五十殿利治のエッセイ

五十殿利治『非常時のモダニズム 一九三〇年代帝国日本の美術』

新刊の拙著『非常時のモダニズム 一九三〇年代帝国日本の美術』について

五十殿利治


20170514五十殿利治
非常時のモダニズム 1930年代帝国日本の美術
2017年
東京大学出版会 発行
576ページ 21.8x15.8cm
価格:税込7992円/本体7400円


 本書は2008年同じ書肆(東京大学出版会)から上梓した『観衆の成立 美術雑誌・美術展・美術史』以来の単著である。つまり10年をかけて、ようよう一冊をものした。しかも、定年退職の月に、である。
 冒頭から懺悔のようで面目がないが、校正が終わり、著者の手を離れてしまうと、本を手にする喜びは束の間で、むしろ到らなかった点があれこれと浮かび上がってくる。表紙に掲載された個人蔵の瑛九作品をはじめ、資料の入手などで長らく世話になっている画廊主の求めに応じたものの、拙著についてなにかを書くとならば、こうして弁解気味になってしまうのだが、そもそも手前勝手の目論見では、2011年に還暦を目安にして一冊、そして2017年に退職に際して一冊と、皮算用をしていたが、ものの見事に目算が外れたという次第である。既発表の論文をまとめるものでさえ、この始末。それだけ知的な生産力が貧弱であるという以外に、説明のしようがない。
 実際に、本書に収録された一章には、初出が1996年、つまり20年以上も前に発表した論文に基づくものがある。筆者としては、それだけこだわりのあるテーマであると弁解したいところだが、単に自分の拘泥だけでまとめるという誹りを受けるかもしれない。
 当然のことだが、すべて初出がそのまま掲載されたものはない。個々の論文の対象や発表時期の相異による問題意識の溝を埋めるため、互いに関連づけるように配慮しつつ、管見で限りはあるが、近年の研究成果を盛り込むように努めた。
 そうした作業の中で気づいた、というよりも励まされたのは、何よりも先行研究であったことはいくら強調してもしたりない。
 一つは、すでに定評のある研究である。たとえば、田中淳氏の一連の仕事、特に『「絵画」の成熟 1930年代の日本画と洋画』展(東京国立近代美術館、1994年)であり、あるいは山田諭氏による日本のシュルレアリスムの基礎研究(「日本のシュールレアリスム:1925−1945」、名古屋市美術館、1990年)である(ちなみに、CiNiiで検索してみると本カタログは全国の大学図書館9館で所蔵されるだけである。嘆かわしい)。いずれも、現在でも、これを凌駕したと思わせるように説得力のある提案、あるいは手元におく事典的な業績はないといえば極論だろうか。とはいえ、新潟県立近代美術館の澤田佳三氏による企画「昭和の美術 1945年まで <目的芸術>の軌跡 」(2005年)、また速水豊氏による企画「昭和モダン 絵画と文学 1926-1936」展(兵庫県美術館、2013年)の貢献は評価したい。

20170513『絵画の成熟 1930年代の日本画と洋画』展図録
東京国立近代美術館 1994年

20170506『日本のシュールレアリスム:1925−1945』展図録
名古屋市美術館 1990年

 一方、昨年になって、この時代に関わる意欲的な、しかも浩瀚な著作がつぎつぎに上梓されて、地道な調査研究が一気に開花したような現象が見られた。
 一つは、大谷省吾の660頁の大著『激動期のアヴァンギャルド: シュルレアリスムと日本の絵画一九二八―一九五三』(国書刊行会)であり、またこれも600頁に近い黒沢義輝『日本のシュルレアリスムという思考野』(明文書房)である。一昨年に上梓された山口泰二の500頁ちかい『変動期の画家』(美術運動史研究会)も加えることができよう。この三著もさることながら、三者には資料面、論考面等でも負うところが大であった。また山口にはしばしば『美術運動史研究会ニュース』にわがままな寄稿をお願いした。この場を借りて、改めて謝意を表したい。
校正が出始めたころに、山田光春の瑛九評伝を裏付ける資料、すなわち大谷による瑛九書簡の翻刻と注解が公刊された(「瑛九 1935−1937 闇の中で「レアル」をさがす」展、東京国立近代美術館、2017年、113−147頁)。その一方、本書には登場しないスターであるが、神奈川県立近代美術館別館での「松本竣介 創造の原点」展(2016年10月)では、《画家の像》と同じ二科展(1942年)に出品された《小児像》の絵葉書が展示された。これほど繰り返し回顧展が催され、美術書・美術全集等で定番の画家でも、なお新出資料の発掘があることに驚かされた。

201606大谷省吾大谷省吾
『激動期のアヴァンギャルド シュルレアリスムと日本の絵画 一九二八−一九五三』

2016年 国書刊行会
著者からのメッセージ

 こうした高度な先行研究に加えて『非常時のモダニズム 一九三〇年代帝国日本の美術』を出版し、世に問う理由とはなにか。読んでいただくに限るといいたいが、とにかく私にはこの問いに答える義務があるように思われる。
 これまでの研究歴でいえば、本書はこの10年間の集大成である。共編著では、2003年からこれまで1930年代に関わる論集を三冊上梓していることもあり、その延長線上にある。ただし、この三論集に掲載した文章はいずれも再録してはいない。もっとも、それ以外の書籍に収録されてあるもので再掲した論文はある。ひとつは巴里東京新興美術展についてのもの、そして英文日本美術年鑑についてのものである。大幅な加筆を加えて、初出とは資料面でも、論点の整理でも、一歩進めてあるけれども、なお論集として編む理由として十分ではないかもしれない。
 では、なにを求めたのか。すでに1930年代美術を論じる視点として提出した「モダニズム/ナショナリズム」、「クラシック モダン」、そして「対外美術戦略」に加えて、さらにそれを包括するような議論の場を用意するということである。その結果として、脳裏に浮かんだのが、この10年間を覆うような、ある意味で融通がきく語が「非常時」であった。なぜなら、それは美術界に限らずに、広く通用していたからだ。大陸に派遣される従軍画家、聖戦美術展といった動向とシンクロする1930年代の美術現象を形容する語としては腑に落ちるところがあろう。その一方で、昨今の政治状況、日本に限らず、世界的にもみても、この語は予期せぬ残響を残しそうだ。
しかし、人間の暮らしは、最前線の戦場にも日常的な時間が流れるときがあるのと同じように、常に非常時にあるということがないことも明白である。美術現象にも同様にして、非常時を体現するものがあり、また非日常的な枠内で日常的なものが生起する。その一例として、雲岡石窟の観光に注目した。もともとは、柳瀬正夢や長谷川三郎が絵筆ではなく、カメラを手にして雲岡石窟を訪れたことを問題にしていた。とくに長谷川については藪前知子による議論(「抽象絵画の沈黙――長谷川三郎における「古典」と「前衛」」、『クラシック モダン 1930年代日本の芸術』所収、せりか書房、2005年)に啓発されたのだが、異なる視点で考察するようになった。
日中戦争開戦時から、ほどなくして1937年9月日本軍が進出してすぐにも遺跡保護が始まるが、やがてバスが開通するなど、観光地化が進展する。たまたま古書で入手した架蔵の案内書には、石仏についての細かいメモが記されているとともに、見返しには、「山西大同雲岡石仏古寺」や「石仏古寺」の印とともに「16.6.30」の日付のある「青島 中華航空株式会社」の丸スタンプが押されている。むろん、入手した当初は、スタンプなど見過ごしていたというより、鉛筆の書き込みのような資料的な価値と無縁な夾雑物と思っていたのだが、改稿するなかで、再考をうながされた。
こうしたツーリズムの視点については、ケネス・ルオフ著『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』(朝日選書、2010年)に大いに啓発されたし、同書はまた瑛九が30年代の宮崎においておかれた状況を考え直す契機ともなった。現平和公園に聳え立つ日名子実三の《八紘之基柱》と、彷徨期を迎える瑛九のフォト・デッサンが同存すること、それはなるほど大都市ならば理解できなくはないだろう。だが、紀元二六〇〇年記念で高揚する宮崎県。宮崎神宮があり、肇国神話の舞台となる地となれば、大都会とは事情が違い、そうした高揚感が横溢する周囲から瑛九という個人を単純に切り離せないだろう。この時期、瑛九の盟友であった北尾淳一郎が、1937年銀座の画廊「ブリュッケ」における二人展のあと、宮崎での美術活動について雑誌『アトリヱ』に寄せた一文のタイトルに「聖都、宮崎市」を掲げたことは雄弁な証拠である。
なお、瑛九について、ひとつ訂正が必要な記述がある。拙著第七章で瑛九が「海外超現実主義作品展」を見たことが判明していると述べているが(294頁)、これについての疑問を識者から指摘された。なるほど、この時期、瑛九が宮崎から同展が開催された東京、京都、大阪、名古屋、福井へ行ったという確たる文献資料等がなく、私の勘違いであった。この場をかりて、訂正させていただきたい。

ところで、論文という体裁で執筆するので、書くこと自体があまり楽しみということはないのだが、それでも、第4章「シベリア横断の画家と小説家によるパリ美術生活案内」については調べること自体が、自分がちょうどツーリストとして旅をするような気分が高揚したところがあったといえばおおげさだろうか。
林芙美子のことは『マヴォ』に寄稿している詩人で、マヴォイストの周辺にいた小説家として、『砂漠の花』の平林たい子と同じように特別な関心を抱いて、「放浪記」を熱心に読んだことがあるが、そうした関心をさらにシベリア旅行の考察へと導いたのは、拙著でも述べたとおり、森まゆみの『女三人のシベリア鉄道』(集英社、2003年)であり、また同著者によって脚色された劇化され、劇団銅鑼の公演(俳優座劇場、2014年3月)であった。著者は若いころ断念したシベリア鉄道旅行を実行することを執筆動機のひとつに挙げているが、いまひとつ、旅によって「女三人」が変貌を遂げたことにも触れている。
「とにかくこの旅をへて、みな人生を変えた。与謝野晶子は夫を選び直し、宮本百合子は思想を選び直し、林芙美子は恋人を選び直した。」(森まゆみ「旅へ、旅へ、うずく心――自分の本を脚本にして」、公演パンフレット「劇団銅鑼No.45 女三人のシベリア鉄道」、2014年3月)。
旅が人を変える、それはたしかに魅力的なテーマだ。
一方、ずっと以前のことだが、第一次世界大戦中にモスクワに滞在した山本鼎について論じたこともあって、日ソ国交が樹立した後に、シベリア鉄道旅行の往路復路で乗換のためにモスクワに立ち寄った美術家が、美術館を訪問してどんな感想を抱いたかということも以前から興味があったので、管見の限りで、考察をまとめることにした。
林芙美子については、幸いなことに、すでに今川英子による委細を尽くした先行研究『巴里の恋―巴里の小遣ひ帳、一九三二年の日記、夫への手紙』(中央公論新社、2001年)があり、モスクワでの乗換と市内観光について触れ、また私にとっては主役級の林芙美子と島村三七雄に対するところの、貴重なバイプレーヤーである顔水龍、そして平山昌(子)を見出すことができた。顔水龍は戦前の美術学校で学び、戦後故郷の台湾で活躍した作家であり、2011年台北市立美術館での回顧展「走進公衆・美化台湾」を企画した中央研究院の顔娟英から貴重な示唆を得ることができた。あいにく後者については、本画廊主が編纂した『資生堂ギャラリー七十五年史』(資生堂企業文化部、1994年)に収録した経歴以上は、いまだ十分に人物を把握できていない(なお、顔娟英から、顔水龍の回想として平山昌に言及した未発表の会見記の一部を提供されたが、画家の遺族との連絡がとれず、今後の課題とした)。また川崎賢子『彼等の昭和―長谷川海太郎・潾二郎・濬・四郎』(白水社、1994年)の潾二郎が登場するとは思いもよらないことであった。
林芙美子の経験したパリは不況にあえぎ、画廊が激減したパリであった。芙美子の交友圏には画家がしばしば登場するとはいえ、そして「シュール」の言及もあるとはいえ、彼女自身は前衛的な傾向とはすれ違ったままのパリの街を下駄で歩き回ったのだった。たとえば、美術ジャーナリストの松尾邦之助とは交流したのであるから、岡本太郎と出会ってもおかしくはないといえばおかしくはない。だが、灰色の色調による具象画で知られるピエール・ラプラードを愛好する林芙美子にかりに出会ったとしても、その当時の岡本はまだピカソ作品に衝撃を受けて間もない時期であった。やがて1936年ベルリン・オリンピックの取材のために訪れる横光利一を、あのアドルフ・ロース設計のトリスタン・ツァラ邸に引き連れていくほどに、パリの美術界での知己を得てはいなかった。
林芙美子のパリは、それでも、まさに美術生活という語がぴたりと当てはまる。到着したパリ北駅での出迎えの一人は画家別府貫一郎であった。当時同地の在住日本人では画家が圧倒的な多数派であったから、当然といえば当然であったのだが、それでも、林の日記や書簡では、先述の美術ジャーナリスト松尾のほか、画家では青山義雄、建築家白井晟一、美術史家今泉篤男、と狭いコミュニティーならではだが、著名となる人物がつぎつぎと登場するのである。林芙美子とともに、パリの美術生活を楽しみたくなるというものだろう。

東京大学出版会編集者によれば、前著『観衆の成立』は毎年、着実に購入されている由である。じつは日本のダダについての長文を収めた共編著Eastern Dada Orbit(G.K. Hall, 1998)も僅か数部であるが、毎年、米国の出版社からその旨の連絡が来る。研究書とはそういうものだと、えらそうなことはいえない。前述で誤記を訂正したばかりだ。それでも『非常時のモダニズム』も息の長い研究書となればと念願している。
おむか としはる

『非常時のモダニズム 一九三〇年代帝国日本の美術』目次:
序章
第一部 帝国の美術戦略
第一章
もうひとつの「日本美術年鑑」と対外文化宣伝
— The Year Book of Japanese Art (『英文日本美術年鑑』)について
1 番付から年鑑へー美術の社会化と歴史意識
2 二つの美術年鑑
3 国際連盟協会学芸協力委員会と美術界
4 The Yearbook of Japanese Art (『英文日本美術年鑑』)の刊行
5 Introductionと日本美術界紹介
6 主要展覧会の紹介と付録記事
7 まとめ

第二章
美の聖域と競技場(アリーナ)
ー一九三六年べルリン・オリンピック美術展について
1 芸術競技初参加ーロサンゼルス大会、一九三二年
2 べルリン大会ー準備から展示まで
3 べルリン大会が終わって

第三章
日中戦争期における雲岡石窟と日本人美術家
ー柳瀬正夢と長谷川三郎を中心に
1 遺跡と観光
2 観光地としての雲岡石窟
3 雲岡石窟ブーム
4 雲岡石窟の記述ー専門書と一般書
5 モダニストの中国旅行と写真への関与
6 柳瀬正夢の雲岡行ーカメラを手にした画家の視線
7 帰国後の写真の展示公開ー雑誌と展覧会
8「女」と「こども」と「平民」の世界ーツーリストの視線
9 長谷川三郎と雲岡石窟
10 写真との出会い、嘆九との出会い
11 第一回自由美術家協会展と写真
12 雲岡石窟の評価と写真作品
13 中国旅行後の「前衛」なる「閑人」
  結語に代えて
補遺 美術関係の一つの記録写真ー大陸とモダニストのカメラ

第二部 越境するモダニスト

第四章  
シべリア横断の画家と小説家によるパリ美術生活案内
ー島村三七雄と林芙美子
1 シべリア鉄道の旅
2 林芙美子のパリ美術生活
3 パリの日本人社会と林芙美子ー顔水龍と平山昌

第五章
モダニズムの展示
ー巴里新興美術展をめぐって
1 企面過程—第三形而同盟から巴里・東京新興美術同盟へ
2 展覧会開催—会期、会場、出品目録、出品作品
3 反響と余波
4 モダニズムの展示

第六章
岡本太郎とスイス・コネクション
ーネオ=コンクレティスムと一九三〇年代の「総合」の芸術
1 なぜスイス美術なのか
2 シュランデパンダン展と抽象創造協会への参加
3「稀有な若人」ー松尾邦之助そしてセリグマンとの出会いについて
4 交友圏の拡大と美術活動
5 ジャコフスキと岡本太郎
6 一九三五年ルツェルン美術館開催の「措定、反措定、止揚」展をめぐって
7「総合」の芸術
8 クールティヨンと『オカモト』ーネオ=コンクレティスムの位置づけ
9 おわりに

第七華
セリグマン来日と日本の「前衛」
1 セリグマン来日
2 セリグマン個展
3 ネオ=コンクレティスム
4 セリグマンの代弁者としての長谷川三郎
5 英九にとってのセリグマンーガラス絵の意味

第三部 帝都の展示空間 上野恩賜公園とモダン銀座街頭
第八章 
近代美術館から現代美術館へ
—美術館建築と「現代美術」
1 東京府美術館と美術館建築
2 美術館機能の改善
3 現代美術館か、近代美術館か
4 現代美術の「街頭展」ー現代美術館の小展示室

第九華 
一九三○年代東京における「街頭展」とモダニズムの新拠点
ー「ブリュッケ」と「日本サロン」にっいて
1 銀座の展示空間
2「新芸術の為の展示室」ー画廊「ブリュッヶ」
3「ブリュッケ」における展覧会
4 英九と北尾淳一郎の二人展にっいて%
5 ゲオルゲ・グロツス作品及文献展示会
6 「写真関係の建築」と海外超現実主義作品展—日本サロン
7 板垣鷹穂の紹介記事
8 日本サロンと「海外超現実主義作品展」の展示空間

第十章  
アマチュア写真から写真壁画まで
ーー板垣鷹穂と写真展月評という舞台『アサヒカメラ』一九三三~一九四ニ
1 写真展月評への姿勢ー局外者、学生、アマチュア
2 アマチョァ写真評とモダニズム批判
3 写真の社会性、カメラ報国、写真国策
4 展示、美術館、画廊
5 地方色と郷土芸術
6 日本的なるもの
7 ドイツと板垣月評
8 おわりに

■五十殿利治 Toshiharu OMUKA
1951年 生まれ。
1978年 早稲田大学大学院後期課程中退、北海道立近代美術館学芸員、筑波大学講師を経て、筑波大学芸術系教授。
主要編著書:
『大正期新興美術運動の研究』(スカイドア、1995年、毎日出版文化賞奨励賞)
Gerald Janecek(co-editor), The Eastern Dada Orbit: Russia, Georgia, Ukraine, Central Europe and Japan(G.K.Hall, 1998)
『日本のアヴァンギャルド芸術―〈マヴォ〉とその時代』(青土社、2001年)
『モダニズム/ナショナリズ―1930年代日本の芸術』(共編著、せりか書房、2003年)
『クラシック モダン―1930年代日本の芸術』(共編著、せりか書房、2004年)
『観衆の成立―美術展・美術雑誌・美術史』(東京大学出版会、2008年)
『「帝国」と美術―1930年代日本の対外美術戦略』(編著、2010年、国書刊行会)
『美術批評家著作選集』(監修、全21巻、2010年−2017年、ゆまに書房)

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1936年頃
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五十殿利治 恩地孝四郎 ー [芸術]の時代の[芸術家]

恩地孝四郎 ― [芸術]の時代の[芸術家]
五十殿利治


 「岸田[劉生]君は病んでゐる。貧さに私と変りないことをきく、そして子のあることも変りない。そしてあの立派な仕事を仕上げてゐる。(略)私は画家だ、画家として生きることにのみ私の生活があるのだ。他のすべてを捨てろ。」(恩地孝四郎「愚人日記」1917年9月16日*)

 近代版画の展開に多大な貢献を果たした恩地孝四郎はみずからを「ディレッタント」(芸術愛好家)と呼んだ。その裏側には「芸術」への熱い思い、あるいは「芸術」や「芸術家」への錯綜したコンプレックスのようなものがあったようにみえる。彼にとって「芸術」はつねに手の届かない高み、というよりも、つねに遠ざかる聖地にあって、版画をはじめとするさまざまな回路によって、そこへ到ることが、大袈裟にいえば、恩地の全存在を賭けた制作活動の動機であったといってもいい。
 こうした「芸術」や「芸術家」の意識は恩地自身の問題であるとともに、単に個人に限定できない歴史の所産であったともいえる。恩地個人としてみると、その芸術観に大きな影響を与えたひとりが、白樺派の武者小路実篤であったというのは興味深いが(**)、それ自体に時代の刻印をみることができるのではないか。

 恩地孝四郎は岸田劉生と同じ生年であった、というとふしぎな感じがしないだろうか。同じように1911(明治44)年の白樺主催泰西版画展で感銘を受けるなど、「白樺」の多大な影響圏内で活動した青年期があった。しかし、両者の軌跡が近づくのもそこまで、ともいえる。近代にいちはやく訣別する岸田劉生、そして近代を終生追い求めた恩地孝四郎、まさに対照的である。
 恩地が東京美術学校予備科に入学し、さらに白馬会原町研究所に入る1910(明治43)年、白馬会葵橋研究所に通っていた岸田は、第4回文展で異例の入選を果たして、周囲を驚かせることになった。以後、岸田は高村光太郎や齊藤与里らによるヒュウザン会展(1912年)で一躍画壇にデビューし、同会解散後も、生活社から草土社へと活躍の場を拡げ、画風も後期印象派的なものから、1913(大正2)年を転機として「近代の誘惑」を卒業して、デューラーをはじめとするドイツ古典絵画に触発されたリアリズムへと転じて、振幅の大きな道程を歩むことになった。
 一方、恩地は美術学校の仲間である田中恭吉や藤森静雄とともに、1914(大正3)年自画自刻の木版画と詩の同人誌『月映』を洛陽堂から公刊し、日本で最初の抽象画といわれる「抒情『あかるい時』」(1915)を掲載したり、また竹久夢二の周辺に出入りしているうちに、1916(大正5)年、フュウザン会が解散して岸田たちと袂を分かった齊藤与里、三並花弟らが創設した日本美術家協会に参加する。この前後から、恩地は武者小路の芸術観に大きな影響を受け、油彩画の制作にも打ち込むことになった。冒頭で引用した日記はちょうど油彩を二科展に出品したところ落選するのだが、皮肉にも同展で二科賞を受賞した岸田劉生から葉書をもらったときの挫折感を記したものである。そこに劉生の名が出てくるのは、ふたりが奇妙な因縁で結ばれていることを暗示していようか。
onchi_02_akaruitoki抒情・あかるい時

 「自己」といい、「芸術」といい、その語を記す岸田劉生には揺るぎない信念があるようにみえる。恩地とはまるで別世界の住人のようだ。ただし、岸田にせよ、恩地にせよ、直面していた日本近代の芸術状況は同一であり、それに比較すれば、油彩だからだとか、版画だからといった差は小さなものであったようにみえる。
 幕末維新以来、社会に有用な技術としての面を強調されながら、西洋から移入された油彩画に代表される「美術」は、明治末年に至り、文部省美術展覧会、いわゆる文展の開設(1907)に象徴されるように、社会一般に共有される機制として位置づけを与えられることになった。国家的なプロジェクトへの参画、貴顕の肖像画とか、さまざまな回路で有用な技術であることを第一義的に喧伝してきた美術は、西欧をモデルとして再編された文化的な機構において、いまやそれ自体として広く鑑賞され、公に評価されるべきものとして、自律した地位を確保した。
 このように社会的に公認された美術は、従来とは異なる意識を要請し、新たな規範を生み出すことになる。技術の陶冶に専心し、邁進するプロフェッショナルとは立場を異にする人間たちが登場することになる。美術の専門的な枠を超えて、より広い表現世界において、共通的な基盤に立てる「芸術」という語を、時代の感性が求める。
 たとえば、明治末年には水彩画ブームが興るが、その火付け役であった大下藤次郎がみずから「アマチュア」を名乗るという意識の背後には、東京美術学校 ― 文展といった制度下のプロフェッショナルとは一線を画す青年たちの支持が透けて見えてくる。たとえば、1905(明治38)年雑誌『みづゑ』を発行する春鳥会からの絵葉書第二集に「海」が選ばれたように、水彩画に親しんでいた萬鉄五郎。黒田清輝は、1912(明治45)年、東京美術学校西洋画科を首席で卒業したばかりの神津港人にむかって、卒業後に社会で活躍するのは萬鉄五郎かもしれないとつぶやいたという逸話が伝えられているが(***)、ここにもそのような美術をめぐる新たな状況が反映している。
 こうして醸成された「芸術」と「芸術家」の領野は、技術とは異なる尺度によって判定されることになった。黒田清輝はちょうどパリで同年2月に開催されたイタリア未来派展のカタログを受け取ったばかりであった。恒常的な更新を求める西欧のモダニズムの大きなうねりがこの国にもつぎつぎと押し寄せてくることを黒田は直感したのだろう。フランスの外光派の流れをくむ黒田もまたモダニズムの路線の局外に立っていたわけではない。
 そのモダニズムは更新を本質とする以上、遠心的な構造をもっているが、岸田劉生はこれから逸早く路線転換し、求心的な方向を模索することによって「芸術」を掘り下げようとした。恩地孝四郎はモダニズムを粘り強く追い求めた。岸田劉生の場合がそうである以上に、詩、版画、油彩、レリーフ、装幀、写真と、すこぶる多彩な仕事を残した恩地孝四郎の「芸術」も、その多彩さに幻惑されないで対峙するならば、孤独な作業の連続であったことが理解される。
 恩地孝四郎においてモダニズムは、青年期に特有の通過儀礼的な病いに終わらなかった。果てしのない挑戦、出口のない探索となった。だが、それはまさに近代が求めた「芸術家」像とぴたりと重なっているのである。
(おむか としはる)
 
  桑原規子「恩地孝四郎研究―版画における近代性の追求」、筑波大学提出博士論文、第3章第2節、2001年。
** 同前第3章第1節。
***神津港人「美術学校時代の思い出」、「行先 花ざかり 神津港人追想録」私家版、1986年。

●本稿は2003年1月10日〜25日の会期でときの忘れもので開催した「恩地孝四郎展」図録に掲載されたもので、このたび著者の了解を得て再録しました。

五十殿利治(おむか としはる)
1951年東京都に生まれる。早稲田大学大学院修士課程修了。
北海道立近代美術館学芸員を経て、現在、筑波大学大学院人間総合科学研究科教授、同人間総合科学研究科長。
1995年毎日出版文化賞奨励賞を受賞。1996-97年文部省在外研究員としてアイオワ大学でダダ研究を行う。
著書に『大正期新興美術運動の研究』(スカイドア 1995年、改訂版1998年)、『日本のアヴァンギャルド芸術〈マヴォ〉とその時代』(青土社 2001年)、共著に『資生堂ギャラリー七十五年史 1919-1994』(求龍堂 1995年)、『ロトチェンコの実験室』(新潮社 1995年)、『瑛九作品集』(日本経済新聞社 1997年)、The Eastern Dada Orbit: Russia, Georgia, Ukraine, Central Europe, and Japan, G.K.Hall,1998、訳書にマレーヴィチ『無対象の世界』(中央公論美術出版 1992年)、『大正期新興美術資料集成』(国書刊行会、共著 2007年)、『観衆の成立 美術展・美術雑誌・美術史』(東京大学出版会 2008年)がある。
onchi_08_poem-8恩地孝四郎
蝶の季節

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◆ときの忘れものは6月25日(火)〜7月6日(土)「恩地孝四郎展」を開催しています(*会期中無休)。
恩地DM創作版画運動の指導者、日本の抽象絵画のパイオニアであった恩地孝四郎の木版画、素描、水彩など約20点をご覧いただきます。

●ギャラリートークのご案内
6月29日(土)17時より、桑原規子さん(聖徳大学文学部准教授/博士(芸文学))を迎えて、ギャラリートークを開催します。
要予約/参加費1,000円。メールまたは電話にてお申し込みください。
E-mail:info@tokinowasuremono.com
電話:03-3470-2631
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