西村多美子のエッセイ

西村多美子写真展「舞人木花咲耶姫」

Zen Foto Galleryで10月29日から開催される、西村多美子写真展「舞人木花咲耶姫」に寄せて、作家の西村さんからコメントをいただきました。

10月29日〜12月10日まで、禅フォトギャラリーで“舞人木花咲耶姫”展を開き、同時に写真集を刊行します。1979年〜81年にかけて撮影した写真で、巫女によって伝承されてきた舞の原点を求めて、木花咲耶姫が子供二人を連れ、一年間の全国行脚の旅に出た撮影記録です。春の富士吉田浅間神社、初夏の諏訪大社御柱祭、真夏の京都大原、奈良天理、彼岸花の奈良葛城・風の森、雪の穂高神社とそれぞれの季節の中に舞が一体となって思い出されます。
このところ、暗室作業を集中的に行っています。70年代〜80年代にかけて日本を旅した写真、2000年〜10年頃のベトナム、タイ、マカオ、青島、韓国等、最近のフランス、チェコ、イタリア、イギリス等の写真が撮りっぱなしの状態になっており、プリントまでしないと一貫性を欠くと思い直し、作業しています。同じ旅を年月を経てやり直しているようで、エネルギーがいるものだと思いつつも、おもしろがって取り組んでいます。


西村多美子

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2016 10 312016 10 31 b
西村多美子写真展「舞人木花咲耶姫」
会期:2016年10月29日(土)〜12月10日(土)
会場:Zen Foto Gallery
   〒106-0032 東京都港区六本木6-6-9ピラミデビル208号室
日・月・祝日休廊

本展では、西村多美子が1979年から1981年にかけて、全国行脚の旅に出た舞人木花咲耶姫-子連れ旅-を密着撮影した作品群を紹介いたします。
撮影当時制作したオリジナルプリントを30点展示(モノクローム写真25点、カラー写真5点)。展覧会に併せ、写真集「舞人木花咲耶姫」を禅フォトギャラリーより刊行いたします。(Zen Foto Gallery HPより転載)
*会期が当初の予定より延期され12月10日までとなりました。

●トークイベント
対談:西村多美子×木花咲耶姫 (すぎえすみえ)
10月29日(土)17:00〜18:00 (予約不要、参加無料)
聞き手:アマンダ・ロ(Zen Foto Gallery)
※トークイベントの後、18:00〜20:00 オープニングパーティーを開催いたします。

●今日のお勧め作品は、西村多美子です。
ときの忘れもので2015年4月に開催した「西村多美子写真展 実存―状況劇場1968-69」の出品作品です。
20161021_Nishimura20150401_01西村多美子
「腰巻お仙 振袖火事の巻 1969.02.22 トラック劇場・新宿駅西口駐車場》」(1)
1969年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
24.7x19.6cm
Ed.1
サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

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「山口長男とM氏コレクション展」は、明日が最終日です。

今日の夕方はときの忘れものへ。現在開催中なのはコレクターによるコレクション展。王様クレヨンを製造していた会社の社長さんで、アーティストに援助をしたり工場の一角をアトリエとして提供していたりしていたそう。コレクションはその支援の中で自然と集まってきたもののようで、コレクターの美意識をもとに厳しく選び抜いた、というコレクションとはまた違う雰囲気。アーティストからの礼状なども併せて展示されており、ほんわかとした雰囲気がいい。
今回の展示の目玉は山口長男の《五つの線》。タイトルの通り、黒い板の上に赤い線(細い長方形)が5本、同じく赤い円が1つ、それぞれ配置されている。漆を思わせる赤と黒の艶やかさ、踊り出しそうに見える円と長方形の配置のリズム感が素晴らしい。何度も角度を変え、あちこちから見入ってしまった。
他にもオノサト・トシノブや駒井哲郎、加納光於などの佳作が並ぶ密度の濃い展示。あるコレクターの人生、生き様まで感じられる内容でした。
林光一郎さんのブログより)>

いきなり飛び込んできたコレクションだったので、急遽予定を変更し、短い会期ですがこの時期に開催した次第です。
ぜひご来場ください。

西村多美子『憧景』

憧景

西村多美子


 学生時代に、アングラ劇団「状況劇場」の写真を撮っていた。'68年頃のことだ。初めての撮影が「由比正雪」で、唐十郎や麿赤児、四谷シモンなどの怪優達に目を見張った。夜鷹の夜桜姐さんを演じた藤原マキは、芝居のハネた後は暗闇に紛れて江戸時代の河原に立つ掘立小屋に帰って行くとしか思えないほどの臨場感を漂わせていた。シャッターを切った時、ファインダーの向こうで「何も撮れやしないよ、アタシを撮る気なら、アンタもこっちに越えておいで」と言っていた。漫然とシャッターを切っても、何も写らないことを、この時、夜桜姐さんに教えてもらった気がする。

 卒業前の暮れから正月にかけて、復帰前の沖縄へ初めての一人旅をした。どこの町だったろうか、路地を歩いていて、人家の庭に迷い込んでしまい、そこの老夫婦に昼食をご馳走になったことがあった。縁側で三弦(さんしん)を弾き、歌ってくれた。インスタントラーメンをおかずに、どんぶりいっぱいの白飯をよそってもらった。心のこもったご馳走だったと思う。残さず全部食べた。
 糸満近くのサトウキビ畑で、夕暮れになってしまい、サトウキビの茎をかじりながら歩いているところを、作業を終えた親子の車にひろわれ、おまけに一晩泊めてもらった。幼い子から老人まで10人以上の大家族で、私は沖縄の言葉が全く理解できなかったけれど、内地の美容院で仕事をしていて、正月休みで帰省中のお姉さんが通訳をしてくれた。そして近所を案内してもらい、一緒に夜の海を散歩した。小さな男の子が「東京ねえね」と言ってまとわりつき、お姉さんとは夜が更けるまで話をして楽しかった記憶がある。
 コザ(現・沖縄市)では、日本人、白人、黒人たちの集まるエリアが分かれていた。ピザハウスでコーラを飲みながら「ここは日本ではないんだ」と実感させられた。この一人旅は忘れられない体験となった。

 卒業後はアルバイトをしたり、雑誌の仕事をして原稿料が入ると、旅に出かけた。北国が圧倒的に多い。幼少時に父が出張先から送ってくれた絵葉書が数十枚あり、それを畳に並べてながめるのが好きだった。雪国の風景や祭りの様子は何度見ても飽きなかった。昭和29年消印の仙台の七夕の絵葉書だけが残っていて、他は今では散逸してしまった。
 幼心にいつか行ってみたいと、憧れを持っていたせいで、北海道、東北、北陸へは季節を変え、何度も行った。海が好きで内陸へ行っても、必ず海に出るコースを考えた。海と山のある町、函館や小樽、北国でなくても神戸や横浜も好きな町だった。
 道東を訪ねた時、石狩川の広大な河原に立って、川が海に注ぐところを見たいと思った。すぐそこに見える河口は、10分くらいで着けるだろうと、たかをくくって歩き出したのだが、行けども行けどもたどり着けず、1時間半以上歩いてやっと到着、斑雪のぬかるんだ河原を疲れ果てて戻って来た記憶がある。
 網走では、雪溜まりに転げ落ち、カメラごと全身真っ白になり、やっとの思いで這い上がった。そして、凍りついた流氷の上で海を見ていたら、土地の人が心配して迎えに来てくれたこともあった。
 大夕張も忘れがたい。炭鉱の町の独特の雰囲気や活気を感じながら歩いた。坑道の入り口にも行った。しかし私が訪れて間もなく閉山し、ダム建設で無人の町となった。そのダムさえも2013年の夕張シューパロダム完成で水没し巨大な人造湖が出現するという。町は時代と共に変わるし、生き物のようだといつも思っていた。同じ町を訪れる私も変化していく。しかし、町そのものがなくなってしまうというのは、実に寂しいことだ。
 旅に出ても、有名な観光地に興味はなかったが、博物館や美術館には必ず寄った。函館山の小さな博物館では、アイヌの衣裳や道具を見るのが好きだった。函館山の中腹にある喫茶店も、好きな場所だった。夜行列車で青森に着き、そのまま青函連絡船に乗ると、昼過ぎにはその喫茶店に着く。雪の季節が多かったと思うのだが、思い出すのは陽が射している店内のイメージだ。そこで、これからの旅の計画を練った。昭和22年頃に開店したというその店は、私にとっては「もうひとつの場所」、心の拠り所となっていた。'97年に函館に行った折に訪ねたら、何年も前に店を閉めたと聞かされた。
 津軽にも、何度となく出かけた。上野から夜行寝台列車で、太宰治の「津軽」を毎回読みながら行った。当時は太宰の「津軽」に近い風景が、まだかなり残っていたと思う。初めて竜飛に着いた時、「不意に鶏小屋に頭を突っ込んだと思ったら、そこが竜飛の部落だった」という文章がすぐ頭に浮かんだ。目の前の風景とみごとに合致していたのだ。後年、東京国立博物館で雪舟の「破墨山水図」を見た時、「これは、竜飛だ」と勝手に思い込んだものだった。玉澗風の中国の景を描いた山水図なのだが、本州の最北端を思い出させた。この山水図に家が一軒だけ描かれているのだが、その家には酒屋の印である旗が描かれていて、これも私にとっては、まるで本州最北の地の極寒の中をやっとたどり着き、熱燗に出合うような気にさせた。
 小泊だったと思うが、夕暮れの雪道を少女が走って行くのが見えた。家路を急いでいたのだろう。写真を撮りながら追って行ったら、急に少女が消えていた。誰もいない雪道にひとり残され、異界に迷い込んだような不思議な気がした。
 ある旅の折に、東京から青森駅に着いて、陸橋から雪の線路を見下ろし、「これは絵になる」とシャッターを1枚切ったのだが、直後に「こんな写真を撮っていたら堕落する」と口をついて言葉が出たことを思い出した。一人旅は自問自答の行程である。自由で無責任で心地いい。また、旅をしていると何となく一人旅のテーマソングみたいな歌があって、知らずに口ずさんで歩いていることも多い。どういうわけか演歌が多かった。高倉健の「唐獅子牡丹」「網走番外地」、クールファイブの「そして、神戸」「港の別れ唄」、森進一の「港町ブルース」等で、「ブルー・ライト・ヨコハマ」や梶芽衣子の「恨み節」もレパートリーにあった。今、考えると何ともおかしい。

 旅先で思わぬ偶然に出くわすこともあった。岩手の奥中山出身の友人がいて、ふと彼女の故郷であるそこへ行ってみようと思いついて、盛岡で各駅停車の列車に乗り換え、奥中山のホームに降り立った時、ぽつんとその友人が赤子を抱いて立っていた。思わぬ再会に、盛岡の親戚を訪ねる予定を変更して、初出産で戻っていた実家に連れて行ってくれた。そこは胡桃の大木にリスが走り回り、広い花畑には夏の花が咲き乱れていた。私は家をバックに赤子を抱いた友人の写真を撮った。次の列車で北へ向う私に、友人の母親が茹でたてのとうきびをたくさん持たせてくれた。偶然が紡いでくれた夢のような1コマである。
 北海道の帰りに、仙台の友人を訪ねた時は、朝から開店していたしゃれた銭湯に行ったり、ジャズ喫茶で長時間過ごしたことを憶えている。七夕の絵葉書でしか知らなかった仙台だったが、「住んでみたい」と思う程、町の雰囲気がおしゃれで、居心地が良かった。その後も仙台へは何度も行ったが、いつもイメージは変わらなかった。2011年3月11日の震災後はどうなっているのだろう。

 '72年に函館を起点にして、八戸、久慈、盛岡、田老、宮古、釜石、気仙沼と三陸を南下した。田老では防潮堤に上り、海側と背後の家々をかわるがわる眺めた記憶がある。津波が防潮堤を越え、家々を破壊してしまう事など、想像さえできなかった。この旅は日数に拘束されず、気ままに歩いた。どこも陽が燦々とふりそそぎ、コントラストの強い写真が残っている。
 一方、'75年の三陸は、秋雨前線の真っ只中で、濡れそぼって歩いた記憶が強い。このときは初めての個展「港町」の撮影で、気仙沼、大船渡、盛、釜石と北上し、遠野へも足を伸ばした。気仙沼・小鯖の船着場で遊ぶ少女たちの写真を展覧会のDMにした。つかの間の晴れ間に、子供たちが外に出て遊んでいた姿が目に浮かぶ。船着場で出会った少女たちは今、どうしているのだろうか。40代の女性になっているはずだ。

 冬の日本海にも魅かれた。日本海側へは、信越線で直江津に出るか、大糸線で糸魚川に出るかをまず決める。雪深い高田は好きだったし、北アルプスの稜線を見ながら行く大糸線も捨てがたく、どちらにするかいつも迷っていた。
 日本海側を旅した記憶を断片的に思い返してみると、越後、北陸は水上勉の小説のイメージが重なる。海岸沿いに走る北陸線の車窓から、荒れた海を見て、『越後つついし親不知』を思い浮かべていた。
 金沢には特別な存在感があった。文化と歴史と懐の深さを感じた。当時、金沢城跡には金沢大学があり、この町で若い時を過ごせたら幸せだろうな、と思った。
 越前、若狭も細かく歩いた。越前海岸、永平寺、武生、敦賀、小浜、高浜。水上勉の作品に出てくる余呉湖や木之本等にも行った。そして、北陸の帰りは必ず京都に出た。余裕があると、大阪、神戸へも足を伸ばした。
 神戸もよく行った町だ。高架下商店街、トアロードから山へ、そして海へと、いつも同じようなところを歩いていた。高架下の古本屋で私の写真集「しきしま」が3冊積んで売られていた。こんなところにあるのが不思議だった。

 70年代前半、あの頃はどこへ行っても、その土地の持つ独特な個性が感じられて新鮮だった。若さのせいもあるだろうが、新幹線は東海道だけだったし、地方は都市に塗れることなく、確たる存在感を持っていたと思う。

 写真を見返しながら、ふと「写真とは何か」と考えたりすると、無始の時より連綿と続く命の歴史と、体験したこと、意識しなかった経験、忘れてしまった記憶等、これらすべてが被写体と出会い、シャッターを切った時に、何かの形で立ち上がってくるもの……などと思った。
 見るものと見られるものが一体となったその先にあるものを捕らえたいと思っていた。撮った先からこぼれてしまうものを形にしたいと思った。目に見えないものを捕らえようとしているのかもしれない、と最近はうすうす感づいている。

2012年9月10日記
にしむらたみこ
西村多美子写真集『憧景』 (グラフィカ編集室、2012年10月31日発行)より再録
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Yearnings
Tamiko NISHIMURA


As a student around 1968, I photographed the underground theatre group Joukyou Gekijo, the now-legendary "Téâtro de Situation." The first production I shot was Yui Shousetsu, and my eyes were transfixed by those enfants terribles of the stage, Kara Juro, Maro Akaji and Yotsuya Simon. Fujiwara Maki performing the streetwalker "Miss" Yozakura – "cherry blossom of the night" – effused such sheer presence I could only imagine that once offstage she slipped back through the total darkness to a riverbank hovel in the Edo period. Once, after I had clicked the shutter, she scolded from beyond the viewfinder, "That's no shot. You want my picture, you better haul yourself right up here." As if Yozakura was warning me then and there not to snap half-heartedly, or I wouldn’t get any image at all.

At New Year's break, the winter before graduation, I travelled alone for the first time to Okinawa. This was before the islands reverted from the US to Japan. Wandering the back lanes of some town, I strayed into an old couple's yard. They plucked the sanshin and sang for me on their engawa stoop under the eaves. Treated me to lunch, too. Instant ramen over a bowl of white rice, a truly heartfelt gesture. I ate every last bit.

Later, walking in the sugarcane fields near Itoman at day's end, chewing on a sweet cane stalk, I was given a ride by a father and son driving home after the day’s chores. They put me up for the night. It was a huge household of over 10 people, from infants to elders. I didn't understand a word of their Okinawan language, but one young woman who'd been working at a beauty parlour in "mainland" Japan and come home for New Year interpreted for me. She guided me around the neighbourhood and in the evening we walked along the beach. A little boy followed me around calling me "Tokyo Big Sis." I enjoyed talking with the woman late into the night. At Koza (now Okinawa City), a US-base town where locals, whites and blacks mingled, I drank cola at a pizza joint and realised, this isn't Japan.

After graduating, I did odd jobs and occasional magazine work. I took trips whenever pay for an article came in – mostly I headed north. As a child, I loved to spread out upon our tatami mat floor the dozens of postcards my father sent home from his business trips. I never tired of gazing at the snowscapes and festival scenes. I still have one postcard of the Sendai Tanabata festival, postmarked 1954. The rest have scattered now. Perhaps because of those fond images, I would head for Hokkaido, Tohoku and Hokuriku, over and over, to take in the changing seasons. I like the sea, so even if I ventured inland I always planned a route that would bring me out onto the coast. Among cities, I favoured towns with sea and hills like Hakodate and Otaru or, outside the northern country, cities like Kobe and Yokohama.

Once on a trip around eastern Hokkaido, I found myself on the broad flood plain of the Ishikari River and decided to go see where it flowed into the ocean. I could see the mouth of the river in the distance — what looked maybe 10 minutes away — but walk and walk as hard as I could it took me a good hour and a half to get there. Trudging through the thawing muddy snow left me exhausted, but full of memories.

At Abashiri, I fell into a snowbank and was engulfed — head to toe, camera and all — in white. Or gazing out to sea from an ice drift, I apparently worried the locals so much they came out to "rescue" me. Oyubari was also unforgettable, the old mining town so full of life and atmosphere. I even hiked up to the mine entrance, though not long after, they shut down operations and built a dam, reducing the place to a ghost town.

Now even the dam will be swallowed by a huge manmade lake formed by the Yubari Shuparo Dam, slated for completion in 2013. Towns are living things, I know; they change with the times, just as I change whenever I visit the same town. But for a town to completely disappear is really a pity.

Famous tourist spots never held any fascination for me, but I always stopped in at museums. I especially liked the Ainu costumes and artefacts I saw at a small ethnological museum on Mt. Hakodate; also the café midway up the slope. Arriving by night train in Aomori, then transferring straight to a ferry for Hakodate got me to the café a little past noon. I can picture the sunlight streaming into the shop, even at times of heavy snow, the perfect base for planning the rest of my trip. First opened in 1947 it became like my second home. But when I went back to Hakodate in 1997, they told me it had closed several years before.

I also went to Tsugaru on more than one occasion. On the overnight train from Ueno I made a point each time of reading Dazai Osamu's Tsugaru. Much of the scenery there remains as it was in his time. When I first got to Tappi, his words sprang to mind: "I thought I'd stuck my head in a chicken coop by mistake, but no it was Tappi village." The scenes before my eyes matched descriptions perfectly. Years later, when I saw Sesshu's Haboku Landscape at the Tokyo National Museum in Ueno, I couldn't help but think, "That's Tappi." Of course the famous ink painting is of a Chinese vista, but it reminded me so much of Honshu's northernmost extreme: the lone inn in the hills with its liquor banner beckons me as I finally arrive at the tip of the frozen north, to go in for a drink of hot saké.

In Kodomari, I believe it was, I saw a girl running down a snowy road at dusk, hurrying home, perhaps. I followed her with my camera, but she soon vanished. Left all alone in that snowscape, I felt strangely as if I'd wandered into another world. One trip, on arriving in Aomori from Tokyo, I gazed down on the snowbound tracks from the overpass and snapped one "painterly" frame, before having these second thoughts: "I'm sure to fall, taking photos like this."

Traveling alone you start answering your own questions. It feels good to be carefree and reckless. Often I'd find myself humming theme songs for my journeys, usually enka ballads, for some reason. My repertoire consisted of Takakura Ken's "Karajishi Botan," Mori Shin'ichi's "Minatomachi Blues" or other popular songs like "Blue Light Yokohama" and Kaji Meiko's "Uramibushi." All rather silly now that I think about it.

I met with my share of odd coincidences, too. Thinking suddenly to visit a friend's hometown in Iwate, I changed trains at Morioka and had just stepped off the local onto the platform at Okunakayama, when there she stood, her new infant in arms. The chance reunion saw her change plans to call on relatives in Morioka and instead take me home to her folks with her firstborn. Squirrels raced about the big walnut trees, the summer fields were in full bloom. I photographed my friend holding her baby with the family house as backdrop, then as I headed off to catch the next train north her mother loaded me up with fresh-cooked sweet corn. An unforeseen encounter had spun into a scene from a dream.

Once, stopping in Sendai to see a friend on my way back from Hokkaido, I went to a lovely public bath that was open from the morning, then spent ages sitting in a jazz café. I knew nothing about Sendai other than my postcard of the Tanabata festival, but it felt so nice and inviting, I almost wanted to live there. I visited Sendai several times thereafter, but that image stayed with me. I wonder what's become of it after the March 11th disaster last year.

In the early 1970s, each locale I visited had a fresh appeal, its own special charm. Maybe it was because of my youth, but those regions yet out of reach of the shinkansen "bullet train" had their own strong presence, without any urban trimmings.

Looking back over my images, I think about the existence of photography, how it speaks with the accumulations of the life-force continuing from time immemorial, of my own experiences, subconscious encounters, the memories I've lost, my subjects and the moments I snapped the shutter, the visions that took shape before me.... I guess I've been drawn to what lies beyond the union of seer and seen, wanting to give shape to things that fall apart soon after they're photographed. Or perhaps it's the ineffable attraction of the unseen. Only lately, very faintly, do these things occur to me.
September 10, 2012

Translation Alfred Birnbaum
English editing Mark Robinson

西村多美子 Tamiko NISHIMURA
1948年東京に生まれる。東京写真専門学院(現東京ビジュアルアーツ)で写真を学ぶ。学生時代の1968年頃アングラ劇団「状況劇場」の写真を撮る。初めての撮影は「由比正雪」で、唐十郎や麿赤児、四谷シモンなどの怪優たちに目を見張ったという。卒業前に、復帰前の沖縄へ初めての一人旅へ出る。1969年卒業後はアルバイトや雑誌の仕事を行ない、原稿料が入るとカメラを持って旅に出掛けた。撮影地は圧倒的に北海道と東北が多いが、関東、北陸、関西と広範囲にもおよんでいる。1990年代からはヨーロッパ、キューバ、ベトナムなど海外を撮影している。

写真展
1975年 「港町」東京写真専門学院ギャラリー/東京
1980年 「町 東京編」銀座ニコンサロン /東京
1981年 「町 北国編」新宿ニコンサロン /東京
1982年 「舞人木花咲耶姫」小西六ギャラリー/東京
1983年 「音楽 指揮者大友直人」ミノルタフォトスペース/東京
1998年 「しきしま」Taka Ishii Gallery/東京
2000年 「(小尚)景」スタジオエビス/東京
2001年 「Vent calmoso 〜熱い風〜」東京写真文化館/東京
2004年 「短歌絶叫 福島泰樹」PLACE M/東京、
     「西村多美子写真展」I-GONG Gallery/韓国テジョン市
2005年 「熱い風」PLACE M
2009年 「しきしま」ギャラリー蒼穹社/東京
2012年 「憧景」ビリケンギャラリー/東京
2014年 同時開催「しきしま」禪フォトギャラリー/東京、
「憧景」ときの忘れもの/東京

写真集
『しきしま』 東京写真専門学院出版局 1973年
『熱い風』 蒼穹舎 2005年
『福島泰樹短歌絶叫』 鳥影社 2005年
『実存 1968−69状況劇場』 グラフィカ編集室 2011年
『憧景』 グラフィカ編集室 2012年
『しきしま』復刻 禪フォト 2014年 

◆ときの忘れものは2014年2月5日[水]―2月22日[土]「西村多美子写真展―憧景」を開催しています。
出品リストはホームページに掲載しました。
DM
本展は六本木の ZEN FOTO GALLERY との共同開催です(会期が異なりますので、ご注意ください)。
ときの忘れものの会期は2月5日[水]―2月22日[土]


第1会場 ZEN FOTO GALLERY
「西村多美子写真展―しきしま」
会期:2014年2月5日[水]―3月1日[土]
日・月・祝日休廊

第2会場 ときの忘れもの
「西村多美子写真展―憧景」
会期:2014年2月5日[水]―2月22日[土]
※会期中無休


『西村多美子写真展―憧景』の出品作品を順次ご紹介します。
出品番号1:
nishimura_01
西村多美子 Tamiko NISHIMURA
《小泊、青森県》
(p.50-51)
1970年代初期
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:36.5×54.7cm
シートサイズ :44.6×54.7cm
サインあり
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西村多美子写真集『憧景』のご案内
西村多美子『憧景』 表紙2012年10月31日
グラフィカ 発行
27.7x22.8cm(A4変型判)
ハードカバー 142ページ
写真点数:88点
限定500部
価格:4,500円(+税) 
※送料別途250円

西村多美子の若き日(1970〜83年)の旅の記録。1970年代初頭に北海道、東北で撮影されたものを中心に、東京、関東近郊、北陸、関西で撮られたもの、またその後80年代初頭にかけて撮影されたものも含む「西村多美子の血の轍ともいうべき若き日の旅の記録」です。
未だ都市に塗られていない、それぞれの土地の独自性が西村多美子の眼だけではなく身体全体にによって捉えられた渾身の写真です。
ときの忘れもの
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ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
ときの忘れもの
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