石原輝雄のエッセイ

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」番外編─2-2

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」番外編─2-2

『マン・レイへの廻廊』

展覧会『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
    2016年11月7日(月)〜12月16日(金)
    京都工芸繊維大学 美術工芸資料館2階展示室


manray27-1北山通り

manray27-2京都工芸繊維大学美術工芸資料館

石原輝雄


2-2-1 展示準備

11月4日(金)、美術工芸資料館(京都工芸繊維大学)での展示作業に立ち合った。地下鉄を松ヶ崎で降り北山通りに上がると紅葉が始まっている。東寺の五重塔の先端が北山通りと云う高低差から、この辺りは京都市内でも秋が早く、大学の木々も黄色く美しい。展示室に入ると、ほとんどのポスターのパネル貼り込みが済んでおり、仮り置きされている。担当のH氏とシートの状態や全体とのバランスから展示品の最終調整。そして、各室で国別、開催年度順を基本にしつつ、視覚効果を考慮し展示位置を決定。パネルの高さはセンター合わせの140cmで等間隔、国毎の境は広くとってメリハリをつけ決定。国や時代によるポスターの変遷が判りやすい展示になったと思う。後は専門家の作業に任せ、早めの昼休憩をとりに学食のオルタスへ。そして、H氏とデュシャンやマン・レイをからめての世間話。学生達の表情を見ていると、光に包まれた空間に、希望があればと願う。── この日の作業は順調に進み3時頃に終了。会場を回りながら「我が愛しのマン・レイ」の細部を確認すると、入手した日の事柄が浮かぶ、思えば遠くへ来たものだ。

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manray27-6オルタス

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manray27-7展示準備

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2-2-2 マン・レイへの廻廊

11月8日(月)、午前中に仕事を済ませ、急いで松ヶ崎へ向かう。美術工芸資料館のエントランスには展覧会の垂れ幕、二階会場正面には白い文字で「Reflected IMAGES OF MAN RAY IN POSTERS」── インパクトのある洒落た導入部となっている。廻廊で繋がれた3箇所の展示室は、全て黒色の壁面で、シートを挟むパネルも黒。ここに照明を当てるとイメージが光り輝いて現れる。洞窟でイコンと出会う感覚に近いと言えようか。

最初の展示室は「フランス」で、1954年のフルステンベール画廊から1981年にポンピドー・センターで開かれた大回顧展までの17シート。ニースのロヴレリオ画廊を除くと開催地はパリに限定される結果となった。ほとんどのシートがマン・レイ存命中の個展のものなので、作者自身の好みや戦略から選んだイメージが並び、注目に値する。学芸員やデザイナーの解釈以前の、生身のマン・レイが展示室に居る、部屋には眼を閉じたまま入り、中でゆっくり瞼を開けてもらいたい。心の解像力がアップしたのは、わたしだけでは無いと思うのだけど。

manray27-10京都工芸繊維大学美術工芸資料館

manray27-11会場正面

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展示室1: フランス

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manray27-15第一の廻廊

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 美術工芸資料館二階の展示室の二つは、一片が斜めになった四角形で違和感が残る空間なのだが、光を上手く遮断し、次の展示室への廻廊を魅力的にしている。扉で塞がれていない展示室2(長方形で一番広く26点展示)に向かうと、『天文台の時間──恋人達』を使ったミラノ市立美術館のシートが、暗闇から浮かびあがっている。70年代アメリカのPOPなエロティシズムと、スイスやイタリアのデカダンな魅力が交差して、この部屋も見応えがある。── 展示室毎に平芳幸浩准教授が適切な解説を示しておられるので、ご確認願いたい。

展示室2: アメリカ、ヨーロッパ諸国、オーストラリア

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manray27-19第二の廻廊 詩人・谷川俊太郎氏旧蔵のラジオコレクションが置かれている。

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 最後の展示室には日本の画廊や美術館のシート16点を飾った。この中には、わたしが1983年に京都のR画廊で開催したコレクション展の折に作った(わたしのデザインです)シートが含まれていて、マン・レイの未亡人ジュリエットに贈って喜んでいただいた事を思い出す。我が国での1981年から2010年のポスターを通観すると、マン・レイの受容に関する統一感や進展のなさを感じるが、総じてセゾン系(高輪美術館、セゾン美術館、セゾン現代美術館)のものは魅力的である。


展示室3: 日本

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 一階展示ホールを眼下に囲んでめぐる3箇所の展示室。洞窟のような暗闇から浮かびあがって輝くイメージは、マン・レイのイコンであり、廻廊の様々な角度から観る事の出来る表情は、ミーノータロウスに捧げられた生贄の少年や少女であるように思われる。赤い糸玉を渡される事なく迷宮に入ってしまったわたしが、38年の後まで生きてこれたのはマン・レイの慈悲、いやいや、迷宮の大きさ故に見付かっていないと解釈すべき事柄。今日も片手を壁から離すことなく、ゆっくり進んでおります。

 さて、展覧会の報告に多くの写真を提供させていただいた。本来は先入観なく御高覧いただいた方々それぞれの視点でポスターと時代、マン・レイ受容の国柄による差異を感じて欲しいところですが、お許しください。── わたしには、このように見えているのです。

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 展覧会に関連して12月3日(土)13時から美術工芸資料館で「マン・レイとシュルレアリスム」と題するシンポジウムが催されます。出演者4名のテーマは、塚原史「マン・レイ─ダダ・シュルレアリスムの越境者」、松本和史「レイヨグラフ作品を起点とした即興のパフォーマンス」、河上春香「チェコ・アヴァンギャルドの中のマン・レイ─プラハからの眼差し」、木水千里「「私は近作を描いたことがない」─1966年のアメリカでの大回顧展からみるマン・レイの晩年」と予定されており、関西シュルレアリスム研究会との共同開催なので、多様な視点で盛り上がる討論を期待したい。尚、シンポジウム聴講には事前申し込みが必要となっているので、聴講希望の場合は、参加者の氏名を記したメールを美術工芸資料館宛(sympo123@jim.kit.ac.jp)にお送りいただきたい。

(いしはらてるお)


●今日のお勧め作品はマン・レイです。
ray_10_banzyou板上の影
1972年
イメージサイズ:46.0×36.0cm
額装サイズ:67.5×87.0cm
E.A.
Signed

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


●著者サイン入り本のご案内
aotayumi粟生田弓『写真をアートにした男 石原悦郎とツァイト・フォト・サロン』
著者サイン入り

2016年 小学館  322頁
定価本体2,200円+税=2,376円
送料:サービス

*ときの忘れもので扱っています。
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石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」番外編─2

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」番外編─2

展覧会『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ』
    2016年11月7日(月)〜12月16日(金)
    京都工芸繊維大学 美術工芸資料館2階展示室

石原輝雄

これまでに集めたマン・レイの展覧会ポスターに焦点を当てた展示をすることになった。会場は京都駅から地下鉄烏丸線で17分、松ヶ崎駅下車徒歩9分にある京都工芸繊維大学の美術工芸資料館。同館は浅井忠、武田五一などの創設時教授がもたらしたデザイン教育の教材を核として充実させた世紀末から第一次世界大戦期に至るポスターや、村野藤吾の建築資料などの収集・研究・展示で特に知られている。黒い壁面が特徴的な二階の会場からは虹のモニュメント越しに比叡山が望まれ、北側の山には「妙法」の火床、8月16日のざわめきが、冬の季節には嘘のように寒い。
 展覧会は、京都市内で催されたあるレセプションで、関係者と交わした何気ないやり取りが発端だったが、今回の場合も、わたし的にはお酒の援護射撃を受けての出来事だった。

manray26-1高野川(2016年2月)

manray26-2京都工芸繊維大学美術工芸資料館

manray26-3展示室から;  虹のモニュメントの後方に比叡山を望む

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 さて、コレクションをしているポスターは1954年にパリ6区のフュルステンベル画廊のものが一番古く、作家の死(1976年11月)をはさんで、最近の国際的な回顧展までのおよそ150枚。熱心に集めて38年が経った。展覧会のポスターはマン・レイの作家活動を直接的に跡づける貴重なアイテムで、多くの場合は会期が終わると処分され、残されることがない。「自伝作家」であるマン・レイの仕事に迫ろうとした時、何時、何処で、どんな展覧会があったのか、誰が企画し何が展示されていたのかを追跡するのは極めて重要だと思う。カタログや案内状も、これを物語ってくれるけれど、壁面に掲示されたポスターは、「歩く人」にとって、特に重要だと思われる。少なくともわたしには影響力が強い──ポスターの前に立つと、何故か血が騒いでしまうのである。

manray26-4フュルステンベル画廊(1954年)

manray26-5エスポジツィオーニ宮殿(1975年)

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 展示品は会場スペースの関係で、約60枚にしぼられたが、時代と地域によってデザインが変化しているのを、改めて感じた。作家の選択による生前の展覧会は別として、1980年代以降の国際的な再評価の動きの中で、展示品から選ぶイメージが国によって変わる事や、『聖職のヴィーナス』『桃風景』『イジドール・デュカスの謎』などの場合に顕著である画面処理の変化を知るのは刺激的である。マン・レイの場合にも当てはまるが、物故作家の展覧会は、同じような作品が数年間隔で世界を巡回する為に、目新しさに欠ける。しかし、組織する企画者の力量によって、時代状況や問題意識が明確に打ち出された場合には、作家が今も生きているような感覚を味わう事ができる。そして、これを明確に示すのが展覧会を告知するポスターの役割であり、デザイナーの解釈・表現力が試される機会ともなる。さらに加えるならば、展示された場所の気配が濃厚に現われるのもポスターの性格で、フランスのエスプリやイタリのモダン、ドイツのバロック的気配、アメリカの金権主義、日本の潔癖症といったものを指摘するのも可能であるだろう。こうした、ポスターを入手する度に感じていたものを、展覧会場で一同に並べ、相互に見比べながら確認出来るのは、コレクターとしても研究者(自身でこう称するのは躊躇するけど)としても有り難い。

 出来上がってきた同大学の美馬智氏によるポスターを見ていると、2016年京都でのマン・レイ解釈が判る。光のイメージはマン・レイに固有のもので、「f」を強調させたことで代表作「アングルのヴァイオリン」を想起させてくれるし、カメラや暗室の空間で、暗と明、右と左の反転が作品を生み出す様子を理解させてくれる。さらに、紙面端がフイルムのノッチに見え、鏡の側か現実の側のどらを見ているのか、戸惑わせるインパクトに包まれている。タイポグラフだけのポスターには、ウイーンの画廊(1990年)のものがあるが、このアプローチは、几帳面で日本的である。

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manray_flyer_表manray_flyer_裏京都工芸繊維大学美術工芸資料館(2016年)

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 今回の展覧会は、国立国際美術館でのマルセル・デュシャン展(2004年)のキュレーターであった平芳幸浩准教授の担当で行われる企画で、題して『Reflected; 展覧会ポスターに見るマン・レイ展』 会期中の12月3日(土)13時より、関西シュルレアリスム研究会と共同で、「マン・レイとシュルレアリスム」をめぐる公開研究会が行われ、特別講師としてトリスタン・ツァラの研究で知られる早稲田大学の塚原史教授が上洛。俊英の研究者である木水千里、河上春香両氏と詩人松本和史氏の発表も予定されていると聞く(尚、聴講は無料であるが事前申し込み制となっている)。
 
 展覧会の様子などは改めて報告させていただきたいと思うので、楽しみにお待ちいただきたい。

(いしはらてるお)

●今日のお勧め作品はマン・レイです。
20150205_ray_43_turi-1マン・レイ
「釣人の偶像」
1926年/1975年
ブロンズ
H20.8x4.4x4.4cm
Ed.1000
マン・レイの刻印あり

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石原輝雄『マン・レイへの写真日記』刊行

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」番外編

新刊『マン・レイへの写真日記』 2016年7月京都

番外-1 ごぶさたしております。

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『マン・レイへの写真日記』石原輝雄著 銀紙書房 2016刊
限定25部(著者本2) 240頁 限定番号・サイン入り 写真232図(カラー1) サイズ 21x14.7cm 著者自装(パピヨンかがりによる手製本) 本文; Aプラン・アイボリーホワイト 47.50kg 表紙; ケンラン・モスグレー 265kg 表紙カバー; キュリアスIRパール 103kg
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皆さま、おひさしぶりです。お元気ですか? 京都のマン・レイ狂いです。今回は、銀紙書房の新刊『マン・レイへの写真日記』について報告したいと思います。
 二年間続けさせて頂いた連載が終わって4ヶ月、公私ともに慌ただしい日々を過ごしております。マン・レイに関してはジェニファー・マンディ編による『マン・レイの芸術に関する著作集』の刊行を世界的な特記事柄としてあげたく思い、個人的には5月に開かれた京都国立近代美術館での展示会場でマン・レイ作品と共に、記念写真を撮ってもらったのが嬉しい事柄でした(日本の美術館も撮影OKが増えてまいりました)。 7月に入り京都の街では祇園会。お囃子も聴こえ、勤務先から近い長刀鉾でお披露目される見送りの伊藤若冲「旭日鳳凰図」に祭り好きの血が騒いでおります。

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祇園会後祭巡行 北観音山(2015年)

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吉田家屏風飾り(新町六角下ル)

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京都国立近代美術館『オーダーメイド: それぞれの展覧会』会場 壁面にはギルバート・コレクションの『アングルのヴァイオリン』
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番外-2 限定25部

 さて、連載させていただいたブログでは1975年7月から2012年7月に至る個人史から24編(作品19、展覧会4、出版1)を紹介させていただいた訳ですが、綿貫不二夫さんからお誘いを受けた時から、最後に纏めて本にしたいと考えておりました。その為に、ブログでは注記をせず(出版時に追記)、全体の原稿量も240頁程度で収まるように調整しつつの執筆でした。第22回で取りあげた『マン・レイ展のエフェメラ』のように、手作りの個人出版で限定25部刊行。家庭用プリンターとパピヨン縢りによる造本は、メモを参照しながら前回通りで行っているにもかかわらず、微妙にズレてしまいます。加齢による経年変化への対応が心許ない結果。そんな訳で、制作部数は25部。これ以上の作業は指先と目に悪い(笑)。銀紙書房本のファンの方々全てにお届け出来ないのは心苦しいのですが、どうか、お許しください。とはいえ「お知らせ」してから、完売となるまでの数日間は、どなたが注文して下さるのだろうかと気をもんで、心によろしくありません。

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印刷はエプソンPX-504A。 表裏のピッチズレ対応で、A4用紙を1mmカットしております。
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タイトル頁 扉図はコレクション第1号となった版画につながるマン・レイの写真『アンナ・ド・ノエールの肖像』

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12-13頁

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40-41頁
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今回の帯は、黄色の紙に黒文字で刷った。文言は想像上の会話と付ける薬が無い困った人の告白。表紙のデザインとマッチしていると思うのだけど、いかがですか?
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番外-3 未発表2編

 仕事の昼休みにイノダコーヒでゆっくり、仕上がった本の頁を繰っている。光に包まれた噴水に、水音が気持ち良い。ブログから書物に転身した『マン・レイへの写真日記』は、第1回の「アンナ」から始まって「シュルレアリスム展」「ヴァランティーヌの肖像」「青い裸体」「ダダメイド」「プリアポスの文鎮」「よみがえったマネキン」「マン・レイになってしまった人」「ダニエル画廊」「エレクトリシテ」「セルフポートレイト」「贈り物」「指先のマン・レイ展」「ピンナップ」「破壊されざるオブジェ」「マーガレット」「我が愛しのマン・レイ展」「1929」「封印された星」「パリ国立図書館」「まなざしの贈り物展」「マン・レイ展のエフェメラ」「天使ウルトビーズ」、そして、最終第24回の「月夜の夜想曲」に、未発表2編を加えております。モニターでのスクロール感と異なる紙の本がもらす指先の充実は、自作本の場合でも、うっとりとした気持ちにさせてくれる。わたしは、これが好きなんだ。未発表作は、購入していただいた方へのささやかなプレゼントとご理解ください。
 アラビアの真珠を飲みながら2年間を振り返ると、毎回、マン・レイにまつわる出来事に傾注する方法として、友人・知人・先輩方に登場願った。本を読んでいると、いろいろな人の顔が浮かびあがる。そうした中にはツァイト・フォト・サロンの石原悦郎さんのように、今年、鬼籍に入ってしまわれた方もいて、涙する場面に遭遇。残された我が身の衰えは、コレクションの行く末と重なって、人の世の黄昏と思っている。
 
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イノダコーヒ(堺町三条下ル) ガーデン席

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(いしはらてるお)

■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。

day160614-1石原輝雄
『マン・レイへの写真日記 1975−2012』

2016年
銀紙書房 発行
238ページ
21.3x15cm
限定25部

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目次(抄):
・アンナ 一九七五年二月京都
・ヴァランティーヌの肖像 一九七七年一二月京都
・青い裸体 一九七八年三月神戸
・ダダメイド 一九八〇年三月神戸
・プリアポスの文鎮 一九八二年八月パリ
・よみがえったマネキン 一九八三年七月大阪
・マン・レイになってしまった人 一九八三年九月京都
・ダニエル画廊 一九八四年九月京都
・エレクトリシテ 一九八六年一二月パリ
・セルポートレイト 一九八六年七月ミラノ
・贈り物 一九八八年二月大阪
・ファシール 一九八九年五月東京
・指先のマン・レイ展 一九九〇年六月大阪
・ピンナップ 一九九三年七月東京
・破壊されざるオブジェ 一九九三年一一月ニューヨーク
・マーガレット 一九九五年四月ロンドン
・我が愛しのマン・レイ展 一九九六年1一二月名古屋
・1929 一九九九年九月東京
・封印された星 一九九九年六月パリ
・パリ国立図書館 二〇〇ニ年一一月パリ
・まなざしの贈り物展 二〇〇四年六月東京
・肖像 二〇〇六年一一月ロンドン
・マン・レイ展のエフェメラ 二〇〇八年一二月京都
・天使ウルトビーズ 二〇一一年七月東京
・月夜の夜想由 二〇一二年七月東京
・あとがき

京都の石原です。

亭主が入院中、気になって仕方なかったのは、先ず商売のこと。<画商の敵は病気と怪我>とつくづく思い知らされました。
画廊で皆さんが作品を買って下さるのは<売り子>がいるからで、本人がベッドの上じゃあ、売りも買いもできません。3月は記録的売上げ減で社長のご機嫌はすこぶる悪い。

次にこのブログのことでした。
いくつかの連載の終了を受けて、新たな執筆陣を再編する作業が進行中だったのですが、おかげさまで小林紀晴さんはじめ執筆をお願いした皆さんには、快く引き受けていただき、2016年も充実した内容で「毎日更新」ができそうです。

明日4月5日からは、ときの忘れものでは初登場の方の新連載が始まります。
前任の石原輝雄さんの推薦です。異例なことですが、私たちはまだお会いしたことも、電話でお話しすらしたことがありませんがいただいた第一回の原稿は素晴らしい内容で、亭主も興奮しています。どうぞご期待ください。

ツァイトの石原さんの葬儀のあと、京都の石原さんが3月11日のご自身のブログに書かれたものを再録させていただきます。亭主の事故は3月12日でした。

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石原悦郎さんの葬儀告別式が営まれた3月5日(土)は、奇しくもギャラリーときの忘れものでの連載『マン・レイへの写真日記』最終(第24回)の日、式場はときの忘れものと目と鼻の距離、綿貫不二夫さんとお会いしたので、悦郎さんの功績や人柄について話ながら画廊まで戻った。綿貫さんと悦郎さんとのお付き合いは長く、画廊のブログでも追悼の言葉を寄せておられる。わたしが写真のコレクションを始めた頃、ギャラリー16で『PRINT COMMUNICATION』誌でのインタビュー記事での悦郎さんの発言を読んで、「うなった」のを覚えている。時代に先駆けたツァィトのスタートだったけど、共感を持てるので違和感はひとつもなかった。綿貫さんは『ツァイト・フォト 石原悦郎さんを慎む』としてオマージュをブログに書いておられ、その中で

「石原さん、なぜ写真のギャラリーなんですか」と聞いたら、「ワタヌキ君、銀座に画廊は400軒あるんだ。ボクが普通の画廊を開いたら401番目からのスタートだよ。誰もやっていない写真のギャラリーを開けば、ボクはその日からナンバーワンだからね。」、いかにも石原さんらしい答えでした。あれから38年、見事に初志を貫いて「写真」を美術作品に押し上げ、日本の写真界に一時代を築いた功績は永く記憶されるでしょう。オープンの年に私たちが石原さんにインタビューした記事を、追悼の心をこめて再録します。

 そして「石原さんにもらった作品」と云うヴォルスの写真をブログに掲げておられる。お邪魔したときの忘れものでの壁面は、マン・レイへのオマージュとなっていて、加えてマン・レイによるジャン・コクトーの肖像と『ミスター&ミセス ウッドマン』の版画が並べられていた。

20160310214543石原悦郎へのオマージュ


20160310214542綿貫不二夫氏


 ときの忘れもののブログでは、写真評論家の飯沢耕太郎氏の追悼文『石原悦郎──写真をアートにした希代のギャラリスト』を3月9日に掲載、わたしの『マン・レイへの写真日記』第9回での「ダニエル画廊」も合わせて紹介して下さった。悦郎さんへの追悼文、業績評価の仕事がいくつも準備されていると思うが、葬儀告別式の会場で示されていたのは粟生田弓さんによる『写真をアートにした男〜ツァィト・フォト・サロン石原悦郎物語〜』(仮題)、小学館から夏頃に刊行されると云う。早く読んでみたい、悦郎さんが生きているような本になっているだろうな。

 マン・レイと宮脇愛子さんとの交流については、ブログの中に書きましたので、読んでいただけると嬉しく思いますが、展覧会の折のスナップ写真を追加にアップしておきます。ブログでは写真点数の制約を受けないので楽しく選ばせていただきましたが、公開を躊躇したり、年月日がはっきりしない場面も多く、自主規制も含め今後の課題が残りました。個人の趣味、楽しみで撮った写真を公開するには、まだまだ年数が必要であるのかもしれません。また、コレクションを始めた23歳からさかのぼって38年(2012年まで)間を、24章の作品と出来事でたどり、人生史の側面(これが全面に出ているかな)も濃厚かとも思います。
改めて2014年4月5日公開の第1回「アンナ 1975.7 東京」からのテーマを再録しておきます。
2回「シュルレアリスム展 1975.1 京都」
3回「ヴァランティーヌの肖像 1977.12 京都」
4回「青い裸体 1978.8 大阪」
5回「ダダメイド 1980.3 神戸」
6回「プリアポスの文鎮 1982.6 パリ」
7回「よみがえったマネキン 1983.7 大阪」
8回「マン・レイになってしまった人 1983.9 京都」
9回「ダニエル画廊 1984.9 大阪」
10回「エレクトリシテ 1985.12 パリ」
11回「セルフポートレイト 1986.7 ミラノ」
12回「贈り物 1988.2 大阪」
13回「指先のマン・レイ展 1990.6 大阪」
14回「ピンナップ 1991.7 東京」
15回「破壊されざるオブジェ 1993.1 ニューヨーク」
16回「マーガレット 1995.4 ロンドン」
17回「我が愛しのマン・レイ展 1996.12 名古屋」
18回「1929 1998.9 東京」
19回「封印された星 1999.6 パリ」
20回「パリ国立図書館 2002.11 パリ」
21回「まなざしの贈り物展 2004.6 東京」
22回「マン・レイ展のエフェメラ 2008.12 京都」
23回「天使ウルトビーズ 2011.7 東京」
24回「月夜の夜想曲 2012.7 東京」 
ときの忘れもののサイトに入っていただければ、いつでもお読みいただけますので、お楽しみ下さい。

●今日のお勧め作品は、石原さんの愛するマン・レイです。
ray_01_kagiana
マン・レイ
《鍵穴》
1970年
銅版
イメージサイズ:21.5×19.3cm
額装サイズ:57.0×46.8cm
Ed.50 他に E.A.70
サインあり
レゾネNo.17 (Studio Marconi)



ray_09_jean-cocteau
マン・レイ
《ジャン・コクトー》
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:28.5×21.5cm
額装サイズ:44.0×36.5cm


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石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第24回(最終回)

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」第24回(最終回)

月夜の夜想曲 2012年7月7日 東京

24-1 これはなんだろう。

マン・レイと交流のあった日本人で、特に知られているのは画家の宮脇愛子さんである。裕福な家庭に生まれ、美しく、結婚の経験もあり、マン・レイと出会ったのは30代前半。イタリア在住時代にミラノやローマで個展、パリに移り住んでからも画業に専念し、「金属浮彫りに似た効果を出す」独自の絵肌を持った抽象絵画を制作されていた。マン・レイと会ったのは、ハンス・リヒターに連れられてフェルー通りのスタジオを訪問した1962年6月、その様子を「シュルレアリスムの裏方」と題して雑誌(『芸術新潮』 1963年8月号)に報告されている。わたしがマン・レイのライフスタイルを知ったのは彼女の軽妙な語り口からだったし、この記事が最初であったように思う。文中の「黒いサンド・ペーパーに、ダイヤモンドを入れた”月夜”の作品は、昨12月のシュール・レアリスム展(ポアン・キャルディナーレ画廊)でも、非常に評判であった。」(127頁)とある部分については、「画廊などで、若い女性に話しかけられているマン・レイは、いかにも、うれしそうで、若々しかった。若い女性と、話をするのが好きなようだった。」とするマン・レイ評に隠れて、読み過ごしてしまっていた。当時、マン・レイは71歳。

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manray24-1『美術手帖』1973年10月号
112-113頁


 マン・レイ再評価の動きが日本でも始まった頃、雑誌『美術手帖』(1973年10月号)で特集が組まれ、中原佑介、山口勝弘、吉岡康弘、井上武吉と共に、宮脇愛子さんも「いそがしい皮肉屋──マン・レイを語る」を寄稿された。吉岡、井上の両氏がフェルー通りのスタジオ訪問に言及している事から、スタジオの魅力、人を惹きつける面白さは格別だと証明出来そうだが、宮脇さんがされるマン・レイが住むパリの、生活に根ざした回想も堪能させてもらえた。この中で「去年、一昨年会ったときは、「せっかく作品をみんなが買い出したら、こっちは足が動かない。皮肉だね、人生は」なんていっていました。」(113頁)と紹介されるマン・レイに接してから、彼を益々好きになったと告白したい。この頁には5.2×8cmの図版が掲載されていて、下段に「紙ヤスリに宝石をはめ込んだ作品(マン・レイから宮脇氏に贈られたもの)」と注記されていた。──判りにくい図だけど、これはなんだろう。


24-2 仲間に入れてくれたら。

宮脇愛子さんが真鍮パイプを使った一連の作品から、空間に広がり、多様に変化するワイヤーを素材に「うつろひ」の仕事を始められ、日本で最初に野外設置をされた1980年、マン・レイ作品を購入した縁でギャラリーたかぎの沢島亮子さんに個展で紹介していただいた。宮脇さんからマン・レイとの交遊やスタジオの様子を直接うかがって、羨ましく思うと共に憧れた。

manray24-2滋賀県立近代美術館


 その後、滋賀県立近代美術館で催された『マン・レイ展』(1985年)での篠山紀信氏との記念講演「鬼才マン・レイをめぐって」を聴講、持参した『芸術新潮』の該当頁にサインをいただいた。講演の直前に刊行された雑誌『アールヴィヴァン』15号が「特集=篠山紀信─マン・レイのアトリエ」だったので、家人と訪問した新婚旅行を思い出し、こちらには篠山氏とお二人でのサインを依頼。スタジオの衝立の裏に回ったり、引出を開けてマン・レイの秘密を垣間見る感覚を味わった。平凡なファンが、宮脇さんの思い出話に導かれて、マン・レイと対面している感覚、仲間の末席に加えていただいたように思ってしまった。


24-3 振り向いちゃいけない。

マン・レイと宮脇愛子さんとの交流を物語る作品は、幾つもあるが、特にわたしが恋い焦がれたのが、先に「これはなんだろう。」と打ち明けた「黒いサンド・ペーパーに、ダイヤモンドを入れた”月夜”の作品」。雑誌での図版を超えて、原物と対面したのは『マン・レイ展「私は謎だ。」』の埼玉県立近代美術館(2004年9月)の会場だった。丁度、宮脇さんもおいでで、話をお聞きし、記念写真もパチリ。作品下段の献呈がよろしいな。静かな夜の海原に月が輝いている。

manray24-3埼玉県立近代美術館


 マン・レイから本作を贈られた経緯を彼女は東京国立近代美術館ニュース『現代の眼』(1984年10月号)に書いていて、わたしは、これを読んでいたものだから、「月夜のノクターンさ」と得意気に言いながら渡してくれたマン・レイの前に居る気分。詳しくは「私の好きな一点」を読んでいただかなければならないが、「この”月夜のノクターン”は、私がいつも傍らに大切に持っています。その後、ニューヨーク、東京と移り住んで、20何年もたった今、見ても見てもあきません。そして、どうして、マン・レイは私が、月夜の海がとくに好きだったことを知っていたのかしら、と不思議に思いながら、心の中では歓喜していました。」と教えてくれた作品。白く塗られた金属額に入った本作は、『月夜の夜想曲』と名付けられているが、1962年、1965年、1974年と三度に渡って、おおよそ各回10部程度作られたものの初期作品と思われる。一般的には『ガラスの星(L’Étoile de verre)』と呼ばれ、サンド・ペーパー(papier de verre)とマン・レイの代表的映画作品『ひとで(L’Étoile de mer)』を連想させる題名となっている。マルチプルではありながら、素材や月影の位置が微妙に異なり(手作業故に)、固有の風景を作っている。下段の「作家持ち、宮脇愛子へ」と書かれたマン・レイのサインを見ながら、エッセイの最後が彼の言葉で「このダイヤがほんものかにせものかは、後世の鑑定家にまかせるんだね──」と締めくくられていたのを思い出した。胸をしめつけられ、涙しながらの反復なのだから、夜の海は孤独で美しい。美術館の壁面から離れ、振り向いちゃいけないと京都まで戻った。

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manray24-4『現代の眼』1984年10月号
6頁



24-4 ときの忘れもの

その宮脇さんから信頼を受け、長くお付き合いをされてこられた綿貫不二夫、令子ご夫妻と、親しく言葉を交わすようになるとは予測できなかった。人生は不思議である。画廊が『マン・レイ展』(2009年4月)を開催されるのに伴い、講演を依頼されたのが直接の経緯と思うが、最初に南青山をギャルリー・ワタリ側と反対に歩いたのは、この連載第19回で報告したフローリス・ノイスス氏から手紙を頂いた頃で、瑛九のフォトデッサンを観る為に訪ねたのだった。友人のお宅に庭から上がる案配の一軒家、型紙などもあったと記憶する。初対面だったので写真は撮らなかった。20年後の講演会の折に綿貫さんから「1970年代に先輩の画商から「マン・レイにはスタイルが無い、スタイルが無いのは売りづらい」と教わった。でも、僕が尊敬する瑛九も、まったく同じで、決まったスタイルがなかった。当時、日本で流通していたマン・レイ作品は版画しかなくて、これを沢山扱った。写真については、商品として考えられていなかったのが実情で、ツァイト・フォト・サロンの功績が大きかった。」と伺った。そして、マン・レイの版画を使った画廊の第2回企画展(1995年7月)案内状を頂く、時を遡るエフェメラの臨場感は、心地良い。参加された方々とイタリアンで歓談、有難い夜だった。

manray24-5綿貫不二夫、令子ご夫妻


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manray24-6『マン・レイ』展 講演会


manray24-7参加者のみなさんと記念撮影


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 ときの忘れものでは、翌年の秋、『マン・レイと宮脇愛子』展を開催。天上が高く、フェルー通りのマン・レイ・スタジオを連想させるときの忘れものの空間の、二階部分との間に『天文台の時刻に──恋人たち』が掛けられ、下の側には『月夜の夜想曲』。宮脇さんを撮った肖像写真や書棚を模したケースに飾られたカタログや写真集の数々。ブルーのボールペンで書かれた献辞に眼をやりながら、羨ましくて困った(売り物ではありません)。しかし、画廊内は宮脇さんの彫刻や油彩と相俟って、楽しい雰囲気になっている。せめてもの悦びにと、作品の前で写真を撮ってもらった。この時、救われたのは、装幀家でもある綿貫令子さんが記念に制作されたオブジェ本『Hommage à Man Ray』を入手できたことで、イオラス画廊のカタログからの引用が散りばめられた折り本仕立ての25部限定刊行。宮脇さんの新作版画とマン・レイとの思い出の品々との競演となっていた。もちろん『月夜の夜想曲』も紹介されていて、改めて惹かれてしまったのである。

manray24-8『マン・レイと宮脇愛子』展


manray24-9筆者、壁面に『月夜の夜想曲』



24-5 壁からはずして。

80歳を越えても精力的に新作の発表を続けてこられた宮脇愛子さんが、親交のあった作家たちから託された作品や資料をときの忘れもので『宮脇愛子、私が出逢った作家たち』と題して展覧されたのは、2012年6月25日から7月7日。マン・レイの他に瀧口修造阿部展也斎藤義重南佳子、ジオ・ポンテイ、ジャスパー・ジョーンズ堀内正和サム・フランシス、辻邦生、菅野圭介、オノサト・トシノブグドゥムンドル・エロと云った錚々たる顔ぶれであった。画廊から送られてきたリストを拝見してビックリ仰天、マン・レイ作品に価格が付記されているのである。宮脇さんが思い出の品々を手放される決心をされたご様子。悲しい部分もあるけれど、どんな様子だろうかと、心騒いで新幹線に乗った。

 美術品の評価尺度には諸説あるが、来歴は重要な意味を持っている。作者の手を離れてからたどった、作品の一生を証明する資料のそろった場合には、臨場感があってこたえられない。マン・レイが亡くなってから集め始めたわたしのようなコレクターにとっては、入手すれば言葉を交わし、家族の写真アルバムを一緒に観ているようで、縁戚に連なった特別の感情。もしも、彼女が手放されるのならば、わたし以上に、これを愛する人はいないと思ってしまうのだ。だから、価格の事は一切関係ないと、表明しておこう。
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manray24-10ギャラリーときの忘れもの
東京都港区南青山3-3-3 青山Cube1F


manray24-11『宮脇愛子、私が出逢った作家たち』展


 展覧会の最終日だった。多くの作品に売約済みの印が付いている。入り口から向かって右奥窓側からマン・レイ作品が並べられている。『透明巨人』と『ジュリエットの肖像』に囲まれて、1962年から続く夜の海が奥行き深く広がっている。画面からの月の光が反射し、プレートには赤丸シール。──事前に「貼って」とお願いしていたのである。綿貫不二夫さんから宮脇さんのご様子をお聞きするとお元気との事。「他の記念品と別れるのは辛いだろうが、許してね」と、夕方、壁から外してもらい、その場面を記念写真に収めた。東京から京都への移動は、パリからニューヨーク、東京へと続いた旅に比べれば、部屋の中で模様替えをする程度の感覚だろうか。国内に本作が残る事を彼女は喜んでくれるのではないかと、自己弁護した。

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 車椅子の不自由な生活にあっても続けられた制作を、2013年12月にときの忘れもので『宮脇愛子 新作展』として発表され、生の躍動と衰えぬ好奇心を示しておられた宮脇さんだったが、2014年8月20日、膵臓癌の為に帰らぬ人となってしまった。享年84。体調の変化をご存じで、見事に終活をなされた後の旅発ちだったと、謹んでご冥福をお祈りしたい。


24-6 おわりに

夕焼け時の名鉄瀬戸線特急900系の写真から始めた『マン・レイへの写真日記』を、7月7日夜9時、東京駅で出発を待つのぞみN700系で締めくくることにした。京都市在住の平凡なサラリーマン・コレクターによる個人史報告が、美術への関心と云う共通項によって、読んでいただいた皆さま方にも楽しんで頂けたとしたら、本人として望外の喜びである。そして、最終回までたどり着けたのは、綿貫不二夫・令子ご夫妻の励ましと画廊スタッフのサポートのお陰と感謝している。本当に有難うございました。

 再雇用での会社勤めも残り僅かとなり、刀折れ矢尽きた身なれば、「マン・レイ作品と出会わない事を願って」の年金生活。せめて、家族への罪滅ぼしに、「終活」すると誓ったところであります。でもね、マン・レイを手放したコレクターでは、だれも相手にしてくれない。淋しくて、悲しくて、どうやって生きていったらよいのやら、煩悩ばかりの夜具の中です。

manray24-12東京駅 のぞみN700系


(いしはらてるお)

■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。

*画廊亭主敬白
二年間にわたる石原さんの連載が今回をもって終了します。
正直言って残念です。このブログがある限り書き続けてもらいたい、そんな気持ちにさせる毎回の興味深く、生々しく、それでいて品位を失わない、すばらしいコレクターの自叙伝であり、正確かつ豊富な資料に裏付けられた「マン・レイになってしまった人」による現代美術史といっても過言ではないでしょう。
石原輝雄さんにまだ会う前、私たちの周囲でマン・レイの話題になるときまって「石原さん」の名が飛び交い、その度に「どっちの石原さんよ。ツァイトの石原さん、それとも京都の石原さん?」となるのでした。
京都の石原さんのこの連載にも幾度となくツァイトの石原さんが登場しましたが、マン・レイの受容というより、世界的なレベルでの評価に二人の石原さんが果たした役割は大きい。
奇しくも石原輝雄さんの連載が終了する今日、ときの忘れものから僅か数分の梅窓院で石原悦郎さんの告別式が執り行われます。
二人の石原さんに深い感謝をささげるとともに、京都の石原さん、そして奥様の純子さんの末永い健康とますますのご活躍を祈る次第です。
ありがとうございました。

●今日のお勧め作品は、宮脇愛子です。
20160305_miyawaki_15宮脇愛子
「Work」(15)
2013年
紙に銀ペン
Image size: 24.5x24.5cm
Sheet size: 42.1x29.7cm
サインと年記あり


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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第23回

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」第23回

天使ウルトビーズ 2011年7月13日 東京

manray23-1『天使ウルトビーズ』at ギャラリー16



23-1 プレス・ビブリオマーヌ

名古屋時代に丸善の古書展でコレクション・オパールを手に取った。赤色の夫婦箱に入った二つ折りカード20枚。山中散生編訳によるシュルレアリスム系の詩人と画家の作品を耳付厚口局紙に刷ったすぐれもの。シリーズ第1回がポール・エリュアールの詩にマン・レイのデッサンを配した『ナルシス』だったので欲しいと思ったが、学生の乏しい小遣いでは諦めなければならない価格設定だった。この時には、山中散生の詩集『夜の噴水』も合わせて出品されていた。どちらも美しい仕上がりで刊行元のプレス・ビブリオマーヌの名前を覚えておかなければと思った。

manray23-2小田急百貨店新宿店


 日本で最初の大規模なマン・レイ回顧展が催された1984年8月、東京に出掛けて新宿の小田急百貨店で400点近い写真やオブジェや版画などを観た。鑑賞二日目の午後、興奮したまま都バスに乗って三田に佐々木桔梗氏を訪ねた。前年に銀紙書房から刊行した拙著『マン・レイになってしまった人』へのお便りを頂戴し、マン・レイに関する未見の海外文献を架蔵されていると知って、ぜひとも拝見させていただきたいとお願いしての訪問だった。佐々木氏はプレス・ビブリオマーヌの刊行者。文面には「1925年刊大型詩集ストック社限定コクトオ『天使ウルトビーズ』(堀辰雄が持っていたのと同じ版)、口絵にレイヨグラフ(鉛筆にてサイン入り)の大きなのが入ったやつが手許にあります。」とあった。氏は浄土真宗本願寺派教誓寺の住職をされていて「職業柄留守も多く、前もっての約束ができませんが、何かの折に上京の時、是非お電話下さい。」とのお誘いだった。「直接印画紙への焼付けではない様ですが(300部限定では……) オリジナルとして認められているものの様です。これは貴兄の教示を待つ外ありません。」と第二信に続いていた。

manray23-3佐々木桔梗氏


manray23-4プレス・ビブリオマーヌ事務所
手前に『天使ウルトビーズ』


 事務所としてお使いのマンションに上がって、手に取るとフォトグラビュールの美しい黒に驚かされた。光で描かれた天使の肖像がコクトーにもラディゲにも重なって、詩の言葉は「天使ウルトビーズ、桟敷の上/翼の木目に包まれて。」(堀口大學訳)と始まっている。佐々木さんは自由に頁を捲らせてくださり、わたしは、充分に楽しむ事ができた。机に置かれたシュルレアリスムの貴重資料の中に、カイエダール画廊で開かれた『マン・レイ展』(1935年)の案内状があり、欲しくなって困った。

manray23-5プレス・ビブリオマーヌ事務所
机上にカイエダール画廊案内状



23-2 アドバイス

佐々木桔梗(本名教定)さんは筆者より30歳年長の1922年生まれ。「教誓寺だより」(2005年1月15日発行)によると、戦争には近衛師団で出征し印度支那戦線等を転戦、体調を壊され長い入院生活の後、帰還。戦後は新聞社に職を得て、記者の仕事のかたわら、生来の書物好きが嵩じた愛書家として知られ、プレス・ビブリオマーヌの名前で1956年から24年の長きにわたって美しい限定版の書物60余冊(自書の他、三島由紀夫、安部公房、吉行淳之介、渋沢龍彦等)を世に出された。父君の高齢に伴い1976年から住職継職。2003年に現住職へ引き継ぐまでの28年間を務められた。その後は好きな執筆活動を続けられたが2007年2月24日死去、享年84。筆者の関心領域との関連ではカメラ愛好と鉄道ファン、加えてモダニズム文献への傾倒。収集品については、事務所で沢山拝見させていただいたが、日本でのシュルレアリスム紹介者である山中散生の詩集や『「童貞女受胎」の周辺』といった共同作業が特筆出来るかと思う。

 佐々木さんと交流が始まった頃、筆者は詩の同人誌『ガルシア』に参加していた。この折も収集品の連載報告をしていたので、雑誌をお送りすると「次々と現品の入手。大いにやって下さい。今がチャンスのぎりぎりでしょう。やがてマン・レイは、エコール・ド・パリの巨匠なみに雲の上の芸術家になってしまうでしょうから。それにしても、数々の作品集や著書のあった事は、集め甲斐もあるし、研究も出来るので、今やマン・レイは日本でも身近な存在です。」と温かい援護射撃の葉書をいただいた。銀紙書房刊本にも注意をはらってくださり、感想等を電話でお聞きする事も度々あった。不在だった『封印された指先』を刊行した時には、留守番電話のテープが終わるまで、「素晴らしい」の連呼があって感激したのを覚えている。「父親か祖父の世代の人を集めるのが、一番良いですよ」と教えてくれたのも佐々木さんだった。


23-3 回り道

コレクターの悲しい性(さが)についても、書いておきたい。── わたしの事です。人様の愛蔵品であっても、欲しくなると見境がつかなくなり、羨ましい視線をいつまでも投げかけ、疎まれる日々を過ごしてきた。『天使ウルトビーズ』も、古書目録でチェックを続け(いつも高額だった)、パリに行った折など、名店ベルナルド・ロリエの店でコクトーの献辞とデッサンの入った限定番号45番を手にしたりした(これも高額)。でも、最初に出会った佐々木さんの「本」の感触が手と眼に残っていて、他の本への突撃が出来ない気分だった。

manray23-6パリ・サンジェルマンデュプレ
左側に行くとベルナルド・ロリエ


 コレクションを充実させるには情熱と資金力が必要と言われる。マン・レイへの愛については、胸を張って語る事が出来るが、乏しい軍資金に悩み、多くの先輩方に迷惑をかけた。佐々木さんの場合もカイエダール画廊の案内状を、架蔵するルネ・シャールの詩集『回り道の為のビラ』と交換して欲しいなどと、不躾なお願いをしてしまった。氏は「怖しい手紙! が届きました。ほんとに好きなんですねえ。」と呆れつつも、「エルンストからマン・レイへのオマージュ。可愛がって下さい。」と優しく対応して下さった(深謝)。その時の氏と同じ63歳となった筆者は、若い方からそんな依頼があったら困惑するなと思い、コレクションの公開は自粛の方向でなどと考えてしまうのだった。──人間の大きさが違いますね。


23-4 作戦会議

さて、今回の本題は、これからである。2011年7月、明治古典会主催の『七夕古書大入札会』に佐々木桔梗氏の旧蔵品が大量に出品された。目録に明記されている訳ではないが、コレクター仲間では噂されており、亡くなられてから4年、すでに多くが市場に出ていると聞いていた(東京に住んでいないので追跡できない)。目録には715番「(仏)天使ウルトビーズ」としてサイン入り、入札最低価格も示されている。この入札会では一般のファンも下見をすることが出来るので、東京に出掛け友人と落ち合って確認に当たった。

manray23-7東京古書会館
土渕信彦氏(左)と笠原正明氏


 ショーケースから取りだしてもらい、27年ぶりに頁を開くのは感慨深いものがある。時間を捲っている感覚と言えようか。そして、限定番号や状態を確認。しかし、同じケースに置かれていた写真(目録番号714番)の方に目移りしてしまった。マン・レイによるポール・エリュアールとアンドレ・ブルトンの肖像写真。山中散生氏宛の献辞と三者のサインが入れられている。台紙は長い年月の間に変色してしまっているが、かえって風情があり、恐る恐る写真の裏面をのぞくと小さな赤いスタジオ・スタンプが認められた。山中訳でボン書店から刊行された『童貞女受胎』(1936年刊、発禁本)の扉絵として掲げられた歴史的写真。サイズを測ってみると12.2 × 16.8cm。こちらの方は入札最低価格が低い為か、すでに入札封筒は膨らんでいる。
 山中の死後、慶應義塾大学に蔵書が寄贈されたと聞いて、氏の著書『シュルレアリスム資料と回想』と図書館のデータベースを照らし合わせた時、「全部じゃない」と推測。佐々木さんのところに不一致分が保管されていたのかと、品のない想像が渦巻いた。愛蔵品の生々流転に直面すると、コレクター心理は複雑である。でも、こうして市場に現れたのだから、感謝せねばならないだろう。

 古書会館近くの喫茶店で友人・先輩と作戦会議をするも、落札額の見当がつかない。わたしは、いつも手持ち資金の総額で入札する。これなら、ダメでもあきらめが付く。いや、あきらめなければならない。2点とも落ちてしまったら破産してしまうので、写真の方にしぼり、懇意にしている古書店で入札代行を依頼。松翁で蕎麦を食し冷酒を呑んでいる間も心は上の空。資金が不安なものだから早い時間で京都に戻る事にした。駅に向かう道すがら、山の上側だったかと思うが、友人の携帯に入った最新情報によると応札が一番多いのが、「写真」ではないかとの事。友人が、「もし落ちたら引き受けるから、保険だね」と言って、電話で『天使ウルトビーズ』にも入札をしてくれた。

manray23-8松翁 天麩羅蕎麦


manray23-9JR神田駅


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 翌日、知ったところによると、わたしは2番手の応札者。古書店主が「そこまで入れるの」と驚いた金額だったのに、勝てませんでした。残念なのか、安堵したのか複雑な気分。追加で入れた『天使ウルトビーズ』の方は、我が手に抱かれることになった。人生は不思議なものである。

manray23-10左から『天使ウルトビーズ』『回り道の為のビラ』『ヴァランティーヌ・ユゴーの肖像』at ギャラリー16



23-5 お墓参り

友人の講演会が行われた2014年1月、東京に出掛けたので時間を作り、教誓寺を訪ねた。泉下の佐々木桔梗(桔梗院釈教定)さんに、若い時に見せていただいた『天使ウルトビーズ』を預かる事になった経緯と、当時、交換させてもらった『回り道の為のビラ』が縁あって戻ったのを報告したいと思っての訪問だった。本堂で手を合わせると、戦前の京都駅で憲兵の眼を盗んで流線型蒸気機関車C53を撮った話しや、都電の車内で亀山厳さんと初めて会った時にも本を手にしていたと云う事柄が思い出された。そして、娘さんに生前のご様子などをお聞きした。「オリエント急行には奥様とご一緒に?」と尋ねると、「いつも一人で行ってしまうんですよ」と笑っておられ、わたしも同じだと、鉄道好きの日常が思い浮かぶのだった。墓地では佐々木さんの親友で供にリトル・プレスに情熱を傾けた詩人・鳥居昌三(詩香院釈浄昌居士)さんも眠っておられ、合わせてお参りさせていただいた。鳥居さんとはお酒の思い出が重なる。敬愛する二人の先輩からいただいた、「本への愛」が、わたしの中を静かに巡る。有難うございました。

manray23-11教誓寺墓地


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manray23-12日向坂


 「日向坂を下りて、国道415号線を越えた辺りに事務所があったんですよ」と、先程、娘さんに教えてもらった。30年前のわたしは、眼欲にまみれ、プレス・ビブリオマーヌを訪ねていたのだろうな。今はもう還暦を過ぎた身、「コレクターを廃業します」と報告したら、泉下の二人は、なんて答えるだろう。物欲から離れ、人の温かみの中で、気楽な後半生を送りたい。いやいや、送らせて。

最終回に続く

(いしはらてるお)

■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。

●今日のお勧め作品は、マリノ・マリーニです。
20160205_marini_01マリノ・マリーニ
「馬」
1974年
銅版
Image size: 24.0x39.2cm
P.A. サインあり


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石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第22回

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」第22回

マン・レイ展のエフェメラ 2008年12月20日 京都

22-1 頌春

manray22-1拙宅 2009年元旦


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皆さま明けましておめでとうございます。旧年中は、小生のつたない思い出話にお付き合い下さり有難うございました。綿貫さんと約束したこの連載も第四コーナーを回って最後の直線に入り、御神酒で麻痺したボケ頭に鞭を打ちつつゴールを目指しますので、いましばらくのご辛抱を宜しくお願いいたします。

 これまで作品収集や展覧会開催について書いてきましたが、今回は銀紙書房の本作りについて触れたいと思います。連載第1回で『時間光』(1975年刊)を上梓したのは「マン・レイへのラブレターを書きたい、本のような形、オブジェのようなものにしたい」からと報告したように、収集の喜びを率直に表現してきた。その一方で、マン・レイ作品入手の対価を、自己表現への投資に割り振りたいとする思いも持った。マン・レイを受け入れるだけではなくて、世の中に返したいとする動機は、「わたしとは誰か?」の問いに答えようとする、10代後半に写真表現に目覚めた時からのライフスタイルだったと言えよう。

 本の形に固守したのは、高校生で手にした写真集、東松照明『日本』、森山大道『にっぽん劇場写真帖』、細江英公『おとこと女』からの影響であり、決定的に魅せられたのは連盟の先輩である杉山茂太氏の写真集『SUD』だった。本文頁はオリジナル写真に薄布を噛ませての張り合わせ、ボール紙を心にして布をくるんだ外見。手製本であり、自分の写真集を作りたいと思う者の入門コースとしては最適だった。撮影、レイアウト、印画焼き付け、製本と熱中し、短期間の間に3種類(5冊)を作ったものの、接着の有機溶剤によって身体を壊してしまった。

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 社会人となってからも、本に対する関心を強く持ち続けたが、印画紙裏面全体への接着剤塗布は断念して、手書き原稿や湿式コピーによる本文に、簡易な表紙を付けると云うスタイルに変えていたが、和綴じで外見洋装と云うのは落ち着きがなく、模索。そうした時に、栃折久美子さんの著作『モロッコ革の本』(筑摩書房、1975年刊)と『製本工房から』(冬樹社、1978年刊)を読んだ。欧州での製本技術習得の興味深い話しに惹きつけられ、丸背上製本を作ったが、わたしには知識がなく糸縢りが出来なくて不満が残った。しかし、彼女が考案された「パピヨン縢り」を『手製本を楽しむ』(大月書店、1984年刊)で知るに至って、わたしの世界はしっかりしたものとなった。糸の両端に針を付け交互に折帖を綴じ重ねて本にするやり方の詳細は、前揚書を見ていただくとして、後年、栃折久美子さんが振り返った思いを転記しておきたい。「伝統のない国であること、住宅事情などを考えて、伝統的なルリュールの技術のうち、省いてはいけないことを残し、実際には十分の一くらいの手間でできる製本方法を考案した。パピヨンと名付けたこの方法は、道具も身の回りにあるものだけでほとんどのことができる早製本なので、今ではラ・カンプルはむろんのこと、他のヨーロッパの国の会ったことのない人にまで、知られている。」(『森有正先生のこと』筑摩書房、2003年刊、203-204頁)。


22-2 エフェメラ

manray22-2マン・レイの初個展カタログなど


manray22-31950-60年代、パリでのマン・レイ個展ポスター


ここでは、銀紙書房の手作り本として18冊目となる『マン・レイ展のエフェメラ』(邦題)を例にとって、話を進めたい。「エフェメラ(ephemera)」と云うのは耳慣れない言葉と思うが、ギリシャ語や近代ラテン語で1日しか存在しえないものを指す言葉「epi=on hemera=day」を起源に、転じて蜻蛉などの短命な虫や花、ないし短期のみ存在するものを意味しており、欧米では一般的に長期使用や保存を意図しない一枚だけの印刷物を呼ぶ。マン・レイの人生に寄り添って生きていきたいと願っている筆者としては、売れない画家(?)が開いた展覧会に関係するカタログ、ポスター、案内状等を手許に置いて、会場の様子や売れ行きに悩む作者の心情を思いやり、過去に遡って「これ好きです、買いましょう。」と言っている自分を夢想するのである。展覧会が終われば捨てられてしまう運命の「エフェメラ」を探し求めて34年。質・量ともに「世の中に返す」程となったと思ったので刊行を準備した。恐らく、この時点で画家の展覧会資料だけに絞った書籍は無いだろうから、世界的にみても先験的仕事、本人は焦りながらの作業開始だった。

 読者を海外と想定した、200頁程のボリューム感ある書籍。マン・レイの展覧会を個展とグループ展に別け、年代順・都市別に並べる事によって、仕事の変遷と各国の受容史をとらえるよう意図した。諸般の事情から図版は厳選。文字情報の客観的表記だけでは辞書のようになって楽しみに欠けるが、情報に恣意的要素が入りすぎると古書目録と同じになってしまう。わたしの後に続く、若い研究者の為にも「エフェメラ」愛の情熱を伝える本でなくてはならない。コレクションについては、京大カード方式で整理しているものの、入場券や新聞や出品リストに加えて会場写真など展覧会に関係する全ての物品、およそ800点を規則に従ってデータ化し、判りやすく記述するのに頭を使った。原物確認を初めてみると、二転三転と方針を変える必要にせまられ、手戻りが続出したのには参った(変えるのが本人だから、嘆くのは間違いだけど)。

manray22-4校正
木屋町御池上ル、メリー・アイランド
2007.10.23


 物差し片手にデータを打ち込むのに半年近くはかかったろうか、連日深夜までモニターを凝視しているとドライアイが進行して吐き気に襲われる。本文レイアウトにはインデザインを使い、バランスを考えながら字数を調整。基本項目は、都市、画廊、展覧会名、会期、形式、サイズ、出品様式と点数、テキスト執筆者と表題、出版部数。原物の前所有者名と展示歴を加える事により、「エフェメラ」個々のオリジナル性も示すように努めた。ここで悩んだのが欧文表記──イタリックとゴシックの使い方は判っても、展覧会会期によってスペースの開け方を調整しなければならないなど、日本人の筆者には細かい規則までは判らない。これに不備があると、刊行本自体の信憑性が揺らぐので、切実な問題であった。

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manray22-5高橋善丸氏
烏丸通二条上ル、松栄堂
2007.9.22


manray22-6須川まきこ氏
出版記念パーティ、2008.2.1


 古くからの友人であるデザイナーの高橋善丸氏が、同じデザイナーの杉崎真之助氏と組んでドイツ・ハンブルグ美術工芸博物館で開催した展覧会「真 善 美」の報告をかねた展覧会カタログ(作品集)の出版記念パーティー(2008年2月15日)へ参加した折、翻訳家のディビット・アレン氏を紹介してもらった。アメリカ生まれのイギリス育ち、話をするとマン・レイにも関心をお持ちで、「エフェメラ」本への協力もその場で快諾いただいた。嬉しい出会いである。テキスト5,000字の英訳をお願いしたのは7月、『マン・レイ展のエフェメラ』とする邦題を、どう置き換えるかディビットの意見をお聞した。氏はわたしの行為を、マン・レイの生涯を追跡するものと捉え、読者には「エフェメラ」そのもののインパクトを与え、副題で説明する戦略を導き出した。題して『Ephemerons: Traces of Man Ray』。三条堺町下ルのイノダコーヒ本店で、情緒にとらわれすぎる筆者の「マン・レイ狂い」が、論理的な氏の考えで修正されるのを、感激しながら受け入れた。書体をCourierからTimes New Romanに変更したのも氏の助言によるものだった。

manray22-7ディビット・アレン氏
堺町三条下ル、イノダコーヒ本店
2008.7.5


manray22-8同上


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22-3 銀紙書房

こうして内容を整えた後は、ソフトを使っての具体的なレイアウト作業となる。活字を組む訳ではないので簡単だと思われるかも知れないが、一切合切を自分でやらないと気の済まない性格、廉価で仕上げなければならない制約もあった。家庭用プリンターのエプソンPX-A650は、顔料インク使用なので、書籍印刷に適していると思うが、印刷効果と手触りの良い用紙を選ぶのが最初の関門だった。用紙はA4二つ折の横目(通常は縦目)、この為、別途発註、裁断が伴うのだった。幸い勤務先の関係で用紙問屋との付き合いがあり、サンプル用紙も提供してもらい試行錯誤(画像印字など、紙とインクの相性があるのです)、最終的に平和紙業のエコラシャきぬ70Kgを採用した。両面印刷をすると用紙のくわえもあり微妙に表裏がずれるので、インデザインで調整(1-2ミリの誤差は機械の個体差でもある)、一冊、208頁となったのでインクパックも大量使用、エプソンの機械は給紙機構が弱いので苦労。75部製作としたので、単純計算でA4印刷15,600回、時間が恐ろしくかかった。

 製本作業の工程は、縮小した案内状複製2種と資生堂での展覧会で配付したリーフレット2枚、探求書リストの別紙を差し込んで折帖は8、各冊毎にカッターナイフで切り落とし前小口を揃える事から開始。8丁を合わせるとなると、0.5ミリ単位のズレでも品質を落とすので苦労。刃を常に新しくして対応した。続いてのパピヨン縢りは、糸鋸と千枚通しで位置を決めるも、針先が別の糸をひろって難儀するが、お針子になっているようで楽しい事柄だった。そして、工程で最も気をつけなければならないのは、背固めの方法だった。わたしの場合は、在パリのチサト(連載第20回参照)さんからレミの製本用糊を別けてもらい使用。4回塗ると丁度良い弾力となるのだが、部屋の換気には注意が必要である。これらの作業については、写真を掲載するので参考にしていただきたい。

manray22-9エプソンPX-A650


manray22-10パピヨン縢り


manray22-11同上


manray22-12背固め


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 今回の表紙デザインは、ドイツの古い小口木版からの引用。本人としては会心の作だと思う。本の売れ行きは表紙次第と云うから期待が持てる(ハハ)。表紙に使った用紙も平和紙業で、ケンラン モスグレー265kg、カバーはキュリアスIRパール103kg。ここで、苦労したのが帯の色である。A3プリンターを持っていないので、手許のPX-A650でテストした後、ゼロックス機で出力するも、イメージする色は、簡単には再現できなかった。PDFファイルを数種作って検討、何とか妥協点を導いた。

 本の構想から、資料の整理、データの抽出、写真撮影。テキストの執筆と英訳、製本工程を経てやっと、最初の一冊ができたのが2008年12月20日だった。手作業の限界かと思う75部製作は、凡そ1か月で15冊仕上げるペース、本業との兼ね合いもあり、全数を納品出来たのは、翌年の6月17日だった。量産工程に入って続く単調作業の苦痛は、やった人にしか判らないだろうね(誰もやらないか)。

 さて、『マン・レイ展のエフェメラ』を上梓し、ホームページなどで告知させていただいたところ、多くの方々から注文をいただいた。刊行者としては望外の喜びである。押し売りはしていないつもりだけど、そう感じられた友人、知人には、この場を借りてお詫びしておきたい。──「ゴメンナサイ」。でも、買っていただけると、勇気付けられるんです。世の中に受け入れられた気持ちと云うか、マン・レイも喜んでくれただろう、一人ではないのだと安心出来るのです。

manray22-13イノダコーヒ本店で最終確認


manray22-14仕上がりました


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manray22-15海外送付


 本書の刊行は海外の読者を想定したと既に書いたように、お世話になっている古書店主の他にパリやニューヨークの知人に送った。また、研究者の利用に供する事も目的の一つであり、いくつかの図書館に寄贈した。海外の公的機関における受け入れ体制を知らないが、パリのポンピドゥセンターにあるカンディンスキー図書館(限定番号59)、ロサンジェルスのゲッティ美術館(限定番号65)、ニューヨーク近代美術館(限定番号67)が蔵書に加えてくれたのは、有り難い事だった。日本の公共機関にも寄贈しておけば良かったと、今になって思う。ささやかに綴じられた紙の束が、本の形となって表紙が付けられ、美しい帯で化粧されて海外の図書館の閲覧室で頁が開かれる。マン・レイ研究の基礎資料、以前に作った油彩のレゾネと同じように、マン・レイへの愛に満ち満ちていると、本人は思ってしまうのだった(手前味噌でした)。

続く

(いしはらてるお)

■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。
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DSCF3756_600パウル・クレー
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石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第21回

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」第21回

まなざしの贈り物 2004年6月2日 銀座

21-1 はじめに

資生堂企業文化部の森本美穂さんからマン・レイの展覧会を検討しているので話を聞きたいとメールをいただいたのは2003年の秋だった。銀座本社ビルに新しい文化発信施設をオープンさせるのに伴う企画らしく、写真評論家の飯沢耕太郎氏に紹介されたとの説明だった。世界的な企業である資生堂の事業については、改めて触れないが、創業家の福原信三、路草兄弟による芸術写真(ピクトリアリズム)への功績、東京都写真美術館の館長も務められる名誉会長の福原義春氏の企業メセナ貢献など、日本の美意識を代表する企業文化によって「どのようにマン・レイが紹介されるのか」と期待を持った。──森本さんは資生堂ギャラリーの学芸員として実績のある方、でも準備期間はおよそ8ヶ月、これは大変だ。

manray21-1チーム・マン・レイの皆さん at 京都・西大路通り


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21-2 『ハーパース・バザー』誌

マン・レイのファッション写真が注目されるようになったのは、ジョン・エステンが『バザーの時代』(リゾーリ、1988年刊)を上梓した以降であり、これを基にして開かれたニューヨークの国際写真センター(ICP)での『ファッションにおけるマン・レイ』展(1990年9月7日─11月25日)が決定的な役割を果たしたと思う。生活の糧のために写真を撮ったマン・レイにとって、創造の証しである絵画の仕事が酷評され、写真ばかりが評価される屈折した感情は、特に高収入に繋がったファッション写真を憎悪する傾向となったようだ。その為に、彼の『自伝』ではあまり触れられず、筆者のような第二世代の研究者では見落とす領域でもあった。しかし、前述の展覧会カタログを開いた時、センスの良さに驚き魅了されてしまった。写真作品が素晴らしい以上に、雑誌のレイアウトに心ときめいた。紹介されていたのは1937年4月号だったが、編集長のカーメル・スノー、アート・ディレクターのアレクセイ・ブロドヴィッチによる紙面構成から、夢を見ているように感じた。
 さっそく、マン・レイの写真が掲載されている『ハーパース・バザー』誌のバックナンバー・リストを作ったものの、戦前の雑誌を実見するのは困難だった。その後、1997年に開館した神戸ファッション美術館で現物を調査、新たな掲載号も沢山見付けて購入目標一覧表を補強。すでに価格は上昇していたが、実際にネットオークションを使って海外から取り寄せたのは1998年4月が最初。資生堂からメールを頂いた頃には、およそ、30冊が集まっていた。


21-3 展覧会準備

資生堂でマン・レイ展をするとなると、ファッションに関係する作品で、エレガントなものが必要になる。京都まで来られた企業文化部の方々に、マン・レイの仕事を紹介しながら、写真や装身具の他に、ファッション雑誌の現物展示をお薦めした。銀塩の印画紙も悪くはないが、印刷原稿として軟調に仕上げる場合が多く、頁の展開によって「憧れのパリ・ファッション」を伝える雑誌の魅力の方が勝り、網目印刷の画像こそがオリジナル作品と言えるのではないかと考え、「幸い合本ではない現物が手許にあるので、そのまま、展示されたらいかがでしょうか」と続けた。この時、化粧品の資生堂ならば、女装したマルセル・デュシャンを撮った写真をラベルに用いた香水瓶を表紙意匠とした『ニューヨーク・ダダ』誌こそ、展示品に加えるべき逸品ではないかと、東京都現代美術館のコレクションにも言及した。──本当は、わたしの手許に有れば良いのだが、デュシャンに関係すると価格レンジが別になるので、とても手が出ない(涙)。

manray21-2チーム・マン・レイの皆さん at 銀座・中央通り


 年が明けてから東京へ出掛け展覧会の監修をされる飯沢耕太郎氏と一緒に工事中の会場を拝見。展示のコンセプトと1・2階に別れての構成もまとまり、具体的な作業の段階に入った。飯沢氏が「タイトルは、まなざしの贈り物。まなざしは平仮名で」と言われたのを覚えている。

 森本美穂さんとメールでやりとりしながら、彼女が次第にマン・レイを理解されていくのが判って、嬉しかった。わたしの方は貸し出す作品や資料を調整し、援護射撃を準備。カタログに使うオブジェの写真撮影を手配し、マン・レイの「略歴」を執筆。3月に入って森本さんが提供品の確認に来宅。出品承諾、保険手続きなどを経て5月15日に作品出荷。展示什器の打ち合わせやカタログ表記の校正など、詳細な報告をメールで受け取る度に、家庭人である彼女の深夜や休日にかかる発信に頭が下がるのだった。

manray21-3筆者宅で『青い裸体』を確認する森本美穂さん


manray21-4カタログ用写真撮影中の今井一文氏


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 6月3日から始まる『マン・レイ展──まなざしの贈り物』は、資生堂の新しい文化発信施設「ハウス オブ シセイドウ」の企画第2段。案内状には「様々な顔を持つアーティスト、マン・レイ。今回はファッション写真家としての作品にスポットを当てた展覧会です。写真が掲載された1920〜40年代『ハーパース・バザー』誌をはじめ、オブジェや貴重な資料も展示。その美意識は時代を超えて、今も新鮮です。」とあり、メインイメージは、未開人風のメークを施したリー・ミラーの上半身をとらえたマン・レイの写真。強い光を浴びた絹のドレスとリーの金髪が鮮やかに輝き、自立する新しい女性の到来を予告する雰囲気。エレガントにあふれ、資生堂の企業戦略と一致していると思った。


21-4 マン・レイからの「贈り物」

わたしは、家人と連れだって前日夕方からのオープニングレセプションに出席。さすがに銀座、美しい人達に囲まれてスパークリングの美味しい事といったらありません。いろいろな方に紹介される充実した一時となった。──パーテイや会場の様子については、すでにブログ『マン・レイになってしまった人の日録』に書いているので(追記参照)、ここでは繰り返さないが、掲載写真を観て頂いて、皆さんにも参加された気分を味わっていただきたい。どうですか?

manray21-5「ハウス オブ シセイドウ」並木通り(銀座7丁目5-5)


manray21-6同上1階


manray21-7「ハーパース・バザー」誌展示(1937年2月号 1936年3月号)


manray21-8同上(1935年8月号 1937年1月号)


manray21-9同上(1937年11月号 1935年9月15日号)


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manray21-10同上、オープニングレセプション


 森本美穂さんが研究紀要『おいでるみん』17号(資生堂企業文化部/資生堂企業資料館、2004年刊)で報告しているように、1階の展示は「ファッション写真とマン・レイが愛した女性たちの肖像写真」99点で、投資会社エクセのコレクション。ここには、「ハーパース・バザー」誌に掲載されたオリジナル写真との照応も数点示されている。2階の方は「マン・レイのアトリエをイメージ」しており、机型の什器三台に、わたしが提供したオブジェ(2点)やカタログ類(20点)が美しく置かれ、初公開となる資生堂アートハウス・コレクションのオブジェ(5点)と版画『天文台の時──恋人達』にコラボして、マン・レイの内面世界が楽しく表現され、好印象をもった。さすがに資生堂の仕事である。引き出し内の案内状が宝石のように輝いて、本人もおもわず見とれてしまった。展示品のリストによると、写真124、版画・コラージュ・オブジェ20、「ハーパース・バザー」誌12、その他雑誌・案内状・カタログ・書籍など21、戦前の資生堂資料19、オリジナル商品16の総計212点と云う充実した内容となっている。

manray21-11「ハウス オブ シセイドウ」2階


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manray21-12同上


manray21-13同上


 この展覧会でも、ドキメント類の制作がわたしの関心事だった。まず、用意されたカタログは、同社のデザイナー(当時)平林奈緒美さんによるもので、メモ帖、ジクソーパズル、缶バッチと共に紙箱に収められている。遊び心満載の「贈り物」で、シールを破って取り出す構造が、ちょっぴりの勇気に繋がって、口紅を塗る女心に通じるのかも知れない。もうひとつは、2階のカタログ類を身近なものにする展示用解説書で、A3版二つ折に「ダイナミックなものを削除せよ!」とある『ニューヨーク・ダダ』誌の邦訳。原物を手に取る事は出来ないが、解説書を見台で開き、80年以上前のスティーグリッツの写真を囲む言葉やトリスタン・ツァラの宣言を読むのは貴重な体験となるだろう。これに、わたしが提供したカタログ類の簡単な説明を付したシート2枚を挟んでみると、立派な資料が完成する。── でも、誰もその場限りの紙モノを残さないだろうな。

manray21-14筆者


manray21-15(左)トークショー・リーフレット(限定50部)と『マン・レイ展とキーボード』(限定5部)


 7月10日に2階のライブラリーで飯沢耕太郎氏と対談を行った。題して『マン・レイの[贈り物]……man ray istの日々』。飯沢氏は著名な写真評論家で、今展のチラシでは「センスがよくて、好奇心と冒険心にあふれていて、ちょっぴりエロテックで」とマン・レイを紹介されている。その飯沢さんの質問に答える形で少人数の参加者を前に楽しく話をさせていただいた。ファッション写真や美しい女性に触れたのは当然だけど、わたしのマン・レイ人生についても話をした。マン・レイがニューヨークで会社勤めをしていた頃を振り返って、仕事をしながら頭の中ではパリへ行く事を夢見ていたと書いている(『自伝』美術公論社、1981年刊、26頁)のに関連して、「仕事中も、マン・レイの事ばかり考えています。頭の中は外からでは判りませんから」と話すと、「そんな事を言っていいんですか」と笑いながら飯沢氏に返された。そして、名古屋アバンギャルドの水脈が、山本悍右先生から東松照明氏を通してわたしの処にまで続いていると云う指摘に、「悍右さんから、特別の写真論と云うのは聞きませんでした」と話すと「みなさんそうなんですよ、身近に居ることで影響を受けるんです」と納得させられる話しの展開だった。さすがに飯沢氏だと有り難く思った。対談の後半でマン・レイのアトリエを訪問した折のスライドを観てもらったのだが、2階の会場は「マン・レイのアトリエをイメージ」されているので、作品と資料に囲まれながらの「トークトーク」は、きっとフェルー通りに誘われたような臨場感にあふれていたのではないだろうか。尚、石原コレクションの出品リストも兼ねたリーフレットを作成し、参加者にお配りした。生写真貼り付けの洒落た体裁だと自画自賛している。

 展覧会は7月18日まで開かれ、41日間の会期中来場者は13,104名。メディアへの露出も多く、月刊誌の他にNHKのEテレや週刊新潮、新聞では東京新聞で旧知の中村隆夫氏、朝日新聞で飯沢耕太郎氏が寄稿された。贔屓目に観ても成功した展覧会だったと思う。

manray21-16森本美穂さん


 お貸しした作品は、8月1日に無事帰着。前年から頻繁にメールで情報交換を行っていた森本美穂さんによると、総じて男性の観客は2階の展示を熱心に楽しまれた様子だと云う。会場に詰めたのが4日間だけだったわたしとしては、彼女からのメールで展覧会の準備から撤収までをライブ演奏で聴く機会に恵まれ、幸せなコレクターの日々であったと思う。感謝の意味を込めて、資生堂のスタッフの方々と交わしたメールを転記して『マン・レイ展とキーボード』と題する本を上梓した(銀紙書房、2004年刊、限定5部)。

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manray21-17東京駅にて


 さて、残念な事に「ハウス オブ シセイドウ」は、本社ビルの建て替えに伴い2011年3月31日に閉館。森本美穂さんは資生堂を離れ、現在は文京区立森鴎外記念館で活躍されている。

続く

(いしはらてるお)


追記 筆者の(旧)ブログ『マン・レイになってしまった人の日録』での展覧会報告は下記を参照。

オープニング: June 2-3, 2004 http://www.geocities.jp/manrayist/daybook2004-6.html
トークショー: July 11, 2004  http://www.geocities.jp/manrayist/daybook2004-7.html

■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。

●今日のお勧め作品は、中山岩太です。
20151205_nakayama_02中山岩太
「無題(パイプとグラスと舞)」
1932年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
23.0x29.0cm


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◆石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第20回

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」第20回

パリ・国立図書館 2002年11月12日 パリ

20-1 アトリエ・チサト

21世紀に入ると海外への書籍注文は、国際電話でのFAXからインターネットのメールに移った。ダイヤルアップ接続の為、料金を気にしながら利用していたのが、定額のブロードバンド接続に変わり、検索サイトも次第に充実していった。「Man Ray」と打ち込めば、たちどころに在庫品と価格が表示されるのだから面白く、円高の恩恵にあずかりながら熱心にパソコンに向かった。

 通信の発達によって世の中は狭くなり、構造も変化したと思う。2001年9月にアメリカで同時多発テロ発生、日本では底の見えないデフレ不況の坂道。わたしの周りでは取引先の流通大手マイカル、続いて九州を地場とする寿屋の倒産といった激震。経済生活の面では最悪の環境となっていた。そうした中でも、収集にブレーキを掛けられないのだから、「マン・レイ狂い」とは、困った不誠実な人間なのだと、あらためて反省する。──家族の支えがあってこその人生です。

 その頃、ツァイト・フォト・サロンのホームページにリンクが張られていた。「マン・レイ資料」として、わたしが紹介された他に、「シュールレアリズムについての資料: アトリエ・チサト(Paris)」とあるのに気付いて、「マン・レイの展覧会資料、パリの街にありませんか?」とすぐにメールで問い合わせた。チサトさんはわたしの事を知っていた様子で、アンドレ・ブルトンの初版本も扱ったと云う折り返しのメールには「お店は構えていないのですが1990年から独立して日本向けに主にフランスの版画、イラストブック、専門はシュルレアリスム」とあり、「欧米向けには日本のモダンフォトから70年代の写真集を扱っています。これから日本の写真もやってみようと奮闘しているところです。」と続けて、石原悦郎さんとはパリで時々お会いする間柄との事だった。

 さっそく探求資料のリストを送ったところ、パリの国立図書館で1962年に開催された『マン・レイ写真展』のカタログをお持ちで、お願いすると廉価で提供してくださった。彼女とは不思議な赤い糸で繋がっているように思う。関心領域がお互い重なった関係からかスムーズに付き合いが始まったのは云うまでもないが、すでに拙著『封印された指先』(銀紙書房、1993年刊、限定20部)を求めておられたようで、この本で紹介した未収カタログのひとつが、今回、提供してもらうものだった。


20-2 赤いカタログ

リュシアン・トレイヤール氏のコレクションから文献資料が招来され、横浜美術館で展示された時(1991年4月)、赤い表紙にオリジナル写真が貼り付けられたカタログが、ひときわ目に付いた。写真は1926年とサインの入った「ウッドマン氏」の印画を複写したようで(右下にサインと年記)、球と円錐の間で倦怠感がただよっている。複写原版からとはいえ印画紙の光沢具合からオリジナル写真と言ってよく、モデル人形がベットサイドに居るようにも思えてエロテック。ここに自作絵画の写真に対する身に覚えのない劣等感、マン・レイの屈折した距離感を読み取ったのはわたしだけではないだろう。美術館の展示ケース越しに想像だけが膨らんで困ったのを覚えている。

manray20-1カタログ


 それから凡そ10年、拙宅のコレクションにこのカタログが加わる事になった。チサトさんからの書留便を開き、手に取ると表紙の赤い水彩紙に白インクで「国立図書館/マン・レイ/写真作品/パリ/1962」と刷られ、写真が糊付けされている。実測してみると7.4×9.4cmで微妙に曲がっている。鋏で切ったのだろうか? 糊の具合も気楽な案配で、フランス人の不器用さの証明のようになっている(失礼)。本紙に図版はなく、ロネオタイプ(輪転式謄写印刷機)による片面刷りテキスト18枚(36頁)。判型は26.2×20.9cm。序文をジュリアン・カーン、解説をジャン・アデマール、リスト補足には、エヴァン・パスケも加わって執筆。展示は76点で、I.前写真(クリシュベール、アエログラフ、レイヨグラフ)、II.写真、III.ドキメントの3章から成り、ファッション写真が含まれていない事などから、マン・レイが知ってもらいたい写真家としての自身の像がおおよそ理解できる。リストを確認するとアンドレ・ブルトンやトリスタン・ツァラから借りた写真も多い。展覧会は前年に開かれたヴェネチア・ビエンナーレでの金獅子賞受賞(写真部門)の流れから、パリへの凱旋展とする思惑があったのかもしれない。


 図書館司書による手作り感あふれるカタログを書棚に収め、ニコニコしながら2002年を終えた。チサトさんとはメールを使って、情報のやりとりを行うようになり、パリの古書業界やオークションについて様々なご教示をいただいた。


20-3 京都の夜

わたしが出会い、長くお付き合いする事になる人には、シュルレアリスムや写真と云った共通する関心領域の他に、「お酒好き」と云う条件が加味される。翌年の8月、チサトさんが帰国された折、京都まで足をのばされたのでお会いした。指定された場所が二条通東洞院東入ルの日本酒バーだったので、「お仲間」だと予感。台風が近づいていた夜で、わたしは下駄履き、濡れる足と酒の酔いが気持ちよく、共通の話題で盛り上がった。チサトさんも「お酒好き」だが、同行のパートナー、古書店主のオザンヌさんも同じで、特に日本酒に関心があるようだった。翌日、拙宅にお招きしてささやかなコレクションを披露。マン・レイ資料の他に古書業界の事情なども直接お聞きした。

manray20-2烏丸二条通東入ル


manray20-3オザンヌ


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manray20-4木屋町・八文字屋


manray20-5木屋町・たこ入道


 お二人は、その後も何度か京都に来られ、木屋町や祇園などで歓談。── ある夏の夜、ほろ酔い気分で石塀小路から高台寺へ歩きながら、『マン・レイ写真集 1920─1934 巴里』の話になったところ、一番珍しいのは「初版で帯付き」と教えていただいた。わたしが架蔵しているのは第二版だが、同書は低調な売れ行きを隠すため、意図的に「第二版」として販売され(リング綴じなので差し替え)、オザンヌが扱った初版のタイトル頁は「PHOTOGRAPHS / BY MAN RAY 1920 PARIS 1933」だったと指摘された。年記のズレから出版事情を明かす貴重な資料を、彼はどんな売価にしたのだろうかと、売れてしまった品物の行き先を思った。闇に包まれた霊山観音では三人の他に人影はなく、わたしは夜空を見上げ「帯」の意匠を想像した。でも、ここは京都、パリは遠い。

manray20-6祇園甲部・花見小路通


manray20-7八坂・旧竹内栖鳳邸



20-4 珍品ポスター

インターネットの検索サイトも、古書だけでなくオークションにも拡大されるようになって、2007年10月5日、ドルオーでのポスターセールに、前述の国立図書館で開催された『マン・レイ写真展』のものが出品されるのを知った。ムルロー工房の刷りでサイズは55.5×45cm。落札予想価格の表示は高いけれど、是が非でも入手したいと思案。前回(連載第19回)報告したように、ドルオーのオークションに参戦すると、ピックアップに苦労すると予測されたので、チサトさんに相談。彼女は快く状態の確認とビットの代行を引き受けてくれた。それから「いくらまで入れましょう」と、なんどか作戦メールのやり取り……

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 さて、「入手した。」と連絡を受けた時ほどの喜びは他にありません。メールだと時差に悩まされないから大助かり。会場では電話入札のアメリカ人と、競り合った関係で、落札価格が跳ね上がったとの事。でも、資金の目処がつけば、価格は関係ない。
 さっそく、チサトさんに「お早うございます。いや、そちらでは、お休みなさいですね。今日は有難うございました。わたしのように、このポスターに気付いた人物がいたのですね。世界でマン・レイ・コレクターは10人程度と思っていますが、紙モノまで視野に入れた本当のクレイジーは、わたしだけだと油断してはいけなかったですね(笑)。いつか、電話でビットしていたアメリカ人と出会うことがあるでしょう、世の中は狭いですからね。」とメールを送った。現物は10月6日パリ発で11日京都着、完璧な梱包で安堵した。

manray20-8展覧会ポスター


 取り出すと、ポスターもカタログと同じように手作り感あふれる仕上がりで、マン・レイの白ヌキ文字を入れたシルエットが、パトローネのようにも、暗箱カメラの蛇腹のようにも見える。だれがデザインしたのだろうかと、ほのぼのとした気持ちになり、部屋に飾って終日眺めて過ごした。


20-5 2名様まで

ポスターを入手した頃には、拙宅のパソコンもiMACに移行しており、回線スピードも高速になっていた。ホームページでのブログ書き込みも、SNSが主流となってミクシー、さらに2007年からはヤフーの「はてなブログ」を利用するスタイルに変へた。ブログ「マン・レイと余白で」を訪問してくれた方が、新しい資料を提供してくれる事もあって、楽しい毎日をおくっている。最近ではFBにも参加しているが、スマートフォンを持っていないのでLINEまでには手を拡げていない。振り返って思うのだが、情報収集のやり方を変えていかないと、マン・レイ資料の鉱脈は途絶する。一つのアプローチではおおむね5年かと経験的に思う。世界的な古書サイトであるAbeBooksも、アマゾンに回収され、ネットオークションへの出品も平凡なモノばかりとなった。新しい鉱脈を探しているけれど、これは難しい。

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manray20-9エマニュエル・ユタン書店(グーグル・ストリートビュー)


manray20-10開会式招待状


 3年程戻るが、AbeBooksにまだ魅力があった2012年2月、エマニュエル・ユタン書店の出品に開会式の招待状が現れた。オークションとは異なるので直ちにクリック。ストリートビューを覗きながらパリ8区のアルジャンソン通りの赤く塗られた書店に思いをはせた。数日して京都にやってきた現物は10.5×13.5cm。筆記体で示された「マン・レイ」の文字は緑色で、開会式は5月22日(火)15時「2名様まで」とある。可愛くてお洒落。こんな招待状を受け取るコレクターとしてパリに住んでいたら素敵だろうな、でも1962年だから、わたしは10歳か(笑)。

 こうして、過ぎ去った展覧会を現代に蘇らせる三種の神器(カタログ、ポスター、カード)が揃った。チサトさんとオザンヌとの出会いがなかったら招待状までには至らなかったと思う。有難う。パリの街でもお話したいですね。

続く

(いしはらてるお)

■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。

●今日のお勧め作品は、マン・レイです。
20151105_ray_08_newyork-duchampマン・レイ
「ニューヨークのマルセル・デュシャン」
1921年
ゼラチンシルバープリント
Image size: 28.0x21.0cm
裏面にスタンプあり


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石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」 第19回

石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」第19回

封印された星 1999年6月22日 パリ

manray19-1平木収氏 at 川崎市民ミュージム


manray19-2筆者 同上(撮影:平木収氏)



19-1 パリ6区モンパルナス大通り159番地

川崎市民ミュージアムへ学芸員(当時)の平木収さんを訪ねたのは、『写真家・濱谷浩』展が終わっていたから、1989年6月だったと記憶する。アッジェやマン・レイの話を学芸員室でしていると、フォトグラムの世界的研究者フローリス・ノイスス氏の仕事まで教えて頂く事になり、資料収集については連絡をとったら良いのではとの助言をもらった。さっそくカッセルにお住まいのフローリスへ、わたしが所蔵する『エレクトリシテ』の資料と古書店の住所を尋ねる手紙を送ったところ、氏からは瑛九についての問い合わせと共に、追記としてアメリカとフランスの古書店情報が送られて来た。
 その一つであるクロード・オッテルロー氏の書店については、パリの古書店が集まるカルチェラタンから離れた場所としか知らなかったので、モンパルナス大通りの159番地と分かって、直ぐに在庫品を問い合わせた。「書籍、写真、版画の他に、カタログ、ポスター、案内状と云った個展関連の品物を特に希望する」としたところ、氏から7点の回答があったので、1948年にコプリー画廊で開かれた個展カタログ『告示なしにあり続けるために』を注文した。最初に手紙を書いてから、受け取るまでに2か月を必要とする、ゆったりした時代だった。
 こうしてマン・レイ関連の入荷があると知らせてくれるようになったオッテルロー氏は、ダダ・シュルレアリスムのエキスパートで、エフェメラ類に市場価格を付した業績が評価されると、パリの関係者は言っている。── 価格が付かなければ、市場に現れないわけで、収集家としては、諸刃の剣。氏はドルオーでのオークション・カタログも定期的に手配して下さるようになって、毎回、楽しみに到着を待った。マルセル・デュシャンを中心とした1999年6月22日の売り立てにはマン・レイも76点出品され、電卓片手にどれだけ興奮したか。── メモによると1FFが19.56円、落札予想価格は低く抑えられているようだけど、手許資金と相談しつつ(自分にするのだから心許ない)、というか、図版で紹介されているロットは僅かで、説明文から想像しての検討になるのは、現地でオークションに参加できない者にはいたしかたない事だった。多くのロットに旧蔵ジュリエットとあるし、1912年の水彩裸婦など欲しい物ばかりだったが、展覧会のポスターでサイン入りと云うのが、ドルオー初参戦の身には妥当だと思え、予想価格の倍以上の指し値で臨む事にして、オッテルロー氏にFAXを入れた。

manray19-3ドルオー オークション・カタログ


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 ロット番号226: マン・レイ 展覧会ポスター、ギャラリー『封印された星』、1956年。サイズ55×36cm, 額入り。有名な自画像をクラフト紙に印刷。表面に鉛筆サイン。

 説明文にあるギャラリー『封印された星』は、第二次世界大戦が終わってパリに戻ったアンドレ・ブルトンが関わった画廊で、中断を挟みながら1952年から56年までの間に、エルンスト、マン・レイ、ラムの他に、ブルトンのプロモートによって、シモン・アンタイ、トワイヤン、スワンベリ、モリニエなどの若い作家の展覧会も多数開いている。実は、ドルオーでオークションが開かれた前の年に、『マン・レイ 非・抽象』と黄色い紙に刷られた案内状を入手していたので、「室内の毛皮漁師」「シャッターの王子」「不動の遊戯者」と様々に友人マン・レイを讃えるブルトンの詩を読みながら、出品リストのタイトルから、展示構成を想像していた訳である。──詳細はいずれ報告するつもりであるが、狭い会場だったと聞く。

manray19-4『マン・レイ 非・抽象』展案内状


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 オッテルロー氏の店とドルオーでの下見会を経て、オークションは火曜日午後2時開始。現物を確認しないままの不在入札は不安とはいえ、ポスターへの期待がたかまって、落札の結果を待った。

 さて、勝者となって指定された銀行へ送金したのは良いのだが、発送手配に関する見積もりがいつまで経っても送られてこない。催促のFAXをしても返事はなく、パリがバカンスのシーズンに入ってしまうと困ると思っていたら、数日して夜中の3時頃(時差があるから)に電話が鳴った。寝ぼけて受話器を取るとオッテルロー氏で、ポスターをどうするかの確認だった。一般的にオークションの開催者は落札品の発送代行をやらないので、不在入札の場合は業者を探さなくてはならない。これを、氏に上手く伝えられたかと、受話器を置いてから不安になった(ドルオーの初心者は、なにも知らなくていけません)。

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manray19-5遠藤ビル
ON GALLERY(2F) ギャルリー・メゾン・ド・ヨウコ(3F)などが入居。



19-2 大阪市北区西天満4-5-8

大阪西天満の老松町には画廊や骨董店が多数並んでいる。その一つで西洋アンティークを扱うギャルリー・メゾン・ド・ヨウコを知ったのは雑誌『版画芸術』の広告欄にマン・レイが紹介されていた為だった。訪ねてみると美人姉妹が経営される店で、アール・デコやアール・ヌーボーのガラス製品を中心に扱っておられた。妹のYさんは、直接パリで買い付けをされる関係からか、画廊やオークションの情報に詳しく、マン・レイの市場動向についても有意義な話しを沢山聞く事ができた。「エフェメラが好きなんです」と伝えたところ、『マン・レイと女性達』をテーマとした展覧会の案内状(1993年)や、サザビーズの『マン・レイ』オークションの案内状(1995年)などを、「パリ土産です。」と下さったりした。いつも世間話をしながら珈琲を頂くばかりで、買う事のない「困った客」と迷惑がられていたと思う。

manray19-6ギャルリー・メゾン・ド・ヨウコ マン・レイの『釣人の偶像』も置かれている。


 1999年6月末も、たまたま顔を出して世間話をしていたところ、丁度、Yさんがパリに出掛ける予定と聞いたので、前述のオッテルロー氏の件を打ち明けてしまった。彼女は心優しくわたしの要望を聞いてくれた。そして、7月15日付けでパリから届いたFAXには、ポスターはそのままオークショナーの所にあり、日本へ郵送する準備はされていないと説明されていて、「行って良かったです。あのままではMan Rayのポスターはいつまで待っても石原さんのもとへは辿り着きませんでした。」「早速、オークショナーの所へ行き引き取ってきました。7月25日、日本着で、私が持って帰りますので、どうぞ、御安心下さいませ。」── 深夜に、FAXを受信してどれほど嬉しかったか。Yさん有難う、恋人の帰国を待ち焦がれる気分です。

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manray19-7『マン・レイ展』ボスター at 封印された星


 7月31日(土)、対面したポスターに見入ると、前日内覧会を1956年4月24日(火)21時から始めると印刷した横に、手書きで会期を「5月16日迄」と補足し、マン・レイのサインが書き込まれている。「台紙に貼られた状態だったので、スーツケースに入れて。丁度、入る大きさでした。」とYさん。チープでありながら、茶色のクラフト紙には光沢があって、お洒落な仕上がりになっている、前日内覧会を告知するポスターに会期を補足するのは、掲示された上からだったのか、あるいは、確定が遅かったので、後に追記して掲示したのか、そんな経緯が妙に気に掛かる。これは、その場所にわたし自身も居たかった気持ちの現れだと思う。そして、Yさんはパリで見付けましたと、フランシス・トリニエ画廊(1972年)とアメリカン・センター(1977年)での『マン・レイ展』ポスターを見せてくれた。もちろん、有り難く購入させていただいた。幸せは続きます。

manray19-8『マン・レイ展』ボスター at フランシス・トリニエ画廊


manray19-9Yさん


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19-3 京都市伏見区納所北城堀49

このように、多くの人たちに助けられながら、わたしは収集を続けている。改めて冒頭に掲げた平木さんの写真を見ながら、彼は誰と話をしていたのだろうかと想像した。写真の実作者として始めた独自の視点で論じられた評論や研究。美術館を辞した後の、若い人々への真摯な指導。国内のみならず世界中を軽快に移動された写真への関心は、人間へのそれと同じだったと思う。20年の後に京都写真クラブ(代表、森岡誠)の酒席で、アルル写真フェスティバルやマン・レイが滞在したイストリアル・ホテルの話題などを聞かせてもらいながら、出会いの不思議に感謝した。すでに、平木さんの体調はすぐれない様子だったが、ワインがお好きなのは変わらず、呑み始めると止まる事なく、いつまでもお話を聞かせていただけるものと安心していたところ、2009年2月、還らぬ人となってしまった。食道癌だったと云う。享年59。

manray19-10五條楽園歌舞錬場
「THE PHOTO ENKAI」舞台からパチリ
2005.12.25


manray19-11同上
中央に平木さん


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 友人の写真家、金井杜道氏の呼びかけで、翌春から毎年、平木さんを偲び、伏見の古刹を訪ねるようになった。ある年などは桜吹雪が舞って、美しい事このうえない風情。線香の煙に包まれ、冷酒で語り合う「封印されない写真」の立ち位置。平木さんの笑顔が懐かしい。

manray19-12平木収さんを偲ぶ会
2015.3.29


続く

(いしはらてるお)

■石原輝雄 Teruo ISHIHARA(1952-)
1952年名古屋市生まれ。中部学生写真連盟高校の部に参加。1973年よりマン・レイ作品の研究と収集を開始。エフェメラ(カタログ、ポスター、案内状など)を核としたコレクションで知られ、展覧会企画も多数。主な展示協力は、京都国立近代美術館、名古屋市美術館、資生堂、モンテクレール美術館、ハングラム美術館。著書に『マン・レイと彼の女友達』『マン・レイになってしまった人』『マン・レイの謎、その時間と場所』『三條廣道辺り』、編纂レゾネに『Man Ray Equations』『Ephemerons: Traces of Man Ray』(いずれも銀紙書房刊)などがある。京都市在住。

●今日のお勧め作品は、ジェリー・N・ユルズマンです。
20151005_uelsmann_02_Untitledジェリー・N・ユルズマン
「Untitled」
1982年(Printed later」
ゼラチンシルバープリント
34.5x26.7cm
裏面にサインあり


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◆ときの忘れものは2015年10月1日[木]―10月10日[土]の短い会期ですが「秋のコレクション展〜詠み人知らず」を開催しています(日曜、月曜は休廊です)。
20151001_5

普段ご紹介する機会の少ないちょっと渋めのコレクションを選びました。どうぞお出かけください。
tokinowasuremono
緑豊かな青山のギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱い、毎月企画展を開催しています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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