コレクションの異端―S氏駒井哲郎コレクションについて思うこと

瀧沢恭司

 私はS氏という人を知らない。画廊主によれば、今回展示される駒井哲郎の銅版画約数十点のほかに萩原英雄の版画を多数コレクションしているという。さらに油彩画などもコレクションしているらしい。それはすごいことだ。人の常として私も、さぞかし資産家か、高収入がある人だろうと想像した。ところが画廊主は言った。普通のサラリーマンの方で、特別な資産家でもない、と。そんな人がどうしたらそんなに美術品を蒐集できるのだろうか。駒井哲郎の作品といえば、安くないのが実情だ。どうやら、S氏は長い時間をかけてこつこつと作品を集めてきたらしい。駒井については、およそ35年前から蒐集を開始したという。では、年齢もそれ相応の方ですね、という質問に、50代後半だと思いますよ、と画廊主は軽く言った。そうすると二十代前半から駒井哲郎作品を集めてきたということになる。
 今から35年前といえば1974年。気になって、駒井作品が当時どのくらいで購入できたか、版画雑誌で調べてみた。『版画藝術』No.5(1974年4月)の巻末に掲載された画廊別版画価格リストによれば、駒井作品の取り扱い画廊だった自由が丘画廊が《平原》(1972)に45,000円、《食卓Ⅰ》(1959)に70,000円という価格を付けていた。《束の間の幻影》(1951)には150,000円の価格を付けている。サンパウロ・ビエンナーレの受賞作とあって、さすがに高い。翌年4月発行の同誌には、同じ画廊が《黄色い家》(1960)に85,000円、詩画集『人それを呼んで反歌という』(1965、以下『反歌』と表記)表紙の「かたつむり」作品に80,000円、この詩画集に収められた《残雪譜》に60,000円を付けている。ちがう雑誌も見てみよう。『プリントアート』15号(1974年4月)には、同社が発行した《二樹》(1972)の頒布情報が掲載されていて、15,000円とあった。
 他の作家に目を移すと、当時、浜口陽三と長谷川潔の銅版画は共に300,000~400,000円程度の頒布価格が付いていて、日本人作家ではすでに別格の感がある。それ以外で価格が高いのは池田満寿夫作品である。ビエンナーレでの度重なる受賞による作品の国際的な流通と、それ自体のオリジナル性の高さなどへの評価が反映されていたのだろう。それ以外の作家は―特に戦後登場した日本の現代作家の版画は、おしなべて10,000から30,000円程度の頒布価格が付いている。
 さて、その当時のサラリーマンの収入はといえば、大卒の国家公務員の初任給が73,000円程度だった。それが三年後の1977年には100,000円前後に跳ね上がっている。さすがに高度経済成長期である。
一方、駒井哲郎の作品価格も上昇していった。それは物価の上昇率よりもだんぜん大きかった。1976年に作家が死去したことも大きく影響したが、それ以上に作品の評価が高まり、戦後日本の版画史への位置づけが不動となったことがその要因である。そして、駒井の世界に強力にひきよせられるコレクターが増えたことや、相次いで開館する美術館がこぞってコレクションしたからでもあった。1983年の頒布価格を見てみよう。《丸の内風景》(1938)が300,000円、《月の兎》(1951)が600,000円である(『版画藝術』40号)。1988年には、《死んだ鳥の静物》(1962)―S氏が何と4点も所蔵する作品だ―が650,000円だった(『版画藝術』60号)。
ごく普通のサラリーマン生活をおくってきたというS氏は、こうした頒布状況にあった駒井の版画を、収入をやり繰りしながら大量に蒐集するに至ったというわけだ。その熱意は想像を超えている。
 そこで気になるのがコレクションの特徴である。その最大の特徴は、一作品(一イメージ)について複数の刷りを所蔵していることだ。普通は一つの作品を所蔵したら、次はそれ以外の作品に目がいくというものだろう。まあ、二枚の刷りを所蔵するということは、場合によっては普通に在り得ることかもしれない。最初に入手した刷りの状態の良し悪しなどと比較して、別の刷りを入手したくなるというケースもあるだろうと想像できるからだ。
 そのケースのひとつが、『反歌』表紙画コレクションである。
駒井哲郎反歌表紙たしかに二枚の刷りはずいぶん違っている。一枚は戦後の駒井作品の刷り同様に、版上のインクや油性分をきれいに拭き取った刷りだが、もう一枚は、戦前の刷りに見られる「ストィーニュ」と呼ばれる刷り方法を思わせる。この刷り方法は刷師オーギュスト・ドラートルが得意としたもので、油膜を部分的に薄く残す刷りだ。しかしこうしたケースにしても、悪い刷りを手放して、良い刷りを入手するという発想があり、その方がコレクションの質が高まっていくことにもなる。それが版画をコレクションする際の定石というものだろう。

駒井哲郎反歌ところがS氏の蒐集ときたら、一作品二枚の刷りを入手するどころの話ではない。『反歌』所収の同名作品(PL.12)や同じ詩画集所収の《食卓にて、夏の終りに》(PL.10)などは三枚の刷りを、そして先に触れたように、《死んだ鳥の静物》はなんと四枚の刷りを入手して、微妙な刷りの違いを楽しむように、もっといえばまるでそれらの刷りを違う作品のように見なしてそのまま所蔵しているのである。こうしたコレクションは「主流」とはいえない。むしろ「小数派」である。言い方を代えてそれを、「独創」とか「異端」ということばで呼んでも差し支えないだろう。しかしそう呼べるコレクションだからこそ、それ自体に主張が感じられ、資料的な価値さえ見出せるのである。『反歌』(PL.12)の刷りの一枚はレイエされた刷りであり、《死んだ鳥の静物》のed.6/21はインクの付きの悪い薄い刷りであるが、あえてそうした刷りを蒐集したS氏は、版画をよく知り、そのうえで余裕をもって蒐集活動を行っているように見受けられる。そうしたコレクションはまた、たとえばカタログ・レゾネをつくる時にはどうしても調査させて欲しくなるものでもあるのだ。

駒井哲郎食卓にて駒井哲郎死んだ鳥の静物(左=食卓にて、夏の終わりに 右=死んだ鳥の静物)

 こうしたS氏の駒井版画のコレクションを考えていて、最後に触れておきたいことが出てきた。それはS氏がコレクションをし始めた時期より20年ほど前、1950年代半ばに興った「小コレクター」運動と「版画友の会」の動き、そしてその発展についてである。
まず前者は、創造美術教育協会創立(1952年)に参加し、新しい美術教育運動を推進していた久保貞次郎が使い始めたことばであった。美術に無関心な人々に三点以上の作品を所蔵させ、それによって美術への関心を高めることや広めること、さらに作家を支援して、世俗的な評価に迎合しない独創的な芸術家を輩出することを意図して続けられた運動だった。その運動は1960年代後半まで続いたが、その余熱が「ときの忘れもの」の画廊主である綿貫不二夫氏がかつて主宰した「現代版画センター」を生み出していった。
一方後者は、1957年開催の第1回東京国際版画ビエンナーレを機に発足した現代版画制作と頒布の組織であり、美術出版社サービスセンター内に事務所が置かれ、「小コレクター」運動同様にやはり久保が中心となって1960年代末まで続けられた。その期間に機関誌として『版画』が発行され、それが発展して『季刊版画』という専門誌まで創刊された(1968年10月)。
1970年代半ばから始まったS氏の駒井作品の蒐集は、実は、こうした「小コレクター」運動や「版画友の会」の動きにうながされて出現した版画コレクターの歴史の展開の中に位置づけられるのである。またS氏の版画コレクションは、1960年代後半から70年代にかけておとづれた版画の隆盛と、先述のような動きを受けて形成された版画蒐集への関心の高まり、そして1970年代前半に創刊された様々な版画雑誌―『プリントアート』(1971年創刊)、『gq』(1972年創刊)、『版画藝術』(1973年創刊)、『版画センターニュース』(1975年創刊)など―の発行を背景に開始され、展開されたものであったことも踏まえておくべきである。
このようなS氏の駒井哲郎コレクション展が、版画コレクションを推奨した久保貞次郎のもとで版画を生業にしていた綿貫氏の画廊で開催されていることは、少なからず歴史の循環を感じさせてくれる出来事だ。

筆者紹介
瀧沢恭司(たきざわ・きょうじ)
1962年生 日本大学芸術学部卒業。1987年より町田市立国際版画美術館学芸員。日本近代美術史専攻。
企画展覧会に「ブブノワ1886-1983」(1995年)、「極東ロシアのモダニズム1918-1928」(2002年)、「美術家たちの『南洋群島』」(2008年)など。
著書に、『大正期新興美術資料集成』(共著、2006年、国書刊行会)、コレクション・モダン都市文化『構成主義とマヴォ』(ゆまに書房、2007年)など。論文に「マヴォの国際性とオリジナリティー」『Fuji Xerox Art Bulletin』(2005年)など。

画廊亭主敬白
版画研究の第一人者である町田市立国際版画美術館の瀧沢先生にご執筆いただきました。
2009年11月20日駒井哲郎先生の命日にあたる日から9日間、11月28日まで無休で開催した「S氏コレクション 駒井哲郎PART I展」は、ときの忘れものの181回目の企画展であると同時に、初めての非売の展覧会でした。
日ごろ画商として、売り物のない展覧会などしないと公言していた私でしたが、今回ばかりは君子豹変せざるを得ませんでした。たとえ売るものがなくとも展示し、皆さんに見ていただきたいと思う、魅惑的なコレクションでした。
私は今までいくつもの駒井コレクションに触れてきました。
質量とも屈指を誇る福原義春コレクションについては2000年(世田谷美術館)2003年(資生堂ギャラリー)に開催された展覧会の図録で執筆する機会を与えられ、名古屋の馬場駿吉コレクションについては<駒井哲郎を追いかけて>の30回31回32回と3回にわたりレポートしました。またワタリウムのコレクションについても34回で紹介しました。
どのコレクションも蒐集した人の姿勢や駒井先生との関わり方を強く反映した内容になっており、コレクションそのものが「第二の創造」になっています。そのいずれのコレクションにも無い強烈な匂いをS氏コレクションは持っています。それを瀧沢恭司先生は「独創」「異端」と評されました。
ともすれば繊細、叙情的な面ばかりが強調される駒井作品にもこういう骨太の面があったのかと、ご覧になった皆さんは感じられたのではないでしょうか。
泉下の駒井先生、いかがでしたか。
なお、瀧沢先生の駒井哲郎の研究家としての活躍は、このブログでも紹介していますのでご参照ください。
駒井展S氏因みに、瀧沢先生がまだお会いしていないSさんという方はこういう方です(真ん中、座っている方)。
一昨日開催された某オークションでは4枚目となる《食卓にて、夏の終りに》を落札された由、自らのコレクションに対する執着と確信には頭がさがります。まだまだ増殖し続けるS氏コレクションのPART Ⅱ(来秋に予定)にご期待ください。