石岡瑛子さんが亡くなった。
享年73。
同じ蟹座の亭主は、生前二度ほど淡いご縁があった。
二度とも亭主の編集した本に関連してだった。
最初は現代版画センターを主宰していた1983年、「KIKU」「LOVE」のシリーズをエディションして渋谷のパルコや宇都宮の大谷石の巨大な地下空間などでウォーホルの全国展を開催したとき、オリジナル版画を挿入した『アンディ・ウォーホル展 1983〜1984』図録に寄稿していただいた。

二度目は、亭主が足掛け6年にわたり編纂に携わった『資生堂ギャラリー七十五年史 1919〜1994』の調査取材活動の一環としてお目にかかったときである。
1995年3月に刊行された同書は736頁という膨大なものだが、化粧品メーカーが文化支援の先駆としてギャラリー活動を継続して展開してきた歴史をまとめたものである。
今は資生堂ギャラリーは企業文化部の所管だが、大正8年の発足時は意匠部の、その後は宣伝部の所管だった。
石岡さんは、芸大を卒業後、資生堂宣伝部に入社しアートディレクターとして活躍した。
1966年、石岡さんが参加したキャンペーン「太陽に愛されよう」は日本初(!)の海外ロケを敢行し前田美波里を起用したCMで大ヒットを飛ばしたのは有名な話。このとき何で大金をかけてハワイまで行く必要があるんだ、宮崎あたりの海岸で十分じゃないかという社内の反対意見を抑え、ときの森治樹社長が英断を下したのは先見の明があったことはもちろんだが、若い石岡さんたちの情熱にかけたともいえる。時代も若かった。
石岡さんに「資生堂ってどういう会社でしたか」と尋ねると、
メーカーだから給料は安かったわよ、でも仕事に使うお金はいくらでも出してくれた」と往時を懐かしむ風情でした。
この言葉で、編集者として資生堂の会社の骨格がわかった気がしました。
今でも石岡さんのそのときの表情や言葉遣いを鮮やかに思い起こすことができます。
その後独立した石岡さんはパルコなどの広告で成功し、渡米後はニューヨークを拠点に活動、アカデミー賞衣装デザイン賞を受賞し、北京オリンピックの開会式では50種、2万着の衣装デザインを担当するなど国際的に大活躍された。
ご冥福を心よりお祈りします。

アンディ・ウォーホル展 1983〜1984』図録には執筆者170人という、亭主の編集した本では最も多くの人にそれぞれのウォーホルを書いていただいた。
中でも石岡さんの文章は60年代のNYの熱気を伝えて秀逸だった。
短い文章なので、下に転載させていただきます。
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 六十年代のなかば、マンハッタン島がポップカルチュアで狂い咲いている時、ヒッピー軍団の祭のど真ん中セントマークスプレイスで私は、毎夜毎夜青春の雄たけびをあげていた。居候していたユダヤ人画学生マーサのかびくさい部屋は、煮えたぎった若者シチューの中心地エレクトリックサーカス(ディスコ)の真前にあって、マリワナ漬けの漬けもののような若者たちの熱い息に侵されていた。
 夜中、通りに面した窓際にある私の寝場所に身を横たえて電気を消すと、エレクトリックサーカスのネオンの点滅が部屋の中を、けだるい桃色や緑に染め出していた。貧乏画学生のマーサにとって、その時唯一の宝物は、十六ドルで手に入れたアンディ・ウォーホールの版画「フラワーズ・一九六四」と、ビーチボーイズのレコード「スマイリー・スマイル」だけだった。蛍光色の桃色や黄緑色で色彩られた花たちは、窓から差し込むネオンの光で瞬間魔物のようにクローズアップされ、メロメロにとろけた私の眼に激しくへばりついた。
 その時、すでに大スターとして、マックスカンサスシティなどに現れては、もみくちゃにされていたアンディの人気は、あきらかに欲しければわずか十六ドルでも自分のものになるという気楽さに支えられ、他のどのポップアーティストもやらなかった質量両面作戦を駆使して見事に若者たちのカルト的存在にのしあがっていた。
 八十年の末から十五ヶ月あまり、私は再びマンハッタン島に何もしないで潜っていた。毎日欠かさず見続けていたのは、雲のカタチとテレビだけだった。土曜の夜中、ほんのチラリと下手なジョークを創って安手のテレビ番組「サタデイナイトライブ」に顔を出したり、ゾリというエージェンシーにモデルとして真面目に所属しているアンディにかえって私は好感をもち、もう何をやっても刺激にはなりえないで苦悩しているニューヨークヒーローに倦怠を見た。
 今、燃えつきた火事場の後のように、情熱のない燃えカスばかりが虚しくマンハッタン島を覆っている。あのマーサの部屋で狂い咲いていたアンディの花たちがいとおしい。
「Flowers, 1964」

石岡瑛子
東京生まれ
アートディレクター
*『アンディ・ウォーホル展 1983〜1984』図録98ページ所収
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同図録に挿入されたウォーホルのシルクスクリーン「KIKU(小)」

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次回企画展のご案内
ときの忘れものは、2012年2月10日[金]―2月25日[土]「ジョナス・メカス写真展」を開催します(※会期中無休)。
メカス展
それは友と共に、生きて今ここにあることの幸せと歓びを、いくたびもくりかえし感ずることのできた夏の日々。楽園の小さなかけらにも譬えられる日々だった
「this side of paradise」シリーズより日本未発表の大判作品13点を展示します。
1960年代末から70年代始め、暗殺された大統領の未亡人ジャッキー・ケネディがモントークのアンディ・ウォーホルの別荘を借り、メカスに子供たちの家庭教師に頼む。週末にはウォーホルやビアードが加わり、皆で過ごした夏の日々、ある時間、ある断片が作品には切り取られています。60〜70年代のアメリカを象徴する映像作品(静止した映画フィルム)です。

ジョナス・メカス Jonas MEKAS
1922年リトアニア生まれ。ソ連次いでナチス・ドイツがリトアニアを占領。強制収容所に送られるが、45年収容所を脱走、難民キャンプを転々とし、49年アメリカに亡命。16ミリカメラで自分の周りの日常を日記のように撮り始める。65年『営倉』がヴェネツィア映画祭で最優秀賞受賞。83年初来日。89年NYにアンソロジー・フィルム・アーカイヴズを設立。2005年ときの忘れものの個展のために4度目の来日。

2月のWEB展は「靉嘔展」です。