芳賀言太郎のエッセイ

芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」第30回(最終回)

芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」


第30話(最終話) 栄光の聖地

11/4(Sun) Monte del Gozo – Santiago de Compostella (5.0km)
11/5(Mon) Santiago de Compostella (0km)
11/6(Tue) Santiago de Compostella – Negreira (22.4km)
11/7(Wed) Negreira – Olveiroa (33.1km)
11/8(Thu) Olveiroa – Finisterra (31.2km)
11/9(Fri) Finisterra (0km)

 7時に起床し、8時半に歩き出す。サンティアゴ・デ・コンポステーラ到着の日だからといって特に毎日のルーティーンが変わるわけではない。丘の上に立ち寄り、もう一度カテドラルの尖塔を見てから聖地に向かう。一歩一歩、道を確かめるようにして歩く。だんだんと聖地に近づいている。
 「サンティアゴ巡礼案内書」によれば「コンポステーラの町は、サールおよびサレーラなる二つの川に挟まれて建設されたものである。サール川は東側、喜びの山(モンテ・デ・ゴソ)と町との間を流れ、他方サレーラはその西側を流れる。街には七つの扉ないし入り口がある。その第一はフランスの門と言われる」(柳宗玄『サンティヤーゴの巡礼路』所収)とある。いずれも現存してはいないが、地名として残る「巡礼路の門」(ポルタ・ド・カミーニョ)がこの「フランスの門」つまり「フランス人の道」への門で、石畳の旧市街地はここから始まっている。狭い道のごちゃごちゃした旧市街地を抜けてカテドラルに到着する。

01モニュメント


 サンティアゴ・デ・コンポステーラ。広場に着き、カテドラルを正面から見上げると充実感が込み上げてきた。ただ、涙はなかった。感動していると言うよりもやっと終わった。明日は歩かなくていいと言う安堵感の方が強いのだろう。ただ、心は満たされている。今日もこれまで過ごしてきた日々とは変わらない。ただ、今日は目的地に着いたというだけである。

02カテドラル


 「巡礼案内書」には「この聖堂にはひび割れがなく、欠陥がない。見事な建築で、大きく、広く、明るく、各部分の調和がよく、長さ、幅、高さの比例もよく、石組みはえもいわれぬ見事な者で、王宮のように二階建ての構造である。建物の高い部分を巡回する者は、この聖堂の完全な美しさを見たあとは、悲しい心で登って来た人でも帰るときには幸福な気分で心慰められて辞去するのである」とある。
 この「巡礼案内書」の描く大聖堂は、1075年、司教ディエゴ・ペラーエスの時代にアルフォンソ6世(在位1065-1109)の命によって着工され、次の司教ヘルミーレスの時代に完成した12世紀のものである。その後増築、改築を繰り返して18世紀に現在のかたちとなるが、基本的な構造はこの時代のものが維持されており、その意味でロマネスク様式の会堂であるいといえる。特に、その平面プランは巡礼路様式の完成形と呼ばれ、その成立を巡っては美術史・建築史の上で多くの議論が重ねられてきた。
 この「巡礼路様式」という概念は、E・マールが11、12世紀のフランスの大聖堂とサンティアゴ大聖堂の建築様式の類似を説明するために導入したものである 。フランス各地からサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう主要な4つの道において、多くの巡礼者に効率よく聖遺物を崇敬させることを可能にする平面プラン、すなわち、大身廊、周歩廊、放射状祭室、周遊側廊を持つ大聖堂が存在すること、すなわち、トゥールの道にはサン・マルタン聖堂、リモージュの道にはサン・マルシュアル大聖堂、コンクの道にはサント・フォア聖堂、トゥールーズの道にはサン・セルナン聖堂がそれぞれ位置し、サンティアゴ巡礼という共通項の上に共通の特徴を持つ諸聖堂が建てられたことを主張した。また時を同じくして、キングスレイ・ポーターも、巡礼路の建築と彫刻に注目し、「巡礼路の建築様式」があり得ることを立論、巡礼路が、遠隔地間を一つの芸術概念で結ぶことを可能にしたと考えた。
 K・コナンは、サンティアゴ大聖堂の初期建築用式から、中央フランスの教会群との類似点を指摘した。他方、S・モラレーホは、これらの教会の建築様式の類似を承認する一方、それは機能に共通性があるための類似であるとし、J・ウィリアムズは、巡礼路聖堂が、聖人に献堂されたマルティリウムの場所に再建されたことを指摘して、それらが内部に聖遺物を保持するための建築物であったとする。結論は分かれるが、「巡礼路様式」が、中世の巡礼と密接に結びつき、聖人崇拝・聖遺物崇拝という宗教現象が目に見える形となった建築であったということは間違いない。

03入り口中央柱 聖ヤコブ像


04内部


 現在のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂のメインビジュアルである西正面ファサードは、フェルナンド・カサス・イ・ノーボアによるバロック様式のものであるが、中世から巡礼者を迎えてきた「栄光の門」は12世紀の彫刻家マテオが20年をかけて彫りあげたロマネスク彫刻の傑作である。
 三つの門の中央に位置するトリュモー(中柱)には、下から、キリストの系図を表現した「エッサイの樹」が彫られ、その上に使徒の姿の聖ヤコブ、そしてその上の大タンン中央に「栄光のキリスト像」が鎮座している。その左右には半分の大きさで足元に福音書記者マルコとルカ、肩口にマタイとヨハネが置かれ、タンパンの下半分には受難具(十字架、荊の冠、釘、酸い葡萄酒の入った水さし、海綿のついた棒)を手にした天使たち。上半分に最後の審判を聞く天国の人たちが描き出され、タンパンの周縁はぐるりと「ヨハネの黙示録」4章に登場する24人の長老が、様々な楽器を手にして取りかこんでいる。
 中に入り、身廊を進むと「ガリシアバロック」とも呼ばれるチュゲリア様式で豪華絢爛に飾られた主祭壇。ここには正面に「使徒姿の聖ヤコブ」その上に「巡礼姿の聖ヤコブ」さらにその上、天使たちの運ぶ金の絨毯の上に「戦士姿の聖ヤコブ」の姿を見ることができる。それは聖ヤコブ信仰の発展の姿を示すものではあるだろうが、巡礼の意味が大きく変化し、聖遺物のご利益を求めての旅から、巡礼という行為そのものを通して、象徴的に「死と再生」を求める求道の旅の側面を強くした現代のサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼においては、この大祭壇も地下のヤコブと弟子たちの墓もかつてのような威光を発揮することはできていないような気がする。

05祭壇


06銀細工師の門


 巡礼事務所で巡礼証明書をもらい、カテドラルのお昼のミサに出席する。
「ル・ピュイから日本人」、司祭がその日に到着した巡礼者の出身国と出発地を読み上げる。その瞬間に初めて巡礼を達成した実感が湧いてきたのだった。
 ボタフメイロはなかった。今日はそのための特別な寄進はなかったようだ。しかし、祝福は変わらないだろう。それが実感できる。

07巡礼事務所


 午後はゆっくりとホテルの部屋で休む。お世話になった人たちに無事に着いたことを知らせるメールを送る。

08サン・マルティン・ピナリオ修道院


09宿泊したホテル


 夕食はパラドールでの巡礼者のための賄いメニュー。先着10名の特別なもの。質素であるが、自分が巡礼者であることを実感できる。素晴らしい建築、空間。歴史がこれをつくったのだ。

10パラドール


11巡礼者用食堂


12巡礼者用賄いメニュー


 フィステーラについた翌日はスカッとする朝だった。海辺のカフェに入り、海を見ながらのんびりとコーヒーを飲む。巡礼も終わり心はすっかり楽になった。
 砂浜を散歩し、巡礼で使ったものを持って小さな海岸へ向かう。かつての巡礼者はすべての持ち物をフィステーラの海岸で燃やしたという。今までの自分から新しい自分に変わるため、過去を捨て去り、未来を生きるため。現代ではさすがにすべてを燃やすわけにはいかないので、Tシャツを燃やすだけにしておく。杖を砂浜に立て、燃える火を見つめていると長かった巡礼を思い出した。

13フィステーラ 


14最後の儀式


 夕方、灯台へと向かう。最果ての地フィステーラ、ここはヨーロッパの最西端であり、かつては世界の果てと呼ばれていた西の水平線に沈む夕日は美しく儚かった。ここには昔の自分はもういない。今までとは違った自分になるのだろう。ここではすべてが終わり、再生する。
 この巡礼の旅を終えて、自分は新しい自分に生まれ変わったのだろう。実際に何かが変わったわけではない、すぐに変わるわけではないだろう。しかし、きっといつの日か、この巡礼によって私は生まれ変わったのだと言える日がくるだろう。

15最終地のマーク


16最果ての十字架


17大西洋に沈む夕日


18旅の終わり


 灯台からの宿に向かう帰り道。日が沈み、闇に染まる空を見上げるとそこには満天の星が輝いていた。

歩いた総距離1576.7km
(はが げんたろう)


コラム いつか僕の愛用品にしたいもの 〜巡礼編〜
第2回 トレッキングシューズ CAMINO GT カミーノ ゴアテックス 39,000円


 なぜ今まで、この「僕の愛用品」に靴を書かなかったのか。それは、残念ながら私が巡礼で履いた靴が足に合わなかったからである。3ヶ月を共にした靴であったが、愛用品と呼べるものにはならなかった。靴擦れを起こし、足に豆をつくり、ローカットシューズだったので足首をひねったりした。それなりのメーカーのそれなりに値段もした靴だったのだが、相性が悪かったのだろう。だからこそ、今度、巡礼路を歩く際はもっと靴選びを重視するだろう。
 実際に履いたことのない靴についてかけることなどほぼない。しかしながら、カミーノと名前のつくこの靴を履いて巡礼を行うならば、多少の不都合が我慢することができ、愛着を持って歩くだろう。名前には力がある。ネーミングというのは大事なのである。

19LOWA CAMINO
LOWAのHPから転載
http://www.iwatani-primus.co.jp/products/lowa/210644.html


(はが げんたろう)

芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年神奈川県川崎生まれ。芝浦工業大学工学部建築学科にて建築を学び、BAC(Barcelona Architecture Center)にてDiplomaを取得。大学を卒業後、世田谷村・スタジオGAYAに6ヶ月ほど通う。
2017年立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程修了(神学修士)。
現在は立教大学大学院キリスト教学研究科研修生。
2012年に大学を休学し、フランスのル・ピュイからスペインにかけてのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
2016年には再度サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路を訪れ、フランスのヴェズレーからロードバイク(TREK1.2)にて1800kmを走破する。
立教大学大学院では巡礼の旅で訪れた数々のロマネスク教会の研究を行い、修士論文は「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路における聖墳墓教会」をテーマにした。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路にある数多くの教会へのフィールド・ワークを重ね、スペイン・ロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧め作品は、常松大純です。
20170511_tsunematsu05常松大純
《SUNTORY CRAFT SELECT I.P.A 限定醸造》
2015年
アルミ缶
作品サイズ:H10.0×W16.0×D6.0cm
ケースサイズ:H25.5×W25.5×D9.0cm
サインあり

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」第29回

芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」


第29話 歓喜の丘へ

11/1(Thu) Portmarin – Palas de Rei (25.1km)
11/2(Fri) Palas de Rei – Arzua (29.5km)
11/3(Sat) Arzua – Monte del Gozo(34.8km)

 早朝、橋のたもとまで降りてみる。橋が圧倒的な存在感を醸し出している。戦乱によってローマ時代の橋が破壊されたものを、1120年に巡礼者ペドロが再建したもので、いわゆるローマの水道橋――――特にスペインだとセゴビアのものは世界遺産でもあり、歴史的に由緒のある立派な建造物である――――とは時代、素材は全く異なる。しかし、それにも匹敵するような威圧感を私は覚えた。人間の力を強く感じた瞬間だった。

01ポルトマリン 橋


02


03


04バル


05十字架


06道2


07アルベルゲ


 パラス・デ・レイは人口800人ほどの村であるが、「王の宮殿」という名前の由来にあるようにかつてはビシゴート王国の宮廷があったとされている。しかし、実際にどのような宮殿があったのかはわかっていない。9世紀にアルフォンソ3世が建設したロマネスク様式のサン・ティルソ教会が残る。

08教会


09


10入り口


11内部


12内部2


13ステンドグラス


14出口


 ガリシアに入ると巡礼者をイメージしたキャラクター(ゆるキャラ)を頻繁に見かける。このキャラクターの名前はシャコベオといい、ガリシア州の聖ヤコブの聖年(聖ヤコブの祝日7月25日が日曜になる年)のマスコットキャラクターで、1993年の聖年に発表された。聖年ごとに顔やデザインがちょっとずつ変わっているらしい。

15シャコベオ


16アルベルゲ 入り口


17アルベルゲ 内部


18サンティアゴの噴水


19


 オレオHORREOとは、スペイン北西部(特にガリシア州)に広く存在するトウモロコシやジャガイモやなどを貯蔵する高床式倉庫のこと。湿気と食害を防ぐため、ねずみ返しのついた柱脚によってかなりの高さまで持ち上げられ、通気のためにスリットが施されている。地域によって材料は変わるようだが、ガリシア州では6本の石柱に石造の小屋が乗るのが一般的。その起源はキリスト教伝播以前のケルト文化に遡り、主食とする農産物に対する宗教的畏敬が背後にあるとも言われる。
 バーナード・ルドフスキーは『建築家なしの建築』の中でこのオレオを取り上げて「永遠の保存を目指して建てられたこの穀倉は、なによりもピロティに支えられた教会を思わせ、その厳しい輪郭によって人の目を引きつける。こうした威厳は決して偶然に生じたものではない。なぜなら、大部分の農民たちはパンとパンの原料に対して宗教的な敬意を抱いているからだ」と評し、「オレオは夜に散歩する」との民間伝承を紹介している。
 ルドフスキーの『建築家なしの建築』(原著1964年)が2008年にスペイン語に翻訳されたためもあるのか、こうした伝統的な建築の不動産価格が高騰しているとも言われる。このオレオを含め、カタロニア地方の天然スレート葺きのマシア、レバンテ地方の白壁に藁葺きのバラッカ、ラ・マンチャ地方の日干しブロックに松の小枝葺きの家、アンダルシア地方の地中の家、マジョルカの土壁にオリーブの梁を架けた家など、各地の民家建築に関心が高まり、都市生活者の週末住宅、あるいは別荘として再評価され、廃屋同然でありながら、バルセロナ市内で新築アパートの一室を購入できるほどの価格がついたりもするという。もっともこれらの民家は構造が頑丈なため、リノベーションすれば問題なく住居として利用が可能であるという。日本の古民家ブームもそうであるが、歴史性と地域性を失った、つるつるぴかぴかのユニバーサルスタイルへの異議申し立てがおこっているのだろうか。

20オレオ


21オレオ2


22オレオ3


23オレオ4


24オレオ5


25巡礼アート


26サンティアゴ十字

 ガリシアの名物料理の一つがプルポ・ア・フェイラ(Pulpo a Feira:お祭りのタコ)と呼ばれるガリシア風のタコ料理である。茹でたタコを粗塩とパプリカ、それにオリーブオイルのみで味付けしたシンプル極まりない料理だがこれが美味い。普通にバルでタパス(つまみ)として出てくるが、プルペリアという専門店もあり、特にこのメリデのプルペリアは有名である。衛生上どうかという声もあるようだが、この店ではしっかり伝統的な木の皿で供される。やはり伝統料理はこうでなくてはと思う。白ワインと合わせると大変美味である。

27プルペリア


28プルポ 調理


29プルポ


30残り50km


 早朝、強い雨が降っているので、少し待機し、雨が弱まってから歩き始めた。時には待つことも大切である。
 自分が歩いているのではなく、道が歩かせてくれていることに気付く。同じことを繰り返し続けることで見えてくるもの、理解できる感覚というものがあるのだろう。いわゆるゾーンの状態である。音楽も聞かず、自分の心の声に耳を傾け、道と対話し、自然の声を聞く。これが巡礼の本質なのだろう。最後の最後にこのことに気付いたのだ。こうして疲れを感じることもなく午前が過ぎた。

31道3


32シャコベオ2


33残り30km


 午後はその反動で一気に疲れが出てきた。悟りの境地というのは長続きしないものである。iPodのイヤホンを装着。聖書の時代のエルサレムへの巡礼者、旧約聖書の詩篇におさめられている都もうでの歌にあるのと同様、音楽の力を頼りにし、モチベーションを上げる。

34道4


35道5


 「歓喜の丘」を意味するモンテ・ド・ゴソ。写真などのない時代、サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指して長い巡礼の旅を続けてきた巡礼者たちは、ここで初めてサンティアゴ大聖堂の3本の尖塔を目にして歓喜の声を上げたと言われている場所である。
 ここには最大で800人が泊まれる巨大なアルベルゲがある。そのまま歩けば1時間で着くこの場所にあえて一泊するのは、午前中に到着してお昼のミサに与るため(お昼のミサは巡礼者のためのミサで、その中で巡礼者の出身国が呼ばれる)。見渡す限りに同じ形の平屋平屋根の建物がずらりと並ぶ。仕方がないのかもしれないが、なんとなく非人間的なものを感じてしまう。これではまるで収容所である。
 丘の上にあるサン・マルコス教会と対をなすように大きく特徴的なモニュメントが見える。これは1993年に建てられた、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の訪問を記念する、記念碑である。
 高台にはサンティアゴのカテドラルを指差した巡礼者の銅像が建っている。中世の頃には、丘に登ったそれぞれの巡礼グループの中で、最初にサンティアゴの尖塔を見つけた人は「王」と仲間内で呼ばれるようになったという。それが今でも残り、苗字として(仏Roy、西Rey)残っている。やっとここまで来ることができてよかったと心から思う。長かった。ここから見たサンティアゴの尖塔は忘れることはないだろう。

36モンテ・ド・ゴソ


37モンテ・ド・ゴソ2


38記念碑


39パネル


歩いた総距離1534.4km

(はが げんたろう)


コラム いつか僕の愛用品にしたいもの 〜巡礼編〜 

第1回 トレッキングパンツ ファイントラック カミノパンツ 15,660円


 だいぶ、このコラムの間隔が開いてしまった。正直なところ、愛用品についてのエッセイというのは何個も量産できるものではない。実際に使ってみないとわからないし、一度も身につけてないで愛用品なんて呼べるわけがないからだ。正直、巡礼のアイテムは聞き尽くしたと私自身は思っている。このエッセイも今回を含め、あと2回で連載を終える予定であるため、最後に2つだけ、いつの日かこのアイテムを手に入れて、愛用品にしたいと考えているものについて書きたいと思っている。
 カミーノとはそもそもスペイン語で歩くと言う意味であり、このエッセイのタイトルであるエル・カミーノもそれに由来する。巡礼者同士の挨拶はブエン・カミーノ良い巡礼をと言う挨拶が一般的であり、それは巡礼路というある種特殊な世界を共有する人々の共通言語でもあるのだ。
 カミーノ(カミノ)の名称を商品名につけたこのトレッキングパンツはファイントラックが登山者たちに向けたアウトドア商品である。
 ファイントラックは、2004年創業の日本のメーカーである。少年時代から登山一筋で、バックカントリースキー、MTB、カヤック、釣りなどアウドアスポーツであれば何でも壁を作らずに本気で「遊んで」きた創業者の金山洋太郎が「自分のアイデアで納得するものを創りたい」との思いから、長年働いてきた日本を代表するアウトドアメーカーから独立し、設立したのがこのファイントラック社である。
 素材セクションの責任者まで勤め上げた知識と経験をもとに、「遊び手が創り手」「どこにもないまったく新しいモノを」をコンセプトに、神戸の住宅地の一軒家からスタートし、現在に至っている。
 以前、この会社のナノタオルを愛用品で紹介したことがある。それもあって私はこのメーカーに愛着がある。
 「最高レベルの動きやすさ」「美しいシルエットの洗練」「収納力の向上」を目指して開発されたのが「カミノパンツ」である。「アウドドアにおける運動とは、ひたすら足の曲げ伸ばしである」ことを念頭に、そのためのストレス軽減を目指して工夫がこらされている。「多少寒くても脚上げが軽いので短パン」という層も少なくない春から秋のシーズンでの使用を前提に、強度を維持しつつ薄手のナイロン生地を使用し、長時間の歩行にもストレスにならないように工夫されている。ストレッチ系の糸を使わず、布地の織り方によってストレッチ性を生み出しているため通気性がよく涼しく、また乾きも早く、長年の使用によってもストレッチ性が失われにくいことを特徴としている。
 そのストレッチ性を最大限に生かすため、お尻から膝にかけて弧を描いたような独自の立体デザインによって縫製箇所を極限まで減らし、動きやすさを実現している。膨らみを抑えるためにカーゴポケットを廃して、ポケットの内部にキーループとコインポケットを設けるのみとし、代わりにヒップポケットが追加(メンズのみ)されるなどの工夫がされている。
 動いて熱と湿気の籠ったパンツ内を一気に換気するためのリンクベントが両サイドに設けられて長時間の歩行をサポートしている。また、細かなギミックも効いており、それが巡礼時にいかにも役に立ちそうである。
 カミノパンツが15,660円(女性用15,120円)、ハーフパンツが11,664円(同11,232円)と値段は張るが、長年の使用により低下した「耐久撥水性」を、再加工によって復活させる「撥水復活サービス」を3000円ほど(送料別)で受けることができることを考えると、長期間にわたって使用できそうである。
 このトレッキングパンツを履いて巡礼路を歩く。それはまさしく、歩くことを義務とし、日々の生活の一部となる巡礼者となることである。いつの日か必ず実現したいと思っている。

40カミノパンツ
ファイントラックのHPから転載
https://www.finetrack.com/


(はが げんたろう)

芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年神奈川県川崎生まれ。芝浦工業大学工学部建築学科にて建築を学び、BAC(Barcelona Architecture Center)にてDiplomaを取得。大学を卒業後、世田谷村・スタジオGAYAに6ヶ月ほど通う。
2017年立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程修了(神学修士)。
現在は立教大学大学院キリスト教学研究科研修生。
2012年に大学を休学し、フランスのル・ピュイからスペインにかけてのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
2016年には再度サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路を訪れ、フランスのヴェズレーからロードバイク(TREK1.2)にて1800kmを走破する。
立教大学大学院では巡礼の旅で訪れた数々のロマネスク教会の研究を行い、修士論文は「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路における聖墳墓教会」をテーマにした。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路にある数多くの教会へのフィールド・ワークを重ね、スペイン・ロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧め作品は、常松大純です。
20170511_tsunematsu05常松大純
《SUNTORY CRAFT SELECT I.P.A 限定醸造》
2015年
アルミ缶
作品サイズ:H10.0×W16.0×D6.0cm
ケースサイズ:H25.5×W25.5×D9.0cm
サインあり

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◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。

芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」第28回

芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」


第28話 ガリシアのアルケミスト

10/30(Thu) Triacastela – Montan (7.8km)
10/31(Wed) Montan – Portmarin (33.3km)

 セブレイロ峠を越え、ガリシア州に入ったとたん、急に緑が多くなった。山々の緑は濃く、巡礼路も木々によって覆われている。ガリシア州は年間を通して降雨量が多く、自然が豊かである。今朝も雨がしとしとと降り、日本の梅雨のような感じもする。
 トリアカステーラからサリアまでの巡礼路は2つある。一つはリオカボ峠(Alto de Riocabo:標高905 m)を越える山の道、もう一つはオリビオ川沿いを行き、由緒あるサモス(Samos)修道院を経由する谷の道である。前者は18kmと距離が短いが標高差があり、後者は比較的平坦ではあるが23kmと距離が長いのが特徴である。
 私は前者を選んだ。最初はサモス修道院に行くつもりであったが、二つの道が分かれるところでなんとなく右の道を選んでしまった。アスファルトの道を歩くのが嫌だっただけかもしれないが、なんとなく右のトレッキングルートのような山道に魅かれるものを感じたのである。

01


 途中で不思議な看板の出ている建物を見つける。アルケミストの家。アトリエ兼ギャラリーのようだ。主人はアントニオ。他に3人の若者とともに共同生活を営んでいる。鉱石を砕き、その粉末でキャンバスに絵を描く。アルケミー:錬金術と、ミスリル:伝説上の金属をかけて、アルケミスリルと看板には書いてあった。カルマの部屋と名前の付けられた特別な部屋に案内される。彼の小さな祈りの部屋である。空間にエネルギーを感じ、心が満たされる。この特異な場所に惹かれ、1日泊めてもらえるようお願いする。インゲン豆の収穫を手伝い、自給自足の共同生活の一端に触れる。言葉は不自由ではあるが、若い人たちと仲良くなり豊かな時間を過ごす。夜は満天の星空、地球を感じる。ひょっとするとこれが現代の修道院なのかもしれない。

02看板


03アルケミストの家


04ギャラリー


05カルマの部屋


06工房


07工房2


 サリアは12世紀末、それまでは要塞を中心とした小さな集落であったこの地に、レオン王アルフォンソ9世が開いた町である。アルフォンソ9世は1230年にサンティアゴ巡礼へと旅立ち、その途上このサリアの町で亡くなったそうだ。 
 旧市街のメインストリートであるマヨール通りを上り詰めた所に、12世紀から13世紀にかけて建てられたサン・サルバドール教会がある。西側の入口はゴシック様式だが、北側の入口はロマネスク様式である。教会のすぐ側には、12世紀に建造されたとされるサリア城があるが、今日現存するのは高さ14mの塔のみである。
 近くには、13世紀に創建されたかつての救護院、マグダレナ修道院がある。ロマネスク様式の部分も残されているが、全体としてはゴシック様式であり、ファサードと塔が18世紀のバロック様式であるため、外観からは比較的新しい建物の印象を受ける。
建物内に人は少なく、修道院らしい神聖な雰囲気を保っていた。回廊には植木鉢なども置かれ、修道士たちの生活を実感できる修道院である。

08サリア


09壁画


10町の巡礼路


 ここでサンティアゴ・デ・コンポステーラまで残り114km。巡礼証明証をもらう場合は徒歩で100km以上歩くことが条件になるので、これまではバスやタクシーを併用しながらの巡礼者もこの町からは歩くことが必要となる。そのため、ここからは巡礼者の数もグンと増える。また、この町から歩き始める人も多い。だからサリアにはアルベルゲの数も多く、現代のサンティアゴ巡礼の拠点の趣がある。巡礼者にも若い人が増える。サリアからの100kmあまりの巡礼は、学生の旅行にはちょうどいいようである。

11道3


 こちらの100kmモホンもまた記念の落書きで埋め尽くされていた。その下にはメッセージを記した小石が積まれ、ちょっとしたモニュメントのようになっている。記念撮影をする人も多いのだろう。

12残り100km


13道4


14バル


15アクセサリー


 ポルトマリンは、現在は丘の上に位置しているが、かつてはミーニョ川のたもとにあった。1960年代に下流でベレサール・ダムが建設された際に現在の位置に移転した経緯を持つ。
 ポルトマリンという名前が示す通り、最初はローマ時代にミーニョ川の港として開かれた。中世にはサンティアゴ巡礼の経由地として栄え、12世紀の初めに架けられた石橋や、12世紀から13世紀にかけて建てられたサン・ニコラス教会が存在する。ダム建設の際に教会は移築されたものの、石橋はダム湖に沈み、現在は水位の下がった時にのみ見ることができる。サン・ニコラス教会は新しい町の中心にある公園に置かれ、今も教会堂として用いられている。しかし、私にはなんとなくモニュメントのような感じがしてしまう。むしろ湖に沈んだ石橋の方がはるかに建築物としての存在感があったのではないか。ゲニウス・ロキ(地霊)を失った建築は、もはや建築ではなく、記念碑になってしまうのではないか。もちろん、記念碑として存在することに意味もある。しかし、移築されずそのまま湖底に沈んでいた方が、サン・ニコラス教会はより強烈な存在感を人の心に残したのではないだろうか。

16ポルトマリン 入り口


17ポルトマリン


18ポルトマリン 街中


19サン・ニコラス教会


20教会内部


21祭壇


歩いた総距離1445.0km

(はが げんたろう)

芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年神奈川県川崎生まれ。芝浦工業大学工学部建築学科にて建築を学び、BAC(Barcelona Architecture Center)にてDiplomaを取得。大学を卒業後、世田谷村・スタジオGAYAに6ヶ月ほど通う。
2017年立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程修了(神学修士)。
現在は立教大学大学院キリスト教学研究科研修生。
2012年に大学を休学し、フランスのル・ピュイからスペインにかけてのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
2016年には再度サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路を訪れ、フランスのヴェズレーからロードバイク(TREK1.2)にて1800kmを走破する。
立教大学大学院では巡礼の旅で訪れた数々のロマネスク教会の研究を行い、修士論文は「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路における聖墳墓教会」をテーマにした。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路にある数多くの教会へのフィールド・ワークを重ね、スペイン・ロマネスク教会の研究を行っている。

◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。

●今日のお勧め作品は難波田龍起です。
難波田龍起コラージュ1974難波田龍起
「コラージュ」
1974年
紙にグワッシュ、コラージュ
16.9×14.9cm
サインあり
裏にサインと年記あり

難波田龍起_作品_600難波田龍起
「作品」
1975年
色紙に水彩
イメージサイズ:22.0×20.0cm
シートサイズ:27.0×24.0cm
サインあり
裏に年記あり

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」第27回

芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」


第27話 ケルトと伝説の残る村を超えてガリシアへ

10/28(Sun) Villafranca del Bierzo – O Cebreiro (27.1km)
10/29(Mon) O Cebreiro o – Triacastela (21.1km)

 今日でサマータイムは終わり、スタンダードタイムに戻ることになって少しホッとする。サマータイムも夏なら良いが、10月の後半にもなるとその恩恵にあずかれなくなるからである。10月にサマータイムを用いると朝は7時なのにまだ夜が明けていない(実際は6時なので)ということになる。特に巡礼者の朝は早いため、真っ暗の中、出発するのはなんとも辛いものがあるためである。
 ビジャフランカ・デル・ビエルソから先は道路沿いの坂道が続く。川が流れ、空気が澄んで気持ちが良い。ベガ・デ・バルカルセ、ラス・エレーリアス、ラ・ファバなどの村を超えて高度を上げながら、オ・セブレイロまでの標高1320mを登っていく。

01
ビエルソの町の交差点


02巡礼者像
ビエルソの町の出口にある


03道2
道路沿いの山道を登る


04道3
高速道路の下を進む


05道4


 途中、ブラジル人が運営している陽気なアルベルゲがあったり、落ち着いたカフェがあったりと、小さい町にもほぼ巡礼者用のカフェや宿があるため、休憩や水や食料の補給に困ることはない。登りに備えて休みながら進んでいく。

06アルベルゲ
壁に大きく黄色い矢印が描かれている


07教会


08教会 内部


09道5


10山の風景


 ガリシア州に入って最初の小集落、オ・セブレイロは標高1300mにあり、あたりの風景は一変する。この村の歴史は中世より昔に遡り、ケルトの文化が息づいている。家々は、いずれも石造りで屋根はスレート葺きと、昔ながらの伝統的な様式を保っている。バジョッサと呼ばれる藁葺屋根の円形家屋もいくつか残っている。これはローマ以前、ケルト人の時代から用いられてきた伝統家屋で、人と家畜が同じ屋根の下で暮らすのが可能な内部空間を有している。冬の寒さが厳しく、降雪の多いこの地方特有の居住形態であり、現在は倉庫や物置として使われているものが多いという。そして、ここにあるサンタ・マリア・ラ・レアル教会は現存する巡礼路上の教会の中ではもっとも古く、9世紀に建てられた。そしてこの教会は中世の伝説を今に残している。
 とある天気の悪い冬の夜に一人の信仰深い農夫がミサに出席するためにこの教会に足を運んだ。すると神父は、こんな吹雪の中、わざわざ教会までやって来たこの農夫をあざ笑った。ところが、ミサの際にワインはキリストの血に、パンはキリストの肉体に変わり、盃からは血が溢れたという。これが聖晩餐の奇跡として語り継がれ、現在でも毎年9月9日に聖晩餐の祭りが行われている。そして、このときの盃などの聖遺物は、1486年にイザベラ女王がこの地を訪れた際に寄進した銀製の聖遺物箱に入れられて、現在も教会に保管されている。
 これはあくまで伝説であるが、キリスト教の信仰においては極めて示唆的な内容である。信仰とはすなわち信じることである。信仰のない神父と信仰のある農夫。信仰と言うのは立場によって形成されるものでは決してなく、信仰という目には見えない思いが形になるという一つの奇跡を今に伝えているのである。
 また、オ・セブレイロの司祭であったエリアス・バリーニャ司祭は、巡礼者のために黄色い矢印を巡礼路に描き、修道院の離れを修復し、巡礼者を受け入れるアルベルゲの運営を始めるなど、20世紀の巡礼路復興に大きく貢献した人物である。9世紀に始まり12世紀に最盛期を迎えたサンティアゴ巡礼であるが、その後も絶え間なく人々が歩き続けたわけではない。宗教改革で大打撃を受け、近世にペストの流行や戦乱が続いた事で、長らく衰退の時期があった。復活したのは20世紀の半ば、エリアス・バリーニャ神父がた巡礼路を再び切り拓き、その目印として黄色い矢印を描き、巡礼路は再生していった。エリアス・バリーニャ神父は現代におけるサンティアゴ巡礼の礎を築いた人物なのである。彼を記念して巡礼に関して貢献した人物や組織に与えられる賞には彼の名前が冠され、エリアス・バリーニャ賞は巡礼に携わる人の間では最も栄誉のある賞となっている。

11セブレイロのアルベルゲ


12アルベルゲ エントランス


13サンタ・マリア・ラ・レアル教会


14サンタ・マリア・ラ・レアル教会 内部


山の朝は冷える。山道を下り峠の巡礼者のモニュメントを通り過ぎ、先へと進む。小さな村のとある家の前には手作りの木の杖が道ゆく巡礼者のために置かれていた。古の巡礼者はこのような杖というより木の棒を片手に歩き続けたのだろう。

15巡礼者2
右手に杖を持ち、左手は帽子を抑えている


16杖置き場


17道6


 ところどころにある集落には、どこも山小屋のようなアルベルゲ兼カフェがある。なんとも落ち着く場所であり、このような宿に泊まるのも良いものだと思うが、今回はカフェでコーヒーを飲むだけにして先へ進む。

18山小屋風アルベルゲ


19リビング


20カフェ


 トリアカステーラのサンティアゴ教会はロマネスク時代の教会に1790年になって塔が増築された。周りの平坦な土地に突き出た鐘楼は印象的である。

21サンティアゴ教会


22サンティアゴ教会 内部


 アルベルゲでくつろぎ、ゆっくりと過ごす。小さな村なので特に何もない。夕食はアルベルゲのキッチンでスパゲッティを自炊し、スーパーで購入した3ユーロのワインを飲んだ。

23トリアカステーラのアルベルゲ


24アルベルゲ 内部


歩いた総距離1404.9km

(はが げんたろう)

芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●本日のお勧め作品は小野隆生です。
小野隆生_肖像画・啄木小野隆生
《肖像図 啄木》
1980年頃
油彩テンペラ
イメージサイズ:33.5×24.0cm
フレームサイズ:38.8×30.0cm
サインあり


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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。

芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」第26回

芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」


第26話 テンプル騎士団の拠点から赦しの門へ

 マンハリンで一夜を過ごし、朝を迎える。山の朝は空気がピンと張りつめて気持ちの良いものである。登山の魅力は自分の足で登り、頂上に立つことだろうが、朝を山の上で迎えることもそれと等しく魅力的なことであると思う。山であろうが海であろうが、自然の中で日の出を享受することは人間にとって必要なことなのかもしれない。
 朝日を背に受け、次の町を目指して峠を下る。

01山の朝


02


03岩場


 いくつかの小さな村を通り過ぎ、山を下り終えるとモリナセカに着いた。この町は峠を越えた巡礼者にとってはホッと一息つけるオアシスのような場所なのだろう。7つのアーチがかかる中世の「巡礼者の橋」を渡れば村の入り口である。
 日本とも関係があり、ここのアルベルゲのオーナーがかつて四国八十八カ所巡礼を行ったことなどから今は香川県の歌津町や愛媛県の愛南町と町ぐるみの交流があるようである。

04モリナセカ


05巡礼像


06道2


 ポンフェラーダはローマ時代にさかのぼる歴史と由緒のある巡礼の街である。ここには12世紀に建てられたテンプル騎士団に由来する城が残っている。
 ポンフェラーダとは「鉄の橋(Pons Ferrata)」という意味であり、巡礼者の増加に伴って1082年にアストルガの司教オスムンドがそれまで木製であったシル川の橋を、この周辺で採掘される鉄を使って補強するように命じた事に由来している。今でこそ鉄の橋は珍しくないが、当時において橋は木や石でつくられることが一般的であり、鉄の橋は豪華なものであった。鉄の豊富な地域であり、なおかつ国力のある場所にしか鉄の橋をつくることができなかったことを考えると、当時のボンフェラーダがいかに栄えていたのかが想像できる。
 ポンフェラーダ城は1178年にレオン国王フェルナンド2世がテンプル騎士団にこの鉱業と商業の町を守るよう防備令を出し、城を築かせたものである。その後、1312年にテンプル騎士団が解体させられるまで、ポンフェラーダ城はテンプル騎士団の拠点として機能し、巡礼者の警護を請け負っていた。
 テンプル騎士団の解体後はレオン王国によって管理されたが、19世紀には石材の不足に対応するため、一部が取り壊されたりもした。しかし、近年に修復が行われ、中世当時の城が再現され、見る事ができる。城内の一部には博物館もあり、テンプル騎士団ゆかりのアイテムを見ることもできる。城内を散策することもできるため入場料を払う価値はある。

07テンプル騎士団の城


08入り口


09サン・アンドレス教会


 ポンフェラーダから先はぶどう畑が広がる道を歩いていく。ここビエルソ地方は近年、おいしいワインで注目を集めている。固有のぶどうの品種であるメンシアを用い、オリジナリティのあるワインを生み出している。このメンシアは中世にサンティアゴ・デ・コンポステーラへと向かう巡礼者によってもたらされたとも言われるが、山間という立地もあり、固有品種としては注目されてこなかった。しかし2000年代以降、新進気鋭の生産者によって注目を集め、現在では、注目を集める産地の一つとなっている。
 道の途中、木から帆立貝の彫刻を彫っている青年と出会った。思い出として一つ買うことにした。この木彫りの帆立貝を見るたびにこの時の記憶を思い起こすことになるのだろう。

10道3


11木工職人
木から一つ一つ帆立貝を掘っている


12道4


13ぶどう畑


 ビジャフランカ・デル・ビエルソには巡礼者にとって大切な教会がある。町の入り口にあるサンティアゴ教会は12〜13世紀につくられたロマネスクの教会であるが、そこには、ここまでくればサンチャゴ・デ・コンポステーラに到達できなくても巡礼が果たされるとされた「許しの門」があるからである。その昔、巡礼が今とは異なり大変に困難であった頃、病や怪我を負い、これ以上の巡礼の継続が困難な巡礼者に対してサンティアゴ教会の赦しの門が開かれ、そこをくぐるとサンティアゴ・デ・コンポステーラにある聖ヤコブの墓を詣でたことと同等の価値のある巡礼証明書が与えられた。なぜ、それほどまでに巡礼を証明することが必要なのかということについては当時のローマ・カトリック教会の教義が大きく関係している。
 聖ヤコブの祝日である7月25日が日曜日に当たる年は聖年と呼ばれ、6、5、6、11年の周期で訪れる。この年に聖ヤコブの墓を詣でると全ての罪が赦されるとされた。そのことから、多くの人々がこの聖年に当たる年に、西の果てのサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指した。
 巡礼路の整備も巡礼の装備も十分ではなく、食事も質素だった当時においては、サンティアゴ・デ・コンポステーラに辿り着くことは非常に困難であった。さらに昔は降雪量も多く、雪でセブレイロ峠を越えることができなかったり、雪解け水で巡礼路自体が閉ざされたりする事があった。巡礼路の再開を待つうちに路銀の尽きる場合もあったに違いない。そのため12世紀前半から教皇の命によって、セブレイロ峠のふもとのこの町にある赦しの門をくぐることで、サンティアゴ・デ・コンポステーラの聖ヤコブの墓を詣でた場合と同様に全ての罪が赦されるとされるようになったのである。現在では特別な時にしか開かない許しの門であるが、ロマネスクの美しいプロポーションのアーチと彫刻が見事である。

14サンティアゴ教会


15赦しの門


 アヴェ・フェニックスはオーナーでありオスピタレロであるハト夫妻が中心となって労力と資金を提供し、巡礼者のボランティアと共につくり上げたセルフビルドのアルベルゲである。建設途中に一度火事に見舞われるという困難に直面するも、再度、力を合わせて建設を続け、その名の如く新たに蘇ったアルベルゲである。

16アヴェ・フェニックス 外観


17マーク


18アヴェ・フェニックス 中庭から建物を望む
太陽光パネルも設置されている。


19中庭


 このアヴェ・フェニックスは、昔の巡礼救護所跡に建てられたものであるが、まるで小さな山小屋が利用者の増加に伴い増築を繰り返し、徐々に規模が大きくなったようなアルベルゲであり、そこここに手の痕跡が残っている。この場所で生活するために必要なものは何かということが根本にあり、それに対する答えとして、必要な部屋や機能が一つ一つ付加されていったように思う。そして、その結果として現在の姿になったのだと感じる。巡礼者のための宿をこの場所につくること、その本質がぶれることなく、日々、巡礼者と共に生活することによって必要な要素が生まれ、それが付加されていく。不要になった要素は削られて必要なものに取り代えられる。それを体現しているのがこのアヴェ・フェニックスであり、だからこそ魅力的なアルベルゲなのだろう。

20洗濯物


21洗い場


22リビング


23屋根裏


歩いた総距離1356.7km
(はが げんたろう)

芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧めは、靉嘔です。
20170111_ayo_65_tsuru靉嘔
「つる」
2002年
シルクスクリーン
22.0x16.0cm
Ed.200
サインあり

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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

本日の瑛九情報!
〜〜〜
ときの忘れものは2011年9月に開催した「第21回瑛九展 46の光のかけら/フォトデッサン型紙」の折に、出品全46点の型紙の裏表両面を掲載した大判のポスター(限定200部、番号入り)を製作しました。
poster_A_600瑛九展ポスター(表)
限定200部
デザイン:DIX-HOUSE
サイズ:84.1x59.4cm(A1)
価格:1,500円(税込)
+梱包送料:1,000円


poster_B_600瑛九展ポスター(裏
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瑛九の造語である「フォトデッサン」は、先行するマン・レイやモホリ=ナギが印画紙上に物を置き、直接光をあてて制作した「フォトグラム(レイヨグラム)」と同じ技法ですが、これに自らの進むべき道を見出した若き日の瑛九の自負をうかがわせる言葉であると言えます。マン・レイたち先行者と異なり、瑛九は自ら切り抜いた「型紙」を使って膨大な点数を制作しました。その作品群を見れば、それらが絵画性の強い独創的なものであったことは一目瞭然です。瑛九が「型紙」に使ったのは、普通の「紙」や 「セロファン」のほかに、一度は完成させたフォトデッサン(印画紙)を次の作品を作るために「型紙」として切り抜いてしまったものも多数存在します。 従来は、「フォトデッサン」の失敗作を「型紙」に転用したと言われてきましたが、ときの忘れものが入手した46点からなる「フォトデッサン型紙コレクション」の中には、きちんと瑛九自筆のサインや年記が記入されているものも少なくありません。 失敗作などではなく、完成作品を惜しげもなく、切り抜いてしまったのはどのような意図だったのでしょうか。 それら型紙に鉛筆で下書きされた線や切り抜いたラインからは、瑛九の手の痕跡が感じられます。まだ残部がありますので、どうぞお申込みください。
〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。

芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」第25回

芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」 第25回


第25話 鉄の十字架を越えて 〜中世の巡礼を体感する〜

10/25(Wed) Astorga - Manjarin (30.9km)

 アストルガから先は峠越えが待っている。イラゴ(Irago)峠は別名「マーキュリーの丘」とも呼ばれ、標高1530mの巡礼路の最高到達地点である。この峠は夏でも霧に覆われ、天候が激変する難所である。

 巡礼路沿いに小さな教会がある。入り口部分の庇は巡礼者の日除けと雨宿りのためだろう。ベンチも置かれている。横には水道があり、巡礼者の水筒を満たしてくれる配慮がある。モニュメントには各国の言葉で「信仰は健康の泉」と書かれていた。

01教会


02モニュメント


 アストルガ以降、アルベルゲや巡礼者向けのバルが増えているように感じる。アストルガからスタートする巡礼者が多いのだろう。アストルガからサンティアゴ・デ・コンポステーラまでは徒歩で約2週間の行程である。このぐらいがちょうど良いのかもしれないと思う。体力の問題もあるだろうし、巡礼の前後を含めて考えると、夏のバカンスや休暇などを使っても、巡礼そのものは2週間ぐらいがヨーロッパでも限度なのだろう。
Murias de Rechivaldo、Santa Cataline de Somozaと雰囲気の良いバルが続き、温かいカフェ・コン・レチェとスペイン風オムレツを食べながら休息を挟む。その際にスコットランドから来たという巡礼者と仲良くなり、途中まで一緒に歩いた。

03十字架


04
黄色い矢印が巡礼路を示す


05


06青い扉の家


07アルベルゲ


08虹の十字架


09道2


 ラバナル・デル・カミーノに着いた。ここは人口50人ほどの村である。この先から本格的にイラゴ峠越えになるため、ここで一泊し、明日に備える巡礼者も多い。
 時間が正午に近く、お腹も空いていたため、ここで昼食にする。巡礼者用のメニュー(定食)ではあるが、スープとフィレ肉のステーキであり、なかなか美味しかった。ラバナル・デル・カミーノ

10ラバナル・デル・カミーノ


 フォン・セバドンに向かう道は徐々に勾配は増し、道も荒れてきた。標高が上がるにつれて霧が立ち込め、気温も下がってくる。

11道3


 フォン・セバドン、ここはかつて人の住まない廃村であり、野犬の多い難所として知られていた。今でもところどころに打ち捨てられたままの民家が残る。場所によっては廃墟のような様相を呈し、寂しい集落ではあるが、現在は巡礼者が増加したことにより、バルやアルベルゲが出来つつある。巡礼によって経済的に回復し、村や町が復活する顕著な例であろう。

12十字架2


13フォン・セバドン


 フォン・セバドンを過ぎると、標高1530mのイラゴ(Irago)峠越えとなる。巡礼路の最高標高地点であり、夏でも霧に覆われる難所である。別名「マーキュリーの丘」と呼ばれるが、これはキリスト教が伝えられる以前、ローマ神話で商人・旅人の守護神とされたメルリウス(英語読みでマーキュリー)がここに奉られていたことに由来する。
 積み上げられた無数の石によって小高い丘が形成されている。その家に木の柱がそびえ立ち、先端には鉄製の十字架が置かれている。これがCruz de Ferro「鉄の十字架」である。十字架を支えている丘の石は巡礼者が積み上げたものである。故郷や途中の巡礼路から持参した石を願いや祈りを込めてここに積む(私は近くの広場の石を置いた)。巡礼者たちの思いの込められた大切な場所なのである。まさに、ここに地霊は宿るのだろう。

14鉄の十字架


15鉄の十字架2
各国の旗や石が無数に置かれている


16十字架3


 イラゴ峠を越えて緩やかな下り道をマンハリンに向けて下る。ここには一軒の私設のアルベルゲがあるだけであるが、ここはある意味、巡礼路において一番有名なアルベルゲかも知れない。建物はセルフビルドでつくられ、山小屋のようである。むしろ、これこそが山小屋であり、ここには電気も水道もない。「最後のテンプル騎士団員」と呼ばれるオスピタレロのトマスが巡礼者のために泉に水を汲みに行き、食事を作る。霧の深い日には鐘を鳴らして巡礼者たちを導き、励ます。夕食はテーブルに置かれたランプの灯りに巡礼者たちが集まり、トマスと食事を共にする。廃村であったマンハリンに一人移住し、手作りでアルベルゲを作ったトマスはこうした生活を何十年も続けているのだろう。

17マンハリン


18トマスのアルベルゲ


19トマスのアルベルゲ2
セルフビルドによる建築


 ちなみに「テンプル騎士団」は、第1回十字軍(1096-1099)の終了後、ほとんどの参加者が帰国する中、聖地の守護と巡礼者の保護を目的として活動を開始した騎士修道会である。トマスが団員以外には秘密とされた入会儀式を経た団員であるかどうかは聞けなかったが、少なくともその精神においては紛れもない「テンプル騎士団員」であることは間違いないだろう。

20巡礼グッズ


21看板
各国までの距離が記されている


22屋根裏


23本日の寝床


 このイラゴ峠の頂上付近での水も電気もないアルベルゲでの1日は、中世の巡礼者と同じ環境を疑似体験することができたように思う。かつての巡礼者は毎日このような―それどころか野宿を含むさらに大変な―日々を過ごしながら、サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指したのだろう。周りを山々に囲まれ、遠くを見つめると日常の世界との乖離をより強く感じる。このサンティアゴ巡礼それ自体も一つの世界を形成しているものであるが、そこはどこまでも普通の人が普通に生活をしている町や村であり、実世界との関係性は保たれている。しかし、ここマンハリンはもはや修行のために山籠りをするような場所であり、それゆえの神秘的なエネルギーをこの場所が保有しているようにも思われた。

24風景


25リビング


26夕食
パンとサラダ


27夕食2
豆のスープ


歩いた総距離1288.5km
(はが げんたろう)

芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧めは、靉嘔です。
20170111_ayo_65_tsuru靉嘔
「つる」
2002年
シルクスクリーン
22.0x16.0cm
Ed.200
サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

本日の瑛九情報!
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瑛九の会の機関誌『眠りの理由』を順次ご紹介しています。
6-7『眠りの理由 No.6、7合併号』
1968年6月20日 瑛九の会発行
(編集発行 尾崎正教)
102ページ 25.3×17.8cm
目次は無し
瑛九伝ー誕生・幼少年期・混沌期ー山田光春

〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。

芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」第24回

芳賀言太郎のエッセイ  
「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いたサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路1600km」 第24回


第24話 アストルガ 〜チョコレートとガウディ〜

10/23(Mon) Leon – Hospital de Orbigo (32.4km)
10/2r4(Tue) Hospital de Orbigo –Astorga (16.5km)

 ここ数回は特別編を記載しており、最後にこのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼のエッセイを書いたのは夏であったのに、もう冬になってしまった。ときの忘れものからの帰り道で通る表参道も煌びやかなイルミネーションに覆われている。このイルミネーションを見ると、年の瀬が迫っていることを実感する。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路をこの季節に巡礼する人はほぼいない。冬のピレネー越えなどもはや雪山登山であり、素人には不可能である。しかし、冬の巡礼路というのもまた違った世界が存在していることだろう。もし、この時期にサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路に行くようなことがあるとすれば、私は迷わずレンタカーを選ぶだろう。

 レオンは大きな町だが、市街地には巡礼路を示すマークがところどころにあるため、道を見失う心配はあまりない。橋を渡り、市街地を出ると、あとは幹線道路沿いに進んで行くことになる。

01レオン市街地から抜ける橋


02マーク


03レオンから先へ


 途中、現代的な教会を見つける。中世の教会ばかり見てきた私にとっては逆に珍しく、シンプルな立体によって構成された外観とモダンな内装と窓によってつくられた内部空間は新鮮であった。特に印象的だったのは入り口に設けられた巡礼者の彫刻でなんとも言えない雰囲気を醸し出していた。これまで多くのロマネスクの石の彫刻を見て、この現代的な鉄の彫刻を見ると抽象的な表現ながらも人間の輪郭や杖と本(おそらく聖書)といった部分はしっかりとリアリティを感じるデザインになっていると思われた。

04教会


05教会内部


06彫刻


 オスピタル・デル・オルビゴに向けて道路沿いの道をひたすら歩いていく。途中には巡礼者の彫刻が置かれており、アートとして捉えることもできる。

07


08道2


09巡礼者彫刻


10巡礼者彫刻2


 オスピタル・デル・オルビゴの村に入る手前には長い橋がある。8つの橋脚と19のアーチを持ち、橋桁の長さは250mに及ぶパッソ・オンロッソ橋(Puente del Paso honroso)である。17世紀にルネサンス様式で架け直された部分もあるそうだが、ほぼ13世紀のものを残しており、一部は10世紀から11世紀にまで遡る可能性がある。もっともオルビゴ川がそれだけの川幅をもっているわけではなく、上流にダムが造られたことによって現在はその大部分は河川敷となっている。この橋には一つの伝説が残っている。
 1434年、中世の習わしに従ってレオノール・トパールを心の姫としたレオン出身の騎士ドン・スエロ・デ・キニョネスは、その愛の証として王の許可のもとこの橋を通ろうとするものと戦い、1ヶ月の間誰もこの橋を渡らせないか、300本以上の槍を折る(つまり勝利する)と宣言した。そして7月10日から8月9日まで、この噂を聞いてヨーロッパ中から集まった挑戦者たちと9人の騎士と共に戦い、ついに1人として橋を通さず、その誓いを守ったという。姫君から金のブレスレットを賜ったドン・スエロは、サンティアゴ巡礼の旅に出て、レオノール姫の腕輪をサンティアゴの大聖堂に奉納したと言われる。
 このドン・スエロの伝説は「パッソ・オンロッソ(名誉の歩み)」という名でヨーロッパ中に広まり、名誉を掛けて戦った中世騎士の物語として語り継がれた。現在、この町では6月に盛大な祭りが催され、当時の騎士試合が再現されるという。
 ちなみにオスピタル・デ・オルビゴの町自体も橋と同じく古い歴史を持ち、元はマルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)が設立した巡礼者のための救護院を中心に発展したという。町の名にオスピタル(救護院)がついているのはそのためである。
 現在の川の幅と比べると、結果として必要以上の長さになっている。しかし、その余剰部分に魅力を感じるのも事実である。中世から現代にかけての時間の流れを橋を渡るという行為を通して感じさせられた場面であった。

11オルビゴ橋


12アルベルゲ


13アルベルゲ 中庭


14夜のアルベルゲ


 翌日、オルビゴ橋のたもとの河川敷に降りてから巡礼をスタートする。丘を越えてアストルガに向かう。

15道3


16目印


17アルベルゲ2
ストーンサークルはまるでパワースポットのようである


18丘の上
眼下にアストルガの街が見える。


 アストルガは古代ローマ時代より交通の要所として栄えた町であり、当時の遺跡や城壁も残っている。当時、北スペインで豊富に産出した銀などの鉱物資源は、大西洋に面するヒホンからこのアストルガを通りセビージャに至る「銀の道」を通り、グアダルキビル川によって地中海に出てローマへと運ばれた。その繁栄はスペイン最初の司教座の一つがこのアストルガにおかれるほどであったが、その後は一時衰退する。しかし、サンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼路の発展に伴って再興する。
 現在は人口1万2千人ほどの都市であるが、至る所にチョコラテリア(チョコレート店)があり、「チョコレート博物館」まであるのは、この「銀の道」を通ってカカオが持ち込まれていたからである。
 現在のアストルガのカテドラルは1471年に建造が開始されたものの、完成したのは18世紀である。そのため、後期ゴシック様式の身廊、ルネサンス様式の2つの礼拝堂、バロック様式の2つの鐘楼をもつファサードと、各時代の建築様式が反映された複合体といった様相を呈している。ちなみに右側の塔の色調が異なっているのは、1755年のリスボン大地震によって倒壊し再建されたためである。

19アストルガ
正面にカテドラル、右手に司教館


20カテドラル


 現在、このアストルガの名前を世界的に有名にしているのは銀やチョコレートでも、また壮大なカテドラルでもなく、その傍らに建つアントニオ・ガウディによる司教館だろう。これは火災によって全焼した司教館を再建するに当たって、当時の司教グラウが同郷(カタルーニャのレウス)のガウディに依頼したことによるもので、1989年に建設が始まっている。
 敷地としては東側に一段大きく下がってこの敷地を支えている古代ローマ時代の要塞の遺構があり、隣地にはルネッサンス様式の聖堂がある。ガウディはこの要請に対して、平面は十字架の縦横が等しいギリシャ十字形。南東に正面玄関、北西に3つの祭壇を持つ礼拝堂を持つ、地下1階地上3階建の司教館を提示した。一見奇抜に見えるが、ローマ時代の城壁の下から眺めると、むしろ円筒形や直方体の塔によって強調されている垂直の軸や、外壁に用いられた灰色の花崗岩が、ローマ時代の遺跡を数多く有する周囲の環境と調和しているように見える。内部空間は、屋根に採光窓を設けて外光を集め、木造の小屋組によって内部に導入し、中央の吹き抜けによって拡散させることが目論まれていた。
 しかし、こうしたガウディの意図は必ずしも理解されたとは言えず、1893年のグラウ司教の死去によって建設は中断。次の司教はこの奇抜なデザインを嫌って(開口部を広く取ったため断熱性が悪く、夏暑く冬寒い居住性の悪さからとも言われる)別の建物に住み、資金も途絶えたこともあってガウディは建設をストップし、評議会との意見の相違で辞任した。その後リカルド・ガルシア・グレーテによって1907に建設が再開され、1913年に聖堂の奉献がなされたが、完成せず、1961年ゴンサレス・マルティン司教の代になってようやく竣工している。しかし司教館として使われることはなく、現在は巡礼記念館として用いられている。3階および、意を凝らした屋根の採光窓は未完であり、ガウディが構想したというファサードの5メートルの天使像も設置されることはなかった。
 このままではなんとも中途半端なテーマパークのパビリオンのようである。今からでも遅くはないので、このガウディによる当初案と当時の技術に基づいて復元してみても面白いのではないだろうか。

21司教館


22エントランス


23内部


24内部2


25ステンドグラス


26アイソメ図
屋根に設けられた採光窓とそれを内部に導くための小屋組が分かる。
(鳥居徳敏『建築家ガウディ』中央公論美術出版、2000年、142頁より)。


27アストルガのアルベルゲ


歩いた総距離1257.4km
(はが げんたろう)


芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧めは、石山修武です。
20161211_ishiyama_utopia石山修武
「それでもあるユートピア」
2004年
紙・水彩・他
57.0×76.0cm
サインあり


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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

本日の瑛九情報!
〜〜〜
柿の赤さはつつみきれない   作郎  

月が静かにさしよればフラスコにある球面  月月虹

11月18日のブログでご紹介した私達の最初のパトロン船木仁先生は秋田の歯科医で北園克衛の〈VOU〉同人でした。瑛九の作品も買っていただいていたのですが、あるとき「親父が瑛九さんの父と文通していたようです」とおっしゃり、驚いたものでした。
上掲の句の作郎の本名は杉田直、瑛九の父です。
月月虹の本名は船木綱春、船木仁先生の父君でした。
■船木月月虹(ふなきつきづきこう)
本名・船木綱春、明治30年生まれ、大正14年日本歯科医専卒業、秋田県仙北郡神岡町で歯科医院開業。荻原井泉水門下、「層雲」同人。
宮崎の作郎と秋田の月月虹、ともに井泉水の「層雲」同人でした。俳句のネットワークというのはおそるべきものですね。
〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。

芳賀言太郎のエッセイ 特別編

芳賀言太郎 エッセイ 特別編
〜北北東に進路を取れ! 東京 ― 岩手540kmの旅〜

第4話 大槌新山高原ヒルクライム 〜復興としての自転車レースの可能性〜


5月22日(日)  大槌

 岩手県大槌町は東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた町の一つである。当時の町長を含め人口の1割にも及ぶ1285人が死亡・行方不明となり、市街地は壊滅的な被害を受けた。現在、市街地約30㏊を平均2.2mかさ上げする工事を進めており、2018年3月までに510区画の宅地を造成する計画であるが、住宅再建を希望する世帯は区画数の4分の1程度と、復興計画は必ずしも予定通りには進んでいない。
 そのような中で、この大槌新山高原ヒルクライムは、東日本大震災からの復興と再生を目指した三陸初のヒルクライムイベントとして開催された。主催は「おおつち新山高原ヒルクライム2016実行委員会」だが、共催が「大槌町観光物産協会」と復興のための第三セクター「復興まちづくり大槌株式会社」、主催協力として「大槌町」とあり、大槌町が一丸となって取り組んでいるイベントである。大会理念として「再生」、「創生」、「共生」を掲げ、震災からの復興の一つとして、自転車をコンテンツとしたアプローチを行っている。

01ポスター


 自転車を通しての復興としては、宮城県沿岸部を自転車で巡る「ツール・ド・東北」や岩手県陸前高田市や大船渡市を巡る「ツール・ド・三陸」も開催されているが、ツーリズムとしての自転車の持つ可能性はまだまだあるように思う。その土地を自転車で走ることによって初めて感じること、そこで生まれることが多いからである。徒歩では辿り着けない場所、自動車では見過ごしてしまう風景も自転車は見せてくれる。自分の足でペダルを回し、体で風を感じることが、その場所を知る手段の一つとして重要であると私は思っている。バスや電車では点と点でしかない町と町を線でつなぐことや、幅と高さとを持った道という連続的な空間を感じることを自転車はもたらしてくれるように思う。いわゆる観光の先にあるものを自転車は提示できるのではないか。まさに「ツール」(=ツアー)として、その土地をまるごと身体で味わうことができる自転車には大きな可能性があるように思う。
 実際、世界最大の自転車レースである「ツール・ド・フランス」は、その美しいレース映像そのものがフランス旅行のコマーシャルフィルムであり、その広告効果は絶大である。沿道の観客数約1500万人、世界190ヶ国で放送され、35億人が熱狂するとさえ言われている。だからコース設定に際しては、町や村、自治体が招致合戦を繰り広げる。以前はゴール地と次のステージの出発地が同じだったのが、現在は異なっているのも、一つでも多くの町を出発地・ゴール地とするためである。「ツール・ド・東北」やツール・ド・三陸」といった自転車のコンテンツは、東北の復興を進める上で回復と再生のイメージをつくるための一つの方法でもあるように思う。

02エントリー受付


03スタート前


 レースの受付場所は、津波で破壊された町役場に代わって現在の役場となっている小学校の体育館であり、スタートは小学校前の広場であった。走り出すと沿道からは町の人たちが手を振って応援してくれている。小さな町であるが、レースを行うことで当日がハレの日となる。津波によって壊滅的な被害を受け、その爪痕が今でも残るこの町にとっては、このレースの中に希望となるものがあるようにも思えた。
 勾配のきつい坂を約一時間かけて登り、なんとかゴールにたどり着いた。風力発電の風車の回る頂上から見た景色は本当に美しかった。なぜ自転車なのか、なぜヒルクライムなのか。それは人間が自転車に乗り、自分の力によって困難を乗り越えることができるということが大きな意味を持つことになるからではないかと考えた。

04頂上


 ヒルクライムは上りよりも下りに注意する必要がある。出そうと思えば80キロ以上ものスピードを出せるロードバイクでカーブを下るのは危険なため、順番に隊列をつくって下るのである。もちろん追い越しは禁止である。参加者全員がゴール地点から無事に下り、スタート地点まで戻ってくると、受付場所であった体育館で表彰式が行われた。表彰に際し、出し物として町の文化を伝える意味を込めた子どもたちによる地元の踊りを見ることができた。こうした土地ごとの伝統を伝えることも自転車レースが可能にすることの一つであるように思う。キツいレースをともに走った人とは絆が生まれる。参加者は地元やその周辺の人が多いため、直に東北の現状についての話を伺うことができた。また東北に来る時は連絡をくれるようにと言っていただき、嬉しかった。こうしたことを積み重ねることで、自分にも何か力になれることを見つけることができるのではないかと強く思う。

05昼食


06表彰式


 宿泊施設の「ホワイトベース大槌」は、復興工事関係者の宿泊施設不足に対応すべく、震災後に設立された第三セクター「復興まちづくり大槌株式会社」が開設したもの。コンテナを積み重ねたようなユニットハウスを宿泊施設として計画された。モンドリアンカラーをポイントで使用し、モダンなデザインになっている。もし、コルビュジエが仮設の復興住宅をデザインしたらこんな感じになるのだろうかと思った。
 一方、館内は木材が要所要所に用いられ、落ち着きのある空間になっている。館内のルームプレート、ルームキー、そして売店の家具は、地元の木材加工一般社団法人「和RING-PROJECT」によって大槌産の杉の木から製作されたものである。震災後の復興支援から始まり、現在は地元木材の加工や製品化によって、大槌町の木資源についての再発掘を志しているという。

07ホワイトベース大槌


08外観


09中廊下


10廊下


 夕方、ホワイトベースの裏手にある野球場に自然と足が向いた。ホームベースからライトへ、そしてフェンスを伝ってレフトへ。ホームに戻りダイヤモンドを一周する。特別な何かを考えていたわけではないが、何も考えなかったわけではない。ただ、まとまった答えにはたどり着けなかった。この静かな風景が私に何かそっと答えを示しているようにも思えた。ここにあるもの。土地の持つものを感じてごらんと問いかけているように感じたのだった。視線の先には夕日に照らされた三陸の海がキラキラと輝いていた。

11グラウンド


 私のこの東北への旅は、ヒルクライムレースのスタート地点に立つことがゴールだったように思う。レースはおまけのようなものだ。東北の今、そして、被災地の現状を頭ではなく皮膚で知ること、そして、それにどんな形であっても身体を使って関わること。自転車で旅することは私に新しい可能性を示してくれた。それだけで成功である。

東京から572.9km
走った総距離151.5km
(はが げんたろう)


コラム 僕の愛用品 〜自転車編〜
第4回 シューズ fizik  R4B UOMO  24,800円


 どんな時においても靴は大切である。特にスポーツをする際には足の力を無駄なくダイレクトに地面に伝えるため、それぞれのスポーツに対応した専用のシューズが存在する。
 ロードバイクの場合もそうしたシューズが存在する。「ビンディング」と呼ばれるシステムであり、専用のシューズとペダルを使い、バイクと足を一体化させる。一般的な自転車(ママチャリなど)ではフラットペダルという平らなペダルが装着されている。ペダルの上に靴を乗せて踏み込み、自転車を漕ぐ。しかし、ビンディングはペダルとシューズを、クリートと呼ばれる、シューズとペダルを固定するためのプレートによって接続させる。そのため踏みこんだときはよりダイレクトに、また脚を引き上げるときにも力を入れることができる。ただ、ビンディングはペダルとシューズを一体化してしまうので慣れないうちは恐怖感がある。うまくクリートを外すことができず、立ちゴケと呼ばれる転び方をすることがあるので、その時には絶対に車道側に倒れないようにする注意―倒れる経験なしに自転車に乗ることができないように、どんなに立ちゴケに注意しても一度や二度は必ずすることになる―が必要である(私は2回ほど経験した)。
 fizikはイタリアのメーカーであり、高い機能性とデザイン性を兼ね備えたアイテムを展開する。靴にはうるさいイタリアだけのことはあり、私が使用しているこのシューズも足全体を包み込むフィット感は抜群である。
 自転車に乗っている際に、自転車と体が一体になっていると感じる時がある。その感覚はビンディングによって高められると思っている。自分の踏み込んだ力がダイレクトに自転車を前に進める感覚は爽快である。ただ、現状は自転車が体の一部になっているというよりも、体の方が自転車の一部品にされているレベルのような気がする。立ちゴケをするということはそういうことだ。いつか思いのままに自転車で走れるようになりたいと思う。

12fizik


芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧めは、磯崎新です。
20161111_isozaki_18_moca_1
磯崎新
「MOCA #1」
1983年 シルクスクリーン
イメージサイズ:46.5×98.0cm
シートサイズ:73.0×103.5cm
Ed.75 サインあり

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芳賀言太郎のエッセイ 特別編

芳賀言太郎 エッセイ 特別編
〜北北東に進路を取れ! 東京 ― 岩手540kmの旅〜
東北の地に巡礼路をつくるために


第3話 仙台 ― 大槌 〜三陸海岸をめぐって〜

5月22日(金) 仙台 ― 気仙沼 ― 大船渡 ― 釜石 ― 大槌

 5:00に目が覚める。眠れそうにないので散歩を兼ねて、仙台市内を朝ランすることにする。仙台は坂が多く、アップダウンのある道が続く。

01丘の上の大観音


 仙台には有名なロードバイクのショップがある。仙台市の郊外、地下鉄南北線の終点泉中央駅からほど近くにある「ベルエキップ」はスイスのプロチーム「ポストスイス」のメカニックとして、現 BMCカーボンバイク開発責任者のヘールマンと共に腕を振るった遠藤徹さんのショップである。自転車店というよりはファクトリーという言葉の方がしっくりくる大きな倉庫のような建物であり、大きな空間を確保している。メカニックコーナーも広々としていて作業のための充実したスペースが用意されている。
 変速器の調子が思わしくないので、見てもらうことにする。ディレイラーハンガーが曲がっており、本来は交換するべきであると言われたが、明日がレースのため、チェーンが当たらないように調整のみしてもらう。最も軽いギアであるインナーローが使えないとヒルクライムレースでは致命的なため本当に助かった。

 遅い朝食をとり、出発の準備をしていると雨が降り出した。今日は自走は無理だろう。元々、明日がレースのため前日の今日は走らないようにスケジュールを組んでいたのも幸いした。仙台から一ノ関を経由し、大船渡線で気仙沼に向かう。新幹線を使い、盛岡を経由して山田線で釜石まで行くこともできるが、時間がかかってもここはやはり海岸線を通りたいと思った。

02駅にて


03線路


04気仙沼


05気仙沼駅


 気仙沼には東日本大震災が起こった2011年の5月に訪れたことがある。その時の状況は文字通りに壊滅的で、漁船が陸に乗り上げ、無残な状態だった。それから5年、復興がどのぐらい進んでいるのか自分の目で確かめたかった。
 正直なところ、まだこれしか進んでいないのかと思わされた。もちろん、状況は確かに良くなってはいる。瓦礫は撤去され、町に活気が戻っているようには感じた。ただ、砂とショベルカーによる土地の整地が精一杯であり、住宅や商店が建設されるめどは立ってないように思われた。
 大きな理由は自治体による建築制限だろう。震災後、住民らがばらばらに新築や増改築ができないように建築制限がかけられた。かさ上げ工事と土地区画整理事業が終わらないと建物を建てることができない。もちろん「災害に強いまちづくり」は必須であろうが、復興は時間との戦いでもある。そしてどんな地震でも壊れない建物とか、1000年に一度の津波でも被害を受けない街などというものがあり得ない以上、(もちろん巨大な鉄とコンクリートの要塞にでもすれば別だろうが、費用は別にしてもそれはもはや人がそこに住みたいと思うような街ではないだろう。巨大な防潮堤を見た時に思わず、壁で囲われた都市で巨人と戦うとある漫画が思い浮かんでしまった)、避難路を確保した上であとは住民の創意工夫に任せたまち作りをしてもよいのではとも思う。何から何まで計画するよりもある程度の余白を残しておく方が結果的に良いこともあるのではないだろうか。

06気仙沼 復興


07気仙沼 復興2


08気仙沼 復興3


09気仙沼 復興4


10気仙沼 復興5


 唯一の救いは仮設の商店街があり、人々の声が聞こえてきたことである。そこで食べたふかひれラーメンには心が救われた気がした。聞くと2017年春にはかさ上げ地の造成と区画整理とが一段落し、本格的な復興が始まるということである。さらに2018年にはかつての繁華街に新しい商業施設がオープンするらしい。その頃にもう一度この地を訪れたいと思った。

11気仙沼 ラーメン屋


12ラーメン屋 ふかひれラーメン


13ラーメン屋 テーブル
たくさんをお客さんが残したコメント


14ラーメン屋 内部
壁一面に応援のメッセージが書かれている。


15気仙沼 市場


16輸送バス


 気仙沼を後にし、大船渡へ。バスから見える景色はまだまだ復興途上の光景であった。しかし、リアス式の海岸線から青い海を見ているとその美しさには心を奪われた。この景色と共存していた町の姿を取り戻したいと勝手ながら思った。

17大船渡


18三陸鉄道


19案内板


20高架橋


 三陸鉄道で釜石へ向かう。小さな駅ばかりであるが、それぞれに趣がある駅が多く、なんともいい雰囲気の鉄道だと感じた。

21さんりく駅


 釜石駅についた時にはすでに夜の8時を過ぎており、あたりは真っ暗であった。時間も時間なので駅前のタクシーに乗り、大槌町まで向かう。

22釜石


 大槌町には着いたがここからが大変であった。本日の宿泊所のホワイトベースは吉里吉里という隣町である。ここに来るまでにきちんと場所の確認をしていなかったのは失敗であった。大槌町の役場からロードバイクで真っ暗な道をヘロヘロになりながら走ることになってしまった。約1時間走り、無事にたどり着いた時にはほっとした。シャワーを浴び、明日のレースに向けて就寝。

23大槌町


東京から572.9km
走った総距離125.4km

(はが げんたろう)


コラム 僕の愛用品 〜自転車編〜
第3回 輪行袋
オーストリッチ 超速FIVE輪行袋 ネイビーブルー 7,109円


 自転車を電車で運べると聞いて驚く人も多いと思う。鉄の塊にしか思えないママチャリを運ぶことを考えたらもちろん無理だが、ロードバイクはフレームとホイールを簡単に取り外すことができるため、実際にはコンパクトに収納することができる(もちろんある程度に大きさにはなるのであるが)。そして想像以上に軽いのである。感覚的にはママチャリの半分である。日本だと自転車のままで電車に乗ることは一部の路線を除いてはできないが、それを可能にするのが輪行袋(りんこうぶくろ)である。
 「輪行(りんこう)」とは、「自転車を分解して専用の袋に入れて、交通機関に乗せて移動する」こと。厳密には、縦横高さの3辺の合計が250cm以内(ただし長さは200mm以内)で重量が30kg以下のものを2個まで車内に無料で持ち込める。ただし、自転車カバーやゴミ袋、ウィンドブレーカー等で自転車を梱包するのは駄目であり、ハンドルやサドル、転がすためのキャスターなど一部でもはみ出ているものもアウトである。これはもちろん一般の乗客の方に危険を及ぼすからであり、このための専用のアイテムが輪行袋である。化学繊維で作られ軽くて丈夫、安全かつコンパクトに自転車を収納するための工夫があちこちになされていて、慣れれば5分!(アイテムの名称の由来にもなっている)で収納が可能である。自動車がなくても遠くに行けるのが魅力であり、行動範囲が格段と広がる。また自動車だと自動車を置いたところまで戻らなければならないが、輪行だとその必要がないので行動範囲が格段と広がる。
その最大手が「オーストリッチ」ブランドで知られるアズマ産業である。1970年創業で、当初は自転車用バッグなどを生産していた中、「輪行」というスタイルをいち早く打ち出したパイオニアである。車種に合わせ、サイズや素材、収納方法の異なる様々なタイプがリリースされている。
 輪行袋には全後輪とも外すタイプと前輪だけ外すタイプがあり、これは前輪だけを外すタイプ。分解と収納は簡単だがその分サイズが大きい。もちろん制限はクリアしているものの、満員電車に持ち込むことなどは考えられないサイズである。しかし、手間と時間がセーブできるのは何物にも代えがたい。ここは時間と区間に十分気をつけることにして、前輪だけをはずすタイプを購入した。
 品質第一を旨として、海外生産は行わず、現在でも工場で一つ一つミシンで手縫いされているオーストリッチの輪行袋は丈夫であり、破れたり縫い目が広がったりといったトラブルは一切なかった。もっとも、今一つパッキングの才能のない自分の腕ではいくら頑張っても最初のサイズにまで畳むことができず、不格好なナイロン生地のカタマリとしてバックにしまい込まれることになったのは輪行袋としてはきっと不本意であったに違いない。

24輪行袋



芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧め作品は、百瀬寿です。
20160903_momose_07_Square_lame-G_Y_R_V_around_White百瀬寿
「Square lame' -
G, Y, R, V around White」

2009年
シルクスクリーン
42.5x42.5cm
Ed.90
サインあり


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芳賀言太郎のエッセイ 特別編

芳賀言太郎のエッセイ 特別編 
〜イスラエルの旅 聖地エルサレムを訪ねて〜


 2016年8月14日、私はイスラエルにいた。テル・アヴィヴのベン・グリオン空港でこの原稿を書いている。昨年に引き続き、私はガリラヤ湖南端のタボル山近くにあるテル・レヘシュ遺跡の発掘調査にボランティアとして参加するためにイスラエルを訪れた。今回の発掘調査では、福音書に記述のあるガリラヤ周辺の「会堂」である可能性のあるイエス・キリストの時代のシナゴーグ跡が発見されるなど(http://www.christiantoday.co.jp/articles/21819/20160823/synagogue-jesus-time-confirms-accuracy-new-testament.htm)、一人のボランティアとしても有意義な二週間であった。昨年はガリラヤ湖周辺のイエスの足跡について書いたので、今年はエルサレムについて書きたいと思う。

01カフェにて


 エルサレムは聖地である。イエス・キリストが墓の中から蘇った場所を記念する教会、ユダヤ教徒の信仰のよりどころであった神殿の一部である嘆きの壁、そして、ムスリムがメッカに向かって祈る黄金の岩のドームがある。世界を代表する3つの宗教の聖地がここエルサレムに存在しているのである。

02エルサレム 旧市街


 旧市街は混沌としている。ユダヤ人地区、キリスト教徒地区、ムスリム地区、アルメニア正教教徒地区と大まかに分かれているが、主要な通りはムスリム地区を通っており、スーク(アラビア語で「市場」の意味)と呼ばれる露店市場と化している。シナモンやターメリックなどのアラブの香辛料が鼻をつき、食料品から日用品、宝飾品や土産物まで、実に雑多な売り物が路地に溢れ出している。少しでも立ち止まって商品を見ていると、すかさず店の主人が声かけをしてくるのである。何を買うわけでもないが、スークを歩くだけで何か感じるものがある。
 人々の生活の断片が如実に現れる。人々の日々の営みが露出しており、聖地といっても普通の人間が日常の生活している場所であることに、なんだか感覚的に親しみを覚える。

03スーク


04路地


 ヴィア・ドロローサ(Via Dolorosa:「苦難の道」)。キリストが十字架を負ってゴルゴダの丘まで歩いたことを追体験する道が残っている。1から14までのステーション(「留」)があり、それぞれに由来がある。

  1.イエス 死刑の宣告を受ける
  2.イエス 十字架を担う
  3.イエス 初めて倒れる
  4.イエス 母に会う
  5.イエス クレネ人シモンの助けを受ける
  6.ヴェロニカ イエスの顔をぬぐう
  7.イエス 2回目に倒れる
  8.イエス エルサレムの婦人たちを慰める
  9.イエス 3回目に倒れる
  10.イエス 衣服を剥ぎ取られる
  11.イエス 十字架につけられる
  12.イエス 十字架上に死す
  13.イエス 十字架から降ろされる
  14.イエス 墓に葬られる

 そして最終的には聖墳墓教会にたどり着く。キリスト教徒にとってその道を歩くことはそれ自体が巡礼であり、聖墳墓教会を詣でることはそれ自体が大きな意味を持つものである。もちろん現在の道は当時のものではなく(当時の市街地は現在の地表より10メートル以上も下にある)、聖墳墓教会もコンスタンティヌス帝による創建当時のものとは全く違ったものになっているはずであるが、今から2000年前にイエス・キリストはこの場所にいた、という史実がリアリティを持って何かを訴えているように感じる。

05聖墳墓教会


06聖墳墓教会 エントランス


07聖墳墓教会 内部


 シャバット。ユダヤ教徒の安息日である。シャバットは金曜日の夜(厳密には日没後)から土曜日の夜まで続く。シャバットに「嘆きの壁」に行く機会に恵まれた。「ユダヤ戦争」(66年-74年)によってローマ軍によって徹底的に破壊されたエルサレム神殿のわずかに残った西壁といわれる場所である。敬虔なユダヤ教徒が熱心に祈りを捧げている。一心不乱に体を揺すり、神に願う。トーラーを重厚な声で読み上げる。この場所、空間が神聖なものであり、清いものであり、穢れといったものが一切入り込んでこないように感じる。自分が場違いな場所に立っていて、自分自身がこの場の異物として存在しているように思わされる。私は神に祈るときこのように祈ることができるか、そう自問するが、答えは決してできないということであることがわかっている。彼らは祈るとき、自分自身の周りのものが全て消え去り、神と一対一の対話をするのだろう。それは私がまだ経験したことのない境地であることだけは理解できる。

 スポーツをある程度本格的に取り組んだ経験のことのある人ならば、ゾーンという状態を体験したことがあるかもしれない。プレーしている瞬間に、時間が止まったような、急に全てがスローモーションで動くような感覚である。そこでは自分の体の動きが細部まで理解でき、どのように動けば最良の結果が出るのかが瞬間的にわかる。そうような経験はなかなか言葉で表すことは難しいが、自分が何かを超越し、全てを理解しているように感じる体験である。それに近い状態を彼らは祈ることで自分自身の中に生み出し、神に近づき、祈りを届けようとしているのではないかとふと感じた。

08嘆きの壁


 オリブ山からエルサレムの街を望む景色は素晴らしいものだ。周りを谷に囲まれたこの場所に街ができた必然性を感じ、何千年と続く、人々の生活の営みの結晶が現在のエルサレムであることを感じた。眼下に墓地が広がっている。メシア、救世主が現れ、最後の審判の際、この墓から死者たちが一斉に立ち上がる姿を想像するとなんだか不思議な気持ちになる。この世の終末が来るとき、世界がどのようになるのかをなんとなくイメージできた気がした。

09エルサレム
オリブ山より街を望む


(はが げんたろう)


コラム 僕の愛用品 〜発掘調査編〜
第1回 時計
TIMEX CAMPER タイメックス キャンパー \6.700


 発掘作業時の時計に求める機能は耐久性である。発掘現場は過酷である。時計は埃にまみれ、露出した岩で傷がつく。粉塵が入り込み時計が動かなくなってしまっては意味がない。そして、それと同じくらい重要なのは、逆説的ではあるが、時計としての主張が強くないことである。具体的には軽くて小さいこと、つまり作業の邪魔にならないことである。
 キャンパーのオリジナルデザインは1941年まで遡り、タイメックスのロングセラーモデルである。ベトナム戦争時、タイメックスは軽量かつ耐久性のある時計を複数個兵士に持たせて故障したら付け替える「使い捨て」(ディスポーザブル)腕時計というコンセプトをアメリカ軍に提示して採用され、ミリタリーウォッチの名作として知られるようになった。その後1980年代に民生品として復刻され、さらに90年代にはクオーツモデルが登場する。2016年にもオリジナルに近いタイプが復刻されるなど、タイメックスの不動の定番モデルである。
 これは現行品の「キャンパー」で、ストラップは通気性の高いナイロンで、装着したときの蒸れを防ぎ、重さも18gと軽く、快適である。実際に発掘作業でも邪魔になることはなく、ときどき時計をしていることを忘れてしまうほどであった。
 シンプルであること、このCAMPERはそれに尽きる。ただ、極限まで無駄を削ぎ落とすことを目的としたシンプルさとはまた違う。必要なものだけを単純化したある意味ではチープなシンプルさである。ある人はこれを「この世には時計よりも大切なものがあることを知っている人の時計」と評した。事実、もっとも過酷な場所においては、時計の機能は時間がわかることだけで十分なのである。使い捨ての時計ではあるが、発掘作業や日常生活で使用して2年になるが壊れる気配は今のところはない。

10



芳賀言太郎 Gentaro HAGA
1990年生
2009年 芝浦工業大学工学部建築学科入学
2012年 BAC(Barcelona Architecture Center) Diploma修了
2014年 芝浦工業大学工学部建築学科卒業
2015年 立教大学大学院キリスト教学研究科博士前期課程所属

2012年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路約1,600kmを3ヵ月かけて歩く。
卒業設計では父が牧師をしているプロテスタントの教会堂の計画案を作成。
大学院ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路にあるロマネスク教会の研究を行っている。

●今日のお勧めは、ロバート・ロンゴです。
20160911_longo_01_endロバート・ロンゴ
「End of the Season」
1987年
木にリノリウム、鉄にエナメル、ブロンズにクロームメッキ
116×119×15cm

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◆芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
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