深野一朗のエッセイ

深野一朗「ドイツに200人」

深野一朗のエッセイ

[ドイツに200人]

現在実家JIKKAでは飯山由貴さんの個展を開催中で、昨夜は武蔵大学教員の香川檀(かがわまゆみ)先生をお招きして、

「忘却に抗うアート ドイツの記憶アートから考える」

というテーマでトークがありました。

飯山さんはネット・オークションで落札したスクラップ・ブックを手掛かりにリサーチを行い、それをインスタレーションなどで表現する作家さんです。
リサーチ・タイプの作家さんと言われて、素人の僕でもすぐに思い浮かぶのは英国のサイモン・スターリング、我が国では眞島竜男さんや田村友一郎さんもそうでしょうか。

リサーチの対象となるのは、歴史に埋もれた事実や表では語られることのない裏の歴史などが多いのですが、歴史学者はリサーチの結果、新たな歴史を提示するのが仕事であるのに対して、アーティストはそこで掘り起こされた「固有」の事柄から、いかに現代にも通用する「普遍」のテーマを表現するのかが問われます。

今回飯山さんがリサーチの対象としたのも、我々日本人が知らなくてはならない、そして忘れてはならない歴史の断片ですが、この「忘れてはならない」アートの先進国(?)がドイツであるということで、香川先生とのトークはそれがテーマになりました。
ドイツが忘れてはならない歴史というのは、言うまでもなく第二次世界大戦におけるナチスによるホロコーストです。本来ならば、加害者としてもまた早く忘れたい忌まわしい記憶を、敢えて忘れないために「痕跡」として残す。ドイツにおける痕跡としてのアートを香川先生は、スライドを使って見せてくださいました。
01ユダヤ人のボルタンスキー

02ベルリン生まれのヨッヘン・ゲルツ

0372年にドクメンタ(カッセル)、78年にはミュンスターの彫刻展に参加しているレベッカ・ホルン。2009年には都現美で個展も開催されています。

04女性作家のジークリット・ジグルドソン

これらの作家たちについて香川先生はご著書も出されています。
05想起のかたち―記憶アートの歴史意識
作者: 香川 檀
出版社/メーカー: 水声社
発売日: 2012/11
メディア: 単行本

香川先生によると、ドイツにおけるこれらの「記憶アート」は80年代中盤から急増したといいます。
80年代中盤というのは、「68年世代」、すなわち68年に世界で同時多発的に生じた異議申立に学生として参加していた連中が、教員や指導者になった時代です。
ドイツ人にとって、かつての忌まわしい過去から脱却し、新しい世界を作る手段として現代美術が有効に機能したと香川先生は仰います。実際、ドイツで現代美術の展覧会に行くと、お年寄りの多いことに驚かされるそうです。
ミュンスターの彫刻展が始まった背景にもそれは深く関わり、とりわけ戦中に生を受けた68年世代にとって新しい一歩を踏み出すための足掛かりとして盛んに制作されたのが「記憶アート」だったとのこと。

このお話しを伺って僕は、ドイツ人の現代美術コレクターのことを考えました。

昨年の暮れから今年の2月にかけてNYのMoMAでは“Tokyo 1955-1970”と題して日本の前衛美術を紹介する展覧会が開催されました。同じく2月からはNYのグッゲンハイムで“Gutai: Splendid Playground” と題して「具体派」の展覧会が開催されました。その後春にはLAのギャラリー、ブラム&ポーで日系アメリカ人の吉竹美香さんによってキューレーションされた「もの派」の企画展「太陽へのレクイエム:もの派の美術」が開催。7月からは東京の新美で『「具体」−ニッポンの前衛 18年の軌跡』が行われました。さらに今年のヴェネツィア・ビエンナーレ会期中にはスーパー・コレクターのピノーが自身の美術館プンタ・デラ・ドガーナで『プリマ・マテリア』と題して、もの派とアルテ・ポーヴェラを同時に見せるという展覧会を開いています。

これだけ見ていると、まるで世界的に「もの派」や「具体」が再評価され、ちょっとしたブームになっているかのようです。
それとドイツ人コレクターに何の関係があるのか。

最近こんな本を買いました。
06現代美術コレクションの楽しみ―商社マン・コレクターからのニューヨーク便り
作者: 笹沼 俊樹
出版社/メーカー: 三元社
発売日: 2013/07
メディア: 単行本

この本の中で著者の笹沼氏は自身の古い日記から抜粋しているのですが、1990年6月12日の日記に、

白髪はドイツで、非常に重要な作家になっている

と記しています。さらに笹沼氏は91年6月16日のバーゼル(・バーゼル)で、ベルリンから参加していたノートルファー画廊のオーナーから、

白髪のコレクターはドイツに200人ぐらいいる

と聞かされています。そこで笹沼氏は価格面から検証します。

90年1月に東京画廊で開催された白髪の個展での価格は以下の通り。制作年はいずれも88〜89年です。
181×227センチ:330万円
194×260センチ:400万円

一方90年6月にパリのスタドラー画廊にあった61年の白髪は、
162×130センチ:約770万円

そして91年のバーゼルで前述のノートルファー画廊が付けていた白髪の価格は、
195×130センチ:約2,320万円(61年制作)
81×116センチ:約1,485万円(62年制作)

制作年の違いという事実を差し引いても、当時の日本では想像すらできないこの驚嘆すべき価格の背景に「ドイツのマーケットでの需要の裏打ちがある」と笹沼氏は書いています。

1986年の暮れからパリのポンピドゥーでは「前衛芸術の日本 1910-1970」展が開催されていますから、北米はともかく、欧州で日本の前衛が当時すでに評価されていたのはなんとなく分かるのですが、ここで驚いたのはドイツのアート・コレクターの層の厚さです。

先述した90年の東京画廊での白髪は大作8点が全て完売しました。90年。そうバブルです。
泡がはじけた我が国で再び白髪が売れるようになったのは2006年。この年の12月に笹沼氏は銀座の複数の画廊で、
「白髪一雄の作品が、急に、売れ始めた」
と聞かされました。この時ですら買い手は、欧州のコレクター、遅れてアメリカのコレクターだったそうです。
恐らく欧州の市場で白髪の作品が払拭し、ようやく「本国」の我が国にコレクターが目を付けたのでしょう。銀座の画廊が英語によるHPを完備していたら、それよりもっと早く売れていたに違いありません。

インゼル・ホンブロイヒ美術館のカール・ハインリヒ・ミュラーぐらいしか知らなかった僕にとって、このドイツのコレクター層の厚さは驚きでした。

ドイツ人にとって現代美術は、戦後の新しい価値観の創造に有効な役割を果たしている。

現代美術にお詳しい方には周知の事実かもしれませんが、「美術オンチ」の僕には、笹沼氏の著書で知ったドイツ人コレクターの層の厚さと、昨日の香川先生のお話しが、ピタリと符合して、トークを聴きながら一人勝手に合点していたというわけです。

それにしても、まだまだ知らないことは沢山ありますね。

だからこそ楽しいのは言うまでもありません。
ふかのいちろう

深野一朗さんのブログ「ジャージの王様」2013年9月8日付記事より転載

*画廊亭主敬白
久々の深野さんの登場です。
それにしてもコレクター歴のそんなに古くない深野さんの猛勉強ぶりには驚かされます。
笹沼さんの著書「現代美術コレクションの楽しみ」は、珍しいヨコ組み、ちょっと読みずらいと思ったのですがあまりの面白さに一気に読了。

「自分の好みの作品をコレクションしているのだから、それでいいんですよ。価値が出なくても・・・・」感情にまかせて一途に動くコレクターからよく聞く言葉だ。やがて、(後略)

「美術書」を丁寧に読み、「美術館」に足しげく通い、優れた「画商」との出会いを積極的につくる。日々研鑽、過去に学ぶ姿勢は闘うコレクター笹沼さんの面目躍如。
ぜひ一読をお薦めします。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子さんのエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・土渕信彦さんのエッセイ「瀧口修造の箱舟」は毎月5日の更新です。
 ・君島彩子さんのエッセイ「墨と仏像と私」は毎月8日の更新です。
 ・植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は最終回を迎えました。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
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 ・井桁裕子さんのエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
  バックナンバーはコチラです。
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 ・浜田宏司さんのエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
 ・深野一朗さんのエッセイは随時更新します。
 ・荒井由泰さんのエッセイ「マイコレクション物語」は終了しました。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。

今までのバックナンバーはコチラをクリックしてください。

●カタログのご案内
表紙『具体 Gコレクションより』展図録
2013年 16ページ 25.6x18.1cm
執筆:石山修武 図版15点
略歴:白髪一雄、吉原治良、松谷武判、上前智祐、堀尾貞治、高崎元尚、鷲見康夫
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深野一朗のエッセイ「ヤノベさんと松本竣介」

ヤノベさんと松本竣介

       深野一朗


昨年初に「アート宣言」をして、これからはアートを楽しもうと決意した矢先に我が国を襲った未曾有の災害。
今回の地震がこれまでと違うのは、それが原発を壊し、放射能を漏出させたことです。
甚だ不謹慎に思われるかも知れませんが、「原発事故」、「放射能漏れ」で真っ先に考えたアーティストがヤノベケンジさんでした。

磯崎新さんや倉俣史朗の原風景が敗戦後の焼け跡と瓦礫の記憶だったのに対し、65年生まれのヤノベさんの原風景は大阪万博の会場跡地にありました。
未来は廃墟。世代も年齢も親子ほど違う磯崎さんとヤノベさんが、大阪万博を契機に同じヴィジョンを共有していたことが面白い。
サヴァイバル。
これがヤノベさんの作家活動のテーマでした。その集大成ともいえるのが、アトムスーツ・プロジェクトです。ガイガー・カウンター付きの放射能防護服「アトムスーツ」を著たヤノベさんが、子どもの頃に感じた「未来は廃墟」を追体験するために旅をするプロジェクトです。
ところが、チェルノブイリを訪れたヤノベさんは、そこで自らの活動を見直さざるを得ない経験をします。そこには事故後もなお現地に留まり、極力普通の生活を続けようとしている人びとが居ました。そのような場所に、独りだけ防護服に身を包み、こうやって話している自分とは何なのか。
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(以下、2007年発行「トらやんの大冒険」あとがきより)

1997年6月、私は放射能防護服「アトム・スーツ」に身を包み人類史上最悪の原発事故を起こしたチェルノブイリを訪れた。
大阪万博跡地で幼少を過ごした体験から「未来の廃墟への巡礼」をコンセプトに、アートで社会問題を提示する。それがただ安っぽい正義感と浮ついた功名心にとらわれていた事に気付くのに左程の時間はかからなかった。

その地に足を踏み入れたとたんロマンチックな幻想は粉々に打ち砕かれる。
廃墟となった街の、朽ち果てた観覧車や映画館を見ているうちはまだ平気だった。動揺が走ったのは高放射能濃度で居住を禁止されている区域の森に住む人々に出会ってしまった時である。住み慣れた村に戻って来た老人、母親と二人で住まざるを得ない3歳の少年。防護服の私を歓迎する人なつこい森の住人達の笑顔とは裏腹に、ヘルメットの中の私の顔は困惑に歪んでいた。
あれから10年。作品を作り発表を続けた行為は、あの日出会ってしまった人々への答えを求めるあがきみたいなものである。表現の名の下に人間の魂を忘れかけていた若き日の自分を更生させる格闘の旅でもある。その旅はいまもまだ終わらず、あの時拾い上げた人形と壁に描かれた太陽とともに、まだしばらくは続けて行く事になるだろう。

(以上、2007年発行「トらやんの大冒険」あとがきより)

サヴァイバルからリヴァイバルへ。
ヤノベさんは活動のテーマを大きく切り替えました。
「子供たちに未来を与えられるものを作りたい」

そんなヤノベさんが、震災と原発事故を受けて、いったいどんな表現をするのか。
僕はそのときを待ちました。

2011年7月に山本現代で開催された『アトムスーツ・プロジェクト:大地のアンテナ』展はやや拍子抜けするものでした。それは10年前に制作されたものだったのです。
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(写真は山本現代さんのブログより拝借しています。)

震災からわずか4ヶ月。新作など発表できるはずもありません。ヤノベさんの作品はスケールが大きく、プロジェクト・クラスのものがほとんどです。しかも、原子力、放射能というものを一貫して扱ってきたヤノベさんです。僕のみならず、誰もがその動向に注目していました。本人の意向とは無関係に高まる「期待」。わずか4ヶ月で「答え」など出せるはずがないのです。

しかしその3ヵ月後、僕は早くもヤノベさんの「答え」を東京で見ることが出来ました。青山の岡本太郎記念館で公開された『サン・チャイルド』です。
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右手に持つ太陽は、岡本太郎の太陽であり、ヤノベさんがチェルノブイリの幼稚園で見た、子どもが描いた太陽の絵がモチーフになっています(上掲写真参照)。希望のシンボルです。

館内には小さなフィギュアも展示されていましたが、それを見たときには不覚にも泣きそうになってしまいました。

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傷だらけの顔で、目を見開いて、上を見上げるこども。左手には頭から外したヘルメットが乗ります。もうヘルメットが必要ない世界。津波で親を失ったこどもたちのことがオーバーラップして、胸に迫るものがありました。
これはヤノベさんの最高傑作ではないでしょうか。

ところで、この『サン・チャイルド』を見たとき、ある既視感を覚えました。

松本竣介の『立てる像』(1942年)です。

今年生誕100年を迎えるこの夭折画家の傑作は、鎌倉の神奈川県立近代美術館に行けば大概見ることが出来ます。現在は「生誕100年展」で全国を巡回しており、おなじみときの忘れものさんのブログでは、植田実先生が建築の専門家らしい独自の視点で竣介の新たな世界を切り開いています。

竣介の『立てる像』については植田先生に譲るとして、僕はこの絵をはじめて観たときにも、ある種の既視感を覚えたものです。

それは、プラハで観た税関吏ルソーの『私自身:肖像=風景』(1890年)です。
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ルソーはほかにも立像を描いていますが、自身を描いたこの一枚はなかでも有名なものです。

ルソーと竣介の立像は自画像ですが、ヤノベさんの『サン・チャイルド』は子どもです。
ただ、これは太陽の子、太郎の子であり、太郎の子=ヤノベさん自身でもありますから、自画像でもあるのです。
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(サン・チャイルドはいま、「福島現代美術ビエンナーレ」のメイン会場・福島空港で展示されています。)

では、ヤノベさんがサン・チャイルドを制作するうえで、ルソーはともかく、少しでも竣介を意識したでしょうか。
ヤノベさんはインタヴューでサン・チャイルドを、「岡本太郎によって生み出された作品」であり、「ミケランジェロのダビデ像がモチーフになっている」と語られています。当然、竣介の名前は一切出てきません。

日頃より竣介の名を口にしている奈良美智さんと違って、きっと本当にヤノベさんの頭には竣介のことはなかったのだと思います。

植田先生の「竣介論」には次のようなくだりがあります。

今回展で、前期第4部に「街と人:モンタージュ」というタイトルでくくられている作品について、ゲオルゲ・グロッスからの影響が指摘されていることを知って驚いた。朝日晃の『松本竣介』(日動出版部 1977)にくわしく語られている(朝日の表記はゲオルゲ・グロース)。また今回展図録でも有川幾夫によればジョージ・グロス(という表記になっている)と野田英夫の影響が見られるとは佐々木一成が指摘するところだとある。その資料を直接たしかめてはいないが、グロッスの影響は確定されているといっていいのだろう。

植田先生はグロスからの影響についてより慎重に検討されていますが、ことモンタージュにおいては、野田英夫の影響が明らかにあったことについては、前にブログで書きました。もっとも、グロスの影響と野田の影響を比較しても、結局それは同じことともいえます。アート・ステューデンツ・リーグの夏期学校で野田は、ジョージ・グロスの指導を受けており、その野田が二科展に出品した『帰路』と『夢』に、竣介は強いショックを受けたのですから。

竣介は池袋モンパルナスの茶房「コティ」に出入りし、小熊秀雄に野田との面会を切望していましたが、遂に二人は顔を合わせることはありませんでした。

野田とともに、ディエゴ・リベラの壁画制作の助手を務め、野田が密かにライバル視していた画家に、ベン・シャーンがいます。(二人はいっときNYの同じアパートに住んでいました。)

つい先日まで回顧展が巡回していたので、ご覧になった方も多いと思います。

このベン・シャーンの晩年の代表作に『ラッキー・ドラゴン』(1960年)があります。
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1954年の第五福竜丸被爆の事件をテーマにしたシリーズです。

実はヤノベさんにも、同じタイトルの『ラッキードラゴン』(2009年)という作品があります。
ドラゴンが口から火を吹きながら、大阪の河川を行き来する夢のある作品です。

美しい映像と音楽を是非ご覧になってください。


ベン・シャーンと同様、ヤノベさんも第五福竜丸には縁がありました。第五福竜丸の悲劇を描いた岡本太郎の壁画『明日の神話』(1970年)が30数年ぶりに発見されたのは、ちょうどヤノベさんの総決算とも言うべき『メガロマニア』展の最中でした。その展覧会に来た第五福竜丸展示館の館長の要請で、ヤノベさんが2004年に第五福竜丸の横に展示した作品が『森の映画館』です。

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そして2009年に大阪で行われたアート・イベントのために制作したのが『ラッキードラゴン』。

いうまでもなく、第五福竜丸の「福」と「竜」であり、ベン・シャーンの作品タイトルをそのまま借りています。

実はベン・シャーンの『ラッキー・ドラゴン』は、福島県立美術館がコレクションとして収蔵しています。ベン・シャーン研究の第一人者として知られる学芸員の荒木康子さんは、2010年に「胸さわぎの夏休み」展で、ベン・シャーンとヤノベさん、ふたりのラッキー・ドラゴンを合わせて展示するという企画をキュレーションされています。

震災後のいまとなっては、そのような企画展が福島で行われていたという事実に、予言めいたものを感じてしまいます。

ヤノベさんとベン・シャーン、ベン・シャーンと野田英夫、野田英夫と松本竣介。

ヤノベさんの『サン・チャイルド』に竣介の『立てる像』の影を見るのは、やはりこじつけでしょうか・・・・。
(ふかのいちろう)

深野一朗のエッセイ〜草間彌生と瑛九3

草間彌生と瑛九 第三回  深野一朗

草間彌生と瑛九

さて、そこであらためて草間彌生と瑛九です。

ふたりを比較することにどれほどの意味があるか分かりませんが、似通った作品を見つけることは出来ます。

草間
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瑛九
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(画像はときの忘れものさんのHPより拝借しました。以下同じ。)

草間
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瑛九
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2005年7月より埼玉県立近代美術館では、「キュレーターの視点−〈点〉と〈網〉」という常設展を開催していますが、その展覧会についてキュレーターは次のように解説しています。

常設展の特別プログラム「キュレーターの視点」は、自由なテーマの設定、斬新な作品の組合せ、実験的な展示方法などに挑戦することで、美術館のコレクションにユニークな視点から光をあてる実験的な試みです。
第二弾となる今回のテーマは「点と網」。
以前から取り組んでみたいテーマでしたが、常設展リニューアル後の作家特集として瑛九と草間彌生の展示を担当したこともあり、瑛九の点描がもたらす浮遊感のある空間表現の魅力や、草間の網目モチーフがもたらす幻惑的な表現の魅力を、作家という枠組みとは別な視点から探ってみたいと感じていました。


また、先日の瑛九展をご覧になった植田実先生は、次のような感想をブログに書かれています。

たとえば草間彌生の点描と瑛九の点描とを並べる企画展ができたらと思う。点のひとつひとつが自立完結し、集まった全体が生命を得て動き出すような草間の点描の強靭さにたいして、何かを探り求めるような、多分それ故にあまりにも美しい瑛九の点描は、ある意味で「弱い」。その弱さのなかにこそ成長しつづける永続性と尽きせぬ魅力がある。

どうやら、「瑛九VS草間」というのは、美術愛好家、とりわけ美術館のキュレーターや植田先生のような玄人には興味の尽きないテーマのようです。

そこで素人の僕が、瑛九と草間について、比較してあれこれ言うのは、1億年早いのですが、昨年瑛九の大きな回顧展を観て、今回大阪で草間の最近作を観ることができて、ひとつ感じたことがあるので、ここに書かせて頂きます。もちろん、絵画の技術的な話や、影響を与えたであろう美術の流れ(印象派とかアンフォルメルなど)についてあれこれ言うことは、能力的に出来ません。

もっと「ざっくり」した感想なので、玄人の方は、どうぞ怒らないで頂きたい。

まず、ふたりの共通点はなんでしょう?

それはふたりとも「絵描き」であるということです。

いま海外から瑛九のフォト・デッサンが注目されていますが、これは瑛九にとっては「絵」です。写真ではありません。フォト・グラムをフォト・デッサンと呼んだのはこういう訳です。

草間もインスタレーションや彫刻をやりますが、時間さえあれば絵を描いていたい、生まれ変わっても絵描きになりたい、と常々口にしています。

ふたりとも絵描き。それが共通点です。

当たり前だ、馬鹿にするな、と怒らないで下さい。僕はふたりの共通点は、実はこれぐらいしかないと考えています。もしこれに付け加えるなら、ふたりとも稀代のコロリスト、色彩の画家だということです。絵描きであることに変わりはない。

ふたりとも前衛では?

確かに草間はそうです。何しろ自己紹介するときに、自ら「前衛芸術家」を名乗るほどです。

しかし、瑛九はどうでしょう。

ここに強烈な助っ人にご登場願いましょう。引用します。

瑛九に対する誤解の第一は、瑛九に冠せられた「前衛」にあります。瑛九は前衛ではありません。後衛でもありません。
戦後は新しさが最大の価値観でした。進歩的知識人を自負する人たちは、革命分子のアジテーターとなることで自分の存在を主張してきました。瑛九は芸術における革命家ではないかと誤解されました。

(中略) 
近代美術を評するのに「前衛」と言う言葉が使われだしたのは社会主義革命と無縁ではありません。社会主義革命の思想を芸術の世界に持ち込んだのはマルセルデュシャンを代表とする「ダダ」運動です。それは価値観の破壊と否定を美学とする芸術運動です。瑛九がフォトデッサンの手法を開拓したことを「ダダ」のマンレイやホモリナギの模倣と考え、だから瑛九は日本の「ダダ」運動の中心者のように誤解されました。マンレイのフォトグラムと瑛九のフォトデッサンはその手法が根底的に異なっています。瑛九が写真術を使ったのは彼の新しさのためではありません。瑛九は「技術は発明されたときから普遍的です。その技術を使うことは新しさではありません。」「新しさは画家の精神です。」と言っていました。
瑛九はデュシャンの対極にありました。瑛九は、古代人と同じ手法、ドローイングで自分を表現しようとしました。瑛九は絵画の原点から離れようとしたことはありません。瑛九の表現にコンセプトはありません。あるとすれば意識の支配下からの解放でしょう。瑛九は、考えて作品を構成しようとする心と戦いました。1937年頃カーボン紙を使ったデッサンを試みています。これは不透明なカーボン紙を使いますので描画した線を見ることが出来ません。視覚的に画面を構成しようとする意識から自分を解放するためでした。この事はこのデッサンを前にして瑛九自身が語ってくれたことです。同じ抽象でもこの点に於いてカンディンスキーと異なります。瑛九は精神が直接手の動きになることを心がけました。

(中略)
浅薄な批評家達が瑛九を「前衛芸術の父」と表現することが的はずれであると理解していただけたでしょうか。日本の批評家は欧米の美術批評に従って、日本の画家を分類し、欧米の画家の批評を当てはめているように思えます。しかし、瑛九の芸術はその類例を他に見つけることが出来ません。欧米との比較で瑛九を見ようとしても何も見えてきません。

この強靭な文章の書き手は、瑛九の評価を「世界の瑛九」にまで高めることに命を懸ける男、加藤南枝氏です。加藤氏は2006年9月12日放送のテレビ『開運!なんでも鑑定団』に瑛九の『田園』を引っさげて登場し、5千万円の評価額を付けさせた方です。視聴者はもちろん番組関係者も度肝を抜かれたなか、当の加藤氏本人は涼しい顔をしていたそうです。
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さもありなん、加藤氏のHPを開くと、その『田園』の絵とともに、大きな文字でこう書いてあります。

この絵売ります

そして、その下にこう書いてあります。

日本の歴史と文化を代表する絵画はこの絵です。
日本の文化が欧米と対等であるなら、この絵が国際市場に於いて100億円相当の評価を受けてもおかしくありません。
一歩下がって、少なくとも30億円くらいで売りたいと思います。その目的は瑛九を正当に評価できる人物を国内外から捜し出し、瑛九の名をポピュラーにすることです。
もし外国に渡ることになれば、やがて、この「田園」を日本に買い戻すため売却値の二三倍の金額を提示することになるでしょう。その時初めて真の評価が下されたことになります。
私の目的はそこで達成されます。多分私の死後でしょうが。


100億円、少なくとも30億円で売りたいお方ですから、5千万円という鑑定団の評価には大いに不服だったのかもしれません。

この加藤氏が断言するのですから、間違いありません。瑛九は草間と違って前衛ではありません。(では草間が本当の前衛か僕には分かりませんが、なにしろ本人が自分をそう名乗っているのですから、是非もありません。)

ふたりとも絵描き。コロリスト。草間は前衛でも瑛九はそうではない。

ふたりとも天才ではないのか。

そう仰る方に、僕は勇気を持って言います。

草間は天才です。

でも、瑛九は天才ではありません。

ああ、こんなことを書くと、ときの忘れものの綿貫さんに怒られるかしら。もっと怖いのは、加藤南枝氏だ。ご自身のHPに「この絵売ります」と大書し、少なくとも30億円くらいで売りたい、と仰る方だもの、僕は半殺しにされるかも・・・・。

でも、どうか落着いて聞いてください。
僕の考える「天才」には二つの条件があります。まず、長生きであること。次に、初めから真理を知っていること。

どうです、瑛九が天才ではない、と言った意味がお分かり頂けたでしょうか。
彼は48歳で逝きました。長生きではありません。だから天才ではありません。

なぜ、長生きが天才の条件の一つでしょう。なぜなら天才は、才能をすり減らさないのです。神様が与えてくれた才能が無尽蔵にあるので、どれだけ創造しても、引き換えに自分の命を削ることがない。しかも天才は逡巡しない。試行錯誤がないのです。
一方天才でない人は、血の滲むような努力で試行錯誤を繰返します。限りある才能はその都度消耗していきます。そうして遂にある極みに達したとき、神様の祝福と引き換えに自らの命を差し出すことになります。
80歳を超えてなお進化を続ける草間と、誰も到達し得ない絵画の境地に分け入ったまま48歳で逝ってしまった瑛九。草間は天才ですが、瑛九は天才ではありません。

では、初めから真理を知っているとは、どういうことでしょう。
ここでいう真理とは、宇宙の真理、というほどのことです。

瑛九の点描をご覧になったことのない方に、ひとことで説明するなら、それは「アナログ・テレビの砂嵐」です。夜も更けて、全ての番組が終了した後、暫くしてから現れるあの砂嵐。あれはモノクロですが、あれに色彩が加わったものが瑛九の点描です。それは絶えずうごめき、揺れ、ざわざわしています。加えて、砂嵐と同じようなザーッという音すら瑛九の絵からは聴こえてくるようです。
一方、草間には幼少の頃から水玉や網目が視えていました。そのモチーフはもちろん今でも続いているのですが、今回の展覧会で僕が注目したのは、細いひも状のものです。しかもそれが、まるで震えているように、小刻みに揺れている。
瑛九が最後に到達した「ざわざわした点描」と、草間の最近作に現れ始めた震える細い紐。
これらはいずれも同じものを表していると僕は考えます。それは宇宙の真理、万物の構成要素、左脳が正常に機能している以上、絶対に見ることの出来ない世界です。

瑛九は自分の命と引き換えに、この「ヒミツ」を知りました。しかし、都夫人が恐れていたように、ヒミツの中に吸い込まれてしまった。
一方、天才の草間には初めから視えていました。震える紐は当時まだ水玉や網目にしか視えませんでした。花や犬が人間の言葉で話しかけてきたといいます。左脳が機能障害を起こした人の体験談によると、人間の話し声が全て犬の鳴き声に聴こえたそうです。そして自分の体の境界線が分からなくなり、自分を取り巻く周囲の物質と同化し始めるそうです。草間が空間の全てを水玉で埋め尽くすインスタレーションを想わせます。
初めから真理を知っている草間は天才ですが、自らの努力でヒミツの扉を開けて扉の向こうに行ってしまった瑛九は天才ではありません。

僕がふたりを比較して、いちばん言いたかったのは、このことです。

前衛の草間彌生と、前衛ではない瑛九。
天才の草間彌生と、天才ではない瑛九。

さて、あなたは、どちらに惹かれますか。
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ふかのいちろう(ブログ「ジャージの王様」より転載)

*画廊亭主敬白
昨日画廊では「ジョック・スタージス一日展〜3.11を忘れない」を開催いたしました。
一年前の惨禍に思いを馳せ、スタージスさんの静謐な世界に向き合い、犠牲者に追悼の祈りを捧げたいと企画した一日展でした。
画廊を開けるや、今年個展を計画している細江英公先生、井桁裕子さんはじめ老若男女、たくさんのお客様が来廊されました。
作品をお買い上げいただいた皆様には深く感謝申し上げます。後日寄付の詳細はご報告いたします。
夕方には本稿の執筆者深野さんもいらしてくださいました。
3回にわたり転載させていただいた深野さんの「草間彌生と瑛九」論、いかがでしたでしょうか。
長年二人の作品を扱ってきた亭主ではありますが、深野さんの自由奔放な論理の展開には「目から鱗」の新鮮な驚きを感じました。
それによく勉強していらっしゃる。
ギャラリーや美術館で実物に触れ、身銭を切って作品を購い、自分の消費行動をきちんと検証している、画商にとっては実に手強いコレクターの出現であります。

深野一朗のエッセイ〜草間彌生と瑛九2〜クマンバチガ クレバイイ

草間彌生と瑛九 第二回 深野一朗

クマンバチガ クレバイイ

一昨年の末に「アート宣言」をしたきっかけが、北川民次のエスキースであったことは、前に書きました
何も知らずにBEAMSでオノサトと靉嘔の版画を手に入れ、この三人が「久保貞次郎」なる人物と密接に結びついていることを、おなじみ「ときの忘れもの」の綿貫さんに教えて頂き、単なる偶然を必然と思い込む生来の単細胞が、僕をアートにのめり込むませることになったのです。

この久保貞次郎が、肩入れして止まなかったのが、瑛九です。

中原佑介、東野芳明と並んで美術評論の「御三家」と言われた針生一郎は、こう書いています。

わたしは五〇年代末、『芸術新潮』の異色作家特集に書いたとき、「瑛九という名を聞くと、わたしはジンマシンにかかったみたいに、全身がむずかゆくなる。彼を知る人びとはみな、瑛九はすごい、天才だなどというが、彼は病気がちでめったに東京に出てこないから会えず、作品をみる機会も少ない」という書き出しで、「瑛九を神棚に祭りあげるな、久保貞次郎から解放しろ」と結んだ。

針生がこう書くほど、久保は瑛九の庇護者だったようです。

タミジ先生は凄くいい。オノサトと靉嘔もいい。

しかし瑛九は……

正直に申せば、初め、ときの忘れものさんのHPで瑛九の作品群を見ても、僕にはあまりピンと来ませんでした。

それは、あまりに作風が多彩で、掴みどころがない、捉えどころがないためでした。

例えば、タミジ先生の絵ならひと目で分かります。オノサト然り、靉嘔然り。いずれもスタイルがはっきいしていて、ひと目でそれと分かるのです。

ところが瑛九ときたら、具象的な絵があるかと思えば、
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抽象的な絵がある。
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印画紙に直接焼いた写真のようなものがあれば、
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シュールな絵柄の版画もある。
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いったい、どれが本当の瑛九なのか。「これぞ瑛九」というのは、どのような作品なのか。

僕にとって瑛九は「理解不能」な芸術家でした。

分からないなら、分からないで、いいではないか。そんなご意見もあろうかと思いますが、僕にはそうもいかない事情がありました。浦和にあった瑛九のアトリエには、彼を慕って連日、若い作家たちが集ったといいます。靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温、福島辰夫、細江英公ら「デモクラート美術家協会」の面々です。その誰もが後に、世界的なアーティストとなったことは周知の事実です。それだけならまだいい。問題は、彼らほど頻繁ではないにせよ、その中に、一人の若き建築家が交じっていたという事です。誰あろう、磯崎新さんです。
これほどの人たちに大きな影響を与えた瑛九とは何者なのか。
そして死してなお、内外に若いコレクターを生み続けるこの「水脈」の源流はどこにあるのか。

僕にとって瑛九は、分からないでは済まされない、避けては通れない、大きな「謎」だったのです。

こんな理由から、生誕100年を記念して昨年埼玉で行われた瑛九展には、まなじりを決して臨みました。

瑛九を名乗る前の本名「村田秀夫」時代の作品から始まって、エスペラントの影響、おなじみ変幻自在のメディア。一昨年から猛スピードでアートを観てきて、少しは慣れてきたせいか、当初持っていた瑛九への「分からなさ」が、雪がジンワリ融けるように、少しずつ和らいでいく気がします。

ある油彩の前で、妻が思わず声を上げました。
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なんだ、草間先生より、瑛九が先にやっているじゃない!
妻が思い出していたのは、前に吉祥寺美術館で見た、ある草間の版画でした。
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確かに、似てなくはないですが、瑛九のほうが、よりチャーミングです。

チャーミング。

瑛九の展示を観ていて感じたのは、この「チャーミング」という感じです。

銅板やフォト・デッサンに多く見られる男と女のモチーフ。
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まるでイタズラっ子が描いたような、小さなモンスターたち。
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「ユーモラス」とは違う。「チャーミング」こそ瑛九ではないか。

瑛九という大きな謎が、少しずつ解けてきたような気がしました。

瑛九、分かるかも!

ところが……

そんな淡い期待を胸に、最後の展示室に入った途端、僕の浅はかな思い込みは、粉々に砕かれます。

そこには、とんでもないものが待ち受けていたのです。
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(画像はこちらのサイトから拝借したものです。以下同じ。)

それは瑛九が1960年に亡くなるまでの2年間に描き続けた、一連の点描画の群れでした。

58年に瑛九は、創美運動の中心メンバーだった福井県の小学校教師、木水育男に宛てた手紙にこう綴っています。

僕は啓蒙家で、絵画の周囲をぐるぐるまわっていて画家だと思っていたのです。
(中略)
こういう自己から脱出して絵画の中に突入できるかどうか、最後の冒険を試みようとしています。
油絵の表現をおしすすめるためには油絵を描かねば ぜったいその方法をかくとくできぬものなのです。
2、3枚かいては思想だ ポエジーだと議論していても油絵のヒミツはつかまえることができない。


また、靉嘔に宛てた手紙にも、次のように書いています。

5年ばかり画壇に背をむけて最後のカケをやるつもりで大作をかくつもりです。

これらの言葉の通り、瑛九はほとんど外出もせず、孤独な画業に専念し始めたといいます。

以下、宮崎日日新聞のサイトより引用します。
(引用ここから)

1960(昭和35)年2月、東京都・銀座兜屋画廊で「瑛九油絵展」と題する展覧会が開かれた。瑛九が文字通り命を削って描き上げた、油彩点描画大作9点の初披露である。

 訪れた友人たちは、彼が到達した新たな画境の深さに息をのんだ。一方で、ずらりと並んだ美しい絵画の奥底に、どこか空恐ろしい気配を感じ取る者もいた。

 「瑛九は大丈夫なのか?これだけの仕事ができたのはただごとではない」。ある画家はそんな不安を漏らした。心配を裏付けるように、個展初日から、作者である瑛九の姿は会場のどこにも見えなかった―。

 時間は3カ月前にさかのぼる。59(昭和34)年11月10日夜、大作「つばさ」を制作中に激しい腹痛に襲われた瑛九は、埼玉県さいたま市の浦和中央病院に入院することになった。

 検査結果は腸閉塞(へいそく)。加えて腎臓にも、腎硬化症の兆候があることが判明した。この数年、毎日14時間を点描画制作に割いた日々の過労が、予想以上に体を弱らせていたのだ。

 約1カ月後の12月19日、退院。同市の自宅で療養することになった。病床でも仕事への意欲はやみがたい。久々の個展「瑛九油絵展」を構想して計画を練る一方、具合の良い時を見計らい、中途に終わっていた「つばさ」を描き継いで、ついに完成させている。

 揺るがない絵画への情熱。しかし退院からわずか19日後の60(同35)年1月7日には、再入院となってしまう。病状は悪化の一途をたどり、同年2月24日に東京都神田の同和病院に転院して以降は、尿毒症の症状も出てきた。

 衰弱していく。精神にも弱りが見え始めた。「絵が描きたい、絵が描きたい」。そう言って涙を流すことさえあった。そんな夫に、妻の谷口都は小さなスケッチブックと色鉛筆を買ってきた。瑛九は喜び、早速デッサンを1枚書いた。

 「ヒミツ」という哀切な詩を瑛九が書いたのは、その翌朝のことである。

 「くまんバチガ/マイアサ サシタドガ/イタカ イタカ/ナイテイマシタ/クマンバチハ/白衣の天使/ガ サスノデス/ナンタラコトダベエ/ソレデモ アルアサハ/カナシクテ/アマリアマリ カナシクテ/イタイ イタイ/クマンバチガ/クレバイイト/イノッタノデス」

 「ヒミツ」を書いた2日後の同年3月10日朝、目覚めた瑛九は、傍らの都にしみじみと語り掛けた。「僕は元気になったら、とても素晴らしい油絵がどんどん描けるような気がするよ。早く退院して大きな作品が描きたいなあ

 病状が急変したのは直後だった。呼吸困難に陥り、のたうち回って苦しんだ後、瑛九は静かに息を引き取った。直接原因は急性心不全。享年48歳。「絵が描きたい」―。最期の、そして生涯抱き続けた純粋な願いは、ついに再びかなわなかった。(敬称略)
(引用ここまで)

一連の点描の大作は、文字通り瑛九が命を削って描いた作品なのです。

展覧会場で、これらの作品を観たとき、僕は思いました。

やりすぎだ。これは死ぬ。ここまでやったら死んでしまう。

そう思わずにはいられないほど、瑛九の点描には、凄まじい鬼気が宿っていました。これほど人間の気迫と執念が宿った絵を、僕はほかに知りません。怖ろしいものを見た・・・それが率直な感想です。

絶筆となった『つばさ』です。
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都夫人は当時を振り返り、「この絵を見るのは、怖かった。あの頃、瑛九の命がこの絵の中へぐんぐん吸い取られて行くように思えた」と言っています。
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瑛九を知らない人、或いは彼の点描をじかに見たことのない人には、是非これらの絵を見て貰いたい。

その砂嵐のような点描の中には、一人の画家が命を懸けて描いた絵がどんなものか、瑛九という画家がどういう画家だったのか、秘密の鍵が隠されています。

イタイ、イタイ、と泣きながら、ついに瑛九は絵画のヒミツをつかめたのかしら。
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ふかのいちろう(つづく、ブログ「ジャージの王様」より転載)

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深野一朗のエッセイ〜草間彌生と瑛九1〜永遠に進化する画家

草間彌生と瑛九 第一回   深野一朗

永遠に進化する画家

大阪でセミナーがあり、壇上で喋るついでに、草間彌生の個展を観て来ました。

草間のドキュメンタリー映画『わたし大好き』のなかで描き続けていたマジック・ペンによるモノクロのシリーズ『愛はとこしえ』や、
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≒(ニアイコール)草間彌生〜わたし大好き〜
[DVD] (NEAR EQUAL KUSAMA YAYOI)

出版社/メーカー: ビー・ビー・ビー株式会社
メディア: DVD

昨年夏にNHKで放映されたドキュメンタリー番組『世界が私を待っている 前衛芸術家 草間彌生の疾走』のなかで描き続けていたアクリル絵具によるカラフルなシリーズ『わが永遠の魂』が観られます。

特に後者は、マドリッド(王立ソフィア王妃芸術センター)、パリ(ポンピドゥー・センター)、ロンドン(テート・モダン)、ニューヨーク(ホイットニー美術館)と、世界四都市のトップの美術館を巡回する大回顧展のために描き下ろされたシリーズで、日本ではお目にかかれないと思っていただけに、小躍りしてホテルから歩いてすぐの国立国際美術館に向かいました。(このシリーズ、NHKの番組では目標の100枚を達成するところで終わっていましたが、現在もなお描き続けられ、その数は140枚を超えたそうです!)
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会場内には夥しい数の反復と増殖が、ほぼ正方形に近い真四角なカンヴァスに納められて、整然と並びます。描かれているものは異常なのですが、カンヴァスのサイズと形、並べ方があまりに整然としていて、まるで何かの科学標本やサンプルの類を観ているようです。

ひとつはっきり言えることは、80歳を越してなお、草間が進化し続けているということです。
93年のヴェネツィア・ビエンナーレに草間を起用して、彼女を「世界のクサマ」に押し上げた立役者、建畠晢氏(京都市立芸術大学学長、埼玉県立美術館館長)は、図録の解説で書いています。
まず、『愛はとこしえ』について、「その即興的で軽やかな手の動きは従来の緻密なネット/ドットの作品には見られなかったもの」と指摘し、04年の森美術館での「クサマトリックス」展で初めて現れた「女性の横顔」が、このシリーズに繋がっていると言います。
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そして、『わが永遠の魂』については、「渡米以来の草間のタブローにほぼ一貫して維持されていたオールオーヴァーな構成が解体してきている」と指摘し、華やかな色彩、拡大した水玉、具象的、有機的形象の浮遊により、画面は「生命の讃歌」ともいる、よりナラティブ(物語性)なものになっていると言います。
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04年に「クサマトリックス」展を観た人の多くは、そこに草間の仕事の集大成を感じ、彼女がやりきった思いを強くしました。ところが、それから彼女は『愛はとこしえ』50枚を描ききります。我々は驚き、これこそ彼女の到達点だったかと反省させられます。マジック・ペン、モノクロ、即興的なドローイング。芸術家が最後にたどり着きがちな「素朴」な表現に、誰もがそう思ったのです。
ところが・・・・
その後も彼女は変わり続けました。まさに『わが永遠の魂』というタイトルどおり、彼女の進化は永遠に続きます。それを強く思い知らされたのが、展示の最後の方にある最新の自画像です。
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眼の中に鏡が嵌め込まれ、照明が反射して、観る人を妖しく照らします。
80歳を過ぎてこの創造力!!
彼女を反復や増殖、水玉や南瓜といった言葉だけで軽く語ることは決してできません。

今回の展示は僕にとって、彼女の進化を確かめるためのものとなりました。

ところで会場には、他の作品と離されるようにして、2010年の作品が2枚掛けられていました。
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お馴染の水玉ですが、形が従来の正円から、ややいびつなものになっています。
この二枚の絵を観ながら、僕は、ある一人の画家のことを考えていました。
1960年に48歳でこの世を去った画家、瑛九のことです。
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ふかのいちろう(つづく、ブログ「ジャージの王様」より転載)

*画廊亭主敬白
自分が感じたことを人に正確に伝えるのは難しい。
身銭を切って作品を買い、寸暇を惜しんで展覧会にかけつけ、作家の話を聞く。コレクターのかがみみたいな深野さんですが、ご自身のブログ「ジャージの王様」にいつも卓抜な作品論、作家論を書かれています。まるごとぜ〜んぶいただきたいと思うほどですが、今回はわが<草間彌生と瑛九>なので、ぜひにとお願いして、今日、明日そして12日の3回にわけて転載させていただきます。
因みに3月10日は瑛九の命日であります。
どうぞお楽しみください。

忘れないために。10人による10冊。

短い会期の「デュシャン、エルンスト、マン・レイ展」でしたが、昨日終了しました。
ご来廊いただいた皆さん、特に作品をお買い上げいただいたお客様にはいつもながら厚く御礼を申し上げます。
マン・レイイスト石原輝雄さんや、瀧口修造研究の土渕信彦さんにご来廊いただいたのも光栄なことでした。
千葉市美術館で「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展が開催中ということもあり、さすがにデュシャンのファンが多かったのですが、意外だったのは『大ガラス』に東京バージョンがあり、駒場の東大美術館にいけば誰でも見られる(常設展示)ことを知らない人が多かったことです。
エルンストなど普段お見せする機会の少ない装画本などを出品したので、本好きの皆様には楽しんでいただけたのではと思います。
本当は画集や資料的なものもたくさん出したかったのですが、いかんせん狭い会場なのでままなりませんでした。
ダダやシュルレアリスム関連の展覧会には一工夫必要ですね。
次回の検討材料としましょう。

さて、歯切れよさと探究心の深さに裏付けられた深野一朗さんのエッセイはこのブログの目玉になりつつありますが、その深野さんから東日本大震災への支援チャリティー・ブック・フェアの協力を依頼されました。
以下、深野さんのブログ<ジャージの王様>からの転載です。
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忘れないために。10人による10冊。  深野一朗

あれから9ヶ月。未曾有の災難に襲われた一年が終わろうとしています。
現在進行形の放射能という恐怖で、ついうっかり被災地のことを、忘れそうになってしまう。
そこで改めて、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
9ヶ月経った12月11日より、チャリティー・ブック・フェアを行います。

今回は僕の友人知人10人に御願いして、ひとつのテーマで10冊を、蔵書の中から選書して貰いました。
そして10冊ぜんぶを、原則として寄付して貰いました。
従いまして、今回は一部を除き、売上の全額を寄付します。(寄付先は前回同様、ミシン・プロジェクトです。)

なお「ひとり10冊」と書きましたが、僕だけは店主の特権(?)として、10冊以上を出品いたします。
今日から少しずつ本の紹介をしたいと思います。まずは僕の本から。

テーマ:明治を識る

僕はどういうわけか、明治という時代に惹かれます。
それは、明治という時代が、今からでも想像が及ぶ、ギリギリの時代のように思えるからです。
江戸時代は、あまりに遠い過去のように思われます。けれども明治の文化、風俗、人たちの考え方などは、近過去、ついこの間のことです。

ご一新があり、西欧の文明を猛スピードで吸収し、日本という国を立ち上げようとしていた時代とは、どんな時代だったのか?
歴史の教科書には出てこない明治、それを庶民の生活、風俗という視点から書いた本を出品します。

例えば、こんな本。
明治商売往来明治商売往来 (ちくま学芸文庫)
作者: 仲田 定之助
出版社/メーカー: 筑摩書房
発売日: 2003/12
メディア: 文庫

明治の頃にあった職業の紹介ですが、とっくになくなってしまったものから、今でも名を変えて続いているものまで、読んでいて興味が尽きません。
当時の職業を知ることは、その時代を知ることにほかなりません。
著者の仲田定之助は、バウハウスを日本に紹介した人としても知られています。

Amazonでは古本が300円程度からですが、当店では100円です。(今回店主の本は全て、ブック・オフやAmazonで価格を調べて、それより安くなるように値付しました!!)

以下、お店の詳細です。
営業日時:12月11日より、原則毎日13時より19時まで(但し不規則のため、閉めるときはTwitter@ifukanoでお知らせします。)
http://twitter.com/ifukano

場所:千代田区外神田3−6−14

皆さん、お誘い合わせのうえ、是非いらして下さい!!!!

◆深野一朗(ふかの・いちろう)
1968(昭和43)年千葉・市川生まれ。幼名「一郎」。小学生の頃に占い師から「女狂いする」と言われ、慌てた父が「郎」の字を「朗」に変える。以後「一朗」となる。日本大学経済学部卒。公認会計士。学生の頃から服飾に尋常ならざる情熱を燃やし、セレクトショップ通いの毎日を送る。やがてその関心はミッド・センチュリーな家具へと移り、一時期服飾の世界から完全に「手を引く」。1999年にミラノで始まった駐在員生活が、失われつつあった服飾魂に再び火をつけ、以後帰任までの4年間「服飾バカ一代」の途をひた走る。欧州各地を訪れては、ホテルと料理と美術館を堪能するという放蕩がたたり、帰任後のサラリーマン生活に悶絶の日々を送っていたが、つい最近独立した。
著書『クラシコ・イタリア ショッピングガイド』(2004年 光文社・知恵の森文庫)
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亭主も先日倉庫にいって書庫とにらめっこ。「一つのテーマで10冊揃える」というのは意外に難しい。あれこれ悩んだ末、古本屋になることが夢だったので「古書」をテーマに以下の10冊を選びました。
小林高四郎「漁書のすさび」、
山下武「古書のある風景」、
荒俣宏「ブックライフ自由自在」、
尾形界而「古書無月譚」、
青木正美「古本屋控え帖」、
谷沢永一「雑書放蕩記」、
横田順彌「探書記」、
山下武「書物万華鏡」、
山下武「古書の味覚」、
由良君美「みみずく偏書記」
その他に亭主が編集したりしたカタログを3冊送らせていただきました。
どうぞ皆さん、外神田の深野さんのお店にお出かけください。

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

幸福な場所〜深野一朗

幸福な場所 [よしなしごと] 〜深野一朗

誰にでも「憧れの人」というものは居ると思います。

うんと幼い頃は、それが実在の人物と言うよりは、架空のヒーローだったり、アニメのキャラクターだったり。

やがてそれがスポーツ選手やお笑い芸人になり、俳優、女優、ミュージシャンになっていったりします。

小説家やアーティストに憧れる人も居ます。かつては政治家という人も居たのでしょうが、いまはあまり聞きません。

自分がだんだん齢(とし)を食ってくると、この「憧れの人」が減ってくる。それは大抵、年長者に憧れるものですから、自分がとしを取るということは、相手もとしを取るわけで、いつの間にやら死んでしまう、ということもあります。

けれども大体は、としを取って、人生経験もつみ、社会の荒波に揉まれるにつれ、若い頃抱いていた憧れというものが、どんどん色あせて、モノクロになり、やがては眼をこすっても見えないぐらいに、消えてなくなってしまうものです。

だいいち、いいとしをして、それもオトコが、「憧れ」というのは、ちょっと幼いし、恥ずかしい気がします。

けれども「尊敬」というと、また意味が違う。そんな堅いものではない。無条件に好き、会ってみたいけれど会えない、いつも遠くから見ている、そんな「マドンナ的」存在が憧れの人ということでしょうか。

僕でいえば、ブログにもよくご登場いただく磯崎新さん大竹伸朗さんは、まさに憧れの人です。シンポジウムやトークショウでしかお見かけできない、お話を聴けない、男ですがマドンナのような存在です。

もしあなたが、そんな憧れの人に、会うことができたら、それもいちどきに何人もと会えることができたら、どうしますか??


半年近くも前になってしまいますが、お馴染のギャラリー「ときの忘れもの」さんで、「一日だけの植田実出版記念写真展」がありました。

およそ建築が好きなら、植田実先生を知らない人はいないでしょう。自宅の書棚を改めて見て御覧なさい。植田先生の御著書や御編集された雑誌が何冊も並んでいるはずです。

その植田先生の新著のご出版を記念して、先生が旅先で撮影した写真の個展が一日だけ催されたのです。

1307162187944『真夜中の庭』 サイン本
植田実
みすず書房 発行
2011年
19.4x13.7cm
197P

1307162181856『住まいの手帖』 サイン本
植田実
みすず書房 発行
2011年
19.4x13.7cm
193P

植田先生にお会いできる絶好の機会と、僕はかねてより愛読していた先生の御著書を手に、ときの忘れものさんに伺いました。あわよくば、この名著に御署名を頂こうという腹づもりでした。
411rIDqFEkL__SL500_AA300_建築家 五十嵐正―帯広に五百の建築をつくった
作者: 植田 実
出版社/メーカー: 西田書店
発売日: 2007/03/07
メディア: 単行本

果たしてギャラリーは「植田ファン」で賑わっていました。ひと通り展示されている写真を観るものの、先生は応酬に暇なく、なかなかサインを頂けそうにありません。仕方なく、部屋の奥に並んでいる書籍を見に行くと、見覚えのあるご婦人が。

なんと大竹昭子さんでした。

大竹さんのトークの面白さはブログで何度か書いてきましたが、特に膝を乗り出したのが代官山で繰り広げられたスラムの話でした。

ちょうど大竹さんもお一人のようでしたので、僕は思い切って話しかけました。なぜなら、大竹さんの話に出てきた「鮫川」は我が家の真横を流れており、どうしてもそのことをお伝えしたかったのです。
突然のKYオトコの不躾な態度にも大竹さんは嫌な顔ひとつせず、興味ありげに僕の鮫川の話を聴いて下さいました。

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(植田先生の背後で話をする大竹さんと僕。写真はときの忘れものさんのHPより拝借しました。)

そうこうしているうちに、ようやく植田先生と話す機会が巡ってきました。
僕の建築巡礼の話題から、植田先生でも見ていない、見たいと思われている建築があるのか、伺ってみたところ、菊竹清訓の都城市民会館の名前が挙がりました。この生粋のメタボリストによるキメラ建築を植田先生がどう評するのか、是非伺ってみたいところです。
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そして、「もくろみ」通り、新旧の御著書にご署名とご捺印を頂きました。
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この稀代の名編集者とのしばしの会話に夢中になっていたところ、最後にとんでもないゲストが現れました。

それは、剣持デザイン研究所所長の松本哲夫さんです。

僕が松本さんを初めてお見かけしたのは、AXISでのイームズ展で行われた藤崎圭一郎さんとのトークでした。ここで松本さんが語った剣持勇の素顔は僕にとって衝撃的なものでした。以前にも書きましたが、我が国における剣持に対する現在の評価は、必ずしも正当なものではないように思われます。もし僕が「日本人で一人だけインテリア・デザイナーの名を挙げろ」と問われれば、迷いなく剣持の名を挙げるでしょう。

その剣持の片腕といわれた松本さんが目の前に居られる。

まこっちゃんの会とあっては、来ないわけにはいかないよ。

松本さんはそう仰って、あろうことか僕の真正面に座られました。普段から植田実先生を「まこっちゃん」と呼ばれているようです。とてもスマートでダンディな松本さんを眼前に、既に僕はポーっとしています。

ときの忘れもののご亭主が松本さんに僕を、「剣持のコレクター」とご紹介して下さったのをいい事に、持前の厚顔ぶりで僕は、愛用する剣持のテーブルと椅子の写真を松本さんにお見せしました。

いずれも珍しいものゆえ、松本さんはたいそう驚かれ、「よく手に入ったねぇ」と仰いました。内心小躍りしたくなるほど嬉しかったのは言うまでもありません。

話題は剣持の没後河出書房新社から1,000部限定で刊行された愛蔵本『剣持勇の世界』に及びました。当時の定価が8万円。僕はそれ以上のお金を払って古本で入手しました。
凝りに凝った造りで、剣持の生涯の仕事を余すところなく紹介した、資料としても一級の価値がある、五分冊で一巻の高級本です。
連載が途中になってしまっていますが、僕が「剣持と倉俣」について書くためにも手離すことのできない座右の書です。

松本さんはその『剣持勇の世界』の制作裏話を教えてくださいました。
この本の「売り」のひとつは、石元泰博の写真でした。バウハウス仕込の日本人にはない独特の構成力で既に建築の写真で一時代を築いていた石元が、初めて正面からインテリアの世界を捉えた写真は、見るものに当時強い衝撃を与えたといいます。
ところが・・・・・
この本のレイアウト・デザインを担当した亀倉雄策は、この石元の写真を、自分のデザインでジョキジョキ切っていったというのです!!石元でなくても、そんなことをされてニコニコしている写真家はいないでしょう。ましてや構図構成に最も拘る石元です・・・・・。
石元泰博と亀倉雄策。二人の鬼才のあいだで、松本さんは随分ご苦労されたようです。そんな裏話も、貴重な日本のモダンデザイン史の一端であり、聴いていた僕は恍惚となりました。

最後に松本さんには、剣持の自死の真相を伺いたかったのですが、いかに厚顔な僕でも、さすがに初対面で切り出すには余りにデリカシーに欠ける話題に思われ、そのことには触れられませんでした。
ただ松本さんはひとことだけ、「あの年齢特有のうつのようなもの・・・」とだけ仰いました。

植田実先生に、大竹昭子さんに、松本哲夫さん。

ほんの僅かな時間に、いつかお会いしてお話してみたい、と思っていた方々に、いちどきに会って、話をさせていただきました。

こんなことって、あるのでしょうか!? 夢じゃないかしら!?

そのギャラリーは外苑前から歩いてすぐのところ、青山の一角にあります。

骨太で大人向けの個展が多いせいか、普段は比較的静かで落着いた空間なのですが、この日ばかりはこの空間が、とても「幸福な場所」になりました。
ときの忘れものさんの展示のディレクションをご担当なさっている浜田宏司さんが、「一日だけの植田実出版記念写真展に寄せて」という文章を寄稿されていますが、これこそまさに、“画廊にみなぎっている魔法”が起こした奇跡ではありますまいか。

でも、このような魔法と奇跡と幸せは、そうそうあっては困るような気もします。

なぜなら、憧れの人に、それも三人も同時に、会って話してしまうなんてことがちょくちょくあっては、なにか一生の運をそこで使い果たしているような気がして、おまけに寿命までが縮まってしまうのではないか、そんな気がしてならないからです。
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(松本哲夫さんのお話を拝聴する僕。なんか学校の先生と先生に説教されている出来ない坊主みたいだナァ。写真はときの忘れものさんのHPから拝借しました。)

(ふかのいちろう)

◆深野一朗(ふかの・いちろう)
1968(昭和43)年千葉・市川生まれ。幼名「一郎」。小学生の頃に占い師から「女狂いする」と言われ、慌てた父が「郎」の字を「朗」に変える。以後「一朗」となる。日本大学経済学部卒。公認会計士。学生の頃から服飾に尋常ならざる情熱を燃やし、セレクトショップ通いの毎日を送る。やがてその関心はミッド・センチュリーな家具へと移り、一時期服飾の世界から完全に「手を引く」。1999年にミラノで始まった駐在員生活が、失われつつあった服飾魂に再び火をつけ、以後帰任までの4年間「服飾バカ一代」の途をひた走る。欧州各地を訪れては、ホテルと料理と美術館を堪能するという放蕩がたたり、帰任後のサラリーマン生活に悶絶の日々を送っていたが、つい最近独立した。
著書『クラシコ・イタリア ショッピングガイド』(2004年 光文社・知恵の森文庫)

*画廊亭主敬白
前回に続き、深野一朗さんのブログ「ジャージの王様」からの転載です。
ときの忘れものはしがない三流の貧乏画廊ですが、昔からのご縁で扱っている作家たちは文句なく一流の方たちばかりです(エヘン)。
普段人も来ない閑散とした場所にときどき異変があります。
2011年6月18日はそんな一日でした。
居合わせた深野さんがまた泣けるようなレポートを書いてくださいました。感謝せずにはおられません。

建築家というもの、建築家の仕事というもの [たてもの]

建築家というもの、建築家の仕事というもの [たてもの]
                
               深野一朗


磯崎新さんの講演が続けてありました。

まず三田の建築会館で行われた建築夜学校。テーマは「3.11以後の日本」を二夜に渡って論じるというもので、磯崎さんは第一夜で30分程度話されました。

講演で磯崎さんが示されたスライドはたった一枚。

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津波により鉄骨部分だけが残り、立方体フレームが剥き出しになった、南三陸町の防災センターの写真です。

磯崎さんはこの建物をモニュメントとして残すべきだったと言います。(実際には取り壊しが決まりました。)

なぜなら、この立方体こそ、震災の記憶のみならず、「日本の近代」というものすべてを表象するものだから、というのが磯崎さんの考えです。
近代とは、未来の理想郷、すなわちユートピアを目指して社会を組み立てていくように、国家なり都市なり建築なりを「計画」していくという概念です。そして日本で近代が始まったときに、都市計画の一番基本となった単位がこの立方体フレームだというのです。

メタボリズムのときにも書いたように、未来はユートピアなんかじゃない、廃墟だ、というのが磯崎さんの一貫した主張です。磯崎さんは「近代=計画」が失敗したと断罪します。
従って、近代のテクノロジーを象徴する立方体フレームこそ、近代の失敗、計画の失敗を表象するモニュメントとして残されるべきだ、というのです。

この「立方体フレーム」が、図らずも、次の講演との連結環になります。

次は九段のイタリア文化会館で行われた特別講演。イタリアの建築家ジョルジョ・ヴァザーリの生誕500周年を記念して行われている展覧会でのシンポジウムです。
ヴァザーリはフィレンツェのウフィッツィを設計した建築家ですが、磯崎さんは1999年にウフィッツィの新出口を設計するコンペに優勝しています。

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New Gate for the Uffizi Museum Limited Competition [winner], Florence, Italy, 1998

そんな縁から、磯崎さんが初めてイタリア文化会館で講演されました。

結論から言うと、このコンペ案は、10年以上経った今でも実現されていません。
実施設計も済ませ、着工にも至ったのに、いまだに「凍結」されています。地面を掘り起こしたら、遺跡が出てきたという、イタリアでは「お約束」のハプニングがあったとはいえ、それがほんとうの理由ではありません。
ひとことで言えば、「政治」です。それもイタリアにはありがちの、「政治」によって、この計画は頓挫させられています。

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この案の骨子として、磯崎さんは二つの概念を導入しました。

ひとつは、「ロッジア」です。ロッジアとは、屋根の掛かった回廊のことで、イタリアの修道院へ行くと、中庭を取り囲むようにロッジアが設えられています。
下の写真は映画『グラン・ブルー』のロケにも使われたタオルミーナのホテルですが、ここももとは修道院です。

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このロッジアに囲まれた中庭をキオストロといいますが、僕が世界で一番美しいと思うのは、ナポリのサンタ・キアラ教会にあるキオストロです。

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フィレンツェの街には、このロッジアが点在しています。特にヴェッキオ宮のあるシニョーリア広場にある、ランツィのロッジアは有名です。

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磯崎さんはひとつめの概念として、このロッジアを導入しました。

もうひとつの概念が、さきほど近代のテクノロジーとして指摘した「立方体」です。

立方体は透視図法的空間の理想的な表現です。そしてこの透視図法を方法として開発したのが、ブルネルスキといわれています。(これを理論的に記述したのがブルネルスキよりとし二十七若いアルベルティです。)ブルネルスキといえば、ご存知、花の大聖堂のクーポラを設計したフィレンツェを代表する建築家ですが、磯崎さんは、15世紀前半のフィレンツェで、透視図法が方法化されていくなか、その背後で正方形や円形といった明解な幾何学を下敷きにすることによって生まれる建築的空間が、あらためて可視化された点にこそ注目すべきと言っています。

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磯崎 新
『磯崎新の思考力―建築家はどこに立っているか』
王国社 2005年

「ロッジア」と「立方体」。これほどフィレンツェという街のコンテクストを理解し、それを最大に賛辞したプロジェクトがあるでしょうか。磯崎さんの案が優勝したのは、審査員の見識でしょう。

これほどの案でも、「政治」という横槍が入り、頓挫せざるを得なかったエピソードを、磯崎さんは面白おかしく話されました。

そこには、無念とか恨みといった感情はひとかけらもなく、むしろ反対陣営に廻ったスガルビやグレゴッティといったイタリア人達への愛情すら感じられる、実に大らかな、大人(たいじん)らしいスピーチでした。
磯崎さんは今回の一件を、自身が「まれびと=異人」だったのだから仕方がない、と割り切っておられるようでした。何より磯崎さんはフィレンツェを愛しているのです。そしてこのトラブルで多くを学んだけれど、そのお返しがまだ出来ていない、何故ならウフィッツィの新出口はまだ完成していないからだ、とスピーチを締めくくりました。
実に清々しい、磯崎さんらしい感動のスピーチでした。

ところが・・・・・

話がここで終わっていれば、このシンポジウムは和気に包まれたまま終わったのですが、磯崎さんの話が終わったあとに、最前列に居た関係者らしきイタリア人が余計なことを延々と話し始めました。

曰く、プロジェクトの中止は磯崎さんが日本人だからという理由ではない、我々イタリア人は決して日本人を差別していない、何よりフィレンツェの市民が磯崎さんの案を嫌悪したのだ、市民の声を無視する訳にはいかない、云々。

これはほんとうに余計な、そしてトンチンカンなひとことでした。このイタリア人がことさら強調しなくても、磯崎さんは「まれびと」が引き起こす「controversy=賛否両論」について十分に説明したし、聴衆もそれを理解していたはずです。誰もイタリア人を責めていないし、ましてや今回の一件が人種差別に根ざしたものだなんて考えてもいません。

このバカ・イタリア人の余計なひとことが、磯崎信者の聴衆に火をつけました。
曰く、磯崎さんの案はほかの案に比べて控えめで周囲と調和している、なぜダメなのか、中止するならそもそもコンペなんてやるな、イタリアのコンペは信じられない、云々。

これに対してバカ・イタリア人は、フィレンツェの市民が嫌だと言っている、の一点張り。

ああ、なんだろう、このやり取りは。

僕は心配になって、最前列で一部始終を聴いている磯崎さんを見やりました。

こんな不毛なやり取りを聴かされる、当事者磯崎さんの心中はいかばかりだろう・・・・。

バカ・イタリア人と火のついた聴衆との応酬が終わり、最後に磯崎さんが改めて登壇されました。

そして、先ほどのスピーチとはまったく違う、とても強い語気で、はっきりと仰いました。

コジモ一世も失脚し、蜜月だったヴァザーリの時代も終わった。
しかし、現在のウフィッツィはヴァザーリの代表作として語り継がれ、500年経ったいまもこうして祝福されている。
これが建築家の仕事というものだ。
そこに携わった人間が死んでも、そのコンセプトは生き続けている。

どう言われようが僕は結構だ。これをどう解釈するか、どう受け取るかというだけの話だ。
だから、結構、やってくれ。どうでもいいことだ。
かつてヴァザーリのコンセプトが実現したように、このコンセプトはフィレンツェで必ず実現すると、僕は信じている。
それは100年後かもしれないし、200年後かもしれない。けれど、いまのウフィッツィがあるように、このロッジアは必ず実現すると僕は信じている。


さすが、全身建築家!!

だから僕は磯崎さんが好きなのです。
(ふかの いちろう)

*画廊亭主敬白
才ある人の講演を聞くのは楽しい。
しかしその面白さを文章で再現するのは難しい。
それをやすやすとやってしまう人がいる、これも才能でしょうね。
ブログ初登場(とはいえ、Fさんという名で何度かご紹介しています)の深野さんは、私どもの大切なお客様ですが、珍しいことにイタリア語を使う公認会計士さんです。
(因みに亭主のフランス往来時代の相棒Uさんはフランス語を使うやはり公認会計士ですが、今は香港で働いています。)
深野さんのブログ「ジャージの王様」は常日頃から愛読しており、デザイン、建築に寄せる薀蓄の深さに感銘し、ときの忘れもののブログにもぜひ執筆して欲しいと懇願しておりました。
なかなか首をたてにふってくださらない。
そこでとりあえず既成事実を作ってしまおうと、深野さんのブログから有無を言わさず転載してしまったという次第です。
こんな面白い講演拝聴記を磯崎親衛隊としてはほってはおけませんもんね。

◆深野一朗(ふかの・いちろう)
1968(昭和43)年千葉・市川生まれ。幼名「一郎」。小学生の頃に占い師から「女狂いする」と言われ、慌てた父が「郎」の字を「朗」に変える。以後「一朗」となる。日本大学経済学部卒。公認会計士。学生の頃から服飾に尋常ならざる情熱を燃やし、セレクトショップ通いの毎日を送る。やがてその関心はミッド・センチュリーな家具へと移り、一時期服飾の世界から完全に「手を引く」。1999年にミラノで始まった駐在員生活が、失われつつあった服飾魂に再び火をつけ、以後帰任までの4年間「服飾バカ一代」の途をひた走る。欧州各地を訪れては、ホテルと料理と美術館を堪能するという放蕩がたたり、帰任後のサラリーマン生活に悶絶の日々を送っていたが、つい最近独立した。
著書『クラシコ・イタリア ショッピングガイド』(2004年 光文社・知恵の森文庫)

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磯崎新の版画「還元」シリーズより2点をご紹介します。
磯崎新「還元群馬」
磯崎新
「還元 Reduction MUSEUM-機
1983年 スクリーンプリント
イメージサイズ:55.0×55.0cm
シートサイズ:90.0×63.0cm
Ed.75 サインあり

磯崎新「還元クリニック」
磯崎新
還元 Reduction CLINIC
1983年 スクリーンプリント
イメージサイズ:55.0×55.0cm
シートサイズ:90.0×63.0cm
Ed.75 サインあり

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