水沢勉のエッセイ

水沢勉「ふたりでひとりー内間安瑆と内間(青原)俊子」

ふたりでひとり
―内間安瑆と内間(青原)俊子


水沢 勉


奥深く折り重なった時間のヴェールの向こうにうっすらと浮かぶ映像がある。ふたつの影。その顔の表情はぼけてしまって判然としない。どこかふたりは微笑んでいるようにみえる。
が、もはやしかとは確かめられない――
わたしにとっては内間安瑆・俊子夫妻との最初で最後の出会い。おそらく1986年、六本木のストライプハウスでのおふたりの展覧会が初めて同館で開催されていたときであったと思う。安瑆さんは杖をつかれて、そのそばに俊子さんが佇んでおられた。わたしは安瑆さんの近作の「Forest Byobu(森の屏風)」と名づけられた一連の多色木版画の魅力にすっかり虜になっている自分のことを伝えたように思うが、安瑆さんとは、その頃は病気で言葉が不自由になられていてあまり話が出来なかった。俊子さんも静かにされていてあまり語られなかった。でも、主役はあくまで安瑆さんのほうなのですよ、と伝えようとする控えめな気配というか、配慮を感じさせる、忘れられない佇まいだった。
いま「ときの忘れもの」で開かれているおふたりの作品を拝見すると、それぞれの個性以上に、ふたりであることの意味も改めて捉えなければならないと思う。いままでわたしはそれぞれの個性ばかりに目がいってしまっていたのではないか。ふたりであることをしっかり見定めなければいけない。
そんな思いを抱きながら、ご長男の安樹さんが今回のカタログに寄せた文章「追想:両親のこと」を読んで、その思いはますます強い。1958年東京生まれの安樹さんが回想するおふたりの姿は、もちろんのわたしの曖昧模糊とは違うけれど、やはりどこか輪郭を定めがたい印象がある。俊子さんは、旧姓青原俊子として「1918年10月26日、満州安東市に生まれる。」と同カタログの年譜には記載されている。一方、安瑆さんは、「1921年5月1日アメリカ合衆国カリフォルニア州ストックトンに生まれる。」とある。
俊子さんはじつは安瑆さんより三歳年上だったのだ。しかも「満州安東市」の出身。「安東」は旧称で、現在の中華人民共和国遼寧省丹東市と思われる。誕生年である1918年には、歴史的にはまだ「市」ではなかったはずであり、正確には「旧満州安東」と記載すべきかもしれない。歴史そのものが茫々たる時間の彼方にある。そして安樹さんが生まれた翌年1959年に内間夫妻はアメリカに住まいを移している。安瑆にとってはほぼ20年ぶりの「帰国」であったが、妻と息子にとっては、初めての「渡米」であった。
時計の針を少し逆回しすることになるが、安瑆の両親、安珍とハルは沖縄の出身であり、1920年にカリフォルニアに移民し、翌年に安瑆が長男として生まれている。19世紀末までは一部の富裕層だけが特権的に世界旅行に夢中になったが、20世紀はむしろ生活の糧をもとめてひとびとが大量に移動する時代になっていたのである。その歴史の風景のなかに安瑆と俊子は生まれたのだ。
わたしがはじめて俊子さんの作品に接したのは、安瑆作品よりも早く、1982年のストライプハウスで藤井多鶴子とのふたり展であった。いくつかの壁掛けのアッサンブラージュやコラージュ、とくにボックス型のオブジェに封じ込められた、独特の無国籍的なノスタルジーに魅了され、すぐに雑誌『美術手帖』(1983年3月号)に展評を寄せた。その後、瀧口修造の詩に寄せた詩画集『スフィンクス』(1954年)のなかの木版画《魚の欲望》の色彩に驚くことになるのだが、その作者「青原俊子」が「内間俊子」であるとは迂闊なことにすぐにはわたしには結びつかなった。俊子さんは、1953年以来、画家は、1951年に結成されたデモクラート美術協会の会員であり、瑛九と瀧口修造の精神的な圏域のなかに一時身を置いていた。他の会員たちが銅版画であったのに、俊子さんは、木版画であった。この年に俊子さんと安瑆さんは結婚されている。安瑆さんがこの小品とはいえ、妖しい光を放つ木版画に魅せられていたのではないか、そうでなければ結婚しない・・・というのは、わたしの勝手な妄想かもしれないが、それはそれでとても愉しい。故郷喪失者のふたりの出会いを、木版画が導いたのではないかという推測である。

せっかくご本人たちに直接会う機会がありながら、それぞれの作品については、話を少しはしてはいても、そういった暮らしの個人的な部分には立ち入ることができなかった。毅然としたおふたりの姿に、そのようなことを訊くことは躊躇われたのだ。
風がいつのまにか集めたかと一瞬疑う、作為性を感じさせない俊子さんのオブジェ。気がつくと風と同調しているのではないかと感じられる晩年の安瑆さんの多色木版画。それだけで十分でしょう、とふたりは作品もひとも語りかけていた。
ふたりはそれぞれに孤独であり、ふたりでひとりであった。
みずさわ つとむ

ForestByobu (Fragrance)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Fragrance)"

1981年
木版(摺り:米田稔)
イメージサイズ:76.0×44.0cm
シートサイズ:83.6×51.0cm
限定120部 サインあり
*現代版画センターエディション

27a_cottonjin内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Cotton Jinのころ"

1986年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:65.5×33.0×11.5cm
サインと日付あり
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内間安王星2
1986年10月7日六本木・ストライプハウス美術館にて
右から、内間俊子先生、内間安瑆先生、ご子息の内間安樹さん
(提供:湯谷ひろみ)

19891020二人展
1989年10月20日ストライプハウス美術館にて、内間夫妻(前列)
(提供:塚原操)


水沢勉
1952年横浜市生まれ。美術評論家・キュレーター、神奈川県立近代美術館館長。
慶應義塾大学美学美術史学科卒業。 1978年慶應義塾大学大学院修士課程修了後、神奈川県立近代美術館学芸員として勤務。 2008年横浜トリエンナーレ2008の総合ディレクター。 2011年より神奈川県立近代美術館館長。ドイツ語圏および日本の近現代美術に関心を抱き、その交流史についても論じる。著書に『この終わりのときにも 世紀末美術と現代』(思潮社、1989年)。

◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。
水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
201807_uchima


ときの忘れもの・拾遺 第8回ギャラリーコンサートのご案内
日時:2018年9月12日(水)18:00〜
会場:ときの忘れもの
出演:武久源造、山川節子
プロデュース:大野幸
要予約=料金:1,000円
予約:必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申し込みください。
info@tokinowasuremono.com

水沢勉「版の音律―内間安瑆の世界」(再録)

版の音律―内間安瑆の世界

水沢 勉

 内間安瑆が最後に辿り着いた世界は、一度、それに抱かれると忘れることの出来ない性格のものだ。色彩の波動がたえまなく打ち寄せてくる。きわめて周到な技術的な水準に裏づけられていなければ、この秩序は、簡単に失われてしまうだろう。しかし、そこに理知の冷たさはない。神秘めかしたごまかしもいっさいない。僕たちが静かな海辺に佇み、あるいは、微風の通う森のなかを散策するときと同じような安心感がそこにはある。よほど版そのもののなかに宿っているはずの自然の要諦に通じていなければ、人為と自然の境界を無化してしまうような、この表現の高みには到達できない。
 たとえば、不幸にも早く訪れてしまった晩年の《Forest Byobu(Twilight Weave)A》(1981年)や《Forest Weave(Bathers-Two-Cobalt)》(1982年)といった作品を目の前にすると、僕は、そうつぶやかざるをえない。とくに、後者に関連する小さな水彩画を見たときの印象は忘れがたいものだった。キュビズムの対象を切り子状に分解する手法を、巧みにロベール・ドローネーのオルフィスムとブレンドし、そこに作者鍾愛の裸婦のモチーフを組み入れる。アウグスト・マッケもほぼ70年前に試みていたことを、内間は、より華やかな、しかし、決して軽薄にはならない色彩の祝祭のなかで、独自に改めて挑んでいた。この色彩の至福感は、いつでもどこか悲劇的な感情に彩られているマッケ、フランツ・マルク、パウル・クレーのドイツ的世界とは異質であり、やはり、ジョン・マリンの色彩の楽観性に通じるアメリカの風土が育む性格ものではないか、と僕はかつて書いたことがある。そして、その水彩で慎重に計量された、光としての効果を充分に取り入れた色彩の分配が、木版へと置換される。そのとき、画家は、水彩から失われるもの、そして、木版だからこそ、あたかも恩寵のようにあたえられるもの、という造形の贈与の機微を楽しげに(作業そのものは非常な困苦を伴うにしても)観察し、創作しているように思えたのだった。

Forest Byobu(Twilight Weave)A内間安瑆
「Forest Byobu(Twilight Weave)A」
1981年
木版
59.5x52.7cm
A.P.
サインあり

Forest Weave (Bathers-two-cobalt)600内間安瑆
「Forest Weave(Bathers-Two-Cobalt)」
1982年
木版
82.0x57.0cm
A.P.
サインあり

 しかし、いま、もう一度、内間の作品にまとめて接してみると、その魅惑もまた翳りのなかにあることを知らされるのだ。もちろん、この画家のなまなかでないダンディズムは、直接的な個人の感情の吐露をかたくなに拒んでいる。良い意味でのスタイルがすべてにあたえられている。文学的修辞に過ぎるのを承知で書くならば、表向きにはけっしてひとに見せない背中の表情のようなものをこのひとは気にさせるのだ。それは、ひどく人前では陽気なひとが、家庭にとても深刻な問題を抱えていることがよくあるというような個別の事情ではない。より人間一般にどこか通じている普遍的な性格の影がそこには投げかけられている。その孤独を知ることが、逆説的なことに、知った人間の孤独を慰めてくれるという、ひとであれば拭うことのできない運命めいた影。その悲哀が、内間晩年作の色彩の祝祭にそっとまぎれこんでいる。そして、それこそが内間安 が特別に優れた表現者に成熟したことの証しでもあるのだ。
 「最後に、いかなる地理的な伝統によってではなく、人間としての真の個性と自身の時代を反映しつつ、自分自身にたいして真実であることによって、本物であると認められるようなものが残るだろう。時代は幾たびも変わってきた。しかし、いつも違っていた、という以上の違いがあっただろうか」とイサム・ノグチは、内間に触れつつ、問いかけている。時代は変わったように見えても、じつはそれほど変わってはいない。人間を隔てる地理的な境界も文化的な境界も確固として存在するように見えるが、本当にそうなのだろうか。「ウチマはこうした問題をまさに体現している。かれは、アメリカ人であるから、よりいっそう日本人なのだろうか。それとも、日本人であるから、よりいっそうアメリカ人なのだろうか。いや、日本人であるからより日本人であり、アメリカ人であるからよりアメリカ人なのだろうか。私は、日米というふたつの世界の狭間で捉えられたその人の内的な質をこそ称揚したい。相互性という難題にぶち当たり、その解決を追求するかれを私は高く評価するものである」。
 1955年。木版画に本格的に取り組むようになってからわずか数年後に、イサム・ノグチは、みずからと同じ日系アメリカ人アーティストとしての内間安瑆の姿勢を、まるで自分自身を語るかのように、鋭く見抜いてこのように書いた。しかし、これは、同時に大変に厳しい要請でもあったはずだ。折からの日本での木版画を中心とする版画ブーム、そして、アメリカでの抽象表現主義の猖獗。「ふたつの世界の狭間」にいる画家には、安易なジャポニズムと抽象表現の混淆も可能であったかもしれない。この木版画を主要な表現手段に選んでからアメリカにデモクラートの画家でもあった妻内間俊子と1959年に戻るまでの画家の歩みには、イサムと戦後日本との関係などと照らしながら、精密に分析するのに値する重要な問題が数多く含まれている。すでに1957年の時点で、小野忠重は、安易な日本的なモチーフと、無内容な抽象表現を徹底に批判する立場を鮮明にしたうえで、内間安瑆の木版画《カリグラフィ》に触れながら、「この二世作家は日本で版画を知ったというがかよわい「日本的」モチーフにとらわれる現代版画の疾患から完全に脱却することができて緊張した構造をつくりつつあるのを注意した」(「今日の版画」『三彩』4月号、第86号、1957年、25ページ)と書いて、デビューまもない版画家の位置を早くも正当に評価している。 「ふたつの世界の狭間」に身を置くことは、ふたつをつなぐ架け橋になる、というような楽観を許さなかったに違いない。むしろ、「狭間」に引き裂かれ、自分の根拠をともすれば見失いかねない、持続的に危険な状態に画家はあったのではなかろうか。だからこそ、「内的な質」にどこまでもこだわらなければならなかったはずである。それは、アンセイの場合も、イサムの場合も、基本的に変わりない。さらに突き詰めるならば、表現者であれば、どのような条件下にあろうと、結局はその一点によってすべては決定されてしまうのではなかろうか。この酷薄な事実を直視しなければ、表現を試みる人間に自由はなく、いつまでもみずからにあたえられたネガティヴな条件のなかに跼蹐せざるをえない。
 《Forest Byobu(Twilight Weave)A》(1981年)の、画家のいう「色面織り」の前にもう一度佇んでみる。江戸以来の木版画の技法、とりわけ微妙なボカシの技法によって、穏やかな水彩絵具の色彩が、浅い空間のなかに浮遊するかのように揺らいでいる。薄く紗がかかっているような、森の水気の感覚が、深く息づく。視覚も、触覚も、まるで無駄な力を抜かれ、やさしく揉み解されたように、心底くつろいでしまう。自由、というものはこういうものかもしれない、とふと思う。しかし、この極上の版の音律も、おそらく誰にもまして厳しい条件下で執拗に追及された果てに、生まれ出たものであることも忘れてはならないだろう。そこに辿り着くまでの軌跡そのものもまた、この稀なる版画家が僕たちに残してくれたかけがえのない表現行為なのである。

イサム・ノグチの言葉は、“ANSEI UCHIMA: PAINTINGS AND WORKS ON PAPER, Associated American Artists, 1997, New York”から引用し翻訳いたしました(筆者記)。
(みずさわつとむ)
版画掌誌『ときの忘れもの 第4号 北郷悟/内間安瑆』所収
2001年 ときの忘れもの発行

2014年9月12日付ブログ用画像_07
制作中の内間安瑆先生
1982年NY郊外のセカンドハウスにて

水沢勉
1952年横浜市生まれ。美術評論家・キュレーター、神奈川県立近代美術館館長。
慶應義塾大学美学美術史学科卒業。 1978年慶應義塾大学大学院修士課程修了後、神奈川県立近代美術館学芸員として勤務。 2008年横浜トリエンナーレ2008の総合ディレクター。 2011年 神奈川近美館長。ドイツ語圏および日本の近現代美術に関心を抱き、その交流史についても論じる。著書に『この終わりのときにも 世紀末美術と現代』(思潮社、1989年)。
松本竣介展水沢勉20121222
2012年12月22日
松本竣介展にて
水沢勉先生(右)

*画廊亭主敬白
沖縄県立美術館で内間安瑆先生の大規模な回顧展が開催されています。
ときの忘れものも今まで幾度かの展示を通じ、内間先生の色彩木版の世界を紹介してきましたが、浮世絵版画の伝統にモダンな独創を加えた清澄な表現行為をあらためてたどってみたいと思います。
(作品の一部はコチラをご覧ください。)
本日は、水沢勉先生の了解を得て、版画掌誌第4号所収の論文を掲載いたしました。
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