森本悟郎のエッセイ

森本悟郎のエッセイ「その後」第35回

森本悟郎のエッセイ その後

第35回 合田佐和子 (2) 二つの回顧展


前に「赤瀬川原平とライカ同盟」で触れた「ライカ同盟写真展[博多来襲]」のオープニング・レセプションを了えた翌日、福岡空港から高梨豊さん赤瀬川原平さんは東京に帰り、ぼくと秋山祐徳太子さんは高知に向かった。合田さんの生まれ故郷にある、高知県立美術館の「森村泰昌と合田佐和子」展(2001.2.11〜3.25)初日に駆けつけるためだ。
合田さんの展覧会はいくつも見ていたが、このような規模の回顧展は初めてだった。すでに合田展開催を決めていたぼくは、同展がどのような作品を選び、どのようなくくりで配列するのか、ということに関心をもっていた。その意味では2人展とはいうものの会場を分け、個展を二つ並べたような構成はありがたかった。その合田会場は最初期のものから最新作までの作品が、ほぼ時系列とスタイルによってグルーピングされていた。これは美術館展示の常套的配列であるが、合田佐和子という美術家がいかに生まれ、どのような表現を展開してきたかを端的に伝えるにはすぐれた方法である。
200点近い作品を一堂に展示できるのはさすがに美術館ならではで、C・スクエアの「種村季弘[奇想の展覧会]実物大」(1999)で展示した作品に再会したり、それまで見たことのなかった、高校時代の『セルフ・ポートレート』(1955)や武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)時代の金属・ガラス・陶器・木などを組み合わせたオブジェなどが見られたのも楽しい体験だった。難をいえば絵画とオブジェに偏していて、ポスター・ブックワーク・写真といった合田さんのもう一つの世界が欠落していた。これは展示スペースをシェアしなければならない、2人展という制約がもたらした結果だったのだろう。

01「森村泰昌と合田佐和子」展図録ボックス


02「森村泰昌と合田佐和子」展図録合田版表紙

東京渋谷の松濤美術館で開かれた回顧展、「合田佐和子 影像 ―絵画・オブジェ・写真―」展(2003.10.14〜11.24)は高知展より一層多彩な作品によって、作家の多才を際だたせようとするものだった(ちなみに合田さんは武蔵美時代渋谷区在住だったという)。白井晟一設計の個性的なこの建物の特性を活かして、2階の展示室に初期作品を、地下展示室に近作を配していた。それは単に時系列で作品展開を見せようというのでなく、モノクローム写真をもとに描き始めた初期のやや暗い作品と、エジプト移住敢行(1985〜86)以後の、画面から光を発するような明るい作品とを対照させることで、誰の目にも合田作品の変貌ぶりを際だたせようという試みだった。それは中庭に射す光によって地下展示室の方が2階展示室よりも明るく感じるという、館の構造を知悉している企画者ならではの発想から生まれたものだろう。

03「合田佐和子 影像 ―絵画・オブジェ・写真―」展図録表紙

美術館では個展によって作家の個性と全体像を浮かび上がらせることができる。
では、小規模なわがC・スクエアではどんな合田佐和子展ができるのだろうか、と高知以後ずっと考えていた。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品はクリストです。
 (2)クリスト
《The Museum of Modern Art Wrapped (Project for New York)(Schellmann 37),》
1971年
オフセットリトグラフ
シートサイズ:71.2×55.5cm
Ed.100
Signed

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆ときの忘れものは「小野隆生コレクション展」を開催します。
会期:2017年3月7日[火]―3月25日[土] *日・月・祝日休廊
201703_ONO
岩手県に生まれた小野隆生は、1971年イタリアに渡ります。国立ローマ中央修復研究所絵画科を卒業し、1977〜1985年にイタリア各地の教会壁画や美術館収蔵作品の修復に携わり、ジョットやティツィアーノらの作品に直接触れ、古典技術を習得しました。1976年銀座・現代画廊で初個展開催。資生堂ギャラリー[椿会展]に出品。「ライバルは500年前のルネサンスの画家たち」との揺るぎない精神でテンペラ画手法による制作をしています。2008年池田20世紀美術館で「描かれた影の記憶 小野隆生展 イタリアでの活動 30年」 を開催しました。
本展では、小野の1970年代の初期作品から2000年代の近作まで、油彩・テンペラ・ドローイングなど約15点をご覧いただきます。

◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。

森本悟郎のエッセイ「その後」第34回

森本悟郎のエッセイ その後

第34回 合田佐和子 (1) 不在の展覧会


C・スクエア最後の公式な企画展は、映像作家のかわなかのぶひろさん、美術家の鴻池朋子さん、そして写真家の畠山直哉さんによる「ラスト・シーン」展(2013年12月16日〜2014年1月25日)だった。だが、この展覧会にはもう一人出展するはずだった作家がいた。合田佐和子さんである。
この展覧会はC・スクエアという長編映画の掉尾を飾るラスト・シーンに見立てて開催しようというもので、発案者は専門家委員で写真家の高梨豊さんだった。かわなかさんは自身のがんによる胃の全摘手術体験を経たからだろうか、近年、親しい友人や自らの〈死〉と向きあう、まさに人生のラスト・シーンを見つめるような作品を作り続けている。鴻池さんは壮大な神話的世界をさまざまな表現手法を駆使して構築しているが、それは結末のない物語である。しかしそれゆえに、どこを採ってもラスト・シーンと見做すことができる。畠山さんは東日本大震災で肉親と故郷の風景を失うというアイデンティティに関わる体験から、以後、故郷である陸前高田を撮り続けている。未曾有のカタルシス以後、つまり〈ラスト・シーン以後〉への視線を持ち続けている。選ばれたのはそのような理由からだった。

「ラスト・シーン」展リーフレット-1「ラスト・シーン」展リーフレット


「ラスト・シーン」展リーフレット-2

展覧会の企画会議で合田さんが選ばれたのは、委員で名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉さんが発した、「合田さんの絵は映画のシーンから採ったものだからというわけではないけれど、どの作品もラスト・シーンみたいに見えないだろうか」という言葉がきっかけとなったものだ。言われてみれば、合田さんが描いたあの潤むような瞳の後ろにはエンドマークが控えていそうではないか、と会議出席者は思い浮かべたことだろう。

「90度のまなざし」  2003「90度のまなざし」2003


「ポーラ・ネグリの眼」1988「ポーラ・ネグリの眼」1988


合田さんに出展の意向を尋ねると、嬉しそうに「いいわよ、でも身体の調子が良くないから新作は無理かも」と答えた。その時ぼくが思い描いたのは、個展(「記憶ファンタジー」2003年)と被らない作品であること、できる限り新しいものであること、という作品イメージである。まだ1年半の猶予をもってすれば、新作の1点や2点は出してもらえるだろうと期待もしていた。
年末にラスト・シーン展開催を控えた秋日、出品作品選定のため、約束の時間に鎌倉市浄妙寺の合田邸を訪ねた。ところが、呼鈴を押しても声をかけてもまったく応答がない。事前に確認してあったから留守はないはずとはいえ、不意の用向きでちょっと近所へ、という可能性も無くはなかろうとしばらく待つことにした。
1時間待ったところで、書き置きを戸口に残して辞去した。ひょっとしたら道すがら出会うことがあるかも知れないと、歩いて鎌倉駅に向かった。鶴岡八幡宮にさしかかるあたりだったろうか、携帯電話が鳴った。電話の主は娘さん、合田ノブヨさんだった。電話口で、合田さんはぼくが到着する少し前に緊急入院したこと、フィジカルではなくメンタルな原因のため見舞い無用であること、コミュニケーションに支障があり退院がいつになるか不詳ゆえ今回の出展は難しいこと、などを伝えられた。
こうしてラスト・シーン展は合田さん不参加のまま開催することになった。出展作家たちはそれをとても残念がっていた。そこには合田さんの作品が一緒に並ばないこと、合田さんに会うことができないという無念の思いがあったのではないか。
合田さんは「種村季弘 奇想の展覧会―戯志画人伝[実物大]」展、「記憶ファンタジー 合田佐和子展」、「巖谷國士美術論集出版記念展『封印された星 瀧口修造と日本のアーティストたち』」展の3回、C・スクエアに出展している。次回はそのあたりについて触れてみたい。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、浮田要三です。
20170128_ukita_09浮田要三
「巻物」
油彩・キャンバス
130.5×95.0cm
サインあり


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本日の瑛九情報!
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瑛九没後も半世紀にわたり浦和のアトリエを守り、瑛九顕彰に尽力し、他によくある「独り占め」などせずに、遺されたすべてを快く公開したのが今もご健在の都夫人です。
1997_09_5_フジテレビG瑛九作品集記念展
瑛九作品集刊行記念展オープニング
1997年9月5日
会場:フジテレビギャラリー(お台場)
綿貫不二夫と杉田都(瑛九夫人)
後列左から、秋山祐徳太子、中上光雄、森下啓子、靉嘔

都夫人の物心両面にわたるご協力により実現したのが『瑛九作品集』です。
瑛九作品集『瑛九作品集』
1997年10月1日 
日本経済新聞社発行
204ページ 
B4変形判(32.0×26.0cm)
クロス装
図版 : 油彩130点、コラージュ・フォトデッサン45点、銅版画39点、リトグラフ23点、
他に参考図版68点
監修 : 本間正義
(美術評論家連盟会長、前埼玉県立近代美術館長)
作家論 : 五十殿利治(筑波大学助教授)
年譜・文献 : 横山勝彦(練馬区立美術館学芸員)
編集:綿貫不二夫、三上豊

都夫人のご健康を心から祈っています。
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瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。

森本悟郎のエッセイ「その後」第33回

森本悟郎のエッセイ その後

第33回 井上洋介(1931〜2016)(3) 井上さんを介して


昨年12月29日にこんなツィートがあった。
「トムズボックスの店、2015年12月28日にて閉店しました。閉店というのは閉店で29日から、来ていただいてもやっておりませんからね。来ないでくださいね。だから30日もやっておりませんよ。お正月もやりません。ずーっと閉店ですからね。本当に有難うございました。土井章史」
絵本の編集者で出版人でもある土井さんが、1993年から続けてきた絵本の書店を閉じたのだった。トムズボックスは品揃えが個性的で、コアな大人のファンも多かった。ギャラリースペースとなる壁面もあり、月替わりで土井さん好みの絵本作家やイラストレーターたちの作品を展示販売していた。ラインナップは荒井良二、井上洋介、宇野亞喜良、片山健、スズキコージ、長新太、和田誠ほかそうそうたる作家たちで、なかでも長さんと井上さんは別格だった。ちなみに店のロゴマークは井上さんの手になるもの。入り口にはその木製看板が下がっていた。

トムズボックスのロゴマークトムズボックスのロゴマーク


トムズボックスという存在を知ってはいたが、ぼくが初めて訪ねたのは井上洋介展が決まってからで、井上さんから土井さんを紹介されてのことである。以後、ぼくは上京するとしばしば訪れることになる。店番はいつも土井さんというわけではないが、たまに店主がいるときは、〈洋介さん〉の近況を訊ねるところから話がはじまるのだった。
井上さんは散歩好きで、一人浅草や江東地区を歩いてはスケッチするのだが、遠方へのひとり旅は苦手なようで、C・スクエアでの個展の際は土井さんを伴って現れた。井上さんは心から土井さんを信頼していたのだった。その土井さんが店じまいをしてから1カ月ちょっと後の2月3日、井上さんは亡くなった。

「井上洋介 絵画作品展」が渋谷のギャラリーで開かれた(アツコバルー、2016年11月26日〜12月25日)。会期中にアリス研究家の桑原茂夫氏と土井章史さんの対談があり、展示を見がてら聴講した。ぼくの井上洋介像と重なるところがたくさんあり、情景を思い浮かべながら頷いたものだが、土井さんから新たに学ぶことも多かった。
※今後の井上洋介展覧会情報はこちら

対談・桑原茂夫×土井章史『こんなにすごい画家がいた!井上洋介さんのこと』
桑原茂夫(左)×土井章史(右)
(2016年12月21日)


井上真樹さん同会場でお目に掛かった長女の井上真樹さん



横浜在住で神奈川県職員(司書)だった大内順さんも、井上洋介展を機に井上さんから紹介された一人だった。大内さんはぼくと同世代で、コレクションしている作家が秋山祐徳太子、吉野辰海、美濃瓢吾と、その嗜好が重なることからすぐにうち解け、親しくなった。大の井上洋介ファンで、コレクションの柱はむろん井上作品だった。ぼくたちはたいてい「井上さん」とか「洋介さん」と呼んでいたが、彼は「洋介先生」としか言わなかった。それほど敬愛していたのである。
大内さんは2005年に癌で亡くなった。その通夜の席で見た井上さんの打ちひしがれた姿は忘れられない。まるで最愛の息子を失ったかのような落ち込み方だった。
※「野毛地区街づくり会」のホームページで大内さんが書いた文章を見つけた。
http://noge-town.net/?p=9010

ドイツ文学者で評論家の種村季弘さんは井上さんを介して知り合ったわけではないが、井上さんを語る上で外すことができない。
種村さんが平素から井上さんに畏敬の念を抱いていたことを知っていたので、展覧会リーフレットに紹介文を依頼したところ、「橋と坂の妖怪画家」という画家・井上洋介の姿をくっきりと浮かび上がらせる、珠玉の小文を寄せていただいた。

種村・井上・梅村井上展初日に中京大学・総長室で
(左から種村季弘さん、井上洋介さん、梅村清弘総長・理事長〈当時〉)


その後、種村さんの美術家論集『奇想の展覧会 戯志画人伝』出版を記念して、書中取り上げた実作品で展覧会をしようということになり、31人に及ぶ作家の作品を集め「種村季弘 奇想の展覧会 戯志画人伝【実物大】」展を開いた(C・スクエア、1999年)。展覧会取材に訪れたNHK「新日曜美術館」スタッフの「どこでインタビューを?」との問いに、すかさず種村さんは井上作品の前を指定した。取材に立ち会いながら、「種さんほんとうに井上さんが好きなんだな」と感じ入ったものだ。
※種村さんも2004年に亡くなった。いずれ種村さんについても書くことがあろう。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、元永定正です。
20161228_motonaga150520_23元永定正
「のびるしろ」
1981年  シルクスクリーン
36.0×57.0cm
Ed.150  サインあり

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本日の瑛九情報!
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今回の近美の展示物のメインは山田光春さん旧蔵の作品・資料群です。
山田さんの功績のひとつは膨大な資料を集め、人々にインタビューして瑛九の評伝を刊行したことですが、そのもととなったのが瑛九の会の機関誌『眠りの理由』への連載でした。
瑛九の会の設立趣意書をお読みください。
20161228_eiq

発起人の筆頭は瀧口修造、ついで久保貞次郎、杉田正臣、杉田都、オノサト・トシノブ山田光春、宇佐美兼吉、木水育男の8人。事務所は当初は東京の尾崎正教宅に置かれ、のちに福井県勝山の原田勇さんが担当されました。
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瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

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森本悟郎のエッセイ「その後」第32回

森本悟郎のエッセイ その後

第32回 井上洋介(1931〜2016)(2) たくさんの抽斗


井上さんが意識的に絵を描きはじめたのは小学校5年生頃。亡くなった兄の残した油絵画材を使うようになってのことである。絵の具を買い足しにひとり文房堂へ通ったとは、じつに早熟な絵画少年ではあった。クレヨンや水彩と異なり、重厚なマチエール表現が可能な油彩は構築していくような感覚があり、初めの一筆から画家気分を味わうことができることを、経験者ならご存知だろう(大抵は途中からそれが錯覚だったことに気づくのだけれど)。この時分から井上少年は画家になる決意をしていたという。
当時はルオーに惹かれた。藤田嗣治のようには描けないが、ルオーのようになら描ける、という思いがあったようだ。後年の油彩画はルオーの色彩や宗教的静謐さはないものの、荒々しい黒く縁取られた形体や筆触にその片鱗を認めることができるだろう。そういえばイエローオーカーやバーントアンバーに黒色を混ぜたような、井上さんのタブローに見られる暗褐色の色調は、武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科時代の教授である麻生三郎の影響があるかもしれない。ぼくが武蔵美に在学していた1960年代末から70年代初頃の油絵専攻学生作品にもそんな色遣いがずいぶんあった。

室内図室内図


階段階段


油画の主要なモチーフとなっていたのは〈食〉〈穴〉〈行列〉〈室内〉〈電球〉などで、これらは戦中戦後に体験した飢餓、着弾跡、戦災で焼け出された人たち、空襲警報の恐怖、灯火管制などがベースとなっている。そんなテーマを扱うにはこの手法と色調がピタリだった。


戦後、井上さんは都立日本橋高校美術科で版画を学んでいる。先生が版画家で、版画しか教えてくれなかったのだそうだ(入学したのは夜間定時制で、日中は土方仕事に就いていた)。この経験がのちに独自の木版画を生むこととなる。力強く太い、黒々とした輪郭線で形づくられた画面は、素朴な外見に似合わず、まことに周到に構成されたものである。木版作品はそのメディウムの特性からか、油彩にない伸びやかな空気が漂っていて、仕事の合間の楽しみとして制作されたのであろうことが窺える。

『乱風図異』トムズボックス(2004)より『乱風図異』トムズボックス(2004)より



絵の好きな子供にはよくあるが、井上さんも漫画好きで、漫画を描いては雑誌に投稿していたようだ。大学在学中に読売新聞の漫画投稿欄で注目され、漫画家・小島功に誘われて独立漫画派に参加。画家と漫画家という二つの顔を持つことになる。初期の井上さんの漫画はベン・シャーンを彷彿させるようなペンのタッチが見られるなど、同時代美術の動向を意識しながら試行している様子が窺われる。この1950年代、中村宏・池田龍雄・河原温らによって手がけられたアヴァンギャルド芸術の一方法としてのルポルタージュ絵画が、漫画との親近性が強いものであったことも、井上さんの漫画表現に少なからず影響していることだろう。スタイルが確立したのは、60年代初めに「マンガをやめようと思い、しめくくりの意味」(『井上洋介の世界』立風書房)で自費出版した『井上洋介漫画集 サドの卵』だった、とぼくは見ている。以後そのスタイルを駆使しながら多様なテーマを深化させていくのだが、井上さんの芸術的な漫画は美術評論家や文士、編集者たちの注目するところとなり、展覧会開催や挿絵の仕事へと広がっていく。

04「ツムジ」
『がんま』1号 独立漫画派(1956)


05『井上洋介漫画集 サドの卵』(1963)



初の漫画集である『サドの卵』に先立つ1960年、井上さんは絵本『おだんごぱん』(福音館書店)を出している。これはロシア民話の邦訳に、木版画風の挿絵をつけたものである。井上さんが一般の人たちに知られているとすれば、絵本作家・挿絵家としてであり、わけても「くまの子ウーフ」(神沢利子・作)シリーズで育った親子は多いはずだ。


井上さんの活動の場は絵画・漫画・イラストレーション・絵本と幅広いが、同時にその手法も油彩・水彩・鉛筆・ペン・墨・木版・リノリウム版、さらに蠟画なるものまで多彩である。多くの作家はリニアに作風を変えていくが、井上さんは同時並行でさまざまな媒体と画材と技法を使い分ける(ついでながら、詩にも俳句にも味わい深い作品を残している)という、じつに豊かな抽斗をもったアーティストでありアルティザンだった。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、エド・ベイナードです。
20161128_baynard_01_hanaエド・ベイナード
「花」
1980年   木版
作品サイズ:70.0×100.0cm
A.P.11/16  Singed

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本日の瑛九情報!
遂にナショナル・ミュージアムで実現した瑛九の回顧展示。担当されたのは大谷省吾さん、近美の主任研究員です。県立美術館などでは「学芸員」と言いますが、国立美術館(独立行政法人)の場合はなぜか「研究員」。先日分厚い研究書を出版したばかりです。もちろん瑛九にも触れています。
201606大谷省吾大谷省吾
『激動期のアヴァンギャルド
シュルレアリスムと日本の絵画 一九二八−一九五三』

2016年 国書刊行会 発行
664ページ
21.7x17.0cm
8,800円(税別)
*ときの忘れもので扱っています。メールにてお申し込みください。

瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。

森本悟郎のエッセイ「その後」第31回

森本悟郎のエッセイ その後

第31回 井上洋介(1931〜2016)(1) アヴァンギャルド美術家だった!


01井上洋介さん


ぼくが井上洋介という存在を意識しはじめたのは1960年代半ばからで、矢崎泰久が編集・発行していた雑誌『話の特集』を購読するようになってからである。同誌は書き手の多彩さはもとより、エディトリアルデザインでも当時の最先端を示すものだった。これはアートディレクターとしての和田誠の力によるところ大である。執筆者が凄い。ざっと挙げるだけでも石原慎太郎、伊丹十三、五木寛之、稲垣足穂、井上ひさし、色川武大、植草甚一、永六輔、遠藤周作、岡本太郎、小沢昭一、小田実、開高健、金井美恵子、金子光晴、邱永漢、栗田勇、小松左京、斎藤竜鳳、澁澤龍彦、高橋和巳、田中小実昌、田辺聖子、竹中労、タモリ、筒井康隆、寺山修司、野坂昭如、深沢七郎、星新一、三島由紀夫、山下洋輔、吉行淳之介などなど。ヴィジュアルに起用されたのは、イラストレーションが井上洋介、宇野亞喜良、片山健、黒田征太郎、鴨居羊子、佐伯俊男、長新太、矢吹申彦、米倉斉加年、山口はるみ、山下勇三、山藤章二、横尾忠則、和田誠らで、写真が浅井慎平、荒木経惟、沢渡朔、篠山紀信、須田一政、立木義浩、高梨豊、奈良原一高、深瀬昌久、藤倉明治、柳沢信など(※すべて50音順)。時代が時代とはいえ、まことに贅沢なラインナップだ。

2『話の特集』1966年2月創刊号
表紙イラストレーションは当時29歳の横尾忠則


井上さんの作品は毎号載るわけではなかったが、グロテスクで残酷でエロティック、かつユーモアのある世界に強く惹かれた。わけても1969年に掲載された「林檎地獄」は衝撃的だった。以来ずっと機会ある毎に展覧会や印刷物で作品を追いかけていたから、ぼくが展覧会を企画するのは自然ななりゆきだった。
出展を依頼する以前から、秋山祐徳太子さんや立石大河亞さんを通じて井上さんとは知己をえていたが、展覧会打合せで初めて市川市の自宅をお訪ねした。玄関を入ると、主人とともに何匹かの猫が出迎えてくれた。当時何匹いたのか忘れたが、10匹以上だったのではなかったか。外と内の区別なく、出這入り御免だったようだ。ふと、馬場のぼるの『11匹のねこ』が頭に浮かんだのを覚えている。上がって左手が仕事場で、決して狭い部屋ではないが、仕事机と座椅子、来客用座布団の周りは画材や資料、画架に描きかけのキャンヴァス、ベニヤ板の版木などが雑然と置かれ、2人座るのがやっとという具合。ここからイラストレーションや版画(小は蒲鉾板から大は180×90cmのベニヤ板まで)、ドローイング、油絵など、多彩な技法によるさまざまな作品が産み出されてきたのだとは、信じられないほど狭隘な制作場所だった。しかしそこは来訪者のぼくでも気分が落ち着き、仕事に集中するには格好の空間だろうと思われた。
その折に若い頃の作品も見ることができた。主に1950年代のもので、それらは画家・井上洋介を正当に戦後日本アヴァンギャルド美術の系譜に位置づけることを証拠立てるものだった。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)の学生時代から漫画家として認められる一方で、タブローにも真正面からとり組んできたことがよくわかる。このあたり、以前紹介した立石大河亞さんと重なる。

C・スクエア第21回企画「井上洋介展1997『人間幻燈』」は1997年9月に開催した。思えばこの年は中村宏、木村恒久、中平卓馬、真島直子と、個性的で〈濃い〉展覧会が多かった。長年の餓えを、ぼくは一気に晴らすつもりだったのかもしれない。

3井上洋介展ポスター


4展示風景-1(第1会場)


5展示風景-2(第1会場)


6展示風景-3(第2会場)


もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、赤瀬川原平です。
20161028_akasegawa_nezisiki赤瀬川原平
「ねじ式」
1969年 シルクスクリーン
51.7x75.5cm
Ed.100 サインあり

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森本悟郎のエッセイ「その後」第30回

森本悟郎のエッセイ その後

第30回 赤瀬川原平とライカ同盟(10) 倉敷、そして……


2009年1月に倉敷市役所でライカ同盟の記者会見が開かれた。市内アイビースクエア内の展示施設「アイビー学館」を改装し、そのお披露目にライカ同盟展を開催するという公式発表のためだ。この展覧会を支援したのが倉敷商工会議所で、翌日はその創設80周年記念シンポジウムに伊藤香織市長、大原美術館理事長で倉敷商工会議所会頭(当時)の大原謙一郎氏とともに3同盟員がパネリストとして登壇した。

記者会見ライカ同盟記者会見


倉敷へは倉敷商工会議所からお声がかかった前年秋に続いてこの時が2度目。「どうせ撮るなら四季を」ということで、その後さらに2度撮影に訪れている。最初は倉敷市内(近隣の市町を併合し、市域は案外広い)にこだわっていたものの、回を重ねるごとに越境し始め、結果的には岡山県下も含んだ作品構成となった。これはパリでも博多でも同様で、足が向いた先が撮影地というわけだ。

赤「文字の力」倉敷市玉島赤瀬川原平「文字の力」倉敷市玉島


秋「寶の山」倉敷市下津井秋山祐徳太子「寶の山」倉敷市下津井


高「こんにちは」倉敷市下津井高梨豊「こんにちは」倉敷市下津井


展覧会は『ライカ同盟写真展 ライク・ア・クラシキ』として、この年10月に開催(おわかりだろうが、「ライク・ア」は「ライカ」と掛詞になっている)。会場が広いため、撮り下ろしの倉敷と旧作のパリとを並べ、さらにライカ同盟が選んだ写真コンテスト「クラフォト2009」の入選作も展示した。

倉敷ポスター『ライカ同盟写真展 ライク・ア・クラシキ』ポスター


クラフォト_ポスター写真コンテスト「クラフォト2009」ポスター



倉敷展の頃はライカ同盟もぼくも、これからどこを撮ってどこで展覧会をしようか、などと倉敷以後について話していたものだ。しかし3人揃ったライカ同盟展は倉敷が最後となった。
撮影はそれでも続けていて、3人が顔を揃えたこともあれば、赤瀬川さんと秋山さんの2人ということもあった。2010年10月、曇り空のもと、三河島周辺をライカ同盟と歩いた。撮影後は新宿で反省会となり、それはいつも通りライカ散歩のルーティンだった。だが、こののち3人揃っての撮影機会はこなかった。それはもっぱら赤瀬川さんの健康問題によるものだった。
翌春か、赤瀬川さんから目眩がするという話を聞いた。それも以前あった目眩とは違うようだと(これはのちに脳出血だったことが判明)。その後、胃癌が見つかり全摘手術を受ける。退院後の2012年4月頃だったか、電話越しに聞いたのは耳に心地よいいつもの赤瀬川さんの声ではなく、ひどく年老いた人のようだった。5月には秋山さんと『「墓活」論』(PHP研究所)に描かれている赤瀬川家の墓(鎌倉・東慶寺)を訪ね、宗匠から礼状をもらったが、2年後にご自身が入ることになるとは露ほども思っていなかった。

赤瀬川原平『「墓活」論』赤瀬川原平著『「墓活」論』


赤瀬川家墓前で_赤瀬川家墓前の秋山祐徳太子さん



赤瀬川さんが亡くなった翌年、「追悼 赤瀬川原平」と題して秋山さん、高梨さん、ぼくの3人で座談会をした(『日本写真年鑑 2015』公益社団法人 日本写真協会)。その最後で僕が「原平さんが亡くなったことで解散ということになりますか?」と問いかけると、高梨さんは「いや解散しません。精神のリレーは続けます」と答えた。しかし秋山さんからも高梨さんからも、未だ「そろそろ散歩しようか」という話は出ていない。解散はしていないが、以来、活動がないままである。
この座談会より前に雑誌『日本カメラ』から依頼された追悼文に、ぼくは「赤瀬川さんがライカ同盟の扇の要で、調整役だった」(2014年12月号)と書いた。生前赤瀬川さんが属していた「路上観察学会」や「日本美術応援団」は、前者はそれぞれ得意とする分野を持つメンバーたちによって今後も活動することだろうし、後者は赤瀬川さんの後任に南伸坊さんが就いている。しかし〈かなめ〉を失ったライカ同盟は、今や名目だけの存在というべきではないか、とぼくは見ている。赤瀬川さんを措いてその任の務まる人がいなければやむをえないというものだ。これは寂しいことだが、宗匠没後の現実がそれを物語っている。赤瀬川さんの逝去はライカ同盟初展覧会から20年目。ちょうど潮時ということだったのかもしれない。
ともに80を過ぎた高齢ながら、健康が許す限り秋山さんも高梨さん(こちらはプロだから当たり前だが)も写真を撮り続けることだろう。ぼくはこの二人の写真ファンでもあるから、それはそれで観る楽しみは残されている。だが、それは秋山さんの写真であり高梨さんの写真であって、ライカ同盟の写真ではない。ライカ同盟の写真は、〈ライカ同盟3人による写真〉だったのだから。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、秋山祐徳太子です。
20160928_aikyama_05_sankaku秋山祐徳太子
「三角男」
1989年
ブリキ彫刻
H27×11.5×11.5cm
台座の裏にサインと年記あり


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森本悟郎のエッセイ「その後」第29回

森本悟郎のエッセイ その後・第29回

第29回 赤瀬川原平とライカ同盟(9) 沖縄、名古屋再訪


2003年の「ラ・徘徊《東京編》」展は会場が赤瀬川さん、秋山さんの母校・武蔵野美術大学(当時は武蔵野美術学校)だった。その武蔵美展が終了した翌8月に二つの仕事が舞いこむ。一つは雑誌『東京人』からで、4月に開業した六本木ヒルズを撮影するというもの。広報担当者の案内で見学し、施設内やその周辺から撮影した。そういえばこのブログで紹介した木村恒久さんの仕事場だったアパート「小春荘」は、六本木ヒルズのどのあたりだったのだろう。

20六本木ヒルズ取材 ルイーズ・ブルジョワの巨大蜘蛛『ママン(MAMAN)』の前で集合
2003.8.20


もう一つは沖縄の撮影とワークショップである。那覇のNPO法人前島アートセンター(2011年活動終了)が関わった企画で、撮影時はそのスタッフや沖縄県立芸大の学生らがアシストしてくれた。現代美術家の山城知佳子さんもその一人だった。このとき撮影した作品は11月、前島アートセンター主宰の〈wanakio2003〉で「ラ・徘徊─沖縄編」として展示された。
「シンプル・アイ/チャンプル・アイ」と称するワークショップは2日にわたって行われた。1日目は参加者が赤瀬川組・秋山組・高梨組の3班に分かれて、午前は同盟員と一緒に那覇の街歩きをしながらの撮影。午後、ライカ同盟は同行せず自由撮影(撮影はスライドフィルムを使い、夕刻ラボに出して翌朝納品という次第)。夜はライカ同盟の「公開反省会」(但しアルコール抜き)。ここでライカ同盟の特性を発揮したのはタイトルの大切さ、つまり写真に言葉を添えることで作品世界をよりゆたかに伝えることができるということを、実例で示したことだった。沖縄で撮影した作品を解説付きで映写。2日目午前中は自由撮影の報告会と大阪ビジュアルアーツ校長(当時)百々俊二氏による講義。午後、現像を終えたフィルムから作品を選び「講評会」。講評会には写真評論家の飯沢耕太郎さんも参加した。

30街歩きワークショップ(赤瀬川組)
2003.8.30


30公開反省会
2003.8.30


31公開講評会 2003.8.31


沖縄に到着したその日に、ライカ同盟は雑誌(誌名は失念)の取材を受けた。そのときの同行カメラマンが北野謙さんだったことを、ずいぶん後になってから当人に聞かされ、初めて知ったのだった。

26雑誌の取材を受ける(右が北野謙さん)
2003.8.26



2004年の《ヱ都セトラ》展以後も断続的には東京や東京周辺の撮影散歩が続いていたが、「何だか今日は箸が進まないねえ」ということばが同盟員から出るようになっていた。風景の均質化が進むとともに、シャッターを切る意欲が萎えつつあったのかもしれない。
家元の「日本中がツルピカになっちゃったらどうする?」との問いに、赤瀬川さんは真顔で「マクロで撮るかなぁ」。
写真の魅力、冗談交じりの街歩き、酒を酌み交わしながらの反省会、それらがライカ同盟を支えるモチベーションとなっていたのだが、戦果の乏しい出動が続くとつい出掛けるのが間遠になってしまう。そこで「初心に帰れ」ではないが、もう一度名古屋を撮ってみようということになった。しかし東京同様、名古屋もライカ同盟が初めて撮影に訪れた10年前とはずいぶん様変わりしていたことが、ロケハンでよくわかった。市内だけでは心許ないと、撮影範囲を尾張地域にまで広げてみた。このプランは3同盟員にとっていい気分転換になったようで、精力的に歩き、箸も進んだようだった。展覧会は2006年9月、C・スクエア第76回企画「ライカ同盟展 エンドレス名古屋」と題して開催。トークイベントのゲストは名古屋に隣接する清須市在住の評論家・呉智英さん。タイトルは尾張(終わり)と永遠(エンドレス)を掛けたものなのだが、皮肉なことにこれがC・スクエアでの最後(エンド)の展覧会となってしまった。

「エンドレス名古屋」展ポスター「エンドレス名古屋」展ポスター


「エンドレス名古屋」展トークイベント「エンドレス名古屋」展トークイベント


もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、チェ・ヨンです。
作家と作品については、こちらのブログをご覧ください。
20160828_choi_01チェ・ヨン
「Picture of two eye - Never seen」
2015年
油彩
90.0×72.7cm(30号)
サインあり


20160828_choi_02_2チェ・ヨン
「Picture of two eye - My right hand」
2015年
油彩
90.0×72.7cm(30号)
サインあり


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森本悟郎のエッセイ「その後」第28回

森本悟郎のエッセイ その後・第28回

赤瀬川原平とライカ同盟(8) 東京散歩


名古屋や三重やパリ、福岡にも足を伸ばしたライカ同盟は、前回書いたように「身近な東京を撮りたい」という欲求を常々持っていた。雑誌連載というかたちでその思いが叶ったのは2001年、田中長徳さんが主筆を務める『カメラジャーナル』(アルファベータ)誌からの依頼によってだった。月に1度、東京のどこかに出掛けて撮影するという「ライカ同盟通信」である。

01『カメラジャーナル』101号(2001年9月1日発行)
ライカ同盟の連載が始まる。


1回目が掲載されるのは9月発行の101号だが、撮影は5月にスタートした。赤瀬川秋山、高梨の3同盟員に〈通信員〉を拝命したフリー編集者・野口達郎さんとぼくの5人で向島を歩いたのがその最初である。こののち連載最終回(第22回)の東長崎まで、毎月集まっては散歩と撮影と反省会を楽しんだ。名古屋住まいで勤めのある身にはさすがに全てというわけにはいかないが、それでもたいていは都合をつけて参加した。赤瀬川さんの美学校講師時代の生徒である久住昌之氏と森田富生氏に次々出会った吉祥寺、秋山さんの知人で臨月間近となった美術家増山麗奈氏に声を掛けられ、ついでにモデルになって貰った(「十月九日(とつきここのか)」)本郷、昼食に入った寿司屋の女将さんに「ハイレベルカメラマン」といわれた浅草、秋山さんが左右別々の靴を履いて現れた武蔵小山などエピソードには事欠かない。

02秋山祐徳太子「十月九日(とつきここのか)」(本郷)


誌面は写真とその日の反省会(鼎談)記録、それに野口さんの「撮影日誌」と同盟員が交代で持ち物を披露する「本日の一品」という構成で、ライカ同盟の撮影事情を多角的に伝える工夫があった。この連載12回分をまとめてC・スクエアで『ライカ同盟展 東京涸井戸鏡(カレイドスコープ)』(2002年)を開催、荒木経惟さんをゲストにトークイベントも行った。ポスターは浅草墨堤の桜を背景にしたものである。会期中にライカ同盟3冊目の作品集『東京涸井戸鏡(カレイドスコープ)』が刊行され、11月に同展は東向島のギャラリー「現代美術製作所」に巡回し、トークイベントのゲストは山下裕二氏だった。

03『ライカ同盟展 東京涸井戸鏡(カレイドスコープ)』ポスター
撮影:二塚一徹


04ライカ同盟『東京涸井戸鏡(カレイドスコープ)』(アルファベータ)


東京撮影は連載が終わってからも続き、その成果は『ライカ同盟展 ラ・徘徊《東京編》』(2003年 武蔵野美術大学美術資料図書館)、『ライカ同盟展 ラ・徘徊《ヱ都セトラ》』(2004年 中京大学アートギャラリーC・スクエア)として発表した。《東京編》展ポスターは西武国分寺線鷹の台駅から武蔵野美術大学に向かう途中、玉川上水土手道で撮影したもの、《ヱ都セトラ》展ポスターはJR御茶ノ水駅ホームで聖橋を背景に撮影したものである。《ヱ都セトラ》展トークイベントのゲストは小説家の川上弘美さんで、展示してあった赤瀬川作品「未完の大器」を見るなり、「これ私の友だちの店」。まことに『世の中は偶然に満ちている』(2015年 赤瀬川原平著 筑摩書房)のだった。

05『ライカ同盟 ラ・徘徊《ヱ都セトラ》』ポスター
撮影:二塚一徹


06赤瀬川原平「未完の大器」(浅草)


07高梨豊「おおめ」(青梅)


もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、関根伸夫です。
20160728_sekine_07_daiti-ten関根伸夫
「大地の点」
1982年
ステンレス・レリーフ
35.0x31.5x2.0cm
Ed.30  Signed

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◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。

●皆様にご協力いただいた「ここから熊本へ〜地震被災者支援展」での売上げ総額634,500円は、一番被害の大きかった益城町でお年よりや子供たちのケアに尽力されている木山キリスト教会に400,000円を、熊本市の城下町の風情を残す唐人町で被災した築100年の商家(カフェアンドギャラリーなどが入居、一時は解体も検討された)の西村家の復興資金に234,500円を、それぞれ送金いたしました。
詳しくはコチラをお読みください。

森本悟郎のエッセイ「その後」第27回

森本悟郎のエッセイ その後・第27回

赤瀬川原平とライカ同盟 (7) 博多来襲


パリ撮影に出掛けた1999年は、新春に東京・京橋のINAXギャラリー(現LIXILギャラリー)で「ライカ同盟展『旧京橋區ライカ町』」を開いている。これは「名古屋や三重もいいけれど、一番身近な東京も撮りたいね」、という同盟員の意向を当時のINAXギャラリーディレクター・入澤ユカさんに伝え、二つ返事で引き受けて貰ったもの。展覧会タイトルは、「INAXのあたり、昔は京橋区だったね」という高梨さんのひと言と、「だったら会場はライカ町ということにしよう」という赤瀬川さんの提案がもとで、おのずから撮影エリアも決まった。「そりゃ俺の庭みたいなものだ」という秋山さんは旧京橋区の新富町育ちで、今は京橋プラザとなった京橋小学校卒。このギャラリーでは1986年に秋山さんが「そのトタンに」展を、1988年に高梨さんが「『都の貌』1986-1988」展を開いており、赤瀬川さんは初舞台だった。

福岡市の博多は秋山さんの御尊父出身地で菩提寺が福岡市内にあり、今もって秋山さんの本籍は福岡市博多区博多駅前とのこと。その博多を撮影して、博多に新しくできた大規模商業施設のキャナルシティで展覧会をしないか、という話がパリ撮影に同行した倉本紀久子さんから持ち込まれたのはその年の夏頃だったか。京橋・博多と、総督との地縁が続くものだと感心した。
同年9月と11月に3人揃って博多に出掛けた。この頃の博多は街が大きく変わろうとしていた時期だったらしく、9月に撮影した建物が11月には忽然と消えていたという経験を一度ならずしている。赤瀬川さんの〈物件〉も含め、なべてライカ同盟の写真に〈記録〉という意識は働いていないが、多くの写真がそうであるように、時を経ることでその〈記録〉性が浮かびあがってきていることは言を俟たない。11月は展覧会ポスター用写真撮影のため二塚カメラマンが従軍し、屋台での反省会という設定で撮影している。

螻戊ヲァ莨壹ヵ繝ゥ繧、繝、繝シ展覧会フライヤー
撮影:二塚一徹
撮影地:博多区中洲新橋付近


取材は翌2000年にも続き、秋山・赤瀬川の美術家組は〈博多どんたく〉が開催される5月連休中に、高梨さんは7月の〈博多祇園山笠〉に合わせて出動。家元は恵比寿流(えびすながれ)の重鎮である住職の計らいで長法被(当番法被とも呼ばれる正装)を着用し、クライマックスの〈追い山〉に向けて行われるさまざまな行事をライカで追いかけた(舁き手にかける勢水(きおいみず)対策として、防水カメラのニコノスも用意していたが出番はなかった)。

02秋山祐徳太子「二つ山越しゃ」志免町


03赤瀬川原平「長老会議」博多区上川端商店街


04高梨豊「自我の芽ばえ」東区箱崎


展覧会は「ライカ同盟写真展[博多来襲]」と銘打ち、撮影開始から約1年半後の2001年2月8日から始まったが、その間に主催者が替わり、会場は福岡市中心街の天神・イムズの三菱地所アルティアムに変更となった。この展覧会に合せて、ライカ同盟が選ぶ公募の市民写真展「博多地撮り」も同じイムズ内のfmfukuoka/GAYAで同時期に開催した。10日にトークや表彰式などオープニングイベントが行われ、パーティは恵比寿流主要メンバーによる「祝いめでた」と「手一本」で始まった。

!cid_7388A4E2-38F9-4D3C-ADA3-348EE456060A志賀島フェリー桟橋で
撮影:二塚一徹



2000年には長い歴史に幕を閉じようとしていた都内の同潤会アパートを撮るという雑誌『東京人』の仕事もあった。振り返ってみると、ライカ同盟にとって世紀末から新世紀にかけての3年はなかなか多忙で充実したものだったことがわかる。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、浮田要三です。
20160611_ukita_09浮田要三
「巻物」
油彩・キャンバス
130.5×95.0cm
サインあり


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森本悟郎のエッセイ「その後」第26回

森本悟郎のエッセイ その後・第26回

赤瀬川原平とライカ同盟 (6) パリ開放(下)


2000年4月1日、「ライカ同盟 パリ開放」展は初日を迎えた。冗談好きなライカ同盟にふさわしくエイプリルフールに決めた──わけではない。たまたまこういう会期になっただけの話である。

もう会場に写真はピタリと並んで、タイトルも最終的にすべて決着して、もう今日は労働はないんだという気持ちよさが、展覧会のオープニングの特徴である。
赤瀬川原平『ゼロ発信』中央公論新社、2000年

出展作品は全93点。展覧会で作品配列というのは重要な仕事の一つだが、ライカ同盟に関してはぼくがほぼ全面的に請け負っていた。ライカ同盟作品の配列ポイントは、まず劈頭の1点を決めるところからはじめ、その後、撮影場所やモチーフや色彩や気分の連鎖を考えながら、連想ゲームのように並べていくところにある。時系列は一切考慮しなかった。一通り配列したのち、壁面の形状・長短に合せて若干調整する程度で完成となる。当時C・スクエアは2会場あったので、はじめに2グループに分け、上記の作業を2度おこなった。

01展示風景


この日は恒例のトークイベントがあり、ゲストはフランス文学者でシュルレアリスム研究家の巖谷國士さん(氏にはのちにC・スクエアの専門家委員に就いていただくことになる)。フランス語に通じているのはもちろん、パリについての蘊蓄もさすがに豊富で、撮影者が気づかなかった場所の意味を説明されることで、作品の新たな解釈が生まれるのだった。たとえば赤瀬川さんの「犯罪ダム」は市中にあるサンテ刑務所の壁を撮ったものだが、その壁についている通りの名称を示す看板「RUE DE LA SANTÉ」は、日本語では「健康通り」になるということで大爆笑。「健康刑務所とはすごいねー」と赤瀬川さんが唸った。ここにはギョーム・アポリネール、ジャン・ジュネ、大杉栄らも収監されたことがある。

02_赤瀬川原平「犯罪ダム」
あとで知ったことだが刑務所は撮影禁止だそうで、カメラを向けるとパトカーが寄ってくるらしい。右側の影になった塀側はアラゴ通りで、マロニエの並木の中にヴェスパジェンヌ(財政対策として有料公衆トイレを設置したローマ帝国のウェスパシアヌス皇帝にちなんだ名称)と呼ばれるパリ最古の男性専用小用トイレがあり、これは無料である。ロバート・フランクが赤瀬川さんとほぼ同じアングルで撮った作品にはこのトイレが写っている。


03ロバート・フランク『パリ』1950



この展覧会はタイトルも展示作品もそのまま、翌2001年の7月14日(パリ祭)に第2作品集として刊行された。後年、パリ在住の写真家オノデラユキさんはこの写真集を見て、「全然パリらしくない」と感想を漏らしたが、それはライカ同盟にとってまことに名誉なことだとぼくは思った。パリという街は「アジェ、ブラッサイ、イジス、ロベール・ドワノー、さらにケルテス、キャパ、ブレッソン、フランクと思いつくだけでも沢山の写真家が写して」(高梨豊「出発を前に」『ライカ同盟 パリ開放』アルファベータ)いるにもかかわらず、先人たちから自由な(パリらしくない)パリを写真に収めることができたのだから。

04_高梨豊「カメラ城にて」
〈赤瀬川〉高梨さんは、ガラス越しのカメラ城の写真がいいですね。高梨さん自身が写っているんだよね。ちゃんと脇をしめてさ。
〈高梨〉脇をしめてるところだけ見てください(笑)。
(『ライカ同盟 パリ開放』巻末座談会より)



04_1_赤瀬川原平「エッフェル塔の穴」
〈高梨〉赤瀬川さんの写真ではエッフェル塔から下を撮ったのがよかったですよね。
(同前)



05_秋山祐徳太子「白馬の発走」
〈赤瀬川〉僕がまいったなぁと思ったのは祐徳さんのウィンドウの馬の写真ですね。祐徳さんって撮ってるときは頼りないんだけど(笑)、あとで写真を見るといいんですよ。
(同前)



『ライカ同盟 パリ開放』アルファベータ『ライカ同盟 パリ開放』アルファベータ
編集:野口達郎
デザイン:田淵裕一



もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、秋山祐徳太子です。
20160528_aikyama_05_sankaku秋山祐徳太子
「三角男」
1989年
ブリキ彫刻
H27x11.5x11.5cm
台座の裏にサインと年記あり


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tokinowasuremono
緑豊かな青山のギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱い、毎月企画展を開催しています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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