「貴種」に正対する目
            大倉 宏

小野男小野女

左)小野隆生
船が見える場所 I
2008年 テンペラ・画布 170.0×60.0cm サインあり
右)小野隆生
船が見える場所 II
2008年 テンペラ・画布 170.0×60.0cm サインあり

 小野隆生の絵を銀座の資生堂ギャラリーで見たのは、もう10年ほども前だろうか。覚えているのは絵を目にした瞬間に私の足が、すこし震えたことである。
 足は確かにくびすを返して、立ち去りたがっていた。目を銛のように絵に打ち込み、動揺する足を抑えなければならなかった。
 人を描いた絵は、その人の形の板に描かれていた。等身大か、それ以上の大きさ。描かれた椅子に座り正面を、私を向いて、見つめている。まるで人がそこにいるように。それでいて、はっきり絵だと分る符牒も見えている。足が震えたのはそのこと――人がいるように見え、かつ「描かれている」不思議――だけによるのではなかった。なんと言ったらいいのか。まるで若い女房が、初めて宮仕えに出て主の姿を垣間見た気分と語ったらいいのだろうか。つまり人が「貴種」に接して襲われる、おののきを、小野の絵に私は感じたのである。
 『福翁自伝』に、文久元年(1861年)幕府の遣欧使節団の一員としてパリを訪れた体験が書かれている。行灯と米を持参した一行はセントラルヒーティングのあるホテルの明るさに驚き、食堂の「山海の珍味」の量の凄まじさに圧倒される。3年後の派欧使節団一行をパリで写したルイ・ルソーの写真では、ある侍は不自然な笑みを浮かべ、別の侍は髷を切り落としている。当時の日本の貴種が、西欧のあまりのまぶしさに、たじろぎ、誇りを揺さぶられているのが見える。
 貴種とはなにか。それは社会的身分の高さ、経済的富者というばかりではなく、身体に文化の深淵をひそませ、にじませている者だろう。それは一代では生まれない。20歳の小野がイタリアに行ったのは、大阪万国博の翌年の1971年。日本では高度成長が始まろうとしていた時期だから、福沢諭吉らの体験したような圧倒的な経済格差はもうなかった。年譜によれば洲之内徹の現代画廊での初個展のあと、国立ローマ中央修復研究所絵画科に入学し、85年までイタリア各地の教会の古い絵画の修復を手がけている。モデルを用いないという白人種の「肖像」がどのような始まりをしたのか詳らかには知らない。が、背景にこの修復の体験があったのだろうという想像には自然に誘われる。それは共通した身体の特徴を持つ人々(民族ということになるのだろうか)が作り出してきた、文化の深みにじかに、さらに言えば奥底で、触れることだったと思うからだ。小野が描く目の青い白人たちは、幼い者も、そうでない者も、男も女も、そのえも言えぬ落ち着いた気配のなかに、あるいは傲岸と見える顔立ちの者でさえ、その個の集合が過去と現在に生み出してきた文化の途方もない厚みを、深さを、力を、にじませている。そのことに私の身体の最下部、足が、最初に反応したのだった。
 その最初のおののきに耐え、絵の前にとどまり続けるとき、不思議な感覚が訪れてきた。まずそこにいると思える人の、遠さだ。資生堂ギャラリーの絵では実際に人と椅子の形に画面が切り取られていたが、その後の方形の画面でも、人はまるで何かに切り取られ、貼られてあるように見える。柔らかそうなエッジに視線を差し入れると、急角度に回り込んだ向こうに広がる空隙の深さ。背景と人物はそのエッジに切り離されつつ、視覚的にふれているのだが、視覚空間が絵を見つめる者のものであるなら、描かれた人は見えてはいるが、そこに、見つめる私たちの空間にはいないのである。だから人物がこちらを見つめていても、そのガラスのような目が見ているものは、私ではない。それは決して私には見えないのだ、という感覚に襲われる。
 この関係は、近代の日本人と西欧人の関係のアナロジーであり、そこに画家として西欧へ行き、長い滞在の年月の後、奥深い絵画を生んだ土地の人々(貴種)へ差し向けられるようになった、日本人画家の心からの(嫉妬でも羨望でもない)賛嘆と嘆息の視線を認めてもいいのかも知れない。けれど絵を見据え続けるとき、そのような人々を恣に見つめるため設えられた空間の、その堅牢な地面が、足元から私にふれてくる。前屈みになろうとする私の背骨を下方から、その感触が押しのばす。
 近作の絵の、背景の美しさに私は衝かれる。見つめられる「貴種」を容れる、開かれた箱の、けがれない、どこか気高いとさえ言っていい空白の気配が、人影と同じ圧で私を揺する。2006-07年の作品では、空白を満たしていた明るい灰色の雲が薄い綿のように割れ、墨の気配をはらんだ青空が覗いた。そして最近作では浮世絵の天ぼかしのように、濃紺の深淵が人たちの頭を掠めつつ広がっている。鉱物質の生き物の気配を強め始めたこれらの美しい空白を見つめていると、足の震えはいつか消えている。そしてなぜだろう、貴種の人々を見つめるこの私もまた、違う場所の、もう一人の貴種なのだという思いがけない心地がおりてくる。長身の美しい人々を前に、正対して立つ自分の、同じように美しい身体が感じられてくる。
(おおくら ひろし 美術評論家)

『小野隆生新作展2008』展覧会カタログより転載)

大倉宏
1957年、新潟県生れ。1981年、東京芸術大学美術学部芸術学科卒業。1985〜1990年、新潟市美術館学芸員。以後フリーとして、新潟を拠点に美術評論を行う。著書に『東京ノイズ』(アートヴィレッジ 2004)、共著に『越佐の埋み火』(新潟日報事業社 1996)、編集・構成に『洲之内徹の風景』(春秋社 1996)。新潟絵屋代表、砂丘館館長。

*画廊亭主敬白
2008年は小野隆生先生にとって画期の年だった。
初めての自選回顧展を伊東の池田20世紀美術館で開催し、ときの忘れものでも2008年新作個展を開催した。そのとき、カタログに卓抜な小野隆生論<「貴種」に正対する目>を大倉宏さんが書いてくださった。大倉さんのご了解を得て、再録させていただきました。
冒頭の資生堂ギャラリーの展覧会とは資生堂主催の「第四次椿会展」のことで、参加メンバーは大野俶嵩、小野隆生、小嶋悠司、滝沢具幸、中野弘彦、野見山暁治、堀浩哉、村上友晴、百瀬寿、李禹煥、飯田善國、小清水漸、舟越桂、堀内正和、向井良吉、山口牧生だった。

2008年秋、二つの展覧会を終えてイタリアに戻る小野先生を囲み会食会をしたのだが、主賓は瀬木慎一先生だった。瀬木先生は早くから小野先生の才能を認め、池田20世紀美術館での回顧展に尽力してくださったのだが、今年3月逝去された。あらためてご冥福をお祈りします。

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◆ときの忘れものは、2011年11月11日(金)〜11月19日(土)「小野隆生 1976〜2010」展を開催しています(会期中無休)。
小野隆生展DM6001971年にイタリアに渡り、敬愛するペルジーノの故郷で淡々とテンペラによる肖像画を描き続ける小野隆生の1976年初個展(洲之内徹の銀座・現代画廊)から今日までの軌跡をたどります。