宮脇愛子のエッセイ

宮脇愛子、私が出逢った作家たち 〜辻邦生

La Rencontre, c´est merveilleuse
宮脇愛子、私が出逢った作家たち

宮脇愛子「辻邦生へのオマージュ」
宮脇愛子
「辻邦生へのオマージュ
<プリマヴェラの三女神>より」
1977年 鉛筆
額サイズ:54.4x44.5cm
signed


サントリーニ幻想 辻 邦生 ―――― Aiko Miyawaki

 私たちの乗ったギリシャ船、ケンタウロス号が、ゆっくりと、サントリーニ島の巨大なクレーターの湾の中に吸込まれるように進んで行ったあのときの光景を、私は、今でもありありと思い浮べることができる。
 その海は不気味なほど静まりかえっていた。暗くいまだに燃えつづけているような、なまなましい焼け肌の、険しい岸壁が、紫に、薄桃色に、焦茶に、と幾層にも重なって鈍い光をはなちながら、三日月状をなして私たちを包みこんでしまう。つまり噴火口の真中に降り立って火口壁を見上げるような位置に船が入りこんだので、まわりの海面は陰になったのである。海面の反射光は、暗く、よみのくにの光とでもいう感じで、それまでのエーゲ海の明るい陽ざしが突然翳ったように感じられて、妙に不安な気持になったことが思い出される。
 私が、この古めかしいギリシャ船、ケンタウロス号に乗り込んだひとつの理由は、この船がエーゲ海のミコノスをはじめ、ロードス、デロス、リンドス、クレタなどの島々、ヨハネが『黙示録』を書いたといわれるパトモス島や、トルコ領になっているイオニア海岸のエフェソスの遺跡を巡航するためであった。
 クレタ島の北約百キロにあるサントリーニ島は、この航海の最後の寄航地であったが、私は、ここで固唾(かたず)をのむような光景に出くわしたのである。
 一般に画家とか彫刻家といえば、そんな光景をスケッチするにちがいないといわれるかもしれないけれど、私は、旅にスケッチブックやキャンヴァスを持ち歩いて風景を描写することはせずに、むしろ旅先で感じとった雰囲気をできるだけ抽象化して記憶しようとする。そして、あとでまったく別の形態や素材に転化しようとしたりする。だからこのクレーターの焼けた肌や、海の鈍い光も具体的なかたちとして記憶するよりも、とりとめのない気分として、どこかからだの片隅に残しておけばよかったのである。ところが、私は、この大噴火の跡の焼けただれた岸壁の、見えない炎にすっかりとりつかれてしまった。
 この旅(一九七三年)の間じゅう、私はちっとも落着かなかった。はじめて本の装丁というものをすることになり、決定的な案が決らずにいたためなのだが、そのイメージをこのクレーターの中からとり出せるような気がしはじめた。
 当時、二年半もの時間をかけて完結した辻邦生氏の長編小説『背教者ユリアヌス』の本の装丁で、私は迷いに迷って、大袈裟な言い方をすれば、この旅に出るまでに、もう十冊もの本をつくった感じだったのだけれども、ユリアヌスにぴったりのものが見つからず、ともあれ、ユリアヌスの舞台をこの眼で確かめてみたいと、このエーゲ海の船旅に飛出してきたわけである。
 ……古い羊皮紙の焼け穴の奥に、ユリアヌスの横顔が浮びあがる。
 サントリーニの三日月形の火口湾の不気味な静けさの背後にユリアヌスが浮びあがったというべきだろうか。私は、ユリアヌスが復活をこころみたギリシャの神々が、ここに送りこんでくれたのではないかと思われるような感動の波に身をまかせてしまっていた。
 あとはこのイメージを具体的に本の表紙に焼きつけるために、何枚もの紙をろうそくの炎で焼いてユリアヌスのメダルと組合わせる。紙を焼くのは、意外にむずかしく、焼け焦げをアトリエの床一面につくったあげく、やっとひとつ決まったのだけれど、最後にはろうそくの煤で顔中が真黒になるほどであった。
 帰国してから、この装丁などに熱中していたので、サントリーニの光景は幾度となく反芻してきたのだが、そのときの写真を今とりだして眺めてみると、空が青く澄んでいるので驚いてしまった。
 私の記憶のなかでは、暗紫色の焼けた岸壁、その頂上にのしかかるようにはりだした真白いテーラの街、鈍(にび)色に沈んだ湾の海面などが、辻氏の描きだした背教者ユリアヌスの像に重なりあって、不透明に入り乱れて、空の色は消えてしまっていたらしい。ところが写真でみると、ここにもミコノスやデロスでみたあのエーゲ海の夏の空があった。おそらく写真が事実を伝えているにちがいないのに、私にはいまだにこれがサントリーニの空であったとは信じられない。もしあのときスケッチをしていたら、記憶は修正されて青いエーゲ海の空が残ったのであろうが、そのかわり、焼け焦げのユリアヌスの像も出現しなかったにちがいない。

La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』52-53頁所収
初出:『朝日ジャーナル』一九七三年五月十一日号
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辻邦生_001
辻邦生著
《背教者ユリアヌス》特装版

辻 邦生 炎の形《背教者ユリアヌス》の装幀について

 宮脇愛子氏が装幀した《背教者ユリアヌス》は、書物の辺縁を炎が舐めてできた焼け焦げが唯一のモチーフになっている。普及版のほうは、外装だけが焦げているが、限定版のほうは本文用紙すべてに炎の跡がついている。ちょうど焼け残った古文書の頁を繰るとき、その一頁一頁の辺縁が焦げている――そんな印象を読者は持つのである。
 この焼け焦げのあとをリアルに感じさせるため、何色も色をかけたというが、そのせいか、炎がいまなお、めらめら羊皮紙を焼いているような感じを受ける。それはユリアヌスの短く激しい生涯を炎の中に見るようで、単なる頁の辺縁の静的な装飾とは異なる効果を出している。小説家が描きだした世界を炎で取り巻くことで、いっそうその空間の悲劇性・永遠性を際立てているといえようか。
 およそ装幀の観念を排除した暗褐色の犢皮で包むようにした外装といい、哲学者皇帝の内面を描いたごときエッチングといい、宮脇愛子氏の造型力が別個のマチエールに浸透するさまを見るような思いがして、氏の柔軟さと強烈な個性に打たれざるを得ないのである。

La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』54頁所収
初出:『SD』1976年3月号
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*画廊亭主敬白
6月25日から始まり、会期延長した「宮脇愛子展」は本日が最終日です。
宮脇愛子先生が親交した作家たちの幾人かを、宮脇先生ご自身のエッセイでご紹介してきましたが、詳しくは『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』をお読みいただければ幸いです。
最終日に取り上げたのは小説家・フランス文学者の辻邦生(つじ くにお)先生です。
お亡くなりになったのは1999年7月29日、その数日前に私たちは軽井沢でお目にかかったばかりでした。奥様の美術史家・辻佐保子先生も昨年12月24日に急逝されました。
軽井沢高原文庫での辻邦生展で、辻佐保子先生と磯崎新先生が公開対談で語り合った夏の日を懐かしく思い出します。

今回の宮脇愛子展については「マン・レイになってしまった人」である石原輝雄さんがブログで感想を書いてくださいましたのでお読みください。

◆「宮脇愛子展」は本日が最終日です。
宮脇愛子展案内状
第一会場:ギャラリーせいほう
宮脇愛子の1950年代後半から70年代の平面・立体作品を展示。

第二会場:ときの忘れもの
瀧口修造、マン・レイなど宮脇が長年親交した作家たちの作品を展示。

オープニングの様子はコチラ

La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』を刊行
2012年6月25日発行:ときの忘れもの
限定200部 宮脇愛子オリジナルシルクスクリーンとDVD付
カタログDVD作品合成_m
宮脇愛子、マン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオ・ポンティ、阿部展也、エロ、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシス、他
価格:12,600円
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宮脇愛子、私が出逢った作家たち〜ERRO

グドゥムンドゥル・エロ Gudmundur Erró ―――― Aiko Miyawaki

 エロとは、1960年代にパリで会いました。1967年に同じ名前の人によって訴えらて、彼は名前を変えることを、強制されました。彼はFを落として、FerróからErróに変わったのです。 わたしは、Erróの方がぜんぜんいいと言いました。1999年にパリのジュ・ド・ポーム国立美術館での彼の作品の回顧展はすばらしかった。

La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』58頁所収

エロ_001グドゥムンドゥル・エロ
《LEGER, PICASSO》
1986
油彩、キャンバス
額サイズ52.1x39.1cm
サインあり

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グドゥムンドゥル・エロ 
1932年7月19日アイスランドの北西部オーラフスビークにグドゥムンドゥル・グドゥムンドゥソンとして生まれる。10歳の頃、ニューヨーク近代美術館のカタログに載っている美術作品の写真に魅了され、以来絵画は彼の人生の情熱と使命となる。レイキャヴィークの美術学校入学し、そこで学んだことをオスローでさらに深く学び完成させる。
1950年代にはスペイン、イタリア、フランス、ドイツを旅し、1954年にフィレンツェの美術学校で学ぶ。1955年ラヴェンナのビザンティン・モザイクアート学校で学び、この頃から自分の作品の展示を始める。初めの展覧会は、1958年パリでの開催。
エロの作品はパリのポンピドゥーセンターをはじめとする世界中の美術館で展示されている。
エロの絵画世界は、漫画のキャラクターや独裁者等を用いて表現される。例えばドイツの独裁者アドルフ・ヒットラーがイラクのサダム・フセインと肩を並べて立っていたり、中国の指導者である毛沢東がまさに記念碑のような姿で描かれていたりする。
エロの作品は独裁権力、服従性、統一性などを挑発する精神を表現している。ヴェールを被った東洋の女性が胸部をさらけ出す絵を描いており、武器、暴力、性は彼のモチーフの中で柱となる部分である。雑多なものを組み合わせ自由奔放に展開するエロの作品は、ピカソ、レジェール、ディズニー、ダリに共通する。初期作品の数点は、ロベルト・マッタの刺激的な宇宙の生物を思い起こさせるような特徴があり、他の数点はそれとは異なる漫画調で、友人オイヴィンド・ファールシュトレームが制作した大衆文化を寄せ集めた作品に類似している。エロは、他にもロイ・リキテンシュタインや、アンディ・ウォーホール、ジェームス・ローゼンクイストのような作家とも親交があった。
彼の絵画は、ジグソーパズルのピースが組み合わさったかのように、それぞれのイメージが混合し、融合し、合体している。そのヴィジュアルの統合が、対立する暗い破壊性の残忍さとは全く対照的に、生きる歓びや遊び心を持った生命力を擬人化している。

*画廊亭主敬白
宮脇先生は本日6日(金)15時〜17時頃、ギャラリーせいほうに在廊予定です。
7月4日の毎日新聞夕刊には<銀座会場では東京初お披露目となる真鍮(しんちゅう)の大作「Untitled」を中心に十数点を展示。南青山会場では、当時の華麗な人的交流を伝える作家のコレクションを紹介する。浮かび上がったのは、ブレのない作家の姿勢だ。>と紹介していただきました。
来廊者も先ず銀座会場をご覧になってから青山にまわる方が多く、皆さん宮脇先生の50年代〜70年代の作品のクオリティの高さに驚いておられます。
ご好評に応えて、宮脇愛子展二会場とも7月12日(木)まで会期を延長します。
ただし、7月8日(日)は両会場とも休廊。7月9日(月)は青山会場(ときの忘れもの)は休廊です。

ときの忘れものでは一部展示換えします。

昨日スタッフの秋葉と新澤が新幹線で「ART OSAKA 2012」出展のため大阪に向かいました。
宮脇愛子作品(真鍮、版画)も出品します。
昨年の京都は強力助っ人・浜田さんと宮脇愛子アトリエの松田さんのお二人が乗り込み、これ以上ないような完璧な展示をしてくださったのですが、今回はお二人ともお忙しくてパスされてしまいました。
経験の浅い二人に展示は任せましたが、きっと頑張って大阪の人たちに瞠目されるような会場に仕上げてくれるでしょう。社長と亭主は後から追いかけます(7日、8日には大阪で皆さんにお会いしましょう)。

さて、このブログを毎日チェックしてくださる方へやっと吉報です。
予定日を10日近くも過ぎて気をもんでいたのですが、一昨日7月4日わが社の大番頭に二世が誕生いたしました。とても元気な男の子のようです。
亭主と同じ蟹座であります。

宮脇愛子、私が出逢った作家たち 菅野圭介

宮脇愛子(赤)
宮脇愛子
「Red Echo」
1964年
油彩、大理石粉、ボード
88.5x121.0cm
signed

宮脇愛子(白)
宮脇愛子
「Work」
1962年
油彩、大理石粉、ボード
60.5x73.0cm
signed

菅野圭介 ―――― Aiko Miyawaki

 日本女子大の学生の頃、絵を描き始めて、西村伊作さんの文化学院に通うようになります。自由な校風で素晴らしい先生が沢山おられました。女子大では、日本美術史、桃山文化の狩野永徳、長谷川等伯に熱中していて、大覚寺の紅梅の間で障壁画の模写をするために行ったりしていました。その頃、文化学院の先生より、菅野圭介さんのことを教えていただき、作品を見に行くようになったのです。具象と抽象のはざまのような作品に魅了されました。

La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』56頁所収

菅野圭介_001菅野圭介
油彩、板
額サイズ29.3x40.3cm
サインあり

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■菅野圭介(すがのけいすけ 1909−1963)
京都帝大を中退し、1935年ヨーロッパに渡り、フランス南東部・グルノーブル在住の画家フランドランに学ぶ。帰国後の1937年、独立美術協会展に《フランダース古城》を出品、彗星の如くあらわれた菅野は独特の色彩感覚で人々を魅了した。単純化された構図と、限られた色彩がふしぎな調和をみせる菅野の作品は、洋画界のあらたな才能として、児島善三郎らの激賞を受けた。
戦後、互いの才能を認め合った三岸節子との「別居結婚」を宣言し世間を驚かせたが、二人の関係はわずか5年で破局を迎えた。画風は色彩も線も、より大胆に、躍動的になり、第2の充実期となる。のちに葉山にアトリエを構え、単純化された構図と、数色に限定された色彩の調和に秀でた個性あふれる作品を制作。東洋的、浪漫的といわれる深い詩情を感じさせる作品を遺すが、1963年病のため53歳の若さで没した。圭哉、惠介とも号した。
2010年4月24日(土)〜6月13日(日)に横須賀美術館で回顧展「菅野圭介展 色彩は夢を見よ」が開催された(のち三岸節子記念美術館他を巡回)。

*画廊亭主敬白
昨日7月3日の毎日新聞夕刊の文化欄宮脇愛子展が大きく取り上げられました。
(2)毎日新聞2012年7月3日(火)夕刊3版 文化面4頁

岸桂子さんという記者の署名記事で、二つの会場を丁寧に取材してくださり、宮脇作品の<ぶれない>本質をきちんと書いてくださいました。ありがとうございます。

宮脇先生の「うつろひ」シリーズはいまや世界中に設置されていますが、岡山県の奈義町現代美術館(磯崎新設計)の中庭もその一つ。
最近、同館に関して興味深い記事をお客様から教えていただいたのでご紹介します。
一つは1994年の開館レセプションで演奏した笙奏者の宮田まゆみさんのインタビュー記事(日刊建設通信新聞)。
もう一つは、宮脇作品が設置されている同館の<池に生き物すみつく>という山陽新聞の記事です。
19980827奈義町美術館
1998年8月宮脇愛子「うつろひ」の前で、
露天風呂愛好会の面々。

今回のときの忘れものの展示では、宮脇愛子先生と親交の深かったマン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオポンティ、阿部展也、ERRO、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシスなどの作品を展示します。
それら作家たちとの交友・影響については、
日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ
宮脇愛子インタヴュー
をぜひお読みください。

La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』を刊行
2012年6月25日発行:ときの忘れもの
限定200部 宮脇愛子オリジナルシルクスクリーンとDVD付
カタログDVD作品合成_m
宮脇愛子、マン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオ・ポンティ、阿部展也、エロ、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシス、他
価格:12,600円
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宮脇愛子、私が出逢った作家たち〜南桂子 ナウム・ガボ

work_600宮脇愛子
《Work》
真鍮
8.0x19.5x12.8cm
刻印


南 桂子さんのこと ―――― Aiko Miyawaki

 南桂子さんにはじめてお会いしたのは、たしか 一九六二年の秋のことだったと思う。
 そのときヴァンサンヌの森に連れて行っていただいたのだが、初対面の私に、はじめてとは思えないほどの打ちとけた話し方をなさるので、私は、その話しぶりのようなものにすっかり感動してしまった。衒いも気取りもない人が、パリの真中から突然現れる。ということは、制作のため、はじめてパリに住みつこうとした私にとって、大へんな驚きでもあった。
 少年や少女だけが持っている純真さや、柔らかさが、南桂子さんの作品のなかで、変わりなく持ち続けられているひみつは、おそらく南さんにおめにかかれば、誰でも自然に理解できるのではないだろうか。人柄が、そのまま絵になっていることが、一目みただけで感じられる。南さんの心は、ほんとうに若いのである。そして、南さんは、心だけではなく、身体もしなやかで若々しい。
 驚くことに、あの年でむし歯が一本もない。そして、南さんの世代の日本人にはめずらしいほど、脚もすらっとしている。ミニスカートがはやった頃など、おしゃれな南さんが赤いニットのスカートをはいている後姿など、どうみても少女であった。
 パリでは、よく南さんと待ち合わせて食事をした。南さんが選ぶメニューは、最初がたいてい生野菜のアシェットで、デザートにはあのパリのおいしいタルトの類いには眼もくれず、必ずリンゴか、他の新鮮な果物を食べるという具合であった。つまり健康食を自然に実行しているわけで、むし歯がないのは当り前であろう。

 パリで長い間、独立して生活してきただけあって、南さんは、人間に対して、なかなか辛辣(しんらつ)な見方をする。
「人間なんて誰も信じられやしない。自分だってそうよ。人間なんてうそつきさ。きたないもんよ。」
 南さんは、こんなふうに偽悪的なしゃべり方をよくした。あのナイーヴな美しい作品からは想像もつかないかもしれないが、しばらくおつきあいしていると、こういういい方も、結局、もっとも自分の感情を素直に、正直に表現しているのだということがわかってくる。そんなふうに南さんがしゃべればしゃべるほど南さんのやさしさや純真さが、こちらに伝わってくる。
 私が一人でパリで仕事をしていたとき、いかにも頼りなげに見えたのか、
「あなたも人にだまされるんじゃないよ。」
などという。しかし、南さんは、ほんとうは、どんな人をも信じているんだろう。許しているんだろう。と、私はよく思うのだった。
 いつのまにか、ミラノやニューヨークや、東京などに移り住んで、パリは今では私にとって、通過地になってしまったが、南さんは、わき目もふらずにこの変わりばえのしないパリに二十年以上も住んでいる。いつかその理由をきいたら、
「パリにはいい刷り職人がいるから離れられないの。」
と、いう。とはいっても、南さんのフランス語は決して流暢とはいえず、切れ切れの単語が飛び出していくといったしゃべり方である。刷りの職人さんと仕事の会話をするときなどは、身振りを交えて、“サヴァー、サヴァー”というだけで以心伝心、あのすばらしい版画が、みるみるうちに刷りあがる。という有様である。
 二十年間のうちに、パリの気持がそのまま南さんの身体に溶けこんでいるのであろう。パリから離れられないのも無理ないわけである。

La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』34頁所収
初出:『南桂子の世界 空・鳥・水……』より、一九七三年 美術出版社

南桂子_001
南桂子
《少女》
カラーエッチング
額サイズ39.5x30.3cm
E.A.
サインあり

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南桂子 Keiko MINAMI(1911-2004)
1911年富山県高岡市生まれ。1928年高岡の女学校卒業。 この頃から詩作と絵画に興味を持つ。1945年東京に移住し、小説家・佐多稲子の紹介で壷井栄に師事し童話を学ぶ。 1949年自由美術展に出品。以後1958年まで毎回出品。この頃油絵を習っていた森芳雄のアトリエで、後の夫となる 浜口陽三と出会い版画の面白さを知る。
1954年渡仏、銅版画指導者・フリードランデルの研究所で2年学ぶ。 1961年神奈川県立近代美術館で「フリードランデル・浜口陽三・南桂子版画展」開催。 1982年にパリからサンフランシスコに移り、1996年に帰国。世界各地で個展を開くほか、本の挿画も数多く手掛けた。2004年、歿。

*画廊亭主敬白
宮脇愛子先生が南桂子先生と親しかったというのは意外に思われるかも知れません。
パリ時代の交友はその後も続き、2001年には高岡市美術館で「南桂子・宮脇愛子展 メルヘンとうつろひの世界」が開催されています。会期はちょうど11年前の今日7月3日〜9月2日まで。
La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』にはその折のお二人の写真も掲載しています。

ところで、昨日のブログで某氏の著書の誤字について触れましたが、今回私どもの出版した本のタイトル『La Rencontre, c´est merveilleuse』のフランス語が間違っているのではないかとのご指摘を東大のK先生はじめ複数の方からいただきました。ありがとうございます。
そもそもこの言葉は、宮脇愛子先生が考えたものではなく、序文にあるとおり1962年にパリで出逢ったナウム・ガボから宮脇先生が贈られた言葉をそのまま書名にしました。
K先生からは丁寧に文法の間違いを指摘されたあとに、
<(文法的にはおかしいけれど)そのままでいいような気もします。
外国人らしくて、外国人との出会いの感覚が出てきますから。
>とおっしゃっていただきました。

ナウム・ガボ(Naum Gabo, 1890〜1977年)の略歴は先日のブログをご参照いただきたいのですが、ロシア・アヴァンギャルドの美術家、彫刻家であったガボは、ロシア革命後の激動の歴史のなかでドイツ、フランス、イギリス、アメリカと転々とし、最後はアメリカ市民として1977年コネチカット州、ウォーターベリーで亡くなりました。

La Rencontre c'est merveilleuse Naum Gabo(出逢いとは素晴らしいもの)
まさにエトランゼ同士のパリの出逢いに相応しい言葉ではないでしょうか。

今回のときの忘れものの展示では、宮脇愛子先生と親交の深かったマン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオポンティ、阿部展也、ERRO、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシスなどの作品を展示します。
それら作家たちとの交友・影響については、
日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ
宮脇愛子インタヴュー
をぜひお読みください。

La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』を刊行
2012年6月25日発行:ときの忘れもの
限定200部 宮脇愛子オリジナルシルクスクリーンとDVD付
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宮脇愛子、マン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオ・ポンティ、阿部展也、エロ、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシス、他
価格:12,600円
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宮脇愛子、私が出逢った作家たち〜瀧口修造

宮脇愛子_001
宮脇愛子「作品」
1959年 水彩
42.0x52.0cm signed
*裏面にAiko '59 MILANOと記載あり


ウフフの人 瀧口修造 ―――― Aiko Miyawaki

 おそらく私にとって瀧口修造さんとの最初の出逢いは、『妖精の距離』であった。その詩画集を下落合の阿部展也氏のアトリエで見せていただいた。
 阿部展也氏はいうまでもなく、『妖精の距離』に画を描いた阿部芳文である。私は歴史科に籍を置いた女子大生だったのだが、絵を描くことに熱中してしまい、阿部展也氏のアトリエに通っていた。私は、阿部展也氏から画家としての出発の手ほどきを受け同時に数多くの話をきいたのであるが、あの『妖精の距離』がつくられるようになったきっかけや、詩人と画家のはじめての出逢いなどについてききもらしているうちに、画家は、一九七一年にローマで客死された。今では詩人から直接おききする以外に道はなくなった。
 もちろん、阿部展也氏は私たちに瀧口さんの名著『近代芸術』(一九三八年)をしめしてくれた。戦前からおそらく今日まで、この著書は美術家たちのもっとも重要な指針になっていた。私は、阿部展也氏を通じて、ポーランドのシチュシェミンスキー等のユニズムの運動にふれ得たことで、決定的な方向を見つけることができたと思っている。戦前に瀧口さんはすでにユニズムの元になったシュプレマティズムをとりあげ、その著書のなかで紹介されていたのである。文献や、その理論的背景など、当時日本で知り得たのはこの本だけだったことを考えると、先駆的な仕事だったことに驚くばかりである。
 私のはじめての作品発表は、思想的には、このユニズムにつらなるような仕事が中心であった。その個展のあとに渡欧する予定にしていたとき瀧口さんにお目にかかった。瀧口さんはそのとき、ヴェニス・ビエンナーレ展のコミッショナーでヨーロッパを廻られて帰国された直後だったが、ひとつは、私がヨーロッパに行くならばミラノに住むのがいいこと、もうひとつは作品をできるだけ持っていくべきこと、という二つの助言をいただいた。当時ミラノは日本ではまったく問題にされていなかったくらいであったが、実は、現代美術のもっとも新しい実験がなされつつある場所だったことが、行ってみてはじめてわかったのである。ルチオ・フォンタナを中心に、マンゾーニ、カステラーニなどが、気焰をあげ、パリからはジャン・ジャック・ルーベル、アラン・ジュフロワなどもきていた。みんな無名であった。作品を持っていくようにという瀧口さんの助言のおかげで、私は、彼らから一人前の作家とみなされ、仲間に入ることができた。当時、東欧に生まれたユニズムの動きを現代的な意識のもとに再評価し、展開しようとしていたのは、ミラノのマンゾーニやカステラーニ達だけだったのである。
 その後、パリに移り住んでから、ハンス・リヒターや、マン・レイとひんぱんにつき合うようになった。ダダやシュルレアリスム運動の生きのこり、というより、その運動を身をもって生きてきた人達だが、私には彼らに逢う前から何だか既知の人のような気がしてならなかった。というのも原因はあきらかに『近代芸術』で、あの本をくりかえし読みすぎたために、もうとっくに知っていたような気分になってしまったのである。一九六二年のシュルレアリスム展では、マン・レイに紹介されて、エルンストに逢い、その後、ニューヨークではダリや、デュシャンに逢ったり、アトリエを訪れたりすることができたのであるが、考えてみると、瀧口さんが、あの本や、『シュルレアリスムのために』などでとりあげられた画家たちを次々に追跡していったような結果になった。私にとって現代美術の最大の手引き書となっていたわけである。同時に瀧口さんの彼らに対する評価は、戦前、情報さえままならぬ場所にいながら、実に正確であった。孤立した島国である日本で、これらの作家たちとまったく対等に同じ方向を生きてきておられたことは驚くべきことである。その秘密を本人に問いただしたとしても、「ウフフ……、先見の明があったでしょう」と冗談まじりに笑われたりすることぐらいがおちなので、後はどうも自分でひそかに瀧口さんを観察しなおすほかはなさそうである。

La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』26頁所収
初出:『現代詩手帖』一九七四年十月臨時増刊「瀧口修造」特集号

瀧口修造_003瀧口修造
1960
ペン、紙
25.4x35.5cm

瀧口修造_004瀧口修造
《デカルコマニー》
1970
7.0x7.0x3.5cm
サインあり

瀧口修造_005瀧口修造
《デカルコマニー》
1962
額サイズ28.0x31.6cm

瀧口修造_006瀧口修造
《Folding No.6》
30.5x30.5cm
サイン

瀧口修造_007瀧口修造
水彩、コラージュ
26.8x19.3cm

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*画廊亭主敬白
昨日7月1日は瀧口修造先生の命日でした(橄欖忌)。生憎の雨でしたが実験工房と瀧口修造について書いているという女性や、瀧口ファンの方が何人も来廊されました。
そして本日7月2日は亭主の敬愛する恩地孝四郎の誕生日であります。版画はもちろん抽象の先駆者、写真やフォトグラム、造本にも並々ならぬ才能を示した恩地の評価は今後益々高まっていくと確信しています。
先日も高名なドイツ文学者による恩地の伝記が刊行されたので、早速買って読んだのですが、誤字も多く、口絵に使われた木版も後刷りと自刷りが何の説明もなく混在しており恩地ファンとしてはとても残念な思いでした。おそらくその出版社には美術に詳しい編集者がいらっしゃらなかったのでしょう。
ついでに申し上げますと恩地の約半世紀後の同じ7月2日に亭主は群馬県の山奥で生まれました。おかげさまで本日無事67歳を迎えることができました。
今後ともどうぞご贔屓に願います。
今回のときの忘れものの展示では、宮脇愛子先生と親交の深かったマン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオポンティ、阿部展也、ERRO、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシスなどの作品を展示します。
それら作家たちとの交友・影響については、
日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ
宮脇愛子インタヴュー
をぜひお読みください。
La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』を刊行
2012年6月25日発行:ときの忘れもの
限定200部 宮脇愛子オリジナルシルクスクリーンとDVD付
カタログDVD作品合成_m
宮脇愛子、マン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオ・ポンティ、阿部展也、エロ、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシス、他
価格:12,600円
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宮脇愛子、私が出逢った作家たち〜マン・レイ

マン・レイのこと ―――― Aiko Miyawaki

 「マン・レイ」「マン・レイ?」今はあまりにも有名なこの名前も、はじめてきいた人はだれでも、それがたとえヨーロッパ人であっても、何て不思議なおかしな名前だと思うことでしょう。
「ときどき『ミスター・レイ』などといわれて困る、マン・レイと続けてよんでくれなければ」と、よくマン・レイはいっていましたが、この名前は、マン・レイ自身がユダヤ人であることを表現したくてつけた名前だったようです。それにしても何と機智にとんだ名前ではありませんか。マン・レイその人も、その名の如く、ほんとうにウィットに富んだ愉快な人でした。そして、画家・写真家のマン・レイと同時に、ユダヤ人としての、人間としてのマン・レイから、私はさまざまなことを学んだのでした。
 マン・レイは友だちをとても大切にする人でした。そして、いったん友だちときめた人は絶対に信用して変わることがありません。ですから、古くからの友だちであるハンス・リヒターが紹介してくれた私のことも家族の一員のように温かく迎えてくれたのです。
 ダダイストであり、シュルレアリストであるマン・レイは、画家としても写真家としても数えきれないほどの実験的な新しい仕事を残しています。その後、どんなに多くの芸術家がマン・レイの影響を受けたことかはかりしれないものがあると思いますが、マン・レイ自身は、ウィットに富んだ少年が、ただ大きくなったといった感じで、どこまでも偉大な芸術家風ではありませんでした。日常的な何でもない毎日の生活が、すべて創造であるような、そんな毎日を送っていた人でした。
「創造なんて空のかなたにあるものじゃないんだよ」といっては、身のまわりの何でもないもののなかから何かを探し出してきて、楽しんでものをつくっている、そんな人でした。
 もとガレージであった天井はものすごく高く、その中間に白いテントの張ってあるアトリエは、実に独特の雰囲気をかもし出していました。建築出身であるマン・レイは自分でいろいろな家具も考え出してつくっています。机と椅子はその傾斜が微妙にしつらえてあって長く坐っていても疲れないマン・レイ自慢のものでしたし、友達の家の庭に捨ててあったものを拾ってきたという卵型のテーブルに灰皿がつくりつけになっている肘かけ椅子、墨絵のような色彩を使ってマン・レイが描いた四十の長方形の模様からなる屏風のような仕切り、その裏には、紐を引っ張ると右からはデッサン台が、左側からは下着の入った小棚が出てくるといった仕掛けのある寝室、みんなマン・レイの工夫によるものばかりなのです。

 たしか一九六二年だったと思うのですが、パリの「ビブリオテーク・ナシオナル」でひらかれたマン・レイの写真展はかなり大規模なすばらしい展覧会でした。そのとき、はじめて私は、マン・レイの写真作品のほとんどを見ることができたのですが、その美しさに感動すると同時に、マン・レイは一九二〇年から三〇年にかけて、もうすでに、あらゆる実験的な試みをしているのに、あらためて驚かされました。そして、日本でよく、瀧口修造氏や阿部展也氏がマン・レイの新しさについて語っておられたことを思い起していました。
 そのころのことです。「しばらく写真はとっていないが……」といいながら、或る日、何を思ったか急に、マン・レイが私のポートレートをとるといい出しました。そういえば、それまで私はカメラを持っているマン・レイを見たことがありませんでした。すっかり戸惑ってしまっている私にはかまわず、マン・レイは中二階にある小アトリエに置かれてあった古い箱型のカメラをごそごそといじりはじめました。ライトを動かしてつまずいたりしているマン・レイに、私ははらはらさせられたりしました。昔、子供のころよく行かされた写真館で見たことのあるような黒い布をかぶって、マン・レイが私にポーズをとらせたのですが、その日、私が黒いフランネルの洋服につけていたブローチが気に入っていたらしく、あちらこちらにつけかえさせたりするのです。それに手の組み方もいろいろとやかましくいわれ、油絵具のしみこんだあまり美しくない手をとられるのがいやで、私はぶつぶつ文句をいい続けていました。あとで考えてみると、ダ・ヴィンチのモナリザのポーズを真似させてとっていたのでした。ダ・ヴィンチとはおよそ似ても似つかないモナリザのポートレートではあるもののその写真が、おそらくマン・レイのとった最後のポートレートになってしまいました。

La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』36頁所収
初出:『世界』一九八〇年五月号
マンレイ_001
マン・レイ
《宮脇愛子ポートレート》(正面)
1962
ゼラチンシルバープリント
23.9x17.0cm
サインあり

マンレイ_002マン・レイ
《宮脇愛子ポートレート》(横向き)
1962
ゼラチンシルバープリント
23.8x17.0cm
サインあり

600マン・レイ
《Les grands trans-parents》
スクリーンプリント、鏡
64.2x49.1cm
Ed.3/100
サインあり
*ニューヨークのCastelli Graphicsが版元となって1975年に出した「The Mirrors of the Mind」と云うポートフォリオ(11点組み)の一枚。

名称未設定 1マン・レイ
《月夜の夜想曲 Le nocturne de la nuit de lune》
サンドペーパー、ガラス玉
17.2x27.8cm
サインあり

ジュリエットポートレートマン・レイ
《ジュリエット》
1946(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
28.8x22.8cm
スタンプあり

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*画廊亭主敬白
昨日、宮脇先生がときの忘れものにいらっしゃいました。
宮脇先生20120630
野田哲也先生(左端)や建築家の大野幸さん(前列左)はじめ旧知の方や、初めてのお客様に囲まれて。

DSCF3192木田、宮脇マン・レイはじめご自分のコレクションをじっと見つめる宮脇先生。右は軽井沢・ルヴァン美術館副館長の木田三保さん。

今回の宮脇愛子展では銀座のギャラリーせいほうで平面と立体の大作を、青山のときの忘れものでは比較的小品と、親交の深かったマン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオポンティ、阿部展也、ERRO、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシスなどの作品を展示しています。
それら作家たちとの交友・影響については、今回刊行した『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』(限定200部)にご自身が語られていますが、中でも別格的存在がマン・レイでした。

軽井沢高原文庫さんのブログや、林光一郎さんのブログにもご紹介いただきました。ありがとうございます。

日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ
宮脇愛子インタヴュー
もお読みいただければ幸いです。
La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』を刊行
2012年6月25日発行:ときの忘れもの
限定200部 宮脇愛子オリジナルシルクスクリーンとDVD付
カタログDVD作品合成_m
宮脇愛子、マン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオ・ポンティ、阿部展也、エロ、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシス、他
価格:12,600円
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宮脇愛子、私が出逢った作家たち〜阿部展也

恩師 阿部展也 ―――― Aiko Miyawaki

 阿部展也先生と出会ったのは、まだ学生の頃でした。私の元の義理の姉 神谷信子さんが阿部先生と親しかったので、「美術文化」という戦後できたシュルレアリスムの集団の会合にいらしている時に紹介されました。私がポーランドで展覧会ができたのも、やはり阿部先生からの情報があったからです。阿部先生のところには国籍を問わずいろんな国の人が集まっていました。
 先生はジャーナリストが好きでした。もともとリサーチが好きで、あの頃から年中外国へ行って、その度に若いアーティストたちと接触していました。
 マンゾーニやカステラーニを日本へ紹介したのも阿部先生でした。
 マンゾーニは先生のことをとっても尊敬していて「マイ・ファー・ザー」なんて言っていました。顔もそっくりでした。
反対にカステラーニはほっそりしていました。阿部先生はお酒は飲みませんでしたけれど、マンゾーニはグワーッとお酒を飲んでデーンとしていました。その頃ミラノでもマンゾーニなんてあまり認められていませんでしたから、それを先生が評価されたわけですから、その眼力は大変なものでした。
 土方定一さんは阿部先生を評価されていましたけれども、もっともっと評価されてしかるべき作家でしょう。
 とにかく日本の現代美術に先鞭をつけ、さらに与えた影響は、絶大なものがあると思います。先生は非常に前衛的な考えの人で、戦後アメリカ美術(ロバート・マザウェル、マーク・トビー、ジャクソン・ポロック、アーシル・ゴーキー)をいち早く紹介をされていました。
 ジャスパー・ジョーンズやラウシェンバーグがまだ、大変若い頃インタビューもしていました。
 それは私にとって新鮮で大変刺激的でした。
 五十年代の『藝術新潮』や『美術手帖』に随分と書いていました、それも先進国のものだけでなく、第三世界の情報まで幅広く紹介していました。
 日本人だけでなく、いろんな国に行って若い作家を育てるのが好きだったのです。
 啓蒙家でもあったのです。

La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』29頁所収

阿部展也_001阿部展也
《R19, 1967 Roma》
1967
ミクストメディア
額サイズ25.7x20.6cm
サイン

阿部展也_002阿部展也
《Self-Portrait blue submarine》
シルクスクリーン
69.2x49.9cm
Ed.11/160
サインあり

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阿部展也(1913〜1971 あべのぶや)
新潟に生まれ、独学で絵画を学び、具象、キュビスム、シュルレアリスムを経て、抽象的傾向に進んだ阿部は、20世紀の世界の美術動向を体現した数少ない画家の一人である。本名・芳文。
1937(昭和12)年詩画集「妖精の距離」を刊行。1939年美術文化協会の創立に参加、「地球創造説」などを出品。1962年よりローマに移り、1971年同地で58歳で没した。
晩年の幾何学的抽象は、ルーチョ・フォンターナらイタリアの画家達にも影響を与えた。
2001年東京ステーションギャラリーで回顧展が開催された。

*画廊亭主敬白
本日午後3時頃、宮脇先生がときの忘れものにいらっしゃる予定です。図録にサインをご希望の方はぜひお出かけください。
今回の宮脇愛子展では銀座のギャラリーせいほうで平面と立体の大作を、青山のときの忘れものでは比較的小品と、親交の深かったマン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオポンティ、阿部展也、ERRO、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシスなどの作品を展示しています。
それら作家たちとの交友・影響については、今回刊行した『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』(限定200部)に宮脇先生ご自身が語られています。
いくつか転載してご紹介しますが、限定番号2番を購入された「マン・レイになってしまった人」石原さんが図録の感想をブログに書いてくださいました。
日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ
宮脇愛子インタヴュー
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La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』を刊行
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宮脇愛子、マン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオ・ポンティ、阿部展也、エロ、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシス、他
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宮脇愛子、私が出逢った作家たち〜斎藤義重

斎藤義重 ―――― Aiko Miyawaki

 斎藤先生との出会いも、元の義理の姉 神谷信子さんの紹介によるものでした。
 家にいらしたり、斎藤先生のところに行ったりしていました。
 神谷信子さんは、神谷葡萄酒にお嫁にいき、未亡人になられて、絵を描いていたのです。当時、義理の父が絵描きはひとりで沢山だと言われ、私は、ひそかに絵を描いていて、発表するなんて夢にも思っていなかったころ、斎藤先生がたまたま遊びにいらして、「絵というものは、人が見る事を意識して自分でも見ないとだめだ」という事をとくとくと説いてくださった。つまり実際に外に出してみないと、客観性は生まれないということです。
 
 それは非常に重要なことだと教えられました。
 
 そのことがあり、養清堂画廊で発表する気になったのです。へそまがりでしたから、絵なんて発表するものじゃない、なんて偉そうに言っていたんです。
 ですからプロフェッショナルな絵描きになるなんて夢にも考えずに絵を描いていました。
 斎藤先生の一言。その時初めて、絵は自分だけで描いているのでなく、発表しなくてはいけないのだと思ったのです。
 斎藤先生は恩人なのです。ですから略歴には斎藤先生に師事と必ず書くのです。
 実際に手を取って教わったわけではないのですが。

*『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』32頁所収

斉藤義重001斉藤義重
《black (E)》
1971
額サイズ73.7x61.4cm
Ed.24/50
版上サイン
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斎藤義重 Yoshishige SAITO(1904-2001)
1904年東京都生まれ。造形作家。大正から昭和初期、当時さかんに移入されたヨーロッパの前衛美術、とりわけダダと構成主義を手がかりに自身の表現を模索。二科展にレリーフ状の作品を出品しようとしたところ絵画部・彫刻部ともに受け付けられなかったというように、戦前から既成のジャンル分けではとらえきれない作品によって異彩をはなつ。戦後、国内外からの評価が高まり、斎藤の教室からは1970年前後に登場する「もの派」を筆頭に、すぐれた現代作家が輩出された。
1960年代前半に集中して取り組んだ電動ドリルで合板に点や線を刻み絵具を塗りこめる作品では、板面を刻む行為と、その痕跡としての傷が主題となっている。晩年は、黒のラッカーで塗装した板を床上や壁面に組み上げる作品を制作。2001年、歿。

*画廊亭主敬白
今回の宮脇愛子展では銀座のギャラリーせいほうで平面と立体の大作を、青山のときの忘れものでは比較的小品と、親交の深かったマン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオポンティ、阿部展也、ERRO、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシスなどの作品を展示しています。
それら作家たちとの交友・影響については、今回刊行した『La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』に宮脇先生のエッセイで語られています。いくつか転載してご紹介します。
また日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ
宮脇愛子インタヴュー
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La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』を刊行
2012年6月25日発行:ときの忘れもの
限定200部 宮脇愛子オリジナルシルクスクリーンとDVD付
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宮脇愛子、マン・レイ、瀧口修造、斎藤義重、ジオ・ポンティ、阿部展也、エロ、辻邦生、南桂子、オノサト・トシノブ、菅野圭介、ジャスパー・ジョーンズ、堀内正和、サム・フランシス、他
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明日、銀座で宮脇愛子展オープニング

 たとえば、「一九六二年の秋のパリのある街角で過ごした夕暮れの何時間かが、おぼろげながら、一人の人間にある非常に強い影響を与えた」などと書いても、信じる人は少ないかもしれない。
 私は、世界じゅうのさまざまな場所で、とてもユニークな美術家、建築家、音楽家、小説家などに出会ってきました。
 今考えると、本当に偶然にも私にとって、幸福な出来事ばかりでした。
 その人々は、私の師であり、友人であり、魅力的な世界へと導かれ、アーティストとしての感性の交流、感化し合うものでありました。精神と思想の深く関わり合うものでした。
 純粋なこころの交流が、すばらしく透明な響きとして、過ぎて行きました。
 それは、私の中に生き続けています。
 ここに、その軌跡と息づかいを、表現できたらと思います。

 La Rencontre c'est merveilleuse Naum Gabo(出逢いとは素晴らしいもの ナウム・ガボ)
 ガボからパリのカフェで私がもらったメッセージです。

宮脇愛子

(『La Rencontre c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』序文より)

ナウム・ガボ(Naum Gabo, 1890〜1977年)は、ロシア・アヴァンギャルドの美術家、彫刻家。
ロシア構成主義の命名者の1人とされることがあり構成主義への初期からの参加者でもある。
ロシアのBrianskで生まれ、ナウム・ペヴスナーと名づけられる。彫刻家アントワーヌ·ペヴスナーの弟。 1910年にミュンヘン大学に入学、医学、自然科学を学ぶ。ベルリンで美術史の講義を受け1912年にミュンヘンのエンジニアリングの学校に編入。カンディンスキーに会う。1913年から14年の間、その当時画家だった兄アントワーヌと共にパリで過ごしキュビスムの影響を受ける。
1914年第一次世界大戦が勃発、デンマークのコペンハーゲンに移り、1915年にはペヴスナーとともにノルウェーのオスロに移り、ナウム・ガボの名前で作品を作り始める。1917年の2月革命後、ペヴスナーとともにモスクワに戻り、タトリン、カンディンスキーやマレーヴィチらと交友。1920年ペヴスナーとともに「リアリズム宣言」を発表する。
1922年〜32年、スターリンから逃れベルリンに住む。デ·ステイルグループとバウハウスの芸術家たちと接触する。1924年パリのギャラリー・ペルシエでペヴスナーと最初の個展を開催する。1926年ペヴスナーとディアギレフのバレエ「ラ シャット」のセットと衣裳をデザインする。
1932〜1935年パリで、「アプストラクシオン・クレアシオン」のメンバーとなる、
1935-46年イギリスに渡る。JLマーティンとベン・ニコルソンと共同で『サークル』を編集。
1946年アメリカへ渡り、1948年には、ニューヨーク近代美術館において「ガボ・ペヴスナー展」を開催。1953年コネチカット州のミドルベリーへ移住。1952年に米国市民となる。1953-4年、ハーバード大学の建築研究科で教授となる。1950年からロッテルダムのBijenkorf Storeの彫刻を初めとする様々な大作の彫刻を制作する。
1977年コネチカット州州、ウォーターベリーで歿した。

●明日6月25日から二週間、銀座と青山の二会場で「宮脇愛子展」を同時開催します。
初日の25日(月)夕刻5時より、銀座のギャラリーせいほうでオープニングを開催します。
お誘いあわせの上、是非ご参加ください。
宮脇愛子展案内状

銀座・ギャラリーせいほうでは、宮脇愛子の1950代〜70年代にかけて制作された彫刻(真鍮、ガラス、黒御影石)と平面作品の代表作を展示します。

青山・ときの忘れものでは、宮脇愛子の作品とともに、親交のあった作家たちの作品を展示します。

展覧会にあわせ、宮脇愛子オリジナルシルクスクリーンと宮脇愛子の最新作(台湾の彫刻作品)やこれまでの展覧会風景を収めたDVD付きカタログを限定200部で刊行しました。
La Rencontre, c´est merveilleuse 宮脇愛子、私が出逢った作家たち』を刊行
2012年6月25日発行:ときの忘れもの
限定200部 宮脇愛子オリジナルシルクスクリーンとDVD付
カタログDVD作品合成_m
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本図録(限定200部刊行)には、宮脇愛子のオリジナル版画(シルクスクリーン、自筆サイン入り)を各1点挿入しました。
挿入作品は宮脇愛子が今までに制作してきた版画作品の中から、アトリエに保存されている28種類を使用しました。
各作品は少ないもので1部、多いもので32部あります。限定番号の記入されているものもあれば、EAまたはサインのみのものもあります。
各作品とは別に、図録奥付に1番〜200番の限定番号を記載し、申込み先着順に頒布いたします。

■宮脇愛子 Aiko MIYAWAKI(1929-)
1929年東京都生まれ。1952年日本女子大学文学部史学科卒業。阿部展也、斎藤義重に師事。1957-66年欧米各地に滞在し、制作活動を行なう。真鍮、石、ガラスを用いた立体作品のほか油彩や墨絵を制作。代表的な彫刻作品《うつろひ》は、モンジュイック・オリンピック広場(バルセロナ)、ラ・デファンス(パリ)、奈義町現代美術館など世界各地にコレクションされている。1998年神奈川県立近代美術館で回顧展、国内外で個展多数開催。
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