創作版画について

オリヴァー・スタットラーと内間安瑆〜名著『Modern Japanese Prints: An Art Reborn』

日本の創作版画運動は明治末の山本鼎たちの雑誌『方寸』に始まり、全国の草の根の版画愛好家たちによって支えられ恩地孝四郎たちの長い長い苦闘が続きます。
戦前は恩地でさえ、版画では食えなかった。
おそらく版画制作のみで生計が立てられたのは吉田博(吉田ファミリー)だけでしょう。

ところが日本の敗戦に伴い占領時代になるや、日本の版画家たちはウケに入ります。
長い間、雌伏のときを過ごした版画家たちの黄金時代が出現したのです。
ときならぬ「版画ブーム」に間に合わず貧窮のうちに餓死したのが谷中安規でした。
進駐軍として来日した軍人、軍属の中に多くの美術愛好者がいて、日本の創作版画に注目し多くの作品をコレクションしたことは良く知られています。
その中の代表的コレクターがオリヴァー・スタットラーでした。彼は戦後米軍の文官(予算管理官)して来日し、日本の創作版画に魅了され世界有数の版画コレクターになったのでした。
しかし、彼は日本語ができたわけではありません。日本の美術、文化に通暁し、作家の内面にまで深く立ち入ることのできる通訳が必要でした。
スタットラーの通訳を務め、スタットラーとともに多くの版画家たちを訪ね歩きインタビューに協力したのが内間安瑆先生でした。
内間先生はそのインタビューに協力することで恩地孝四郎を知り、平塚運一、棟方志功畦地梅太郎らと親交し、彼らの技法を学んだのでした。それとともに自ら浮世絵版画の研究も進めます。

スタットラーが1956年に刊行した『Modern Japanese Prints: An Art Reborn』は、創作版画愛好家のあいだでは長くバイブルとも目されてきた日本の現代版画の解説書です。
スタットラー日本の現代版画表紙
1956年刊行、価格は2,200円と6ドルと併記してあります。

スタットラー日本の現代版画 恩地
扉には恩地孝四郎の手摺り木版画が挿入されました。

スタットラー日本の現代版画序文1
スタットラーの序文には、恩地孝四郎への謝辞とともに、二ページ目7行目に内間安瑆先生への感謝がつづられています。

スタットラー日本の現代版画序文2


スタットラー日本の現代版画序文3


海外の版画愛好家には良く知られた本(手引書)ですが、それが日本語に翻訳されたのは、刊行後半世紀を経た2009年のことでした。

オリヴァー・スタットラー著『よみがえった芸術ー日本の現代版画』
スタットラー表紙『よみがえった芸術―日本の現代版画』
著者:オリヴァー・スタットラー
監修:猿渡紀代子(横浜市民ギャラリー館長、横浜美術館学芸員)
翻訳:CWAJ(College Women's Association of Japan)
編集協力:桑原規子(聖徳大学准教授)、西山純子(千葉市美術館学芸員)、味岡千晶(美術史家)
体裁:B5変形、296頁、図版102点(カラー48頁)、並製本
発行:2009年 玲風書房

オリヴァー・スタットラー表オリヴァー・スタットラー裏パンフレット
:原書を翻訳し、さらに美術研究家により新たにオリヴァー・スタットラー論、年譜、掲載版画家の略歴などが加筆された。
山本鼎、恩地孝四郎をはじめ、平塚運一、斎藤清、棟方志功ら29名の版画家を紹介、親しみと息遣いの感じる文章に、新たに豊富なカラー図版を掲載した。

収録作家:山本鼎、恩地孝四郎、平塚運一、斎藤清、棟方志功、前川千帆、関野準一郎、品川工、川上澄生、武井武雄、初山滋、勝平得之、山口進、川西英、徳力富吉郎、下澤木鉢郎、前田政雄、橋本興家、畦地梅太郎吉田政次、北岡文雄、山口源、稲垣知雄、笹島喜平、吉田ファミリー、馬淵聖

オリヴァー・スタットラー(1915-2002年)
米国シカゴ生まれ。シカゴ大学卒業。1947年に軍属として来日し1958年まで滞在。日本文化の研究家となる。米国各地で展覧会を企画、日本の現代版画の紹介と普及に努めたほか、多くの講演、執筆などを晩年まで続ける。1977年ハワイ大学東洋学客員教授、1980年神戸女学院大学客員教授になる。著書に『Japanese Inn』、『Shimoda Story』、『Japanese Pilgrimage』などがある。

◆小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」(毎月25日更新)は今月は休載します。

●本日のお勧め作品は恩地孝四郎棟方志功です。
20171005_onchi_30_flower恩地孝四郎
《白い花》
1943年
カラー木版
37.0x26.0cm
※『恩地孝四郎版画集』掲載No.229(形象社)


munakata (2) _600棟方志功
柳緑花紅頌 松鷹の柵
1955年  木版
イメージサイズ:46.0×46.5cm
シートサイズ:59.0×56.0cm
サインあり

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●内間安瑆
内間安瑆は1921年アメリカに生まれます。苗字からわかるように父と母は沖縄からの移民です。1940年日本に留学、戦時中は帰米せず、早稲田大学で建築を学びます。油彩の制作をはじめ、後には木版画に転じます。
1950年アンデパンダン展(東京都美術館)に出品。1950年代初めにイサム・ノグチと知り合い、以降親しく交流する。1954年オリバー・スタットラーの取材に通訳として同行し、その著作に協力した。
その折に創作版画の恩地孝四郎にめぐり合い大きな影響を受けます。
1954年デモクラート美術家協会の青原俊子と結婚。1955年東京・養清堂画廊で木版画による初個展を開催。1959年妻の俊子と息子を伴い帰米、ニューヨーク・マンハッタンに永住。版画制作の傍ら、サラ・ローレンス大学で教え、1962と70年にグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授を務めました。
日米、二つの祖国をもった内間安瑆は浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と自ら呼んだ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出します。現代感覚にあふれた瑞々しい木版画はこれからもっともっと評価されるに違いありません。

1959 An Emotion_600内間安瑆 Ansei UCHIMA
"An Emotion (或る感情)"

1959年
木版(作家自摺り)
イメージサイズ:40.8×30.2cm
シートサイズ:42.6×30.9cm
サインあり


ForestByobu (Fragrance)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Fragrance)"

1981年
木版(摺り:米田稔)
イメージサイズ:76.0×44.0cm
シートサイズ:83.6×51.0cm
限定120部 サインあり
*現代版画センターエディション


●内間俊子
内間俊子は旧姓・青原、高知県にルーツを持ち、1918年満州・安東市で生まれました。1928年大連洋画研究所で石膏デッサンと油彩を学び、1937年に大連弥生女学校を、1939年には神戸女学院専門部本科を卒業。帰国後、小磯良平に師事します。1953年瑛九らのデモクラート美術家協会に参加。 この頃、久保貞次郎や瀧口修造を知り、 抽象的な油彩や木版画、リトグラフを制作し、デモクラート美術展に出品します。
1959年夫の内間安瑆と渡米後はニューヨークに永住し、制作を続けます。1966年頃から、古い切手、絵葉書、楽譜、貝殻や鳥の羽などが雑誌の切抜き等でアレンジして封印したボックス型のアッサンブラージュやコラージュの制作に取り組み、全米各地の展覧会や日本での個展での発表を続けました。1982年からは体の自由を失った夫を18年間にわたり献身的に看病します。介護をしながらの限られた時間の中でも制作は続けられました。作品は「夢、希望、思い出」をテーマにしたものが多く、日常の「モノ」たちの組み合わせから内間俊子の人生の記録が表現されています。
2000年 5月9日安王星が79歳の生涯を静かに終えると、その後を追うかの如く、同年12月18日ニューヨークで死去されました。
23_bridge内間俊子 Toshiko UCHIMA
"橋 (Bridge)"

1965年
木版(作家自摺り)
イメージサイズ:57.0×42.5cm
シートサイズ:61.0×45.0cm
サインあり

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『内間安瑆・内間俊子展』カタログ
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 図版:51点、略歴収録
テキスト:内間安樹(長男、美術専門弁護士/ニューヨーク州)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
編集:尾立麗子
編集協力:桑原規子
翻訳:味岡千晶、他
価格:税込800円 ※送料別途250円(メールにてお申し込みください)

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版画掌誌「ときの忘れもの」第04号もぜひご購読ください。

◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。図録も刊行しました(800円、送料250円)。

水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
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内間安樹「My parents: A Reflection  追想:両親のこと」

My parents: A Reflection
追想:両親のこと


内間安樹(長男、美術専門弁護士、ニューヨーク州)


1959年の後半、壮年期に近づきつつあった私の両親は、慣れ親しみ居心地もよかったであろう東京を後に、先行きは不確かだが新たな人生を切りひらくためにアメリカに向かった。日本においては、父は創作版画運動、そして母はデモクラート美術家協会の作家として、二人とも一定の評価を得ていた。子供の私は当時まだ1歳であり、友人知人はほとんどが日本にいたのだから、アメリカでの再出発は大きな冒険であった。母がよく口にしたように、二人が持っていたものといえば、唯一、新たな世界で作家として成功する資質と才能が自分たちにあるという自信だけだったのだ。美術にかぎらず、他の分野でも成功する保証は何もなく、アメリカのどこに居を構えるのかということどころか、どう生計を立てるのか、その見通しさえもなかった。
1959年内間夫妻渡米
「色彩と風のシンフォニー/内間安瑆の世界」展図録より(2015年 沖縄県立博物館・美術館発行 *展覧会は2014年9月12日〜11月9日開催)

父にとっては、アメリカは生まれ故郷であったものの、それまでの人生の半分という長い期間をアメリカの外で過ごしたのだから、浦島太郎のような気持ちであったろう。日本で成人し、戦時期と終戦後という最も困難な時期を経験し、芸術家としてのキャリアを選択し、友人をつくり、家庭を築いたのだから、当然日本に留まれたはずだ。そして、日本以外の国を知らない母にとっては、移住にあたってはさらに未来への強い信念が必要であった。二人がアメリカに来る決心をした理由について私は正確には知らないが、様々な要因の中でも、新しい物の見方や、個人主義的精神への渇望が大きな役割を果たしたのではないかと思う。

この時点に至るまでの父の人生についてはあまり知らない。時たまカリフォルニアでの少年時代について、高校でアメリカン・フットボールをやったとか、柔道で黒帯を取得したとか、高校では10歳ほど年上のジャクソン・ポロックやフィリップ・ガストンと同じ美術教師に学んだというようなことを聞いたことがあるだけだ。一方、祖父母については若干の知識がある。二人は1920年に沖縄からカリフォルニアに移住して、農業や店舗の経営などいろいろな仕事で勤勉に働いた結果、多くの子供を育て、ロサンジェルスに不動産を所有して収入を得ていた。私が知る限りでは、父と二人の弟を含めた家族が属するカリフォルニアの日系人コミュニティでは、祖母が琉球音楽の蛇味線奏者であったこと以外、特に沖縄出身ということを自他ともに意識することはなかったようだ。父が日本で過ごした20年間について語ったことは一度もなく、そのほか自分の過去についてもほとんど口にしなかった。父は人前以外では無口であり、常に「今現在」に集中していたので、思い出を話す時間も、気持ちもなかったようだ。

父とは対照的に、母は自分の過去についてよく話していたので、私は母の家族や、日本の植民地であった満州での母の幼少期についてはよく知っている。祖父は事業家として成功していたため、母は何不自由ない環境で高等教育も受け(後には神戸女学院に入学)、美術や音楽に囲まれて育った。幼いころから美術を愛し、常に成功することを目指し、母自身がいうように負けず嫌いであった。それらの資質が1950年代初期から半ばにかけて日本の美術界で数少ない女性作家として活動する要因となったことは想像に難くない。母は、父に出会う以前からアメリカに渡り美術家として自分を伸ばすことを望んでいた。神戸のアメリカ軍基地内にあった図書館で美術家として働いていた時に、そこで親しくなったミス・ニューエンハムという上司が、母が作家としてのキャリアを追求できるよう、帰国する時には彼女をアメリカに連れて行こうと申し出たが、実現には至らなかった。私は日本での母の作家としてのキャリアについては多くを知らない。デモクラート美術家協会での経験について話してくれたことは覚えているが、事象や人名が私の日常とあまりにかけ離れていたため、記憶に残っていない。

東京を出発した両親は、父の両親と弟が住むロサンジェルスに到着した。その数週間後、地元の美術館やギャラリーで見る作品に失望した父は、シカゴのオリヴァ―・スタットラーとニューヨークに住むイサム・ノグチと相談した結果、アメリカでの自分の唯一のルーツであるロサンジェルスを離れて、東に移動することを決めた。1960年に入って間もなく、二人はニューヨークに移住することを決意した。今もそうだが、当時もニューヨークは文化の中心であり、世界中から集まる芸術家のメッカだったからだ。ニューヨークで二人は、当地に在住していた猪熊弦一郎、泉茂、森泰、靉嘔など、日本で知己を得ていて気心の知れた日本人美術家たちのグループを知り、頻繁に交流し、支え合った。このころの白黒写真には、私たち家族三人が彼らとセントラルパークやコニーアイランドなどで楽しく過ごした時の様子が記録されている。父はこの時から作品の制作と美術を教える仕事に一心不乱に取り組むようになった。美術教師としては、最初はプラット・インスティチュートで、続いてサラ・ローレンス大学、そして後にはコロンビア大学の夜間コースでも教えた。

1962年に私たち家族は、グリニッジ・ビレッジのエレベーターの無い5階建てのビルの最上階だったアパートからマンハッタン北部のエレベーター付きの大きな建物に移り、1976年までそこに住んだ。私の部屋は父の仕事場と隣り合わせで、入口から一番奥に入ったところにあった。父が版を彫り、和紙をバレンでこする単調な音、ラジオから聞こえるニュースやトークショー、クラシック音楽、そして時おり父が彫って床に散らばった木くずを掃き集める音が私の記憶に深く残っている。外で教えるとき以外は、父は一日中仕事場で過ごした。趣味というものを持たず、読むものといえばもっぱら新聞と、美術や版画の参考書で、それらの多くの本の中には『Printmaking』、『The Book of Fine Prints』、『Master Prints of Japan』、『An Introduction to a History of Woodcut』、『Post-Impressionism』、『From Van Gogh to Gauguin』、『Painting in the Yamato Style』、『Bonnard』等があった。仕事場は実用一辺倒で、装飾や感傷的な理由でおかれたものは一切なかった。あるのは整然と並べられた道具、絵具等のチューブ、びん、ボトル、缶、筆、木炭、鉛筆、定規、布、版画紙、版木、ボール紙などで、一つ一つが制作の過程に直接必要なものだった。私の部屋の隣ではあったが、父の仕事場は別世界であり、私が父の仕事を邪魔することなどはめったになく、たまに父と母が二人とも出かけている間に入ってみるだけだった。私が覚えている限り、母が父の仕事場に入ったのを見たことはない。

私が子供のころは、母は自分の芸術家としてのキャリアを一旦脇に置き、もっぱら私の世話と家事を引き受け、父が仕事をしやすい環境づくりに努めていた。したがって子供のころは母も美術家なのだと意識したことはあまりなかったが、母は時間を見つけては制作を継続しており、私がミドルスクールに入ってあまり手がかからなくなってから、ようやく本格的に作品を作るようになった。日本では版画を制作しており、当初ニューヨークでも制作していたが、後に全く違うミディアムを選んだのは、恐らく父と違う分野の作品を創造したかったのと、父の気を煩わせることなく、父が版画家として花開くことを望んだからであろう。理由はともあれ、母の新しいミディアム(コラージュとアッサンブラージュ)は、母の性格と美的感受性に最適なミディアムであったことに疑いの余地はない。

母のクリエイティブな世界は、母自身の記憶と空想から引き出されたロマンと抒情に溢れていた。母は「もの」を愛し、過去を大切にしていた。そのために若い頃は「おセンチ姉さん」と呼ばれていた。母の人生にとって意味のあった言葉の一つは、「あの時、あの人」であり、それは母が頻繁に回想していた、ある場所である人と過ごした特別な思い出である。母の作品は、世界中の過ぎ去った時代から自分の想像力を通して取り出した物や画像を使って、自身がもつ記憶への情熱を表現したものだ。江戸時代、イタリアルネサンス、ビクトリア時代、アメリカ植民時代からの断片や、古い切手、絵葉書、人形、おもちゃ、楽譜といった過去の遺物、また木の葉、貝殻、小石、バラ、鳥の羽などの自然物は、小さな道具や手鏡、雑誌の切抜き等とアレンジされて、優雅で特異なムードを醸し出す。不必要なものをためらわずに捨てた父とは対照的に、母は物を捨てず、古物商や蚤の市で物を買い求め、インスピレーションのために大切に保管し作品に用いた。母は夫婦の寝室の片側に置かれた大きな仕事台で、ハサミ、糊、金銀のパステルやその他の道具を使って制作し、それらの材料や作品は、そのわきにある大きなファイルキャビネットに保存していた。

父と母は、夫婦でよく日本人やアメリカ人の美術家と交流した。ニューヨーク在住の日本人作家や、日本からきた作家にとって、二人は気心の知れた主人役であり、長年にわたって多くの旧友を自宅の夕食に招いたり、彼らの関心のあるニューヨークの美術館や観光地を一緒に訪れた。全員は思い出せないが、私の記憶では吉田穂高、吉田遠志、吉田政次、棟方志功、北岡文雄、流政之、由木礼、萩原英雄、角浩、高橋力雄などの人々がいた。一方アメリカ人にとっては、二人はニューヨーク美術界の信頼のおける仲間であり、日本文化の紹介役として、自宅ですき焼きや刺身をふるまったり、日本と日本美術についての情報を提供したりした。それらの人々の中には、フリッツ・アイヘンバーグ、マイケル・ポンセ・デ・レオン、バーナード・チャイルズ、ソン・モイ、レタリオ・カラパイ、カール・シュラグ、リチャード・プセット=ダート等の作家、またサラ・ローレンス大学とコロンビア大学美術学部の同僚に加えて、ウナ・ジョンソンやドリー・アシュトンらの美術評論家がいた。

二人はまた、日本で親しくなったイサム・ノグチとは連絡をたやさない間柄だった。父はイサム・ノグチと1950年代初めに出会い、日本での彼の数々のプロジェクトを手伝い、あるいは制作に協力したようだ。ノグチが私たちの家に来たことや、両親が親しくしていたノグチの妹の郊外の家をノグチと両親と一緒に訪れて午後を過ごしたりしたことを覚えている。また、父は著述家のオリヴァ―・スタットラーとも生涯を通じて親しかった。父はスタットラーが出版した『Modern Japanese Prints: An art reborn(よみがえった芸術−日本の現代版画)』(1956年)に掲載された作家たちとの対話を仲介・通訳したり、『Japanese Inn(ニッポン歴史の宿)』(1961年)のためのインタビューを通訳したりと、日本における彼の重要な協力者であった。家族でシカゴの彼の家を訪ねたこともあり、父は1970年代には度々日本でも彼と会った。

1970年から1975年にかけて、私たち家族は広く海外を旅した。1970年には父が二度目のグッゲンハイム・フェローシップとサラ・ローレンス大学の長期有給休暇を得てヨーロッパに行き、そこから日本に行き主に京都で2か月過ごした後、ヨーロッパに戻り、イタリアのフローレンスで父は6週間の夏期学校(アメリカン・サマープログラム)で教えた。その後5年間は、毎年南フランスの夏期学校アメリカン・サマースクールで教えるようになった。その間に私たちはプロバンス、ロワール地方、ノルマンディー、ストラスブール、リビエラ、ブリターニュなどフランス各地をはじめ、イタリア、スイス、ギリシア、ユーゴスラビアを旅行した。京都のお寺数十か所をはじめ、ウフィツィ美術館、プラド美術館、パルテノン神殿、数えきれない城や聖堂からベニスのビエンナーレ、リュブリャナ国際版画ビエンナーレと、文化的に興味ある場所を精力的に巡った。これらの経験は両親に新しいインスピレーションを与えて、その後の制作に影響を及ぼしたであろうし、また両親が1979年に購入したニューヨーク州シュラブ・オークの別荘を囲む自然環境も同様であった。

私の両親にとって、1959年に踏み切った冒険は、アメリカにおいて40年の実りある人生として開花した。父は自己宣伝にはまったく無頓着であったにもかかわらず、二度のグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞し、その作品は現在、メトロポリタン美術館、ワシントンのナショナルギャラリー、大英博物館、アムステルダム国立美術館、ホイットニー美術館等に所蔵されるなど、作家として高い評価を得た。また教師としても、長年の献身的な教育姿勢が認められ、サラ・ローレンス大学ではまず正規教師の地位を得、後に名誉教授となった。母は、感傷的な性格と併せ持っていた鉄のような意思と決断力とで家庭と作家活動を見事に両立させ、生涯にわたりアメリカと日本で展示されるような個性的な作品群を生み出すとともに、私を育て、父の仕事を支えただけでなく、1982年に父が脳卒中で倒れてからは18年間介護をした。

日本を離れていなかったら父との人生はどうなっていただろうか、と時おり母は考えていたようだ。二人の人生に決して悔いはなかった、と私は思う。晩年の母は、自分たちは「アメリカン・ドリーム」を生きたのだとしばしば口にした。ほとんど何も持たずにスタートした彼らは、まったく独自のやり方で誇るべき二つの素晴らしいキャリアを築き、ニューヨークで子供を育てあげ、将来に続く家族のために根を下ろすことを成し遂げた。そしてなによりも、アメリカでの再出発にあたり絶対的な信頼を置いていた二人の資質と才能を最大限に活かし、二人は生きたのだから。
(翻訳:味岡千晶)

内間安王星2
1986年10月7日
六本木・ストライプハウス美術館にて
右から、内間俊子先生、内間安瑆先生、ご子息の内間安樹さん
(湯谷ひろみさん提供)


My Parents: A Reflection

Anju Uchima, Son
Art Lawyer in New York


In late 1959, my parents, both approaching middle age, left behind what must have been a familiar and comfortable existence in Tokyo to forge a new, uncertain path in the United States. They had achieved a certain amount of recognition as artists in Japan, my father associated with the sosaku hanga movement and my mother with the Demokrato Artists Association. They had just had a child; I was a one-year-old at the time. Almost everybody they knew was in Japan. Starting over in America was a bold and risky move: they had essentially nothing, as my mother often said, but trust in their own character and ability to pursue their dream of succeeding as artists in a new world. They were not assured success in art, or in any other field, for that matter. They did not know where in the States they would settle, much less how they would support themselves.

Though my father was returning to the country of his birth, he had been away for half of his life, so long that he was a bit of an “Urashima Taro.” Through that time, in Japan, he had reached adulthood, lived through the country’s hardest days in the War and its aftermath, chosen his career, made many friendships and started a family. He could certainly have stayed there. For my mother, who knew no country other than Japan, the move required an even deeper faith in the future. The exact reasons for my parents’ decision have never been clear to me; no doubt many factors, including the desire for fresh perspectives and an individualistic spirit, played important roles.

Of my father’s life prior to that point, I know relatively little. I heard, very occasionally, references to my father’s youth in California: he had played American football in high school, earned a black belt in judo and had had the same art teacher in high school as Jackson Pollock and Philip Guston, who had both been, by about ten years, his senior in the same school. I knew a little about his parents, who had immigrated from Okinawa to California in 1920, worked hard in various lines of work including running a store and farming, and done well enough to raise a large family and earn income from some modest real estate holdings in Los Angeles. From what I could gather, the family, which included my father’s two younger brothers, was part of a large Japanese-American community in California with no particular “Okinawan” identity, except that my grandmother played the jamisen. My father never spoke to me about his twenty years in Japan and only rarely about any other details from his past. He was reserved outside of social settings and ordinarily so consumed by the “here and now” of his daily life that he had little time or inclination to share his memories.

My mother, by contrast, spoke often about her past. I know many details about her family and her early life in colonial Manchuria. Her father was a well-to-do businessman and my mother grew up in comfortable surroundings, attending good schools (ultimately Kobe College), filled with art and music lessons. From an early age, she had a passion for art. She always had a strong desire to succeed and, in her own words, hated to lose at anything, qualities that undoubtedly propelled her to become one of the few women to be active in the Japanese art world in the early-to-mid-1950’s. Even before meeting my father, my mother had desired to come to America to further her art career. She had worked as an artist at the library of an American military base in Kobe and become friendly with her superior, a Miss Newenham, who had offered to take my mother back with her to the States upon her return and help her to develop an artistic career there, plans which could ultimately not come to fruition. About my mother’s artistic career in Japan, however, I know little. I do recall her speaking about her experiences with Demokrato but, because the names and details associated with it were too far removed from my day-to-day concerns, they did not stay in my memory.

Leaving Tokyo, my parents arrived in Los Angeles, where my father’s parents and brothers lived. Weeks later, my father, unimpressed with what he saw in local art galleries, decided to leave the only American city in which he had roots and move east, exchanging ideas about where to go with his friends Oliver Statler, who was in Chicago, and Isamu Noguchi, who was based in New York. In the early part of 1960, my parents decided to settle in New York, then as now a cultural capital and a mecca for artists from around the world. My parents found a small, congenial group of Japanese artists living in New York at the time whom they had known in Japan, including Inokuma Gen’ichiro, Izumi Shigeru, Mori Yasu and AY-O. They socialized often and helped one another. Black-and-white photos from those early days show happy moments with the three of us and these friends in Central Park and on the beach at Coney Island. My father began a life characterized by an almost single-minded devotion to his work, which consisted of artistic production and art teaching, first at Pratt Institute and then at Sarah Lawrence College and, later, also in the evenings at Columbia University.

In 1962, we moved from the top floor of a five-story walk-up building in Greenwich Village to a larger building in Upper Manhattan with an elevator, where we lived until 1976. My room and my father’s studio were side-by-side, farthest away from the entrance. Embedded in my memories are the constant repetitive sounds of my father carving his wood blocks with his cutting tools and rubbing his baren onto sheets of Japanese paper; the radio playing the news, talk shows and classical music; and, periodically, my father’s sweeping the carved wood chips that had gathered on the floor. When he was not teaching, he was in his studio all day long. He had no hobbies and his reading material consisted mainly of the newspaper and books to further his understanding of art and his medium, bearing titles like Printmaking; The Book of Fine Prints; Master Prints of Japan; An Introduction to a History of Woodcut; Post-Impressionism: From Van Gogh to Gauguin; Painting in the Yamato Style; and Bonnard, among many others. His studio was intensely practical. Nothing was extraneous or placed for aesthetic or sentimental reasons. All of the room’s neatly arranged contents - every tool, tube, jar, bottle, can, brush, piece of charcoal, pencil, ruler, rag, piece of paper, wood, cardboard - had a specific function directly connected to steps in his creative process. For all its proximity to my quarters, the studio was in a different world. I rarely dared disturb my father’s work and ventured inside the room only on occasion when both my parents were out of the apartment. I cannot remember my mother ever entering the room.

During the early years, my mother, for the most part, set aside her artistic career in order to care for me, tend to the housekeeping and create an environment that would support the development of my father’s career. For this reason, I was only dimly aware as a child that my mother was an artist in her own right. She continued her work when she found the time; it was only when I entered middle school and required less attention that my mother began producing work on a regular basis. Though she had been a printmaker in Japan and did some prints in New York, she went on to choose an entirely different medium, perhaps out of a desire to create works completely distinct from my father’s and to create an environment in which my father’s printmaking career could flourish without distraction. Whatever the reason, there is no doubt that her new medium - collage and box assemblage - was uniquely and perfectly suited to her personality and aesthetic sensibilities.

My mother’s creative world was filled with romance and sentiment drawn from memory and imagination. She loved objects and treasured the past. In her youth, she had been nicknamed “o-senchi nesan” for her sentimentality. One of the phrases that gave meaning to her life was “ano toki, ano hito,” referencing her frequent recall of special moments spent with particular people in particular places. She expressed her passion for memory through objects and imagery from the world’s past, filtered through her imagination. Glimpses from the Edo period, the Italian Renaissance, the Victorian era and colonial America; items from bygone eras such as old stamps, postcards, dolls, toys, music scores; her favorite symbols of angels and hearts; natural elements like leaves, seashells, stones, roses and feathers, were arranged with small tools, hand mirrors, magazine clippings and other objects, and projected elegant, fanciful moods. Unlike my father, who discarded unneeded items without a thought, my mother would save objects and search for new ones at antique shops and flea markets, keeping them for inspiration and use in her work. She used a large work table on one side of my parents’ bedroom, with scissors, glue, gold and silver-colored pastels and other implements, and stored her objects in a large file cabinet to the side.

As a couple, my parents socialized frequently with others, both Japanese and American, involved in the fine arts. To Japanese artists, both living in New York and visiting from Japan, my parents were congenial hosts and, over the years, had many of these old friends at our home for dinner parties and visited museums and other places of interest with them in New York. There were too many to remember, but among those I can recall are Yoshida Hodaka, Yoshida Toshi, Yoshida Masaji, Munakata Shiko, Kitaoka Fumio, Nagare Masayuki, Yuki Rei, Hagiwara Hideo, Kado Hiroshi and Takahashi Rikio. To the Americans, my parents were friendly colleagues in New York’s art world and, often, emissaries of Japanese culture, often introducing them to sukiyaki or sashimi over our dinner table and serving as sources of information about Japan and Japanese art. I can remember, among many others, the artists Fritz Eichenberg, Michael Ponce de Leon, Bernard Childs, Seong Moy, Letterio Calapai, Karl Schrag and Richard Pousette-Dart, and art authorities like Una Johnson and Dore Ashton, in addition to colleagues from the art faculties of Sarah Lawrence College and Columbia University.


My parents were also in regular contact with Isamu Noguchi, with whom they had become friendly in Japan, my father having met him sometime in the early 1950s and, I understand, assisted and collaborated with him in various endeavors in Japan. I can remember Noguchi visiting us at home and spending some afternoons with him and my parents at the countryside home of Noguchi’s sister, with whom my parents were also friendly. My father also maintained a lifelong friendship with author Oliver Statler, for whom he had played a key role in Japan, enabling Statler to communicate with the artists featured in his 1956 book Modern Japanese Prints: An Art Reborn, and accompanying him to interviews for his 1961 work Japanese Inn. We visited him in Chicago and my father met with him on several occasions in Japan in the 1970’s as well.

As a family, we traveled widely between 1970 and 1975. In 1970, on the occasion of my father’s second Guggenheim Fellowship and a sabbatical from Sarah Lawrence College, we journeyed through Europe and then to Japan, where we spent two months, mainly in Kyoto, before returning to Florence, Italy, where my father taught at a six-week American summer program. Over the summers of the next five years, my father taught at another American summer school in southern France. On those occasions, we covered many destinations in France, including Provence, the Loire Valley, Normandy, Strasbourg, the Riviera and Brittany, and continued on to Italy, Switzerland, Greece and Yugoslavia. We tirelessly toured places of cultural interest, from several dozen temples in Kyoto, the Uffizi and Prado Museums, the ruins of the Parthenon and numerous chateaux and cathedrals, to Biennale exhibitions in Venice and Ljubljana. These experiences provided my parents fresh sources of inspiration and undoubtedly influenced their later works, as did the natural surroundings of my parents’ country house in Shrub Oak, New York, which my parents bought in 1979.

What had started as an uncertain venture for my parents in 1959 blossomed into forty successful years in the United States rewarded in numerous ways. Though my father was never very interested in self-promotion, he achieved significant recognition, with two Guggenheim fellowships and the inclusion of his work in, among other places, the collections of the Metropolitan Museum, the National Gallery, the British Museum, the Rijksmuseum and the Whitney Museum. In teaching, too, his years of dedicated instruction were recognized, first with a grant of tenure and, ultimately, appointment as emeritus faculty at Sarah Lawrence College. My mother, with the iron will and determination that co-existed with her sentimentality, masterfully balanced home and career, creating a distinguished oeuvre of works exhibited in both the United States and Japan, while raising me and providing support for my father, both throughout his career and during the eighteen years following his stroke in 1982.

My mother occasionally wondered how she and my father would have fared if they had not left Japan. I believe they had no regrets. In her last years, my mother said on several occasions that she and my father had lived “an American Dream,” starting with little and achieving, completely on their own terms, two brilliant careers in which they could take pride, raising a child and laying roots in New York for successive generations of family, and making the most of their character and ability, in which they had placed so much faith in starting their lives over in America.

(Translated by Ajioka Chiaki)

20180719内間家、大井真二さん
2018年7月19日NYから内間さんご一家が来訪、内間家と親交のあった大井さんと数十年ぶりの再会。
前列左から、内間洋子さん、内間安樹さん、綿貫令子、
後列左から、内間蓮さん、大井真二さん、綿貫不二夫、尾立麗子

〜〜〜
●内間俊子の作品紹介
内間俊子は旧姓・青原、高知県にルーツを持ち、1918年満州・安東市で生まれました。1928年大連洋画研究所で石膏デッサンと油彩を学び、1937年に大連弥生女学校を、1939年には神戸女学院専門部本科を卒業。帰国後、小磯良平に師事します。1953年瑛九らのデモクラート美術家協会に参加。 この頃、久保貞次郎や瀧口修造を知り、 抽象的な油彩や木版画、リトグラフを制作し、デモクラート美術展に出品します。
1959年夫の内間安瑆と渡米後はニューヨークに永住し、制作を続けます。1966年頃から、古い切手、絵葉書、楽譜、貝殻や鳥の羽などが雑誌の切抜き等でアレンジして封印したボックス型のアッサンブラージュやコラージュの制作に取り組み、全米各地の展覧会や日本での個展での発表を続けました。1982年からは体の自由を失った夫を18年間にわたり献身的に看病します。介護をしながらの限られた時間の中でも制作は続けられました。作品は「夢、希望、思い出」をテーマにしたものが多く、日常の「モノ」たちの組み合わせから内間俊子の人生の記録が表現されています。
2000年 5月9日安王星が79歳の生涯を静かに終えると、その後を追うかの如く、同年12月18日ニューヨークで死去されました。
23_bridge内間俊子 Toshiko UCHIMA
"橋 (Bridge)"

1965年
木版
イメージサイズ:57.0×42.5cm
シートサイズ:61.0×45.0cm
サインと日付あり

Lady_photographer内間俊子
《Lady photogorapher》
1977年
ボックスアッサンブラージュ
Image size: 23.0x33.0cm
Acrylic box size: 31.0x41.2cm
Frame size: 42.0x49.0x3.0cm
Signed


Signal_600内間俊子
《Signal》
1974年
ボックスアッサンブラージュ
Image size: 31.5x25.0cm
Acrylic box size: 31.5x25.0cm
Frame size: 34.0x27.3x5.5cm
Signed

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●内間安瑆の作品紹介
内間安瑆は1921年アメリカに生まれます。苗字からわかるように父と母は沖縄からの移民です。1940年日本に留学、戦時中は帰米せず、早稲田大学で建築を学びます。油彩の制作をはじめ、後には木版画に転じます。
1950年アンデパンダン展(東京都美術館)に出品。1950年代初めにイサム・ノグチと知り合い、以降親しく交流する。1954年オリバー・スタットラーの取材に通訳として同行し、その著作に協力した。
その折に創作版画の恩地孝四郎にめぐり合い大きな影響を受けます。
1954年デモクラート美術家協会の青原俊子と結婚。1955年東京・養清堂画廊で木版画による初個展を開催。1959年妻の俊子と息子を伴い帰米、ニューヨーク・マンハッタンに永住。版画制作の傍ら、サラ・ローレンス大学で教え、1962と70年にグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授を務めました。
日米、二つの祖国をもった内間安瑆は浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と自ら呼んだ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出します。現代感覚にあふれた瑞々しい木版画はこれからもっともっと評価されるに違いありません。
21_forest-byobu-autumn内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Autumn)"

1979年
木版
イメージサイズ:45.5×76.0cm
シートサイズ:55.0×88.0cm
サインあり

ForestByobu (Fragrance)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Fragrance)"

1981年
木版(摺り:米田稔)
イメージサイズ:76.0×44.0cm
シートサイズ:83.6×51.0cm
限定120部 サインあり
*現代版画センターエディション

FOREST_BYOBU_TWILIGHT_WEAVE_A内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Twilight Weave) A"

1981年
木版
イメージサイズ:59.5×52.7cm
シートサイズ:71.0×60.3cm
サインあり

02_fw-bathers-two_cobalt内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
木版
イメージサイズ:68.0×49.0cm
シートサイズ:82.0×57.0cm
サインあり

01_fw-bathers-two_cobalt_oil内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
キャンバスに油彩
91.5×66.0cm

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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

『内間安瑆・内間俊子展』カタログ
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 図版:51点、略歴収録
テキスト:内間安樹(長男、美術専門弁護士/ニューヨーク州)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
編集:尾立麗子
編集協力:桑原規子
翻訳:味岡千晶、他
価格:税込800円 ※送料別途250円(メールにてお申し込みください)

表紙_表1_内間展_修正_0628_600表紙_表4_内間展_修正_0628_600

版画掌誌「ときの忘れもの」第04号もぜひご購読ください。

◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。図録も刊行しました(800円、送料250円)。

水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
201807_uchima

「内間安瑆・内間俊子展」7月17日〜8月10日

内間安瑆・内間俊子展

会期:2018年7月17日(火)〜8月10日(金)*日・月・祝日休廊


ウチマアンセイ、ウチマトシコと言ってもその名を覚えているのは60代以上の方でしょう。
画商はもちろん、学芸員でもその名を知る人は残念ですが少なくなりました。
1950年代、恩地孝四郎をリーダーとする戦後の創作版画運動に参加した内間安瑆と、瑛九をリーダーとするデモクラート美術家協会に参加した内間俊子(旧姓青原)が1954年に結婚後、ともにアメリカで新しい美術の道を歩むことを決意し、幼い子息(内間安樹さん)を連れてアメリカに渡ったのは今から60年前のことでした。
1982年12月に内間安瑆が病に倒れ、長い闘病生活の末に2000年5月に死去、献身的に支えた俊子夫人もその年の12月に亡くなりました。
あれからもう18年が過ぎました。

このたび、ときの忘れものではニューヨークのご遺族の全面的な協力を得て「内間安瑆・内間俊子展」を開催します。
会場のスペースの関係から展示できるのは20点弱ですが、作品は約50点を準備いたしました。

私たちが内間安瑆の作品を知ったのは1976年春、上野の都美術館で開かれた日本版画協会第44回展に出品された木版画『In Blue(Dai)』でした(その後の経緯は、版画掌誌第4号の編集後記を参照)。
長年の試行錯誤を経て、浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と自ら呼んだ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作が誕生するちょうどそのときに私たちは出会い、文通を重ねました。メールなんてない時代です。

内間安瑆の木版画に激しい魅力を感じた私たちは版画のエディションをお願いし(1981年)、現代版画センター企画による全国巡回展(1982年)に取り組みました。
1982年夏には現代版画センタ−の機関誌のためにニュ−ヨ−クでインタビ ュ−(その1その2その3)に応じてくださったのですが、その僅か数か月後の12月、突然の不幸が夫妻を襲います。内間安瑆が脳卒中で倒れすべてのプロジェクトが中断してしまいました。
その後も幾度か展覧会を開催し、没後の遺作展などを通じその優れた作品群を紹介してまいりました。
2014年には沖縄県立博物館・美術館で待望の大回顧展が開催されました。しかし、沖縄は遠い。何とか東京近辺で内間先生の回顧展が実現できるといいのですが。

内間俊子の作品については、現代版画センター時代に箱のオブジェなどを紹介していましたが、1997年11月に青山のときの忘れもので開催した「久保貞次郎と作家たち−追悼集『久保貞次郎を語る』刊行記念展」で版画作品を展示しました。1954年6月に刊行された『スフィンクス 瀧口修造の詩による版画集』に挿入されていた一点です。
久保貞次郎企画、福島辰夫編集、山城隆一デザインによるこの詩画集にただ一人の女性作家として参加したのが青原俊子、のちの内間俊子です。
早くから前衛画家として活躍し、渡米後の1966年頃から、古い木片や石などを封印したボックス型のアッサンブラージュやコラージュの制作に取り組み、全米各地の展覧会や日本での個展での発表を続けました。
1982年から体の自由を失った夫を18年間にわたり献身的に看病しながら、限られた時間の中でも制作は続けられました。作品は「夢、希望、思い出」をテーマにしたものが多く、日常の「モノ」たちの組み合わせから内間俊子の人生の記録が表現されています。

二人が作家として多くの優れた作品を残したことはこれからもっと評価していかねばなりませんが、忘れてはならないのは多くの日本人アーティストをサポートしたその功績です。
1960年代、日本からアメリカへの渡航、滞在は今から考えられないほど制約の多いものでした。多くの日本人作家が内間夫妻を頼って太平洋を渡って行ったのでした。

●内間安瑆の作品紹介
内間安瑆は1921年アメリカに生まれます。苗字からわかるように父と母は沖縄からの移民です。1940年日本に留学、戦時中は帰米せず、早稲田大学で建築を学びます。油彩の制作をはじめ、後には木版画に転じます。
1950年アンデパンダン展(東京都美術館)に出品。1950年代初めにイサム・ノグチと知り合い、以降親しく交流する。1954年オリバー・スタットラーの取材に通訳として同行し、その著作に協力した。
その折に創作版画の恩地孝四郎にめぐり合い大きな影響を受けます。
1954年デモクラート美術家協会の青原俊子と結婚。1955年東京・養清堂画廊で木版画による初個展を開催。1959年妻の俊子と息子を伴い帰米、ニューヨーク・マンハッタンに永住。版画制作の傍ら、サラ・ローレンス大学で教え、1962と70年にグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授を務めました。
日米、二つの祖国をもった内間安瑆は浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と自ら呼んだ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出します。現代感覚にあふれた瑞々しい木版画はこれからもっともっと評価されるに違いありません。

1)
03_hermit内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Hermit"

1957年
木版
イメージサイズ:77.1×41.0cm
フレームサイズ:96.3×58.4cm
サインあり

2)
1959 An Emotion_600内間安瑆 Ansei UCHIMA
"An Emotion (或る感情)"

1959年
木版
イメージサイズ:40.8×30.2cm
シートサイズ:42.6×30.9cm
サインあり

3)
04_shifting-horizon内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Shifting Horizon"

1960年
木版
イメージサイズ:31.7×24.0cm
シートサイズ:53.0×38.0cm
Ed.15
サインあり

4)
05_early-summer-rain内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Early Summer Rain"

1961年
木版
イメージサイズ:50.5×38.0cm
シートサイズ:61.5×45.5cm
サインあり

5)
05_Ansei内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Spring Snow"

1962年
木版
イメージサイズ:77.5×33.5cm
フレームサイズ:93.6×49.8cm
サインあり

7)
07_reflection-in-rain内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Reflection in Rain"

1965年
木版
イメージサイズ:46.0×41.0cm
シートサイズ:49.5×44.0cm
サインあり

8)
08_city-lights内間安瑆 Ansei UCHIMA
"City Lights"

1967年
木版
イメージサイズ:54.0×41.0cm
シートサイズ:60.0×44.0cm
サインあり

9)
09_Ansei内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Pastoral Poem"

1967年
木版
イメージサイズ:39.3×18.1cm
シートサイズ:44.8×30.6cm
サインあり

10)
12_short_poem_black-white内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Short Poem Black and Red"

1967年
木版
イメージサイズ:31.7×24.0cm
シートサイズ:44.6×31.1cm
サインあり

11)
10_ruinsB内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Ruins B"

1967年
木版
イメージサイズ:17.6×55.6cm
シートサイズ:22.6×60.1cm
Ed.30
サインあり

12)
11_short_poem内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Short Poem"

1967年
木版
イメージサイズ:17.6×55.6cm
シートサイズ:22.8×60.7cm
サインあり


13)
13_time-space-horizontal-B内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Time, Space-Horizontal B"

1969年
木版
イメージサイズ:35.5×75.8cm
フレームサイズ:55.5×95.5cm
Ed.30
サインあり

14)
14_in-space-pink内間安瑆 Ansei UCHIMA
"In Space Pink"

1969年
木版
イメージサイズ:76.0×50.5cm
シートサイズ:84.0×57.0cm
サインあり

15)
15_space-landscape-c内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Space Landscape (C)"

1970〜75年
木版
イメージサイズ:76.0×51.5cm
シートサイズ:79.5×58.5cm
サインあり

16)
16_two-spheres-in-space内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Two Spheres in Space"

1971〜73年
木版
イメージサイズ:76.0×52.0cm
シートサイズ:86.6×59.9cm
Ed.30
サインあり

17)
17_1-5-space-tranquility内間安瑆 Ansei UCHIMA
"I-V Space Tranquility"

1972年
木版
イメージサイズ:70.6×53.1cm
シートサイズ:82.4×61.4cm
サインあり

18)
18_space-gesture内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Space Gesture"

1972〜76年
木版
イメージサイズ:73.5×53.0cm
シートサイズ:78.5×58.0cm
Ed.30
サインあり

19)
19_aretic-landscape内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Aretic Landscape"

1973〜76年
多色木版 Color woodcut
イメージサイズ:76.0×53.4cm
シートサイズ:83.7×61.3cm
Ed.30
サインあり



20)
Ansei_InBlue内間安瑆 Ansei UCHIMA
"In Blue"

1973
多色木版 Color woodcut
イメージサイズ:7.8x11.0cm
シートサイズ:20.2×25.3cm
Ed.200
サインあり

21)
IN BLUE (DAI)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"In Blue (Dai)"

1975年
木版
イメージサイズ:47.7×73.6cm
シートサイズ:57.0×78.8cm
Ed.30
サインあり

22)
uchima_44内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Window Nuance (Rose)"

1978年
木版
イメージサイズ:30.0×22.0cm
シートサイズ:37.5×28.5cm
サインあり

23)
Forest-Byobu-with-Bouquet内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu with Bouquet"

1979年(2001年プリント)
木版
イメージサイズ:19.7×26.5cm
シートサイズ:24.0×31.4cm
Ed.35(内Ed.1からEd.10が作家による自摺り)
※版画掌誌4号A版挿入作品

24)
21_forest-byobu-autumn内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Autumn)"

1979年
木版
イメージサイズ:45.5×76.0cm
シートサイズ:55.0×88.0cm
サインあり

25)
ForestByobu (Fragrance)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Fragrance)"

1981年
木版(摺り:米田稔)
イメージサイズ:76.0×44.0cm
シートサイズ:83.6×51.0cm
限定120部 サインあり
*現代版画センターエディション

26)
FOREST_BYOBU_TWILIGHT_WEAVE_A内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Twilight Weave) A"

1981年
木版
イメージサイズ:59.5×52.7cm
シートサイズ:71.0×60.3cm
サインあり

27)
02_fw-bathers-two_cobalt内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
木版
イメージサイズ:68.0×49.0cm
シートサイズ:82.0×57.0cm
サインあり

28)
01_fw-bathers-two_cobalt_oil内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
キャンバスに油彩
91.5×66.0cm

29)
22_fw-bathers-fall内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-Fall)"

1967年
木版
イメージサイズ:54.0×41.0cm
シートサイズ:60.0×44.0cm
サインあり


Ansei_水彩内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Unknown"

1982
紙に水彩
イメージサイズ : 8.5x6.0cm
シートサイズ : 14.0x8.2cm
サインあり

31)
steps_1内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Steps)"

1980年
銅版
イメージサイズ:14.3×9.3cm
シートサイズ:28.4×25.0cm
サインあり

32)
steps_Black_1内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Shrub Oak (Steps B - Black)"

1981年
銅版
イメージサイズ:14.5×11.8cm
シートサイズ:28.3×22.8cm
サインあり

33)
steps_Green_1内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Shrub Oak (Steps B - Green)"

1981年
銅版
イメージサイズ:14.4×12.0cm
シートサイズ:28.3×23.0cm
サインあり

34)
Uchima_Self_Portlait_with_flower_A2内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Self Portrait with flower (A)"

1982年
銅版
イメージサイズ:12.6×9.0cm
シートサイズ:28.9×27.8cm
サインあり

35)
Uchima_Self_Portlait_D2内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Self Portrait (D)"

1982年
銅版
イメージサイズ:7.6×8.0cm
シートサイズ:28.4×28.8cm
サインあり

36)
Uchima_Self_Portlait_E2内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Self Portrait (E)"

1982年
銅版
イメージサイズ:7.5×8.5cm
シートサイズ:28.7×28.2cm
サインあり

37)
rose-b内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Rose One (B)"

1982年(2001年プリント)
銅板
イメージサイズ:11.7×9.0cm
シートサイズ:32.0×25.6cm
Ed.135(内Ed.1からEd.10が作家による自摺り)
※版画掌誌4号A版・B版挿入作品

38)
uchima_04_uesuto-november内間安瑆 Ansei UCHIMA
"ウエストチェスター (November)"

1982年
銅版
イメージサイズ:7.5×8.5cm
シートサイズ:28.7×28.2cm
サインあり


●内間俊子の作品紹介
内間俊子は旧姓・青原、高知県にルーツを持ち、1918年満州・安東市で生まれました。1928年大連洋画研究所で石膏デッサンと油彩を学び、1937年に大連弥生女学校を、1939年には神戸女学院専門部本科を卒業。帰国後、小磯良平に師事します。1953年瑛九らのデモクラート美術家協会に参加。 この頃、久保貞次郎や瀧口修造を知り、 抽象的な油彩や木版画、リトグラフを制作し、デモクラート美術展に出品します。
1959年夫の内間安瑆と渡米後はニューヨークに永住し、制作を続けます。1966年頃から、古い切手、絵葉書、楽譜、貝殻や鳥の羽などが雑誌の切抜き等でアレンジして封印したボックス型のアッサンブラージュやコラージュの制作に取り組み、全米各地の展覧会や日本での個展での発表を続けました。1982年からは体の自由を失った夫を18年間にわたり献身的に看病します。介護をしながらの限られた時間の中でも制作は続けられました。作品は「夢、希望、思い出」をテーマにしたものが多く、日常の「モノ」たちの組み合わせから内間俊子の人生の記録が表現されています。
2000年 5月9日安王星が79歳の生涯を静かに終えると、その後を追うかの如く、同年12月18日ニューヨークで死去されました。

39)
23_bridge内間俊子 Toshiko UCHIMA
"橋 (Bridge)"

1965年
木版
イメージサイズ:57.0×42.5cm
シートサイズ:61.0×45.0cm
サインと日付あり

40)
Signal_600内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Signal"

1974年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:34.0×27.5×5.5cm
サインあり

41)
Lady_photographer内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Lady photographer"

1977年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:31.0×41.2×3.5cm
フレームサイズ:42.0×49.0×3.0cm
サインあり

42)
49_1_600内間俊子 Toshiko UCHIMA
"イタリーよりのパッケージ Package from Italy"

1977年
コラージュ
イメージサイズ: 50.5x35.0cm
シートサイズ: 57.5×42.7cm
サインあり

43)
FromtheProvence内間俊子 Toshiko UCHIMA
"From the Provence - Avignon-"

1977年
コラージュ
ボックスサイズ:36.0×28.3×3.5cm
サインあり

44)
ButterflyDuet内間俊子 Toshiko UCHIMA
"蝶のデュエット (Butterfly Duet)"

1978年
ボックスサイズ:36.0×28.5×3.5cm
サインあり

45)
A_Bachelor内間俊子 Toshiko UCHIMA
"A bachelor"

1980年
コラージュ
ボックスサイズ:18.0×13.0×3.5cm
サインあり

46)
51_1_600内間俊子 Toshiko UCHIMA
"クラシックな夢をうる店 フィラデルフィア The store where classic dreams are sold"

1982年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:55.5×36.3×6.7cm
サインあり

47)
24_fantasy-in-1908内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Fantasy in 1908"

1985年
コラージュ
イメージサイズ:58.0×38.0cm
シートサイズ:73.0×51.0cm
サインと日付あり

48)
52_1_600内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Edelweiss in the Alps"

1984-86
コラージュ
イメージサイズ: 51.0×28.5cm
フレームサイズ: 36.5x59.0cm
サインあり

49)
27a_cottonjin内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Cotton Jinのころ"

1986年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:65.5×33.0×11.5cm
サインと日付あり

50)
25_gentlemen-in-red-black内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Three Gentlemen in Red and Black"

1989年
コラージュ
イメージサイズ:51.0×81.0cm
シートサイズ:56.087.0cm×

51)
26_work内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Dancing Angel"

コラージュ
イメージサイズ:65.0×50.4cm
シートサイズ:59.0×70.5cm

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上掲出品リスト(価格入り)をご希望の方は、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してメールにてお申し込みください。名無しの方にはお送りできません。

2014年9月12日付ブログ用画像_08
1982年
内間安瑆先生と俊子夫人


『内間安瑆・内間俊子展』カタログ
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 図版:51点、略歴収録
テキスト:内間安樹(長男、美術専門弁護士/ニューヨーク州)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
編集:尾立麗子
編集協力:桑原規子
翻訳:味岡千晶、他
価格:税込800円 ※送料別途250円(メールにてお申し込みください)

表紙_表1_内間展_修正_0628_600表紙_表4_内間展_修正_0628_600

版画掌誌「ときの忘れもの」第04号もぜひご購読ください。

◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催します。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。図録も刊行しました(800円、送料250円)。
水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
201807_uchima


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
12

裾野市に「高木倶・山口源美術館」がオープン

ごあいさつ
 裾野アートハウスは、1986年に現代の美術家の作品を身近に親しんで頂きたいとの思いで開設いたしました。これまで多くの作家を紹介してきましたが、より一層をアートを楽しむ場にと展示スペースを増築して高木倶・山口源両氏の美術館を開設しました。
 高木氏とは、開廊当初から交流がありこれまでに3回の展覧会をしております。一昨年他界され、残された作品がうずもれてしまうの憂慮し遺族と相談のうえ常設の場所を設けました。また、高木氏が懇意にされていた版画家の山口氏の作品も合わせて展示します。山口氏の作品は国際的に高く評価され、沼津市立美術館(モン・ミュゼ)にも多数収蔵されていますが、抽象作品ということもあり一般にはあまり馴染みがありません。目に触れる機会を増やすことで氏の抽象世界も楽しんで頂きたいと思います。
 美術館とは言えないほどの小さなスペースですが、両氏の作品を知っていただき、後世に残す一助となればと思っています。
 また美術書などの資料も自由に閲覧できオープンなスペースとしてコンサート・レクチャーなどの利用にも対応したいと思います。是非、裾野アートハウスの扉を開いてください。

2018年3月            裾野アートハウス 水口英男

〒410-1123静岡県裾野市伊豆島田355-3 裾野アートハウス
電話:055-993-5930
E-mail. susono-art@sf.tokai.or.jp
URL. http://arthouse.sp.land.to./

20180317170308_00003
20180317170308_00004クリックしてください、拡大します。

20180330高木倶(たかぎ とも)
東京出身、昭和24年家族疎開地であった沼津に移り、それから70年余り造形美術研究所の創設はじめ、地元美術界の発展に尽力した。斬新な現代美術の手法を取り入れた独自の作風を確立し、品格ある静謐な画風は多くの人に愛された。
2016年死去、享年92。

高木俱 (たかぎ とも)
1924年 東京生まれ
1941〜48年 旧制、多摩造型芸術専門学校(油)中退
1949年 沼津市に移る
1958年 個展 静岡・西武
1960年 グループ展 ニューヨーク、サンフランシスコ、フィラデルフィア 木版画出品
1965年 グループ展 四人展 曽宮一念・山口源・青木達弥・高木 俱(銀座・松屋)
1966〜68年 レリーフ制作 アルミ鋳造レリーフ及び壁画 常園寺(東京・新宿)
1974〜75年 レリーフ制作 アルミ鋳造レリーフ及び壁画 蓮政寺(熊本)
1977年 個展 ギャラリーほさか(静岡・沼津)
1979年 個展 渋谷・東急本店画廊 '80〜'93
1981年 グループ展 アジア現代作家展
招待出品(マナマ・バーレーン王国)
1986年 個展 静岡・伊勢丹
1988年 個展 銀座・松屋 他
1989年 個展 裾野アートハウス(静岡・裾野)'92
1995年 個展 ギャラリー48(ロンドン)
1996年 個展 ギャラリータケイ(静岡・沼津) '09
2016年 8月11日逝去
(http://www.numashin.co.jp/street/344.html より抜粋)

山口 源(やまぐち げん)
版画家、日本版画家協会会員、国画会会員山口源は、1976年7月15日午後11時36分静岡県沼津市の岩井医院で死去した。享年79。本名源吾。明治29(1896)年10月23日静岡県富士郡(現富士市)田子浦柳島19番地に生まれた。青少年期を台湾で過し、その頃版画家藤森静雄を知ったのが後年版画へ進む機縁となる。大正12年関東大震災後上京し藤森に再会、その後恩地孝四郎の門を叩き、日本創作版画協会展に出品した。戦中から戦後しばらく続いた恩地を中心とする版画家の研究会一木会に加わり、ここで関野準一郎らと知り合った。また、昭和18年日本版会協会会員、同24年には国画会会員となった。同19年10月頃沼津市へ疎開し、晩年に至るまで当地で制作を続け、同31年養清堂画廊での個展以来毎年個展を開催したほか、同33(1958)年3月第5回スイス、ルガノ国際版画展でグランプリ受賞、同年6月スイス、グレンヘンのトリエンナーレで佳作賞を受けるなど、木版による抽象の作風は戦後柔軟な成熟をみせた。代表作に「能役者」(ルガノ、国際版画展、1958)「許容」(グレンヘン国際版画展1958)「熱望」(日本版画協会展、1974)など。
(http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9583.html より引用)

*画廊亭主敬白
先日終了した埼玉県立近代美術館の「版画の景色 現代版画センターの軌跡」はおかげさまで好評だったようです。
私たち夫婦にとって嬉しかったのは作家や刷り師、旧会員の皆さんたちとの再会でした。
予期せぬ出来事としては現代版画センター事務局の旧メンバーたちが1月20日に集まり、駒込まで来てくれたことでした。
埼玉県立近代美術館にて。後列、右から三人目が水口英男さん(撮影:酒井猛)。
1066

水口さんが静岡県裾野市でずっと美術の仕事を続けていたのは聞いていましたが、このたび上掲の挨拶にあるとおり、自宅の一角に高木倶・山口源を記念するスペースをオープンすることになりました。どうぞお近くの方はぜひ訪ねて、水口さんを応援してやってください。
〜〜〜〜〜
●本日のお勧め作品は大沢昌助です。
345_大沢昌助《大沢昌助版画集<青の立像>より、青の立像》大沢昌助
大沢昌助版画集<青の立像>より《青の立像》
1980年
リトグラフ
Image size: 40.1×30.0cm
Sheet size: 63.0×50.2cm
Ed.100
サインあり
刷り:森版画工房(森仁志)

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●書籍・カタログのご案内
表紙植田正治写真展―光と陰の世界―Part II』図録
2018年3月8日刊行
ときの忘れもの 発行
24ページ
B5判変形
図版18点
執筆:金子隆一(写真史家)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
価格:800円(税込)※送料別途250円

ueda_cover
植田正治写真展―光と陰の世界―Part I』図録
2017年
ときの忘れもの 発行
36ページ
B5判
図版33点
執筆:金子隆一(写真史家)
デザイン:北澤敏彦(DIX-HOUSE)
価格:800円(税込)※送料別途250円


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
12

棟方志功と瀧口修造

今日(23日)から25日までの三日間は画廊はお休みです。

今週の特集展示:駒井哲郎」は昨日終了しました。たくさんのご来場ありがとうございました。
昨日のブログでも書いた通り、埼玉近美での駒井展は10月9日までですので、まだの方はぜひ北浦和へ!

最近入手した作品をご紹介します。
20世紀を代表し国際的にも高い評価を得ている日本の画家は誰か、という問いに藤田嗣治と並び必ず挙げられるのが木版画の棟方志功でしょう。
40数年前、門外漢からいきなり美術の世界に入り、ドシロウトですね揶揄された亭主でさえ、棟方志功の名は知っていました。

方や詩人、美術評論家として大きな影響力を及ぼした瀧口修造。私たちは造型作家としての瀧口修造の再評価、顕彰に力を入れています。

この二人が、同い年だということに今回初めて気がつきました。
棟方志功は、1903年(明治36年)9月5日青森県生まれ。1975年(昭和50年)9月13日に没します。享年72。
瀧口修造は、1903年(明治36年)12月7日富山県生まれ。亡くなったのは1979年(昭和54年)7月1日でした。享年75。
数年ですが瀧口修造が長生きした。

●先ずは典型的な棟方志功の木版
munakata (2) _600棟方志功
柳緑花紅頌 松鷹の柵
1955年  木版
イメージサイズ:46.0×46.5cm
シートサイズ:59.0×56.0cm
サインあり

12点シリーズの中の一点。大原美術館にも収蔵されています。
■棟方志功(むなかた しこう)
1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)。青森生まれ。ゴッホを目指して上京、川上澄生の版画「初夏の風」を見た感激で、版画家になることを決意。第5回国画会入選を期に民芸運動に参加、仏典や日本神話などから着想を得た、土着性の強い木版画を制作し、国際的にも高く評価された。1942年以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。
1956年ヴェネツィア・ビエンナーレに「湧然する女者達々」他を出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。1970年文化勲章を受章。

●デカルコマニーが良く知られる瀧口修造ですが、今回入手したのはかなり珍しいタイプの水彩です。
takiguchi_600瀧口修造
《-2》
1961年
紙に水彩
イメージサイズ:9.7x9.0cm
シートサイズ:12.3x9.0cm
額裏に献辞、署名・年記あり

瀧口作品でサインがあり、制作年代まで特定できるものはそう多くはありません。
ときの忘れものが刊行した図録『瀧口修造展 』(44点収録)『瀧口修造展 』(47点収録)に掲載した作品も多くは年代不詳です。
献辞(ここでは公開できませんが)の相手先も、瀧口の交友関係、1960年代のアートの動向をうかがえる貴重な情報であり、瀧口ファンにぜひお勧めの逸品です。

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◆ときの忘れものは「安藤忠雄展 ドローイングと版画」を開催します。
会期:2017年9月26日[火]〜10月21日[土] 11:00〜18:00 ※日・月・祝日休廊
201709_ando

●六本木の国立新美術館で「安藤忠雄展―挑戦―」が開催されます。
会期:2017年9月27日[水]〜12月18日[月]

恩地孝四郎の新東京百景「たけばし内」

青山に有ったギャラリー「ときの忘れもの」さんが、なんと駒込にお引越し。こんなに素敵なギャラリーがご近所にできる、なんたる幸運。すでに当店を何度もご利用いただいております。外苑前の本屋にいた私が、駒込の古本屋で再会。うれしいです。
(BOOKS 青いカバさんのtwitterより)

引越しして幾日も経たないのに次々と不思議なご縁が。
お披露目の日時が決まりました。
日時:2017年7月7日(金)12時〜19時(ご都合の良い時間にお出かけください)

当日お越しになれない方は、翌日8日(土)も11時〜18時まで、営業していますのでお出かけください(日曜、月曜、祝日は休廊です)。

さて、先日は珍しい恩地孝四郎のリトグラフ「Poeme Winter」をご紹介しましたが、本日は恩地本来の木版作品をご紹介しましょう。

恩地たけばし恩地孝四郎
『新東京百景』より《たけばし内》
1932年  木版
イメージサイズ:18.0×24.0cm
シートサイズ:20.0×26.0cm
版上サインあり
※『恩地孝四郎版画集』には未収録(1975年 形象社)

1923(大正12)年9月の関東大震災により首都東京を壊滅な打撃を受けます。江戸の名残はもちろん、文明開化の煉瓦の銀座も殆どが焼失してしいました。その後の数年はいたるところで工事の槌音が高く響き、東京は大変貌をとげます。震災復興といわれる新しい東京の街を8人の版画家が描いたのが『新東京百景』です。
1928(昭和3)年の秋に前川千帆(1888〜1960)、藤森静雄(1891〜1943)、恩地孝四郎(1891〜1955)、逸見享(1895〜1944)、平塚運一(1895〜 )、川上澄生(1895〜1972)、深沢索一(1896〜1946)、諏訪兼紀(1897〜1932)の卓上社を結成した八人がそれぞれの分担を決めて制作にとりかかります。
版元の中島重太郎により、翌年から1932(昭和7)年の完成まで足掛け五年をかけて100点ちょうどが刊行された連作ですが、木版のもつ柔らかな線と色彩によって1920年代の大都会の夜と昼の情景が、あるいは復興で整備された街並が情趣豊かに競作され、小品ながら近代の風景版画の傑作といえるでしょう。
こういう多人数による連作は出来に凸凹が生じ、全部がいいとは限らない。
ところがこの『新東京百景』はメンバーも最年長の前川千帆から最年少の諏訪兼紀までいずれも詩情豊かな表現力を持ち、それぞれが得意の腕を振るった、珍しく成功した大連作です。当時の創作版画ブームが背景にあり、各人の創作を後押ししたのでしょう。
創作版画の一つの頂点を示したこの連作、恩地孝四郎の作品は市場でも高く評価されていますが、中の一点《たけばし内》だけなぜか1979年に形象社から刊行された『恩地孝四郎版画集』には収録されていません。そのとき恩地家になかったのか、何らかの理由で漏れてしまったのか不思議ですね。

この連作が画集や雑誌で紹介されるとき使われているのは専ら東京都現代美術館の完全セットです。
残念なことに状態が悪い、シミだらけです。
幸運にも亭主は、1970年代に完璧なセット、それもコンディション抜群のものをイギリスのコレクターH氏に売ることができました。
亭主にとっては会心の仕事でした。

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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

ただいま引越し作業中
6月5日及び6月16日のブログでお知らせしたとおり、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
電話番号も変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
12

営業時間も7月1日から11時〜18時に変更します。
JR及び南北線の駒込駅南口から約10分、名勝六義園の正門からほど近く、東洋文庫から直ぐの場所です。
06

恩地孝四郎のリトグラフ「Poeme Winter」

ときの忘れものは本日より「Circles 円の終わりは円の始まり」を開催します。
会期:2017年1月18日[水]―2月4日[土] *日・月・祝日休廊
201701_Circles

当初は上掲のDMにあるとおり、オノサト・トシノブを中心に、ソニア・ドローネ菅井汲瑛九、高松次郎、吉原治良など円をモチーフに描かれた作品を15点出品の予定でした。
ふと亭主のデスクの上を見上げたら、敬愛する藤森照信先生のドローイングと、恩地孝四郎の木版がかかっているではないか。
恩地孝四郎浴室午前
恩地孝四郎「浴室午前
1928年 木版
21.0×14.0cm
※『恩地孝四郎版画集』掲載No.115(1975年 形象社)

この作品を「円を描いた」というのは少し無理かも(笑)。
まあ、新春に免じてお許しください。

亭主が昨年1月に東京国立近代美術館で開催された「恩地孝四郎展」にノックアウトされたことはもう何度も何度も書きました(くどいね)。
書いても書いても悔しい、今年こそ(元旦の御神籤も「大吉」と出たことだし)一点くらい戦後を代表する大判の作品を入手したいものだと(社長には内緒で)虎視眈々と狙っております。

大判ではありませんが、ちょっと珍しい恩地孝四郎のリトグラフを入手したのでご紹介しましょう。

恩地といえば先ず木版を想起されるでしょう。その他にも油彩や水彩、写真、そして膨大な数の本の装丁を手がけていますが、やはり本領は木版(及びマルチブロックプリント)でした。
1975年に形象社から刊行された恩地孝四郎版画集には1913〜1954年までに制作された全424点の版画が収録されていますが、そのほとんどが木版です。
同書に収録されているリトグラフ(石版画)は僅か3点に過ぎません。
このリトグラフ、右下隅に鉛筆による自筆のサイン、番号(7/20)が記入されています。
恩地winter
恩地孝四郎
《Poeme Winter》
1953年
リトグラフ(石版)
43.0×28.0cm
Ed.20(7/20)
自筆サイン、限定番号あり
※『恩地孝四郎版画集』掲載No.402(1975年 形象社)
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この石版画(リトグラフ)にrついての昔話を少々。
亭主が現代版画センターをつくったのは1974年でした。恩地がこのリトを制作してから既に20年以上経っていました。
ところが銀座にある美術家連盟の事務所の倉庫に行くと、まだこの作品が積んであった。買おうと思えばいくらでも買える状態でした。そのくらい、版画は売れない時代だったのですね。
-----------------------------------
本日の瑛九情報!
〜〜〜
瑛九の会の機関誌『眠りの理由』の表紙画像と目次を1月6日の創刊号から、昨日1月17日の第14号まで紹介してきました。
編集発行人は当初は東京の尾崎正教先生が担当され、のちに事務局が福井に移ったのを機に勝山市の原田勇先生が編集・発行人になりました。
瑛九の会の発起人は瀧口修造、久保貞次郎、杉田正臣、杉田都、オノサト・トシノブ、山田光春、宇佐美兼吉、木水育男の8人でした。亭主は宇佐美さん以外の7人にはお目にかかっています。
瑛九の周辺にいた人々ですが、今では瀧口先生、久保先生、オノサト先生は別としてもその人たちのことを知る人もだんだんと少なくなってきました。
明日からは、亭主の知る限りで、瑛九を生前から支持し、没後はその顕彰につとめた人たちのことをご紹介していきましょう。
〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆銀座のギャラリーせいほうで「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」が開催中。ときの忘れものの新作エディションが展示されています。
会場の展示スナップはコチラをご覧ください。
会期:2017年1月10日[火]〜1月21日[土]*日・祝日休廊
201701_ISHIYAMA-ROKKAKU
主催/会場:ギャラリーせいほう
協力:ときの忘れもの
石山修武の新作銅版画13点の詳細はコチラをご覧ください。
石山修武_ (15)石山修武
「さらに足の速さを夢見たり」
2016年  銅版
Image size: 15.0x15.0cm
Sheet size: 26.0x25.3cm
Ed.5  Signed
シート価格:30,000円(税別)

六角鬼丈の新作シルクスクリーン8点の詳細はコチラをご覧ください。
08六角鬼丈「瞑想のみみ」
2017  シルクスクリーン
Image size: 15.4x25.0cm
Sheet size: 24.0x32.0cm
Ed.35  Signed
シート価格:30,000円(税別)

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ホノルル美術館の内間安瑆展

9月17日(土)に「ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサート第3回 独奏チェロによるJ.S.バッハと20世紀の音楽」を開催しました。
20160917_富田牧子ギャラリーコンサート (5)
コンサートのプロデュースを担当される大野幸さん。
本業は建築家ですが、学生時代からヴァイオリンを弾き、今でも教会でのバッハのカンタータ演奏などに参加しています。

20160917_富田牧子ギャラリーコンサート (9)
ギャラリーコンサートの三回目となる今回は富田牧子さんのソロ。
壁面には光嶋裕介さんの新作が展示されています。

20160917_富田牧子ギャラリーコンサート (12)
二本のチェロを使って、J.S.バッハ (1685-1750)と、 G.クルターク (1926- ) 、P.ヒンデミット (1895-1963) 、 W.ルトスワフスキ (1913-94) らの20世紀の作曲家たちの作品を演奏されました。

20160917_富田牧子ギャラリーコンサート (22)
次回、第4回のコンサートは12月初旬を予定しています。概要はこのブログで11月中旬には発表しますので、どうぞご参加ください。

20160917_富田牧子ギャラリーコンサート (23)
木造で天井の高い(約5m)ときの忘れものの空間は音響もよく、狭い割には開放感もあり(全面ガラス窓)、音楽好きの亭主はいつかプロによるギャラリーコンサートをと思っていました。
奏者には思い切り大胆なプログラムを組んでもらい、聴衆にはゆったりした気分で音楽を楽しんでもらいたい、それにはきちんとしたプロデューサーが必要です。
幸い長年の付き合いがある大野幸さんが快くその任を引き受けてくださり、「ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサート」を始めることができました。
聴衆は毎回数名から12名(定員)の贅沢なコンサートです。
次回(12月)もどうぞご期待ください。

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さて、26日のブログホノルル美術館で開催されている内間安瑆展をご紹介しましたが、それを知ったのはNY在住の内間家からの連絡によってでした。
ご遺族から展覧会の画像を送っていただいたので、ご紹介します。

20161002_ホノルル内間展_0120161002_ホノルル内間展_0220161002_ホノルル内間展_0320161002_ホノルル内間展_0420161002_ホノルル内間展_0520161002_ホノルル内間展_06


●今日のお勧め作品は、内間安瑆です。
Space_Gesture_600
内間安瑆
「Space Gesture」
1972-1976
木版
Image size: 73.5x53.0cm
Sheet size: 78.5x58.0cm
Ed.30 Signed

ForestByobu (Fragrance)_600
内間安瑆
「FOREST BYOBU(FRAGRANCE)」
1981
木版
Image size: 76.0x44.0cm
Sheet size: 83.6x51.0cm
Ed.120  Signed

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アートは人寄せパンダでは無い❗

朝日新聞の朝刊に今年これから来年の主な芸術祭が掲載されている。あいちや瀬戸内に続いて茨城県北、岡山、さいたま、北アルプス、宮城、奥能登などでトリエンナーレなどが開催される。アーティストは大忙しのようだが、作品がコレクションされる訳では無く、地域振興の為に消費されている。
私は日本各地で開催中の芸術祭やトリエンナーレの多さに辟易としている…見に行く前から既に疲れてしまっている。現代アートが相手にされていなかった時代を知っているので、この隆盛を歓迎すべきなのだろうが、アートが地域振興の道具箱にされている現状に強い違和感がある。アートは人寄せパンダでは無い❗
それでも自分のギャラリーの作家が参加している芸術祭などには出かけて行くのだが…

(Mizuma Sueoさんのfacebookより)

同業の三潴末雄さんとは先日も福岡のアートフェアでお会いしたのですが、亭主と同世代とは思えぬバイタリティで東京、シンガポール、世界中を駆け回りながらネットで歯に衣着せぬ発言を続けています。
内外の有力アーティストが集って力作を展示することにはそれなりに意義があると思いますが、問題は各地に雨後の筍のように続々と誕生するアートフェスティバルに、かなりの額の税金が使われていることです。
理屈に弱い(非論理的思考の)亭主の違和感は、単に感覚的なものですが、
・そもそも税金を使ってやるべきことなのか。地域振興というけれど、既にある美術館や大学など教育機関との連携もあまりないようだし・・・
・アートは本来「個」のものであるはずで、どこかにコレクションされるわけでもないのに(おそらく)自腹をきって、お祭りに参加するアーティストは消耗しないのだろうか。
・画商の立場からいえば、アートの評価は流通によってなされることが重要だと思っています(市場万能主義ではありません、念のため)。観光の人寄せ材料としてアートが消費されるだけで、画商もコレクターも関わらない(市場が関与しない)=お金がまわらない(ただ一方的に消費されるだけ)アートフェスティバルに、(画商としては)積極的な意義を見出せません。

はなはだ乱暴な感想ですが、林立する地方アートフェスティバルについては貞包 英之山形大学准教授による「アートと地方の危険な関係〜「アートフェス」はいつまで続くのか? 「地域おこし」に潜む政治力学」という問題提起があるので、お読みください。

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次世代のためにも、本屋と映画館、残したいですよねぇ。
(河内タカさんのfacebookより)

いまや本屋と映画館は絶滅危惧種になりつつあります。
明日はわが身で「画廊」もそうなりかねない。
先日久しぶりに銀座というか京橋に出て、ツァイトフォトサロンの石原悦郎追悼展に行ってきました。石原さんの訃報については、このブログでも再三触れましたが(3月2日4月4日)、日本で初めてコマーシャルの写真ギャラリーを設立し、遂に「写真をアートにした」(飯沢耕太郎)わけですから、石原さん本望だったろうと思います。

帰路、ついでにLIXIL BOOK GALLERYに寄りました。
建築、美術、音楽、etc., etc., やっぱりリアル書店はいいなあ。
亭主の住むひばりが丘、画廊のある青山から次々と書店が消えて行くので、ついついアマゾン依存症になってしまうところでした。
知らない本がいっぱいあり、あれも欲しい、これも買っとかなきゃあと、ついつい・・・・背中のリュックが重くなりました。歳をとると雑誌の一冊でもこたえます。

歳をとると嗜好が変わるということも実感するようになりました。
ただし酒好き、甘いもの好きというのは変更なし。
何が変わってきたかというと、小難しい理屈ぬきにほっとするようなものがだんだん心にしみるようになりました。

本日ご紹介するのは港町神戸の作家・川西英(かわにしひで)の木版画です。
鮮やかでくっきりした色面構成、黒い線の巧みな使用により、都会的なまさに港町神戸のお洒落な雰囲気を描き出した川西の作品は、いまあらためて見ると、数多くの創作版画の作家たちの中で、断然光っています。
いい作家ですね。
でも若い頃はそのよさがわかりませんでした。
川西英メリケン波止場
川西英
「メリケン波止場」
木版  28×25cm
版上サイン Sign on the plate

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青い空と入道雲、後ろには六甲の山なみ、海辺を歩く人たちの服装もハイカラですね。
戦前もうそろそろ息苦しくなる昭和12〜15年(1937〜1940)にかけて加藤版画研究所から刊行された「川西英 版画集」(4枚組)の中の一点です。

川西英(かわにしひで 1894〜1965)
神戸出身の木版画家。本名・川西善右衛門ということからうかがえるように神戸に代々続く回船・穀物問屋の七男として生まれる。幼名英雄。神戸商業学校を卒業。1925年(大正14)、父親の死去により家業を継ぎ、七代目善右衛門となる。1922年(大正11)から1960年(昭和35)に退職するまで、兵庫(のち神戸)東出郵便局長をつとめた。
山本鼎らが唱導した創作版画運動に共鳴し大正から昭和にかけて木版画をはじめた、当時は全国に数多く輩出した版画家の一人。日本創作版画協会展、国画会展、日本版画協会展などで活躍。
代表作「神戸百景」(1933〜36)、「兵庫百景」(1939年)など、生地神戸に取材した風俗や風景、またサーカスを描いた異国趣味的な作品を数多く制作した。

この版画の版元となった加藤版画研究所は、加藤潤二(後に加藤順造に改名、1976年没)によって昭和9年に東京市四ツ谷区右京町11番地に設立されました。浮世絵版画の伝統的システムによりながら、創作版画の革新性をも取りこんだ当時としては現代的なセンスにより、坂本繁二郎、富本憲吉、竹久夢二、伊東深水、川瀬巴水、岸田劉生、梅原龍三郎、熊谷守一、東山魁夷、小磯良平、岡鹿之助、牛島憲之らの木版画(職人彫り)を多く世に送り出しました。
版木の状態を保つために小数ずつに分け、全体として100 から150枚を刷り上げた時点で、どの作品も廃版とし版木は廃棄されたため、後摺りはなく、従って市場では「加藤版画」として一定のグレードを保っています。

スタッフSの西山純子「恩地孝四郎展」ギャラリートーク・レポート

スタッフSの西山純子「恩地孝四郎展」ギャラリートーク・レポート

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読者の皆様こんにちは、前回の「スタッフSの「中藤毅彦×金子隆一」ギャラリートーク・レポート」に引き続き、遺憾な事に今回も(贔屓目に言って)およそ一月遅れで、先月2月12日に開催された「恩地孝四郎展」のギャラリートーク・レポートを送らせていただきます。

20160212恩地展ギャラリートーク_03

今回出演していただいた千葉市美術館主任学芸員の西山純子さんは、一言で説明すると現代版画のスペシャリストです。以前は各地の美術館が手の届く範囲で場当たり的に開催していた版画展とは根本的に異なる、明治期末から戦後にかけての日本版画を体系づけて展示したシリーズ展「日本の版画」を1997年から5回にかけて企画するなど、ときの忘れものの亭主も大いに学ばせていただいてきたとか。今回のトークでも恩地孝四郎に限らず、創作版画全般について語っていただきました。

20160212恩地展ギャラリートーク_02ギャラリー・トーク名物、ときの忘れもの亭主の前語り。
今回の話題は恩地作品と亭主の出会いと、その関わりについてでした。

最初に話題に挙げられたのは恩地本人についてではなく、洋画家、吉田博(1876〜1950)について。
50歳を越えてから木版画の制作をはじめ、それでも260数点の作品を世に残した作家ですが、その制作過程は彫師と摺師の必要とする新版画で、世間から見ると恩地孝四郎が率いる創作版画に立ちふさがる、まさに仇敵であるかのように見られる人物です。現在千葉市美ではこの吉田博の展覧会を企画中ですが、そこで展示するための撮影を、先日吉田博の孫に当たる方が経営されている、その名も吉田スタジオにてされてきたそうです。この時西山さんが感じたのは、吉田博の版画の厳密さや精緻さであり、また恩地孝四郎の作品が同じ版画でありながら、吉田博の版画とは対極に位置しているということでした。先月東京国立近代美術館で開催された「恩地孝四郎展」を観て、ときの忘れもの亭主が展示されていた大作群にショックを受たように、西山さんもまたショックを受けたそうです。ただし、亭主のショックが大作を一枚も扱ったことがないという画商の自負へのものだったのに対し、西山さんのショックは吉田博の版画に比べ、いっそ不安定に思えるほど恩地の作品群が自由奔放だったからでした。

20160212恩地展ギャラリートーク_09亭主をアシスタントに、展示されている作品や書籍に関連した恩地とその周囲について語る西山さん。
20160212恩地展ギャラリートーク_11

そのような対照的な版画作品に頭を半分づつ占められながら、話題は画廊に展示されている作品に移り、《四月》が挿入されていた「婦人グラフ」で看板作家を勤めていた竹久夢二の取り巻きから恩地の作家としてのキャリアが始まっていたことや、抽象絵画の創始者と呼ばれる恩地の表現技法が夢二の描く「心」という無形のモチーフから学んだこと、しかして夢二が女性像や風景等、実在するもので「心」を表現したことに対し、恩地は無形である「心」を実在するもので表現することを受け入れられなかったが故に二人の道が分かれたのであろうこと等、実に興味深い時間をご提供いただきました。

20160212恩地展ギャラリートーク_17恒例の記念撮影。

20160212恩地展ギャラリートーク_19トーク後の懇親会。
遠方からも大勢の方にご来廊いただき、盛況でした。

20160212恩地展ギャラリートーク_20

20160212恩地展ギャラリートーク_22近所のレストランでの打ち上げ風景。

次回のギャラリーイベントは、3月19日(土)開催のコンサートですが、こちらのレポートも私、新澤が提供させていただく予定となっております。二度あることは…ではなく、三度目の正直として、次回こそは早期のレポートのお届けを実現させていただきます。

(しんざわ ゆう)

■西山純子(にしやま・じゅんこ)
1966年東京生まれ。千葉市美術館学芸員。早稲田大学大学院研究科芸術学(美術史)修士課程修了。最近の展示では「生誕130年川瀬巴水一郷愁の日本風景」を担当。著書には、共著として「すぐわかる画家別近代日本版画の見かた」(東京武術2004年)、編集協力として「よみがえった美術―日本の現代版画」(オリヴァー・スタットラー著 玲風書房 2009年)などがある。

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ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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