森本悟郎のエッセイ

森本悟郎のエッセイ「その後」第45回(最終回)

森本悟郎のエッセイ その後

第45回(最終回) 種村季弘(1933〜2004) (2)奇想の展覧会


種村さんから打診を受けた展覧会は、開催に際して大学当局・運営委員会ともに了解を得るには意義も内容も十分だったから、課題は会期と予算2点にあった。種村さんは画廊春秋での開催(’98年7月20日〜8月1日)からできるだけ近い時期の開催を望んでおられたが、それでは夏休み中となること、さらに勤務先の大学の予算は単年度制なので、年度途中の補正はよほどのことでない限り認められないことである。
しかしこれには前例がないわけではなかった。この年1月にC・スクエア第2会場(’06年1月閉場)で、特別展※1として開催した「どこかにいってしまったものたち クラフト・エヴィング商會不在品目録 1897-1952」展である。これは筑摩書房の松田哲夫さんからの依頼に応えて急遽引き受けたものだった。この時の条件は〈会期は当該年度の企画展を了えたあと〉と〈経費をギリギリにまで抑制する〉のふたつ。実際、人件費節約のため、作家たちとともに会社取締役だった松田さんも展示作業に奮闘していた。
ということで、前例に倣って会期は翌 ’99年新春からとし、経費は企画展予算を少しずつ削ってプールするということで、大学当局・運営委員会・種村さんの了解を取りつけた。2000年頃までは予算に幾分ゆとりがあったのが幸いした。
「種村季弘『奇想の展覧会』——戯志画人伝[実物大]」は ’99年1月9日から2月27日にかけて開催した。会期を長くしたのは、種村さんが渾身の力を注いだ展覧会※2へのぼくなりのリスペクトと、会期中に定期試験や入学試験があることによるものである。出展作家は中西夏之、吉野辰海、清水晃、井上洋介、秋山祐徳太子、谷川晃一、平賀敬、吉村益信、赤瀬川原平、横尾忠則、横尾龍彦、渡辺隆次、木葉井悦子、杉本典巳、片山健、スズキコージ、合田佐和子、野中ユリ、一原有徳、長岡国人、川原田徹、清原啓子、森ヒロコ、梅木英治、四谷シモン、九谷興子、菊畑茂久馬、池田龍雄、田中信太郎、篠原有司男、桑原弘明の31人※3。種村好みの錚々たる日本人美術家たちが揃った。この展観は美術エッセイ集『奇想の展覧会 魏志画人伝』出版を記念したもので、そこに登場した27人に4人の友情賛助作家を加えた種村季弘キュレーションのグループ展である。著書で紹介した作品の〈実物〉を展示するというコンセプトにもとづいたものだった。もちろんすべて口絵の実物が揃えられたわけではなかったが、1冊の書から生まれた展覧会というのは画期的な試みといえよう。

001種村季弘『奇想の展覧会 魏志画人伝』河出書房新社、1998


初日には種村・谷川・四谷3氏によるトークイベントを開催。オープニングレセプションには出展作家や関係者はじめ多くの来場者で賑わった。この展覧会がNHK「新日曜美術館」で紹介されたというのは以前書いた※4

002トークイベント (左から)谷川晃一、種村季弘、四谷シモン 撮影:銭谷均


螻慕、コ鬚ィ譎ッ-1展示風景


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思えばこの ’99年というのが種村さんの晩年では一番輝いた時だったかもしれない。秋には著作集『種村季弘のネオ・ラビリントス』で第27回泉鏡花文学賞を受賞し、中華料理屋で開かれた二次会では親しい仲間に囲まれて、たいそうご機嫌だった。
’00年4月に種村さんの雑誌取材にお供して、岐阜県の揖斐川と養老の滝に出かけたときはよく歩き、カメラマンへてきぱきと注文をつけていた。しかしその2年後に悪性リンパ腫が見つかり、翌年がんの手術。リハビリに努めるも ’04年8月不帰の人となった。享年71。
没後10年経った ’14年9月から10月にかけて「種村季弘の眼 迷宮の美術家たち」展が板橋区立美術館で開催された。生前種村さんが愛し、論じた国内外の作家たちの作品を糾合した展覧会である。

003「種村季弘の眼 迷宮の美術家たち」展ポスター

***
本ブログは今回で終了します。3年9カ月にわたってこのような場を用意してくださった「ギャラリーときの忘れもの」の綿貫ご夫妻、ウェブページにアップの労を執ってくださったスタッフの方々、そして連載にお付き合いくださった皆さまに心から感謝申し上げます。
今後はウェブサイトを移し、4月からタイトルも新たに再開の予定です。〈http://03fotos.com/03magazine/〉を訪ねてみてください。

※1 「第○○回企画」と謳わない、C・スクエアのオリジナル企画とは異なる展覧会の呼称。「奇想の展覧会」も特別展として開催された。
※2  画廊春秋では「奇想の展覧会」開催前日の飾り付けの指揮まで執っていた。初日の種村さんはじつに溌剌としていて健康そのものに見え、3年前の脳梗塞からすっかり立ち直ったようだった。
※3 中西夏之から菊畑茂久馬までは著書の登場順。池田龍雄、田中信太郎、篠原有司男、桑原弘明は賛助作家。
※4 当ブログ「第33回 井上洋介 (3)井上さんを介して」(2016年12月)。


もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、鬼海弘雄です。
20171110_kikai_01鬼海弘雄
〈アナトリア〉シリーズ
《22羽のアヒルと冬の気球(トルコ)》

2009年撮影(2010年プリント)
ゼラチンシルバープリント
イメージサイズ:29.1×43.6cm
シートサイズ:40.5×50.5cm
Ed.20 裏面にサインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆冬季休廊のお知らせ/ときの忘れものは12月29日(金)から新年1月4日(木)まで休廊します。

◆ときの忘れものには小さな庭があります。彫刻家の島根紹さんの作品を2018年1月末まで屋外展示していますので、ご来廊の折にはどうぞご覧ください。

◆ときの忘れもの今年最後の企画「WARHOL―underground america」は本日が最終日です。
201712_WARHOL

1960年代を風靡したアングラという言葉は、「アンダーグラウンドシネマ」という映画の動向を指す言葉として使われ始めました。ハリウッドの商業映画とはまったく異なる映像美を目指したジョナス・メカスアンディ・ウォーホルの映画をいちはやく日本に紹介したのが映画評論家の金坂健二でした。金坂は自身映像作家でもあり、また多くの写真作品も残しました。没後、忘れられつつある金坂ですが、彼の撮影したウォーホルのポートレートを展示するともに、著書や写真集で金坂の疾走した60〜70年代を回顧します。
毎日15時、16時、17時の三回メカス映画「this side of paradise」を上映します
1960年代末から70年代始め、暗殺された大統領の未亡人ジャッキー・ケネディがモントークのウォーホルの別荘を借り、メカスに子供たちの家庭教師に頼む。週末にはウォーホルやピーター・ビアードが加わり、皆で過ごした夏の日々、ある時間、ある断片が作品には切り取られています。60〜70年代のアメリカを象徴する映像作品です。(予約不要、料金500円はメカスさんのNYフィルム・アーカイブスに送金します)。

◆埼玉県立近代美術館で新春1月16日〜3月25日の会期で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」が開催されます。
会員制による共同版元として現代版画センターは1974〜1985年に約80作家、700点のエディションを世に送り出しました。全国各地で展覧会、頒布会、オークション、上映会、講演会、パネルディスカッション等を頻繁に開きましたが、今回の展覧会では、その中から埼玉近美が選んだアンディ・ウォーホルなど45作家、約300点の作品と、11年間に発信された機関誌など資料が一部展示換えをしながら展観されます。
パンフレット_04


●書籍のご案内
版画掌誌5号表紙600
版画掌誌第5号
オリジナル版画入り美術誌
ときの忘れもの 発行
特集1/ジョナス・メカス
特集2/日和崎尊夫
B4判変形(32.0×26.0cm) シルクスクリーン刷り
A版ーA : 限定15部 価格:120,000円(税別) 
A版ーB : 限定20部 価格:120,000円(税別)
B版 : 限定35部 価格:70,000円(税別)


TAKIGUCHI_3-4『瀧口修造展 III・IV 瀧口修造とマルセル・デュシャン』図録
2017年10月
ときの忘れもの 発行
92ページ
21.5x15.2cm
テキスト:瀧口修造(再録)、土渕信彦、工藤香澄
デザイン:北澤敏彦
掲載図版:65点
価格:2,500円(税別) *送料250円
*『瀧口修造展 I』及び『瀧口修造展 II』図録も好評発売中です。


安藤忠雄の奇跡安藤忠雄の奇跡 50の建築×50の証言
2017年11月
日経アーキテクチュア(編)
B5判、352ページ
価格:2,700円(税別) *送料:250円
亭主もインタビューを受け、1984年の版画制作始末を語りました。
ときの忘れもので扱っています。

国立新美術館の「安藤忠雄展―挑戦―」は、大盛況のうちに終了しました。
展覧会については「植田実のエッセイ」と「光嶋裕介のエッセイ」を、「番頭おだちのオープニング・レポート」と合わせ読みください。
ときの忘れものでは1984年以来の安藤忠雄の版画、ドローイング作品をいつでもご覧になれます。


◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
 ・小国貴司のエッセイ「かけだし本屋・駒込日記」は毎月5日の更新です。
 ・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
 ・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
 ・関根伸夫のエッセイ「〈発想〉について[再録]」は毎月12日の更新です。
 ・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
 ・倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。
 ・小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。
 ・清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」は毎月20日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」は毎月25日の更新です。
 ・スタッフSの「海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。

 ・森本悟郎のエッセイ「その後」は今回で終了します。ご愛読ありがとうございました。

 ・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」はしばらく休載します。
 ・大野幸のエッセイ<ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサート>は随時更新します。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は終了しました。
 ・森下隆のエッセイ「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」は終了しました。
 ・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は終了しました。
 ・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は終了しました。
 ・普後均のエッセイ「写真という海」は終了しました。
 ・八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は終了しました。
 ・光嶋裕介のエッセイ「和紙に挑む」は終了しました。
 ・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は終了しました(時々番外編あり)。
 ・荒井由泰のエッセイ「いとしの国ブータン紀行」は終了しました。
 ・森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」は終了しました。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイや資料を随時紹介します。
 ・「オノサト・トシノブの世界」は円を描き続けた作家の生涯と作品を関係資料や評論によって紹介します。
 ・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。
土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
 ・「関根伸夫ともの派」はロスアンゼルスで制作を続ける関根伸夫と「もの派」について作品や資料によって紹介します。
 ・「現代版画センターの記録」は随時更新します。
今までのバックナンバーの一部はホームページに転載しています。

●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
新天地の駒込界隈についてはWEBマガジン<コラージ12月号>をお読みください。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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森本悟郎のエッセイ「その後」第44回

森本悟郎のエッセイ その後

第44回 種村季弘(1933〜2004) (1)シブとタネ


ぼくが種村季弘という名をはじめて知ったのは大学生になってからで、その初めが西洋美術史の講義※1で聞きかじったマニエリスムへの興味から読んだG・R・ホッケの『迷宮としての世界』訳者としてだったか、『血と薔薇』執筆者のひとりとしてだったか、今となっては判然としないが、タネムラスエヒロという名前だけは銘記した(秋山祐徳太子さんを通じて種村さんと知己を得たのだが、それは金沢で脳梗塞を患った ’95年以降のことである)。

霑キ螳ョ縺ィ縺励※縺ョ荳也阜グスタフ・ルネ・ホッケ著、種村季弘・矢川澄子共訳『迷宮としての世界』美術出版社、1965


ともあれ『血と薔薇』購読を機に、澁澤・種村両作品を対のように愛読していて、読書傾向の似た友人たちとは二人を〈シブタネ(澁種)〉などと呼びならわしていた。ともに達意の文章家だが、種村さんを読みはじめた頃は、その語り口から澁澤さんより年長かと思っていた。晩年自らを〈徘徊老人〉と称した種村さんだが、若い時分から老成した印象だった。
「この人とは読むものがずいぶん一致しているな」※2というのが種村さんの澁澤さんについての第一印象だった。たしかに澁澤さんと種村さんの嗜好には文学によらず、美術でも映画・演劇でも重なるところは多い。しかし二人を対比させてみると、〈フランス文学 対 ドイツ文学〉〈シュルレアリスム 対 ダダイスムあるいはマニエリスム〉〈マルキ・ド・サド 対 L・ザッヘル=マゾッホ〉〈幼児性 対 老人性〉〈ノンシャラン 対 勤勉〉等々といった具合で、その違いが大きいことに気づかされる。
25歳と27歳の2度、肺結核を患った澁澤さんには蒲柳の質という印象がつきまとうが、27歳で種村さんがA型肝炎を患ったのは大阪の《釜ヶ崎でへんなもの食ってたため》※3である。私生活でも澁澤さんは子をなさなかったが、種村さんには二人の息子がいる。長じてから、澁澤さんは鎌倉市小町から市内の山ノ内に越しただけだが、種村さんは都内はもとより神奈川・埼玉など十数回引っ越しをしている。〈生活〉についての考え方・姿勢がまるで異なるのだ。種村さんはひとりで海外に出かけたし、ふらりと場末の居酒屋を訪れもしたたが、澁澤さんはしないだろうしできなかっただろう。
澁澤さんは小説を書いたが、種村さんは書かなかった。しかしその種村さんにも〈創作〉の癖(へき)はあるようで、《種村さんに事実と違うことを書かれた》と赤瀬川原平さんから聞いたことがある。この件は赤瀬川さんが文章にも書いていて※4、ことの委細は省くが、《でも、種さんが書くとそっちの方が本当みたいでね》というのには笑った。エッセイや評論のなかにフィクションを忍ばせることで、種村さんは創作願望を満たそうとしていたのではないだろうか。〈フェイク〉が〈ファクト〉を凌駕するという昨今の社会を、種村さんは哄笑しながら先取りしていたように思う。
澁澤さんは種村さんのことを密かに〈スーパー・インテリ〉と呼んでいたらしい※5。博覧強記で知られる澁澤さんが種村さんに一目置いていたというのは興味深いことだ。さらに澁澤さんと親交が深かった三島由紀夫が《澁澤は出典とかネタの出所が全部わかるんだよ(中略)そういう意味では、出所がわからないだけに、俺は種村(季弘)が好きだな》と言っていたという詩人・高橋睦郎の証言もある※6。それはつまり、種村さんが書物のみならず足で稼ぎ、市井に紛れ込んで聞き耳をたて、しっかと情景を目に焼きつける、あるいは興味ある人物には直接会って取材する、というフィールドワークを加えることでネタの出所を突き止めにくくさせたということではないか。
それでも二人ともに畏敬をもって親交を深めていたことは、相互に書いたものを読めば伝わってくる。種村さんは澁澤さんの死去に際して「出棺の辞」を読み、その後『澁澤龍彥全集』全22巻・別巻2(河出書房新社)と『澁澤龍彥翻訳全集』全15巻・別巻1(同)の編集委員、『澁澤龍彥文学館』全12巻(筑摩書房)の編集協力をしている。その種村さんには『種村季弘のラビリントス』全10巻(青土社)と『種村季弘のネオ・ラビリントス』全8巻(河出書房新社)という2種の著作集はあるが全集はない。これがぼくには不満だ。

貔∵セ、縺輔s螳カ縺ヲ繧吝壕蠕御コ疲凾縺ォ縺願幻繧種村季弘『澁澤さん家で午後五時にお茶を』河出書房新社、1994

これは前に書いたことだが、1998年4月、津市の三重県立美術館で「ライカ同盟展『三重視』」を開催し、初日のトークイベントに種村さんをゲストに招いた※7。ライカ同盟の赤瀬川・秋山・高梨3同盟員と種村さんは旧知の仲であり、三重県は御尊父の出身地でもあることから、ふさわしい人選だった。
トークを了え、名古屋での関係者による打ち上げ会の席でのことだ。種村さんから、7月に日本人美術家たちについて書いたエッセイ集を出版し、それに合せて本に登場する作家たちのグループ展を銀座の画廊春秋※8で開くことになっているが、ついてはその拡大版をC・スクエアで開くことはできないだろうか、と打診を受けた。展覧会の内容は種村さんならではのラインナップで、文句なく面白いものだったから実現したいと思ったが、ぼくの権限で即断できることではないので、その場では実現に向けて努めるとだけにとどめた。何よりまずいことに、その年のスケジュールは前年に決まっており、話を聞いた2日前に運営委員会が開かれたため、翌年の企画も決定済だったのである。どうしたものかと、頭をめぐらせることになった。

※1 中森義宗武蔵野美術大学講師(当時)の講義である。
※2 種村季弘・出口裕弘「対談 澁澤龍彥の幸福な夢」(種村季弘『澁澤さん家で午後五時にお茶を』河出書房新社、’94)
※3 種村季弘╳渡辺一考「対談 茶利放談会」(『別冊幻想文学 怪人タネラムネラ 種村季弘の箱』アトリエOCTA、’02)
※4 種村季弘「包装の論理──赤瀬川原平」(『奇想の展覧会 魏志画人伝』河出書房新社、’98)のことであり、そのいきさつは赤瀬川原平「ゲスト・エッセイ 覚醒する徘徊老人」(『種村季弘のネオ・ラビリントス 6 食物読本』河出書房新社、’99)参照。
※5 堂本正樹「『血と薔薇』の時代」(『別冊幻想文学 澁澤龍彥スペシャル 機.轡屮汽錙Εロニクル』幻想文学出版局、’88)
※6 「水晶と模型の夢 鼎談・高橋睦郎╳松岡正剛╳朝吹真理子」(『文學界』2017年8月号)
※7 当ブログ「第21回 赤瀬川原平とライカ同盟 ⑶ 三重視」(2016年2月)参照。この展覧会について種村は「三重視」という文章を残している(種村季弘『雨の日はソファで散歩』ちくま書房、’05)。
※8 もとはコレクターでもあった浅川邦夫がオーナーだったが、’95年に種村季弘の子息品麻のパートナーである幸子が経営権を譲り受けたもの。’99年銀座2丁目に移転するとともに、スパンアートギャラリーと名称を変え、現在にいたる。浅川のコレクションは足利市立美術館に寄託されている。


もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、南桂子です。
20171128_20171128_minami_11南桂子
《日本の茂み》
銅版  1977年
イメージサイズ:35.0×28.2cm
シートサイズ:55.9×37.8cm
Ed.50 サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆本日から5日間「メキシコ地震被災地支援・チャリティー頒布会」を開催します。
201711mexico
会期:2017年11月28日(火)〜12月2日(土)
出品100点のリストは11月11日ブログに掲載しています。
全作品、一律8,000円で頒布し、売上金全額を被災地メキシコに送金します。
事前の作品予約が80点を超え、ほとんどの作品に複数の申し込みがあり抽選となりました。おかげで一点もお買いになれない方が40人も。嬉しいのか、惜しいのか・・・・・


◆銀座のギャラリーせいほうで宮脇愛子展が開催されています。
201711MIYAWAKI「宮脇愛子展 last works(2013〜14)」
会期=2017年11月20日[月]〜12月2日[土] ※日・祝日休廊
会場=ギャラリーせいほう 
〒104-0061 東京都中央区銀座8丁目10-7 東成ビル1F
電話:03-3573-2468
最後の新作である油彩を中心に立体(ガラス、真鍮)、ドローイング、版画など。


●書籍のご案内
TAKIGUCHI_3-4『瀧口修造展 III・IV 瀧口修造とマルセル・デュシャン』図録
2017年10月
ときの忘れもの 発行
92ページ
21.5x15.2cm
テキスト:瀧口修造(再録)、土渕信彦、工藤香澄
デザイン:北澤敏彦
掲載図版:65点
価格:2,500円(税別)*送料別途250円
*『瀧口修造展 I』及び『瀧口修造展 II』図録も好評発売中です。


安藤忠雄の奇跡安藤忠雄の奇跡 50の建築×50の証言
2017年11月
日経アーキテクチュア(編)
B5判、352ページ
(NA建築家シリーズ 特別編 日経アーキテクチュア)
価格:2,700円+税 *送料:250円
亭主もインタビューを受け、1984年の版画制作始末を語りました。
安藤先生のサイン本をときの忘れもので扱っています。

六本木の国立新美術館では「安藤忠雄展―挑戦―」が開催されています。
会期:2017年9月27日[水]〜12月18日[月]
番頭おだちのオープニング・レポートはコチラを、光嶋裕介さんのエッセイ「安藤忠雄展を見て」と合わせてお読みください。
ときの忘れものでは1984年以来の安藤忠雄の版画、ドローイング作品をいつでもご覧になれます。


◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
 ・小国貴司のエッセイ「かけだし本屋・駒込日記」は毎月5日の更新です。
 ・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
 ・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
 ・関根伸夫のエッセイ「〈発想〉について[再録]」は毎月12日の更新です。
 ・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
 ・倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。
 ・小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。
 ・清家克久のエッセイ「瀧口修造を求めて」は毎月20日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」は毎月25日の更新です。
 ・スタッフSの「海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
 ・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」はしばらく休載します。
 ・大野幸のエッセイ<ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサート>は随時更新します。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は終了しました。
 ・森下隆のエッセイ「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」は終了しました。
 ・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は終了しました。
 ・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は終了しました。
 ・普後均のエッセイ「写真という海」は終了しました。
 ・八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は終了しました。
 ・光嶋裕介のエッセイ「和紙に挑む」は終了しました。
 ・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は終了しました(時々番外編あり)。
 ・荒井由泰のエッセイ「いとしの国ブータン紀行」は終了しました。
 ・森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」は終了しました。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイや資料を随時紹介します。
 ・「オノサト・トシノブの世界」は円を描き続けた作家の生涯と作品を関係資料や評論によって紹介します。
 ・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。
土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
 ・「関根伸夫ともの派」はロスアンゼルスで制作を続ける関根伸夫と「もの派」について作品や資料によって紹介します。
 ・「現代版画センターの記録」は随時更新します。
今までのバックナンバーの一部はホームページに転載しています。

●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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森本悟郎のエッセイ「その後」第43回

森本悟郎のエッセイ その後

第43回 澁澤龍彥(1928〜1987)と堀内誠一(1932〜1987) (2)旅の仲間


澁澤・堀内展を運営委員会で提案したのはフランス文学者で評論家の巖谷國士さんだった。2007年が澁澤・堀内両氏の没後20年に当たること、20年間にわたる80数通の手紙が残されていること、それによって一見異質な二人の深い親交をつまびらかにできること、そして堀内書簡のほとんどは魅力的なイラストレーション入り(その多くは旅先のもの)だという説明に惹かれた。ほかに写真などビジュアル資料を加えることができれば充実した展観となるだろうと考え、澁澤・堀内両家の遺族にそのプランをお伝えした。

澁澤(旧姓前川)龍子さんは元『芸術新潮』の編集者で、家が鎌倉にあることから原稿受け取りなどでよく澁澤家を訪れ、やがて澁澤さんと結婚する。澁澤さんに初めて海外旅行へ出かける決意をさせたのは龍子さんである。夫妻は4度ヨーロッパ旅行をしており、うち2回は途中堀内夫妻も同行している。龍子さんはC・スクエアに何度か来ていて、既知の間柄だったので話は通じやすかった。
展示品集荷に北鎌倉の澁澤邸を訪ねたのは、展覧会を翌月に控えた5月某日。鎌倉文学館で開催中の「澁澤龍彥 カマクラノ日々」展を見、浄智寺の澁澤龍彥墓所を参ってからだった。

01堀内書簡(年ごとにまとめられている)


堀内路子さんも元編集者。以前このブログで井上洋介さんが ’60年に初の絵本『おだんごぱん』を出したと書いた※※が、井上さんを推したのが当時福音館書店の編集者だった路子さんである。路子さんは龍子さんよりも、堀内さんよりも前から澁澤さんとは親交があった。
澁澤書簡と旅にまつわる堀内さんのイラストレーション集荷は澁澤家の1週間後。イラストレーションのコンディションチェックには長女の花子さんに立ち会って貰った。ちなみに花子さんは澁澤夫妻4回目のヨーロッパ旅行の際、堀内夫妻とともに帯同している。翻訳家で、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ロベール・ドアノー、ジャック=アンリ・ラルティーグなど写真集の翻訳が多い。
「澁澤龍彥・堀内誠一 旅の仲間」展は ’07年6月25日から7月28日まで開催し、7月1日に巖谷さんを司会に澁澤龍子さんと堀内路子さんのトークイベントを開いた。物故者の展覧会というのも、5週間の会期も、日曜日のイベント開催も異例のことだった。

02展覧会ポスター


03トークイベント(左から、巖谷國士、堀内路子、澁澤龍子)


展示は〈手紙〉〈写真〉〈イラストレーション〉〈書籍〉の4種類で、その中核をなす手紙は2枚の透明アクリル板に挟んで壁面に展示した。手紙につけたキャプションには〈発信年月日〉〈発信者名・受信者名〉を記した。アエログラム(航空書簡)による堀内書簡は表裏にわたって書かれているものが多いため、展示した原本では全文を読むことができない。そこで、すべてをスキャンしてパソコン上で編集し、A3判用紙にプリント。それを冊子仕立てで閲覧できるようにした。また私信ゆえのプライバシーの機微に触れる箇所は、現物はアクリル板に、プリントは編集時に加工して伏せ字とした。
写真は旅先で龍子さんが撮ったもので、オリジナルプリントの額装、拡大したデジタルプリントのパネル装、テレビ画面のスライドショーという3種類の展示方法を採用した。イラストレーションはすべて額装して壁面に展示し、関連書籍はアクリルケースに入れてテーブルに乗せた。加えて二人の対照年譜を掲げ、足跡をたどることができるようにした。
展示作業を了えてみると、当初想像していたよりはるかにビジュアルな構成になっていて、美術展として愉しむこともできることがわかった。

04会場風景-1(会場入口から)


05会場風景-2(写真はクレタ島クノッソス宮殿の「牛の角を象った玉座」に腰掛ける堀内誠一と澁澤龍彥【撮影:澁澤龍子】。この展覧会のシンボル・イメージである。ケース内は『血と薔薇』のオリジナル、復刻版、文庫版および、澁澤から堀内への責任編集者辞任の通知と詫び状)


06会場風景-3


07会場風景-4

「旅の仲間」という展覧会タイトルについて企画監修をした巖谷さんは、

二人を「旅の仲間」と呼んでみたのは私自身だが、この言葉には二通りの意味がふくまれるように思う。ひとつには、両者の亡くなる年に出た『國文学』誌七月号の澁澤龍彥特集に、堀内誠一の書いた「旅のお仲間」(トルキーン『指輪物語』の瀬田貞二訳から借りた言葉)が頭にあったからだ。つまりそこに回想されているように、二人は一九七七年初夏に南フランスとカタルーニャの旅を、一九八一年夏にギリシアと北イタリアへの旅をともに愉しんだ、文字どおりの「旅の仲間」だったということである。※※※

と解題しているが、その巖谷さん自身についての記述も手紙の中にあり、「旅の仲間」のひとりとして企画に臨んだことが偲ばれる。
この展覧会にはおまけがつく。
展覧会を遡ること3か月前、秋山祐徳太子さんの新著『ブリキ男』出版記念パーティーがあった。そこで秋山さんから晶文社の担当編集者(当時)宮里潤さんを紹介されたので、自己紹介がてらその年の企画展ラインナップについて話した。興味深げにそれを聞いていた宮里さんは、なかでも「旅の仲間」展に興味をもったようだった。図録を作る予算がない当方としては、出版社が本にしてくれればと考え出版を勧めた。後日、書籍化にめどが立ったとのことで、巖谷さん、龍子さん、路子さん、花子さんを紹介した※※※※
二人の手紙は展覧会のちょうど1年後、巖谷さんの詳細な註を付した『旅の仲間 澁澤龍彥│堀内誠一往復書簡』として刊行された(展覧会後に見つかった数通を除き、掲載された手紙の図版はすべて展覧会に際してスキャンしたデータを使っていて、伏せ字も展覧会を踏襲している)。展覧会がそれを見た人たちの〈記憶〉の中だけにとどまるのでなく、このようなかたちで残すことができたのは幸いだった。

08巖谷國士編『旅の仲間 澁澤龍彥│堀内誠一往復書簡』(晶文社、2008年6月)


※その前に矢川澄子さんとヨーロッパ旅行をする計画があったらしいが、離婚により実行されなかった。
※※2016年11月28日「第32回 井上洋介 ⑵ たくさんの抽斗」
※※※巖谷國士「澁澤龍彥と堀内誠一」『ユリイカ 特集*澁澤龍彥』青土社、2007年8月
※※※※https://www.1101.com/editor/2008-09-12.html


もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。

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森本悟郎のエッセイ「その後」第42回

森本悟郎のエッセイ その後

第42回 澁澤龍彥(1928〜1987)と堀内誠一(1932〜1987) (1)二人の出会い


今年は〈澁澤龍彥没後30年〉ということで、著書の復刊や特集した雑誌の刊行、展覧会※※の開催(予定含む)が相次いでいる。昨年7月には「澁澤龍彥 没後30年を迎える会」が神田駿河台の山の上ホテルで開かれた。

01「澁澤龍彥 ドラコニアの地平」展フライヤー


02「澁澤龍彥 没後30年を迎える会」澁澤龍子さんの挨拶


では〈没後20年〉はどうだったのかといえば、’07年に埼玉県立近代美術館で「澁澤龍彥 ─幻想美術館─」展※※※が、そして中京大学アートギャラリーC・スクエアで「澁澤龍彥・堀内誠一 旅の仲間」展を開催している。今回の標題に記したように、二人の没年は’87年で、命日も8月5日(澁澤)と17日(堀内)と近く、ともに下咽頭癌が原因だった。同展はそんな数奇な巡り合わせの二人の交流を書簡や刊行物、写真、資料などを通じて検証する試みで、常の〈作品展〉とは趣が異なるばかりか、〈現存作家による個展〉を原則としていた点でも異例といえる。
ぼくが出た高校は比較的自由な校風で、教師とも心安く話せる伝統があった。入学直後のこと、生徒たちに教師も交えて談笑していた。どんな話題からか、ある教師が「憲法では『出版その他一切の表現の自由は、これを保障する』と定めているけれど、伊藤整のチャタレー裁判をはじめとして表現の自由をめぐる事件が後を絶たない。〈サド裁判〉もそうだ」と言い、次いで出たのが澁澤龍彥という名だった。

06現代思潮社編集部編『サド裁判』上・下 現代思潮社(’72・新装版)


教師の話しぶりからその人物に興味をもち、初めて手にした著作が『夢の宇宙誌』(美術出版社、’64)で、今も手元にある。該博な知識を惜しげもなく鏤(ちりば)めた文章に学校の授業がバカバカしくなるほどの知的刺激を受けたが、わけてもこの書を通じて未知の〈美学〉に触れた経験は、やがてぼくを美術の世界に向かわせる遠因のひとつとなった。

03澁澤龍彥『夢の宇宙誌』美術出版社(’64)
14歳で伊勢丹宣伝課に就職したという、名うてのデザイナー、アートディレクターである堀内誠一さん※※※※は、『an・an』『POPEYE』『BRUTUS』(平凡出版、現マガジンハウス)などの創刊時のアートディレクターとして雑誌界に新風を吹き込んだが、同時にイラストレーター、絵本作家、文筆家、旅行家と多彩な顔ももっていた。責任編集・澁澤龍彥、アートディレクター・堀内誠一という二人のコラボレーションによる雑誌『血と薔薇』(天声出版)が刊行されたのは’68年。当時の定価1000円は大学生の身には恐ろしく高価だったが、生活費を切り詰めて買い求めた※※※※※。堀内夫人の路子さんが澁澤さんと旧知の仲だったことから澁澤さんと堀内さんは知り合うことになる。路子さんによれば、澁澤さんと《堀内とはそんなに親しくしていなかった。そしたら澄子さん※※※※※※と澁澤君が別れた後、入れ違いに今度は堀内の方が仕事で年中接触するようになった》と語っているから、『血と薔薇』を機に二人が急接近したことがわかる。コラボレーションの例はその後も創刊当初の『an・an』に澁澤訳で童話を掲載したり、ローラン・トポール『マゾヒストたち』(薔薇十字社、’72)を編集・澁澤、装丁・堀内で刊行するといった具合である。

04堀内誠一『父の時代 私の時代』マガジンハウス版


05『血と薔薇』No.1〜3 天声出版


’74年に家族とともに堀内さんがパリ近郊のアントニーに移住し、友人たちに絵入りの手紙を送り始める※※※※※※※ところから澁澤さんと手紙のやりとりが増え、親交は一層深まっていくのである。
もりもと ごろう

※『別冊文芸 澁澤龍彥ふたたび』河出書房新社、『文学界』「特集 稲垣足穂(没後四十年)・澁澤龍彥(没後三十年)・深沢七郎(没後三十年)──奇想と偏愛の系譜」文藝春秋
※※「澁澤龍彥没後30年」LIBRAIRIE6 / シス書店(第1部:8/5−20、第2部:9/9−10/22)、「澁澤龍彥 ドラコニアの地平」世田谷文学館(10/7−12/17)
※※※4月7日〜5月20日開催。会場となった埼玉県立近代美術館のある浦和北公園は、澁澤龍彥が在籍した旧制浦和高校跡地である。
※※※※その活躍ぶりは、堀内誠一『父の時代 私の時代』(日本エディターズスクール出版部、’79/マガジンハウス、’07)に詳しい。
※※※※※澁澤龍彥・責任編集は3号までで、4号は責任編集が平岡正明になった。その変貌ぶりは同じ雑誌とは見えず、全く買う気が失せたことを覚えている。1〜3号はのちに『血と薔薇 復原』(白順社、’03)として復刻版が、『血と薔薇コレクション』(河出文庫、’05)として文庫版も出た。
※※※※※※矢川澄子(1930〜2002)、作家・翻訳家。
※※※※※※※堀内誠一『パリからの手紙─ヨーロッパスケッチドキュメント』(日本エディターズスクール出版部、’98)


森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

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●今日のお勧め作品は、難波田龍起です。
20170928_nambata_49難波田龍起
《(作品)》
1975年
色紙に水彩
イメージサイズ:22.0×20.0cm
シートサイズ:27.0×24.0cm
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森本悟郎のエッセイ「その後」第41回

森本悟郎のエッセイ その後

第41回 中平卓馬(1938〜2015)(3) 「日常 ─中平卓馬の現在─」展


《昭和五十二年九月中頃、(中略)急性アルコール中毒症と言う忌まわしき大病で死にかか》った(『新たなる凝視』)昏倒事故以後、中平さんは1978年に『アサヒカメラ』(12月号)で「沖縄 写真原点機廚鬟ラーで発表している。これは『なぜ、植物図鑑か』で《モノクロームの暗室作業にはあった〈手の痕跡〉を私はきれいさっぱり捨てようと思う》と宣言したところから始めたものだ。しかしその後刊行された『新たなる凝視』はモノクロームとカラー、『ADIEU A X』はモノクロームで、一度はやめたはずのモノクロームをカラーと併用していたことがわかる(ちなみにこの頃のカラーはネガフィルムである)。

01縲取眠縺溘↑繧句・隕悶€『新たなる凝視』晶文社、1983


02縲拶DIEU A X縲『ADIEU A X』河出書房新社、1989


それが1990年頃からカラーポジにシフトする。ポジはより徹底して〈手の痕跡〉を残しえない手段である。推測に過ぎないが、〈記憶喪失〉とも言われている昏倒事故を経ても、中平さんには〈植物図鑑〉というコンセプトへの継続的意思が働いていた、と考えざるをえない。「中平の新作で」と高梨豊さんは言ったが、新作とはまさにそのカラーポジによる写真のことだった。中平さんの現像所行きにつき合う間に、新作による展覧会構想が高梨さんに浮かんだのだろう。
まずは中平さんの近作がどのようなものか全体像をつかむため、96年9月高梨さんとご自宅を訪ねた。2階の8畳ほどの和室には、ネガが溢れんばかりの箱やマウントされたポジの山がいくつもあった。ともかく見てみようということで、高梨さん持参の大型ライトビュアーに、膨大といってよいほどのポジを手当たり次第ならべてはルーペで覗く、という作業を繰り返した。フィルムマウントには日付や場所の記載がないため制作順に配列することはできないが、見続けているうちに、テーマごとには分類できると思った。種類が多いとはいえないモチーフを繰り返し撮っていることがわかったからだ。ピントは概ねよく合っているが、露出にはバラツキがありハレーションの見られるカットもあった。ただ、そのポジの山から展覧会を成立させるような作品を選び出せるのか、ぼくにはまったく自信がなかった。帰路そのことを話したら、高梨さんはひと言「中平がどう選ぶかだよね」と。
2度目の訪問からは中平さんによる作品選定に立ち会うこととなる。すべて縦位置で撮られたポジを2点ひと組で選ぶのが中平さんのやり方だった。選んでは差し替え、ある程度揃ったかと思うとバラす。こんな作業が幾度も繰り返された。中平さんにとっては決定的な最終組み合わせは無いかのようだった。
ある日のこと、昼食後2階の部屋に戻り、午前中に選び・組み合わせ・配列したポジを当然のように中平さんがバラそうとしたとき、高梨さんが「中平さん、これで行こうよ」とそれを制した。中平さんもそれに頷いた。その時選ばれたのが26組52点の出品作品となった※。
C・スクエアの企画展としては20回目となる「日常 ─中平卓馬の現在─」展は1997年6月から7月にかけて開催した。昏倒事故から20年目のことである。初日には企画者である高梨さんと、中平さんとは雑誌での共同連載をもっていた旧知の間柄である赤瀬川原平さんによる、対談形式のトークイベントを行った。ただし、テーマは「写真と絵」というもので、中平展を題材としていなかった。これは〈敢えて避けた〉というのが正しいだろう。それほど〈言語化〉するのが難しい展覧会だった。

03 螻戊ヲァ莨壹・繧壹せ繧ソ繝シ「日常 ─中平卓馬の現在─」展ポスター


04 莨壼エ鬚ィ譎ッ-1会場風景-1


05 莨壼エ鬚ィ譎ッ-2会場風景-2


06 鬮俶「ィ繝サ襍、轢ャ蟾晏ッセ隲高梨豊・赤瀬川原平対談「写真と絵」


高梨さんは中平さんの撮っていた当時の写真の価値を認めていたから展覧会を企画し、中平さんに作品セレクトを委ねた。それでもその選択基準や組み合わせ、表現意図を量りかねていたのではないか、と推測される。ぼくとて4週間のあいだ毎日観ていながら、その展観を他人にどう伝えたらいいのか、おおいに悩んだものだ。
この展覧会には中平さんに私淑していた人たちや、その活動を注視していた人たちの来訪が少なからずあったが、中平さんを知っていればいるほど大きな疑問を抱えて会場を後にしたようだ。たとえば横浜美術館学芸員として「中平卓馬展 原点復帰─横浜」(2003)をキュレーションした詩人・批評家の倉石信乃さんは《「いったいなんなんだ、この写真は」と思》ったという※※。

07縲主次轤ケ蠕ゥ蟶ー・肴ィェ豬懊€「中平卓馬展 原点復帰─横浜」図録


その倉石さんは最近、《この展観は紛れもなく写真史的な事件であり、当の写真史を鋭く審問するものでもあった。それらの「作品」はどれも評定することが著しく困難な、事物の直截的で透明な把握に貫かれており、しかも2点1組で配されるイメージの照応は、簡明さの重畳によってかえって複雑なコノテーションを湧出する。当時すでに歴史に登録され始めていた『プロヴォーク』における中平の写真にも増して、挑発的と言うほかはなかった》と記している※※※。
来場者たちをコンフューズさせたこの展覧会の後、予想以上に中平卓馬再評価の気運が高まり、展覧会や復刊を含めた作品集刊行が増え、ドキュメンタリー映画も作られた。
中平さんの前期の活動がわずか14年ほどであるのに、後期は38年にもわたる。ところがその後期の作品群については、確たる評価が定まらない状態が続いてきた。しかし2015年に中平さんが亡くなってから、少しずつその状況は変わってきているように思われる。先に引用した倉石さんの論考※※※はその好例である。さまざまなエピソードや言説によって、ともすると伝説化されやすいこの希有な写真家の、〈非神話化〉作業がさらに進められることを願っている。


※ 中平さんのネガやポジの杜撰な保管状態をまのあたりにして、ぼくは展覧会後の作品保全を危惧した。そこで、展示用プラスもう1セット作成して別途保管したい旨、高梨さんと中平さんに伝えて了解を得た。ただ、展覧会予算では1セットしか作成できないので、もう1セットはぼくの私費で賄った。展覧会後、1セットは作家の手元に、もう1セットはぼくが預かった。13年頃、中平さんの具合が悪いと聞き、手元の作品を売却して全額渡すべく公的な買い手を探したところ、東京都写真美術館が手を上げたが、存命中には間に合わなかった。その後、著作権継承者がご子息に決まり、無事受取人となった。
※※ 八角聡仁、倉石信乃「入門 中平卓馬、その軌跡と問い」(『中平卓馬 来たるべき写真家』河出書房新社、2009)
※※※ 倉石信乃「人と動物 後期中平卓馬の写真」(中平卓馬『沖縄』ラットホールギャラリー、2017)
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

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●今日のお勧め作品は、長崎美希です。
20170828_nagasaki_01長崎美希
《スイミングああちゃん》
2009年
高さ 4.5cm
木彫(ジェルトン)
サインあり

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TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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森本悟郎のエッセイ「その後」第40回

森本悟郎のエッセイ その後

第40回 中平卓馬(1938〜2015)(2) 言葉と写真


中平卓馬の活動は大きく〈前期〉と〈後期〉に分けることができる。前期は1963年から77年9月10日まで、後期はその翌日から2015年に亡くなるまでである。
63年、中平さんは雑誌『現代の眼』(現代評論社)の編集者となり、同誌を中心に書評など文筆活動を開始。編集者として寺山修司、東松照明と知己を得、東松さんの提案による連載グラビアページを通じて森山大道、高梨豊といった写真家たちと知り合い、自らも写真を撮りはじめる。65年退職して本格的に写真家としての活動に入ると、東松さんの誘いで「写真100年 日本人による写真表現の歴史展」(日本写真家協会)の編纂委員になる。同展準備のため集められた膨大な写真を調査する過程で、写真は自己〈表現〉ではなく世界の〈記録〉だと考えるようになる。
同時に中平さんには写真制作上──自身の常套句を使えば──〈乗り超える〉べき相手があった。《東松照明氏との出遇い、それがぼくが写真を撮り始める唯一のきっかけであった》が、《親しみ、コンプレックス、それが裏返された(中略)敵愾心》を抱く存在でもあった(「日本の現実を凝視する視線の両義性──東松照明『I am a king』」)。ウィリアム・クラインの『ニューヨーク』を分析することで得た手法も、『provoke』をオーガナイズすることも、中平さんには東松さんという先蹤を意識してのことだったのではないか。
70年、中平さんの提案で『provoke』が解散。同年、初の写真集『来たるべき言葉のために』(風土社)を刊行。巻末にいくつかの文章が収められており、はじめてこの写真を見たときのとりとめなさを文章が補完してくれたのを記憶している。

01初の写真集『来たるべき言葉のために』風土社
※装丁:木村恒久
2010年のオシリス版では装丁が変わり巻末文章を省略


翌71年の重要なトピックスは、まず『朝日ジャーナル』に「植物図鑑」「博物図鑑」「都市」を発表したこと。後の〈植物図鑑〉の着想につながる仕事だった。次いで「第7回パリ青年ビエンナーレ」(ヴァンセンヌ植物園)に参加したこと。これは「サーキュレーション−日付、場所、イベント」と題した日々増殖するインスタレーションで、《毎日ホテルからパリの町へ出てゆく。テレビを見、新聞や雑誌を見、流れる人々を見、そしてビエンナーレ会場で他の作家の作品を見、そしてそれを見る人々を見る。ぼくはそれらことごとくをフィルムに収録し、それらをその日のうちに現像、引伸しを行い、夕方から夜にかけて水洗後のまだぬれている写真を貼りつけ展示する》というもの。個性的・私的〈表現〉を捨て、〈記録〉に徹する行為を示そうとした。《およそ一五〇〇枚の写真を与えられた壁面に貼り、さらにフロアや受付のカウンターにまで貼りめぐらした》が、《思わぬトラブルから、仕事着手から数えて一週間で中止》せざるを得なくなった(「写真、一日限りのアクチュアリティ」)。そして前回触れた「白川・アマノ裁判」となり、このあたりからぼくの中平さん体験が少しはっきりしてくる。

07『サーキュレーション―日付、場所、行為』
オシリス、2012


08展示風景
(『サーキュレーション―日付、場所、行為』より)


この年中平さんの映像観を揺さぶる事件が起きる。「沖縄ゼネスト警察官殺害事件」と呼ばれるもので、11月10日沖縄返還協定批准阻止を訴える全島ゼネストのさなか、警察官が死亡。翌日読売新聞に載った2枚の写真を証拠に、松永青年が殺人罪で逮捕・起訴された事件である。写真のキャプションでは青年が火だるまになった警察官をめった打ちにしたとしているが、そこに居合わせた人たちは青年が警察官を救い出そうとしていたと証言。つまり同じ写真に全く異なる解釈が成立するということであり、写真の〈記録〉性に疑問を抱かせることになる(「記録という幻影 ドキュメントからモニュメントへ」)。

02『讀賣新聞』
1971年11月11日朝刊


その果てにたどり着いたのが〈植物図鑑〉のように写真を撮るという発想だった。『provoke』の代名詞でもある〈アレ・ブレ〉はいかにも〈詩〉的であり、モノクロームを選んだことが〈手の痕跡〉を残すことになって《情緒という人間化をそこにしのび込ませていた》と自省。《イメージを捨て、あるがままの世界に向き合うこと、事物(もの)を事物として、また私を私としてこの世界に正当に位置づけることこそわれわれの、この時代の、表現でなければならない》と考えた。そこで《直接的に当の対象を明快に指示すること》、《あらゆる陰影、またそこにしのび込む情緒を斥けてなりたつ》こと、《あらゆるものの羅列、並置》であること、《けっしてあるものを特権化し、それを中心に組み立てられる全体ではない》ということから図鑑に思いいたった。しかも《動物はあまりになまぐさい、鉱物ははじめから彼岸の堅牢さを誇っている。その中間にあるもの、それが植物である》という理由から〈植物図鑑〉としたのである(「なぜ、植物図鑑か」)。

03初の評論集『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』
晶文社

『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』(晶文社)を出した73年、「沖縄ゼネスト警察官殺害事件」裁判に参加するため初めて沖縄を訪れる。74年は多木浩二氏ら企画の「写真についての写真」展(シミズ画廊)、「15人の写真家」展(東京国立近代美術館)に出品し、75年は「ワークショップ写真学校」に講師として参加するが、スランプだったのだろうか、『なぜ、植物図鑑か』刊行以降写真の発表が減っている。

04「15人の写真家」東京国立近代美術館
※出展作家:荒木経惟、北井一夫、沢渡朔、篠山紀信、高梨豊、田村彰英、内藤正敏、中平卓馬、新倉孝雄、橋本照嵩、深瀬昌久、森山大道、柳沢信、山田脩二、渡辺克巳


05「15人の写真家」中平卓馬のページ


76年、『アサヒカメラ』誌上で篠山紀信の写真と中平さんの文章による「決闘写真論」を1年間連載。当時ぼくはこの組み合わせを訝しんだ。中平さんの文意が理解できないわけではない。けれども篠山作品に目を移したとたん「そうだろうか?」と今でも思うのだ。それはともかく、この連載最終回の末尾に、《アッジェ、エバンス、篠山、この三人は再び私を写真にひき戻した》と記した。ここには自ら発した言葉に突き動かされて写真に向かおうとする姿がある。しかし中平さんは優れて言葉の人である一方、その言葉が写真行為を縛りつけていたように思われる。

06『決闘写真論』
朝日新聞社


この連載は翌77年単行本化されるが、その刊行直前の9月10日に〈泥酔して昏倒、記憶の一部を失う〉(委細不明)という事故が起きる。これが活動の前期と後期の境界である。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、葉栗剛です。
20170728_haguri_2201葉栗剛
<男気>《龍》
2017年
木彫 楠木、彩色
H27cm
サインあり

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移転記念コレクション展
会期:2017年7月8日(土)〜7月29日(土) 11:00〜18:00 ※日・月・祝日休廊
※靴を脱いでお上がりいただきますので、予めご了承ください。
※駐車場はありませんので、近くのコインパーキングをご利用ください。
201707_komagome_2出品作家:関根伸夫、北郷悟、舟越直木、小林泰彦、常松大純、柳原義達、葉栗剛、湯村光、瑛九、松本竣介、瀧口修造、オノサト・トシノブ、植田正治、秋葉シスイ、光嶋裕介、野口琢郎、アンディ・ウォーホル、草間彌生、宮脇愛子、難波田龍起、尾形一郎・優、他

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ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分、名勝六義園の正門からほど近く、東洋文庫から直ぐの場所です。

◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。

森本悟郎のエッセイ「その後」第39回

森本悟郎のエッセイ その後

第39回 中平卓馬(1938〜2015)(1) 記憶のなかの中平卓馬像


C・スクエアの企画はすべてぼくが決めていたと思われているふしがあるが、そんなことはない。設置当初から運営委員会方式を採用し、展覧会の企画案はぼくのであれ委員のであれ、公平に会議で俎上に載せられる。企画の承認は全員一致が原則だったから、だれの提案であっても退けられる可能性はある。思いのほか開催ハードルは高いものだった。
1996年4月の運営委員会で「中平卓馬の展覧会を開きたい」と発言したのは委員の写真家・高梨豊さんだった。一瞬ぼくは耳を疑った。個展のような作品発表形態をずっと拒否してきたのが写真家・中平卓馬だと思っていたからだ(89年に森山大道さんの展示スペース〈FOTO DAIDO〉で「あばよX」展を開催していたことは後に知った)。中平さんを知る他の委員たちも驚いたに違いない。「できるんですか」と尋ねると、「やりたいと思っているはずだ」と答え、中平さんがほぼ毎日ひとりで写真を撮りに出かけていること、撮影済みフィルムが溜まった頃合いに高梨さんから声をかけ、現像所まで一緒に行っていることなど、中平さんの近況を語った。
ぼくが「中平卓馬」という名を最初に目にしたのは1960年代の終わり頃だったろうか。当時ぼくの大きな関心事は芸術と社会的問題で、自分のアンテナに引っかかったさまざまな雑誌や本を読み漁っていた。今ではそれがどの雑誌だったか忘れたが、ちょっと気になる写真と文章に出会った。それは情動的にみえながら静謐さを湛えた画像と挑発するような社会的思想的発言だったように記憶しているけれど、それは後からつくりあげたイメージかもしれない。しかし「卓馬」という名前は紛れもなく印象に刻まれた。中平さんが高梨豊、多木浩二、岡田隆彦、森山大道らと出していた『provoke』(プロヴォーク)については情報こそ目にしていたものの、実際に手に取ったことはなかった。

01『provoke』第1号(1968年11月1日9日)

さらに中平卓馬をくっきりと銘記したのは70年代初め、パロディ事件として知られた「白川・アマノ裁判」の論戦を通じてだった(とはいうものの白川・写真家協会側は「盗人」呼ばわりするばかりで、もっぱら論陣を張ったのはアマノ側)。これは山岳写真家の白川義員氏が撮影した画像をフォトモンタージュ作品に無断使用したと、デザイナーのマッド・アマノ氏を損害賠償で訴えた裁判で、この時アマノ擁護の急先鋒は木村恒久さんだった。フォトモンタージュ作品を大々的に展開していた木村さんにはとても他人事ではなかったからだ。ぼくは赤瀬川原平さんの「千円札裁判」とともに芸術裁判のゆくえに興味津々で、関連記事も追いかけていた。そんな中で中平さんのアマノ擁護論も見つけたのだった。それは、

白川義員氏のアルプスの写真が表現であるとするならば、マッド・アマノ氏の「軌跡」もまた同等の表現であると私は考える。問題はまずこの一点を認めたうえで初めて立てられるべきである。その際マッド・アマノ氏が白川義員氏の写真を素材として使ったのは、〈中略〉それが既存のイメージであるからにほかならない。(中平卓馬「複製時代の「表現」とはなにか」『朝日ジャーナル』1972年9月29日号)

という原作のオリジナリティに対して疑義を挟むものであり、白川作品については「フジヤマ、ゲイシャなどと同列の絵はがき的なアルプスの「美しい」写真」(同)とまで言い切っている。

02(左)白川作品 (右)アマノ作品 
(「著作権その可能性の中心」〈http://copylawyer.blogspot.jp/2015/06/220131213.html〉より)


ぼくが中平さんに注目したのは、写真家以前にまずこのような論客としてである。作品を意識的に見はじめたのも、その言説との整合性を確認するためだった。ジャンルを問わず表現に関心をもっていたとはいえ、当時ぼくの興味の大半は絵画で、写真の比率が高いわけではなかった。それでも写真は気になるメディウムであり、少しずつ、つとめて写真も見るようになっていった。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、ハ・ミョンウンです。
20170603_ha_17_MINIseriesハ・ミョンウン 河明殷
"MINI series(5)"
2011年
Foamex acrylic
22.0x15.0x3.1cm
サインあり

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森本悟郎のエッセイ「その後」第38回

森本悟郎のエッセイ その後

第38回 角偉三郎 (2) 展覧会とその後


角偉三郎さんに初めて会ったのは1994年7月のこと。展覧会作家としてではなく、勤務先の中京大学へのアートワーク提供者としてだった。その後、輪島の仕事場や各地の展覧会場で作品に触れ話を聞くうちに、ふだん作っている器ではないもので展覧会を企画できないかと考えるようになった。
いつだったかそんなことを角さんに話したところ、見せたいものがあるから輪島まで来ませんか、と誘いを受けた。輪島駅に出迎えてくれた角さんは、「お昼はまだですね」と訊ね、「手仕事屋」という門前の蕎麦屋に案内した。そこで供されたそばは、ざるならぬ角さんのへぎ板に盛られていた。「実はこれの大きなのを作りましてね、それを見てもらいたくて」。
食後連れて行かれたのはそこからほど近い、別荘地となっている山の中腹に建てられたアトリエだった。「曼荼羅工房」と名付けられたその建物は、外壁全てが柿渋で塗装された下見板張りという輪島の伝統的な木造建築で、土間は赤土と砂利に消石灰とニガリを混ぜた本格的な三和土(たたき)である。考えごとをするとき、一人になりたいときにここへ来る、漆芸の仕事だけでなく、執筆や書もこの工房で行うのだという。多忙を極める作家の隠れ家という趣きだった。
見せられたのは90×180cmほどもある巨大なへぎ板だった。蕎麦が盛られたへぎ板は薄く剥いだ板を継いだものだったが、それは丸太から割り出した角材を継いだといった感じで、捩れ、平らな面はどこにもないながら、重厚で存在感の際立つ板は、床に置くとそのまま卓となるのだった。「これを10枚、立木のように床から立てるというのはどうでしょう」と言った角さんの頭の隅には、へぎ板を作品としてではなく素材として使うという、インスタレーションのイメージが浮かんでいたのだろう。人の背よりも高い大へぎ板が林立する様子は、迫力があって確かに面白い。しかしそれだけではコンセプトとしていささか弱いように思えた。
幾度か目にした仕事場には、そこで働く人たちは気にも留めないが、傍目には実に興味深いものがたくさんあった。例えば下地漆を塗った器を並べる板。これには長い間に垂れた漆が堆積し、高台の跡が紋様をなしていて、もとの用途を離れて漆のオブジェとなる。あるいは作業工程で使われた濾紙や密閉ラップは事後捨てられるものだが、付着した漆が乾くと、漆をまとった抽象的オブジェに変容する。そんな話を角さんとやりとりしているうちに、大へぎ板とラップの2種類で展示を構成してみようということになった。最大と最小の組み合わせである。
「黙森」と題した展覧会は2000年の掉尾(11.18〜12.16)で、角さんはちょうど60歳だった。大へぎ板を立てるため固定用金物を特注し、ラップはガラス容器やこれも特注のアクリルボックスを用意して、生物標本か宝石のように展示した。会場の中央に大木が林立するようにへぎ板を配置し、周囲をその雫のようなラップで囲んだ。対照的な2種類のオブジェによるインスタレーションだが、主役はもちろん〈漆〉だった。

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C・スクエアの個展が角さんにとって劃期となったかどうかはわからない。それでも展覧会には満足したと言い、また器に戻りますと笑ったことを覚えている。たぶん、作品を売らなくてもよい展覧会というものを楽しんだことだろう。
展覧会から5年後、能登の和倉温泉に角偉三郎美術館ができ、そのひと月後に心不全で亡くなった。美術館のオープニングには招待を受けながら仕事のために出席できなかったし、葬儀も同様だった。いつか再開したいと語っていた、沈金の仕事に戻ることなく不帰となったのも残念である。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、宮脇愛子です。
20170528_miyawaki_15宮脇愛子
"Work" (15)
2013年
紙に銀ペン
イメージサイズ:24.5×24.5cm
シートサイズ :42.1×29.7cm
サインと年記あり

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森本悟郎のエッセイ「その後」第37回

森本悟郎のエッセイ その後

第37回 角偉三郎(1940〜2005) (1)漆芸界の異端児か?


C・スクエアという展示場所について、ぼくは特定のジャンルにこだわるつもりは当初からなかった。それは〈全ての表現は等価である〉という確信がもたらしたものだ。だからC・スクエアをコンテンポラリーギャラリーとみる人がいても、それが〈同時代の〉という本来の意味であれば結構なのだが、狭義の〈現代美術〉というカテゴリーを指すならば、それは正鵠を射ていないといえる。ぼくが求めたのは多様な表現であり、時代を共に生きる表現ということだった。
その意味で、漆芸家の角偉三郎さんは正しくコンテンポラリーの表現者だった。
角さんは伝統的な漆芸の町である輪島にあって、同業者から愛され畏敬もされながら、異端とも評される作家だった。制約が多い伝統工芸品としての輪島塗の要件を踏み外しているようにみられたからである。若くして卓越した沈金※※技術によって日本現代工芸美術展で現代工芸賞、日展で特選を受賞するも、ある時期から自身の生き方と漆芸を重ね合わせるように、その来し方行く末を探るようになる。網野(善彦)史学に触れるとともに民俗学や柳宗悦の民芸論にも親しみ、日本列島という地理的特性、わけても能登の風土が育んだものへ目を注いでゆく。そんな中での能登半島柳田村で作られていた生活雑器、合麓椀(ごうろくわん)との出会は、角さんの後半生を決定づける漆芸の原点となる。

03角偉三郎「盛椀」


何度も塗り重ねて磨き上げられ、さらに沈金や蒔絵で加飾されるものもある華美で端正な伝統的輪島塗とは対照的に、漆を垂らすように扱ったり、手指で直接漆を塗りつけたりと少々アナーキーにもみえる角作品は、その実〈伝統的〉と称する工芸よりさらに遡った〈伝統〉への回帰だったのかもしれない。あるいは文化地理学的観点から、畿内で発達し洗練された乾漆に代表される西国文化と東北や関東で普及した荒々しい鉈彫りに代表される東国文化の出会いを、その中間地点である能登の地で受け止めようとしたのかもしれない。
いずれにせよ下地専門職人の家に育った角さんは、漆の扱いに関してまずは伝統に忠実だった。しかし同時に漆のもつ可能性も徹底的に追求した。漆のもつ可能性とは、角さんにはただ塗料としての漆にとどまらず、そのベースとなる〈木地〉も含んでのことである。木地師にはずいぶんルーティンから外れた難題をもちかけたという。その一つに〈へぎ板〉がある。〈へぎ〉とは〈剥ぐ・剥がす〉の訛言で、木材を楔などで割き、それを継いで板にしたのがへぎ板なのだが、割ったへぎ目は鋸で切るように真っ直ぐにはならないし厚みもそれぞれバラつきが出て、継いでもデコボコの状態となる。端正で寸法も均一に作るのが輪島木地師の矜持とすれば、これは抗いたくなるような仕事だったはずだ。そこを角さんは説得し、押し通した。いつだったか、京都高島屋での大規模な個展のオープニングに、角さんは木地師はじめ工房の職人さんたちを引き連れて出席、その場で彼ら一人ひとりを紹介して謝辞を贈った。作品に名前こそ出ないが、彼らの支えがあっての仕事であることを伝えたかった、とのことだった。

04角偉三郎「へぎ板」


※ 輪島塗の要件:通商産業省告示第172号(昭和50年5月10日)
  http://www.wajimanuri.jp/about/towa
※※ 沈金:漆器の表面に文様を毛彫し、そこに金粉・金箔を埋め込む技法。

もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、馬場檮男です。
20170428_baba_02_akai馬場檮男
「赤いタンク」
1984年
リトグラフ
イメージサイズ:17.5×19.0cm
Ed.365
サインあり


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森本悟郎のエッセイ「その後」第36回

森本悟郎のエッセイ その後

第36回 合田佐和子 (3) C・スクエアで見せたかったこと


C・スクエアで第60回目の企画となる「記憶ファンタジー 合田佐和子展」は2003年12月1日が初日だった。既述のように、そのちょうど1週間前まで「合田佐和子 影像 ―絵画・オブジェ・写真―」展(渋谷区立松濤美術館)が開催されているというタイトなスケジュールのなか、合田さんは自宅では出品作品が搬出を待つように整えてあり、会場では展示作業の指揮にもあたるという、まことに親身な対応ぶりだった。思い返せば最後の、ほんとうに元気な姿を目にしていたのだった。

01「記憶ファンタジー 合田佐和子展」ポスター

じつは松濤美術館での個展はC・スクエアのそれより後に決まったものだったが、ぼくたちは美術館との会期の重なりや展示内容の重複を避けることに努めた。わけても内容については、松濤を経験した人が見ても新たな発見があるようなものにしたいと考えた。それは合田佐和子という作家を振り返るのでなく、今まさに生成しつつある作品の現場を見せる、というところに焦点を当てようということだった。展示作品は極力新・近作に絞り込むこととし、ほかでは見られないような試みについても作家と一緒に検討した。
合田さんが作品制作のモチーフとするためにポラロイドで撮影した石や花の写真をスキャンし、C・スクエアがもっていた大判プリンターでB0大(1030×1456mm)に拡大して、タブローのように見せたのもその試みのひとつだった。写真をもとに描く合田さんの絵画は、独特の色遣いや省略法によって他に類例を見ない個性的な作品になるのだが、極端に拡大されたポラロイド写真はそのまま合田さんのペインティングのようにぼくの目には映った。それは合田さんの創作の秘密を垣間見るような思いでもあった。

02会場風景-1 ※左の大きな5点が拡大したポラロイド写真


03会場風景-2


04会場風景-3

個展の1年後、巖谷國士美術論集出版記念展「封印された星 瀧口修造と日本のアーティストたち」でも合田さんの作品はC・スクエアの壁面を飾った。そのときも作品集荷と返却に合田邸を訪ねている。ただそれ以後、展覧会に足を運んではいたものの、お目に掛かる機会が次第になくなっていった。2012年5月に地元鎌倉で個展(「合田佐和子展 ミルラ」GALLERY B)というので、秋山祐徳太子さんと出かけたが、体調不良との由で作家は不在だった。──そして連載第34回の「ラスト・シーン」展の話に戻るのである。

05「封印された星」展 会場風景 中央の2点が合田作品


具合が良くないとも、電話では元気そうだったとも、いろいろと人づてに聞いていたのだが、昨年2月、突然訃報が舞い込んだ。その月初めには井上洋介さんの逝去があり、気分が沈んでいたところへ追い打ちをかけられたのだった。
合田さんと井上さんはキャラクターも表現上も対極にあるように見えるが、ともに画家・イラストレーターとして活躍しながら、たとえば寺山修司の天井桟敷の美術を担当するなど、カテゴライズできないほど幅広い活動をしたことなど、共通項はいろいろある。
合田さんが生前最後の展覧会を開いたのはみうらじろうギャラリーで、今後も年に1回ぐらいの割で開催するとのこと。興味のある方はホームページ(http://jiromiuragallery.com)に注視されたい。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、関根伸夫です。
関根伸夫「位相ー大地」シルク関根伸夫 「位相ー大地供
1986年 シルクスクリーン
58.7×78.4cm
Ed.75 Signed

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