森下泰輔のエッセイ

森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」 第10回(最終回)

森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」第10回(最終回)

黒川紀章・アスベストまみれの世界遺産“候補”建築

 熊本地震の被災者の皆様に哀悼の意を表します。まだ余震が続いていることもあり、なんとか不便な避難生活を忍耐をもって乗り切れることをお祈りしております。

 今回、薩摩川内市においても震度4の揺れがあったのにもかかわらず、川内原発停止せず。それどころかNHKは会長指示により鹿児島の震度を意図的に隠ぺいしていたふしすらある。「原発における不安感を助長しないように」というのがその理由だ。
 現在わが国は、立憲主義というものをめぐり大変な岐路に立っているといえよう。本来、憲法は権力を抑止し、国民を権力の暴走から守るためのものだが、ここでは国が国民の主権を制限するために憲法があるようだ。まず国体と社会があって個人があるという考え方は、現在の近代民主主義とは逆転している。個があり社会があり国があるのだ。
 もともと芸術や美術とは何かと考えた場合、この民主主義の個の尊厳、個人の権利の重要性上に成立している。すくなくとも社会主義リアリズムやナチ・リアリズム、日本の戦争協力画を除いては。ナチはこの個的な表現を「退廃芸術」と呼んで排除したが、美術史自体がその退廃芸術と呼ばれたものの勝利であったことは疑う余地はなかろう。つまり美術とは「個人の尊重」と「表現の自由の保障」上にあって、ピカソ「ゲルニカ」を見るまでもなく、平和主義、反戦をその核に有する。その意味で、1947年に施行されたいわゆる日本の「平和憲法」とは世界に先駆けた「芸術憲法」ともいえるものなのである。
 この立憲主義が国家主義的なトーンに変化したのはいつごろからなのか?
 1999年に国歌国旗法が成立した。このときはジョン・レノン「イマジンを国歌に」などといった極端な意見もあったが、少なくとも「イマジン」は平和主義的ではある。だが、ここで戦前の国体を思わす国歌国旗法が成立したことが、現在の全体主義復活傾向に拍車をかけたことは間違いないのではないか?

 さて、3.11以降、とりわけ福島第一原発の事故をめぐり、国家主導の流れが大きく表面化してきた。本来ならばいまだ原因も状態もわからず、相変わらず放射線を放出し続けているこの3基の原子炉に関し、世論は脱原発をもっと唱えてもよさそうなものだったが、現実はそうなってはいない。ここでも国と企業の思惑が個人の主張を制限している。
 アートはこの動向に関しささやかな抵抗をしめしてきた。日本美術会主催の「日本アンデパンダン展」など一部を除いては、原発事故に言及するアート表現は検閲・規制・自粛されてきたが、公然の秘密だが竹内公太とされ一応は作者不詳「指差し作業員」(2011)やChim↑Pomが渋谷駅構内に設置された岡本太郎「明日の神話」第五福竜丸被爆事件の下に原発事故を加えた行為(2011)などにそれは見ることができる。Chim↑Pomのメンバー3人は軽犯罪法違反容疑で書類送検されてもいる。(*結果は不起訴)

1作者不詳
「指差し作業員」
2011
映像


2岡本太郎
「明日の神話」壁画、第五福竜丸の直下に付加されたChim↑Pom「福島第一原発事故」作品。
仮設展示
2011


 こうした権力主導の問題がアート的なところで生じた件に関し、相似形の現象がいちはやく筆者の身辺に生じたのは2004年だった。筆者がスタジオとして使用していた中銀カプセルタワーB601号室でアスベスト問題が露見したのである。そのため筆者は世界的建築家の黒川紀章と対立することになった。
 黒川紀章、日本芸術院会員、文化功労者、日本建築学会終身会員、ブルガリア建築家協会名誉会員、英国王立建築家協会名誉会員、その他数々の栄誉に輝き2007年10月12日逝去した世界的建築家である。60年代に黒川紀章が赤坂に「スペースカプセル」を作ったときには、寺山修司らの先端的人々が集い前衛芸術の拠点のようにもなって私も常連のひとりだった。

3黒川紀章設計
「スペースカプセル」
1968


 「中銀カプセルタワービル」は、国際的建築家として名をはせた故黒川紀章の代表作である。50年代末に提唱され、60年代を通じて世界的に評価されたメタボリズム(建築や都市を生命体のように部分的な更新が持続するものとして捉える建築思想)の代表作のひとつともいわれてきた。メタボリズムは当初建築家、菊竹清訓によって提案された建築概念で、スクラップ&ビルドのあり方を根本的に疑い、建築を代謝可能なものとして見直すという運動であった。今日の建築界が直面しているサスティナブルと共通する考え方である。ただし、豪農の子息であった菊竹がこの考え方に至った事情は少し特殊である。GHQによる農地改革で、小作人に農地を解放したため、菊竹の実家は凋落していった。その思いと独自の神道的意味論が結合し仮想土地を何もない空間に作り代謝させるという発想につながり、メタボリズムの契機となっているように思える。その思想はあの”人類の進歩と調和”70年万博をもってひとつのピークを成したといえよう。
 70年万博は当時、菊竹を始め丹下健三、磯崎新ら、わが国の戦後建築の背骨を成すこととなる思想的建築家がこぞって参加し、黒川紀章もユニットによる東芝IHI館、タカラ館の設計を担当するとともにお祭り広場の鉄骨構造の大屋根(丹下設計)から太陽の塔横に吊り下げるようにしてカプセル構造の住居を考案した。これがカプセルを取り替えることで持続可能な有機的な建築として評判を得、「中銀カプセルタワービル」は、カプセルホテル同様に万博の実験建築を初めて銀座の巷に根付かせるという意味で計画され1972年に竣工した建築だ。黒川は茶道に通じていたため、わずか3坪のカプセルを現代の茶室として考えた側面もある。だが、自然との融和を理想とした茶道と異なりこの黒川カプセルは、後に述べるようにアスベストにまみれており、高度成長期の負の遺産と心中しているような、結果的に「毒ワビ」「毒サビ」を体現した茶室の対極にある建造物なのだった。

4丹下健三の大屋根から吊られた黒川紀章のカプセル住宅。
1970
大阪万博


 私がこの建築の一室を所有することになったのは1992年のことだ。ところが、実際に居住してみると驚くことばかりが起こった。黒川の理想と現実の建築物に天と地ほどの乖離がある。鉄骨に0.8ミリという極薄の鉄板が巻いてあるだけの直方体状の構造体を2本のボルトで固定してあるというだけのしろもので、極薄の鉄板は雨水や鳩の糞などで容易に腐蝕し、ぽっかりと空いた穴から雨水が絶え間なく室内に浸水してくる。こうした漏水状態が続くことにより、石膏ボードで仕切られただけの天井がやがて崩落したのである。このとき大量の劣化アスベストが室内に充満していた。通常のコンクリート住宅は60年程度の耐久性があるが、このカプセル住居は20数年で崩壊し始めるような安易な構造体なのであった。しかも配管の問題もあって交換不可能な“代謝しない”設計になっていた。これだけでも人の住居としては不適、いってみれば金属状の物置の方がまだましで、犬小屋なみとでもいえようか。メタボリズムは全くの空理で現実はオモチャのように荒唐無稽、住宅とはほど遠かったのだ。所詮は低レベルな万博という遊園地の余興に過ぎなかった。

15スラム化が進行し天井が崩落、アスベストも散乱する中銀カプセルタワービルの一室


 こうして漏水禍と闘っていた2004年12月、私は船用の防水FRPで 漏水箇所を内側から塞ぐ計画を立てた。折りしもマンションの管理総会に出席した際、そのことを建築家の木村明彦氏に告げたところ、「アスベストに気を付けてくださいね」といわれたのだ。アスベスト? 耳慣れない言葉だった。調べてみるとアスベストとは極細の鉱物繊維で、太さは、10万分の3ミリ、髪の毛の5千分の1。いったん吸い込むと肺に突き刺さり一生消滅しない。ここが患部となってガンや中皮腫を引き起こし死に至る。吸い込んでから12年以上かかるので「静かな時限爆弾」と呼ばれる恐ろしいものなのだ。高度成長期に国が奨励し、安価な耐火材として大量に使用されていた。今や著しい劣化・飛散が始まり全国で公害化し大変な環境問題となっている。

 超有害の吹き付けアスベストが板一枚隔てて壁・天井・床の360度に存在した。
 そこで、NPOのアスベストセンターに連絡したところ、すでに酷い状態といわれ入室する際には正規の防塵服と防塵マスクを着用するよう指摘して帰った。それ以来、部屋を自主閉鎖した。後日、管理組合の許可を取り、正式に成分分析と濃度検査を行なったところ、75年に吹き付け禁止されたアモサイトというアスベストが使用されており、清掃時には1リットル中800本という居住不可能という非常な危険値が検出された。ここに至り、カプセルは四方八方からアスベストが汚染する密室殺人装置と化しアメニティ(癒し)建築云々は悪い冗談にしか聞こえなくなった。
 これはマンション全体の問題だと思い、アスベスト問題を訴えたが、黒川建設事務所や施工主の大成建設らは対応する素振りすらなかった。高度成長期にアスベストを積極奨励した国土交通省、その他環境庁、千代田区役所環境課など行政にも惨状を訴えたが梨のつぶてであった。黒川はご承知のとおり「環境と建築」「自然との共生」を唱え機械主義的な近代建築に対し、ポストモダンの環境重視の建築思想を著書で論じ、講演してきたオピニオンリーダー的人物で、環境万博といわれた愛地球博のシニアプロデューサーでもあり、森が消失してゆく都市環境に対し警鐘をならし、丹下都庁舎のアスベスト禍にも言及して来た人物ではなかったか。なんという偽善か。
 埒があかないのでこの惨状を2005年8月「週刊新潮」に取材してくれるように要請。その記事に対して黒川は一億円の訴訟を起こした。住民の生命よりも自身の建築家としての名誉優先の処置だった。黒川紀章の対応は、「床、壁、天井の内壁をすべてはがして、アスベストを完全露出させた上で独自に汚染調査したB601号室1戸のみ基準値を上まっています。B601号室の森下氏は、自宅を昨年よりジャーナリズムへの公開を実施しており、このことがメディアに紹介されました。また、4月に銀座芸術研究所で「キラーアスベスト―誰のための建築なのだろうか」展を開催しています。」(黒川記章公式ウェブサイト反論 2006.05.30)という私が故意にアスベストを降らせたといったいいがかりに等しい事実無根の信じられないものだった。筆者が抗議したものの、2006年7月のINAX銀座でのレクチャー中も同発言を繰り返した。私自身も東京地裁で証言したが、結果は黒川側の全面敗訴となった。カプセルの「欠陥構造、アスベスト汚染」は本人の全面否認にもかかわらず確定したのである。同建築がユネスコの世界遺産になるといった発言についても、黒川は「私からいったことはないし、そのことを保存要請の理由にはしていない」と否定しているけども中銀の建て替え委員会ではそのように語っている。その後、高裁まで控訴したが、結局、ご本人の死により黒川全面敗訴は確定している。

9「住民を激怒させた黒川紀章のアスベスト汚染マンション」
週刊新潮
2005年9月8日号 145P


 その後、今度は私が管理組合を相手取り、アスベスト禍の責任をめぐり、「第二次アスベスト裁判」(2013〜2015)を東京地裁に起こし、こちらはカプセルを買い取るといった条件で和解・決着している。そのため、このいまわしいカプセルの部屋のわずらわしい所有からはいま解放されている。

 私は2006年「キラー・アスベスト 誰のための建築なのだろうか?」、2007年「黒川紀章マンション移築計画」(いずれも銀座芸術研究所)といった個展、「日本アンデパンダン展」(国立新美術館 2008)、「エコ@アジアニズム新潟展」(新潟市新津美術館 2008)、環境アート展「P.E.A.N.」(四谷・CCAAアートプラザ 2009 *森下がプロデュースしたこの展覧会では、インスタレーション、パフォーマンス、レクチャーと水とアスベスト汚染をめぐる環境問題が18 日間にわたり繰り広げられた。リノベーション建築の雄、故・山田幸司のカプセル・リノベーション案はこの時発表された)でのインスタレーションなど計7度、アートとしてこの問題を告発したが、不思議だったのは取材に来たNHK、TBSがなぜかこの問題を放送しなかったのである。実際に解体するとなれば新橋、銀座、虎ノ門までアスベストが飛散する可能性すらあり、現在でも銀座の目抜き通りあたりまで劣化アスベストが飛散している可能性もあるのにだ。また、朝日新聞は結局匿名で掲載したが論点はぼかされていた。メディアによる自主規制が行われたのだ。当時、黒川紀章は現在も改憲思想の中枢にあり大きな力を持つある文化政治結社の幹部であり、この時点で圧力を行使することは容易だったろう。このことで私は現在福一をめぐる報道が大変偏向している状況と同一の流れをいちはやく認識したのだった。私はアートとして問題を発信したのだが、ましてや美術館がアスベストや放射能をめぐる問題を市民の側に立ち真摯に扱うことはないであろう。実際、埼玉県立近代美術館・北浦和公園に設置中の寄贈されたカプセルは野ざらしなので0.8mmボンデ鋼製の極薄鉄板に穴が開けば即座にアスベストが飛散する恐れがあるのではないか? 慎重に対処すべきかと助言しておく。

10森下泰輔
「キラー・アスベスト」
インスタレーション
2006
銀座芸術研究所


13森下泰輔
「ASBESTOS」
インスタレーション
2009
CCAAアートブラザ・四谷


6森下泰輔
「アスベスト・カプセルB601 アスベスト壁アモサイト12%含有」
2005
C-printにアクリル加工(*露出したアスベスト壁)


5森下泰輔
「アスベスト・カプセルB601 劣化アスベスト」
2005
C-printにアクリル加工(*床一面に散乱したアスベスト)


7森下泰輔
「アスベスト・カプセルB601 濃度測定2005年4月7日 」
2005
C-printにアクリル加工


12森下泰輔
「国土交通省は残留アスベスト建築の適切な処置をせよ!」
2007
ターポリンに顔料インク
180×60cm


11森下泰輔
「黒川紀章アスベストマンション移築計画」
2006
パネルに紙、アクリル


8森下泰輔
「中銀カプセルタワーは、内壁のすべてがアスベストに覆われている。」
2006
2016に一部加筆
紙に顔料インク、インクジェットプリント


14山田幸司のリノベーション案。
外観をシミュレーションしながら鉄とガラスの新たな構造体に移し替えている。
2009


 このままでは住むどころか劣化して崩落のおそれすらある。2006年にはDOCOMOMO JAPANが日本におけるモダンムーブメント建築に選定したり、また レム・コールハースのような世界的影響力を持つ建築家が大絶賛して関連本を出版したこともあって、このカプセルはここ数年、黒川に心酔する保存派の購入が増加し、建て替えに異をとなえ、届け出なしにカプセルを勝手にリフォームしており、一部は販売したり違法簡易宿泊業務に供したりしている。昨年暮れには「銀座の白い箱舟」といった写真集までネット・ファウンドを介して出版している。「中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト」は保存を強く主張しているが、現地での保存は、ここでは枚挙にいとまはないが諸事情あって困難だと思われるため、私はすでに2006年、アスベストを無害化したうえでカプセルの思想が注目された大阪千里・万博広場、太陽の塔横に移築して、子供の美術および情操教育の場としたらどうかという移築計画を提案している。なんと訴訟中、敵なのに「キミ、よろしく頼むよ」と黒川紀章ご本人から遺言のように頼まれていたほどである。本当は黒川紀章の政治家ではなく芸術家の部分がシンパシーを感じていたのかもしれない。

 当該建築、まぎれもない負の要素の塊であるにもかかわらずここ最近はファッション系の雑誌が同地でモデルやアイドルの撮影をしたり、明るくファンタジックに紹介したりしているのが目につく。外観と内装をカッコよくつくろえばハッピーになれるのか? それでは抜本的問題は何も解決しないのだが、そう、福一のリアルな現実を忘却して何事もなかったかのようにオリンピックゲームへと向かう日本国の空気そのものと相似形なのだ。

 さて、およそ10か月にわたり「戦後・現代美術事件簿」を連載させていただいたが、基本的にわいせつ罪をめぐる攻防が中心になってきたように思う。もっと政治的な側面、公立美術館の問題、独立行政法人の問題などに立ち入ることもできた。こうした面に関してもまた別の機会に言及してみたく思う。だが、いっけん無関係に見える性の問題と政治的問題は実は大いに通底しているのだ。いま「表現の自由」が危機にさらされているとき、さらなる規制・検閲・抑圧が美術をめぐる環境に降りかかってくることは想像にかたくない。今後ともこの問題を真摯にみつめ分析を続けていく所存である。(敬称略)
もりした たいすけ

森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。本年2月、「林先生が驚く初耳学」(TBS系列)でゲストコメンテーターとして出演した 。

●今日のお勧め作品は、靉嘔です。
20160518_ayo_63靉嘔
「move by rainbow an animale!」#13
1963年
ミクスドメディア
47.2×47.9×17.2cm
サインあり


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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆森下泰輔のエッセイ「 戦後・現代美術事件簿」は毎月18日の更新です。

森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」 第9回

森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」第9回

性におおらかだったはずの国のろくでなし子

 昨年、永青文庫で春画展が開催されたが、20万人を超える観客が訪れた。その後京都・細見美術館へ巡回した。細川元首相が音頭取りしたこの展示、つつがなく会期を終了、図録の販売も無事であったかにみえる。だが、警察は会期前、永青文庫に対し「このまま公開すれば犯罪を構成する」と注意していたし、週刊誌ジャーナリズムに図版を掲載しないように指導し、「週刊文春」に至っては北斎、歌麿らの図版を掲載した編集長が謹慎処分になるという一幕もあった。警視庁が、8〜9月に口頭指導を行ったのは、「週刊ポスト」(小学館)、「週刊現代」(講談社)、「週刊大衆」(双葉社)、「週刊アサヒ芸能」(徳間書店)の4誌である。最高裁・昭和48年4月12日判決〈国貞事件〉では春画は「わいせつ図画」に当たるとの見解だった。(*有光書房から江戸の春画や好色本を刊行。1960(昭和35)年より「艶本研究叢書」全13巻の刊行開始。その第1巻の林美一著「国貞」の特製本600部が、翌61年にわいせつ文書として摘発された)。春画展は大英博物館(ことにティム・クラーク英国側キュレーターの尽力が大きい)の後ろ盾があるため摘発には踏み切れないが現在でも真っ白というわけではなさそうだ。

1春画展(永青文庫)。
2015
撮影:筆者


2春画展内覧会での細川護熙永青文庫理事長。
2015
撮影:筆者


3春画展内覧会でのティム・クラーク。
2015
撮影:筆者 


 明治期にイギリスの特派員が横浜にきた際、夏には庭先や玄関横で婦女子が行水を平気で行い、立小便などを見、外国人は倫理がないと日本を非難した。慌てた行政は早くも明治4年〜5年に自治体単位で規制に入り、その後、鹿鳴館など国策欧化政策をとる。近年に入りヒッピー文化の感覚の解放やマルチカルチュアリズムを経て、西欧芸術が逆に性表現において日本化・アジア化していったのかもしれない。ポップ以降の民主化現象のひとつだ。
 日本は江戸から大衆的だったので、ある意味、西欧に進んだ民衆中心の場だったかもしれないのである。表象文化的なアップサイドダウンが生じている。しかし、何人がそのことに気付いているのか?
 今日的なジェンダースタディを行い身体論が専門である、平山満紀・明治大学准教授によれば、欧米人が特に驚いたのは、日本人が裸体や性について、羞恥心や罪悪感をまったく持っていなかったことだ。ペリー艦隊に珍しがって集まってくる人たちが、からかって大笑いしながら春画をそのボートに投げ込んでみたり、岸から性的な冗談を叫んだり、女性が着物をまくりあげたりもするので、ペリー一行はなんて野蛮なところだとショックを受けたという。
 また、人々は路地で裸体をさらして行水をし、男女混浴の銭湯に平気で入るので、アダムとイブが追放される以前の楽園かなどといわれた。大人も子供も性的な冗談をいっては屈託なく笑ったり、女たちもまったく悪びれずに春画を見て楽しんでいること、遊女が蔑(さげす)まれていないことも、多くの西洋人が驚きをもって書き留めている。

4歌川豊国
「Woman Bathing Under Flowers」
1812
ボストン美術館蔵


5フェリーチェ・ベアト
「髪を梳く女性」
(1863年〜1877年頃) 
着色写真。ベアトは横浜に住み、高級娼婦、芸者、日常風景などを写真におさめた。


6「ペリー提督日本遠征記」(1856年)より
「下田の公衆浴場の図」


 このあたりは慶応年間に来日した五姓田義松、高橋由一、山本芳翠の師、チャールズ・ワーグマンやフェリーチェ・ベアト、ジョルジュ・ビゴーが残したスケッチや写真、談話を見ても確認できるだろう。高浜虚子も「行水の女に惚れる烏かな」(明治38年)という俳句を残しており、明治・大正まで無防備な行水が普通に行われたばかりか、通常の美意識ですらあったことがわかる。混浴は現在でも各地の温泉場で行われているだろう。
 また、日本神話の開放的な性もあり、各地に残る信仰の対象としての道祖神やご神体が男女性器といったことは、古くから親しまれてもきた。
 ひとつには日本が早急に国民国家を立ち上げ天皇を父とする国家家父長制、一夫一婦制を強化したのも欧米列強から野蛮国と見られたくなかったための政策だったこともある。いまひとつは官と庶民の道徳観の分離もあっただろう。(*江戸時代でも公の場では不道徳は必要以上に規制されている。たとえば姦通罪は重罪であった。)
 現在でも日本はダブルスタンダードを敷いている。遊郭の伝統を引く性産業、性具を扱う店舗はいまでも大半がおとがめなしだ。また、性の最前線の問題としては肥大化したAV産業界の一件もあるだろう。ある統計によればすでに15万人がAV嬢になったという(*「週刊ポスト」2011年12月23日号)。これは19歳から55歳の日本女性の200人に1人が経験者ということだ。この数値は年々累積されつつある。「高校のクラスのうち目立つ3人がやがて経験している」とのAV関係者によるトンデモ統計すら存在する。
 AV業界の中枢におけるわいせつ罪摘発では、2008年に性器のモザイク処理が薄いというので珍しくビデ倫が罪に問われている。
 この連載の第4回でも述べたが、行為芸術における性器露出を伴うアート表現は60年代はむろん、今でも数多く存在している。AVの分野でいえば、高度資本主義化によりただのわいせつというよりは、アイデアを駆使し表現に類するレベルにまで突入している。たとえばソフト・オン・デマンド「人類史上初!!超ヤリまくり!イキまくり!500人SEX!!」などの商品がそれにあたる。250人ずつの男女がまぐわうといった、いわゆる企画ものだが、同様の方法を採用したといわれる写真作品がある。
 第8回キャノン写真新世紀で荒木経惟選・優秀賞を受賞した大橋仁は、2012年「そこにすわろうとおもう」という写真集を刊行しているがその内容が300人の男女がスタジオや野外でセックスする集合写真なのだ。モデルの数はとてつもなく多い。ヘアは露出しているものの性器結合はしかとは確認できない。しかし本作は写真芸術上の快挙であろう。

7大橋仁
「そこにすわろうとおもう」より。
2012


 また、ネット社会はわいせつの基準が異なる海外から無料で無修正画像を平気で配信してしまう現状も一方ではある。これを岡田寿弁護士は現行法規ではネットという「物的インフラ全体をわいせつ物だとする」(「エロスと「わいせつ」のあいだ 表現と規制の戦後攻防史」岡田寿、臺宏士・著 2016年 朝日新聞出版刊(朝日新書) p244を参照)ことも可能だと語った。この点を規制しようとはせずに見て見ぬふりだ(*法律が違うエリアからのものなので規制が難しいのもある)。つまりわが国は本音(事実)と建前(世間体)とに激しく分裂している状況ともいえようか。
 日本でのわいせつ罪全般の摘発は平成24年度23116件と頻出しているが、このような状況下での今日のわいせつ概念を新たに考察せねばならない。

 当然、いったん芸術の領域に入ればエロスはギリシア・ローマ時代より美のカノンとして存在している。もちろん、人類が芸術作品の制作をはじめた太古より性や裸体は様々な意味性を帯びて存在してきたのはジョルジュ・バタイユ「エロティシズム」「エロティシズムの歴史」を紐解くまでもない。

 さて、今注目の話題として、珍しく女性でこうした一件に巻き込まれた、ろくでなし子事件があるので、それに関し考えてみたい。
 この問題の核はわいせつ電磁記録・記録媒体頒布罪、わいせつ電磁的記録等送信頒布罪だろう。配信されたろくでなし子の性器データはわいせつか否か、が問われている。データと3Dプリンターを介した規制はデジタル社会が本格的に定着したあとのことなので、検察側も新たな判例をつくらなくてはいけない。3Dプリンター問題ではこれで拳銃をプリントした大学職員が2014年に銃刀法違反で逮捕されている。こうした新たな犯罪の解釈に関してはガイドラインを作らねばならないためことさら神経質になっているともいえるだろう。ろくでなし子はそこにひっかかったのである。
 よって、「日本で差別されている女性器のイメージを明るく開放したかった」というろくでなし子側の主張も、検察から見たとき明るいか暗いかというイメージの問題ではないはずなのだ。

83Dスキャンするろくでなし子。


9マンボートとろくでなし子。


 最初の逮捕があって数か月後、今度はアダルトショップに性器から型取りしたオブジェを展示したところわいせつ物陳列罪で2度目の逮捕を受けている。
 現行の官憲側ボーダーは「性器を複製しているかどうか」にあるため。赤瀬川千円札裁判時の判決内容のように、「たとえ芸術であったとしても刑法の範囲内のものである」と解釈すればどうだろう。芸術的であることは刑の軽減には役立つかもしれないが、現行刑法上、本質的判断の基準にはなりえないというのが官憲側の見解だろう。
 よって、本質的問題は日本における刑法175条そのものの質となる。明治5年東京府の「違式註違条例」で始まり、40年に制定された現行刑法典第175条、この法規自体がいまの時代にもはや適合できにくいのではないのか?

 いったん海外に目を移したとき、芸術では「フェミニズムアート」の文脈で次のようなことが起きている。ジュディ・シカゴは女性器を皿に盛り円卓上に並べた「Dinner Party(1979)」を制作発表し、この作品はフェミニズム美術史の重要な一点とされている。また、昨年のヴェネチア・ビエンナーレで英国代表となったサラ・ルーカスは型取りした人体の女性器に本物のタバコを突き立てるインスタレーションを発表している。あるいはまた、「週刊ポスト」「週刊現代」は男性作家だがジェイミー・マッカートニーの18歳以上の女性器型取りを並列した作品の写真を掲載したとして警視庁から注意を受けているが、英国ではむろんおとがめなしである(2012)。

10ジュディ・シカゴ
"Dinner Party", 1979
インスタレーション。女性器には歴史上の著名人の名が付されている。


11ジェイミー・マッカートニーのロンドンでの展示
「The Great Wall of Vagina」(2011)


 しかし、こんなこともある。1988年まで公開されず、かのジャック・ラカンが所有していたとされるパリ、オルセー美術館のクールベ「世界の起源」(*2013年には切り離されたという頭部が出てきて大騒ぎとなった。真贋はいまだに決定せず)のまえで女性器をM字開脚でさらしたルクセンブルクの女性アーティスト、デボラ・ド・ロベルティはパリ市警に即座に逮捕されている(2014年5月)。「性器を描いた絵は芸術で本物はわいせつなのか」といった抗議だった。ついこの間もマネのオランピア前で全裸になり再び逮捕されている。概してフランスはこうした現代美術系の発表にかたくなな感じがする。アート行為であっても性器露出は公然わいせつ罪はまぬがれないといった解釈だ。だが、それにしても量刑は軽くすぐに釈放されているのだ。国によって基準が異なるのは無論だが、アートにおいて、性器を間接的に表現する場合はほとんどの先進国で寛容なのは一定の事実であろう。鑑みて、ろくでなし子の作品は型取り、もしくはデータスキャンであったとしても間接的表現といえる。その点で実体的性器を開陳する作品に比し、芸術性は高いと考えられよう。微妙だが現行の175条は芸術表現の場合、かなり緩やかに対処するように解釈を変更すべきではないのか? 5月9日に地裁で第一審判決が下るが、検察側の論告求刑では罰金80万円を求刑されている。 なおいっそうの減刑を期待したい。(敬称略)

12パリ、オルセー美術館のクールベ「世界の起源」のまえで女性器をM字開脚でさらしたルクセンブルクの女性アーティスト、デボラ・ド・ロベルティ。2014年5月。


もりした たいすけ

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。本年2月、「林先生が驚く初耳学」(TBS系列)でゲストコメンテーターとして出演した 。

●今日のお勧め作品は、五味彬です。
20160418_0908-030-SEnBa05五味彬
「SEnBa 05 仙葉由季」
1991 printed in 2009
Gelatin Silver Print
40.0x30.3cm
サインあり


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◆森下泰輔のエッセイ「 戦後・現代美術事件簿」は毎月18日の更新です。

森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」 第8回

森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」第8回

アンディ・ウォーホル来日と“謎の女”安斎慶子

 今回は1974年ウォーホル来日騒動である。ファクトリーといえばドラッグ・パーティーがつきものだが、芸能人ならぬ美術家でドラッグで逮捕された御仁も知る限りにおいて多いはずなのだが、あまり表には出てこないのはなぜなのか? 海外ではバスキアがオーバードーズで死んでいる。ドラッグ死したアーティストも多数いるだろう。しかし、逮捕がもとでアーティスト生命が絶たれたなどという話は聞いたことがない。最近ではKのMが検挙、というのを確認している。マリファナで逮捕されている現代美術家も多いが、アメリカなど世界で解禁の流れがあって、刑法はマリファナに関しては再考の余地があるだろう。一説には三木富雄はドラッグ死ともいわれるがはっきりとはしていない。
 
 さて、今回の事件簿は番外編として事件のかかわるものでないことを承知で取り上げたい。それほど影響力を持ちえたと認識するからだ。アンディ・ウォーホルはまだ芸術家としての評価のなかった1956年に世界一周旅行のついでに東京と京都を訪ねてはいるものの、芸術家となってからはこの時が最初で最後の来日だった。
 ウォーホルは元来あまり旅行や外出そのものも好きな男ではない。社交的でもない。オープニングの際はトイレに隠れて出てこなかったという有名なエピソードすらある。
 何といってもできるだけたくさんの作品を「生産」することしか興味のなかった男で、毎日きちんと定刻にファクトリーにいき、定時に退社するようなサラリーマンか中小工場主のような生活だった。
 「ピカソは傑作を4000点作ったそうだ。僕なら1日で作れる。全部同じだから全部傑作だろ(*実際は無理で500点作るのに一か月かかっている。「The Philosophy of Andy Warhol」新潮社刊 p198を参照 1998 原著:1975)」とか「旅というのはハードだね。僕はずっとニューヨークにいたいのさ」など、それを物語るウォーホル語録も多い。
 そんな彼がぶらりと訪日したのにはある仕掛けがあった。このときゼネラルプロデューサーの立場にいた安斎慶子である。安斎慶子とは元来アンダーグラウンドに生息する謎の人物でアート関係者ですらその素性はよく知られていなかった。ウォーホルは安斎の人となり、生きざまに共感したのだ。日本で初期の現代アートやポップアートを理解していたのはいわゆる60年代NYから始まったキャンプなアンダーグラウンドの人々だった。宮井陸郎はサイケデリックアート運動の走り、ユニットプロの主宰者だったし、原榮三郎はネオダダ以来の現代美術を写真で追いかけ、「空間の論理 : 日本の現代美術 」(1969 原榮三郎、 藤枝晃雄、篠原有司男 著 ブロンズ社刊)という名著を企画している。

1安斎慶子
1974年ころ。


 安斎慶子は、明治大学文学部卒業後に寺山修司、羽仁進共同脚本、羽仁進監督「初恋・地獄篇」に寺山の押しで出演し、SM嬢役で女優デビューするが、本業はファッションデザイナーをしておりGSのオックスの衣装で注目された。彫刻家の父が営むマネキン会社を手伝いながらだった。1968〜1969年のことだ。一時はコシノジュンコのライバルともいわれルックスもよく似ていた。72年には梅宮辰夫主演「不良番長 一網打尽」(東映東京)で、ファッションデザイナーとして出演、衣装デザインも担当している。「梅宮がド派手な衣装で「ウッシッシッ節」を歌いながら安斎の体に触れようとして安斎が逃げる」展開もあった。

img_4GSのオックス。
安斎慶子デザインの衣装。
1968年


 安斎は寺山修司とのニアミスが多かったようだが、寺山修司というのは多面的な顔を持っていた人物で、60年代最大の文化的フィクサーだったとも考えられる。すでに六本木族のアイドル、加賀まりこデビューの背後にも存在していた。60年代後期(*1967年1月〜2月から存在したといわれる)渋谷・南平台のお屋敷町の真ん中にアップルハウスという一種のコミューンがあった。ここは明治43年築のアメリカン・ヴィクトリア様式の洋館で、外交官・内田定槌邸(現在、山手イタリア山庭園に移築)があったが、その離れに初代ローリング・ストーンズ、ビートルズファンクラブ(BCC)の拠点があり、家出したファンの少年少女が集っていた。当時若者の外来文化への興味はこれらの台頭した新世代の世界的ロックバンドとウォーホルも話題の中心だった。洋館に「平凡パンチ」「an・an」の制作室だったアド・センター(堀内誠一主宰)があったためモデルの秋川リサやアドの社員だった立木義浩も出入りしていた。寺山は天井桟敷の旗揚げに際し素人の少年少女の役者を起用していたこともありアップルハウスとも関わりがあったと思われる。新しい文化の影にはいつも寺山修司がいた。
 寺山は渋谷・並木橋に第一次・天井桟敷館を出した。1969年12月、ここで状況劇場と花輪をめぐり乱闘事件を起こした。この時の各社新聞記事をすべて封入した封筒に寺山は「『路頭劇 葬式の花輪』 主演・寺山修司、唐十郎、劇団天井桟敷、劇団状況劇場、渋谷警察署」と書いている。ちょっとタイムカプセルを思わせる。

41969年12月13日の当時の「朝日新聞」夕刊


 1968年ころには安斎慶子と寺山修司はすでに知り合いだったと思われるが、どうして知り合ったかというと、当時世田谷に天井桟敷の秘書兼マネージャー、作曲家・画家の田中未知(*オランダ在住)の家があり、そこで寺山と安斎が意気投合したというから田中未知を介してだったのは間違いない。安斎を誘ったのは先日亡くなられた合田佐和子であったという。
「天井桟敷のドイツ公演の「毛皮のマリー」でかつらが必要になって、安斎さんに借りました。気前よく銀髪のバカでかいかつらを六、七個くれました」(萩原朔美)。
 安斎のファッション観は既成のアパレルの考えを大きく逸脱しており、ほとんど現代アートの考え方に当時すでに同調していた。その意味で先駆者のひとりだろう。だが日本の風土はこうした変革的先駆者に非常に不寛容なのだ。「日本にはアートを育てる土壌がまったくない」「日本のファッションはアートではなく単純なビジネスだ」など、ファッション業界、美術業界を批判するような発言も多々あった。
 日本に半ば愛想をつかした安斎は、73年に入ってNYにいき、ジョン&ヨーコ、サルバドール・ダリ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ヘンリー・ミラーらとヨーコの仲介もあって短期間に奇跡的に立て続けに知り合い、まずアンディ・ウォーホルを日本に紹介しようとした。(*70年代半ば、日本から安斎がディランにホットラインをかけていた事実も確認している)。

7サルバドール・ダリと安斎慶子
1973年ころ。
ニューヨークにて。


8リンゴ・スターと安斎慶子
1976年ころ。
ロスアンジェルスで。


 アンディは1983年、ときの忘れものの前身の現代版画センターが「KIKU」「LOVE」の唯一の日本エディション作品展で招へいしようとした時も「アンディがNYを一週間離れるのは100万ドルの損失」といわれ実現しなかった。それより10年前とはいっても70年すでにホイットニー美術館で回顧展を開催している大物である、簡単に来日するわけもなく安斎慶子のキャラによるところが大きかったと思われる。

 1974年9月30日にアメリカンセンターで開催されたウォーホル展の記者発表会見には、寺山修司、宮井陸郎と臨んだ。「寺山さん、アンディの作品は高くなると思います?」(安斎)、「僕は競馬の予想はするけど美術品の予想はしたことないのでわからない」(寺山)。

51974年9月30日、アメリカンセンターでの「アンディ・ウォーホル展」記者発表会見での寺山修司、安斎慶子、宮井陸郎。


 実は筆者は1976年から77年まで寺山修司の連載(*「人生万才」)担当者をしていたこともあって、毎週会っていたので1年半で60回以上も会っていたことになる。その間、寺山が挿絵を「アンディ・ウォーホルにやってもらう。ウォーホルに電話する」といっていたので驚いたが、旧知の間柄だった。74年来日時に安斎を介して知り合ったのだろう。

 展覧会そのものに関しては以前のとき忘れものブログ「私のAndy Warhol体験 - その4 大丸個展、1974年」を参照していただきたい。
http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53106253.html
来日したアンディ・ウォーホルを追い続けた写真家・原榮三郎による貴重なプリントが多数残されている。約2週間の滞在中、原は飛行機から降り立つ場面から個展の会場準備、テレビ出演、新幹線、東京・京都・神戸など帰国するまで密着した。35ミリのポジとネガフィルムで撮影しており、カラー5本、白黒28本の合わせて33本が残されていた。;

13アンディ・ウォーホル来日時の写真。
黒柳徹子のインタヴューを受けるウォーホル。
撮影:原榮三郎
1974年


12京都・桂離宮を散策するアンディ・ウォーホルと安斎慶子
1974年。(「アサヒグラフ」1974年11月22日号より)


11観世能楽堂でのアンディ・ウォーホルと安斎慶子
1974年。(「アサヒグラフ」1974年11月22日号より)


10「アサヒグラフ」(朝日新聞社刊)1974年11月22日号表紙。


 一昨年森美術館で開催された「アンディ・ウォーホル展」ではピッツバーグに保管されているタイムカプセルを開陳、74年の来日時、どういったものが彼の興味の対象であったのがよくわかる。もともと物事を表層的情報ととらえるウォーホルは、ここでも写楽や光琳の画集、長嶋茂雄の本、富士山写真集など、通り一遍の観光客のようなグッズを買い求めたか贈られ、たぶんざっと見ただけでタイムカプセルの段ボールに放り込んで封印してナンバリングし保管している。しかしそのこと自体がウォーホルの概念と一致しているのだ。
「日本ではデパートで美術展を開催するのか。興味深い。」(アンディ・ウォーホル)。アンディは日本ではポップアートなど必要ない、と思ったかもしれない。すでに美術品は百貨店の高額商品だったからだ。アンディ・ウォーホル・エンタープライズを組織してAD部門、商業映画部門を立ち上げていたとしてもハイアートの価値づけはまた別であった。

9アンディ・ウォーホル「タイムカプセル#102」に見る1974年来日当時に集めたものが中心と思しき日本関連の物品。手前に安斎慶子がウォーホルに贈った手作りの財布が見える。(森美術館 「Andy Warhol」展パンフレットより 2014)


 アンディは新聞社が主催し(*当該展は朝日新聞社)、百貨店(*大丸東京店と神戸店)で開催することに興味は感じただろうが、あまり気分がよくなかった節がある。現在のようにバブルの遺産で箱もの美術館が乱立する以前だったため、このころは百貨店中心の展開だったが、そのことはグローバルアート界からすれば、芸術家の経歴を下げることになるのでウォーホルは公式履歴から74年の大丸展示をはずしていたと思われる。
 同じことはテレビCM出演に関してもいえ、世界標準からいえば、アーティストが商業主義的コマーシャルなどに出演したなら一発で思考を疑われレベルダウンするのが常だ。ウォーホルがTDKのCMに出演したのは「日本だから」なのだ。このように日本の特殊性とハイアートの境には実は大きな河が流れているのだが、日本人一般は一切知らないだろう。日本ではブランドは「最高」なのだが、芸術の世界標準からいえば微妙だ。また、あまたの公立私立美術館が美術館・博物館本来の分析・収集業務を伴わない場合も「美術館」とは認められないのである。ハイアートとはそれほど厳密であり、「日本の常識は世界の非常識」である点は一応理解していたほうが良い。

14TDKのCMに出演したアンディ・ウォーホル。
1983年。


 大丸のポスターと会場を埋めた白地に蛍光ピンクの「CAW」(牛の壁紙)は1966〜71のファクトリーエディション版を踏襲していたが、ファクトリーはこれを正式にエディション版画とはしなかったのも、デパートであったためかもしれない。(*来日と同期にイケバナシリーズをファクトリーは正式エディションしたが)

31974年大丸での「ウォーホル展」ポスター。


 さて、ウォーホル来日はジャーナリズム、テレビメディアの一大関心事となり、テレビニュース、新聞記事、「週刊現代」「週刊新潮」をはじめとする週刊誌、「アサヒグラフ」といった月刊誌などがこぞって取り上げ、1966年の「ビートルズ来日」同様の社会現象の様相を呈した。だが、当時でも3000万円のキャンバスものをその値段で買おうという富裕層は皆無であった。
 「画壇最高の梅原龍三郎よりも高い。」(当時の某百貨店美術部)との発言は現在おおむね50億以上していることからしてまったく的外れな考え方であることが証明されるだろう。現代美術のなんたるかも分かっていないのだ。アンディの作品が「塗り絵」のようなものであったとしても、では梅原龍三郎は丹念に描いているのか?
 大丸の展覧会日程にしてもわずか2週間未満である(*神戸展もいれて約3週間)。この時のウォーホル来日に尽力し彼をエスコートした安斎慶子はまず、東京の観世能楽堂へ連れていき能の稽古を鑑賞してもらう。京都では桂離宮をめぐる、といった具合にウォーホル自体は急進的現代美術家であったとしても日本のパブリックイメージは相変わらず伝統的部分であることも忘れてはいなかった。安斎はレセプションパーティーを「蓮華王院・三十三間堂」を借り切って行おうともしたが実現には至らなかった(*もはや確認しようがないがウォーホルのオーダーもあったのか?)。以前にも書いたがアンディは56年の京都旅行の際、ここに立ち寄っていることが確認されているので、彼ののちの繰り返し概念に関し何らかの影響があったのではないのか、というのが持論である。

6アンディ・ウォーホルと安斎慶子
1974年ころ。
ニューヨークにて。


 敏腕ファクトリーマネージャー、フレッド・ヒューズと来日したウォーホルはあわただしく日程を終えて離日した。
 安斎慶子もこのとき注目され「21世紀をつくる日本のリーダー110人のレディース」(1978年10月26日号 女性自身 光文社刊)で小沢遼子、中山千夏、中島梓、向田邦子、橋田寿賀子、池田理代子らと取り上げられている。
 安斎は1978年には米コロンバス美術館所蔵品による「美の巨匠たち展」(新宿・伊勢丹7Fクローバーホール)ではレンブラント、ルーベンスなどの古典絵画のキュレーションも行った。すでに2007年に亡くなられたそうだが、現在、安斎慶子伝を出版しようという動きもある。この稀有な女傑の物語はその本によって長く語り継がれるかもしれない。(敬称略)
もりした たいすけ

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

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20160318_warhol_08_kiku-smallアンディ・ウォーホル
「KIKU(小)」
1983年
シルクスクリーン
Image size: 22.0x29.0cm
Sheet size: 23.0x30.cm
限定、サインはありません。
1983年の『アンディ・ウォーホル展』カタログに挿入したオリジナル作品の断裁前のフルマージンの作品です。
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森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」 第7回

森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」第7回

ヘアヌード解禁前夜「Yellows」と「サンタ・フェ」

 ヘアヌード解禁前夜の1991年のこと。「月刊PLAYBOY」(集英社刊)にて4月、五味彬は「Yellows」の連載を開始したが数号で連載中止の憂き目にあう。これは同期に発売された篠山紀信「樋口可南子 Water Fruit」、本邦初ヘアヌード写真集の余波を複雑に受けての結果だったと五味自身は回想している。しかし、同年末には マガジンハウスより写真集「Yellows」が出版されることになった。初版3000部が完成したが、配本段階で突然中止。すべてが断裁処分されるという事件が起こっている。マガジンハウス上層部の判断だった。

1『ときの忘れものアーカイブス vol.1 五味彬 Yellows』(特装版) 
2008年
ときの忘れもの刊
限定175部


 「Yellows」を撮り始めた動機を五味は次のようにいう。
「世紀末の日本人の体型がどうだったのかという記録として1989年に娘が生まれる時、娘に残せるものはないかと撮り始めた作品です。母は原宿で小さな店をやっていた。土地柄ファッションデザイナー、カメラマンなど業界の人が多いので、僕は宣伝のため毎月仕事で撮ったファッション誌を母の店に置いていた。
 母はそれを見るたびに「お前はなぜ外人さんしか撮らないんだい? 竹下通りの女の子たちは背も高くて、手足も長いしお母さんたちと違って外人さんみたいだよ」。そうだ、今の日本人の体型を記録しておけば娘がおばちゃんになった時大きな価値が出る」。
 89年の「BRUTUS」誌上で村上麗奈と小森愛ヌードを撮影・掲載。五味は100人のイエローズを撮影し終えてから出版を考えていたのだが、91年半ばには53人しか撮影していなかったという。だが、その母が末期がんに侵されており、余命3か月の宣告を受けていたため、せめて母の存命中にと、そのシリーズを出版しようとしたのだ。ところが、ヘアが引っかかりマガジンハウス幹部の判断で印刷後の土壇場で出版中止に追い込まれた。1991年、へアヌード解禁前夜の混乱ぶりがよくあらわれている一幕である。
 五味のもとに印刷製本された同写真集見本が届いたのは母が亡くなって6日後だったという。

2五味彬 「Yellows」より


3五味彬
"25P AC・ACB 1991年"
1991年
Vintage Gelatin Silver Print
107.5x170.0cm
サインあり


4五味彬
《Shinc Yellows 01》
1990.
Vintage Gelatin Silver Print
22.2x18.2cm
サインあり


 作品内容に関しては、「写真を見てまず感じる「懐かしさ」は、ヌードというジャンルの「記録」性をよく示している。モデルの体型や髪型、さらにたとえば眉毛や体毛の処理にあらわれている微妙な違和感、さらに彼女たちを取り巻いている空気感としかいいようのないものの違いが、1990年前後という時代のイコンとなっているのだ。当時この作品を見た時に感じた生々しさがきれいに削ぎ落とされ、西欧社会とは異質の慎ましやかさ、きめ細かさを持つ「日本人(Yellows)の裸」というもっと抽象的な概念が浮かび上がってきているのが興味深かった。」(飯沢耕太郎 artscape 2009/08/14)というのがよく表している。
 五味の作品はちょうどスーパーリアリズムの代表作家、チャック・クロースの絵画のようにある客観性を持って並列的に制作されてもいて、冷めた知性を感じさせる。結果、93年に五味は100人を撮り終え、「Yellows 2.0」としてCD-ROMで出版した。

 ここで、いわゆる「わいせつ罪」をおさらいしてみたい。
「公然とわいせつな行為をした者は、6カ月以下の懲役若しくは30万以下の罰金又は拘留若しくは科料に処す。公然=わいせつ行為を不特定または多数人が認識できる状態をいう。わいせつな行為=徒らに性欲を興奮または刺激せしめ且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し善良な性的道義観念に反する行為。」(刑法174条、公然わいせつ罪)
「わいせつな文章、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布、販売、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらを所持した者も同様とする。」(刑法175条、わいせつ物頒布等)
 175条は174条よりも重い。その中味は、わいせつ物頒布罪、わいせつ物販売罪、わいせつ物公然陳列罪、わいせつ物販売目的所持罪、と分けられる。
 よってヘアを晒すことがわいせつなのか否かが法的に争われるし、時代によって解釈も異なってくるはずなのだ。1991年、篠山紀信の樋口可南子、そして同年秋、決定的だった宮沢りえ「サンタ・フェ」(朝日出版社刊)の出版で事実上のヘア解禁、すなわちヘア露出まではわいせつではない、といった状況に相成った。

5宮沢りえ写真集「サンタ・フェ」
1991年
撮影:篠山紀信
朝日出版社刊


 80年代より荒木経惟の写真集にはときたまヘアが写ってはいた。荒木は「八紘一宇」で再注目された現・参議院議員、三原じゅん子のヘアヌードも撮影している(*「Junco」94年7月、KKベストセラーズ刊)。ヘア=性器の一部として規制していたがその解釈が崩れた。りえ以降怒涛のヘアヌードブームが到来した。大物アイドルがいつ脱ぐか。ちなみに筆者も出版プロデュースにかかわっていた時期もあって、1994年松田聖子に話を持ち掛けたことがあった。松田聖子は一時この仕事を了解したのだが一週間後にキャンセルしてきた。契約金はここでは書かないがかなりの額だったが、いとも簡単に彼女の美意識からの事情で断ってきた。もう時効なので明かしてもいいだろう。また、三原じゅん子の二番煎じはポスト百恵アイドル戦争のライバルとしてはプライドが許さなかったのだと思う。そのとき私は「松田聖子-Barcode」という作品を作っている。真正の「資本主義的アイドル」というコンセプトだ。
 97年には当時二十歳の菅野美穂もヘアヌード写真集を出して世間は騒然とした(*「NUDITY」1997年8月 撮影:宮沢正明 インディペンデンス刊)。

7松田聖子-Barcode森下泰輔
「松田聖子- Barcode」
1995
松田聖子から届いた年賀状にBarcode
透明スリーブ
年賀状画像撮影:篠山紀信


6菅野美穂写真集「NUDITY」
1997年8月
撮影:宮沢正明
インディペンデンス刊


 1992年「写 狂人日記」エッグギャラリー(東京)でアラーキーこと荒木経惟が局部フォトを展示し問題になった。女性性器が写っていた作品8点が、わいせつ図画公然陳列の疑いで警視庁により押収、事情徴収、書類送検され、罰金刑を受けたのだ。翌年、パルコギャラリー「エロトス」(*「エロス」と「タナトス」の合成語)展ではヨーロッパ巡回展「AKT-TOKYO 1971-1991 Austria」図録を販売したかどでギャラリー担当者が逮捕されている。荒木自身は1970年の初期から「カルメンマリーの真相」など陰部をクローズアップにした作品を制作し続けているが。
 「『これはどうなんだ?』っていわれたら、『ウン、ワイセツです』っていうしかない(笑)。オレはそれを芸術だとはいわないよ。それはワイセツで女陰が写ってるスケベな写真なんだけど、それをはずすとわたしの写真の全体が、例えばアートとかさ、写真ということに近づかないんだよ。全体の流れ、まとまりとしてみせてるものをね、中から抜き出してどうだこうだっていうほうがワイセツ行為(笑)」。このように開き直れるのは荒木経惟ならではだろう。

AKT-TOKYO8荒木経惟
"AKT-TOKYO 1971-1991 Austria 1992 Documents"
1992
Photobook


9荒木経惟
AKT-TOKYO、
オーストリアでの展示風景(部分)


 ここにおいてことは1962年の連載第一回目で述べた吉岡康弘の性器写真の次元にまた舞戻ったのだが、30年間法的解釈は何の変化もないばかりか、昨年7月「改正児童ポルノ法」が施行されたことでますますエロスの水際は規制されてきたといえる。昨年9月1日には児童ポルノ「単純所持」で全国初の逮捕者が出た。沖縄でネットからダウンロードしたという女児の全裸データを携帯電話内に所持した容疑で摘発されている。
 ここで激しく抵触するのが前出の宮沢りえ問題だ。国会答弁中、これに関してある自民党議員はこんなことをいっている(*「衆院法務委員会」児ポ法改正審議 2009年6月26日で)。
 「映画、出版物、大女優だろうと関係ない、今までの映画も本も写真も18歳以下のヌードなら全部捨てるように」 、「宮沢りえのサンタ・フェでも、法改正後は捨てないと逮捕する」、「宮沢りえのサンタ・フェは見たことがないが、規制する」、「過去作品のどれが児童ポルノかどうかは政府が調査して教えてくれるはず」、「顔が幼くて制服を着ていれば児童ポルノだと判断される」
 宮沢りえの肉体は芸術ではなく、わいせつだというのだ。こんな美意識では芸術が成り立つわけがない。宮沢りえの「サンタ・フェ」で逮捕というならほとんどなんでも逮捕じゃないのか。別件容疑で家宅捜査が入って「サンタ・フェ」が出てくれば別件逮捕、ちょっといきすぎの感もある。

宮沢りえ日刊スポーツ2015年8月17日 第23面宮沢りえ「サンタフェ持ってると逮捕?」
日刊スポーツ2015年8月17日
第23面


 つまり広義には「ロリコン文化自体がわいせつ」ということなので、AKIBA文化、おたく文化を掲げるクールジャパンの国策と大矛盾する。おそらく、ロリコン系アート全般も打撃を受けることになる。この調子では、そのうちオールコスプレもヘタをするとできなくなるのではないか? 
 このことは大正デモクラシーや前衛芸術が昭和をむかえ急速に抑圧されて軍国主義・帝国主義化していった過程を連想させる。権力が施策で抑圧すると日本人というのは「見ざる、言わざる・・・」を決め込み、飼いならされた羊のように従属した。
 近未来、いまよりも軍国化し、政府はロリコン、おたく系アートをナチではないが「退廃芸術」と抑圧・排除し写実アカデミズムを奨励する、あげく翼賛的リアリズムを是とするという展開にならなければいいのだが。 
 そのときは球体関節系の幼い裸人形はアウトかもしれない。新生・日展なんかは真っ先に少女っぽいヌード作を取らなくなるだろう。ゆくゆくはユルキャラも戦意喪失させるのでダメ、サブカル系文化人も排除という図式になりかねない危惧を予感する。
 大体裸体像をみて、「大人っぽいか、少女っぽいか」などというのは主観だろうに。また、「わいせつか、芸術か」も主観だ。アートに無知な審議会が多数決で芸術か否かの判断をくだそうとでもいうのか(そういうことになる)。そこではジェンダーやフェミニズムアートが利用されるかもしれないのだ。
 「わいせつか、芸術か」をめぐりアートと権力のせめぎあいは今後もえんえんと続いていくのだろう。(敬称略)
もりした たいすけ

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

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20160218_gomi_24_murakami6五味彬
「村上麗奈 CP vintage 1989-6」
1989年
ヴィンテージ・ゼラチンシルバープリント
14.2x10.8cm
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◆森下泰輔のエッセイ「 戦後・現代美術事件簿」は毎月18日の更新です。

森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」 第6回

森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」第6回

「記憶の中の天皇制」

 冒頭でご報告です。当連載第4回に登場した増山麗奈がこのたび社民党公認で参院選予定候補者になった。増山は以前から岸本清子とどこか類似点があったと思うのだが、選挙戦に立候補とはまさにシンクロニシティだ。

masuyamarena東スポ12月17日号「母乳芸術家直撃」
東京スポーツ2015年12月17日号


 さて、いままでも天皇に言及するアートが話題なってきたけれども、実際は天皇礼賛アートのほうが多く作られてきた。そこを指摘する評論家は少ないのだが、そのことは前置きにとどめることとする。
 リトマス試験紙としてのアート。アートが現行の価値観もしくは権威より規制・排除されるか否かでその芸術性の一定の水準を醸し出しているという考え方。現行政は昨年のヴェネチア・ビエンナーレ的エンヴェゾー的権力批判芸術をもはや受け入れること不能となったのではないか。そうした反体制(*これは反体制ではなくアフリカに至るまで現在の旧第三世界で民主化後に当たり前となった表現形式であるのだが、日本で記述するときは便宜的に反体制アートという)こそが体制から排除される真正の芸術である、という可能性についての問題である。少なくとも日本現代美術に言及したMOMAや他のニューヨークでの展覧会テクストなどを見る限り海外が形成しているアート概念と国内のそれは相当に乖離している。
 なぜ乖離するのか? 日本人が心地よいと思う芸術形式ではないからだろう。すると日本人が心地よいと思う芸術は本当に芸術なのかといった本質的懐疑論にぶち当たることになる。
 あるいは日本という国は真の民主化たりえたのか? といった根源的問題にまで到達する。また、民主的人間というものが存在するとすれば日本人の心性はそれに合致しうるものなのかどうか、というのが前提としてある。

 天皇をめぐるアートシーンを詳細に分析した書物は、まず「天皇の美術―近代思想と戦争画 」(菊畑茂久馬著 1978年 フィルムアート社刊)があり、最近ではアライ=ヒロユキ著「天皇アート論」(2014年 社会評論社刊)という優れた論考がある。
 天皇賛美芸術で近代のものといえば、ひとつは横山大観の富士山シリーズがあるだろう。霊峰富士の形に象徴的に変換しているものの、天皇の礼賛に帰する表現だといえよう。当時、御真影は恐れ多い存在でとても勝手に描写できるものではなかったことは菊畑の書物に詳しい。明治政府は当初、天皇の肖像画をキヨッソーネ、ウゴリーニ、五姓田芳柳、高橋由一に描かせその複写写真を喧伝したが、写真から描かれたそれらは決して生気に満ちていたとはいいがたい。(*例外としてキヨッソーネはスケッチをもとにコンテ画を描いたが)わざとイコン化して御真影の神格化をはかったともいえようか。

横山大観横山大観
「神国日本」
1942
足立美術館蔵


五姓田義松「御物 孝明天皇御肖像」五姓田義松
「御物 孝明天皇御肖像」
1878(明治11年)
宮内庁蔵
五姓田義松は昭憲皇太后の肖像画も描いている。


高橋由一「明治天皇」高橋由一
「明治天皇御肖像」
1879(明治12年)
油彩
135.5×104.5cm
宮内庁蔵
内田九一撮影の写真をジュゼッペ・ウゴリーニが写した油彩画をもとに描かれたもの。


 現代美術で天皇主題と捉えられるものには、池田龍雄の1950年代の作品や60〜70年代にかけての山下菊二の天皇制シリーズなどを代表にあまたある。山下の場合、1995年にも回顧展において、天皇制を主題とした作品展示を美術館側が自粛するなどの経緯が見られた。反対にこれを堂々と展示して物議を醸したのは98年の「加害/被害」展(板橋区立美術館)でだった。ただしこれらは、天皇=裕仁であって、複雑な国家体制をたどった昭和という時代の特殊性をまた天皇に反射させたものでもあるだろう。

山下菊二山下菊二
天皇制シリーズ「弾乗りNo.1」
1972
紙にシルクスクリーン
73.0×51.5cm
写真提供:日本画廊
「表現の不自由展」(表現の不自由展実行委員会刊)図録 p12より複写


池田龍雄池田龍雄
「にんげん」
1954
昭和天皇のいわゆる「人間宣言」を主題としている。


 2014年、光州ビエンナーレで朴政権から展示禁止・撤去の憂き目にあった洪成譚は、ここ数年、東アジアのヤスクニズム・シリーズを展開しており、15年にもブレヒトの芝居小屋、原爆の図 丸木美術館で展示された。洪の場合、靖国における植民地支配と戦後の連続性をとらえ「ナチズムに比するファシズムの温床であり、ヤスクニズムはアジア全域にぬぐいがたい影響を及ぼしたままだ」という主張の絵画芸術である。この主張自体はましてや旧弊の国家主体を激しく取り戻そうとしている現政権下では、国公立美術館が表立って擁護できかねる問題ではあるのだろう。洪は韓国・日本の両権力を相手どり超離れ業を演じてもいる。光州ビエンナーレ特別展で洪の作品が展示拒否にあった際には後出の大浦信行は抗議文を燃やした紙を「遠近を抱えて」に貼り込み特別展に展示している。

ヤスクニズム展洪成譚
「東アジアのヤスクニズム」展チラシ
2015


 だが、天皇を主題としたアートにおいて、戦後の代表的事件といえば、やはりその大浦信行の場合だ。まず、連作版画「遠近を抱えて」弾圧事件、富山県立近代美術館で起こった発端をおさらいすれば、1986年6月4日、富山県教育警務常任委員会で、4月まで同美術館企画展「’86 富山の美術」で展示され購入・寄贈を受けた大浦信行作品を与野党議員が「不快、非常識」と追及、その後、富山県神社庁、県民会議、右翼団体らの抗議によって同作品・図録を非公開としたものだ。全国の右翼300人くらいが街宣車40数台を連ねて県庁と美術館に押しかけてきたという。93年同作品は売却、図録も残部は焼却された。まさに焚書である。

大浦信行1大浦信行
《遠近を抱えて》I
1982〜85
紙にシルクスクリーン、リトグラフ
57.0×77.0cm


大浦信行2大浦信行
《遠近を抱えて》VI
1983〜85
紙にシルクスクリーン、リトグラフ
57.0×77.0cm


 ちなみに長澤伸穂はこの事件に材を取り抗議と思しきインスタレーション「摂氏233度」(1996)を展開した。これは華氏にすると451度で、ブラッドベリの同名の焚書に関する小説の題名でもある。前回の森村泰昌ヨコトリが同主題を問題にしたが、そこでは焚書・検閲の主問題がむしろ詩的・文学的解釈に流れ、抽象的に終始したが、長澤のものは焚書に対するストレートな問題提起であった。   
 大浦支援者は控訴したが、結果、00年10月、最高裁への上告棄却により決着している。「象徴として制約を受ける」との見解は表現の自由を大きく退行させた。
 これが同作第一次事件であるが、続いて2009年に第二次大浦事件が勃発する。「アトミックサンシャインの中へin 沖縄 ─ 日本国平和憲法第九条下における戦後美術」展はニューヨーク、東京・代官山を経て4月に沖縄で開催された。沖縄県立博物館・美術館では、同作品が館長主導ではずされたのだ。「病んでいる果実ははずしたらどうか」との発言もあったという。
 同企画自体、独立キュレーターの渡辺真也によるが、彼はこの検閲に抗議せずに従った。主題が「9条と日本」にあっただけに第一次のときとは次元が異なる。表現の自由、思想の自由は知の現場における美術館にしてこうした暗黙の圧力に継続的にさらされ続けているといえよう。
大浦作品を見てみると、思想的に「反天皇」といった匂いはしない。ニューヨーク時代荒川修作のアシスタントだったという大浦は、むしろポップアーティスト、ローゼンクイストのコラージュのように無関係なものを並列・構成して制作している(*シュルレアリスムの大前提)。彼の内なる日本人としての自画像、という制作意図はほぼ正しいといえよう。では、どこが引っ掛かったのか?
 尾形光琳、レオナルド・ダ・ヴィンチ、マルセル・デュシャンマン・レイ、ボッティチェリなどの名作の引用とともに、複数の裕仁像と裸婦、原爆、刺青などが散りばめられている点であろう。ここには近代日本が回避したいおぞましいもの、不気味なもの(*それこそが近代からみた私たちの肖像であるにもかかわらず)の意匠が裕仁像と併記され並んでいる。近代国家化を急ぎ名誉白人足らんとした国家的矛盾が露呈している。また、御真影を悪戯に切り刻むのは「不敬だ」という相も変らぬ保守史観が垣間見える。2013年にも山本太郎議員が園遊会で陛下に直接手紙を渡した行為に対し「不敬だ」との論調があったことも記憶に新しい。現在では不敬罪などというものはないはずだ。(*仮に取り戻そうとするリバウンド運動が近い将来これを復活させるのだとしても)。
 第二次大浦事件のときキュレーター渡辺真也は、審美的側面に立って意見を述べたが、現在のアートシーンは昨年のヴェネチア・ビエンナーレのエンヴェゾーによるディレクションを見るまでもなく、審美的側面よりも社会的・公共的・歴史的側面にむしろスポットがあてられているのだ。直近の、ジョグジャカルタ・ビエンナーレも「社会に深く関わる アート=ソーシャリー・エンゲイジド・アート」が中心であってむしろ東南アジアでこうした傾向は増大してもいる。わが国の美術批評界も社会的・公共的表現を単に審美的にいまだに解釈する段階で停止していることは否めない。島国であったためこの国の「自己撞着」「被害妄想」は想像以上にDNA上にインプリントされているのでそこから抜け出すことがまた困難なありさまだといえようか?
 そのことはわが国の起源に関する性向に起因しているとしても現在のただ審美的なアート観のみでは世界に巻き起こる民主的思想としての芸術観には追いつかないのではないか? もうひとつ天皇制をめぐる公共美術館の規制・検閲的側面を帯びた“事件”は、1994年に川崎市市民ミュージアムで起きた「ファミリー・オン・ネットワーク」展中の大榎淳作品で起こっている。これは明仁天皇・皇后両陛下と皇太子夫妻のコピー機で複製した写真に目線を入れ、バナーとインタラクティブな表現装置を介して、個人と天皇という二重の“実体もしくは非実体”を抽出させる作品だったが後援の富士ゼロックス、市民ミュージアムの双方から皇太子夫妻が転写されたバナーを巻き上げて見えなくするという形で検閲されている。富士ゼロックス側は「政治的作品は避けるように」といっていたという。また、こうした問題の背景としては宮内庁や文化庁の構造、天皇陛下自身が現代アートをどうとらえているか、ということもあるだろう。
 川崎市市民ミュージアムは第三セクターであるため、市民の反論に対しては検閲当事者の意見が強い。

大榎淳 川崎天皇家の画像を使用した大榎淳作品
「Dissipative Local Area Network」
1994
川崎市市民ミュージアム
撮影:前田敏行
神奈川新聞より複写


 天皇に関し筆者も平城遷都1300年祭で作品を展示した。再建された大極殿の借景という概念を用いてサイトスペシフィックなインスタレーションを提示した。このイベントは天皇制とも深く結びついている。とどのつまりは実体が把握できないエンペラーの歴史は、是非双方から見たとしても神話的存在であってわたしたちはもっかのところ現世的には借景する以外ないのではないのか、というメタレベルからの思いも一部にあった。(敬称略)

森下泰輔「借景・大極殿」森下泰輔
「借景・大極殿」
2010
サイトスペシフィック・インスタレーション
LED 鉄パイプ 発電機
1200×h450×d500cm
平城宮跡・奈良


もりした たいすけ

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

●今日のお勧め作品は、イリナ・イオネスコです。
20160105_ionesco_25_p-d-15イリナ・イオネスコ
「Porte Doree 15」
1972年(1998年プリント)
ゼラチンシルバープリント
9.8x14.4cm
Ed.10
サインあり


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森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」 第5回

森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」第5回

「草間彌生・築地署連行事件」

 私は実は草間彌生とはかなり親しかった。
 まだフジテレビ・ギャラリーが河田町にあったころ、1982年の「Obsession」展の時にお会いしている。草間は「日本は50年遅れている」と、芸術文化から自民党政治に至るまでいっきに2時間くらいまくしたてるように話したので驚いた。
 1950年代、すでに東京での個展で川端康成が作品を購入するといった一定の評価を得ていた草間(*その作品はトイレで制作されたトイレットアートだったとご本人は回想している)。その草間彌生は1957年にニューヨークに渡る。8月にジョージア・オキーフから手紙が来て、11月18日彼女を頼り、また太田財閥の招へいで渡米した。その年はじめに日本で流行っていたのが浜村美智子の「バナナ・ボート」というカバー曲であった。「バナナ・ボート」、そう草間のニューヨークでの実質デビューともなった「1000ボーツ・ショー」(ガートルード・スタイン・ギャラリー 1963)のファルス・ボートを連想させる。しかも、当時の浜村美智子のポーズが草間の写真と瓜二つなのだ。筆者は草間の浜村美智子「バナナ・ボート」への無意識のオマージュを確認する。ローカルチャーからの奪取が働いている。いわゆる「ハイ&ロー」だ。
(*浜村美智子(はまむら みちこ 1938年10月3日 - )は1957年3月ハリー・ベラフォンテの楽曲「バナナ・ボート」をカバー、「カリプソの女王」として人気を集めた。「バナナ・ボート」は江利チエミらも競作として発売していたが、浜村盤は大きくリードする形で、発売1ヶ月余りで18万枚を売り上げ、最終的に30万枚、現在までのトータルセールスではミリオンセラーを記録したとされる。)

 もう少しいえば、浜村美智子というのは、美術モデルで戦後ヌードフォトの礎を築いた中村立行の専属モデルでもあり、あの東郷青児のお気に入りの絵画モデルでもあったのだ。

KUSAMA D浜村美智子「バナナ・ボート(1957)」のポスター(撮影:中村立行)とファルス・ソファでポーズをとる草間彌生(ニューヨーク 1962)
Yayoi Kusama covered with polka dots and her works of [Driving Image], “Macaroni Carpet”, ”Sex Obsessional Furniture”, “Air Quantity”, Kusama Studio, New York, 1962 / Photo by Hall Reif


kusama2ファルス・ボートと草間彌生。
「Aggregation / 1000 Boats Show」(1963 ガートルード・スタイン画廊)で発表。


東郷青児・浜村美智子東郷青児
「浜村美智子」
1959
鉛筆・水彩・紙
29.0×24.0cm
損保ジャパン東郷青児美術館蔵


 戦後美術を見たときにまず旧来の美術史では地域性、つまり日本国内の動向にドメスティックに限定しがちだが、実際は海外の動向との密接な絡みがあり、ここをつまびらかにする必要があるのと同時に、他のジャンル、とりわけ映画芸術とのリンケージはさらに掘り下げられる必要がある。上記のような風俗、大衆社会との連環も調査しなければ戦後というメディア環境が拡散していったあとのアートシーンの問題はおそらくとらえきれない、というのが持論である。
 たとえば耳の作家、三木富雄を語るのに、安倍公房原作、勅使河原宏監督の「他人の顔」(1966)は最重要であるように。

 水玉をひたすら貼っていく、付け加えていくという方法を草間は「Self Obliterations(自己消滅)」と呼ぶ。この水玉ひとつひとつが自己という存在であり、オールオーバーに宇宙をカバーすることでかえって消滅するという考え方は充分にアニミスティックだろう。神道のいう「御霊論」との共通項すら見出せるかもしれない。

他人の顔スティール吉岡吉岡康弘
「他人の顔」スチル
1966
写真
後ろは美術担当:三木富雄「EAR No.201」(1965)と同系の作品が見える。


 草間彌生が「無限の網」の絵画からセルフ・オブリタレーションを中心とするパフォーマンスに拡張していったのは1965年ころで、65年というのはニューヨーク・アートシーンにとっても画期的な変革の年だった。アンディ・ウォーホルが実験映画主体に転じ、ボブ・ディランはまるでマラルメやジョイス、バロウズのようなダダイズム的、ダブルミーニングの詩を作り始め、ニューポートでエレクトリックに転換する。ウォーホルはこの年の冬にマルティメディアを駆使したEPS(エクスプローディング・プラスティック・イネビタブル)を始めた。他のアーティストにおいてもニューヨーク中が表現の拡張を始めていた。
 草間のパフォーマンスへの表現の拡張はそうした時代性とも同調しており、背後には激化するヴェトナム反戦への思いもあっただろう。自己や他者の体にボルカドットを貼り付けたりペインティングしたりしていくセルフ・オブリタレーションは1967年頃に一気に増加し、同題の映画も制作してベルギーの国際短編映画祭でも受賞している。(*自作自演の映画「草間の自己消滅」(監督は一応ジャッド・ヤルカット)が1968年第4回国際短編映画祭に入賞、第2回アン・アーバー映画祭で銀賞受賞。また、第2回メリーランド映画祭でも紹介された)。

kusama aヴェトナム反戦パフォーマンス(星条旗の焼却)
ブルックリン・ブリッジ、ニューヨーク、1968


08_original「My flower bed」
ニューヨークのクサマ・スタジオでポーズする草間彌生
1963


 1967年はオランダ各所でハプニングを開催、ニューヨーク以上の反響を巻き起こしている。
 1968年になると草間のパフォーマンスやアート概念は一気に限界まで拡張する。ミラールームはルーカス・サマラスにも甚大な影響を与えた。ソフトスカルプチャーはオルデンバーグに先駆け、アキュムレーション(集積)はアルマンに先んじていた。また、ヴェトナム反戦をテーゼにオージーという乱交パーティーを仕掛けたり、自己消滅パフォーマンスも乱交や全裸行為を伴ってあちこちで展開された。草間は、クサマ・ドレスを発表するなど、一方では芸術の資本主義化に取り組み「クサマ・エンタープライズ」を設立して、お金をもらってパフォーマンスを仕出しするようなレベルに到達する。週刊誌「クサマ・オージー」も発刊(1969)。
 クサマ・スタジオはヌードモデルやホモの美少年の巣窟となり、アンディ・ウォーホルがしょっちゅう人材を借りにきたという。
「アンディと私は新聞雑誌に自分の名前がどちらがのるかという競争をしていたの。私のほうがたくさんのっているとアンディはくやしがったわよ」(草間彌生)。
 まさにメディア環境に拡張した後のアートシーンでもあり、しかし、このことに覚醒していたのはごく少数だったと思われる。
「アラン・バーク・ショー」などに出演しては、草間はその“悪名”を全米中に晒しまくっていたのだ。だが、このような行為はクサマ芸術の著しい高揚期に生じたと考えられ、芸術家にありがちな世間の動向よりも極端に早いために誤解を生むというケースだろう。

2061Love foreverのバッジでポーズする草間
1960年代中期


Yayoi Kusama 09オージーパフォーマンスでボディペイントする草間
1968


草間7アラン・バーク・ショーでヌードパフォーマンスを披露する草間彌生
1968


草間8アラン・バーク・ショーでヌードパフォーマンスを披露する草間彌生
1968


 そんなさなか草間は何度か日本に帰国している。1969年と1970年である。
 さて、草間彌生が「築地署連行事件」を起こすのは、1970年の帰国時であった。実は某週刊誌の取材も兼ねていたらしい。ニューヨークではすでに「ハプニングの女王」として君臨し、そのカリスマ性においてもウォーホルと比肩されるほどだった草間、けれども帰国時はオールスターキャストといったわけにもいかずニューヨークのスタジオにスタッフを残しての単身帰国だった。ゆえに、雑誌社がモデルも用意しており、夜の築地・電通本社(当時)前で裸ハプニングを敢行しようとした。1回目はモデルが脱いで写真を撮影、少し先で2度目の行為に及ぼうとした際、どこからか警察のパトカーが現れ、未遂のうちに築地警察署(現場の目と鼻の先にある)に連行され、大いに絞られたというものだ。モデルの娘はパンティー一枚の状態だったという。
 この一件を草間は彼女らしいいいかたで語っている。
「数人のポリスと私服を着た部長みたいな人もいて、10人くらいで私たちを取り囲んでね、それがスケベ・ポリスばっかりで、“お前、ホントにパンティーはいてるのか”なんて私たちのコートのスソ引っぱったりするのよ」(草間彌生「週刊新潮」1970年3月28日号 p165)
 だが待っていただきたい。2010年6月9日にもこんなことがあった。
「篠山紀信、罰金30万円 霊園ヌード撮影に東京簡裁」。
「霊園の墓所で女性モデルのヌードを撮影したとして、礼拝所不敬と公然わいせつの罪で略式起訴された写真家の篠山紀信さん(69・当時)に対し、東京簡裁は9日までに罰金30万円の略式命令を出した。命令は5月26日付。起訴状によると、篠山さんは女性モデル2人のうち1人と共謀し2008年10月15日夜、東京都港区の都立青山霊園の墓所で、モデルのヘアヌードを撮影する不敬行為をした、としている。」(朝日新聞)
 墓場で裸は不敬だとはいうものの、公然猥褻罪の概念は草間の頃とまったく変化なし、なのだ。つまり、日本はヌード(芸術)とポルノ(猥褻)間の線引きができていない先進国でもまれな文化後進国ともいえるのであった。
 だが、実はこの線引きはそんなに簡単なものでもない。70年帰国した草間は例によって帝国ホテルに陣取り、数々の雑誌インタビューに応じたり、現・テレビ朝日(当時NET)の「奈良和モーニングショー」に出演して、「セックスは世界を救う」めいた持論を展開し、自らのパンストを本番中に引き下げようとして放送事故寸前で止められたり、そうかとおもえば「マンパクをやりにきたのです。世紀の性器博で女性器の芸術性を知らしめる運動をしているのです」と70年万博を念頭に、ろくでなし子を半世紀ほども先取りする論を取材記者にのたまわったり、求めに応じ東京湾で寝ころび、ぱかっと股を開脚したりして、確かに一般が理解に苦しむのもよく理解出きようというものだが、これらは確実に芸術なのであった。
 この時は、皇太子殿下と皇太子妃を招待し皇居前広場と国会議事堂でハプニングを計画していたが、さすがに実現には至らなかった。また、別件だが1976年には読売新聞出版局長と編集部員が草間秘蔵の師・ジョセフ・コーネル作の「草間裸体像」をだまし取ろうとしたと警察に訴え大騒ぎになった事件もあった(*「週刊新潮」1976年9月16日号 p136〜139)。

草間6東京湾でポーズを取る草間彌生
1970


 いずれにしても草間彌生は2014年の世界展覧会入場者数がダミアン・ハーストやジェフ・クーンズを抑えてトップである。2005-2015の現存女性作家、オークションでの累計落札総額も約250億円とシンディ・シャーマンを抑えてトップだ(art net 2015年8月20日号 WEBSITE)。が、こうしたスキャンダルに関してはあまり触れない傾向にある。草間ご本人が権威と化したので例によってあまり言及しないのだろうか? だがニューヨークでの15年にも及ぶ草間芸術の血みどろの闘争とエロスの解放運動がなければ、いうまでもなく現在の偉大な草間彌生芸術も語れないのである。(敬称略)
もりした たいすけ

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

●今日のお勧め作品は、草間彌生です。この「Woman」の限定部数とレゾネの記述については先日のブログをご覧ください。
20151218_3b6bbb31草間彌生
「Woman」
2006年
シルクスクリーン
76.0x56.0cm
Ed.120
サインあり
※レゾネNo.353


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◆森下泰輔のエッセイ「 戦後・現代美術事件簿」は毎月18日の更新です。

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ときの忘れものの年内の営業は12月26日(土)までです。
2015年12月27日(日)―2016年1月4日(月)はギャラリーをお休みします。

森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」 第4回

森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」第4回

「小山哲男、ちだ・ういの暴走」

 60年代は読売アンデパンダン末期にフリーキーな前衛美術家が大挙して登場した時期でもあった。彼らはほどなく美術館やギャラリーを飛び出し、街頭ハプニングに進出した。加藤好弘率いるゼロ次元、ネオダダイズム・オルガナイザーズ、ネオダダの影響を受けたアンビート、どこにでも出没したダダカンこと糸井寛二、クロハタ、ハイレッド・センター、九州派、牧朗の薔薇卍結社、果ては極めて風俗色濃厚の交楽龍弾まで、「いまやアクションあるのみ」といった塩梅で、その肉体の反乱を謳歌していた。
 このうちイチモツ露出による猥褻物陳列罪で検挙・逮捕されたのは全裸”儀式”に一定のこだわりを持ったゼロ次元の加藤好弘、秋山祐徳太子、小山哲男、ダダカン、告陰の末永蒼生らだ(*1969年7月。前回も触れた「万博破壊共闘派」の一連の流れで。官憲は70年安保闘争の政治運動家とこのアクション集団の関連を探ってのことだった)。
 こうした肉体派でも極北までいったのが、中央のハプナーに対して批判的だった福岡の集団蜘蛛(*まつろわぬ古代の先住民「土蜘蛛」にちなんで命名された。九州からの土俗的一揆の意を込めたのか)の森山安英だろう。彼らは70年2月、天神交差点においてセックスした。(*と当時噂されたが、短時間の交差点で果たして性行為が成立するものだろうか? やはり事実は、森山は勃起せずにシックスナインの態勢を取っただけだったという。ゼロ次元も半ば非公開のイベントではブロウジョブ程度は行っていたが)。森山は7月、教員不当解雇の抗議デモに向かって高校屋上でイチモツを露出、11月には男性器が書かれた旗を掲げて福岡・柳川を練り歩き、とうとう逮捕されている。(*こうした形での逮捕というのはよくあるが、それなら毎年リアルな木製巨大陽根を掲げて練り歩く川崎・金山神社で行われる「かなまら祭り」はいいのか、という疑問が湧く。神事ならオーケーだが、芸術表現行為はダメというのも解せない。といっても当時、森山安英自身は芸術を否定していたというのだが、宮川淳を持ち出すまでもなく、芸術が否認をループしながら拡張する自明性からして表現行為には違いはないだろう。こうした検挙はたぶんに見せしめ的要素がおおきいのだ)。

蜘蛛平田実「集団蜘蛛」
福岡・天神交差点
1970年2月26日撮影。


 もうひとりの極北がビタミンアートの小山哲男(のちに小山哲生と改名)だろう。小山はテレビ出演を重視した点で、ともにジャックの会時代、「デーティングショウ」(1966〜67)を行ったちだ・ういと並びメディア露出を考慮していた。野菜を食べビタミンを摂取するといった行為を標榜したビタミンアートだが、ゼロ次元とも何度もコラボレーションしている。ゼロ次元とは加藤好弘がプロデュース兼ディレクションしたプロジェクト集団ともいえ、メンバーはイベントのたびに流動している。小山のハイライトは68年3月の上野・本牧亭「狂気見本市」だ。とうとう林檎の上に排泄した汚物をこすりつけ、それを客席に放つという究極の汚物ハプニングを実行して出入り禁止、損害賠償の大騒動に発展している。
 小山は2回同様のハプニングを行っているが、2度目は同年、横浜のキャバレー「オリンピック」で「明治100年よこはま港まつり」の行事の一環として行われた。もともとマネキン職人であった小山が股間にマネキンをつるし脱糞した。この後予定されていた同公演は当然ながらすべて中止に追い込まれた。

小山哲男「桂小金治アフタヌーンショー」(NETテレビ1966年6月17日)でキャベツを食べるビタミンアートの小山哲男。


ジャックの会2第一回「デーティング・ショー」小山哲男 ちだ・うい
新宿コマ劇場前
1966年11月23日
撮影者:不明
黒ダライ児「肉体のアナーキズム」(グラムブックス)p233より複写。


小山哲男2「狂気見本市」(上野・本牧亭)における小山哲男
1968年3月13日
撮影:北出幸男
黒ダライ児「肉体のアナーキズム」(グラムブックス)p245より複写。


 実は筆者は2008〜2009年にはアートラボ・トーキョーの前身の銀座芸術研究所(ギンザ・アートラボ)を運営していて、加藤好弘の秘蔵っ子でゼロ次元女性軍団のひとり浅川はるかの個展を企画し、初台のライブハウス「DOORS」にて八回に渡る連続パフォーマンス・ショー「初台現代音楽祭」を敢行した。母乳飛ばしパフォーマンス増山麗奈はじめ複数の芸術家が参加した。増山麗奈は、府中ビエンナーレ(府中市美術館)、2004年12月26日のオープニング、拷問ショーと称しバイブを股間に挿入しながらの演説パフォーマンスを行い中止させられている。また、2007年、ギンザ・アートラボにて自衛隊のブラックリスト掲載反対の9条朗読オナニーハプニングも敢行した(「ネオ春画展」中)。これらは増山麗奈のアート行為であった。反戦アートデモ集団「桃色ゲリラ」は現在も周期的に継続、「サダコの鶴」(増山麗奈監督)自主制作反核映画を全国巡回上映中だ。
 ほかには、かつて原正孝といっていたのが改名して広末涼子で撮った「20世紀ノスタルジア」の監督・原將人のライブ映像ショー、旧知のノイズ・アーティスト灰野敬二、シーナ&ロケッツの娘たちのバンドで解散してしまったがダークサイド・ミラーズ、美大時代からの友人・宇治晶、ほかに菅間圭子、渡辺篤、桜井貴、佐々木裕司、神楽坂恵、アーバンギャルド、ロスジェネの文芸評論家・大澤信亮らを交えて展開したものだが、そのうちの一回がゼロ次元とのコラボレーションであった。その内容はここでは詳しく述べないが、銀座の展覧会の打ち上げに現れたのが小山哲男だった。 
 あまりにおとなしいので、私はこれがあのビタミンアートの、と反対に驚いたものだ。
酒がはいって散々まわったあとの散会ぎりぎりになってぼそっと、「僕はゼロ次元より過激だった。舞台でうんこしちゃったんだよね」と語り始めた。
 私は「ああ、小山哲男さんでしたか」とはじめて気がついたほどだ。

初台DOORSでのゼロ次元初台「DOORS」でのゼロ次元ショー。
2009年1月30日(金)。
手前はゲスト・首くくり栲象の首つりパフォーマンス。
撮影:筆者


asakawa2009週刊新潮4月23日号平田実浅川はるか銀座芸術研究所個展。
「週刊新潮」(新潮社刊)2009年4月23日号グラビア頁
撮影:平田実


2008年1月24日内外タイムス神楽坂恵VS増山麗奈2008年1月24日
「内外タイムス」神楽坂恵VS増山麗奈。


 その小山哲男は、晩年(2010年逝去)にかけて絵画に惑溺し、「天国のマリリン」シリーズを手がけていた。マリリン・モンローが降臨して描いてくれというのだとか。天国のマリリンとのシャーマン的交信がテーマだ。小山哲男はこのように晩年神秘主義に接近していったが、やはり濃厚な死のイメージが一面に漂っている。追悼展「天国の青い蝶」を2010年11月29日~12月4日、銀座・ヴァニラ画廊で開催した。

天国のマリリンシリーズ1小山哲生「天国のマリリンシリーズ」
2008〜2010頃
キャンバスに油彩
33.3×24.2cm


天国のマリリンシリーズ2小山哲生「天国のマリリンシリーズ」
2008〜2010頃
キャンバスに油彩
33.3×24.2cm


 ちだ・ういだが、高校生で前衛芸術界周辺に登場し、テレビ時代到来とともに「有名になりたい」とテレビ出演した。伝説となったのは「三島由紀夫暗殺計画」(*1964年9月、これは本人の弁によれば高校2年生の時であったというのだが、その時はいまだ公的には美術界デビューは果たしておらず、前芸術直接行動だったことになるが、諸説ある)なるイベント(?)であった。現在ではほとんど記録がないため諸説あることを断ったうえで、筆者がかつて直接ちだから聞いたことも加味して記憶から再現することにする。ちだ・ういが「三島さんを愛しています。付き合って欲しい」とラブコール(手紙を投函)を送ったのだが、返事がないというので激昂。あの東南アジア・コロニアル風、ギリシアで買い付けたアポロン像が庭にそそり立つ、有名な三島邸玄関前にて氏を待ち伏せ、暗殺するというのであった。出刃包丁を忍ばせ張り込んでいたが、ようやく現れた三島に対し、ちだは何もしなかった。
 いわく、「三島さんて憧れたけど、実際に現れた三島さんて普通のおじさんでしょ。やる気をなくしました」というのであった。ちだ一流のジョークだったと思われるが。が、詳細は現在オーストラリアにいるというちだ当人に再度確認してみての話だろうか。
 三島に関しては1966年6月、三島マニアの24歳青年が三島邸寝室に不法侵入し現行犯逮捕されるなど、ドタバタ劇めいた事件があったが、有名税では済まされない紙一重の生活を強いられていたのが理解できる。
 ちだ・ういが三島由紀夫に迫ったのは前出の一件だけではない。1965年か66年までにちだは数回テレビ出演しており、ある番組で三島由紀夫の例の筋肉写真をかざして、それにビール瓶を突き立て、「私は三島由紀夫を今、強姦した」と叫んだ一幕(ハプニング?)もあった。基本的にマッチョ、男性性を攻撃していたのである。
 ちだが最初にマスコミに登場し、芸術に類する直接表現を開始したのは1965年16歳の時で、「イメージ・メーカー」なる宣言を行い、「あなたのイメージを変えて差し上げます。それは人生もかえることになるでしょう。有名にもして差し上げます」なるプロジェクトを始めた。
 また、岸本清子「地獄の使者」にあやかったか、1971年にニューヨークから一時帰国時には「アメリカの苦悩を一身にあつめた、ちだ・うい」なるキャッチコピーまでつけていた。
 60年代の有名な論争に「ポップアート論争(もしくは反芸術論争)」というのがあって、東野芳明、宮川淳、高階秀爾までを巻き込み展開したが、そのなかで宮川が放った言葉が「芸術が成立しないことの不可能性」ということと「(芸術の)日常性への下降」ということだった。その意味においてちだ・ういほど「芸術の日常性への下降」を実践し得たアーティストはいなかっただろう。彼女は日常性そのもののなかで行為していた。展覧会に行ったら、ちだが自分のブロマイドを売っていた、というのもあった。この時期の彼女のテーゼ、「積極的日和見主義」というのも、日常性方向に表現の舵取りをするもので、世俗を問題とするポップアートに関連していたと思われる。
 小山哲男とともに行った「デーティング」にしても、長野・野沢出身でローカルな土着性をコンテンポラリー化していた小山の概念とは少し異なる気がするので、都会育ちのちだの考えにおおいに寄っていたのではないか。小山が白塗りしてマネキンの首をつり下げて座り、ちだが何やら食べさせるといったように行為もあるにはあるのだが、基本コンセプトはマスコミを呼びつけて東京の街でちょっと奇をてらったデートをするといった極めて日常的なアイデアの延長線上にあるアート行為だったといえよう。
 そのため、当時ちだはアーティストとすら思われておらず、売名に躍起になっているだいぶ変わった小娘、程度の認識しかされなかった。あるいは篠原有司男ファンで、たびたびデートしていたといわれるが、実はステンレス抽象彫刻の小田襄に師事していた時期もある。
 しかし、あのアンディ・ウォーホルが嫉妬したといわれる(*「僕はレヴィーンになりたい」)レス・レヴィーンが日常性に下り、ギャラリー個展にいったら何にもなくて臭気を発生させる装置しか展示していなかったという作品もあった(臭気彫刻)。あるときはギャラリーにモニターしかなかった(*この種の発表のもっとも早い時期の展示だろう)。鑑賞者を撮影した3つの隠しカメラ、6つのモニターによる概念としての日常性とメディア環境の投影である伝説のビデオ彫刻「Iris」の展示が1968年だったことを考えれば、この期のちだは、感覚的に当時の芸術界の思想に完全同調していたと思われる(私はレヴィーンのことは深く掘り下げなくてはならない問題かと思っている)。日本ではあまりに早すぎたのである。
 また、「モノセックス」を主張して女友達とのレズビアン写真を週刊誌に公表していたりした。アートにおけるジェンダー(性差)の認識においてもまた先行していたのだ。

ちだうい3ちだ・うい「私はレズビアン」
1969年2月5日号「平凡パンチDELUXE」(平凡出版刊) p185


1980年代のちだうい1980年代のちだ・うい
筆者蔵


 私がちだと再会して長時間話し込むようになったのは1983年、彼女がブライアン・イーノのバンドのプログレッシヴなキーボーディスト、フランシス・モンクマンと離婚してロンドンから帰国し、「前奏曲(プレリュード)」で群像新人賞を受賞し、有為エィンジェルと名前を変えていた直後だった。
 ゴールデン街の旧知のママに私を会わせたいといってその店で飲んだことがあった。ちだは、相変わらずかなり短いミニスカートをはいていた。「私のこの脚に芸術家の男たちが群がったのよ」なんて脚線美を自慢したあと、
「ねえ? 横尾忠則がなんで成功したか知ってる?」
 分かろうわけもない。
「クリエーターとしては、かっこよかったからよ」
 私は「ああ、ちだ・うい、だ」と思った。(敬称略)
もりした たいすけ

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

●今日のお勧め作品は、森下慶三です。
20151118_morishita_souzou_0918_3森下慶三
〈想像の風景〉より
水彩
Image size: 20.1x29.5cm
Sheet size: 35.0x44.0cm
サインあり


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森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」 第3回

森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」第3回

「泡沫芸術家の選挙戦」

 騒動という点では、秋山祐徳太子の都知事選立候補というパフォーマンスがあった。秋山は75年と79年の2度都知事選に立候補している。彼の場合、はじめからハプニングの一種と割り切っていた。実際に有名にしたのもこの一件だろう。
 秋山は武蔵野美術学校彫刻科卒業後、工業デザイナーとして大手電機メーカーで働き、グリコのトレードマークを真似た「ダリコ」(*はじめはグリコだった)なる「ポップハップ」(*本人命名らしい)で注目された。60年代には、一時「万博破壊共闘派」にも加わり、万博の太陽の塔、目玉男(*万博粉砕を叫ぶ)の真下を全裸で走って物議をかもしたダダカン(糸井寛二)やゼロ次元とも行動をともにしている。


e9cde6b8d77ac0873d8f37644e875ece秋山祐徳太子
「ダリコのハプニング」
1970
行為芸術


 京都大学バリ祭や池袋における「万博粉砕ブラック・フェスティバル」全裸行動により、1969年7月、ゼロ次元、小山哲男らとともに「猥褻物公然陳列罪」で逮捕されてもいる。また、「いなばの白うさぎ」(1970 監督:加藤好弘)ロケで愛知・五色園、博多のスナック、新宿セバスチャン(*加賀見政之運営)、九十九里浜などをフルチンで駆け抜ける氏の姿がきっちり記録されてもいる。

ゼロ次元平田実 
[ゼロ次元 加藤好弘監督「いなばの白うさぎ」]
1970
九十九里浜にて


秋山祐徳秋山祐徳太子
教育ハプニング「二宮金次郎」
1978年頃
東大赤門前・本郷


 私は氏に幾度かお会いし雑談も交わしているが、はじめて出会ったのは新宿にあったギャラリー「マットグロッソ」1974年、でだった。このギャラリーはのちに狛江市長選に立候補した岩城義孝という方が経営しており、秋山祐徳太子の「ブリキの彫刻展」を開催していてその時に出会った。
 私は当時ムサ美の学生で、いうなれば先輩だったのだが、そのときはサンフランシスコのヒッピー旅行から帰国したばかりで、今日でいうノイズの走りのようなバンドをやっており72年に故・間章プロデュースの「新潟現代音楽祭」(新潟市体育館)でデビューしていた。72〜74年は70年にベーシストがよど号事件に連座した裸のラリーズや灰野敬二在籍のロスト・アラーフと行動をともにしていた時期でもあった。マットグロッソでは日本で2番目にアンディ・ウォーホル個展を開き(*73年)、そのときに仲介したのがのちの「霧の芸術家」中谷芙二子であった。私自身も同ギャラリーでミュージック・コンクレート形式のサウンド・パフォーマンスを行ったこともあった。

1974マットグロッソギャラリー・マットグロッソの筆者(1974)。「絶滅しつつある鯨に関するミュージック・コンクレート」より。
撮影:今泉洋


自由空間2「自由空間 新潟現代音楽祭 狂気と解体」(1972)NHK総合テレビで全国放送。左がプロデューサー・間章、右がディレクターの佐藤元彦。森下泰輔の即興グループ「Yellow」は、吉沢元治、三上寛、ロスト・アラーフ、マジカルパワー・マコ、ブラディ・サーカス(竹田和夫)、ファー・アウトと共演した。村八分は出演予定だったが来なかった。NHKの画像を複写。


新潟現代音楽祭1972年4月29日「自由空間 新潟現代音楽祭」にて即興演奏を行う森下泰輔。
NHKより


 当時はまだハタチになったかならないかくらいの年齢であって、前衛の動きは逐一理解し、場合によっては新宿あたりで目撃もしてきたが、その頃は60年代前衛芸術がおおむね峠を過ぎていた時期だった。新世代は、サイケデリックを経てノイズに至り、むしろヒッピー・コミューンのアナーキーな原始共同体や音による感覚の解放を目論んでいた。ちなみにマットグロッソとはブラジルの秘境の名であり、命名したのは当時そこで働いていた国際芸術センター青森初代館長で現・青森県立美術館パフォーミングアーツ推進実行委員会委員長の浜田剛爾である。浜田はマットグロッソにいって気球をあげるプロジェクトのための資金集めに奔走中であった。

「ねえ、秋山祐徳太子の彫刻、買わない?」
一回りも年が違いそうな私にいきなりそう聞いたので驚いた。こちらは、そんな金があるはずもないようなフーテン美大生である。
 秋山はこの頃ブリキの彫刻制作に本格的に取り組んでいた。
 その彼が、ハプニングの総決算として臨んだのが都知事選立候補だ。
 前衛芸術家の選挙への立候補はなにも秋山ばかりではなかった。ネオダダの紅一点(*平岡弘子は第3回展より参加)だった岸本清子(*岸本とは83年に遭遇している元・ジャックの会のマツオキヨシが銀座・奥野ビル地下にオープンしていた「銀座美術クラブ」でだった。そのとき岸本はすでに晩年だったが、作品はすべて少女漫画であった。私は日本独自の概念としてガーリーアートというものを想定しているのだが、この時の岸本の影響があるのかもしれない。彼女はフェミニストであって、男権的美術シーンにアンチな意見であった)も1983年の参議院選に東郷健が党首の雑民党から立候補したことがある。私はその時の選挙演説を拝聴しているが、世間の地獄を一手に引き受け幸せに導く「地獄の使者」と名乗り、「核戦争前夜の現在、階層ピラミッドがあるために人々は幸せになれない。セックスは氾濫しているがエロスは地に落ちている。お金、情報メディア、科学テクノロジーの三種の神器に使われているのでは人類は精神的に充足できない」などと、かなり過激な一般有権者にはちんぷんかんぷんな演説をしていた。
 大体、当時この手の候補者は選挙の主流派ではなく「泡沫候補」といわれ、前出・東郷健らが常連だった。
秋山はそこから自ら「泡沫性」なる美術用語をも造語していたほどだ。秋山にいわせれば「泡沫芸術家」とは、ただの「奇人変人」ではなく、
「自分はストレートを投げているつもりでも、ズレていっちゃう。しかもそれに気づかない。自分ではズレてないと思っているんだよ」(秋山祐徳太子 「泡沫桀人列伝」2002年、二玄社刊 P217)
それだけ単に奇をてらっている芸術家よりは偉大なのだそうだ。
この人はかなりダンディな方でモーニングやシルクハットなどもよく着こなしていた。

 今回はその2度目の立候補の際(79年)のポスター作品の話をしたい。このポップなちょっとリキテンスタインを思わす網点の肖像画は、アンディ・ウォーホル体験でも書いたが、友人(といっていいのかどうか分からないが、同志だったのかもしれぬ)の世を忍ぶ仮の街頭似顔絵師にして実態はコンセプチュアル・アーティストの栗山豊作なのだった。

栗山7栗山豊
「Fever! Akiyama 秋山祐徳太子都知事選ポスター」
1979
紙にオフセット印刷


akiyama poster1秋山祐徳太子
1979年もう一枚の都知事選ポスター


栗山8jpg自作「セルフポートレイト」(1993 キャンバスにアクリル 550×455mm)を持つ栗山豊


 私が栗山とあったのは77年で、それから毎週のように飲んでいたので、「秋山祐徳太子の選挙を応援するんだ」と嬉々としていっていたのを思い出す。先日亡くなられた室伏鴻が青山に出していたバーではとりわけよく飲み現代美術を語り合った。
 栗山は秋山の選挙の私設応援団を引受け、経済的にきついのに自費でポスターまで印刷した。
「79年、私の第二次都知事選の折には、彼は自費で選挙ポスターを作ってくれた。金がかかるのでもちろん白黒である。それで充分で今や栗山さんの作品として全国各地の美術館にコレクションされている」(秋山祐徳太子 前出「泡沫桀人列伝」p82「路上のウォーホル」)
 いずれにしても、この2度にわたる都知事選立候補は美術パフォーマンスとして秋山祐徳太子を有名にしたし、戦後アート史のひとつの事件だったことは疑う余地はない。

栗山は様々な人の手形(*街頭の手相鑑定にヒントを得た作品)をエディションプリントにした「HAND MAP」シリーズや各種メールアートなどコンセプチュアルな作品も多数あるのだが、今思うと、むしろお祭りで全国行脚する的屋、フーテンの寅さんを地でいった街頭似顔絵という民衆芸術とハイアートである概念的なポップアートを連絡していたのが特殊だったかと思っている。(敬称略)

栗山3栗山豊
「HAND MAP Yutaka Kuriyama Right Hand」
1986
紙にコピー
ed.10


栗山2栗山豊
「似顔絵ストリート」
1990年代
上質紙に木炭、ペン


もりした たいすけ

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

●今日のお勧め作品は、秋山祐徳太子です。
20151018_aikyama_05_sankaku秋山祐徳太子
「三角男」
1989年
ブリキ彫刻
H27x11.5x11.5cm
台座の裏にサインと年記あり


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新連載・森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」 第2回

新連載・森下泰輔のエッセイ「 戦後・現代美術事件簿」 第2回

「模型千円札事件」

 犯罪者同盟の諸富洋治が万引きを咎められ戸塚署で取り調べを受けていたら所持品より「赤い風船あるいは牝狼の夜」がみつかり、吉岡康弘の性器ドアップ写真をみつけられてしまった。

 「捜査員が猥褻罪を立証するために乗り込んだ宮原安春宅から赤瀬川原平の千円札の作品がみつかった。警察はすぐに印刷所も洗った。」(今泉省彦)

 犯罪者同盟が自費出版した「赤い風船」にも赤瀬川の千円札が印刷されていた。さらに宮原宅で押収された赤瀬川の千円札作品が問題となり、両者を印刷した近代印書館がマークされて、千円札原版も押収された。赤瀬川はこれら写真製版した千円札を封筒に入れて送付し、個展「あいまいな海について」案内状中では、「私有財産制度破壊」と書き、まさにマルクス主義者然としていた。それが当局から通貨及び証券模造取締法違反かどうかの疑義を掛けられたわけだ。

akasegawaのコピー羽永光利
「赤瀬川原平」
1967
写真


 このように赤瀬川の「ニセ千円札」事件は、官憲の左翼運動マークより始まっている。同時期に「チ-37号」という実際のニセ千円札が出回っていたこともあって、赤瀬川はその容疑者にもされかかったのだが、本人や関係者ははじめことをごく軽く見ていた。ところが半年後の1964年1月8日に赤瀬川は再度刑事の訪問を受け、1965年11月1日に正式起訴される。
 裁判は1965年11月1日〜1967年6月24日に及び、結局「懲役3年、執行猶予1年、印刷原版没収」の有罪判決を東京地裁で受けている。上告したが高裁からは「控訴棄却」され、さらに最高裁に上告するが「上告拒否」され、1970年、一審を受け有罪が確定。
 ともあれこの事件は60年代前衛の側面を司法の手によって見事に記録し得たということにおいて、まれに見る芸術行為足りえたという皮肉な結果を生じている。だが、そればかりではなく、赤瀬川やハイレッド・センター自体が最初から「事件」性を前提として帯びている。それは、前述したが「イヴェント」という新たな芸術様式が“事件”に近似していたせいもあるだろう。ハイレッド・センターの発表自体、疑似事件(インチキ奇跡=非日常)とその現場検証、証拠物件の関係上にあることは再検証されるべきだ。そして、犯罪者同盟の文化的テロリズムのテーゼとハイレッド・センターは双子のようでもあり、どちらがどうというよりも安保自動承認時、政治的挫折の季節特有の表現手段とみれば合点がいく。

赤瀬川のコピー「赤い風船あるいは牝狼の夜」
(1963年8月15日発行 犯罪者同盟/宮原安春・編 赤い風船・刊 近代印書館・印刷)
赤瀬川原平・千円札の頁。
左頁は、池田勇人の写真にハイレッド・センターのビックリマーク(!)。


013「復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)」と「事実か方法か 1・2」。
第15回読売アンデパンダン展
1963
東京都美術館の再現展示。
「ハイレッド・センター 直接行動の軌跡展」
2014年2月
渋谷区立松濤美術館にて
撮影:筆者


040赤瀬川原平
「模型千円札裁判」
1965-1967
押収品1963−1966
「ハイレッド・センター 直接行動の軌跡展」2014年2月 渋谷区立松濤美術館にて 
撮影:筆者


syouko模型千円札裁判での証拠品審議(赤瀬川原平)
1966年8月10日
東京地裁第13部701号法廷


 地裁で約2年間かかった法廷闘争では、瀧口修造、石子順造、中原佑介、針生一郎、ヨシダ・ヨシエ、三木多聞、篠原有司男、池田龍雄、澁澤龍彦といったそうそうたる美術関係者が法廷で証言し、証拠物件としての現代美術作品(当時は反芸術作品)がまさに展覧された。この反芸術だが、東野芳明が読売新聞(1960)に工藤哲巳らの作品を評して反芸術といったことが発端であり(*工藤はこの時、自分は反芸術ではない、反芸術という意味も分からないと反論)、既成の近代美術の文脈に入りきれないといった程度の定義付けであって、半世紀以上にわたり拡張した現在の思考上に「反芸術」は持ち込めないため、筆者としてはこの語を乱用したくはないのでごく制限付きで記述することとしたい。
 法廷ではたとえばウォーホルの「ダラービル」を例証として赤瀬川の千円札が芸術であるといった弁護側の答弁もあったが、一見して分かるとおり、ウォーホルのものはシルクスクリーンで大雑把に刷られており、実際の千円札を直接写真製版した赤瀬川に比べて云々することはできない代物だろう。
 第一にこの時、権力は偽札事件の違法性を立証したくて赤瀬川をスケープゴートにしたきらいがあって、この権力が見せしめ的にアーティストを検挙するやり口は今日ではろくでなし子騒動でも確認できる。
 赤瀬川が何故偽札を作品化しようとしたのか? 1963年の読売アンデパンダン展出品の「殺す前に相手をよく見る」という千円札の精巧な拡大ドローイングあたりにその原型を見出すことが可能だ。

赤瀬川2赤瀬川原平
個展「あいまいな海について」案内状
1963
上質紙に活版印刷


赤瀬川5赤瀬川原平
「復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)」
1963 紙にインク
90.0×180.0cm
名古屋市美術館蔵


赤瀬川6赤瀬川原平
「模型千円札」
1963
紙に活版印刷
名古屋市美術館蔵


赤瀬川8雑誌「形象 8号」
1963年12月頃発刊(形象編集部刊)
「直接行動論の兆」
(ハイレッド・センター 山手線のフェスティバル 1962)、千円札のコラージュが見える。


 前回も書いたが、もともとが犯罪者同盟の一件より派生したもので、官憲としては、左翼のテロ組織(?)を捜査している過程でひっかかってきた案件でもある。赤瀬川自身は「ニセ札ではなく、あくまで模型千円札」と主張を続けたが、「資本主義の拝金主義的な社会が生む格差」に対し、制作意図は前提として国家と体制に反逆している節が見いだせる。
 大体において60年代の前衛美術、アングラ芸術そのものが、この間の政治の季節を反映して反体制的なニュアンスを帯びているのだ。この時期は日本だけではなく、フランスやドイツの芸術運動も概ね反体制的であった。ドイツではゼーマンやボイス、フランスでは五月革命をはさんでヌーベル・バーグやとりわけゴダールの映画にそれは色濃く出ている。あるいはボブ・ディランやローリング・ストーンズにも反射しているし、のちのフラワーパワー、ヒッピー文化、政治的ヒッピーのイッピーまでそれは続いていた。
 さて、赤瀬川は判決後、「櫻画報」や「零円札」でこの公判そのものをパロディー化してゆくという方法論を編み出す。
「一家に一枚、零円札」というコピーには、「傍目にはいかに本物に見えようとも、本物であることをご理解ください」といった謳い文句も付随している。順法闘争ならぬ順法絵画というのも国家権力に対する皮肉たっぷりだ。

zeroyen_2赤瀬川原平
「大日本零円札(本物)」
1967
紙に活版印刷


 しかし、日本の場合、そもそもが前衛や現代美術の市場などというものが欧米に比し存在してはいない。ためにこうした事件とスキャンダルが芸術家を有名にしてきたといった側面もある。赤瀬川がかりに偽札事件に連座しなければ、彼のアーティスト評価は今日のようなものだったかどうか?
 おそらく、それは現在でも継続しており、ろくでなし子は、”マン・アート”によって有名性を獲得し、後世に名を残すかも知れないのだ。それは初めに事件ありきであって、問題の、当の芸術性の部分はどの程度問われているのだろう。
 ここ数年の動向を見ても、こうした前例を逆手に取り、むしろスキャンダルを醸すことによってアーティスト生命をサバイバルさせる風潮は強まっているだろう。
 たとえば、Chim↑Pomがそうだ。彼らは、広島の空にジェットで「ピカッ」という文字を書いて問題視され、その必要はなかったかと思うが謝罪、広島市立現代美術館個展を館側が自粛した。また、岡本太郎の「明日の神話」の「水爆の図」に福島第一事故の絵画をつけ加えたりして、むしろイタズラめいたやり方で新聞やマスメディアを騒がす。(*メンバーのひとりエリィの初期のピンクのゲロを吐き続けるパフォーマンスなどもその傾向にある。) Chim↑Pomは表現のブレーキをあらかじめ設定しているように映る。福一事故を作品化するものの、テレビ出演の際は放射能の話題は微妙に避けていたり巧みに情報操作している。彼らの方法論はブレイクするための「戦略」だろう。
 60年代と現在との決定的な差異は、企画する側の美術館(またはフリーランスのキュレーター)と展示する美術家との間に「暗黙の了解」というか「検閲」というか、談合的な駆け引きが色濃く存在することだ。これは水際で作家サイドが突っぱねたが最近の会田誠作品改変問題をめぐる東京都現代美術館担当者との水面下での顛末や、Chim↑Pom「堪え難きを耐え ↑ 忍び難きを忍ぶ 展」(2015年 高円寺・Garter)での作品として展示された宣言文「まじで美術館や機関の検閲にクソみたいに屈し続けて来た最低の10年でもあった」といった部分にそれは表れている。
 そこには大文字の「芸術」という大仰な問題を考える以前に今日の美術がすでに官僚制度に呑み込まれてしまったあとの様相を呈していることが理解できるだろう。“箱もの”が乱立したあまり、作家と美術館のやり取りだけで動いているような、鑑賞者・批評者不在の何か後味のよろしくない不気味さが付きまとっているといえまいか。
 しかし、赤瀬川の問題がこれらと異なる点は、彼の本質はある種のディープな作家側の譲れない考え方に根ざしていたということだ。よって場合によっては即座に違法行為、「犯罪」となる。「思想的変質者」とは、赤瀬川自身、「当時の当局が思想的変質者を一掃しようとしたのですが、私もそう思われていたのです」と語っているように、60年安保後の状況が政治闘争から思想闘争への変換により改革を夢想する側面があり、そうした考えの一端を権力は「思想的変質者」と呼んでいた。それらは、犯罪者同盟の結成理由、「巷を騒がすことにより革命を起こす」云々のテーゼと妙にシンクロしていた。もっとも赤瀬川本人は「私は犯罪者同盟とは無関係だ」とその関連をさかんに否認していたものだが、冒頭で触れたように「赤い風船あるいは牝狼の夜」掲載から事件に発展していった経緯は決して無関係とは見えないのである。(敬称略)

もりした たいすけ

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

●今日のお勧め作品は、赤瀬川原平です。
20150918_akasegawa_nezisiki赤瀬川原平
「ねじ式」
1969年
シルクスクリーン
51.7x75.5cm
Ed.100
サインあり


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新連載・森下泰輔のエッセイ「 戦後・現代美術事件簿」 第1回

新連載・森下泰輔のエッセイ「 戦後・現代美術事件簿」 第1回

「犯罪者同盟からはじまった」

 これから戦後、美術界に起こった事件について書きたいと思う。戦後の美術界のスキャンダルともいえるのは、まず、藤田嗣治の戦争画事件と彼の国外追放があった。内灘闘争や砂川闘争での山下菊二、中村宏、池田龍雄らルポルタージュ絵画の問題もあるだろう。山下菊二といえば天皇制批判コラージュ作品展示拒否という騒動もあった。騒動という意味では、今泉篤男とサロン・ド・メ論争やジョルジュ・マチューの日本橋・白木屋ウインドゥ、アクション・ぺインティングの一件も入るかもしれない。それに付随した具体や、ギュウちゃんこと篠原有司男のモヒカン・アクションもあった。しかし、美術が本格的に「事件」の様相を呈するようになるのはやはり60年代からなので、ここではそのあたりを軸としたいと考える。それは文字通り事件=イヴェントと呼ばれる芸術形式の成立と期を一にしている。(*海外ではアラン・カプロー、日本では具体あたりからそれは生じてきた)。
1961年には皇室批判とも思える深沢七郎「風流夢譚」掲載に絡み右翼少年が中央公論社長宅を襲撃、リアル殺傷事件を起こすというものがあった。同社は「思想の科学」天皇制特集の雑誌を廃棄している。60年安保闘争を挟んで時代がきな臭くなっていったのだ。
 するとはじめに語らなくてはならないのは、のちにジャズ評論家となった平岡正明や評論家となる宮原安春が早稲田露文在学中に結成した、ブントから発展したと思われる文化的政治結社ともいうべき「犯罪者同盟」と彼らが自費出版した冊子「赤い風船 あるいは牝狼の夜」あたりだろう。
 
 その前にそもそも美術におけるスキャンダルとは何なのか、を探ってみたい。まず挙げられるのが猥褻問題だ。
 明治時代にフランス帰りの黒田清輝が裸体画を展示し、官憲より咎められ白い布を腰巻のように付してやっと展示したことなどもある。いわゆる今日まで継続している「芸術か猥褻か」事件だ。
 これは昨年も鷹野隆大の写真に男性器が露出しているというので白い布を付した一件(愛知県美術館)まで何も変わっていない。また、最近ではろくでなし子の女性器アート逮捕事件などもある。
 ほかに、もっとも顕著なものでは赤瀬川原平「ニセ千円札」事件。その一方では日本の公立美術館自体に数々のタブーが存在していることも事実である。展示拒否や撤去にいたる騒動は頻発している。大浦信行の天皇モチーフ版画撤去事件(1986年、2009年)、中垣克久、「安倍首相靖国参拝批判」作品での東京都美術館撤去騒動(2014年)。または、同美術館におけるキム・ソギョンとキム・ウンソン「朝鮮人慰安婦像」展示拒否(2012年)、あるいは反原発アートの展示拒否などもある。

従軍慰安婦像キム・ソギョンとキム・ウンソン
「平和の少女像」
2011年、FRPに彩色、450×600×h1360mm
右側が東京都美術館から撤去されたブロンズ像。
2011年、75×85×h200mm
2015年1月「表現の不自由展」ギャラリー古藤より。
このブロンズ像は2012年8月東京都美術館「第18回JAALA国際交流展」に出品されたが慰安婦をテーマとした有名なこの像は、会期中に撤去された。大榎淳らが抗議を行った。 
撮影:筆者


 いってみれば、猥褻問題、天皇問題、政治問題、原発問題、社会問題、民族差別問題などに連座して美術スキャンダルは事件化してきたのだ。それらの多くは 日本特有の状況でもあって、海外に目をやればこれらを主題にした美術作品はざらにあり、それがもとで違法行為とみなされることはむしろ少ないことからみても、わが国の美術なるものが端から行政領域の管理下に根強く存在していることの証明でもあろう。中国もアイ・ウェイウェイ問題など共産党批判的作品にはうるさいのだが、概してこの国は美術を官主導下に置きたがり、社会構造上もマルクスが指摘した「上部構造」ではなくむしろ「下部構造」につき従えている。美術は人類の知的営みの結果であり崇高なのだといった当たり前の思考が「表現の自由」以前に原点で否認されているようでもある。

 さて、前述した犯罪者同盟に関してだが、この一件は60年安保闘争の挫折と大きくかかわっている。戦後美術を俯瞰するとき、日本美術会結成、東宝争議や三井三池争議に絡んでの共産党的美術の台頭(戦前のプロレタリア美術運動の延長である社会主義リアリズム)、市民運動の発生、全共闘運動まで美術シーンは政治の季節と深いかかわりを持っていた。
 50年代闘争から派生した動きとしては、花田清輝や岡本太郎の 「夜の会」(1948年発足)「世紀の会」(1949年発足)からスターリン批判を経て吉本隆明、埴谷雄高、谷川雁、栗田勇、森秀人らが講師の市民学習自主講座「自立学校」(1962)まで大まかに連続している。犯罪者同盟も自立学校と通底しているのだ。小杉武久、ハイレッド・センターも巻き込んでいる。このあたりはのちに現代思潮社、美学校に連なる同一線上にあるといえる。
 50年代この線上に澁澤龍彦「悪徳の栄え」事件(いわゆるサド裁判)があり、このことは反体制運動と密接に連座している。60年安保闘争挫折によって左翼運動が分裂するなか、平岡正明らが新たな闘争として猥褻を確信犯的に標榜したとしても何の不思議もなかった。
 犯罪者同盟という名称だが、当時現場中心にいた美術評論家、美術家の今泉省彦は「維新前夜の薩摩藩が江戸市中で火付け強盗を働いて、人心を騒然とさせたように、犯罪を激発させて、革命的情勢を作り出そうというのが狙いだった」といっている。のちに日本赤軍、京浜安保共闘に至る新左翼過激派、テロルの思想の始まりでもあった。ただし、犯罪者同盟は純粋な政治結社というよりも文化闘争的側面がそもそも強い。結成時の62年、すでにのちのハイレッド・センター となる高松次郎、中西夏之らと絡んでもいる。(*1962年11月22日早稲田大学大隈講堂で開催された「犯罪者同盟演劇公演」)。

早稲田トイレ・犯罪者同盟演劇公演1962年11月22日早稲田大学大隈講堂で開催された「犯罪者同盟演劇公演 黒くふちどられた薔薇の濡れたくしゃみ」。
中西夏之により赤く着色された大隈講堂男子便所の便器。


 この時期、日本前衛芸術の砦となった「読売アンデパンダン」展もまた安保闘争挫折からの切り返しとして怒涛の「反体制美術家」を輩出していたが、彼らの多くが実際に反安保デモに参加していたことも事実だ。
 犯罪者同盟が自費出版した冊子「赤い風船あるいは牝狼の夜」は1963年8月15日終戦記念日に発行される。ここに若き日の吉岡康弘、赤瀬川原平、ダダカンこと糸井寛二、小杉武久、高松次郎らが作品を寄稿している。この面子はいずれも読売アンパンつながりで今泉省彦が仲介していた。また、実験映画「鎖陰」で注目され、のちに日本赤軍に加わる足立正生らが周辺に存在したことも、政治的テロとアートテロの間に分かちがたく横たわる思想的連関を想起させる。

表紙「赤い風船 あるいは牝狼の夜」
(1963年8月15日発行 犯罪者同盟/宮原安春・編 赤い風船・刊 近代印書館・印刷)
表紙。


赤い風船「赤い風船あるいは牝狼の夜」の頁。
ハイレッド・センターのビックリマーク(!)、マルクスのテキストの上に、高松次郎が当時行っていた「抹消線のドローイング」も見受けられる。


赤い風船・糸井寛「赤い風船あるいは牝狼の夜」
糸井寛二の頁。
トルコ帽をかぶり糸井寛の名で参加していた。


吉岡「作品」62読売アンパン吉岡康弘
「変態周期と過渡現象」
1962年
写真
第14回読売アンデパンダン展出品作
展示4日目に撤去された。


足立正生_足立正生「鎖陰」の上映。
1965年12月
ミューズ週間
モダンアートセンター・オブ・ジャパン
企画:ヨシダ・ヨシエ、参加:ゼロ次元、時間派、秋山祐徳太子、風倉匠、城之内元晴ほか
撮影:吉岡康弘


 同書は、1963年11月、猥褻図書として摘発された。吉岡の作品が女性器のアップだったのだ。(吉岡は同様の作品を1962年読売アンパンにも出品していたし、撤去させられるとリベンジとして自主的に写真集まで出したがこれも猥褻容疑で発禁になってしまった。「赤い風船」は3度目のチャレンジだった。)
 そもそもが、犯罪者同盟の一員、諸富洋治が高田馬場の本屋で万引きをやり(*この本が「悪徳の栄え」)戸塚警察署に連行。所持品検査の際、「赤い風船」 が見つけられたのだ。吉岡はこの件で拘留されたが結局注意のみで不起訴だった。本も吉岡の性器写真だけを除いて販売可となったのだった。
 吉岡康弘という写真家はマン・レイに評価され、工藤哲巳、勅使河原宏、若松孝二、武満徹、土方巽からヨーコ・オノに至るまで60年代アヴァンギャルド・シーンに多様に介在した。さらに、大島渚のスチールカメラマン、および映画撮影者だった。横尾忠則、横山リエ、唐十郎出演「新宿泥棒日記」の撮影者だが、この映画がドロドロとした68年当時の新宿アングラシーンをふんだんに盛り込んでいるのにもかかわらず、どこかクールな印象を残すのは吉岡という作家の映像感覚に負うところが大きいと思われる。同棲相手の若林美宏をモデルに(*若林は新宿泥棒日記中で戸浦六宏に犯される女の役を演じている。期を同じくして日本テレビ「11PM」エロティックなベッド体操に抜擢された)「獣愛」という写真集(*若林はインタビューに答え、実際に行為していることを告白)を出し、結婚までした(*書類上の入籍かは定かではない)が1974年6月3日、若林は「仕事に疲れました」の一言を残し静岡県熱海市咲見町の中田ビル屋上より飛び降り自殺している。死の3日前、黒装束で胸に花一輪の写真を撮った。当日はバラ4本、カスミソウ9本を持ってビルの屋上に上がった。情緒不安定で睡眠薬を常用していたという。(*享年26。といわれているが28だったという説もある。戦後アートシーンでは86年の鈴木いづみ自死とスキャンダラスといった点では双璧だろう)。
 若林美宏という女性は、60年代に何人かいた芸術家のミューズのようなところがあった。アートシアター新宿文化で開催された「新宿アートフェスティバル」にも飛び入り出演して振付師・竹邑類と踊っていたような人物だ。このとき若林はまだ芸能界デビュー前の湘南・白百合学園生である。まさに、アンファン・テリブル(恐るべき子供たち)の一味の一人だった。

ソドムの楽園吉岡康弘写真集「ヌード・ソドムの楽園」
1971
芳賀書店刊より
モデル:若林美宏(中央)ほか


獣愛_吉岡康弘写真集「獣愛」
1971
芳賀書店刊より
モデル:若林美宏


獣愛2吉岡康弘写真集「獣愛」
1971
芳賀書店刊より
モデル:若林美宏


 こんな風にとかくスキャンダラスな話題に塗り込められてきた吉岡だが、ハイキーにトーンが分解されたキャンプ(*S・ソンタグ)ともいうべきその映像センスは先にも述べたように極めて鋭く、クールに何らかのエッセンスを画像に入れ込めていた、と思える。それはとかく誤解されがちだったこの稀代の写真家が 時代精神(ツァイトガイスト)を実は表現していたからなのだ。2002年に逝去されているが、今後の再評価に大いに期待したい。
 さて、「赤い風船 あるいは牝狼の夜」(*現在同書は美術本として海外のコレクターからも羨望のアイテムと化している。そもそもこの案件自体の発端は海外コレクターからの「ときの忘れもの」への問い合わせから発している)は思いもかけない別件の契機をもともなっている。それは赤瀬川原平「ニセ千円札」事件へと発展することになるのだ。(敬称略)
もりした たいすけ

■森下泰輔(Taisuke MORISHITA 現代美術家・美術評論家)
新聞記者時代に「アンディ・ウォーホル展 1983〜1984」カタログに寄稿。1993年、草間彌生に招かれて以来、ほぼ連続してヴェネチア・ビエンナーレを分析、新聞・雑誌に批評を提供している。「カルトQ」(フジテレビ、ポップアートの回優勝1992)。ギャラリー・ステーション美術評論公募最優秀賞(「リチャード・エステスと写真以降」2001)。現代美術家としては、 多彩なメディアを使って表現。'80年代には国際ビデオアート展「インフェルメンタル」に選抜され、作品はドイツのメディア・アート美術館ZKMに収蔵。'90年代以降ハイパー資本主義、グローバリゼーション等をテーマにバーコードを用いた作品を多く制作。2010年、平城遷都1300年祭公式招待展示「時空 Between time and space」(平城宮跡)参加。個展は、2011年「濃霧 The dense fog」Art Lab AKIBAなど。Art Lab Group 運営委員。2014年、伊藤忠青山アートスクエアの森美術館連動企画「アンディ・ウォーホル・インスパイア展」でウォーホルに関するトークを行った。

●今日のお勧め作品は、浅田政志です。
20150817_asada_01_tojin浅田政志
「浅田家「唐人踊り」」
2010年
C-Print
イメージサイズ:27.4x35.1cm
A.P. Signed

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tokinowasuremono
緑豊かな青山のギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱い、毎月企画展を開催しています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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