中村惠一のエッセイ

中村惠一「新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)」第1回

中村惠一の中村式落合散歩「新宿・落合に住んだ画家たち」へのご案内

 新宿・落合地域はJR山手線の目白駅、高田馬場駅、西武新宿線の下落合駅、中井駅、新井薬師前駅、地下鉄東西線の落合駅、都営大江戸線の落合・南長崎駅といった点を結んだような地域となる。新宿ではもっとも北西部に位置し、豊島区と中野区に接している。落合には神田川と妙正寺川が流れ込んでおり、その二つの河川が合流する場所があったので落合という地名が残った。江戸時代には蛍の名所であったようだ。東京郊外にひろがった林や田や畑がひろがる田舎であったようで、名物は大根と枝柿であったという。このことは日本画家にして民俗学者でもある橋浦泰雄が自伝である『五塵録』に書いている。橋浦ははじめ早稲田に住んでいたが、落合を通りぬけて上高田の寺に下宿した。大正年間のことである。

 落合の田園風景の中にアトリエを備えた住戸が建ち始めたのは大正10(1921)年あたりから。初期の住人は、中井駅のそばにアトリエを建設した金山平三、現在の聖母病院のそばにアトリエを建設した佐伯祐三、そのそばに住んだ鶴田吾郎、少し目白駅よりには中村彜が住んだ。亡命中の盲目の詩人エロシェンコを鶴田吾郎と中村彜が描いたのは下落合の中村彜アトリエである。開放的な田園風景、おそらくは地代や家賃が安価であったことが初期の住人をこの地に呼んだのだろう。また、大正12(1923)年の関東大震災の被害が落合地域では軽微であったこともあって、その後多くの転入者を迎えることになったのだろう。加えて大正期は、都市への人口流入が激しい時期であり、郊外の開発は喫緊の課題でもあった。そうした背景で落合には住む人が増え、目白文化村のような宅地が開発され、画家や文学者もこの地域に住んだのであった。

 私は杉並区の妙法寺のそばから落合地域に転入した。意識したわけではなかったが、この転入ルートはのちに『放浪記』がベストセラーになる作家、林芙美子と同じような引越ルートであった。林芙美子は昭和5(1930)年に先住していた作家、尾崎翠の紹介により上落合に越してきた。杉並の妙法寺からであった。越してきた当初、散歩先には佐伯祐三のアトリエ公園があった。しばらくして、瀧口修造が西落合に住んでいたことを思い出して、その場所にオリーブの木を探しにゆく散歩を思いつく。次にはマヴォの村山知義の三角のアトリエの跡地を訪問した。こうして一歩ずつ落合に住んだ画家、文学者などの足跡を訪ね歩くようになった。これを私は「落合散歩」と呼んで楽しんでいる。

 今回はこうして訪問したうち画家の足跡にのみ限定して散歩を楽しんでいただきたいと思っている。散歩にむけての装備は整いましたか。準備運動は十分ですか。それでは「落合散歩」に出発します。皆さんご一緒に!


新宿・落合に住んだ画家たち(中村式落合散歩)
第1回 佐伯祐三


私が落合に越してきた最初期のころ、近所を知るために散歩した際にみつけたのが佐伯公園であった。西武新宿線の下落合駅をおりて上落中通りを北に坂を上ってゆくと聖母病院があり、その北側の路地を西に入った静かな場所にその公園はあった。もちろん佐伯祐三の名前も作品も知っていたが、パリを描いた激しいタッチの絵が佐伯作品だと思っていたので、日本では新宿のこんな場所に住んでいたのだなと思った程度であった。そのころは古いアトリエのみが小さな公園の中に建っていた。母屋はすでになかった。現在ではアトリエは整備されて「佐伯祐三アトリエ記念館」となっており、中に入って映像や資料を見ることができるし、別棟ができて資料や絵葉書の購入もできるようになった。その分、当時のアトリエの雰囲気は少し薄れてしまった。

1
2佐伯祐三アトリエ

大阪出身の佐伯祐三は大正7(1918)年に東京美術学校・西洋画科に入学する。在学中に池田米子と結婚、翌年(大正10年)に下落合661番地に建設したのが現在の中落合2−4−21に残るアトリエつきの母屋である。アトリエをとても気にいったようであるが、主はここに長くは住まなかった。学校を卒業した大正12(1923)年に佐伯一家はフランスに向かったからであった。渡仏の準備の最中に関東大震災があった。落合は被害が少なかったとはいえ、大変な事態である。それでも佐伯夫妻と娘の彌智子はマルセーユゆきの船でフランスに向かった。パリで佐伯は精力的に描いた。モーリス・ブラマンクと出会い、作風を変えるくらいの衝撃も受けた。体調を崩して帰国をすることになった佐伯はパリでの友人たち(前田寛治、里見勝蔵、小島善太郎、木下孝則)と1930年協会を作る。その第一回展覧会は佐伯にとっては展示点数は多くはないが、パリでの2年間の成果展の態であった。巴里風景とベニス風景が展示された。佐伯一家が帰国したのは大正15(1926)年2月のことであり、第一回展覧会は大正15(1926)年5月15日から24日に開催された。

青梅市立美術館で平成6年10月に開催された「昭和洋画の先達たち 1930年協会回顧」展のカタログには詳細な出品記録が掲載されている。面白いのは昭和2(1927)年6月17日から30日に開催された第二回展覧会である。パリの街、広告看板などを激しいタッチで描いた佐伯が新たなモチーフとしてみつけたのはアトリエ周辺の「下落合風景」であった。この第二回展覧会で佐伯は下落合風景作品(目録では「落合村風景」と題されているが)5点のみの出品となっている。郊外の建造物は平屋または二階建てまでで垂直線に乏しい。しかし佐伯は電柱を垂直線としてアクセントをつけながら下落合の風景を描き出している。また、アトリエ近くにある小学校裏の斜面のスキー場やテニスコートなどもモチーフにされた。佐伯といえばパリの街角というイメージが私の中でも出来上がっていたが、落合の当時を描いた佐伯のタブローがあるのを知ってうれしかった。佐伯はモンタージュしたり極端なデフォルメをしたりしていないので、今も描画しただろう場所にたつとタブローに描かれた地形を感じられるのも不思議な経験である。何か所かでそのような感覚を味わうことができた。
3
アトリエ内に展示されている「落合風景」の資料

昭和2(1927)年8月に一家は再度フランスに向かう。昭和3(1928)年2月11日から26日に開催された第三回展覧会には佐伯は出品していない。第二回展覧会での佐伯の下落合風景が刺激的であったのか、他の応募作品に多くの東京郊外風景作品が含まれていた。例えば藤田嘉一郎の「下落合風景」や丸田喜八の「落合風景」、南風原朝光の「長崎町風景」、宮崎節「文化村風景」、森田正中「石神井風景」、小野省二郎「落合風景」、佐久間周宇「落合の工場」などである。パリで旺盛な制作生活をしていた佐伯であったが、昭和3(1928)年8月16日に佐伯は息を引き取る。娘の彌智子も病気によってほぼ同時期になくなったため、妻の米子のみが残されてしまった。第四回展覧会が開催されたのは昭和4(1929)年1月15日から30日の期間、会場は東京府美術館であった。追悼展示ともいえる展示は第八室すべてを使用した。佐伯作品はパリでの成果89点が展示された。
4
5
       
現在私が住んでいる場所のすぐ北側に大正末には外山秋作邸があった。外山秋作の息子は外山卯三郎。築地小劇場の演劇にかかわり、マヴォの村山知義と知己であった北海道帝大予科の学生である。その後京都帝大に進学し、昭和3(1928)年に卒業している。卯三郎は1930年協会にも参加していた。この外山邸に第二回渡仏後の佐伯のタブローのすべてが送られ保管されていた。佐伯アトリエには留守を守る形で洋画家の鈴木誠が入っていたので米子が配慮したのかとも思っていたが、考えてみれば第四回展覧会のために卯三郎が展示のための準備を含めて引き受けたとすれば、矛盾がないと思う。いずれにせよ、第二次渡仏の際に描かれたほとんどの作品が私の現在住む場所の近くにあったかと思うと不思議な感じがする。ちなみに卯三郎は後に前田寛治の研究書や画集を出版し、三岸好太郎の画集、瑛九のフォト・デッサン集『眠りの理由』を出版する。

結局、佐伯は下落合のアトリエに通算4年間くらいの間しか住んでいない。しかし帰国した佐伯米子は昭和47(1972)年までここに住んだ。下落合風景のタブロー作品とかわいいアトリエ、2種類の遺産を佐伯は落合に残してくれた。
6佐伯アトリエの内部
なかむら けいいち


中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
・略歴
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)

●本日のお勧め作品は、一原有徳 です。
ichihara-01一原有徳 Arinori ICHIHARA
《SEN》  
1977年  銅版
65x50cm
Ed. 100  サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
12

中村惠一「『光画』と新興写真 モダニズムの日本」観覧記

「『光画』と新興写真 モダニズムの日本展」観覧記                               

中村惠一


 東京都写真美術館で開催されている「『光画』と新興写真 モダニズムの日本展」は、1920年代末から30年代にかけて隆盛した日本における写真のモダニズム表現を見てゆくうえで極めて重要な雑誌『光画』に掲載された写真をできるかぎり見せているという点で、また『新興写真研究』というなかなか現物を直接に手に取って見ることがかなわぬ書籍が見られるという点で注目に値する展覧会である。しかし、それはモダーンフォトに関しての基礎的な知識や歴史経緯の認識があって初めて貴重さがわかるのであって、一般的にはそれを理解しておけというのはさすがに酷であり、その認識を前提に写真作品だけを並べてしまうのは少々乱暴すぎると思ったのだった。たとえば、新興写真が日本に紹介されて受容される前史、その際の状況や受容にいたる歴史的、思想的な背景などを簡単でもいいので説明しておかないと理解が浅いままで終わってしまう可能性が高い。多くの観覧者は「古いけどかっこいい写真だな」と思いながら見るだけで終わってしまっていないか。展示全体を通じて解説の不足が見る者に対して結果的に不親切になってしまっているように感じた。

01『光画』第1巻第1号
1932年
聚楽社


 私にとって『新興写真研究』は手にとってみたい書籍の常に上位にあった。新宿・西落合地域に本社をおいたオリエンタル写真工業が発行していた雑誌『フォトタイムス』。その編集主幹であった木村専一が中心になって始めた「新興写真研究会」が発行したアンソロジーが『新興写真研究』である。ちなみに主にヨーロッパの新興写真を受容し、その紹介のために「モダーンフォトセクション」というコーナーを作ったのは雑誌『フォトタイムス』であった。落合地域の文化史を調べている私にとってオリエンタル写真工業も『フォトタイムス』も「新興写真研究会」も調査の対象である。その『新興写真研究』現物が展示されている。手には取れないが貴重なそのページを覗くことができた。また新興写真研究会の会員であった飯田幸次郎の作品が『新興写真研究2』には掲載されていた。飯田は『フォトタイムス』と『光画』を主たる発表の場にした写真家である。従い、『光画』掲載の作品を展示する今回の展示においては重要な作家の一人である。だが飯田は『光画』終刊時期に行方不明になり、生没年もわからない状態であった。最近の調査によって戦後も写真館をもって東京で暮らしていたことはわかったのだが、戦前のプリントもネガも結局発見されなかった。そこで今回の展示では、ばらした雑誌『光画』のページ現物を額装して展示していた。野島康三が発行した雑誌だけあって、印刷も紙質も素晴らしい。さすがにヴィンテージプリントと並べると違和感はあるものの、展覧に耐えうるものであった。ただし、印刷物をそのまま展示した旨の説明はあった方がよいように思った。飯田の写真もプリントだと思ってみている来場者が多かった。新興写真という概念は『光画』に掲載されたような傾向の写真領域よりもはるかに広い範疇を対象にしていた。それは『フォトタイムス』誌上で多くの論客が説明しているところである。従い、仮に今回の展覧会で新興写真の広がりを見せる意図があるならば展示に不足があるものと思う。たとえば堀野正雄は『フォトタイムス』では築地小劇場の舞台写真から板垣鷹穂が展開した機械美学の実践写真まで理論と実作双方を受け持ちながら展開した。だが、『光画』に発表した写真を見るとその作風ではないものを掲載している。あきらかに作品展開をわけているのだ。今回の展覧会は1931年に開催された“「独逸国際移動写真展」による新興写真の受容と雑誌『光画』の展開”というパースペクティブなのだろうが、その流れも説明がないと分かりにくいのではと危惧する。たしかに、国際光画協会の村山知義や岡田桑三が持ち込んだこの刺激的な展覧会は、のちに『光画』の主力メンバーとなる安井仲治や木村伊兵衛にも大きな衝撃を与えた。この展示がなければ『光画』はなかったのかもしれない。今回の展覧会では、それをヤン・チヒョルトがまとめた作品集『フォトアウゲ』と木村専一がヨーロッパから持ち帰ったモダーンフォトの当時のプリントを導入部に据えていたが、これも経緯を知る人が見なければ、なぜここにヨーロッパの写真が展示されているのか理解できないのではと心配になった。モダーンフォトはヨーロッパからもたらされ当時の日本に受容された。日本国内で独自に発展をし、雑誌『光画』という成果を結実する。しかし新興写真はここをピークとして衰退する。それは世界が戦時体制に向かっていったためだ。写真はプロパガンダの道具にされてゆく。戦争での中断はありながら新興写真の表現傾向は継承され、戦後のドイツで「サブジェクティブ・フォトグラフィ」という概念で復活した。そしてリアリズムと融合しながら新たな表現の模索が現在に向かって続いた。ぜひ、大きな文脈を理解しながら見ていただきたい展覧会ではある。
なかむら けいいち

中村惠一(なかむら けいいち)
北海道大学生時代に札幌NDA画廊で一原有徳に出会い美術に興味をもつ。一原のモノタイプ版画作品を購入しコレクションが始まった。元具体の嶋本昭三の著書によりメールアートというムーブメントを知り、ネットワークに参加。コラージュ作品、視覚詩作品、海外のアーティストとのコラボレーション作品を主に制作する。一方、新宿・落合地域の主に戦前の文化史に興味をもち研究を続け、それをエッセイにして発表している。また最近では新興写真や主観主義写真の研究を行っている。
■略歴■
1960年 愛知県岡崎市生まれ
1978年 菱川善夫と出会い短歌雑誌『陰画誌』に創刊同人として参加
1982年 札幌ギャラリー・ユリイカで個展を開催
1994年 メールアートを開始
1997年 “Visual Poesy of Japan”展参加(ドイツ・ハンブルグほか)
1999年 「日独ビジュアルポエトリー展」参加(北上市・現代詩歌文学館)
2000年 フランスのPierre Garnierとの日仏共作詩”Hai-Kai,un cahier D’ecolier”刊行
2002年 “JAPANESE VISUAL POETRY”展に参加(オーストリア大使館)
2008年 “Mapping Correspondence”展参加(ニューヨークThe Center for Book Arts)
2009年 “5th International Artist’s Book Triennial Vilnius2009”展に参加(リトアニア)
2012年 “The Future” Mail Art展企画開催(藤沢市 アトリエ・キリギリス)
---------------------------------------------
●展覧会のご紹介
koga-1koga-2

「『光画』と新興写真モダニズムの日本」
会期:2018年3月6日[火]〜5月6日[日]
会場:東京都写真美術館
時間:10:00〜18:00 ※木・金は20:00まで(入館は閉館の30分前まで)
休館:月曜日(ただし、4月30日[月・振休]、5月1日[火]は開館)

【関連イベント】
2018年4月22日(日) 14:00〜15:30
講師:飯沢耕太郎(写真評論家)
定員:50名(整理番号順入場/自由席)
会場:東京都写真美術館 1階スタジオ
入場料:無料/要入場整理券
※当日10時より東京都写真美術館1階総合受付にて整理券を配布

担当学芸員によるギャラリートーク
2018年4月20日(金) 14:00〜
2018年5月4日(金・祝) 14:00〜
会期中第1・第3金曜日14時より展示解説を行います。
※本展覧会のチケット(当日印)をお持ちの上、3階展示室前に集合

光画と新興写真『『光画』と新興写真―モダニズムの日本』
2018年
国書刊行会 発行
230ページ
30.4x23.3cm

目次:
・序
・第1章 同時代の海外の動き ノイエ・フォトグラフィー、ニュー・フォトグラフィー
・第2章 新興写真
・第3章 新興写真のその後
・第4章 『新興写真研究』全巻収録
・新興写真とはなんだったのか 藤村里美
・視覚文化史における『光画』とその周辺 その領域横断性の意義 谷口英理
・作家解説
・作品リスト
・論文英訳

出品リスト
リスト1


リスト2


リスト3


リスト4


〜〜〜〜〜
光画傑作集『光画傑作集 日本写真史の至宝 別巻』
2005年
国書刊行会 発行
144ページ
20.0x15.0cm
監修:飯沢耕太郎、金子隆一

日本写真史に画期を刻んだ幻の雑誌『光画』の魅力を示す全口絵と主要テキストを収録
野島康三、中山岩太、木村伊兵衛、伊奈信男、堀野正雄、安井仲治、原弘、中井正一、板垣鷹穂、長谷川如是閑…

●本日のお勧め作品は中山岩太です。
nakayama_02中山岩太
「無題(パイプとグラスと舞)」
1932年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
23.0x29.0cm

nakayama_03中山岩太
「作品名不詳(マスク)」
1933年(Printed later)
ゼラチンシルバープリント
23.0x21.0cm

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
12

メールアート展〜中村惠一

Mail art project THE FUTURE

              中村惠一

会期:2012年6月16日(土)〜7月1日(日)
会場:藤沢市 アトリエキリギリス

メールアート。郵便というプロセスを利用したり、郵便物に偽装した美術作品を作り、届ける密かな行為。フルクサスのアーティストであるレイ・ジョンソンはそれを「メールアート」と呼んだ。メールアートのネットワークは世界にひろがり、常にアクティブに動き続けている。藤沢のアトリエ キリギリスという魅力的な空間を6月16日から7月1日の期間(月・火休み 12−18時)メールアートが埋める。3.11以降の世界にあって今「未来」を問いたいと思った。世界のアーティストがどのような「未来」を表現するのかを見たいと思った。テーマは「未来」、郵便で送ることができるもの、だけを条件に無償で作品を送ってくれるよう依頼した。結果さまざまな国の100名を超えるアーティストから作品が届いたのであった。どんな未来が郵便で届いたのか、あなたに目撃者になってほしい。

 今回はアトリエ キリギリスに私がアーカイブしている過去のメールアートの閲覧室も出現する。ここでは郵便物に偽装したアートの実態を垣間見ることができるはずだ。封筒、切手、消印など郵便物を構成するエレメントのふりをアートがする、その偽装・擬態のさまを見ていただく。郵便物のふりをしたアートは郵便物に間違えられて私の郵便受に投函される。その瞬間に私の郵便受は美術館に、ギャラリーに変る。メールアートの本質は日常の生活現場にアートが直接に割り込んでくることにこそある。初日16日の14時から会場で現物を見ながらの解説を私が行う。過去何度かメールアートについて話したが、今回初めて現物を使っての解説となる。そして、私もまだみていない「未来」たち。それもぶっつけで解説してみたい。私の口からどんな言葉が出てくるのか自分でも楽しみである。
(なかむらけいいち)
P10301743イメージ (11)600横

*画廊亭主敬白
大阪に単身赴任の中村惠一さんから「Mail art project THE FUTURE」展の案内状が届いた。
中村さんには何度も名文を書いていただいている(日和崎尊夫展西脇順三郎+飯田善國展ジョナス・メカス展)。
ブログ「中村惠一の落合雑記帳」がまた凄い。
1920〜30年代の文化史の研究者であり、コレクターであり、メールアーティストである。もちろん有能なサラリーマンであり、愛妻家である。
ときの忘れもののお客様には、ん十年の方も少なくないが、中村さんも古い。なにせ1977年に亭主が渋谷桜ヶ丘のマンションなどで開催していた「現代と声」連続シンポジウム(菊畑茂久馬、高橋悠治、原広司、廣松渉、真継伸彦、見田宗介)に学生時代に参加していたというのだから。
お忙しい中でのご執筆、中村さんありがとう。

「リトアニアへの旅の追憶」を見て 中村恵一

「リトアニアへの旅の追憶」を見て  中村惠一

 ジョナス・メカスは映画の数コマをプリントした作品を「フローズン・フィルム・フレームズ」=「静止した映画」とよんでいるが、今回の上映はヴィデオでもDVDでもなく、16ミリのフィルムであったところに意味があったように思う。なにより、改めて映像の力を思い知らされたのは、同じ位置に上映され続ける小さな光の四角のフレームを87分にもわたって観客すべてが見続けたことである。同様なことを絵画や写真に求めることは、ほぼ不可能であろう。フィルムで上映したことによる意味のひとつに、映写機の構造がある。映写機にはシャッターがあるので、実際には動いて光り続けているように見える画面が実はかなり闇ばかりなのだ。一瞬の光とほとんどの闇の連続が映画の本質なのである。つまり、フィルムの場合には我々は闇を覗いていることになる。暗闇の中に自らをおいたことがあるだろうか。完全な暗闇の場合、人によっては根源的な恐怖を感じることもあるだろう。しかし一方、暗闇は我々の視覚以外の感覚を研ぎ澄ますことになる。そして、いわゆる感覚レベルではなく、思考レベルでの感覚を研ぎ澄ますことにもなる。闇におかれていると深い思索へと自然に入ってゆくことがある。フィルムを使って暗闇の中で映写機によって上映を行うことは、観客が映像を受け取るばかりではなく、その映像について考えるという物理的な機会を与えていることに他ならないのだと思う。ここにフィルムで上映を行う意味があったのだ。

 87分に及ぶ映画のほとんどは、メカスの個人的な知己の日常的な情景の連続である。メカスは「幸せな場面だけを撮影したい」とどこかで述べていたが、フィルムの中のたとえば母親や兄弟、親族たちは水を汲み、火を焚き、食事を作り、歩き、大気を感じているのだ。つまり「生きている実感」だけが積み重ねられている。メカスにとって生きる=撮影する事だったのだろうし、フィルムの中にこそメカスの生の記憶が込められているのだろう。そうした個人的なフィルムを見るのはどういう感じなのだろうかと思ったが、これが不思議なほどに違和感なく、面白いのはどうしたことだろうか。もう一つ面白かったことは、ほとんどメカスがモンタージュやフェードを使っていない点だった。小手先で意味をつなぎたくはなかったのだろう。16ミリのムービーキャメラはマガジンに制約があって、短い時間しか撮影ができない。そうした制約を逆に武器にしているのは、まるで日本の定型詩のようだ。16ミリフィルムは1秒間に24コマの写真を撮影する。87分間ということは、5,220秒、125,280枚の写真を観たことになる。その膨大な量の写真たちにゆっくりとしたメカスの言葉がかさねられてゆく。その言葉のどれもが私には詩としてしか聞こえなかったのだった。(なかむらけいいち)

メカス 母ジョナス・メカス Jonas MEKAS
「エルズビエータ・メカス、わたしの母、リトアニア、1971(リトアニアへの旅の追憶)」CIBA print
35.4×27.5cm
signed

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

画廊亭主敬白
前回企画展「ジョナス・メカス新作写真展」では、詩人・吉増剛造さんのギャラリートークと、メカスさんの映画「リトアニアへの旅の追想」の上映会を開催しました。
その両方に参加してくださった中村惠一さんはメール・アーティストとしても活躍されています。中村さんのブログをご覧ください。
この「コレクターの声」にも以前執筆していただきました(日和崎尊夫展詩画集『Chromatopoiema(クロマトポイエマ)』展 詩・西脇順三郎、画・飯田善國)。

「色彩の海あるいは渦巻く言葉の川/詩画集Chromatopoiema展」中村惠一〜コレクターの声第4回

「色彩の海あるいは渦巻く言葉の川/詩画集Chromatopoiema展」

中村惠一


飯田展DM

 詩または言葉、つまり詩句においては、いくつかの性格の異なる側面がある。通常、我々は詩を意味という側面で読み、解釈をする。詩集を黙読しながら、その意味を読み取っているという状態である。通常、詩を読むといった場合には、こうした行動を想像するであろう。
 だが、詩は音でありリズムである。詩は音読できる。音読されることで具体的なリズムが生まれる。このように詩の音の側面に重きをおいた場合、ポエトリー・リーディングとかサウンド・ポエトリーとかよばれるパフォーマンスになる。
 一方、詩、言葉、文字は形をもっており、その形そのものにポエジーは内包されている。また、その形を組み合わせたり、集積したりすることで造形が創造される。このように詩の形の側面に重きをおいた場合、コンクリート・ポエトリー(具体詩)とかヴィジュアル・ポエトリー(視覚詩)とよばれる表現になる。音素であるアルファベットではなく、象形文字である漢字を母国語の一部として使っている日本人には、文字の形態的な側面に注目する造形は親しみやすいのではないだろうか。それは、たとえば人の顔の輪郭を描いた中に目、耳、鼻、口を配置することによって顔が描けてしまうというように。
 このように、言葉を素材としたアートである詩は言葉の音、形、意味のそれぞれの側面に特化してみることによって様々な表現を獲得したのだった。

 『Chromatopoiema(クロマトポイエマ)』展を見た。詩人・西脇順三郎の英語詩18篇に対するは彫刻家・飯田善國。1972年に刊行された二人の詩画集である。詩画集と名付けながら通常の詩画集のようなつくりではない。フリージャズのセッションのようにコラボレートしているのだ。これは、飯田が「絵と詩をまったく同格にして結合するにはどうしたらいいか」と悩み続けた結果獲得できた、過去にまったく類例のない対象化手法の発見であったのではないかと思うのだ。もちろん悪戦苦闘の末の発見だろうが、アルファベットを色彩に置換して絵画の中に構成することをみつけだした。
 詩句に色彩という新たな側面が与えられた瞬間である。26個のアルファベットが26色の色彩になる。詩は色から発生する新たなリズムを紙面上に生み出していく。画面にちりばめられた英語の詩句が割り当てられた色彩に置き換えられ、お互いに干渉をはじめる。その干渉や構成の様子は30年以上を経過した今でも新鮮に見える。詩が、文字が色彩の海をうみだしていく。色は波をうったり、渦をえがいたりしながらリズムをもった造形を形作り、そこに新たなポエジーを生み出すにいたっている。しかし、面白いのは、この造形は彫刻家である飯田善國が作りあげたのではなく、詩人である西脇順三郎の詩句によって作り上げられる点である。彫刻家はきわめて厳格にルールを守っている。メソッドを重視し、「方法」的に表現を尖らせている。それによって、「詩」そのものが彩られた平面に変化したのであった。
 このアルファベットを色彩に置き換える手法は、飯田に新たな展開を準備した。『Chromatopoiema(クロマトポイエマ)』の立体化である。ステンレスの造形と色のついたナイロンストリングによる彫刻の誕生である。これらの彫刻は飯田の代表作としてなじみのある作品ではないかと思うのだが、原点は平面、しかも実際の詩の言葉を色彩におきかえるというコラボレーションが出発点であった。飯田の色紐を使った彫刻は彼の詩であり、彼の世界認識の具体的な表現であり、言語的な主張でもある。色のついた紐は文字にあたり、文字の構成は詩句を生む。詩句には、冒頭に記述したように意味、音、形の側面があり、それがもともとの造形との関係で世界を構築する。その重層的な表現が飯田の彫刻による「詩」であったのだと私は読んだ。

2006年8月23日    
なかむらけいいち

クロマトポイエマ


飯田善國展


飯田展かげ


*画廊亭主敬白
前回の日和崎尊夫展に続き中村さんに寄稿していただいた。
怠惰な画廊亭主の感慨を記せば、8月18日〜9月2日の会期で開催中の<西脇順三郎・飯田善國 詩画集Chromatopoiema展>で、私自身はじめてこの作品の全貌を知ることができた。
この詩画集が出たとき(つまり30年前)私の大切な顧客であった詩人F氏に頼まれ飯田先生からこの詩画集を直接わけていただき、F氏を飯田先生のアトリエにご案内したことがある。
詩の言葉を色に置き換えるアイデアにいたる経緯を作品を見せながら飯田先生が熱心に説明してくださったのだが、なにせ大きな詩画集で全部を広げられない。全体像がわからずこの詩画集のすばらしさを実感できなかった。
その後、別のコレクターから入手した「詩画集Chromatopoiema」はながくときの忘れものの在庫としてしまいこんだままだった。
今回はじめて全部を展示することができ、30数年前の作品とは思えぬ新鮮な迫力に圧倒された。
不明を恥じるばかりである。
ときの忘れものの大きな窓からはいる光がときどき思わぬ外の風景を映し出す。
自然の光に満ちたこの空間で、飯田先生の色彩が躍動する、既に故人となられた飯田先生、F氏のお二人を偲んで日々のうつろいを楽しんでいる。

「静かの海に咲く花の・・・・日和崎尊夫展」中村惠一〜コレクターの声第3回

日和崎尊夫展DM


 最初は女性が普通にこちらを向いているアップ。でも息を吐くと大きな泡があらわれる。それによって女性のまわりを実は「水」が満たしていたのがわかる。最近見たテレビCMの中でとても印象に残ったものだ。一体何のコマーシャルだったのだろう、それ自体は覚えていないのに、我慢できずについに水の中で息を吐き出すシーンは忘れることができない。この一見、トリックのような映像に日和崎尊夫の一連の木口木版画をかさねてイメージしていた。

 私にとって日和崎作品のイメージは「海」である。同じ木口木版であっても柄澤齊の作品には「宇宙」とか「空中」とかを感じるので、海のイメージは木口木版が根源的に内包しているものではなく、日和崎が抱えているイメージなのだろう。日和崎の作品を見る時、たとえモチーフが花であったとしても周囲に水を、海を感じていた。

 今回の日和崎尊夫展で、久しぶりに彼の作品をまとめて見たように思う。私が日和崎の作品を見ていたのは80年代前半、場所は札幌と東京と半々くらいだったろうか。その多くはギャラリーに飾られた木口木版作品としてみたが、ごく一部は雑誌などの扉作品や本の装丁などの印刷物としても見ていた。このたびの展覧会では「旧友」に久しぶりに再会したような懐かしく、楽しい気分になった。

 同じ木版画なのに、板目木版と木口木版とはまったく異なる世界を出現させる。板目木版の場合、正目を使う。自然木でいえば、もっとも成長の早い伸びしろの大きな部分が正目である。正目はともかくのびのびしている。木の状態では垂直になっているものを版画では水平において使う。一方、木口木版の場合、もっとも成長が遅く、伸びしろのないのが木口である。したがって硬い。木のなかの「おしん面」なのである。ともかく苦労している。立ったままの木を水平にカットして、そのまま版画の面として使うのが木口木版である。だから自然の摂理から考えると倒錯がない。もっとも自然な状態なのである。日和崎は特に椿を版木に使った。木口で切断された椿には時に割れもあったが、その割れも作品の一部として使う度量が日和崎にはあったし、黄楊ほどには硬くない椿の切断面をきれいに金属でいえば鏡面に磨きあげる作業を惜しまなかった。木口が苦労している「おしん面」であるなら、これを使う版画家も下準備に徹底して苦労する。この工程なくして木口木版作品の深さはでない。この磨きあげた面に黒いインクをのせて刷ると漆黒の闇がプリントされる。それは深い深い闇であるが、日和崎の闇は、私にとって果てしない海である。

 銅版画つまりエングレービングの場合、光る金属面をさらに刃物で削る。すると、さらに輝く面が光をはじく。目に痛いほどである。だが、これを刷る場合、インクは輝く溝に入り込み、黒い刻み線としてプリントされる。左右の逆転とともにネガとポジの転換が生じる。木口木版の場合、左右逆転はあってもポジはポジのままである。硬くそして滑らかに磨かれた面に黒い海を孕ませ、刻んだ一本一本の線が光となって輝き始める。聖書には「はじめに光あれ」という言葉があり、世界のはじまりの前に光が生まれたということであるが、光がうまれるためには闇が必要であり、日和崎はまさにこの世界の生成を小さな木口という版木の上に形成していった。そして、その小さな宇宙は無音の海であり、海には生命のはじまりや生命の終わりが潜んでいる。日和崎は彼の代表作を『KALPA』と名付けている。KALPAとは古代インドの時間の永遠さを表す言葉。天女が百年に一度降りてきて羽衣でこする、これを繰り返して7km四方の石がなくなる時間というのだから無限ということだろう。生命の誕生からはじまる命をつなぐ無限の時間を日和崎は感じていたのかもしれないと思った。
                      2006.8.3.  (なかむらけいいち)

*「闇を刻む詩人 日和崎尊夫展」2006年7月21日〜8月5日

日和崎尊夫KALPA-69
日和崎尊夫「KALPA-69」

日和崎尊夫KALPA-74
日和崎尊夫「KALPA-74」
ときの忘れもの
blogランキング

ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
ときの忘れもの
ホームページはこちら
Archives
Categories
最新コメント
記事検索
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ