芳賀言太郎のエッセイ

芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」第27回

芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」


第27話 ケルトと伝説の残る村を超えてガリシアへ

10/28(Sun) Villafranca del Bierzo – O Cebreiro (27.1km)
10/29(Mon) O Cebreiro o – Triacastela (21.1km)

 今日でサマータイムは終わり、スタンダードタイムに戻ることになって少しホッとする。サマータイムも夏なら良いが、10月の後半にもなるとその恩恵にあずかれなくなるからである。10月にサマータイムを用いると朝は7時なのにまだ夜が明けていない(実際は6時なので)ということになる。特に巡礼者の朝は早いため、真っ暗の中、出発するのはなんとも辛いものがあるためである。
 ビジャフランカ・デル・ビエルソから先は道路沿いの坂道が続く。川が流れ、空気が澄んで気持ちが良い。ベガ・デ・バルカルセ、ラス・エレーリアス、ラ・ファバなどの村を超えて高度を上げながら、オ・セブレイロまでの標高1320mを登っていく。

01
ビエルソの町の交差点


02巡礼者像
ビエルソの町の出口にある


03道2
道路沿いの山道を登る


04道3
高速道路の下を進む


05道4


 途中、ブラジル人が運営している陽気なアルベルゲがあったり、落ち着いたカフェがあったりと、小さい町にもほぼ巡礼者用のカフェや宿があるため、休憩や水や食料の補給に困ることはない。登りに備えて休みながら進んでいく。

06アルベルゲ
壁に大きく黄色い矢印が描かれている


07教会


08教会 内部


09道5


10山の風景


 ガリシア州に入って最初の小集落、オ・セブレイロは標高1300mにあり、あたりの風景は一変する。この村の歴史は中世より昔に遡り、ケルトの文化が息づいている。家々は、いずれも石造りで屋根はスレート葺きと、昔ながらの伝統的な様式を保っている。バジョッサと呼ばれる藁葺屋根の円形家屋もいくつか残っている。これはローマ以前、ケルト人の時代から用いられてきた伝統家屋で、人と家畜が同じ屋根の下で暮らすのが可能な内部空間を有している。冬の寒さが厳しく、降雪の多いこの地方特有の居住形態であり、現在は倉庫や物置として使われているものが多いという。そして、ここにあるサンタ・マリア・ラ・レアル教会は現存する巡礼路上の教会の中ではもっとも古く、9世紀に建てられた。そしてこの教会は中世の伝説を今に残している。
 とある天気の悪い冬の夜に一人の信仰深い農夫がミサに出席するためにこの教会に足を運んだ。すると神父は、こんな吹雪の中、わざわざ教会までやって来たこの農夫をあざ笑った。ところが、ミサの際にワインはキリストの血に、パンはキリストの肉体に変わり、盃からは血が溢れたという。これが聖晩餐の奇跡として語り継がれ、現在でも毎年9月9日に聖晩餐の祭りが行われている。そして、このときの盃などの聖遺物は、1486年にイザベラ女王がこの地を訪れた際に寄進した銀製の聖遺物箱に入れられて、現在も教会に保管されている。
 これはあくまで伝説であるが、キリスト教の信仰においては極めて示唆的な内容である。信仰とはすなわち信じることである。信仰のない神父と信仰のある農夫。信仰と言うのは立場によって形成されるものでは決してなく、信仰という目には見えない思いが形になるという一つの奇跡を今に伝えているのである。
 また、オ・セブレイロの司祭であったエリアス・バリーニャ司祭は、巡礼者のために黄色い矢印を巡礼路に描き、修道院の離れを修復し、巡礼者を受け入れるアルベルゲの運営を始めるなど、20世紀の巡礼路復興に大きく貢献した人物である。9世紀に始まり12世紀に最盛期を迎えたサンティアゴ巡礼であるが、その後も絶え間なく人々が歩き続けたわけではない。宗教改革で大打撃を受け、近世にペストの流行や戦乱が続いた事で、長らく衰退の時期があった。復活したのは20世紀の半ば、エリアス・バリーニャ神父がた巡礼路を再び切り拓き、その目印として黄色い矢印を描き、巡礼路は再生していった。エリアス・バリーニャ神父は現代におけるサンティアゴ巡礼の礎を築いた人物なのである。彼を記念して巡礼に関して貢献した人物や組織に与えられる賞には彼の名前が冠され、エリアス・バリーニャ賞は巡礼に携わる人の間では最も栄誉のある賞となっている。

11セブレイロのアルベルゲ


12アルベルゲ エントランス


13サンタ・マリア・ラ・レアル教会


14サンタ・マリア・ラ・レアル教会 内部


山の朝は冷える。山道を下り峠の巡礼者のモニュメントを通り過ぎ、先へと進む。小さな村のとある家の前には手作りの木の杖が道ゆく巡礼者のために置かれていた。古の巡礼者はこのような杖というより木の棒を片手に歩き続けたのだろう。

15巡礼者2
右手に杖を持ち、左手は帽子を抑えている


16杖置き場


17道6


 ところどころにある集落には、どこも山小屋のようなアルベルゲ兼カフェがある。なんとも落ち着く場所であり、このような宿に泊まるのも良いものだと思うが、今回はカフェでコーヒーを飲むだけにして先へ進む。

18山小屋風アルベルゲ


19リビング


20カフェ


 トリアカステーラのサンティアゴ教会はロマネスク時代の教会に1790年になって塔が増築された。周りの平坦な土地に突き出た鐘楼は印象的である。

21サンティアゴ教会


22サンティアゴ教会 内部


 アルベルゲでくつろぎ、ゆっくりと過ごす。小さな村なので特に何もない。夕食はアルベルゲのキッチンでスパゲッティを自炊し、スーパーで購入した3ユーロのワインを飲んだ。

23トリアカステーラのアルベルゲ


24アルベルゲ 内部


歩いた総距離1404.9km

(はが げんたろう)

芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●本日のお勧め作品は小野隆生です。
小野隆生_肖像画・啄木小野隆生
《肖像図 啄木》
1980年頃
油彩テンペラ
イメージサイズ:33.5×24.0cm
フレームサイズ:38.8×30.0cm
サインあり


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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆ときの忘れものは「小野隆生コレクション展」を開催しています。
会期:2017年3月7日[火]―3月25日[土] *日・月・祝日休廊
201703_ONO
岩手県に生まれた小野隆生は、1971年イタリアに渡ります。国立ローマ中央修復研究所絵画科を卒業し、1977〜1985年にイタリア各地の教会壁画や美術館収蔵作品の修復に携わり、ジョットやティツィアーノらの作品に直接触れ、古典技法を習得しました。1976年銀座・現代画廊で初個展開催。資生堂ギャラリー[椿会展]に出品。「ライバルは500年前のルネサンスの画家たち」との揺るぎない精神でテンペラ画による肖像画を制作をしています。2008年には池田20世紀美術館で「描かれた影の記憶 小野隆生展 イタリアでの活動 30年」 を開催しました。
本展では、小野の1970年代の初期作品から2000年代の近作まで、油彩・テンペラ・素描など約15点をご覧いただきます。

◆ときの忘れものは「アートフェア東京 2017」に出展します。
logo_600
会期:2017年3月16日[木]〜3月19日[日]
VIPプレビュー:3月16日(木)
一般公開:3月17日(金)13:00〜20:00
一般公開:3月18日(土)11:00〜20:00
一般公開:3月19日(日)10:30〜17:00

会場:東京国際フォーラム 〒100-0005 東京都千代田区丸の内3-5-1
ときの忘れものブースナンバー: N15
公式サイト: https://artfairtokyo.com/
出品作家:堀尾貞治六角鬼丈小野隆生秋葉シスイ松本竣介瑛九オノサト・トシノブ植田正治瀧口修造

●アートフェア東京の出品作品の一部をご紹介します
瑛九_フォトデッサン_2瑛九
《作品》
1950年
フォトデッサン
27.8x22.0cm
サインあり


02松本竣介
《作品》
紙に鉛筆
35.5x28.8cm


03瀧口修造
《V-10》
デカルコマニー、紙
13.5x10.0cm


04小野隆生
《剽窃断片図 (フェルメール)》
1976年
油彩、キャンバス
33.0x24.3cm
サインあり


05植田正治
《作品》
カラー写真
Image size: 19.2x28.4cm
Sheet size: 25.5x30.5cm


06堀尾貞治
ドローイング集『あたりまえのこと』(10点組)より
ミクストメディア
38.0x27.0cm
それぞれにサインあり


07六角鬼丈
《奇想流転(奇合建築)》
2017年
シルクスクリーン
Image size: 41.5x69.0cm
Sheet size: 56.0x75.0cm
Ed.15
サインあり


08オノサト・トシノブ
《Silk-2》※レゾネNo.20
1966年
シルクスクリーン
32.0x40.0cm
Ed.120
サインあり


09秋葉シスイ
《次の嵐を用意している》(15)
2015年
油彩、キャンバス
91.0x73.0cm(F30号)
サインあり


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◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
 ・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
 ・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
 ・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
 ・倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。
 ・小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。
 ・森下隆のエッセイ「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」は毎月21日の更新です。
 ・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」は毎月25日の更新です。
 ・スタッフSの「海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
 ・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」はしばらく休載します。
 ・大野幸のエッセイ<ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサート>は随時更新します。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は終了しました。
 ・普後均のエッセイ「写真という海」は終了しました。
 ・八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は終了しました。
 ・光嶋裕介のエッセイ「和紙に挑む」は終了しました。
 ・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は終了しました(時々番外編あり)。
 ・荒井由泰のエッセイ「いとしの国ブータン紀行」は終了しました。
 ・森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」は終了しました。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイや資料を随時紹介します。
 ・「オノサト・トシノブの世界」は円を描き続けた作家の生涯と作品を関係資料や評論によって紹介します。
 ・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。
土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
 ・「関根伸夫ともの派」はロスアンゼルスで制作を続ける関根伸夫と「もの派」について作品や資料によって紹介します。
 ・「現代版画センターの記録」は随時更新します。
今までのバックナンバーの一部はホームページに転載しています。

芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」第26回

芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」


第26話 テンプル騎士団の拠点から赦しの門へ

 マンハリンで一夜を過ごし、朝を迎える。山の朝は空気がピンと張りつめて気持ちの良いものである。登山の魅力は自分の足で登り、頂上に立つことだろうが、朝を山の上で迎えることもそれと等しく魅力的なことであると思う。山であろうが海であろうが、自然の中で日の出を享受することは人間にとって必要なことなのかもしれない。
 朝日を背に受け、次の町を目指して峠を下る。

01山の朝


02


03岩場


 いくつかの小さな村を通り過ぎ、山を下り終えるとモリナセカに着いた。この町は峠を越えた巡礼者にとってはホッと一息つけるオアシスのような場所なのだろう。7つのアーチがかかる中世の「巡礼者の橋」を渡れば村の入り口である。
 日本とも関係があり、ここのアルベルゲのオーナーがかつて四国八十八カ所巡礼を行ったことなどから今は香川県の歌津町や愛媛県の愛南町と町ぐるみの交流があるようである。

04モリナセカ


05巡礼像


06道2


 ポンフェラーダはローマ時代にさかのぼる歴史と由緒のある巡礼の街である。ここには12世紀に建てられたテンプル騎士団に由来する城が残っている。
 ポンフェラーダとは「鉄の橋(Pons Ferrata)」という意味であり、巡礼者の増加に伴って1082年にアストルガの司教オスムンドがそれまで木製であったシル川の橋を、この周辺で採掘される鉄を使って補強するように命じた事に由来している。今でこそ鉄の橋は珍しくないが、当時において橋は木や石でつくられることが一般的であり、鉄の橋は豪華なものであった。鉄の豊富な地域であり、なおかつ国力のある場所にしか鉄の橋をつくることができなかったことを考えると、当時のボンフェラーダがいかに栄えていたのかが想像できる。
 ポンフェラーダ城は1178年にレオン国王フェルナンド2世がテンプル騎士団にこの鉱業と商業の町を守るよう防備令を出し、城を築かせたものである。その後、1312年にテンプル騎士団が解体させられるまで、ポンフェラーダ城はテンプル騎士団の拠点として機能し、巡礼者の警護を請け負っていた。
 テンプル騎士団の解体後はレオン王国によって管理されたが、19世紀には石材の不足に対応するため、一部が取り壊されたりもした。しかし、近年に修復が行われ、中世当時の城が再現され、見る事ができる。城内の一部には博物館もあり、テンプル騎士団ゆかりのアイテムを見ることもできる。城内を散策することもできるため入場料を払う価値はある。

07テンプル騎士団の城


08入り口


09サン・アンドレス教会


 ポンフェラーダから先はぶどう畑が広がる道を歩いていく。ここビエルソ地方は近年、おいしいワインで注目を集めている。固有のぶどうの品種であるメンシアを用い、オリジナリティのあるワインを生み出している。このメンシアは中世にサンティアゴ・デ・コンポステーラへと向かう巡礼者によってもたらされたとも言われるが、山間という立地もあり、固有品種としては注目されてこなかった。しかし2000年代以降、新進気鋭の生産者によって注目を集め、現在では、注目を集める産地の一つとなっている。
 道の途中、木から帆立貝の彫刻を彫っている青年と出会った。思い出として一つ買うことにした。この木彫りの帆立貝を見るたびにこの時の記憶を思い起こすことになるのだろう。

10道3


11木工職人
木から一つ一つ帆立貝を掘っている


12道4


13ぶどう畑


 ビジャフランカ・デル・ビエルソには巡礼者にとって大切な教会がある。町の入り口にあるサンティアゴ教会は12〜13世紀につくられたロマネスクの教会であるが、そこには、ここまでくればサンチャゴ・デ・コンポステーラに到達できなくても巡礼が果たされるとされた「許しの門」があるからである。その昔、巡礼が今とは異なり大変に困難であった頃、病や怪我を負い、これ以上の巡礼の継続が困難な巡礼者に対してサンティアゴ教会の赦しの門が開かれ、そこをくぐるとサンティアゴ・デ・コンポステーラにある聖ヤコブの墓を詣でたことと同等の価値のある巡礼証明書が与えられた。なぜ、それほどまでに巡礼を証明することが必要なのかということについては当時のローマ・カトリック教会の教義が大きく関係している。
 聖ヤコブの祝日である7月25日が日曜日に当たる年は聖年と呼ばれ、6、5、6、11年の周期で訪れる。この年に聖ヤコブの墓を詣でると全ての罪が赦されるとされた。そのことから、多くの人々がこの聖年に当たる年に、西の果てのサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指した。
 巡礼路の整備も巡礼の装備も十分ではなく、食事も質素だった当時においては、サンティアゴ・デ・コンポステーラに辿り着くことは非常に困難であった。さらに昔は降雪量も多く、雪でセブレイロ峠を越えることができなかったり、雪解け水で巡礼路自体が閉ざされたりする事があった。巡礼路の再開を待つうちに路銀の尽きる場合もあったに違いない。そのため12世紀前半から教皇の命によって、セブレイロ峠のふもとのこの町にある赦しの門をくぐることで、サンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブの墓を詣でた場合と同様に全ての罪が赦されるとされるようになったのである。現在では特別な時にしか開かない許しの門であるが、ロマネスクの美しいプロポーションのアーチと彫刻が見事である。

14サンティアゴ教会


15赦しの門


 アヴェ・フェニックスはオーナーでありオスピタレロであるハト夫妻が中心となって労力と資金を提供し、巡礼者のボランティアと共につくり上げたセルフビルドのアルベルゲである。建設途中に一度火事に見舞われるという困難に直面するも、再度、力を合わせて建設を続け、その名の如く新たに蘇ったアルベルゲである。

16アヴェ・フェニックス 外観


17マーク


18アヴェ・フェニックス 中庭から建物を望む
太陽光パネルも設置されている。


19中庭


 このアヴェ・フェニックスは、昔の巡礼救護所跡に建てられたものであるが、まるで小さな山小屋が利用者の増加に伴い増築を繰り返し、徐々に規模が大きくなったようなアルベルゲであり、そこここに手の痕跡が残っている。この場所で生活するために必要なものは何かということが根本にあり、それに対する答えとして、必要な部屋や機能が一つ一つ付加されていったように思う。そして、その結果として現在の姿になったのだと感じる。巡礼者のための宿をこの場所につくること、その本質がぶれることなく、日々、巡礼者と共に生活することによって必要な要素が生まれ、それが付加されていく。不要になった要素は削られて必要なものに取り代えられる。それを体現しているのがこのアヴェ・フェニックスであり、だからこそ魅力的なアルベルゲなのだろう。

20洗濯物


21洗い場


22リビング


23屋根裏


歩いた総距離1356.7km
(はが げんたろう)

芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧めは、靉嘔です。
20170111_ayo_65_tsuru靉嘔
「つる」
2002年
シルクスクリーン
22.0x16.0cm
Ed.200
サインあり

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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

本日の瑛九情報!
〜〜〜
ときの忘れものは2011年9月に開催した「第21回瑛九展 46の光のかけら/フォトデッサン型紙」の折に、出品全46点の型紙の裏表両面を掲載した大判のポスター(限定200部、番号入り)を製作しました。
poster_A_600瑛九展ポスター(表)
限定200部
デザイン:DIX-HOUSE
サイズ:84.1x59.4cm(A1)
価格:1,500円(税込)
+梱包送料:1,000円


poster_B_600瑛九展ポスター(裏
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瑛九の造語である「フォトデッサン」は、先行するマン・レイやモホリ=ナギが印画紙上に物を置き、直接光をあてて制作した「フォトグラム(レイヨグラム)」と同じ技法ですが、これに自らの進むべき道を見出した若き日の瑛九の自負をうかがわせる言葉であると言えます。マン・レイたち先行者と異なり、瑛九は自ら切り抜いた「型紙」を使って膨大な点数を制作しました。その作品群を見れば、それらが絵画性の強い独創的なものであったことは一目瞭然です。瑛九が「型紙」に使ったのは、普通の「紙」や 「セロファン」のほかに、一度は完成させたフォトデッサン(印画紙)を次の作品を作るために「型紙」として切り抜いてしまったものも多数存在します。 従来は、「フォトデッサン」の失敗作を「型紙」に転用したと言われてきましたが、ときの忘れものが入手した46点からなる「フォトデッサン型紙コレクション」の中には、きちんと瑛九自筆のサインや年記が記入されているものも少なくありません。 失敗作などではなく、完成作品を惜しげもなく、切り抜いてしまったのはどのような意図だったのでしょうか。 それら型紙に鉛筆で下書きされた線や切り抜いたラインからは、瑛九の手の痕跡が感じられます。まだ残部がありますので、どうぞお申込みください。
〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。

芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」第25回

芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」 第25回


第25話 鉄の十字架を越えて 〜中世の巡礼を体感する〜

10/25(Wed) Astorga - Manjarin (30.9km)

 アストルガから先は峠越えが待っている。イラゴ(Irago)峠は別名「マーキュリーの丘」とも呼ばれ、標高1530mの巡礼路の最高到達地点である。この峠は夏でも霧に覆われ、天候が激変する難所である。

 巡礼路沿いに小さな教会がある。入り口部分の庇は巡礼者の日除けと雨宿りのためだろう。ベンチも置かれている。横には水道があり、巡礼者の水筒を満たしてくれる配慮がある。モニュメントには各国の言葉で「信仰は健康の泉」と書かれていた。

01教会


02モニュメント


 アストルガ以降、アルベルゲや巡礼者向けのバルが増えているように感じる。アストルガからスタートする巡礼者が多いのだろう。アストルガからサンティアゴ・デ・コンポステーラまでは徒歩で約2週間の行程である。このぐらいがちょうど良いのかもしれないと思う。体力の問題もあるだろうし、巡礼の前後を含めて考えると、夏のバカンスや休暇などを使っても、巡礼そのものは2週間ぐらいがヨーロッパでも限度なのだろう。
Murias de Rechivaldo、Santa Cataline de Somozaと雰囲気の良いバルが続き、温かいカフェ・コン・レチェとスペイン風オムレツを食べながら休息を挟む。その際にスコットランドから来たという巡礼者と仲良くなり、途中まで一緒に歩いた。

03十字架


04
黄色い矢印が巡礼路を示す


05


06青い扉の家


07アルベルゲ


08虹の十字架


09道2


 ラバナル・デル・カミーノに着いた。ここは人口50人ほどの村である。この先から本格的にイラゴ峠越えになるため、ここで一泊し、明日に備える巡礼者も多い。
 時間が正午に近く、お腹も空いていたため、ここで昼食にする。巡礼者用のメニュー(定食)ではあるが、スープとフィレ肉のステーキであり、なかなか美味しかった。ラバナル・デル・カミーノ

10ラバナル・デル・カミーノ


 フォン・セバドンに向かう道は徐々に勾配は増し、道も荒れてきた。標高が上がるにつれて霧が立ち込め、気温も下がってくる。

11道3


 フォン・セバドン、ここはかつて人の住まない廃村であり、野犬の多い難所として知られていた。今でもところどころに打ち捨てられたままの民家が残る。場所によっては廃墟のような様相を呈し、寂しい集落ではあるが、現在は巡礼者が増加したことにより、バルやアルベルゲが出来つつある。巡礼によって経済的に回復し、村や町が復活する顕著な例であろう。

12十字架2


13フォン・セバドン


 フォン・セバドンを過ぎると、標高1530mのイラゴ(Irago)峠越えとなる。巡礼路の最高標高地点であり、夏でも霧に覆われる難所である。別名「マーキュリーの丘」と呼ばれるが、これはキリスト教が伝えられる以前、ローマ神話で商人・旅人の守護神とされたメルリウス(英語読みでマーキュリー)がここに奉られていたことに由来する。
 積み上げられた無数の石によって小高い丘が形成されている。その家に木の柱がそびえ立ち、先端には鉄製の十字架が置かれている。これがCruz de Ferro「鉄の十字架」である。十字架を支えている丘の石は巡礼者が積み上げたものである。故郷や途中の巡礼路から持参した石を願いや祈りを込めてここに積む(私は近くの広場の石を置いた)。巡礼者たちの思いの込められた大切な場所なのである。まさに、ここに地霊は宿るのだろう。

14鉄の十字架


15鉄の十字架2
各国の旗や石が無数に置かれている


16十字架3


 イラゴ峠を越えて緩やかな下り道をマンハリンに向けて下る。ここには一軒の私設のアルベルゲがあるだけであるが、ここはある意味、巡礼路において一番有名なアルベルゲかも知れない。建物はセルフビルドでつくられ、山小屋のようである。むしろ、これこそが山小屋であり、ここには電気も水道もない。「最後のテンプル騎士団員」と呼ばれるオスピタレロのトマスが巡礼者のために泉に水を汲みに行き、食事を作る。霧の深い日には鐘を鳴らして巡礼者たちを導き、励ます。夕食はテーブルに置かれたランプの灯りに巡礼者たちが集まり、トマスと食事を共にする。廃村であったマンハリンに一人移住し、手作りでアルベルゲを作ったトマスはこうした生活を何十年も続けているのだろう。

17マンハリン


18トマスのアルベルゲ


19トマスのアルベルゲ2
セルフビルドによる建築


 ちなみに「テンプル騎士団」は、第1回十字軍(1096-1099)の終了後、ほとんどの参加者が帰国する中、聖地の守護と巡礼者の保護を目的として活動を開始した騎士修道会である。トマスが団員以外には秘密とされた入会儀式を経た団員であるかどうかは聞けなかったが、少なくともその精神においては紛れもない「テンプル騎士団員」であることは間違いないだろう。

20巡礼グッズ


21看板
各国までの距離が記されている


22屋根裏


23本日の寝床


 このイラゴ峠の頂上付近での水も電気もないアルベルゲでの1日は、中世の巡礼者と同じ環境を疑似体験することができたように思う。かつての巡礼者は毎日このような―それどころか野宿を含むさらに大変な―日々を過ごしながら、サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指したのだろう。周りを山々に囲まれ、遠くを見つめると日常の世界との乖離をより強く感じる。このサンティアゴ巡礼それ自体も一つの世界を形成しているものであるが、そこはどこまでも普通の人が普通に生活をしている町や村であり、実世界との関係性は保たれている。しかし、ここマンハリンはもはや修行のために山籠りをするような場所であり、それゆえの神秘的なエネルギーをこの場所が保有しているようにも思われた。

24風景


25リビング


26夕食
パンとサラダ


27夕食2
豆のスープ


歩いた総距離1288.5km
(はが げんたろう)

芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧めは、靉嘔です。
20170111_ayo_65_tsuru靉嘔
「つる」
2002年
シルクスクリーン
22.0x16.0cm
Ed.200
サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

本日の瑛九情報!
〜〜〜
瑛九の会の機関誌『眠りの理由』を順次ご紹介しています。
6-7『眠りの理由 No.6、7合併号』
1968年6月20日 瑛九の会発行
(編集発行 尾崎正教)
102ページ 25.3×17.8cm
目次は無し
瑛九伝ー誕生・幼少年期・混沌期ー山田光春

〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。

芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」第24回

芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」 第24回


第24話 アストルガ 〜チョコレートとガウディ〜

10/23(Mon) Leon – Hospital de Orbigo (32.4km)
10/2r4(Tue) Hospital de Orbigo –Astorga (16.5km)

 ここ数回は特別編を記載しており、最後にこのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼のエッセイを書いたのは夏であったのに、もう冬になってしまった。ときの忘れものからの帰り道で通る表参道も煌びやかなイルミネーションに覆われている。このイルミネーションを見ると、年の瀬が迫っていることを実感する。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路をこの季節に巡礼する人はほぼいない。冬のピレネー越えなどもはや雪山登山であり、素人には不可能である。しかし、冬の巡礼路というのもまた違った世界が存在していることだろう。もし、この時期にサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路に行くようなことがあるとすれば、私は迷わずレンタカーを選ぶだろう。

 レオンは大きな町だが、市街地には巡礼路を示すマークがところどころにあるため、道を見失う心配はあまりない。橋を渡り、市街地を出ると、あとは幹線道路沿いに進んで行くことになる。

01レオン市街地から抜ける橋


02マーク


03レオンから先へ


 途中、現代的な教会を見つける。中世の教会ばかり見てきた私にとっては逆に珍しく、シンプルな立体によって構成された外観とモダンな内装と窓によってつくられた内部空間は新鮮であった。特に印象的だったのは入り口に設けられた巡礼者の彫刻でなんとも言えない雰囲気を醸し出していた。これまで多くのロマネスクの石の彫刻を見て、この現代的な鉄の彫刻を見ると抽象的な表現ながらも人間の輪郭や杖と本(おそらく聖書)といった部分はしっかりとリアリティを感じるデザインになっていると思われた。

04教会


05教会内部


06彫刻


 オスピタル・デル・オルビゴに向けて道路沿いの道をひたすら歩いていく。途中には巡礼者の彫刻が置かれており、アートとして捉えることもできる。

07


08道2


09巡礼者彫刻


10巡礼者彫刻2


 オスピタル・デル・オルビゴの村に入る手前には長い橋がある。8つの橋脚と19のアーチを持ち、橋桁の長さは250mに及ぶパッソ・オンロッソ橋(Puente del Paso honroso)である。17世紀にルネサンス様式で架け直された部分もあるそうだが、ほぼ13世紀のものを残しており、一部は10世紀から11世紀にまで遡る可能性がある。もっともオルビゴ川がそれだけの川幅をもっているわけではなく、上流にダムが造られたことによって現在はその大部分は河川敷となっている。この橋には一つの伝説が残っている。
 1434年、中世の習わしに従ってレオノール・トパールを心の姫としたレオン出身の騎士ドン・スエロ・デ・キニョネスは、その愛の証として王の許可のもとこの橋を通ろうとするものと戦い、1ヶ月の間誰もこの橋を渡らせないか、300本以上の槍を折る(つまり勝利する)と宣言した。そして7月10日から8月9日まで、この噂を聞いてヨーロッパ中から集まった挑戦者たちと9人の騎士と共に戦い、ついに1人として橋を通さず、その誓いを守ったという。姫君から金のブレスレットを賜ったドン・スエロは、サンティアゴ巡礼の旅に出て、レオノール姫の腕輪をサンティアゴの大聖堂に奉納したと言われる。
 このドン・スエロの伝説は「パッソ・オンロッソ(名誉の歩み)」という名でヨーロッパ中に広まり、名誉を掛けて戦った中世騎士の物語として語り継がれた。現在、この町では6月に盛大な祭りが催され、当時の騎士試合が再現されるという。
 ちなみにオスピタル・デ・オルビゴの町自体も橋と同じく古い歴史を持ち、元はマルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)が設立した巡礼者のための救護院を中心に発展したという。町の名にオスピタル(救護院)がついているのはそのためである。
 現在の川の幅と比べると、結果として必要以上の長さになっている。しかし、その余剰部分に魅力を感じるのも事実である。中世から現代にかけての時間の流れを橋を渡るという行為を通して感じさせられた場面であった。

11オルビゴ橋


12アルベルゲ


13アルベルゲ 中庭


14夜のアルベルゲ


 翌日、オルビゴ橋のたもとの河川敷に降りてから巡礼をスタートする。丘を越えてアストルガに向かう。

15道3


16目印


17アルベルゲ2
ストーンサークルはまるでパワースポットのようである


18丘の上
眼下にアストルガの街が見える。


 アストルガは古代ローマ時代より交通の要所として栄えた町であり、当時の遺跡や城壁も残っている。当時、北スペインで豊富に産出した銀などの鉱物資源は、大西洋に面するヒホンからこのアストルガを通りセビージャに至る「銀の道」を通り、グアダルキビル川によって地中海に出てローマへと運ばれた。その繁栄はスペイン最初の司教座の一つがこのアストルガにおかれるほどであったが、その後は一時衰退する。しかし、サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼路の発展に伴って再興する。
 現在は人口1万2千人ほどの都市であるが、至る所にチョコラテリア(チョコレート店)があり、「チョコレート博物館」まであるのは、この「銀の道」を通ってカカオが持ち込まれていたからである。
 現在のアストルガのカテドラルは1471年に建造が開始されたものの、完成したのは18世紀である。そのため、後期ゴシック様式の身廊、ルネサンス様式の2つの礼拝堂、バロック様式の2つの鐘楼をもつファサードと、各時代の建築様式が反映された複合体といった様相を呈している。ちなみに右側の塔の色調が異なっているのは、1755年のリスボン大地震によって倒壊し再建されたためである。

19アストルガ
正面にカテドラル、右手に司教館


20カテドラル


 現在、このアストルガの名前を世界的に有名にしているのは銀やチョコレートでも、また壮大なカテドラルでもなく、その傍らに建つアントニオ・ガウディによる司教館だろう。これは火災によって全焼した司教館を再建するに当たって、当時の司教グラウが同郷(カタルーニャのレウス)のガウディに依頼したことによるもので、1989年に建設が始まっている。
 敷地としては東側に一段大きく下がってこの敷地を支えている古代ローマ時代の要塞の遺構があり、隣地にはルネッサンス様式の聖堂がある。ガウディはこの要請に対して、平面は十字架の縦横が等しいギリシャ十字形。南東に正面玄関、北西に3つの祭壇を持つ礼拝堂を持つ、地下1階地上3階建の司教館を提示した。一見奇抜に見えるが、ローマ時代の城壁の下から眺めると、むしろ円筒形や直方体の塔によって強調されている垂直の軸や、外壁に用いられた灰色の花崗岩が、ローマ時代の遺跡を数多く有する周囲の環境と調和しているように見える。内部空間は、屋根に採光窓を設けて外光を集め、木造の小屋組によって内部に導入し、中央の吹き抜けによって拡散させることが目論まれていた。
 しかし、こうしたガウディの意図は必ずしも理解されたとは言えず、1893年のグラウ司教の死去によって建設は中断。次の司教はこの奇抜なデザインを嫌って(開口部を広く取ったため断熱性が悪く、夏暑く冬寒い居住性の悪さからとも言われる)別の建物に住み、資金も途絶えたこともあってガウディは建設をストップし、評議会との意見の相違で辞任した。その後リカルド・ガルシア・グレーテによって1907に建設が再開され、1913年に聖堂の奉献がなされたが、完成せず、1961年ゴンサレス・マルティン司教の代になってようやく竣工している。しかし司教館として使われることはなく、現在は巡礼記念館として用いられている。3階および、意を凝らした屋根の採光窓は未完であり、ガウディが構想したというファサードの5メートルの天使像も設置されることはなかった。
 このままではなんとも中途半端なテーマパークのパビリオンのようである。今からでも遅くはないので、このガウディによる当初案と当時の技術に基づいて復元してみても面白いのではないだろうか。

21司教館


22エントランス


23内部


24内部2


25ステンドグラス


26アイソメ図
屋根に設けられた採光窓とそれを内部に導くための小屋組が分かる。
(鳥居徳敏『建築家ガウディ』中央公論美術出版、2000年、142頁より)。


27アストルガのアルベルゲ


歩いた総距離1257.4km
(はが げんたろう)


芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧めは、石山修武です。
20161211_ishiyama_utopia石山修武
「それでもあるユートピア」
2004年
紙・水彩・他
57.0×76.0cm
サインあり


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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

本日の瑛九情報!
〜〜〜
柿の赤さはつつみきれない   作郎  

月が静かにさしよればフラスコにある球面  月月虹

11月18日のブログでご紹介した私達の最初のパトロン船木仁先生は秋田の歯科医で北園克衛の〈VOU〉同人でした。瑛九の作品も買っていただいていたのですが、あるとき「親父が瑛九さんの父と文通していたようです」とおっしゃり、驚いたものでした。
上掲の句の作郎の本名は杉田直、瑛九の父です。
月月虹の本名は船木綱春、船木仁先生の父君でした。
■船木月月虹(ふなきつきづきこう)
本名・船木綱春、明治30年生まれ、大正14年日本歯科医専卒業、秋田県仙北郡神岡町で歯科医院開業。荻原井泉水門下、「層雲」同人。
宮崎の作郎と秋田の月月虹、ともに井泉水の「層雲」同人でした。俳句のネットワークというのはおそるべきものですね。
〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。

芳賀言太郎のエッセイ 特別編

芳賀言太郎 エッセイ 特別編
〜北北東に進路を取れ! 東京 ― 岩手540kmの旅〜

第4話 大槌新山高原ヒルクライム 〜復興としての自転車レースの可能性〜


5月22日(日)  大槌

 岩手県大槌町は東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた町の一つである。当時の町長を含め人口の1割にも及ぶ1285人が死亡・行方不明となり、市街地は壊滅的な被害を受けた。現在、市街地約30㏊を平均2.2mかさ上げする工事を進めており、2018年3月までに510区画の宅地を造成する計画であるが、住宅再建を希望する世帯は区画数の4分の1程度と、復興計画は必ずしも予定通りには進んでいない。
 そのような中で、この大槌新山高原ヒルクライムは、東日本大震災からの復興と再生を目指した三陸初のヒルクライムイベントとして開催された。主催は「おおつち新山高原ヒルクライム2016実行委員会」だが、共催が「大槌町観光物産協会」と復興のための第三セクター「復興まちづくり大槌株式会社」、主催協力として「大槌町」とあり、大槌町が一丸となって取り組んでいるイベントである。大会理念として「再生」、「創生」、「共生」を掲げ、震災からの復興の一つとして、自転車をコンテンツとしたアプローチを行っている。

01ポスター


 自転車を通しての復興としては、宮城県沿岸部を自転車で巡る「ツール・ド・東北」や岩手県陸前高田市や大船渡市を巡る「ツール・ド・三陸」も開催されているが、ツーリズムとしての自転車の持つ可能性はまだまだあるように思う。その土地を自転車で走ることによって初めて感じること、そこで生まれることが多いからである。徒歩では辿り着けない場所、自動車では見過ごしてしまう風景も自転車は見せてくれる。自分の足でペダルを回し、体で風を感じることが、その場所を知る手段の一つとして重要であると私は思っている。バスや電車では点と点でしかない町と町を線でつなぐことや、幅と高さとを持った道という連続的な空間を感じることを自転車はもたらしてくれるように思う。いわゆる観光の先にあるものを自転車は提示できるのではないか。まさに「ツール」(=ツアー)として、その土地をまるごと身体で味わうことができる自転車には大きな可能性があるように思う。
 実際、世界最大の自転車レースである「ツール・ド・フランス」は、その美しいレース映像そのものがフランス旅行のコマーシャルフィルムであり、その広告効果は絶大である。沿道の観客数約1500万人、世界190ヶ国で放送され、35億人が熱狂するとさえ言われている。だからコース設定に際しては、町や村、自治体が招致合戦を繰り広げる。以前はゴール地と次のステージの出発地が同じだったのが、現在は異なっているのも、一つでも多くの町を出発地・ゴール地とするためである。「ツール・ド・東北」やツール・ド・三陸」といった自転車のコンテンツは、東北の復興を進める上で回復と再生のイメージをつくるための一つの方法でもあるように思う。

02エントリー受付


03スタート前


 レースの受付場所は、津波で破壊された町役場に代わって現在の役場となっている小学校の体育館であり、スタートは小学校前の広場であった。走り出すと沿道からは町の人たちが手を振って応援してくれている。小さな町であるが、レースを行うことで当日がハレの日となる。津波によって壊滅的な被害を受け、その爪痕が今でも残るこの町にとっては、このレースの中に希望となるものがあるようにも思えた。
 勾配のきつい坂を約一時間かけて登り、なんとかゴールにたどり着いた。風力発電の風車の回る頂上から見た景色は本当に美しかった。なぜ自転車なのか、なぜヒルクライムなのか。それは人間が自転車に乗り、自分の力によって困難を乗り越えることができるということが大きな意味を持つことになるからではないかと考えた。

04頂上


 ヒルクライムは上りよりも下りに注意する必要がある。出そうと思えば80キロ以上ものスピードを出せるロードバイクでカーブを下るのは危険なため、順番に隊列をつくって下るのである。もちろん追い越しは禁止である。参加者全員がゴール地点から無事に下り、スタート地点まで戻ってくると、受付場所であった体育館で表彰式が行われた。表彰に際し、出し物として町の文化を伝える意味を込めた子どもたちによる地元の踊りを見ることができた。こうした土地ごとの伝統を伝えることも自転車レースが可能にすることの一つであるように思う。キツいレースをともに走った人とは絆が生まれる。参加者は地元やその周辺の人が多いため、直に東北の現状についての話を伺うことができた。また東北に来る時は連絡をくれるようにと言っていただき、嬉しかった。こうしたことを積み重ねることで、自分にも何か力になれることを見つけることができるのではないかと強く思う。

05昼食


06表彰式


 宿泊施設の「ホワイトベース大槌」は、復興工事関係者の宿泊施設不足に対応すべく、震災後に設立された第三セクター「復興まちづくり大槌株式会社」が開設したもの。コンテナを積み重ねたようなユニットハウスを宿泊施設として計画された。モンドリアンカラーをポイントで使用し、モダンなデザインになっている。もし、コルビュジエが仮設の復興住宅をデザインしたらこんな感じになるのだろうかと思った。
 一方、館内は木材が要所要所に用いられ、落ち着きのある空間になっている。館内のルームプレート、ルームキー、そして売店の家具は、地元の木材加工一般社団法人「和RING-PROJECT」によって大槌産の杉の木から製作されたものである。震災後の復興支援から始まり、現在は地元木材の加工や製品化によって、大槌町の木資源についての再発掘を志しているという。

07ホワイトベース大槌


08外観


09中廊下


10廊下


 夕方、ホワイトベースの裏手にある野球場に自然と足が向いた。ホームベースからライトへ、そしてフェンスを伝ってレフトへ。ホームに戻りダイヤモンドを一周する。特別な何かを考えていたわけではないが、何も考えなかったわけではない。ただ、まとまった答えにはたどり着けなかった。この静かな風景が私に何かそっと答えを示しているようにも思えた。ここにあるもの。土地の持つものを感じてごらんと問いかけているように感じたのだった。視線の先には夕日に照らされた三陸の海がキラキラと輝いていた。

11グラウンド


 私のこの東北への旅は、ヒルクライムレースのスタート地点に立つことがゴールだったように思う。レースはおまけのようなものだ。東北の今、そして、被災地の現状を頭ではなく皮膚で知ること、そして、それにどんな形であっても身体を使って関わること。自転車で旅することは私に新しい可能性を示してくれた。それだけで成功である。

東京から572.9km
走った総距離151.5km
(はが げんたろう)


コラム 僕の愛用品 〜自転車編〜
第4回 シューズ fizik  R4B UOMO  24,800円


 どんな時においても靴は大切である。特にスポーツをする際には足の力を無駄なくダイレクトに地面に伝えるため、それぞれのスポーツに対応した専用のシューズが存在する。
 ロードバイクの場合もそうしたシューズが存在する。「ビンディング」と呼ばれるシステムであり、専用のシューズとペダルを使い、バイクと足を一体化させる。一般的な自転車(ママチャリなど)ではフラットペダルという平らなペダルが装着されている。ペダルの上に靴を乗せて踏み込み、自転車を漕ぐ。しかし、ビンディングはペダルとシューズを、クリートと呼ばれる、シューズとペダルを固定するためのプレートによって接続させる。そのため踏みこんだときはよりダイレクトに、また脚を引き上げるときにも力を入れることができる。ただ、ビンディングはペダルとシューズを一体化してしまうので慣れないうちは恐怖感がある。うまくクリートを外すことができず、立ちゴケと呼ばれる転び方をすることがあるので、その時には絶対に車道側に倒れないようにする注意―倒れる経験なしに自転車に乗ることができないように、どんなに立ちゴケに注意しても一度や二度は必ずすることになる―が必要である(私は2回ほど経験した)。
 fizikはイタリアのメーカーであり、高い機能性とデザイン性を兼ね備えたアイテムを展開する。靴にはうるさいイタリアだけのことはあり、私が使用しているこのシューズも足全体を包み込むフィット感は抜群である。
 自転車に乗っている際に、自転車と体が一体になっていると感じる時がある。その感覚はビンディングによって高められると思っている。自分の踏み込んだ力がダイレクトに自転車を前に進める感覚は爽快である。ただ、現状は自転車が体の一部になっているというよりも、体の方が自転車の一部品にされているレベルのような気がする。立ちゴケをするということはそういうことだ。いつか思いのままに自転車で走れるようになりたいと思う。

12fizik


芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧めは、磯崎新です。
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磯崎新
「MOCA #1」
1983年 シルクスクリーン
イメージサイズ:46.5×98.0cm
シートサイズ:73.0×103.5cm
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◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。

芳賀言太郎のエッセイ 特別編

芳賀言太郎 エッセイ 特別編
〜北北東に進路を取れ! 東京 ― 岩手540kmの旅〜
東北の地に巡礼路をつくるために


第3話 仙台 ― 大槌 〜三陸海岸をめぐって〜

5月22日(金) 仙台 ― 気仙沼 ― 大船渡 ― 釜石 ― 大槌

 5:00に目が覚める。眠れそうにないので散歩を兼ねて、仙台市内を朝ランすることにする。仙台は坂が多く、アップダウンのある道が続く。

01丘の上の大観音


 仙台には有名なロードバイクのショップがある。仙台市の郊外、地下鉄南北線の終点泉中央駅からほど近くにある「ベルエキップ」はスイスのプロチーム「ポストスイス」のメカニックとして、現 BMCカーボンバイク開発責任者のヘールマンと共に腕を振るった遠藤徹さんのショップである。自転車店というよりはファクトリーという言葉の方がしっくりくる大きな倉庫のような建物であり、大きな空間を確保している。メカニックコーナーも広々としていて作業のための充実したスペースが用意されている。
 変速器の調子が思わしくないので、見てもらうことにする。ディレイラーハンガーが曲がっており、本来は交換するべきであると言われたが、明日がレースのため、チェーンが当たらないように調整のみしてもらう。最も軽いギアであるインナーローが使えないとヒルクライムレースでは致命的なため本当に助かった。

 遅い朝食をとり、出発の準備をしていると雨が降り出した。今日は自走は無理だろう。元々、明日がレースのため前日の今日は走らないようにスケジュールを組んでいたのも幸いした。仙台から一ノ関を経由し、大船渡線で気仙沼に向かう。新幹線を使い、盛岡を経由して山田線で釜石まで行くこともできるが、時間がかかってもここはやはり海岸線を通りたいと思った。

02駅にて


03線路


04気仙沼


05気仙沼駅


 気仙沼には東日本大震災が起こった2011年の5月に訪れたことがある。その時の状況は文字通りに壊滅的で、漁船が陸に乗り上げ、無残な状態だった。それから5年、復興がどのぐらい進んでいるのか自分の目で確かめたかった。
 正直なところ、まだこれしか進んでいないのかと思わされた。もちろん、状況は確かに良くなってはいる。瓦礫は撤去され、町に活気が戻っているようには感じた。ただ、砂とショベルカーによる土地の整地が精一杯であり、住宅や商店が建設されるめどは立ってないように思われた。
 大きな理由は自治体による建築制限だろう。震災後、住民らがばらばらに新築や増改築ができないように建築制限がかけられた。かさ上げ工事と土地区画整理事業が終わらないと建物を建てることができない。もちろん「災害に強いまちづくり」は必須であろうが、復興は時間との戦いでもある。そしてどんな地震でも壊れない建物とか、1000年に一度の津波でも被害を受けない街などというものがあり得ない以上、(もちろん巨大な鉄とコンクリートの要塞にでもすれば別だろうが、費用は別にしてもそれはもはや人がそこに住みたいと思うような街ではないだろう。巨大な防潮堤を見た時に思わず、壁で囲われた都市で巨人と戦うとある漫画が思い浮かんでしまった)、避難路を確保した上であとは住民の創意工夫に任せたまち作りをしてもよいのではとも思う。何から何まで計画するよりもある程度の余白を残しておく方が結果的に良いこともあるのではないだろうか。

06気仙沼 復興


07気仙沼 復興2


08気仙沼 復興3


09気仙沼 復興4


10気仙沼 復興5


 唯一の救いは仮設の商店街があり、人々の声が聞こえてきたことである。そこで食べたふかひれラーメンには心が救われた気がした。聞くと2017年春にはかさ上げ地の造成と区画整理とが一段落し、本格的な復興が始まるということである。さらに2018年にはかつての繁華街に新しい商業施設がオープンするらしい。その頃にもう一度この地を訪れたいと思った。

11気仙沼 ラーメン屋


12ラーメン屋 ふかひれラーメン


13ラーメン屋 テーブル
たくさんをお客さんが残したコメント


14ラーメン屋 内部
壁一面に応援のメッセージが書かれている。


15気仙沼 市場


16輸送バス


 気仙沼を後にし、大船渡へ。バスから見える景色はまだまだ復興途上の光景であった。しかし、リアス式の海岸線から青い海を見ているとその美しさには心を奪われた。この景色と共存していた町の姿を取り戻したいと勝手ながら思った。

17大船渡


18三陸鉄道


19案内板


20高架橋


 三陸鉄道で釜石へ向かう。小さな駅ばかりであるが、それぞれに趣がある駅が多く、なんともいい雰囲気の鉄道だと感じた。

21さんりく駅


 釜石駅についた時にはすでに夜の8時を過ぎており、あたりは真っ暗であった。時間も時間なので駅前のタクシーに乗り、大槌町まで向かう。

22釜石


 大槌町には着いたがここからが大変であった。本日の宿泊所のホワイトベースは吉里吉里という隣町である。ここに来るまでにきちんと場所の確認をしていなかったのは失敗であった。大槌町の役場からロードバイクで真っ暗な道をヘロヘロになりながら走ることになってしまった。約1時間走り、無事にたどり着いた時にはほっとした。シャワーを浴び、明日のレースに向けて就寝。

23大槌町


東京から572.9km
走った総距離125.4km

(はが げんたろう)


コラム 僕の愛用品 〜自転車編〜
第3回 輪行袋
オーストリッチ 超速FIVE輪行袋 ネイビーブルー 7,109円


 自転車を電車で運べると聞いて驚く人も多いと思う。鉄の塊にしか思えないママチャリを運ぶことを考えたらもちろん無理だが、ロードバイクはフレームとホイールを簡単に取り外すことができるため、実際にはコンパクトに収納することができる(もちろんある程度に大きさにはなるのであるが)。そして想像以上に軽いのである。感覚的にはママチャリの半分である。日本だと自転車のままで電車に乗ることは一部の路線を除いてはできないが、それを可能にするのが輪行袋(りんこうぶくろ)である。
 「輪行(りんこう)」とは、「自転車を分解して専用の袋に入れて、交通機関に乗せて移動する」こと。厳密には、縦横高さの3辺の合計が250cm以内(ただし長さは200mm以内)で重量が30kg以下のものを2個まで車内に無料で持ち込める。ただし、自転車カバーやゴミ袋、ウィンドブレーカー等で自転車を梱包するのは駄目であり、ハンドルやサドル、転がすためのキャスターなど一部でもはみ出ているものもアウトである。これはもちろん一般の乗客の方に危険を及ぼすからであり、このための専用のアイテムが輪行袋である。化学繊維で作られ軽くて丈夫、安全かつコンパクトに自転車を収納するための工夫があちこちになされていて、慣れれば5分!(アイテムの名称の由来にもなっている)で収納が可能である。自動車がなくても遠くに行けるのが魅力であり、行動範囲が格段と広がる。また自動車だと自動車を置いたところまで戻らなければならないが、輪行だとその必要がないので行動範囲が格段と広がる。
その最大手が「オーストリッチ」ブランドで知られるアズマ産業である。1970年創業で、当初は自転車用バッグなどを生産していた中、「輪行」というスタイルをいち早く打ち出したパイオニアである。車種に合わせ、サイズや素材、収納方法の異なる様々なタイプがリリースされている。
 輪行袋には全後輪とも外すタイプと前輪だけ外すタイプがあり、これは前輪だけを外すタイプ。分解と収納は簡単だがその分サイズが大きい。もちろん制限はクリアしているものの、満員電車に持ち込むことなどは考えられないサイズである。しかし、手間と時間がセーブできるのは何物にも代えがたい。ここは時間と区間に十分気をつけることにして、前輪だけをはずすタイプを購入した。
 品質第一を旨として、海外生産は行わず、現在でも工場で一つ一つミシンで手縫いされているオーストリッチの輪行袋は丈夫であり、破れたり縫い目が広がったりといったトラブルは一切なかった。もっとも、今一つパッキングの才能のない自分の腕ではいくら頑張っても最初のサイズにまで畳むことができず、不格好なナイロン生地のカタマリとしてバックにしまい込まれることになったのは輪行袋としてはきっと不本意であったに違いない。

24輪行袋



芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧め作品は、百瀬寿です。
20160903_momose_07_Square_lame-G_Y_R_V_around_White百瀬寿
「Square lame' -
G, Y, R, V around White」

2009年
シルクスクリーン
42.5x42.5cm
Ed.90
サインあり


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。

芳賀言太郎のエッセイ 特別編

芳賀言太郎のエッセイ 特別編 
〜イスラエルの旅 聖地エルサレムを訪ねて〜


 2016年8月14日、私はイスラエルにいた。テル・アヴィヴのベン・グリオン空港でこの原稿を書いている。昨年に引き続き、私はガリラヤ湖南端のタボル山近くにあるテル・レヘシュ遺跡の発掘調査にボランティアとして参加するためにイスラエルを訪れた。今回の発掘調査では、福音書に記述のあるガリラヤ周辺の「会堂」である可能性のあるイエス・キリストの時代のシナゴーグ跡が発見されるなど(http://www.christiantoday.co.jp/articles/21819/20160823/synagogue-jesus-time-confirms-accuracy-new-testament.htm)、一人のボランティアとしても有意義な二週間であった。昨年はガリラヤ湖周辺のイエスの足跡について書いたので、今年はエルサレムについて書きたいと思う。

01カフェにて


 エルサレムは聖地である。イエス・キリストが墓の中から蘇った場所を記念する教会、ユダヤ教徒の信仰のよりどころであった神殿の一部である嘆きの壁、そして、ムスリムがメッカに向かって祈る黄金の岩のドームがある。世界を代表する3つの宗教の聖地がここエルサレムに存在しているのである。

02エルサレム 旧市街


 旧市街は混沌としている。ユダヤ人地区、キリスト教徒地区、ムスリム地区、アルメニア正教教徒地区と大まかに分かれているが、主要な通りはムスリム地区を通っており、スーク(アラビア語で「市場」の意味)と呼ばれる露店市場と化している。シナモンやターメリックなどのアラブの香辛料が鼻をつき、食料品から日用品、宝飾品や土産物まで、実に雑多な売り物が路地に溢れ出している。少しでも立ち止まって商品を見ていると、すかさず店の主人が声かけをしてくるのである。何を買うわけでもないが、スークを歩くだけで何か感じるものがある。
 人々の生活の断片が如実に現れる。人々の日々の営みが露出しており、聖地といっても普通の人間が日常の生活している場所であることに、なんだか感覚的に親しみを覚える。

03スーク


04路地


 ヴィア・ドロローサ(Via Dolorosa:「苦難の道」)。キリストが十字架を負ってゴルゴダの丘まで歩いたことを追体験する道が残っている。1から14までのステーション(「留」)があり、それぞれに由来がある。

  1.イエス 死刑の宣告を受ける
  2.イエス 十字架を担う
  3.イエス 初めて倒れる
  4.イエス 母に会う
  5.イエス クレネ人シモンの助けを受ける
  6.ヴェロニカ イエスの顔をぬぐう
  7.イエス 2回目に倒れる
  8.イエス エルサレムの婦人たちを慰める
  9.イエス 3回目に倒れる
  10.イエス 衣服を剥ぎ取られる
  11.イエス 十字架につけられる
  12.イエス 十字架上に死す
  13.イエス 十字架から降ろされる
  14.イエス 墓に葬られる

 そして最終的には聖墳墓教会にたどり着く。キリスト教徒にとってその道を歩くことはそれ自体が巡礼であり、聖墳墓教会を詣でることはそれ自体が大きな意味を持つものである。もちろん現在の道は当時のものではなく(当時の市街地は現在の地表より10メートル以上も下にある)、聖墳墓教会もコンスタンティヌス帝による創建当時のものとは全く違ったものになっているはずであるが、今から2000年前にイエス・キリストはこの場所にいた、という史実がリアリティを持って何かを訴えているように感じる。

05聖墳墓教会


06聖墳墓教会 エントランス


07聖墳墓教会 内部


 シャバット。ユダヤ教徒の安息日である。シャバットは金曜日の夜(厳密には日没後)から土曜日の夜まで続く。シャバットに「嘆きの壁」に行く機会に恵まれた。「ユダヤ戦争」(66年-74年)によってローマ軍によって徹底的に破壊されたエルサレム神殿のわずかに残った西壁といわれる場所である。敬虔なユダヤ教徒が熱心に祈りを捧げている。一心不乱に体を揺すり、神に願う。トーラーを重厚な声で読み上げる。この場所、空間が神聖なものであり、清いものであり、穢れといったものが一切入り込んでこないように感じる。自分が場違いな場所に立っていて、自分自身がこの場の異物として存在しているように思わされる。私は神に祈るときこのように祈ることができるか、そう自問するが、答えは決してできないということであることがわかっている。彼らは祈るとき、自分自身の周りのものが全て消え去り、神と一対一の対話をするのだろう。それは私がまだ経験したことのない境地であることだけは理解できる。

 スポーツをある程度本格的に取り組んだ経験のことのある人ならば、ゾーンという状態を体験したことがあるかもしれない。プレーしている瞬間に、時間が止まったような、急に全てがスローモーションで動くような感覚である。そこでは自分の体の動きが細部まで理解でき、どのように動けば最良の結果が出るのかが瞬間的にわかる。そうような経験はなかなか言葉で表すことは難しいが、自分が何かを超越し、全てを理解しているように感じる体験である。それに近い状態を彼らは祈ることで自分自身の中に生み出し、神に近づき、祈りを届けようとしているのではないかとふと感じた。

08嘆きの壁


 オリブ山からエルサレムの街を望む景色は素晴らしいものだ。周りを谷に囲まれたこの場所に街ができた必然性を感じ、何千年と続く、人々の生活の営みの結晶が現在のエルサレムであることを感じた。眼下に墓地が広がっている。メシア、救世主が現れ、最後の審判の際、この墓から死者たちが一斉に立ち上がる姿を想像するとなんだか不思議な気持ちになる。この世の終末が来るとき、世界がどのようになるのかをなんとなくイメージできた気がした。

09エルサレム
オリブ山より街を望む


(はが げんたろう)


コラム 僕の愛用品 〜発掘調査編〜
第1回 時計
TIMEX CAMPER タイメックス キャンパー \6.700


 発掘作業時の時計に求める機能は耐久性である。発掘現場は過酷である。時計は埃にまみれ、露出した岩で傷がつく。粉塵が入り込み時計が動かなくなってしまっては意味がない。そして、それと同じくらい重要なのは、逆説的ではあるが、時計としての主張が強くないことである。具体的には軽くて小さいこと、つまり作業の邪魔にならないことである。
 キャンパーのオリジナルデザインは1941年まで遡り、タイメックスのロングセラーモデルである。ベトナム戦争時、タイメックスは軽量かつ耐久性のある時計を複数個兵士に持たせて故障したら付け替える「使い捨て」(ディスポーザブル)腕時計というコンセプトをアメリカ軍に提示して採用され、ミリタリーウォッチの名作として知られるようになった。その後1980年代に民生品として復刻され、さらに90年代にはクオーツモデルが登場する。2016年にもオリジナルに近いタイプが復刻されるなど、タイメックスの不動の定番モデルである。
 これは現行品の「キャンパー」で、ストラップは通気性の高いナイロンで、装着したときの蒸れを防ぎ、重さも18gと軽く、快適である。実際に発掘作業でも邪魔になることはなく、ときどき時計をしていることを忘れてしまうほどであった。
 シンプルであること、このCAMPERはそれに尽きる。ただ、極限まで無駄を削ぎ落とすことを目的としたシンプルさとはまた違う。必要なものだけを単純化したある意味ではチープなシンプルさである。ある人はこれを「この世には時計よりも大切なものがあることを知っている人の時計」と評した。事実、もっとも過酷な場所においては、時計の機能は時間がわかることだけで十分なのである。使い捨ての時計ではあるが、発掘作業や日常生活で使用して2年になるが壊れる気配は今のところはない。

10



芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧めは、ロバート・ロンゴです。
20160911_longo_01_endロバート・ロンゴ
「End of the Season」
1987年
木にリノリウム、鉄にエナメル、ブロンズにクロームメッキ
116×119×15cm

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
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芳賀言太郎のエッセイ 特別編

芳賀言太郎のエッセイ 特別編 
〜北北東に進路を取れ! 東京 ― 岩手540km自転車の旅〜
東北の地に巡礼路をつくるために。


第2話 栃木 ― 仙台 〜4号線を北上せよ〜

5月21日(木)  栃木 ― 宇都宮 ― 那須塩原 ― 仙台

 ポール・スミスは少年の頃、自転車選手を目指していた。12歳から自転車に乗り始め15歳で学校を自主退学までしてしまう。プロのレーサーを目指してトレーニングに励むが18歳の時に事故で重傷を負い、ロードレーサーの夢は断念せざるをえなかったが、自転車への情熱は消えることはなかった、ブラッドリー・ウィギンス、マーク・カヴェンディッシュ、デイヴィッド・ミラーをはじめとして選手たちとは親しい友人であり、70年代から集め始めたサイクリングジャージの膨大なコレクションは彼のデザインに大きなインスピレーションを与えてきた。
 2010年にはチームスカイのスポンサーでもあるラファとサイクリングウエアとアクセサリーのコレクション「ラファ+ポール・スミス」を発表している。2013年にはジロ・デ・イタリア 2013の入賞ジャージをデザイン。さらにイタリアのバイクメーカーピナレロとのコラボレーションで「ピナレロ ドグマ 65.1 ポール・スミス リミテッド エディション」を発表するなどロードレース界との関係は深い。
 2014年の来日に際しては、自転車専用道路として有名なしまなみ街道を自転車で走り、本州側の起点尾道にある建築家、谷尻誠設計のONOMICHI U2のためにサイクルウェアを含むバイクアイテムをデザインしている。
 そして2014年からは、自らの「Paul Smith」ブランドで、本格的なサイクルウェアコレクション「Paul Smith 531」を発表している。コレクション名の「531」は、ロードレースの歴史に名を残してきた、イギリス・レイノルズ社のバイクフレーム用チューブ「Reynolds 531」(5:3:1は、バイクチューブ用の合金に使われるマンガンとモリブデンとカーボンの配合比率)に由来している。
 現在、上野の森美術館でポール・スミス展の東京展が開催中である(8/23まで。なお名古屋の松坂屋美術館に9/11〜10/16まで巡回)。タイトルの「HELLO,MY NAME IS PAUL SMITH」は、今でも土曜日にはショップに立ち、来店客に「Hello My name is Paul Smith」と自己紹介をすることから決まったそうだ。興味のある方は上野まで足を運んでみたらどうだろうか。

01ポール・スミス展


 起床し、散歩する。教会の中で祈る。朝の礼拝堂は空気がピンと張って心地がいい。新しい白いシャツを羽織った時の感覚と言ったらよいだろうか。

02栃木教会


03栃木教会2


04栃木教会3


 朝、6:30。身支度を済まし、栃木教会を出発する。
 自転車に乗っているといろいろなことを考える。もちろん最優先で考えるべきは歩行者であり、路面の状態や後ろから近づく大型のダンプだったりするのだが、東京と比べると安全のために考えなければならないことは格段に少ない。
 自転車に乗ることで頭の血の巡りも良くなるのだろう。それで自分がやろうとしていることについて考える。東北の被災地に巡礼路をつくるということなのだが、当然ながら似たようなことを考えている人はたくさんいる。大体において自分が考える程度のことはみんなが考え、おそらくはもっと良く、深く考えている。ネットで検索すればいくつものプロジェクトが出てくるし、数々のイベントの告知が溢れている。しっかりした組織を持ち、法人格を取得しているものだって少なくはない。ただ、当然のことなのだが主体が自治体であればその自治体の中でのプロジェクトとなる。民間のものであっても県境を越えて企画されているものはほとんどない。しかし、と思う。大切なのは自治体の枠を超え県境を越えてプロジェクトとプロジェクトを繋ぐことではないかと。ひとつひとつの場所、一個一個のイベントを時間的、空間的に繋ぐこと。それができれば、点から線に、線から面に、そして空間として立ち上がってくるのではないだろうか。
 サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路も例えば、ル・ピュイの道であれば、ル・ピュイ、コンク、サアグーンといったそれ自体が独立していた地方巡礼の霊場が線として結ばれることによって成立したのである。そしてそれを成立させたのは巡礼者たちの歩くという行為そのものであった。座って考えるよりも体を動かすことが性に合っている私には、まず行動する方が話は早い。だから私は自転車に乗り、とりあえず走ってみるのである。

05朝の道


06宇都宮に向かって


 宇都宮は自転車好きにとっては特別の町である。1990年に世界自転車選手権がアジアで初めて開催され、そのメモリアルレースとして1992年に創設された「ジャパンカップ」は現在なおアジア最高峰の自転車レースである。2008年には日本で最初の地域密着型自転車ロードレースチーム「宇都宮ブリッツェン」が結成された。そして、宇都宮市自身が「自転車のまち宇都宮」として、日本初の自転車専用レーン導入など、単なる自転車による町おこしを超えて、自動車都市のオルタナティブとしての自転車都市を目指した都市政策を行っている。
 とはいえ、郊外を走っている限りではそこまで他の町との違いは分からない。ただ、道路沿いのそこかしこにバイクスタンドが設置されているのを見ると、やはり「自転車の町」に来たのだなと思わされる。

07スーパー ヨークベニマル


08カフェ


09インテリア


10カフェとTREK


11並木道


 自転車で走っているとお腹が減る。自転車はカロリー消費の激しいスポーツで(だからフィットネスジムには必ずエアロバイクがある)コースやペースにもよるが、1時間で約400カロリーを消費すると言われる。だからレースではペダルを漕ぎながら補給食を食べる。そうしないとハンガーノックと言われる全く力の出ない症状が出てしまい、こうなるとプロでもレースは終わりである。ちょうど4号線を北上している途中、道路沿いにおいしそうなイタリアンレストランを見つける。ジロ・デ・イタリアが開催中ということもあり、美味しいパスタが食べたくなった。時計を見るとちょうど12:30だったのでパーキングエリアにTREKを止めて入店することにする。
 期待通りのスパゲティーも食べることができ、満足である。ウエイトレスのお姉さんが私の格好を見て「自転車に乗っているのですか?」と声をかけてくれた。自転車で東北まで旅していることを話すと、彼女はクルーズで世界一周をしたことを話してくれた。
旅好き同士、話がはずむ。「気をつけて、よい旅を。」と明るく元気な声で見送ってもらった。

12イタリアンレストラン


13前菜


14あさりのトマトソースのスパゲティー


15ドルチェ


16東京から155km


17


 栃木から仙台までは260厖召蝓グランツールでも一日の走行距離が250劼鯆兇┐襯好董璽犬狼であり、そもそも自分はレーサーではない。本当なら福島の祖母の家に一泊したいところなのだが、レースの開催日を考えるとどうしても今日中に仙台までは辿り着かないといけないので、今日は始めから輪行の予定である。それでもなるべく自分の足で走りたいし、一駅ごとに新幹線代は安くなっていくのでそれを励みにペダルを回す。けれど、あまり景色の変わらない交通量の多い幹線道路を走るのは辛いものがある。体力以上に気力を削られる。自転車による巡礼路作りを考えるなら、旧道や生活道路を利用し、最終的には自転車専用道路による「走って楽しい」ルート作りが必要になることを痛感する。

18ブリジストン栃木工場


19大きな木の下で


 せめて県境を超えて新白河まで行きたいと思うが、背中のバックパックの重さもあって(何度も言うようだが本当はフレームにキャリアを付けてパニアバックに納めるべきである)身体が悲鳴をあげている。ナビによると新白河までは標高452mの峠を越えることになるらしく、ヒルクライムレースに出場しようとする人間にあるまじき事ではあるが、ここでギブアップである。那須塩原からは新幹線にて仙台へ向かう。

20那須塩原駅


21那須塩原駅 階段


22ホーム


 仙台駅に到着、まずは食事である。毎回のことなのだが仙台にやってくると無性に牛タン定食が食べたくなる。輪行のために自転車を組み立てて自走を再開。今日の宿をお願いしている仙台黒松教会の少し先に行くとサッカーのベガルタ仙台のホームスタジアムがあるので足を伸ばす。
 このユアテックスタジアム仙台は、「劇場型スタジアム」をテーマにサッカー・ラグビー・アメリカンフットボールの専用公式競技場として1997年に完成した。スタジアム本体はプレキャスト・プレストレスト構造、一部鉄筋コンクリート造4階建。その音響効果から臨場感満点と評価の高い屋根はガラスビーズ混入四フッ化 エチレン樹脂コートガラスクロスを膜材とした鉄筋骨組膜構造。フィールドは寒地型西洋芝4種混合による天然芝である。収容観客数19,694席と2万人弱。
 仙台駅から地下鉄南北線の終点である泉中央駅から歩いて5分という好立地で、大型商業施設を始め買い物には困らない。自分も近くのスポーツ用品店、スポーツゼビオにて補給食を買う。

23牛タン定食  


24ユアテックスタジアム


 仙台黒松教会では震災の時のボランティアの際にも使わせていただいた集会室に寝袋を拡げさせてもらう。
 東北は酒どころでもある。近所のスーパーで地酒である「一ノ蔵」を買い、美味しいお酒を堪能しながら眠りについた。

25仙台黒松教会 正面


26仙台黒松教会 パイプオルガン


27仙台黒松教会


東京から347.1km
走った総距離125.4km

(はが げんたろう)


コラム 僕の愛用品 〜自転車編〜
第2回 サポートタイツ
C3fit パフォーマンスロングタイツ  9.500円


 「C3fit」は日本のスポーツ用品メーカー「ゴールドウィン」の高機能スポーツウェアである。
 「C3fit」とは、圧着〈Compression〉、整体〈Conditioning〉、快適〈Comfort〉の3つの「C」が身体にフィットするという意味であり、身体機能と運動機能を向上させるハイパフォーマンスウエアであることを主張している。最も大きな特徴は、段階的な着圧設計で、全身を適切な着圧で加圧することにより運動時の余分なブレを抑制し、無駄なエネルギーの発散を抑え、運動効率の向上が期待できることである。そして、日本人の身体サイズを追求した設計と独自の三日月型パターンによって快適な着用感を実現しており、運動追従性が向上している。UVプロテクト機能など活動時のダメージも軽減するような素材を使用している。
 代表的アイテムであるC3fitパフォーマンスロングタイツは「一般医療機器」ウエアに分類され、段階着圧による血行促進効果によって、静脈血やリンパの循環力を高め、運動時のコンディショニング調整、運動後のリカバリーを促進する。さらに、長時間のフライトや乗車によるエコノミークラス症候群の予防や長時間の立ち仕事、日常生活におけるむくみ軽減アイテムとしても使うことができる。
 このパフォーマンスロングタイツも厚生労働省の基準を満たした一般医療機器であり、医療製品の製造業として許可を受けた工場で製造されている。タグには堂々とMade in Japanと刻まれている。このプロダクトを担当したのは「現代の名工」、黄綬褒章の受賞者である沼田喜四司氏である。
 履くときには時間がかかるし、締め付けられる感じがして窮屈にも思えるが、一旦走り出すと違和感は消え、むしろ履いていないときよりも脚の動きはスムーズである。まさに「NICE!」としか言いようのない使用感であるが、目指しているのは「履いていることを忘れていた」と思えることだと言う。いつかそうなって欲しいと思う一方、そのために値段が上がるのは困るとも思う。とはいえ、時に命に関わるエコノミークラス症候群予防のための医療機器(実際にそうなのだが)だと思えばこの価格も納得せざるを得ない。次に飛行機に乗るときにはしっかり装着して元を取りたいと思っている。

28C3fit



芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧めは、織田一磨です。
20160811_oda_01織田一磨
「大阪風景 永大濱」
1917年
石版
イメージサイズ:30.4×46.0cm
シートサイズ:32.4×48.0cm
サインあり


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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。

◆「ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサート第3回 独奏チェロによるJ.S.バッハと20世紀の音楽」を9月17日(土)夕方4時(16時)より開催します。いつもより早い開演時間です。
プロデュース:大野幸、チェロ:富田牧子によるプログラムの詳細は8月18日にこのブログで発表します。
要予約、会費:1,000円。メールにてお申し込みください。

芳賀言太郎のエッセイ 特別編

芳賀言太郎のエッセイ 特別編 
〜北北東に進路を取れ! 東京 ― 岩手540km自転車の旅〜
東北の地に巡礼路をつくるために。


第1日目 東京 ― 栃木 〜北を目指して〜

5月20日(木)  池袋 ― 所沢 ― 川越 ― 東大宮 ― 小山 ― 栃木

 ツール・ド・フランスが始まった。世界最大の自転車ロードレース。イタリアにジロ・デ・イタリアがあり、スペインにブエルタ・ア・エスパーニャがあるといっても、やはりツール・ド・フランスは別格である。ロードレースの世界で審判長がコミッショナーではなくコミッセールと呼ばれ、集団がプロトン、補給食袋がサコッシュと呼ばれるのも、この世界におけるツール・ド・フランスの大きさを示している。今年は7月2日から2回の休養日を挟んで全21ステージ、7月24日にパリのシャンゼリゼにゴールするまでの23日間、4000kmを走り、フランスを一周する。今年のグランデパール、出発地は世界遺産のモン・サン・ミシェル。1日目のゴールのオマハ・ビーチはノルマンディ上陸作戦の激戦地である。古城や教会堂といった歴史遺産や美しいフランスの風景は自転車レースに興味のない人でも一見の価値はある。「J SPORTS」(衛星放送)で全レース生中継中である。

 なぜ、東京から岩手まで自転車で行こうと思ったのか。もしくは、行けると思ったのか。正直なところわからない。ただ、新幹線で一気に目的地に行くのは何か違うような気がした。事の始まりは、私が岩手で開催される、ヒルクライムレースに参加することになったことである。

 岩手県大槌町。ここで三陸海岸初のヒルクライムレースが開催されることになった。「第1回おおつち新山ヒルクライムレース」。なぜ、わざわざ遠く離れたレースに出場することに決めたのか。それは第一に初開催であったため、そして東北が開催地であったという点である。
 私の父は福島県の福島市飯坂町、母も同じく福島県の双葉町出身である。子どもの頃は夏休みとなれば飯坂温泉の鯖子湯に温泉につかりに行ったり、双葉の海で海水浴をしていたのだが、福島第一原子力発電所の事故のため、母の実家は今も立ち入り禁止で、父の実家の近くの大好きだったニジマスの釣り堀は風評被害のため潰れてしまった。叔父が送ってくれていた双葉産のコシヒカリももう届くことはない。
 東日本大震災の犠牲者をどのように悼み、被災地をどのようにして再生していくかを考えたとき、自分が経験したサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路が一つのヒントになるように思われた。津波と原子力発電所の事故によって荒廃した東日本の太平洋岸地域に、鎮魂と再生のための巡礼路をつくることはできないだろうか。それを通して人を呼び、ものを集め、お金を循環させることができるのではないだろうか。そんなことは不可能だろうという声が聞こえてきそうではあるが、建築をつくるということ自体に大きな疑問が突きつけられている状況の中で、道を造るということは一つの別解になるような気がした。巡礼路を造るのにはダンプカーもショベルカーも必要ない。誰かがその道を「巡礼」として歩けば、もしくは自転車で走れば、その道が巡礼路となるのだ。一人二人ではどうにもならないのではあるが、それでも最初の一人が歩かないことには始まらない。まあ、今の自分にできることはそれぐらいしかないのである。

 朝、6時。準備を始める。空気圧をチェックし、ネジを増し締めする。前輪のクイックレバーを確認し、ブレーキの効きを確かめる。自転車用のジャージに身を包み、ヘルメットをかぶる。

01出発


 いざロードバイクに乗り、出発と意気込んだ所、トラブル発生。ヘルメットにバックパックの上部が当たり、顔を上げることができない。徒歩での山行を想定したバックパックは自転車に乗ることを前提としているわけもなく、このままでは走れない。これは事前に試走しなかった私が悪い。家の前でパッキングのやり直しである。毎回のことながら準備が大切なのだと思うのである。

 なんとか走り出す。今日の目的地は栃木なので、まずは青梅街道から所沢を目指し、川越、小山を経て栃木を目指すルートを考えた。距離的には100劼舛腓辰函J振兒速20劼5時間。普通に走れば問題のない距離のはずだった。
 が、走れない。まず自転車が重い。ロードバイクは軽さが命であるはずなのだが、いくら自転車が軽くても、そこに10劼發硫拱を背負ったのではアドバンテージはゼロである。そして背中の荷物が重い。普段はサイクルジャージのポケット(これが本当に便利である)に補給食と財布とGRだけというスタイルであり、たまに軽いリュックを背負うぐらいである。こんな重いバックパックを背負わないし、長距離を走る時には物凄く重い。ロードバイクは基本的に前傾姿勢が通常のポジションだから、重さがダイレクトに体にかかる。ペダルも思うように回せないし、はっきり言ってこれは苦行である。ロードバイクには長距離ツーリング用にランドナーというキャリアバックを前後左右に4つも積めるタイプがあるのにはちゃんとした理由があるのだ。
 
 そして道に迷う。県庁所在地を目指してそこそこ大きな町を国道伝いに走るのだから道路標識だけで辿り着けると思ったのが大間違いである。当然のことだが道路標識は自動車用なので、小回りが効いて自由度の高い自転車で走るには大雑把すぎる。そして自動車専用道路などというものがあると当然のことながら自転車は走ることができない。
 走りなれた道ならなんということはないのだろうか、初めての道となると思うようには走れない。なにより、この道でよいのかどうか考えながら走るのは物凄いストレスである。そもそもルートを決めていないのが悪い。一人旅だから好き勝手に出来るのは良いのであるが。

02所沢街道


 所沢での初めての休憩。五月晴れの日差しは強く、体力を消耗する。

03補給地点


 所沢から川越を目指し走る。

04川越駅


05川越 お店


06途中休憩
サイクルラックにかけられる。軽量化のためにスタンドのないロードバイクにとっては本当にありがたい。


07昼食 うどん
自転車とうどんは相性がいい。


 昼食後、疲れが一気に出たのか、モチベーションが低下した。もう走りたくないと体が訴えている。体は正直である。これは無理だと思い、行き先を東大宮に変更し、電車で栃木を目指すことにする。
 東大宮は私が大学1〜2年に通い詰めた駅であり、ホームに降り立つとなんだか懐かしかった。

08東大宮駅 プラットフォーム


 特別なイベントを除けば、日本ではまだ自転車で電車に乗ることはできない。それでも方法はある。専用の袋に入れて、外から見えないようになっていれば手荷物として持ち込むことができるのである。大変なことのように思われるかもしれないが、実は簡単である。パンク等のトラブルに対処するためロードバイクは前輪がワンタッチで外れるようになっているし、何より車体が軽い。エントリーグレードのアルミフレームのものでも10堋度だし、本格的なカーボンフレームのものだと7圓鮴擇襪發里泙任△襦いわゆるママチャリが15圓ら20堋度だから、約半分である。輪行袋と呼ばれる専用の袋もいろいろな種類が売られている。
 私が使っているのはいちばんポピュラーなOSTRICH(オーストリッチ) の輪行袋 でネットで6000円程度で購入した。バックパックから輪行袋を取り出し、前輪を外して専用の袋に納め、何箇所か付属のストラップで留めて、袋に入れる。後輪も外すタイプもあり、それだとサイズ的には半分ぐらいにまで小さくできるのだが、重さが減るわけではないし。やはり手間がかかる。土日に人気の観光地行きの私鉄に乗るわけではないので、サイズには目をつぶる。早朝や昼間の空いている時間帯であれば、それほど肩身の狭い思いをすることはない。

09小山駅 


 栃木駅に着いた。地元の高校生に「日本一周頑張ってください」と言われたときはなんだか不思議な感じだった。

 今日の目的地であり、宿泊場所である栃木教会に向かう。父の仕事の関係で宿泊場所を提供していただけることになったのだが、これは単に宿泊代を浮かそうとしてのことではない。これにはもう一つの目論みがある。教会のアルベルゲ化計画である。じっさい、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路が巡礼路たり得ているのは、一泊5ユーロ(500円!)程度で宿泊することのできるアルベルゲ(巡礼宿)の存在があるからである。1ヶ月もの長旅を毎日ホテル泊りで行ったらとんでもない費用がかかる。そこにはどうしてもボランティアベースで安価に宿泊を支えるシステムが必要なのだ。もちろん快適である必要はない。じっさい、仕切りもない大部屋に枕も布団もないマットだけの二段ベッドがずらりと並ぶだけの、鍵もかからなければプライバシーもない、でもオスピタレロ(世話人)の暖かな配慮だけはたっぷりあるアルベルゲがあるからこそ、巡礼路は巡礼路として機能するのである。だからジット(簡易ホテル)までしかないフランスの巡礼路は、どんなに道が整備されていても、やはり実際に歩く人は多くはない。東北に巡礼路をつくろうと思えば、やはりそこにはアルベルゲが必要なのである。
 だからといってそのために土地を取得し、アルベルゲにふさわしい建物を設計し、運営の仕方をデザインするというのもすぐにはできない。まずは、すでにそこにある建物をアルベルゲとして使ってみるという試みをしてみようというのである。宿泊するとなると食事はもちろんのこと、布団や枕、シーツを用意してもらう手間がかかる。そして出立の後には洗濯や布団干しの手間が必要になる。だから、食事は外で済ませる。枕もシーツも不要。敷き布団だけ用意してもらえば、持参の寝袋を使うので大丈夫ということを前もって重々お伝えしておいた。この程度の事であればそれほどの手間ではないと思ってもらえれば成功である。そして次の《巡礼者》を迎えてもらえればと思う。

10栃木教会 外観


11アプローチ


12内部


13開口


14那須ラーメン
自転車で走った後のラーメンは格別であった。


東京から103km(自転車での移動距離約55km)

(はが げんたろう)


コラム 僕の愛用品 〜自転車編〜
第1回 ロードバイク TREK1.2 68.000円(中古品)

 かつて、ツール・ド・フランスを7連覇した人間がいる。当時、神に最も近い男と言われたランス・アームストロングである。しかし、その後ドーピング問題で7連覇は剥奪され、自転車界を追放されている。 自伝、「ただ、マイヨジョーヌのためでなく」はアームストロングの自転車人生が描かれており、死の宣告を受けてなお、壮絶な癌を克服し、ツールを制覇した感動がある。さまざまな問題があることは確かだが、世界を変えた人間であることは間違いない。現在、ツール・ド・フランスのオフィシャルサイトでは、1999年から2005年までの優勝者は空欄となっているが、その間のことを「なかったこと」にしてしまおうという姿勢には疑問を感じる。人は起こってしまった「悪いこと」を「なかったこと」にすることはできない。むしろなぜそんなことが起こってしまったのかを−痛みを覚えながらでも−記憶し続け、考え続けることなしには、なかったことにされてしまったことはまた−こんどは別な形で−繰りかえされてしまうのではないだろうか。現在、このアームストロングをテーマにした映画「疑惑のチャンピオン」 (2015)が上映中である。また、彼のドーピング問題を扱った本「偽りのサイクル」も翻訳されている。ツールの休息日にでも足を運ぼうかと思っている。
 重苦しい話になってしまった。ただ、トレックのことを話そうと思えば、やはりアームストロングについて触れないわけにはいかない。
 トレックの歴史は、1976年にアメリカ・ウィスコンシン州の小さな赤いガレージから始まった。現在では自転車総合メーカーとして圧倒的な存在感を示している。1992年にトレックの代名詞となったOCLV「オプティマム・コンパクション・ローボイド」カーボンを開発し、カーボン内の空気含有率を極限まで低くする特殊な製造法で超高剛性のカーボンフレームを生み出した。これがランス・アームストロングに提供されてツール・ド・フランスを7連覇。高性能ロードバイクの代名詞的存在となり、それまではイタリアを中心としたヨーロッパブランドが中心であったロードバイク界に革命を起こした。
 このTREK1.2はトップモデルのデザインを受けたエントリーグレードのアルミニウムフレームのモデルである。何よりこの色が気に入っている。現在のラインナップからは消えてしまったプラシッドブルーという鮮やかな青に惹かれて購入した。熊谷の中古自転車店に運よく残っていたものをネットで見つけて即電話を掛けて買ったものである。その帰り道、熊谷から東京まで70kmを自走して帰ってきた時に、このTREKは私の相棒になった。

15


芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。
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●今日のお勧めは、森内敬子です。
20160711_moriuchi_02_ru森内敬子
「縷」
2015年
キャンバスに油彩
18.0×14.0cm(F0号)
左側面にペンサインあり


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◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。

芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」第23回

芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」 第23回

第23話 レオン 〜古代、中世、そして現代〜


10/22(Mon) Leon (0km)

 5月、イタリアはピンクに染まる。ジロ・デ・イタリアが行われるからである。
 ツール・ド・フランス、ブエルタ・ア・エスパーニャと並び、グラン・ツールと呼ばれる世界3大自転車レースの一つであるジロ・デ・イタリアは、約一ヶ月かけて、イタリアをめぐる。最も過酷と言われるこのレースではリタイヤも続出する。人権団体が問題にしたとさえ伝えられる。
 なぜ、それほどまでに過酷なのか。それは差別化のためである。ツール・ド・フランスより面白いレースにするにはどうすればいいのか。大会主催者が考えたのはコースを厳しくすること。過酷にすることであった。標高2,000mを超える山の頂上にゴールを持って行く。ドロミテ山塊のゴツゴツした山肌を選手たちは駆け上がる。
 リーダージャージはピンク色に染まったマリア・ローザであり、これはガゼッタ・デッロ・スポルト(「スポーツ紙」というそのものズバリの名前)の紙面の色なのである。マリア(Maglia)とは人の名前ではなくメリヤス、ニットのことで、伸縮性の衣類の意味であり、聖母マリア(Maria)に捧げる薔薇のジャージという美しく素敵な名前ではないのである。残念ながら…。2013年にはこのジャージを世界的デザイナーのポール・スミスがデザインした。ポール・スミスをかつては自転車選手を目指したほどの自転車好きである。
 今年は日本人では山本元喜選手が出場し、完走を果たした。将来、多くの日本人選手がイタリアを駆けることを一人の自転車ロードレースのファンとして願っている。

 レオンはスペイン北西部、カスティーリャ・イ・レオン州レオン県の県都であり、人口約20万人の町である。その歴史は古く紀元前に遡る。ローマ帝国の第6軍団によって建設され、第7軍団(レヒオン・セプティマ・ヘミナ)が恒久的な軍事拠点としたことからその名前が付けられた。その後、西ゴート王国に属するが8世紀初頭にイスラム勢力が侵入し、大量のモサラベ(イスラム支配下のキリスト教徒)が流入した。9世紀後半にアストゥリアス王国による再植民が成功し、10世紀初頭オルドーニョ2世が首都をオビエドからレオンに移し、アストゥリアス王国はレオン王国となった。そして、レオンはイベリア半島のキリスト教勢力の都市として最重要の地となる。サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路の拠点の一つであり、その時代には最も多くの救護施設や宿泊施設のある町であった。最盛期には17もあったと言われる宿泊施設の中で最も有名なのが、現在、5つ星の国営ホテルのパラドールとなっているサン・マルコス修道院である。

01レオン 街並み


 サン・マルコス修道院は現在、国営ホテルのパラドールとなっている。その始まりは1152年、ドニャ・サンチャが巡礼のために建設した町外れの川の畔の教会と救護院である。1171年頃にはサン・マルコス(聖マルコ)の救護院として知られるようになり、1173年にサンチャゴ聖堂騎士団がここに屯所を設けて巡礼者の支援・救護活動を行うようになる。16世紀に入って改築が行われ、現在の教会堂が1541年に完成する。17、18世紀にも増改築が行われ、1869年に美術館が設置される。これが現在の考古美術館の始まりで、「サン・マルコス美術館」としてローマ時代、西ゴート時代の石碑を始めロマネスク時代の彫刻等を展示している。
 パラドールとしても素晴らしく、5つ星のラグジュアリーなホテルである。しかし元は救護院であることを考えると、少しは巡礼者も泊めてくれてもよいのにと思う。とてもじゃないが宿泊費が高すぎる。スタンダードツインで一泊200ユーロというのは、一泊5ユーロが普通のアルベルゲなら40泊分、巡礼全部を賄える額である。もっともホテルとして考えれば、この歴史ある建物に2万5千円を支払うことで宿泊できると思えば決して法外な値段ではないのであろうが…。とはいえ、巡礼者には限定5人無料とか、70%offとかにしてもらいたいところである。

02パラドール 外観


03パラドール 回廊


04パラドール 図面


 レオンの現代建築についても触れておこう。
 カスティーリャ・イ・レオン現代美術館(略称MUSAC)は数千枚のガラスパネルを用いることで生まれたファサードが圧倒的なインパクトを残す。カテドラルのステンドグラスの色からインスピレーションを受けたと思われるカラフルなガラスパネルを巧みに配置し、ヨーロッパの年間最優秀建築に与えられるミース賞を2007年に受賞した。中世の街並みが色濃く残るレオンの町に、フレッシュさを加え、カテドラルとともにレオンのランドマークの一つになりつつある。

05カスティーリャ・イ・レオン現代美術館


06外観


07ガラスパネル


 レオン市音楽堂は形、位置、大きさがバラバラの窓が絶妙なバランスで配置され、フロアを区切るラインと組み合わせた構成は見事である。ファサードでありながら奥があることによって視線の角度を変えることに成功している。今回は残念ながら内に入ることはできなかったが、内部空間の光の入り方にも奥行きが現れることだろう。
 不規則性を水平線で統制し、一つの建築としてまとめ上げ、素晴らしいプロポーションを生み出していることから建築家の技量が現れている。

08レオン市音楽堂


09正面ファサード


10開口部


 設計はともにマドリッド建築学校を卒業し、モネオ事務所で修行を積んだルイス・M・マンシーリャとエミリオ・トゥニョンによる「マンシーリャ+トゥニョン」である。
現代のスペイン建築界を代表するデザイン・オフィスとして国際的に高い評価を受け、今後の活躍が期待されている矢先、2012年2月、ルイス・M・マンシーリャが52歳という若さで急死した。突然の出来事だった。バルセロナの天才建築家、エンリック・ミラーレスが45歳で亡くなったことを思うと才能あるものの急死には胸が痛む。

 ホテルのレストランでランチをとり、のんびりとした時間を過ごす。ハガキを書き、郵便局まで散歩に出かける。ポストに投函すればいいのであろうが、なんとなく不安であり、郵便局まで足を運ぶ。おそらく届くのだろうが、ここはスペイン、ラテンの陽気な国と聞けば聞こえはいいが、結構いい加減なところがある。スペインの最高級ワインの産地であるリオハのバルでは、グラスの縁が欠け、下手をすると口の中がワインとは違う液体で真っ赤になりそうなグラスでワインをサーブ(というよりは注ぐと言った方が正しいか)していた。ワインは美味しいのだから飲めばいいのだと言った気持ちだろう。そういう経験をしていると、たとえ郵便局といえ、どうしても心からは信用できない。まあ、それなら窓口に出しても同じだと言われそうだが。

11レストラン


12スープ


13ステーキ


 夜はバルをはしごし、美味しいワインをひたすら飲み、色とりどりのタパスをつまむ。レオンの夜は更けていった。

14パラドール前の十字架


15佇む巡礼者


歩いた総距離1028.8km
(はが げんたろう)


コラム 僕の愛用品 〜巡礼編〜
第23回 時計
TIMEX Weekender タイメックス ウィークエンダー 8.300円


 ミヒャエル・エンデは『モモ』の中で「時間とは生きるということそのものである」と表現している。時間とは何か。ここでその答えを求めるわけにはいかないが、今回の愛用品である時計とは密接に関わる。時計とは時間を刻むものだ。時間を可視化する道具が時計なのだ。
 TIMEX(タイメックス)は150年以上の歴史を持ち、その生産量から全世界の3人に一人が所有するとも言われ、アメリカの歴代大統領の愛用品としても知られている。歴史は古く、創業は1854年までに遡る。1880年、世界初の安価なポケットウォッチを発表し、全米のみならず、ヨーロッパでもベストセラーになる。その後わずか1ドルのポケットウォッチ「ヤンキー」を発売し、20年間で4000万本を販売。作家のマーク・トゥエインから鉱山労働者、農夫から工員、オフィスワーカーまで、あらゆる階層の人々のポケットに納まった。
 第一次世界大戦時には、軍からの要請を受け軍用腕時計を開発し、戦後、民間からも支持を集め、1920年代の大ヒット商品となった。
 最初は権威の象徴として、次には高価な宝飾品として、王族や貴族のものであった時計−今もヨーロッパの機械式高級腕時計はそうしたオーラを放っているが−を、誰もが手にすることのできるものとした功績は計り知れない。しかし、日の出と共に起き日没と共に床についていた人間にまで、始業時間と終業時間を知らせ、単位時間生産量を気にさせ、戦闘開始時間を告げる機械を身に着けさせることが人間を幸せにすることであったがどうかは、エンデの「モモ」ではないが―なお考えなければならないことかも知れない。
 ウィークエンダーは、タイメックスのミリタリーのテイストを残しながら、上品なケースとカラフルなナイロンストラップによってファッション性を獲得し、モダンに昇華させている。
 本体とベルトは留め具ではなく、上下にベルトを通して装着することでメンテナンス性を高めている。もともと使い捨てを想定しているミリタリーウオッチとしての仕様なのだが、腕に付けたときにもヒヤッとせず、ストラップの付け替えが簡単で、気分によって様々なストラップに取り替えるという使い方も可能である。
 巡礼でもナイロンストラップであれば軽く、気にならない。迷惑になるため部屋の電気をつけることのできない夜のアルベルゲでは携帯ライトが必要になる。その際にリューズを押すと文字盤全体が青く光るバックライト―かなり明るい―は懐中電灯の代わりになって便利である。
 様々な機能を盛り込んだスポーツウォッチも便利だろうが、私は時間がわかれば十分である。ストップウォッチ機能などは巡礼では必要ないだろう。必要かつ十分な機能があり、シンプルなこと。私が巡礼時に時計に求めることは基本的にそれだけである。

16


芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧めは、瑛九です。
2瑛九
「三人」
1950年
フォトデッサン
55.2x45.5cm
Signed


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◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
tokinowasuremono
緑豊かな青山のギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱い、毎月企画展を開催しています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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