土渕信彦のエッセイ

京都で「土渕信彦コレクション展」2017年1月7日(土)〜2月12日(日)

瀧口修造とマルセル・デュシャン(補遺)

土渕信彦


来る2017年はマルセル・デュシャンの生誕130年に当たるので、これを記念して、1月7日(土)から2月12日(日)まで、京都のギャラリーozasa kyotoで「瀧口修造・岡崎和郎二人展」を開催することとなった。この場をお借りしてご紹介したい。

会  期 … 2017年1月7日(土)〜2月12日(日)
開廊日時 … 水〜日 12:00〜19:00
休 廊 日 … 月・火(1月9日祝日は開廊)
会場… ozasa kyoto
〒602-8216 京都市上京区堀川今出川南 西陣織会館 西館 207(西陣産業会館)
tel : 075-417-4041

図1 案内状図1
「瀧口修造・岡崎和郎二人展」案内状


この展覧会は2007年から4回開催してきた私のコレクションによる「瀧口修造の光跡展」の第5回展に当たる。30年ほど前から、点数はそれほど多くないが、岡崎和郎の作品も所蔵してきた私としては、2009年の第1回展の開催当時から「いずれは瀧口・岡崎二人展を」と念願し、岡崎先生も期待してくださっていた。東京で開催する話が進みかけ、先年亡くなられたみすず書房の小尾俊人さんをはじめ、何人かの方々をお煩わせしたこともあったが、具体化までには至らなかった。このたび、畏友のマン・レイ・イスト石原輝雄氏の口添えにより、また、ときの忘れもの、横田茂ギャラリーのご協力も得て、京都の画廊主小笹義朋氏がozasa kyotoの企画展として開催してくださることになった。マルセル・デュシャン生誕130年に実現できるのだから、幸運というほかはない。

展示作品は40点で、主なものは以下のとおり。
1.瀧口修造『マルセル・デュシャン語録』A版(著者本10部の第6番)、1968年(図2)
2.瀧口修造・岡崎和郎「檢眼圖」、1977年(図3)
3.瀧口修造 ドローイング「ローズ・セラヴィのために」、インク・水彩、1968年(図4)
4.瀧口修造 デカルコマニー for Okazaki、グァッシュ、1966年(図5)
5.瀧口修造 ロトデッサン ”cercle vicieux”、鉛筆・紙、1971年(図6)
6.瀧口修造 フィンガープリント、1968年(図7)
7.岡崎和郎 ”Giveaway Pack 2”、ミクストメディア、1968/1977年(図8)
8.岡崎和郎「瀧口修造―Arrow Finger」、ブロンズ・焼き付け塗装、1968/1998年(図9)
9.岡崎和郎 ”Snap Shot of Mr. Shuzo Takiguchi ‘Arrow Finger’”、スチレンボード・紙、1969/1996年(図10)
10.岡崎和郎「ウィリアム・テルのリンゴ」、樹脂・彩色、2008年
11.岡崎和郎 ”HISASHI”、ブロンズ、1985年

図2 デュシャン語録図2
瀧口修造『マルセル・デュシャン語録』A版


図3 檢眼圖図3
瀧口修造・岡崎和郎「檢眼圖」


図4 ローズ・セラヴィのために図4
瀧口修造 ドローイング「ローズ・セラヴィのために」


図5 for okazaki図5
デカルコマニー for Okazaki


図6 cercle vicieux図6
瀧口修造 ロトデッサン”cercle vicieux”


図7 フィンガープリント図7
瀧口修造 フィンガープリント


図8 Giveaway Pack2-1図8
岡崎和郎 ”Giveaway Pack 2”


図9 Giveaway Pack2(外側)図9
岡崎和郎 ”Giveaway Pack 2”(外側)


図10 Arrow finger図10
岡崎和郎「瀧口修造―Arrow Finger」


図11 Snapshot図11
岡崎和郎”Snap Shot of Mr. Shuzo Takiguchi ‘Arrow Finger’”


関連イベントとして、以下を予定している。
1.1月14日(土)15:00〜16:30 岡崎和郎・平芳幸浩対談「オブジェをめぐって」
2.1月28日(土)15:00〜16:30 瀧口修造講演「美というもの」(1962年の富山高校における講演録音再生) 土渕信彦解説
3.2月 4日(土)15:00〜16:30 土渕信彦ギャラリー・トーク「瀧口修造とマルセル・デュシャン」

なお、ちょうど北九州市立美術館分館では、「岡崎和郎―見立ての手法」展も開催されているので(千葉市美術館からの巡回)ご紹介しておきたい。同展と併せてこの京都展もご高覧いただければ幸いである。

図12 千葉市美図12
千葉市美術館「岡崎和郎 見立ての手法」展リーフレット


図13 北九州市美図13
北九州市立美術館分館「岡崎和郎 見立ての手法」展リーフレット


以下、プレス・リリース本文を転載する。

「ozasa kyotoでは、来る2017年がマルセル・デュシャン生誕130年に当たるのを記念し、1月7日(土)から2月12日(日)まで「瀧口修造・岡崎和郎二人展」を開催いたします。

マルセル・デュシャン(1887-1968)は、改めて申し上げるまでもなく現代美術の開拓者であり、20世紀の最も重要なアーティストの一人にも挙げられますが、こうした評価が確立する前の1930年代から、瀧口修造(1903-79)はデュシャンに深い関心を寄せ、たびたび論じてきました。58年の訪欧中に本人と出会ってからは文通や著書の献呈などの交流が続き、63年頃に構想した架空の「オブジェの店」に対して、デュシャンから若き日の女性変名「ローズ・セラヴィ」を贈られています。命名への礼状に同封して、瀧口は自作のロトデッサン(モーターによる回転線描)を一点贈ったほか、返礼として『マルセル・デュシャン語録』(1968年)を刊行しました。さらに代表作「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」の「眼科医の証人」の部分を立体化したマルチプル「檢眼圖」(1977年)も製作しています。デュシャンとその作品の研究・考証は、後半生の瀧口にとって最も重要な課題の一つとなっていたといっても、けっして過言ではないでしょう。

岡崎和郎(1930-)もデュシャンに触発されている美術家の一人です。1950年代から一貫してオブジェに取り組み、86歳を超えた現在も、「御物補遺」 ”Who’s Who” ”HISASHI”の各シリーズなどを精力的に制作している岡崎は、レディメードのオブジェの創始者デュシャンに関連する作品も、「ハート」(1962年)や「窓」(1965年)をはじめ、数多く制作してきました。50年代から岡崎の仕事を評価していた瀧口が、前出『マルセル・デュシャン語録』の製作協力者の一人に岡崎を加え、前出「檢眼圖」の実際の製作を岡崎に委ねたのも当然と思われます。学生時代から瀧口の『近代藝術』を熟読していた岡崎は、「瀧口修造―Arrow Finger」(1968年)など、瀧口に因む作品も制作しています。一方、瀧口も66年にデカルコマニー作品を岡崎に贈呈し、『岡崎和郎の作品 1962−1976』(1977年)にも序詩「彼の微笑、それから」を寄せています。二人の絆は、デュシャンに対する関心や敬意を共有することを通じ、いっそう強固なものとなっていたのは間違いないでしょう。

本展は『マルセル・デュシャン語録』「檢眼圖」をはじめ、瀧口、岡崎のデュシャンに関連する作品など約40点を展示し、生誕130年の幕開けを慶賀するとともに、改めてデュシャンに対する二人の傾倒ぶりや、二人の絆の深さを辿ろうとするものです。なお、展示作品はいずれも土渕信彦氏のコレクションであり、本展は2009年から継続されてきた「瀧口修造の光跡」展の第5回に当たるものであることを申し添えます。末筆ながら、開催にご協力いただいた皆様に感謝申し上げます。

協力|土渕信彦、ときの忘れもの、横田茂ギャラリー」

上のプレス・リリースで言及されている瀧口修造の岡崎宛て序詩「彼の微笑、それから」は、以下のとおりである。

彼の微笑、それから
            岡崎和郎に

彼自身がひらく扉、
彼自身にひらかれる扉、
ふたつの扉が完全に符合したとすると、
ふたつの扉はその瞬間消滅し、
ただ非常に薄い接触面だけが
残って見えるかも知れぬ。
信じる信じないは別だが。

      ★

もしふたつのハートが互いに抱き合ったとする
(最高に幸福な状態で)、
すると外側からは見えなくなってしまう。
(鋳型の雌雄を区別すること無用。)
(ハートはハートの鋳型で鋳られる。)

      ★

⇨ OKAZAKI KAZUO
IKAZAKO OUZAK ⇦

こうして見ると彼の姓名が
そのまま透明な箱に容れられたよう、
むしろそのままで奇妙な鏡の箱に見える。
彼のGIVEAWAYSのひとつか、
これは特に自家用の?

      ★

彼の微笑、それから彼の微苦笑… トポロジカルに?

      ★

人には人の分身があり、
目にはまったく見えないもの、
透明のゆえに。
それを見ようとすること。
裏返しにするのが唯一の方法であるか。

      ★

岡崎和郎は一組の作品を箱におさめて
GIVEAWAY PACKと命名した。
物にひとつの道をつけてやる、
物にそれぞれの道をつけてやる、
それが彼自身のやりかた。

                 瀧口修造

つちぶち のぶひこ

●本日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20161217_takiguchi2015_selected_words
瀧口修造
『マルセル・デュシャン語録』
1968年
本、版画とマルティプル
外箱サイズ:36.7×29.8×5.0cm
本サイズ:33.1×26.0cm
サインあり
A版(限定部数50部)
発行:東京ローズ・セラヴィ
刊行日:1968年7月28日
販売:南画廊

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

本日の瑛九情報!
〜〜〜
昨日12月15日の瑛九情報では、<瑛九ほど、学芸員に愛されている画家はいないのではないか>と書き、日本中の多くの美術館が瑛九展を開いていることを賞賛しました。
1996年の宮崎県立美術館開館記念「魂の抒情詩ー瑛九展」図録の192〜193ページには<没後の主要な展覧会出品歴>として1960年〜1994年にかけて全国及び海外の美術館、ギャラリーで開催された瑛九関連の120余の展覧会の開催記録が掲載されています。当時の学芸員たちの労作です。
これをおそらくは踏襲して、2011年に宮崎県立美術館、埼玉県立近代美術館、うらわ美術館の三館で開催された「生誕100年記念 瑛九展」図録の228〜229ページにも<没後の展覧会歴>として1960年〜2010年にかけて全国及び海外の美術館、ギャラリーで開催された瑛九関連の展覧会の開催記録が掲載されています。
そのリストを一覧すると<西高東低>、圧倒的に東京以西での開催が多いのは当然としても早くから瑛九をコレクションし、幾度も幾度も瑛九の顕彰展を開催してきたある美術館の名がすっぽりと抜け落ちています。
瑛九の展覧会は21世紀に入ってからだけでも、渋谷区立松涛美術館(2004)、国立国際美術館(2005)、筑波大学(2010)、宮崎県立美術館・埼玉県立近代美術館・うらわ美術館(2011)、栃木県立美術館(2014)などで開催。人気なのです (【公式】東京国立近代美術館 広報 ‏@MOMAT60th ・ 11月19日 twitterより)」とつぶやいた近美の企画者すらもどうも気づいていません。
1974年から近年では2010年まで、実に7回もの瑛九展を開催してきた名門美術館があります。
山形県酒田の本間美術館です。
詳しくは明日。〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第25回(最終回)

「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第25回(最終回)

土渕信彦


25−1.「マルセル・デュシャン小展示」
「大ガラス」レプリカの制作と並行して、この頃にはマルセル・デュシャン展の計画も進められていた。自由が丘画廊の「マルセル・デュシャン小展示」(1978年1月)で、デュシャンのコレクター笠原正明氏のコレクションを中心として展示するものだった(図25−1)。

図25-1図25−1
「マルセル・デュシャン小展示」を観る瀧口修造
(撮影:笠原正明)


笠原氏は瀧口と親交が深く、西落合の部屋を訪ねてはデュシャン談義に花を咲かせたそうである。笠原氏に捧げられた以下のような川柳と解説も残されている。

「笠原正明に 余白考に余白なければ
塩売りや
言問団子を
家苞[いえづと]に
笠原氏は言問橋近くに住む。しばしば言問団子を土産に貰う。「塩売り」は言うまでもなく「マルシャン・デュ・セル」より、「塩売り」なるものたとえ江戸時代にありても存在せしや知らず」

ただし笠原氏によれば、実際に手土産に携えたのは、言問団子よりも長命寺の桜餅のことが多かったそうである(図25−2)。

図25-2図25−2
西落合の部屋の瀧口修造
(撮影:笠原正明)


「マルセル・デュシャン小展示」についてもいろいろと助言を受け、「小展示」という名称も、瀧口の示唆によって採用したものだそうである。つまり瀧口の見解では、代表作である「大ガラス」も「遺作」も展示されない以上、「展覧会」と称するのは問題なしとしないというので、この名称に落ち着いたとのことである。展覧会リーフレットに寄稿された「窓越に…」を引用しておく(図25−3,4)。

「なんと近づきがたく、なんと親しげな存在。
その全作品を一堂に眺めることは、もういろ
んな意味で不可能になった。しかし、かつて
全作品を鞄に収めることを想いついた人。
いまは窓越しに、足跡の一端をしのび、おそ
らくその人が微笑みかけるのを待つ。」

図25-3 リーフレット図25−3
「マルセル・デュシャン小展示」リーフレット、自由が丘画廊、1978年
(笠原正明氏蔵。千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録より転載。“Rrose Sélavy, ici…”の書き込みは瀧口によるもの)


図25-4 リーフレット裏面図25−4
リーフレット裏面


「小展示」を観に自由が丘画廊を訪れた78年1月、筆者(土渕)は瀧口本人と遭遇したのだが、この時の模様は前に述べたことがあるので(「瀧口修造の箱舟」第2回)、ここでは省略する。


25−2.「絵本」
最晩年の瀧口には、当時米国に在住していた写真家奈良原一高が撮影した「大ガラス」の細部の写真と、自らの言葉を組み合わせて、「絵本」を作る構想もあった。「ユリイカ」1977年10月号(図25−5)に掲載された瀧口の「私製草子のための口上」(連載第22回参照)の末尾で、次のように触れられている。デュシャンや「大ガラス」に関わることが、瀧口のライフワークと化していたことが判るだろう。

「つい先頃、岡崎和郎氏と協力して作った「檢眼圖」と名づけたマルティプルについて、「檢眼圖傍白」と題して、同じような手製草子のために折りにふれてノートしているが、つぎつぎに問題が出てきて、いっかな終止符が打てそうにない。それよりもフィラデルフィアで奈良原一高氏に特写して貰った素晴らしい「大ガラス」のカラー・フィルムの連作で一種の「絵本」のようなものをつくる計画もいまだに宙吊りのまま、奈良原氏にも申しわけがなく、このままおさらばするわけにはゆかない。 ― たしかに私の旅はまだ終わっていないらしいのである。」

図25-5 ユリイカ図25−5
「ユリイカ」1977年10月号


「このままおさらばするわけにはゆかない」と記されているが、結局、「絵本」を完成することなく逝去した。計画されていた「絵本」は、どのようなものだったのだろうか? 『マルセル・デュシャン語録』、「檢眼圖」と、続けて産み出されてきた素晴らしい成果を見るとなおさら、具体的な姿や内容を見てみたかった気がするが、未完に終わった以上、想像するしかない。手掛かりとなるのは、奈良原宛の私信のなかの、次の一節かもしれない(後出『奈良原一高デュシャン大ガラスと瀧口修造シガー・ボックス』の奈良原のエッセイに引用されている)。

「私の夢想している本は、いわゆる美術書ではなく、詩のような断片的な言葉をカラー写真の間に散らして、カラーと白のページと活字をレイアウトして、spacyな本にしたいと思います」

引用にある「詩のような断片的な言葉」とは、単なる「詩」でも「断片的な言葉」でもなく、あくまでも「詩のような断片的な言葉」で、つまるところ、この頃しばしば産み出されていた、諺のような言葉だったのかもしれない。しかも、長年にわたってデュシャンに傾倒してきた瀧口であるから、おそらくブルトンの「<花嫁>の灯台」と並ぶような、「大ガラス」についての見事な解釈が与えられ、その解釈を土台にして産み出された「詩のような断片的な言葉」であったものと思われる。そうした言葉を(『マルセル・デュシャン語録』本文のように)一種のオブジェとしてカラー写真の間に配置する構想だったのではなかろうか。何にしても、言葉と写真とがそれぞれ存在感を有した、しかも数々の手づくり本のように簡素で軽装だが物質感のある、素晴らしい「絵本」となったことは間違いないだろう。実現しなかったのは、まことに残念である。

瀧口の没後、奈良原の写真だけは、写真集『奈良原一高デュシャン大ガラスと瀧口修造シガー・ボックス』(図25−6)として、みすず書房から刊行された。上で触れた「シガー・ボックス」と、メモ全点の写真も併せて掲載されているので、ご紹介しておきたい。この写真集のために書き下ろされた奈良原のエッセイ「”ガラスが割れたとき”―二人のローズ・セラヴィに……」には、「大ガラス」の撮影の経緯について、タケミヤ画廊当時の交流にまで遡って、詳細に述べられている。撮影を依頼されてから、作業を進め、出来上ったカラー・ポジフィルムを米国から送り、帰国後にはフィルムから改めて紙焼きしてカラー写真を届けたことなど、瀧口とのやり取りも含め、具体的に記されており、きわめて貴重な証言と思われる。是非ご一読いただきたい。

図25-6 奈良原「大ガラス」図25−6
『奈良原一高デュシャン大ガラスと瀧口修造シガー・ボックス』、みすず書房、1992年


さて、瀧口修造の多面的な仕事のなかで、特にマルセル・デュシャンとの関わりに焦点を当てたこの連載も、いつの間にか25回となった。ひとわたりは目配りしたように思うので、このあたりで筆を擱くこととする。約2年の間お付合いいただき、どうも有難うございました。
つちぶちのぶひこ

*画廊亭主敬白
25回を数えた土渕さんの連載(一回ごとの文章量がとても多いので、実質的には他の方たちの50回にも匹敵します)が終了します。長い間、ご苦労さまでした。
瀧口修造の作品紹介を企画の柱にしているときの忘れものにとっては「ブログの顔」であり、研究者であり、コレクターでもある土渕さんの卓見にはしばしば目を瞠る思いでした。いずれ別のテーマでの復活を期待しましょう。

昨日12日は青山では「山口長男とM氏コレクション展」の初日、主力スタッフが乗り込んだ韓国ソウルのアートフェアKIAFではオープニングと、東西二つのイベントが重なりました。
20161012_大野様1 (1)「山口長男とM氏コレクション展」には朝一番で旧蔵者のMさんが来廊、続いて舞踏家の大野慶人さんがいらっしゃいました。秋田で開館間近の鎌鼬美術館のこと、土方巽のこと、ご自身が子供時代に花岡事件で有名な花岡鉱山に疎開していたこと、今年訪れたブラジル、中国での公演とワークショップのことなど、お話は尽きませんでした。
大野慶人さん(左)と亭主

KIAF_野口さん撮影
同じ頃、韓国ソウルではKIAFの開会式(撮影:野口琢郎)

20161012_KIAFオープニング (4)
続々とVIPたちが来場

20161012_KIAFオープニング (3)
ときの忘れもののブース

20161012_KIAFオープニング (8)
ナム・ジュンパイク野口琢郎さんの箔画に注目が集まっています。


●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20161013_takiguchi2015_selected_words
瀧口修造
『マルセル・デュシャン語録』
1968年
本、版画とマルティプル
外箱サイズ:36.7×29.8×5.0cm
本サイズ:33.1×26.0cm
サインあり
A版(限定部数50部)
発行:東京ローズ・セラヴィ
刊行日:1968年7月28日
販売:南画廊

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は今回で終了です。
「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。
土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第24回

「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第24回

土渕信彦


24−1.「大ガラス」東京ヴァージョン
1970年代後半の瀧口の活動では、「大ガラス」東京ヴァージョン(図24−1)のについて触れないわけにはいかない。これはデュシャン「大ガラス」のレプリカを制作するプロジェクトで、東京大学の横山正助教授(現東京大学および情報科学芸術大学院大学名誉教授)が、同大学の創立100周年の記念事業の一つとして発案したものだった。「大ガラス」のレプリカとしては、ウルフ・リンデによるストックホルム・ヴァージョン(61年)、リチャード・ハミルトンによるロンドン・ヴァージョン(66年)に続く、世界で3番目のものということになる。

図24-1 東京ヴァージョン図24−1
デュシャン「花嫁は彼女の独身者達によって裸にされて、さえも」東京ヴァージョン(1980年)
(西武美術館・高輪美術館「マルセル・デュシャン展」図録、1981年より転載)


76年頃には、瀧口・東野芳明の両名が監修に当たるとの条件のもと、ティニー・デュシャンから再制作の許可が下りたようである。前回言及したティニーからの瀧口宛て手紙(「檢眼圖」の献呈に対する77年2月21日付けの礼状)のなかでも、次のように記されている。

I’m very excited by Mr. Tadashi Yokoyama(university of Tokyo)’s proposal, especially, if you and Tono are going to supervise it. I know you will keep in touch with me and let me know what happens.”「東京大学の横山氏の提案に、わくわくしています。あなたと東野さんで監修し、様子を知らせてくださいね」(土渕意訳)

この条件ないし要請は、多摩美術大学の教授を務めていた東野芳明にとっても好都合だっただろう。早速、横山・東野の両氏を中心に東大と多摩美の院生・学生たちによる準備グループが組織され、デュシャンのメモの読解や材料の分析などの作業が開始された。78年には正式にデュシャン「大ガラス」制作実行委員会が発足し、制作資金の募金活動も始まった。完成したのは80年春となった(図24−2)。

図24-2 展示風景図24−2
東京ヴァージョンの展示風景
東京大学大学院総合文化研究科・教養学部駒場博物館のホームページより)


上に引用した手紙を書いていた77年初め頃にティニーの念頭にあった瀧口の姿は、米国での再会の際の、「われながらよくぞ小康を保った」(「自筆年譜」1973年の項)という姿だったのだろうし、現にマルティプル「檢眼圖」を完成し贈ってくれたのだから、瀧口が元気でいると思っていたとしても止むを得ないだろうが、すでに健康状態はかなり悪化し、外出もままならなくなっていた。全体の会議に出席することができたのは、東野の回想によれば、1回限りだった(「瀧口修造と東京版『大ガラス』」みすず、1979年9−10月。以下、この回想に拠る)。制作スタッフが西落合の部屋を訪ねて助言を仰ぐこともあったようだが、結局、完成を見届けることなく、79年7月に瀧口は他界した。デュシャン研究の先駆者・第一人者による導きを失って、スタッフは大きな喪失感を覚え、プロジェクトの進行自体も危ぶまれたそうである。


24−2.「シガー・ボックス」

このときに東野をはじめ制作スタッフが想い起したのが、上の会議に出席した際に瀧口が携えていた木製の箱だった。会議での発言に当たって、瀧口が箱の中のメモを参照し確認していたため、当時から注目を集めていた。この箱とメモが通称「シガー・ボックス」である(図24−3)。東野が瀧口に直接確認したところ、箱は荒川修作から贈られた葉巻の箱で、その中には「大ガラス」の再制作について思いついたことをメモして入れているというのだった。「デュシャンが<グリーン・ボックス>や<ホワイト・ボックス>を作った故事にならい、自分もいつかこれらのメモ入りの箱を、オリジナル作品として売ってもいい」と、笑っていたそうである。

図24-3 シガーボックス図24−3
瀧口修造「シガー・ボックス」
(千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録より転載)


瀧口の没後、綾子夫人から借り出してメモを解読したところ、すでに前述した二つの先行事例が在るなかで、3番目のレプリカを制作する意義や目的について、本質的で多面的な考察が含まれていることがわかり、その後の作業進行の大きな指針となった。とりわけ「制作当時の作品に出来るだけ近づける方向で、新しい出来たてのLarge Glassを再製作[ママ]してみる」という考えは、瀧口自ら「平凡だが、妥当な仕方」と位置付けているとおり、レプリカ制作の基本的な方針とされた。

なお、晩年の瀧口(または綾子夫人)が記念品などを入れていた葉巻の箱にはもう一つ別のヴァ―ジョンがある。「シガー・ボックス」と区別して、「シガー・ボックス(TEN-TEN)」(図24−4)と呼ばれる。中に入れられているのは以下のような品々で、個人的な色彩を濃厚に有しているように思われる。

図24-4 TEN-TEN図24−4
瀧口修造「シガー・ボックス(TEN-TEN)」
(千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録より転載)


・アンドレ・ラフレー挿絵『マルセル・デュシャンの生涯』LA VIE ILLUSTRÉE DE MARCEL DUCHAMP avec 12 dessins d’André RAFFRAY(ポンピドゥー・センター、1977年)2冊。瀧口宛てティニー・デュシャンの献呈署名入り(図24−5)、および東京ローズ・セラヴィ宛てマドリン・ギンズの献呈署名入り(図24−6)。
・1969〜70年頃の綾子夫人の日記帳1冊(文庫本大のノートブック。おもに瀧口入院中の看病の記録として使用したものと思われる)
・マドリン・ギンズからの絵葉書 など

図24-5 ティニー・デュシャンの献辞図24−5
ティニー・デュシャンの献辞


図24-6 マドリン・ギンズの献辞図24−6
マドリン・ギンズの献辞


つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20160913_takiguchi2014_III_14瀧口修造
「III-14」
デカルコマニー、紙
イメージサイズ:18.5×13.9cm
シートサイズ :18.5×13.9cm


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。

土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」 第23回

「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第23回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.23

土渕信彦


23−1.Personally Speaking
前回ご紹介した「ユリイカ」1977年10月号の「私製草子のための口上」の前後にも、瀧口デュシャンに関する小論を2つ発表している。「マルセル・デュシャン:九箇の雄の鋳型 Nine Malic Moulds」および“Personally Speaking”である。

「マルセル・デュシャン:九箇の雄の鋳型 Nine Malic Moulds」は、デュシャンが1964年に製作した9部限定のマルチプル(図23−1)についての作品解説で、フジテレビギャラリーが発行していた“Gallery”誌の第6巻5号(1975年5月)に掲載された。このマルチプルの製作の契機や経緯が、「大ガラス」や「トランクの箱」に遡って簡潔に述べられているほか、デュシャン作品の蒐集や、ガラスのヒビ割れについても触れられている。マルチプルの版元について本文では「ニューヨークの前掲画廊から9部限定で発売されたが、そのうちの第1番がこれである」と記されているだけであるが、掲載されたカラー図版のキャプションにコルディエ&エクストローム画廊と明記されている(図23−1のキャプションのとおり。このカラー図版の他に、「大ガラス」のモノクロ図版も併載されている)。なお、この小論は「Gallery誌上展 フジテレビギャラリー所蔵作品を中心に」という題の連載記事に寄稿されており、同ギャラリーによる前書には「解説をとくにデュシャンと親交のあった滝口修造氏にお願いした」とある。

図23-1 「9箇の雄の鋳型」図23−1
デュシャン「九箇の雄の鋳型 Nine Malic Moulds」、1964年
ニューヨーク・コルディエ&エクストローム画廊発売
限定9部の内の1番
16.8×27.3僉淵縫紂璽茵璽・メアリー・シスラー旧蔵)


“Personally Speaking” は、1972年に開催されたニューヨーク近代美術館・フィラデルフィア美術館のデュシャン回顧展の際に寄稿した英文によるカタログ・テキスト(図23−2,3)の和訳(自訳)で、掲載されたのは「エピステーメー」誌(編集:中野幹隆、発行:朝日出版社)の1977年11月号(「マルセル・デュシャン特集号」)である。掲載に際して次のように付記している。

「この小文は勝手な英文で書きおろしたもので、われながら訳しにくい。最初はここに掲げた題をつけておいたが、カタログではCollective Portrait of Marcel Duchampと題してアポリネールからabc順に古今の61人の文章や絵などをならべたセクションに含められたので無題で発表された。ここでは敢てもとの題名を英文そのまま復活させて頂いた。[後略]」

図23-2 「マルセル・デュシャン大回顧展」カタログ図23−2
ニューヨーク近代美術館・フィラデルフィア美術館「デュシャン回顧展」カタログ
1973年


図23-3 瀧口のカタログテキスト図23−3
同上
瀧口のエッセイの頁


「エピステーメー」誌のこの特集は尋常の特集ではなく、連載記事まで休載して全頁をデュシャンに捧げるという力の入れようだった。執筆・寄稿者も豪華な面々で、瀧口のほか、東野芳明、荒川修作、柳瀬尚紀、海外ではミシェル・ビュトール、ジャン=フランソワ・リオタール、ジャン・クレール、オクタヴィオ・パス、ティエリ・ドゥ・デューヴ、ミシェル・カルージュなど。さらに磯崎新と中原佑介の対談、ジョン・ケージとアラン・ジュフロワの対談なども掲載されている。

図23-4 エピステーメー誌図23−4
「エピステーメー」誌
1977年11月号


23−2.「檢眼圖」The Oculist Witnesses
この頃の瀧口のデュシャンに対する特別な関心は、マルチプル「檢眼圖」(図23−5)に凝縮されているかもしれない。デュシャン「大ガラス」の「眼科医の証人」The Oculist Witnessesの部分を三次元に立体化したもので、デュシャン「グリーン・ボックス」に納められたメモでは、この部分は”Tableaux d’oculiste”または”Tableaux oculistes”と表記されているので、その訳が日本語の名称とされた。

図23-5 「檢眼圖」図23―5
瀧口修造・岡崎和郎「檢眼圖」、東京ローズ・セラヴィ、1977年
シルクスクリーン、アクリル板、レンズ、アルミニウム。26.0×26.0×26.0
内箱の内側に貼付された奥付ラベルに瀧口・岡崎のサイン入り。解説リーフレット別添。白厚紙の外箱入り。


「大ガラス」の「眼科医の証人」の部分は、ガラスの表面に透視図法によって描かれている(ガラス上の銀メッキを剥がして図柄が残してある)のに対して、「檢眼圖」では「グリーン・ボックス」所収の縮小図版(こちらは“Témoins Oculistes”と表記されている)から忠実に作製した平面図を、3枚のアクリル板の上にシルクスクリーンの手法で黄色のインクを定着し、見る角度を調節することによって「大ガラス」の「眼科医の証人」の部分の姿を再現できるようにしてある。「解説リーフレット」のなかで瀧口は「ブラック・ライトで眺めると、まったく別の様相をあらわすだろう」と述べているが、劣化の危険性を考慮すると、躊躇せざるをえない。

実際の製作に当たった岡崎和郎氏の証言によれば、本体だけでなく、内箱の緑色がかったグレーの色彩や眼の図柄、タイトルへの旧字体の使用など、製作のすべてにわたって瀧口の細かい指定・監修が及んだそうである。製作部数を数部の限定とする意向だったが、岡崎氏の進言に従って100部に変更された。ただし実際に製作されたのは、瀧口存命中に完成した60部のみで、しかも過半は海外に送られたそうで、国内に残っているのは30部に満たないようである。詳しくは次の文献をご参照いただきたい。岡崎和郎・空閑俊憲座談会(司会土渕信彦)「瀧口修造を語る 人差し指の方角」(「洪水」第6号、洪水企画、2010年7月。図23−6)

図23-6 「洪水」第6号図23−6
「洪水」第6号(2010年7月)


76年末に出来上ったばかりの「檢眼圖」は、ポンピドゥー・センターで開催されたマルセル・デュシャン展の開会式に出席する東野芳明に託されて、フランスのティニー・デュシャンのもとに届けられた。ティニーから77年2月21日付けの、とても喜んだ様子の礼状が届き、“Regarding your very generous offer, it would mean a great deal to me if you could send one to my daughter”「お言葉に甘えて、娘にも一部いただけないかしら」[意訳:土渕]とのリクエストがあった。早速、追加して贈られ、6月27日付けで丁寧な礼状が届いた。

岡田隆彦の証言によれば、73年の訪米の際に世話をしてくれたロックフェラー三世財団のポーター・マックレイ氏と荒川修作の二人にも、この頃に渡米した岡田に託されて贈られたようである(大岡信・武満徹・岡田隆彦による座談会「〈絶対への眼差し〉 もう一つの物質=言葉を求めて」、「現代詩手帖」「特集 瀧口修造」、1979年10月。図23−7)。

図23-7 「現代詩手帖」表紙図23−7
「現代詩手帖」1979年10月号


「檢眼圖」の製作に並行して書き溜められた瀧口の手稿が、手作り本「檢眼圖傍白」(図23−8,9)としてまとめられており、製作に当たってデュシャン「グリーン・ボックス」所収のメモをはじめ、さまざまな文献が参照されていたことが判る。(次号に続く)

図23-8 「檢眼圖傍白」表紙図23−8
手作り本「檢眼圖傍白」表紙(千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展カタログより転載)


図23-9 「檢眼圖傍白」内容図23−9
同上
内容頁(同上)


つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20160613_takiguchi2014_II_18瀧口修造
「II-18」
デカルコマニー
イメージサイズ:15.7×9.0cm
シートサイズ :19.3×13.1cm


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」 第22回

「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第22回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.22

土渕信彦


米国旅行(その5)
前回まで4回続けて瀧口修造の米国旅行について述べてきたので、今回で切り上げることとし、以下に書き残した点を補足する。

まず、ティニー・デュシャンとの交流に関連した事柄をいくつか。
瀧口の「寸秒夢、あとさき」に、次のような一節がある(「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」、1974年。図22−1)。

「Géogénie n.f. 地球創造説(白水社。仏和大辞典の戦前版)
私のむかしの詩「地球創造説」(1928)を一冊の黒い本にしたが、そのまた黒い縮刷版を昨年出版した。それをティニー・デュシャンにあげようと、献辞に標題を英語で入れるとき、GEOGENYと書こうとして、おもしろくもないなと思い、突嗟にGEOGENESISと、旧約の創世記を結びつけてしまう。覗き込むティニーさんはふふと笑った。洒落と思ってくれたのであろう。
ネオロジズム? 私にはまだわからない。」

図22-1 「現代詩手帖」図22−1
「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」、1974年10月


引用で触れられた『地球創造説』縮刷版(1973年9月。図22−2)には、元版となる限定版(1972年)と上製版(同)があり、限定版にはオリジナルのロトデッサンが1葉付されている。どのバージョンも共通して黒紙に墨インクで印刷されており、頁を少し傾けて光の角度を変えないと文字が浮き上がらない(図22−3)。読み進めるのは骨が折れるが、黒紙に鉛筆で同心円状に線描されたロトデッサンの効果を、活字でも試みたものだろう。

図22-2 地球創造説図22−2
書肆山田『地球創造説』縮刷版(1973年9月)


図22-3 地球創造説 本文図22−3
『地球創造説』縮刷版
本文冒頭部


上の引用で語られているのは、おそらくティニーに招かれてデュシャンのアトリエを訪問した際のエピソードかと思われる(図22−4)。米国旅行の4年後の、マルチプル「檢眼圖」が完成した1977年の作品だが、ティニー宛てのロトデッサンが残されているので(図22−5)、この訪問のときにも『地球創造説』の縮刷版に添えて、一葉を贈呈していたかもしれない。

図22-4 ティニー・デュシャンと図22−4
ティニー・デュシャンと(1973年。撮影者はおそらく森口陽氏だろう)


図22-5 ロトデッサン(ティニー宛て)図22−5
ロトデッサン
“Hommage à Teeny Duchamp Shuzo Takiguchi ’77”
右頁の仏文はつぎのとおり
Rotodesin
Moi aussi je suis peintre!
pour
Teeny Duchamp
Shuzo Takiguchi
Tokyo 1977


逆にティニーから瀧口にプレゼントされた葉巻の箱も残されている(図22−6)。記載された日付から、訪問の際に贈られたものと思われる。瀧口が愛煙家であることを、前もって荒川修作あたりに聞いていたのかもしれない。

図22-6 葉巻の箱図22−6
瀧口に贈られたハバナ葉巻の箱(ティニー・デュシャンの署名と“Sept. 23. 1973”の日付入り。富山県立近代美術館蔵)


上図のとおり、箱の底に直に署名されているように見えるが、署名された紙一葉が底に敷かれているのかもしれない。いずれにしろプレゼントなのだから、元は葉巻が箱いっぱいに入っており、あらかた喫い終ってこの状態になったのだろう。

余談ながら、「寸秒夢、あとさき」の、上の引用のすぐ後には、デュシャンについての次のような記述もある。

「マルセル・デュシャンという人は、死んだとき、遺言により葬儀もせず、公の死亡通知も出さなかったらしい。それでもルーアンの家族の墓地に葬られて、墓石には故人の意志により、こんな意味のコトバが刻まれたという。

さりながら死ぬのはいつも他人なり。

こんな川柳ぶしの訳ではデュシャンも地下で泣くであろうが、泣くデュシャンなど想像できぬことも事実である。それにしても「語っているのはつねに死せる人である」の感もなくはない。永遠の語りと永遠の沈黙との同存である。良心のために原文を。

D’ailleurs c’est toujours les autres qui meurent.」

参考までに、デュシャン家族の墓と、墓地に至るまでの少し急な坂道の写真を掲げておく(図22−7,8)。

図22-7 デュシャン家族の墓図22−7
デュシャン家族の墓(撮影者:土渕)


図22-8 ルーアンの坂道図22−8
ルーアンの坂道(撮影者:土渕)


米国旅行から帰国した瀧口は、手作り本『扉に鳥影』(図22−9,10)を制作し、関係者に宛てて贈呈している。奥付には次のように記されている。

Fragments from Philadelphia Memorandum. Private Hand-made Edition. Limitted but Unnumbered. Rrose Sélavy, Tokyo, Decmber 7, 1973.
Shuzo Takiguchi, by himself.

図22-9 扉に鳥影 表紙図22−9
瀧口修造『扉に鳥影』表紙


図22-10 扉に鳥影 表紙裏・奥付頁図22−10
同上
表紙裏・奥付頁


発行日とされた”Decmber 7”は瀧口の誕生日に当たる。発行元が”Rrose Sélavy, Tokyo”(東京ローズ・セラヴィ)とされているのは、『マルセル・デュシャン語録』(1968年)や前出「檢眼圖」と共通する。なお、この手作り本は、後に雑誌「ユリイカ」1977年8月号の特集「シュルレアリスムの彼方へ デュシャンとルッセル」(図22−11)に、ほぼ原寸大で再録された。

図22-11 「ユリイカ」図22−11
「ユリイカ」1977年8月号


再録に際して自筆の解説「私製草子のための口上」が書き下ろされ、「ユリイカ」同号に掲載された。この解説のなかでは『扉に鳥影』だけではなく、米国旅行自体についても触れられているので、少し長くなるが以下に引用しておきたい。

「『扉に鳥影』は1973年9月、マルセル・デュシャンの死後はじめての記念回顧展がフィラデルフィア美術館で催されたとき、9月19日夜のオプニングへの招待(ブラック・タイでのディナー)には型通りの欠礼の返事を打電したあと、ふと普段着のままでぶらりとその時刻に姿を現わしてみようかという突飛な考えが浮かんで、曲りなりにも実行することになった、これはその奇妙な出来事の名残りである。しかし偶然に出会うことになった東野芳明氏がその現地報告をおもしろく書いてしまったが、私自身は初志の通りその報告めいたものをまだ発表していない。ここに複製されたゼロックスの手作りの小冊子は、かつての「デュシャン語録」でお世話になった友人や、この訪問で想い出深い関係のあった極めて少数の人たちにプライヴェイトな記念として贈ったもので、正確な部数は覚えていない。20部を越えないであろう。ポケットのメモ帖や有り合せの紙片に書きとめた断想めいたコトバを切り貼りしたもの、最後の紙片だけは帰ってからの補足。タイプした舌足らずの英訳文は、贈り先の外国人への配慮から。―何も秘密にする理由はなかったが、われながら発想の唐突さから、こんな訪れのかたちが自然にあってもよいと思っただけのことである。皮肉にも、この旅は私の生涯でも珍しく、おとぎばなしにも似た出会いや私的な想い出にみちているのだが。[後略]」

なお、『扉に鳥影』の表紙裏には、上図のとおり、上野紀子さんの油彩画(デュシャンの遺作の覗き込む瀧口の後ろ姿を描いたもの)を瀧口宅の庭に置いた光景を写したカラー写真が貼り込まれているが、「ユリイカ」への再録ではモノクロとなっている。
つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20160613_takiguchi2014_II_18瀧口修造
「II-18」
デカルコマニー
イメージサイズ:15.7×9.0cm
シートサイズ :19.3×13.1cm


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。

土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」 第21回

「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第21回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.21

土渕信彦


1.米国旅行(その4)
はじめに前回の補足・訂正をひとつ。前回、綾子夫人宛て9月22日スタンプの絵葉書(図21−1)をご紹介したが、この文中でN.Y.の空港まで瀧口を出迎えてくれた人物として、荒川、マデリンとともに「ギンズバーグ」の名が挙げられていた。この「ギンズバーグ」はエリザベス・ギンズバーグのことで、アレン・ギンズバーグではないようなので、補足・訂正しておきたい。

図21-1 絵葉書文面図21−1
9月22日スタンプの絵葉書
(後出「「東京ローズ・セラヴィ―瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録より転載」


エリザベス・ギンズバーグの名前は、慶應義塾大学アート・センター「東京ローズ・セラヴィ―瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録(2012年。図21−2)の、朝木由香さんの論考”Personally Traveling”のなかで、瀧口が米国旅行で使用した手帖(図21−3)に名前が記載されている人物として挙げられている。この点は愛媛県在住の畏友清家克久氏からご教示いただいた。清家氏には30年以上お付合いいただいており、常々、啓発されている。記して感謝申し上げたい。なお、朝木さんの上記の論考は、米国旅行についての基本文献の1つといえるだろう。以下に旅程をまとめるに当たり、大いに参考にさせていただいた。

図21-2 慶應アートセンター図録図21−2
慶應義塾大学アート・センター
「東京ローズ・セラヴィ―瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録、2012年12月


図21−3 旅の手帖図21−3
瀧口修造「旅の手帖」
(慶應義塾大学アート・センター蔵)


上図のとおり、瀧口の「旅の手帖」には万年筆やボールペン(ないし鉛筆)によって、1日に1項目程度の簡潔な書き込みが認められる。記載された事柄は、実際の行動の記録かもしれないが、9月24日に瀧口がロックフェラー三世財団のオフィスを訪問した際に、ポーター・マックレイに組んでもらったスケジュールかもしれない。仮にそうだったとしても、瀧口がこのスケジュールどおり行動したか、確実なことは判らない(記載が訂正されている箇所も散見される)。

こうした留保の下ではあるが、この「旅の手帖」に記載された日程をベースに、すでに見てきた瀧口本人や東野芳明の回想、綾子夫人宛ての瀧口の絵葉書の記述などを参考に、改めて1973年の米国旅行全体の旅程をまとめると、以下のようなものだったと思われる。多少の推測も含まれている点は、予めお断りしておく。

9月18日(火) 羽田発JAL6便にてニューヨーク着。キタノ・ホテルに宿泊。
9月19日(水) 画商グザビエル・フォーケイドの車でフィラデルフィアに移動(ロックフェラー三世財団のポーター・マックレイも同乗)。フィラデルフィア美術館のオープニング・レセプションと記念晩餐会に出席。展覧会の会場を巡る。フランクリン・モーターインに宿泊。
9月20日(木) (おそらくフィラデルフィア美術館で過ごしたものと思われる)
9月21日(金) フィラデルフィア美術館の記念講演会に出席。講演者は次のとおり。
 午後2時から…アンヌ・ダナンクール(フィラデルフィア美術館キューレーター)。
 午後4時から…ジョン・ケージ
 午後6時から…ロベール・ルベル
 午後8時30分から…アルトゥーロ・シュヴァルツ
9月22日(土)夜 アムトラックでニューヨークに帰着。
9月23日(日) ティニー・デュシャンに招待され、デュシャンのアトリエを訪問。
9月24日(月) ロックフェラー三世財団のオフィスを訪問。マックレイに滞在中のスケジュールを組んでもらう。
9月25日(火) アーティストの大島加寿子らとMOMAを見学。
9月26日(水) グッゲンハイム美術館を見学。ジャスパー・ジョーンズのアトリエを訪問。
9月27日(木) メトロポリタン美術館を見学。
9月28日(金) ブロードウェイでピーター・ブルックの舞台を観る。
9月29日(土) ニューヨークのボタン店「テンダー・ボタン」で買い物。
10月2日(火)ないし3日(水) Hew Shroo(浅岡慶子)のアトリエでパーティを開催。
10月4日(木) 帰国。

10月2日ないし3日のパーティについては、瀧口訪米の前年(72年)に渡米し、その後長く米国で活動したアーティスト浅岡慶子さんによる「回想:『銀色の葉影』」で、証言されている(「橄欖」第2号、瀧口修造研究会、2012年7月。図21−4)。

図21-4 「橄欖」第2号図21−4
瀧口修造研究会会報「橄欖」第2号、瀧口修造研究会、2012年7月


詳細は原文をお読みいただくほかはないが、パーティ開催の経緯を簡単にご紹介すると、以下のとおりである。9月下旬のある日、浅岡さんのアトリエに(瀧口と同行した)森口陽氏から電話が架かってきて、「先生が『ぜひ君のところで』と、おっしゃっている」と告げられたのだが、ニューヨークに来てまだ日が浅く、十分なもてなしができないだろうからと、固辞していた。すると瀧口本人が電話口に出てきて、「安いワインとクラッカーが少しあればそれで十分ですから、肝心なのは貴女のところで、ということなのです」とまで言われ、とうとう引き受けることになった。パーティ当日に訪れて来たのはまさに錚々たる顔ぶれの人たちで、浅岡さんは初めて瀧口の深い意図に、つまりこうした人間関係を置き土産に残そうとしていたのだと、気が付いたそうである。

浅岡さんは72年の渡米に際して瀧口からリバティ・パスポートも贈られており(当時名乗っていた代尾飛Hew Shiroo宛)、瀧口と所縁の深かった最も若い世代のアーティストかもしれない。その後帰国し、現在は主に日本で活動を続けておられる。

なお、綾子夫人による「年譜・補遺」の「1978年」の項には、以下のように記載されている(思潮社「現代詩読本 瀧口修造」1980年6月。図21−5)。

「3月、雅陶堂ギャラリーにて開催予定のジョゼフ・コーネル展のカタログのために七つの献詩と訳を載せました。前年末からコーネルに憑かれてしまいました。地下の会場に並ぶ7つの作品は見る人の心を虜にしてしまいます。先年渡米の際にはその死を知らずに行き、会うことが出来ず残念がりました」

図21-5 現代詩読本図21−5
思潮社「現代詩読本 瀧口修造」
(1980年6月)


もしもコーネルがまだ存命中で、2人の会談が実現していたとしたら、どのようなものとなっていただろうか。たいへん興味深く思われる。参考までに、綾子夫人の「年譜・補遺」で言及されたコーネル展のための瀧口による序詩を、雅陶堂ギャラリーの図録「Joseph Cornell」(図21−6)から引用しておきたい。

「時のあいだを
ジョゼフ・コーネルに

ほとんどふたつの時間、いわば時と時とのあいだを歩くのに、あなたはまる一生かかった。 ……人には見えず時空を旅する鳥たちの時間、過ぎ去った遙かな国の物語も、星辰の運行とともに現存する時間…… もうひとつの時とは、生まれて住みついた土地と生活の時間、霧と煙り、水と血液、パンとミルクの時間、おそらく手や顔の皺の時間でもあろう。あなたが狷介な孤独者のように見られたとすれば、なんと愛の充溢のためだ。秘密はあなたが遺した窓のある筐とイメージのかずかず、実は未だ名付けようのない物たちのなかにある。まるで天からやって来た職人の指紋の魔法か。しかし秘密はまた乳いろの光につつまれている。こんなに身近な親しさで。かつてマラルメが詩のなかにptyxという謎の一語でしか表わさなかった、捉え難い虚空の貝殻とも断じえないものを、何ひとつ傷つけず、あなたは時の波打際で手に拾い、視えるようにしてくれた。風のいのちのシャボン玉とて例外ではない………」

図21-6 ジョゼフ・コーネル展図録図21−6
雅陶堂ギャラリー Joseph Cornell展図録
(1978年3月)


つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20160513_takiguchi2014_III_03瀧口修造
「III-3」
デカルコマニー、紙
イメージサイズ:13.7×9.8cm
シートサイズ :13.7×9.8cm


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」 第20回

「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第20回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.20

土渕信彦


1.米国旅行(その3)

今回は瀧口修造が、1973年の米国旅行中に綾子夫人に宛てて出した手紙や絵葉書を見ていくことにしたい。4通が確認されており、いずれも慶應義塾大学アート・センターに所蔵されている。同センターが2012年12月に開催した「東京ローズ・セラヴィ―瀧口修造とマルセル・デュシャン」展に展示された(図20−1)。以下、日付順にその内容を見ることとする。

図20-1 慶應アートセンター図録図20−1
慶應義塾大学アート・センター
「東京ローズ・セラヴィ―瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録、2012年



(1)9月22日スタンプの手紙(英文。瀧口がフィラデルフィアで宿泊したフランクリン・モーターインの封筒・便箋が使用されている)。

図20-2 英文手紙図20−2
9月22日スタンプの手紙、封筒とホテルの鍵
(上記の「東京ローズ・セラヴィ―瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録より転載。以下同じ)


文面は以下のとおりと思われる。
My dear Ayako
I’m quite well here.
Are you well, too?
Even though separated,
We are one always.
Love
Shuzo


(2)9月22日スタンプの絵葉書

図20-3 絵葉書図柄図20−3
9月22日スタンプの絵葉書
(図柄はフィラデルフィア美術館)


図20-4 絵葉書文面図20−4
絵葉書の文面と宛名


文面は以下のとおりと思われる。(読み易さを考慮して、改行個所の表示を省略し、句読点を適宜補った。以下同様)

今日まで忙しく書けませんでした。無事ニューヨーク着。荒川、マデリン、ギンズバーグが空港まで来てくれました。ニューヨークで一泊、翌日マックレーと一緒にフィラデルフィアまで車で急行。夕刻のオープニングに結局堂々と出席することになって終った! ティニー夫人に久しぶりに会い、感慨無量。日曜に改めてニューヨークの家に招かれました。こちらで三泊。明日午後汽車でニューヨークへ。フィラデルフィアでも荒川夫妻と終始一緒、すっかり世話になっています。仲々書く暇がないので、必要な人にはよろしく伝えて下さい。くれぐれも気をつけて下さい。ぼくの体の方は至って快調ですが、安心して下さい。Shuzo

なお、文中の「マデリン、ギンズバーグ」は「マデリン・ギンズ」1人を指しているのかもしれないが、「、ギンズバーグ」と記してあるのは確かなので、別人と解しておいた。詩人アレン・ギンズバーグだろうか?


(3)9月26日スタンプの絵葉書
図柄はマルセル・デュシャン「大ガラス」のモノクロ写真
宛名欄は漢字ではなくローマ字で書かれている。

文面は以下のとおりと思われる。

切手を買ったりポストへ入れることが案外面倒なので、なかなか便りができません。22日夜、汽車でNew York着。23日(日)にティニー夫人に招待され、感慨深い午後をすごしました。24日ようやくマックレー氏を事務所に訪ね、そこで細かいスケジュールをつくってくれたのだけれど、折角来たのだからとかなりきつい予定で、どうしても2週間よりのびてしまうようです。今のところ、ぎりぎりの線で10月2日(火)か3日になりそう(日附は日本の4日着)。吉村ケートにはまだ連絡つかず。明○[晩か。判読できず]、池田夫妻、奈良原夫妻がホテルに訪ねてくるとのこと。飛[代尾飛Hew Shioo(アーティスト浅岡慶子が当時名乗っていた名前)]にもまだ会わず。ベッツィもフィラデルフィア以来会う機会なし。山繭の原稿、もし少し待てるようでしたら、帰ってすぐ書きたい旨伝えて下さい。以上の日より遅れないよう、絶対つとめるつもりです。くれぐれも体に気をつけて下さい。ぼくの健康はふしぎに快調です。

なお、文中の「山繭の原稿」とは、1974年1月に刊行された日本近代文学館『山繭』復刻版の付録に掲載された「追想」(『コレクション』8巻)のことと思われる。

余談ながら、この「追想」の中では「小樽時代に書いた感傷的な旧稿も[「山繭」誌に]載った記憶がある」と述べられている。つまり、慶應義塾大学文学部予科を中退し、小樽に住んでいた当時も執筆を続けていたと、自ら証言していることになる。従来、初期の詩「雨」「月」「冬」の3篇の執筆時期は、例えば『コレクション』1巻の解題などのように、「山繭」に発表された1926年と考えられてきたが、上の証言に注目すると、この「冬」こそ小樽在住当時の23〜25年頃に書かれた「感傷的な旧稿」であり、「雨」「月」の2篇の執筆時期は、さらに遡って小樽への移住前の22〜23年頃と見ることもできるだろう。詳細は、拙稿「初期詩篇の再検討 「雨」「月」「冬」は、いつ執筆されたか」(「橄欖」第1号、瀧口修造研究会、2009年7月)をご参照いただきたい。


(4)10月3日スタンプの絵葉書(図柄は自由の女神)

図20-5 自由の女神絵葉書図20−5
10月3日スタンプの絵葉書


宛名欄はローマ字で記載され、文面欄にはCARTE BLANCHEとだけ記載されている。
図柄欄の右上には“Greetings from The Wonder City”と印刷され、図柄には瀧口によって、次のような一種の数式が書き込まれている。

自由の女神像の左側に「Rrose Sélavy ±」が、また独立宣言書の右側あたりに等号の「=」が書き込まれ、そこから右側の空や雲に、ボールペンで青色と赤色の線が放射状に各5本程度引かれている。

「自由の女神」の正式な名称は「Liberty Enlightening the World」(世界を照らす自由)であるので、青色・赤色の線は「世界を照らす」ことの視覚化と考えることもできるだろう。数式全体では、Rrose Sélavyと「自由の女神」とが相互に入れ替わって(化身となって)、帰国後の日本を含む世界を照らす様を讃える趣旨と解されるかもしれない。

付記:今回の執筆に当たり(今回に限らずいつものことだが)、慶應義塾大学アート・センターの森山緑さん、山越亮介さんに大変お世話になった。感謝申し上げたい。
つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20160413_takiguchi2014_II_08瀧口修造
「II-8」
デカルコマニー、紙
Image size: 11.0x8.5cm
Sheet size: 13.7x9.8cm
II-7と対


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
 ・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」 第19回

「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第19回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.19

土渕信彦


1.米国旅行(その2)

1973年の米国旅行は、58年の欧州旅行に続く生涯で2度目の、そして最後の海外旅行となった。9月18日に羽田を出発してニューヨークに到着、翌日フィラデルフィアに行き、マルセル・デュシャン展のオープニング・レセプションと記念晩餐会に出席したことが、東野芳明の証言などから判る(一部は前回引用した)。22日にはニューヨークに戻ったようである。帰国したのは10月4日となった。

旅程の概要は次回ご紹介することとし、以下、展覧会の写真などをいくつか見ていきたい。なお、撮影者はおそらく森口陽氏と思われる。

図19-1 「回転半球」の前で図19−1
「回転半球」の前で(千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展図録から転載)


「回転半球」は、1937年の「海外超現実主義作品展」の際の「みづゑ」臨時増刊「アルバム・シュルレアリスト」(第1回参照)にも掲載されており、数あるデュシャンの作品のなかでも瀧口が最も早い時期から見てきた作品といえるだろう。この螺旋が飛び出してくるような像を、当時はニュース映画の映像でしか見ることができなかったのだから(第5回参照)、初めて実作で確認することができて、感慨深いものがあったと思われる。

図19-2 「大ガラス」の前で図19−2
「大ガラス」の前で(同じく千葉市美術館図録から)


「大ガラス」の実作も目の当たりにするのは初めてだった。戦前のデュシャン論や「異色作家列伝」の「デュシャン」の項で論じた内容(第3回第4回参照)を想い起しながら、細部までじっくりと観たものと思われる。『マルセル・デュシャン語録』製作の際に読み込んだデュシャンのメモ「グリーン・ボックス」の記述なども、思い浮かべたことだろう。ガラスに入ったヒビは深い印象を残したようで、後日、米国に滞在していた写真家奈良原一高に、細部の撮影を依頼している。出来上がった写真と自らの言葉とを組み合わせた「絵本」を構想したのだが、実現に至らなかった。奈良原が撮影した写真は、後年みすず書房から刊行された写真集『奈良原一高デュシャン大ガラスと瀧口修造シガ―ボックス』(1992年10月)で見ることができる(図19−3)。

図19-3 奈良原一高『大ガラス』図19−3
『奈良原一高デュシャン大ガラスと瀧口修造シガ―ボックス』(外箱)


図19-4 「遺作」の前で図19−4
「遺作」の前で(同じく千葉市美術館図録から)


ティニー・デュシャンが瀧口に何か話しかけているところ。後ろに見えるのは「遺作」の扉。瀧口が抱えているのは図録ではなく、展覧会資料などを入れた袋のようである。

図19-5 「遺作」を覗く図19−5
「遺作」を覗く(「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」から転載)


東野によれば、このとき瀧口はティニーに促され、行列の順番を譲ってもらって覗いたそうである。別の写真をもとに画家上野紀子さんが描いた100号の油彩画の右下の部分には、瀧口に順番を譲ってくれた老婦人(一説にはロックフェラー夫人)が乗った車椅子のバックミラーが描かれている(図19−6)。

図19-6 上野紀子の油彩画図19−6
上野紀子の油彩画(神奈川県立近代文学館「なかえよしお+上野紀子の100冊の絵本展」図録、2014年から転載)


中江嘉男・上野紀子のお二人は晩年の瀧口と親しく交流し、しばしば書斎を訪れていた。上の油彩画は瀧口の誕生日のお祝いに描いて届けた作品だそうである。またこの三人で、ニューヨークのセントラルパークにある「不思議の国のアリス」の銅像の写真集・絵本『紐育の国のアリス』も製作している(河出書房新社、1975年12月。図19−7)。資料をかかえステッキをついた後ろ姿や木製の扉は、その後のお二人の絵本などにしばしば登場するモチーフとなった。上の写真集・絵本の「扉」にも用いられている(図19−8)。

図19-7 『紐育の国のアリス』図19−7
『紐育の国のアリス』


図19-8 同書「扉」図19−8
同書の扉


『紐育の国のアリス』の瀧口による序文「扉の国へ」は、次のように締めくくられている。

「これは例の西10番街に住んでいた賢者が秘かに遺していった不思議の扉である。その向こうにどのような奇想天外の景色が眺められようと、扉は黙って、これはただの物を眺めるひとつの方法にすぎない、と言っているように見えた。
それはともかく、私は夢うつつに見た、あのアリスの銅像を、一度その扉の穴から覗いてみたいものだと思ったのである。そして…」

図19-9 会場で図19−9
フィラデルフィア美術館の会場で(千葉市美術館図録から転載)


ティニー、瀧口、東野の三人はすっかり打ち解け、意気投合しているようである。後方にはジョン・ケージ(左から2番目)。ティニーと連れ立って瀧口が記念講演会場に入ってきた時に、会場内に居た老婦人が” Is he Duchamp ? ”とつぶやいたのを東野が耳にし、そのことをケージに話すと、ケージは瀧口の顔を見ながら、”Here is certain resemblance ”と言って笑ったそうである。デュシャンがすでに亡くなっていたことをその老婦人が知らなかったのは、よくある笑い話だが、そう勘違いされるほどティニーが瀧口に付きっきりだったことを物語る、貴重な証言とも考えられ、この老婦人には感謝するべきかもしれない。ロベール・ルベルやアルトゥーロ・シュヴァルツといったデュシャン研究家も来館していたのだから、彼らを差し措いてと言ってもよいだろう。15年ぶりの再会である瀧口への応対が、この二人とは異なっていたのは当然かもしれないないが、それでもティニーの瀧口に対する厚遇ぶり、信頼感、親密さは、際立っているように思われる。

なお、ケージはすでに1962年の初来日の時に瀧口と会っており、それ以降、敬意を持ち続けていたようである。瀧口逝去に際して、次のような追悼詩” There is not much difference between the two. ”も寄せている(図19−10)。

図19-10 ケージの追悼詩図19−10
ジョン・ケージによる瀧口追悼詩(「みすず」瀧口修造追悼号、1979年9‐10月より転載)


真中の大文字を縦にたどると”TAKIGUCHI”と読める(メゾスティック詩というようである)。瀧口がしばしば友人たちに贈ったアクロスティック詩(行頭の文字を縦にたどる)の手法を参考にしたものだろう。内容は上記の勘違いのエピソードが踏まえられているようにも思われる。

図19-11 デュシャンのアトリエで図19−11
デュシャンのアトリエでティニーとチェス盤を挟んで(個人蔵)


二人の姿がシルエットで浮んだ美しい写真である。デュシャン夫妻は二人ともチェスの愛好家だったので、しばしばこのチェス盤を挟んで手合せもしていたことだろう。その点でデュシャンの不在も感じさせる。瀧口はこの日ティニーから「1局いかが?」と誘われたのかもしれないが、残念ながらチェスを嗜んではいなかった。デュシャン・コレクター笠原正明氏によれば、書斎を訪れた際に瀧口がこの写真を取り出してきて、「ティニーさんはチェスができるから、チェス・プレイヤーですけれど、私はできないから、単なるプレイヤーなんです(チェスを指す振りをしているとの意味)」と、笑いながら説明してくれたそうである。瀧口もお気に入りの1枚だったようである。

図19-12 デュシャン「チェス・プレイヤーの肖像図19−12(参考)
マルセル・デュシャン「チェス・プレイヤーの肖像」1911年


つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、マン・レイです。
20160305_ray_08_newyork-duchampマン・レイ
「ニューヨークのマルセル・デュシャン」
1921年
ゼラチンシルバープリント
Image size: 28.0x21.0cm
裏面にスタンプあり


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。

土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」 第18回

「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第18回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.18

土渕信彦


1.「ローズ・セラヴィ ’58‐‘68」(第3回)


雑誌「遊」第5号に掲載された「ローズ・セラヴィ’58‐’68」には、瀧口による手作り本《Etante donné Rrose Sélavy 1958-1968 or Growth and Making of To and From Rrose Sélavy》がある(図18−1,2)。記事の校正刷を切り抜いて台紙に貼り込み、タトウ(赤布貼り厚紙製)の間に挟んだもので、表紙には2枚のラベルが貼り込まれている。1枚は手書きによるタイトルのラベル、もう1枚のラベルには「東京ローズ・セラヴィ」の緑色のスタンプが押されている。タイトルの方のラベルの末尾に「Shuzo Takiguchi 1972」と記載されているので、この手作り本が制作されたのは、「遊」第5号(1973年1月刊)の校正作業が完了した頃(72年内)だったと思われる。

図18-1 手作り本表紙図18−1
《Etante donné Rrose Sélavy 1958-1968 or Growth and Making of To and From Rrose Sélavy》
1972(慶應義塾大学アート・センター蔵。千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展カタログより転載)


図18-2 手作り本図18−2
(図18−1と同じ)


雑誌「遊」の記事は紫色の紙に印刷されているが、手作り本に貼り込まれた校正刷は白い用紙に印刷されており、印刷自体も出来上った記事本体よりはるかに鮮明である。全体のレイアウトは「遊」の記事に沿っているようだが、図33〜35の掲載頁についてはレイアウトが変更されている。つまり雑誌「遊」では図34および35(ティンゲリーからの手紙。同年3月11日付け)の下部に図33(デュシャンからの最後の手紙。1968年3月21日付け)が掲載されているが(図18−3)、手作り本では逆に、図33が上部に貼られ、その下部に図34・35が貼られている。どうしてこの部分だけレイアウトが変更されたのか、理由はよく解らない。

図18-3 「遊」図33〜35頁図18−3
「遊」第5号(図33〜35の頁)



2.米国旅行

「ローズ・セラヴィ’58‐’68」が発表された1973年の秋、瀧口修造はフィラデルフィア美術館・ニューヨーク近代美術館の「マルセル・デュシャン大回顧展」の開会式に招待され、2週間ほど渡米した。この小旅行については、「自筆年譜」1973年の項に、次のように述べられている。なお、この個所は「本の手帖」特集「瀧口修造」(1969年8月)に続いて組まれた、「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」(1974年10月。図18−4)に掲載されたものである。

「前年からフィラデルフィア美術館とニューヨーク近代美術館の連名でマルセル・デュシャンの大回顧展の連絡があり、そのカタログに求められて寄稿したが、この年9月19日フィラデルフィアでの開会式の晩さん会に招かれる。即刻欠礼の電報を打ったあと、ふとこの展覧会を訪れるためだけに渡米することを思いつく。動機があまりにも突飛で偶然であったため、他意なく誰にも話さず片道切符で準備をすすめる。結局、2週間余りの小旅行はロックフェラー財団の招きとなる(5年前に同財団から6ヶ月滞在の正式招待をうけながら病気などの理由で実行していなかった)。また偶然の符合で東野芳明とGQ誌の森口陽の一行と同道。デュシャン夫人とは実に15年ぶりの再会。その他、多くのなつかしい再会また初会。思えばめまぐるしくも、のどかな秋の日ざしに恵まれた、世にもふしぎなおとぎばなしのような小旅行。どこかに鋭利な目が光っていたが …この旅についてはここ以外に公には何も書いていない。私にはまだ当分この旅はつづいているらしいので。他意なし。ただわれながらよくぞ小康を保った。」

図18-4 「現代詩手帖」図18−4
「現代詩手帖」臨時増刊
「瀧口修造」
(1974年10月)


帰国後1年も経たぬ頃に書かれただけに、実に生々しい記述である。「私にはまだ当分この旅はつづいているらしい」とあるとおり、旅行の余韻が続いている、というよりも作用自体が今まさに進行中であることが、読者にも伝わってくる。末尾の「われながらよくぞ小康を保った」という個所も、実感がこもっている。というもの、引用で「病気などの理由で」と触れられているとおり、瀧口はこの渡米前の時期に2回も入院していたからである。すなわち、『マルセル・デュシャン語録』刊行直後の1969年2月に、脳血栓のため2週間ほど入院し、さらに翌年9月には、胃潰瘍(前癌症状の疑い)により胃の切除手術を受けて2ヶ月間も入院していた。

引用のなかで「偶然の符合で東野芳明とGQ誌の森口陽の一行と同道」とされているとおり、東野・森口両氏と同じ便に乗り合わせたのは、まったくの偶然だったようである。東野芳明も以下のように証言している。

「瀧口さんは、形式ばったオープニング・ディナーには出席しないという電報をうっていた。そして、誰にもつげずにひそかにフィラデルフィアへ行って、ディナーの間は美術館のまわりでもうろついていよう、というのが氏のもくろみだったらしい。それは氏のデュシャンへのオマージュの行為でもあったはずだが、ぼくもオープニングに行くことになって、偶然に羽田空港で出会ったあたりから雲行きが怪しくなったのである」(「デュシャン拾遺」、「GQ」誌第5号、1974年2月。図18−5)

「昨年(1973年)の9月16日、ぼくはニューヨーク行JAL6便に瀧口さんと乗りあわせた。デュシャンの歿後、最初の大回顧展がフィラデルフィア美術館で開かれることになり、2人ともオープニングのディナー・パーティに招待されたのが、偶然のきっかけとなったのだが、考えてみれば、瀧口さんにとってはあのヨーロッパ旅行以来、15年ぶりの2度目の海外旅行であり、その両方の旅に同行することになったのも不思議なご縁である」(「東京ローズ・セラヴィ」、「現代詩手帖」臨時増刊「瀧口修造」、1974年10月。東野芳明『マルセル・デュシャン』、美術出版社、1977年1月に再録。図18−6)。

図18-5 GQ第5号図18−5
「GQ」第5号
(ジイキュウ出版社、1974年2月)


図18-6 東野芳明『マルセル・デュシャン』図18−6
東野芳明『マルセル・デュシャン』
(美術出版社、1977年1月)


しかしながら、その昔(1980年代中頃に)、筆者(土渕)が銀座コリドー街にあったバー「ガストロ」のマスター宮垣昭一郎氏(東野芳明の友人でもあった)から聞いたところでは、実際には東野・森口両氏が、瀧口の搭乗便に合わせて、意図的に同乗したらしい。初めてこの話を聞いたとき、瀧口・東野両氏の記述をそのまま受け取っていた筆者は吃驚して、「でも瀧口さんは確か『偶然の符合』とか何とか、書いていたではないですか?」と、思わず訊き直してしまった。

するとマスターは、言葉を選びながら、以下のように説明してくれた。「瀧口さんはそう思っていたのだろうけれど、実際にはわざわざ同じ便にしたのさ。『1人だけで行きます』って言うものだから、綾子さんはもちろん、みんなが心配してねえ…。健康状態もあまり良くなかったし、もう70歳だったしね。何日のどの便で行くか、なかなか言わないので、聞き出すのが本当に大変だった…」

正直者の筆者としては、半ば感心し、半ば裏切られたようにも感じながら、「へえー、そうだったのですか…」と言って、押し黙るしかなかった。すると、不満そうにしている雰囲気が伝わったのか、脇に居た宮垣夫人から、「書いてあることを鵜呑みにしていたんじゃダメよ。規則や法律とは違うんだから!」と、バッサリ斬り捨てられてしまった。

なお瀧口の引用のなかで言及された「マルセル・デュシャンの大回顧展」カタログ、および瀧口の寄稿の個所を、以下にご紹介しておきたい(図18−7,8)。(続く)

図18-7 「マルセル・デュシャン大回顧展」カタログ図18−7
ニューヨーク近代美術館・フィラデルフィア美術館「マルセル・デュシャン大回顧展」カタログ、1973年


図18-8 瀧口のカタログテキスト図18−8
瀧口修造のカタログ・テキスト


つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20160213_takiguchi2014_III_06瀧口修造
「III-6」
デカルコマニー、紙
Image size: 19.3x13.8cm
Sheet size: 19.3x13.8cm


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。

土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」 第17回

「瀧口修造とマルセル・デュシャン」第17回
Shuzo TAKIGUCHI and Marcel Duchamp Vol.17

土渕信彦


1.「ローズ・セラヴィ ’58‐‘68」(第2回)
「ローズ・セラヴィ ’58‐’68」は、前回触れたとおり、1958年の欧州旅行のカダケスでの出会いから、『マルセル・デュシャン語録』ができる前後までを、書簡などの原資料の図版約40点によって、自ら紹介し解説したものである(図17−1)。

図17-1 「ローズ・セラヴィ ’58‐’68」冒頭頁図17−1
「ローズ・セラヴィ’58‐’68」冒頭頁


この連載でもたびたび参照してきたので、個々の資料について改めてここで立ち入ることは省略するが、図版を内容ごとに簡単にまとめると、以下のとおりとなろう。

図版1〜6…欧州旅行関係
図版7〜9…帰国後の文通
図版10〜13…「オブジェの店」の構想と銅凸版の看板用プレート試作
図版14〜24…『マルセル・デュシャン語録』の製作過程
図版25〜34…『語録』に収録されたジャスパー・ジョーンズ、ティンゲリー、荒川修作の作品
図版35…デュシャン最後の瀧口宛て手紙(『語録』の送り先をフランスにと指示)
図版36〜40…デュシャンの死亡記事とティニー・デュシャンとの文通
図版41…荒川修作のポストカード
図版42…南画廊での展示会場

なお、図版24と25の間には、時間についてのデュシャンの考察の紹介が挟まれている。「グリーン・ボックス」および「ホワイト・ボックス」の一節がイラスト入りで訳出され、またロベール・ルベルの短篇小説「無償時間の発明家」の概要も紹介されている。ルベルがこの短篇を収めた『二重の視覚』(1964年)を出版した際に、特装本12部のためにデュシャンが製作した紙製のオブジェ「プロフィルの時計」を、瀧口はわざわざ複製しており、その図版も掲載している(図17−2)。

図17-2 「プロフィルの時計」図17−2
紙製のオブジェ
「プロフィルの時計」複製(個人蔵)


また、図版42の後には、瀧口作の紙製のオブジェ「旅への誘ない、1972、9月」(図17−3)の図版が挿入され、次のようなキャプションが付されている。

「ティニー夫人へ贈るつもりの「地図のプロフィル」の戯作。送る勇気が出るかどうかまだわからぬ。ブラック・ライトで見ると鉛筆の線や文字が黄の光の中に浮き出し、垂直線の左方にスミレ色のハレーションが放射することになっている。」

図17-3 「旅への誘い 1972、9月」図17−3
瀧口修造
「旅への誘い 1972、9月」
(慶應義塾大学アート・センター蔵)
千葉市美術館「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展カタログより転載


この記事の最終部(図17−4)は、「附録 雑談から」と題され、前号に掲載された編集部との遣り取りの続きにあたる「雑談」が掲載されている。ここに紹介・引用しておきたい。

図17-4 「ローズ・セラヴィ’58‐’68」最終頁図17−4
「ローズ・セラヴィ’58‐’68」最終頁


まず、デュシャンとカダケスとの関わりの発端を尋ねて、ティニー・デュシャンに対して瀧口が出した手紙の返信には、具体的な説明がなく、「アイスランドからカダケスに戻ったら、改めてゆっくり書きます」と記載してあったことが紹介される。その上で、以下のように続けている。

「―ところで例のアイスランドの試合は意外に長引いて、特にアメリカのフィッシャーの一風変わった態度が話題に上り、どうやら彼が悪役的存在に扱われたりしました。デュシャンが1967−68年の国際チェス・トーナメントではアメリカ側のコーチになり、そのときフィッシャーが優勝したんですよ。そんなわけで夫人は彼とは親しく彼のごひいきであることは当然でしょう。そんなわけで夫人の夏の予定がすっかり狂ったのでしょう。まだ便りもないし、私もまだ書きません。

―しかしあの試合の最中に偶然手にした週刊誌L’EXPRESSの8月末のまだ試合中の号で、珍しく劇作家のアラバルがフィッシャー擁護論を寄稿しているのを読んだんですが、その文章の結びがこんな落ちになっていました。スパスキーが「チェスは人生のようなものだ」と語ったことを耳にしたフィッシャーは「チェス、それは人生だ(セ・ラ・ヴィ)とやり返した、というのです。……」

「附録 雑談から」に続く「1972.10.25.1:40」と題された一節では、この記事に掲載された40点余りのメモの間に「一貫した脈絡をさがすことはできないであろう」と結ばれている。さらにこの記事に関わった編集スタッフが、以下のように記されている。

「紙製の遅延=市川英夫/歯車の遅延=定森義雄/写像の遅延=佐々木光+杉田博樹+酒井英昭」。

このスタッフの記載は、『コレクション瀧口修造』第3巻では、本文にも解題にも再録されていない。本文のレイアウトに変更個所があるので、その意味では仕方がないことかもしれないが、以下の引用のとおり、「大ガラス」を「ガラス製の遅延」と定義したデュシャンを踏まえて、わざわざ「遅延」という言葉を並べているのだから、解題にでも再録し、この点に触れられてもよかったように思う。

「ガラス製の遅延
タブローとか絵画の代りに
《遅延》という語を用いる。ガラスに描かれた絵画はガラス製の遅延となる―ただし、ガラス製の遅延は、いわゆるガラス絵の意味ではない。
散文詩とか、銀製の痰壺などといわれるように、ガラス製の遅延というのだ。」(『マルセル・デュシャン語録』より引用)

なお、「附録 雑談から」で言及されたチェス・プレイヤー、ボビー・フィッシャーについては、評伝『完全なるチェス―天才ボビー・フィッシャーの生涯』が出版されている(フランク・ブレイディー著・佐藤耕士訳、文芸春秋、2013年。図17−5)。評伝のほかに、フィッシャー自身が著したチェスの解説書や入門書もある。一昨年にはNHKBSのドキュメンタリー「天才ボビー・フィッシャーの闘い〜チェス盤上の米ソ冷戦〜」も製作され、昨年秋にも再放送されている。ご覧になった方もいらっしゃることだろう。

図17-5『完全なるチェス』図17−5
『完全なるチェス―天才ボビー・フィッシャーの生涯』(文春文庫版)


この番組ではフィッシャーの生い立ちから、チェスとの出会い、独創的な指し手などをふり返った後に、特にティニー・デュシャンがわざわざ観戦に出かけたという、世界チャンピオンであるソ連のボリス・スパスキーとの、アイスランドでの対局について詳しく紹介されていた。

当時29歳の若者だったフィッシャーは、チェスにおいて圧倒的な強さを誇ってきたソ連に対抗できる神童として早くから注目を集め、20数年間ソ連が死守してきた世界チャンピオンへの米国初の挑戦者となった時点では、国家の威信まで背負わされることになってしまった。レイキャビクにおける対局ではニクソン大統領の補佐官キッシンジャーから直々に電話が架かってくるなど、大変なプレッシャーを受け、集中できないまま臨んだ第1局を落とし、第2局も対局場に姿を見せぬまま不戦敗となった。期待を裏切るこうした立ち上がりに加え、もともとの幼児的とも言える奇矯な振る舞いもあって、厳しい批判・非難を浴びることになった。瀧口が「一風変わった態度」「悪役的存在として扱われた」と触れているのは、この頃の雰囲気を反映したものだろう。

ところが、取材をシャットアウトして行われた第3局で戦況は一変した。ここで調子を取り戻して1勝すると、以降は本領を発揮してスパスキーを追い詰め、結局、7勝3敗(11引き分け)で勝利を収めた。ソ連から世界チャンピオンの座を奪取した歴史的な英雄として、賞賛を一身に集めることとなった。

その後のフィシャーの言動は、反米・反ユダヤ的な色彩を強めていった。特に92年にユーゴスラビアで計画されたスパスキーとの再戦に際しては、当局から警告されたにもかかわらず、挑戦的な態度で無視して出国し、対戦に勝利して賞金を得た。この出場と賞金獲得が、ユーゴに対する経済制裁政策に反するとして糾弾され、米国籍を剥奪されるに至った。以降は国際的に流浪する身となり、表舞台から退くことを余儀なくされた。一時は日本に滞在し、2004年には入国管理法違反として成田空港で身柄を拘束されたこともあったようだが、結局、アイスランドで市民権を得て余生を送り、2008年、肝臓ガンで亡くなった。

映像によってこうした生涯を辿る、興味深いドキュメンタリーだったが、デュシャンについては特に触れられてはいなかったようである。
つちぶちのぶひこ

●今日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20160113_takiguchi2014_I_26瀧口修造
「I-26」
水彩、インク、紙
Image size: 31.5x22.8cm
Sheet size: 40.7x32.0cm


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。

「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
ときの忘れもの
blogランキング

ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
ときの忘れもの
ホームページはこちら
Archives
Categories
最新コメント
記事検索
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ