に生まれ、1970年大阪万博で「霧の彫刻」を発表。以来多くの人工霧を使った環境作品やモニュメントを発表し、音楽家、舞踏家と霧を使ったコラボレーションを行っています。
またビデオギャラリーSCANを主宰し、日本におけるビデオアートのパイオニアとして活躍してきました。1993年には吉田五十八賞特別賞を受賞しています。

◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル〜氏コレクションより」を開催しています(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

本日のウォーホル語録

<肖像画にとりかかるときは、まず、その人物に薄化粧をする。そうすると、その人の日焼けとか何かを隠せるんだ。メイク・アップは単に日焼けを隠すため。それからポラロイド写真を撮る。ポラロイドは、顔のしわを省いてくれ、顔をある意味で単純化する。少なくとも5巻のフィルムを使う。そうするべきではないのかもしれない。一枚だけにしとくべきなのかも。名カメラマンは、2、3ショット撮るだけだ。それでこそ優れていると言える。ぼくは何枚も撮る。これもことの全体の一パート(一部)だから。人々は期待している。どんなに照明が明るくて、フラッシュをたいて、キツかろうが、彼らはそれが好きだ。ぼくはみんながすばらしく見えるように努力を払う。何人かはそのことでぼくを悩ませるけれども。「いったいぼくの大きな鼻はどこへ行った?」とか何とか言って。もしそうしたければ、彼らの望むように戻してあげるけれど。
―アンディ・ウォーホル>


4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催していますが、亭主が企画し1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介します。

スタッフSの「森美術館ウォーホル展 スペシャルトーク」レポート

スタッフSの「森美術館ウォーホル展 スペシャルトーク」レポート

スタッフSこと新澤です。
5月6日まで森美術館で開催されている「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」、その関連プログラムであるスペシャルトーク「日本で制作されたウォーホル作品:《Kiku》をめぐる物語」に参加してきました。
talk_01
2014年4月19日
森ビル3Fのチケットカウンターにて。
社長と「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」看板。

現在ときの忘れものでも「わが友ウォーホル〜X氏コレクションより」と題してウォーホルの《毛沢東》、《マリリン》、《Kiku 2》、を展示していますが、相変わらずの勉強不足の悲しさよ、"Kiku"と"Love"が日本で刷られたことに驚き、亭主がエディションに関わっていたことに更に驚きと、物知らずっぷりを遺憾なく発揮させられた夜でありました。
talk_02森ビル52Fからの展望風景。
こうして見ると東京タワーがかなり近くて驚きました。

talk_03左からギャラリー360°ディレクターの根本寿幸さん、ときの忘れもの亭主こと綿貫不二夫、摺師にして石田了一工房代表の石田了一さん。

日本産のウォーホル作品の由来ですが、そもそものきっかけは1974年10月大丸で行われた大個展。反響こそ大きかったものの、実は美術業界からは全く相手にされていなかった。驚いたことに60〜70年代の日本の画廊はウォーホルの取り扱いに軒並みそっぽを向いたそうで、結局日本での初個展は1971年、渋谷の西武デパートで行われるという、ちょっと今では考えられない事態でした。80年代になっても変わらず、で、そんな状況にリベンジを企てたのが74年大丸の「アンディ・ウォーホル大回顧展」プロデューサー安斎慶子さんの助手だった宮井陸郎さん。宮井陸郎さんが当時亭主が主宰していた「現代版画センター」に話を持ち込んだのが始まりでした。
この頃は丁度(というよりは狙ってのことでしょうが)ウォーホルが精力的に作品制作(神話シリーズ等)を行っており、これに合わせてもう一度日本にウォーホルを引っ張ってきたい、宮井さんがそんな企画の組織的運営を依頼した相手が亭主でした。しかし当時の亭主はウォーホルにさして興味がなく、版画センター内でも「やっても売れない」と反対意見が続出、結局一度はお断りすることに。後日他の画廊や美術館にも軒並み断られた宮井さんに再び懇願され、今度は版画センターの外に意見を求めるもやはり「売れない」との意見ばかり。ところが亭主、ここで一つ気付きました。皆口を揃えて「売れない」というが、会う人話す人皆ウォーホルを知っている。「これはひょっとしてホームランになるんじゃないだろうか」と思い至った亭主は、周囲の反対を押し切り、企画に乗り出すことにしたそうです。とはいえ亭主自身はウォーホルについてはろくすっぽ知りませんが、と宮井さんに告げたところ、「問題ありません」と紹介されたのが、当時ギャラリー360°を立ち上げたばかりだった根本寿幸さんと、「路上のウォーホル」こと似顔絵描きの栗山豊さん(故人)でした。日本では指折りのウォーホルオタクとして知られており、ウォーホル研究会まで開いていたというのですから、その知識量は推して知るべし。逆に石田さんは以前から仕事の付き合いがあったため、ごく自然にこの企画に加わることになったようです。

かくして1974年に次ぐ大規模なウォーホル展の企画が動きだしたのですが、宮井さんの考えは、ウォーホルの新作を現代版画センターで買い上げ、それを全国展で捌いて行く、というものでした。でも、それじゃあただのブローカー、亭主としては面白くない。だったら日本で開催するからこその新作を作ってもらおうじゃあないか、と言うことでエディションされたのが"KIKU"と"LOVE"のシリーズです。最終的には皇室の家紋のモチーフである菊が採用されていますが、企画段階では定番の富士山やミスタージャイアンツの長嶋茂雄(タイガースファンに配慮して没になったとか)も候補に上がっていたとのこと。最終的に「日本の花をテーマに」、「日本の紙(和紙)で」、「日本の刷り師を使って」制作するというコンセプトの元、桜と菊が候補としてウォーホルに供され、「日本は天皇の国だ、菊は天皇の印だから」という理由から菊の花がモチーフとして選ばれたそうです。(和紙も試刷りでは試みられたのですが、最終段階で定番のBFK紙に決まりました。)
ちなみに"LOVE"シリーズですが、こちらは版元がForm K.K.となっており、当時「ビニ本」でかなり稼いでいたらしい社長さんが、「思いっきり危ないポルノ」を作ってくれるならお金を出そうとスポンサーになった結果誕生した作品です。実際の制作進行は刷りからサインまで現代版画センターが代行しました。

ここまで書いておいてなんですが、これらの話は当ブログの亭主の連載「KIKUシリーズの誕生」により詳しく書かれております。ご興味のある方は是非こちらもお目通しください。

talk_04「ウォーホル全国展」のスタートは1983年6月8日〜22日のパルコPART3(東京・渋谷)。

talk_05
パルコでのオープニングは6月7日、700人が出席したそうです。

talk_06若かりし日の亭主(38歳)。
自分はここ3年の綿貫さんしか知らないので、恥ずかしながら説明されるまで誰なのか分かりませんでした。
talk_07同じく展覧会当時の石田さん。ちなみにこの時展示された"Kiku"と"Love"は展覧会に間に合わせるために急ぎ各5部だけ先に刷り上げ、石田さんが手持ちでニューヨークに渡り、ウォーホルにサインしてもらってきた分(E.P.)だったそうで。

これらの写真以外にも、石田さんが渡米した際に撮影したウォーホルのスタジオの映像なども流されましたが、残念ながらこちらは版権の都合で掲載が不可とのこと。石田さん曰く、スタッフ達は皆スーツを着て働いている中、ウォーホル一人だけがシャツにジーンズとラフな格好をしていたらしく、ファクトリーからスタジオへ名に違わぬビジネスのための場所だったようです。

他には同年の7月に宇都宮、大谷での地下空間で開催された「巨大地下空間とウォーホル展」の映像も上映されました(撮影はこちらも石田さん)。既にYouTubeにアップロードされていますが、後日このブログでも紹介予定です。

talk_08森美術館「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」53Fの展示会場へ続くエスカレーター手前に展示してあるウォーホルがペイントを施したBMW。
talk_09車の走行動画の下にはウォーホルの一言が。
"I love that car. It has turned out better than the artwork."
「僕はあの車が大好きだ。何せ作品よりも出来がいい。」


今回のウォーホル展は作品以外にも彼の語録が壁面のいたる所に表示してあり、その多くが「世界有数の芸術家」、「ポップアートの巨匠」などというイメージとはかけ離れた、俗気のある率直な言葉です。個人的にはこちらも作品に負けず劣らず興味深い内容でした。

(しんざわ ゆう)

◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル〜氏コレクションより」を開催しています(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

本日のウォーホル語録

<トレーシング・ペーパーと、いいライトがあれば充分だ。なんで抽象画家にならなかったか理解できないな。なぜって、ぼくのふるえる手だったら、いとも自然にそうなっただろうから。
―アンディ・ウォーホル>


4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催していますが、亭主が企画し1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介します。

わが友ウォーホル展

<19日(土)、20日(日)、午後2時より伊藤忠青山アートスクエアでアンディ・ウォーホルについてトークをいたします。入場は無料ですので、是非お越しください。19日は六本木アートナイト2014関連講演「日本で制作されたウォーホル作品:《Kiku》をめぐる物語」が「Andy Warhol Cafe」(六本木ヒルズ森タワー52階 東京シティビュー内)でも午後8時からあり、旧知の綿貫不二夫さん(「ときの忘れもの」ディレクター)、根本寿幸さん(「GALLERY360°」ディレクター)、Kikuを刷った石田了一さん(摺師、石田了一工房代表) がトークしますので、そちらにも回る予定でおります。当夜はそのまま「六本木アートナイト」に合流予定。>

<本日はアンディ・ウォーホル三昧。午後2時より伊藤忠青山アートスクエアにおいて私と近藤智美、翁長夕貴がトーク。森美より「アンディ・ウォーホル・バス」で乗りつけた方々を含め約50名のお客様。ありがとうございました。その後、午後8時より森美術館「ウォーホル・カフェ」にて「KIKU誕生物語」の講演。1983年、渋谷パルコのウォーホル展オープニングにウォーホルを呼ぼうと当時のお金で1億円(現在の4億円ほどか)を提示したがアンディが蹴った話など非常に興味ぶかかった。明日も伊藤忠青山アートスクエアで午後2時より私、カメルーン帰りの菅間圭子、撫子凜がトークいたしますので、よろしくお願いいたします。>

<本日は伊藤忠青山アートスクエアで「アンディ・ウォーホル・トーク・セッション」の2日目。ゲスト・アーティストは撫子凜とアフリカ・カメルーン帰りの菅間圭子でした。たまに小雨がぱらつくなか、多数の方にお集まりいただきましてありがとうございました。撫子凜さんは、ウォーホルのジャパン・エディション「KIKU」のようなポップな配色のお着物で大変似合っていらっしゃいました。菅間さんにはアフリカとウォーホルの関係に関しても述べていただきました。私はウォーホルはケージ同様、鈴木大拙の禅の影響を受けたのではないか、といった大胆な仮説に到達しました。終了後、2次会を外苑前の居酒屋で行ったあと、井桁さんの取り扱いギャラリーでもあり、アンディ・ウォーホルとも造詣の深い「ときの忘れもの」にみなで繰り出しました。綿貫さんは不在でしたが、「X氏コレクション」のウォーホル「マリリン」、「毛沢東」を鑑賞いたしました。その後パリ風のカフェーで打ち上げ。充実した有意義な一日となりました。皆様、感謝です。>

(森下泰輔さんのfacebookより)
420森下さん来廊
4月20日来廊された森下泰輔さん(左端)、井桁裕子さんご一行。

森美術館、伊藤忠青山アートスクエア、そしてときの忘れものでそれぞれウォーホルに関連する展覧会が開催中です。
ブログで「私のAndy Warhol体験」を連載中の森下泰輔さんのフェイスブックでのレポートを再録させていただきました。
19日の森美術館のトークには、常連のお客様が何人もいらしてくださり亭主の漫談にお付き合いいただきました。ありがとうございました。
KIKUを刷った石田了一さん、ウォーホルカタログを編集してくれた根本寿幸さんに助けていただいて何とか乗り切りました。お二人のウォーホルへの該博な知識、克明な記憶には舌をまきました。
また石田さんが当時(1983年)撮影していたウォーホルスタジオや大谷の地下空間でのウォーホル展のビデオも上映され、初めて見る亭主は社長ともども懐旧の念にかられました。
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<80年代日本。ウォーホル展開催の中心的存在。3人の方のトークイベント「日本で制作されたウォーホル作品:《Kiku》をめぐる物語」へ。当時のやりとりがリアルにイメージできて面白かった。今、それだけのことが出来るのだろうか。出来るかじゃなくて、やるんだなぁ。どこもかしこも、アートナイトで人いっぱい。年々、人が増えている気が。すごいな。>
(森美術館のトークに参加されたTさんのfacebookより)
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会場にはスタッフSこと新澤も入れていただき取材したようなので、近々新澤レポートをお届けします。

森美術館のトークでは触れることができませんでしたが、1974年の大丸でのウォーホル展の陰の功労者がXさんでした。
多くの作家と交友し、収集したXさんのコレクションの一部が、今回の展示作品です。
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アンディ・ウォーホル「毛沢東」2アンディ・ウォーホル
Andy WARHOL

《毛沢東》
1972
シルクスクリーン
Image size: 91.5x91.5cm
Sheet size: 91.5x91.5cm
Ed.250
ペンサインあり
※レゾネNo.98(美術出版社 2003年版)

ロバート・ラウシェンバーグ「読売新聞用グラビア・コラージュ」ロバート・ラウシェンバーグ
Robert RAUSCHENBERG

《読売新聞用グラビア・コラージュ》
1964
シルクスクリーン
Image size: 48.0x50.5cm
Sheet size: 50.5x52.5cm
Ed.30
鉛筆サインあり

ジョン・ケージ「Fontana Mix」(Light Grey)ジョン・ケージ
John CAGE

《Fontana Mix》(Light Grey)
1982
シルクスクリーン、フィルム3枚組
Image size: 50.0x70.0cm
Sheet size: 56.5x76.5cm
Ed.97
鉛筆サインあり


ナム・ジュン・パイク「マクルーハンの肖像」ナム・ジュン・パイク
Nam June Paik

《マクルーハンの肖像》
1978
シルクスクリーン(2枚組)
Image size: 46.0x115.0cm
Sheet size: 54.5x130.0cm
Ed.75
鉛筆サインあり

萩原朔美「リンゴ」萩原朔美
Sakumi HAGIWARA

《リンゴ》
シルクスクリーン
Image size: 22.0x22.0cm
Sheet size: 65.0x50.0cm
Ed.20
鉛筆サインあり

荒川修作荒川修作
Shusaku ARAKAWA

《〈棺桶〉シリーズより》
1958-1961
ミクストメディア

◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル〜氏コレクションより」を開催しています(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

●イベントのご案内
4月25日(金)18時より、ジョナス・メカス監督「ファクトリーの時代」の上映会を開催します(※要予約/参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。
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本日のウォーホル語録

<「死と惨事」シリーズを制作するきっかけをつくり、アイディアをくれたのもヘンリー(・ゲルツァーラー)だった。ぼくらが60年代のある夏の日、イースト60丁目の「セレンディプティ」という店で昼食をとっていたとき、ふとヘンリーがテーブルの上に置いたデイリー・ニュースの一面に、でかでかと「ジェット機墜落、129名死亡」(129 DIE IN JET!)という見出しが出ていた。そこから、自動車事故、惨事、電気椅子なんかの一連の「死と惨事」シリーズの作品制作がはじまったんだ。
―アンディ・ウォーホル>


4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催していますが、亭主が企画し1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介します。

森下泰輔のエッセイ「私の Andy Warhol 体験」 第4回

森下泰輔のエッセイ

「私のAndy Warhol体験 - その4 大丸個展、1974年」


「1955年(*実際は1956年、ウォーホルの勘違い)、私は東京と京都へ行った。それ以来ずっと日本風になろうと努力している。というのも、日本人はシンプルな表現が実にうまいからだ。いま私は日本の花を描き、日本食をたべ、ケンゾーの服を着ている。そして日本製の写真やビデオやハイファイ、その他の電子機器も使っている。日本的なものは何でも好きだ。これは私の好きなものだ。古いバスケットなんだ。」(アンディ・ウォーホル)

1974年10月〜11月、大丸でアンディ・ウォーホルの展覧会が開催され、合わせて作家本人も来日した。その銀のアルミ箔仕様の図録中扉には、京都で購入したという竹のバスケットが掲載され、前述のような言葉がある。ここでいう「日本の花を描き」は、来日に合わせて制作、刊行された「いけばなシリーズ(シルクスクリーンに手彩色)」全10点のことである。
展示規模はそんなに大きくはなかったが、白地に蛍光オレンジで刷られた牛の壁紙日本版が壁面を覆っていて、その上におそらく現在では、一か所に集めるのがまったく困難なキャンヴァス作品がたくさん並んでいた。主なものは、「ディック・トレーシー」(1960作 *アンディがリキテンスタインを見て手描き漫画のシリーズを封印する以前の初期の傑作。抽象表現主義へのオマージュが見られる)、「19セントのキャンベル・スープ缶」「マーチンソン・コーヒー」「マース・カニングハム」「ジャッキー・ケネディ」「2フィートの花」「4フィートの花」「電気椅子」「自画像」「マーロン・ブランド」「マン・レイ」「ストーム・ドア」「コカ・コーラ」「ビフォー・アンド・アフターA」「ドル紙幣」「ギャングスターの葬式」「3人のエルビス・プレスリー」「銀のリズ」「キャンベル・ボックス(*立体)」「毛沢東」「ショット・ライト・ブルー・マリリン(*この作品は「撃たれたマリリン・シリーズ」のひとつで、1964年、イースト47番ストリート、シルヴァー・ファクトリーをビリー・ネームの友人、ドロシー・ポドバー(1932〜2008)が訪ねた際、「撃って(Shot)もいい?」とウォーホルに尋ねた。彼女が絵を撮影したいのだと思ったウォーホルは同意する。彼女は、財布から小さな拳銃を取り出し「マリリン」めがけて発砲した。「それをどうしたかって、もちろんアンディは修復して売ったさ。彼が売らないものなんてないのさ」とジェラード・マランガは述べている)」。そうした意味においても同展は世界的にも大変貴重な展示だったのだろうと今思う。
図録には、最初期のウォーホル論を形成した当時「アート・フォーラム誌」編集長だったジョン・コープランズのテキストもあった。

「1960年代のアメリカ美術界に登場した世間で最も名の知れた人物である。彼そのものが文化現象であり、その芸術や映画は絶えず議論の的となっている。」、「ウォーホルのアイディアのあるものは、デュシャンにつながるということは認めざるを得ない。」(ジョン・コープランズ 1974 同テキストより)。

ともあれ、この時初めてアンディ・ウォーホルの実像に接することができたのだ。私は実はあまりにそっけなく単純な彼の代表作の数々に接し、少し唖然とした。だが、カラリングは抜群だった。思うにウォーホルはエルスワース・ケリーからのミニマル、カラーフィールドを意識していたのだった。これらのフラットな平面に情報がシルクスクリーンで偶発的な刷りむらを伴って表面化していたのである。漫画封印以降の彼の作品はリキテンスタイン的な意味でのポップというよりも原理的にはミニマル・アートにより近かったのだ。
大丸の展覧会は、ファッションデザイナーだった安斎慶子や宮井陸郎がかかわったもので、アンディは観世能楽堂で能の稽古を見たり、巡回した神戸や京都も再訪している。日本とアンディの関係性に関して考えるに、彼のアーカイヴでもある「タイム・カプセル」に能や浮世絵の書籍が保存されていることをみても、彼の日本文化への関心が存外にアカデミックな歴史的なものであったことが示唆されるだろう。やっていることは前衛であったとしても彼の興味は伝統的な部分に注がれていたといってよい。ひとつの問題として写楽の画面処理とアンディの画面処理の共通点をかねがね感じていたのだが、この点はどうだったのだろう。とくにウォーホルが写楽に言及したことはないにしても、画面構成は類似しているし、なにより彼の多くの作品が大首絵を思わす顔面のアップでのトリミングがなされている。この問題はまたの機会に言及してみたいと思う。
この来日時にアンディ・ウォーホルは日本テレビ「11PM」に出演している。現在、ウォーホル展が開催されている森美術館の「タイム・カプセル・コーナー」に写真家の原榮三郎が撮影したアンディ来日時の写真が展示された。「11PM」でのものもある。というのも原は同番組のレギュラーだったからである。私はこの時の番組を見ている。美術評論家・東野芳明が60年代風の少し時期はずれのファッションで座っているゲスト席にアンディは座らず、「11PM」のスタジオをスタッフのように歩き回っては、ひたすら無言でゲストやタレントらのポラロイド写真を撮り続け、ソニーの携帯テープレコーダーですべての会話を録音しつつ、これをテレビカメラの前にかざしてひとこと「It's my wife.」。彼はどんなときでも制作行為から離れなかったのだ。そこに、芸術家アンディ・ウォーホルがどれほど非日常的で、制作の「鬼」であったかを確認する。この時の様子は原から私は何度も聞いていた。彼とは1983年、原が武智鉄二監督「華魁」のオフィシャル・カメラマンとして従事している際に松竹大船撮影所(だったと思うが)で出あっている。「お互い撮り合っていたんだ。ウォーホルは黙々と動く男だった」と。
また、同時期「アサヒグラフ」の表紙にもなったアンディ・ウォーホルの風貌が、どことなくビジネスマンめいて、あの60年代のアンダーグラウンドのカリスマであった時期に比べ、急速に変化していたことも知った。彼は「ビジネス・アート」を始めていたのだ。それはニューヨークにもまた時代の変化が生じていたことの証でもあった。「60年代には誰もが誰もに興味を持った。70年代になると誰もが誰もに興味を失った」と自身が語ったような変化が。
さて、霧の芸術家、中谷芙二子は1973年のマットグロッソ個展時の仲介者としてはじめてアンディに会ったという。いずれの時期にか、アンディが「龍安寺にいったことでエンパイアのアイデアが生まれた」と中谷に語ったとされる。繰り返しのアイデアに関しても前回述べたように「三十三間堂」からの影響も指摘されている。
1993年、私はヴェネチア・ビエンナーレ日本代表になった草間彌生の招きで、同地を訪れたが、そのとき企画展示で中国の最新アートが展示されていた。確か「東方への道」という題名だったと思うが、ここに現在、大変な評価になっている中国作家の作品が多数展示されていたのだ。主題としてはポップでそれは後に「ポリティカル・ポップ」とも呼ばれた。毛沢東の肖像をアレンジしたものが多く見受けられた。「これは何?」と思い、中国人の担当者に聞くと、「中国のポップ・アートだ。ポップは毛沢東から始まったから、中国が起源だ」というのである。そのとき中国の強引なポップ・アートの解釈に辟易としたが、確かに資本主義リアリズムと社会主義リアリズムは通底している。
現代美術においてウォーホルからの芸術的距離を考慮することが対外的にいかに重要なものかチャイニーズはよく心得ていた。翻って日本は長年ポップを認めてこなかった。むしろ主にグラフィック畑でこの様式を流用してきたのだが、考えてみればアンディ・ウォーホルは、前述の通り、相当に日本の影響を受けていたのではないか。それどころか、ウォーホルはケージ同様、禅の鈴木大拙から彼の芸術を編み出したのではないのか、といった仮説すら存在する。今度、中国人芸術家と同様な会話になったら日本の影響を主張してやろうかと思っている。大体、ジョン・ケージにしても龍安寺石庭を米西海岸から眺め、オマージュを捧げているのだから、日本人は現代美術に関して自国の文化的アプローチを根本からもっと再認識したほうがいいのではないか、というのが私の意見である。そんなこともあり、2010年、私は平城遷都1300年祭公式展示において東洋の借景概念を用いて「借景 大極殿」(平城宮跡)という大規模インスタレーションを発表している。
次に潜在的に私がポップアート侵入時に違和感を持たなかった理由を話しておこう。63年頃に「図々しい奴」という柴田錬三郎原作のテレビドラマがあり、小学生の私はよく見ていた。このなかで主人公・切人(丸井太郎)が敗戦直後、進駐軍の闇物資で財を成すシーンがあるのだが、倉庫にコーヒー缶の箱が山積みになっている場面が登場する。アメリカ文化の物量と画一性、プラグマティズムなどを感じた。アンディのブリロの箱のインスタレーションをみたとき、そのせいで既視感があり、私にとってポップアートは50年代のロカビリーや板チョコ、スキムミルク、ネスカフェ、炭酸飲料、シャンプー、スプレー塗料、DDTなどと同様、進駐軍占領文化のリピートだった。アメリカ文化はインスタントだった。インスタント食品では60年、「チキンラーメン」が発売された時点で平安時代のように和風化が起こったが。考えてみればポップの漫画も、戦後「ポパイ」や「フィリックス・ザ・キャット」「ベティちゃん」、あるいは「ミッキー・マウス」などの白黒アニメを普通にテレビでみて育ったせいもあって、地続きのようにまるで違和感はなかったのだ。それは日本戦後という今思えば不幸な歴史上の出来事だったのだろうが幼児の私は知る由もない。元来、アンディのアートにおいてもニューヨークでそのようにデジャ=ビュとして受容されたと思う。つまり彼はゼロレベルのアートだった。
ここで環境という問題を通してM.マクルーハンを復習してみる。有名な「水を発見したのは誰か知らないが、魚でないことは確かだ」から、環境が人には見えず、例外的に環境を見ることができるのは芸術家だ、といった。とすればいわゆるメディア論が起こり、のちにドゥルーズ/ガタリを経由してボードリヤールの論に至る、いわゆるファンタズマ(幻像)の行くへを捉えた最初の作家・アンディ・ウォーホル像が抽出されてくる。つまり「水」を表現した「魚」の例え話だ。したがって芸術家以外の「魚」にとってはこの情報環境は見えないのである。同時代にエレーヌ・スターツヴァントはアンディからもシルクスクリーンの原版を借り受け、シミュレーション(*当時の概念はイミテーションか)作品を制作した。それを彼女はやはり「見えないオブジェ」と呼んだ。これはすでに4重以上のトラップ(罠)がかかっている。つまり、オリジン、ミメーシス、ミメーシスのミメーシス、そして次の段階にある。ボードリヤールは果てしなくファンタズマ化していく現象をシミュラークルと呼んだが、これをたとえて「鏡の間における無限の乱反射」のようなものといった。エレーヌ次元ではコピーではなくてシミュラークルなのである。そしてこのレベルが現在のネット社会だといえよう。ネット環境の中ウォーホルはオリジナルとコピーというベンヤミン的問題をはるかに超えて幽霊として君臨し、何度でも再生可能であり無限に乱反射しているのだ。(敬称略)

続く
もりしたたいすけ
ウォーホル・カタログ「大丸」図録(1974)筆者蔵

ウォーホル、カタログ中扉1牛の壁紙

バスケットの写真竹のバスケット

ショット・ライト・ブルー・マリリンショット・ライト・ブルー・マリリン 1964 キャンヴァスにシルクスクリーン 101,5x101,5cm

ディック・トレーシーディック・トレーシー 1960 キャンヴァスにアクリル 121,9x86.0cm

jikuu008001森下泰輔 
「借景 大極殿 Borrowed scenery Daigokuden (平城宮跡)」
2010 Led、金属 15×5×4m

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディアアート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。先日、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

*画廊亭主敬白
最近、このブログへのアクセス数が急増しているのには、少々驚いています(一昨日が810人、昨日も600人以上)。もちろん上掲の森下泰輔さんはじめ強力・豪華執筆陣の皆さんの魅力あふれるエッセイのおかげなのですが、それにしても街角の一画廊のブログを連日500人から多いときで1000人近い方が読んでくださるなんて一年前には想像もしませんでした。
毎日読んでくださる皆さんには心より御礼を申し上げるとともに、忌憚のないご意見をお聞かせいただければ幸いです。
もちろん各著者へのメッセージも大歓迎です。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・新連載・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
 ・君島彩子のエッセイ「墨と仏像と私」は最終回を迎えました。
 ・新連載・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月14日の更新です。
 ・鳥取絹子のエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は最終回を迎えました。
 ・井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
  バックナンバーはコチラです。
 ・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は毎月22日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新ですが、今月4月は休載します。
 ・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
 ・浜田宏司のエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
 ・ときの忘れものではシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

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◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル〜氏コレクションより」を開催しています(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

●イベントのご案内
4月25日(金)18時より、ジョナス・メカス監督「ファクトリーの時代」の上映会を開催します(※要予約/参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。

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本日のウォーホル語録

<ぼくは「BAD BOOK」(ひどい本)をつくりたかった。ちょうど「BAD MOVIE」(ひどい映画)や「BAD ART」(ひどい芸術作品)をつくったように。なぜって人が何か確実にまちがったことをしでかすときには、いつも何か予想外のことが起こるからね。
―アンディ・ウォーホル>


4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催していますが、亭主が企画し1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介します。

「わが友 ウォーホル」と森美術館でのスペシャル・トーク

ときの忘れものでは明日4月19日(土)より「わが友ウォーホル〜X氏コレクションより」を開催します。
ウォーホル展DM
会期=2014年4月19日[土]―5月6日[火] 
12:00-19:00 ※会期中無休

アンディ・ウォーホルの評価は没後ますます高騰しています。
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がXさんでした。Xさんは1970年代のウォーホルと日本をつなぐ重要なパイプ役を果たされたのでした。
アンディ・ウォーホルはじめX氏が交友した多くの作家たちの作品を出品展示します。

出品作品:アンディ・ウォーホルロバート・ラウシェンバーグフランク・ステラジョン・ケージナム・ジュン・パイク草間彌生、荒川修作、萩原朔美

●イベントのご案内
4月25日(金)18時よりジョナス・メカスの上映会「ファクトリーの時代」(1999年、上映時間63分)を開催します。
※要予約(会費1,000円)

お申込はこちらから
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、お申込ください。

森美術館でのスペシャル・トーク
六本木アートナイト2014「日本で制作されたウォーホル作品:《Kiku》をめぐる物語」
1974年、東京と神戸の大丸デパートでの個展で注目を浴びたウォーホル。1983年には日本を代表する花として菊を主題とした《Kiku》を発表しました。この作品の制作や日本におけるウォーホル展開催に携わった3者を迎え、作品誕生の秘話や日本におけるウォーホルの受容について紹介します。

出演: 綿貫不二夫(「ときの忘れもの」ディレクター)、根本寿幸(GALLERY360°ディレクター)、石田了一(摺師、石田了一工房代表)

日時:2014年4月19日(土) 20:00-21:30
会場:「アンディ・ウォーホル・カフェ」(六本木ヒルズ森タワー52階 東京シティビュー内)
料金:無料(要展覧会チケット)
主催:森美術館
お申し込み:要予約。既に満席とのことですので、後日スタッフSがレポートを書く予定です。

*画廊亭主敬白
上掲の森美術館のウォーホル展トーク、亭主の漫談なんか聞く人もいるまいと油断していたら、あっという間に満席に。せめて社長だけでも入れてくれと頼み込みました。というのは日に日に耳が遠くなり(難聴)、社長やスタッフが介添えしてくれないと会話も成り立ちません。もし会場から質問でもきた日には立ち往生しかねない、まことに心細い。
週はじめ、社長と秋葉の三人で某県の美術館に来年の展覧会の打ち合わせに出張してきました。留守は大番頭・尾立がいるので安心と思っていたら、インフルエンザが流行っていて珍しく尾立がダウン。画廊の店番は日本語が苦手の新澤ひとりという事態に。そういうときにかぎってお客様が突然いらっしゃる(お客様にしてみれば当然ですが)。慌てふためいた新澤が出張先にじゃんじゃん電話をかけてくる。
今を盛りの桜を楽しみつつ、ちょっとサボって温泉にでもと思ったのですが、そそくさと帰京しました。
産休中の李が週一日(土曜日)ですが仕事に復帰しました。
このところ海外からの問い合わせや注文が増えているので、李(フランス語、英語、ハングル、日本語の四ヶ国語をつかう)の復帰は心強い。
アンディ・ウォーホル「毛沢東」2

アンディ・ウォーホル Andy WARHOL
《毛沢東》
1972
シルクスクリーン
91.5x91.5cm
Ed.250
ペンサインあり

フランク・ステラ「Dayton's」
フランク・ステラ Frank STELLA
《Dayton's 〜》
1984
紙袋に印刷
15.0x40.5x61.0cm
プリントサインあり

本日のウォーホル語録

<友人たちの問題をひき受けているな、と感じたので、ぼくはグリニッジ・ヴィレッジの精神分析医のところへ行って、自分のことをあらいざらいしゃべった。自分のライフ・ストーリーと自分がどんなに、何の問題も持ってないのに、他人の問題をひき受けてしまうかを彼に話したのだ。そうすると彼は、次にいつ会ったらいいかまた電話するから、そのときもう少しおしゃべりしましょう、と言ったっきり、電話してこなかった。分析医のところから帰る途中、メイシーズに立ち寄って、はじめてのテレビ、RCAの19インチの白黒のやつを買った。それ以来、いつもテレビをつけっぱなしにしていた。誰かが自分の問題について語ってる間はとくに。テレビは充分に気晴らしになったから、人々の話す悩みは、もうあんまり気にかからなくなった。それはまるで何かの魔法みたいだった。
―アンディ・ウォーホル>


ときの忘れものでは4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催しますが、それに向けて、1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介して行きます。

アンディ・ウォーホル『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録
1988年
30.0x30.0cm
56ページ
図版:114点収録
価格:3,240円(税込)※送料別途250円

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森下泰輔のエッセイ「私の Andy Warhol 体験」 第3回

森下泰輔のエッセイ

「私のAndy Warhol体験 - その3 情報環境へ」


 アンディ・ウォーホルのアーカイブ「タイム・カプセル」という考え方だが、私はこれは彼の芸術観の根本をなす作品行為の一部に位置付けたい。マルセル・デュシャンはレディメイドという考え方を美術史に持ち込んだが、ウォーホルに関してもレディメイド・イメージというあり方を美術史に持ち込んでいたと思う。やや先行するジャスパー・ジョーンズ「星条旗」「標的」もそうだが、アンディがやったのは、ジョーンズとは少し違い単に記号論の再解釈ではなく、「レディメイドとしての情報」だったわけで、その既存の情報をリアルタイムに受容していった写真や本などの資料が保管されているもの、それが「タイム・カプセル」である。 
 アンディ・ウォーホルの繰り返しの技法に関して、草間彌生は自らに発しているという。「集積 : 1000ボートショー」(1963 ガートルード・スタイン画廊)で草間は、ボートに男根のオブジェを施した作品を写真製版したものをギャラリーの壁にはりめぐらし、中央にそのボートがあるというインスタレーションをニューヨークで行った。その際、アンディがやってきて、「おう、ヤヨイ、これすごいね」といったという。 その前年に行ったグリーン・ギャラリーのグループショーでも倉庫にあった自分の「エアメイル・ステッカー」のシリーズを彼は見ており、その繰り返しの技法のヒントにしたというのが彼女の主張である。こうしたことが、後の「牛の壁紙」の提示に影響を与えたことはありうる。が、繰り返しに関しては、「ニュー・リアリスツ展」(1962 シドニー・ジャニス・ギャラリー)にはすでに「200個のキャンベル・スープ缶」が出品されていたし、同年のフェラス・ギャラリーでもスープの繰り返しが登場していたので、ほぼ同時期の展開だったといえる。資本主義的なポップの概念上で繰り返し、量の問題に言及するウォーホルの概念と、自我の無限の拡張を意図した草間の作品観とはだいぶ違う。この件に関して最近知ったことだが、1956年に京都を訪ねた際、蓮華王院「三十三間堂」に寄っていることが判明した。かねがね、映画「エンパイア」は、そのとき行った「龍安寺石庭」で、静寂を人々が味わっている姿を見てひらめいたと自身が語っていたといわれたが、黄金色に輝く千手観音立像1000体のレピテーションがのちに影響を与えたのではないかとも思う。そうしたさまざまな要因からウォーホルは独自の考え方のもとで彼の繰り返し技法を編み出したといえると思う。
環境芸術に関して、「空間から環境へ」(1966・11月、銀座・松屋)。「トリックス・アンド・ヴィジョン」(1968、東京画廊)、「エロクトロマジカ」(同年、銀座・ソニービル)などが開催され、70年万博へとアートがなだれ込んでいたあの時代、ベンヤミン「複製技術時代の芸術」(1936)はさすがにすでに古典であったが、ブーアスティン「幻影の時代」(1962)など虚像の増殖が情報環境へのシフトとして起こっていたが、決定的な思想がマーシャル・マクルーハンであった。実際マクルーハンはブーアスティンの考えをリニア(線的)な古典的な分析と批判していた。これらを増幅した論がジャン・ボードリヤールだろう。ボードリヤールは、「機械的スノビズム」(1990)の中でウォーホルを論じ、「何もない」と前提として述べている。つまり彼は「幻影の原光景」だと。
アンディ・ウォーホルが一時的に画家廃業宣言をして映画に専念するようになりロックバンドと組んで「EPI」をはじめたのは1965年暮れだったので、やはり環境芸術・マルチメディアへの表現の拡張においても日本よりも数年早かったわけだ。実際、マクルーハン「メディアはマッサージ」(1967)にはマクルーハン的なるものとしてEPIの映像がそのまま使用されている。日本の環境芸術はあまりにテクノロジカルでむしろ造形的にはデザインに見えたが、アンディが行ったことはよりラフだった。事実、抽象表現主義からネオダダを経てポップにいたる過程においても、基本ハイアートはラフであるべきで、アンディはさすがにそこはきちんと守っているのだ。
 日本において、ポップも大きく関係する東野芳明、宮川淳の「反芸術論争」(1964年4月〜7月)、あるいは高階秀爾との「ポップアート」論争(1964年4月~6月)があったにせよ、ウォーホルや本場ニューヨークからはその論争に対する返答はなかった。60年代には情報環境がすでにグローバルに拡張をし始めており、10代の私は東京にいた。新世代の僕らはアメリカからの美術情報と国内事情を十全に理解した上で認識をすでに使い分けていたのだ。そうでなくともウォーホルの哲学は探せば日本のそこここにすでに偏在していた。マリリンやスープ缶のポスターはあちこちに存在した。60年代中期、東京の先端的な一部の10代の若者はビートルズとウォーホルだった。少なくともアンディ・ウォーホルは美術館やギャラリー、美術評論よりも先に"複製の複製"として巷に蔓延したのである。これは偶然ではなく、また単なる商業主義でもなくポップの司祭が巧妙に現象を制御した結果だ。確かにはじめにウォーホルはアートをポップミュージック同様、世界中で現象化させていたのである。彼の概念、安価な誰でも所有できるアート、のコンセプト通りに。この点は強調しておきたい。ゆえにニューヨークの「ポープ・オブ・ザ・ポップアート(ポップの法王)」は私たちの身近な動向でもありえたのだ。こんなことは後にも先にもこのときしかない。そもそも芸術史を国単位の閉鎖領域で捉える思考は半世紀前の当時においてさえ古びたものに思え、だからこそ後にハラルド・ゼーマンはヴェネチア・ビエンナーレにおいて国別展示を超えた"アペルト・オールオーバー"を唱えたのではなかったか。
60年代には日本で彼の影響が顕著なものとして、田名網敬一・原榮三郎「虚像未来図鑑」(1969)や松本俊夫の映画「薔薇の葬列」(1969 ※74年ウォーホル来日時に松本は「アンディ・ウォーホル=複々製」という映像作品を制作した)があげられる。ことに後者はスーザン・ソンタグが提唱した「キャンプ」という概念によっており、キャンプはウォーホルを語る上でもひとつのキーワードになっていた。とりわけ65年以降、実験映画にますますはまっていった彼の憧れの対象だったのが「燃え上がる生物」で著名なジャック・スミスで、彼の映画はキャンプの代名詞とされた。スミスがアンダーグラウンドの怪優たちを起用したのもキャンプの特徴だった。ウォーホルは「アンディ・ウォーホルがジャック・スミスの[ノーマル・ラブ]を撮影する」(1963)という後にわいせつ罪容疑で当局に押収されるといった映像作品すらも残している。
 1970年の大阪万博のアメリカ館にウォーホル「レイン・マシン」が出品されていたが、日本のジャーナリズムはデイジー(ひな菊)のレンチキュラー板を並べた、この雨降りの機械にはほとんどふれていない。それどころか、この作品は、「失敗作」、「アンディはスランプだ」とまでいわれたのだ。この3月1日から森美術館の展望台のラウンジ「ウォーホル・カフェ」に再制作されたものが展示されている。当時、私は急進的な作品だと思ったが。ニューヨークでは、68年に32口径オートマチックでヴァレリー・ソラナスに撃たれるまででアンディ芸術は終わったとすらいわれていた。これに関して自らは「僕があのとき死んでいたら、僕はいっそう伝説となっていただろう」(POPism: The Warhol Sixtiesより)というような皮肉な述懐をおこなっている。ギャラリー展示ということからいえばヘリウムの「銀の雲」と牛の壁紙のみで個展を開催した、66年のレオ・キャステリ以降、実験映画に耽溺し確かにこれといった平面作品はないように見えたが、実際はすでに環境のほうへ彼の頭脳は拡張していたのだろう。

「アートの次に商売の術(ビジネス・アート)が来る。(中略) ぼくが芸術(アート)というやつ。まあ、どう言ってもいいけど、それをした後商売の術(ビジネス・アート)に進んだ。」
(アンディ・ウォーホル「ぼくの哲学」落石八月月・訳 新潮社刊 1998 p126 原書: The Philosophy of Andy Warhol From A to B & Back Again 1975)


 さて、60年代、ウォーホルの個展は日本では皆無だったわけだが、日本で初めてアンディ・ウォーホルの個展が行われたのは、71年の渋谷・西武百貨店のギャラリーでだった。このときは版画のみの展示であった。ウォーホルの言葉通りならすでに彼はビジネス・アーティストを始めていたのだ。1969年秋には「Interviewマガジン」も創刊して、実際にジャーナリスティックなビジネスもはじめている。その後、73年に岩城義孝という後に狛江市長選に立候補することになる人物がオーナーだった新宿の「マットグロッソ」でも版画の個展が開催されたが、代表作「マリリン」が10数万(※現在は1000万前後)で、それでも売れなかった。私はといえば70年に武蔵野美術大学に入学したものの、同年は安保の年で、学内はバリケード封鎖されまともな授業は行われなかった。絵具のかわりに音で描くという思いでアートロックバンド「Yellow(黄色人種)」をバリケード内の自主芸術祭「反安保芸術祭」で結成。フルボリュームの爆音で電気ギターをいじりはじめた。72年には故・間章が開催した伝説のコンサート「自由空間・新潟現代音楽祭」(新潟市体育館)で公式デビュー。NHKテレビの全国放送にも出演した。また、ムサビ内でロックコンサート「ZEROCK」を企画・主催、裸のラリーズとのバトル・ライブも行っていた。当時、マットグロッソでライブ・サウンド・パフォーマンスを行ったこともあった。絶滅していく鯨に関したもので、鯨の鳴き声をミュージック・コンクレートで表現したものだった。ウォーホルへの言及的作品としては、「コピーの連続によって飽和していく自画像」(1975)がある。ゼロックスコピーを繰り返すことで何回目かでイメージが変化しない一定のレベルに到達することに関する実験であった。
 73年になると美術手帖は増刊でウォーホル特別号(11月)を出し、美術評論家の石崎浩一郎や清水俊彦、日向あき子、山口勝弘、横尾忠則らが論評や意見を寄せていた。「美術手帖」は1969年2月号「ウォーホル あるいは、何モシナイデ有名ニナル方法 明日を開く芸術家1(東野芳明)」でウォーホルを扱っていたが、これが日本において初めて現代美術家ウォーホルをまともに取り上げた最初だっただろう。現在の美術におけるアンディ・ウォーホルの解釈というものはこのあたりにすべて母体がある。だが、この時期、特筆すべきウォーホル論は藤枝晃雄が書いた「大衆文化の神話」(美術手帖1974年12月号掲載)で、藤枝はここでとくにデュシャンとの関係性と差異、ポロックとの関係と違いなどを強力に主張している。この時期にウォーホルがポップのデュシャンだという考えが形成された。筆者が冒頭で述べたレディメイドなイメージの問題がここで発生している。そして1974年、アンディ・ウォーホルは大丸の大規模な個展のために来日することになるのである。

「ある男がいて、50個のキャンベル・スープをキャンヴァスに描いたとする。そのとき問題なのは網膜に映るイメージではなくて、50個描かざるを得なかった男のコンセプトなのだ。」
(マルセル・デュシャン Samuel A. Green : Andy Warhol [ The New Art ]のなかの引用より )


 75年、音楽評論家の渋谷陽一と親密になった私は、彼のラジオ番組「若いこだま」(NHK)に元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルー・リードがゲスト出演することを聞き、質問を用意した。アンディ・ウォーホルにも関連した質問であった。

 Q「東京はプラスティックな街だと思うか?」
 A「ニューヨークよりもか?」(ルー・リード)

 かつて、芸術家としてサバイバルするこつを聞かれたウォーホルは、こういった。
「しかるべき時に、しかるべき場所にいること」と。アンディ・ウォーホルとは、"60年代""NY"が生んだまさにプラスティックなスーパー・アーティストなのであった。(敬称略)

続く
もりしたたいすけ

EPI
マーシャル・マクルーハン「The Medium is the Massage: An Inventory of Effects」 (1967) より。EPI(エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル)。「歴史は繰り返し語られる、機械的に並べられたしきたり通りの言葉」とのテキストがある。筆者蔵

創刊号
Interview 創刊号 表紙(1969)筆者蔵

キャンベルドロー
ウォーホルのドローイングのある「The Philosophy of Andy Warhol (From A to B & Back Again)」扉(1975)筆者蔵

自画像
森下泰輔「コピーの連続によって飽和していく自画像」1975 紙にゼロックスコピー 29.7×168cm

きゃんべるどれす
Souper Dress 1966 ペーパードレス サイズ可変(ウォーホルのキャンベル・スープ作品が評判を呼びキャンベル・スープ社がノベルティとして制作したもの。現在ではウォーホルのアート作品として取引されている。60年代特有のAラインのドレスである。アンディ・ウォーホルのアートというものが社会現象だったことの一例)model: 近藤智美 筆者蔵

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディアアート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・君島彩子のエッセイ「墨と仏像と私」は毎月8日の更新です。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月14日の更新です。
 ・鳥取絹子のエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は最終回を迎えました。
 ・井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
  バックナンバーはコチラです。
 ・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は毎月22日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
 ・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
 ・浜田宏司のエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
 ・ときの忘れものではシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

今までのバックナンバーはコチラをクリックしてください。

■ときの忘れものは2014年3月12日[水]―3月29日[土]「瀧口修造展 II」開催しています(※会期中無休)。
201403
今回は「瀧口修造展 機では展示しなかったデカルコマニー30点をご覧いただきます。

●出品作品を順次ご紹介します。
052瀧口修造
《-22》
デカルコマニー、紙
※-23と対
Image size: 15.5x9.3cm
Sheet size: 25.7x19.0cm

053瀧口修造
《-23》
デカルコマニー、紙
※-22と対
Image size: 15.5x10.5cm
Sheet size: 27.0x19.3cm

056瀧口修造
《-24》
デカルコマニー、紙
Image size: 20.4x13.7cm
Sheet size: 20.4x13.7cm

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このブログでは関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。


カタログのご案内
表紙『瀧口修造展 I』図録
2013年
ときの忘れもの 発行
図版:44点
英文併記
21.5x15.2cm
ハードカバー
76ページ
執筆:土渕信彦「瀧口修造―人と作品」
再録:瀧口修造「私も描く」「手が先き、先きが手」
価格:2,100円(税込)
※送料別途250円(お申し込みはコチラへ)
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本日のウォーホル語録

「誰もが、愛について異なった見解を持っている。知合いのある女の子は、「彼が私の口の中でイカなかったとき、私のことを愛してくれてたんだわ、って知ったのよ。」と言った。
―アンディ・ウォーホル」


ときの忘れものでは4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催しますが、それに向けて、1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介して行きます。
アンディ・ウォーホル『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録
1988年
30.0x30.0cm
56ページ
図版:114点収録
価格:3,150円(税込)※送料別途250円

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tokinowasuremono
緑豊かな青山のギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱い、毎月企画展を開催しています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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