殿敷 侃——失われたものからのメッセージ—— 

濱本 聰


 殿敷侃という美術家を知る人はどれほどいるだろうか。知名度は一般的に高いとは言えないかもしれない。しかし1970年代から1980年代にかけて、さまざまなシーンで作品や作家自身に出会った人にとって、没後20年以上が過ぎた今もけっして忘れられない存在であるにちがいない。絵画、版画、インスタレーションとその表現は多彩だが、特に80年代後半の廃棄物を用いた〈環境アート〉は、確実に現代美術の最前線に立って、人々に強烈なインパクトを与えた。
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 殿敷侃の原点はヒロシマである。1942年、広島に生まれた殿敷は、原爆投下の二日後に疎開先から母親に背負われて市内中心部に入り二次被爆した。爆心地の郵便局に勤めていた父親の姿は跡形もなく、母もまた数年間の闘病の末に他界した。高校卒業後国鉄に勤めるが、20歳頃に肝臓病を患い、長期入院したのがきっかけで絵を描き始めた。退院後、国鉄勤務のかたわら精力的に団体展などに出品する。ヒロシマにまつわるモチーフを表現主義風の荒いタッチで描くことから始まり、やがてポップアート風の表現へと変わる。1970年には画家になる決意で仕事を辞め、翌年それまで特に縁があったわけでもない日本海に面した山口県長門市に住みつき、以後ここを生活の場として困窮の中で制作を続けた。この頃から両親の遺品や自画像などを、油彩やインクによる稠密な点描で描くようになる。無数の点で画面を埋めていく気の遠くなるような作業に彼を駆り立てたものは、自分の中の埋めきれない喪失感と憤りと苛立ちだったといえるだろう。
 殿敷侃が銅版画を手掛けるようになるのは、美術評論家、久保貞次郎の勧めによるものである。1977年、偶然、銀座の画廊で久保に出会い、点描の自作を見せたところ、銅版画に向いていると、その制作を強く勧められたという。久保から送られてきたプレス機を使って、ときおり久保のアドバイスを受けながら自学自習で集中的に制作に打ち込み、短期間で確かな表現技術を身につけた。モチーフはやはりヒロシマにまつわるものや両親の遺品の他、日常の些細な物や小動物、植物などである。1978年にはこれらの成果をまとめた久保の企画による個展を東京で開いた。このときに銅版画とともに出品した油彩画の1点が、久保の推薦で翌年の安井賞展に入選する(図1)。

じゅばん
図1 《釋妙昭信女A(じゅばん)》 1978年 油彩

 しかし殿敷が銅版画に力を注ぐのは1981年頃までのわずか数年間のことである。広島の印刷会社の人と知り合ったことで、銅版画に代わって、より表現を展開しやすいシルクスクリーンを用いるようになる。シルクスクリーンでもやはりヒロシマをモチーフにしたものが中心である。中でも無数のこまかい点(実は父親の遺品の爪の形をイメージした弧状)の集積による《霊地》シリーズ(図2)はその代表作といえると同時に、この作品あたりから彼は描写という意味での表現をほとんどしなくなっていく。《霊地》は画題のとおり焦土から立ちのぼる霊気のようなものを思わせるが、具体的な何かが描かれているわけではない。同じ点の集積でも油彩や銅版画のような形を浮かび上がらせるためのものではない。作者の情念のこもった手の痕跡が、茫洋と画面に広がっているだけである。その捉えどころのない空間は、それゆえに外へ向かって展開し得る可能性ももっていた。

霊地(1)
 図2《霊地(1)》 1980年 シルクスクリーン

 《霊地》シリーズでは、いくつかのヴァージョンによる1枚ずつの版画作品だけでなく、ひとつのイメージを既成のポスターや新聞紙の上に刷り、さらにそれらを何枚も並べて貼った作品も作られた。新聞の文字は無数の点で覆い隠されほとんど読み取ることができなくなっている。大量に流される情報の空虚さを、個人のメッセージの重さで対比的に示そうとしたと捉えることができるだろうか。新聞による作品の1点は、1981年の第1回西武美術館版画大賞展で第2席となった(図3)。さらに同じ時期、原子雲やケロイドの写真を使ったイメージを、何枚も反復させたり、巨大化したシルクスクリーンによる作品も制作している。イメージの反復という手法にはウォーホルの影響がうかがえるが、さらに殿敷はそれらをインスタレーションという形で展開させていくのである。原子雲の写真を刷った巨大なキャンバスを、何枚も原爆ドームの前に並べた「EVENT ATOMIC BOMB」(図4)は、その最初の大掛かりな試みであった。

作品(2)002
 図3 《作品(2)》1981年 シルクスクリーン(第1回西武美術館版画大賞2席)


ATOMIC BOMB
 図4 《EVENT ATOMIC BOMB》1981年


 シルクスクリーンの制作も、実質的には1980年からわずか2年ばかりのことである。もはやこの頃の殿敷にとって、版画というひとつの作品を作ることよりも、それを使った新しい展開に関心が移り始めていた。スケールの大きい画面が可能であることと、比較的容易に複数枚数を印刷できるという特性をもつシルクスクリーンとの出会いは、殿敷の中ですぐにインスタレーションという方法に結びついたと考えられる。それは彼が自ら表現の方向を、内から外へ向けて行くターニングポイントとなるものであった。
 こうした外へ向かう表現姿勢を決定的にしたのは1982年4月から半年間のヨーロッパ、アメリカの旅行である。この旅行中、最大の目的であったカッセルの「ドクメンタ7」の会場で、ヨーゼフ・ボイスの社会活動そのものを芸術表現と捉える思想に直接触れ、自らの表現行為ももっと社会性をもつべきだという確信を得るのである。
 以後、殿敷は実に精力的に行動し、その表現行為は、ときに過激で挑発的にも見える形で展開された。1983年の山口県美術展では、数トンの古タイヤ、ビニール、プラスティック類の黒い廃材を美術館の前庭にぶちまけて人々を驚かせた(図5)。その後も立て続けにさまざまなスケールの大きいインスタレーションやイベントを行なった。100人の人を動員して海岸のプラスティック類の漂着ゴミを集め、巨大な塊に焼き固めた《ゴミ拾いをアートするイベント》、美術館や画廊の入り口、通路をゴミで塞いだ《バリケード》シリーズ、立ち枯れの松などの木々に何本もの古タイヤ掛けた《タイヤの生る木》シリーズ(図6)等々。亡くなるまでの10年足らずの間にこうした行為がどれだけ行なわれたことだろうか。それらはまだそれほど一般的でなかった環境問題をテーマにしたアートとして注目された。同時にそれは美術館や美術という制度を否定し、そこから逸脱する行為でもあった。

黒の反逆集団
 図5 《黒の反逆集団》1983年

タイヤの生る木001
 図6 《タイヤの生る木(Plan5)》1989年

 テーマはヒロシマから現代社会全般へ広がった。原爆というテーマを抱えたひとりの表現者のメッセージは、あるところから個人のルサンチマンを超えて、現代社会と、私たち一人ひとりの意識の在り方への痛切な問いかけとなっていった。もちろんヒロシマがテーマでなくなったわけではない。1987年には原爆ドームの前に赤ペンキを塗りたくった100メートルのビニールシートを立てかけた《まっ赤にぬられてヒロシマが視えた》というイベントを行なったように、ヒロシマは彼にとって変わらない原点であり、環境問題をはじめとする現代社会へのさまざまな疑義の象徴であった。
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 殿敷侃という美術家を版画作品だけで理解することは難しい。それはある時期の形として表された一面に過ぎない。しかしその表現行為の全体を振り返れば、常にひとつの表現姿勢に貫かれていたことに気づかずにはいられない。無数の点や線や廃棄物で平面や空間を埋め尽くすこと、これでもかといわんばかりのおびただしいものや行為を充満させることが、一貫した方法であった。ある人はその行為を「虚ろの充填作業」と形容した(註)。その充填作業はけっしてがむしゃらなものではなく、視覚的な効果にも冷静な配慮がなされ、塗り重ねられたボールペンの跡や廃棄物たちを美しく提示して、見るものをひきつけるのだった。それはまた、自らの内景を痛切に語ると同時に、数知れず失われたものたちの叫びを代弁するものでもあった。なぜ失われなければならなかったのかという問いを、失われたものたちの側から問いかけることであった。
 焼き尽くされ、消されても消されてもなお残るものからのメッセージ。彼はあるとき自ら「遺作展」と銘打った個展を開いたことがある。案内状に「ただし、ますます元気です」と書かれていたように、一面ではレトリカルなタイトルではあったかもしれないが、しかし確かに彼は、彼自身の言葉で言えば「死せられた」ものたちの代弁者としてメッセージを投げ続けたのである。
 それにしても、人々を巻き込むあのエネルギーは一体どこからきたのだろうか。最後の一年間、病魔に冒された体を削りながら、水戸、板橋、油谷、宇部、長門と、立て続けに環境をテーマにした大掛かりなインスタレーションの作品を手がけた。その行為はすでに殿敷侃という個人を超えたものだったのかもしれない。
(はまもと さとし)

*註 渡部誠一「追悼殿敷侃・死を生きる座標」『美術手帖』1992年5月号

*主要参考資料
•リン・ガンパート「序文」ほか 『逆流する現実』SOS PLAN 1990年
〈別刷〉南嶌宏「殿敷侃―背面の眼差し」
•山本和弘「殿敷侃―反省的芸術」 『TYRE BERING TREE PROJECT』SOS PLAN 1991年
•山本和弘「ボイス、キーファー、そして殿敷侃。あるいは芸術と政治、芸術と経済。」
渡部誠一「殿敷侃−死を生きる座標から−」 濱本聰「殿敷侃・現代の語り部」
『殿敷侃 遺されたメッセージ・アートから社会へ』展図録 下関市立美術館 1993年

■濱本 聰(はまもと さとし)下関市立美術館館長
1954年山口県萩市生まれ。岡山大学大学院文学研究科修士課程修了。日本近代美術史専攻。1983年より下関市立美術館勤務。2010年4月から現職。「岸田劉生と草土社」「桂ゆき展」「香月泰男展」「殿敷侃展」「日本のリアリズム 1920s−50s」(第6回倫雅美術奨励賞受賞)「香月泰男と1940−50年代の絵画」などの展覧会を企画。共著に『香月泰男画集・生命の賛歌』(小学館)など。

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展覧会図録『殿敷侃 遺作展』
刊行日:2013年8月21日
発行元:ときの忘れもの/(有)ワタヌキ
テキスト:濱本聰(下関市立美術館館長)
図版:21点掲載
税込価格:800円
送料:250円

◆ときの忘れものは、2013年8月21日[水]―8月31日[土]「殿敷侃 遺作展」を開催しています(※会期中無休)。
殿敷DM
広島で生まれた殿敷侃は、被爆体験をもとにヒロシマにまつわる遺品や記憶を細密極まる点描で描き、後に古タイヤなどの廃品で会場を埋めつくすというインスタレーションで現代社会の不条理に対して批判的・挑発的なメッセージを発信します。
1992年50歳で亡くなりますが、本展は初期の原爆ドームのレンガや、鋸、蟹など、点描で精緻に描かれた油彩と版画を約20点ご覧いただきます。
殿敷さんの版画制作の経緯は「久保エディション第4回〜殿敷侃」でご紹介しました。
本展カタログのテキストは下関市立美術館の濱本聰先生に執筆をお願いしたほか、このブログでも、山田博規さん(広島県はつかいち美術ギャラリー)、友利香さん、土屋公雄さん、西田考作さん、池上ちかこさんらに寄稿(再録も含む)していただきます。

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