木村利三郎のエッセイ(再録)

木村利三郎「ニューヨーク便り」第8回最終回(再録)

木村利三郎■ニューヨーク便り8(1980年執筆、最終回)

東と西


 一日、モントークに友人たちと釣りに行った。船をやとい、ブルーフィッシュをつるのだ。あまりつれないので、場所を移動するために船長は20〜25ノットの高速で走る。船尾の椅子にすわって、高く盛り上る波頭をあきもせず、ビールを飲みながら眺めていると、一瞬波が停止したようにはっきり見えるときがある。何度みていても、やはり北斎の波頭には見えない。これはクールベの波そのものだ。昔、ぼくはアメリカへ渡る目的をたて、逗子の自分のアトリエでの生活をすべて洋式にした。日本茶は紅茶へ、魚は肉が買えなかったので鯨肉へ、日本酒は焼酎か安ウィスキーへ、といった具合。日本的発想をやめて彼等の中に入りこもうとしたのだ。
 日本人画家なら誰だって伝統的様式美は知っている。これを使ってモダン化すれば一応は売れそうな作品ができるはずだ。丁度一九五〇年代にアメリカは「ジャポニカ」ブームで、簡単な日本様式を広ませた。このブームにのって、繊細な色彩と造形で作品をつくりつヾけた作家も二、三人いた。でも現在を生きているわれわれが、なにも数百年前の型式を応用して現実を表現することはないのだ。
 アメリカ美術は確かによってもちよられたものだ。アメリカの伝統美術なんて、インディアンもエスキモーも持っていないのだ。ベンシャーンにしてもリチャードリンドナー・モンドリアン・パスキン・デュシャン、そしてクリストなどにしても、ロシアやブルガリアやフランスの伝統をそのまま持って来たわけではない。勿論自己を育てたいくばくかの過去は背負ってきたが、あくまでアメリカという土壌に自ら根をおろし、そして花を咲かせたのだ。表題として東と西と記したが、ここニューヨークには東も西もないのだと考えている。
 或る日本の有名公募団体展の宣言に、「真の芸術が理解されるためには、その純粋な造形的追及による高貴性によってのみある」とあった。アメリカには芸術の高貴性なんて一かけらもないのだ。芸術は生活の一部として存在しようとし、生活の一部分は芸術化される可能性がある。
 夕方、ぼくは仕事が一段落するとワインを持って近くのハドソン河の桟橋に行く。毎日きまった時間にゴミを満載した箱船がいくつも、ダグボートに引かれて河を下ってゆく。そのゴミ船にカモメがむらがってついてゆく。ゴミの中から食べ物をさがしているのだ。ハドソン河にも太西洋にも魚がいなくなったのか、それとも魚よりいろいろと変化のあるゴミの中の食物の方がうまいのか、きっといまに彼女達は羽根が退化しクチバシに歯でも生えてくるのではないだろうか。同じ頃桟橋は、ジョギングといってただ走るだけの人間たちが動きまわる。アフリカの自然の動物たちだって唯無意味に走ることはない。エサをとるときか、危険から逃げるときだけだ。生物の行動が環境の変化によって変わりつつあるのだ。そんなときに芸術の高貴性なんて云々するからまったく驚いてしまう。
 アメリカという国の生いたちから考えて、絶対的という価値観はない。日本やヨーロッパは文化一般にかぎらず、社会、経済、政治まで一応絶対価というのがある。歴史の重みなのだろう。今アメリカ大統領の選挙運動期間中だが、レーガンのキャンペーンに、ジンマーチンやフランク・シナトラなどハリウッドの連中が集まって、歌って踊ってパーティを開き一晩に百五十万ドル集めたとか、日本でも漫才師が代議士になったりしているが、まさか総理大臣にはなれないだろう。人々がいうところの平均的価値観があるからだろう。
 近頃ぼくは日本茶をのんだり魚をたべる練習をしている。永いアメリカ生活の反動としてなのか、それとも年令のせいなのか、でもやはり美味いとは思わない。それよりチョット気をぬいて版画制作していると、絵のなかの色や空間に東洋的なものがでてくる。これは自分で感じるのではなく、それを見た友人たちが言うのだ。自然に自分の地金がでてくるのか。
 東と西をいったりきたりするのではなく、できたら南も北もいっしょに合わせたらおもしろいだろう。それとも「カモメのジョナサン」ではないが、一人で気おって生きてみるのもよいかもしれない。一見浅薄そうに見えるアメリカ美術は、もしかしたら東西の豊かな野菜と肉を十二分に煮込んだ最上等のスープかもしれない。
 ニューヨーク、今秋の特別料理は「ニューイメージ」とか。
(きむら りさぶろう)

『版画センターニュース No.64』所収
1980年12月1日 現代版画センター発行


*画廊亭主敬白
今春5月17日にニューヨークで亡くなられた木村利三郎先生は私たちの恩人であり、版画のイロハを教えてくださった教師でした。
以前も書きましたが、亭主の初めての海外旅行は1983年のウォーホルとのエディション契約のためのNY行であり、空港まで出迎えてくれ、滞在中はホテルではなく、アパートに泊めてくださったのが利三郎先生でした。
哀悼の意を表して、利三郎先生が現代版画センターの機関誌に寄稿してくださった「ニューヨーク便り」を8回にわたり転載させていただきました。
利三郎先生は師範学校を出て教師となりますが、その後法政大学に入学、谷川徹三に学びます。戦後民主主義の最も輝いていた時期に、労働者の街・川崎で版画の頒布活動をしていました。30歳で画家を志し、1964年40歳のときに渡米します。以来ニューヨークで作家活動を展開し、都市の崩壊と再生、そして宇宙をテーマに描き続けた半世紀でした。
その作品は、ニューヨーク近代美術館、ブルックリン美術館、ミネソタ美術館、オクラホマアートセンター、コロンビア美術館、IBM本社、東京国立近代美術館、町田市立国際版画美術館、栃木県立美術館、東京藝術大学 ほかに収蔵されています。
これまでのご厚誼を深謝し、ご冥福を心よりお祈りいたします。
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1974年7月にフマ画廊(東京・銀座)で開催された木村利三郎展のカタログ表紙
撮影場所は新宿西口の地下道
テキスト:久保貞次郎
亭主が手がけた初めてのカタログでした。

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同カタログの木村利三郎略歴
撮影場所は中野刑務所の塀の前

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1978年4月20日 
現代版画センター発行
木村利三郎版画カタログ

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テキストはやはり久保貞次郎先生。

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木村利三郎"City 338"
1977年
シルクスクリーン
63.5×50.0cm Ed.50
Signed

木村利三郎「ニューヨーク便り」第7回(再録)

木村利三郎■ニューヨーク便り7(1980年)

ピカソ展


 六月の夕暮、ぼくは一片の招待状を持って、ニューヨーク近代美術館の裏口に立った。この夜は主として画家達にゆっくりピカソを見せたいと云う、館の計画だった。普通、切符を買うのは難しく、友人の一人は五時間並んだといっていた。全館を約千点の作品でうずめ、モネーもマチスもセザンヌもすべて壁からはずされ、ピカソ一色になった。天国のピカソはさぞかしニヤニヤしていることだろうと思う。入館予定者を百万見込んだ、美術館開館五十周年記念事業だ。一八九四年の少年時代のデッサンより、一九七二年の明るい軽やかな絵まで、絵画三八〇、彫刻八〇、デッサン一六〇、コラージュ一五五、版画一九五、そして四十年間預かり、いよいよスペインへ返される三メートル×一〇メートルの大作ゲルニカだ。
 ぼくは一点一点ゆっくり見るより、一体ピカソは何をみつづけて長い作家活動をしたのかをつかんでみたく、時々会う友人たちとも話しをせず、年代順になるべく絵に近づかず見て廻った。「アヴィニヨンの娘たち」が出てきたとき、再びその前後の作品を見なおし、その表現の意味づけが明確にわかった。
 一九〇八年のアフリカ的作品から立体化され、立体分析に移行してゆくとき、どうしてピカソは抽象絵画へ移行しなかったのかと考えてみた。彼の精神構造が抽象的表現より一貫して型を追求してゆく、そして多才な力は人々の追従をあざけるように次々と表現方法をかえていったのだ。デュシャンがその発想を抽象化し、反芸術を旗印としているのだとしたら、ピカソは近代芸術を丁度――マホメット・アリが相手のボクサーのまわりを飛びはねる様にまわりつつ、半分遊んでいるように時々明確にパンチを加えてゆく、まったく憎らしいくらいの力強さと、見るものにいつ相手を倒すかという安心感を与えてくれるみたいに扱った。
 版画の部屋ではつい足がしばらく立ち止まってしまった。今までに何度かピカソの版画を手にとって見たが、そのいづれかも完成されたものだった。ここには二組の完成されるまでの版画の過程を、八枚の試刷りを順番に並べて展示してあった。右側の動物と対していた左側の小さな人物がだんだん大きくなり、そして一時消えてなくなり、最後にその顔だけが強調されて現われる。絵なら簡単にできるが、エッチングという技法でそれをやってゆく。彼の自己の思想表現に忠実に強く、最後までつきつめてゆく姿勢をみつけたようだった。普段、自分が安易にうまくゆかないと、版を取りかえて始めからやり直すのが恥ずかしく思えた。
 手近なすべてのものを使って、魔術師のように手早く作品をつくってゆくピカソしかわからなかったのに、生身のピカソ、版画家としてのピカソをゆっくり見ることができたのはとてもよかった。
 ピカソという神秘性を生み出す文化は、論理的であり、合理的である。それに反して、日本文化は徹底をきらう。これは追求云々ということではない。間とか、空間ということを重要視することなのだ。ここに住んでいる一日本人作家として、合理性の世界における自己発表のむずかしさをつくづく考えさせられた。
 ジョン・ケージ、ローゼン・クイストなどが時々目の前を横切っていった。とても美しい夜だった。
きむら りさぶろう

『版画センターニュース No.60』所収
1980年8月1日 現代版画センター発行


03木村利三郎
「K氏への手紙」
シルクスクリーン
1970年
72.0x57.5cm
Ed.20
サインあり


04木村利三郎
「MANTHATTAN」
水彩
60.0x42.0cm
サインあり


05木村利三郎
「toルミさん GENEVE」
1973年
シルクスクリーン
72.0x51.0cm
サインあり

木村利三郎「ニューヨーク便り」第6回(再録)

木村利三郎■ニューヨーク便り6(1980年)

版画オークション


 五月三日、パークバネットのオークションを見に行った。下見は前週の土曜日、総点数六百六十点、三部屋の壁一面にすきまなく飾られており、部屋の中央の机の上にも並べられている。六$のカタログを手に明記された底値と見くらべつつ一点づつ見てゆく。發ぞ貊蠅虜酩覆老鍵に頼むと、はずして手にとって見ることができる。下見客は男女、老若、人種、いろいろ、日本人もやたらと多い。とくにクニヨシ、フジタの前は多い。クニヨシは十一点、夏と題したリトは底値千四百$より千八百$、とある。フジタは十点でていた。七百$より五千$までのそれぞれの底値がついている。昔オスローのムンク美術館で見たのと同じなつかしいムンクの版画が十点、底値は千$より四万$まで「マドンナ」は状態が大変悪く、紙は試し刷り用紙を使用していたので黒のインクのつきが悪く、こんなので売りに出してよいのかと思った。
 なにか有名美術館のコレクション展を見ているみたいな気がする程、多種多様な有名な作家達の版画群である。でもつかれて椅子にこしかけて、小声で話し合って動く人々のむれのなかでフト思ったことは、金、金、金、という印象であった。$札が壁一パイにはりつけてあるのだ。声さえかければ誰れにでもその一点一点がかんたんに手に入れることができるのだ。自分の部屋に飾ってもよく、他人に売って利益を得ることもできるのだ。ここでは作品の価値を云々するのではない。作家名と保存状態とそれにともなう利益が底値+アルファとなっているのだ。ぼくには版画の一点一点にいくらのアルファがあるかという計算をさせるテスト会場に見えてきた。
 ぼくの旧い一人の友人は、画家を志していたが、或る日オークションに来て、金で作品が右から左へと動いているのをみて、すっかり画家になる気持を失ってしまったと云う。彼女は絵画がセリにかけられることが自分の良心に不潔感をあたえたのだろう。彼女は画家と結婚したが自らは一切絵筆を持つことをしなかった。
 さて月曜日の朝十時よりオークションがはじまった。簡単な椅子が三百ぐらいの会場に百人ぐらいの人が集っていた。目的の作品がほしい人は予報されている時間に来ればよい。買い終った人や買えなかった人はセリの途中でもどんどん帰って行く。作品の底値によってセリの出発値段は異り、挙手による値上りも百$とか五十$づつといった具合、まったく早い。昼休みを入れて夕刻四時まで全部を終えてしまうのだ。画商らしい人と同行の客も多く、夢中で値段の打ち合せをしているのを聞く。全作品で総額いくらになるか知らないが、オークション会社は売り手買い手からそれぞれ十%の手数料を取る。
 或る友人の医者は銀行に預金しているより、絵画・版画を買い、オークションの予告値上りをみて売りその金で次のを買う、という方法の方が利益があるし、いろいろと自分の専門外のARTの勉強もしなければいけないし、とてもおもしろいと云っていた。彼が最近話していたのはメキシコの作品がこれから高くなる。特にシケイロス、リベラ、タマヨなどで、それ等の作品は世界的評価に比べて不等に安すぎる。それにメキシコは石油によってこれから金持ちの国になる。丁度日本がクニヨシやフジタを夢中で買いもどしているように、メキシコ革命時代の作品を買いもどすであろう。事実シケイロスは底値千六百$から二千$の作品が千五百$で落ちていたし、リベラは底値千$から千二百$のが八百$で落ちていた。
 落札値。クニヨシの「夏」・リト、が千六百$。フジタの「二人のヌード」・リト、は底値四千$から五千$が五千二百五十$。問題のムンクの「マドンナ」は底値の半分の二万五千$だった。
 今年ニューヨーク中をわかすはずのピカソ(大ピカソ展)は出品数なんと百十八点、まるでピカソオークションみたいだ。落札値の最高は、ノーナンバー・アクワチントで二万八千$。一番安いのはノーサイン・ドライポイントで八百$だった。このオークションは年四回開かれる。ぼくは全部見たわけでなかったが、下見のとにと同じく変な気がした。別に買ったり売ったりしたのではないのにつかれたし、五月の明るい空なのに気が滅入った。
 価値観の世界はいつの時代も変る。大きい社会、小さい社会、集団、国、宗教、場所などのちがいによってますます変る。ARTには一応国境がないとされている。しかし、金の力だけによって価値が確定してゆくのは、驚きと不安が重なり合い、その価値にはARTの哲学について作家もコレクターも発言していない。
一挙手一挙手がオークションの意志表現ではあるが、人類共通の言葉であるARTの発想表現とは異っているのである。
(きむら りさぶろう)

『版画センターニュース No.58』所収
1980年6月1日 現代版画センター発行


1986年11月Gアバンギャルド_木村利三郎木村利三郎先生(左)と社長
1986年11月
ギャラリーアヴァンギャルドにて


●今日のお勧め作品は小野隆生です。
小野隆生イタリア娘小野隆生
「女性像」
テンペラ、キャンバス
90.5x72.5cm(F30号)
サインあり

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木村利三郎「ニューヨーク便り」第5回(再録)

木村利三郎■ニューヨーク便り5(1979年)

版画の値段


 今年の夏は特別日本からの客が多かった。二十二人がぼくのスタジオを訪ねて来た。友人や知人、それに一度も会ったことのない人も数多くあった。それ等の人々を接待するのに一つの型がある。まず、夕刻ソーホーを案内し、途中バーによって酒をのみ、それからチャイナタウンで食事。だから必ずソーホーの画廊は訪ねる。
 或る時、美しい姉妹がやって来た。「キムラさんの作品はここで見ることができますか」と聞かれた。契約した画廊からでている作品をおいてある店がある。いそいそと案内した。ところが、ところがである。ぼくの作品にだけ赤紙がはってある。20%オフ(二割引ですね。)隣りに並んでいるカルダーは平常のまま、ぼくのだけがなぜ赤紙がはってあるのかわからない。でも他人顔して聞いてみたら、20%引きにしてもいつもの値段なのだ。
 版画の値段は一般に平均しているが、最近はなかなか高い。あまり有名でない作家の版画は大体一〇〇$〜一五〇$ぐらい。手ごろな値段である。部屋の飾りとしては十分な値段と装飾性を持っている。
 でも有名作家のものとなるとたいへん高くなる。ローゼン・クリストは五五〇$、リンドナー七〇〇$、バスキン五〇〇$、カルダー八〇〇$、ダリ五〇〇$、ミロ二五〇〇$、ピカソ三〇〇〇$となってくる。以上去年の値段だが、大体少しづつしか値上がりしていない。リンドナーは死んだ直後、値上がりしたがすぐ平常にもどった。
 日本との値のちがいは、大体日本がこちらより二倍高いという。日本の希望を聞いて、こちらで買って、直接持っていく商売もさかんであるようだ。
 さて、それでは版画家は大変強力な幸福の神のもとにいるみたいだが、実際はそのままの金額が手に入るわけではない。直接画廊と交渉すると、互いに50%づつの分け前になるが、あまりそんな例はなく、なんとなくアートディーラーが中に入り商売をする。油絵のように一点の値が高いのと異り、それに一点づつ売ってゆかなければならない場合を考えると、その労力は大変である。それで、アートディーラーによって売ってもらうか、又は、エディション全部を売ることになる。すると、売り値の1/5〜1/8ぐらいが作家の手に入ることになる。ぼくも目下一九七九年度の契約の仕事をつづけているが、未だ全部が完成しないうちに来年の制作の契約をしてしまった。外国人であるぼく達には、これは大変ラッキーなことなのだ。
 日本の版画家や画商とちがうことは、いくらつくってみても、アメリカの大きさは、版画の数にあまり拘泥せず、値段も有名作家以外はあまり高くなく、流行的な要素が充分に入り、多くの人々を満足させる魅力を持つものが多い。買う人たちも、特に将来の値上がりなど考えず、好きだから買うという感じである。
 版画の芸術的地位などという、むずかしいことは別にして、この広大な市場では同一作品三〇〇枚ぐらいは、いずれともなく消えてしまうみたいだ。友人の版画家はいままでに七、〇〇〇枚つくったが、一度も自分の目で再び見ることがなかったといっていた。
 数十年たって、一人の作家の再評価がおこなわれ、浮世絵の如く再び高い価値として世にでることは、このアメリカではないみたいだ。貴重な石油をハイウェーにまきちらすみたいに、すべて消えてしまうみたいに思うとチョットかなしくなるが、アメリカンプラグマチズムというやつかもしれない。
 手元にある日本の版画家の値段表を見ると、大体一万円から五万円ぐらい、十万円を越える作家は珍しい。が、ここでは世界中の作品が集まっているので、その差がちがう。自分の作品を客観的にみるにはとてもよい。
 東京はやはり遠いところという感じがする。日本の作家や作品の定着化がおそいのは、流通化のせいであって、作品の質の問題ではない。云えることは流通の責任者である画商やディラーのせいであろう。いつも思うことだが、未だ未だ世界の文化は普遍化していないのだから、値段の面でもその質の面でも、日本の作品はもっとここにあふれてなければいけないと思う。日本製自動車といっしょにしたくないが、よいものは売れる、売れるものはよいのだ。
 芸術の日常化。すべての人々の平凡な生活の中に気楽に芸術が入ることは、どんな意味にとってもよいことであって、絶対に悪い結果にはならない。いまや未知の土地がなくなった地球では、唯一のこされた夢の世界であろう。
(きむら りさぶろう)

『版画センターニュース No.53』所収
1979年12月1日 現代版画センター発行


1989年4月3日撮影木村利三郎(左)
1989年4月9日
ニューヨークにて

01木村利三郎
「NEW YORK B」
シルクスクリーン
17.0x23.0cm
Ed.220
サインあり

02木村利三郎
「city203」
1974年
シルクスクリーン
24.0x31.0cm
Ed.40
サインあり


●木村利三郎さんの親友竹田鎭三郎先生の展覧会が東京と酒田で開催されます。
20140918竹田鎮三郎プロモアルテ表20140918竹田鎮三郎プロモアルテ裏

「竹田鎭三郎とメキシコの愛弟子たち展」
会期:2014年9月18日[木]―9月22[月]
会場:表参道プロモアルテ・ギャラリー
時間:11:00〜19:00
会期中無休
オープニングレセプションは9月18日(木)18時です。
メキシコ人作家4名の訪日を記念しての展覧会です。
〜〜〜〜
20140913竹田鎮三郎展 表


20140913竹田鎮三郎展 裏


「メキシコの大地・生命(いのち)への賛歌 竹田鎭三郎展」
会期:2014年9月13日[土]―10月19日[日]
会場:酒田市立美術館
   山形県酒田市飯森山三丁目17-95 tel. 0234-31-0095
*会期中無休

偉大な芸術の国、メキシコはマヤ、アステカ文明などの古代遺跡があり、さらに20世紀に入ると、メキシコ革命のもとでディエゴ・リベラ、シケイロス、オロスコといった芸術家が中心となり、絵画芸術を民衆に開放するため、壁画運動・版画運動(メキシコ・ルネサンス)が起こりました。
竹田鎭三郎(1935年〜)が、革命芸術に憧れて1963年に渡航してから半世紀が経ちました。先住民を訪ね歩き、祭りや日常生活をテーマに制作してきた氏は、1979年より先住民文化が豊かな南部オアハカに移住し、オアハカ大学の美術教師として教え子たちと共に暮らしています。
メキシコの地に暮らす人々を鮮やかな色彩とボリュームあるフォルムで生き生きと描いた氏の絵画世界は、神秘的で郷愁を誘い「自然と一体となって、神と共存する世界」を鮮やかに表現しています。本展覧会では、竹田鎭三郎の作品を中心に、メキシコ・ルネサンスや氏の教え子である現代作家たちの作品を含めて、メキシコ芸術を一堂に紹介します。(同展HPより転載)

◆去る5月17日死去した木村利三郎さんのエッセイ、70年代NYのアートシーンを活写した「ニューヨーク便り(再録)」は毎月17日の更新です。

木村利三郎「ニューヨーク便り」第4回(再録)

木村利三郎■ニューヨーク便り4(1979年)

イースト・ハンプトンにて


 今日はモントークまで行ってラブスターと魚を買って帰って来た。生きたままのラブスターの瓜をテープでむすびそのまま火の上で焼くのはあまり気分のよいものではない。でも林の中でバーベキューは、ニューヨークでの臭さを洗ってくれるように気持のよいものだ。
 ぼくは毎週末イーストハンプトンの友人の別荘に遊びに来る。ニューヨークから車で約二時間半、海に近い林の中の別荘群。五百坪から二千坪の林間に一軒づつ建っている。一九三〇年代サルバドール・ダリがその土地を愛し、フランス料理人をつれて住んだのがはじまりで多くの芸術家が住んでいる。ジャクソン・ポロック未亡人、デクーニングや日本で有名な池田満寿夫も家を持っている。常住の人は約三千人ぐらいだが夏の季節には十五万人ぐらいにふえるという。今年の七月頃は石油不足でガソリンを買うのに二時間も三時間も列んで待ったが、来てみるとあくまで青い海と木樹の空気と静けさはニューヨーク人の健康の良薬だ。友人は精神科医だがあまり話し合うこともなく、朝からワインをのんで林と空をみつめている。夜、ベランダにのこした残り物をいつも二匹のタヌキがたべに来る。窓ごしに見ていて顔があっても逃げもしない。今夜は寒そうだからファイヤープレスの薪を用意しなければいけない。
 石油の値上がりで勿論暖房用の油も3/4増ぐらい上った。ニューヨークに広いロフトを持っている芸術家達は今年の冬の油代にいまから弱りきっている。大きな仕事場をあたためるのにはまるでお札を焼いているように金がかかる。いままでもロフトの維持費の1/3は油代だったのにこれ以上の出費はまごまごすると、ロフトを売り払わねばならないことになる。
 グリニッチビレヂからソーホーへと移り住んだ芸術家たちは今度はどこへ移り住むことになるのか、ぼくはフト考えてみた。近い将来ニューヨークの芸術家は郊外へ移住するのではないかと。東京やパリやニューヨークといった大都市に芸術家は集まっているがそれは資本主義体制の保護のもとに作家活動を行うためのものと、強い刺激を必要として大都市に集中するのであって、もし芸術家自身の哲学が確立していたらもっと自由な空間に自分を置いてもよいのではないか。文化とは巨大なロープのようなものでそれぞれの体系がからみあって一本のロープになる。同一条件のもとに各々の芸術をつくってゆくとそのロープそのものは同一に近いものになる。モロいところが同じ位置にあるとそのロープはその部分からたやすく切れてしまう。文化形態を分散した方がおもしろ味のあるものになるのではないか。
 いままでニューヨークの芸術家で名をなした人たちはあらそってイーストハンプトンに移り住んだ。無名の画家達はマンハッタンをはなれ住むと画廊もコレクターも見に来てくれないと思った。いつも受け身の姿勢でいなければならなかった。自分から能動的に発言することに弱かったのだ。オランダや中国のように国家が芸術家を保護するのがよいか悪いか知らない。イスラエルのような芸術家の自治によるキブツというのもある。ソ連のような芸術家の公務員化もある。
 そのように総体的に芸術家の位置を決めるのではなく、都市に住む芸術家と田園に住む芸術家がいて、それが共通の発表の場で太いロープに組みこんでゆくのがよい。いままではともすると地方作家という意味はよい作家ではないということだった。だがいまやカリフォルニヤアートというのがあってニューヨークに直接進入しつつある。いまにシカゴやペンシルバニヤからも同じような力が湧いてくるかも知れない。ユーゴスラビアはニューヨークに文化センターと画廊を開き、フィリピンは五番街に大きな窓口を開設した。ジャパンハウスはロックフェラーの力によって常設の画廊を持っている。世界の文化の交流のこんなに激しい時代は過去になかったことだろう。
 今夜は池田のワイフのリランと一緒に友人のパーティに行く、燈火一つみえない林の道の中を走る。突然目の前が開け人々の声と明るいざわめきが自分をつつむ。帰途友人と車で海を走る。風だけが通過する。
 ぼくは毎週末二日間だけしかここにいないが、リランはニューヨークに住んでいたときより絵の色があかるく輝くようになったといっていた。
 明日又ニューヨークのぼくが帰るところは政府の保護による芸術家だけのための巨大な建物の一部屋だ。“自由は林間にあり”と云った人がいたが、そんなことをとりとめもなく考えることができるのはここだからできるのか。それとも、完全に自由になりきっていないぼくが一人っきりで林の中におかれたので不安になり、自分の存在を意味づけるために、無理して考えたことなのか。
(きむら りさぶろう)

『版画センターニュース No.52』所収
1979年11月1日 現代版画センター発行

kimura09
木村利三郎"City 311"
1975年
シルクスクリーン
65.5×51.0cm  Ed.50
Signed

kimura10
木村利三郎"City 340"
1976年
シルクスクリーン
62.0×50.0cm  Ed.50

kimura11
木村利三郎"City 338"
1977年
シルクスクリーン
63.5×50.0cm Ed.50
Signed

◆去る5月17日死去した木村利三郎のエッセイ、70年代NYのアートシーンを活写した「ニューヨーク便り(再録)」は毎月17日の更新です。

木村利三郎「ニューヨーク便り」第3回(再録)

木村利三郎 ■ ニューヨーク便り3(1979年)

SOHO(ソーホー)


 今、手持ちのギャラリーガイドを開き、ソーホーの画廊の数をかぞえてみたら、68あった。ハウストン通りの南、25ブロックにちらばっているが、歩いてみてもそんなに時間はかからない広さである。画廊以外にブティック、アンティックの店、レストラン、小さな劇場、バー、ハッとするような小ぎれいな店が並んでいる。歩いているとたいがい友人の一人や二人に会う。土曜日の午後などまるで銀座通りなみだ。
 このソーホーはそれより芸術家が多く住んでいるので有名なのだ。四百人ぐらいという人もいるし、千人という人もいる。夜おそく歩いていると大きな窓がアカアカと輝いているのはぜんぶ芸術家のアトリエだ、それはロフトと呼ばれる。十五、六年前までは中小企業のビル内工場だったのだが、税金や家賃の値上がりのためマンハッタンから郊外へ移っていった。そのあと、広い空間を必要とする画家や彫刻家が集ってきて、それぞれ工場のあとを自分たちで手を加え仕事場になおし、こっそりそこに住むようになった。市の法律ではいけないのだ。ぼくが一九六四年はじめて住んだアパートは、このソーホーの真中だった。まわりには商店が一軒もなく隣りのビルは服をつくる工場だった。昼間はトラックの往来が激しいが夜になると人一人歩いていなかった。本当に倉庫街だった。
 一九六七年頃、数十人の作家がはじめてロフト展を開いた。自分のロフトに作品を並べ一定の日時ドアーを開き、一般にそれを見せるようにした。自分たちの名前と住所をポスターに記載し、はなばなしく運動を展開した。週末には多くの人たちがポスターを手に歩きまわった。
 一九六九年頃より商業画廊が新しい市場とみこんで営業を開始し、マヂソン街の有名画廊も支店を開くことになった。レオキャステリ、ソノバンドなどは五階建のビルすべてを画廊にした。マヂソンや五七丁目の画廊に比べて、とてつもなく広いスペースは、もっともアメリカ的な作品を並べるのに適した。客の層も展示作品もすべて異った。
 商業主義をいやがって自分たちで画廊を経営しだした作家たちもあった。金を出しあって部屋を借り、自分たちだけショーを順番に開いたが、結果的にはやはりよい作家は商業画廊に引きぬかれ、かえって自分たちを二軍的立場においこんだ。やはり商業主義には勝てないのかも知れない。よいものはよいといって名前だけが残るのではなく、よいものは売れる、売れないものはよくないと云い切り、アートジャーナルに左右されることなく、固定した客を持ち自身をもって売り出してゆく商業画廊にソーホー全域が包みこまれつつある。
 一九四〇年代グリーニッチビレヂに十番街画廊群があり、ビレヂにはボヘミヤン的生活に酔った芸術家が集った。それもそれもビレヂの俗化と住居の高価によって、芸術家はおいだされて行った。ソーホーに移り住んだ作家群もやがて又数年後商業資本のため移動するのではないだろうか。
 ある友人はロフトを買いそれを直し維持するために、制作をやめ大工仕事をし、レコードジャケット描きの内職をしていた。そのうち彼は制作のためのロフトにちがう夢を持ちはじめた。ヨーロッパから来た彼は、より以上に美しく飾りたて、真白な家具、真白な敷物、そして照明とすべて白一色に統一した。キャンバスも真白なまま何枚も重ねてあった。これがこれから流行するであろう。ホビーな生活なのかも知れない。(つづく)
(きむらりさぶろう)
『版画センターニュース No.49』所収
1979年8月1日 現代版画センター発行

木村利三郎「ニューヨーク便り」第2回(再録)

木村利三郎 ■ ニューヨーク便り2(1979年)
「アートフェアーと或るコレクターの話」


 三月八日から十二日までニューヨークコロシアムで、第一回アートエクスポが開かれた。
 時間は午前十一時から夜の十時まで。出店の数は百五十、アメリカとヨーロッパ全域、ソ聨からも一店でていた。スイス・バーゼルのアートフェアーは有名だがアメリカでは数年前から開かれているワシントンと今回からのニューヨークとの二つがある。
 あの大きなコロシアムの二階全部をつかっていて、各店は間口4〜5m、奥行2〜3mの小さなものだが壁一パイに作品を並べている。
 二つとか三つ分を合わせて使用している画廊もあり、版画作家がデモンストレイションしているのや、額縁屋、プレス機会社、ポスター専門店、二つ三つ作家自身が店を開き個展をしているのもあった。浮世絵ありますと下手な日本語で書いたビラを店頭にはっている画廊もあった。日本の画廊は一つも出店しておらず、多分買い専門かも知れない。入場料4$、会場の各地にバーやホットドッグ屋、コーヒー屋が出していた。どのくらいの取引きがあったのか知らないが、通路を歩くのにほねがおれるくらいだ。受付でもらった番号をたよりに、友人の店をさがした。友人と30分程度雑談しているあいだに、プライスリストとアドレスを希望する客が7〜8人いた。田舎から来た画廊主、アートコレクター、デイラー、といった人達だ。ヨーロッパの国々のはそれぞれ個性的だが、アメリカは総体的に明るい色彩にみちていたが変化にとぼしい。ピーター・マックスの油彩があったり、ヘンリー・ムアのブロンズや小品のリトが並べてあった。ブロンズは高さ20cmぐらいで1万2千$、リトは4百$から6百$ぐらい。
 現代版画センターも出店したらどうかと思った。日本の作家はすべてデリケートだし、うまいし、あの静かな暗い感じのする、センターエディション群はニギヤカなウェスト絵画群の中においたらきっとうけるのではないかと思った。それ程まったくお祭りそのもののにぎやかしさだった。
 先月古い楽器や刀、つば、のコレクターである友人のパーティに出掛けていった。何度か訪ねた家だったが、その日、壁にかかっている二枚の未だ見たことのない絵があった。「ほほう、クニヨシだなあ。」と遠くから思ったが近づいてみると違っている。しばらくながめていたら友人が、その作家が来ているから紹介しようといって一人の老人の前につれて行った。この日のパーティで唯一人の東洋人だった。日系一世で80才になるというU氏だ。日本語と英語をまぜながら長い時間話をきいた。北川民次氏がニューヨークに滞在していた当時、同じようにアート・スティユデントリーグに通っていたと云う。絵では食えないので額縁屋を開き、ロックフェラー家に出入りを許されたり、古道具店を開いたりして成功した。その当時クニヨシはリーグの先生をしていた。U氏の作品がクニヨシによく似ているのがそれでわかった。クニヨシは額縁がなかなか買えず、U氏がクニヨシの作品と交換して額装していたのだという。それがなんと60点もあつまってしまった。未整理のドロウイングは数えきれない程あり、その他浮世絵、刀剣、つば、など戦後日本からアメリカ人が持ち帰ったものを買いあつめ、誰にも見せずにしまっておいた。
 アパートを買いフロリダで冬を過し、今自分で持っている金は死ぬまでどのように使っても使いきれないといいながら、次のパークバネットのオークションに刀剣百五十本を売りに出すという、一億円に近い金らしい。なぜかというと、去年の秋、FBIだといって入って来た二人組にホールドアップされ50本近い刀を真昼間に持ちだされてしまった。よいものだけえらんで持って行ったのは多分、自分の家で毎月やっている刀剣に関するゼミに参加している誰かの知人であろうといっていた。それから人間不信感はますますつのったらしい。或る時日本の博物館に名刀を一振り寄贈したいと申し出たら身元を調べられ、その刀も疑われて以後日本はキライになったといった。病的なコレクターなのか、コレクターが病的なのか。
 刀剣やつばより版画は日常性があるから、版画コレクターにはこんなタイプの人はいない。アートフェアーのようにお祭り気分の方がよい。あまり深刻がって作品をつくったり、病的に版画をあつめたりすると、息がつづかなくなる。
 版画センターも時には息をぬいておまつりでもやるとよい。
(つづく)
きむら りさぶろう
『版画センターニュース No.48』所収
1979年7月1日 現代版画センター発行
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●去る5月17日ニューヨークで死去した木村利三郎先生への追悼の心をこめて「第25回 瑛九展 瑛九と久保貞次郎」に久保貞次郎旧蔵作品を出品しています。
名称未設定-2
木村利三郎
「離島」
水彩
19.5×27.5cm
Signed

名称未設定-8
木村利三郎
「City」シリーズより
1970年
シルクスクリーン
22.0×27.0cm
Ed.20 Signed

名称未設定-4
木村利三郎
「Manhattan A」
銅版
12.5×17.0cm
Ed.50 Signed


*画廊亭主敬白
先日のブログで木村利三郎先生の訃報(5月17日死去)をお伝えしました。お別れ式が6月7日に横須賀のセレモニーホール衣笠で執り行われました。私たちはあいにく出張で参列できませんでしたが、久保貞次郎先生の教え子でリサさんとも親交のあった秀坂さんたちが出席し、当日の写真を送ってきてくださいました(秀坂さんありがとう)。
地元の代議士小泉進次郎さんも参列されたようです。
20140617_120140617_2

■木村利三郎
1924年 横須賀市生まれ
1947年 神奈川師範(現横浜国立大学)卒
1954年 法政大学哲学科卒
1964年 渡米
2014年 5月17日ニューヨークの自宅にて死去(享年89)。
【主な個展】
1969ロングアイランド大学(ニューヨーク)、ダウンタウン画廊((ハワイ)、1973ギンペル画廊(ニューヨーク)、1974日動画廊(東京、名古屋、大阪)、フマ画廊(東京)、1977ミュンヘン【ドイツ】、1978有隣堂ギャラリー(横浜)、1978名古屋日動画廊、平安画廊(京都)、フランクフェデラ画廊(ニューヨーク)、1981ストライプハウス(東京)、1982ミュンヘンインターナショナル画廊(ドイツ)、1987有隣堂ギャラリー、1991日本大使館(ワシントン)、1992ARTRAギャラリー(ニューヨーク)、1995有隣堂ギャラリー、1999仙台市民ギャラリー、1987,1995,2008川越画廊個展
【コレクション】
オクラホマアートセンター、ニューヨーク近代美術館、ブルックリン美術館、ミネソタ美術館、IBM本社、東京国立近代美術館、町田市立国際版画美術館、コロンビア美術館、東京芸術大学 ほか

◆ときの忘れものは2014年6月11日[水]―6月28日[土]「第25回 瑛九展 瑛九と久保貞次郎」を開催しています(*会期中無休)。
DM
大コレクター久保貞次郎は瑛九の良き理解者であり、瑛九は久保の良き助言者でした。
遺された久保コレクションを中心に、瑛九と時代を共にし、久保が支持した作家たちー北川民次、オノサト・トシノブ、桂ゆき、磯辺行久、靉嘔、瀧口修造、駒井哲郎、細江英公、泉茂、池田満寿夫らの油彩、水彩、オブジェ、写真、フォトデッサン、版画などを出品します。
また5月17日に死去した木村利三郎の作品を追悼の心をこめて特別展示します。

◆宇都宮の栃木県立美術館で、「真岡発:瑛九と前衛画家たち展―久保貞次郎と宇佐美コレクションを中心に」が6月22日[日]まで開催されています。
展示風景はユーチューブでご覧になれます。

木村利三郎先生を偲んで、お別れ式の日程

先日のブログで木村利三郎先生の訃報(5月17日死去)をお伝えしました。
リサさんを愛する方々からお問合せやメッセージをたくさんいただきました。
横須賀のご親族の方から、お別れ式についてのご連絡をいただきましたので、謹んでお知らせいたします。

木村利三郎先生のお別れ式
日時:2014年6月7日(土)13時
場所:セレモニーホール衣笠
   神奈川県横須賀市衣笠栄町2-8
   ☎046-852-4444
交通:JR 横須賀線 衣笠駅下車、徒歩2分程度

私たちはどうしても外せない出張が入っており、まことに残念ですが出席できません。遠くの空から利三郎先生のご冥福をお祈りしたいと思います。
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先日も書きましたが、利三郎先生は私たちのエディション作家であり、最高の教師でした。
現代版画センターの機関誌「版画センターニュース」にはたくさんの原稿をNYから送ってくださいました。
このブログでいくつか再録させていただきます。

木村利三郎 ■ ニューヨーク便り1(1979年)
「ウェストベス」


 ぼくの住む、ウェストベスは一九六九年に開設されたアーチストハウジングだ。マンハッタン島のダウンタウン、ハドソン河のすぐそばにある。ウエスト通りとベスーン通りの一角に位置するからそれぞれの通りの名の文字を合わせたものだ。あまりにも有名になったSOHOはハウストン通りの南という意味をかんたんにいった言葉だ。ニューヨーク近代美術館はこの方法でMMAN(マアン)という、あまりキレイな言葉ではない。
 現在ウエストベスには三七五世帯の芸術家が住んでいる。約一五〇人の画家、五〇人ほどの彫刻家それに建築、ジャズ、クラシック音楽、詩、小説、写真、ヤキモノ、俳優、版画、など一七種のジャンルの芸術家の巣だ。マースカンニングハムのダンス場も十一階にある。ぼくの上の階にはニューヨークで一人しかいない古典劇のためのマスクメーカーが住んでいる。日本人は川端実をはじめとして七世帯ぐらい。
 一九六八年、全米芸術家教会がカプロン財団をスポンサーとして希望者を募集したときの条件は、まずプロの芸術家であること、美術関係者二人のスイセン状、そして一人の年収が一万二千弗を超えないこととなっていて面接があった。あれから八年、住人もずいぶん変ったが、以前として入居希望者は多くウェイティングリストにのって入居をまっている人は六百人程いると事務所はいっていた。
 ニューヨークは今ホテルの部屋もアパートもたりず家賃は大変高い。女の子一人で住むための少さな一部屋だけのものでもあまり場所がよくないところで最低250$ぐらいする。ぼくの部屋は27m×14mで勿論バス、キッチン付で付き229$、それに光熱費はいくら使ってもタダ、台所の火もすべてタダ。タタミ四畳ぐらいの大きな天窓がついている。まあ安くてよいとこだが、八年あまりも住んでいるとそろそろアキてくる。
 第一すべての住人がものつくりかそれに近い人たちとなると会話はいつもそんな風なことが中心になる。入居した当座はなにかスゴイ処で、例へば十九世紀のパリのサロンかミューヘンの芸術運動の集団のように思えた。みんな立派な顔をしているしヨーロッパの作家も来ていたし、でも案外に平凡な作家が多く、華やいたニューズはSOHOの方がはるかに多い。
 ここのよい点は芸術家それぞれに必要な設備が用意されていることだ。ヤキモノ用の各種カマ、写真用の個人別暗室、版画用の仕事場とプレス機、彫刻家用特別大きい仕事場、そしていくつかの画廊。ガードは24時間ワッチしていてくれる。同じビルの中の友人にはいつでも簡単に会えるし、仕事上の技術や材料のことをいろいろと聞けるし、ともすると人間関係の薄くなる大都会の生活のなかでとても便利である。男女関係もこの中で自給自足できるらしい。
 でも欠点がないわけではない。ほぼ同じ構造同じ色、同じような仕事。なにかブロイラーの飼育場みたいに思われてくる。そして毎日毎日安い卵を生んでいるみたいだ。はじめの数年間で六人の自殺者がでた。これと同じようなものをブルックリンとかシカゴでつくるという話をきいたがついにつくらなかったらしい。海中に岩で巣をつくり小魚をあつめ、ついで中魚が集りそれを捕ってということをねらったらしいが計画通りにはいかなかったのだ。
 ぼくはあきれはきたがハドソン河端でワインをのんだり屋上であきることなくニューヨークのスカイラインをながめたり、なかなかよいものだと思っている。竜宮城のような日本から帰って来て自分だけの空間と時間を再び手にしたとき使いなれたこのストジオは古女房のように感じられた。
 パリでもここニューヨークでも芸術家は大体同じ地域に集り住む、TOKYOでは飲み屋では会うがあまり集団では住まない、芸術哲学のちがいか、それともすべてが同一民族だからいまさら集団化したくないのか、昔日本には座という組織があって自分たちの権利をまもっていたのに。日本ではなんでも集団をつくると必ず階級性ができそれを個人の生活までもち込まれると困るから生活集団はつくらないのかも知れない。
 カーニンハムやジャズのビリーハッパーや写真家のレオナルドマリーマンなど日本でも有名な連中がここでは特別な存在としてうつらない。みんなそれぞれ一個の芸術家として存在し、自己の仕事上の利益をまもることが主目的なのだから。音や水やニオイや時間が平常の人たちの中にいるとつい自己本位につかうのでクレームがつくことが多い。それでこうしてあつまっているのではないか。(つづく)
きむら りさぶろう
『版画センターニュース No.46』所収
1979年4月1日 現代版画センター発行

名称未設定-6
1979年ニューヨークにて
木村利三郎先生

名称未設定-2
木村利三郎
「離島」
水彩
19.5×27.5cm
Signed

名称未設定-8
木村利三郎
「City」シリーズより
1970年
シルクスクリーン
22.0×27.0cm
Ed.20 Signed

名称未設定-4
木村利三郎
「Manhattan A」
銅版
12.5×17.0cm
Ed.50 Signed

*上掲の3点はいずれも久保貞次郎旧蔵作品
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ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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