植田実「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 14(最終回)

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 14(最終回)

とりあえず一区切り
植田実


 昨年4月、画家の誕生月にあわせて始まった「生誕100年 松本竣介展」の巡回第1会場・岩手県立美術館に、綿貫不二夫さんに襟首をつかまえられるように連れて行かれた日の、それ以前は私はこの画家についてどれほど知っていたのか、まったく思い出せない。
 その名前と、せいぜい10点前後ぐらいの作品が記憶にあったのか。いや、そんな知識以上に、すでに評価の定まった、完成した正統派の画家だから関心の手がかりが見つからない、同世代ならむしろ鶴岡政男や寺田政明や桂ゆきみたいなヘンな画家にならまだ私が言いたい余地は残っているかも、みたいな気持ちだったのではないか。
 ただ綿貫さんからは「竣介の歩いた都市(街)について」というテーマをもらったのでその範囲内でなら何か書けるかも知れないと思った。思ったがその前段階として作品を見ていかなければならない。結局、時代を追って主に建築と都市(街)を描いた作品を自分なりに読み解いてみるのが精一杯だったが、多くの作品にはすでに定説ともいうべき、ちゃんとした解読がなされており、時代との関係における画家像も形成されているようで、そのあたりはとりあえず避けて進みながら最晩年の作品まで辿りついたものの、彼の営為全体から端的に感じられる若々しさと豊かさとをうまく表現することはできなかった。だが時代ごとの作品に、松本竣介という人の思いがけない奥行きが次々と見えてきた驚きは少しは書きとめておいたつもりだ。
 また、岩手をはじめ、神奈川、宮城、島根、東京の各美術館における巡回展の追っかけのなかで、同じ作品がそれぞれの展示空間とその構成次第でいかに多様な変化を見せるものかを初めて知ったのは幸か不幸か。もう二度とない体験だろう。
 最晩年の作品にまで言及してしまったし、そのあと竣介の書いたもの、編集したものについてもひと通り紹介してしまったので、もう終るしかない。このあとは資料を読んだり関係者の方々のお話をきく機会を得たいと思っているが、それは少し先のことになるだろうし、その前にこれまで書いた分を読み返して何らかの始末をつけねばならぬ。私にとっては画家はもちろん建築家でさえ、ひとりの作家について1年以上書き続けたのは初めてのことで、しかも自分は研究者じゃないんだからという自覚での文体維持はまるでうまくいかなかった。あらためて綿貫さんからもらった、画家の歩いた都市(街)についてというテーマを思い浮かべながら、松本竣介を再トレースしてみたい。ということで、この未完の連載を読んで下さった方々にお礼を申し上げ、一区切りとさせていただきます。
(2013.7.10 うえだまこと)

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ドローイング展魔方陣
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生きているTATEMONO 松本竣介を読む 13

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 13

「デッサン」と「エッセエ」(承前)
植田実


 松本竣介編集の『雜記帳』が、その寄稿者たちに投げた「エッセエ」問題は、さまざまな波紋として見えている。里見勝蔵の「エツセのエツセ」(第2号)では自分は大作の好きな画家にたいして小品を描くのが好きで、文学でもエッセエを愛好するとして「百鬼園隨筆集」を例に挙げているし、田中千代松の「エッセエに就てのエッセエ」(第3号)ではモンテーニュにまた立ち戻りつつ、文学の一ジャンルとしてのエッセエの広がりをさらに考察している。
荻原朔太郎も書いている。「エッセイに就て」(第5号)では、エッセイ(荻原の表記)の日本語訳は「論文」あるいは「隨筆」、また「隨想」となっているがどれも適訳ではなく、それはこの種の文学が日本にないことを意味する。その理由は簡単で、日本の文学には歴史的に「思想性」がなかったからだ。エッセイとはいわば「思想性の情操化」であり「思想詩」ともいうべき文学なのだ。といった視点から「エッセイの進歩性は、文化におけるインテリゼンスの向上と正比例をする」とし、ただこの国でもやっと若いエッセイストが生まれてきたとして、保田與重郎の名を挙げている。次の第6号にはその保田が寄稿しているが、編集側が荻原に示唆されてさっそく保田に原稿を依頼したのかもしれない。
『雜記帳』でのやりとりはそんな具合に若々しく活発だ。でもこれを続けるときりがないので、あと印象に残る文章のなかから5編(あまりにも少ないが)を拾い出し、それぞれの一部を書き移してみる。

「背中を睡眠用に使ふのは人だけで、龜が仰向けに寢てゐたり、鶏が枕をして背中で安眠してゐる様子を私は見たことがない。龜や象は背中の方が表で腹の方が裏であると思ふが間違つてゐるだらうか。人では腹や乳房のある方が表である。しかし昔はさうでなかつたにちがひなく、今でさへも洋装の婦人の立歩く様子は、背中から腰、臀にかけての出入の曲線の凹凸が大きく、眺めては大層婉ではあるが、上肢を前につかせた方が樂な姿勢でありさうに思ふのは私だけだらうか。日本服の婦人の背腰の帯は、私のやうな想像をさせないための魂膽からの技巧だと睨んだのは僻目であらうか。」
 八並誠一「手足」(第1号)
 創刊号から終刊号まで、ほとんど毎号寄稿している作家で、旧「小説派」「兜虫」同人と紹介されているが、どのエッセエも実に奇抜な面白い視点から書かれ、しかしあるときにはロシア人少年の眼を通して東京の情景を描いた素晴らしい小説があったりで、この八並誠一という人がすっかり好きになってしまった。思いがけない常連はほかにもたくさんいる。

「秋、殊に十月半ばから色づき初めたかと見る間に、見る見る中にベルリン市街は街路樹の並木の列を通して黄金色の層をひきます。それは今云つたリンデンの盛り上る繁みの續きが、いち早く秋を感じて黄金色にふくれ上るからです。その街路樹の線(ライン)がベルリンの各方向から集つて、結びといふやうな焦點をチーヤ・ガルテンといふ市の大森林公園におきます。(中略)その一大樹海のチーヤ・ガルテンが殆んどリンデンの木で、其處へ來て黄金の葉の盛り上りが實に尨大な焦點を示します。その光景は、私が斯ういふ風にお話しをするその口をきらない中に、といふ位、またも慌だしく移りはじめます。」
 岡本かの子「晩秋初冬のベルリン」(第3号)
 科学者のような精密な自然観察がそのまま見事に美しい都市描写になっている。その光景は、「さうしたベルリンでヒツトラーは叫んでゐるのよ。」に始まる後半部で、あの時代の混乱と飢渇の様相に一転する。さすが岡本かの子と思いつつ読んだ文末に、(松本禎子談話筆記)とあって、さらに驚いた。その後の同様な談話筆記は編集部と匿名的になっているが、その実力は推して知るべし。

「音羽のとほりの電車道の裏側などには、格子戶のある二階造りの長屋がこまかく向ひ合つてゐる。うしろ側が一段高くなり、そこには木が繁つてゐる。如何にも東京の昔からの町中住ひといふ感じがある。
 文理科大學の近所も、石だゝみを敷いた坂が多くて坂にはやはり大きな欅などがあつて、石疊の道には水が流れることもなくじゆくじゆく流れてゐるやうな濕つぽさ。高い欅の木の下には下宿屋の二階に布團が干してある。髪をきれいに束ねてきちんと半えりを合せ、まつ白い割烹着をかけた奥さんが、半臺をおろした魚屋と話してゐる。あたりはひんやりとしてゐる。」
 窪川(佐多)稻子「文學的故郷」(第5号)
 残された、あるいは失われつつある風景ではない。東京をそこに住む人々ごとすっぽりと包みこんでいる地形や木々や家々や空気が、匂い立つように織りこまれている。そして窪川は、自分の文学的感情が小石川や本郷の雰囲気のなかで養われていたことに気づく。
 このほか多くの人々が住まいの周辺の日常や新しく現れてくる風景を描いている。そんな題材はエッセエと相性がよかったのだろうが、それらはいまかけがえのない記録として、読む者を誘い込む。

「一見してフオツカーだなと氣がつく程度の繪を描いてゐながら、小兒麻痺にかゝつた畸型兒のやうに弱々しい車輪がついてゐたり、折角苦心慘憺してユンケルスの猫背を模寫してゐながら、その肝心の猫背がどうにも我慢のならない曲線だつたり、かと思ふと、未來の飛行機なんていふ挿繪に、あれで精いつぱい腦味噌を絞つた擧句なんだらう、操縱席にあたる部屋に車井戶みたいな妙な器械や二十年も前の操縱装置をくつつけて見たり拝見する方が只管閉口頓首する挿繪ばかりである。」
 佐藤喜一郎「飛行機の繪」(第12号)
 大人から子どもまで、世界の飛行機に夢中になっていた時代である。今だって電車や自動車好きがいるのと同じだ。専門知識はもちろん皆無だった小学生の私も、デザインについてはうるさかった。というかこの時代の世界の戦闘機や爆撃機のカッコよさはダントツで、50から100種機までをその場でリストアップするなんてカンタンだった。上のフォッカーやユンケルスはそうした飛行機の名称で、佐藤はそれぞれのデザイン特性を的確におさえながら、昨今は飛行機の描き方がどんどんいい加減に、不正確になっていると憤慨している。そのデリケートで皮肉っぽいおかしな形容が、あの頃の感性のひだをそっくり思い出させる。飛行機に限らず、衣服、楽器、建築その他のデザインジャンルにも及ぶ各専門家あるいは愛好家の、しかし気難しい考察にこだわらないエッセエが、『雜記帳』を多角化している。そのような多角化は当然、デザインといった狭い枠まで外してしまっている。

「生產者大衆 の 感情 が いかに 正しい もの で ある か と ゆう 事 わ、 これ だけ でも 分かる。 それ わ 實に 生產點 に ある 所 から 來た 正しさ だ。 國語 の 整理 わ、 生產者 の 立場 に 立って、 生產者大衆 の 感情 お 基礎 と して 行わなければ ならない。 すべての 作家、 批評家、 すべての 文化人 が 今や そーゆう 大きな 任務 お 持って ゐる。 生產點 に あって、 正當に 發達しよー と して これまで 發達する こと の 出來なかった、 その 生きた 感情、 生きた 言葉、 それ だけ が インテリ の マンネリズム お 打ちこわし、(以下略)」
 高倉テル「國語 の 混亂 に ついて」(第13号)
 高倉テルの名は新聞や雑誌でよく見かけた。私が中学あるいは高校生のころだろうか。彼の国語改革は、上に見るような自分の書くものもすべてその信念による。従来の日本語表記の破壊と再構築の頑なさが、いまさらに痛快ですらある。『雜記帳』にはこんな時代の感触まで生身のまま保存されている。

 寄稿者のだれもが、「エッセエ」にこだわりながらも実に自由に書いている。だが勝手気ままにではない。前回に引用した竣介の「物をエッセエする態度」「もつと地道な眞摯な科學的批評を日常生活に徹底させる」意を受けているかのようで、だからいま読んでもとても新しい。その合間を縫って美しいデッサンや詩が挿入され、さらには全体の品の良さを守るが如きアナトール・フランスの短篇(三好達治訳)が毎号連載されたりして、さまざまな樹種で賑わう小さな植物園みたいなのだ。創刊から数号を重ねるうちに早くもそうした完成したスタイルをつくりあげているのに驚くほかはないが、竣介はそこに安住していない。どのエッセエもデッサンも等しく自由に枝葉を拡げ花咲かせている構造は、その先50号、100号と続けても安定しているだろう。編集者や出版社にとっては理想の雑誌だが、画家はそれに満足してはいなかったのではないか。
 第5号から特輯が組まれるようになるが、それを雑誌の焦点とするというよりは安定した誌面のなかに偏心した方向をつくり出し、流れを呼ぼうと考えた。『雜記帳』の編集方針をそのように想像したくなる。その特輯タイトルを見るだけでも目のつけどころが面白いし、号を追ってのチェンジアップが効いている。
 第5号 日本的なものゝ明日
 第6号 ヒューマニズムの動向
 第7号 女性展望
 第9号 日本の反省
 第10号 夏の景物・旅の一節
 第11号 幼年・少年
 第12号 民族の素描・人の印象
 第13号 時の隨筆
 第14号 今年の追憶
 第13、14号では特輯の文字を冠していないし、編集側の意図を控えめにしたような工夫がまた見られるが、例えば「民族の素描・人の印象」など、隨筆雑誌ならではの、同時に隨筆の意味を更新していくための絶妙な仕掛けと思わずにはいられない。
 安定ではなく、動きへとひそかに向かう編集は、目次や本文の具体的な文字組みにも反映している。本文は1段組み、2段組み、3段組みが一応基本だが、それは誌面上の序列に拘泥しているわけではなく、むしろ序列を切り崩すかのように自在に構成されている。ある作家の連載なども同じフォーマットで続けずに、号によって2段組みから3段組みに変わったり。第10号以降はケイに囲われた4分の1段組みが誌面の下端に割り込み、そこに編輯後記があったりして、さいごのページには編輯後記は74ページ(つまりなかほど)を見よ、みたいな注がついていたりする。雑誌は目次ページから始まり、編輯後記のページで締めくくるという序列さえも転換しようとしたにちがいない。目次ページ自体の構成も同じ。毎号さまざまなタイプの活字と装画を組み合わせているが、ある号の目次は項目とページの順序をなぜかアトランダムに並べてさえいる。
 表紙にもそうした動きが及んでいる。「雜記帳」のタイトルロゴは第5号以降は垂直・水平ラインのコントラストをより強調した明朝体になるものの、そのがっちりしたプロポーションは変わらない。ところがその位置は毎号上下に動いている。このタイトルロゴに重なる通し号数(1、2、3、…)の数字ロゴとの関係で動かしているからだ。両者は絡み合い、お互いを攪拌し合っている。雑誌のメインタイトルの地位ですら安閑とはしていられないかのようだ。
 けれども『雜記帳』の誌面を無心に見る限り、明晰で整然としている。編集者の「デッサン」力なのだろう。彼は文字さえも、長短・大小、疎密の線の風景として(つまりデッサンにおける描線と同じものとして)見ていたのではないか。見事な編集の技を見せながら内実はアンチ編集というべき『雜記帳』は内容と不可分の誌面構成に、いいかえれば表層ではなく構造に、あくまで画家として対していることが強く迫ってくる。そこから彼の絵画作品にひそんでいる批評性の複雑な構造を計ることができるかもしれない。
 1941年の『みづゑ』1月号の座談会記事「国防国家と美術」と、それに対する反論として書かれた竣介の「生きてゐる畫家」(同誌4月号)は有名だが、国家の緊急時における美術をどうこう言う以前の、美術の基本的な理解のあまりの素朴さ、貧弱さに、竣介は唖然としたのではないか。
 彼にはすでに美術の本来の姿が見えていた。それを現実のものにするためには個々の美術作家の努力だけではなく、より大きな「高度の環境」をつくることが第一条件だと考えていた。『雜記帳』はその環境づくりの一端だったにちがいない。それをいま知るには遺されたそのものに接するしかなく、仮に再編された記録があったとしても肝心な部分は抜け落ちてしまうだろう。そのことをもっともよく知る人々の手によって1977年6月8日、全14冊の完全復刻版が刊行された。
(2013.6.10 うえだまこと

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13号spacer_1514号spacer_1514号 裏表紙

 「生誕100年 松本竣介展」図録に掲載されている『雜記帳』の表紙写真を見るかぎり、天地はもちろん小口も断裁されているが、この復刻版は前回指摘したように小口を折り丁のまま残しているために袋状のページになったところがある。この仕様が意図的であることは、この全14冊のセットに付けられたペーパーナイフでも分かる。ほかの付録として、全号の目次をまとめた小冊子もある。
 第14号については裏表紙も掲載する。さいごまで同誌の維持会員募集を呼びかけていた。この号が最終号になるとは当の竣介たちも思っていなかったはずである。


ペーパーナイフ



『松本竣介展』図録 表紙『松本竣介展』図録
2012年 ときの忘れもの 発行
15ページ 25.6x18.1cm
執筆:植田実、図版:30点、略歴
価格:800円(税込)
※お申し込みはコチラから。

●ときの忘れものでは松本竣介の希少画集、カタログを特別頒布しています。

 ・植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
 「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。

お詫び

植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」をご覧いただき、まことにありがとうございます。
本日15日は、「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」の更新日ですが、掲載画像が未着のため、今回は誠に勝手ながら19日の更新に変更させていただきます。
ご理解いただければ幸いです。

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 12

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 12

「デッサン」と「エッセエ」
植田実


 綿貫不二夫さんから拝借した大切な資料、『雜記帳』全14巻を読み始めている。一応その概略を記しておくが、1936年10月、それまで松本竣介が関わっていた生長の家の機関誌『生命の藝術』誌が終刊、その同じ月に竣介と禎子夫人によって踵を接するように創刊された月刊誌である。翌37年12月の第14号まで、途中家族の不幸などで一回やむなく臨時休刊となる以外は毎月きちんと出されていた。その意図はメイン・タイトルの『雜記帳』に劣らず、サブ・タイトルによく表れているといっていい。
 サブ・タイトルに「随筆(エッセエ)雜誌」とある。創刊第2号から(エッセエ)の文字がそれを両側から挟む「随筆」「雜誌」の文字より大きくなる。(エッセエ)への力点を端的に伝えるこのロゴタイプ・デザインがまず印象的だ。このサブ・タイトルは第9号で「随筆(ESSAI)雜誌」となり、第10号ではただ「ESSAIS」となって「随筆」の言葉が消え、この体裁が終刊号まで続く。
 もうひとつ、創刊号のサブ・タイトルに続いて「昭和十一年九月二十七日印刷納本 昭和十一年十月一日発行(毎月一回一日発行)」の記載がある。第2号ではさらにそれに続いて「第三種郵便物出願中」が加わり、第4号では「昭和十一年十二月一日第三種郵便物許可」になる。雑誌を世に送り出すという夢の一端が言ってみれば郵政大臣のハンコをもらって現実化した記録がそこに刻まれている。その30年後に私が関わった月刊建築誌の創刊にも「第三種」の許可が必要だった。手続きを済ませていよいよ定期刊行に突入という緊張と高揚感はいまでもどこかに残っているが、ましてや『雜記帳』は小さくても自立した版元の発行である。
 印刷物としての体裁を記しておこう。
 サイズ:A5判(220x156mm)平綴じ。
 本文を別紙による表紙でくるみ、その天と地を断裁し、小口は折り丁のまま残して綴じているために天地は規格寸法だが左右は160ほど。そのために天地の開いた袋状のページがところどころにできる。これをペーパーナイフでカットしながら読んでいくことになる。
 創刊号と第2号の本文は64ページ。
 第3号は68ページ。これは巻頭に特色刷りの口絵・目次4ページが加えられたため。
 第4号から7号は本文が増えて全84ページに。
 第8号から最終14号ではさらに増えて100ページに達している。
 これを折りにすると、16ページ1折りならば、64=16x4折り、68=16x4折り+4、84=16x5折り+4、100=16x6折り+4、となる。
 印刷機その他の事情で、8ページ1折り、あるいは4ページ1折り(口絵・目次はそうなっている)ということだってありうるだろうが、袋状のページは16ページ1折りにしたときに初めて生じる。そして6折りならば口絵・目次の4ページを足して100ページちょうどになる。この切りのいい数字とフランスの本みたいな仕上げとを、竣介は気に入っていたと想像したくなる。
 表紙・本文ともに活字・活版、図版も凸版。1枚の絵に線描部分と濃淡の調子のついた部分がある場合はハイライト版で処理するきれいな製版であり、活字や罫もじつに多様なサイズや書体を使っている。これについてはあとで触れるが、いま見ても時代を感じさせない、斬新なつくりであることに驚くばかりだ。
 本文総計1232ページ、表紙まわりを併せれば1288ページをわずか1年余りの月日で、一画家とその夫人が企画、原稿依頼、集稿、割り付け、入稿、校正、校了、印刷・製本管理、そして出来上がれば発送作業まで一貫して行ったことになる。しかもどうやら書店への適正部数配本にまで腐心した様子である。
 寄稿者は、私なりの数えかたでは延べ318人。海外作品については原著者とその翻訳者とを併せて1人とした。これに7号以降の雑記欄への投稿者は約30人。挿図を描いている画家は、やはり竣介(当然多い)を除いて、国内外を併せて40人。これは文章に自分の絵をつけている人もいるので寄稿者とダブることもあり、いい加減だがおおよその人数を実感したかったわけである。寄稿者のなかには何号にもわたって書いている人もいるが、あえて延べ人数にしている。延べ人数を拾ったのは編集者側の手間を考えようとしたからである。たとえ連載(は少ないが)であっても今みたいにおまかせで済ませてしまうのではなく、細かい注文なり感想なりをその都度寄稿者に送った気配が感じられるからだ。メールはもちろん、ファックスもコピー機も(たぶん)電話さえなかった個人の編集室からは、おそらく手紙と葉書でのやりとりと直接の訪問が、唯一の手段だったのではないか(そういえば口述筆記の原稿もあったが録音機のない時代でもある)。しかも聴覚を失った編集者だが、その誌面は精力的かつ明るくゆったりとしている。
 寄稿者にはどんな人たちがいたのか。専門分野が多岐にわたり時代的にも私の手に負えない部分があるので、ひとつの目安として強引にというか機械的に、手元にあった『コンサイス日本人名事典』(三省堂 2001第4版)で寄稿者全員の人名に当たり、記載されていた人々を肩書きとともに生年順に並べてみた。以下がそのリストである(当事典では新字体表記だが、それを旧字体に戻している)。

 田中阿歌麿 1869-1944 湖沼学者
 伊原青々園 1870-1941 劇評家、劇作家
 戸川秋骨 1870-1939 評論家、英文学者
 平田禿木 1873-1943 英文学者、随筆家
 西村眞次 1879-1943 歴史学者
 上司小劍 1874-1947 小説家、詩人
 石原純 1881-1947 物理学者
 秋田雨雀 1883-1962 劇作家
 岡田八千代1883-1962 劇作家
 高村光太郎 1883-1956 彫刻家、詩人
 柳原子(白蓮) 1885-1961 歌人
 萩原朔太郎 1886-1942 詩人
 藤田嗣治 1886-1968 洋画家
 服部嘉香 1886-1975 詩人、歌人、国語学者
 石井鶴三 1887-1973 彫刻家、洋画家、版画家
 新居格 1888-1951 評論家
 今和次郎 1888-1973 建築学者、風俗研究家
 深尾須磨子 1888-1974 詩人
 安井曾太郎 1888-1955 洋画家
 岡本かの子 1889-1947 歌人、小説家
 室生犀星 1889-1962 詩人、小説家
 坪田譲治 1890-1981 小説家、童話作家
 長谷川利行 1891-1940 洋画家
 恩地孝四郎 1891-1955 版画家
 高倉テル 1891-1986 社会運動家、小説家
 須田國太郎 1891-1961 洋画家、美術史家
 佐藤春夫 1892-1964 詩人、小説家
 澁澤秀雄 1892-1984 実業家
 曾宮一念 1893-1994 洋画家
 木村莊八 1893-1959 洋画家
 童粁杪析此1894-1981 英文学者
 佐藤喜一郎 1894-1974 実業家
 里見勝蔵 1895-1981 洋画家
 宮澤賢治 1896-1933 詩人、作家
 林武 1896-1975 洋画家
 東郷青兒 1897-1978 洋画家
 伊藤廉 1898-1983 洋画家
 鈍薫賚此1898-1992 洋画家
 尾崎士郎 1898-1964 小説家
 中條(宮本)百合子 1899-1951 小説家、評論家
 尾崎一雄 1899-1983 小説家
 内田巖 1900-1953 洋画家
 村山知義 1901-1977 劇作家、演出家、舞台美術家
 村野四郎 1901-1975 詩人
 小熊秀雄 1901-1940 詩人
 猪熊弦一郎 1902-1993 洋画家
 眞船豐 1902-1977 劇作家
 中野重治1902-1979 詩人、小説家、評論家
 鶴田知也 1902-1988 小説家
 北園克衛 1902-1978 詩人
 林芙美子 1903-1951 小説家
 島木健作 1903-1945 小説家
 深田久彌 1903-1971 小説家、登山家
 瀧口修造 1903-1979 美術評論家
 菅原卓 1903-1970 演出家
 中島健蔵 1903-1979 評論家
 武田麟太郎 1904-1946 小説家
 木村秀政 1904-1986 航空工学者
 新田潤 1904-1978 小説家
 窪川(佐多)稻子 1904-1998 小説家
 谷口吉郎 1904-1979 建築家
 海老原喜之助1904-1970 洋画家
 森山啓 1904-1991 小説家、詩人
 本庄陸男1905-1939 小説家
 巽聖歌 1905-1973 童謡詩人
 平林たい子 1905-1972 小説家
 段欷太郎 1905-1990 詩人、ドイツ文学者
 山本安英 1906-1993 新劇俳優
 高見順 1907-1965 小説家、詩人、評論家
 鶴岡政男 1907-1979 洋画家
 靉光 1907-1946 洋画家
 蘆原英了 1907-1981 音楽・舞踏評論家
 龜井勝一郎 1907-1966 評論家
 脇田和 1908-2005 洋画家(没年は当方で記入)
 森芳雄 1908-1997 洋画家
 菱山修三 1909-1967 詩人
 保田與重郎 1910-1981 評論家

 竣介と同世代あるいはそれ以降の人はこの事典には収録されていないことが分かる(しかし松本竣介の項はある)。これだけではすこしさびしいので、画家についてはそれ以外に私でも親しい名を号を追って拾ってみた。
 難波田龍起、野間仁根、村井正誠、前川千帆、向井潤吉、三岸節子、川口軌外、深澤紅子、桂ゆき子、鳥海青兒、寺田政明、岡田謙三、山口長男、麻生三郎、等々。ついでに海外作家ではスゴンザック、モーリス・ドニ、ピカソ、モジリアニ、ドガ、デュフィなど。
 ここに竣介とその時代という環境が次第に見えてくる。そしてこれではっきりしてくるのは『雜記帳』は同人誌ではないこと、だがいわゆる綜合誌とも違うことであり、竣介がまだ形にならないあるメディア環境を、手に取って読める雑誌という形にするヴィジョンが感じられることだ。第11号の編集後記で彼は書いている。これは「自分の個人雜誌のつもりでやつてゐるのではない。また出版屋にならうなど、凡そ無縁である。たゞ『物をエッセエする態度』は是非今日瀰漫させたいと思ふことだ。(中略)もつと地道な眞摯な科學的批評精辰鯑常生活に徹底させることを願つてゐるのである」
 繰り返すが、『雜記帳』というタイトル、「随筆(エッセエ)雜誌」というサブ・タイトルには、竣介がつくろうとしていた新しい形が表れている。前回紹介した竣介の言葉のなかで「デッサン」は単なる素描ではなく、仏語のDessein、英語のDesign、すなわち「計画であり、決意決心」の意であると言及されているが、「随筆」や「エッセエ」も同じように自己表現の根本に触れたタームだと考えていたにちがいない。今では随筆なんて言い方はほとんどされなくなったし、エッセエもごく軽い便宜的な呼び名になってしまったが。
 『雜記帳』第1号の巻頭には宮澤賢治の「朝に就ての童話的構図(遺稿)」が載せられている。本誌の出発を象徴する特別作品と見てよいだろうが、その次の關根秀雄「ミッシェル殿のエッセエ」は關根の専門とするモンテーニュが上記の本を刊行した1508年においては「この標題は一種奇異なる、少くとも聊かはつきりせぬ、感じを一般に與へたらしい」とエッセエそのものを主題にしている。エッセエとはまず「試み」の意味をもっていたが、その主体は自己でも他者でもあり、対象が限定されることもないからその意味するところは「危険」とも「試作」ともなり、「即ちここには、自由な、又謙遜な、態度なり心持なりも、感ぜられる」、そういう広い意味まで包摂する結果になった『モンテーニュ随想録』の新しさを位置づけ、『雜記帳』創刊時の日本人読者の受容度を考慮に入れたかのように「そこに、一種の禪味、俳味、一種の抒情詩も亦、なくはなかつたやうに私は思つて居る」と締め括る。
 竣介も編集後記でそれを受けるように「エッセエの意味は(中略)千差萬別、非常に廣いものだと考へる。(中略)野放しの文章、書きたいことを自由に、各方面の方々に書いて」もらうつもりだと書いているが、そうした文章や絵を編集した全14巻には、竣介が「エッセエ」と「デッサン」のなかに極めようとした自己表現の純粋さがくっきりと残されているのである。         (この項続く)
(2013.5.9 うえだまこと

『松本竣介展』図録 表紙『松本竣介展』図録
2012年 ときの忘れもの 発行
15ページ 25.6x18.1cm
執筆:植田実、図版:30点、略歴
価格:800円(税込)
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生きているTATEMONO 松本竣介を読む 11

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 11

『人間風景』から
植田実


 松本竣介の文章を、おそらくは可能な限り網羅した『人間風景』(新装・増補版 中央公論美術出版 1990)を、この連載を始めたときに読み通したが、こんど改めて読み返した。このようにまとめられた資料は読者にとって実にありがたいが、編集はたいへんだっただろう。その作業の中心にいたにちがいない朝日晃さんの「あとがき」にそれがよく表れている。しかも初版刊行後10年近くに出された増補版は、前には行方不明だった文章をさらに追加して、そうした資料追跡と発見の息づかいがこの本に生きた形を与えている。

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 『線』第1号(1931)も新発見のひとつである。竣介の論文「絵画の階級性、非階級性について」が同誌に寄稿されているが、古代エジプト、ギリシャからキリスト教文化に至る絵画から始めて、ビザンチン、ロマネスク、ゴシックを辿り、14世紀イタリア、15世紀のフランドルを経てルネッサンスの主要画家に触れながら時代を下り、竣介と同時代のセザンヌからピカソ、さらにはカンジンスキーやルッソオまで自分なりの価値観で西欧絵画史を縦覧しているのだが、19歳から20歳になったばかりのときにこれほどの基本作業を自分に課しているのに驚かされる。ここに生涯を通じてあくまで画家としての自覚を強く持していた松本竣介がいる。
 例えばこの論文を念頭に置きながらそれに続く文章に当たっていけば、彼のひたむきな勉強ぶりやずばぬけた感性が否応なく迫ってくる。だがそれ以上に彼の時代がよく見えてくる。とくに日本にとってのヨーロッパの新しい絵画や文学との第1次遭遇ともいえるなかでの対象の正確な把握は、きわめてシンプルなのに現在よりずっと明快に受けとれる。むしろ高名な「生きてゐる画家」から構築されてきた、戦争に抵抗する画家像のほうが私にはまだ分かりにくい。自分のことを考えても、あれほど決定的に自分を変えてしまった時代をどう表現するかを、今でも探っているからかも知れない。本連載でもそこに触れるのをまだ回避している。
 この『人間風景』から、竣介自身の絵画に干渉してくるような文章を抜き書きしてみることにした。高校生の頃は好きな詩や小説の一節、アフォリズムなどをノートにせっせと書き移したりしていたが、そんな手書き作業はその時以来である。ここには時代や状況に対する竣介のいわば大きな構図という以上に、最小限の線描によって画家としての方向を確立していく思考が見られる。そのいくつかを任意に選んだというより、そういう方向が見られる文章はこれが全て、ぐらいの気持ちで抜き書きした。
 それは1934年から36年にかけて集中し、発表誌も『生命の藝術』を主としている。時代とメディアが変われば、語り口も変わり、自由なくつろいだ気分も漂って、別の世界が現れてくる。彼が同人誌あるいは『雜記帳』のような多面的な「随筆(エッセエ)雜誌」まで個人的に出すことになぜあれほどこだわったのか、彼の文章を追うあいだに少しずつ分かるような気がしてきた。

 以下は年代順に並べたそのアンソロジーです。ブログでこんなことやる意味があるのかとも思われそうですがお許し下さい。

 恐ろしい程古典を消化しつくしてゐる是等の作品*を前にして、自分の仕事の過程の散漫さと、有力な古典に接する機会のない事を嘆じないではゐられなかつた。
 ――
 現在フランスの前衛的絵画と一口に言つたならば、きつと文明的機智と華麗を想像するだらう。だが私は東洋の優れた墨絵を見てゐる様な気持であつた事を言はなければならない。
 ――
 それ等の絵は一つ一つ各自の頂点に達してゐるエツサンスなのだ。私の知りたいのはそれ等の完成の点に達するまでの道程であつた。それは自分で発見しなければならない。
 ――
 ピカソは常にどんどん発見(ピカソは絵を追窮するとはいはない)の道をたどつてゐる。
 ――
 ピカソの描く人間は皆作りものだ。(中略)しかもそれに血が通つて生きてゐるから不思議である。
 (『岩手日報』1934年3月16日)
 *同年2月の福島コレクションの東京での展観作品を指す。ピカソ、マチス、
  ルオー、ドラン、ブラック、ユトリロ、モジリアニ、スーチンなど37点。

 大人は(中略)、二度と子供になる事は出来ない。併し子供の素朴性は彼を喜ばせないであらうか、また彼はより高き段階に於て、再び子供の純真性を再生産するべく努力してはならないであらうか。子供の性質のうちには如何なる時代に於ても、その自然的純真性を持つたその時代自身の性質が宿つてはゐないだらうか。
 ――
 古代の芸術は、知的に複雑な迷ひを持たない素直な生命の生活から生まれた作品であつた。現代の所謂知的な仕事に携はつてゐる人間は凡ゆる迷ひの坩堝(るつぼ)の中に投げこまれてゐるのである。大人が素朴になつていけないわけはない。文化は複雑な精神的に昏迷せる生活を人間に強制する事が任務であるわけではない筈だ。
 ――
 セザンヌは始めて造形芸術の純粋を形成した人であつた。レオン・ヴエルトはセザンヌ評の中で、普通の画家ならば数里の画面でも書き尽くせないものを、セザンヌは方寸の画布に表現してゐる、と言つてゐるが。この中にセザンヌの秘密があり、その偉大さがあるのだと思ふ。
 ――
 だがセザンヌの仕事はついに完成しなかつた。それは視覚に映じたものを素材にして仕事をする事しか出来なかつたからであると思ふ。このやうな意味で一歩進んだのが現代のピカソである。ピカソはセザンヌを研究する事によつて純粋な造型芸術の完成に成功した。(中略)視覚的現象に囚はれる事なしに絵画を創作する事に成功した。セザンヌを正しく理解したならばピカソを理解する事はまた容易な事である。
 (『生命の藝術』第2巻第1・4号 1934年1・4月)

デフオルマシヨン(変形)の画にとつて常に重大であるといふ事をこれ程画面に決定させた画家*は少い。
 ――
 ピカソの絵には最も理窟がないと僕は思ふ。ピカソは腹の坐つた出来てゐる人間だ。そして豊かな抱合力の大きい画才をもつてゐる。そこから生じる統一された大きなものが吾々を包んで行く。
 (『生命の藝術』第2巻第3号 1934年3月)
 *上と同じ福島コレクション東京展の感想。ここでの画家はモジリアニ。

 現在デツサンといふと、美術家の間では鉛筆か木炭によつて対象物を描きわける事を指して云ふのであるけれど、デツサンを素描と訳したのはいゝとして、素描をすがきと思つたり、簡単なスケツチ風のものをデツサンといふのは本当ではない。(中略)元来素描とは仏語のDessein(デツサン)であり英語のDesign(デザイン)の事であつて、計画であり、決意決心を意味してゐるのである。
 (『生命の藝術』第2巻第6号 1934年6月)

 近頃写実主義(リアリズム)的作品が盛り返して来る傾向を感じる。しかしそれが真のリアルを内に持つてゐるのではなく、過去の自然主義的作品のやうに形だけの自然であるなる(ママ)ばむしろない方がましだらう。(中略)心からの現実主義はリアリズムではない。むしろ反リアリズムであらう。(中略)現実といふ言葉は現象と言つた方がいゝ。
 (『生命の藝術』第2巻第8号 1934年8月)

 僕達は常に現象に先行してゐるものでなければならない。
 ――
 僕の生活では芸術の創作といふことが最も大きな関心なのだ。だからこの無の意味が創作行為との間に間隙なく結びつかなければならないのだつた。始めは理論的にこの無の意味を釈いてみやうとした。だがそれでは自分の影を追ふやうな結果になつて了ふのだつた。このやうな過程を経て、本来の芸術的直感で「無」の意味に対した時、非常に楽に分り出して来た。
 (『生命の藝術』第3巻第3号 1935年3月)

 美術家は、人間性による人間性の洗濯屋である。人間性を神秘なものにして了つてはいけない。自分達の身辺にいつまでもころがつてゐる。これをしつかりと摑む事により芸術家としての基礎が出来るのだ。芸術家としてこの根本問題を把握しない限り、いかに様式を追はうとも、芸術理論が完成されてゐやうとも作家としての資格はないのだ。
 (『線』第2号 1936年9月)

 私は近頃、無性格的といふことをしきりに考へてゐる。(中略)
 真、自然、写実を基として語ることが芸術作品に於ては常に正しいことであると思ふが、無性格性を敢へて強張することに現代的な意義を私は考へてゐる。
 ――
 兎に角強い個性の裏には同じやうに強い無性格性を是非持ちたい。私達今日の若い作家は、個性的天才を自負する先に、隣人と同じ人間であるといふ自覚を練つて行かなければなるまいと思ふ。
 (『新岩手日報』1942年10月17日)

 藝術は真実、宇宙の中心意志を表現しようとする、といふよりも、求心的意志をもつた無目的的な行為であると言つた方がいいと思ふのです。だから作家として内的意志を失つた藝術家は実に不安な巡礼者に過ぎません。
 ――
 セザンヌのやうな人は、自然そのものとして林檎をあつかつてゐる、視覚的なものも軽んじてゐるわけではありませんが、それよりも一層奥の自然を貫いてゐる何物かを摑まうとする態度の方が激しいんです。現象としての林檎ではなく林檎を通してもつと永遠的なもの、無限的なものを表現しようとしてゐるのだと思ひます。それが単的に現はれてゐるのが、セザンヌの常套的構図法であるところのピラミツト型です。このやうな構図は静止と、安定と量感の表現に最も適してゐます。地上的なもの写実的なもの、永遠的なものを思はせます。
 (日記 1944年1月)

 美とは、美をまとつた醜であり、醜をまとつた美である。「美しくない」といふことは醜のことを言ふのではない。「美しくない」のは美や醜から離れたもの、不徹底が何よりも美しくないのだ。
 ――
 額に汗してバベルの塔を築かうとするやうな過去を持つてゐない日本人には、リアリズムといふことにもアルカイツクな過程がない。気質として理解されるリアリズムか、或は伝統的な形式化されたリアリズムしかないといふことが、技術的に致命的だ。
 ――
 「純粋」とは過去への郷愁であり、未来への仰望なのだ。
 どこにもありふれてゐて、満ちてゐながら容易に摑へることのできないもの。
 それを抽出し、日常生活の上に定置させようとする努力。
 (『岩手美術』第1号 1946年8月)

(2013.4.8 うえだまこと

077) 松本竣介
《作品》(裏面にペン画あり)
1943年頃
紙にインク、鉛筆
イメージサイズ:25.7x20.3cm
シートサイズ:27.0x22.2cm

07_裏7) 松本竣介
《作品》裏面
紙にペン

松本1919) 松本竣介
《人物》
※「松本竣介素描」(1977年 株式会社綜合工房)121ページ所収
1947年
紙にインク、筆、ペン
イメージサイズ:34.5x25.6cm
シートサイズ:39.0x27.6cm

2525) 松本竣介
《肖像 II》
紙にインク
イメージサイズ:16.8x14.3cm
シートサイズ:20.0x15.8cm

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『松本竣介展』図録 表紙『松本竣介展』図録
2012年 ときの忘れもの 発行
15ページ 25.6x18.1cm
執筆:植田実、図版:30点、略歴
価格:800円(税込)
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生きているTATEMONO 松本竣介を読む 10

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 10

建物からの風景
植田実


 今回展図録で「第IV章展開期」としてまとめられている作品群は、松本竣介の生涯の最後に描かれている。東京の焼跡を描いたあと、風景画といえる作品はぷつりと気配を絶ち、人物画も激しく変貌している。

P118松本竣介
≪建物≫
1947年頃
油彩・板
37.9x45.5cm
三重県立美術館


 作品にそくして見ていく。
 ≪建物≫(1947頃)はこれまでになく抽象的な構成になっている。1940年頃から描かれてきた≪構図≫と題された一連の作品も抽象的な線によっているが、こちらが開かれた場に分散する線路、車、人、家などの断片から成るのに対して、前者は画面いっぱいの線が全体に求心性を形成している。まず中央下部の透視図状の線がその両側に立つ門柱あるいは細長い建物から奥まった距離をつくり出しているのが目につく。次いで左下から右上に斜めに上昇した太い線が、中央で折れて水平に右へと進み、その先は消えているが、また折れて右下へと向かう見えない台形が画面の下半分を占める。これも先の透視図状の道の作用を受けて奥行きをつくり出し、建物を透かして、窓や屋根や煙突らしき形が暗示するこのお邸の建つ敷地の輪郭を見せている。
 と、この油彩は読めるともいえる。それはいいかえれば風景のなかに点在する要素としての建物が、風景を内包するマッスに変わっている。その結果、風景の内圧が高まっている。それは同時期の≪習作(陸橋)≫(1947頃)にも共通していて、道がありその上に陸橋が架け渡された風景というよりは、うねるような絡み合うような陸橋や建物らしき構築物が道や空をその内側におさえこみ、おさえこまれたものはそこから脱け出す隙間を探っているような運動量が伝わってくる。

P119松本竣介
≪習作(陸橋)≫
1947年頃
油彩・画布
24.2x33.3cm
個人蔵


D116松本竣介
≪建物≫
1948年
墨・鉛筆・紙
23.8x32.2cm
個人蔵


D119松本竣介
≪ざくろ≫
1948年1月
墨・紙
37.8x45.4cm
個人蔵


 マッスとそこに加えられた切れ目は、素描の≪建物≫や≪ざくろ≫(ともに1948)にも見られる。果実のように継ぎ目のない建物の1ヵ所だけ四角い穴が開けられ、そこを刃のように鋭い表情の窓が出入りしている。逆に、まろやかな形とその先端が自然に弾けて赤い種子を覗かせているはずの果実は、人工物のような異形の全体と亀裂に変じている。

D118松本竣介
≪ランプ≫
1948年1月
墨・紙
27.4x21.2cm
個人蔵


P120松本竣介
≪ランプ≫
1948年
油彩・厚紙
27.0x22.0cm
個人蔵


 彼の作品のなかでは唯一と思える静物画も同時期に描かれる。素描と油彩それぞれの≪ランプ≫(1948)だが、これは見たままのランプの絵であってそこには何事も起こっていない。けれども油のタンクと火屋(ほや)の組み合わせは、素描では懐かしい明かりの道具として見えるが、油彩ではどこか不穏な建築のようでもある。どんな意図でこうしたモチーフを選んだのか。
 いずれにしても、上記の素描も油彩も習作過程のまま終った感があり、竣介にはその先を展開する時間がもうなかったともいえるが、自分の絵画とするうえでのこの手法の限界を見極めたのかもしれない。それはこれらの作品の価値を低めていない。どころか彼の試行の驚くべき複雑な多様さを記録している。とくに東京の焼跡を見てしまった後に、確かな場を再構築しようとした決意は、これらのわずかな作品にしか残されていない。
 もう一群の印象的な作品がある。一群といっても図録にあるのは素描2点、油彩2点のわずか4点。油彩の1点は遺作となった。素描は≪建物≫と≪建物(茶)≫、油彩は≪建物(青)≫と≪建物≫(すべて1948)。古典的建築のファサードを断片化し、コラージュしている。

D120松本竣介
≪建物(茶)≫
1948年
墨・紙
27.5x39.5cm
東京国立近代美術館


P123松本竣介
≪建物(青)≫
1948年5月
油彩・画布
24.0x33.0cm
(公財)大川美術館



 1929年、17歳で岩手から上京した竣介は、その後、岩手とはどういう行き来があったのか。
 33年頃まで盛岡の風景をいくつも描いている。帰ることがよくあったのか。年譜では、41年に松本竣介・舟越保武二人展、42年に澤田哲郎・舟越・松本三人展、45年11月に松本・舟越二人を盛岡で開催、いずれも会期中に同市を訪ねている。戦中戦後を通してかなりの頻度で盛岡に行っているし、盛岡でのいくつかの美術展に作品を出品している回数はさらに多い。それほどのつながりがあったのだろうが東京が廃墟となった後は、故里を見る眼が変わったのではないか。それが4点の≪建物≫に感じられる。
 たとえば≪建物(青)≫に描かれているのは東京のではなく盛岡の建物だという気がする。この作品だけは断片のコラージュではなく、ある建物の正面ファサードを描いているようにも見えるがどこもかしこもフツーではない。全体のプロポーションと不釣合な太さの、3本の円柱はちゃんとキャピタル(柱頭)まで載せているが、それと様式的には関係なく背後の壁にぽっかり黒い穴が開けられている。屋根部の双対の小塔からはそれぞれさらに小さい双対の煙突らしきものが突き出ている。もっと不思議なのはペディメント(破風)の垂直面を貫いて上に伸びる中央の小さなタワーである。このためにペディメントが奥へと傾斜しているようにも見える。
 この連載第1回「盛岡市紺屋町界隈」では、10歳から17歳にかけて竣介が住んでいた家の界隈を訪ね、そこに集中しているいくつもの洋風建築を見てきている。≪建物(青)≫にはこれらの建築のディテールを思い出させるところがある。旧盛岡貯蓄銀行の大仰な正面円柱、旧盛岡銀行本店の裏手に付けられた双対の煙突、さらには紺屋町番屋消防団第5分団(これに言及するのは今回が初めてだが)の寄せ棟屋根を貫く六角形の望楼。そしてこの絵を支配するメランコリックともいえる深い青の色調は「ロマネスク様式をベースにユーゲントシュティルの影響」を受けているといわれる旧第九十銀行本店の綺想的気分につながるようにも思える。

21_旧盛岡貯蓄銀行旧盛岡貯蓄銀行


23_旧盛岡銀行本店旧盛岡銀行本店


13_紺屋町番屋消防団第5分団紺屋町番屋消防団第5分団


33_旧第九十銀行本店旧第九十銀行本店


 これは盛岡の建物の絵だ。といっても上に挙げたようなモチーフの近似によってそう断ずるのではなく、東京の風景から遠い、ある平穏に満たされているからだ。竣介が物心ついたときから当然の環境としてすでにあった、シンプルだが洒落た、親しく知りつくした建物のいくつかだけで、時代と合わせ鏡になった(東京の)果てのない風景は閉ざされたのではなかったか。
 それはノスタルジーではない。竣介はそんな心情をさらりと回避して、しかし建物のファサードのコラージュあるいはレイヤーの手法には興味を抱いたのだろう、残りの3作品は教会の尖塔、薔薇窓、戦勝記念円柱などの比較的ポピュラーなモチーフを、断片化あるいは切削、本来の位置からの移し替え、スケールの操作などで自由に構成している。さらに彼の本領が発揮されたのは平面性と立体性、黒い線描と色彩面との微妙な調整だろう。素描では各モチーフは立体的に扱われ、画面の両サイドは全体がひとつの建築的マッスであるかのように、視線は地上に揃えながらパースペクティブな奥行きのある線でまとめている。だが遺作とされる油彩においてはこの奥行きを見せる線描が辛うじて窺えるほどにまで濃い絵具を載せ立体性を隠している。一方、画面上部においては尖塔や切妻屋根の形を黒の線がしっかり輪郭づけしているにもかかわらず、ちょっと擦ったように立ち上がる幾本かの明るい色彩の小塔が、画面の奥に重ねられる。平面と立体、線と面との相反する動きを、竣介はただ1画面のなかで駆使している。

P124松本竣介
≪建物≫
1948年5月
油彩・画布
60.5x73.0cm
東京国立近代美術館


 画家の親友だった舟越保武は、この絶筆≪建物≫について「あれは絶筆になったのではなく、竣介はたしかに絶筆として描いた。これほどに、画家の生命の終結を思わせる作品は他にない」(「アサヒグラフ別冊・美術特集松本竣介1983秋」)と書いている。竣介のすぐ近くにいた人の証言に対して言い返せることは何もない。ただ、ほぼ同時期に描いている、小川未明、林芙美子、芹沢光治良などの著書のための装画を見ると、絵画のシリアスな探求とは別に、本や雑誌の表紙やとびらを飾る楽しいカットも手がけたい気持ちもあったのではないかと思う(昨年暮れから今年初めにかけてときの忘れもので開かれた「松本竣介素描展」にも古代建築古代彫刻を扱ったいかにも装画らしい作品が見られた)。そして遺作≪建物≫は、見方を変えてみるとそうした洒落っ気に富んだスマートな装画のシリーズとも思えてくる。こうした解釈も取っておきたいのだ。そんな仕事も楽しんだにちがいない姿を想像すると、健康を取り戻そうとする竣介の未来時間があったという気がするからだ。

P122松本竣介
≪彫刻と女≫
1948年5月
油彩・画布
116.8x91.0cm
福岡市美術館


 もう1点の遺作≪彫刻と女≫(1948)には知らぬうちに画面のすぐ近くまで引き寄せられているような気分がある。全体は深い赤褐色を基調としているが、彫刻と女性の上半身とのあいだの空間が白く輝いている。それは女性の息吹だと思った。つまり女神でも精霊でも近しいひとでもある女性が彫刻に生命を吹きこんでいる。ストレートすぎる解釈なのでとりあえずの印象としたいが、ついでに唐突な連想をしてしまったのだが(同じ頃に描かれた≪少年≫のせいか)彫刻がピノキオみたいに思えてきたのである。頭部だけの彫像は台の上に載っている。台は4本の長い脚に支えられている。だが2本脚のようにも見えるように巧妙に描かれている。いいかえればこれはもうひとつの≪立てる像≫である。ピノキオもまたボッティチェリの描くヴィーナスも生命を与えられた瞬間、身ひとつで立つ。そうした人類の歴史に限りなく表れてくる生誕の図像が次々と見えてきた。
(2013.3.19 うえだまこと

*掲載図版は「生誕100年 松本竣介展」図録より転載してます。
この展覧会は、2012年4月〜2013年1月にかけて下記の全国5美術館で巡回開催されました。
岩手県立美術館、神奈川県立近代美術館 葉山、宮城県美術館、島根県立美術館、世田谷美術館

植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、毎月数回、更新は随時行います。
 同じく植田実さんの新連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。第10回は予定より遅れて3月22日の掲載となりました。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 9

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 9

「残骸東京」
植田実


「東京や横浜の、一切の夾雑物を焼き払つてしまつた直後の街は、極限的な美しさであつた。人類と人類が死闘することによつて描き出された風景である。」(「残骸東京」、「東北文庫」第1巻第2号 1946.2.1)
 今回展図録にも引用されている松本竣介のこの一文は、あまりにも強烈なイメージのために、かえって目に見える光景としての像を結びえないようなところがある。竣介自身、こういう感想を述べるについては犠牲者たちへの祈りなしに口にすべきではないとことわりながらも「極限的な美しさ」と、自らの身を投げ出すかのように断言している。その言葉と画家のはかり知れない距離あるいは回路が、現在においてもその言葉のままに生きている。ほんの少しの刺激によってもすぐ作動しはじめるみたいに。
 日本人のすべてが同じ状況のもとにいるという理解をこれほど否応なく持てた時代はあとにもさきにもないだろう。同時に、個々に違う光景を、立場によって年齢によって居る場所によって細分化されて見ていた時代もない。人それぞれに残骸東京を(今からすれば)一瞬見た記憶のなかに、竣介の言葉は熱した鉄のように置かれていると、読んだときそう思った。当時を体験していない世代にも、いやその人たちにとってこそ、こう形容された街は消えることがないだろう。
 その形容にもっとも対応すると思われる作品は≪焼跡風景≫(1946頃)なのだろうか。画面中央に赤褐色の、なにもない帯状の流れが端から端まで続いている。この油彩は図録に印刷されたものと実物とがとくに違って見えた。実物のほうが帯の幅が太く感じられる。絵具の内に籠った輝きのせいだろう。その輝きが前景の石あるいは瓦礫と、遠景の建物群を圧縮せんばかりに広がっている。焼跡を示す図像はそこになく、無の色彩だけが横溢している。一方、遠景の建物群には空襲による損傷の跡が見えない。右手の工場らしき建物の屋根は傾いでいると思えなくもないが破壊された形ではない。むしろ無事に残された場所が無になった場所をその対比で語っている。奥の風景は静止し、無の色彩は火の川のように流れ続けている。盛岡を描いた初期の作品では、こちらと向こうの世界を分けながらその両者を繋ぐ道や補助線を必ず加えていると見ていたのだが、≪焼跡風景≫においてはこちらと向こうは断絶し、ただ全体を彩る赤褐色が同じ時代のもとにあることを暗示している。

600松本竣介
≪焼跡風景≫
1946年頃
油彩・画布
23.6x53.2cm
中野美術館

 「残骸東京」は引用した一節の少し先で、焼跡のいわば日常について筆を進めている。
 「東京は、極限から、人間の世界の底地に、急調子で辿りつゝあるやうだ。鉄屑や瓦礫はとりかたづけられ、焼跡は貧しい野菜畑になつた。鉄筋建造物の残骸や、煙突や、防火壁や、風呂屋のタイル張りや、豪奢な邸宅の跡に、煖爐、車庫等が哀れな姿でとり残されてゐる。その間に点々として営まれてゐる乞食小屋の如き住居。その中で人々は明日の食物のことを考へてゐる。これが日本人の今日の生地(きぢ)である。」
 当時松江に母たちと疎開していた莞さんに竣介が送った絵手紙(1945.5.28)には、そんな焼跡の光景が水彩で描かれている。手前には自転車やバケツの焼けただれた残骸がころがっているし、電信柱は真ん中から折れ、風呂屋や邸宅は煙突だけが立ち枯れ状態だ。空にはシコルスキーやグラマン(なつかしい!)がうるさく飛びまわっている。「ヒガシナカノエキノアタリカラ オウチノホーヲミタトコロ」とある、何もかも茶色の絵には、いちばん遠くに水平にのびる緑の帯状の場所が見える。難を逃れたそこに松本家があった。1946年9月に発行された、戦災焼失区域を表示した『東京都区分地図帖』によると、現・JR東中野駅からその真北に位置する現・西武新宿線中井駅とのあいだの区域はほぼ全焼しているが、中井駅からさらに北の住宅地の一画(松本家のあるところ)は、線路とそれに平行する妙正寺川が火の勢いを阻んだのか、ほとんど無傷である。妙正寺川は中井駅とその西隣の新井薬師前駅との中間で線路をくぐって北西に向かう。そうなると火も線路をまたいで北に突き進み、川の西一帯を焼き、哲学堂(公園)のぎりぎり際まで襲っている。上の絵手紙のなかの緑の帯のなかに矢印でこの辺におうちがあると説明されているその左、少し離れたところにやはり緑の帯のなかから顔を出している建物があり、それにも矢印がついていて、以前は家の裏のほうからでなければ見えなかった水道の白い塔、の説明。哲学堂のすぐ先にある現・野方給水塔だろう。松本家からはその手前一帯が焼失して円筒形のランドマークが丸見えになったのだ。

図2 p246上 600松本竣介
≪莞あて書状≫
1945年5月28日
図3 p246下600松本竣介
≪莞あて書状≫ 
n.d.

 莞さん宛てのこのスケッチは、手前に焼野原、遠景には残された場所という画面構成が≪焼跡風景≫と同じである。しかし描写の手法は逆で、手紙にこまごまと描かれた瓦礫や残骸は、油彩ではなにも無い赤褐色の強く太い帯だけになり、一方、残された建物群は手紙ではか細い緑の帯になっている。絵手紙のスケッチは当時5歳の息子に宛てた、東京からのいわば緊急報告であり、5月25日の山の手地区大空襲(下北沢の私の生家もこの日に焼失した)からわずか3日後に描かれているから画面にはまだ余燼が渦巻いていたにちがいない。当然描写は細部にまで及んでその臨場感を家族に伝えようとしただろう。それにたいして油彩には瓦礫の形跡はほとんどない。製作年は1946年頃となっているから様子は変わってきていると説明できるかもしれないが、無の赤褐色はあくまで、1945年5月に描かれたスケッチと等質の「焼跡風景」だと私は思う。いや、壊滅的な空襲に曝され、敗戦の日を迎え、占領軍上陸に怯えた日々の風景ですらなく、わが子に寄せた私信と作品としての油彩はともに、日本が戦争に参入してしまった日々にまで遡っての風景として見えてくる。
 だからこれらは焼跡という結末を追認する風景ではなく、内側に膨れあがってきていた怖ろしい予感が焼跡に触発されて可視化した風景ともいうべきで、竣介はそれをダブル・イメージで描いた。絵手紙にある瓦礫の向こうの緑の帯は奇跡的に残った場所というよりは全体を喪失した場所の姿である。画家はその光景を外から描くことはできない。自分と遭遇している場面である。
 画面中央に2本の尖塔があるだけで、それ以外は残された建物でもあり焦土でもあるような赤褐色の棒状のマッスが地平まで重なり続いている≪神田付近≫(1946−47)や、焼跡というよりは異郷の荒野のような≪郊外(焼跡風景)≫(1946−47)も同様に、茫漠のなかに確かめられるのはその只中に立つ画家自身である。風景は消失した。その後は竣介は風景画と呼べる作品を描いていない。

600松本竣介
≪神田付近≫
1946−47年
油彩・板
24.0x33.0cm
個人蔵
600松本竣介
≪郊外(焼跡風景)≫
1946−47年
油彩・画布
27.3x45.5cm
岩手県立美術館

(2013.2.4 うえだまこと

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 大竹昭子さんの新連載エッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。

 土渕信彦さんのエッセイ「瀧口修造の箱舟」は毎月5日の更新です。

 植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、毎月数回、更新は随時行います。
 同じく植田実さんの新連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
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 小林美香さんのエッセイ「写真のバックストーリー」は毎月10日と25日の更新です。

 荒井由泰さんのエッセイ「マイコレクション物語」は終了しました。

 井桁裕子さんのエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
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『松本竣介展』図録
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執筆:植田実、16頁、図版30点、略歴
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生きているTATEMONO 松本竣介を読む 8

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 8

巡回展が終わった
植田実

 その画家の名を知らないわけではなかったし、作品もいくつかは見てはいたものの、松本竣介について書くことなど思いもよらなかった私がいきなり綿貫不二夫さんから10回ぐらいの連載をやれと言われ、西も東も分からないままに松本竣介生誕100年を記念する大回顧展の第一会場である岩手県立美術館に連れていかれたのはつい先日のことであったのに、もう五美術館を巡回して終わりの日を迎えている。あっと言う間だ。こちらはまだ何も始まっていない。予備知識もろくにないままにそれぞれの美術館を訪ねた。その巡回展のリストをまずまとめておく。

 第1会場 岩手県立美術館 2012年4月14日−5月27日
 関連イベントとして、
 開幕記念対談「竣介が生きた時代」松本莞・寺田農 4月14日
 講演「竣介があるいた街、東京」川本三郎 4月29日
 講演「松本竣介と「社会」−絵画という橋に立つひと−」小沢節子 5月13日
 館長講座「松本竣介のこと−中野淳氏に聞く」原田光・中野淳 5月26日

 第2会場 神奈川県立近代美術館 葉山 2012年6月9日−7月22日
 関連イベントとして、
 講演「松本竣介と都市風景の発見」海野弘 7月7日
 講演「松本竣介とその時代」長門佐季 7月14日

 第3会場 宮城県美術館 2012年8月4日−9月17日
 関連イベントとして、
 対談「松本竣介の絵画が今、私たちに語りかけるもの」松本莞・佐伯一麦 8月4日
 まちなか美術講座「生誕100年 松本竣介の魅力」加野恵子 8月11日

 第4会場 島根県立美術館 2012年9月29日−11月11日
 関連イベントとして、
 講演「父・竣介、母・禎子、そして松江のこと」松本莞 9月30日
 講演「松本竣介という画家 わたしたちの同時代人として」水沢勉 10月14日
 美術講座「松本竣介−その多彩な表現・多様な魅力」柳原一徳 11月3日

 第5会場 世田谷美術館 2012年11月23日−13年1月14日
 関連イベントとして、
 講演「松本竣介の生涯と作品」粟津則雄 11月24日
 対談「画家・竣介の実像、生活と芸術と」中野淳・松本莞 12月15日
 
 関連イベントの項は各美術館発行のパンフレットから拾っている。松本莞さんの講演と対談にはすべて参加できたのと、海野弘さんのお話も聴くことができたのが収穫だったが、そのほかの講演もタイトルがいかにも魅力的で、聴き逃したのが残念だ。これだけ多角的でヴィヴィッドな松本竣介論考集は五つの美術館でまとめて共同出版したらよいのにと思うがそう簡単にはいかないだろう。で、一応タイトルと講演者名を記録として書き並べてみた。

 同じ作品が、会場によって微妙に印象が違うことにもはじめて意識した。第3会場の宮城県美術館まではそのことに触れたが、そのあとの島根県立美術館と世田谷美術館の対照もおもしろかった。まず設計者が島根は菊竹清訓、世田谷は内井昭蔵。内井さんは菊竹さんの設計事務所のスタッフを長年勤めたのちに独立した。だから師弟のふたりがそれぞれ個性的な空間に松本作品を迎えいれたともいえる。
 島根は菊竹さんの晩年の仕事で、宍道湖の岸辺に、その地形をなぞるように大きく不整形な曲面の屋根を拡げている。入口ロビーも広く、なかに入ると視界が湖の水面で満たされている。莞さんが「企画展示室はややコンパクトで」と言われていたように、壁に架けられた絵の間隔が僅かにつまってみえる。だがそれが竣介の絵の本来的な親密さを高めているとも思えるのだ。一方の世田谷は幹線道路と清掃工場・卸売市場とにはさまれた砧公園のなか、というアクセスの難しい立地で公園を引き立てるような形態と緻密なディテールに腐心した、内井さんらしさがよく発揮されている建築だが、なかでも特徴的な四分の一円形の展示室は、どの企画展でも否応なくそこで劇的効果をあげることになるという、これはメリットなのか制約なのか、いつも考えさせられる。今回は予想どおり4点の「画家の像」。大舞台でも臆することなく立っている。ふたつの美術館であらためて竣介の絵の見えかたの幅の広さというか、展示される場所に応じてその場所にふさわしくイメージを切り換えられる弾力性に気づかされた。
600島根県立美術館
(撮影:植田実)
600

600世田谷美術館
(撮影:植田実)
setabi

 一方、東京国立近代美術館での開館60周年記念特別展(2012年10月16日−13年1月14日)には巡回展のラインナップから外れて一足早く家に戻ってきたみたいな感じで、竣介の特徴をよく伝える≪並木道≫(1943頃)と、遺作となった≪建物≫(1948)が、「ベストセレクション 日本近代美術の100年」のなかにどう位置づけられているかが迫ってくるように展示されている。画家の展開を内側から辿る巡回展で見ていた同じ作品がまるで違って感じられるのだ。その第II部の「実験場1950s」では鶴岡政男による油彩≪松本竣介の死(死の静物)≫(1948)に言葉を失った。このような絵が描かれていたとは思いもよらなかった。

 もうひとつ、ときの忘れものでの「松本竣介展」がある。2012年12月14日−29日(前期)、2013年1月9日−19日(後期)も終わりに近い。12月14日のオープニングに出かけて行った。素描30点を前・後期に分けて展示している。油彩などと並ぶとどうしても補完的なものとして見てしまいがちな素描が、生活空間ともいえる画廊ではゆっくり観賞できる、いや素描と同居しているような環境のなかで、竣介の線は次々と新しく現れてくる。
03ときの忘れもの「松本竣介展」
展示風景
02
05
 これらの作品は額装される前に先立って見せてもらっていたのだが、1998−99年に、練馬区立美術館、岩手県民会館、愛知県美術館で催された、没後50年を記念しての「松本竣介」展の図録と、さらに遡って1977年、綜合工房から出版された大判の「松本竣介素描」とをこのオープニングのときはじめて手にしたのである(この2冊、さっそく買わせていただきました)。
 この連載にあたって綿貫さんからまず見せられたのが、昨年の春、岩手に向かう新幹線のなかで、やはり綜合工房によるスケッチ帖の復刻セット。岩手県立美術館では当然、今回展の図録と、松本竣介の文集『人間風景』をミュージアム・ショップで見た。そして帰京後に、上の2冊に加えて送られてきた、
 朝日晃『松本竣介』日動出版部 1977年
 村上善男『松本竣介とその友人たち』新潮社 1987年
 中野淳『青い絵具の匂い 松本竣介と私』中公文庫 1999年
 を読んで、私は松本竣介の絵を見始めることになった。いいかえれば、いかに少ない資料を踏まえただけで勝手なことを書いてきたか、竣介をよく知る方々には申しわけなく思う一方、先入観をほとんど持たないままに自分なりの見方をしてきたのはかえってよかったとも思う。綿貫さんもその辺はお見通しだったにちがいない。
 それにしても、ときの忘れものの竣介展図録に彼の線描についての小文を書かされたあとに、没後50年展図録と「素描集」で、彼の素描作品はまだこんなにたくさんあるよ、と見せられたときはいささかショックだった。没後50年展の図録はとてもよく出来ている。油彩の色や筆致の再現性が素晴らしいし、私が気になっていた≪三人≫と≪五人≫の関係≪Y市の橋≫の写実と脚色についての精密な論考もあった。もうひとつ興味をひかれたのは≪西銀座風景≫(1941)というペンの素描に水彩と油彩を施した作品(今回は展示されていない)である。「解放された線がのびのびと画面をかけめぐりながら街角の光景を再現している(村上博哉)」と解説されている。見るなり、左側の建物は徳田ビルじゃないか。このこともすでにどなたかが指摘されているのかもしれないが、私としてはとくに思い入れのある建物である。2階から5階、さらにペントハウスまでほぼ四面全体をぐるりと、連窓とベルト状の壁で層をなすようにデザインされている。しかも角に丸味をつけられ、屋上にタワーが聳えているところまで的確に描かれている。建物の左側が空白となっているのはそこが泰明小学校の校庭だからだ。建築家・土浦亀城がフランク・ロイド・ライトのもとで修行して帰国後5年目に設計し完成した(1932)。「昭和以降の日本でいちばん美しい併用住宅は、といわれれば、私の勝手な好みとして即答できる」と、拙著『集合住宅物語』のなかで徳田ビルを挙げ、オーナー徳田鐡三の子息でありそこに住んでおられた肇さんにインタヴューして、覚えておられる限りのことを話していただいた(1999)。その頃には所有者が変わり、窓枠や壁面も一変して尾羽打ち枯らした姿ではあったが、まだ建っていた。今は無い。私の取材記事をとても喜んでおられたという肇さんも亡くなられた。
 小さいけれどそのモダンさが際立っていたビルだったと思う。小松崎茂がそれをみゆき通りから見た姿を例の写実的なスケッチで記録しているし(昭和初期)、木下恵介の「お嬢さん乾杯」(1949)のラストシーンでは、やはりみゆき通りの突き当たりに徳田ビルが現れる。
 竣介の≪西銀座風景≫は徳田ビルが面しているみゆき通りと斜交いに連らなる数奇屋通りの先に、都心環状線越しの現在の有楽町マリオンの方向を、たぶん見ている。そこには朝日新聞社と日本劇場があった。半円形あるいは円形の小窓が連らなり、新聞社には塔屋があった。画面中央の道路の先に見えるのはそれらしいイメージとも思える。だがそこに立ちどまっていたらこうは見えない。歩きはじめるとすぐ見えてくる。だから動きのなかにあるが心象としては静止し、こちらから向こうまで連続して道が拡がっている。
600松本竣介
≪西銀座風景≫
1941年
水彩・油彩、紙
25.5x34.5cm
百点美術館
(『没後50年 松本竣介展』(1998) 共同通信社 148頁より)
 
徳田ビル徳田ビル
(植田実『集合住宅物語』(2007) みすず書房 83頁より)
 と書いて気がついたのだが、例の新宿のガードの向こうに神田のニコライ堂が見える油彩≪ニコライ堂≫(1941頃)などは、異なる場所をコラージュして緊張感と劇性を高める、つまり切断と縫合の手法と思いこんでいたのだけれど、画家にとっては新宿から神田を心のうちに眺めた、いわば連続した風景ともいえるのではないか。≪ニコライ堂と聖橋≫(1941)も、聖橋とあえて具体的な名を挙げながら、二連アーチで完結している橋(つまり眼鏡橋)とも思えるように描いている。神田川はお茶の水駅のところで深い峡谷になっているから実際の聖橋(1927完成、山田守設計)は大きな拠物線アーチで両岸を一跨ぎして、橋詰のところで補助あるいは余韻としての小さなアーチを陸側に繰り返しているにすぎない。それを橋の全体像のように描いたとすれば、竣介の聖橋の下に流れているのは他の作品にも屡々登場する浅い川あるいは運河であり、そんな身近な流れの岸からニコライ堂を眺めていることになる。ひとつの橋の二重の表れに、やはり場所の連続性を感じてしまう。

600松本竣介
≪ニコライ堂≫
1941年頃
油彩・画布
37.8x45.3cm
宮城県美術館
600松本竣介
≪ニコライ堂聖橋≫
1941年
油彩・板
37.7x45.0cm
東京国立近代美術館

 数奇屋橋界隈のようないわば名所を画題にしている竣介作品は少ない。街の裏側や名もなき建物をかっちりと描く線とは違う西銀座の素描は、たしかに「のびのびと」「かけめぐ」る「解放された線」によっているが、同時に、よく知られている華やかな建物群のイメージを攪乱し、ずらしながら、心象としての街角に移しかえていく線の表れとも思えるのである。

 どの美術展に行っても、これであの実物にお目にかかることができたという満足感が残るのだが、今回の松本竣介展は五美術館(館によっては数回)を訪ねたせいか逆に、もうこれで実物にまとめて接する機会は終わりだという寂しさが迫ってくる。見落したことがまだいくらでもありそうだ。でももう少し書き続けさせてもらいます。
(2013.1.9 うえだまこと

*画廊亭主敬白
大雪をついて植田実先生も最終日を迎えた世田谷美術館に向かったことは昨日のブログに書きましたが、その後ファックスで続報がありました。
<帰りは歩いてなんとか用賀に辿りつきました。L.L.Beanブーツの威力です。4時半頃美術館を出たのですが、その頃でも雪のなかを平然とやってくる来館者たちにびっくり。松本竣介の威力です。
帰ってから、吹雪のなかの美術館の写真1点をカミさんに頼んでメールでそちらに送ってもらいました。 植田実>
世田谷美術館植田撮影600
九ヶ月に及んだ巡回展の最終日は爆弾低気圧による大雪。
2013年1月14日世田谷美術館
撮影:植田実

◆ときの忘れものは、1月9日(水)〜1月19日まで素描による「松本竣介展(後期)」を開催しています。
DMの代わり(後期)
後期:2013年1月9日[水]―1月19日[土]
※会期中無休
『松本竣介展』図録
価格:800円(税込、送料無料)

執筆:植田実、16頁、図版30点、略歴
*お申し込みはコチラから。

●ときの忘れものでは松本竣介の希少画集、カタログを特別頒布しています。

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 7

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 7

≪Y市の橋≫
植田実

 松本竣介の描いた建物あるいは土木構築物のなかで、とくに謎めいているのは≪Y市の橋≫シリーズである。今回展図録には、戦後のものを除くと、油彩3点(1942-44)、素描5点(1942-44)、スケッチ帖のなかに1点。場所は「横浜駅近くを流れる新田間川に架かる月見橋である。橋の向こうに描かれているのは跨線橋と架線柱」(図録解説より)。
 跨線橋と架線柱とあるからにはその下に線路があり、当然列車が通るのだろうがその気配はない。そして肝心の「鉄骨が複雑に入り組むこの景色」(同解説)の状態がよく分からないのである。手前に跨線橋に昇る階段が見える。だが橋を渡り切った先で降りる階段は省略されているとも架構鉄骨の右端の1本に抽象化されているとも思える。階段の脚元から斜めに大きく飛んで橋を支えている鉄骨も不思議だ。その下を列車が通るわけだから、かなり高い位置にあるとしてもいささか強引に見える。だいいち、油彩の作品では跨線橋全体が右側の架線柱の手前にあるように絵具が重ねられている。ならば架線柱は跨線橋の左手奥にあるはずだ。そうすると架線柱がどのように線路の上に立っているのか、また分からなくなってくる。
 鉄道ファンならすぐ分かることなのかもしれないが、そして鉄骨の表現もどちらかといえば太い木組みみたいだし、跨線橋の通路上に連続してトンネル状に並ぶ補助架線柱らしきものはやはり鉄骨なのだろうが極端に細い。通路そのものも先に向かうほど微妙に高くなるのもこちらから見ている眼の高さを揺がすかのようだ。なによりもスケール感がとらえがたい。階段や人影も基準にならない。小さくも大きくも見える。
 画面の右側にある建物もその大きさを作品ごとに思い切り変える試みがされていて、画家独自の調整は歴然としているが、それに対して跨線橋と架構柱の構成は意外なほど一貫して変わらない。それほどの「発見」だったのか。風景のたんなる抽象化を超えて、抽象化した線の自律的建築化に至った。たとえばエッシャーのだまし絵に通じるような、計算されつくした錯綜構成によって現実とは別の空間の秩序を見せようとした。とも考えられるのである。

 1945年5月の横浜大空襲によって駅周辺は破壊されたという。それを描いた油彩≪Y市の橋≫(1946)とインクによる素描3点(1945頃)は写実に近いと思えるような筆致だが、右手の建物の煙突は細かったり太かったり、また何よりも跨線橋や架線柱の残骸の様子が4作品ともずいぶん違うのはどうしてなのか。日を置いて現場を訪ね、そのつど描かれたとすれば、瓦礫が片づけられていく過程の記録ともいえるだろうが、そこまで写実を前提とする気持ちにはなれない。いや、写実的ではあっても崩れた鉄骨のどこかヒロイックな表情に、ピラネージ的眼差しを感じてしまうというか。素描≪ジープのあるY市の橋≫に描かれた月見橋のわきに駐車しているジープの不意打ち的大きさは、空襲前に描かれた橋の右手の建物がさまざまに大きさを変えて現れていたのよりはるかに、画家の本来の意図を語っているようにもみえる。戦後の4点の絵は現実に破壊された光景である以上に、空襲前の≪Y市の橋≫の絵そのものを画家自身の手で破壊した表れともいえるのではないか。いいかえれば心象的な破壊の光景を通して、竣介の「抽象化した線の建築化」が、逆に立体的に復元されてくる気持ちに私はなった。
1Y市の橋松本竣介
≪Y市の橋≫
1943年
油彩・画布
61.0x73.0cm
東京国立近代美術館

2Y市の橋松本竣介
≪Y市の橋≫
1942年
油彩・画布
37.8x45.6cm
岩手県立美術館

3Y市の橋松本竣介
≪Y市の橋≫
1944年
鉛筆・墨・木炭・紙
37.8x45.5cm
個人蔵

4Y市の橋jpg松本竣介
1946年
油彩・画布
41.0x53.0cm
京都国立近代美術館

5焼跡の橋松本竣介
≪焼跡の橋≫
1945年頃
インク・墨・紙
27.3x39.5cm
個人蔵

6ジープのあるY市の橋松本竣介
≪ジープのあるY市の橋≫
1945年
インク・紙
23.0x32.0cm
大川美術館

 今週の日曜日に横浜に行った。月見橋周辺の現状を見るためである。この12月14日から来年1月19日まで前・後期にわたり、ときの忘れもので行われる「松本竣介展」に際して、彼の素描についての小文を書かされたのだが、そこでニコライ堂の前面に新宿駅のガードをコラージュするという画家独自の手法について少し触れた。これは洲之内徹による実地検証に依拠していることが知られている。ところが私はその報告そのものを読んでいなかった。それが気になっていて校了直前に、綿貫さんにお願いして洲之内徹『気まぐれ美術館』に収められている「松本竣介の風景(一)〜(四)」のコピーを急遽送ってもらったのである。その面白さ重要さについてはまたいつか書きたいが、洲之内は横浜にも出かけて行って≪Y市の橋≫を描いた画家の立つ地点から月見橋方向の写真を撮っている。これで様子が分かってきた。そのときからだいぶ年月が経った現在を、私も同じところから眺めてみたかったのである。
 東横線横浜駅の改札口を出て、新しいが閑散とした地下道を歩いた。地上に出ればなんとか見つかるだろうと思っていたが、階段を昇り切ったところが月見橋だった。跨線橋「内海川跨線人道橋」の真下に当たる地下を歩いてきたわけで、この地下道開設によって鉄骨の橋は解体される予定になっている。「JR東海道線など4路線を一直線に跨ぐ全長約65メートルの、鋼材を三角形に組み合わせてつくったトラス橋」(YOMIURI ONLINE 2012年4月28日「人気の跨線橋解体へ 鉄道ファン惜しむ声」の情報から要約)は予想をはるかにこえた迫力だった。いまは通行止めになり脚元は仮囲いの壁で囲われているので外から見上げるしかないが、長い空中通路の上部にはさらにさまざまな形の架構(これらが架線の役を果しているようだ)が並んで楽符のように楽しい。松本竣介に描かれた場所という来歴を知らなくても、また鉄道ファンでなくても、ぜひ残したいスグレ建築遺産である。
 竣介の描いた橋は空襲で完全に破壊され、戦後にまったく新たに建造されたのか。詳細は知らない。上の情報では「横浜市都市交通課によると1930年に建てられた」とある。とすれば多少でも元の形が残されて、修復あるいは増築されたのか。絵に描かれているのはずっと小振りに見える。だがこの場所にとくに興味をもった画家の炯眼は確かだと思った。現在ここには地下道、階段、エスカレーター、エレベーター、さらに頭上には高架の道路がでたらめに集結・交叉して、普通の道や地面や水路という、場所のまともな感覚はどこかに素っ飛んでしまっている。そのなかで唯一、場所の特性を素直に明快に見せているのが今は使われていない、長大で竜のようにも思える跨線橋であり、辛うじて人の渡る形をとどめている「Y市の橋」月見橋である。1942-44年当時、竣介がここに立ったとき、すでに70年後の現在に露呈される徴候を感じとっていたのか。
 感じとっていたと思う。だからこそ彼は、建物と人間との親和力が現実に結びつく跨線橋と架線柱を核として、それにいくつかの建物、道、水路をさまざまに調整し、未来への証言としてのいわば内なる環境デザインを本気で工夫した。本気で迷いながら。そこに空襲による破壊があの時代にあまねく突発した。ジープが急に目の前に来た。ここで現実の風景と画家のイメージとの関係が剥き出しになった。松本竣介はその差異までをも正確に描いたのではなかったか。
(2012.12.7 うえだまこと)
600

600

600

(撮影:植田実)

植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、毎月数回、更新は随時行います。
 同じく植田実さんの新連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
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◆ときの忘れものは、12月14日から新春1月にかけて素描作品30点による「松本竣介展」を開催します。
松本竣介展DM_600
前期:2012年12月14日[金]―12月29日[土]
※会期中無休
後期:2013年1月9日[水]―1月19日[土]
※会期中無休
『松本竣介展』図録
価格:800円(税込、送料無料)

執筆:植田実、16頁、図版30点、略歴
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生きているTATEMONO 松本竣介を読む 6

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 6

建築という死と、生(承前)
植田実

 松本竣介がなぜ東京駅や国会議事堂を絵の対象にしたのか、そしてなぜあのように描いたのか、それをずっと考えているのだけれどまだよく分からない。
 彼は建物が好きだった。自分でもそう文章に書いているし、遺された素描や油彩にもそれは一目瞭然だろう。でも花が好きで花ばっかり、鳥が好きだからその生態までよく観察し、描いて倦むことがない、などというのとすこし違う。彼本来の感じかたや考えかたの構造が建物の存在原理に近い、そんな印象なのである。
 そのことを自分なりにすこし整理してみると、ある種の建築はまず観念として存在する。実際に建っていない幻想の、というのではなく、また文章や写真によって心に思い描いていたそれ、というのでもない。後者なら現実の建築と出会ったときにその思い入れの質量がすぐあきらかになる。ようするにパリのノートルダム寺院は予想をこえた美しさだったとか、東京タワーは意外に小さかったとか。でもそういった現実との差異は建築に限ってのことではない。
 私が勝手に言っている観念の建築はじつは建築を排除することで成立している。つまり政治とか経済とか文化とかは本来は人の活動であるのだが、それが特定の建築のなかに集約されているのを現実に見るとき、それが単なる建物であることに唖然とするのだ。失望なのではない。それがどれほど堂々とした構えでも建物であること、いや建物でしかないことに変わりはない。新聞やテレビで十分すぎるほどよく知っていても、はじめて現実に出会ったとき、それがまぎれもなく建物であることの不思議さに圧倒されてしまうのだ。
 だからある特殊なビルディングタイプに限られるといえるのかもしれない。私はかつて内幸町にあった日本放送協会会館や兜町の証券取引所をはじめて見たときも同じような気持ちに襲われたが、そこには人それぞれの違いがあるだろう。だが誰にも共通するのは、一瞬の感慨の後はそれが存在する事実にたちまち慣れていってしまうことだ。前回に「都市体験の『死』」と書いたのはこのことを指しているわけだが、この種の施設が都市の中枢を形成しているのが東京の特性であり、この慣れを、たとえば地方にたいして優位と思い変えているのが東京に住む人の特性である。だが慣れは無意識裡に真の都市体験を失なった「不本意の日々」を生み出す。不治の病は日々ますます進行する。
 松本竣介はそのような意識によってあえて東京駅や議事堂を画題としてそこから意味を剥ぎとり、断片的なタワーやドームだけを残して純粋な建築を描こうとしたのかどうか。少なくとも私が確かだと思うのは、彼が建物を変容させた手法そのものである。なぜなら彼はその後いわば肩書きなど持たない建物や街を、生きている「TATEMONO」として、東京でもどこでもない彼だけの場所に建造してゆくからである。

 はなしは変わるが、1960年代ころから建築界の一部でfunctional traditionという言葉がよく使われるようになったことがある。多分イギリスの建築誌などで提唱されはじめたと思うが、「機能的伝統」と直訳された日本語も原語も、いまは手元にある建築論関係の資料を探してもすでに見当たらない。ようするに整合的スタイルに無頓着に、必要な機能をどしどし加えて出来ている、どちらかといえば不格好な町場の建物を見直そうじゃないか、そこに新しい建築への道が開けるという考えである。実際にそういう建築作品が出現する。ジェームズ・スターリングのレスター大学工学部棟とか。ポピュラーなものでは70年代後半に出現するピアノ+ロジャース+アラップによるパリのポンピドーセンター。倉庫みたいな構造体にエスカレーターやダクトが剥き出しのまま取り付けられて建築の内外観になっている。ただこれをまた新しい時代の「スタイル」だとして安易に設計に取り入れれば、建築の道は再び閉じてしまう。
 もうひとつ、同じころanonymous(無名の、匿名の)という言葉を、おそらくはイタリアの建築雑誌だったと思うが小さな記事に見つけたときの驚きはいまも忘れられない。建築作家によるという格づけを外した集住体づくりの主張だったが、アノニマスという未知の形容詞がじつに新鮮だった。この言葉はその後はずっと蔓延してきて、アノニマス的な設計を心掛けたというような建築家のコメントがあったりする。これに前後してバーナード・ルドフスキーの「Architecture without Architects」(1964)という、近現代的範疇における建築家の関与から逃れた古今東西の建築がいちばん美しく内容があるんじゃないか、というダメオシ的写真展と図録がニューヨーク近代美術館で実現され出版された。この図録の邦訳『建築家なしの建築』(渡辺武信訳)は当時私が編集に関わっていた「都市住宅」(鹿島出版会発行)という雑誌の別冊として刊行され、のちに同出版会のSD選書に収められていまも読まれているはずである。

 はなしが脇道に外れた。私が驚くのは松本竣介がそうした建築界における意識の覚醒に先行するような絵を1940年以降、集中的に描いていたことである。無名の、あるいは建築家のない建築は、多くの画家も共通して風景画のなかに取り入れている。しかし竣介の作品は風景画というより建物画あるいは土木構築物画である。とくに工場、運河、鉄橋付近などを描いたものがそうだが、建物を真正面から描いている以上に建物を風景のなかから自立させている。それには建物にひそんでいるもっとも強い力を取り出す必要がある。その選択眼がさきに触れたfunctional traditionに重なるように思えるのである。
 《霞ヶ関風景》(1943)と題された素描は「霞ヶ関ビルディング」の看板を掲げた建物を描いているが、まず目につくのはその外壁に沿って剥き出しに立ち上がる長短6本のストーブ煙突である。これを設計した者から見れば建物の美観を台無しにしている。でもこれを取り除いたら絵としてはあまり面白くない。油彩の《運河風景》(1943)では運河に面した画面右手の建物からも煙突が1本、上に突き出ているが、逆に壁から下向きに伸びた黒い2本のパイプも見える。屋上に溜まった水を、パラペットの下端に穿った孔からパイプを通して抜く工夫らしい。パイプの先端部は壁から離すようにくの字に折れている。汚れた水を壁にかからないように運河に直接落とすためだろうが、こんな強引で愉快な仕掛けは今は見ることが少ない。素描の《運河風景a》とそのヴァリアント(ともに1941)では建物の一部が運河に突き出ている。建物全体に曲面を使った表現主義ともいえる面白いかたちだが、突き出た部分は床底が口を開いて、背後の工場か倉庫から出された荷を真下の桟橋か艀に直接下ろせるようになっているようにもみえる。こんなふうにしたたかで手応えのある建物を探して画家は東京のあちこちを歩いていたにちがいない。
D073霞ヶ関風景600松本竣介
《霞ヶ関風景》
1943
鉛筆・墨・紙
32.7x58.0cm
茨城県近代美術館

P090運河風景600松本竣介
《運河風景》
1943
油彩・画布
45.5x61.0cm
個人蔵

D076運河風景a600松本竣介
《運河風景a》
1941
鉛筆・コンテ・紙
38.0x45.7cm
大川美術館

 建物に自分の心象を託すのとは反対に、むしろ心象に逆らう建物の外力を、画家は克明に辿っている。でもそれはノイズのままではなく絵に純化されている。電柱もこの時期の作品に多く登場するが、それらを結ぶ電線はほとんど省略されているから幾本もの孤立した黒い垂直線が、高い煙突や外灯や信号機などと一緒に虚空の静けさを際立てている。朝井閑右衛門や泉茂が電線の旺盛なノイズを楽しんで描いたのとは対照的だ。ついでに思い出したのは1948年(偶然だが竣介逝去の年)の伊藤大輔の名作「王将」の冒頭が、四方に電線を張り渡した1本の電柱を下から見上げるショットだった。それに続いて大阪・天王寺の貧民街が現れる。長い線路ぎわに立ち並ぶ電柱群は貧しさに追いつめられた悲しみの表象である。
P082駅600松本竣介
《駅》
1942
油彩・板
38.0x45.6cm
福島県立美術館

 松本竣介の電柱は寂しげにもみえるが、童話風ともいえる。またしつこく言うけれど宮澤賢治の描いた歩く電信柱の絵の童話風ともまったく違う。ようするに建物およびその構成要素の野生を、ひとつは生々しく写実風に描く方向と、もうひとつは屋根や壁や窓を建物の現実から遠ざけて、角錐や長方体その他幾何学形体の集合のように抽象的に単純に描く方向との、二方向のなかに竣介の絵は架け渡されている。そこに彼独自の遠近が生じ、その距離が的確なスピードで見る者に届く。松本竣介の描いたものに旋律を感じる一瞬である。
(2012.11.26 うえだまこと

*11月に休載した第6回を変則ですが本日掲載させていただき、12月15日に第7回を掲載します。
*明日のブログは、小林美香のエッセイ「写真のバックストーリー」第27回カリン・シュケシーを掲載します。
*ときの忘れものは本日(9日)と明日(10日)は休廊です。

植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、毎月数回、更新は随時行います。
 同じく植田実さんの新連載「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。

◆ときの忘れものは、12月14日から新春1月にかけて素描作品30点による「松本竣介展」を開催します。
松本竣介展DM_600
前期:2012年12月14日[金]―12月29日[土]
※会期中無休
後期:2013年1月9日[水]―1月19日[土]
※会期中無休
『松本竣介展』図録
価格:800円(税込、送料無料)

執筆:植田実、16頁、図版30点、略歴
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