内間安瑆の世界

東京オペラシィティー「異国で描く 内間安瑆」

初台の東京オペラシィティーアートギャラリーが所蔵する寺田コレクション難波田龍起難波田史男作品などで知られていますが、それらを収集寄贈した名誉館長の寺田小太郎さんが先月11月18日にお亡くなりになりました。
謹んでご冥福をお祈りします。

寺田さんは初台に江戸時代から400年以上、十数代続く地主さんでした。オペラシティの開発に伴い土地を売却し、難波田龍起、史男作品はじめ約3,000点におよぶコレクションを寄贈されました。
20171013初台オペラシティ_02寺田小太郎
中央が寺田小太郎さん
2017年10月13日
韓国の抽象展」及び「収蔵品展060 懐顧 難波田龍起」オープニングにて

現在、東京オペラシィティーアートギャラリーでは「田根 剛|未来の記憶 Archaeology of the Future ─ Digging & Building」展と、「収蔵品展064
異国で描く」が開催中です。
寺田さんへの追悼の気持ちをこめて、収蔵品展から内間安瑆先生の木版画9点の展示についてご紹介します。

●東京オペラシィティーアートギャラリー
収蔵品展「異国で描く
会場:ギャラリー3&4(東京オペラシティ アートギャラリー 4F)
期間:2018.10.19[金]— 12.24[月]
主催:公益財団法人 東京オペラシティ文化財団
image1展示されている内間先生の作品のいくつかは私どもからお納めした作品です。

image2

image3
展示の画像は内間先生のご遺族からの提供です。


●本日のお勧め作品は内間安瑆と難波田史男です。
ForestByobu (Fragrance)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Fragrance)"

1981年
木版(摺り:米田稔)
イメージサイズ:76.0×44.0cm
シートサイズ:83.6×51.0cm
限定120部 サインあり
*現代版画センターエディション


NC747難波田史男銅版No33察伸将将難波田史男
<『難波田史男銅版画集 ある日の幻想』より、作品ー33>
銅版  1987年刊行
イメージサイズ:18.0×15.1cm
シートサイズ:45.0 31.5
察伸将将
スタンプ印あり


NC746難波田史男銅版No19察伸将将難波田史男
<『難波田史男銅版画集 ある日の幻想』より、作品ー19>
銅版  1987年刊行
イメージサイズ:18.4×29.8cm
シートサイズ:31.4×45.0cm
察伸将将
スタンプ印あり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

*1974年に不慮の死をとげた難波田史男は、1962年に文化学院を中退し、翌年日本美術家連盟主催の版画講習会に参加し、池田満寿夫より銅版画制作の指導を受けた。その後、銅版のプレス機を自室に構え何点かの作品を制作するが、ほどなく制作の中心は水彩に移り、1970年頃になって再び銅版画制作に取り組んだ。『難波田史男銅版画集 ある日の幻想』は没後、父龍起の希望もあり、残された原版から木村希八版画工房によって刷られ、同刊行会の名で発行された。

ときの忘れものは「第306回企画◆佐藤研吾展―囲いこみとお節介 」を開催します。
会期:2018年12月13日[木]―12月22日[土] 11:00-19:00 ※会期中無休
306
インド、東京、福島という複数の拠点を往還しながら創作活動に取り組んでいる建築家・佐藤研吾の初個展を開催します。
本展では、自身でデザインし制作した家具としてのハコや、ピンホールカメラ(ハコ)とそれを使って撮影したハコの写真、またハコのドローイングなど、独自の世界観をご覧いただきます。
会期中、作家は毎日在廊予定です。
以下の日程で以下のゲストをお迎えし、ギャラリートークを開催します。
※要予約、参加費1,000円、複数回参加の方は二回目からは500円
12/13(木)13時〜 ゲスト:中島晴矢さん(現代美術家)
12/14(金)18時〜 ゲスト:岸井大輔さん(劇作家)
12/15(土)18時〜 佐藤研吾レクチャー
12/21(金)18時〜 ゲスト:小国貴司さん(Books青いカバ店主)
12/22(土)18時〜 佐藤研吾レクチャー
ご予約はメールにてお申し込みください。 info@tokinowasuremono.com

●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は通常は休廊ですが、「佐藤研吾展―囲いこみとお節介」(12月13日[木]―12月22日[土])開催中は無休で開廊しています。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
12

内間安瑆・内間俊子展のご報告

先週末に終了した「内間安瑆・内間俊子展」のご報告もしないうちに、ときの忘れものは夏季休廊に突入しました。
例年通り8月11日〜20日まで、10日間の休みをスタッフたちはゆっくりのんびり過ごしている(に違いない)。
ブログは執筆陣の皆様にお願いしていつもより締切りを早めて予約投稿していますので、画廊は休みですが無休で更新しています。どうぞご愛読ください。

01
内間安瑆作品

05
内間俊子作品

今回の「内間安瑆・内間俊子展」は会期も7月17日〜8月10日と長めにとり、NY在住のご遺族をお迎えして私たちも張り切って開催したのですが、思いもかけない災害級の猛暑にぶつかってしまいました。
20180722内間家と会食2018年7月22日
東洋文庫カフェにて、内間家の皆さん、社長の跡見の後輩たちと会食

燃えるような暑さの中を4日間も在廊してお客様に対応して下さった内間家の皆様に感謝するととともに、会期の設定を間違ったことへの悔いが残ります。
きっと来たくても来られなかったお客様も多かったはず。
最後の週になってようやく普通の暑さ(それでも暑い!)に戻り、来廊者も増えました。

2014年9月12日付ブログ用画像_08
1982年の内間安瑆先生と俊子夫人
この写真を撮った僅か半年後、安瑆先生が病に倒れ、18年間に渡る長い闘病生活が続きます。
2000年に相次いで亡くなられた内間ご夫妻には私たちは言葉に尽くせぬほどお世話になりました。

これほどの優れた作家が忘れられ、貴重な作品が人々の目に触れられる機会が少ないのは残念でなりません。
今回二人展として展示したのは、美術史の空白ともなっている1950年代に活躍し、1960年代以降は太平洋をはさみ日米の架け橋ともなったお二人の活動を記録し、伝えてゆくことが私たちの務めと思っているからです。

幸い、多くの美術館学芸員にお二人の作品を見ていただくことができました。きっと遠くない将来に美術館レベルでの展示が実現するでしょう。

○神奈川県立近代美術館館長の水沢勉先生には、ご多忙の中、お二人について素晴らしい文章をご寄稿いただきました(8月4日ブログ「ふたりでひとり―内間安瑆と内間(青原)俊子」)。
20180720水沢勉先生と内間安樹さん
2018年7月20日ときの忘れものにて
内間安樹さん(左)と水沢勉先生

○水沢先生には版画掌誌「ときの忘れもの」第04号にもご執筆いただいています。
水沢勉版の音律―内間安瑆の世界
版画掌誌第4号には、安瑆先生の作品(後刷り)が挿入されており、ぜひご購読ください。

お元気ならば俊子先生が100歳、安瑆先生は97歳です。
日本に在住していた頃のお二人を良く知る方に再会できたことも、大きな収穫でした。
斎藤玲子さん20180810
2018年8月10日最終日に来廊された斎藤玲子さん(右)。
お二人の1950年代、青原俊子さんと安瑆先生を良く知るご友人です。


○7月21日ブログ「流政之と内間安瑆・内間俊子
○7月24日ブログ:内間安樹「My parents: A Reflection  追想:両親のこと
○7月25日ブログ「オリヴァー・スタットラーと内間安瑆〜名著『Modern Japanese Prints: An Art Reborn』
○7月28日ブログ「イサム・ノグチと内間安瑆〜東京オペラシティでイサム・ノグチ展
○7月30日ブログ「内間安瑆先生と早稲田の友人たち

内間安瑆先生については、以前ブログで紹介した下記の論文、インタビューもご参照いただければ幸いです。
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回

今回の展覧会の出品作品は7月14日ブログに掲載しましたので、ご覧ください。
展覧会が終了したので一部は倉庫に戻しますが、事前にご連絡いただければご用意しますので、どうぞご興味のある作品がありましたら、ご連絡ください。

『内間安瑆・内間俊子展』カタログ
2018年 ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 図版:51点、略歴収録
テキスト:内間安樹(長男、美術専門弁護士/ニューヨーク州)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
編集:尾立麗子
編集協力:桑原規子
翻訳:味岡千晶、他
価格:税込800円 ※送料別途250円

表紙_表1_内間展_修正_0628_600表紙_表4_内間展_修正_0628_600

作品をお買い上げいただいたお客様、炎暑の中をお運びいただいた皆様、そしてNYから展覧会にかけつけてくださった内間家の皆様には心より御礼を申し上げます。
ほんとうにありがとうございました。

内間展は明日までです。イサム・ノグチ「内間君のために」

炎暑の中の内間安瑆・内間俊子展ですが、いよいよ明日までです。

このブログでは内間安瑆、内間俊子のお二人の作品を紹介してきましたが、いままでの私たちの関わりからどうしても安瑆先生の情報が多くなってしまいました。
内間俊子先生が遺された作品、活動された軌跡に関しては今後の課題として、研究者の皆さんに協力していただき継続して顕彰してまいりたいと思っています。
具体的な目標の一つとしては、数年後の美術館レベルでの展覧会の開催があります。
そのためには、お二人の遺した作品をなるべくたくさん調査、情報を収集したいと思います。皆様のご協力をお願いする次第です。

●内間安瑆先生と同時代の人たちとの交流については、
7月25日ブログ「オリヴァー・スタットラーと内間安瑆
7月28日ブログ「イサム・ノグチと内間安瑆
7月30日ブログ「内間安瑆先生と早稲田の友人たち
で少し紹介しました。

本日は雑誌『みづゑ』1957年5月号(No.622)に掲載されたイサム・ノグチの「内間君のために」を再録します。
〜〜〜

 “偶然というものは神の声”と云われているが,それに耳をかたむけ,それに注意するもののみに大きな恩寵がある.この意味において,2年前内間君が帰米を延期せざるを得なかったという事情に天の啓示があったように私は思う.彼は元来(画家として)何のために日本に来たかという答を見出す今一つの機会が与えられたのである.
 彼が,古来よりの文化的伝統を深く追究したことは事実だが,それにもかかわらず,彼はそれのもつ充分な意義と正面から取りくむことをさけていたように思えた.やがて国へ帰る1 人の来訪者のように―. しかし実際にはここから脱出出来ないこと,ここにも他の地と変らぬきびしい現実があるのだという事実に直面し,彼はこの地に止まって,さ細なものから組立てて,自分を取りまく世界の解釈を探し求める勇気を出した.
 いま,彼がアメリ力へ行くとするならば,(そんなことはもはやさほど重要ではないが―)この天啓の収穫をもって行くだろう.


内間君のために   イサム・ノグチ

テングタチ_00001
ワルツ_00001
内間安瑆「風のワルツ」

『みづゑ』No.622(美術出版社)は表紙を内間の《サムライ》で飾り、20〜24ページにかけて「内間安瑆の版画」を特集した。イサム・ノグチのエッセイは20ページに掲載され、内間作品は1957年3月の養清堂の個展出品作品から「風のワルツ」「仙人」「祭太鼓」「木琴」が図版掲載された。

0011959年、羽田空港にて 
アメリカに帰国する安瑆と俊子を見送るイサム・ノグチ(右)。


●内間安瑆の作品紹介
内間安瑆は1921年アメリカに生まれます。苗字からわかるように父と母は沖縄からの移民です。1940年日本に留学、戦時中は帰米せず、早稲田大学で建築を学びます。油彩の制作をはじめ、後には木版画に転じます。
1950年アンデパンダン展(東京都美術館)に出品。1950年代初めにイサム・ノグチと知り合い、以降親しく交流する。1954年オリバー・スタットラーの取材に通訳として同行し、その著作に協力した。
その折に創作版画の恩地孝四郎にめぐり合い大きな影響を受けます。
1954年デモクラート美術家協会の青原俊子と結婚。1955年東京・養清堂画廊で木版画による初個展を開催。1959年妻の俊子と息子を伴い帰米、ニューヨーク・マンハッタンに永住。版画制作の傍ら、サラ・ローレンス大学で教え、1962と70年にグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授を務めました。
日米、二つの祖国をもった内間安瑆は浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と自ら呼んだ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出します。現代感覚にあふれた瑞々しい木版画はこれからもっともっと評価されるに違いありません。

1)
03_hermit内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Hermit"

1957年
木版
イメージサイズ:77.1×41.0cm
フレームサイズ:96.3×58.4cm
サインあり

2)
1959 An Emotion_600内間安瑆 Ansei UCHIMA
"An Emotion (或る感情)"

1959年
木版
イメージサイズ:40.8×30.2cm
シートサイズ:42.6×30.9cm
サインあり

3)
04_shifting-horizon内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Shifting Horizon"

1960年
木版
イメージサイズ:31.7×24.0cm
シートサイズ:53.0×38.0cm
Ed.15
サインあり

4)
05_early-summer-rain内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Early Summer Rain"

1961年
木版
イメージサイズ:50.5×38.0cm
シートサイズ:61.5×45.5cm
サインあり

5)
05_Ansei内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Spring Snow"

1962年
木版
イメージサイズ:77.5×33.5cm
フレームサイズ:93.6×49.8cm
サインあり

7)
07_reflection-in-rain内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Reflection in Rain"

1965年
木版
イメージサイズ:46.0×41.0cm
シートサイズ:49.5×44.0cm
サインあり

8)
08_city-lights内間安瑆 Ansei UCHIMA
"City Lights"

1967年
木版
イメージサイズ:54.0×41.0cm
シートサイズ:60.0×44.0cm
サインあり

9)
09_Ansei内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Pastoral Poem"

1967年
木版
イメージサイズ:39.3×18.1cm
シートサイズ:44.8×30.6cm
サインあり

10)
12_short_poem_black-white内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Short Poem Black and Red"

1967年
木版
イメージサイズ:31.7×24.0cm
シートサイズ:44.6×31.1cm
サインあり

11)
10_ruinsB内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Ruins B"

1967年
木版
イメージサイズ:17.6×55.6cm
シートサイズ:22.6×60.1cm
Ed.30
サインあり

12)
11_short_poem内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Short Poem"

1967年
木版
イメージサイズ:17.6×55.6cm
シートサイズ:22.8×60.7cm
サインあり


13)
13_time-space-horizontal-B内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Time, Space-Horizontal B"

1969年
木版
イメージサイズ:35.5×75.8cm
フレームサイズ:55.5×95.5cm
Ed.30
サインあり

14)
14_in-space-pink内間安瑆 Ansei UCHIMA
"In Space Pink"

1969年
木版
イメージサイズ:76.0×50.5cm
シートサイズ:84.0×57.0cm
サインあり

15)
15_space-landscape-c内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Space Landscape (C)"

1970〜75年
木版
イメージサイズ:76.0×51.5cm
シートサイズ:79.5×58.5cm
サインあり

16)
16_two-spheres-in-space内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Two Spheres in Space"

1971〜73年
木版
イメージサイズ:76.0×52.0cm
シートサイズ:86.6×59.9cm
Ed.30
サインあり

17)
17_1-5-space-tranquility内間安瑆 Ansei UCHIMA
"I-V Space Tranquility"

1972年
木版
イメージサイズ:70.6×53.1cm
シートサイズ:82.4×61.4cm
サインあり

18)
18_space-gesture内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Space Gesture"

1972〜76年
木版
イメージサイズ:73.5×53.0cm
シートサイズ:78.5×58.0cm
Ed.30
サインあり

19)
19_aretic-landscape内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Aretic Landscape"

1973〜76年
多色木版 Color woodcut
イメージサイズ:76.0×53.4cm
シートサイズ:83.7×61.3cm
Ed.30
サインあり



20)
Ansei_InBlue内間安瑆 Ansei UCHIMA
"In Blue"

1973
多色木版 Color woodcut
イメージサイズ:7.8x11.0cm
シートサイズ:20.2×25.3cm
Ed.200
サインあり

21)
IN BLUE (DAI)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"In Blue (Dai)"

1975年
木版
イメージサイズ:47.7×73.6cm
シートサイズ:57.0×78.8cm
Ed.30
サインあり

22)
uchima_44内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Window Nuance (Rose)"

1978年
木版
イメージサイズ:30.0×22.0cm
シートサイズ:37.5×28.5cm
サインあり

23)
Forest-Byobu-with-Bouquet内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu with Bouquet"

1979年(2001年プリント)
木版
イメージサイズ:19.7×26.5cm
シートサイズ:24.0×31.4cm
Ed.35(内Ed.1からEd.10が作家による自摺り)
※版画掌誌4号A版挿入作品

24)
21_forest-byobu-autumn内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Autumn)"

1979年
木版
イメージサイズ:45.5×76.0cm
シートサイズ:55.0×88.0cm
サインあり

25)
ForestByobu (Fragrance)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Fragrance)"

1981年
木版(摺り:米田稔)
イメージサイズ:76.0×44.0cm
シートサイズ:83.6×51.0cm
限定120部 サインあり
*現代版画センターエディション



26)
FOREST_BYOBU_TWILIGHT_WEAVE_A内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Twilight Weave) A"

1981年
木版
イメージサイズ:59.5×52.7cm
シートサイズ:71.0×60.3cm
サインあり

27)
02_fw-bathers-two_cobalt内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
木版
イメージサイズ:68.0×49.0cm
シートサイズ:82.0×57.0cm
サインあり

28)
01_fw-bathers-two_cobalt_oil内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
キャンバスに油彩
91.5×66.0cm

29)
22_fw-bathers-fall内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-Fall)"

1967年
木版
イメージサイズ:54.0×41.0cm
シートサイズ:60.0×44.0cm
サインあり


Ansei_水彩内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Unknown"

1982
紙に水彩
イメージサイズ : 8.5x6.0cm
シートサイズ : 14.0x8.2cm
サインあり

31)
steps_1内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Steps)"

1980年
銅版
イメージサイズ:14.3×9.3cm
シートサイズ:28.4×25.0cm
サインあり

32)
steps_Black_1内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Shrub Oak (Steps B - Black)"

1981年
銅版
イメージサイズ:14.5×11.8cm
シートサイズ:28.3×22.8cm
サインあり

33)
steps_Green_1内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Shrub Oak (Steps B - Green)"

1981年
銅版
イメージサイズ:14.4×12.0cm
シートサイズ:28.3×23.0cm
サインあり

34)
Uchima_Self_Portlait_with_flower_A2内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Self Portrait with flower (A)"

1982年
銅版
イメージサイズ:12.6×9.0cm
シートサイズ:28.9×27.8cm
サインあり

35)
Uchima_Self_Portlait_D2内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Self Portrait (D)"

1982年
銅版
イメージサイズ:7.6×8.0cm
シートサイズ:28.4×28.8cm
サインあり

36)
Uchima_Self_Portlait_E2内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Self Portrait (E)"

1982年
銅版
イメージサイズ:7.5×8.5cm
シートサイズ:28.7×28.2cm
サインあり

37)
rose-b内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Rose One (B)"

1982年(2001年プリント)
銅板
イメージサイズ:11.7×9.0cm
シートサイズ:32.0×25.6cm
Ed.135(内Ed.1からEd.10が作家による自摺り)
※版画掌誌4号A版・B版挿入作品

38)
uchima_04_uesuto-november内間安瑆 Ansei UCHIMA
"ウエストチェスター (November)"

1982年
銅版
イメージサイズ:7.5×8.5cm
シートサイズ:28.7×28.2cm
サインあり


●内間俊子の作品紹介
内間俊子は旧姓・青原、高知県にルーツを持ち、1918年満州・安東市で生まれました。1928年大連洋画研究所で石膏デッサンと油彩を学び、1937年に大連弥生女学校を、1939年には神戸女学院専門部本科を卒業。帰国後、小磯良平に師事します。1953年瑛九らのデモクラート美術家協会に参加。 この頃、久保貞次郎や瀧口修造を知り、 抽象的な油彩や木版画、リトグラフを制作し、デモクラート美術展に出品します。
1959年夫の内間安瑆と渡米後はニューヨークに永住し、制作を続けます。1966年頃から、古い切手、絵葉書、楽譜、貝殻や鳥の羽などが雑誌の切抜き等でアレンジして封印したボックス型のアッサンブラージュやコラージュの制作に取り組み、全米各地の展覧会や日本での個展での発表を続けました。1982年からは体の自由を失った夫を18年間にわたり献身的に看病します。介護をしながらの限られた時間の中でも制作は続けられました。作品は「夢、希望、思い出」をテーマにしたものが多く、日常の「モノ」たちの組み合わせから内間俊子の人生の記録が表現されています。
2000年 5月9日安王星が79歳の生涯を静かに終えると、その後を追うかの如く、同年12月18日ニューヨークで死去されました。

39)
23_bridge内間俊子 Toshiko UCHIMA
"橋 (Bridge)"

1965年
木版
イメージサイズ:57.0×42.5cm
シートサイズ:61.0×45.0cm
サインと日付あり

40)
Signal_600内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Signal"

1974年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:34.0×27.5×5.5cm
サインあり

41)
Lady_photographer内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Lady photographer"

1977年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:31.0×41.2×3.5cm
フレームサイズ:42.0×49.0×3.0cm
サインあり

42)
49_1_600内間俊子 Toshiko UCHIMA
"イタリーよりのパッケージ Package from Italy"

1977年
コラージュ
イメージサイズ: 50.5x35.0cm
シートサイズ: 57.5×42.7cm
サインあり

43)
FromtheProvence内間俊子 Toshiko UCHIMA
"From the Provence - Avignon-"

1977年
コラージュ
ボックスサイズ:36.0×28.3×3.5cm
サインあり

44)
ButterflyDuet内間俊子 Toshiko UCHIMA
"蝶のデュエット (Butterfly Duet)"

1978年
ボックスサイズ:36.0×28.5×3.5cm
サインあり

45)
A_Bachelor内間俊子 Toshiko UCHIMA
"A bachelor"

1980年
コラージュ
ボックスサイズ:18.0×13.0×3.5cm
サインあり

46)
51_1_600内間俊子 Toshiko UCHIMA
"クラシックな夢をうる店 フィラデルフィア The store where classic dreams are sold"

1982年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:55.5×36.3×6.7cm
サインあり

47)
24_fantasy-in-1908内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Fantasy in 1908"

1985年
コラージュ
イメージサイズ:58.0×38.0cm
シートサイズ:73.0×51.0cm
サインと日付あり

48)
52_1_600内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Edelweiss in the Alps"

1984-86
コラージュ
イメージサイズ: 51.0×28.5cm
フレームサイズ: 36.5x59.0cm
サインあり

49)
27a_cottonjin内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Cotton Jinのころ"

1986年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:65.5×33.0×11.5cm
サインと日付あり

50)
25_gentlemen-in-red-black内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Three Gentlemen in Red and Black"

1989年
コラージュ
イメージサイズ:51.0×81.0cm
シートサイズ:56.087.0cm×

51)
26_work内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Dancing Angel"

コラージュ
イメージサイズ:65.0×50.4cm
シートサイズ:59.0×70.5cm

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。
水沢勉「ふたりでひとり―内間安瑆と内間(青原)俊子」
水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
201807_uchima

水沢勉「ふたりでひとりー内間安瑆と内間(青原)俊子」

ふたりでひとり
―内間安瑆と内間(青原)俊子


水沢 勉


奥深く折り重なった時間のヴェールの向こうにうっすらと浮かぶ映像がある。ふたつの影。その顔の表情はぼけてしまって判然としない。どこかふたりは微笑んでいるようにみえる。
が、もはやしかとは確かめられない――
わたしにとっては内間安瑆・俊子夫妻との最初で最後の出会い。おそらく1986年、六本木のストライプハウスでのおふたりの展覧会が初めて同館で開催されていたときであったと思う。安瑆さんは杖をつかれて、そのそばに俊子さんが佇んでおられた。わたしは安瑆さんの近作の「Forest Byobu(森の屏風)」と名づけられた一連の多色木版画の魅力にすっかり虜になっている自分のことを伝えたように思うが、安瑆さんとは、その頃は病気で言葉が不自由になられていてあまり話が出来なかった。俊子さんも静かにされていてあまり語られなかった。でも、主役はあくまで安瑆さんのほうなのですよ、と伝えようとする控えめな気配というか、配慮を感じさせる、忘れられない佇まいだった。
いま「ときの忘れもの」で開かれているおふたりの作品を拝見すると、それぞれの個性以上に、ふたりであることの意味も改めて捉えなければならないと思う。いままでわたしはそれぞれの個性ばかりに目がいってしまっていたのではないか。ふたりであることをしっかり見定めなければいけない。
そんな思いを抱きながら、ご長男の安樹さんが今回のカタログに寄せた文章「追想:両親のこと」を読んで、その思いはますます強い。1958年東京生まれの安樹さんが回想するおふたりの姿は、もちろんのわたしの曖昧模糊とは違うけれど、やはりどこか輪郭を定めがたい印象がある。俊子さんは、旧姓青原俊子として「1918年10月26日、満州安東市に生まれる。」と同カタログの年譜には記載されている。一方、安瑆さんは、「1921年5月1日アメリカ合衆国カリフォルニア州ストックトンに生まれる。」とある。
俊子さんはじつは安瑆さんより三歳年上だったのだ。しかも「満州安東市」の出身。「安東」は旧称で、現在の中華人民共和国遼寧省丹東市と思われる。誕生年である1918年には、歴史的にはまだ「市」ではなかったはずであり、正確には「旧満州安東」と記載すべきかもしれない。歴史そのものが茫々たる時間の彼方にある。そして安樹さんが生まれた翌年1959年に内間夫妻はアメリカに住まいを移している。安瑆にとってはほぼ20年ぶりの「帰国」であったが、妻と息子にとっては、初めての「渡米」であった。
時計の針を少し逆回しすることになるが、安瑆の両親、安珍とハルは沖縄の出身であり、1920年にカリフォルニアに移民し、翌年に安瑆が長男として生まれている。19世紀末までは一部の富裕層だけが特権的に世界旅行に夢中になったが、20世紀はむしろ生活の糧をもとめてひとびとが大量に移動する時代になっていたのである。その歴史の風景のなかに安瑆と俊子は生まれたのだ。
わたしがはじめて俊子さんの作品に接したのは、安瑆作品よりも早く、1982年のストライプハウスで藤井多鶴子とのふたり展であった。いくつかの壁掛けのアッサンブラージュやコラージュ、とくにボックス型のオブジェに封じ込められた、独特の無国籍的なノスタルジーに魅了され、すぐに雑誌『美術手帖』(1983年3月号)に展評を寄せた。その後、瀧口修造の詩に寄せた詩画集『スフィンクス』(1954年)のなかの木版画《魚の欲望》の色彩に驚くことになるのだが、その作者「青原俊子」が「内間俊子」であるとは迂闊なことにすぐにはわたしには結びつかなった。俊子さんは、1953年以来、画家は、1951年に結成されたデモクラート美術協会の会員であり、瑛九と瀧口修造の精神的な圏域のなかに一時身を置いていた。他の会員たちが銅版画であったのに、俊子さんは、木版画であった。この年に俊子さんと安瑆さんは結婚されている。安瑆さんがこの小品とはいえ、妖しい光を放つ木版画に魅せられていたのではないか、そうでなければ結婚しない・・・というのは、わたしの勝手な妄想かもしれないが、それはそれでとても愉しい。故郷喪失者のふたりの出会いを、木版画が導いたのではないかという推測である。

せっかくご本人たちに直接会う機会がありながら、それぞれの作品については、話を少しはしてはいても、そういった暮らしの個人的な部分には立ち入ることができなかった。毅然としたおふたりの姿に、そのようなことを訊くことは躊躇われたのだ。
風がいつのまにか集めたかと一瞬疑う、作為性を感じさせない俊子さんのオブジェ。気がつくと風と同調しているのではないかと感じられる晩年の安瑆さんの多色木版画。それだけで十分でしょう、とふたりは作品もひとも語りかけていた。
ふたりはそれぞれに孤独であり、ふたりでひとりであった。
みずさわ つとむ

ForestByobu (Fragrance)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Fragrance)"

1981年
木版(摺り:米田稔)
イメージサイズ:76.0×44.0cm
シートサイズ:83.6×51.0cm
限定120部 サインあり
*現代版画センターエディション

27a_cottonjin内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Cotton Jinのころ"

1986年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:65.5×33.0×11.5cm
サインと日付あり
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内間安王星2
1986年10月7日六本木・ストライプハウス美術館にて
右から、内間俊子先生、内間安瑆先生、ご子息の内間安樹さん
(提供:湯谷ひろみ)

19891020二人展
1989年10月20日ストライプハウス美術館にて、内間夫妻(前列)
(提供:塚原操)


水沢勉
1952年横浜市生まれ。美術評論家・キュレーター、神奈川県立近代美術館館長。
慶應義塾大学美学美術史学科卒業。 1978年慶應義塾大学大学院修士課程修了後、神奈川県立近代美術館学芸員として勤務。 2008年横浜トリエンナーレ2008の総合ディレクター。 2011年より神奈川県立近代美術館館長。ドイツ語圏および日本の近現代美術に関心を抱き、その交流史についても論じる。著書に『この終わりのときにも 世紀末美術と現代』(思潮社、1989年)。

◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。
水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
201807_uchima


ときの忘れもの・拾遺 第8回ギャラリーコンサートのご案内
日時:2018年9月12日(水)18:00〜
会場:ときの忘れもの
出演:武久源造、山川節子
プロデュース:大野幸
要予約=料金:1,000円
予約:必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申し込みください。
info@tokinowasuremono.com

内間安瑆先生と早稲田の友人たち

ただいま開催中の内間安瑆・内間俊子展はときの忘れものの全力投球の企画で、会期も長めに設定しました(8月10日まで)。
NYからはるばるご遺族もかけつけてくださり、用意万端整えて。。。。
ところが幕を開けるや、かつてない猛暑に見舞われ、先週末は台風とさんざんであります(涙)。
40度にもなろうかという炎暑の中、4日間も画廊につめてくださった内間安樹さん、洋子さん、蓮さん(内間先生のお孫さん)には申し訳なくて、つくづく会期の設定を誤ったと後悔しきりです。
内間家の皆さんは既にNYに戻られました。

残り会期も二週間となり、やっと普通の夏に戻った感じですが、まだまだ油断はできません。そんなわけで「ぜひお出かけください」とも言えず、亭主は地団駄踏んでおります。

内間先生ご夫妻が相次いで亡くなられたのが18年前の2000年でした。
長年の恩義に報いるため、
翌2001年の一周忌に「内間安瑆追悼展」を開催しました(会期:2001年5月 9日〜 5月26日)。
7月31日にはNYからご遺族をお招きし「内間安瑆・俊子ご夫妻を偲ぶ会」を開催しました。
続いて「版画掌誌第4号刊行記念展」を2001年11月 24日(土)〜12月4日(土)に開催し、この年は追悼の一年でした。

その後も、内間先生の展覧会はたびたび開催してきました。
そのたびに、内間先生を知る方々が来廊され、貴重なお話を伺うことができました。
内間安樹さんの回想にあるように、内間安瑆先生は自らのことをほとんど語らなかったようですし、自慢話をするような方ではありませんでした。

●内間先生が亡くなる以前から、幾度も画廊に来てくださり、内間先生のことを語ってくださったのは建築家の岡崎浩二さんでした。
私たちが1950年代に内間先生が果たした重要な役割に気づいたのも岡崎浩二さんという友情厚い同級生の証言があったからこそでした。
内間安瑆_偲ぶ会_03
2001年7月31日内間ご夫妻を偲ぶ会
左から岡崎浩二さん、内間安樹さん、洋子さん、亭主、細江英公先生

父君が蔵前工高第3期生の建築家で大阪で岡崎設計事務所を興します。岡崎浩二さんも同じ道をめざし、早稲田の建築で内間先生とは同級でした。卒業後は久米設計事務所に勤務、独立して設計事務所を経営されていました。
あるとき「うちの次男は画家ですが、なかなか食えなくて・・・」とポツリもらしたので慌ててうかがうと「ご存知ないでしょうが乾二郎といいます」とおっしゃったので驚きました。
2014年秋に開催された沖縄県立博物館・美術館での回顧展の図録テキストを執筆されたのがほかならぬ岡崎乾二郎さんです。もっともこの図録、発行されたのは展覧会終了後のなんと半年後、しかも販売されたのは僅か100冊(!)という、幻の図録です。先日来廊された神奈川県立近代美術館館長の水沢勉先生でさえご存知なかった(笑)。
乾二郎さんは内間展には一度も来たことはありませんでしたが、今回猛暑の中、奥様のぱくきょんみさんに連れられて初めていらっしゃったので仰天しました。
それはともかく、岡崎浩二さんにはもっともっとお話を聞いておけばよかった。2013年にお亡くなりになりましたが、うかつにも亭主はメモをとらなかった(後悔しています)。

FSさんも内間先生の早稲田時代の友人でした。
2015年8月内間展内間安瑆展
会期=2015年8月25日[火]―9月5日[土]

FSさんが最後に画廊にいらっしゃったのは、2015年8月27日でした。
すでに93歳とご高齢でしたが、ご覧のように体つきは頑健、記憶は鮮明でした。
2015年8月内間展FSさん
左から亭主、社長、FSさん

亭主は岡崎さんのことがあったので、このときは走り書きですが、メモをとりました。
戦前、移民としてアメリカに渡り(または移民の子として生まれ)、「教育は日本で」という親の勧めで日本に留学し、戦中、戦後の激動期に日本に留まった人々が少なからずいたという、ひとつの例として記録にとどめたいと思います。
ご本人に確認をとりたいのですが、今回送った案内状は「あて所に尋ねあたりません」と返送されてきました。ですので、FSさんと仮名での紹介になります。
---------------------------------
FSさんが生まれたのは、1922年(大正11)1月鹿児島でした。
1〜2歳のときに両親とシアトルに渡ります。アメリカで生まれた弟が二人いて、シアトルの日本語学校に通いました。
ハイスクール卒業時に父親に勧められ17歳で日本へ留学します。これは内間先生とよく似ていますね。
日本へは船で片道13日間かかり、横浜港に上陸しました。
洗足池近くの叔父さん(母の兄)の家に寄宿。叔父さんは神奈川一中の英語の教師だったとか。
翌年、早稲田大学と慶應義塾大学を受験し両方合格したのだそうですが、早稲田(政経)に入学します。内間先生とはアメフトのクラブで一緒にプレーした仲だった(安樹さんの回想とも符合します)。皇居前の広場でアメフトの試合(練習?)をしていたとき空襲があったという話も伺いました。
戦時中は、外務省情報局ラジオ室でアルバイトをしていた。短波放送、アメリカBBC放送などを傍受してその内容の翻訳が主な仕事でした。
やがて学徒出陣となり、鹿児島連隊に入隊(両親の故郷が鹿児島だから)。
1945年(昭和20)3月、福岡捕虜収容所に転属となった。英語が話せたため抜擢されたのではないかとFSさんは述懐されていました。
福岡捕虜収容所にはアメリカ人、イギリス人、フランス人、オーストラリア人などが収容されていた。
戦時中、シアトルに居た両親と弟2人はアイダホの収容所へ強制収容されます。その後、弟2人は合衆国への忠誠宣言をし、収容所からアメリカ軍に入隊し、フィリピンへ派遣されます。
親と子が、兄と弟が敵味方に別れるという過酷な運命があったのですね。
1945年3月東京大空襲があり、6月内間先生のルーツの地で凄惨な沖縄戦が終わり、8月には広島、長崎に原爆が投下されます。日本がポツダム宣言を受諾、敗戦を迎えたのが8月15日でした。
FSさんはいったん鹿児島に戻り、再び上京しラジオプレスに入社します。
占領軍がすべてを支配した時代、おそらく英語の堪能な人たちには仕事はいくらでもあったでしょう。ラジオプレス社には3年間勤めた後、退職してグラフィックデザインの会社に転職します。
2年半ほど勤めたそうですが、同時期に、朝日イブニングニュースに嘱託で勤務し、主に芸能関係を取材し記事を書いていたそうです。
「それから53年間、ずっと同じ仕事を続けた」とFSさんは語っていました。
最後に「あんな謙虚な人はいなかった。内間君とは奥さんと共に来日した際、会ったりしていたけれど、最後に会ったのは40年くらい前だった」と、話を締めくくりました。
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FSさん、お元気ならもう一度、お話をうかがいたいと思います。

●内間安瑆
内間安瑆は1921年アメリカに生まれます。苗字からわかるように父と母は沖縄からの移民です。1940年日本に留学、戦時中は帰米せず、早稲田大学で建築を学びます。油彩の制作をはじめ、後には木版画に転じます。
1950年アンデパンダン展(東京都美術館)に出品。1950年代初めにイサム・ノグチと知り合い、以降親しく交流する。1954年オリバー・スタットラーの取材に通訳として同行し、その著作に協力した。
その折に創作版画の恩地孝四郎にめぐり合い大きな影響を受けます。
1954年デモクラート美術家協会の青原俊子と結婚。1955年東京・養清堂画廊で木版画による初個展を開催。1959年妻の俊子と息子を伴い帰米、ニューヨーク・マンハッタンに永住。版画制作の傍ら、サラ・ローレンス大学で教え、1962と70年にグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授を務めました。
日米、二つの祖国をもった内間安瑆は浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と自ら呼んだ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出します。現代感覚にあふれた瑞々しい木版画はこれからもっともっと評価されるに違いありません。
06_spring-snow内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Spring Snow"

1962年
木版
イメージサイズ:77.5×33.5cm
フレームサイズ:93.6×49.8cm
サインあり

11_short_poem内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Short Poem"

1967年
木版
イメージサイズ:17.6×55.6cm
シートサイズ:22.8×60.7cm
サインあり


ForestByobu (Fragrance)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Fragrance)"

1981年
木版(摺り:米田稔)
イメージサイズ:76.0×44.0cm
シートサイズ:83.6×51.0cm
限定120部 サインあり
*現代版画センターエディション


●内間俊子
内間俊子は旧姓・青原、高知県にルーツを持ち、1918年満州・安東市で生まれました。1928年大連洋画研究所で石膏デッサンと油彩を学び、1937年に大連弥生女学校を、1939年には神戸女学院専門部本科を卒業。帰国後、小磯良平に師事します。1953年瑛九らのデモクラート美術家協会に参加。 この頃、久保貞次郎や瀧口修造を知り、 抽象的な油彩や木版画、リトグラフを制作し、デモクラート美術展に出品します。
1959年夫の内間安瑆と渡米後はニューヨークに永住し、制作を続けます。1966年頃から、古い切手、絵葉書、楽譜、貝殻や鳥の羽などが雑誌の切抜き等でアレンジして封印したボックス型のアッサンブラージュやコラージュの制作に取り組み、全米各地の展覧会や日本での個展での発表を続けました。1982年からは体の自由を失った夫を18年間にわたり献身的に看病します。介護をしながらの限られた時間の中でも制作は続けられました。作品は「夢、希望、思い出」をテーマにしたものが多く、日常の「モノ」たちの組み合わせから内間俊子の人生の記録が表現されています。
2000年 5月9日安王星が79歳の生涯を静かに終えると、その後を追うかの如く、同年12月18日ニューヨークで死去されました。
Lady_photographer内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Lady photogorapher"

1977年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:31.0×41.2×3.5cm
フレームサイズ:42.0×49.0×3.0cm
サインあり

51_1_600内間俊子 Toshiko UCHIMA
"クラシックな夢をうる店 フィラデルフィア The store where classic dreams are sold"

1982年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:55.5×36.3×6.7cm
サインあり

24_fantasy-in-1908内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Fantasy in 1908"

1985年
コラージュ
イメージサイズ:58.0×38.0cm
シートサイズ:73.0×51.0cm
サインと日付あり


2014年9月12日付ブログ用画像_08
1982年
内間安瑆先生と俊子夫人


『内間安瑆・内間俊子展』カタログ
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 図版:51点、略歴収録
テキスト:内間安樹(長男、美術専門弁護士/ニューヨーク州)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
編集:尾立麗子
編集協力:桑原規子
翻訳:味岡千晶、他
価格:税込800円 ※送料別途250円(メールにてお申し込みください)

表紙_表1_内間展_修正_0628_600表紙_表4_内間展_修正_0628_600

版画掌誌「ときの忘れもの」第04号もぜひご購読ください。

◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。図録も刊行しました(800円、送料250円)。

水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
201807_uchima

イサム・ノグチと内間安瑆〜東京オペラシティでイサム・ノグチ展

「イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へー」
会場:東京オペラシティ アートギャラリー
会期:2018年7月14日[土]〜9月24日[月]

先日、東京オペラシティ アートギャラリーで開催中の「イサム・ノグチ 彫刻から身体・庭へ」展に行きました。初日のオープンと同時に行きましたが、受付にお客様が並ぶほどの盛況ぶり。

IMG_3807

私が知っているイサム・ノグチさんの作品は、札幌にあるモエレ沼公園や、香川県高松市牟礼町にあるイサム・ノグチ庭園美術館(2009年にときの忘れもが企画した香川の建築とうどんを楽しむツアーで訪問)にある彫刻群、和紙を使った柔らかい光の照明などです。
オペラシティでは、1930年代に生計を立てていたという肖像彫刻や、アジアを訪ねる際に経由したモスクワで斉白石から学び描いた墨絵、舞踏家・マーサ・グラハムの舞台のための装置のドローイングやその舞台映像、1950年の日本訪問時に京都の陶芸家・宇野仁絵のもとで手掛けた陶芸など、私の全く知らないイサム・ノグチの世界がほとんどでした。
個人的に興味深かったのは50年代に日本で制作されたテラコッタや陶で、古代を思わせるような、あるいはアフリカの民族が持っていそうな、ユニークなフォルムをした愛らしいものたち。それぞれが何かのキャラクターのように個性を持っています。
徐々に作風は少し変化しますが、一貫して有機的な曲線のものでした。
また、歴代の《AKARI》が展示されており、1953年の初代《AKARI》からタイプ違いのものが舞台上の役者のように配置されていて、その変遷や新たな試みなど一目でわかりました。

IMG_38092mのあかり(1985、和紙、竹、木)

谷口吉郎さんとコラボレーションした慶應義塾大学の萬來舎(通称:ノグチ・ルーム)の図面や写真も出品されていましたが、イサム・ノグチさんは1950年代に日本を訪れた際に丹下健三さん、谷口吉郎さんなどの建築家や、北大路魯山人さん、長谷川三郎さん、岡本太郎さんなど多くの芸術家たちとも交流されます。年表には記載されていませんが、現在ときの忘れもので展覧会中の内間安瑆さん俊子さん夫妻とも知り合い、生涯にわたり交流がありました。
私はこの夏はモエレ沼公園を再訪する予定ですが、ニューヨークのイサム・ノグチ庭園美術館も是非訪ねたい場所なので、次回ニューヨークのアートフェア出展のときの行きたい場所候補に挙げておこうと思います。

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おだちれいこ

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イサム・ノグチ 彫刻から身体・庭へ
展覧会特設サイト
世界文化を横断しながら、彫刻はもとより、舞台装置や家具のデザイン、陶芸、庭や公園などのランドスケープ・デザインにいたるまで、多面的な活動を展開したイサム・ノグチ。
本展では抽象彫刻家として常に「身体」を意識しつづけたノグチが、やがてランドスケープという人間をとりまく環境へと向かい、ノグチ自身がいう「空間の彫刻」=庭、公園へと情熱を拡大していったことに注目します。
国内外から集めた貴重な作品や資料約80点で「異文化の融合」と「生活と環境の一体化」をめざしたノグチの活動の全容を紹介します。 (同館HPより)

◆同時開催
収蔵品展063 「うつろうかたち−寺田コレクションの抽象
2018年7月14日(土)-9月24日(月)
東京オペラシティ アートギャラリー ギャラリー3&4
オノサト・トシノブ「タペストリーA」(1977年、現代版画センターエディション)はじめ、難波田龍起、堂本尚郎、中西夏之、他

〜〜〜〜〜〜
*画廊亭主敬白
今夏必見の展覧会、「イサム・ノグチー彫刻から身体・庭へー」が東京オペラシティで始まりました。
1950年5月イサム・ノグチが19年ぶりに来日したとき、禅、茶道に関する書籍の翻訳を頼まれたのが内間安瑆先生でした。

イサム・ノグチ自身の回想によれば<1950年、戦後初めて私が日本を訪れた際、誰よりも二人の人物が私を助けてくれた。一人はアメリカで著名な芸術家となった長谷川三郎、そして もう一人が、この度のアメリカでの初個展で紹介されている内間安瑆である。
以後、二人は生涯にわたり交流を続けました。
今回のオペラ・シティでの展覧会カタログの年譜には内間安瑆の名は全く登場しませんが、「色彩と風のシンフォニー/内間安瑆の世界」展図録(2015年 沖縄県立博物館・美術館発行 *展覧会は2014年9月12日〜11月9日開催)に再録されたイサム・ノグチの文章を二つ紹介します。

内間安瑆のために
イサム・ノグチ


 私たちは皆、二重の国民性という問題に直面している。私のように実際に両親の国籍が違うとか、二つの国に深い関わりがあるという場合だけではない。世界は、互いに親しい隣人となり、依存し合いながら、実に小さくなってきている。
国民性というような障壁は、現在を生きる私たちによって、益々なんとかして乗り越えられるべき歴史の名残のように思われる。芸術家として、または科学者として生きる者は、常に無限の限界を探りながら、余計なものを取り除いた真理を追究しなければならない。今日では、世界中のどのアーティストも、他のどんな場所へもアクセスでき、影響や刺激を求めることが可能だ。

 良いか悪いかは別問題として、私たちは、もはや孤立の心地よさを単純に楽しんではいられない。遠く見知らぬものは、どうということもないものに見える程に、なんと身近で現実のものとなってきていることだろうか。 そしてさまざまな歴史と場所にとり囲まれた芸術家にとって、自分自身の内面だけが、逃げ場所となる。どうしたら、真の自分自身でいられるのか!日本に影響された芸術家は、おそらく日本よりもアメリカにもっといる。 私たちのアートの世界は、今やジャングルと化している。それが、今日の私たちの世界なのだ。好むと好まざるとにかかわらず、その状況から、私たちはお互いに、自分自身と他のすべての人々の救済を模索しなければならない。そして最後に、地理的伝統ゆえではなく、その人間の時代と真の人格を反映し、それに忠実であるものが、本物として認められ残るであろう。時代は変わる、しかしそれは過去にいつもそうであったことと何か違いがあるだろうか? 
 内間は、まさにその好例だ。彼はアメリカ人ゆえに、より日本的なのだろうか? それとも日本人であるがゆえに、よりアメリカ的なのだろうか?あるいは彼は日本人ゆえに、より日本的なのだろうか、または、アメリカ人ゆえに、よりアメリカ的なのだろうか? 私は、この二つの世界の狭間にとらわれた、彼の内なる資質を推奨する。そして、この相互関係の問題にさらされ、その答えを追究している彼を高く評価する。
         東京 1955
*展覧会リーフレット『ANSEI UCHIMA』 (Associated American Artists/ ニューヨーク、1997年)所収(初出不明)

トリミング
1950年代、日本にて
左からイサム・ノグチ、内間安瑆、内間俊子

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 1950年、戦後初めて私が日本を訪れた際、誰よりも二人の人物が私を助けてくれた。一人はアメリカで著名な芸術家となった長谷川三郎、そして もう一人が、この度のアメリカでの初個展で紹介されている内間安瑆である。
 20年間の不在と忘却から、私にとって、子供時代をすごしたその地。特に、学ぶべきことが最も多く、私たちを魅了する感性の国、日本との接点を、どう再構築したらよいのかが問題であった。この二人の友人は、計り知れないほど、私の力になってくれた。
 彼らは共に、西洋の美術に造詣が深い画家だった。そして再構築の手段を捜し求めていたよそ者の私は、お互いの必要性と友情を通し、それを見いだすことになるのである。私達はお互いに助け合った。
 内間は、私が関心を持った、禅と茶道に関する書籍を、何冊か翻訳してくれた。やがて彼自身の関心は、長谷川がそうであったように、日本の芸術における新旧の様相の発見と、それを世界の潮流に結びつけることへ向けられた。内間の場合、それは版画を通してであった。
 彼の芸術が、完全に日本的でも西洋的でもないものとして表れることは、必然である。過去20年間を日本で過ごした彼にとって、それ以外、どう彼が彼自身でいられるというのであろうか?もはや誰が、純粋に、‘これだ、 あれだ’などと断言できるであろうか。
純粋とは国民性という境界を超えた、個々の人格のことである。
 生まれで言うならば、内間はアメリカ人である。しかし、これまでの彼の芸術家としての発展のすべては、版画ルネッサンスのリーダーの一人として認められた、日本でなされている。

*内間安瑆のアメリカでの初個展「ANSEI UCHIMA」 (Mi Chou Gallery/ ニューヨーク、1961年)展覧会リーフレット所収
英文和訳:内間洋子
1959年内間夫妻渡米
イサム・ノグチ(右)と内間夫妻
「色彩と風のシンフォニー/内間安瑆の世界」展図録より(2015年 沖縄県立博物館・美術館発行 *展覧会は2014年9月12日〜11月9日開催)


●内間安瑆の作品紹介
内間安瑆は1921年アメリカに生まれます。苗字からわかるように父と母は沖縄からの移民です。1940年日本に留学、戦時中は帰米せず、早稲田大学で建築を学びます。油彩の制作をはじめ、後には木版画に転じます。
1950年アンデパンダン展(東京都美術館)に出品。1950年代初めにイサム・ノグチと知り合い、以降親しく交流する。1954年オリバー・スタットラーの取材に通訳として同行し、その著作に協力した。
その折に創作版画の恩地孝四郎にめぐり合い大きな影響を受けます。
1954年デモクラート美術家協会の青原俊子と結婚。1955年東京・養清堂画廊で木版画による初個展を開催。1959年妻の俊子と息子を伴い帰米、ニューヨーク・マンハッタンに永住。版画制作の傍ら、サラ・ローレンス大学で教え、1962と70年にグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授を務めました。
日米、二つの祖国をもった内間安瑆は浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と自ら呼んだ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出します。現代感覚にあふれた瑞々しい木版画はこれからもっともっと評価されるに違いありません。
02_fw-bathers-two_cobalt内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
木版
イメージサイズ:68.0×49.0cm
シートサイズ:82.0×57.0cm
サインあり


01_fw-bathers-two_cobalt_oil内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
キャンバスに油彩
91.5×66.0cm


●内間俊子の作品紹介
内間俊子は旧姓・青原、高知県にルーツを持ち、1918年満州・安東市で生まれました。1928年大連洋画研究所で石膏デッサンと油彩を学び、1937年に大連弥生女学校を、1939年には神戸女学院専門部本科を卒業。帰国後、小磯良平に師事します。1953年瑛九らのデモクラート美術家協会に参加。 この頃、久保貞次郎や瀧口修造を知り、 抽象的な油彩や木版画、リトグラフを制作し、デモクラート美術展に出品します。
1959年夫の内間安瑆と渡米後はニューヨークに永住し、制作を続けます。1966年頃から、古い切手、絵葉書、楽譜、貝殻や鳥の羽などが雑誌の切抜き等でアレンジして封印したボックス型のアッサンブラージュやコラージュの制作に取り組み、全米各地の展覧会や日本での個展での発表を続けました。1982年からは体の自由を失った夫を18年間にわたり献身的に看病します。介護をしながらの限られた時間の中でも制作は続けられました。作品は「夢、希望、思い出」をテーマにしたものが多く、日常の「モノ」たちの組み合わせから内間俊子の人生の記録が表現されています。
2000年 5月9日安王星が79歳の生涯を静かに終えると、その後を追うかの如く、同年12月18日ニューヨークで死去されました。
49_1_600内間俊子 Toshiko UCHIMA
"イタリーよりのパッケージ Package from Italy"

1977年
コラージュ
イメージサイズ: 50.5x35.0cm
シートサイズ: 57.5×42.7cm
サインあり


FromtheProvence内間俊子 Toshiko UCHIMA
"From the Provence - Avignon-"

1977年
コラージュ
ボックスサイズ:36.0×28.3×3.5cm
サインあり


27a_cottonjin内間俊子 Toshiko UCHIMA
"Cotton Jinのころ"

1986年
ボックスアッサンブラージュ
ボックスサイズ:65.5×33.0×11.5cm
サインと日付あり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


『内間安瑆・内間俊子展』カタログ
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 図版:51点、略歴収録
テキスト:内間安樹(長男、美術専門弁護士/ニューヨーク州)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
編集:尾立麗子
編集協力:桑原規子
翻訳:味岡千晶、他
価格:税込800円 ※送料別途250円(メールにてお申し込みください)

表紙_表1_内間展_修正_0628_600表紙_表4_内間展_修正_0628_600

版画掌誌「ときの忘れもの」第04号もぜひご購読ください。

◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。図録も刊行しました(800円、送料250円)。
水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
201807_uchima

オリヴァー・スタットラーと内間安瑆〜名著『Modern Japanese Prints: An Art Reborn』

日本の創作版画運動は明治末の山本鼎たちの雑誌『方寸』に始まり、全国の草の根の版画愛好家たちによって支えられ恩地孝四郎たちの長い長い苦闘が続きます。
戦前は恩地でさえ、版画では食えなかった。
おそらく版画制作のみで生計が立てられたのは吉田博(吉田ファミリー)だけでしょう。

ところが日本の敗戦に伴い占領時代になるや、日本の版画家たちはウケに入ります。
長い間、雌伏のときを過ごした版画家たちの黄金時代が出現したのです。
ときならぬ「版画ブーム」に間に合わず貧窮のうちに餓死したのが谷中安規でした。
進駐軍として来日した軍人、軍属の中に多くの美術愛好者がいて、日本の創作版画に注目し多くの作品をコレクションしたことは良く知られています。
その中の代表的コレクターがオリヴァー・スタットラーでした。彼は戦後米軍の文官(予算管理官)して来日し、日本の創作版画に魅了され世界有数の版画コレクターになったのでした。
しかし、彼は日本語ができたわけではありません。日本の美術、文化に通暁し、作家の内面にまで深く立ち入ることのできる通訳が必要でした。
スタットラーの通訳を務め、スタットラーとともに多くの版画家たちを訪ね歩きインタビューに協力したのが内間安瑆先生でした。
内間先生はそのインタビューに協力することで恩地孝四郎を知り、平塚運一、棟方志功畦地梅太郎らと親交し、彼らの技法を学んだのでした。それとともに自ら浮世絵版画の研究も進めます。

スタットラーが1956年に刊行した『Modern Japanese Prints: An Art Reborn』は、創作版画愛好家のあいだでは長くバイブルとも目されてきた日本の現代版画の解説書です。
スタットラー日本の現代版画表紙
1956年刊行、価格は2,200円と6ドルと併記してあります。

スタットラー日本の現代版画 恩地
扉には恩地孝四郎の手摺り木版画が挿入されました。

スタットラー日本の現代版画序文1
スタットラーの序文には、恩地孝四郎への謝辞とともに、二ページ目7行目に内間安瑆先生への感謝がつづられています。

スタットラー日本の現代版画序文2


スタットラー日本の現代版画序文3


海外の版画愛好家には良く知られた本(手引書)ですが、それが日本語に翻訳されたのは、刊行後半世紀を経た2009年のことでした。

オリヴァー・スタットラー著『よみがえった芸術ー日本の現代版画』
スタットラー表紙『よみがえった芸術―日本の現代版画』
著者:オリヴァー・スタットラー
監修:猿渡紀代子(横浜市民ギャラリー館長、横浜美術館学芸員)
翻訳:CWAJ(College Women's Association of Japan)
編集協力:桑原規子(聖徳大学准教授)、西山純子(千葉市美術館学芸員)、味岡千晶(美術史家)
体裁:B5変形、296頁、図版102点(カラー48頁)、並製本
発行:2009年 玲風書房

オリヴァー・スタットラー表オリヴァー・スタットラー裏パンフレット
:原書を翻訳し、さらに美術研究家により新たにオリヴァー・スタットラー論、年譜、掲載版画家の略歴などが加筆された。
山本鼎、恩地孝四郎をはじめ、平塚運一、斎藤清、棟方志功ら29名の版画家を紹介、親しみと息遣いの感じる文章に、新たに豊富なカラー図版を掲載した。

収録作家:山本鼎、恩地孝四郎、平塚運一、斎藤清、棟方志功、前川千帆、関野準一郎、品川工、川上澄生、武井武雄、初山滋、勝平得之、山口進、川西英、徳力富吉郎、下澤木鉢郎、前田政雄、橋本興家、畦地梅太郎吉田政次、北岡文雄、山口源、稲垣知雄、笹島喜平、吉田ファミリー、馬淵聖

オリヴァー・スタットラー(1915-2002年)
米国シカゴ生まれ。シカゴ大学卒業。1947年に軍属として来日し1958年まで滞在。日本文化の研究家となる。米国各地で展覧会を企画、日本の現代版画の紹介と普及に努めたほか、多くの講演、執筆などを晩年まで続ける。1977年ハワイ大学東洋学客員教授、1980年神戸女学院大学客員教授になる。著書に『Japanese Inn』、『Shimoda Story』、『Japanese Pilgrimage』などがある。

◆小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」(毎月25日更新)は今月は休載します。

●本日のお勧め作品は恩地孝四郎棟方志功です。
20171005_onchi_30_flower恩地孝四郎
《白い花》
1943年
カラー木版
37.0x26.0cm
※『恩地孝四郎版画集』掲載No.229(形象社)


munakata (2) _600棟方志功
柳緑花紅頌 松鷹の柵
1955年  木版
イメージサイズ:46.0×46.5cm
シートサイズ:59.0×56.0cm
サインあり

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●内間安瑆
内間安瑆は1921年アメリカに生まれます。苗字からわかるように父と母は沖縄からの移民です。1940年日本に留学、戦時中は帰米せず、早稲田大学で建築を学びます。油彩の制作をはじめ、後には木版画に転じます。
1950年アンデパンダン展(東京都美術館)に出品。1950年代初めにイサム・ノグチと知り合い、以降親しく交流する。1954年オリバー・スタットラーの取材に通訳として同行し、その著作に協力した。
その折に創作版画の恩地孝四郎にめぐり合い大きな影響を受けます。
1954年デモクラート美術家協会の青原俊子と結婚。1955年東京・養清堂画廊で木版画による初個展を開催。1959年妻の俊子と息子を伴い帰米、ニューヨーク・マンハッタンに永住。版画制作の傍ら、サラ・ローレンス大学で教え、1962と70年にグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授を務めました。
日米、二つの祖国をもった内間安瑆は浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と自ら呼んだ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出します。現代感覚にあふれた瑞々しい木版画はこれからもっともっと評価されるに違いありません。

1959 An Emotion_600内間安瑆 Ansei UCHIMA
"An Emotion (或る感情)"

1959年
木版(作家自摺り)
イメージサイズ:40.8×30.2cm
シートサイズ:42.6×30.9cm
サインあり


ForestByobu (Fragrance)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Fragrance)"

1981年
木版(摺り:米田稔)
イメージサイズ:76.0×44.0cm
シートサイズ:83.6×51.0cm
限定120部 サインあり
*現代版画センターエディション


●内間俊子
内間俊子は旧姓・青原、高知県にルーツを持ち、1918年満州・安東市で生まれました。1928年大連洋画研究所で石膏デッサンと油彩を学び、1937年に大連弥生女学校を、1939年には神戸女学院専門部本科を卒業。帰国後、小磯良平に師事します。1953年瑛九らのデモクラート美術家協会に参加。 この頃、久保貞次郎や瀧口修造を知り、 抽象的な油彩や木版画、リトグラフを制作し、デモクラート美術展に出品します。
1959年夫の内間安瑆と渡米後はニューヨークに永住し、制作を続けます。1966年頃から、古い切手、絵葉書、楽譜、貝殻や鳥の羽などが雑誌の切抜き等でアレンジして封印したボックス型のアッサンブラージュやコラージュの制作に取り組み、全米各地の展覧会や日本での個展での発表を続けました。1982年からは体の自由を失った夫を18年間にわたり献身的に看病します。介護をしながらの限られた時間の中でも制作は続けられました。作品は「夢、希望、思い出」をテーマにしたものが多く、日常の「モノ」たちの組み合わせから内間俊子の人生の記録が表現されています。
2000年 5月9日安王星が79歳の生涯を静かに終えると、その後を追うかの如く、同年12月18日ニューヨークで死去されました。
23_bridge内間俊子 Toshiko UCHIMA
"橋 (Bridge)"

1965年
木版(作家自摺り)
イメージサイズ:57.0×42.5cm
シートサイズ:61.0×45.0cm
サインあり

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上掲出品リスト(価格入り)をご希望の方は、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してメールにてお申し込みください。名無しの方にはお送りできません。


『内間安瑆・内間俊子展』カタログ
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 図版:51点、略歴収録
テキスト:内間安樹(長男、美術専門弁護士/ニューヨーク州)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
編集:尾立麗子
編集協力:桑原規子
翻訳:味岡千晶、他
価格:税込800円 ※送料別途250円(メールにてお申し込みください)

表紙_表1_内間展_修正_0628_600表紙_表4_内間展_修正_0628_600

版画掌誌「ときの忘れもの」第04号もぜひご購読ください。

◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。図録も刊行しました(800円、送料250円)。

水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
201807_uchima

内間安樹「My parents: A Reflection  追想:両親のこと」

My parents: A Reflection
追想:両親のこと


内間安樹(長男、美術専門弁護士、ニューヨーク州)


1959年の後半、壮年期に近づきつつあった私の両親は、慣れ親しみ居心地もよかったであろう東京を後に、先行きは不確かだが新たな人生を切りひらくためにアメリカに向かった。日本においては、父は創作版画運動、そして母はデモクラート美術家協会の作家として、二人とも一定の評価を得ていた。子供の私は当時まだ1歳であり、友人知人はほとんどが日本にいたのだから、アメリカでの再出発は大きな冒険であった。母がよく口にしたように、二人が持っていたものといえば、唯一、新たな世界で作家として成功する資質と才能が自分たちにあるという自信だけだったのだ。美術にかぎらず、他の分野でも成功する保証は何もなく、アメリカのどこに居を構えるのかということどころか、どう生計を立てるのか、その見通しさえもなかった。
1959年内間夫妻渡米
「色彩と風のシンフォニー/内間安瑆の世界」展図録より(2015年 沖縄県立博物館・美術館発行 *展覧会は2014年9月12日〜11月9日開催)

父にとっては、アメリカは生まれ故郷であったものの、それまでの人生の半分という長い期間をアメリカの外で過ごしたのだから、浦島太郎のような気持ちであったろう。日本で成人し、戦時期と終戦後という最も困難な時期を経験し、芸術家としてのキャリアを選択し、友人をつくり、家庭を築いたのだから、当然日本に留まれたはずだ。そして、日本以外の国を知らない母にとっては、移住にあたってはさらに未来への強い信念が必要であった。二人がアメリカに来る決心をした理由について私は正確には知らないが、様々な要因の中でも、新しい物の見方や、個人主義的精神への渇望が大きな役割を果たしたのではないかと思う。

この時点に至るまでの父の人生についてはあまり知らない。時たまカリフォルニアでの少年時代について、高校でアメリカン・フットボールをやったとか、柔道で黒帯を取得したとか、高校では10歳ほど年上のジャクソン・ポロックやフィリップ・ガストンと同じ美術教師に学んだというようなことを聞いたことがあるだけだ。一方、祖父母については若干の知識がある。二人は1920年に沖縄からカリフォルニアに移住して、農業や店舗の経営などいろいろな仕事で勤勉に働いた結果、多くの子供を育て、ロサンジェルスに不動産を所有して収入を得ていた。私が知る限りでは、父と二人の弟を含めた家族が属するカリフォルニアの日系人コミュニティでは、祖母が琉球音楽の蛇味線奏者であったこと以外、特に沖縄出身ということを自他ともに意識することはなかったようだ。父が日本で過ごした20年間について語ったことは一度もなく、そのほか自分の過去についてもほとんど口にしなかった。父は人前以外では無口であり、常に「今現在」に集中していたので、思い出を話す時間も、気持ちもなかったようだ。

父とは対照的に、母は自分の過去についてよく話していたので、私は母の家族や、日本の植民地であった満州での母の幼少期についてはよく知っている。祖父は事業家として成功していたため、母は何不自由ない環境で高等教育も受け(後には神戸女学院に入学)、美術や音楽に囲まれて育った。幼いころから美術を愛し、常に成功することを目指し、母自身がいうように負けず嫌いであった。それらの資質が1950年代初期から半ばにかけて日本の美術界で数少ない女性作家として活動する要因となったことは想像に難くない。母は、父に出会う以前からアメリカに渡り美術家として自分を伸ばすことを望んでいた。神戸のアメリカ軍基地内にあった図書館で美術家として働いていた時に、そこで親しくなったミス・ニューエンハムという上司が、母が作家としてのキャリアを追求できるよう、帰国する時には彼女をアメリカに連れて行こうと申し出たが、実現には至らなかった。私は日本での母の作家としてのキャリアについては多くを知らない。デモクラート美術家協会での経験について話してくれたことは覚えているが、事象や人名が私の日常とあまりにかけ離れていたため、記憶に残っていない。

東京を出発した両親は、父の両親と弟が住むロサンジェルスに到着した。その数週間後、地元の美術館やギャラリーで見る作品に失望した父は、シカゴのオリヴァ―・スタットラーとニューヨークに住むイサム・ノグチと相談した結果、アメリカでの自分の唯一のルーツであるロサンジェルスを離れて、東に移動することを決めた。1960年に入って間もなく、二人はニューヨークに移住することを決意した。今もそうだが、当時もニューヨークは文化の中心であり、世界中から集まる芸術家のメッカだったからだ。ニューヨークで二人は、当地に在住していた猪熊弦一郎、泉茂、森泰、靉嘔など、日本で知己を得ていて気心の知れた日本人美術家たちのグループを知り、頻繁に交流し、支え合った。このころの白黒写真には、私たち家族三人が彼らとセントラルパークやコニーアイランドなどで楽しく過ごした時の様子が記録されている。父はこの時から作品の制作と美術を教える仕事に一心不乱に取り組むようになった。美術教師としては、最初はプラット・インスティチュートで、続いてサラ・ローレンス大学、そして後にはコロンビア大学の夜間コースでも教えた。

1962年に私たち家族は、グリニッジ・ビレッジのエレベーターの無い5階建てのビルの最上階だったアパートからマンハッタン北部のエレベーター付きの大きな建物に移り、1976年までそこに住んだ。私の部屋は父の仕事場と隣り合わせで、入口から一番奥に入ったところにあった。父が版を彫り、和紙をバレンでこする単調な音、ラジオから聞こえるニュースやトークショー、クラシック音楽、そして時おり父が彫って床に散らばった木くずを掃き集める音が私の記憶に深く残っている。外で教えるとき以外は、父は一日中仕事場で過ごした。趣味というものを持たず、読むものといえばもっぱら新聞と、美術や版画の参考書で、それらの多くの本の中には『Printmaking』、『The Book of Fine Prints』、『Master Prints of Japan』、『An Introduction to a History of Woodcut』、『Post-Impressionism』、『From Van Gogh to Gauguin』、『Painting in the Yamato Style』、『Bonnard』等があった。仕事場は実用一辺倒で、装飾や感傷的な理由でおかれたものは一切なかった。あるのは整然と並べられた道具、絵具等のチューブ、びん、ボトル、缶、筆、木炭、鉛筆、定規、布、版画紙、版木、ボール紙などで、一つ一つが制作の過程に直接必要なものだった。私の部屋の隣ではあったが、父の仕事場は別世界であり、私が父の仕事を邪魔することなどはめったになく、たまに父と母が二人とも出かけている間に入ってみるだけだった。私が覚えている限り、母が父の仕事場に入ったのを見たことはない。

私が子供のころは、母は自分の芸術家としてのキャリアを一旦脇に置き、もっぱら私の世話と家事を引き受け、父が仕事をしやすい環境づくりに努めていた。したがって子供のころは母も美術家なのだと意識したことはあまりなかったが、母は時間を見つけては制作を継続しており、私がミドルスクールに入ってあまり手がかからなくなってから、ようやく本格的に作品を作るようになった。日本では版画を制作しており、当初ニューヨークでも制作していたが、後に全く違うミディアムを選んだのは、恐らく父と違う分野の作品を創造したかったのと、父の気を煩わせることなく、父が版画家として花開くことを望んだからであろう。理由はともあれ、母の新しいミディアム(コラージュとアッサンブラージュ)は、母の性格と美的感受性に最適なミディアムであったことに疑いの余地はない。

母のクリエイティブな世界は、母自身の記憶と空想から引き出されたロマンと抒情に溢れていた。母は「もの」を愛し、過去を大切にしていた。そのために若い頃は「おセンチ姉さん」と呼ばれていた。母の人生にとって意味のあった言葉の一つは、「あの時、あの人」であり、それは母が頻繁に回想していた、ある場所である人と過ごした特別な思い出である。母の作品は、世界中の過ぎ去った時代から自分の想像力を通して取り出した物や画像を使って、自身がもつ記憶への情熱を表現したものだ。江戸時代、イタリアルネサンス、ビクトリア時代、アメリカ植民時代からの断片や、古い切手、絵葉書、人形、おもちゃ、楽譜といった過去の遺物、また木の葉、貝殻、小石、バラ、鳥の羽などの自然物は、小さな道具や手鏡、雑誌の切抜き等とアレンジされて、優雅で特異なムードを醸し出す。不必要なものをためらわずに捨てた父とは対照的に、母は物を捨てず、古物商や蚤の市で物を買い求め、インスピレーションのために大切に保管し作品に用いた。母は夫婦の寝室の片側に置かれた大きな仕事台で、ハサミ、糊、金銀のパステルやその他の道具を使って制作し、それらの材料や作品は、そのわきにある大きなファイルキャビネットに保存していた。

父と母は、夫婦でよく日本人やアメリカ人の美術家と交流した。ニューヨーク在住の日本人作家や、日本からきた作家にとって、二人は気心の知れた主人役であり、長年にわたって多くの旧友を自宅の夕食に招いたり、彼らの関心のあるニューヨークの美術館や観光地を一緒に訪れた。全員は思い出せないが、私の記憶では吉田穂高、吉田遠志、吉田政次、棟方志功、北岡文雄、流政之、由木礼、萩原英雄、角浩、高橋力雄などの人々がいた。一方アメリカ人にとっては、二人はニューヨーク美術界の信頼のおける仲間であり、日本文化の紹介役として、自宅ですき焼きや刺身をふるまったり、日本と日本美術についての情報を提供したりした。それらの人々の中には、フリッツ・アイヘンバーグ、マイケル・ポンセ・デ・レオン、バーナード・チャイルズ、ソン・モイ、レタリオ・カラパイ、カール・シュラグ、リチャード・プセット=ダート等の作家、またサラ・ローレンス大学とコロンビア大学美術学部の同僚に加えて、ウナ・ジョンソンやドリー・アシュトンらの美術評論家がいた。

二人はまた、日本で親しくなったイサム・ノグチとは連絡をたやさない間柄だった。父はイサム・ノグチと1950年代初めに出会い、日本での彼の数々のプロジェクトを手伝い、あるいは制作に協力したようだ。ノグチが私たちの家に来たことや、両親が親しくしていたノグチの妹の郊外の家をノグチと両親と一緒に訪れて午後を過ごしたりしたことを覚えている。また、父は著述家のオリヴァ―・スタットラーとも生涯を通じて親しかった。父はスタットラーが出版した『Modern Japanese Prints: An art reborn(よみがえった芸術−日本の現代版画)』(1956年)に掲載された作家たちとの対話を仲介・通訳したり、『Japanese Inn(ニッポン歴史の宿)』(1961年)のためのインタビューを通訳したりと、日本における彼の重要な協力者であった。家族でシカゴの彼の家を訪ねたこともあり、父は1970年代には度々日本でも彼と会った。

1970年から1975年にかけて、私たち家族は広く海外を旅した。1970年には父が二度目のグッゲンハイム・フェローシップとサラ・ローレンス大学の長期有給休暇を得てヨーロッパに行き、そこから日本に行き主に京都で2か月過ごした後、ヨーロッパに戻り、イタリアのフローレンスで父は6週間の夏期学校(アメリカン・サマープログラム)で教えた。その後5年間は、毎年南フランスの夏期学校アメリカン・サマースクールで教えるようになった。その間に私たちはプロバンス、ロワール地方、ノルマンディー、ストラスブール、リビエラ、ブリターニュなどフランス各地をはじめ、イタリア、スイス、ギリシア、ユーゴスラビアを旅行した。京都のお寺数十か所をはじめ、ウフィツィ美術館、プラド美術館、パルテノン神殿、数えきれない城や聖堂からベニスのビエンナーレ、リュブリャナ国際版画ビエンナーレと、文化的に興味ある場所を精力的に巡った。これらの経験は両親に新しいインスピレーションを与えて、その後の制作に影響を及ぼしたであろうし、また両親が1979年に購入したニューヨーク州シュラブ・オークの別荘を囲む自然環境も同様であった。

私の両親にとって、1959年に踏み切った冒険は、アメリカにおいて40年の実りある人生として開花した。父は自己宣伝にはまったく無頓着であったにもかかわらず、二度のグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞し、その作品は現在、メトロポリタン美術館、ワシントンのナショナルギャラリー、大英博物館、アムステルダム国立美術館、ホイットニー美術館等に所蔵されるなど、作家として高い評価を得た。また教師としても、長年の献身的な教育姿勢が認められ、サラ・ローレンス大学ではまず正規教師の地位を得、後に名誉教授となった。母は、感傷的な性格と併せ持っていた鉄のような意思と決断力とで家庭と作家活動を見事に両立させ、生涯にわたりアメリカと日本で展示されるような個性的な作品群を生み出すとともに、私を育て、父の仕事を支えただけでなく、1982年に父が脳卒中で倒れてからは18年間介護をした。

日本を離れていなかったら父との人生はどうなっていただろうか、と時おり母は考えていたようだ。二人の人生に決して悔いはなかった、と私は思う。晩年の母は、自分たちは「アメリカン・ドリーム」を生きたのだとしばしば口にした。ほとんど何も持たずにスタートした彼らは、まったく独自のやり方で誇るべき二つの素晴らしいキャリアを築き、ニューヨークで子供を育てあげ、将来に続く家族のために根を下ろすことを成し遂げた。そしてなによりも、アメリカでの再出発にあたり絶対的な信頼を置いていた二人の資質と才能を最大限に活かし、二人は生きたのだから。
(翻訳:味岡千晶)

内間安王星2
1986年10月7日
六本木・ストライプハウス美術館にて
右から、内間俊子先生、内間安瑆先生、ご子息の内間安樹さん
(湯谷ひろみさん提供)


My Parents: A Reflection

Anju Uchima, Son
Art Lawyer in New York


In late 1959, my parents, both approaching middle age, left behind what must have been a familiar and comfortable existence in Tokyo to forge a new, uncertain path in the United States. They had achieved a certain amount of recognition as artists in Japan, my father associated with the sosaku hanga movement and my mother with the Demokrato Artists Association. They had just had a child; I was a one-year-old at the time. Almost everybody they knew was in Japan. Starting over in America was a bold and risky move: they had essentially nothing, as my mother often said, but trust in their own character and ability to pursue their dream of succeeding as artists in a new world. They were not assured success in art, or in any other field, for that matter. They did not know where in the States they would settle, much less how they would support themselves.

Though my father was returning to the country of his birth, he had been away for half of his life, so long that he was a bit of an “Urashima Taro.” Through that time, in Japan, he had reached adulthood, lived through the country’s hardest days in the War and its aftermath, chosen his career, made many friendships and started a family. He could certainly have stayed there. For my mother, who knew no country other than Japan, the move required an even deeper faith in the future. The exact reasons for my parents’ decision have never been clear to me; no doubt many factors, including the desire for fresh perspectives and an individualistic spirit, played important roles.

Of my father’s life prior to that point, I know relatively little. I heard, very occasionally, references to my father’s youth in California: he had played American football in high school, earned a black belt in judo and had had the same art teacher in high school as Jackson Pollock and Philip Guston, who had both been, by about ten years, his senior in the same school. I knew a little about his parents, who had immigrated from Okinawa to California in 1920, worked hard in various lines of work including running a store and farming, and done well enough to raise a large family and earn income from some modest real estate holdings in Los Angeles. From what I could gather, the family, which included my father’s two younger brothers, was part of a large Japanese-American community in California with no particular “Okinawan” identity, except that my grandmother played the jamisen. My father never spoke to me about his twenty years in Japan and only rarely about any other details from his past. He was reserved outside of social settings and ordinarily so consumed by the “here and now” of his daily life that he had little time or inclination to share his memories.

My mother, by contrast, spoke often about her past. I know many details about her family and her early life in colonial Manchuria. Her father was a well-to-do businessman and my mother grew up in comfortable surroundings, attending good schools (ultimately Kobe College), filled with art and music lessons. From an early age, she had a passion for art. She always had a strong desire to succeed and, in her own words, hated to lose at anything, qualities that undoubtedly propelled her to become one of the few women to be active in the Japanese art world in the early-to-mid-1950’s. Even before meeting my father, my mother had desired to come to America to further her art career. She had worked as an artist at the library of an American military base in Kobe and become friendly with her superior, a Miss Newenham, who had offered to take my mother back with her to the States upon her return and help her to develop an artistic career there, plans which could ultimately not come to fruition. About my mother’s artistic career in Japan, however, I know little. I do recall her speaking about her experiences with Demokrato but, because the names and details associated with it were too far removed from my day-to-day concerns, they did not stay in my memory.

Leaving Tokyo, my parents arrived in Los Angeles, where my father’s parents and brothers lived. Weeks later, my father, unimpressed with what he saw in local art galleries, decided to leave the only American city in which he had roots and move east, exchanging ideas about where to go with his friends Oliver Statler, who was in Chicago, and Isamu Noguchi, who was based in New York. In the early part of 1960, my parents decided to settle in New York, then as now a cultural capital and a mecca for artists from around the world. My parents found a small, congenial group of Japanese artists living in New York at the time whom they had known in Japan, including Inokuma Gen’ichiro, Izumi Shigeru, Mori Yasu and AY-O. They socialized often and helped one another. Black-and-white photos from those early days show happy moments with the three of us and these friends in Central Park and on the beach at Coney Island. My father began a life characterized by an almost single-minded devotion to his work, which consisted of artistic production and art teaching, first at Pratt Institute and then at Sarah Lawrence College and, later, also in the evenings at Columbia University.

In 1962, we moved from the top floor of a five-story walk-up building in Greenwich Village to a larger building in Upper Manhattan with an elevator, where we lived until 1976. My room and my father’s studio were side-by-side, farthest away from the entrance. Embedded in my memories are the constant repetitive sounds of my father carving his wood blocks with his cutting tools and rubbing his baren onto sheets of Japanese paper; the radio playing the news, talk shows and classical music; and, periodically, my father’s sweeping the carved wood chips that had gathered on the floor. When he was not teaching, he was in his studio all day long. He had no hobbies and his reading material consisted mainly of the newspaper and books to further his understanding of art and his medium, bearing titles like Printmaking; The Book of Fine Prints; Master Prints of Japan; An Introduction to a History of Woodcut; Post-Impressionism: From Van Gogh to Gauguin; Painting in the Yamato Style; and Bonnard, among many others. His studio was intensely practical. Nothing was extraneous or placed for aesthetic or sentimental reasons. All of the room’s neatly arranged contents - every tool, tube, jar, bottle, can, brush, piece of charcoal, pencil, ruler, rag, piece of paper, wood, cardboard - had a specific function directly connected to steps in his creative process. For all its proximity to my quarters, the studio was in a different world. I rarely dared disturb my father’s work and ventured inside the room only on occasion when both my parents were out of the apartment. I cannot remember my mother ever entering the room.

During the early years, my mother, for the most part, set aside her artistic career in order to care for me, tend to the housekeeping and create an environment that would support the development of my father’s career. For this reason, I was only dimly aware as a child that my mother was an artist in her own right. She continued her work when she found the time; it was only when I entered middle school and required less attention that my mother began producing work on a regular basis. Though she had been a printmaker in Japan and did some prints in New York, she went on to choose an entirely different medium, perhaps out of a desire to create works completely distinct from my father’s and to create an environment in which my father’s printmaking career could flourish without distraction. Whatever the reason, there is no doubt that her new medium - collage and box assemblage - was uniquely and perfectly suited to her personality and aesthetic sensibilities.

My mother’s creative world was filled with romance and sentiment drawn from memory and imagination. She loved objects and treasured the past. In her youth, she had been nicknamed “o-senchi nesan” for her sentimentality. One of the phrases that gave meaning to her life was “ano toki, ano hito,” referencing her frequent recall of special moments spent with particular people in particular places. She expressed her passion for memory through objects and imagery from the world’s past, filtered through her imagination. Glimpses from the Edo period, the Italian Renaissance, the Victorian era and colonial America; items from bygone eras such as old stamps, postcards, dolls, toys, music scores; her favorite symbols of angels and hearts; natural elements like leaves, seashells, stones, roses and feathers, were arranged with small tools, hand mirrors, magazine clippings and other objects, and projected elegant, fanciful moods. Unlike my father, who discarded unneeded items without a thought, my mother would save objects and search for new ones at antique shops and flea markets, keeping them for inspiration and use in her work. She used a large work table on one side of my parents’ bedroom, with scissors, glue, gold and silver-colored pastels and other implements, and stored her objects in a large file cabinet to the side.

As a couple, my parents socialized frequently with others, both Japanese and American, involved in the fine arts. To Japanese artists, both living in New York and visiting from Japan, my parents were congenial hosts and, over the years, had many of these old friends at our home for dinner parties and visited museums and other places of interest with them in New York. There were too many to remember, but among those I can recall are Yoshida Hodaka, Yoshida Toshi, Yoshida Masaji, Munakata Shiko, Kitaoka Fumio, Nagare Masayuki, Yuki Rei, Hagiwara Hideo, Kado Hiroshi and Takahashi Rikio. To the Americans, my parents were friendly colleagues in New York’s art world and, often, emissaries of Japanese culture, often introducing them to sukiyaki or sashimi over our dinner table and serving as sources of information about Japan and Japanese art. I can remember, among many others, the artists Fritz Eichenberg, Michael Ponce de Leon, Bernard Childs, Seong Moy, Letterio Calapai, Karl Schrag and Richard Pousette-Dart, and art authorities like Una Johnson and Dore Ashton, in addition to colleagues from the art faculties of Sarah Lawrence College and Columbia University.


My parents were also in regular contact with Isamu Noguchi, with whom they had become friendly in Japan, my father having met him sometime in the early 1950s and, I understand, assisted and collaborated with him in various endeavors in Japan. I can remember Noguchi visiting us at home and spending some afternoons with him and my parents at the countryside home of Noguchi’s sister, with whom my parents were also friendly. My father also maintained a lifelong friendship with author Oliver Statler, for whom he had played a key role in Japan, enabling Statler to communicate with the artists featured in his 1956 book Modern Japanese Prints: An Art Reborn, and accompanying him to interviews for his 1961 work Japanese Inn. We visited him in Chicago and my father met with him on several occasions in Japan in the 1970’s as well.

As a family, we traveled widely between 1970 and 1975. In 1970, on the occasion of my father’s second Guggenheim Fellowship and a sabbatical from Sarah Lawrence College, we journeyed through Europe and then to Japan, where we spent two months, mainly in Kyoto, before returning to Florence, Italy, where my father taught at a six-week American summer program. Over the summers of the next five years, my father taught at another American summer school in southern France. On those occasions, we covered many destinations in France, including Provence, the Loire Valley, Normandy, Strasbourg, the Riviera and Brittany, and continued on to Italy, Switzerland, Greece and Yugoslavia. We tirelessly toured places of cultural interest, from several dozen temples in Kyoto, the Uffizi and Prado Museums, the ruins of the Parthenon and numerous chateaux and cathedrals, to Biennale exhibitions in Venice and Ljubljana. These experiences provided my parents fresh sources of inspiration and undoubtedly influenced their later works, as did the natural surroundings of my parents’ country house in Shrub Oak, New York, which my parents bought in 1979.

What had started as an uncertain venture for my parents in 1959 blossomed into forty successful years in the United States rewarded in numerous ways. Though my father was never very interested in self-promotion, he achieved significant recognition, with two Guggenheim fellowships and the inclusion of his work in, among other places, the collections of the Metropolitan Museum, the National Gallery, the British Museum, the Rijksmuseum and the Whitney Museum. In teaching, too, his years of dedicated instruction were recognized, first with a grant of tenure and, ultimately, appointment as emeritus faculty at Sarah Lawrence College. My mother, with the iron will and determination that co-existed with her sentimentality, masterfully balanced home and career, creating a distinguished oeuvre of works exhibited in both the United States and Japan, while raising me and providing support for my father, both throughout his career and during the eighteen years following his stroke in 1982.

My mother occasionally wondered how she and my father would have fared if they had not left Japan. I believe they had no regrets. In her last years, my mother said on several occasions that she and my father had lived “an American Dream,” starting with little and achieving, completely on their own terms, two brilliant careers in which they could take pride, raising a child and laying roots in New York for successive generations of family, and making the most of their character and ability, in which they had placed so much faith in starting their lives over in America.

(Translated by Ajioka Chiaki)

20180719内間家、大井真二さん
2018年7月19日NYから内間さんご一家が来訪、内間家と親交のあった大井さんと数十年ぶりの再会。
前列左から、内間洋子さん、内間安樹さん、綿貫令子、
後列左から、内間蓮さん、大井真二さん、綿貫不二夫、尾立麗子

〜〜〜
●内間俊子の作品紹介
内間俊子は旧姓・青原、高知県にルーツを持ち、1918年満州・安東市で生まれました。1928年大連洋画研究所で石膏デッサンと油彩を学び、1937年に大連弥生女学校を、1939年には神戸女学院専門部本科を卒業。帰国後、小磯良平に師事します。1953年瑛九らのデモクラート美術家協会に参加。 この頃、久保貞次郎や瀧口修造を知り、 抽象的な油彩や木版画、リトグラフを制作し、デモクラート美術展に出品します。
1959年夫の内間安瑆と渡米後はニューヨークに永住し、制作を続けます。1966年頃から、古い切手、絵葉書、楽譜、貝殻や鳥の羽などが雑誌の切抜き等でアレンジして封印したボックス型のアッサンブラージュやコラージュの制作に取り組み、全米各地の展覧会や日本での個展での発表を続けました。1982年からは体の自由を失った夫を18年間にわたり献身的に看病します。介護をしながらの限られた時間の中でも制作は続けられました。作品は「夢、希望、思い出」をテーマにしたものが多く、日常の「モノ」たちの組み合わせから内間俊子の人生の記録が表現されています。
2000年 5月9日安王星が79歳の生涯を静かに終えると、その後を追うかの如く、同年12月18日ニューヨークで死去されました。
23_bridge内間俊子 Toshiko UCHIMA
"橋 (Bridge)"

1965年
木版
イメージサイズ:57.0×42.5cm
シートサイズ:61.0×45.0cm
サインと日付あり

Lady_photographer内間俊子
《Lady photogorapher》
1977年
ボックスアッサンブラージュ
Image size: 23.0x33.0cm
Acrylic box size: 31.0x41.2cm
Frame size: 42.0x49.0x3.0cm
Signed


Signal_600内間俊子
《Signal》
1974年
ボックスアッサンブラージュ
Image size: 31.5x25.0cm
Acrylic box size: 31.5x25.0cm
Frame size: 34.0x27.3x5.5cm
Signed

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

●内間安瑆の作品紹介
内間安瑆は1921年アメリカに生まれます。苗字からわかるように父と母は沖縄からの移民です。1940年日本に留学、戦時中は帰米せず、早稲田大学で建築を学びます。油彩の制作をはじめ、後には木版画に転じます。
1950年アンデパンダン展(東京都美術館)に出品。1950年代初めにイサム・ノグチと知り合い、以降親しく交流する。1954年オリバー・スタットラーの取材に通訳として同行し、その著作に協力した。
その折に創作版画の恩地孝四郎にめぐり合い大きな影響を受けます。
1954年デモクラート美術家協会の青原俊子と結婚。1955年東京・養清堂画廊で木版画による初個展を開催。1959年妻の俊子と息子を伴い帰米、ニューヨーク・マンハッタンに永住。版画制作の傍ら、サラ・ローレンス大学で教え、1962と70年にグッゲンハイム・フェローシップ版画部門で受賞。サラ・ローレンス大学名誉教授を務めました。
日米、二つの祖国をもった内間安瑆は浮世絵の伝統技法を深化させ「色面織り」と自ら呼んだ独自の技法を確立し、伝統的な手摺りで45度摺を重ねた『森の屏風 Forest Byobu』連作を生み出します。現代感覚にあふれた瑞々しい木版画はこれからもっともっと評価されるに違いありません。
21_forest-byobu-autumn内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Autumn)"

1979年
木版
イメージサイズ:45.5×76.0cm
シートサイズ:55.0×88.0cm
サインあり

ForestByobu (Fragrance)内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Byobu (Fragrance)"

1981年
木版(摺り:米田稔)
イメージサイズ:76.0×44.0cm
シートサイズ:83.6×51.0cm
限定120部 サインあり
*現代版画センターエディション

FOREST_BYOBU_TWILIGHT_WEAVE_A内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Twilight Weave) A"

1981年
木版
イメージサイズ:59.5×52.7cm
シートサイズ:71.0×60.3cm
サインあり

02_fw-bathers-two_cobalt内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
木版
イメージサイズ:68.0×49.0cm
シートサイズ:82.0×57.0cm
サインあり

01_fw-bathers-two_cobalt_oil内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Forest Weave (Bathers-two-cobalt)"

1982年
キャンバスに油彩
91.5×66.0cm

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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

『内間安瑆・内間俊子展』カタログ
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 図版:51点、略歴収録
テキスト:内間安樹(長男、美術専門弁護士/ニューヨーク州)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
編集:尾立麗子
編集協力:桑原規子
翻訳:味岡千晶、他
価格:税込800円 ※送料別途250円(メールにてお申し込みください)

表紙_表1_内間展_修正_0628_600表紙_表4_内間展_修正_0628_600

版画掌誌「ときの忘れもの」第04号もぜひご購読ください。

◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。図録も刊行しました(800円、送料250円)。

水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
201807_uchima

流政之と内間安瑆・内間俊子

ときの忘れものでは内間安瑆・内間俊子展を開催中です。
内間夫妻(ともに2000年死去)の遺した作品を多くの人に知ってもらい、太平洋をはさみ日米の架け橋ともなつた二人の事跡を記録し、伝えてゆくことも私たちの務めと思っています。
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7月7日、彫刻家・流政之さんが亡くなられました。
イサム・ノグチとともに、内間夫妻が親交した作家でした。
海軍予備学生出身の零戦搭乗員として終戦を迎えた流さんは、戦後は全国を放浪、独学で彫刻を学びます。
内間先生との交流も戦後はじまり、1957年(昭和32)銀座の養清堂画廊で「内間安瑆・流政之展ー木版画と石彫ー」を開催します。

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1957年3月、内間安瑆・流政之展(養清堂画廊/銀座)オープニングパーティーにて。
内間安瑆(左)と棟方志功(右)。

1958年内間夫妻に子息が生まれたとき、安樹(あんじゅ)という名の名付け親が流政之さんでした。
1962年大分県庁のコンクリート壁画「恋矢車」で日本建築学会賞を受賞し注目を浴び、内間夫妻が渡米した少し後の1963年に渡米、その後の国際的な活躍はよく知られています。
香川県に仕事場を構え、多くの作品を遺されました。
謹んで、ご冥福をお祈りします。

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展示の様子を掲載しますが、準備した作品は51点あり、全部は展示していません。
全51作品は7月14日ブログに掲載しましたので、ご覧ください。会場でお声をかけてくださればすぐにご覧にいれます。

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23_bridge内間俊子 Toshiko UCHIMA
"橋 (Bridge)"

1965年
木版
イメージサイズ:57.0×42.5cm
シートサイズ:61.0×45.0cm
サインと日付あり

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03_hermit内間安瑆 Ansei UCHIMA
"Hermit 仙人"

1957年
木版
イメージサイズ:77.1×41.0cm
フレームサイズ:96.3×58.4cm
サインあり


2014年9月12日付ブログ用画像_08
1982年
内間安瑆先生と俊子夫人


『内間安瑆・内間俊子展』カタログ
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 図版:51点、略歴収録
テキスト:内間安樹(長男、美術専門弁護士/ニューヨーク州)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
編集:尾立麗子
編集協力:桑原規子
翻訳:味岡千晶、他
価格:税込800円 ※送料別途250円(メールにてお申し込みください)

表紙_表1_内間展_修正_0628_600表紙_表4_内間展_修正_0628_600

版画掌誌「ときの忘れもの」第04号もぜひご購読ください。

◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。図録も刊行しました(800円、送料250円)。

水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
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●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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野田英夫生誕110年

昨日7月15日は、野田英夫の誕生日でした。
東京国立近代美術館で初めて野田英夫の「帰路」に接したときの静かな感動は40年たった今も鮮やかに甦ります。
今年は生誕110年にあたる記念すべき年ですが、亭主が知る限りそのことを祝う展覧会はないようです。

今から110年前、1908年(明治41)7月15日アメリカ・カルフォルニア州サンタクララで日系アメリカ市民の子として野田英夫は生れました。
日本とアメリカを往復し、自分の周辺の人々や風景を哀歓に満ちた筆致で描きだしましたが、脳腫瘍のため1939年1月僅か30歳で死去します。松本竣介(野田英夫の四歳下)に大きな影響を与えたことでも知られます。
ゆかりの熊本の県立美術館では幾度か回顧展が開催されていますが近年は展示の機会も少ないようです。数多くのコレクションをもっていた信濃デッサン館は既にコレクションの大半を売却し、残念なことに2018年3月15日に閉館してしまいました。
野田英夫ファンとしてはまことに無念極まりない状況です。

野田英夫の作家と作品については「大谷省吾のエッセイ」をお読みください。

関連資料・文献については、
野田英夫 作品と文献紹介1>と<野田英夫 作品と文献紹介2>をご覧ください。

ときの忘れもののコレクションから野田英夫作品をいくつかご紹介します。
5_野田英夫600野田英夫
風景
紙に油彩・ペン  24.0x33.3cm
*1979年の熊本県立美術館「野田英夫展」出品作品


2_野田英夫600野田英夫
作品
紙に水彩  25.4x30.9cm


7_野田英夫600野田英夫
東京植物園写生
1936年  紙にクレパス
22.7x28.2cm  サインあり
*1979年の熊本県立美術館「野田英夫展」出品作品


10_野田英夫600野田英夫
作品
紙にペン  21.3x17.0cm

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野田英夫より一回り下に、やはり日系移民の子として生まれた
内間安瑆
(うちまあんせい)がいます。

内間安王星_WINDOW NUANCE(ROSE) _600内間安王星
《WINDOW NUANCE (ROSE)》
1978年
銅版+木版
イメージサイズ:30.0×22.0cm
シートサイズ:37.5×28.5cm
A.P.  サインあり

ちょうど明日から、ときの忘れものでは内間安瑆・内間俊子展を開催します。
展覧会の概要は先日のブログでご案内しましたが、画業はもとより、日米の架け橋として果たした野田英夫、内間夫妻の功績についても研究者の皆さんによって正確に記録されることを願っています。

亭主は夭折した野田英夫には会っていませんが、内間さんご夫妻にはお目にかかり仕事もご一緒できたことは、何よりも誇りです。
内間さんご夫妻と出会った経緯は版画掌誌第4号の編集後記に書きましたのでお読みください。

内間先生と野田英夫が一回りしか違わないと知ると、俄然同時代の作家という気持ちがしてきます。野田英夫が長生きしたら、舟越保武先生や難波田龍起先生と同じくお目にかかれたかも知れないのですからね。
没後80となる来年には、新たなコレクションによる「野田英夫展」の開催も計画したいと思います。
どうぞご期待ください。

◆ときの忘れものは明日から内間安瑆・内間俊子展を開催します。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。図録も刊行します(800円、送料250円)。
201807_uchima


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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