森本悟郎のエッセイ

森本悟郎のエッセイ「その後」第41回

森本悟郎のエッセイ その後

第41回 中平卓馬(1938〜2015)(3) 「日常 ─中平卓馬の現在─」展


《昭和五十二年九月中頃、(中略)急性アルコール中毒症と言う忌まわしき大病で死にかか》った(『新たなる凝視』)昏倒事故以後、中平さんは1978年に『アサヒカメラ』(12月号)で「沖縄 写真原点機廚鬟ラーで発表している。これは『なぜ、植物図鑑か』で《モノクロームの暗室作業にはあった〈手の痕跡〉を私はきれいさっぱり捨てようと思う》と宣言したところから始めたものだ。しかしその後刊行された『新たなる凝視』はモノクロームとカラー、『ADIEU A X』はモノクロームで、一度はやめたはずのモノクロームをカラーと併用していたことがわかる(ちなみにこの頃のカラーはネガフィルムである)。

01縲取眠縺溘↑繧句・隕悶€『新たなる凝視』晶文社、1983


02縲拶DIEU A X縲『ADIEU A X』河出書房新社、1989


それが1990年頃からカラーポジにシフトする。ポジはより徹底して〈手の痕跡〉を残しえない手段である。推測に過ぎないが、〈記憶喪失〉とも言われている昏倒事故を経ても、中平さんには〈植物図鑑〉というコンセプトへの継続的意思が働いていた、と考えざるをえない。「中平の新作で」と高梨豊さんは言ったが、新作とはまさにそのカラーポジによる写真のことだった。中平さんの現像所行きにつき合う間に、新作による展覧会構想が高梨さんに浮かんだのだろう。
まずは中平さんの近作がどのようなものか全体像をつかむため、96年9月高梨さんとご自宅を訪ねた。2階の8畳ほどの和室には、ネガが溢れんばかりの箱やマウントされたポジの山がいくつもあった。ともかく見てみようということで、高梨さん持参の大型ライトビュアーに、膨大といってよいほどのポジを手当たり次第ならべてはルーペで覗く、という作業を繰り返した。フィルムマウントには日付や場所の記載がないため制作順に配列することはできないが、見続けているうちに、テーマごとには分類できると思った。種類が多いとはいえないモチーフを繰り返し撮っていることがわかったからだ。ピントは概ねよく合っているが、露出にはバラツキがありハレーションの見られるカットもあった。ただ、そのポジの山から展覧会を成立させるような作品を選び出せるのか、ぼくにはまったく自信がなかった。帰路そのことを話したら、高梨さんはひと言「中平がどう選ぶかだよね」と。
2度目の訪問からは中平さんによる作品選定に立ち会うこととなる。すべて縦位置で撮られたポジを2点ひと組で選ぶのが中平さんのやり方だった。選んでは差し替え、ある程度揃ったかと思うとバラす。こんな作業が幾度も繰り返された。中平さんにとっては決定的な最終組み合わせは無いかのようだった。
ある日のこと、昼食後2階の部屋に戻り、午前中に選び・組み合わせ・配列したポジを当然のように中平さんがバラそうとしたとき、高梨さんが「中平さん、これで行こうよ」とそれを制した。中平さんもそれに頷いた。その時選ばれたのが26組52点の出品作品となった※。
C・スクエアの企画展としては20回目となる「日常 ─中平卓馬の現在─」展は1997年6月から7月にかけて開催した。昏倒事故から20年目のことである。初日には企画者である高梨さんと、中平さんとは雑誌での共同連載をもっていた旧知の間柄である赤瀬川原平さんによる、対談形式のトークイベントを行った。ただし、テーマは「写真と絵」というもので、中平展を題材としていなかった。これは〈敢えて避けた〉というのが正しいだろう。それほど〈言語化〉するのが難しい展覧会だった。

03 螻戊ヲァ莨壹・繧壹せ繧ソ繝シ「日常 ─中平卓馬の現在─」展ポスター


04 莨壼エ鬚ィ譎ッ-1会場風景-1


05 莨壼エ鬚ィ譎ッ-2会場風景-2


06 鬮俶「ィ繝サ襍、轢ャ蟾晏ッセ隲高梨豊・赤瀬川原平対談「写真と絵」


高梨さんは中平さんの撮っていた当時の写真の価値を認めていたから展覧会を企画し、中平さんに作品セレクトを委ねた。それでもその選択基準や組み合わせ、表現意図を量りかねていたのではないか、と推測される。ぼくとて4週間のあいだ毎日観ていながら、その展観を他人にどう伝えたらいいのか、おおいに悩んだものだ。
この展覧会には中平さんに私淑していた人たちや、その活動を注視していた人たちの来訪が少なからずあったが、中平さんを知っていればいるほど大きな疑問を抱えて会場を後にしたようだ。たとえば横浜美術館学芸員として「中平卓馬展 原点復帰─横浜」(2003)をキュレーションした詩人・批評家の倉石信乃さんは《「いったいなんなんだ、この写真は」と思》ったという※※。

07縲主次轤ケ蠕ゥ蟶ー・肴ィェ豬懊€「中平卓馬展 原点復帰─横浜」図録


その倉石さんは最近、《この展観は紛れもなく写真史的な事件であり、当の写真史を鋭く審問するものでもあった。それらの「作品」はどれも評定することが著しく困難な、事物の直截的で透明な把握に貫かれており、しかも2点1組で配されるイメージの照応は、簡明さの重畳によってかえって複雑なコノテーションを湧出する。当時すでに歴史に登録され始めていた『プロヴォーク』における中平の写真にも増して、挑発的と言うほかはなかった》と記している※※※。
来場者たちをコンフューズさせたこの展覧会の後、予想以上に中平卓馬再評価の気運が高まり、展覧会や復刊を含めた作品集刊行が増え、ドキュメンタリー映画も作られた。
中平さんの前期の活動がわずか14年ほどであるのに、後期は38年にもわたる。ところがその後期の作品群については、確たる評価が定まらない状態が続いてきた。しかし2015年に中平さんが亡くなってから、少しずつその状況は変わってきているように思われる。先に引用した倉石さんの論考※※※はその好例である。さまざまなエピソードや言説によって、ともすると伝説化されやすいこの希有な写真家の、〈非神話化〉作業がさらに進められることを願っている。


※ 中平さんのネガやポジの杜撰な保管状態をまのあたりにして、ぼくは展覧会後の作品保全を危惧した。そこで、展示用プラスもう1セット作成して別途保管したい旨、高梨さんと中平さんに伝えて了解を得た。ただ、展覧会予算では1セットしか作成できないので、もう1セットはぼくの私費で賄った。展覧会後、1セットは作家の手元に、もう1セットはぼくが預かった。13年頃、中平さんの具合が悪いと聞き、手元の作品を売却して全額渡すべく公的な買い手を探したところ、東京都写真美術館が手を上げたが、存命中には間に合わなかった。その後、著作権継承者がご子息に決まり、無事受取人となった。
※※ 八角聡仁、倉石信乃「入門 中平卓馬、その軌跡と問い」(『中平卓馬 来たるべき写真家』河出書房新社、2009)
※※※ 倉石信乃「人と動物 後期中平卓馬の写真」(中平卓馬『沖縄』ラットホールギャラリー、2017)
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

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●今日のお勧め作品は、長崎美希です。
20170828_nagasaki_01長崎美希
《スイミングああちゃん》
2009年
高さ 4.5cm
木彫(ジェルトン)
サインあり

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TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

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森本悟郎のエッセイ「その後」第40回

森本悟郎のエッセイ その後

第40回 中平卓馬(1938〜2015)(2) 言葉と写真


中平卓馬の活動は大きく〈前期〉と〈後期〉に分けることができる。前期は1963年から77年9月10日まで、後期はその翌日から2015年に亡くなるまでである。
63年、中平さんは雑誌『現代の眼』(現代評論社)の編集者となり、同誌を中心に書評など文筆活動を開始。編集者として寺山修司、東松照明と知己を得、東松さんの提案による連載グラビアページを通じて森山大道、高梨豊といった写真家たちと知り合い、自らも写真を撮りはじめる。65年退職して本格的に写真家としての活動に入ると、東松さんの誘いで「写真100年 日本人による写真表現の歴史展」(日本写真家協会)の編纂委員になる。同展準備のため集められた膨大な写真を調査する過程で、写真は自己〈表現〉ではなく世界の〈記録〉だと考えるようになる。
同時に中平さんには写真制作上──自身の常套句を使えば──〈乗り超える〉べき相手があった。《東松照明氏との出遇い、それがぼくが写真を撮り始める唯一のきっかけであった》が、《親しみ、コンプレックス、それが裏返された(中略)敵愾心》を抱く存在でもあった(「日本の現実を凝視する視線の両義性──東松照明『I am a king』」)。ウィリアム・クラインの『ニューヨーク』を分析することで得た手法も、『provoke』をオーガナイズすることも、中平さんには東松さんという先蹤を意識してのことだったのではないか。
70年、中平さんの提案で『provoke』が解散。同年、初の写真集『来たるべき言葉のために』(風土社)を刊行。巻末にいくつかの文章が収められており、はじめてこの写真を見たときのとりとめなさを文章が補完してくれたのを記憶している。

01初の写真集『来たるべき言葉のために』風土社
※装丁:木村恒久
2010年のオシリス版では装丁が変わり巻末文章を省略


翌71年の重要なトピックスは、まず『朝日ジャーナル』に「植物図鑑」「博物図鑑」「都市」を発表したこと。後の〈植物図鑑〉の着想につながる仕事だった。次いで「第7回パリ青年ビエンナーレ」(ヴァンセンヌ植物園)に参加したこと。これは「サーキュレーション−日付、場所、イベント」と題した日々増殖するインスタレーションで、《毎日ホテルからパリの町へ出てゆく。テレビを見、新聞や雑誌を見、流れる人々を見、そしてビエンナーレ会場で他の作家の作品を見、そしてそれを見る人々を見る。ぼくはそれらことごとくをフィルムに収録し、それらをその日のうちに現像、引伸しを行い、夕方から夜にかけて水洗後のまだぬれている写真を貼りつけ展示する》というもの。個性的・私的〈表現〉を捨て、〈記録〉に徹する行為を示そうとした。《およそ一五〇〇枚の写真を与えられた壁面に貼り、さらにフロアや受付のカウンターにまで貼りめぐらした》が、《思わぬトラブルから、仕事着手から数えて一週間で中止》せざるを得なくなった(「写真、一日限りのアクチュアリティ」)。そして前回触れた「白川・アマノ裁判」となり、このあたりからぼくの中平さん体験が少しはっきりしてくる。

07『サーキュレーション―日付、場所、行為』
オシリス、2012


08展示風景
(『サーキュレーション―日付、場所、行為』より)


この年中平さんの映像観を揺さぶる事件が起きる。「沖縄ゼネスト警察官殺害事件」と呼ばれるもので、11月10日沖縄返還協定批准阻止を訴える全島ゼネストのさなか、警察官が死亡。翌日読売新聞に載った2枚の写真を証拠に、松永青年が殺人罪で逮捕・起訴された事件である。写真のキャプションでは青年が火だるまになった警察官をめった打ちにしたとしているが、そこに居合わせた人たちは青年が警察官を救い出そうとしていたと証言。つまり同じ写真に全く異なる解釈が成立するということであり、写真の〈記録〉性に疑問を抱かせることになる(「記録という幻影 ドキュメントからモニュメントへ」)。

02『讀賣新聞』
1971年11月11日朝刊


その果てにたどり着いたのが〈植物図鑑〉のように写真を撮るという発想だった。『provoke』の代名詞でもある〈アレ・ブレ〉はいかにも〈詩〉的であり、モノクロームを選んだことが〈手の痕跡〉を残すことになって《情緒という人間化をそこにしのび込ませていた》と自省。《イメージを捨て、あるがままの世界に向き合うこと、事物(もの)を事物として、また私を私としてこの世界に正当に位置づけることこそわれわれの、この時代の、表現でなければならない》と考えた。そこで《直接的に当の対象を明快に指示すること》、《あらゆる陰影、またそこにしのび込む情緒を斥けてなりたつ》こと、《あらゆるものの羅列、並置》であること、《けっしてあるものを特権化し、それを中心に組み立てられる全体ではない》ということから図鑑に思いいたった。しかも《動物はあまりになまぐさい、鉱物ははじめから彼岸の堅牢さを誇っている。その中間にあるもの、それが植物である》という理由から〈植物図鑑〉としたのである(「なぜ、植物図鑑か」)。

03初の評論集『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』
晶文社

『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』(晶文社)を出した73年、「沖縄ゼネスト警察官殺害事件」裁判に参加するため初めて沖縄を訪れる。74年は多木浩二氏ら企画の「写真についての写真」展(シミズ画廊)、「15人の写真家」展(東京国立近代美術館)に出品し、75年は「ワークショップ写真学校」に講師として参加するが、スランプだったのだろうか、『なぜ、植物図鑑か』刊行以降写真の発表が減っている。

04「15人の写真家」東京国立近代美術館
※出展作家:荒木経惟、北井一夫、沢渡朔、篠山紀信、高梨豊、田村彰英、内藤正敏、中平卓馬、新倉孝雄、橋本照嵩、深瀬昌久、森山大道、柳沢信、山田脩二、渡辺克巳


05「15人の写真家」中平卓馬のページ


76年、『アサヒカメラ』誌上で篠山紀信の写真と中平さんの文章による「決闘写真論」を1年間連載。当時ぼくはこの組み合わせを訝しんだ。中平さんの文意が理解できないわけではない。けれども篠山作品に目を移したとたん「そうだろうか?」と今でも思うのだ。それはともかく、この連載最終回の末尾に、《アッジェ、エバンス、篠山、この三人は再び私を写真にひき戻した》と記した。ここには自ら発した言葉に突き動かされて写真に向かおうとする姿がある。しかし中平さんは優れて言葉の人である一方、その言葉が写真行為を縛りつけていたように思われる。

06『決闘写真論』
朝日新聞社


この連載は翌77年単行本化されるが、その刊行直前の9月10日に〈泥酔して昏倒、記憶の一部を失う〉(委細不明)という事故が起きる。これが活動の前期と後期の境界である。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、葉栗剛です。
20170728_haguri_2201葉栗剛
<男気>《龍》
2017年
木彫 楠木、彩色
H27cm
サインあり

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移転記念コレクション展
会期:2017年7月8日(土)〜7月29日(土) 11:00〜18:00 ※日・月・祝日休廊
※靴を脱いでお上がりいただきますので、予めご了承ください。
※駐車場はありませんので、近くのコインパーキングをご利用ください。
201707_komagome_2出品作家:関根伸夫、北郷悟、舟越直木、小林泰彦、常松大純、柳原義達、葉栗剛、湯村光、瑛九、松本竣介、瀧口修造、オノサト・トシノブ、植田正治、秋葉シスイ、光嶋裕介、野口琢郎、アンディ・ウォーホル、草間彌生、宮脇愛子、難波田龍起、尾形一郎・優、他

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ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分、名勝六義園の正門からほど近く、東洋文庫から直ぐの場所です。

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森本悟郎のエッセイ「その後」第39回

森本悟郎のエッセイ その後

第39回 中平卓馬(1938〜2015)(1) 記憶のなかの中平卓馬像


C・スクエアの企画はすべてぼくが決めていたと思われているふしがあるが、そんなことはない。設置当初から運営委員会方式を採用し、展覧会の企画案はぼくのであれ委員のであれ、公平に会議で俎上に載せられる。企画の承認は全員一致が原則だったから、だれの提案であっても退けられる可能性はある。思いのほか開催ハードルは高いものだった。
1996年4月の運営委員会で「中平卓馬の展覧会を開きたい」と発言したのは委員の写真家・高梨豊さんだった。一瞬ぼくは耳を疑った。個展のような作品発表形態をずっと拒否してきたのが写真家・中平卓馬だと思っていたからだ(89年に森山大道さんの展示スペース〈FOTO DAIDO〉で「あばよX」展を開催していたことは後に知った)。中平さんを知る他の委員たちも驚いたに違いない。「できるんですか」と尋ねると、「やりたいと思っているはずだ」と答え、中平さんがほぼ毎日ひとりで写真を撮りに出かけていること、撮影済みフィルムが溜まった頃合いに高梨さんから声をかけ、現像所まで一緒に行っていることなど、中平さんの近況を語った。
ぼくが「中平卓馬」という名を最初に目にしたのは1960年代の終わり頃だったろうか。当時ぼくの大きな関心事は芸術と社会的問題で、自分のアンテナに引っかかったさまざまな雑誌や本を読み漁っていた。今ではそれがどの雑誌だったか忘れたが、ちょっと気になる写真と文章に出会った。それは情動的にみえながら静謐さを湛えた画像と挑発するような社会的思想的発言だったように記憶しているけれど、それは後からつくりあげたイメージかもしれない。しかし「卓馬」という名前は紛れもなく印象に刻まれた。中平さんが高梨豊、多木浩二、岡田隆彦、森山大道らと出していた『provoke』(プロヴォーク)については情報こそ目にしていたものの、実際に手に取ったことはなかった。

01『provoke』第1号(1968年11月1日9日)

さらに中平卓馬をくっきりと銘記したのは70年代初め、パロディ事件として知られた「白川・アマノ裁判」の論戦を通じてだった(とはいうものの白川・写真家協会側は「盗人」呼ばわりするばかりで、もっぱら論陣を張ったのはアマノ側)。これは山岳写真家の白川義員氏が撮影した画像をフォトモンタージュ作品に無断使用したと、デザイナーのマッド・アマノ氏を損害賠償で訴えた裁判で、この時アマノ擁護の急先鋒は木村恒久さんだった。フォトモンタージュ作品を大々的に展開していた木村さんにはとても他人事ではなかったからだ。ぼくは赤瀬川原平さんの「千円札裁判」とともに芸術裁判のゆくえに興味津々で、関連記事も追いかけていた。そんな中で中平さんのアマノ擁護論も見つけたのだった。それは、

白川義員氏のアルプスの写真が表現であるとするならば、マッド・アマノ氏の「軌跡」もまた同等の表現であると私は考える。問題はまずこの一点を認めたうえで初めて立てられるべきである。その際マッド・アマノ氏が白川義員氏の写真を素材として使ったのは、〈中略〉それが既存のイメージであるからにほかならない。(中平卓馬「複製時代の「表現」とはなにか」『朝日ジャーナル』1972年9月29日号)

という原作のオリジナリティに対して疑義を挟むものであり、白川作品については「フジヤマ、ゲイシャなどと同列の絵はがき的なアルプスの「美しい」写真」(同)とまで言い切っている。

02(左)白川作品 (右)アマノ作品 
(「著作権その可能性の中心」〈http://copylawyer.blogspot.jp/2015/06/220131213.html〉より)


ぼくが中平さんに注目したのは、写真家以前にまずこのような論客としてである。作品を意識的に見はじめたのも、その言説との整合性を確認するためだった。ジャンルを問わず表現に関心をもっていたとはいえ、当時ぼくの興味の大半は絵画で、写真の比率が高いわけではなかった。それでも写真は気になるメディウムであり、少しずつ、つとめて写真も見るようになっていった。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、ハ・ミョンウンです。
20170603_ha_17_MINIseriesハ・ミョンウン 河明殷
"MINI series(5)"
2011年
Foamex acrylic
22.0x15.0x3.1cm
サインあり

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森本悟郎のエッセイ「その後」第38回

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第38回 角偉三郎 (2) 展覧会とその後


角偉三郎さんに初めて会ったのは1994年7月のこと。展覧会作家としてではなく、勤務先の中京大学へのアートワーク提供者としてだった。その後、輪島の仕事場や各地の展覧会場で作品に触れ話を聞くうちに、ふだん作っている器ではないもので展覧会を企画できないかと考えるようになった。
いつだったかそんなことを角さんに話したところ、見せたいものがあるから輪島まで来ませんか、と誘いを受けた。輪島駅に出迎えてくれた角さんは、「お昼はまだですね」と訊ね、「手仕事屋」という門前の蕎麦屋に案内した。そこで供されたそばは、ざるならぬ角さんのへぎ板に盛られていた。「実はこれの大きなのを作りましてね、それを見てもらいたくて」。
食後連れて行かれたのはそこからほど近い、別荘地となっている山の中腹に建てられたアトリエだった。「曼荼羅工房」と名付けられたその建物は、外壁全てが柿渋で塗装された下見板張りという輪島の伝統的な木造建築で、土間は赤土と砂利に消石灰とニガリを混ぜた本格的な三和土(たたき)である。考えごとをするとき、一人になりたいときにここへ来る、漆芸の仕事だけでなく、執筆や書もこの工房で行うのだという。多忙を極める作家の隠れ家という趣きだった。
見せられたのは90×180cmほどもある巨大なへぎ板だった。蕎麦が盛られたへぎ板は薄く剥いだ板を継いだものだったが、それは丸太から割り出した角材を継いだといった感じで、捩れ、平らな面はどこにもないながら、重厚で存在感の際立つ板は、床に置くとそのまま卓となるのだった。「これを10枚、立木のように床から立てるというのはどうでしょう」と言った角さんの頭の隅には、へぎ板を作品としてではなく素材として使うという、インスタレーションのイメージが浮かんでいたのだろう。人の背よりも高い大へぎ板が林立する様子は、迫力があって確かに面白い。しかしそれだけではコンセプトとしていささか弱いように思えた。
幾度か目にした仕事場には、そこで働く人たちは気にも留めないが、傍目には実に興味深いものがたくさんあった。例えば下地漆を塗った器を並べる板。これには長い間に垂れた漆が堆積し、高台の跡が紋様をなしていて、もとの用途を離れて漆のオブジェとなる。あるいは作業工程で使われた濾紙や密閉ラップは事後捨てられるものだが、付着した漆が乾くと、漆をまとった抽象的オブジェに変容する。そんな話を角さんとやりとりしているうちに、大へぎ板とラップの2種類で展示を構成してみようということになった。最大と最小の組み合わせである。
「黙森」と題した展覧会は2000年の掉尾(11.18〜12.16)で、角さんはちょうど60歳だった。大へぎ板を立てるため固定用金物を特注し、ラップはガラス容器やこれも特注のアクリルボックスを用意して、生物標本か宝石のように展示した。会場の中央に大木が林立するようにへぎ板を配置し、周囲をその雫のようなラップで囲んだ。対照的な2種類のオブジェによるインスタレーションだが、主役はもちろん〈漆〉だった。

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C・スクエアの個展が角さんにとって劃期となったかどうかはわからない。それでも展覧会には満足したと言い、また器に戻りますと笑ったことを覚えている。たぶん、作品を売らなくてもよい展覧会というものを楽しんだことだろう。
展覧会から5年後、能登の和倉温泉に角偉三郎美術館ができ、そのひと月後に心不全で亡くなった。美術館のオープニングには招待を受けながら仕事のために出席できなかったし、葬儀も同様だった。いつか再開したいと語っていた、沈金の仕事に戻ることなく不帰となったのも残念である。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、宮脇愛子です。
20170528_miyawaki_15宮脇愛子
"Work" (15)
2013年
紙に銀ペン
イメージサイズ:24.5×24.5cm
シートサイズ :42.1×29.7cm
サインと年記あり

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森本悟郎のエッセイ「その後」第37回

森本悟郎のエッセイ その後

第37回 角偉三郎(1940〜2005) (1)漆芸界の異端児か?


C・スクエアという展示場所について、ぼくは特定のジャンルにこだわるつもりは当初からなかった。それは〈全ての表現は等価である〉という確信がもたらしたものだ。だからC・スクエアをコンテンポラリーギャラリーとみる人がいても、それが〈同時代の〉という本来の意味であれば結構なのだが、狭義の〈現代美術〉というカテゴリーを指すならば、それは正鵠を射ていないといえる。ぼくが求めたのは多様な表現であり、時代を共に生きる表現ということだった。
その意味で、漆芸家の角偉三郎さんは正しくコンテンポラリーの表現者だった。
角さんは伝統的な漆芸の町である輪島にあって、同業者から愛され畏敬もされながら、異端とも評される作家だった。制約が多い伝統工芸品としての輪島塗の要件を踏み外しているようにみられたからである。若くして卓越した沈金※※技術によって日本現代工芸美術展で現代工芸賞、日展で特選を受賞するも、ある時期から自身の生き方と漆芸を重ね合わせるように、その来し方行く末を探るようになる。網野(善彦)史学に触れるとともに民俗学や柳宗悦の民芸論にも親しみ、日本列島という地理的特性、わけても能登の風土が育んだものへ目を注いでゆく。そんな中での能登半島柳田村で作られていた生活雑器、合麓椀(ごうろくわん)との出会は、角さんの後半生を決定づける漆芸の原点となる。

03角偉三郎「盛椀」


何度も塗り重ねて磨き上げられ、さらに沈金や蒔絵で加飾されるものもある華美で端正な伝統的輪島塗とは対照的に、漆を垂らすように扱ったり、手指で直接漆を塗りつけたりと少々アナーキーにもみえる角作品は、その実〈伝統的〉と称する工芸よりさらに遡った〈伝統〉への回帰だったのかもしれない。あるいは文化地理学的観点から、畿内で発達し洗練された乾漆に代表される西国文化と東北や関東で普及した荒々しい鉈彫りに代表される東国文化の出会いを、その中間地点である能登の地で受け止めようとしたのかもしれない。
いずれにせよ下地専門職人の家に育った角さんは、漆の扱いに関してまずは伝統に忠実だった。しかし同時に漆のもつ可能性も徹底的に追求した。漆のもつ可能性とは、角さんにはただ塗料としての漆にとどまらず、そのベースとなる〈木地〉も含んでのことである。木地師にはずいぶんルーティンから外れた難題をもちかけたという。その一つに〈へぎ板〉がある。〈へぎ〉とは〈剥ぐ・剥がす〉の訛言で、木材を楔などで割き、それを継いで板にしたのがへぎ板なのだが、割ったへぎ目は鋸で切るように真っ直ぐにはならないし厚みもそれぞれバラつきが出て、継いでもデコボコの状態となる。端正で寸法も均一に作るのが輪島木地師の矜持とすれば、これは抗いたくなるような仕事だったはずだ。そこを角さんは説得し、押し通した。いつだったか、京都高島屋での大規模な個展のオープニングに、角さんは木地師はじめ工房の職人さんたちを引き連れて出席、その場で彼ら一人ひとりを紹介して謝辞を贈った。作品に名前こそ出ないが、彼らの支えがあっての仕事であることを伝えたかった、とのことだった。

04角偉三郎「へぎ板」


※ 輪島塗の要件:通商産業省告示第172号(昭和50年5月10日)
  http://www.wajimanuri.jp/about/towa
※※ 沈金:漆器の表面に文様を毛彫し、そこに金粉・金箔を埋め込む技法。

もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、馬場檮男です。
20170428_baba_02_akai馬場檮男
「赤いタンク」
1984年
リトグラフ
イメージサイズ:17.5×19.0cm
Ed.365
サインあり


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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

森本悟郎のエッセイ「その後」第36回

森本悟郎のエッセイ その後

第36回 合田佐和子 (3) C・スクエアで見せたかったこと


C・スクエアで第60回目の企画となる「記憶ファンタジー 合田佐和子展」は2003年12月1日が初日だった。既述のように、そのちょうど1週間前まで「合田佐和子 影像 ―絵画・オブジェ・写真―」展(渋谷区立松濤美術館)が開催されているというタイトなスケジュールのなか、合田さんは自宅では出品作品が搬出を待つように整えてあり、会場では展示作業の指揮にもあたるという、まことに親身な対応ぶりだった。思い返せば最後の、ほんとうに元気な姿を目にしていたのだった。

01「記憶ファンタジー 合田佐和子展」ポスター

じつは松濤美術館での個展はC・スクエアのそれより後に決まったものだったが、ぼくたちは美術館との会期の重なりや展示内容の重複を避けることに努めた。わけても内容については、松濤を経験した人が見ても新たな発見があるようなものにしたいと考えた。それは合田佐和子という作家を振り返るのでなく、今まさに生成しつつある作品の現場を見せる、というところに焦点を当てようということだった。展示作品は極力新・近作に絞り込むこととし、ほかでは見られないような試みについても作家と一緒に検討した。
合田さんが作品制作のモチーフとするためにポラロイドで撮影した石や花の写真をスキャンし、C・スクエアがもっていた大判プリンターでB0大(1030×1456mm)に拡大して、タブローのように見せたのもその試みのひとつだった。写真をもとに描く合田さんの絵画は、独特の色遣いや省略法によって他に類例を見ない個性的な作品になるのだが、極端に拡大されたポラロイド写真はそのまま合田さんのペインティングのようにぼくの目には映った。それは合田さんの創作の秘密を垣間見るような思いでもあった。

02会場風景-1 ※左の大きな5点が拡大したポラロイド写真


03会場風景-2


04会場風景-3

個展の1年後、巖谷國士美術論集出版記念展「封印された星 瀧口修造と日本のアーティストたち」でも合田さんの作品はC・スクエアの壁面を飾った。そのときも作品集荷と返却に合田邸を訪ねている。ただそれ以後、展覧会に足を運んではいたものの、お目に掛かる機会が次第になくなっていった。2012年5月に地元鎌倉で個展(「合田佐和子展 ミルラ」GALLERY B)というので、秋山祐徳太子さんと出かけたが、体調不良との由で作家は不在だった。──そして連載第34回の「ラスト・シーン」展の話に戻るのである。

05「封印された星」展 会場風景 中央の2点が合田作品


具合が良くないとも、電話では元気そうだったとも、いろいろと人づてに聞いていたのだが、昨年2月、突然訃報が舞い込んだ。その月初めには井上洋介さんの逝去があり、気分が沈んでいたところへ追い打ちをかけられたのだった。
合田さんと井上さんはキャラクターも表現上も対極にあるように見えるが、ともに画家・イラストレーターとして活躍しながら、たとえば寺山修司の天井桟敷の美術を担当するなど、カテゴライズできないほど幅広い活動をしたことなど、共通項はいろいろある。
合田さんが生前最後の展覧会を開いたのはみうらじろうギャラリーで、今後も年に1回ぐらいの割で開催するとのこと。興味のある方はホームページ(http://jiromiuragallery.com)に注視されたい。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、関根伸夫です。
関根伸夫「位相ー大地」シルク関根伸夫 「位相ー大地供
1986年 シルクスクリーン
58.7×78.4cm
Ed.75 Signed

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森本悟郎のエッセイ「その後」第35回

森本悟郎のエッセイ その後

第35回 合田佐和子 (2) 二つの回顧展


前に「赤瀬川原平とライカ同盟」で触れた「ライカ同盟写真展[博多来襲]」のオープニング・レセプションを了えた翌日、福岡空港から高梨豊さん赤瀬川原平さんは東京に帰り、ぼくと秋山祐徳太子さんは高知に向かった。合田さんの生まれ故郷にある、高知県立美術館の「森村泰昌と合田佐和子」展(2001.2.11〜3.25)初日に駆けつけるためだ。
合田さんの展覧会はいくつも見ていたが、このような規模の回顧展は初めてだった。すでに合田展開催を決めていたぼくは、同展がどのような作品を選び、どのようなくくりで配列するのか、ということに関心をもっていた。その意味では2人展とはいうものの会場を分け、個展を二つ並べたような構成はありがたかった。その合田会場は最初期のものから最新作までの作品が、ほぼ時系列とスタイルによってグルーピングされていた。これは美術館展示の常套的配列であるが、合田佐和子という美術家がいかに生まれ、どのような表現を展開してきたかを端的に伝えるにはすぐれた方法である。
200点近い作品を一堂に展示できるのはさすがに美術館ならではで、C・スクエアの「種村季弘[奇想の展覧会]実物大」(1999)で展示した作品に再会したり、それまで見たことのなかった、高校時代の『セルフ・ポートレート』(1955)や武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)時代の金属・ガラス・陶器・木などを組み合わせたオブジェなどが見られたのも楽しい体験だった。難をいえば絵画とオブジェに偏していて、ポスター・ブックワーク・写真といった合田さんのもう一つの世界が欠落していた。これは展示スペースをシェアしなければならない、2人展という制約がもたらした結果だったのだろう。

01「森村泰昌と合田佐和子」展図録ボックス


02「森村泰昌と合田佐和子」展図録合田版表紙

東京渋谷の松濤美術館で開かれた回顧展、「合田佐和子 影像 ―絵画・オブジェ・写真―」展(2003.10.14〜11.24)は高知展より一層多彩な作品によって、作家の多才を際だたせようとするものだった(ちなみに合田さんは武蔵美時代渋谷区在住だったという)。白井晟一設計の個性的なこの建物の特性を活かして、2階の展示室に初期作品を、地下展示室に近作を配していた。それは単に時系列で作品展開を見せようというのでなく、モノクローム写真をもとに描き始めた初期のやや暗い作品と、エジプト移住敢行(1985〜86)以後の、画面から光を発するような明るい作品とを対照させることで、誰の目にも合田作品の変貌ぶりを際だたせようという試みだった。それは中庭に射す光によって地下展示室の方が2階展示室よりも明るく感じるという、館の構造を知悉している企画者ならではの発想から生まれたものだろう。

03「合田佐和子 影像 ―絵画・オブジェ・写真―」展図録表紙

美術館では個展によって作家の個性と全体像を浮かび上がらせることができる。
では、小規模なわがC・スクエアではどんな合田佐和子展ができるのだろうか、と高知以後ずっと考えていた。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品はクリストです。
 (2)クリスト
《The Museum of Modern Art Wrapped (Project for New York)(Schellmann 37),》
1971年
オフセットリトグラフ
シートサイズ:71.2×55.5cm
Ed.100
Signed

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森本悟郎のエッセイ「その後」第34回

森本悟郎のエッセイ その後

第34回 合田佐和子 (1) 不在の展覧会


C・スクエア最後の公式な企画展は、映像作家のかわなかのぶひろさん、美術家の鴻池朋子さん、そして写真家の畠山直哉さんによる「ラスト・シーン」展(2013年12月16日〜2014年1月25日)だった。だが、この展覧会にはもう一人出展するはずだった作家がいた。合田佐和子さんである。
この展覧会はC・スクエアという長編映画の掉尾を飾るラスト・シーンに見立てて開催しようというもので、発案者は専門家委員で写真家の高梨豊さんだった。かわなかさんは自身のがんによる胃の全摘手術体験を経たからだろうか、近年、親しい友人や自らの〈死〉と向きあう、まさに人生のラスト・シーンを見つめるような作品を作り続けている。鴻池さんは壮大な神話的世界をさまざまな表現手法を駆使して構築しているが、それは結末のない物語である。しかしそれゆえに、どこを採ってもラスト・シーンと見做すことができる。畠山さんは東日本大震災で肉親と故郷の風景を失うというアイデンティティに関わる体験から、以後、故郷である陸前高田を撮り続けている。未曾有のカタルシス以後、つまり〈ラスト・シーン以後〉への視線を持ち続けている。選ばれたのはそのような理由からだった。

「ラスト・シーン」展リーフレット-1「ラスト・シーン」展リーフレット


「ラスト・シーン」展リーフレット-2

展覧会の企画会議で合田さんが選ばれたのは、委員で名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉さんが発した、「合田さんの絵は映画のシーンから採ったものだからというわけではないけれど、どの作品もラスト・シーンみたいに見えないだろうか」という言葉がきっかけとなったものだ。言われてみれば、合田さんが描いたあの潤むような瞳の後ろにはエンドマークが控えていそうではないか、と会議出席者は思い浮かべたことだろう。

「90度のまなざし」  2003「90度のまなざし」2003


「ポーラ・ネグリの眼」1988「ポーラ・ネグリの眼」1988


合田さんに出展の意向を尋ねると、嬉しそうに「いいわよ、でも身体の調子が良くないから新作は無理かも」と答えた。その時ぼくが思い描いたのは、個展(「記憶ファンタジー」2003年)と被らない作品であること、できる限り新しいものであること、という作品イメージである。まだ1年半の猶予をもってすれば、新作の1点や2点は出してもらえるだろうと期待もしていた。
年末にラスト・シーン展開催を控えた秋日、出品作品選定のため、約束の時間に鎌倉市浄妙寺の合田邸を訪ねた。ところが、呼鈴を押しても声をかけてもまったく応答がない。事前に確認してあったから留守はないはずとはいえ、不意の用向きでちょっと近所へ、という可能性も無くはなかろうとしばらく待つことにした。
1時間待ったところで、書き置きを戸口に残して辞去した。ひょっとしたら道すがら出会うことがあるかも知れないと、歩いて鎌倉駅に向かった。鶴岡八幡宮にさしかかるあたりだったろうか、携帯電話が鳴った。電話の主は娘さん、合田ノブヨさんだった。電話口で、合田さんはぼくが到着する少し前に緊急入院したこと、フィジカルではなくメンタルな原因のため見舞い無用であること、コミュニケーションに支障があり退院がいつになるか不詳ゆえ今回の出展は難しいこと、などを伝えられた。
こうしてラスト・シーン展は合田さん不参加のまま開催することになった。出展作家たちはそれをとても残念がっていた。そこには合田さんの作品が一緒に並ばないこと、合田さんに会うことができないという無念の思いがあったのではないか。
合田さんは「種村季弘 奇想の展覧会―戯志画人伝[実物大]」展、「記憶ファンタジー 合田佐和子展」、「巖谷國士美術論集出版記念展『封印された星 瀧口修造と日本のアーティストたち』」展の3回、C・スクエアに出展している。次回はそのあたりについて触れてみたい。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、浮田要三です。
20170128_ukita_09浮田要三
「巻物」
油彩・キャンバス
130.5×95.0cm
サインあり


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本日の瑛九情報!
〜〜〜
瑛九没後も半世紀にわたり浦和のアトリエを守り、瑛九顕彰に尽力し、他によくある「独り占め」などせずに、遺されたすべてを快く公開したのが今もご健在の都夫人です。
1997_09_5_フジテレビG瑛九作品集記念展
瑛九作品集刊行記念展オープニング
1997年9月5日
会場:フジテレビギャラリー(お台場)
綿貫不二夫と杉田都(瑛九夫人)
後列左から、秋山祐徳太子、中上光雄、森下啓子、靉嘔

都夫人の物心両面にわたるご協力により実現したのが『瑛九作品集』です。
瑛九作品集『瑛九作品集』
1997年10月1日 
日本経済新聞社発行
204ページ 
B4変形判(32.0×26.0cm)
クロス装
図版 : 油彩130点、コラージュ・フォトデッサン45点、銅版画39点、リトグラフ23点、
他に参考図版68点
監修 : 本間正義
(美術評論家連盟会長、前埼玉県立近代美術館長)
作家論 : 五十殿利治(筑波大学助教授)
年譜・文献 : 横山勝彦(練馬区立美術館学芸員)
編集:綿貫不二夫、三上豊

都夫人のご健康を心から祈っています。
〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

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森本悟郎のエッセイ「その後」第33回

森本悟郎のエッセイ その後

第33回 井上洋介(1931〜2016)(3) 井上さんを介して


昨年12月29日にこんなツィートがあった。
「トムズボックスの店、2015年12月28日にて閉店しました。閉店というのは閉店で29日から、来ていただいてもやっておりませんからね。来ないでくださいね。だから30日もやっておりませんよ。お正月もやりません。ずーっと閉店ですからね。本当に有難うございました。土井章史」
絵本の編集者で出版人でもある土井さんが、1993年から続けてきた絵本の書店を閉じたのだった。トムズボックスは品揃えが個性的で、コアな大人のファンも多かった。ギャラリースペースとなる壁面もあり、月替わりで土井さん好みの絵本作家やイラストレーターたちの作品を展示販売していた。ラインナップは荒井良二、井上洋介、宇野亞喜良、片山健、スズキコージ、長新太、和田誠ほかそうそうたる作家たちで、なかでも長さんと井上さんは別格だった。ちなみに店のロゴマークは井上さんの手になるもの。入り口にはその木製看板が下がっていた。

トムズボックスのロゴマークトムズボックスのロゴマーク


トムズボックスという存在を知ってはいたが、ぼくが初めて訪ねたのは井上洋介展が決まってからで、井上さんから土井さんを紹介されてのことである。以後、ぼくは上京するとしばしば訪れることになる。店番はいつも土井さんというわけではないが、たまに店主がいるときは、〈洋介さん〉の近況を訊ねるところから話がはじまるのだった。
井上さんは散歩好きで、一人浅草や江東地区を歩いてはスケッチするのだが、遠方へのひとり旅は苦手なようで、C・スクエアでの個展の際は土井さんを伴って現れた。井上さんは心から土井さんを信頼していたのだった。その土井さんが店じまいをしてから1カ月ちょっと後の2月3日、井上さんは亡くなった。

「井上洋介 絵画作品展」が渋谷のギャラリーで開かれた(アツコバルー、2016年11月26日〜12月25日)。会期中にアリス研究家の桑原茂夫氏と土井章史さんの対談があり、展示を見がてら聴講した。ぼくの井上洋介像と重なるところがたくさんあり、情景を思い浮かべながら頷いたものだが、土井さんから新たに学ぶことも多かった。
※今後の井上洋介展覧会情報はこちら

対談・桑原茂夫×土井章史『こんなにすごい画家がいた!井上洋介さんのこと』
桑原茂夫(左)×土井章史(右)
(2016年12月21日)


井上真樹さん同会場でお目に掛かった長女の井上真樹さん



横浜在住で神奈川県職員(司書)だった大内順さんも、井上洋介展を機に井上さんから紹介された一人だった。大内さんはぼくと同世代で、コレクションしている作家が秋山祐徳太子、吉野辰海、美濃瓢吾と、その嗜好が重なることからすぐにうち解け、親しくなった。大の井上洋介ファンで、コレクションの柱はむろん井上作品だった。ぼくたちはたいてい「井上さん」とか「洋介さん」と呼んでいたが、彼は「洋介先生」としか言わなかった。それほど敬愛していたのである。
大内さんは2005年に癌で亡くなった。その通夜の席で見た井上さんの打ちひしがれた姿は忘れられない。まるで最愛の息子を失ったかのような落ち込み方だった。
※「野毛地区街づくり会」のホームページで大内さんが書いた文章を見つけた。
http://noge-town.net/?p=9010

ドイツ文学者で評論家の種村季弘さんは井上さんを介して知り合ったわけではないが、井上さんを語る上で外すことができない。
種村さんが平素から井上さんに畏敬の念を抱いていたことを知っていたので、展覧会リーフレットに紹介文を依頼したところ、「橋と坂の妖怪画家」という画家・井上洋介の姿をくっきりと浮かび上がらせる、珠玉の小文を寄せていただいた。

種村・井上・梅村井上展初日に中京大学・総長室で
(左から種村季弘さん、井上洋介さん、梅村清弘総長・理事長〈当時〉)


その後、種村さんの美術家論集『奇想の展覧会 戯志画人伝』出版を記念して、書中取り上げた実作品で展覧会をしようということになり、31人に及ぶ作家の作品を集め「種村季弘 奇想の展覧会 戯志画人伝【実物大】」展を開いた(C・スクエア、1999年)。展覧会取材に訪れたNHK「新日曜美術館」スタッフの「どこでインタビューを?」との問いに、すかさず種村さんは井上作品の前を指定した。取材に立ち会いながら、「種さんほんとうに井上さんが好きなんだな」と感じ入ったものだ。
※種村さんも2004年に亡くなった。いずれ種村さんについても書くことがあろう。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、元永定正です。
20161228_motonaga150520_23元永定正
「のびるしろ」
1981年  シルクスクリーン
36.0×57.0cm
Ed.150  サインあり

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本日の瑛九情報!
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今回の近美の展示物のメインは山田光春さん旧蔵の作品・資料群です。
山田さんの功績のひとつは膨大な資料を集め、人々にインタビューして瑛九の評伝を刊行したことですが、そのもととなったのが瑛九の会の機関誌『眠りの理由』への連載でした。
瑛九の会の設立趣意書をお読みください。
20161228_eiq

発起人の筆頭は瀧口修造、ついで久保貞次郎、杉田正臣、杉田都、オノサト・トシノブ山田光春、宇佐美兼吉、木水育男の8人。事務所は当初は東京の尾崎正教宅に置かれ、のちに福井県勝山の原田勇さんが担当されました。
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瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

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森本悟郎のエッセイ「その後」第32回

森本悟郎のエッセイ その後

第32回 井上洋介(1931〜2016)(2) たくさんの抽斗


井上さんが意識的に絵を描きはじめたのは小学校5年生頃。亡くなった兄の残した油絵画材を使うようになってのことである。絵の具を買い足しにひとり文房堂へ通ったとは、じつに早熟な絵画少年ではあった。クレヨンや水彩と異なり、重厚なマチエール表現が可能な油彩は構築していくような感覚があり、初めの一筆から画家気分を味わうことができることを、経験者ならご存知だろう(大抵は途中からそれが錯覚だったことに気づくのだけれど)。この時分から井上少年は画家になる決意をしていたという。
当時はルオーに惹かれた。藤田嗣治のようには描けないが、ルオーのようになら描ける、という思いがあったようだ。後年の油彩画はルオーの色彩や宗教的静謐さはないものの、荒々しい黒く縁取られた形体や筆触にその片鱗を認めることができるだろう。そういえばイエローオーカーやバーントアンバーに黒色を混ぜたような、井上さんのタブローに見られる暗褐色の色調は、武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科時代の教授である麻生三郎の影響があるかもしれない。ぼくが武蔵美に在学していた1960年代末から70年代初頃の油絵専攻学生作品にもそんな色遣いがずいぶんあった。

室内図室内図


階段階段


油画の主要なモチーフとなっていたのは〈食〉〈穴〉〈行列〉〈室内〉〈電球〉などで、これらは戦中戦後に体験した飢餓、着弾跡、戦災で焼け出された人たち、空襲警報の恐怖、灯火管制などがベースとなっている。そんなテーマを扱うにはこの手法と色調がピタリだった。


戦後、井上さんは都立日本橋高校美術科で版画を学んでいる。先生が版画家で、版画しか教えてくれなかったのだそうだ(入学したのは夜間定時制で、日中は土方仕事に就いていた)。この経験がのちに独自の木版画を生むこととなる。力強く太い、黒々とした輪郭線で形づくられた画面は、素朴な外見に似合わず、まことに周到に構成されたものである。木版作品はそのメディウムの特性からか、油彩にない伸びやかな空気が漂っていて、仕事の合間の楽しみとして制作されたのであろうことが窺える。

『乱風図異』トムズボックス(2004)より『乱風図異』トムズボックス(2004)より



絵の好きな子供にはよくあるが、井上さんも漫画好きで、漫画を描いては雑誌に投稿していたようだ。大学在学中に読売新聞の漫画投稿欄で注目され、漫画家・小島功に誘われて独立漫画派に参加。画家と漫画家という二つの顔を持つことになる。初期の井上さんの漫画はベン・シャーンを彷彿させるようなペンのタッチが見られるなど、同時代美術の動向を意識しながら試行している様子が窺われる。この1950年代、中村宏・池田龍雄・河原温らによって手がけられたアヴァンギャルド芸術の一方法としてのルポルタージュ絵画が、漫画との親近性が強いものであったことも、井上さんの漫画表現に少なからず影響していることだろう。スタイルが確立したのは、60年代初めに「マンガをやめようと思い、しめくくりの意味」(『井上洋介の世界』立風書房)で自費出版した『井上洋介漫画集 サドの卵』だった、とぼくは見ている。以後そのスタイルを駆使しながら多様なテーマを深化させていくのだが、井上さんの芸術的な漫画は美術評論家や文士、編集者たちの注目するところとなり、展覧会開催や挿絵の仕事へと広がっていく。

04「ツムジ」
『がんま』1号 独立漫画派(1956)


05『井上洋介漫画集 サドの卵』(1963)



初の漫画集である『サドの卵』に先立つ1960年、井上さんは絵本『おだんごぱん』(福音館書店)を出している。これはロシア民話の邦訳に、木版画風の挿絵をつけたものである。井上さんが一般の人たちに知られているとすれば、絵本作家・挿絵家としてであり、わけても「くまの子ウーフ」(神沢利子・作)シリーズで育った親子は多いはずだ。


井上さんの活動の場は絵画・漫画・イラストレーション・絵本と幅広いが、同時にその手法も油彩・水彩・鉛筆・ペン・墨・木版・リノリウム版、さらに蠟画なるものまで多彩である。多くの作家はリニアに作風を変えていくが、井上さんは同時並行でさまざまな媒体と画材と技法を使い分ける(ついでながら、詩にも俳句にも味わい深い作品を残している)という、じつに豊かな抽斗をもったアーティストでありアルティザンだった。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、エド・ベイナードです。
20161128_baynard_01_hanaエド・ベイナード
「花」
1980年   木版
作品サイズ:70.0×100.0cm
A.P.11/16  Singed

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本日の瑛九情報!
遂にナショナル・ミュージアムで実現した瑛九の回顧展示。担当されたのは大谷省吾さん、近美の主任研究員です。県立美術館などでは「学芸員」と言いますが、国立美術館(独立行政法人)の場合はなぜか「研究員」。先日分厚い研究書を出版したばかりです。もちろん瑛九にも触れています。
201606大谷省吾大谷省吾
『激動期のアヴァンギャルド
シュルレアリスムと日本の絵画 一九二八−一九五三』

2016年 国書刊行会 発行
664ページ
21.7x17.0cm
8,800円(税別)
*ときの忘れもので扱っています。メールにてお申し込みください。

瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

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