石山修武のエッセイ

石山修武 銅版を彫る〜世田谷村日記抄

異形建築巡礼_2

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*画廊亭主敬白
高みの見物どころではなく、予告もなく上掲「お知らせ」をいただいてから、「ついては後の始末はワタヌキさん、よろしくね」と勝手にボールを投げられてしまいました。

亭主と石山修武先生とははるか昔、飯田橋にあった「憂陀」というバーのカウンターの端からなるべく眼を合わさぬよう飲んでいた頃からだから、もう半世紀近くなります。
磯崎新先生の展覧会やその後の会食でご一緒することはあっても、あの怖い親分と仕事をすることになるとは夢にも思いませんでした。
きっかけは、雑誌『室内』の主宰者山本夏彦さんが亡くなり、唯一の男性編集部員だった塩野哲也さんが独立して事務所を開き、石山先生の画文集をプロデュースしたことでした。石山先生がご自身のブログで日々書き続けている「世田谷村日記」を本にしたい、ついてはそれに入れる銅版画をときの忘れものでエディションしてくれまいか、という塩野さんの提案にうかうかと乗ってしまったのがそもそもの間違いでありました(涙)。
塩野さんの編集で〈石山修武 画文集 世田谷村日記 ここになまみの建築家がいます〉が刊行となり、それに合わせて2004年9月にときの忘れもので「建築家・石山修武展 荒れ地に満ちるものたち」を開催いたしました。

以来、10数年、時に中断はするものの、興にのれば日がな一日銅版に向かう石山先生であります。
その次第はときの忘れもののブログの比ではない膨大な読者を持つ「世田谷村日記」に克明に記されています。
うっかり閲覧をサボると、とんでもない方向から「石山さん、銅版にかかりっきりのようですね。ワタヌキさんがけしかけているんでしょう」などとあらぬ嫌疑をかけられてしまいます。
「いえいえ、あれは石山先生が勝手に」などと言おうものならさらに厳しい紙つぶてが飛んできそうです。

突然呼び出しを受けて「歩かなアカンで」と説教されたのはいつのことか。
あれからどんどん事態は悪化(いや展開)して・・・・・・

まずは、石山先生の日記の抄録をお読みください。
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石山修武 銅版を彫る〜世田谷村日記抄

●2016年8月19日
0102石山修武スケッチ


0304


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●8月20日
昨日の日記780に記録した「銅版画」のエスキス、スケッチについて、それを言葉に置き換えておきたい。
「銅版画」は295mm*365mmの銅板2枚を彫り、中途でほうり投げている。このまんま続けようにもどうしても続けられないからだ。[1]はほぼ彫り終わった感があり[2]は彫り始めたばかりである。1から彫り始めたから、ここ数年の不可解な気持ちの中のモヤモヤが全てこの習作(エスキス)状の中に在るのだろう。モヤモヤの最大は「なんでこんな事再開してるんだろう」に尽きる。なんでこんな銅板彫りしようとするのかは実はなんで生きようとするのかにつながる。若いねえと思われるやも知れぬが、突きつめて考えればそうなる。1日1日の人間たちの暮らしだって要約すれば二つの世界しかない。「眠る」と「起きている」である。起きている間に様々な事を成しているようにも思うが考え詰めればやはり「起きている」に尽きてしまう。歩いたり、何やらの目的で動いたりもするのだけれど、それはたいした事ではない。起きているは要するに動いているに同じだ。もっと正確に言えば眼に見えて動かずとも静止して何やら考えようとの状態も含められよう。起きている時の大半のそんな動きは、ようするに眠るための準備の動きでもある。フロイトはそれを無意識あるいは夢と名付けようとした。フロイトよりも夢に対する考えが深く、一見神秘主義者らしきでもあったユング*1はそれを曼荼羅と、呼んだ。ユングの曼荼羅は静的で形而上学の世界に属してもいた。 *1 とされる、付記したほうが良かろう
南方熊楠の曼荼羅はより人間の思考の中の動きが描かれているが、その動きに対する論はない。図像として表現されているそれ等はアニミズム*2の世界である。 *2アニミズムに関しての論考はアニミズム紀行5,6,7,8絶版書房で述べているが、未来に対しての論述を要約すれば、それはアニミズム=想像の秘密である。

「銅版画」彫りは無意識の、深いか浅いかはわからぬが底へと降りてゆく作業であり、その作業の結果としての表現である。
途中でほおりだした[1]の図像について簡潔に述べる。
この山という漢字による表意文字に似た図像は山という表彰文字に似せた「建築世界」の長くなりそうな表現作業の入り口らしきは、どうしても「建築世界」になってしまう。その世界に50年ほども入り込んでジタバタしていたから、謂わば尾骶骨である。
正直に言ってしまえば、この図像は3本の塔と、底に1つの横に長い洞穴が彫られている。スケール(縮尺)はあって、ないが如しである。曼荼羅一般にそれは言える。極大に近く同時に縮小でもある。大きなスケールの、同時に無スケールの観念が実に小さな断片や画に描かれている。
塔と洞穴は考え詰めるに「建築のはじまり」である。東西文化の距離を問わずそうだ。距離ばかりではない。時間も問いはしない。古代と現代との境界だって乗り越えてゆく。
アルタミラやラスコーの壁画と洞穴の関係から説き起こすのは今(現代)は不可能である。なぜなら人間が過去が積み上げ、構築としてきた時間の総量を「近代」以降のそれとは圧倒的な量の開きがある。今、我々が暮らしている地球の表面上の生活圏は巨大に今も拡張し続けている。それが無限に拡張し得ないのに気付いたのは、たかだか1960年代である。地球の水や空気というを含む資源のみならず、世界人口の増大に伴う歴史的な生活空間の変異はその積み上げの積層性をも破壊してしまった。人類の未来は、地球資源の枯渇のみならず自身の空間破壊、更には巨大な消費意欲の結果としての大量のゴミの処理技術の非対称的未発達によっても大きな危機に対面している。最大級の危機は核廃棄物の処理不可能であろう。
その全てを、今ここで述べるのも又不可能である。それ故に我々の地球上の空間について考えようとするに、古代からの純正な時間と物質の変遷が不可能であると考えざるを得ないのである。
それ故、この「銅版画」彫りという「創作論」は今を起点とする「アニミズムの旅」の形をとる。すなわち近現代におけるアニミズム=物質と人間の基本的(底流)としての諸関係をできれば露出させてみたい。

●8月27日
今日は銅版画彫り3点に手をつけた。彫りたいモノが決まったので、アトは手と頭を同時に動かす悦楽の時である。彫りたい大筋のスケッチは手を動かし始めると、その時々のチョットした小さな出来事、例えば鉄筆やノミのスベリ等のミスらしきで、その都度そのミスをカバーする工夫をしてゆかねばならぬので面白い。銅板に一切の下書きはしないから、一本一本の線が未開の荒野を耕すような風があり、それがスリルでもある。
定規を当てたりすれば、たちどころに彫る線から生命力が抜けてしまうので一切それはしない。人間の手は正確な直線をフリーハンドで描ける程には出来ていない。それだからこそ精確に繰り返しを再現できる機械が出現した。絵や素描には定規を定規らしきを使う人もいるのだろうが、わたくしのは銅版を彫るのであるから、何しろスピードが出ない。フリーハンドの直線らしきを描く速力がどおしても得られない。そこのところが銅版彫りの妙である。ジリジリと銅板の抵抗を受けながらの。どんな線も必ずゆがんでしまうのである。そのゆがみや、意図せざる失敗にこそ、人間本来の「手」の仕組みやらが潜んでいるにちがいない。
さらに手の不手際とも言うべきは気持のつまりは脳細胞と直結しているのだろう。
そお考えると深く考えは降下する。

●9月5日
早朝4時に起床。昨夜オーパでなした「銅版画」のスケッチを見直している。小さな手のひらに収まってしまうノートにメモした。更に中途まで進めていた銅板の未完を複写したペーパー5枚程にメモを移した。カラーの複写なので銅版の色合いと光の少しは拾っており、それよりも現寸なので、子のスケッチはすぐにでも彫りこめそうである。だがこんな時は立ちどまって、もう一度再考した方がよい。いくらなんでもまだ夜である。外も暗い。2時間程横になって6時くらいに再び起きて作業に入ることにしたい。昔作った小建築が横になっていたのを助けおこしてタテにしてみたら、これが滅法面白くってキケンと彫り込むことにした。これはチャンスがあれば実現してみたい。猫が足に噛みついてうるさい。
6時再起床してすぐに銅版彫りにかかる。想定したものとはだいぶん異なるモノになったけれども8時に彫りあげた。これで大方の筋道は視えてきたような気もするが、アテにはならぬ。

●9月6日
今朝は乃木神社近くの白井版画工房へ、彫りあげた銅版数点を持ってゆく。それでそれなりにパッキングしたが、かなり重い。まあしかし歩くにこした事はあるまい。白井さんと刷り具合を相談した後に午後は南青山のときの忘れものに綿貫不二夫さんを訪ねる予定である。
予定どおりとはゆかず、ときの忘れものから白井版画工房への逆コースとなり、終日版画工房で過す。一点の試し刷りを得た。

●9月17日
晴れて久し振りに暑い。八時より十時半迄「銅版画彫り」全部で大中小版あわせて、十点程彫り上げてサイン(日付)をいれる。ここまで来ると、達成感のカケラ程がある。設計した建築が実現した時の達成感とはいささか異るのが自分にとってはピンポイントの大事なところである。
恐らくは、これから先、自分には独人でやり切らねばならない事が増えるだろう。時に若い人間と協働せねばならぬ社会的仕事もやらざるを得ないが、基本は独人になるだろう。「銅版彫り」を我ながら異常な位に続けて痛感するのは、何をやっても「建築」から逃げられぬ自分を再び発見してしまった事である。それならば「銅版彫り」のみならず、その事に集中せざるを得ないと、心中覚悟しつつある。

●10月1日
「彫琢論」
銅版を彫る楽しみについて
鉄筆やら、ノミやらで銅版を彫る。
厳密に言えば銅版の表面の極薄の表皮を彫ったり、かきむしったりする。
これが実ニ、わたくしには向いている表現の形式である。あるいは道具でもある。紙の上のスケッチや、絵、そして各種立体らしきでは、こんな風にうまく自分の気持ちらしきを表現することは出来ない。
表現すると言うよりも、自分の内をのぞき込むと言った方がより適確である。
人間の気持ちは揺れ動いて止まない。だからそれを静止の形式にとどめるのは実に困難である。わたくし自身の気持ちのうごき、あるいは思考の速力はそれ程に遠くはない。恐らく、今している如くの肉筆で文字を書くに似た遅さの中に在ると言えるだろう。自分の事はよおやく少しはわかるようになったのである。随分時間がかかったものだ。
自分の気持ちの奥底に蠢くものがどおやら在り続けて止まない。わたくしの我欲と呼ぶには、それは簡単に過ぎる。自身を基とする表現欲らしきは、どんな幼児でも在るモノだが、それとは少し異なる。それを創作欲と呼ぶことにする。これもまだ厳密な言葉ではないが、そお命名しておきたい。それが一番率直である。実態の無い空間、あるいは空虚に近い。しかもモノではある。それを何らかの形に静止させたい。いささか長く「建築物」に関わってきたが、建築物がつくり上げる空間とは似て非なるモノである。建築物は社会的な産物であり、工学の領域中にも在らねばならぬ故に、これは不自由の固まりでもある。そんな不自由と闘うのは面白い事でもあるが、余りにも不自由に過ぎて、とてもわたくし個人の内部の満足が得られぬ。そんな気持ちが満ち満ちてきて、それは正直な自身の欲動とはやはり遠いのである。この内部に蠢き続けるものは創作者たらんとする者の全ての始まりである。と、気付いた。
銅版を彫ることで、銅版の実に薄い皮膜に生まれてくるモノが実に問題の中心である。

●10月20日
九時半、中判の銅版画一点を仕上げる。一ヶ月ほどほおっておいたモノである。一番建築の姿が現われているモノで最後の一彫りがどおしても決断できなかったが、コレも昨夜、光だけを彫り込もうかと考えつめていたが、朝の光の中で、ようやくケリをつけられた。この作品のタイトルだけは「建築」と名付けたい。
十五点程の彫り上げた銅板をチェックして日付の刻印も点検した。十五時世田谷村を発ち、かなり重い銅版群をエッチラドッコイと持ち運びながら白井版画工房へ。
「送ってくれればいいのに。」と白井さんは言ってくれるのだが、そおいうわけにもいかない。「刷師」と「彫り師」の関係だから古めかしくゆきたいのである。京王線と地下鉄二本乗り継いで、なかなかの苦行であった。

●11月3日
早朝銅版画大判一点を仕上げ、日付を刻み込む。陽光が部屋に満ち気持よい。十五時過白井版画工房の白井さんアシスタント来る。八点程彫り上ったモノを渡す。試し刷りを見る。中判のモノ一点に角に刻みを入れようと決める。他はうまく彫り上っていたので、これで本刷りにしようとなった。
新しい大判の銅版、特別に作ってもらった大型の横長銅板数枚、中判二点が持ち込まれる。折角ひと段落着いたなとホッとしていたのが、再びプレシャーがかかる。
「アト、百点以上彫ることになりますね」と言はれてギョッとする。勿論自覚しているけれど他人から言はれると、改めて「出来るのか!」と思ったり、でも、ヤルしか無いのである。

●11月19日
朝から寒く、小雨模様。
白井版画工房より「本刷り」小版、大判合わせて三十数点送られてくる。自分で言うのも笑うが、皆良い。予想以上の刷り上がりで嬉しい。これで四十点近くの作品を手中にした事になる。刷師の白井さんも頑張ってくれた。何度かエッチラオッチラ、ドッコイショと重い銅版を工房に運び込み、相談を重ねたかいがあった。
(石山修武『世田谷村日記』より勝手に抜粋しました)
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◆かくして出来上がった新作銅版画群と、六角鬼丈先生の新作シルクスクリーンの発表を、お正月早々、銀座のギャラリーせいほうで行なうことになりました。
201701_ISHIYAMA-ROKKAKU

会期:2017年1月10日[火]〜1月21日[土]*日・祝日休廊
主催/会場:ギャラリーせいほう
協力:ときの忘れもの
●オープニングパーティー
1月10日(火)17:00〜19:00
会場:ギャラリーせいほう
ぜひお出かけください。

石山修武 Osamu ISHIYAMA
建築家。1944年生まれ。
1966年早稲田大学卒業。1968同大学院建設工学科修士課程修了後、設計事務所開設。1988年早稲田大学教授。2014年退任、同大学名誉教授。設計事務所「スタジオGAYA」開設。
主な建築作品:幻庵、開拓者の家、伊豆の長八美術館(吉田五十八賞)、リアス・アーク美術館(日本建築学会賞)、世田谷村(芸術選奨文部科学大臣賞)、ひろしまハウス(カンボジア・プノンペン)など。
1996年ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展では瓦礫が散乱する廃墟を出現させ金獅子賞を受賞。2008年世田谷美術館「建築がみる夢-石山修武と12の物語」展開催。
主な著書:『笑う住宅』(1986年、筑摩書房)、『現代の職人』(1991年 晶文社)『建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる』(1999年、デジタルハリウッド出版局)、『石山修武画文集 世田谷村日記』(2004年、ときの忘れもの)など。

■六角鬼丈 Kijo ROKKAKU
建築家。1941年生まれ。
1965年、東京藝術学美術学部建築科卒業 磯崎新アトリエ勤務。 
1969年 六角鬼丈計画工房主幹。
1991年〜2009 東京藝術大学美術学部建築科教授。名誉教授。
2009〜2016 北京・を中央美術学院・建築学院特聘教授。
2001年〜現在 臨床美術学会会長。
1967年 都市住宅創刊号、クレバスの家、八卦ハウスでデビュー。
1969年 スコピエ都市計画、万博お祭り広場など担当後独立。
1969年 六角鬼丈計画工房設立する。
1977年 風の造形頂部に乗せた「雑創の森学園」で第4回吉田五十八賞を受賞。
1990年 菱形を武道の遺伝子にたとえた「東京武道館」で日本建築学会賞。
2000年 人の五感をテーマにした「感覚ミュージアム」で毎日デザイン賞を受賞している。
1971年 解体の世代と称されたワーキング「狂気の時代を生き抜く私自身のためのプロジェクト」で「伝家の宝塔」を提案、以降、六角の住宅づくりの核となり、また、1985年以降 自らの創作方法を「新鬼流八道」と称し、陰陽、善悪、虚実など二極、二律背反を合体。建築をジキルハイド的生態へと変容させようとしている。

本日の瑛九情報!
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日本中で瑛九を所蔵している美術館は亭主の把握しているだけでも48館あります。中でも宮崎県美術館、埼玉県立近代美術館、東京国立近代美術館のコレクションが充実しています。
昨日までお正月休みだった埼玉県立近代美術館が本日1月4日(水)から開館しており、「MOMASコレクション 第3期」で瑛九を展示しています。
埼玉県立近代美術館の瑛九コレクションについては、2015年5月2日ブログ「美術館に瑛九を観に行く 第4回」をお読みください。
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瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

石山修武「追悼 宮脇愛子」

「追悼 宮脇愛子」

石山修武


 芸術家宮脇愛子が亡くなった。ここしばらく体調がすぐれず病院にいるのは知っていた。最近は作品制作に本来の情熱を燃やしているのも風の噂が届いていたので、大丈夫なのだろうと安心していたのだが、風が消えるように姿を消してしまった。

 世田谷村には宮脇愛子さんの作品がいくつか在る。みんないただいたモノだ。全て、宮脇愛子さんが身体に異変をおこしてからの作品である。
 芸術家を自称する人間は少なからず居る。しかし、それはそうありたいという願望ではあっても、成程ねと、そう名乗る事に納得できる人は少い。ほとんど存在しないと言っても良いだろう。

 わたくしは五体満足、バリバリに活力溢れるばかりの自称芸術家にはほとんど関心がない。語る言葉の裏や、脇から金と名誉に飢えている多愛の無い俗人振りが透視できるからだ。しかし、現代アートの一側面は金と名誉の多力で価値が決められる、のも一つの現実ではある。
 美術館や画廊、そしてそれ程に力は大きくは無いのだろうけれど美術ジャーナリズム、メディア、美術批評の世界は一つである。
 そのあやうい価値を創出しようという不可解な意志に於いて同一なのである。
 現代に於いては美術館を含むマーケットが芸術および、芸術家そのものの世俗的な価値を決める。決して制作者の内的表現の必然らしき算が決めるのではない。
 何故ならば美術、芸術に対する批評の世界がすでに解体してしまっている。
 美術史家らしき歴史家が元来最終的にはその役割を荷うべき栄光を保持している筈ではあるけれど、現実の世界では余りにも身入りが少いので、そのなり手が少な過ぎる。誰でもなれる如くの歴史家には価値も薄い。

 宮脇愛子は、若い年頃から、現代アートの最前線と想はれる世界を渡り歩いてきたようだ。専門の謂はゆる芸術大学出身では無かったから、その芸術家達との附合いも誠に自由で気ママなものであったようだ。
 パリ時代、ミラノ時代の現代アーティスト達との附合いは、まさにその附合いの日々が現代美術史の一断面をのぞかせる程に、華麗でしかも内実に富んだモノでもあった。

 しかしながらわたくしはそんな世界にはあんまり関心が無い。
 関心があるのは、一度、身体が壊れかかり、それ故、精神さえも大変調が訪れる、どんな大芸術家にも苳過するかにも視える「時」を経てからの、芸術家の、それこそ精神と言いたい芸術家の中枢なのである。
 計らずも、宮脇愛子は病魔に犯された。左半身が不自由となった。リハビリの為もあり施設住まいの身とはなった。そこには一足先に、これも又、倒れ半身不随となった芸術家山口勝弘がすでに居た。
 山口勝弘は不自由になった身体と気持とキッパリと別れて、新開地を求めての旅に出るのに、わたくしの記憶では二年間もかかった。それからの山口勝弘の再生振りは見事であった。
 山口勝弘の奇遇ではあったが隣室に宮脇愛子は身を休めた。不自由な身で作品制作、表現にとりかかるのにはいささか山口よりも長い時間を要したと記憶している。
ここ、二年程ではなかっただろうか。宮脇愛子が自由であった身体の時代から、気持を振り切ったのは。
 最新の宮脇愛子の作品は、それ故に、気持そのものの力が全とうされ、表現されていた。素晴しい境地を開かれていたのである。
いしやま おさむ
世田谷村日記より転載
2010年石山宮脇2010年10月1日ときの忘れもの
マン・レイと宮脇愛子展」のレセプションにて
石山修武先生(右)と宮脇愛子先生

2012年山口勝弘2012年6月25日銀座・ギャラリーせいほう
宮脇愛子展」のオープニングにて
山口勝弘先生(左)と亭主

石山修武「少女と夏の終わり」感想

「少女と夏の終わり」感想

石山修武 建築家


少女と夏の終わりについて、その筋書きや役者群についてはチラシやパンフレットに任せる。

9月21日のポレポレ東中野、劇場公開初日に観た感想だけを記したい。映画館で映画を観るのは久し振りだった。近くのネコオヤジとバンドマンと連れ立って出掛けた。ネコオヤジもバンドマンもわたくしも高齢者である。ジジイと呼ばれて何不足ない種族でもある。ネコオヤジはネコと相思相愛の怪人であり、70前で、ソバ屋の前の2階建に住んでいる。ネコは「その名前はヨセ」の忠告にもかかわらずチイという。わたくしは勝手にタマと呼んでいる。バンドマンは大企業の引退者でFOLK DREAMERSなるバンドを結成して公演なぞもこなしている。バンドの名前の如くの洋犬をこれも飼っている。まだバンドの名前が良くない「代えろ」の暴言は吐いていない。知り合って間もないのだ。わたくしの家、つまり石山友美監督の家でもあるが、その隣りの3階建の家に住んでいる。

ネコオヤジの見終っての印象は「チョッとムズカシかったなあ。俺には」であった。バンドマンは「イヤー、ビックリしました。本格的な映画でスゴイ」と絶讃であった。わたくしの感想にそれは近かった。娘の映画を絶讃するマヌケオヤジを承知で、わたくしも仲々やるわい、と初めて想った。

娘は実は建築家になってもらいたかった。親の勝手になるような子ではないのは知っていたが、その資質は充分過ぎる位にあると眺めていた。だから映画作りになんてなりやがってと気持の奥にはわだかまりもあって、それで第一作とやらをそれでも観に出掛けたのであった。だから率直な感想の前のつぶやきに似た無念さは「やっぱり建築家になればイイ建築できたのになあ」であった。それくらいに建築的な表現に良く似ていた。実は建築というのも社会演劇そのものであり、群集劇の典型でもある。今更、手からこぼれた夢をなつかしんでも仕方ないから、それはそれでアキラめるしか無いなと映画の背景をわたくしなりに遠く眺めていた。映画は、それを観る人間それぞれに、それぞれ異なる観かた、受け取りかたが出来るものである。複製芸術の典型的な商品でもある。

「少女と夏の終わり」に入ってゆきたい。宮沢賢治の『風の又三郎』は山村の自然を背景に描かれた少年達の社会劇であった。賢治の鉱物好みもあり、鉱山や鉱山技士らしきが登場し密漁者も出てきたりするが、山村の廃校にも似た小学校の男の子達の社会が描かれていた。その安定した小宇宙「小学校」に一人の転校生高田くんがやってくる。小学生の頃の転校生はいつの時代にも、何処でも異人(まれびと)である。宮沢賢治の『風の又三郎』はある安定したように視える場所への一人の少年の来訪と、アッという間の消失退去が及ぼすさんざめきの詩であった。賢治は今の石山友美監督とほぼ同年令で世を去った。「少女と夏の終わり」は石山友美監督の30半端の年令でしか描けぬ、少年ならぬ少女の物語りである。物語りの場所も東北の自然の中の小学校ならぬ、大都市近郊の山村の中学校だ。主人公は高田少年の代りに、二人の少女に置き換えられている。

その置き換えをより意図的に行ったのが唐十郎の「唐版風の又三郎」であった。ここでは主人公は男女二人となっている。しかし実は、唐は李礼仙という女の役者の中に両性具有を視ていた。女性役者が男女を演じ分ける宝塚演劇の不思議を視ていたのである。石山友美は当然脚本も入念に構築しているから、二人の大人と少女と境界を漂う、いわば異人(まれびと)を二人の少女として、つまり鏡像として表現して見せたのである。

今は宮沢賢治が描いてみせた少年達の放課後の不在、その本来の清冽な寂寥感は時代には内在していない。人口減少格差社会の拡大、そして東日本大震災、福島第一原子力発電所事故と厄災は社会に襲いかかり続けているが、若い人達はそれに対抗する意志と情熱に欠けるばかりのように見受けられる。ブーム、ファッションとしての漫画、オタク文化も引き潮となり表現者はすでに逃げ場を失っているかに見える。

「少女と夏の終わり」の脚本は大震災、福島原子力発電所事故の直前に書き了えられていたと聞く。サブカルチャーとしての少女漫画、アニメーションも又、それ等の現実の過酷さとは無縁である。石山友美のこの映画はしかし、そんな現実の中、アポリネールが時代の趣向(グウ)と直観したり、ワルター・ベンヤミンがアウラと指摘したり、つまりは時代精神、時代の風の中に確実に在る。センチメンタルな叙情からも、感傷的な美、すなわち今の言葉で言えばビジュアルへの偏向からも絶縁していると思われる。第一作にして石山友美は表現者の孤立の予感の只中に居るのである。少女の物語りと都市に近い自然の背景を使った映画表現の核はこの表現者=作家の孤立感への身体の身近さであろう。資質としか言い得ようが無い。

わたくし自身は今の20代30代の少年少女達の気持の動きのようなモノに対しては違和感を持ち続けてきた。しかしこの映画をみて、その物語りの諸々にその作家にとっては必然とも思われる孤絶感とも視えるモノを視、あるいは知覚した。そしてその本体に恥しながら、いささかの感動さえ覚えたのである。こんな時は妙に人間関係を恥ずかしがったりモジモジ照れたりする愚は犯してはならない。イイモノはイイ、非常に良いと言わねばならない。

女性作家が少女世界を主に据えて、都市に近い山と森林の背景の力を描いたのは映像文化のみならず、初めての事なのではあるまいか。そんな意味でも我々は実に新鮮なモノに久し振りに対面したのである。

映画の終末、少女の一人は風の又三郎の如くに何処かの町へ去り、もう一人は本来去るのが得策であろうに、走って古い集落に逃げ帰る。川の流れには神話の降臨の如くに七色に燦然と輝く木の葉の無数が流れ来たる。美しいシーンである。本来の物語りはこの少女達の一瞬の荘厳の後に始まるモノなのでもあろうが、その一瞬の美は物語りとしても映像としても実に良く描かれていた。

ここ迄の達成は次作を困難なモノに自然にするであろう。しかし女流作家に良くありがちな時間を追っての一部作、二部作……にならぬようにと期待したい。
いしやまおさむ
*石山修武「アルチ村日記(世田谷村日記)」より転載

少女と夏の終わり』  
ポレポレ東中野にて公開中
9月21日(土)〜10月4日(金) 16:50
10月5日(土)〜10月11日(金) 19:00
20130922-120130922-2

Last Days of Summer/2012
監督:石山友美
出演:菅原瑞貴 上村愛



東京国際映画祭
石山友美監督インタビュー

石山友美『少女と夏の終わり』に寄せて

石山修武「具体派Gコレクションの企画について」 GUTAI

具体派Gコレクションの企画について    

2013年2月 石山修武


 Gコレクションと、ときの忘れものギャラリーを結びつけたのは、2002年に姿を消した毎日新聞記者、佐藤健であった。名物記者であり数々の業績を残した。ときの忘れものの主宰者、綿貫不二夫さんは元毎日新聞の経歴の持主だ。佐藤が自身の死を覚悟しての最後の旅、シルクロードへはわたくしも同行した。自業自得大明王の戒名の位牌を彼は鳴沙山の砂漠で自慢した。その戒名の実現に努力した僧侶が馬場昭道であった。僧侶の知合いにGコレクションのオーナーが居た。それで今度の具体派Gコレクション展が実現した。戒名の方はいかがなんでも明王の上に大をつけるのは問題であろうと大向こうから諭されて、プライベートな位牌だけが、今、佐藤の書庫であった酔庵にひっそりと在る。2013年春にはニューヨークのグッゲンハイム美術館で具体派の大展覧会が開催されるが、わたくしが佐藤との縁やらもあり企画監修することになったこのGコレクション展は、その日本での小さくとも同時開催展になり得るように考えた。これも又、仏教的神道的儒教的混沌としたカオスのなかの縁、すなわち極細の蜘蛛の糸としか言えぬ人間関係により、具体派の芸術家たちとはお目にかかることができた。四角四面の重箱づくりの建築稼業のなかに大半は身を置くわたくしにとっては、皆さん、眼が点ならぬミクロコスモスになりっ放しの怪人ばかりであった。東京を拠点とした同時期の実験工房の山口勝弘先生には色々と教示を受けてきたが、彼等の律儀で合理性を帯びさせようとした創作方法とは真反対な、それこそ良く言えば自由、悪く言えば出鱈目振りは実にまぶしいばかりの輝きを持つようではあったが、あんまり良いと言いつのれば、わたくしの四角四面の職業柄おもわしくないことも起きそうで、ひた隠しにしてきた。
 が、しかし、どうしてこんなに真っ当で自由で、それこそ芸術らしいのだろうとは思い続けてきたのである。
 1970年の大阪万博の、お祭り広場と岡本太郎の太陽の塔の実現は、日本の現代美術にとってひとつの画期であった。このお祭り広場の主役であるべきであった民衆の祭りは影も形も、結局見せようとはしなかった。有り体に言えば磯崎新の最初の挫折であったのだが、磯崎は当時、大阪の具体の連中に対して、あの広場で暴れろとアジッたと聞く。よくよく調べてみたら、太郎の太陽の塔のモデルらしきの、磯崎の六体の百メートルほどの着せ替え人形ロボットのスケッチも残っている。国籍不明のカーニバルもどきがイメージされていた可能性がある。予算やら何やらの不自由もあり具体派の連中の具体祭りも、彼等本来の破天荒振りも充分表現されるに至らなかた。
 歴史にもしもは禁句だけれど、芸術は特に現代芸術はそのもしもの本来は連続であろう。もしもあの六体の着せ替えカーニバルロボットがうごめき、もしも具体派の大カーニバル、白髪一雄の空中ブランコ群が実現していたらと、呵々大笑の白昼夢さえ出現する。
 あまり大言壮語は小さなときの忘れものギャラリーには納まり切らぬであろうが、その白昼夢のカケラは少なくとも皆さんは感得されるだろう。3.11の津波、原発事故の後には何も無いとは言いたくないだろう。
 ひとときならぬ異形の断片を楽しんでいただきたい。おそらくニューヨークでもWTC崩壊のキノコ雲の後の虚無に芸術の本来の可能性の在り方が示されてもいる。
いしやま おさむ

具体 Gコレクションより
233_GUTAI会期=2013年3月15日[金]―3月30日[土](無休)
企画・監修=石山修武
出品:白髪一雄吉原治良松谷武判上前智祐堀尾貞治高元尚鷲見康夫、他

*画廊亭主敬白
画廊亭主敬白ならぬ軽薄のきわみといわれても仕方ありませんが、明日3月15日より開催する「具体 Gコレクションより」の企画がもちあがったのはつい先日、昨年12月のことでした。
突如「松本竣介展」の会場にあらわれた石山修武先生の否も応もない「やれ」の一言で嵐のような日々が始まりました。
出品作品の選定、交渉、五月雨式にぽつりぽつりと送られてくる作品の撮影、出品リストの定まらぬ中でのカタログの編集、狭い画廊空間での展示プランの作成など、綱渡り状態で進行する中、見切り発車で珍しく雑誌にも広告を打ちました。
案の定、広告に使った作品は不出品(トホホ・・・)。ハラハラドキドキの三ヶ月でしたが、石山研究室あげの応援もあり、短期間のうちに展覧会が実現にこぎつけられたのは幾多の修羅場を潜り抜けてきた建築家・石山修武先生の腕力あってのことでした。
気弱な亭主ではとっくに頓挫していたでしょう。
石山打合せ20130312
展示の打合せをする左から亭主、石山先生、展示担当の浜田さん

二転三転の出品リストはまさに「直しても直しても混沌」。
石山修武銅版
石山修武
登っても登っても混沌
2004年
銅版・手彩色
28.0×22.0cm
Ed.5(/后銑/后

石山先生がなぜ、場末の貧乏画廊に「具体展」の開催を持ちかけたのか今もって不明ですが、開催にいたる石山先生の思考の跡は膨大な「世田谷村日記」を読んでいただくしかありません。
上掲の石山先生の文中にある佐藤健さんは亭主の毎日新聞時代の二、三期先輩の花形記者でした。社での付き合いはほとんどなく、毎夜社員の溜り場になっていた飯田橋の地獄の「憂陀」という酒場での飲み仲間というか、健さんはほとんどカウンターの中の人でした。金森さん、関さんというこの酒場のオーナーについては先日伊豆の長八美術館の項で書きましたが、野間宏さん、粟津潔さん、石山修武さん、杉浦康平さん、鶴見良行さんらが常連で、まだ勤務医時代の高橋龍太郎さんともここで知り合いました。
亭主は行きのタクシー代だけを握り締めてスタッフを連れ夜な夜なこの店に通い、朝まで過ごし始発で戻るという地獄の日々を過ごし、ツケを溜めに溜め、遂に200万円を越したときはさすがに双方あきれかえって笑うほかありませんでした。
とはいえ、借金は借金、これをチャラにする方法はないかと亭主は悪知恵を働かせ・・・・(以後は発禁)。
かくして「憂陀」は亭主を筆頭にツケばかりの客で黒字倒産寸前となりましたが、起死回生、カウンター10席の小さな店から数十人は入る大きな店に大転回します。
内装を担当したのが、立原道造の友人、武基雄先生の事務所でした。
立原道造の最後の恋人「薔薇色の少女」、水戸部アサイさんは石本建築事務所の同僚でしたが、1938年(昭和13)4月の夕暮れ、武さんと三人で資生堂パーラーでシャーベットを食べたのが初デートでした。
因みに後年、石本事務所に入り桐生の大川美術館の設計を担当したのが松本竣介の遺児・莞さんです。
なんだか佐藤健さんを巡る思い出を書き出すと、次から次へと敬愛する人々の縁が繫がってくる・・・・

話しがまた横道にそれちゃいました。
明日からの具体展、どうぞお運びください。
※3月16日(土)17時より、石山修武さんと河晃一さんによるギャラリートークも開催します。
具体を最もよく知る人として河晃一さんほどの適任者はおりますまい。
NYグッゲンハイムで開催中の具体展の映像をたくさん持参して、上映してくださるとか。
最新の「世界が注目した具体情報」にご期待ください。
ただし、既にギャラリートークの定員はいっぱいになりました。
トーク終了後19時からの石山先生、河晃一さんを囲んでの懇親会にはどなたでも参加できますので、どうぞお出かけください。
河晃一
造型作家、美術館学芸員。
1952年兵庫県芦屋市生まれ。甲南大学経済学部卒業。卒業後、染色家中野光雄氏に師事、80年から毎年植物染料で染めた布によるオブジェを発表。87年第4回吉原治良賞美術コンクール展優秀賞、第18回現代日本美術展大原美術館賞受賞。
『画・論長谷川三郎』の編集、甲南学園長谷川三郎ギャラリーや芦屋市立美術博物館の開設に携わり「小出楢重と芦屋展」「吉原治良展」「具体展」「阪神間モダニズム展」「震災と表現展」などを企画した。93年にはベネチアビエンナーレ「東洋への道」の具体の野外展再現、99年パリジュドポムの「具体展」など海外での具体の紹介に協力。06年よりは兵庫県立美術館に勤務されました。
Gutai: Splendid Playground Members' Party, Feb 15グッゲンハイムで始まった具体展。作品は元永定正先生の《作品(水)》。

◆『具体 Gコレクションより』展図録
表紙『具体 Gコレクションより』展図録
2013年 16ページ 25.6x18.1cm
執筆:石山修武 図版15点
略歴:白髪一雄、吉原治良、松谷武判、上前智祐、堀尾貞治、高元尚、鷲見康夫
価格:800円(税込)
※送料別途250円
※お申し込みはコチラから。

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ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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