版の音律―内間安瑆の世界

水沢 勉

 内間安瑆が最後に辿り着いた世界は、一度、それに抱かれると忘れることの出来ない性格のものだ。色彩の波動がたえまなく打ち寄せてくる。きわめて周到な技術的な水準に裏づけられていなければ、この秩序は、簡単に失われてしまうだろう。しかし、そこに理知の冷たさはない。神秘めかしたごまかしもいっさいない。僕たちが静かな海辺に佇み、あるいは、微風の通う森のなかを散策するときと同じような安心感がそこにはある。よほど版そのもののなかに宿っているはずの自然の要諦に通じていなければ、人為と自然の境界を無化してしまうような、この表現の高みには到達できない。
 たとえば、不幸にも早く訪れてしまった晩年の《Forest Byobu(Twilight Weave)A》(1981年)や《Forest Weave(Bathers-Two-Cobalt)》(1982年)といった作品を目の前にすると、僕は、そうつぶやかざるをえない。とくに、後者に関連する小さな水彩画を見たときの印象は忘れがたいものだった。キュビズムの対象を切り子状に分解する手法を、巧みにロベール・ドローネーのオルフィスムとブレンドし、そこに作者鍾愛の裸婦のモチーフを組み入れる。アウグスト・マッケもほぼ70年前に試みていたことを、内間は、より華やかな、しかし、決して軽薄にはならない色彩の祝祭のなかで、独自に改めて挑んでいた。この色彩の至福感は、いつでもどこか悲劇的な感情に彩られているマッケ、フランツ・マルク、パウル・クレーのドイツ的世界とは異質であり、やはり、ジョン・マリンの色彩の楽観性に通じるアメリカの風土が育む性格ものではないか、と僕はかつて書いたことがある。そして、その水彩で慎重に計量された、光としての効果を充分に取り入れた色彩の分配が、木版へと置換される。そのとき、画家は、水彩から失われるもの、そして、木版だからこそ、あたかも恩寵のようにあたえられるもの、という造形の贈与の機微を楽しげに(作業そのものは非常な困苦を伴うにしても)観察し、創作しているように思えたのだった。

Forest Byobu(Twilight Weave)A内間安瑆
「Forest Byobu(Twilight Weave)A」
1981年
木版
59.5x52.7cm
A.P.
サインあり

Forest Weave (Bathers-two-cobalt)600内間安瑆
「Forest Weave(Bathers-Two-Cobalt)」
1982年
木版
82.0x57.0cm
A.P.
サインあり

 しかし、いま、もう一度、内間の作品にまとめて接してみると、その魅惑もまた翳りのなかにあることを知らされるのだ。もちろん、この画家のなまなかでないダンディズムは、直接的な個人の感情の吐露をかたくなに拒んでいる。良い意味でのスタイルがすべてにあたえられている。文学的修辞に過ぎるのを承知で書くならば、表向きにはけっしてひとに見せない背中の表情のようなものをこのひとは気にさせるのだ。それは、ひどく人前では陽気なひとが、家庭にとても深刻な問題を抱えていることがよくあるというような個別の事情ではない。より人間一般にどこか通じている普遍的な性格の影がそこには投げかけられている。その孤独を知ることが、逆説的なことに、知った人間の孤独を慰めてくれるという、ひとであれば拭うことのできない運命めいた影。その悲哀が、内間晩年作の色彩の祝祭にそっとまぎれこんでいる。そして、それこそが内間安 が特別に優れた表現者に成熟したことの証しでもあるのだ。
 「最後に、いかなる地理的な伝統によってではなく、人間としての真の個性と自身の時代を反映しつつ、自分自身にたいして真実であることによって、本物であると認められるようなものが残るだろう。時代は幾たびも変わってきた。しかし、いつも違っていた、という以上の違いがあっただろうか」とイサム・ノグチは、内間に触れつつ、問いかけている。時代は変わったように見えても、じつはそれほど変わってはいない。人間を隔てる地理的な境界も文化的な境界も確固として存在するように見えるが、本当にそうなのだろうか。「ウチマはこうした問題をまさに体現している。かれは、アメリカ人であるから、よりいっそう日本人なのだろうか。それとも、日本人であるから、よりいっそうアメリカ人なのだろうか。いや、日本人であるからより日本人であり、アメリカ人であるからよりアメリカ人なのだろうか。私は、日米というふたつの世界の狭間で捉えられたその人の内的な質をこそ称揚したい。相互性という難題にぶち当たり、その解決を追求するかれを私は高く評価するものである」。
 1955年。木版画に本格的に取り組むようになってからわずか数年後に、イサム・ノグチは、みずからと同じ日系アメリカ人アーティストとしての内間安瑆の姿勢を、まるで自分自身を語るかのように、鋭く見抜いてこのように書いた。しかし、これは、同時に大変に厳しい要請でもあったはずだ。折からの日本での木版画を中心とする版画ブーム、そして、アメリカでの抽象表現主義の猖獗。「ふたつの世界の狭間」にいる画家には、安易なジャポニズムと抽象表現の混淆も可能であったかもしれない。この木版画を主要な表現手段に選んでからアメリカにデモクラートの画家でもあった妻内間俊子と1959年に戻るまでの画家の歩みには、イサムと戦後日本との関係などと照らしながら、精密に分析するのに値する重要な問題が数多く含まれている。すでに1957年の時点で、小野忠重は、安易な日本的なモチーフと、無内容な抽象表現を徹底に批判する立場を鮮明にしたうえで、内間安瑆の木版画《カリグラフィ》に触れながら、「この二世作家は日本で版画を知ったというがかよわい「日本的」モチーフにとらわれる現代版画の疾患から完全に脱却することができて緊張した構造をつくりつつあるのを注意した」(「今日の版画」『三彩』4月号、第86号、1957年、25ページ)と書いて、デビューまもない版画家の位置を早くも正当に評価している。 「ふたつの世界の狭間」に身を置くことは、ふたつをつなぐ架け橋になる、というような楽観を許さなかったに違いない。むしろ、「狭間」に引き裂かれ、自分の根拠をともすれば見失いかねない、持続的に危険な状態に画家はあったのではなかろうか。だからこそ、「内的な質」にどこまでもこだわらなければならなかったはずである。それは、アンセイの場合も、イサムの場合も、基本的に変わりない。さらに突き詰めるならば、表現者であれば、どのような条件下にあろうと、結局はその一点によってすべては決定されてしまうのではなかろうか。この酷薄な事実を直視しなければ、表現を試みる人間に自由はなく、いつまでもみずからにあたえられたネガティヴな条件のなかに跼蹐せざるをえない。
 《Forest Byobu(Twilight Weave)A》(1981年)の、画家のいう「色面織り」の前にもう一度佇んでみる。江戸以来の木版画の技法、とりわけ微妙なボカシの技法によって、穏やかな水彩絵具の色彩が、浅い空間のなかに浮遊するかのように揺らいでいる。薄く紗がかかっているような、森の水気の感覚が、深く息づく。視覚も、触覚も、まるで無駄な力を抜かれ、やさしく揉み解されたように、心底くつろいでしまう。自由、というものはこういうものかもしれない、とふと思う。しかし、この極上の版の音律も、おそらく誰にもまして厳しい条件下で執拗に追及された果てに、生まれ出たものであることも忘れてはならないだろう。そこに辿り着くまでの軌跡そのものもまた、この稀なる版画家が僕たちに残してくれたかけがえのない表現行為なのである。

イサム・ノグチの言葉は、“ANSEI UCHIMA: PAINTINGS AND WORKS ON PAPER, Associated American Artists, 1997, New York”から引用し翻訳いたしました(筆者記)。
(みずさわつとむ)
版画掌誌『ときの忘れもの 第4号 北郷悟/内間安瑆』所収
2001年 ときの忘れもの発行

2014年9月12日付ブログ用画像_07
制作中の内間安瑆先生
1982年NY郊外のセカンドハウスにて

水沢勉
1952年横浜市生まれ。美術評論家・キュレーター、神奈川県立近代美術館館長。
慶應義塾大学美学美術史学科卒業。 1978年慶應義塾大学大学院修士課程修了後、神奈川県立近代美術館学芸員として勤務。 2008年横浜トリエンナーレ2008の総合ディレクター。 2011年 神奈川近美館長。ドイツ語圏および日本の近現代美術に関心を抱き、その交流史についても論じる。著書に『この終わりのときにも 世紀末美術と現代』(思潮社、1989年)。
松本竣介展水沢勉20121222
2012年12月22日
松本竣介展にて
水沢勉先生(右)

*画廊亭主敬白
沖縄県立美術館で内間安瑆先生の大規模な回顧展が開催されています。
ときの忘れものも今まで幾度かの展示を通じ、内間先生の色彩木版の世界を紹介してきましたが、浮世絵版画の伝統にモダンな独創を加えた清澄な表現行為をあらためてたどってみたいと思います。
(作品の一部はコチラをご覧ください。)
本日は、水沢勉先生の了解を得て、版画掌誌第4号所収の論文を掲載いたしました。