針生一郎・現代日本版画家群像[再録]

針生一郎「現代日本版画家群像」 第12回(最終回) 高松次郎と井田照一

現代日本版画家群像 第12回(最終回)
高松次郎と井田照一

針生一郎


 戦後版画の流れを、毎回二人ずつの作家に焦点をおいてたどってきたこの連載も、今回でひとまず終ることになった。ふりかえると、山口源、関野準一郎、上野誠、北岡文雄、菅野陽、内間安瑆、吉田政次、吉田穂高、利根山光人、深沢幸雄、松本旻、矢柳剛など、ほかにもとりあげるべき作家はまだ少なくない。だが、今の形で彼らを論じてゆくと、きりがないし、もともと美術家ならだれでも、版画も手がけるべきで、版画の専門家などない方がいいのに、閉鎖的な版画王国の勢力圏をなぞることになりかねない。そこで独特な角度から版画にとりくみ、そのワクをつきやぶった二人をあげて、しめくくりとしたい。
 その二人は高松次郎と井田照一で、わたしはたまたま一九六八年のヴェネツィア・ビエンナーレと、七九年のサンパウロ・ビエンナーレに、コミッショナーとして出品作家だった二人と同行した。高松は一九三六年生まれだが、父は同年の二・二六事件に加わった青年将校の一人だと、彼の口から聞いたことがある。おそらく、そのことは彼の生いたちに、複雑で重い影を落したにちがいない。一九五八年、東京芸大油画科を出ると、六〇年から読売アンデパンダン展に出品したが、同世代の「ネオ・ダダ」グループとはすでにややちがう道をたどりはじめた。それは六一年にはじまる「点」シリーズ、六二年にはじまる「紐」シリーズにみられるように、さだかならぬ予感の体系から演繹的に方法をみちびきだすみごとな首尾一貫性を特色とし、その体系が六四年に書きはじめた「世界改造計画」に集約された。
 もっとも、一方で高松は中西夏之らとともに、六二年秋「山手線ハプニング」をこころみ、六三年五月には中西、赤瀬川原平とともにグループ「ハイ・レッド・センター」を結成して、「ミキサー計画」「ロブロジー」「シェルター・プラン」「首都圏清掃整理促進運動」「ドロッピング」などのイヴェントをおこなった。六四年秋以後、グループの活動が不活発になったのは、「草加次郎」名の爆弾事件やにせ千円札事件で、同年はじめ朝日新聞社会面に赤瀬川の千円札模造作品のことが大きく報道され、警察の追及もはじまったことと関係があるだろう。だが、この年高松は「影」シリーズを開始し、これが存在と非在、対象と記号のあいだの謎めいた領域をさぐる仕事とし又、しだいに注目をあびていった。
 こうして六五年以後、シェル賞、長岡現代美術館賞、毎日現代展での受賞、ミラノ、ブラッセルでの個展、パリ青年ビエンナーレでの受賞がつづく。六六年には、遠近法的錯覚を机や椅子などの立体に固定した「遠近法」シリーズがはじまり、六八年のヴェネツィア・ビエンナーレには、「影」の絵とならんでこれらのオブジェが出品されて受賞した。このときの欧米旅行からもどると、高松は床にならべた平面が波うってみえたり、彎曲した柱が角度によってまっすぐにみえる「波」シリーズ、布や紐がゆるみによって遠近感が誇張されてみえる「弛み」シリーズ、石に数字を書きこむ「石」シリーズなどを手がけた。それまでの作品がおおむね、外観と実体の矛盾を構造的にあばきだすことによって、世界像の根本的な変革を要求したのにたいして、「石」シリーズは実体と記号と行為の結合を示す点で、新しい展開を予想させたものだ。
 一九七〇年代になると、彼は樹皮のついたままの丸木を高低さまざまに切り、頂部に半球形の部分を塔のように残した形態を床にならべたて、「石」シリーズから離脱する第一歩を印した。それと平行して、「この七つの文字」「THESE THREE WORDS」という文字を、シルクスクリーンで紙に刷った最初の版画が制作されたのである。この二点の版画は、そこに書かれた文字が意味するように、まさに七字と三語から成っており、メッセージとコード(シニファンとシニフィエ)が一致している。ついで七六年の東京版画ビエンナーレには、アルファベットの順序どおりの文字を単語のように配列し、タイプで打った上にゼロックスでコピーして、一冊の本にとじた作品を出品した。これらの文字だけの作品は、版画の概念を拡大したものとして話題をよんだが、じつは記号性の再検討をとおしてイリュージョンの要素を否定し、七〇年代後半の簡潔な線・面・色彩のうちに、材質と記号と行為を緊密に一体化した絵画へと復帰する転回点ともなった。しかも、このような絵画で高松は、古事記を主題とする「国生み」の絵本のためのイラストをもこころみ、みごとな成功を収めている。
 七〇年代初頭には、わたしたち十三人が多摩美大の教員として在籍しながら、授業からはずされて裁判をつづけるうち、高松が生活のためと芸術運動の両面を兼ねて、自宅で私塾をはじめたことも忘れられない。わたしも講師として招かれて話にいったことがあるが、終って報酬とともに印紙を貼った領収書をさしだされ、高松らしい几帳面な経営ぶりに感心した。透徹した思考から出発して、振幅の大きい彼の足跡は、六〇年代「反芸術」のピークをなしていたため、いま若い世代からは目の敵にされている傾向があるが、高松自身はこの風圧のなかで孤独な自己検証を経て、やがてまた思いがけない方向をひらく、新シリーズに進発するとわたしは信じている。

takamatu
高松次郎
「THESE THREE WORDS」
1970年
シルクスクリーン
79.0x54.5cm
Ed.100
サインあり

 高松にとって、版画が多様な媒体のなかのひとつにすぎないとすれば、井田照一にとって、版画はきりはなせない原点であり、たえずたちかえるべきスプリング・ボードらしい。一九六〇年代前半、京都美大在学中から、井田は女体の一部を思わせる形態や色面を明確に、リズミカルに構成した石版画を制作している。一九六八年、毎日新聞社のコンクールに一席となって、翌年フランスに留学したが、そのころから彼の版画には哺乳瓶、便器、裸の赤ん坊、女の脚などがポップ・アート風に登場し、石版のほかにシルクスクリーン、オフセット、写真の転写などさまざまな技法が併用される。ここでエロチシズムの主題は、はっきり制作の中心にすえられるが、それはピンク、ブルー、オレンジなどの透明な色彩と版に濾過され、空中にただようように配置されて、軽みをおびた記号と化している。
 フランスに一年滞在したあと、井田はニューヨークにしばらく滞在して帰国するが、この軽みへの志向は、一九七二年にはじまる〈ラ・ヴィアン・ローズ〉のシリーズでは、いっそうあらわになる。ここでは、画面いっぱいにバラの花が規則的に配列され、全体の色調はビニールの包装紙のようにきらびやかになり、その奥にピアノやティッシュ・ペーパーなどの形がすけてみえる。さらにこれと平行して、「風」という主題が出現して、眼にみえず、重い実体のない風や空気をとらえるために、布、紙、草、風船などの軽い対象を描くようになった。やがてその主題は、紙に刷られた版画の画面に小さな穴をあけたり、淡いピンクやブルーの紗の表面に、きれぎれの横線や海、人体などを刷りこんで、天井からつるしたりするこころみに発展する。七四年、京都・アメリカン・センターでのフランク・ベッカーと共同のマルチ・メディア展は、それまでの探求の集約ともいえるもので、ピンクの卵をびっしりと集積したオフセット版画を会場全体の壁に貼りめぐらし、その前に紙やビニールに同じ卵やにわとりを刷りこんだ幕を何層にもつるし、同様の版画を一二八枚、木製の箱に収めた『コンセプション・ボックス』を一方におき、さらに音楽とビデオとスライドを加えて、無限連続のイメージと多様なメディアの交錯する眩暈にみちた空間を現出したのだ。
 その間に、井田は多くの国際展に出品し、また何度もアメリカに出かけている。だが、ハトロン紙の紙袋の外側や内側に、切れ目のある横線をうすく刷って、任意の形で床に配列したシリーズあたりを転機に、彼は作品と現実空間との境界をとり去ることに集中しはじめる。こうして七〇年代後半には、変哲もない石ころを拡大または縮小して紙の両面に刷り、その紙の一端に実物の石をおいたり、実物の石を二つに切断して、そのあいだに横線をオフセット刷りした紙をはさんだり、木の木目をフロッタージュした紙を、細長い角材や板ではさんだりする、色彩の抑制された作品が多くなった。これは一見すると、日本的な材質と自然観の伝統への回帰のようにもみえるが、けっしてそうではない。なぜなら、一九七八年のサンフランシスコでの彼の個展は、“Surface is The Between”と題され、そこにはやはり木の木目、砂、瓦礫、海などの表面が、しばしばあざやかな色彩で転写されながら、その色面が切断されたり、重層的にかさねあわせられたりしている。視覚的な表面が、じつは材質と形態、存在と非存在の中間にほかならないという、存在論的な自覚があり風や空気への追求の一帰結だったわけである。
 近年の井田照一は、「表面は塗られたり、印づけられたりした平たい領域のあいだに存在する」ことを立証するため、大画面に油絵具で黒一色の茫漠とした空間をつくりだしたりしている。七九年のサンパウロ・ビエンナーレでは、床に硫酸を流した上に砂鉄を敷きつめ、それを片づけたあとの床面に残るさびの図形を作品とし、それと壁にならべた十点ほどの版画作品を展示した。その作業中、現地で調達した材料が、じつは砂鉄ではなく「ベンガラ」であったことがわかり、その作業に加わった人びとの衣服や靴から身体、また会場のかなりの部分まで、赤い塗料がしみついて、清掃と洗滌、ほんものの砂鉄さがしに苦労したことは、すでに新聞に報告したことがある。
 わたしはかつて井田照一のこういう制作姿勢を、「版画をこえて、版画に」という題で論じたことがある。版画の概念をこえてまた版画にたちもどる、その循環ごとに彼の思想はいっそう深い次元に達し、しかもその表現はいっそう軽みをおびて非物質の領域へと飛翔してゆく。そういえば、井田は近年でもなおパフォーマンスの発表もつづけている。こういう版画への愛憎のアンビヴァランスは、戦後の多くの作家のうちにひそんでいるといえるだろう。

ida_01_wind-rain井田照一
「Wind Rain on paper」
シルクスクリーン・和紙
45.5x36.0cm
Ed.65
サインあり

(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.80より再録
1982年5月 現代版画センター刊

*画廊亭主敬白
針生一郎先生がまだお元気で、ときの忘れものにときどきいらしてくれたとき、幾度か「あの原稿は本にしたいですね」と話したものでした。
現代日本版画家群像」は亭主が主宰していた現代版画センター(1974〜1985年2月)の月刊機関誌「版画センターニュース」に12回にわたり連載したものです。このご時勢なので「本」にするのはなかなか難しいので、せめてネットで皆さんに読んでもらいたいとご遺族のお許しを得てブログに再録した次第です。30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録しました。
現代版画センターがお世話になった評論家はたくさんいますが、亭主が最初に門をたたいたのが久保貞次郎先生、続いて瀬木慎一先生でした。
素人集団が徒手空拳ではじめた版画の普及運動を初めてマスコミで取り上げてくれたのが朝日ジャーナルでした。そのときの筆者が針生一郎先生であり、以来原稿執筆、講演などで私たちを応援してくださいました。
第1回の恩地孝四郎長谷川潔から、最終の第12回高松次郎と井田照一まで、12回24人の人選はさすがです。版画の市場は低迷しておりかつての勢いはありませんが、24人の作家たちの作品は時代を超えてこれからも生き続けるに違いない。
最終回が今もっとも世界から注目を浴びている高松次郎なのは針生先生の慧眼を証明するものでしょう。
一年間、ご愛読をありがとうございました。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

針生一郎「現代日本版画家群像」 第11回 島州一と野田哲也

現代日本版画家群像 第11回
島州一と野田哲也

針生一郎


 一九六〇年代には、ビデオ・カセット、有線テレビ、コンピュータ、電子リコピー、電子計算機、レーザー光線、教育機器など、エレクトロニクス・メディアが多様化した一方、版画ではガリ版の原理にもとづくシルクスクリーン技術の発達によって、写真の転写がいちじるしく容易になった。マス・メディアの複製機能をそのまま模倣するポップアートが出現し、「メディア・イズ・メッセージ」というマクルーハン理論がもてはやされたのも、この時代である。デザイナー粟津潔は「複々製に進路をとれ」「ものみな複製ではじまる」とこの時代相を要約したが、そういう方向をもっとも典型的に体現した版画家としては、島州一があげられるだろう。
 島州一は一九三五年、東京に生まれたが、彼の一族は日本最初の図案工房、島丹精堂を経営している。先祖は代々飯田藩のおかかえ絵師で、祖父は四条円山派を学んだのち、東京美術学校図案科に入り、父も弟も同じ学校の同じ科を出たという。そういう家系のせいか、敗戦後まもない一九四八年、中学一年の彼は、カウボーイ・ハットの男の写真に、赤地白抜きのレタリングを組みあわせた、『ライフ』誌の表紙に魅了され、父にたのんでしばらく同誌を定期講読したらしい。もっとも、州一は長男でありながら、デザインよりは油絵に志して、多摩美大油画科に進み、そこで講師の中山正にすすめられてリトグラフに手を染め、在学中から集団「版」の結成に加わる。
 ところで、島州一の仕事が注目をあびたのは比較的おそく、一九六〇年代末である。六八年まで藤沢に住んでいた彼は、水平線の表現に苦しんだ末、花札の坊主のパターンを借りて、しょせん現実とフィクションとしての絵画は、次元が異なることを確認したという。六九年の個展では、カルピスの商標である黒人の扮装で画廊に坐っていたが、その行為をとおして絵画やデザインの概念をこえた、観衆と作品のコミュニケーションの実態を感得したらしい。だが、決定的な衝撃は、全共闘運動のピークをなす東大安田講堂の攻防で、それが奇妙にも「ライフ」誌のモチーフをよみがえらせたという。より正確にいえば、完壁な情報管理にもとづく民衆弾圧の事態が、「決定的瞬間」の神話に支えられた事実信仰をうちくだき支配体制の投げつける情報を自由に再編して、ゲリラ的に投げかえす姿勢をみいだせたわけだろう。
 一九七〇年初頭に制作された彼のシルクスクリーン作品では、野性の悲しみにみちたアフリカ・カモシカの背後に、大きな日の丸をあしらい、ベトナム戦争の犯罪性を示すソンミ村「ミライの虐殺」のタイトルと、「LIFE」から両端の活字を消した「IF」を配している。これが発端で「ライフ」誌の表紙を使った、日付のある作品がしばらくつづく。七一年毎日現代展でコンクール賞を受賞した《月と企業》は、幅二メートルにおよぶ大作で、黄色い布にアポロ号船長の月着陸の光景をシルクで刷り、その上に「ライフ」誌発表のアメリカ企業ベスト一〇〇社名を刷りこんだ、アクリル板をボルトでとめたものだ。
 そのころから、島州一は物神化された情報にたいして、オブジェ化された映像を投げかえすため、さまざまの立体作品をこころみている。たとえば、蒲団に花嫁衣裳の女と「ホワイト・ハウス・ブライド」のタイトルを刷りこみ、金網をかぶせて板でかこんだ作品とか、米中会談の両主役ニクソンと周恩来の顔を、椅子と折り曲げた蒲団に刷りこんだ作品とか、あるいは小石に周恩来やソルジェニーチンの顔を刷りこみ、材木にシャーリー・マクレーンの顔をならべた作品とか。七二年のサンパウロ・ビエンナーレには、布に天体気象写真を刷りこんでまるめ、二〇〇個のキャベツを床にならべた。
 「ライフ」誌は一九七三年、思いがけなく廃刊になったが、そのころ島州一は十人の作家が一ヵ月間自宅やアトリエを使って、日常生活をそのまま作品化するこころみに参加する。そこで彼は県営団地の自宅部分の外壁を黄色に塗り、毎日窓に黄色い蒲団をほすことにし、そのプロセスを記録した写真をふくめて作品とした。だが、一週間後に県庁によびだされて、壁の復元を命じられ、この作業は中止せざるをえなかった。同じころ、彼が文章をのせたミニコミ誌が、ワイセツのかどで警視庁に押収され。発行者に罰金が課せられる事件もあって、芸術家もいやおうなく「制度」のなかに生きていることを痛感させられる。しかもそれ以来、彼はますます家や国という制度にたいして、版画というもうひとつのシステムによって、批判と抵抗をつづける決意を固めたという。
 複製機能による版画の拡大という点では、関西に住む下谷千尋も砂、木の葉、水の上などに文字を刷りこむ作品で注目された。そして七〇年代後半には、下谷も島もともに外国に滞在する期間が多かった。その後、二人がどんな作風に転じたか、わたしにはつまびらかでないが、いずれにしろ、ジャンルの破壊、版画の領域の拡大という六〇年代風冒険神話が閉塞した現在、版画表現の新しい核が求められていることは事実だろう。島州一についていえば、複製機能の拡大のほかに、日常性への下降、今日のフォークロアへの探求といった、これまでの作品に内在する諸要素が、どんな新しい総合をみいだすかに、わたしは興味をもっている。
 一九六十年代末に出発した版画家のうち、写真の転写による日常生活の記録に徹している、代表的な作家の一人が野田哲也である。横尾忠則の項ですでにふれたように、一九六八年の東京版画ビエンナーレで、グラン・プリを受賞した二枚一組の作品が彼のデビュー作となった。それは熊本の彼自身の家族と、婚約時代の現夫人ドリットの家族の記念写真を、木版とシルクスクリーンを併用して版画化し、日本人とイスラエル系ユダヤ人の家族の生活様式の対照をきわだたせたものだった。このとき以来、彼の全作品は“Diary”というシリーズに属して日付をもち、しばしばモデルの人物の名前と生年月日、性別の記号まで書きこまれている。
 野田哲也は一九四〇年、熊本県の不知火に生まれ、彼の生まれる前年に夭折した異色画家野田英夫は、母方の伯父にあたる。東京芸大油画料に進んだが、大学院時代に講師の小野忠重について木版画をはじめ、人物や室内風景を大胆に抽象化したり、書のような太い線を構成したりする試作をこころみていた。六七年にはすでに人物とさまざまのパターンを組みあわせ、人体各部の説明を英語や日本語でガリ版刷りにした作品が生まれ、六八年春の版画協会展には、和紙に木版や渋紙の型で古典的な椅子を刷り、そこに斜めに横たわる女性をシルクで刷った作品をだして、会友賞に推されている。
 野田はデッサンをするように、自分の家族や身辺の風物を自分で写真にとって転写する。「実は油絵から本格的に版画に志すことになった動機のひとつに、この写真の応用があった。画面の中に写真を使えば、当然その定着に製版が必要となる。製版をすればとりもなさずその版で刷版ができ、それも複数刷版が可能になるのであった。そこで最初の刷版でできたイメージがつまり『原画』で、つぎからできるイメージが単なる複製でしかないとは一概に言えるわけはないはずで、私はいわゆる『複数原画』についても真剣に考えるようになった」(「みづゑ」一九七三―一)
 一九七〇年から七一年にかけて、野田哲也は結婚したドリットとともに、アメリカ、ヨーロッパ、イスラエルを旅行した。この旅によって、日常体験の記録という方法の枠はいちじるしく拡大し、国連広場、グリニッチ・ヴィレッジ、黒人のデモ隊と警官隊の衝突、大統領候補の選挙演説、知人たちとの出会い、空港待合室などがとりあげられた。だが、写真の映像はあくまで彼にとってデッサンないし表現の素材にすぎず、そこから版をおこし、刷るためには、さまざまの選択、工夫、構成が加えられていることを、みのがすわけにはいかない。和紙のやわらかいテクスチャーの上に、家具や衣服のガラは木版で、人物はシルクといってもガリ版と同じ謄写ファックスにローラーで刷り、しばしば写真の一部を大きく白抜きにして線描を加えたり、構図上部を大きくあけたり、色彩をあざやかに対比したりし、リトグラフの作品も少なくない。みずから「絵日記」だといいながら、一作一作に精妙な絵画的構想をつみかさねて、単なるドキュメンタリーとは別のものにしているのだ。おそらく、記録性と絵画の虚構性のあいだの無限の中間領域に、彼の版画の一見単純でありながら、つきない魅力があるのだろう。
 ドリット夫人とのあいだにこどもが生まれて以来、野田哲也の作品は大部分このこどものさまざまな姿態とおむつや玩具などの記録を主題としている。だが、主題の限定にもかかわらず、彼の創意はいよいよ奔放自在で、幼児の上半身にかさねてガラスヘのいたずら描きを大写しにしたり、おねしょのしみが大きく地図のようにひろがる蒲団を、頭からかぶってたつ幼児のユーモラスな姿をとらえたりしている。わたしは野田家を訪問したことがないが、彼は現代版画センター主催のシンポジウムでも、「美術手帖」(一九七四―一二)の手記でも、育児や洗濯に毎日忙しく、そのあいまを縫って制作している、と語っていた。このまめまめしい主夫ぶりの強調には、家庭の日常性を重視する彼の思想がこめられていると同時に、意図せざるユーモアの起爆力がある。
 むろん、その間に野田哲也は母校である東京芸大に迎えられて助教授となり、女子美大にも出講し、さらにいくつかの国際展に出品したり、回顧展をひらいたりもしている。だが、それらの社会的、芸術的行動にもまして家庭生活に根拠をおき、国際結婚の契約関係をこえたアイデンティティの根源をみつめようとする姿勢は、その日常経験をすべて対象化し、抽象化する制作上の意欲とあいまって、独特な思想にまで結晶しつつあるようだ。

DSCF2415_600島州一
「愛」
1974年
シルクスクリーン
30.0×28.0cm
Ed.100
サインあり

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野田哲也野田哲也
「Diary Nov. 18th '76(a)」
1976年
木版、シルクスクリーン
47.2x36.8cm
Ed.100
サインあり

(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.78より再録
1982年3月 現代版画センター刊

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て再録掲載します。30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・新連載・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
 ・新連載・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」は毎月8日の更新です。
 ・新連載・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月14日の更新です。
 ・井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
  バックナンバーはコチラです。
 ・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は毎月22日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新ですが、今月4月は休載します。
 ・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・新連載・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日に更新します。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・浜田宏司のエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
 ・君島彩子のエッセイ「墨と仏像と私」は終了しました。
 ・鳥取絹子のエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は終了しました。
 ・ときの忘れものでは2014年からシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

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針生一郎「現代日本版画家群像」 第10回 木村光佑と黒崎彰

現代日本版画家群像 第10回
木村光佑と黒崎彰

針生一郎


 一九六〇年代の末、文字どおり彗星のように登場した二人の作家ほど、版画の新しい息吹きを感じさせたものはない。一九三六年生まれの木村光佑と、三七年生まれの黒崎彰である。どちらも関西に育ち、デザインから版画に進み、雑多な要素から養分を汲みとって、振幅の大きい仕事をくりひろげ、数々の国際賞を受賞した点では、多分に共通性がある。だが、その上で木村がリトグラフやシルクスクリーンを中心とし、黒崎があくまで木版に固執するばかりでなく、芸術観の上でも二人は対称的であって興味深い。
 木村光佑は大阪天満の繊維問屋の長男である。だが、彼の高校時代、父の病気のため店は倒産し、病床に債権者たちがつめかけたとき、光佑はその窮境を救うため、煙草をくわえて不良学生然とその部屋に闖入し、生意気だと債権者たちに殴られたらしい。このハプニングに気勢をそがれて債権者たちは帰ったが、光佑は殴られて以来耳が遠くなって、ヴァイオリニスト志望を断念した。その後、大道で商品を売る父を手伝いながら、彼は「いまにみておれ」という負けじ魂をつちかい、高校の美術教師や高校美術展でみとめられたのをさいわい、京都美大日本画科に進んだ。美大時代はアルバイトに追われながら、ボクシング・ジムに通って、フェザー級四回戦ボーイとなったが、それでも対象を量塊としてよりも、塗りかさねた色彩の集積としてとられる、日本画の技法はしっかり身につけたようだ。
 美大を出るとすぐ、木村は大阪読売広告社に就職し、今度は印刷・製版の技術を職人たちから学びながら、グラフィック・デザインに芸術的情熱をそそいだ。だが、三年後に十二指腸潰瘍にかかって六ヵ月入院し、その間にフリーランスの生活を求める心境になって、退院後七人のスタッフとともにデザイン工房「アトリエ・グロッタ」をはじめた。そこでも、注文制作に芸術作品のような個性を発揮して、スポンサーに好評を博するうち、六八年、友人にすすめられて、現代日本美術展に版画を出品し、入選する。人物横顔のシルエット、眼と太陽、女のトルソなどを、写真の二重写しのようにかさねあわせたり、モンタージュした亜鉛版リトグラフで、デザイナーとして印刷技術から汲みとったものが、存分に生かされている作品だった。紀伊国屋画廊かいち早くこの無名の新人に眼をつけ、翌年企画展にとりあげると、木村は亜鉛版リトにシルクスクリーンを併用しながら、出所も分野もさまざまな映像を散在ないし交錯させた上に、淡い色彩の帯を走らせ、カタログ時代を先どりするような世界をつくりあげて注目をひいたのである。
 同じ六九年にはじまる“out of time”シリーズは、この作家が版画にもたらした新風をあざやかに告知している。「季節はずれ」とか「時期おくれ」のこの言葉に、木村は「時間からの脱却のエクスタシー」といった、実存主義的なニュアンスもこめているのかもしれない。例によって機械の部品、人物、新聞、古代美術、日本の民家、宇宙図、抽象図形などを刷り重ね、一九七〇年イギリスのブラッドフォード版画ビエンナーレ受賞作では、紙にリト、アクリル板にシルクで刷って、イメージを透かしかさねている。この傾向は、七一年にはじまる「現在位置」シリーズにもうけつがれ、二枚のアクリル板の内側にシルクで刷って、その中間に鏡をおいたり、アクリルの内面を鏡面にしたりして、映像を複雑精巧にかさねあわせる。このシリーズによって、七一、七二年彼はジャパン・アート・フェスティヴァル、リュブリアナ版画ビエンナーレ、箱根・彫刻の森国際彫刻展、クラコフ版画ビエンナーレ、オスロ版画ビエンナーレなどでつづけざまに受賞した。とりわけ、《現在位置―存在A》では、ネガとポジ、虚像と実在、抽象と具体がマルチスクリーンのように交錯して、現代生活の多次元的なアクチュアリティを感じさせる。

DSCF8169_600木村光佑
「アウトオブタイム OUT OF TIME (81-3) S」
1981年
フォトリトグラフ
39.7x51.8cm
サインあり
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 木村光佑が版画を複製・印刷技術の一環としてみていることは、すでに上述の経過や作風からも明らかだが、京都美大では彫刻科に入ろうとして、伝統ある日本画科を結局選んだように、立体作品にもなみなみならぬ意欲をみせている。七二年の紀伊国屋画廊個展には、銅メッキした直方体のスチールに、球状や直方体状の孔を穿ち、社会生活を規制するフレームを象徴し、同年ユーゴのフォルマ・ビバ彫刻シンポジウムに参加して、五本の角材に溝や空洞を少しずつずらして彫り、ネガとポジの関係をあらわし、七三年の宇部野外彫刻展には、アクリルの立方体にステンレスの球体、ステンレスの球体にアクリルの立方体を、少しずつ位置をずらして入れたものを五個ずつ地面にならべ、《カプセル小宇宙》と名づけた。
 一方、彼は一九七〇年ごろからエッチングもこころみ、《能面》や《文楽人形》シリーズを制作しているし、七五年以後動物や樹木を達者な手描きで写実的に描いたリトも発表している。同じ七五年に制作された《一つのエピローグ》は、亜鉛版の飛ぶ鳥と写真制版の上に彫刻刀で縦横にひっかいた男女の顔を示し、彼自身のひとつの転機への予感を物語るかのようだ。たしかに、わたしはクラコフで彼の《現在位置―存在A》をみたとき、尖鋭な現実感覚と同時に表層的な底の浅さも感じとったが、これをこえるのが木村の課題かもしれない。
 黒崎彰は満鉄化学研究所技師の長男としで大連に生まれたが、母の病弱のため生後三ヵ月で神戸の実家にひきとられ、まもなく母は死亡した。七歳のとき、父方の里である大津へ、さらに草津へ疎開し、敗戦でふたたび神戸の母方の家に移ったが、小学五年のとき、父が再婚した実母の妹とその娘をつれて帰国する。双方の大家族をたらいまわしにされた多感な少年期が、彼の芸術家としての地を形づくったにちがいない。中学に入ると、父のすすめで芦屋の新制作洋画研究所に通い、白髪一雄、網谷義郎、西村元三朗ら年長の青年たちとともに石膏デッサンにうちこみ、さらに神戸市民美術教室にも通ってデッサンやクロッキーにはげんだ。油絵も中学二年から手がけ、高校時代には新制作調モダニズムにあきたりなくなった。一年浪人後、京都工芸繊維大に入ったのは、「絵描きでは飯が食えない」という父の忠告のせいだけではなく、やはりモダニズム絵画への批判のせいらしい。
 だが、当時のデザイン界は、日本経済の復興に支えられて機能主義的モダニズム一辺倒だから、黒崎彰が大学の教授たちの授業に反撥するのは当然だった。彼は古本屋をあさって文学書に耽溺し、とりわけ結核で二年間休学中、モーリヤックの『イエスの生涯』やドストエフスキーの全集に熱中した。絵画では北斎に思想性を発見し、その系譜を幕末浮世絵のなかに求めて、当時はまだ学生でも買える大蘇芳年の作品を集めはじめた。西洋では、ゴヤ、ムンク、ゴーガンらの版画に、サロン絵画と異質な黒い情念と哲学があると感じた。大学を六年かかって出ると、帝塚山学院や近畿大学で基礎造形を教えながら、黒崎は自分の決意を明確にしカトリックの洗礼をうけ、神戸出身の画家村上華岳に傾倒し、華岳や劉生を思わせる油彩風景画を描いた。だが、油絵ではどうしてもカタルシスをみいだせず、カトリック的主題の表現を求めて、一九六五年、レクイエムの主題による木版画を二点制作する。それは技法的には未熟ながら、亡霊や幽鬼にみちた罪業と恐怖の世界を、表現主義的に追求して迫力がある。
 木版画に独自な方向をみいだした黒崎は、京都の浮世絵複製画の刷り師を訪れてかさね刷りやぼかしの技法を学びはじめた。それらの技法をふまえて、六八年の《浄夜》シリーズ以後、これまでの平面的な空間を立体的にするため、人体の断片や細い帯に透視図法をとりいれるとともに、版の重層法から分解法に移り、染料のかわりにポスター・カラーと墨を用いた。主題としてはなおカトリック的だが、色彩はサイケデリックなまでに強烈となり、立体的に描かれた幻影たちは、むしろ此岸の官能と罪悪をおびてうごめく。このシリーズの後期には階段が登場し、バックの赤い門と漆黒の闇がえたいの知れない超現実の空間を現出する。六九年の《寓話》シリーズでは、階段が箱に入ったり、透明なケースに収められて宙吊りにされ、その下に亡霊のような生きものの断片がかさなりあう。
 とりわけ、五年間の集大成とみられるのは、七〇年の《赤い闇》シリーズだ、情念の地獄を意味するらしいタイトルだが、乳房や臀部など女体の部分を思わせる有機体が、人形や玩具のようにオブジェと化してかさなり、例によって赤い壁や階段入りの箱、漆黒の闇にかこまれて、舞台空間のように抽象化されている。京都の画材店主に教えられて、西ドイツの顔料にアラビアゴムと膠をまぜて調合をくふうし、七、八十度刷りというおどろくべき技法の発明によって、ようやく芳年の血の色に通ずる死とエロスの世界を、知性とユーモアをもって表現することができたのである。これがクラコフや東京の版画ビエンナーレで、受賞したのも当然だろう。《赤い闇》の一部は、正方形を四十五度傾けた菱形の作品群となっている。

kurosaki_04_gensou_mori黒崎彰
「Fantastic Forest 幻想の森」
1973年
木版
イメージサイズ:56.0×38.7cm
サインあり


 これら国内、海外での受賞の結果、黒崎彰は母校の京都工芸繊維大の教師に招かれ、七二年にはクラコフ版画ビエンナーレに招かれて制作を実演した。わたしも同じときクラコフに招かれたので、多くの市民や芸術家が彼の人柄と作品に共感していたのを知っている。版画をはじめた当初、彼は自画自刻自摺の職人技術に固執していたが、七、八十度刷りには厖大な時間と労力を要する上に、同年輩の刷り師内山宗平が訪れて話し合いの末、刷りをゆだねてみると内山刷りの方がはるかに尖鋭な効果をもつので、浮世絵時代の分業と協業の必然をみとめざるをえなかった。七三年には文化庁在外研修生として一年間欧米に滞在し、とりわけカンディンスキーの木版画とジャン・バブティスト・ジャクソンの色彩木版画を研究したらしい。このとき、ロンドンで東京版画ビエンナーレに国際審査員として来たピーター・バードと再会し、その依頼で毎年夏モーリー美術大で木版画技法を教えることになった。こうした国際的活躍の結果のひとつは、七五年シロタ画廊から出版された亜鉛凸版、木版併用の画集“America, love and peace”で、そこには男女の性的結合の接写写真が転写されている。「鎮魂」と「浄夜」の主題から出発した黒崎彰は、ドストエフスキーやモーリヤック、ゴヤやムンクにみちびかれながら、ますます現世のエロスの通俗性のなかに下降しつづけている。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.74より再録
1981年11月 現代版画センター刊

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て再録掲載します。30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・新連載・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
 ・君島彩子のエッセイ「墨と仏像と私」は最終回を迎えました。
 ・新連載・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月14日の更新です。
 ・鳥取絹子のエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は最終回を迎えました。
 ・井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
  バックナンバーはコチラです。
 ・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は毎月22日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新ですが、今月4月は休載します。
 ・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
 ・浜田宏司のエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
 ・ときの忘れものではシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

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◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル〜氏コレクションより」を開催します(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

●イベントのご案内
4月25日(金)18時より、ジョナス・メカス監督「ファクトリーの時代」の上映会を開催します(※要予約/参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。

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本日のウォーホル語録

<ときどき、ぼくには悪意があるといって、非難する人がいる――フィルムに納めたり、録音するために、仲間が自滅するのをただ見ていると言ってね。でもぼくは自分のことを悪いとは思わない。ただ現実的なだけだ。ぼくは小さいときに、自分がカッとなって、誰かに指図しても、何も起こらない、ということを学んだ。実際には黙っている方がもっと大きな力を持つということを学んだのだ。少なくとも、そうすれば人は自分自身を疑いはじめるかも知れないからね。時が満ちさえすれば、人は変わる。そうれまでは絶対にやろうとはしない。死ぬまで気づかずに終ってしまう人もいる。本人がその気にならないかぎり、誰もその人を変えることはできない。その気になったら、誰も止められないのと同じようにね。
―アンディ・ウォーホル>


ときの忘れものでは4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催しますが、それに向けて、1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介して行きます。

針生一郎「現代日本版画家群像」 第9回 吉原英雄と斉藤寿一

現代日本版画家群像 第9回
吉原英雄と斉藤寿一

針生一郎


戦後版画のパイオニアは、創作版画の流れを汲む人びとや、敗戦直後に版画をはじめた世代にかぎらない。今回とりあげる二人は、ともに一九三一(昭和六)年生まれだから、敗戦のとき中学生で、一九五〇年代に版画に志したとき、すでに幾人もの先輩たちがいたはずだ。だが、版画には元来、技術の実験や発明という意味で、パイオニア性を要求されるところがある。この二人はその要求に忠実なため、版画ブームのなかでいくぶん孤立しているようにみえる。
まず二人の共通性をあげると、どちらも父親が機械技術に縁があった。吉原英雄は父がアメリカに渡った留守中、広島県の尾道に近い因島に生まれた。四歳のとき、父が帰国して一家は神戸に移るが、一九三八(昭和一三)年、そこで水害におそわれる。そのあと、父は機械工具の会社をはじめたので、一家は大阪に出た。だが、太平洋戦争末期、英雄ら中学生は和歌山に勤労動員され、空腹のまま塹壕堀りをやらされているとき、病床にあった母の死の報がとどいた。
斉藤寿一は川崎市に生まれ、父は日本鋼管の技師で、多くの機械工具を発明または改良したらしい。その血をひいたのか、彼は小学校時代から模型飛行機に熱中し、小遣いは全部その材料に注ぎこんだ。そのため県立川崎中学に受験して落ち、一年高等小学校に通ううち、「画鋲とり」や「塵とり」を発明して川崎市長賞を受け、全国発明工夫展でも受賞したという。中学に入ると、すぐ東芝工場に勤労動員となり、真空管づくりをやらされたが、「エジソン」の仇名をもつ彼は、廃品をあつめてラジオをつくったり、米軍の飛行機が墜落した現場に駆けつけて、計器類をとりだしたりした。
もうひとつの共通性は、どちらも東京芸大を志して、結局断念したことである。吉原は高校三年のとき、ふいに画家になる決心をし、父が会社を継ぐか、医者になれと反対しても動じなかった。だが、あいにく結核にかかって一年入院したため、芸大受験はあきらめ、回復後大阪市立美術研究所に三年通った。その後吉原治良に一年間絵をみてもらううち、「具体美術」の創立メンバーに加えられたが、このグループのモダニズムとヒエラルキーにいや気がさし、泉茂の誘いで「デモクラート美術」に加わった。一九五五年、幼な馴染の良子夫人と結婚して父の家を出たが、そのころ泉茂が東京で仕入れてきたリトグラフの機械をみて、自分も購入する。二つの前衛芸術運動に加わりながら、いつもさめて自律性を失わず、結局どちらもリトグラフとの出会いまでの予備過程でしかなかったのが、いかにも吉原らしい。
斉藤は敗戦後の中学で教師に画才をみとめられ、ほかの授業をサボって石膏デッサンに没頭した。学制改革で新制高校三年になったとき、彼は東京芸大を受験するといいだして、理工系への進学を期待していた両親を失望させた。だが、この年は入試におち、それから目黒洋画研究所に通って、都合三回芸大を受験したがいずれも失敗した。そのころ、友人の紹介で会った加山四郎に、こんな石膏デッサン中心のアカデミックな勉強ではダメだ、造形の根本をつかめ、と忠告されて芸大受験のかわりにフランス留学を決意した。アテネ・フランセや日仏学院のほかに、個人教授についてフランス語を学び、私費留学生試験を受けたが、ここでも芸大出優先で二度落され、三度目にやっと合格して、一九五八年船で旅だった。
パリでは加山四郎の紹介状をもって濱口陽三を訪れると、濱口はヘイターの「アトリエ一七」に入って銅版画を学ぶことをすすめた。刃物をとぎ、銅版を彫り、腐蝕し、プレスする作業は、発明狂だった斉藤の資質にぴったりで、大学都市日本館で同室の新村猛に「魚の版画家」などとよばれながら、海、魚、ゆがんだ太陽といったイメージを追いつづけた。一九五九年夏、イタリア旅行から帰ると、第一回パリ青年ビエンナーレに招待されていたが、搬入まで一週間しかなかった。彼は森と湖と月をモチーフとし、青と黒のインクに、腐蝕のトーンで微妙な変化をつけた銅版画を一〇点出品し、注目をあびたが、そのさなかに母の死を知らせる電報をうけとったらしい。
これまでの経過からも、二人の性格の相違はうかがわれよう。吉原英雄は転変にみちた生いたちのなかで、独得な反骨をつちかわれたが、その反骨は表面もの静かにみえて、性分にあわないものは断乎拒否するところに特色があるようだ。そして、銅版や木版よりも抒情味がなく、クールだからいいというリトグラフに出会って以来、テコでも動かないようにもう二十五年間、それとはてしない対話をつづけている。一方、斉藤寿一は小学校時代「小エジソン」とあだ名されたように、身近な素材を使っておもしろく便利なものをつくりだすのが無上のよろこびで、夢中になるとほかのことはすててかえりみないが熱中の対象はつぎつぎに変ってきたようだ。何といっても、ヘイターのもとで一版多色刷りの銅版技法を身につけたのが決定的だとはいえ、この「小エジソン」はいつまでもそこにとどまっていず、版画のほとんど全領域に実験の触手をひろげている。
ここでデビュー以後の二人の、作風の展開をふりかえってみよう。一九五〇年代後半の吉原英雄の石版画は、鳥、花、楽器などと合体した幻想的な人間像が中心で、泉茂の影響が感じられる。作者の反省によると、同じ主題を油絵や水彩でも追求しながら、プレスの圧力をとおして石版画独特の表現が生まれることの理解が浅かったという。一九六〇年代前半には、刷りの行為とプレスの圧力をとおして版画特有の表現をさぐるため、同じユニットの無限連続による抽象にむかっている。その延長に、紙の材質感を強調するため、中央を破って折り返した連作も生まれている。
一九六五年の《証言》は、石版による色の帯が斜めにくぎる空間に、女の顔をドライポイントで描きこみ、これが抽象芸術から鳥、花、女の体軀と色の帯を組みあわせた近年の作風への転換点とされている。だが、吉原は女の顔をほとんど描かず、物体や記号のように断片化されたその体軀も、抽象空間を緊張させる要素となっている。エロティクよりもサスペンスに関心がある、という彼の言葉はその間の事情を物語るだろう。

yoshihara_03_woman吉原英雄
「WOMAN IN THE SKY」
1967年
エッチング
55.5x41.5cm
Ed.30
サインあり


yoshihara070306吉原英雄
「切り取られたチューリップ(朝)」
1984年
エッチング
45.0x36.5cm
Ed.150
サインあり


『吉原英雄の石版画』(河出書房新社)によれば、数年前ニューヨークの工房で制作したとき、彼は欧米の美術家から「ぼくらは一版ずつ刷りを確かめなければ、つぎの版が描けないのに、きみはなぜ刷る前に全部の版が描けるのか」とふしぎがられたそうだ。たしかに、頭のなかでイメージを分解=綜合して版におきかえてしまう能力は、日本人の特技であると同時に弱点かもしれないが、石版画の制作には好適である以上、この能力を活用して強味に転化したい、と吉原はいう。こうして彼は、日常性のうちに存在の構造を透視する、現象学的地平をきりひらきつつある。
五九年秋に帰国した斉藤寿一は、六〇年一月、濱口陽三に紹介された田村泰次郎の現代画廊で個展をひらくと、ヘイター直伝の技法が新鮮で、銅版画十二点、グワッシュ四点が全部売れた。同年のシェル賞展でも受賞したので、渡欧前仏語教師のもとで知りあった聆子夫人と、新村猛夫妻の媒酌で結婚する。六三年にはヘイターの技法を発展させ、ローラー着色により二版で三色を出す技法を発明し、妖しく光る青い微生物がただよう《青い光》シリーズをはじめる。六五年、長男の乳母車の修理をたのみにいった町工場で、工員が貸してくれたグラインダーに魅せられ、自分もグラインダーを買って亜鉛版に自在な線を引き、孔版による純色の色面を配した《四季》シリーズ(六五〜六六年)や、こどもを主題とするユーモラスな《母子手帖》シリーズ(六七年)を制作した。

jyuichi斉藤寿一
「白い風 A」
1970年
銅版
42.0x30.0cm


同じころから、斉藤は形のない実在としての「風」や「宙」を主題として、版画のおちいりやすい技術主義を脱却しようとする。とりわけ、六八年は大爆発の年で、油絵大作、木版、石版、紙を切りぬいて組みたてる「立体版画」コラージュと吹きつけ、石彫にまで手をひろげた。それらは文化学院と和光大学で教えるうち、学生の制作に刺激されていっしょに研究したことが、機縁となっているらしい。七五年には芳賀明夫とともに、インド、ネパールを旅行して、とくにヒンズー教の神像に魅せられ、翌年また二人でインド、アフガニスタン、イランを旅行して、回教寺院の幾何学文様とバーミアンの石窟仏像に衝撃をうけた。こうして、「風」や「宙」の主題は、風神雷神、カオス観音氏神などの「おかしな神々」とアジア的宇宙論に収斂されてゆくとともに、壁画、レリーフ、木彫などをとおしても、地域コミュニティに根をおろそうとする努力がつづけられる。
ところで、わたしは斉藤のアジアヘの関心に共鳴しながらも、近作では《青い光》や《風》シリーズの初期にあった、神秘で新鮮な流動する無限空間が、妙に通俗的に固定化しつつあるという危倶をもいだいている。彼はかつて、日本の版画に根づよいシュルレアリスムには、生理的に耐えられないと語ったが、近作には幻想や象徴への志向が過剰にあらわれてはいないだろうか。吉原英雄と同様、斉藤寿一の出発点には明確な抽象への意志があり、それが風のように流動する無限空間を生みだしたことを、もういちどふりかえってほしい。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.73より再録
1981年10月 現代版画センター刊

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◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て再録掲載します。30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月14日の更新です。

■ときの忘れものは2014年3月12日[水]―3月29日[土]「瀧口修造展 II」開催しています(※会期中無休)。
201403
今回は「瀧口修造展 機では展示しなかったデカルコマニー30点をご覧いただきます。

●出品作品を順次ご紹介します。
II-05(124)瀧口修造
《-1》
デカルコマニー、水彩、紙
Image size: 14.0x12.3cm
Sheet size: 15.1x12.3cm

II-21(156)瀧口修造
《-2》
デカルコマニー、水彩、紙
Image size: 13.6x9.9cm
Sheet size: 13.6x9.9cm

●このブログでは関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
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本日のウォーホル語録

「母はいつもぼくに、愛について気に病むことはないけれど、結婚だけは必ずしなさいと言っていた。けれども自分が決して結婚しないことだけはいつもわかっていた。なぜなら、子供は欲しくないし、子供たちに、ぼくが持ってるのと同じような悩みを抱えて欲しくないからだ。誰もそれを受け取るには値しないと思う。
―アンディ・ウォーホル」


ときの忘れものでは4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催しますが、それに向けて、1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介して行きます。
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針生一郎「現代日本版画家群像」 第8回 加納光於と横尾忠則

現代日本版画家群像 第8回
加納光於横尾忠則

針生一郎


 「ある日、私は辿りついた谷間の家で、生物の変態の、そのふしぎな過程を眼のあたりにする想いであった。鏡の束は羽化の寸前を、静かに脈を打っていた。なぜ私は蛾よりもはかない羽音の瞬間に魅せられたのだろう。確かにあの日の糠雨のなかで、天使の囁きと天使の小さな足音を聴いたようだ。だがそれだけではない。芸術と呼ぶ古びた仮装のなかで、稀れに、きわめて稀れに、聞いたことも見たこともない小昆虫が住んで、人の魂のなか、金属の分子のあいだを通行するのを感じ取ったからにほかならない。」
 加納光於は一九五六年、滝口修造の企画したタケミヤ画廊の個展で、はじめてわたしたちの前に出現した。いま引用した滝口の文章は、彼が当時二十三才だった加納の銅版画を発見したときの、したがってわたしたちが最初の個展をみたときの、新鮮な衝動と昂奮をみごとにつたえている。たしかに、この寡黙な少年のような作者の、禁欲的ともみえる内攻的な意志のもとで、金属にひそむ磁力がふいによびさまされ、鉱物から生物へ、また無機物へと、イメージがめまぐるしく変貌をたどるのが魅惑的だった。その翌年、彼はタケミヤ画廊でもういちど個展をひらく一方、第一回東京国際版画ビエンナーレに招待され、一年おいて一九五九年にはサンパウロとリュブリア−ナの国際展への出品者に選ばれ、後者では受賞もしているから、この新人作家が急速に注目をあびていった経過がわかるだろう。
 加納光於は蚕が糸を吐いて自分を包む繭をつくるように、その制作を一貫してシリーズとして展開してきた。最初期の《植物》《種族》《密猟者》などのシリーズでは、闇の恐怖にみちた暗い深さのうちに、海底植物、魚類、甲殻類、骨片、岩石、水流、眼球などのイメージが交錯する。だが、一九五六年の《燐と花と》《焔・谺》《翼・予感》あたりから、暗く重い空間の深さは消え、細密な線條によってうかぶ博物標本、生物の痕跡、天文気象の徴候に似た形象が白い表面に散乱する。とりわけ一九六二年ごろの《星・反芻学》シリーズでは、化石した骨格、凝固した溶岩の亀裂、顕微鏡でみた結晶構造などを思わせる、硬質な集合のイメージの極北がみられる。だが、気がつくと、初期には極度に内攻的とみえた加納が、このあたりですでに百科全書的な「自然の学」をはてしなく渉猟し、やがて版画の限界すらこえようとするのだ。
 一九六五年、加納光於は亜鉛板をガス・バーナーで焼き、凹ませたり穴をあけたりしてかさねあわせ、《Mirror 33》と題する一連のレリーフ作品をつくった。同じ方法でできた亜鉛板をプリントに適用したのが、六四年にはじまる《Soldered Blue》シリーズで、そこには金属の亀裂やよじれとならんで、美しい青という色彩の発見がある。「流れた牛乳がブルーに冒される、捩り上げた腕がブルーに冒される、安全ピンがブルーに冒される、愛撫する乳房がブルーに冒される、海の青いうねりがブルーに冒される」とノートに書いた加納は、六七年の《Penninsular(半島状の)》シリーズでは、すでに十色ものあざやかな色彩を駆使するにいたる。
 だが、一九六七年、八年にジャパン・ソサエティの招待でアメリカ、ヨーロッパに滞在したのち、加納は自己の観念=影像のすべてを封じこめるため《Plant Box》と名づげる函のオブジェの制作に集中する。「もし、仮にその内部に、宇宙の肉体像をとじこめることができるのなら、それらの硬質な器官を支えるための張りつめた外部を、紙でもなく、布でも、冷たい金属でもなく、かたく、しなやかな木材と、ガラスの<函形皮膚>とで構成しようというイメージがまず初めにあった」。一九七一、二年にこの函のオブジェは、大岡信の未発表の詩集『砂の嘴・まわる肉体』を内部に封じこめた、《アララットの船あるいは空の蜜》で絶頂に達する。それは加納の命名によると、この詩集のほかフライング・マシーン、エクトプラズム・ボックス、制作ノート、言語のためのカプセル・オーロラ、大陸棚誘引球、彷徨ミラー、ビーム・コンセントラクション・システム、蜂窩円筒、眼光スペクトル、透視窓、分光円盤、胸時計などの「内臓」と「附随器官」をふくむというが、解体しなければ語を読むことも、部分を識別することもできないのだ。
 さらに一九七三年、加納はナポレオン時代に実用されたという葡萄弾をモチーフとして、『葡萄弾―遍在方位について』という画集とオブジェ、《Grape Shot》という版画シリーズをつくった。七四年には、若林奮の彫刻“How to fly”に触発されて、《How to flyの遍角に沿って》と題する転写とフロッタージュの十二色刷りの版画シリーズを試作した。このように、彼の関心はますます百科全書的に自然全般にひろがり、その制作はリトグラフも手がけてますます表面性に固執する一方、版画の境界を遠くこえ、通常のコミュニケーションすら拒絶する姿勢をつよめているが、その透徹した思索によって多くの人々の前に、回避できない謎のような作品をつきつけてやまない。

PF-2加納光於
「llumination-1986 PF-No.2」
1986年
リトグラフ
49.0x61.0cm
Ed.50
サインあり


 加納が版画への内攻的、求心的な探求から、その境界を一挙につきやぶるヴィジョンに達したとすれば、横尾忠則はまったく対照的に、グラフィック・デザインの領域から、霊魂や神秘の世界を求めて版画に達している。一九三六年、兵庫県西脇市の呉服屋に生まれた彼は、幼時から福助、旭日、波頭などの商標やラベルに愛着をいだいたらしい。高校を出て版下描きをしたり、神戸新聞の広告部につとめたりしたのち、六一年二十才で上京して、田中一光の世話で日本デザイン・センターに入り、かたわら日宣美(日本宣伝美術協会)展に出品する。当時の日宣美展は、バウハウス以来の機能主義の理念が、キレイゴトのレイアウト万能主義として固定化しつつあったのにたいして、横尾の土俗的映像を極彩色でちりばめながら、強烈に私性を表出するサイケデリックな作品は、六〇年安保闘争以後の若者たちに急速に浸透していった。
 わたしは一九六八年秋、アメリカ国務省の招待でニューヨークに滞在中、あるポスター・スタジオ主催の個展のためきていた横尾と出会ったことを思いだす。彼はたえずホモ人士につきまとわれて逃げまわっていることや、自分の英語がほとんど通じないのに失望して、英語学校に通っていることをユーモラスに語っていた。六九年には、パリ青年ビエンナーレで版画大賞を受賞し、また東京国際版画ビエンナーレでは、ベル・エポック期西洋家族の記念写真を転写して、ポスターとカタログ表紙をデザインしたが、たまたま同展で大賞となった野田哲也の《日記》も、自分とイスラエル人婚約者の家族の記念写真を、木版とシルクスクリーンで転写した作品だったため、版画とデザインの区別がひとしきり話題になった。その論議のなかで横尾が、大量伝達の機能上政治とのかかわりも避けられないグラフィック・デザインの立場から、版画の限定部数と結びついたオリジナル信仰に疑問を提出したことは忘れられない。
 だが、一九七〇年三月、交通事故に遭って一年半ほど休業したのち、横尾忠則は生死の問題を契機として急速にUFO、心霊術、ヨガ、古代インド思想などに傾倒していった。七二年には、ニューヨーク近代美術館で、彼のポスター個展がひらかれて好評を博したが、彼は広告と結びついたグラフィック・デザインの第一線からは退いて、しだいに文筆活動に重点を移しはじめる。とりわけ、ヒマラヤの奥のポタラ宮殿の地下にひろがるジャンバラ王国の伝説にとり憑かれ、インド、ネパールで観光みやげものとして市販されている聖像画や絵葉書、ポスターなどを資料に、オフセットとセリグラフの版画家《聖シャンバラ》をつくって、一九七四年南天子画廊で個展をひらいた。
 最後に、近年の心境をつたえるため、横尾の言葉をいくつか引用しておこう。「考えてみると、自分のやってきたことが、何事も中途半端で、いやでたまらない。仕事が残るってことは、いやなことだな。仕事というのは、おかしなもので、あらゆる欲望をかきたて、なんでもかんでもとろうとする野心をおこさせる。ぼくは映画にも出たし、TVドラマにも何ケ月も出た。ああいう仕事は、人に見られたい欲望がなければ、とうていつとまらない。ところが、あるとき、楽屋で鏡を見ている役者の軽薄な顔を見て、たまらなくいやになった。」(瀬木慎一『明日をつくるデザイナーたち』から)。
 「夢日記をつけてみようと思いたったのは、空飛ぶ円盤が夢の中に飛んでくるようになった1971年の頃からです。それまでばくは空飛ぶ円盤なんてものには全く興味がありませんでした。……何しろ潜在意識からUFOの存在を叩き込まれていったわけだから、疑いようがないのです。UFOの次に説得されていったのは神仏の夢でした。神仏の出現の夢はUFOと同様、全く夢とは思えないほどの強烈なリアリティを持っていて目が覚めてからも夢の続きの高揚感が持続するのです。」(『夢日記』あとがき、一九七九年)。
 「これは本心か、本心でないか、ぼくもよくわからないのですけれども、そういう版画ができようが、絵がいいものができなくてもいいから、いまおっしゃった自我というものから、あるいは自分自身の執着といっていいかもわからないけれども、そういったものから解放されるのだったら、職業が変ってもいいし、もっと貧しい生活でもいいと思いますね。ところがそちらの方に行けないわけですよ。だから非常に俗なるものをまた一方で求めてしまうことになるわけですね。そして求めすぎると、また聖なるものへ自分が引返さなければいけないとか、その非常に中間的な位置で、ちゅうぶらりんの状態で苦しんでいるわけですよ。」(『GQ』6号、一九七四年)。

yokoo_11_tahiti_2a横尾忠則
「タヒチの印象 II-A」
1973年
スクリーンプリント・和紙(裁ち落し)
イメージサイズ:83.9x59.1cm
Ed.100の内、T.P.(数部)
サインあり
※レゾネNo.39(講談社)


(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.68より再録
1981年4月 現代版画センター刊

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◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て再録掲載します。30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子さんのエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・土渕信彦さんのエッセイ「瀧口修造の箱舟」は毎月5日の更新です。
 ・君島彩子さんのエッセイ「墨と仏像と私」は毎月8日の更新です。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月14日の更新です。
 ・鳥取絹子さんのエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は毎月16日の更新です。
 ・井桁裕子さんのエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
  バックナンバーはコチラです。
 ・森下泰輔さんの新連載エッセイ「私のAndy Warhol体験」は毎月22日の更新です。
 ・小林美香さんのエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
 ・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・飯沢耕太郎さんのエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
 ・浜田宏司さんのエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
 ・深野一朗さんのエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
 ・ときの忘れものでは2014年1月から数回にわけて瀧口修造展を開催します。関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

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◆ときの忘れものは2014年2月5日[水]―2月22日[土]「西村多美子写真展―憧景」を開催しています。
出品リストはホームページに掲載しました。
DM
本展は六本木の ZEN FOTO GALLERY との共同開催です(会期が異なりますので、ご注意ください)。

第1会場 ZEN FOTO GALLERY
「西村多美子写真展―しきしま」
会期:2014年2月5日[水]―3月1日[土]
日・月・祝日休廊
第2会場 ときの忘れもの
「西村多美子写真展―憧景」
会期:2014年2月5日[水]―2月22日[土]
会期中無休

●展覧会の感想
<休日の11日、南青山のギャラリー「ときの忘れもの」で西村多美子の『憧景』。70年代前半に撮られた写真のプリント群は、当時のアレ・ブレ・ボケの潮流の中から這い出てきて、今見ても、強く惹き付けられるものがある。
ところで、ギャラリー「ときの忘れもの」に伺った時、入るなり温かいお茶を出していただいたことに、ほんのり感動してしまった。外が寒かったのでなおのこと。それも、熱すぎず、ちょうど飲み頃の温かさ。感動倍増やん。>

(悲しき石庭さんのtwitterより)

『西村多美子写真展―憧景』の出品作品を順次ご紹介します。

出品番号21:
nishimura_21
西村多美子 Tamiko NISHIMURA

《神戸、兵庫県》
(p.112-113)
1971年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:19.0×27.8cm
シートサイズ :25.2×31.0cm
サインあり

出品番号22:
nishimura_22
西村多美子 Tamiko NISHIMURA
《秋田駅、秋田県》

(p.61)
1970年代初期
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:28.8×19.7cm
シートサイズ :30.6×25.3cm
サインあり

針生一郎「現代日本版画家群像」 第7回 靉嘔と池田満寿夫

現代日本版画家群像 第7回
靉嘔池田満寿夫

針生一郎


「その人間は私を変える力を持っていた。かれは私の信ずる限りもっとも秀れた芸術家であった。私はかれからなんと多くのことを学んだことか?かれは無数の言葉でどのように私を困惑させたことか?(中略)
かれはつねに私と対等に語り合い、私の内の芸術家を尊重した。そんなかれが私の母と同じ年令であるのを知って、私はどんなに感激したことだろう。一方芸術家としてのかれは生きている間に物故作家の側に入れられていた。二十世紀の芸術家の生き方はまさにそうあるべきなのだ。」
池田満寿夫瑛九との出会いをこんな風に回想しているが、わたしはついにいちども会ったことのないこの作家について、これに似た傾倒の言葉を利根山光人、加藤正など何人から聞いたことだろう。一九五一年、宮崎から浦和市に移り住んだ瑛九は、久保貞次郎らの創造美育の運動に協力する一方、訪れる青年たちをデモクラート美術協会に誘い入れ、彼らに版画への情熱を鼓吹してやまなかった。しかも、「創作版画」の流れとちがって、瑛九の推進した版画はこれらの作家にとって、けっしてゆきどまりの到達点ではなく、期せずして多様な冒険への起点となっているのは興味深い。
一九三一年、茨城県玉造町に生まれた飯島孝雄も、東京教育大に在学中瑛九と出会って版画熱を吹きこまれ、一九五四年、大学を出てドライポイントとエッチングの銅版画集を上梓するとき、瑛九に似て二字の靉嘔というペンネームを使いはじめた。この処女作品集は、内部の主調低音を素朴にまさぐる過程といっていいが、レジェのように明確でつよい輪郭にかこまれた男女がいるかと思えば、はりつけや絞首刑の人物がみえ、またひまわりの花が人間の顔とかさなりあうかと思えば、空間にひらかれた窓となり、さらに鉄骨の歯車に変形するあたりに、まさに戦後日本の精神風景が集約されている。当時、わたしをふくめてかけだしの批評家三人が、座談会でレジェの楽天性に疑問を述べ、デモクラート美術の泉茂からその認識不足を痛烈に批判されたことがあるが、靉嘔の初期銅版画にもレジェの力づよい明るさに惹かれながら、暗く内攻するものをひめた感受性があらわれている。
一九五五年、靉嘔は池田満寿夫、真鍋博、堀内康司とグループ「実在者」を結成し、まだ瑛九も手をつけなかったリトグラフにうちこむため、石版機械を自宅に買いこんだ。おそらく、より抽象的な表現と色彩への要求が銅版から石版への転換をうながしたのだろう。とはいえ、当時紹介されたアンフォルメルのように、流動し渦まく色彩のタッチ、鉄骨と機械、マヌカンのような人体はあらわれても、靉嘔が具体的なものを完全にはなれることはなかった。一九五七年には、久保貞次郎が創美の美術教師たちを中心に組織した「小コレクターの会」が、靉嘔と池田溝寿夫の版画を毎月数点ずつ購入する契約を結んだので、靉嘔は五八年にアメリカに渡るまで、わずか二年間に一〇三点の石版画を制作している。もっとも、五七年美術出版社の設立した「版画友の会」も、靉嘔の石版二点を頒布目録に加えたが、その後三年間にたった一枚しか売れなかったという。
靉嘔靉嘔
「アンフォルメールNo.90」
1957年 石版画
38.0×24.5cm
Ed.20 サインあり
レゾネNo.116


池田満寿夫は一九三四年、旧満州国奉天(中国瀋陽)に生まれ、敗戦後両親の故郷である長野市に引揚げ、高校まで同地ですごした。上京して東京芸大を三度受験して失敗し、街頭で似顔を描きながら、フォルム画廊で初個展をひらき、自由美術展に入選したりした。一九五五年、「実在者」の仲間である靉嘔につれられて、はじめて瑛九を訪問したが、瑛九はやがて彼に銅版画をつよくすすめるとともに、「ルンペン根性」を叩き直すよう要求した。そこで似顔描きをやめて銅版にうちこみ、これも瑛九のすすめで色彩銅版画を開拓する。一九五七年、第一回国際版画ビエンナーレでは、靉嘔とともに池田の作品も公募部門に入選したが、審査で落ちそうなところを、久保貞次郎が「しかし、これには色彩がある」と発言したため、かろうじて残ったものらしい。
同年、前述のような「小コレクターの会」との契約のため、多量の制作を強いられるなかで、池田の多感だがあてどなく彷徨していた表現は、しだいに花嫁、私の処女、鳥、天使、飛行空間といった主題に収斂し、線じたいが息づき、夢み、うたうような魅力を発揮しはじめる。一九五九年以後、江戸川乱歩の弟にあたる平井通の依頼で、物語に銅版のさしえをつけるいくつかの豆本を手がけたことも、春画すれすれのひそかなささやきのような表現の性格をつよめたかもしれない。同年、大阪を訪れてデモクラート美術展の先輩泉茂とともに映画館に入ったとき、そこに来あわせた詩人富岡多恵子に紹介され、五五年以来下宿先の十一歳年上の女性と結婚していた生活から脱出して、かけおち同然に同棲したことも、作風の転機となったのだろう。一九六〇年、第二回版画ビエンナーレで、公募部門の審査に加わったわたしは、同じ審査員の久保貞次郎が「おい、きみたち、かけ足!」などとアルバイトの青年たちに号令するのに眼をみはったが、このなかに池田満寿夫もいたらしい。しかも、この展覧会で彼は、西ドイツからきた国際審査員グローマンの激賞をうけて、文部大臣賞を受賞し、以後翌年のパリ青年ビエンナーレで佳作賞、六二年の東京版画ビエンナーレで東京都知事賞、そのとき国際審査員だったリーバーマンの企画で、六五年ニューヨーク近代美術館での個展が決定するなど、「シンデレラ・ボーイ」とよばれる道を歩みはじめる。

池田満寿夫池田満寿夫
「ボーリングする貴婦人たち」
1964年 銅版
36.3×33.8cm
Ed.20 サインあり
※レゾネNo.452


ニューヨークに定住した靉嘔は、一九六二年、ジョージ・ブレクト、ディック・ヒギンズ、アリソン・ノールズ、小野洋子らのハプニング集団<フルクサス>に参加する。芸術と生活の境界を無化しようとするこの運動の理念が、彼の作品世界の振幅をいっそう拡大したことはみのがせない。その作品に虹のスペクトルがあらわれるのは一九六四年で、それは最近出た靉嘔全版画集『虹』の作者メモによれば、対象から固有色をうばうとともに、単色ではなくあらゆる色彩の定型をあたえることにより、第一に、作者をはなれて版画の刷り師やコンピューターが自由に再制作でき、第二に、「希望」や「幸福」を象徴すると同時に虚無をはらむ虹色によって、「色即是空」「空即是色」の理念をあらわすためだという。靉嘔は岡部徳三、助田憲亮らのシルクスクリーン刷り師との対話を緊密にして、色彩の指示だけで正確な効果をあげうるようなシステムをつくり、さらに石版の効果を検証するため、石版で虹の制作もこころみた。このような虹色の掌線をかけることによって、北斎の春画のような古典や既成写真から作者自身の行為の記録写真、さらに文字のような記号まで、一種の異化作用を経てまったく未知の記号と化する、ポップ・アート的機能がつよめられる。さらにオブジェ、エンバイラメント、ハプニングまでふくめて、この虹という匿名のシンボルが、世界全体に浸透してゆく過程がくりひろげられた。
グローマンに注目された前後から、ドライポイントの敏捷で気まぐれな線に、こどものらくがきのような、ぶきみでユーモラスなメールヘンのようなイメージを追求していた池田満寿夫は、ニューヨーク近代美術館の個展のあと、一年半のアメリカ滞在をとおして、女性の姿態の断片を大量生産の商品のように配列する作風に転じた。六五年のヴェネツィア・ビエンナーレに、靉嘔とともに出品して版画大賞を受賞して帰国したのち、六七年に西ドイツ芸術アカデミーの招待でベルリンに滞在したときは、すでにニューヨークで知りあった女性リランを同伴しており、ベルリンで二人と会ってきたわたしは、帰国して富岡多恵子と顔をあわせると、対応に困ったことがある。池田はやがて富岡と訣別して、リランとともにアメリカのイースト・ハンプトンと東京で半々に生活するようになり、その作風はポルノ雑誌から転写された女体の部分に空、紐、革帯などをあしらい、シルク、石版、水彩、油彩などを混合した手法にむかった。同時に、彼の文筆での名声があがって、何冊かのエッセイが出たのち、一九七七年に小説『エーゲ海に捧ぐ』が発表されて反響をよぶことになる。
この小説が芥川賞候補に推されたとき、わたしはたまたま帰国していた池田に、「芥川賞になると大さわぎで、しかも半年しかもたないから大変だよ。直木賞ならもう少し長持ちするけど」と語ったことがあるが、幸か不幸か芥川賞になってしまった。それによってマスコミに追いまくられる状態が、リランとの距離を急速に深めたようにみえる。さらに一九七八年には、ローマに滞在して『エーゲ海に捧ぐ』の映画化にとりかかったから、いっそう断絶が深まったのか、それとも断絶があったからヨーロッパに脱出したのだろうか。彼の小説も映画も結局物語のある版画の発展で、いままでのところストーリィよりもイメージの配合と連鎖にきわだった特徴がある。リランと別れて佐藤陽子と共同生活をはじめた彼は、美術流通の面でもこれまでの南天子画廊と手を切って番町画廊と契約を結んだが、創作の面でもいやおうなく転機を迎えている。わたしとしては池田の女性遍歴も、メディア遍歴にも苦情をいうつもりは毛頭ないが、あの柔軟直截な感受性を貴重と思うからこそ、新たな飛躍を祈る気持が切である。
靉嘔はつい先日、スリランカから一葉の絵葉書をわたしに送ってきた。どんな目的できているとも書いていないが、わたしははだしの僧侶の行列するそのカラー写真をみながら、この作家の端倪すべからざる行動の振幅と透徹した文明批評をあらためて思いうかべたものだ。今年のはじめに出た前述の『虹』に収録された厖大な作者メモは、靉嘔がはじめてその内面の振幅を言葉で語った興味深いドキュメントである。もうひとり、わたしはここで、高校時代から瑛九に接し、一九五八年に東京芸大を出ると、ワッペンや凧絵の型押しによって版画の概念を拡大しながら、日本のポップアートの代表となった磯辺行久に言及せずにはいられない。一九六六年、ニューヨークに渡った彼は、構成主義的立体作品からエア・アートに進み、エコロジー運動の狼火というべき「アースデイ」の実行委員会にも加わったが、やがてフィラデルフィア大学の環境計画科に入り直し、数年前に帰国すると環境調査の仕事に転じて、「小コレクターの会」以来彼を支援する尾崎正教が、独力で千葉県に「磯辺行久美術館」をつくったにもかかわらず、彼自身は美術を完全に離れてしまった。そして、芸術と生活の一体化を求める瑛九、靉嘔、池田満寿夫らの前にも、このような脱芸術の道はいつも扉をあけているのである。
磯辺行久磯辺行久
「Untitled」
1961年 水彩
31.0x21.0cm
サインあり


(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.65より再録
1981年1月 現代版画センター刊

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◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て再録掲載します。30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子さんのエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・土渕信彦さんのエッセイ「瀧口修造の箱舟」は毎月5日の更新です。
 ・君島彩子さんのエッセイ「墨と仏像と私」は毎月8日の更新です。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月14日の更新です。
 ・鳥取絹子さんのエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は毎月16日の更新です。
 ・井桁裕子さんのエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
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 ・小林美香さんのエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
 ・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
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 ・ときの忘れものでは2014年1月から数回にわけて瀧口修造展を開催します。関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

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◆ときの忘れものは2014年1月8日[水]―1月25日[土]「瀧口修造展 機を開催しています。
245_takiguchi2014年、3回に分けてドローイング、バーントドローイング、ロトデッサン、デカルコマニーなど瀧口修造作品を展示いたします(1月、3月、12月)。
このブログでは関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

●展覧会の感想から
<不勉強ながら、自分で作品も作る方とは知らなかった・・・美術の良き理解者・庇護者のイメージしかなくて。しかしすてきだ、うっとり。水彩の色使いがたまらんなあ。出品作のなかでは「I-28」が一番気に入った。>(Iさんのtwitterより)

カタログのご案内
表紙『瀧口修造展 I』図録
2013年
ときの忘れもの 発行
図版:44点
英文併記
21.5x15.2cm
ハードカバー
76ページ
執筆:土渕信彦「瀧口修造―人と作品」
再録:瀧口修造「私も描く」「手が先き、先きが手」
価格:2,100円(税込)
※送料別途250円(お申し込みはコチラへ)

針生一郎「現代日本版画家群像」 第6回 菅井汲と泉茂

現代日本版画家群像 第6回
菅井汲と泉茂

針生一郎


 菅井汲の名をわたしが知ったのは、一九五五年ごろ、読売新聞特派員としてパリにいた海藤日出男が、「美術手帖」によせた紹介記事と図版によってである。その彼のアトリエを訪れたのは、それから十年後にはじめてヨ一ロッパに旅行したときで、一九六八年にはわたしがコミッショナーとして参加したヴェネツィア・ビエンナーレに、彼を日本の出品作家の一人として選んだから、二十日間ほどしょっちゅう会っていた。一方、泉茂の名を知ったのは、一九五四年、わたしも加わった「美術批評」の座談会で、レジェをこきおろしたのにたいして、彼が同じ雑誌の投書欄で痛烈な反論を加えたときである。五五年、タケミヤ画廊での泉の個展には、明快な色調で奔放な幻想がくりひろげられ、わたしは彼のレジェ礼讃の必然性を納得せざるをえなかった。もっとも、泉は一九五九年アメリカに渡り、六三年以後パリに移って、六〇年代末までそこにとどまったから、その間の制作と思考の推移をわたしはつぶさには知らない。菅井もまた一九七五年以後、しばらく日本で制作していたため、以前より会う機会が多くなったが、いままたパリに戻っている。二人とも版画だけにとらわれず、また国際的な評価をうけている点に、いかにも戦後の作家らしい特色があるだろう。
 菅井汲は一九一九(大正八)年、神戸市に生まれた。家は代々薬種問屋だったが、父は家業を継がずに音楽家となり、また女道楽に明け暮れていたという。汲は小学校に入るまで河内に里子に出され、養家ではこどもが戸外で遊ぶ危険をおそれて、屋内でもっぱら絵を描かせたらしい。小学四年のとき、両親が離婚してふたたび天王寺の親戚にあずけられ、六年のときから心臓弁膜症で二年半の病院生活を送ったため、中学進学をあきらめて大阪の美術学校に入ったが、級友がみな年長である上に、健康の恢復も十分でなかったため、郊外で釣りをして過ごすことが多かった。
 一九三七年、日中戦争開始の年、菅井は阪急電鉄の宣伝課に入社し、比較的楽な仕事だったので敗戦直後までつとめた。そのうち阪急百貨店が阪急電鉄と合併し、前者の宣伝課にいた山城隆一と同僚となって、いっしょによく釣りに出かけたという。戦後はエルンスト、ミロ、クレーなどに関心をもち、吉原治良に作品をみてもらって二科展に出品したが落選した。何をやっても駄目だという絶望にとりつかれていたが、小学校の新しい検定教科書の挿図など請負って金を貯め、一九五二年渡仏する。
 パリではグランド・ショミエールでゴエルグの指導をうけたが、一年後には田淵安一、今井俊満、イタリア人ヴァロールズと四人展をひらいて、スイス人画商に作品を買われ、二年後には彫刻家タジリ・シンキチの紹介で、クラヴェン画廊と契約して個展をひらき、批評家ランベールや小説家マンディアルグに認められたのだから、デビューは速かった。このころ、クラヴェン画廊のすすめでリトグラフをはじめ、五〇年代後半にはカリギュラフィックな傾向をつよめて、ミシェル・ラゴンの「新エコール・ド・パリ」の花形となった。だが、わたしは絵具を塗りかさねた上をひっかき、黒い大まかな筆触がライト・モチーフを形づくる当時の画面に、炉辺閑話のような日本のフォークロアへの固執と、性的なイメージの暗示を感じて、情緒的な閉鎖性を指摘したことがある。

01菅井汲
「サムライ」
1958年
リトグラフ(カラー)
54.6×46.0cm
Ed.150
サインあり
※レゾネNo.20


 一九五九年、リュブリアナ版画ビエンナーレで受賞したのを機に、菅井は毎年夏ユーゴですごすことにし、高級車を購入したが、その途中ドイツのオートルートや合理的な社会生活に深い影響をうけ、六〇年代初頭から明快な色調の抽象形態に徐々に転じていった。新しい作風はランベールやマンディアルグには不評だったが、ドイツの知人たちからは支持され、しだいに彼の活躍の場はドイツや北欧に移った。わたしはこの変貌に賛成で、だから六五年にパリの家を訪問したのち、六八年のヴェネツィア・ビエンナーレの出品作家に選んだのだ。
 だが、六七年秋、わたしはドイツ滞在中、菅井がひどい自動車事故で重傷を負ったという新聞記事を読み、パリの病院に駆けつけた。頸部骨折の彼は、リンゲルや酸素吸入器をさしこまれた無残な姿で、同乗中負傷した夫人もストラスブールで入院中とのことだった。わたしは帰国後に、ビエンナーレ出品は無理だから、療養に専念してはどうかと手紙を書いたが、菅井からは私の事故は死ぬか生きるかで、後遺症などなく、ぜひ出品したいと返事がきた。実際には手がもち上らず、発汗機能にも障害があるのに、彼はギブスをはめたまま精密な設計図をつくり、数人の助手を使って制作したのである。
 一九六九年には、東京では東京画廊と南画廊、プラザ・ディックで、京都では国立近代美術館で、はじめての里帰り個展がひらかれた。事故後の菅井は、いっそう明確で単純な形態を求めて、シルク・スクリーンに集中し、七〇年代に入ると同じパターンの組み合わせで無数の作品を使われるように、版画は無限の複数性と匿名性を理想とすると考えるにいたる。食生活も変化を避けるため、朝昼晩と判で押したように同じメニューを毎日くりかえすようになった。菅井は日本を見直し、その自由な制作と生活の条件を享受するため数年神戸に滞在したが、パリに置き去りにしてきた夫人との問題を解決するためにも、もういちどパリに舞い戻ったのだろう。

02菅井汲
「シグナル C」
1976年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:33.0×19.0cm
Ed.150
サインあり

 泉茂は一九二二(大正十一)年、大阪に生まれ、一九五一年、早川良雄、山城隆一、棚橋紫水らとともに、瑛九の提唱するデモクラート美術協会に加わった。敗戦後、油絵を春陽会に出品したり、個展で発表したりしていた彼は、このころ久保貞次郎や瑛九のすすめで銅版画をはじめ、のしイカ製造機を銅版プレス機に転用したという。だが、それらの銅版画にみられる繊細な幻想は、やがてリトグラフに転じて強烈な色彩、奔放な幻想、親しみやすい物語性として炸裂する。とりわけ、太陽と鳥と顔のないインディアンといったモチーフが、彼の初期作品のユニークな特徴を形づくっている。

03泉茂
「漂流」
1957年
リトグラフ
36.0x55.0cm
Ed.50
サインあり


 一九五九年、ジャパン・ソサエティの招待で渡米し、プラット・インスティテュートで版画の客員教授をつとめながら、泉茂は抽象表現主義の強烈な迫力に圧倒された、という。彼は画面からシュルレアリスムにつながる幻想的なイメージだけでなく、一切の情緒や表情を消し去るため、色彩を白と青だけに限定し、客体化されたシステムを求めた。そこには風に吹かれる毛のように、細い線が平行して波うつ画面もあれば、にじみやぼかしのある太い筆触を、レースのリボンのように組みあわせた画面もある。パリに移ってからも、これらのカリギュラフィックな傾向はいっそうつよまり、ロール紙に太い筆を走らせた筆触の一部を、こまかい筆致で拡大しながら再現するという独特な方法が生まれた。いずれにしろ、作者は内部で醗酵し凝縮されたイメージを表現するかわりに、みずから設定したシステムに自動的に身をゆだねながら、「アイディアをアイディアと感じさせないようにし」、その過程で未知のものを発見しようとしているのだ。
 一九六八年に帰国してから、泉茂はカリギュラフィックな要素を払拭して、大きな作風の転換をとげた。そこでは、まず円や方形や三角形といった幾何学的な形態があらわれるとともに、色彩は青一色を脱却して、混色を拒否する赤、青、黄の三原色とメタリックな銀色に転じた。しかも、これらの色彩は絵筆を使わずにスプレーで吹きつけられ、また金属板にシルクスクリーンで刷りこまれる。さらに銀色の金属面に吹きつけられた色彩が、微妙な陰影と凹凸をあたえ、幾何学的形態も白い線によって分割されたり、吹きつけの濃淡によって凹凸やまるみをおびたりする。近年の作品では、アルミホイルの凹凸やコイン、メジャーなどを、写真の転写や記号の複写によってそのまま再現し、物質的な実在感をよびおこすものもみられる。
 わたしにはこれらの作品が、十年にわたる外国滞在中のきびしい純化と自制を経て、ふたたび出発点にあったゆたかな可能性に、別の方角から近づきつつあるものとみえる。イメージも筆触も否定されて、大量生産の機械的な印刷のようにハードでドライな効果に達しているが、その即物的な実在感のうちにイメージも陰影や量感も新しい形でよみがえる。シルクスクリーンの技法によって、非情で硬質な物質が寡黙な歌にめざめるような、清新で透徹したポエジーがかもしだされる。泉茂はいま大阪芸術大学で教鞭をとっているが、何よりもこのような尖鋭な探求と実験の姿勢によって、関西の版画の大きな推進力となっているのである。
 思えば、菅井も泉も関西に生いたって、長い外国生活をとおして変貌をとげながら、それぞれ独自な形で個性の痕跡を抹殺し、匿名性の領域へとふみこもうとしている。それは彼らが版画を、いやが上にも社会にむかってひらかれた世界にしようとするからにほかならない。二人の道程をふりかえると、いくたびもの脱皮と転換を経ていて、人一倍長い旅路だったような気がする。だが、彼らは過去のことなど忘れ去ったかのように、また新しい冒険にむかって孤独にはげしい情熱を燃やしつづけている。わたしはそういう彼らの姿に、複製メディアの多様化と拡大のなかでの、現代版画のフロンティアをみる思いがする。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.58より再録
1980年6月 現代版画センター刊

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◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て第4回までは毎月28日に掲載(再録)しましたが、今回から毎月14日の更新に変更します。
30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は第4回までは毎月28日の更新でしたが、第5回(11月)からは毎月14日の更新に変更します。

針生一郎「現代日本版画家群像」 第5回 国吉康雄と北川民次

現代日本版画家群像 第5回
国吉康雄と北川民次

針生一郎


 明治以来、日本の美術家の留学先は大部分パリだが、一般にかの地ではエトランゼにとどまり、純粋に美術史の様式交替のなかで模索しながら、帰国後にはいつしか日本の風土や伝統に回帰した例が多い。それにたいして万鉄五郎国吉康雄、清水登之、石垣栄太郎、北川民次ら、日露戦争と第一次大戦のあいだに、比較的年少でアメリカに渡った人びとは、生活のための雑役をとおして文明や社会とじかに対決したため、帰国してもスケールの大きい芸術家となっている。もっとも、そこには当時のアメリカ美術の後進性が有利に作用しているので、第二次大戦後はアメリカが世界の美術の中心となり、いまやその役割も終りつつあるため、昨秋十年ぶりにニューヨークにたちよると、日本の美術家たちが世界の美術と現代文明の総体をみつめながら、孤独に純粋に自己の方向をつきつめているのが印象的だった。
 それはともかく、いまあげた美術家のなかで、国吉康雄と北川民次が戦後日本の版画にあたえた影響はみのがせない(同世代ではほかに、日系二世としてサンタ・クララに生まれ、父の郷里熊本で中学まで終え、カリフォルニア美術学校を出てリベラの壁画助手をつとめた野田英夫が、一九三九年東京で夭折して甥の野田哲也にも忘れがたい刻印を残した)。国吉は一八八九(明治二二)年岡山市に生まれ、県立工業学校で染織を学んだのち、一九〇六(明治三九)年アメリカに渡った。さまざまの労働をしながら、ロスアンゼルス美術学校夜間部を出、一九一〇年ニューヨークに移って、さらにいくつかの美術学校を遍歴したのち、一九一六年アート・ステューデント・リーグに入った。ここで師事したケネス・H・ミラーは、技術指導よりも古典や巨匠への眼をひらき、グレコ、ドーミエ、セザンヌに傾倒する国吉のデッサンの才能をひきだした。一七年、ブルガリア生まれの画家ジュール・パスキンがとなりに引越してきて、その憂愁と詩情に国吉はつよくひかれた。このころ制作しはじめたエッチングやドライポイントなどの銅版画には、油絵と同じ裸婦、こども、手、静物などの主題が、独特な俯瞰法、逆遠近法、三角形構図にまとめられている。
 一九二二年には、ダニエル画廊で最初の個展をひらき、以後三一年の同画廊閉鎖まで毎年個展をつづけた。やはり二二年、刷り師のジョージ・ミラーがホイットニー・スタジオ・クラブに石版機械をもちこみ、画家に描かせた油絵をすぐ石版画にしてみせた実演に刺激され、石版画に集中するようになった。二八年の二度目のヨーロッパ旅行中は、パスキン、スーチンらと交わり、また亜鉛版にかわる石版画を習得して年間に三十点制作した。この技法は色彩、空間、明暗をいっそう繊細に表現して、油絵と対応することを可能にしたのである。
 一九三一年には、父の病気見舞いのため帰国し、東京と大阪の三越で個展をひらいたが、日本の美術界にはつよい違和感をいだき、わずかに有島生馬、仲田好江らと交友しただけらしい。父につづいて母も死んだが、国吉は三三年にはアート・ステューデント・リーグ、三六年にはニュー・スクール・フォー・ソシアル・リサーチの教師となった。さらに三六年以後、ニューディール政策にもとづくWPA(公共事業促進局)の連邦美術計画で、民衆生活を記録する版画制作にたずさわり、アメリカン・シーンの代表的作家とみなされる。また三七年以後、アメリカ美術家会議、アン・アメリカン・グループなどの会長に選ばれたことも、彼の人望をしのばせるだろう。
 太平洋戦争開始後は、戦時情報局の依頼で日本批判のポスター、イラストを描き、短波放送で日本に停戦勧告をおこない、またダウンタウン画廊での個展の入場料収入を中国救済のために寄附したりした。これらの活動はリベラリストの信念にもとづくと同時に、アメリカ市民権をもたない日系人の不安に駆られた一面もみのがせない。大戦後も亡命芸術家連盟会長に推され、一九四九年、日本を脱出して渡米した戦争画家藤田嗣治が会見を求めたときも、会おうとはしなかったらしい。
01国吉康雄
「綱渡りの女」
1938
リトグラフ
39.5×30.0cm
サインあり

02国吉康雄
「サーカスの球乗り」
1930
リトグラフ
40.0×29.0cm
サインあり

 国吉は版画をとおして、自分の血のなかにある東洋の筆致や白黒の色彩を再発見したが、現実の祖国日本はとうてい帰るべきところとは思えなかった。四八年にはホイットニー美術館で、現存作家の個展では最初の国吉回顧展がひらかれて名声を博したが、この内部の空洞は埋められなかったようだ。五〇年の《鯉のぼり》五一年の《東洋の贈物》などでは、日本の風物が千代紙細工のようにあでやかな色彩で描かれるが、そこでは郷愁は内攻して深い象徴的表現となっている。一九五二年、今泉篤男が訪問して国立近代美術館での個展の話が進み、国吉も二十年ぶりで帰国することをたのしみにしていたのに、五四年の三月のその実現を待たずに、彼は五三年五月なくなったのである。
 北川民次は一八九四(明治二七)年、静岡県金谷町(現)に生まれ、文学を愛好して早大予科に学んだが、一九一四(大正三)年中退してアメリカにおもむき、一年カリフォルニアにすごしてニューヨークに移った。一九一九年ごろ、アート・ステューデント・リーグに入って国吉康雄と交わったが、北川が師事したのは「ごみだめ派」とよばれた「八人組」のジョン・スローンで、キレイゴトを離れて民衆生活をリアルに直視することを強調したという。もうひとり、級友のアイルランド系の女性ペネロプ・マキントッシュが、児童画の研究に熱中していて北川をひきずりこみ、その魅の勉強をすす力を解明するためフロイトめたらしい。
 一九二三年、北川はアメリカ南部、キューバ、メキシコなどの放浪の旅に出たが、キューバで所持金三〇〇〇ドルと荷物を全部盗まれ、イコンの行商をしながらメキシコに入った。当時のメキシコは革命の余燼なおさめやらず、抑圧に抵抗する悲愴な情熱がみなぎっていたから、北川はサン・カルロス美術学校に入って、ポサダ以来の伝統を復興しつつある版画やテンペラの技術を学んだのち、オロスコ、リベラ、シケイロスら革命画家たちがはじめた野外美術学校計画に加わった。チュルブスコ僧院、トラルバムを経て、一九三一年彼はタスコにひらかれた野外美術学校の校長となるが、この野外美術学校とは一室の粗末な建物に椅子が、二、三脚あるだけの設備で、教師は北川ひとり、野外ではだしで遊ぶ貧農の子たちに絵を描かないかとよびかけ、くると北川手製の泥を練ったテンペラやカンヴァスをあたえて、自由に描かせるだけのものだった。だが、メキシコのこどもたちの表現はアンリ・ルソー風の素朴さにみちて力づよく、エッチング、リノカット、木版なども高い水準に達している。藤田嗣治はパリで親交のあったリベラのもとに、北川民次から送られてきたタスコの児童画におどろき、一九三三年南米旅行の途次、タスコに北川を訪れ、三六年北川に託されたメキシコ児童画展を日本橋白木屋でひらいている。同じころ、国吉康雄、イサム・ノグチ、リベラ、シケイロスもタスコを訪れた。
03北川民次
「メキシコの浴み」
1941年頃
木口木版
37.5×45.0cm
Ed.100
サインあり
※レゾネNo.32

04北川民次
「花と二人の女」
1961
リトグラフ
37.0×27.0cm
Ed.10
サインあり
※レゾネNo.96

 一九三六年、北川は長女の教育を日本で受けさせるため帰国し、タスコの学校には後任のメキシコ人画家がきたが、まもなく閉鎖された。三八年、北川は欧米旅行に出かける直前の久保貞次郎と小熊秀雄の訪問をうけ、メキシコの児童画をやがて久保にゆずることになる。当時東京の自宅にコドモ文化会をつくり、久保らとともに絵本の出版を計画したのが、戦後の名古屋動物園美術学校、北川児童美術研究所などを経て、一九五二年創造美育協会の結成の発端となったといえる。北川自身の作品は、帰国当時メキシコの風物を灰色の暗い色調で描いたものだったが、しだいに母子像、家族群像、労働現場、花などの主題に集中する。そして力づよい力線で分割された、明快でプリミティーヴな構図がしだいに彼の特色を形づくった。
 とりわけ、一九五五年にふたたびメキシコを訪れ、オロスコはすでになくなっていたが、リベラ、シケイロス、タマヨらに会って一年間滞在したことは、北川にとって大きな転機となったようだ。あざやかな色彩のコントラストと、また大胆にデフォルメされた構成のうちに、民衆生活の哀歓が凝縮されながら、イコンのように儀式化され聖化されて、強壮なユーモアがほとばしる。バッタや犬などの動物も、野性と神性の象徴のように造形される。感覚的に洗練された日本人の小味な限界をつきぬけて、普遍的なヒューマニティに根ざす表現主義をきりひらくのが、北川の念願らしい。戦後の版画は大部分石版画や銅版画だが、繊維のしなやかな榛の木を使っての木口木版にも優れた作品を残し、八十六歳の現在も瀬戸のアトリエで制作をつづけている。
 アメリカに住みついて、アメリカ女性と二度結婚した国吉は、郷愁を昇華して憂愁をはらんだ象徴と化しながら、当時一世を風靡していた抽象表現主義を敵視しつづけて世を去った。それにたいして、アメリカに十年、メキシコに十二年滞在して、後者では児童画教育にうちこんだ北川は、メキシコの追憶をしだいに純化しながら、メキシコの民衆的表現力を鏡として日本の現実をえぐる独特な道をきりひらいた。同時にメキシコでの経験をひきついで、戦後の美術教育を一変させるような運動をつくりだしたのである。わたしはどちらがすぐれているか、どちらが幸福だったかなどの議論をするつもりはない。どちらも美術の根底にある文明と社会の問題に身をもってぶつかり、そこで苦闘しつづけた点で凡百の美術家をこえている。そのとき、民衆と美術との回路を問い直すために、版画は二人の作家にとって欠かせない手段だったと思われる。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.55より再録
1980年2月 現代版画センター刊

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◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て第4回までは毎月28日に掲載(再録)しましたが、今回から毎月14日の更新に変更します。
30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は第4回までは毎月28日の更新でしたが、今回から毎月14日の更新に変更します。

針生一郎「現代日本版画家群像」 第4回 駒井哲郎と浜田知明

現代日本版画家群像 第4回
駒井哲郎と浜田知明

針生一郎


 一九五二年から、たどたどしい美術批評をはじめたわたしは、五三年に二つの銅版画個展をみて、小さな画面に世界を凝縮するような銅版画の魅力に眼をひらかれた。―資生堂の駒井哲郎展とフォルム画廊の浜田知明展である。黒白の微妙な諧調と質感で、ポール・クレーを思わせるメールヘン的幻想をくりひろげる駒井は、一見してきびしい自律性につらぬかれた、造形の詩人であることがわかる。一方、象徴的に単純化された形態で、戦場と軍隊の極限状況におかれた人間の運命をうかびあがらせる浜田は、仮借ない告発の画家というべきか。
 わたしは当時、自由美術に親近感をもっていたから、浜田の主題にはすぐひきつけられた。それにたいして、駒井の方はまもなくフランスに留学したから、個人的に話しあう機会がなかなか訪れなかった。一九五〇年代の末、ひろし画廊でユリイカ社の主催する詩画展があって、駒井は大岡信の詩を主題とする銅版画を発表したが、そのころから大岡や安東次男などの詩人たちが、駒井の仕事を熱烈に讃美しはじめたのも、わたしが近づけない一因となったかもしれない。その上、すらりとした好男子の彼は、酒飲みの文人でもあって、酔うとはげしくからんでくるのも苦手だった。
 六〇年代の末、渋谷の酒場に数人で入ると、前から二階で飲んでいた駒井がわたしをよんで、「オレは多摩美では学生がかわいいから授業をやっているだけなんだ」といったが、自宅が多摩美大に近いため、前から非常勤講師で版画を教えてきた彼には、あとから専任に入ったわたしが、ひとりでかきまわしているようにみえたのだろう。七四年ごろ、養清堂画廊で会った駒井に、「何だか顔が変ったね」というと、舌瘤で手術をうけたことを説明され、わたしは心ない言葉をかけたことを後悔したが、それがわたしとの最後の出会いとなった。彼がなくなってからわたしは、もっと自分から出かけて彼の話を聞いておくべきたった、とかえすがえすも残念に思っている。
 駒井哲郎は一九二〇年、いまの室町界隈にあたる日本橋魚河岸に生まれ、家は氷室問屋だった。十三歳のとき、父に送られてきた雑誌で銅版画を知り、翌年麹町にあった西田武雄の日本エッチング研究所に通いはじめ、そこで関野準一郎などと知りあった。三八年、東京美校油絵科に入り、在学中に文展にエッチングで入選したが、美校を出て東京外語でフランス語を学ぶうちに召集をうけ、一年ほど軍隊生活を送った。戦後は四八年に日本版画協会展に出品、受賞して同会員となり、五〇年春陽展に出品、受賞して、翌年同版画部会員に推された。そして資生堂での最初の個展のあと、五四年私費留学生としてパリに渡り、翌年末に帰国したのである。
 わたしは五三年の個展の印象から、駒井が戦前に留学して銅版画法を身につけてきたと思いこんでいた。だからのちに、五四―五五年の留学が最初であることを知って、少々おどろいたのである。この留学体験は彼にとって、長谷川潔を訪れてそのマニエール・ノワールをつらぬく意志的生活態度にうたれ、また初期銅版画展をみてビュラン彫りの力づよさに感動し、エコール・ド・ボザールのビュラン教室に入ったことにつきるだろう。といっても、これらの感動や衝撃のうちには、銅版画を支えてきた西洋文明の伝統が集約されており、それを駒井は鋭敏な感受性でうけとめながら、身をもってその落差を埋めてゆくほかないと決意したことにほかならない。
 滞仏中わずかな作品しかつくらなかったという彼は、帰国するとあのクレー風の幻想を離れて、明晰でつよい線条による写実的ともいうべき樹木シリーズにとりかかった。技法的には、マティエールと諧調を中心とする渡欧前のサンド・ペーパーやシュガー・アクワチントよりも、ビュランやニードルによる彫刻凹版に集中したわけだ。それは彼の西洋体験が何よりも画面の骨格と空間の深さにかかわっていて、いわばデッサンからやり直すことを彼に決意させたようにみえる。だが、五八年の南画廊での個展や六〇年の白木屋での回顧展では、そういう再出発を経た彼がすでに、写実から幻想まで、抽象から象徴まで多様な方向を生みだしつつあることが知られた。思えばそういう苦渋にみちた内省と転回の過程を知らずに、わたしなどは依然として初期以来のイメージで駒井の仕事をみ、彼のようにすでにできあがった作家について、わたしなどの語るべきことはないと考えていたのである。
 一九六〇年代をとおして、版画は若い世代の美術家たちに急速にひろがり、創作版画以来のどこか民芸調をもつ木版画の趣味的閉鎖性はうちやぶられていった。だが、シルクスクリーンの技法が普及し、下絵と刷りの工程が発注芸術などの名称でよばれるように分離していったなかで、銅版画にも安易な多色刷りが流行し、駒井が西洋で再確認した黒白の魅力もビュランの骨格もおき忘れられようとしていた。彼は鋭敏な感受性にうけとめた銅版画の理念のゆえに、この事態に深い痛みと困惑をおぼえたにちがいない。これは明治以来の皮相な文明開化をのりこえ、西欧的伝統をまさに自己の感性のドラマとして血肉しえた作家が、その伝統すらふりすてようとする新しい開花の風潮のなかで、孤立のままとりのこされるという、戦後美術最大の転換点であった。
 駒井は六三年七月読売新聞に、「もう少し計画的にだんだんと仕事を整理して不必要なものは捨てていかなければならない」と、自戒の言葉を書いている。その矢先の十月、彼は信号無視のトラックにはねられて両脚を骨折し、二度も大手術を受けた。回復後、彼は銅版画の基本原理を制作と教育の両面で日本に定着することに、自己を限定したようにみえる。だから、多摩美大、ついで七二年以後東京芸大の非常勤講師として教えることは、駒井にとって重要な仕事であり、死後出版された『銅版画のマチエール』(美術出版社)は彼のライフ・ワークの意味をもつのだ。弟子たちによると、駒井の制作は一ヵ月一点ぐらいだが、周到な精神的、物理的準備の上で制作にかかったらスピードが速く、指先がよごれることは全然ないのに、作品は多様な技法にわたり自在だったという。しかも、芸大講師になった翌年には舌癌で舌と顎を切除せざるをえず、その二年後には癌が肺に移転して、五十六歳で死んだのだから悲劇的である。だが、七三年に出た彼の作品集(美術出版社)と遺著『銅版画のマチエール』は、いま若い世代の最良の指南書となりつつある。

komai_bigtree駒井哲郎
「大きな樹」
1971年
エッチング
44.5x32.1cm
Ed.210
サインあり
※レゾネNo.288(美術出版社)


komai_mati駒井哲郎
「街」
1973年
銅版
イメージサイズ:23.5×21.0cm
Ed.250
サインあり
※レゾネNo.298(美術出版社)


 浜田知明は一九一七年、熊本市に近い御船村に小学校長の子として生まれ、肥後の「もっこす」の典型としての父親への反骨を幼時からつちかった。美校でも藤島武二のアカデミズムに反撥したため、「学校をやめろ」と叱りつけられたという。一九三九年末、現役で軍隊に入ると二ヵ月でその不条理をつぶさに体験し、徹底して劣等生で通す決意を固めた。中国戦場に駆りだされたのちは、たえず自殺だけを考え、「いつの日か、戦場で考えたことを絵にしたいという願い」だけで自殺を思いとどまった。思いがけず四三年に満期除隊となり、美術文化展に油絵を出品し、熊本市の呉服卸商の娘と結婚したが、新婚一ヵ月で再度召集されて伊豆新島に送られた。敗戦後の四八年、妻子を熊本に残して単身上京し、横浜の中学教師をつとめながら、自由美術の会員となったが、油絵では戦争体験の主題がどぎつく露出しすぎるので、駒井哲郎と関野準一郎に銅版画の手ほどきをうけ、一九五〇年からようやく《初年兵哀歌》シリーズの制作にとりかかったのである。

hamada浜田知明
〈初年兵哀歌〉より「歩哨」


 銅版画には長い準備の上に器材と技術がいるから、銅版画家の道程はいずれも計画的だが、浜田知明も戦場で自己をうちのめされ、幻覚とともにいだいた極限状況のイメージを、戦後数年反趨し凝縮して表現しはじめた。熊本にとどまった妻が親の家業を手伝いながら、二人の娘の養育をひきうけたせいもあるが、浜田の銅版画は一年に四、五点の寡作なペースを守り、商品としての流通を求めないから、部数も十部ぐらいだったようだ。だが、そのシリーズをたどると、初期の抒情的心象から状況のリアルな把握へ、さらに極限状況の象徴的表現へと進み、とりわけ日本軍の暴力にさらされた中国民衆の死体が導入されることによって、初年兵をたんなる被害者ではなく、同時に加害者としてとらえる視点が確立した。一九五〇年代後半の「逆コース」時代になると、戦場の光景をはなれて戦後につづく眼にみえない戦争を、寓話的ないし諷刺的にえぐりだそうとする姿勢がめだってくる。
 一九五七年、浜田は九年におよぶ下宿生活をきりあげて、熊本の家族のもとに帰り、五九年自由美術を退会した。そのころから彼は、戦争への告発を現代文明の不条理へのアイロニーにまで拡大して、亡霊や怪物がうごめく百鬼夜行の世界を描きはじめた。六四年には、私学研修福祉会の助成金で一年間ヨーロッパを旅行し、カメラももたず、スケッチもせず、ひたすらみることに徹したらしい。その結果、十五世紀から十七世紀まで、油絵草創期のとくにフランドル絵画に傾倒するとともに、戦争と革命につながるギロチン、貞操帯、城郭、地下牢、カタコンベ、騎士の甲冑などにひかれた。こうして《ヨーロッパの印象記》シリーズが十年近くかかって描かれたのち、七〇年代半ばからふたたび現代日本の人間喜劇を痛烈な批評とアイロニーをこめて描きつづけている。
 ふりかえると、わたしが浜田知明の方にまずひかれたのは、わたし自身が駒井哲郎のような東京育ちではなく、地方出であるせいもあるだろう。だが、わたしは戦後三十数年を右往左往してすごしたので、浜田のように一点に固執して凝縮された制作を持続してきた作家に、あらためて敬服せざるをえない。昨年三月、熊本県立美術館でひらかれた浜田知明展につづいて、昨秋はウイーンで浜田の個展がひらかれており、彼の真価が国際的に知られるのはこれからだと思う。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.54より再録
1980年1月 現代版画センター刊

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されたもので、毎月28日に掲載(再録)いたします。
30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま転載します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

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針生一郎「現代日本版画家群像」 第3回 浜口陽三と瑛九

現代日本版画家群像 第3回
浜口陽三と瑛九

針生一郎


 数年前、パリの浜口陽三から手紙がきて、古い資料を整理していたら、かつてわたしが彼について書いた記事がでてきたので、記念に作品を一点贈るとあり、まもなくパリ帰りの女性に託して銅版画が届けられた。わたしはその小さな画面をみるたびに、そこにはらまれる空間の強靭さと諧調のゆたかさにおどろきを新たにする。浜口とは彼がパリに住みつく前から顔みしりで、近年もわたしはパリのカフェ・クーボールや南天子画廊で会って雑談したことはあるが、考えてみればまだ一度も彼のアトリエを訪問したことがない。その孤独な研鑽ぶりと悠揚迫らぬ生活ぶりを遠望して、すでに完成された芸術家と敬遠していたのだが、今度パリにいったらふらりとたずねてみたいと思っている。
 浜口は人も知るように、創業三百年以上にわたる「ヤマサ」醤油の御曹子で、美術蒐集家でもあった十代目儀兵衛の十人の子女の三男として、一九〇九年和歌山県有田郡広村に生まれ、六歳のとき千葉県銚子に移った。叔母夫婦が槐樹社に属する日曜画家だったため、幼時から当時の有名画家たちと知りあい、小学時代小室翠雲に南画、片岡銀蔵に油絵の手ほどきをうけ、またコンニャク版でオモチャの紙幣をつくったりした。学校は大きらいで、中学時代は小林万吾に油絵、建畠覚造の父建畠大夢に彫刻を習い、美校では彫塑科に入って国画会に彫刻を出品した。だが、アカデミックな教育に反撥し、梅原龍三郎のすすめもあって、一九三〇年、二十一歳で美校を中退し、パリに留学する。長谷川三郎や岡本太郎がその前年からパリにいたが、大恐慌でさしものエコール・ド・パリのはなやかな雰囲気も死にたえようとしていた。
 パリでは油絵に集中して三三年サロン・ドートンヌ、三四年サロン・デ・ザンデパンダンとサロン・デ・チュイルリーに出品する。三六年には貨物船でカリブ海の諸島を経て旅行し、ユーヨークに滞在したが、先に帰国した長谷川三郎が、村井正誠山口薫、矢橋六郎、津田正周、大津田正豊らと結成した「新時代洋画展」に、同年作品を送って連鎖個展に参加している。三七年には「新時代」グループが、「フォルム」の難波田龍起、「黒色」の小野里利信、独立展にいた森芳雄らと結成した自由美術家協会の創立会員となる。この年、水彩とともに銅版画に手を染め、ドライポイントで《猫》などを制作し、三八年アンドレ・シュレール画廊で銅版画をふくめて油絵の個展をひらいた。だが、第二次大戦がはじまって、三九年無一物同然で帰国している。
 大戦中は軍国主義に背をむけて悠々自適と思いきや、旺盛な活動をつづけている。四〇年は台湾や沖縄に旅行し、四一年は京都に滞在して、臼倉喜八に水墨画を習い、岩橋英遠、船田玉樹、津田正周らとともに、プロレタリア美術の流れを汲む日本画の歴程美術協会にも加わっている。太平洋戦争がはじまると、経済使節団の通訳として仏領インドシナ、いまのヴェトナムにおもむき、敗戦まで三年間滞在した。そのため、帰国後にマラリアを発病し、二年ほど療養についやしている。
 浜口陽三が銅版画に本格的にうちこむのは、マラリアから回復した一九四八年以後で、女の顔、隅田川風景、猫などをドライポイントとメゾチントでつくり、五一年フォルム画廊の個展で発表した。メゾチントは戦前のパリで長谷川潔からも刺激をうけたのだろうが、長谷川のように真黒のプレパラシオンから出発せず、灰色を基調にして透明性をあたえようとする意図がすでにうかがわれ、ドライポイントの線を網状にかさねて濃密な調子をだす技法も、それに即応している。五三年、ふたたび滞仏する年には、フォルム画廊と養清堂画廊の両方で個展をひらいたが、銅版の高度な技術とつきない魅力に、多くの人びとが眼をみはったのをおぼえている。
hamaguchi_01_pari-yane浜口陽三
「パリの屋根」
銅版

 パリに着いた夜、彼はモンパルナスのカフェで、その後の生活ときりはなせない画商ベルグリユーアンと知りあったというのも、運命的なものを感じさせる。五四年、サロン・ドートンヌに銅版画を出品して会員となり、五五年ごろからカラー・メゾチントに進んだ。渡仏後の主題はすべて静物にかぎられるが、青、赤、黄、黒の四つの版をかさね、どの版も半調子のプレパラシオンから出発し、ペルソーの刻みを密にした濃い調子の部分と、バニッシャーやスクレイパーで細肌をつぶしたり、けずったりした明るい部分をもつから、おそろしく時間と根気のいる製作ぶりだ。そこには石版画のような色彩空間の計画性と微妙な諧調の変化があって、宋元陰体画の精神性とクレーのような自在な幻想が統一されている。だから、五七年サンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞、五八年ルガノ版画ビエンナーレで国際賞、六一年リュブリアナ版画ビエンナーレで大賞、六六年クラコ一版画ビエンナーレで優秀賞と、数々の受賞を経験したのである。
 浜口は弟子をとらないが、斉藤寿一をはじめ私淑して訪れるものは拒まず、彼のパリ定住も日本に背をむけたわけではなく、ときどき往復して暮らしている。六九年後半以後は神経性の眼病のため、一時メゾチントの制作をやめて石版画などに集中したが、七四年からメゾチントを再開した。一種の国際人ではあるが、日本人の情感を手放さず、といって東洋趣味などとまったく無縁な彼の作品は、多くの若い世代に指標をあたえている。
 瑛九という天才がいるという話は、一九五〇年代後半、デモクラート美術協会に加わった泉茂、加藤正、周辺にいた利根山光人、福島辰夫などから何度も聞いていた。だが、当時浦和にいた瑛九は、めったに東京に出てこないし、作品をみる機会も少なかった。だからわたしは五九年だったか、「瑛九の名を聞くと、ジンマシンにかかったようにむずかゆくなる。」「瑛九を神棚に祭りあげるな、久保貞次郎から解放しろ。」と書いたことがある。オノサトトシノブらはその文章をおもしろがってくれたが、久保貞次郎は数年後タクシーのなかで、「あなたは何か皮膚病がありませんか?」などと逆襲してきた。その後、彼のフォトデッサンや晩年の点描油絵をみて、瑛九の死後未亡人に会い、わたしがブレーンをしていた画廊で遺作展をやらせてくれとたのんだが、未亡人はまず美術館でやりたいといい、今春の小田急デパートの遺作展まで、代表作をまとめてみる機会がなかった。
 瑛九(本名杉田秀夫)は一九一一年、宮崎の眼科医の次男として生まれた。四歳で母を失い、継母は七人の子のうち秀夫がいちばんカンがつよく、命令されるのがきらいでなつかなかったと回想する。一九二五年、中学を中退して単身上京し、日本美術学校に入って油絵を学んだが、ここも二年ほどで退学して、十六歳ごろ「みづゑ」「アトリヱ」などに美術評論を寄稿していた早熟ぶりだった。一九三〇年オリエンタル写真学校に入学して写真やフォトグラムを制作し、写真雑誌に写真評論を発表する。三二年からふたたび油絵に専念して、二科、独立展などに出品するが、どこにも入選せず、三四年宮崎にもどって、絵のかたわらエスペラント語を勉強し、三五年末エスペラント学会に講演にきた久保貞次郎と出会う。
 彼がガラスやセルロイドに手描きし、印画紙の上に物体とともにおいて感光させたフォトデッサンをはじめて制作したのは、一九三六年初頭らしい。同年二月、彼はスーツケースいっぱいのフォトデッサンと素描をもって上京し、まずエスペラント学会本部で久保にみせ、ついで長谷川三郎の家を訪れてそれをみせると、長谷川は当時新傾向の美術評論家だった外山卯三郎の家に同道し、三人でフォトデッサンという呼称や「瑛九」というペン・ネームを考えた。同年四月、紀伊國屋画廊で最初の個展がひらかれたのも、同年末『眠りの理由』というフォトデッサン集が刊行されたのも、長谷川と外山の斡旋によるものである。
 長谷川のすすめで「新時代洋画展」にも名をつらねたが、出品した形跡はいちどもない。三七年創立の自由美術家協会にも、長谷川によって自動的に加えられたが、第一回展にフォトデッサンを数点送っただけだった。当時彼は、抽象ともシュルレアリスムともちがった独自な道を自覚しつつあり、フォトグラムの先駆者マン・レイなどはディレッタントにすぎないと考えていた。だから、四一年にはもう自由美術をやめ、画壇と絶縁して長谷川三郎と同様、古美術に傾倒し、また水墨画、俳句、読書、静座などにうちこんでいる。
 敗戦後はいち早く共産党に入党して、文化講座をひらいたり、エスペラント語普及の運動をはじめたりした。四八年、ようやく抽象絵画を制作し、四九年自由美術会員に復帰するとともに、東京、大阪、宮崎でフォトデッサン個展をひらく。しかし、既成画壇とはやはり一線を画する必要を感じて数年で退会し、五一年、宮崎と大阪にわたってデモクラート美術協会を組織した。そこに山城隆一、早川良雄、泉茂、吉原英雄、森啓らが加わり、同年彼が浦和に移ると河原温、加藤正、靉嘔細江英公、杉村恒らも加わった。五二年には、久保貞次郎北川民次を中心とする民間美術教育運動「創造美育」の創立にも参加し、美術教師の組織化に力をつくしている。
瑛九瑛九
「ともしび」  
1957年 リトグラフ  
53.5×40.8cm」

 彼が真岡の久保貞次郎の家で、エッチングを試作したのは一九五〇年だが、五三年には瀧口修造企画のタケミヤ画廊で銅版個展をひらき、五一年銅版プレス機で石版画を試作したのをはじめ、五〇年代に銅版画二百数十点、石版画百五十余点に達する。瀧口が指摘したように、版画から写真への歴史を逆行して、フォトデッサンから版画にさかのぼっただけでなく、抽象的だが柔軟な曲線の動きのなかに新しい詩情をもちこんだところに、それらの版画の特色がある。エッチングは細密で幻覚的なイメージにみちているが、それらをとおして非物質的な空間、眼にみえない光がつねに求められている。だから晩年のエアコンプレッサーによる点描風の油絵は、光と色を完全に一致させた日本の抽象表現主義の極致となった。デモクラート美術協会には加わらなかったが(ママ)、靉嘔、池田満寿夫磯辺行久らをふくめて、彼が深い影響をあたえた若い作家たちは少なくない。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.51より再録
1979年10月 現代版画センター刊

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されたもので、毎月28日に掲載(再録)いたします。
30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま転載します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。
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