ウォーホルを偲んで

アンディ・ウォーホルとロイ・リキテンスタイン

東京は桜の季節も終わり、はや初夏の日差しですが、風も強い。
何だか季節の移り変わりが激しくて、途中がないですね。
駒込に移転し、10ヶ月ほどが経ち、ようやく四季それぞれの駒込の様子がわかってきました。
青山と同じく住宅街ですが、青山のような華やかさはありません。しかし私どものような地味でクラシックな画廊にとってはなかなか居心地の良い場所です。
昨年6月突如入居することになった阿部勤先生設計の建物の使い勝手は申し分ありません。
阿部先生がいかに素晴らしい建築家であるかは、ご自身の告白「私の失敗」をぜひお読みになってください。
自戒をこめての感想ですが、自分の失敗を認めることはなかなか難しい。ましてやそれを公開するなんて「営業」から考えたら禁句のはず、それを敢えて公開し、次のステップに生かす、さすが坂倉準三のお弟子さんですね。
所沢のご自宅はもちろん阿部先生が設計された自慢の傑作。ところがこのお正月に中山美穂さん(そうですあの女優の)に占拠され、一時ホームレス状態になったらしい。いったいそれは何故なんだと、ときの忘れもの建築探偵団が26日に偵察に参ります。

ようやく今年後半のラインナップが固まりましたのでご報告します。

5月「没後70年 松本竣介展」
6月「移転一周年謝恩企画:70-80年代を彩ったポスター繚乱」
  「関根伸夫展」(会場は銀座・ギャラリーせいほう)
7月「秋葉シスイ新作展」(会場は銀座・ギャラリーせいほう)
  「内間安瑆・俊子遺作展」
9月「野口琢郎新作展」
10月「倉俣史朗展」
11月「光嶋裕介新作展」

のちほど詳しくご案内しますが来月5月には二回目となる松本竣介展を開催します。
6月の移転一周年記念は引越しを機に発掘できた40年ほど前のレアなポスター群を謝恩価格にて展示頒布します。
大作が中心の関根伸夫秋葉シスイの新作個展は銀座のギャラリーせいほうさんにお願いして開催します。
7月の内間安瑆・俊子ご夫妻の遺作展のために、スタッフたちが先日NYのご遺族のもとに赴き貴重な作品をお預かりしてきました。戦後の現代美術史に確かな足跡を残し、帰米後(俊子夫人にとっては渡米後)は多くの日本人作家を暖かく支援した功績も忘れてはなりません。内間安瑆先生の作品は今まで幾度も展示してきましたが、デモクラートに参加した内間俊子(青野俊子)先生に関しては今回が初めてのまとまった紹介となります。
10月には倉俣史朗展を予定しています。没後30年近く経ってもオーラは消えず、海外での評価はますます高くなっています。
9月の野口琢郎さん、11月の光嶋裕介さんのそれぞれ新作個展が、駒込の空間を使っての初めての作家の新作による挑戦になります。
まだ時期は確定していませんが、秋には佐藤研吾さんの展覧会も予定しています。
どうぞご期待ください。

昨日は埼玉県立近代美術館での「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展の反響をご紹介しましたが、昔お世話になった現代版画センターの会員の方々との再会も嬉しい出来事でした。
30数年ぶりにご連絡をいただき、その当時私が売った作品が戻ってくるなど思わぬご褒美もありました。

●本日のお勧め作品はポップアートの二大スター、ロイ・リキテンスタインアンディ・ウォーホルです。
warhol_06_kiku-3アンディ・ウォーホル"KIKU 3"
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
50.0×66.0cm
Ed.300  Signed


lichtenstein_03_landscapeロイ・リキテンスタイン《Haystack》
1969年
シルクスクリーン
48.5x66.0cm
Ed. 250  Signed

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

ウォーホルの「KIKU」シリーズは現代版画センターのエディションで、日本で石田了一さんの手で刷られました。
菊を刷る石田了一
「KIKU3」を刷る石田了一さん(1983年)

ウォーホルとリキテンスタインらポップアートの作家たちが大成功したのは、いち早く彼らの才能を見出した大画商レオ・カステリの功績といえるでしょう。
1989年4月2日NYレオカステリと上岡麻衣子
レオ・カステリ(右)と上岡麻衣子さん
1989年4月2日NYにて
このとき亭主は息子たちと友人のお嬢さんを連れてNYを再訪、ウォーホルは亡くなっていましたがレオ・カステリは健在でした。

リキテンスタインを最初に発見したのがレオ・カステリです。
1961年夏、彼はリキテンスタインに漫画の一コマを拡大して印刷インクの網点(ドット)まで描いた作品を見せられるやいなや、即座に才能を見抜き彼を売り出すことに決めます。
ちょうど同じころ、ウォーホルも漫画を主題に制作を試みていたのですが、カステリに作品を見せるのが2週間ほど遅かった。カステリのスタッフがウォーホルに見せたリキテンスタインの漫画絵画はドットの描写によって、漫画の記号性を完璧にとらえていました。それを一目見たウォーホルは「ああ、なぜこれが思いつけなかったのだろう」と嘆きます。
「ロイがこんなに上手に漫画をやっているのだから、自分はきれいさっぱり漫画をやめて、自分が一番乗りになれる他の方向 <量と反復の方向> に進もうと決めたのです」と後に述懐しています。
それほどドット(網点)を丹念に画面に描き込んだリキテンスタインの手わざは完璧だった。

◆ときの忘れものは「ボブ・ウィロビー写真展〜オードリー&マリリン 」を開催しています。
会期:2018年4月10日[火]―4月28日[土]
11:00-19:00  ※日・月・祝日休廊

数々のスターが主演するハリウッド映画のメイキング・シーンを撮影してきた「スペシャル」フォトグラファー、ボブ・ウィロビーが1950-60年代に撮影したオードリー・ヘップバーンとマリリン・モンローのポートレートをご覧いただきます。詳しい出品リスト(25点)はホームページに掲載しました。
また10万冊を所蔵する雑誌図書館六月社の協力を得て、映画専門誌以外のオードリー・ヘプバーンとマリリン・モンローのゴシップ記事などを掲載した30年ほど前の雑誌60種類を図書室で公開しています。ぜひ手にとってご覧になってください。
201804_willoughby

●出品作品を順次ご紹介いたします
08_BWP009-Audrey-asleep-wit
ボブ・ウィロビー
《Hepburn, Audrey, 1958
Audrey asleep with Ip Pre-Production on "Green Mansions," 1958》(BWP009)

※「緑の館」
1958(Printed in 2018)
Archival Digital Pigment Print
Image size: 31.2×45.8cm
Sheet size: 40.6×50.8cm
Ed.25
クリストファー・ウィロビーによるスタンプとサインあり

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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2月22日はウォーホルと栗山豊の命日です。

埼玉県立近代美術館で開催中の「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展については1月16日のブログに書いた通り、ときの忘れものは作品と資料は提供しましたが、展覧会の企画構成には一切関わっていません。
初日1月16日に伺って何が驚いたかというと、わが子と思っていた作品たちの想像を超える成長ぶりでした。
敢えて順路をつくらず、見る人の自由に任せる展示も見事です。
出品45作家の略歴もぜひお読みください。よくある受賞歴や出品歴をだらだら並べた手抜き略歴ではなく、簡潔に作家の仕事を紹介し、現存作家の場合は現在の活動にも触れており、学芸員の皆さんの労作です。

現代版画センターの活動にはエディション作家だけではなく、多くの人々が参加しました。
051983年のアンディ・ウォーホル全国展のポスターは先日ご紹介した浪漫堂製作をはじめ幾種類もありますが、上掲のものは田名網敬一先生にデザインをお願いしました。


今日2月22日はウォーホルの命日です。
ウォーホルに惚れて膨大なウォーホル資料を蒐集した栗山豊が路上で倒れたのは2001年2月22日、ウォーホルと同じ日に生涯を終えました。
0b82d291.jpg第二次都知事選のときの車内演説会、右が栗山さん、左が秋山祐徳太子(渡辺克己撮影)。

栗山豊 Yutaka KURIYAMA(1946-2001)
1946年に和歌山県の田辺に生まれた。文化学院を卒業後は、看板描きや、新宿、銀座、上野の街頭で似顔絵描きとして生計をたてていた。春になると全国の主要なお祭りに出かける、寅さんの如き生涯だった。栗山が60年代から集めた膨大なアンディ・ウォーホルに関する資料類は、 1983年、及び1996年の大規模な回顧展の折にはカタログ編集の重要な源泉となった。2001年2月22日街で倒れ、病院に運ばれるが誰にも看取られず亡くなった。

亡くなる少し前に栗山が亭主に託したウォーホル資料の一部は埼玉の会場に展示してあります。
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栗山ファイルのオリジナルはケースの中。

104でもこういうのは実際に手にして見てこその資料です。カラーコピーしたファイルが閲覧コーナーにあり、どなたでも手にとってご覧いただけます。これを見なければ(読まなければ)せっかくの入場料がもったいない。

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映像コーナーでは1983年のウォーホル全国展の様子がスライドでご覧になれます。
(いずれも撮影はタケミアートフォトス)


史上最強のウォーホル・ウォッチャーだった栗山豊について、ブリキ彫刻で名高い秋山祐徳太子先生がその著書ですばらしい紹介文を書いています。
以前秋山先生の了解を得て、ブログに掲載したものを再録させていただきます。
秋山祐徳太子「泡沫傑人列伝」秋山祐徳太子サイン入り
泡沫傑人列伝ー知られざる超前衛ー
2002年 二玄社 18.8×12.8cm 240ページ
価格1,575円(送料250円)
ときの忘れもので扱っています。

帯に<泡沫のソムリエ、秋山祐徳太子が愛をこめて綴る、純正泡沫烈士50名の恐れ入る人生>とあるとおり、ポップ・ハプニングやブリキ彫刻で知られる秋山先生が「週刊読書人」に連載した抱腹絶倒の異色人物伝。
収録されたのは「葬儀人類学者」「男根アーティスト」「従軍露出士」「汚物芸術家」「夜中の変身魔」「ゼロ次元総帥」「百人町のプラトン」など有名無名50人。
「週刊読書人」連載時には栗山さんは健在でした。単行本になったのは栗山さんの没後で、訃報の顛末を「それから」として加筆されています。

■秋山祐徳太子「泡沫傑人列伝 知られざる超前衛」より
栗山豊氏の巻
路上のウォーホル ”世界を点々とする画家”


 アメリカのポップ・アーティストの巨匠、アンディ・ウォーホルに魅せられ、アメリカまで会いに出かけていく。栗山豊さんは、そんな行動力を持った人である。だからと言って、そのことを自慢したり、名誉欲に生きようとすることは微塵もない。見上げたものだ。
 彼の本業は似顔絵描きである。知り合ったのは七〇年代のはじめ頃だが、その以前から似顔絵描きをつづけ、今も現役である。全国で開かれる祭りはもちろんのこと、あらゆるところにイーゼルを立て、じっとお客を待ちかまえている姿には、なかなかの風格がある。
 七九年、私の第二次都知事選の折りには、彼は自費で選挙ポスターを作ってくれた。金がかかるのでもちろん白黒である。それで充分、今や栗山さんの作品として、全国各地の美術館にコレクションされている。
 それはともかく、彼にはもうひとつ妙なる行動癖がある。全世界への旅に出ることである。旅をすること自体別段当たり前のことだが、それだけではない。彼は旅先から世界地図の絵葉書を送ってくる。そして、そこには毎回、赤い点がひとつだけ記してある。時候の挨拶も近況の報告も全く記されていないが、おそらく自分が今その場所に来ているという印なのだろう。「エアメール・アート」というものだが、しばらくすると、また同じような絵葉書が届く。ある時はヨーロッパから、またある時はアフリカ大陸の中央から。葉書サイズなので正確な場所ははっきりとしないが(おそらく本人もわかっていないのだろう)、世界を“点々”としながら似顔絵描きをつづけている、その足跡証明ということなのかもしれない。それでどうした、という気持ちにもなるのだが、来なければ来ないでやはり気にはなる。便りがあるうちは無事ということなのだから・・・・・・。
 今から七年ほど前、彼は交通事故の被害にあった。幸い一命はとりとめ、何ヵ月かの休養の後に、仕事を再開した。その頃、私が知り合いたちと酔っ払って新宿の街を歩いている時、客待ちをしている栗山さんに偶然出会った。酔っ払った友人が、「よう、画伯!」と大声で叫んだので、私はその友人をたしなめた。栗山さんの方は、照れくさそうに下を向いていた。我々は彼を尻目に、素早くその場を立ち去ることにした。そうすることが彼に対する礼儀ではないか、私にはそう思えたからだ。
 昨年の十月、私は、上野の森美術館の一角で展覧会を開いた。テーマは「岡倉天心の逆襲」というもので、天心のコスチュームを身にまとい、公園の中を歩いていると、何か明治を背負っている感じがした。そんな時のことである。ふと見ると、西郷さんの銅像へ向かう階段の途中に、栗山さんがいるではないか。驚いたことに、イーゼルに貼り付けられた有名人の似顔絵の中に、私の都知事選のポスターがある。すかさず私は彼に駆け寄り、岡倉天心の格好をした姿を描いてもらった。人だかりがして描きづらそうだったが、出来上がった絵は文句なしの名作だった。
 今年の夏、栗山さんは、友人の個展を訪れた際に突然倒れたという。救急車で病院に運ばれたが、血圧が異常に高く、しばらく危険な状態がつづいたらしい。それでも難は逃れ、再び現役に復帰、あちらこちらの祭りに出没している。
 そんな彼は、今でも私のことを「夜の東京都知事」といって慕ってくれている。感謝。
 似顔絵描きに徹する彼こそ、西郷どん、よか男でごあす。
 なお、栗山さんは、KKSKIPより『似顔絵ストリート』という本を出しているので、一読あれ。
 敬服満点。(二〇〇〇・一一・一〇)

◎それから◎
 栗山豊さんの訃報が入った。まさかとは思ったが、何度も死線をきり抜けていたので予感はあったものの、その後連絡が取れず、気にしていたのだが。彼は確か和歌山県出身で、時々田舎からカラフルでポップなカマポコを送ってきてくれた。新宿にあった彼のマンションに泊めてもらったこともあった。板橋の葬儀場に行くと主だった友人たちが来ていた。なんでも彼は身内が無く、いとこの女の人が世話をしていたという。赤羽の方の病院に入っていたというのだが、我々も全く知らなかった。色々な事情があったと思うと胸が痛む。この日はなんと彼が尊敬してやまないアンディ・ウォーホルの亡くなった日と同じだという。二〇〇一年二月二十二日、世紀を越えた劇的な日である。帰りに白夜書房の末井昭さんたちと高田馬場で彼を偲んだ。酒が入って誰かが言った。葬儀場で、栗山さんとどこかのおばさんを間違えて、手を合わせてしまったそうだ。私は遅れて立ち会えなかったのだが、あまりにも似ていたという。なんともおかしな話だった。集まった人数は少なかったが、心温まるものだった。後日、青山の360°という画廊で彼を思う別れの会が行なわれた。彼が作ってくれた都知事選のポスターは遺作として永久に輝いている。今頃はウォーホルの似顔絵を描いているだろう。
 ヨウ! 男・栗山豊、見事な人生だった。
 合掌。

◆埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が開催されています。現代版画センターと「ときの忘れもの」についてはコチラをお読みください。
詳細な記録を収録した4分冊からなるカタログはお勧めです。ぜひご購入ください(2,200円)。
会期:2018年1月16日(火)〜3月25日(日)
埼玉チラシAY-O600現代版画センターは会員制による共同版元として1974年〜1985年までの11年間に約80作家、700点のエディションを発表し、全国各地で展覧会、頒布会、オークション、講演会等を開催しました。本展では45作家、280点の作品と、機関誌等の資料、会場内に設置した三つのスライド画像によりその全軌跡を辿ります。

○<埼玉県立近代美術館の『版画の景色 現代版画センターの軌跡』。ウォーホルに浮かれてた時代があったんだなあ、とか展示以外の記録をみていて思ったんだが。それより、当時の作家別価格表とかオークション入札最低価格表があったのがとても興味深かったのだった。
(20180216/あさひやさんのtwitterより)>

○< 一昨日二人で美術館を訪れました。
おかげさまで、錚々たるアーチストによる力のこもった作品に出会うことが出来、
充実した時間を過ごすことが出来ました。
当時の斬新で先駆的な企画の数々を目の当たりにして
あらためて綿貫さんの版画に寄せる強い思いを感じました。
また新しいギャラリーに寄らせていただきます。
綿貫さんの面白いお話を伺えるのを楽しみにしています。

(20180216/SSさんからのメールより)>

○<埼玉近代美術館の現代版画センター展に先月行ってきました。
見応えある展示で、帰りがけにはオノサト版画付き図録を購入しました。
期間中にもう1度見に行けたらと思っています。
それにしても大谷石の採掘跡のウォーホル展、行っておけばよかった。
すごいチャンスだったのに、それを逃したのが悔やまれます。

(20180215/AAさんからのメールより)>

西岡文彦さんの連載エッセイ「現代版画センターという景色が始まりました(1月24日、2月14日、3月14日の全3回の予定です)。草創期の現代版画センターに参加された西岡さんが3月18日14時半〜トークイベント「ウォーホルの版画ができるまでーー現代版画センターの軌跡」に講師として登壇されます。

光嶋裕介さんのエッセイ「身近な芸術としての版画について(1月28日ブログ)

荒井由泰さんのエッセイ「版画の景色―現代版画センターの軌跡展を見て(1月31日ブログ)

スタッフたちが見た「版画の景色」(2月4日ブログ)

毎日新聞2月7日夕刊の美術覧で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が紹介されました。執筆は永田晶子さん、見出しに<「志」追った運動体>とあります。

倉垣光孝さんと浪漫堂のポスター(2月8日ブログ)

嶋吉信さんのエッセイ〜「紙にインクがのっている」その先のこと(2月12日ブログ)

大谷省吾さんのエッセイ〜「版画の景色−現代版画センターの軌跡」はなぜ必見の展覧会なのか(2月16日ブログ)

塩野哲也さんの編集思考室シオング発行のWEBマガジン[ Colla:J(コラージ)]2018 2月号が展覧会を取材し、87〜95ページにかけて特集しています。

○埼玉県立近代美術館の広報誌 ソカロ87号1983年のウォーホル全国展が紹介されています。

○同じく、同館の広報誌ソカロ88号には栗原敦さん(実践女子大学名誉教授)の特別寄稿「現代版画センター運動の傍らでー運動のはるかな精神について」が掲載されています。

現代版画センターエディションNo.602 アンディ・ウォーホル「KIKU 2」
現代版画センターのエディション作品を展覧会が終了する3月25日まで毎日ご紹介します。
602_アンディ・ウォーホル《KIKU 2》アンディ・ウォーホル
《KIKU 2》
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
Image size: 50.0×66.0cm
Sheet size: 54.2×78.6cm
Ed.300  サインあり

パンフレット_05
出品作家45名:靉嘔/安藤忠雄 /飯田善国/磯崎新/一原有徳/アンディ・ウォーホル/内間安瑆/瑛九/大沢昌助/岡本信治郎/小田襄/小野具定/オノサト・トシノブ/柏原えつとむ/加藤清之/加山又造/北川民次/木村光佑/木村茂/木村利三郎/草間彌生/駒井哲郎/島州一/菅井汲/澄川喜一/関根伸夫/高橋雅之/高柳裕/戸張孤雁/難波田龍起/野田哲也/林芳史/藤江民/舟越保武/堀浩哉 /堀内正和/本田眞吾/松本旻/宮脇愛子/ジョナス・メカス/元永定正/柳澤紀子/山口勝弘/吉田克朗/吉原英雄
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


◆ときの忘れものは「ハ・ミョンウン展」を開催しています。
会期=2018年2月9日[金]―2月24日[土] ※日・月・祝日休廊
201802_HA
ロイ・リキテンスタイン、アンディ・ウォーホルなど誰もが知っている20世紀を代表するポップアートを、再解釈・再構築して自らの作品に昇華させるハ・ミョンウン。近年ではアジア最大のアートフェア「KIAF」に出品するなど活動の場を広げ、今後の活躍が期待される韓国の若手作家です。ときの忘れものでは2回目となる個展ですが、新作など15点を展示します。

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
20170707_abe06新天地の駒込界隈についてはWEBマガジン<コラージ12月号>をお読みください。18〜24頁にときの忘れものが特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

世界一のウォーホル・ウォッチャー栗山豊

『WARHOL-underground america』展@ときの忘れもの。この展覧会を1時間前に思い出した私を褒めたい。点数も少ないし入りづらいけど、すごくよかった。ほんとによかった。アンディ・ウォーホールが見たことない横顔で佇んでた。アンディとおんなじテーブルでコーヒー飲んだような気持ちになってる。
(シブヤメグミさんのtwitterより)>

ただいま開催中のWARHOL―underground america」は明日が最終日です。
ときの忘れものにとっては激動の2017年の最後を飾る展示でもあります。
壁面には金坂健二の写真作品とウォーホルの版画、及び超レアなポスターを展示し、図書室にはジョナス・メカスの写真作品を2点展示しています。
小規模な展示ですが、一番人気は毎日15時、16時、17時の三回上映しているメカス映画「this side of paradise」です。
先週の23日(土曜、天皇誕生日)は日本全国祝日だった(はず)ですが、それと気づかぬ映画目当ての女性のお客様が5人もいらっしゃいました。たまたま出勤していた(スタッフは全員休み)亭主が慌てて対応したのですが機械音痴のため上映はならず、申し訳ないことをしました。
思うに、土曜日の祝日は(もともと多くの企業は週休二日なので)、祝日と考えられていないのではないか。

それはともかく、図書室の本棚とテーブルの上にはウォーホル、メカス、金坂健二の資料をどっさり置いてあるのですが、気づかぬ人も多い。
中でもウォーホルウオッチャー栗山豊が遺した「栗山ファイル」はぜひ注目していただきたいものです。全体の量が膨大なのでほんの一部しか置いてありませんが、ぜひご覧ください。

栗山豊を知らない若い人のために、亭主が10年前に『STUDIO VOICE』に寄稿した文章を再録します。
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「世界一のウォーホル・ウォッチャー」
綿貫不二夫 『STUDIO VOICE』VOL.377(2007年5月)62頁所収

 2001年2月22日史上最強のウォーホル・ウォッチャーだった栗山豊が死んだ。街で倒れ病院に運ばれたが看取る者もなく、枕元にあった手帖から看護婦さんが友人に電話してその死を知らせた。ウォーホルの命日に死ぬなんて栗山らしいが、死ぬ少し前、60年代から蒐集した膨大なウォーホル資料を「綿貫さんが持っていた方が生きるから」と私に託していった。いま思えば長年の不規則な生活と酒、恐らく自らの死を予感していたに違いない。
 栗山は1946年和歌山県の田辺に生まれた。父が南方熊楠に師事したというから、後年の何でも蒐集癖は血かも知れない。文化学院を卒業後は、看板描きや、新宿、銀座、上野の街頭で似顔絵描きとして生計をたて、春になると全国の主要なお祭りに出かける、寅さんの如き生涯だった。
 ウォーホル三人男と呼ばれた宮井陸郎、根本寿幸、栗山豊の協力で私は1983年に日本発の[KIKU][LOVE]シリーズをウォーホルに依頼して渋谷パルコや宇都宮大谷の地下空間で大規模な展覧会を企画した。そのとき唐草模様の大風呂敷に包んだ膨大な新聞雑誌等の切れッぱしを持ってきたのが栗山だった。美術、映画はもとよりマイナーな雑誌の記事や広告、写真の隅にちらっと載ったウォーホル作品などよくも見つけたと思うほど幅広いメディアを網羅していた。1974年の大丸展チケットの半券、60年代のドローイングをあしらったジャズ喫茶のマッチのラベル、電車の中吊りやチラシ、バブル期のキャッチセールスの怪し気な展覧会入場券など大宅文庫にも国立国会図書館にもないリアルタイムでなければ絶対に入手不可能なものばかりだ。
 栗山が死に、宮井は行方不明、根本はギャラリー360°で頑張っているが、私の元気なうちに栗山資料の全貌展を開きたい。現代の宮武外骨が遺した宝の山に分け入り、アングラ映画から始まった日本におけるウォーホルの受容の歴史を研究、再生させる者はいないだろうか。
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青山時代の2006年に「アンディ・ウォーホル展  FROM THE PERSONAL COLLECTION OF Yutaka KURIYAMA」を開催し、故・栗山豊の蒐集した1960年代〜1990年代の新聞、雑誌、カタログ、ポスターなど資料300点を展示しました。

「アンディ・ウォーホル展
FROM THE PERSONAL COLLECTION OF Yutaka KURIYAMA」

会期=2006年4月21日[金]〜5月13日[土]
もう11年前になりますが、そのときの展示スナップをご紹介します。
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アンディ・ウォーホル展 展示風景1

栗山は2001年に亡くなったから当然その後の資料はない。
ウォーホル、メカス、金坂の3人は美術雑誌を追ってもその全貌はわからない
栗山のウォーホル資料も美術雑誌以外のメディアが大半だった。

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●橋本コレクションから

困っていたら、亭主の盟友で六月社を主宰する橋本凌一が主に2000年以降の「美術以外の雑誌」を軒並み調べて約100冊を届けてくれました。
冥土の栗山も思わぬ後継ランナーの登場を喜んでいるでしょう。
明日までは図書室に積んでありますので、どなたでもご覧になれます。

AW04 のコピー6)「TORSOS
1977年
オフセット印刷
シートサイズ:100.0×68.0cm
発行元:Prigioni Vecchie - Venezia
サインあり

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◆冬季休廊のお知らせ/ときの忘れものは12月29日(金)から新年1月4日(木)まで休廊します。

◆ときの忘れものには小さな庭があります。彫刻家の島根紹さんの作品を2018年1月末まで屋外展示していますので、ご来廊の折にはどうぞご覧ください。

◆ときの忘れものは「WARHOL―underground america」を開催しています。
会期=2017年12月12日[火]―12月28日[木] ※日・月・祝日休廊
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1960年代を風靡したアングラという言葉は、「アンダーグラウンドシネマ」という映画の動向を指す言葉として使われ始めました。ハリウッドの商業映画とはまったく異なる映像美を目指したジョナス・メカスアンディ・ウォーホルの映画をいちはやく日本に紹介したのが映画評論家の金坂健二でした。金坂は自身映像作家でもあり、また多くの写真作品も残しました。没後、忘れられつつある金坂ですが、彼の撮影したウォーホルのポートレートを展示するともに、著書や写真集で金坂の疾走した60〜70年代を回顧します。
会期中毎日15時、16時、17時の三回メカス映画「this side of paradise」を上映します
1960年代末から70年代始め、暗殺された大統領の未亡人ジャッキー・ケネディがモントークのウォーホルの別荘を借り、メカスに子供たちの家庭教師に頼む。週末にはウォーホルやピーター・ビアードが加わり、皆で過ごした夏の日々、ある時間、ある断片が作品には切り取られています。60〜70年代のアメリカを象徴する映像作品です。(予約不要、料金500円はメカスさんのNYフィルム・アーカイブスに送金します)。

◆埼玉県立近代美術館で新春1月16日〜3月25日の会期で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」が開催されます。
会員制による共同版元として現代版画センターは1974〜1985年に約80作家、700点のエディションを世に送り出しました。全国各地で展覧会、頒布会、オークション、上映会、講演会、パネルディスカッション等を頻繁に開きましたが、今回の展覧会では、その中から埼玉近美が選んだアンディ・ウォーホルなど45作家、約300点の作品と、11年間に発信された機関誌など資料が一部展示換えをしながら展観されます。
パンフレット_04

●書籍のご案内
版画掌誌5号表紙600
版画掌誌第5号
オリジナル版画入り美術誌
ときの忘れもの 発行
特集1/ジョナス・メカス
特集2/日和崎尊夫
B4判変形(32.0×26.0cm) シルクスクリーン刷り
A版ーA : 限定15部 価格:120,000円(税別) 
A版ーB : 限定20部 価格:120,000円(税別)
B版 : 限定35部 価格:70,000円(税別)


TAKIGUCHI_3-4『瀧口修造展 III・IV 瀧口修造とマルセル・デュシャン』図録
2017年10月
ときの忘れもの 発行
92ページ
21.5x15.2cm
テキスト:瀧口修造(再録)、土渕信彦、工藤香澄
デザイン:北澤敏彦
掲載図版:65点
価格:2,500円(税別) *送料250円
*『瀧口修造展 I』及び『瀧口修造展 II』図録も好評発売中です。


安藤忠雄の奇跡安藤忠雄の奇跡 50の建築×50の証言
2017年11月
日経アーキテクチュア(編)
B5判、352ページ
価格:2,700円(税別) *送料:250円
亭主もインタビューを受け、1984年の版画制作始末を語りました。
ときの忘れもので扱っています。

国立新美術館の「安藤忠雄展―挑戦―」は、大盛況のうちに終了しました。
展覧会については「植田実のエッセイ」と「光嶋裕介のエッセイ」を、「番頭おだちのオープニング・レポート」と合わせ読みください。
ときの忘れものでは1984年以来の安藤忠雄の版画、ドローイング作品をいつでもご覧になれます。


●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
新天地の駒込界隈についてはWEBマガジン<コラージ12月号>をお読みください。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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ただいま「WARHOL―underground america」展開催中

主力スタッフはようやくマイアミでの大仕事を終え、帰国の途につきました。
ときの忘れものは昨日12日から「WARHOL―underground america」展を開催しています。
会期=2017年12月12日[火]―12月28日[木] ※日・月・祝日休廊

本展の出品作家はアンディ・ウォーホル、金坂健二、ジョナス・メカスの3人ですが、影の主役はメディアです。

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亭主は幸いにもこの三人(メカスさんのみ健在)に会い、一緒に仕事をしてきましたが、ウォーホル、メカスの盛名ぶりに比べて、金坂健二の名の凋落は目を覆うばかりです。
今の美術界の先頭を切っている人たちの中で幾人が金坂の名を知って(覚えて)いるでしょうか。

ハリウッドの商業映画とはまったく異なる映像美を目指したジョナス・メカスアンディ・ウォーホルの映画をいちはやく日本に紹介したのが映画評論家の金坂健二でした。
3人を結ぶキーワードである「アングラ」という言葉は、もともとは「アンダーグラウンドシネマ」という映画の動向を指す言葉として使われ始めました。
金坂は自身映像作家でもあり、また多くの写真作品も残しています。

今回の展示は以下の構成になっています。
1)金坂健二が1960年代に撮影したアンディ・ウォーホルの肖像写真(ゼラチン・シルバー・プリント)14点
20171214_20171214_005金坂健二
《アンディ・ウォーホル》
1968年
ゼラチンシルバープリント
23.5x35.1cm
価格:シート70,000円(税別)


2)ジョナス・メカスによるフローズン・フィルム・フレームズ(静止した映画)作品(Type-Cプリント)2点
0909-46Andy_Warhol
ジョナス・メカス
Andy Warhol at Montauk, 1971
2000年 C-print
30.5×20.2cm
Ed.10  signed
価格:シート150,000円(税別)


3)ジョナス・メカスの映画「this side of paradise」の上映(約35分)
  毎日3時、4時、5時の三回上映
  料金500円(予約不要)
  1960年代末から70年代始め、暗殺された大統領の未亡人ジャッキー・ケネディがモントークのウォーホルの別荘を借り、メカスに子供たちの家庭教師に頼む。週末にはウォーホルやピーター・ビアードが加わり、皆で過ごした夏の日々、ある時間、ある断片が作品には切り取られています。60〜70年代のアメリカを象徴する映像作品です。

4)アンディ・ウォーホルの1960〜1980年代の版画作品及びヴィンテージ・ポスター
  価格:額付30,000円〜2,000,000円(税別)
ウォーホル TRSOSウォーホルサイン入りポスター
「TORSOS]1977年


5)栗山コレクション以後のウォーホル資料
史上最強のウォーホル・ウォッチャー栗山豊が路上で行き倒れて亡くなったのは2001年2月22日でした。奇しくもウォーホルの命日でした。彼が執念で収集したウォーホル資料は亡くなる少し前に亭主のもとに託され、栗山の没後青山のときの忘れもので公開しました(2006年4月「アンディ・ウォーホル展」)。
栗山コレクションが凄いのは、ウォーホルを「美術雑誌」だけで追いかけても意味がないことを身をもって示したことでした。マッチのラベル、キャッチセールスのお姉ちゃんが配布するチラシ、美容院に置いてある女性週刊誌、テレビ・コマーシャル、新聞のラジオ・テレビ版、etc.,
栗山がせっかく残してくれた資料は2001年2月で途切れている。
今回の展示では栗山没後のウォーホル資料を何とか確保して、栗山の霊前に捧げたい
亭主の盟友・橋本凌一さんは高田馬場で「六月社」という私設大宅文庫とでも形容するしかない雑誌図書館を運営している。
400種10万冊以上の収蔵雑誌の中から彼が見つけてくれたのが冒頭に紹介したウォーホル記事の掲載された日本の雑誌約100冊である。
ときの忘れもの二階の図書室に展示していますので、会期中は誰でも自由に閲覧してください。

6)希少ウォーホル画集
・John Wilcok and a cast of thousands『アンディ・ウォーホルの自叙伝とセックスライフ/The Autobiography and Sex Life of Andy Warhol』1971年 OTHER SCENES INC.,刊(英文) 28,000円
・『アンディ・ウォーホル展 1983〜1984 』(オリジナル・シルクスクリーン入り) 75,000円
・Rainer Crone『ANDY WARHOL』1970年 VERLAG ARTHUR NIGGLI刊 (独語)25,000円
・『Andy Warhol 』1968年 ストックホルムMODERNA MUSEET刊 80,000円
・Kynaston McShine『Andy Warhol: A Retrospective』1989年 MoMAの回顧展図録 8,000円
・『Andy Warhol』1988年 ベルギー, Galerie Ronny Van de Velde & Co.,, 刊 250,000円

その他、お宝満載の本展ですが、それは来廊されてからのお楽しみです。

■金坂健二 Kenji KANESAKA(1934-1999)
parco201金坂健二1983年6月7日渋谷 パルコPART3
現代版画センター企画「アンディ・ウォーホル全国展」オープニングにて

映画作家、評論家、写真家。1934年東京都生まれ。1957年慶応義塾大学文学部英米文学科卒業。松竹映画国際部に社長(城戸四郎)付きの通訳として籍を置き、ハーバード大学の国際セミナーに参加するうちに米国のアングラ映画作家と知り合い、松竹を休職中にフルブライト基金を受けて渡米、ノースウェスタン大学に1年間留学。映画『アメリカ、アメリカ、アメリカ』を完成して学校を離れ、日本に帰国後、1966年に映画『ホップスコッチ』を完成。1964年、飯村隆彦、石崎浩一郎、大林宣彦、高林陽一、佐藤重臣、ドナルド・リチー、足立正生らと実験映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」を結成した。1968年刊行の『UNDERGROUND GENERATION』はアングラ黄金期の紳士録ともいうべき写真集。次第に活動の場を失い不遇のうちに死去。

■ジョナス・メカス Jonas MEKAS(1922-)
2005年10月サインするメカス
2005年10月青山・ときの忘れものにて。

映画監督、作家。1922年リトアニア生まれ。ソ連次いでナチス・ドイツがリトアニアを占領。強制収容所に送られるが、45年収容所を脱走、難民キャンプを転々とし、49年アメリカに亡命。16ミリカメラで自分の周りの日常を日記のように撮り始める。65年『営倉』がヴェネツィア映画祭で最優秀賞受賞。83年現代版画センターの招きで初来日、原美術館で展覧会を開催。89年NYにアンソロジー・フィルム・アーカイヴズを設立。2005年ときの忘れものの個展のために4度目の来日。

■アンディ・ウォーホル Andy WARHOL(1928-1987)
栗山ポスター
栗山豊「ウォーホルポスター」

1928年8月6日アメリカ・ピッツバーグ生まれ。本名“Andrew Warhola”。49年カーネギー工科大学卒業。52年ニューヨーク・ヒューゴー画廊でドローイングによる初個展。56年友人と約6週間で世界一周旅行、日本にも立ち寄る。62年[ファクトリー]を設立。同年8月5日モンローの死に会い[マリリン]を制作。63年映画の制作を始める。68年ファクトリーで狙撃される。74年10月大丸の大個展のため来日。1983年現代版画センターのために「KIKU」連作を制作。1987年永逝。

●『版画掌誌第5号』のご案内
版画掌誌5号表紙600同時代の優れた作家の紹介と、歴史の彼方に忘れ去られた作品の発掘をめざしてオリジナル版画入り大判美術誌『版画掌誌』を創刊したのは1999年です。
今まで5巻を出してきましたが、完売したのは第3号(草間彌生+パーヴェル・V・リュバルスキ)のみで、他の4巻はまだあります。
人生は短く、芸術は永し、といって亭主は強がっておりますが、ぜひご覧になってご注文ください。
ジョナス・メカスさんの特集を組んだのは第5号です。

◆特集1/ジョナス・メカス
フローズン・フィルム・フレームズ(静止した映画)と呼ぶ写真作品を紹介。
テキスト執筆
:ジョナス・メカス「わたしたちはどこにいるのか」
:ヴィートウタス・ランズベルギス「メカス マチューナス フルクサス」

◆特集2/日和崎尊夫
1992年50歳の若さで死去した日和崎尊夫の遺した木口木版画の秀作を紹介。
テキスト執筆
:谷川渥「星と薔薇」
:日和崎尊夫「ヨーロッパでの日々」(再録)

●仕様と価格
B4判変形(32.0×26.0cm) シルクスクリーン刷り
詳しくはホームページの版画掌誌第5号をクリックしてください。
ここでは、挿入されたメカスさんの写真と版画をご紹介します。

A版ーA : 限定15部 価格:126,000円 
ジョナス・メカスの写真「ジプシーの予言」とシルクスクリーン1点・日和崎尊夫の木口木版2点 計4点挿入
ジプシーの予言『the gypsy told me
the gypsy read it from the cards 
the gypsy told me
I'll have a big journey 
and I'll find myself 
beyond the sea』
制作:2005年
技法:写真
制作部数:限定15部(1/15〜15/15)
他に作家保存版(A.P.)を3部、版元保存版(H.C.)を2部制作した。
制作総部数は20部である。
イメージサイズ:24.5×12.5cm
シートサイズ :30.5×24.5cm
プリント:堀内カラー
作家自筆サイン、及び限定番号を記入、本誌・A版-Aにのみ挿入



A版ーB : 限定20部 価格:120,000円
ジョナス・メカスの写真「リキテンスタインのモデル」とシルクスクリーン1点・日和崎尊夫の木口木版2点 計4点挿入
リキテンスタインのモデル『Roy Lichtenstein’s model….
Filmed at Andy Warhol’s studio,
December 15,1976.From the film,
He Stands in a Desert Counting the
Seconds of His Life』
制作:2005年
技法:写真
制作部数:限定20部(1/20〜20/20)
他に作家保存版(A.P.)を3部、版元保存版(H.C.)を2部制作した。
制作総部数は25部である。
イメージサイズ:24.4×18.9cm
シートサイズ :30.5×24.5cm
プリント:堀内カラー
作家自筆サイン、及び限定番号を記入、本誌・A版-Bにのみ挿入 



B版 : 限定35部 価格:70,000円
ジョナス・メカスのシルクスクリーン1点・日和崎尊夫の木口木版2点 計3点挿入
わが街ニューヨークに捧げるラブ・レター『わが街ニューヨークに捧げるラブ・レター』
制作:2005年
技法:シルクスクリーン
制作部数:限定70部(1/70〜70/70)
他に作家保存版(A.P.)を5部、版元保存版(H.C.)を4部、
刷り師保存版(P.P.)を1部制作した。
制作総部数は80部である。
イメージサイズ:26.0×20.0cm
シートサイズ :32.0×51.5cm
用紙:BFKリーブ紙
刷り:石田了一工房・石田了一
作家自筆サイン、及び限定番号を記入、本誌・A版とB版に挿入



C版 : 限定300部 価格:10,000円
日和崎尊夫の木口木版1点挿入

201712_WARHOL



◆埼玉県立近代美術館の広報紙 ZOCALO の12月-1月号が発行され、次回の企画展「版画の景色 現代版画センターの軌跡」が特集されています。館内で無料配布しているほか、HPからもご覧いただけます。

●新刊書籍のご案内
安藤忠雄の奇跡安藤忠雄の奇跡 50の建築×50の証言
2017年11月
日経アーキテクチュア(編)
B5判、352ページ
価格:2,700円(税別) *送料:250円
亭主もインタビューを受け、1984年の版画制作始末を語りました。
ときの忘れもので扱っています。

国立新美術館で開催中の「安藤忠雄展―挑戦―」は20万人を突破、会期も残り僅かです(12月18日[月]まで)。
展覧会については「植田実のエッセイ」と「光嶋裕介のエッセイ」を、「番頭おだちのオープニング・レポート」と合わせ読みください。
ときの忘れものでは1984年以来の安藤忠雄の版画、ドローイング作品をいつでもご覧になれます。


●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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巨大地下空間でのウォーホル展

Today, we have suddenly received several inquiries from across the globe on HAGURI’s works. If you could inform us where you have heard or seen his works, we will be much appriciated.
(スタッフSから問い合わせ者への返信メールより)

昨日朝、出勤した大番頭おだちがパソコンをあけて見たものは、カナダから2件、オーストラリアから1件、フランスから1件、テキサスから1件、中国から1件合わせて6件の価格の問い合わせメールでした。
海外から一日数件の問い合わせがあるのは普通のことなので、どうということはないのですが、その内容が全て葉栗剛作品に関してなので驚いたようです。

I am interested in the prices of the wood carvings listed above by Takeshi Haguri, and how much shipping would be to Canada.

サンタフェ惨敗の責任を一身に負って大番頭は何も言わなかったのですが(言い訳になると思ったらしい)、実は現地での評判は掛値なく良く、マスコミの取材も多く、雑誌に掲載されたり、ラジオ出演までしたらしい。
その結果が何かのメディアに紹介されたのでしょう。
数時間のうちにあの巨大彫刻への価格問い合わせが6件も集中してあるのは尋常ではありません。冷やかしでないことは、ほぼ全員が詳しい住所まで書いていることでわかります。本気で買う気なのでしょう。
国内と違い、海外からの問い合わせでは3件に1件は成約しているので確率は高い!
落ち込んでいた大番頭の喜ぶまいことか。
こういうときの決断は亭主や社長なんかより数段早い。
ピコピコ携帯を鳴らして、代休をとっているスタッフSを叩きおこし、出勤を命じたのにはびっくりしました。亭主なんか休み中の社員に電話するなんてとてもおっかなくてできない。
眠い目をこすりながら出勤させられたスタッフSは休み返上で深夜まで海外とのやり取りに忙殺されたのでした(同情します)。
ネットサーフィンしてみると、私たちの知らないところで葉栗剛作品が掲載されていたり、驚いています。ネットの力はすごいですね。

http://beautifuldecay.com/2015/06/18/takeshi-haguri-sculpts-beautifully-detailed-tattooed-characters-traditional-japanese-art/
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

本日7月23日は亭主にとって忘れられない思い出の日です。
美術業界に入って約40年、大小さまざまな展覧会を企画し、さまざまな場所、会場で開催してきましたが、一番印象に残っているのが、今から32年前の1983年夏に栃木県宇都宮市大谷の屏風岩石材店(渡辺興平さん所有)の地下巨大空間で開催した「巨大地下空間とウォーホル展」です。
32年前の今日1983年7月23日がオープニングでした。
東京からも貸し切りバス数台を仕立て真夏の大谷に向かいました。
現代版画センター企画による「アンディ・ウォーホル全国展」の一環で、同年6月7日に渋谷パルコPart3で開催した全国展オープニングに続く大イベントでした。
外が36度の猛暑、会場の中は8度という「地下巨大空間」での展覧会でした。
img004_トリミング600
「巨大地下空間とウォーホル展」
会期:1983年7月24日〜8月20日
*オープニングは7月23日
会場:大谷町屏風岩アート・ポイント

img005_トリミング600
展示は数日前からスタッフが泊り込み、会場構成を担当した関根伸夫先生に指示のもと巨大な地下空間にウォーホル作品を多数展示しました。

img007_トリミング600
外気との温度差30度、そのため上空に霧がうずまく幻想的な会場となりました。

img006_トリミング600

(上掲の会場写真は村井修先生の撮影です)

日本発のウォーホルの版画作品「KIKU」「LOVE」を刷った石田了一さんがオープング当日の様子をビデオで撮影していてくれていました。
家庭用の機械ですから、今見るとピンボケではありますが、展示の様子、華やかなオープニング、船田中、大島清次、関根伸夫はじめ錚々たる人たちの挨拶。
記者発表での渡辺興平さん、亭主のスピーチも終わり頃に収録されています。
大反響を呼んだNHKニュースの映像も石田さんは収録しておいてくれたのですが、それはここでは掲載できませんが、貴重な映像です。


建築用石材としてブロックに代わられるまで、大谷石は江戸時代から職人たちの手で掘り続けられ、その採掘杭口が当時まだ百三十も残っていました。その中でも最も巨大な穴が渡辺興平さんの所有する屏風岩石材部の地下空間でした。
他の穴が縦杭しかないのに、渡辺家の所有する穴は太平洋戦争末期に軍部がこの穴の底に大本営を移す計画をたて突貫工事で斜坑を掘ってくれたおかげで地下100Mまでトラックが入れる、実に幻想的というか、古代ローマのカタコンベを連想させる地下空間でした。

渡辺家は船田家とともに作新学院をつくり、足尾鉱毒事件の田中正造をはじめ、孫文、室生犀星らを暖かく迎え入れた地元の旧家ですが、当時のご当主の渡辺興平さんと知人の紹介で知り合った亭主が、この巨大空間を何か文化的なものに使えないかと興平さんに相談されたのがそもそものきっかけでした。

このときのウォーホル展はNHKの夕方6時の全国ニュースにのり、全国から人が押し寄せ、関東バスは臨時便を出すわ、渡辺家は道路の整備はもちろん、仮設トイレの設置やら大騒ぎで、空前の大イベントとなりました。この展覧会がきっかけで、大谷石の地下が俄然注目され、映画の撮影や山海塾の公演、コンサートなどと波及していきます。
20150723_1500『Casa BRUTUS』2014年3月号
アンディ・ウォーホル特集
掲載された亭主の記事
(*画面を二度クリックして拡大してください)

19830723大谷ウォーホル展母と令子
左から社長、亭主の母、亭主。
親不孝な亭主でしたがこのときの展覧会には母も大谷まで来てくれ喜んでくれたようです。

19830723大谷ウォーホル展石田了一
ウォーホルのエディション「KIKU」「LOVE」連作を刷った刷り師の石田了一さんと亭主。
背後の巨大な石柱に展示されたマリリン像も石田さんが現場(大谷石の穴の中)でシルクスクリーンで刷りました。
1983年7月23日

ウォーホルと栗山豊を偲んで

本日2月22日はアンディ・ウォーホル(1987年没)と栗山豊(2001年没)の命日です。
史上最強のウォーホル・ウォッチャー栗山がウォーホルの命日に死んだことは以前にも書きました。
栗山の集めた膨大なウォーホル資料に助けられながら亭主が企画した「ウォーホル全国展」を渋谷パルコを皮切りに開催したのは1983年のことでした。
栗山資料の概要はそのときのカタログに掲載されています。
parco22栗山豊
栗山豊(左)
1983年6月7日
渋谷パルコ
「アンディ・ウォーホル全国展」オープニングにて


それから何年も経って、死の予感があったのかウォーホル資料を亭主に託して栗山は路上に倒れ、看取る人もないまま逝ってしまった。膨大なAW資料を受け取った亭主も老年を迎え、はてこれはいかにしたものかと思い煩うこのごろです。
(ときの忘れもので一部を展示したこともあります。)

昨年森美術館で大規模なウォーホル回顧展が開催され、立派なカタログが出版されましたが、謝辞をささげられた人々の中に「(故)栗山豊」とあります。栗山資料を参照した森美術館の学芸員の好意です。栗山にとっては何よりの供養でしょう。

過日、栗山の盟友で栗山亡き後の最強のウォーホルオタクの根本寿幸(ギャラリー360)が、「栗山からもらったテープが出てきたよ」と一巻のビデオテープを「栗山資料」に加えてくれた。
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クリックしてください。
貧乏な栗山がいかに執着をもってウォーホルを追いかけ続けたか、おわかりになるでしょう。

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テレビ局はこれらの映像を果たして記録しているだろうか、ましてやCMなど。
いずれ機会をつくって栗山テープの鑑賞(上映)会を開きましょう。

●ウォーホルについては森下泰輔さんのエッセイ「私のAndy Warhol体験」もお読みください。

●今日のお勧め作品は草間彌生です。
20150222_43_shoes草間彌生 Yayoi KUSAMA
《靴》
1984年
リトグラフ
イメージサイズ:31.2×40.7cm
シートサイズ:43.0×56.5cm
Ed.30 サインあり
※レゾネNo.43(阿部出版 2011年版)


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森下泰輔のエッセイ「私の Andy Warhol 体験」 第6回(最終回)

森下泰輔のエッセイ

私のAndy Warhol体験 - その6(最終回) 
A.W.がモデルの商業映画に見るA.W.現象からフィクションへBack Again


 映画は芸術として残された作品からの解釈のみならず、作家の死後、活動期の作家の人となり、少なくとも世間がいかに見ていたかの例証を提示しうる。また、その時代や作家登場の背景を時間的に空間的に把握できるという利点も有す。ともすれば抽象的なアートワールドというものが映画では描写しやすい。逆にアートワールドの発生が薄いエリアでは芸術家の映画は成立しにくいのである。日本では、戦前・戦中・戦後における藤田嗣治でさえ映画にはなっていない。あるいは岡本太郎や瀧口修造、吉原治良を主人公とした商業映画もない。そこはやはりアメリカである。

 アンディ・ウォーホルが大衆向け映画に登場する最初は、「DOORSドアーズ」(1991 アメリカ映画)であった。主演はヴァル・キルマー、監督はオリヴァー・ストーン。これはジム・モリソンを描いた作品だ。確かにジム・モリソンはザ・ドアーズのヴォーカリストだったが、べつにザ・ドアーズは彼だけのバンドではない。だから、このタイトルは厳密にいえば正しいとはいい難い。
 1966年、ザ・ドアーズはロサンゼルスのクラブで演奏する。ジムが「親父を殺せ、お袋を犯せ」などと歌ったために出入り禁止となる。だがエレクトラ・レコードのプロデューサーに気に入られ、レコーディングをすることになる。1967年、彼らはニューヨークで人気番組「エド・サリバン・ショー」に出演することになるが、放送禁止の歌詞を変更せずに歌ってしまう。この後、ジムとアンディ・ウォーホルとの出会いとファクトリーでのパーティー・シーンが登場する。
 現実の1967年、アンディ・ウォーホルは、依然シルヴァー・ファクトリーにいた。「自画像」シリーズのキャンバスを制作するものの、映画製作に主力を移していた時期だ。映画「ドアーズ」に登場するウォーホルは、得体のしれないどこか不気味な存在として描かれている。ヴェルヴェットの生演奏が響き渡るなかで行われるファクトリーのドラッグ・パーティーもどちらかといえば1965〜1966年初期あたりの雰囲気で描かれている。人々はいう。「アンディ・ウォーホル自体がアートだ」。彼のカリスマ性はまさにポップの司祭にふさわしい描かれ方だ。このあたりは事実だろう。ウォーホルが酩酊状態のジムに、「この電話は天国にかけられるそうだ。僕には神様は必要ないから君にあげるよ」というシーンは演出じみている。しかし、ここでのウォーホルの雰囲気こそ、東京で私が60年代後期に捉えていたウォーホルのイメージとぴたり重なる。ということは少なくとも1965年のアンディ・ウォーホルはニューヨークにとっても同様なイメージだったのだ。実際には1967年のアンディ・ウォーホルは少しビジネスライクになっていた。この期の彼を「POPism」から引用してみよう。

「その夏(*1967年8月)はずっとビートルズの「サージェント・ペパー」がはやっていた。そしてそのときは「サージェント・ペパー」のジャケット(*ミリタリースタイルの上着)が男の子たちのふつうの制服だった。(中略)ジム(*モリソン)は「ザ・シーン」で演奏するためちょうど街(*ニューヨーク)に来ており、ぼくらの映画「アイ、ア・マン」に出ることになっていた。」(アンディ・ウォーホル、パット・ハケット共著 高島平吾訳「POPism」リブロポート刊 1992(原著1980)P305 )

 ここでは、カリフォルニアのヒッピー文化がニューヨークにも影響を及ぼしていたこと、アンディがリムジンを借りるとヒッピーたちから体制的だと批判されたこと、ドアーズ「ライト・マイ・ファイアー(*邦題:ハートに火をつけて)」がそこここでなっていたこと、ニコがジム・モリソンとならウォーホル映画で共演してもいいといっていたこと、などが挙げられている。だが、結局、ジム・モリソンは「アイ、ア・マン」(*この映画にはあとに言及するヴァレリー・ソラナスも出演していた)には出演できなかった。ゆえに映画「ドアーズ」のアンディ・ウォーホルとの遭遇シーンはたぶんにフィクションであると思われる。

 ウォーホルをモデルにした映画は時代で分類できる。ビジネスアート以前なのか以後なのか、以前ではビジネスそのものがコンセプトになっていたが、以降ではそのまんまビジネスになっている、という形でアンディ・ウォーホルは描かれている。

「BASQUIAT」(1996年 監督ジュリアン・シュナーベル)を見てみよう。この映画の舞台、80年代が遠い過去に思える。情報化時代はウォーホルの当時よりさらに同時多発的に拡張をしている。ために時代が情報を消費するための演算速度が加速し、現在の1年は20年前よりも長くなっている。したがってウォーホルより最近なのにバスキア、ヘリングはもはや遠い伝説に思えるのだ。デヴィッド・ボウイがアンディ・ウォーホル役、スイスの画商ビショップベルガーに今は亡きデニス・ホッパー、ボウイはアンディを歌にし、「アンディ・ウォーホルは銀幕(シルヴァー・スクリーン *ウォーホルは鏡というのに等しい。中立的に時代を映していたという意味もあるのか)」と歌った。一方のホッパーは俳優の傍ら、アンディ以上にアメリカをカメラを通して表現してきた。バスキア役のジェフリー・ライトがカフェに入る2人を見かけ絵を売り込むその時の会話、「この絵は入念に描かれた絵じゃないから5$だね」(ウォーホル)。「じゃ、あんたの絵は入念に描いているのかい?」(J.M.バスキア)。なるほど。80年代NYのDJ文化も垣間見られる。まさにアート&サブカルチャーの時代。その記録(*シュナーベルという渦中の作家が監督なのも真実味がある)。
バスキアの友人がいう。「社交をして有名人と知り合いになれ、そして同じタイプの作品を作り続けろ。有名になったらまた同じ作品を作り続けるんだ」、「機械と闘うな」。このセリフでウォーホル的なアートの在り方もわかる。ポップ・アートが、何を変えたのかが明白だ。つまりエンタープライズの経営者的ものの考え方がアートの世界に導入されている。ニューヨーク画壇の攻防史、自ら登場するシュナーベルの作品世界も理解できる。それはラテン文化のニューヨークへの潜在影響について、とか、批評にさらされるすべてのアートとアートワールドについて描かれている。思ったのはこの時期、アンディ・ウォーホルというのは、公的なイメージは、あるいは本質は「ディズニーの外套を被ったアートのセールスマン」だったのかもしれないと思わせる。この80年代アートワールドに比べると60’sはまだ牧歌的だった。そのくらい時代は、アートシーンは殺伐としている。

 1996年にはもう一本の映画が作られている。「 I SHOT ANDY WARHOL アイ・ショット・アンディ・ウォーホル」(監督・脚本メアリー・ハロン)もアメリカ映画。アンディ・ウォーホルを銃撃して重傷を負わせ、またラディカルなフェミニズム宣言である“SCUM Manifesto”を提唱したヴァレリー・ソラナスの物語である。この映画のヘッドコピーはこうだ。「1968年6月3日、午後4時15分。不世出の天才アーティスト、アンディ・ウォーホルが撃たれた・・・・」。
 ソラナスは当時のヴィレッジによくいる過激な主張を持った女性だった。“SCUM=全男性撲殺団(Society for Cutting Up Men)”は、ほとんどソラナス一人の組織だ。「男性の劣性遺伝子」を徹底的に嫌悪している。極端なフェミニズム、ジェンダリズムの持ち主である。

「今や男性の助けなしに(さらに言うと女性の助けもなしに)生殖を行い、女だけを再生産することが技術的に可能になる。すぐにこれをはじめなければならない。男性というものを維持しておくのは、生殖という目的にとって必要かどうかもよくわからない。男性は生物学的には偶発事故である。Y(男性)遺伝子はできそこないのX(女性)遺伝子であり、できそこない染色体なのだ。いうならば、男性はできそこないの女性であり、歩く水子、遺伝子の段階で流産された者なのである。」(ヴァレリー・ソラナス “SCUM Manifesto”より 1968 )

 ソラナスは幼少の頃から性的虐待を受けて育ち、男性に恨みを抱く偏向した性格になった。アンディ・ウォーホルが映画製作をしていることを知ったソラナスは、自分の台本を見せるためファクトリーに接近する。ところがアンディはこの台本に興味はなく、受け取ったものの紛失してしまう。それを「自分が利用されている」と考えた彼女は、男性である(*といっても彼はゲイだったという説も存在する)アンディ・ウォーホル殺害計画を立てる、というものだ。1968年にはウォーホルはすでに伝説のシルヴァー・ファクトリーを引き払いユニオン・スクエア・ウェスト33番地にスタジオを移転していた。この映画は比較的忠実にソラナスの生い立ち、なぜウォーホルを射殺しようとしたかまでを丹念に描いている。現在、フェミニズム・アート、あるいはジェンダー・アートといわれるものは、80年代のカリフォルニア、90年代のロンドン(*たとえばトレーシー・エミンやサラ・ルーカス)を経て美術史の重要な一翼を担う概念となったが、60年代にはまだ黒人同様差別の対象になっていた。ソラナスも今日ではフェミニズム運動の先駆者と評価する向きもある。アンディ・ウォーホルのファクトリーというものがオープンハウス的で、来るものを拒まず、自由に出入りさせていたことの弊害のひとつだ。
「みんなは僕がファクトリーの連中を束ねているように思っているけど、実は僕のほうが彼らからインスピレーションをもらっているんだ」(アンディ・ウォーホル)という言葉からも分かるように、ウォーホルは、ファクトリーの人々や考え方も自分のアートにしていた。これなどもファクトリーの人々や現実の出来事(*単なるニュースソース)もロウ→ハイにする彼のハイアート製造法だろう。例の「生け花方式」でもある。それは当時、下手をすれば命を失いかねない大変な危険領域を綱渡りしていた結果だったと確認させる。

 2006年に公開された「ファクトリー・ガールFactory Girl 」(監督ジョージ・ヒッケンルーバー)は、アンディ役のガイ・ピアースがウォーホルに瓜二つというのもあり、イーディー・セジウィック(シエナ・ミラー)もよく雰囲気を出していてウォーホルものでは一番原像に近い気がする。
 物語は「60年代ひとりの人間に魅了された。それは恋愛に似た感情だったろう」というウォーホルの言葉で始まる。イーディー・セジウィックは富豪の娘、ニューヨーク1965年、ケンブリッジ美術学校在籍からわずか1年でNYのスターになった。A.W.の60'sのポジションがつぶさに再現されている。シルヴァー・ファクトリーも詳細に描かれる。当時、オックスフォード閥とケンブリッジ閥が存在したNYアート社交界、これが発展してアートワールドとなる。イーディー・セジウィックはギルバート&ジョージに先行するアンディ・ウォーホルのリヴィング・スカルプチャー(生きた彫刻)だった。彼女はそれを望んでいたが画廊デビューはできなかった。女性差別的な当時のアート界で無垢なものが犠牲になった。現在のアートシーンはその反省に立っているともいえるだろう。当時はアヴァンギャルドがシリアスとポップに分離中だった。有名なインタビューの再現シーンも登場する。当時のA.W.の考えが、考えというより、アートに向かう態度がよくわかる。イーディーはボブ・ディランとも接触があり(*映画では盛り上げるために恋愛仕立てにしてあるが、どこまで本当か分からない)、ファクトリーでのウォーホルとディランの邂逅などがハイライトだ。当時ファクトリーの公認カメラマンだったナット・フィンケルスタインによれば、「ニューヨークのアンダーグラウンドを2分するゲルフス組とギベラインズ組みたいなもの」だった両者は出会うのだが、ディランはこの時はウォーホルを認めていなかった。1965年のニューヨーク・シーンというのは20世紀後半の芸術が生成される場として特別な位置にあり、機会があればより深く掘り下げて語ってみたいと思う。
 ウォーホルの60年代を研究して忠実に再現されている。結局は生死というシェイクスピア的で重厚な主題にとらわれており、ファクトリーへの批判・不満も描かれている。一筋縄ではいかないところにアンディが存在していたことがよくわかる。60'sを証言集合的に再現したものだといえよう。
 ボブ・ディランはこの作品の中で、自身がイーディー・セジウィック堕落の原因にあたるような描写がされているとして公開中止を訴えたが、公開された。その後、ディランの名前がビリー・クィンという架空の名前に変えられた。

 あとは、「オースティン・パワーズ Austin Powers: International Man of Mystery」 (1997)やウォーホルは宇宙人だったという「Men in blackメン・イン・ブラック3」(2012)にも登場するがコメディの扱いなので割愛する。

 ウォーホルを語るとき、必ず「ウォーホルとは誰か」と問われてきた。メディア上の彼はアーティストというより映画スターやロックスターのように扱われたが、それこそ彼が操作し望んだものだったのではないか。旧来彼の全貌をつかまえようとしても、つねにパラドックスにつきまとわれ、その像はまた反転してしまう。だが、アンディ・ウォーホルはいまや間違いなく美術史上の作家となり存在している。ウォーホルが何をなしたのか、はより未来にならなければ明確化されないのかもしれない。いえることは彼は「アート」というものに対して決して否定的には対処してこなかった、ということだ。それがデュシャンとは異なる点である。やはり「アートワールド」に接合しなければ彼は存在できなかった。むしろアートや芸術というものを口実にしていた何者か、という気さえしてくる。つまり、今日いうところの「アートワールド」こそ、現代美術の存在意義を問うべき最重要の場所だといえるのである。今もこの「芸術、思想の流通フィールド」はフル回転している。そして、アンディ・ウォーホルと自身が虚構に過ぎなかったというアートが存在したのは、芸術の定義をめぐり人生を巻き込んで回転しているそのような幾多の「時代の渦」の只中であった。彼のアートが虚か実かは別にして、ウォーホルの生きた時代(*その時代が彼をつくりだした。レゾンデートルを問われ続けた激しい時代であった。美術史のみの平坦な解釈ではマニュアルのようにフラット化されている。この時代潮流も同時に捉えなければA.W.出現の謎を解くことはできない)を伴い長く語りつがれることだろう。(敬称略)
もりした たいすけ
終り

バスキア600
「BASQUIAT」監督:ジュリアン・シュナーベル 発売元:パイオニアLDC


I SOOT ANDY WARHOL600
「I SHOT ANDY WARHOLアイ・ショット・アンディ・ウォーホル」監督・脚本:メアリー・ハロン 発売元:20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

ファクトリーガール600
「Factory Girl ファクトリー・ガール」監督:ジョージ・ヒッケンルーバー 発売元:エイベックス・ピクチャーズ

Warhol&Dylan600
シルヴァー・ファクトリーでのアンディ・ウォーホルとボブ・ディラン(ゼラチン・シルヴァー・プリント1965)撮影:ナット・フィンケルスタイン(筆者蔵)

ソラナス・レター600
ヴァレリー・ソラナス直筆レター(1980年代)。ローマから投函されている。SCUMマニフェストについても触れらている。(筆者蔵)


■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。先日、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

*画廊亭主敬白
森下泰輔さんが半年間にわたり、ご自身の体験をもとにウォーホルとその時代を詳細に論じてくれた連載が完結しました。
森下さん、ご苦労さまでした。
ウォーホルについては、故・栗山豊に託された膨大な資料がときの忘れものに残されており、亭主が元気なうちにその始末もつけなければなりません。森下さんたちの協力を得て、新たな企画に取り組みたいと考えております。
画廊は「第25回 瑛九展 瑛九と久保貞次郎」を開催中で、28日まで無休で営業しています。

ところで亭主の故郷群馬の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が正式に世界遺産に登録されたました。
以前それに関連しての余話をこのブログで書きましたが、故郷の人々も喜んでいるに違いない。おめでとう。

森下泰輔のエッセイ「私の Andy Warhol 体験」 第5回

森下泰輔のエッセイ

「私のAndy Warhol体験 - その5 アンディ・ウォーホル365日展、1983年まで」


アンディ・ウォーホルは60年代、自己というものを消去する重要ないくつかの行為を行っている。そのひとつは、ジョン・ドゥ (*山田太郎といった匿名的名称。「訴訟で実名不明のときに付ける当事者(原告)の男性の仮名:並みの人」) への改名だ。これなどもデュシャンの「ローズ・セラヴィ」と比較される。しかし、ほどなく戻した。ちなみに私が80年代に制作し、現在ドイツのメディア・アート美術館、ZKMに収蔵されている非常階段、ホワイト・ホスピタルに協力を仰いだ全編ノイズまみれの映像作品「Jane Doe 66」(1989)は、また、ジョン・ドゥ的概念で制作された。元来、米国では身元不明死体にもこの名称を用いている。男性はジョン・ドゥ、女性がジェーン・ドゥである。私は当時起こったロス疑惑において砂漠で発見された身元不明死体がジェーン・ドゥとあったことからこのビデオ作品を作った。
また70年代「マンガNo.1」という大赤字を出した自主制作マンガ雑誌を発刊した漫画家の赤塚不二夫は、一時「山田一郎(太郎ではなく一郎というのがミソ。*そもそも日本には山田太郎という名前の歌手がすでに存在したせいか)」に改名したが、「ああ、ウォーホルの影響だな」と思ったことも付け加えておく。赤塚は生前、アンディ・ウォーホルについて、「僕らの時代の孤独を知っている男だ」とコメントしている(*私はかつて赤塚不二夫の漫画担当編集者だったこともあった)。

「60年代はアンディ・ワーホールと呼んでいたのが、いつの間にかアンディ・ウォーホルに変った。彼は一度「山田太郎」みたいなティピカルな名に改名したことがあったが、また元にもどした。匿名になりたかったんだろう。」(横尾忠則)

さらに、60年代、アラン・ミジェット(*小人という意味もある)というソックリさんを雇い、ウォーホル自身の影武者にして、大学の講演会にいかせたこともあった。誰一人本物のアンディを疑う者はいなかった。サインを求められれば「A.M.」と書く。「A.W.」というアンディのイニシアルのサインと区別がつかなかったという。フォーク歌手、ボブ・ディランの英国ツアー・ドキュメント映画「Don’t Look Back」(1965)にもこんなシーンがある。ディランがツアーでのあまりのブーイングに耐え兼ね、「別のボブ・ディランを雇って、そいつにやらせる」というのだ。60年代とは、自己というもの、あるいはメディアのイメージというものに関して疑義を呈した時期でもあった。あのポール・ゴーギャンの有名な作品「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのかD'ou venons-nous ? Que sommes-nous ? Ou allons-nous ?」(1897〜1898)のような自己同一性に対する見解がさまざまなところに存在した時代だったのである。ウォーホルのアノニマスへの興味と言及もそんな背景と関係していた。

「僕の絵はシルクスクリーンで簡単に作れる。みんなが僕の絵を作るようになったらいいのに」「僕はみんなが同じ顔、同じ名前だったらいいと思う。そうすれば差別はなくなるから」(アンディ・ウォーホル)

 しかしながら一方で、このことに関連してまだいくつかの事柄がある。たとえば、ウォーホルは自己同一性の否定のような禅問答を語っているかと思いきや、他方では、彼の言葉通りにマリリンのシリーズを制作しようとしたドイツ人とベルギー人の若い2人組に対し、はじめはヨーロッパ・エディション版のマリリン・シリーズを許可しながらも途中で拒否したらしい。彼らは、サンデー・B・モーニングと名乗り、ファクトリー・エディションのマリリン・モンロー・シリーズと全く同じ作品を量産した。裏面には「Fill in your own signature」とあり、作者はサインをした人、という、むしろウォーホル流のイロニーに満ちていた(この経緯については諸説あるのも間違いないが)。だが、このシリーズに、「This is not by me」とアンディ・ウォーホルが書いたものがあり、私はその証拠といえるものを入手している(*画像参照。この件はウォーホルのプリント・カタログ・レゾネ「Andy Warhol Prints フェルドマン&シェルマン版」にも注釈として掲載されている)。思うに60年代に提示したシリアス・アート時代の概念を70年代になって「ビジネス・アート」に変節したウォーホルは反故にしてしまった感が強い。ビジネス・アーティストになったウォーホルは、作者性・ブランド性を主張せざるを得なくなったのだと考えられる。そこが、アンディ・ウォーホルの概念の、またはアートというものの限界点でもあった。

もうひとつ、アンディ・ウォーホルは今日いうところの「アートワールド」の発生に深くかかわっているように思える。きらきらとしたアートのパラダイス、幻想の共同体。これはウォーホルが発明したひとつの成果だろう。365日アートで都市がきらきらわくわくしている。現在のアートワールドはロンドン、ニューヨークはもちろん香港、北京、上海、ソウル、シンガポール、ドバイを巻き込みきらきら人工的なまばゆい光を放ち続けている。だが、なぜか東京はそこからボイコットされているようだ。東京は美術館企画主導型の古い美術界のままで、ますます自国内で閉塞していくようにも見える。海外が注目するのはポップ・カルチャー(*海外からはオタクカルチャーは単にジャパニーズ・ポップ・カルチャーと呼ばれる)だけだが、日本のポップ・アートではないようだ(*村上隆が奮闘しているにせよ)。
それはこの国が想像以上に伝統的なファンタズマ(幻影)を独自に根深く内部に抱え込んでしまっているせいもあるかと思われる。

大きくいうと哲学者、アーサー・ダントーがその評論「アートワールド(1964)」で指摘していたとおり、ウォーホルを解釈するのにアートワールドが必要だということだ。アンディ・ウォーホルの60年代とは今日でいうところのアートワールドが発生した最初の契機となった。現代アーティスト、美術館キュレーター、コレクター、ギャラリスト、アート・ジャーナリスト、アート関係者、カメラマン、ダンサーや演劇人、ロックスター、モデル、ハリウッドスターなどのセレブリティ、映画監督、ビートニク、ヒッピー、ジャンキー。これらが入り交じって華やかなアートワールドを形成していた。ウォーホルが記録しているのは芸術の中身に関してというより、こうした人々の生態であるともいえる。というより彼らの生態そのものがアンディのアート作品でもあった。そして、まるで株式市況のニュースのように皆が次のアートスターを求めて夜通し何らかの話題を提供している。ダントーは「アートワールドがなければウォーホルの作品は存在できなかった」といったが、確かに彼こそアートワールドが作った最初の美術家だったのかもしれない。
ウォーホルの自伝「POPism」(アンディ・ウォーホル、パット・ハケット著 A Harvest刊 1980)を読んで、驚くことのひとつはまだアーティスト・デビューしたての無名時代、63年にすでにマルセル・デュシャンやデビュー直前のミック・ジャガーやストーンズと親しかったということだ。ストーンズがレコードを発売する前である。このときミック・ジャガーはまだロンドン経済大学(London School of Economics)在学中だった。それどころかメトロポリタン美術館の大物キュレーター、ヘンリー・ゲルツァーラーや当時レオ・キャステリ・ギャラリー(*私はNYでキャステリに2度、東京で1度会ったが)にいたアイヴァン・カープとも親しかった。つまりアートワールドは初めからウォーホルを受け入れていたのだ。彼が有名になってから人脈ができたのではなくて、人脈があったので偉大な芸術家になれたのである。これは美術とは人脈である、ということを分かりやすく物語っている。そして初期ウォーホルの目標は「ピカソが僕を認識すること」だった。彼がピカソを尊敬していたのは作品の内容ではなく、「作品の数がべらぼうに多いから」。なるほどと思う。ここでもウォーホルは発想の転換をしている。それでシルクスクリーンを使用し数時間で1枚キャンバスが仕上がるような方法論をとり、膨大な作品の”生産”に入った。彼にとってはアートワールドという外部にできるだけたくさんの作品を提供する、その際、作品の内容は退屈なほうがいい、まるでテレビからくるイメージのように、そのような戦略だったわけで、この概念は最大の皮肉を含みながら正確に実行された。なぜその辺に転がっているできるだけ退屈なイメージを使用したのかというと、クリシェ(陳腐)なイメージは人々には空気みたいなもので実は見えないからなのだ。イメージがあるのだけれども、当時モダン絵画からミニマルに至った道程を彼は意識していたとしか思えない。つまりイメージを意図的にできるだけ消去し、ミニマルの概念を使用する、キャンバスの“端”を見せる効果をそこにもたらすためだと思われる。メディアのイメージ(たぶんインターネットも)が幽霊(ファンタズマ)であることを証明し、自らも幽霊となった。仕上げはアートワールドという幻影のなかで自らの幻影がもてはやされ、作品が高額になることだった。彼の作品は現在100億をゆうに超えるので、見事にやってのけたのだ。あっぱれとしかいいようがない。このこと自体がひとつのバカバカしいイロニーに見えるように意図的にそれは行われた。なんということだろう。ここまでやられるとこの方法論は二度とつかえない。永久欠番だ。次代のアーティストはこれを模倣せずにこれを乗り超えなければならない。さて、難問だ。もちろんレディメイド・イメージで構わなくなったのには先人デュシャンの存在があったわけで、ウォーホルはそれもたくみに利用している。初期にデュシャンを撮影するのだが、彼の脳裏にあったのは「デュシャンはすごいけど、もう老人だ。僕の方が新しい世代なのだ」という自覚だった。

さて、話を日本におけるウォーホル受容史に戻そう。先日、森美術館で1983年、「アンディ・ウォーホル365日展(*アンディ・ウォーホル展 1983〜1984)」の際のジャパン・エディション「KIKU」の誕生物語に関する講演があり、私も聞きに行った。本ブログの管理者、「ときの忘れもの」亭主(綿貫不二夫)も登壇していた。摺師・石田了一が当時ビデオ撮影したウォーホルやスタジオ風景は貴重なものだし、興味深く拝見させていただいた。この講演の内容やこの時のことに関しては、ご当人たちがより詳しく述べると思うので、ここでは少し印象に残ったことを書いてみることにする。
まず、この企画を持ち込んできたのが、1974年の大丸個展時もかかわった映像作家の宮井陸郎だったことについて。「大丸の時は話題にはなったが、まだ、ウォーホルは日本で本格的には評価されなかった。今回は、ウォーホルの真のすごさを日本に定着させたい」(宮井)というのが動機だったという点において、日本でのアンディ・ウォーホル評価が想像以上に立ち遅れていた感は否めないものがある。いまでこそ彼の美術史での評価はともすればピカソを超えている(*一例として。金融経済通信社ブルームバーグによると、オークションでのウォーホル作品の売上総額は2012年で3億8030万ドル(約387億円)に上り、パブロ・ピカソを抜いてトップだった )が、当時は日本ではスキャンダラスな色物扱いであった。ウォーホル自身も「あらゆる世界の流行がたちまち日本に取り入れられるのに、現代美術だけがどうして流行らないのだろう」といっていたという。この状況はある意味、現在まで尾を引いている。原因はいろいろあるだろうが、ここでは枚挙にいとまはない。
もう一つ講演で印象に残ったことは、はじめ、ウォーホル日本エディションの画題候補が、「長嶋茂雄、美空ひばり、山口百恵、富士山だった」(GALLERY 360°ディレクター、根本寿幸)という話。この時のカタログに東野芳明、日向あき子、寺山修司、石岡瑛子らにまじり私も執筆させていただいたが、次のように書いていた。「世田谷の大宅文庫では、著名人の週刊誌上での露出頻度をリストアップしている。今のところナンバー・ワンは田中角栄、2番目が長嶋茂雄だ。初期のA.W.はこれと似た方法を用い、映画スターや、ごくありふれた洗剤の箱をモチーフにしている。(中略)ビートルズ同様に社会現象になったA.W.は、今度は自らがメディアのキーステーションとなって、マスイメージの仕掛け人の側に回った」と。つまり、同様のプランを展覧会実行委員会側が立案していたのだ。エルビス、マリリンなどの肖像をシルクスクリーン・プリントして登場した彼にしてみれば当然の提案だったろう。だが、ウォーホルはこれらを却下したのか、最終的に菊と桜から菊の写真を選択した。「菊は日本の象徴(天皇)だから」とアンディ・ウォーホルが誰かにいっていたという噂もある。ならば彼らしい持って行き方だと心得る。大阪万博のときの「レイン・マシン」でひな菊をモチーフにしたが、水に濡れてダメになり本懐を遂げられなかったことへのリベンジだった可能性もあるだろう。彼がもうこの世に存在しないことから真意は特定できないままである。

この図録中で記憶に残った言葉を引用しよう。

「ウォーホール(*ママ)、15分四方に花を活け Warhol arranges a Flower in fifteen square minutes.」(ガリバー・安土修三)

74年、大丸個展の時にウォーホルは「いけばな」シリーズ全10点をエディションしたがその評価は芳しくなかった。だが、この「いけばな」という概念はアンディの作品観に極めて近いのではないか? しいていうなら「人間生け花」もしくは「物事の生け花」、が彼の作品だとしたら納得がいく。彼はみんなが知っている「人」「こと」「もの」を「生け花」にしていたのである。ここでもアンディ・ウォーホルは間違いなく日本的な感覚を使用していたのだ。
あとは、日本のTDKのTVコマーシャルにアンディ・ウォーホルが出演したことや、サントネージュ・ワインのカレンダーのためにアンディが坂本龍一をモデルに3作品(*この作品は新宿西口の三菱銀行ショーウィンドウに展示され、私はそのとき見にいっている。そのカレンダーも入手している)を受注制作したことなどはいずれも1983年に集中して起こっており、このことが「365日展」がらみであったことなども講演会で興味深く拝聴した。1987年2月22日にウォーホルは半ば医療ミス同然で急逝したので、この期にジャパン・エディションを成し遂げたことは、本当に大変なご苦労だっただろうが偉業だったと思う。

「僕の墓には何も書かないのがいいと前から考えていた。墓碑銘も名前も。まあ、僕としてはこういいたいんだ。みんな“虚構”でしたと」「死んだらぱっと消えてなくなったらいいと思う」「もし生まれ変われるものならエリザベス・テイラーの指輪になりたい」(アンディ・ウォーホル)

(敬称略)
もりしたたいすけ
続く

jane doe66
森下泰輔映像作品「Jane Doe 66」(1989)

サンデーbモーニング
サンデー・B・モーニング版「マリリン・モンロー」(筆者蔵)

this is not by me
裏面に「This is not by me. Andy Warhol」と書かれたサンデー・B・モーニング版(1970年代)

Claudes_show_
「Claude Pelieu Show」に出演したアラン・ミジェット(左)

渋谷パルコオープニング1983
「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」パルコでのオープニング(1983)

菊を刷る石田了一
菊を刷る石田了一(1983)

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。先日、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

中谷芙二子「ウォーホル 東京の夜と朝 」(再録)

「ウォーホル 東京の夜と朝」
中谷芙二子


(草月・一九七五年二月号より再録)

 マリリン・モンロー毛沢東、ニクソン、ジャッキー・ケネディ、リズ・テーラー、ローシェンバーグなど、多くのスター、芸術家、政治家の肖像画を描いたアンディ・ウォーホルが、彼の日本での個展で最新作「いけばな」シリーズ一〇点を披露したことは、昨秋の美術界でもちょっとした話題になった。そのアンディ・ウォーホルが、今度は勅使河原蒼風氏の肖像画を描きたいというのである。
 さっそく勅使河原霞さんにお願いし、来日したウォーホルと蒼風さんの顔合せの席をもうけていただいた。この現代芸術の巨匠お二人の出逢いを機会に幾多の伝説につつまれたアーティスト・ウォーホルの知られざる側面、日常を垣間見てみよう。
 目だたないサファリ・カットの黒っぽい上着に、細かい水玉模様の細めのネクタイ。絵具のついた靴だけが控え目に絵描きを主張している。髪は真白、眉毛も真白。一九二八年生まれとも三二年生まれともいう。「僕はいつも神秘なままでいたい。自分の生い立ちは話したくない。だからいつも聞かれるたびに違った答えをするのだ。」
 しかし現実の彼はシンプルそのもの。多弁ではないが、実に率直に見たこと感じたことをことばにする。彼はシンプルでありたいと願う。そして「機械になりたい」とさえいう。機械は人間より問題が少ないという単純な発想からなのだ。しかし、このことばが現代芸術の個性神話を解体してしまうのである。彼の魔力はこのシンプルの構造にある。禅がひとつの論理ならば、彼の短絡回路もそれに近いものだろう。時には禅問答のように、こちらが気張れば肩透しを食う。
 「日本では僕がイエスと答えるのをみんなが期待するから、僕はイエスと答える。そうするとボブ(ウォーホルのインタビュー・マガジン編集長)がアンディが“イエス”というのはこういう意味だと説明してくれる。このシステムは悪くないから、これからも使おうかな」と、気が向けば自分の言動のカラクリまでも気安く話してくれる。
「日本のシンプルなところ、日本人のシンプルな考え方、こなし方が好きだ」と彼はいう。箒を片手に長い柄つきの塵取りで、いとも簡単に、それゆえにほとんどエレガントに道端のごみを拾っている清掃夫を見かけて、「ニューヨークでもあれをすべきだ。そうすれば町がきれいになる。」そして「ここでは人びとがまだまだ働こうという気になっている。ニューヨークの人たちは、もう誰も何もしたがらない。」ともいう。
 “シラケの王子”と呼ばれたウォーホル。しかし本当にシラケた人がこんなことをいうだろうか。
 新橋の料亭“K”へ着くと、もう蒼風さん、奥様、霞さんがお待ち兼ねだった。ウォーホルは手みやげに持参したマン・レイの肖像画のポスターを「あとでサインしましょう」といって手渡す。お酒が運ばれ、早速「いけばな」の話になる。「いけばなに興味をもたれた動機は」との蒼風さんの問に、「ビューティフルだから」とひとこと。
 本当にそれ以外に意味はないのである。彼の題材は、彼の選択以前にすでに選ばれている。人びとによって、事実によって。日本人のあらゆる階層の生活の中で、いつもスターの座を失わずにいるのは「いけばな」なのだ。“いつも床の間という最上の場を与えられているではないか”ととぼけて答えるウォーホルの声が聞こえそうだ。彼はただ、その単純な事実を表面化しただけに過ぎないのだろう。彼は自分を媒体(メディア)と思っているのだから。
「日本のどこが気に入りましたか」とい蒼風さんの問に、ウォーホルは少し考える風だった。「お寺を訪ねると必ず菊があって、懸崖の菊が素晴しかった。特に僕は白い菊が好きでした。」
 つぎつぎに運ばれてくる美しいお料理に、ウォーホルは素朴に感動し、器の美も見逃さない。「すべての人がアーティストだ」と感じ入る。中でも最も美事な生造り(いけづくり)の大皿が運ばれると「これは芸術だから食べられない」と真顔になる。実は彼はナマの魚だけは好きではないのだと、隣りに座った編集長が教えてくれる。
 勅使河原宏氏が出席できなかったことを残念がり、「あれ程よい映画を作ったグレート・フィルム・メーカーなのに、もうやめてしまったのですか。“砂の女”はニューヨークでもヨーロッパでも大成功だったのに。また作るのでしょうね」と熱心に問う。
 新しい草月会館完成の折には、現代美術の展示会場ができることを蒼風さんから聞いて、ウォーホルは大変喜んだ。そして「あらゆる世界の流行が忽ち日本にとり入れられるのに、現代美術だけがどうして日本で流行らないのだろう。」と不思議がる。
 二人展の提案がでると、話ははずんだ。ウォーホルも蒼風さんも、是非とも実現させたいと協力を約束し合う。ニューヨークのメトロポリタン美術館で蒼風さんの個展ができたら素晴しい。お手伝いしましょう、とも彼はいった。
 日本料理は本当に好きらしい。ほとんど全部平らげてしまう。石焼ステーキを神戸で食べ、その石の保温の妙に感心したという。最近はロングアイランドのモントークの別荘で夏を過ごすことが多いが、来夏は石焼きを試すのだと嬉しそうに話す。焚火のあと、どうしていつまでも温もりが残るのか、と子供心に不思議に思っていたという。
 本当に無垢(ナイーヴ)な人なのだ。すべてを受け入れシンプルに徹することによって禅の修業をしてしまったような人なのだろう。十九年前に日本を訪れて以来、いつも日本風になろうと努力していると来日のことばの中でも語っている。
 地唄舞が披露された。「黒髪」である。“扇子を落した瞬間のえもいわれぬ美しさ”をウォーホルは静かに語る。蒼風さんがそれを、一瞬忘我(無の境地)に入った“恋う心”と説明されると、「ビューティフル」。彼のお得意のことばだ。
 芸者さんがタバコの薄紙をこよりにしてバレリーナを、チリ紙を結んで松茸を作る。「誰も彼もみんなアーティストだ。みんな映画に撮るべきだ」と何度も繰り返す。彼の一五〇篇にものぼる映画作品の多くは、こうした現実の在るがままの姿を映し撮ったものである。
 「初めて日本へ来たとき竜安寺の石庭を見て、そこからヒントを得て“エンパイア”など一連の作品を作ったのです。」
 “エンパイア”と題された映画は、ニューヨーク摩天楼のスター、エンパイア・ステート・ビルを、日没から明け方まで、延々八時間、据えっぱなしのカメラで撮った作品である。台本があって演出をするという映画の一般通念どころか、映画は動くもの、という基本概念の土台までも裏返しにしてしまった現代映画史上の試金石といわれる作品である。
 余興がひと通り終ると、ウォーホルは「今度は僕がアートをする番だ」といって立ち上り、白い襖をバックに蒼風さんの顔写真を撮り始める。メガネをかけた顔、はずした顔、手にポーズをつけたもの。蒼風さんの写真嫌いは有名だが、ウォーホルはなかなか出来栄えをよしとしない。肖像画を描くとき、普通一〇〇枚ぐらいのカラー・ポラロイド写真を撮るという。カメラの色調を調節しながら四〇枚ほど撮る。次は霞さんである。前夜ほとんど徹夜で草月展のいけこみをされていたはずなのに、疲れの片鱗も見せない。素晴しい写真が次々とポラロイドから出てくる。一枚できるごとにウォーホルは、じっくりと手にとって見、考え、微妙な調整をしながら再びシャッターを切る。
 晩餐のあと、青山のクラブに立寄った。ナイトクラブはあまり好まず、家で寝ていた方がいいといっていたウォーホルだが、お花でいっぱいのこのクラブは大いに気に入って「ニューヨークへ帰ったらフラワー・クラブを開こう。グッド・アイディアだ」と喜ぶ。
 九州旅行や草月展でお疲れの蒼風さんは、途中でそっと席を立たれた。蒼風さんがお帰りになったことに気づいたウォーホルは、「日本へ来て今夜が一番楽しかった。お礼を言いたかったのに」と残念がった。「座を白けさせては、と気遣われたのでしょう」と説明する。彼はゆっくり頷き「僕もいつもそうするんだ」。アンディはよくパーティに出かけるが、いつも片隅に座って何も語らず、いつの間にか消えてしまうという伝説がある。その晩、彼は人を見ているのが好きなんだといってなかなか帰ろうとしなかった。
 翌日昼の出発をひかえて、是非草月展を見たいというので、朝八時すぎ、霞さんが会場へご案内する。朝のいけ替えの最中だった。ウォーホルはひとつひとつをゆっくり見て廻りながら「ビューティフル」を連発する。「古都」の書が描かれた蒼風さんの金屏風に特に感銘し、宏さんのつぼ、霞さんの大作にみとれながら「なんと才能に恵まれた一家だろう。彼らにはファミリーがあるのか」と、まるで天才は一代で終わるのが世の常なのだとでもいいたげであった。
 いけている人ひとりひとりに、目で敬意を表しながら次へと進む。「あなたの芸術と共通するところがあるのでは」との質問に、「どんなアーティストがこれまで試みたよりも、もっと素晴しい“生きた彫刻”だ」と答える。彼は、いけられた花ばかりでなく、いける人、そしていける作業を通して自然と対話する人びとの心を、ひとつの“生きた彫刻”として飽かず眺めていたのに違いない。
なかや ふじこ

*画廊亭主敬白
ウォーホルを同時代的には知らない、亭主が30年前何をしたかも知らない、そんなスタッフSの昨日のレポートはなぜか好評で、アクセスも多かったようです。
森美術館で開催中のウォーホル展の関連イベントで、大丸展から9年後の1983年に亭主がエディションした「KIKU」シリーズについておしゃべりしました。おかげで昔(30年前)の記録を引っ張り出したりしていろいろ思い出すことになりました。
亭主が主宰していた現代版画センター企画「アンディ・ウォーホル全国展 1983-84」について、このブログでも少しづつ紹介しましょう。(乞うご期待、といきたのですが・・・・・)
上掲の中谷さんの文章は、1975年に『草月』誌に掲載され、1983年に亭主が刊行した「アンディ・ウォーホル全国展 1983-84」カタログにも再録させていただいたものです。今回あらためて著者のご許可をいただき掲載させていただきました。

1974年の東京・神戸の大丸での大展覧会から40年、ウォーホルと交友した人たちもだんだん少なくなってきました。
ウォーホルと親しく、今も世界各地で「霧の彫刻」を展開している中谷芙二子さんは、1938年札幌に生まれ、1970年大阪万博で「霧の彫刻」を発表。以来多くの人工霧を使った環境作品やモニュメントを発表し、音楽家、舞踏家と霧を使ったコラボレーションを行っています。
またビデオギャラリーSCANを主宰し、日本におけるビデオアートのパイオニアとして活躍してきました。1993年には吉田五十八賞特別賞を受賞しています。

◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル〜氏コレクションより」を開催しています(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

本日のウォーホル語録

<肖像画にとりかかるときは、まず、その人物に薄化粧をする。そうすると、その人の日焼けとか何かを隠せるんだ。メイク・アップは単に日焼けを隠すため。それからポラロイド写真を撮る。ポラロイドは、顔のしわを省いてくれ、顔をある意味で単純化する。少なくとも5巻のフィルムを使う。そうするべきではないのかもしれない。一枚だけにしとくべきなのかも。名カメラマンは、2、3ショット撮るだけだ。それでこそ優れていると言える。ぼくは何枚も撮る。これもことの全体の一パート(一部)だから。人々は期待している。どんなに照明が明るくて、フラッシュをたいて、キツかろうが、彼らはそれが好きだ。ぼくはみんながすばらしく見えるように努力を払う。何人かはそのことでぼくを悩ませるけれども。「いったいぼくの大きな鼻はどこへ行った?」とか何とか言って。もしそうしたければ、彼らの望むように戻してあげるけれど。
―アンディ・ウォーホル>


4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催していますが、亭主が企画し1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介します。

スタッフSの「森美術館ウォーホル展 スペシャルトーク」レポート

スタッフSの「森美術館ウォーホル展 スペシャルトーク」レポート

スタッフSこと新澤です。
5月6日まで森美術館で開催されている「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」、その関連プログラムであるスペシャルトーク「日本で制作されたウォーホル作品:《Kiku》をめぐる物語」に参加してきました。
talk_01
2014年4月19日
森ビル3Fのチケットカウンターにて。
社長と「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」看板。

現在ときの忘れものでも「わが友ウォーホル〜X氏コレクションより」と題してウォーホルの《毛沢東》、《マリリン》、《Kiku 2》、を展示していますが、相変わらずの勉強不足の悲しさよ、"Kiku"と"Love"が日本で刷られたことに驚き、亭主がエディションに関わっていたことに更に驚きと、物知らずっぷりを遺憾なく発揮させられた夜でありました。
talk_02森ビル52Fからの展望風景。
こうして見ると東京タワーがかなり近くて驚きました。

talk_03左からギャラリー360°ディレクターの根本寿幸さん、ときの忘れもの亭主こと綿貫不二夫、摺師にして石田了一工房代表の石田了一さん。

日本産のウォーホル作品の由来ですが、そもそものきっかけは1974年10月大丸で行われた大個展。反響こそ大きかったものの、実は美術業界からは全く相手にされていなかった。驚いたことに60〜70年代の日本の画廊はウォーホルの取り扱いに軒並みそっぽを向いたそうで、結局日本での初個展は1971年、渋谷の西武デパートで行われるという、ちょっと今では考えられない事態でした。80年代になっても変わらず、で、そんな状況にリベンジを企てたのが74年大丸の「アンディ・ウォーホル大回顧展」プロデューサー安斎慶子さんの助手だった宮井陸郎さん。宮井陸郎さんが当時亭主が主宰していた「現代版画センター」に話を持ち込んだのが始まりでした。
この頃は丁度(というよりは狙ってのことでしょうが)ウォーホルが精力的に作品制作(神話シリーズ等)を行っており、これに合わせてもう一度日本にウォーホルを引っ張ってきたい、宮井さんがそんな企画の組織的運営を依頼した相手が亭主でした。しかし当時の亭主はウォーホルにさして興味がなく、版画センター内でも「やっても売れない」と反対意見が続出、結局一度はお断りすることに。後日他の画廊や美術館にも軒並み断られた宮井さんに再び懇願され、今度は版画センターの外に意見を求めるもやはり「売れない」との意見ばかり。ところが亭主、ここで一つ気付きました。皆口を揃えて「売れない」というが、会う人話す人皆ウォーホルを知っている。「これはひょっとしてホームランになるんじゃないだろうか」と思い至った亭主は、周囲の反対を押し切り、企画に乗り出すことにしたそうです。とはいえ亭主自身はウォーホルについてはろくすっぽ知りませんが、と宮井さんに告げたところ、「問題ありません」と紹介されたのが、当時ギャラリー360°を立ち上げたばかりだった根本寿幸さんと、「路上のウォーホル」こと似顔絵描きの栗山豊さん(故人)でした。日本では指折りのウォーホルオタクとして知られており、ウォーホル研究会まで開いていたというのですから、その知識量は推して知るべし。逆に石田さんは以前から仕事の付き合いがあったため、ごく自然にこの企画に加わることになったようです。

かくして1974年に次ぐ大規模なウォーホル展の企画が動きだしたのですが、宮井さんの考えは、ウォーホルの新作を現代版画センターで買い上げ、それを全国展で捌いて行く、というものでした。でも、それじゃあただのブローカー、亭主としては面白くない。だったら日本で開催するからこその新作を作ってもらおうじゃあないか、と言うことでエディションされたのが"KIKU"と"LOVE"のシリーズです。最終的には皇室の家紋のモチーフである菊が採用されていますが、企画段階では定番の富士山やミスタージャイアンツの長嶋茂雄(タイガースファンに配慮して没になったとか)も候補に上がっていたとのこと。最終的に「日本の花をテーマに」、「日本の紙(和紙)で」、「日本の刷り師を使って」制作するというコンセプトの元、桜と菊が候補としてウォーホルに供され、「日本は天皇の国だ、菊は天皇の印だから」という理由から菊の花がモチーフとして選ばれたそうです。(和紙も試刷りでは試みられたのですが、最終段階で定番のBFK紙に決まりました。)
ちなみに"LOVE"シリーズですが、こちらは版元がForm K.K.となっており、当時「ビニ本」でかなり稼いでいたらしい社長さんが、「思いっきり危ないポルノ」を作ってくれるならお金を出そうとスポンサーになった結果誕生した作品です。実際の制作進行は刷りからサインまで現代版画センターが代行しました。

ここまで書いておいてなんですが、これらの話は当ブログの亭主の連載「KIKUシリーズの誕生」により詳しく書かれております。ご興味のある方は是非こちらもお目通しください。

talk_04「ウォーホル全国展」のスタートは1983年6月8日〜22日のパルコPART3(東京・渋谷)。

talk_05
パルコでのオープニングは6月7日、700人が出席したそうです。

talk_06若かりし日の亭主(38歳)。
自分はここ3年の綿貫さんしか知らないので、恥ずかしながら説明されるまで誰なのか分かりませんでした。
talk_07同じく展覧会当時の石田さん。ちなみにこの時展示された"Kiku"と"Love"は展覧会に間に合わせるために急ぎ各5部だけ先に刷り上げ、石田さんが手持ちでニューヨークに渡り、ウォーホルにサインしてもらってきた分(E.P.)だったそうで。

これらの写真以外にも、石田さんが渡米した際に撮影したウォーホルのスタジオの映像なども流されましたが、残念ながらこちらは版権の都合で掲載が不可とのこと。石田さん曰く、スタッフ達は皆スーツを着て働いている中、ウォーホル一人だけがシャツにジーンズとラフな格好をしていたらしく、ファクトリーからスタジオへ名に違わぬビジネスのための場所だったようです。

他には同年の7月に宇都宮、大谷での地下空間で開催された「巨大地下空間とウォーホル展」の映像も上映されました(撮影はこちらも石田さん)。既にYouTubeにアップロードされていますが、後日このブログでも紹介予定です。

talk_08森美術館「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」53Fの展示会場へ続くエスカレーター手前に展示してあるウォーホルがペイントを施したBMW。
talk_09車の走行動画の下にはウォーホルの一言が。
"I love that car. It has turned out better than the artwork."
「僕はあの車が大好きだ。何せ作品よりも出来がいい。」


今回のウォーホル展は作品以外にも彼の語録が壁面のいたる所に表示してあり、その多くが「世界有数の芸術家」、「ポップアートの巨匠」などというイメージとはかけ離れた、俗気のある率直な言葉です。個人的にはこちらも作品に負けず劣らず興味深い内容でした。

(しんざわ ゆう)

◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル〜氏コレクションより」を開催しています(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

本日のウォーホル語録

<トレーシング・ペーパーと、いいライトがあれば充分だ。なんで抽象画家にならなかったか理解できないな。なぜって、ぼくのふるえる手だったら、いとも自然にそうなっただろうから。
―アンディ・ウォーホル>


4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催していますが、亭主が企画し1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介します。
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ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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