中村茉貴の「美術館に瑛九を観に行く」

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第24回

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第24回

東京国立近代美術館「瀧口修造と彼が見つめた作家たち―コレクションを中心とした小企画」


取材日の当日、東京メトロ竹橋駅の階段を昇ると、ギラギラの太陽に照らされたアスファルトが白く発光し、目を刺激した。皇居周辺を走るランナーも、このときばかりは酷暑のために姿を消していた。信号待ちで立っているだけでも体力を奪われ、暑さを避けるようにして東京国立近代美術館に飛び込んだ。今回の取材は、「瀧口修造と彼が見つめた作家たち」展である。瑛九の作品が前期と後期あわせて4点が出品されていることから、当館美術課長大谷省吾学芸員による案内で展示を拝見した。

展示を企画されたきっかけは、2017年12月3日大阪大学総合学術博物館主催のシンポジウム「〈具体〉再考 第2回1930年代の前衛」に、大谷氏が加藤瑞穂准教授から誘われて発表者として参加したことによる。討論された内容は、「「デモクラート美術家協会」、「実験工房」、「具体」それぞれの中心的役割を果たした瑛九(1911-1960年)、瀧口修造(1903-1979年)、吉原治良(1905-1972年)の接点に注目し、研究者による発表・討議を通して、戦前の1930年代にまで遡る彼らの活動やその志向、戦後との連続性などについて考え」るというものであった。特色のある活動を展開した彼らの表現の中で、共通する点と異なる点は何か、実際の作品を見ながら議論を深める狙いがあったようだ。

東京国立近代美術館01東京国立近代美術館(2階)展示室前

展示室に入ると、手のひらサイズの黒い冊子が置かれている。表紙は、瀧口修造が好んだラベルのデザインで展覧会名が入っている。瀧口のスケッチブックと見紛うばかりの凝った体裁のであるが、中を開くと、解説文、図版8点、瀧口修造略歴、作品リストが収録された小冊子である。(配布終了)

東京国立近代美術館02瀧口修造と妻綾子を撮影した写真が展示されている。大辻清司の撮影による「瀧口修造ポートフォリオ」から。

山積みとなっている書物が壁一面を覆い尽くしている。瀧口の書斎写真をじっくり見ていると、ある種の趣向が分かってくるため、度々雑誌等に掲載されることがあり、後年は研究対象として扱われている。壁面と化した本の背表紙や絵をのぞき込むと、瀧口のその当時の関心事や交友関係を知る手掛かりとなるのだろう。実際に慶応義塾大学アート・センターで書斎の写真に注目した展示企画が2018年1月22日〜 3月16日 に同大学アート・スペースにて開催された。過去にも、同センターの「瀧口修造アーカイブ」から瑛九も関わっていたタケミヤ画廊の企画展も行われたことがあり、見学させていただいた。今後も大学、美術館の双方でコレクションを積極的に公開していくことで、瀧口や彼に関連する美術家の研究が進むと考えられる。

東京国立近代美術館03参考資料)写真:口絵「瀧口修造の書斎1963」(大岡信『ミクロコスモス瀧口修造』1984年)、左下図版:《作品》1959年、油彩、37.8×44.5僉碧楷崟亀全峠ぁ惘誘綺酩塀検1997年)

瀧口は、作品も図書と同じく書斎に置いていた。写真図版の赤枠部分には、瑛九の作品が1点掛かっている。左下の油絵が写真と同じ作品である。瑛九の作品を瀧口がどのように入手したのか経緯は定かではないが、ひとつの可能性としていえるのは、瑛九夫人(都)が贈ったことである。大谷氏によると、瀧口は作品を購入して手元に置くというよりは、美術家が瀧口に贈るケースが多かったという。瑛九のこの作品は、現在、富山県美術館に収蔵されている。

東京国立近代美術館04瀧口修造のデカルコマニー4点(いずれも制作年不詳)が展示されている風景。

デカルコマニーを用いて制作された作品の多くは、浮かび上がった模様から、あるイメージを想像して、よりそれらしく見えるように加筆する。しかし、瀧口の場合は、ほとんどの作品に手を加えず、そのままの状態で留めている点が他の作家との大きな違いであると、大谷氏は説明していた。展示されているデカルコマニーは、どれも黒を基調として、淡いブルーや紫色が画面に落とし込まれている。紙上を這うように浮かび上がった模様をつぶさに観察してみると、暗闇でざわめく木々に見えたり、夕立の暗雲に見えたり、巨大な湖に見えたり、月面に見えたり、様々なイメージを膨らませることができる。見え方は、千差万別で大谷氏は「○○に見える」と〇〇と言葉を当てはめることさえ憚られるように説明していた。

東京国立近代美術館05バーント・ドローイング3点が展示されている風景。

紙を熱して浮かび上がる焦げや煤けた模様を作品とする技法である。3点をよく見ると、焦げて穴が開いた紙の下に赤い紙を重ねている作品、彩色した紙に火を入れた作品、もしくは、その逆の手順で火を入れた後に彩色している作品で、制作する度に変化を与えていることが分かる。このように実験的に制作される作品に偶然な発見があると、制作するたびにまた制作したい欲に駆られるのだろう。瀧口修造と聞くと、美術批評家・詩人というイメージが第一にわくが、晩年の瀧口は執筆活動をしないで、「美術家」のように作品制作に没頭していたようだ。大谷氏は、瀧口のバーント・ドローイングとルーチョ・フォンターナの作品をよく比較してほしいと語っていた。見比べると似て非なる作品で、フォンターナの目の覚めるような色と鋭く切り裂かれた画面と、どこか湿っぽい瀧口の作品は日本らしい味わいがある。

東京国立近代美術館06.ロト・デッサン2点。制作年不詳、紙、鉛筆

私が撮影した写真では見えづらいかもしれないが、こちらは、ただ黒くて四角い作品ではない。黒い用紙に鉛筆で同心円状の線が幾重にも重ねられた作品である。黒鉛のキラキラと輝く軌道を目で追っていると、画面に吸い込まれるような錯覚に陥る。展示室で直に見ていただきたい作品のひとつである。

東京国立近代美術館07『みづゑ』増刊「海外超現実主義作品集」1937年5月

戦前の日本で出版されたシュルレアリスム関係文献で最も充実した雑誌として有名で、美術ファンならお馴染みの資料である。なお、レクチャー(第二夜)でこの雑誌の詳細な説明を伺い、瀧口の異様な執着心が込められていたことを知った。上部の「みづゑ」と表記されている方がカバー(奥)であり、カバーを外した状態の冊子(手前)が分けて展示されている。「アルバム・シュルレアリスト」という表題の黒バックの表紙とその裏表紙を飾っているのが瀧口の作品である。作者として瀧口の銘はどこにも無いものの、海外のシュルレアリスム特集号で自身の作品を表に置く精神は、改めて考えると驚くべきことだと大谷氏は語る。

本展は、大きく三つのコーナーに分けられ、‖躙修造のコーナー、瀧口と交流のあった日本の美術家のコーナー、B躙が関心を寄せていた海外美術家のコーナーで構成されている。,梁躙の作品は当館が所蔵する全13点が出品され、↓のその他の作品が会場の大半を占め、一巡すると実に多彩な展示空間であることを知る。見るたびに新たな発見がある奥深い作品ばかりのため、瀧口のコーナーを見て他のコーナーを鑑賞したら、また瀧口のところを見返してほしいという。

東京国立近代美術館08左からポール・セザンヌ、ウジェーヌ・アジェ、マックス・エルンストの作品がある風景。瀧口は『近代芸術』(1938年)でセザンヌの作品に精神と物質との闘いを見ている。人の意識の届かない存在としての「物質」をどう捉えるか、という瀧口にとっての重要なテーマが論じられる大事な一例として示された。


東京国立近代美術館09右からイヴ・タンギー、ジョアン・ミロで、左はルーチョ・フォンターナ、ジョセフ・コーネルである。


東京国立近代美術館10左から福沢一郎、浅原清隆、浜田浜雄の作品。こちらは瀧口と交流の深かった美術家である。浅原が描いたハイヒールの立体構造と奥まったソールの部分を見ていると不思議なものに見えてくる。二次元のフラットな画面であるが、ルーチョ・フォンターナの作品を彷彿させる。


東京国立近代美術館11北脇昇《数学的スリル》とオブジェ。アトリエに残っていたという木片は、作品の中でライフル銃や逃げ惑う人物に姿を変えている。見立てに近い造形表現である。


東京国立近代美術館12大辻清司、北代省三・大辻清司、山口勝弘・大辻清司の写真。[後期展示]
撮影された対象が北代、山口によって制作されたオブジェである。彼らは、実験工房のメンバーである。


東京国立近代美術館13手前は荒川修作の《作品》があり、奥には河原温の《孕んだ女》がある。瀧口に限らず、「もの」(物質/物体/オブジェ)をどのように捉えるかは、作品制作の根底にある大きな問題であり、時代を経ても脈々と続く問題として、個々の作品を細かく見ていくと、展覧会に込められた重要なポイントになっているようだ。


次に、瑛九のコラージュ4点に注目したい。下記の作品をよくみると、1点目はまぶたからひたいにかけて切り取られた女性の顔面があり、眼球はなく、人体らしきカケラが連なるように構成されている。背景に当てられた赤い紙の効果で、バラバラの印刷物はひとつの個体となり、人ではない奇怪なイメージが形作られている。また、《作品D》は、能面のように眼球部分がくりぬかれた女性像、《笑えぬ事実》では、女性の顔が白目部分で切断され、同様に切り抜かれた別の顔と上下反転する形で接合されている。4つの瞳孔が空を仰ぎ、画面中央にぬうっと突出た腕は不気味さを増長している。

東京国立近代美術館14瑛九《無題》1937年頃、コラージュ・紙[前期展示]

東京国立近代美術館15瑛九《無題》1937年、コラージュ・紙[前期展示]、鉛筆で「Q Ei /’37」のサインあり

東京国立近代美術館16瑛九《作品D》1937年、コラージュ・紙[後期展示]

東京国立近代美術館17瑛九《笑えぬ事実》1937年、コラージュ・紙[後期展示]

これら瑛九の作品に関しては、大谷氏の論文「瑛九にとっての『現実』」で次のように解釈している。

瑛九が徹底的に拒否したのは、現実を公式化し、手垢にまみれた既成概念の枠を通して理解することであった。そうした惰性的な現実理解が、バタイユのいう「味気のない生をもたらした」とするならば、逆に瑛九が追い求めたのは、知識や概念を取り払った、むき出しの存在としての「レアル」なものということができるだろう。
(大谷省吾『激動期のアヴァンギャルド シュルレアリスムと日本の絵画1928-1953』2016年)

また、瑛九のコラージュについて、「表現者としての孤独と疎外のぎりぎりの地点からの反撃として生み出されたのだと考えられる」と大谷氏は解釈を加えている。
瑛九は幼少のころから本の虫で、国内外の美術表現は雑誌などから学んでいた。人一倍知識をため込んでいたといっても過言ではない。それは、独自の表現を模索していたからこそ、手あたり次第に目を通していたともいえる。「知識や概念」に向きあった上で目の当たりにした現実(レアル)には、ハッとさせられるくらいの空虚と確固たる魅力がそこにあることに気付いたのであろう。瑛九は「知識や概念」でがんじがらめになる予定調和的な表現ではなく、「孤独」な冒険に挑んだ。そのため、それまで積み上げてきたことを自嘲するかのように、アイロニカルと不穏に満ちた表現になった。

ところで、大谷氏は、大阪大学のシンポジウムや「瑛九1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす」展(東京国立近代美術館ギャラリー4、2016年)で、瀧口と瑛九のふたりが1930年代に映画を製作する計画があったことを書簡の中から見出している。結局、瀧口の体調の悪化で頓挫するものの、フィルム(感光材料)を用いた表現に、ふたりとも関心があったことが分かる。作品を見ても分かるように、両者が同じ方向をめざした表現とは言い難いが、同時代の前衛美術家として互いに無関心ではなかったようだ。瀧口修造が瑛九について書いている記事を一覧で見ると、決して少なくはない。

<瑛九に関係する瀧口修造の執筆文献>
〔瀧口修造「自由美術家協会第一回展」『美之國』1937年8月〕
瀧口修造「フォト・デッサンに寄せる言葉」『瑛九フォト・デッサン展』目録(宮崎商工会議所、大阪梅田画廊)1951年1月−2月
瀧口修造「瑛九のエッチング」『美術手帖』1953年10月
瀧口修造の詩による版画集『スフィンクス』1954年
瀧口修造「(展覧会に寄せて)」『瑛九フォト・デッサン展』目録(高島屋ギャラリー)1955年1月
瀧口修造「福井の瑛九遺作展のために」『瑛九遺作展』目録(福井市繊協ビル)1960年5月
瀧口修造「瑛九をいたむ」『美時術手帖』1960年5月
瀧口修造「通りすぎるもの」『眠りの理由』1966年4月

瀧口修造の詩による版画集『スフィンクス』は、デモクラート美術家協会会員(北川民次、瑛九、泉茂、加藤正、利根山光人青原(内間)俊子)によって制作された版画と瀧口修造の詩がセットになったもので、瑛九のエッチングは、「五月のスフィンクス」という詩と組まれた。本展では、この作品が当然出品されていると予想していたが、実際は展示されていなかった。改めて調べると、こちらは久保貞次郎が発案したもので、すでに発表されていた瀧口の詩選集に版画を併せたものであった。このころの瑛九は、シュルレアリスムに傾倒していた時期で、銅版に下書きをせずに、頭に思い浮かぶままイメージを刻んでいた。


この瀧口修造展は、これまで評価されてきたシュルレアリスムの紹介者や前衛美術家の支援者という外面的な「瀧口像」ではなく、彼の心を動かした美術思想・表現、さらには個人的な嗜好にまで迫ろうとする瀧口の内面を覗く展示であった。また、比較対象として展示された作品を見ると、瀧口のオリジナリティを作品に見出すこともできる。

瀧口と瑛九に見受けられる共通の特徴としては、^貭蟯間、同じ技法による作品を実験的に繰り返し制作している点、∈酩覆離ぅ瓠璽犬鮓把蠅靴覆い海箸鮃イ鵑静澄↓写真メディアへの関心、ぅ轡絅襯譽▲螢好爐悗隆愎粥↓コこ扱歃儔函淵轡絅襯譽▲螢好函砲鵬欧垢襪海箸ない点が挙げられる。
瑛九は、瀧口の「実験工房」創立とほぼ同時期に「デモクラート美術家協会」という看板を掲げ、瑛九なりの「もの」(現実、レアル)の捉え方を実践してきた。瀧口は売れっ子の批評家でありながら、瑛九という画壇にいつかない人物を気に掛けていたのは、関心の対象や制作態度にかんして通ずるところがあったからかもしれない。

***
ちょっと寄道…


東京国立近代美術館18連続ミニレクチャー第二夜8月10日「瀧口修造とデカルコマニー」にて

展覧会の関連イベントとして行われているレクチャーでは、本展の企画者大谷省吾学芸員が5つのテーマを設けて、30分じっくりと解説するものである。第一夜と第二夜に伺うと、レジュメが用意され、レクチャーで触れられた参考文献の中の一文が掲載されている。大谷氏は、最新の研究成果を報告されるため美術関係者の注目度も高く、会場には、他館の学芸員や瀧口修造の研究者・土渕信彦さん、綿貫ご夫妻もお見掛けした。

第一夜では、「瀧口修造と“物質”」というテーマで、展覧会の開催概要や瀧口修造の関心の元となっている「物質」について掘り下げた内容であった。物質=「私」をとりまく世界、「私」という自我ではない、意識の外(無意識)にある部分を捉えたいと考えた時に、瀧口は「写真」に注目するようになった。印画紙に光が当たって制作される写真は、意識していないものも写し出すことが出来る。会場では、瀧口が関心を示していたウジェーヌ・アジェのスナップ写真が展示されている。

第二夜は、「瀧口修造とデカルコマニー」について、大谷氏は、オスカー・ドミンゲス、ジョルジュ・サンド、ロールシャハが制作したデカルコマニーの作例を挙げ、アンドレ・ブルトン『ミノートル』8号(1936年6月)にデカルコマニーが掲載されたのをきっかけに、わずか半年後に『阿々土』15号(1936年12月)で「対象の予想されないデカルコマニイ」として、作り方が紹介されたことを報告された。また、日本で開催された重要な展示としては、南画廊、新宿セバスチャンの個展の他に、東京府美術館に於いて開催された第5回新造形美術協会(1937年3月)で、瀧口が今井滋、瀧口綾子との共作(詩やデカルコマニー)を発表したことを挙げていた。また、展覧会終了後の5月には、雑誌でデカルコマニーを紹介していたことを示し、そのなかでも、特に重要なものとして、「作者が同時に熱心な鑑賞者になれるのもデカルコマニイです。」(「不思議な窓・デカルコマニイ」『アトリヱ』14巻5号、1937年)という妻綾子の一節を挙げ、デカルコマニーの本質と多様な表現性に触れていた。イメージの生成を循環してゆくことが、言葉では言い表せない何か、=「物質」を捉えることに繋がると考えらている。

瀧口のデカルコマニーについて、大谷氏は次のように解釈をしている。

近代的な表現主体としての作者の存在を相対化させるような性質が、もともとデカルコマニーにはあり、瀧口修造はその性質に身をゆだねているようにみえる。作者としての瀧口が作品の向こう側にいて、その表現意図を作品の表面から読み取らなければならない、というわけではないのだ。むしろ瀧口は作品のこちら側に私たちとともにいて、一緒に作品を見つめているのだと考えたほうがよい。
(中略)
作者と鑑賞者との境界が曖昧になるということは、「〇〇に見える」の「〇〇」が鑑賞者の数だけありうるということも意味する。

(大谷省吾「瀧口修造のデカルコマニーをめぐって」『瀧口修造展供2014年)

上記のように多角的なとらえ方ができるのがデカルコマニーの最大の魅力なのであろう。

東京国立近代美術館19東京国立近代美術館常設展の第9室写真・映像コーナー。

こちらには、細江英公の写真《薔薇刑》11点が展示されている。被写体となっている人物は、文筆家三島由紀夫である。元は、1962年銀座松屋で開催された「NON」展に20点組みで発表された写真である。翌年1963年には、写真集『薔薇刑』が集英社より発行された。
1968年には、《薔薇刑》の意思を引き継ぐように、澁澤龍彦編集の『血と薔薇』が創刊される。三島はここで再びモデルとなり、篠山紀信撮影《男の死》を発表することになった。

東京国立近代美術館20《薔薇刑》が展示されている風景。

細江英公は、瑛九に影響を受けた一人で、埼玉のアトリエに通い、フォト・デッサンの制作風景などを写真に収めている。細江は、瑛九の熱弁に触れて「ケロイド」ができたと比喩するほど、衝撃が走ったようだ。細江はデモクラート美術家協会にも参加している。

ちなみに、瀧口修造は下記の通り細江英公の写真集に寄稿している。
瀧口修造「鎌鼬、真空の巣へ」『鎌鼬』現代思潮社、1969年
瀧口修造「現前するガウディ」『ガウディの宇宙』集英社、1984年

東京国立近代美術館21夜の東京国立近代美術館の外観。ライトに照らされた梁が美しい。

夜間開館の実施中で、ゴードン・マッタ=クラーク展の会期中は21時まで、それ以降は20時まで開いている。美術館の前庭には、多田美波や現在開催中のゴードン・マッタ=クラークの作品が設置され、昼間とは別の表情を浮かべている。
また、見慣れないキッチンカーは、美術館内に店舗を持つ、L’ART ET MIKUNIが出店している。現在開催中の展示にあわせた期間限定のお店で、お弁当やローストビーフのサンドイッチ、ビール、日本酒、甘酒などの飲食ができる。総括ディレクター増田禎司氏にお話を伺うと、美術館の店内で出しているメニューを半額で提供しているものもあり、たいへんお得だという。桜の時期にも出店していて、評判が良いようだ。

夜の美術館では、学芸員によるミニレクチャーやボランティアによる展示解説などのプログラムがあるため、仕事帰りに作品を鑑賞して、外でゆっくりとくつろぐ来館者が多いようである。私も帰り際に冷やし甘酒をすすりながら野外彫刻を見ていると、昼間とは違った開放的な雰囲気を味わうことができた。日中に見かけなかった皇居ランナーの姿が見えると、暑さにも負けずに日常生活を送る日本人の柔軟な精神性を垣間見たような気がして、嬉しくなった。
(なかむらまき)

「瀧口修造と彼が見つめた作家たち―コレクションを中心とした小企画」
チラシ(部分)
会期:2018年6月19日(火)〜9月24日(月・祝)
会場:東京国立近代美術館 ギャラリー4(2階)
時間:10:00-17:00(金・土曜は20:00まで)
休館:月曜(7月16日、9月17日、9月24日は開館)、7月17日、9月18日
出品作家:赤瀬川原平/浅原清隆/荒川修作/アンリ・ミショー/イヴ・タンギー/ウジェーヌ・アジェ/瑛九/大辻清司/岡崎和郎/加納光於/河原温/北代省三/北脇昇/ジョアン・ミロ/ジョゼフ・コーネル/瀧口修造/ポール・セザンヌ/ルーチョ・フォンターナ/浜田浜雄/福沢一郎/マックス・エルンスト/野中ユリ/福島秀子/山口勝弘

開催概要
 美術評論家・詩人の瀧口修造(1903-1979)は日本にシュルレアリスムを紹介し、また批評活動を通して若手作家を応援し続けたことで知られています。そして彼自身もドローイングやデカルコマニーなどの造形作品を数多く残しました。この小企画では、当館コレクションより、瀧口自身の作品13点に加え、彼が関心を寄せた作家たちの作品もあわせてご紹介します。とはいえ、これはシュルレアリスム展ではありません。瀧口が関心をもって見つめた作家たちが、どのように「もの」(物質/物体/オブジェ)と向き合ったかに着目しながら、作品を集めてみました。彼らの「もの」の扱い方は実にさまざまです。日常の文脈から切り離してみたり、イマジネーションをふくらませる媒介としたり、ただ単純にその存在の不思議をあらためて見つめなおしたり……。そうした多様な作品のどのような点に瀧口は惹かれたのかを考えながら、彼の視線を追体験してみましょう。そして、瀧口自身の作品で試みられている、言葉の限界の先にあるものに思いを巡らせてみましょう。


「連続ミニレクチャー 瀧口修造をもっと知るための五夜」(入場無料)
講 師:大谷省吾(美術課長・本展企画者)
時 間:各回とも18:30-19:00
場 所:地下1階講堂
第一夜:7月27日(金)「瀧口修造と“物質”」
第二夜:8月10日(金)「瀧口修造とデカルコマニー」
第三夜:8月24日(金)「瀧口修造と瀧口綾子」
第四夜:9月 7日(金)「瀧口修造と帝国美術学校の学生たち」
第五夜:9月21日(金)「瀧口修造と福沢一郎」
〜〜〜〜
●今日のお勧め作品は、瑛九です。
おすすめqei17-024瑛九 Q Ei
『眠りの理由』(10点組)より
from "Reason of Sleep"
1936年
フォトデッサン(フォトグラム)
26.7×21.7cm
Ed.40
※9点セット

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
12

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第23回

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第23回

埼玉県立近代美術館「モダンアート再訪 ダリ、ウォーホルから草間彌生まで 福岡市美術館コレクション展」

今回の訪問先は、福岡市美術館のコレクションが展示されている埼玉県立近代美術館。記憶に新しい現代版画センターの「版画の景色」展の熱がまだ冷めやらぬ会場に、再び熱を帯びた作品が並べられていた。16,000点余りの福岡市美術館のコレクションの中でも、1930年代から2000年代初頭に制作された70点の作品が選出された。展示構成は、「第1章 夢の中からだ」「第2章 不章 不穏な身体」「第3章 身体と物質―九州派・具体・アンフォルメル」「第4章 転用されるイメージ―ポップ・アートとその周辺」「第5章 イメージの消失―抽象と事物」「第6章 再来するイメージ」の6本立てであり、昭和戦前期から戦後のアートの流れを俯瞰してみることができる。出品された作品は、シュルレアリスム、ルポルタージュ絵画、具体、九州派、アンフォルメル、抽象表現主義、ミニマル・アート、ハプニング、ネオ・ダダ、ポップ・アート、グラフィティ・アート、ニュー・ペインティングなどで名を馳せた作家でかためられ、教科書が作れるくらいに充実していることがわかる。その中には、作家の代表作のひとつに数えることが出来る作品も含まれ、誰もが一目みて、目を輝かせてしまうような作品に出会える。

今回、取材にご協力いただいた埼玉県立近代美術館の学芸員吉岡知子氏によると、福岡市美術館は、2016年から2019年のあいだ大幅なリニューアルで改修工事を実施するために休館中で、その間、コレクションの一部を日本各地で公開することになったようである。

埼玉県立近代美術館01埼玉県立近代美術館がある北浦和公園入口。平日にもかかわらず、園内には、新緑を浴びる人たちが集まっていた。


埼玉県立近代美術館02会場に入ると、フジタ、シャガール、ミロ、デルヴォ―、ダリの作品が見える。向かって左側にある三岸好太郎《海と斜光》では、画面に収まりきっていない女性像(断片)が表現されている。瑛九は、三岸好太郎の亡き後、アトリエに訪問したことがあり、好太郎のデッサン約二十枚を自作のデッサンと交換している。宿を転々としていたころに部屋に貼りだして眺めていたようだが、久保貞次郎に2点預けた他は、散逸したようである。恐らく、一部の作品は、生活に困ってお金に換えたのではないかと想像する。(『瑛九―評伝と作品』)


埼玉県立近代美術館03河原温《孕んだ女(下図)》は、「浴室」シリーズのエスキースである。瑛九の妻都によると、河原温は瑛九に議論で勝つことが出来ず、部屋の片隅で泣いていた頃、この「浴室」シリーズが出来たという。(『版画芸術』No.112)


埼玉県立近代美術館04九州派のコーナー。菊畑の著書によると九州派のメンバーは、コールタールを煮やして、黒々としたそれを画面に塗布している。(『反芸術綺談』)
盛り上がった黒光りする物体をみると、まるで狂言「附子」の猛毒を想起させるような、はたまた「千と千尋の神隠し」に登場するカオナシのような不気味さがある。写真図版では見られない作品のマチエールを会場でぜひ確認して欲しい。


埼玉県立近代美術館05菊畑茂久馬《葬送曲No.2》部分。赤い顔をした幼児のイメージが反復して画面を覆い尽くす。


埼玉県立近代美術館06九州派の作品は、時代と共に行方不明になっていたが、黒ダライ児による調査がはじまり(『肉体のアナーキズム』)、その後、福岡市美術館で1988年から定期的に九州派の展覧会が企画され、2015年に行われた九州派展では、300頁を超す研究成果が『九州派大全』というかたちとなった。

埼玉県立近代美術館07マーク・トビー《収穫》、アントニ・タピエス《絵画No.XX察


埼玉県立近代美術館08具体美術協会の吉原治良田中敦子白髪一雄の作品が並ぶコーナー。

埼玉県立近代美術館09風倉匠《ピアノ狂詩曲6-97.P3》、パフォーマンスで使用された鞭と記録映像があるコーナー。映像では、鞭で打たれたグランドピアノがゴーン、ボーン、ビロンと唸っていた。高価なモノを痛めつけている異様な光景に、鑑賞者は釘付けとなって、しばらくその場を離れることが出来なくなっていた。


埼玉県立近代美術館10菊畑茂久馬《ルーレットNo.1》。菊畑は、南画廊で制作費の援助を受け、アトリエについては1963年に田中繁一、1964年に浅川邦夫から借りて「ルーレット」シリーズを制作している。九州派は破天荒な活動を次々に展開し、周囲からは「何を見せてくれるのか」という好奇な目で見られていたに違いない。


ところで、福岡市美術館のコレクション形成はどのように行われてきたのか。本展の図録には、以下のような記述が見受けられた。

(1)近代の西日本出身者や関係の深い作家の絵画・彫刻・工芸作品を系統的に収集し、合わせて各種の関係美術資料を収集する。
(2)近代美術の流れを展望できる内外のすぐれた作品を系統的に収集する。
(3)西日本に関係の深い近世以前の作品を収集する。

以上、このような方針でコレクションが形成されていることから、九州(宮崎県)の出身者である瑛九の作品は、(1)西日本出身者として収蔵の対象とされている。

埼玉県立近代美術館11瑛九《丸2》1958年、油彩・画布
本作は「第5章 イメージの消失―抽象と事物」の中で紹介されている。具象的な表現が見られた油絵から一転して、点描法に至る少し前の作品である。膨張色(進出色)である暖色系と収縮色(後退色)である寒色系を画面上で効果的にちりばめている。


埼玉県立近代美術館12《丸2》のサイン部分。左下に「Q Ei 1958」とある。近付いてみると、キャンバス地が見えるほど薄塗であることがわかる。瑛九は、複雑に混色をし、実験的に絵筆を置いているが、画面は濁らず、むしろ透明感が備わっている。瑛九は一部の美術評論家から「色彩家」と称されるほど、色遣いに長けた人物であった。


ところで、瑛九(杉田秀夫)の上京時と九州派の菊畑茂久馬の上京時の様子が時代は隔たるが若干重なるところがあった。両者とも、とっておきの新作(爆弾)を抱えて、東京に向かったことを紹介しておきたい。
瑛九は、1936年1月、古賀春江の作品に触発されてから、フミタ写真館で大量のフォトグラムを数週間で作り上げる。2月7日には、約百点のフォト・デッサンと、描きためていたペンデッサンをスーツケースにつめて、門司行の夜行列車に乗ったという。
一方の菊畑茂久馬は、1961年4月12日から国立近代美術館で行われる「現代美術の実験展」に《奴隷系図》を出品するために上京している。福岡中の銀行を回ってかき集めた十万円分の五円玉を丸太に貼り付け、五万円くらいになった袋を担いで夜行列車に乗ったという。
九州男児ならではの気質なのだろうか。両者とも次々と新しい表現に取り組み、周りを驚かせていた。

埼玉県立近代美術館13アンディ・ウォーホル《エルヴィス》、草間彌生《夏(1)》《夏(2)》


埼玉県立近代美術館14タイガー立石《大停電’66》、柳幸典《二つの中国》。蟻が巣を作る能力を利用して作られた、ユニークでメッセージ性の強い柳の作品。


埼玉県立近代美術館15ルイ・カーヌ、クロード・ヴィアラ、ジグマール・ポルケの作品があるコーナー。吉岡学芸員は、とにかく作品の大きさに驚いたという。2mを超す作品はざらにあり、中には3mを超える作品も展示されている。

埼玉県立近代美術館16マーク・ロスコ、桑山忠明、フランク・ステラの作品。国内外の作品が同じ空間に並べられているが、それほど違和感がない。


埼玉県立近代美術館17辰野登恵子、大竹伸朗の作品。両者とも海外のアートシーンを彩る巨匠たちに見劣りすることなく、展示室で異彩を放っていた。


埼玉県立近代美術館18リサ・ミルロイ、バスキア、やなぎみわ、金村修の作品が展示されているコーナー。


本展を通してみると、1979年に美術館が開館して以来、継続的に収集されていることが分かる。市立ではあるが、西日本および国内外の重要な作品を体系的に収集するための作品購入資金が継続的に確保されているようである。どこの美術館博物館でも作品購入資金は、無いものと頭にあったために非常に驚いた。また、コレクションの形成に挙げられている収集の三本柱に(1)のように、地元(西日本含む)の作品を積極的に収集していること、またそれと併せて「各種の関係美術資料」も収集の対象となっていることにも注目したい。先にも挙げたように、近年行われた九州派の展覧会図録『九州派大全』では、作品ばかりでなく、資料編の方もたいへん充実している。例えば、機関誌、案内状、ビラ、音声の記録のほか、美術評論などが収録されている。

なお、もうひとつ目を見張ったのは、アメリカ絵画の主要作家が網羅されていることである。1982年に開館した埼玉県立近代美術館では、印象派、エコール・ド・パリのコレクションが厚みをもってコレクションされているが、福岡市美術館では、1979年に開館したにもかかわらず、戦後のアメリカ絵画を早い段階から収蔵していることが分かる。吉岡学芸員は、一歩も二歩も歩みを進めている福岡市美術館について「先見の明がある」と評していた。

本展企画者のひとり尾崎信一郎(鳥取県立博物館副館長兼美術振興課長)の論考を見ると、第二次世界大戦の前後で強調されはじめた「身体」の表現に着目し、次のように語っている「表象される対象から表象する主体へ、作家たちの関心は表現された内容、描かれた身体ではなく、表現の形式、すなわち描く身体へとむけられているのだ。作家の行為が強調される時、行為を受肉する絵画の物質性への関心も深められた。」(本展図録「モダンアート再訪」)

確かに本展の作品を鑑賞していると、「身体」の存在や表現された行為の跡(物質性)が視界に入り、視覚からその作品のマチエールが皮膚感覚として受取ることになる。例えば、三岸好太郎の全身が見えない女性像、河原温のバラバラになった身体表現、白髪一雄の足で描かれた絵画、瑛九の油絵では大小さまざまな色彩の異なる「丸」のイメージを変容させることで現れてくるイリュージョンなど。よりリアルな表現形式を追い求めていくことで、作家個人(集団)による感覚は研ぎ澄まされていき、「小さな物語り」が紡ぎ出されるほどの個性的な表現となる。

福岡市美術館は、短いスパンで変化するモダンアートの動向を見逃さずに作品を収集することが出来ている。コレクションの豊かさを考えた時に、やはり政令指定都市になった時期が関係しているのではないかと思う。福岡市は1972年4月1日に政令指定都市に制定されており、これは全国で札幌や川崎と並ぶ7番目という速さである。1956年9月1日の1番手に並ぶ横浜、名古屋、京都、大阪をみると認めざるを得ないだろう。どこも大コレクションを持つ美術館を保有する都市である。美術のコレクション数と人の豊かさが比例するとは言い切れないが、大コレクションの公開は、多くの人の目を愉しませることのできるパワーを持っているということを、改めて認識させられた展覧会であった。

***

ちょっと寄道…


今回の展示では、福岡市美術館所蔵の大コレクションの中で瑛九の作品は1点のみの出品であった。しかし、『福岡市美術館所蔵品目録 日本作家・海外作家』(1979年)を開くと、瑛九の作品、特にフォト・デッサンを多数所蔵されていることがわかる。

油彩1点
水彩14点
インク7点
コンテ1点
エッチング(後刷り含む)73点
フォト・デッサン45点
リトグラフ15点 
全156点

埼玉県立近代美術館19こちらは、福岡市美術館で1982年2月2日 〜2月28日に行われた「フォトグラム展」の図録。瑛九、マン・レイ、モホリ=ナギ、山口正城の作品が一堂に会した。瑛九の作品は、《コンストラクション》《プレリュード》《自転車》を含むフォト・デッサン18点が展示された。
なお、それ以前の1978年9月12日〜9月21日には、福岡市アートギャラリーを会場にした「瑛九フォト・デッサン展」が福岡市美術館協会により行われた。1979年に美術館が開館する一年前に展覧会を開いて実績を重ねていたのである。




福岡市美術館のコレクションを取材するに当たり、九州に思いを馳せていた頃であった。4月5日に鈴木素直氏がお亡くなりになった。故人は高校生の時に瑛九からエスペラント語を学び、後には「宮崎瑛九の会」事務局長として瑛九の顕彰に生涯をささげた方である。盲・小・中学校教師・詩人・日本野鳥の会宮崎県支部長などを歴任していた。

埼玉県立近代美術館202011年宮崎県訪問時に案内していただいた一ツ葉の海岸付近。瑛九の自宅から一番近い海であり、初期の海辺の絵はここからの眺めだと教えていただいた。真夏の海辺に足を踏み入れると、靴の底がみるみる熱くなるのを感じた。フライパンのように熱い砂地に目を落として、その先に雑草が根をはっていることを不思議に思っていると、帽子をかぶっていなかった私に「コウモリはあるか」と心配して声を掛けていただいた。私はカバンに入れていた携帯用の日傘を慌てて開いて、するすると先を歩く鈴木氏の後を追ったのを鮮明に覚えている。瑛九が生活していた頃には無かったという漁港の加工場に伺うと、地元の方から冷えたジュースをごちそうになった。


埼玉県立近代美術館21瑛九が眠る杉田家の墓を訪れたときの写真。埃をはらって、花を供えて、一緒に手を合わせた。病気をする前のまだまだ若々しい姿の鈴木素直氏である。


埼玉県立近代美術館222018年1月に宮崎へ訪問した時に案内していただいた宮崎小学校。瑛九と鈴木氏の母校である。この時は、「遺影にするから写真を撮って欲しい。姉に送りたいから」と歯を見せて笑っていた。


鈴木素直氏には、2度も瑛九ゆかりの地を案内していただいた。瑛九が県外から来た人に案内していたという大淀川の河川敷の場所。遠くに見える霧島連峰の方角。瑛九が大の字になって寝転がっていたという交差点など、鈴木氏は間近で見ていた瑛九の姿を矢継ぎ早に思い出しては語って聞かせてくれた。

宮崎で鈴木氏と食事をご一緒していた時、多くの人に話しかけられている様子を目の当たりにした。人望が厚く、気さくで親しみやすいことが滲み出ているような人であった。
誠に残念ですが、ご冥福をお祈りいたします。
なかむら まき

●展覧会のご紹介
20180206141115_00001


20180206141115_00002

「モダンアート再訪 福岡市美術館コレクション展」
会期:2018年4月7日[土]〜5月20日[日]
会場:埼玉県立近代美術館
時間:10:00〜17:30(入場は17:00まで)
休館:月曜(但し4月30日は開館)

20世紀美術は様々な美術運動の消長の歴史ととらえることができます。印象派に始まり、エコール・ド・パリ、シュルレアリスムから一連の抽象画にいたる流れは主にヨーロッパで育まれ、広い意味でモダンアートと呼ばれています。
そして第二次大戦後、モダンアートの舞台はヨーロッパからアメリカに移り、巨大な抽象絵画やポップアートといった新たな成果を生み出しました。日本でもこれらの動向に呼応する作品が制作される一方、明らかにそこから逸脱する作品も生み出されました。明治以降、日本において欧米の美術がいかに受容され、いかなる変容を遂げたかという問題は日本の近代美術史を論じるにあたって興味深い主題です。
1979年に開館した福岡市美術館は近現代美術と古美術を二つの柱とする16,000点に及ぶコレクションによって知られています。2019年のリニューアルオープンに向けて、美術館が大規模な改修工事に入ったことを得難い機会として、この展覧会では福岡市美術館が所蔵する近現代美術のコレクションによって、モダンアートの歴史をあらためてたどりたいと考えます。
ダリやウォーホルから草間彌生まで、ヨーロッパとアメリカ、そして日本のモダンアートを代表する優品70点あまりの魅力をお楽しみ下さい。
埼玉県立近代美術館HPより転載)

出品作家:赤瀬川原平/アルマン/アンディ・ウォーホル/アントニ・タピエス/イヴ・クライン/池田龍雄/石橋泰幸/瑛九/榎倉康二/海老原喜之助/大竹伸朗/オチオサム/尾花成春/風倉匠/金村修/河原温/菊畑茂久馬/草間彌生/工藤哲巳/クロード・ヴィアラ/桑山忠明/桜井孝身/サルバドール・ダリ/篠原有司男/ジグマール・ポルケ/嶋本昭三/ジャン・デュビュッフェ/ジャン・フォートリエ/ジャン=ミシェル・バスキア/ジョアン・ミロ/白髪一雄/タイガー立石/辰野登恵子/田中敦子/田部光子/中村宏/野見山暁治/原口典之/藤野一友/フランク・ステラ/ポール・デルヴォ―/マーク・トビー/マーク・ロスコ/松谷武判/マルク・シャガール/三岸好太郎/向井修二/元永定正/リサ・ミルロイ/ルイ・カーヌ/ルチオ・フォンタナ/ロイ・リキテンシュタイン/ロバート・ラウシェンバーグ/山崎直秀/レオナール・フジタ(藤田嗣治)/やなぎみわ/柳幸典/山内重太郎/横尾忠則/吉原治良

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
12

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第22回

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第22回

埼玉県立近代美術館「版画の景色――現代版画センターの軌跡」


「現代版画センター」では、わずか11年の間で約80名の作家により700点あまりのエディションが積み上げられたという。今回の訪問先である埼玉県立近代美術館の展示では、青山以前の綿貫氏らの活動を知る好機となったばかりか、久保貞次郎の思想が同センターの人たちの中にミームとなって受け継がれ、それがまた多く美術家やそのコレクターのもとに届いていることを知った。「熱中せよ!」と、生前の久保貞次郎が教え子に言っていた言葉のとおり、展示室のそこかしこには、良い作家を全力で紹介しようとする、熱気に包まれていた。本展では、現代版画センターの活動の一部として、学芸員の選りすぐりの45名の作家が紹介された。

埼玉県立近代美術館01埼玉県立近代美術館入口。この日はあいにく曇り空であったが、格子状の建物と窓ガラスにやわらかな光が差しこみ、見事に調和していた。

埼玉県立近代美術館02展示室入口。グレーを基調としている今回の展覧会。図録をはじめ、ヴィジュアル・ブックの地色も同じくグレーである。版画の余白部分に入れられるサインやエディションなどをトリミングせずによく見せるためであろう。出品目録も版画に特化した仕様で、刷り師の名が加えられ、サインも自筆・スタンプ・刷り込みかどうかの違いまで分かるようになっている。コレクターや玄人好みの体裁で、非常に良くできていると思う。

埼玉県立近代美術館03入口をはいってすぐ、靉嘔の作品が展示されている。先陣を切る意味合いを含むアーティスト名で、期待を裏切らない定位置と華やかさに心が躍った。《虹の花》は、岡部徳三による刷りである。靉嘔の虹色のシルクスクリーンは、この人物あっての作品ともいわれるほどで、NYまで同行したことがあったという。展示の中盤のガラスケースにも《花の時間》などがあることから、同センターと靉嘔の付き合いの深さや彼の活躍ぶりを窺い知ることが出来る。

埼玉県立近代美術館04オノサト・トシノブのシルクスクリーン。
瑛九とは宮崎時代から長く付き合っている人物である。オノサトの作品も、安定的にコレクターが付いている作家のひとりである。オノサトもまた靉嘔と同様に展示は二ヵ所にあった。

埼玉県立近代美術館05関根伸夫が展示されているコーナー。もの派として活躍する中で、同センターを通じて制作された作品や活動もあった。《絵空事―風船》は、シルクスクリーンであるが、一部手彩色で一点ものの作品というニュアンスを含む。なお、プロジェクターで映し出された映像には、若かりし頃の関根の姿が見られるため、立ち止まって観てほしい。

埼玉県立近代美術館06『画譜』第3号特装版に添えられた戸張孤雁の後刷り。「新版画」を掲げたり、頒布会を開いたり、さらにアメリカ留学を果たした気高い人物である。若くして病に倒れ、その才能が惜しまれた。版画の普及活動も行っていた孤雁に対する尊敬の念もあったのだろう。


埼玉県立近代美術館07同センターで刊行された『版画ニュース』や『print communication』がファイリングされているコーナー。実際に手に取って読むことが出来る。展覧会、オークション、講演会、シンポジウムなど様々な活動が行われていたことが分かる。


展示を担当した埼玉県立近代美術館学芸員の梅津元によると、この展覧会の準備のために約3年を掛けて聞き取り調査と、次々と出てくる膨大な作品や史料と対峙をされたという。一見すると、奇を衒った印象を持つ企画展ではあるが、そもそも、従来の展覧会という枠組みでは納まり難い、圧倒的な情報と作品の質量であったため、結果として今の形に辿りついたと梅津氏は語った。確かに、作品の傾向を紐解くと、そこには、版画家だけでなく、画家、彫刻家、建築家、工芸家、映像作家までも制作していて、セットものの作品が数十点出品されている作家がいれば、1・2点しか出品していない作家までもいて、大小さまざまな形態である。また、質に着目すれば、加山又造のような日本画の作家の他、もの派、具体、デモクラート、自由美術、フルクサスなど、まさに多種多様な作家の作品が同じ展示室内に並べられているのである。作品ひとつを見ても、各々力のある独特の世界観を宿しているが、「現代版画センター」が中心に据えられていることで、個々の作品が独り歩きすることも、衝突することもなく、一括りの対象物として鑑賞できるようになっていた。作品の展示は、非常に気をつかったようで、アートフェアのように細かく区切られたブースが、一作家の個性を引き立たせていた。版画を中心した作品展とは思えないほど、躍動的でエネルギーに満ちていた。

埼玉県立近代美術館08島州一の作品。ジャンパー、ジーンズ、チェ・ゲバラをモチーフにしている作品もある。


埼玉県立近代美術館09(寄託含む)建築家磯崎新の作品。


埼玉県立近代美術館10菅井汲の作品。34点という本展で随一の出品数を誇る。さまざまなパターンの色面が和音を響かせながら変容する作品群で、ひとつひとつのメロディーをたどってゆくと、徐々に心が湧きたってくるような感覚があった。


埼玉県立近代美術館11山口勝弘の版画集『ANTHOLOGICAL PARINTS 1954-1981』に収録された作品。


「現代版画センター」を企画展として形成するために、梅津氏は次の3本の柱を立てたという。それは、「メーカーとしての現代版画センター」「オーガナイザーとしての現代版画センター」「パブリッシャーとしての現代版画センター」の3本である。「メーカー」としての活動は、オリジナル・エディションの制作と展覧会および頒布会であり、「パブリッシャー」としては、エディションの総目録をはじめニュースなどの刊行物の発行をしていたこと、「オーガナイザー」としては、数々の事業を自発的に行ってきたということを俯瞰してみることで浮かび上がったことで、展覧会では年譜や見取り図などでその影響力のほどを知ることができる。これは、三部構成となっている本展の図録にも「テキスト・ブック」「ヴィジュアル・ブック」「アトラス」というかたちで反映されている。要するに、現代版画センターが担った「メーカー」「パブリッシャー」「オーガナイザー」という3つの役割によって、作家だけではなく、コレクター、評論家、画廊、美術館、出版社とその他の異業種の者が分け隔てなく関わりあうことができて、それが結果として美術普及という大きな役割を果たしていたのである。まるで、台風の目のようだ。豪雨と強風により爪痕を残し、過ぎ去った後の空を仰ぐと雲一つない眩しいくらいの光で目の裏に残像をつくった。権力的・物質的なことだけではない「美術作品」を所有するという意味は、実に深いところから形成されていることを学んだ。

埼玉県立近代美術館12難波田龍起の作品。生前は瑛九を知る人物のひとりであった。


埼玉県立近代美術館13北川民次の作品。民次と次に紹介する瑛九、駒井哲郎の3作家は、現代版画センターのオリジナル・エディションではなく、特別にコレクション作品として展示している。


埼玉県立近代美術館14瑛九《海辺の孤独》1957年、リトグラフ、左下に鉛筆で「20/35」と右下に「Q Ei」のサインあり。


埼玉県立近代美術館15上の作品は、瑛九《離陸》1957年、リトグラフ、左下に鉛筆で「Epreuve d artiste」と右下に「Q Ei/57」あり。下の作品は、《着陸》1957年、リトグラフ、鉛筆により左下「1/20」と右下「Q Ei/57」とあり。


埼玉県立近代美術館16上から瑛九《作品2(works2 Yellow and Green)》1950年頃、木版、《作品1(works1 Yellow)》1950年頃、木版。
ともにインクで「瑛九作 谷口都」とあり。谷口都は、瑛九のパートナーである。瑛九が48歳という若さで逝去したあと、サインの無い作品にこのような署名をいれて、美術館や知人に預けた。

埼玉県立近代美術館17駒井哲郎の作品。

オリジナル・エディションではない3作家である北川民次、瑛九、駒井哲郎が本展に含まれているのは、その根底に好きな作家を後世に伝えるという意思とコレクターとして作品を所有する喜びを伝える上で、欠くことのできない存在なのだろう。

一方、現代版画センターがこれらの運動の軸としていた「オリジナル・エディション」づくりには、誰に版画制作の依頼をするかの会議を開き、様々な人に意見を募って決めていたという。この制作側と鑑賞者側(コレクター)が接点を持つ切っ掛けを「作品」を通じてつくるスタイルは、久保貞次郎が行っていた「小コレクター運動」が元になっていたと考えられ、梅津氏はこの運動が現代版画センターにスピリットとなって宿っているという。

ところで、小コレクター運動が本格始動するのは、1958(昭和33)年5月に真岡市の久保貞次郎邸で行われたのを第一回目とされているが、実はその一年前の1957年6月に「版画友の会」が発足し、頒布会が行われている。おそらく、これで手応えを感じ、継続的な運動へ発展することになったのであろう。丁度、久保が企てた小コレクター運動発足前の「会議」の様子を窺える書簡があるため、以下に紹介したい。

12月27日の夜、浦和の武さし野荘に、画家、蒐集家などのメンバーが集まり、良い画家を育てる方法とか、絵を集める話など、皆で一晩話し会いたいと云うプランをたてました。/27日の夜武さし野荘に10人位泊れるかどうか都合を聞いて、岩瀬さん宛返事を知らせて下さい。宿泊の金額も、その時知らせて下さいませんか。/大変ごめんどうなお願いですがよろしくお願いします。宿舎がOKなら通知はぼくの方でだします。その通知の時に印刷物に、発起人として、あなたとぼくの名前を使いたいと思いますが、よろしいでしょうか。要項は次の通りです。
…銘里鮟个好瓮鵐弌
アイオー、池田〔満寿夫〕、磯辺〔行久〕、木村利三郎、瑛九、尾崎〔正教〕、野々目〔桂三〕、大野〔元明〕、高森〔俊〕、砂山、ミセス野々目、岩瀬〔久江〕、長尾、高山和孝、伊藤善〔市〕、島崎〔清海〕、久保〔貞次郎〕、片岡(新潮社有望なる蒐集家の卵)
期日  12月27日午後1時〜28日昼解散
H駘僉 ―蒜馮饉己負担、会費150円
ぅ董璽沺〆廼瓩両霾鷂魎控擇啌┣茲僚集についての話し合い
ソ仞兵圓僚君に見せたい作品があったら、ご持参下さい。
以上の通りです。どうぞよろしくおねがいいたします。返事は折り返し至急お願いします。
久保貞次郎
m ikeda〔池田満寿夫〕
磯辺行久
岩瀬久江

(1957年12月20日付、久保貞次郎書簡より)※〔 〕は筆者による



上記のなかには、現代版画センターの創立に関わり、わたくし美術館運動を提唱した尾崎正教の名前があり、瑛九、池田満寿夫磯辺行久、靉嘔、木村利三郎の名前も確認することができる。この「武さし野荘」とは、浦和市常磐町(現在のひなぎく幼稚園のあたり)にあった公立学校共済組合による宿泊施設である。瑛九が浦和に移り住みついたころから、久保は、創造美育協会事務局を瑛九宅として、島崎清海を通じて重要な会議の場に武蔵野荘を選んでいた。小コレクターの会を発足するために話し合われた場が、埼玉県立近代美術館と同じ町内(常盤)というのは、やはりスピリットとしてこの土地に依拠しているからかもしれない。現代版画センターは、このような久保貞次郎の意志を引き継いだ持続可能な活動拠点となったことで、安定した作家支援と美術普及の形を実現した。

埼玉県立近代美術館18大沢昌助《机上の空論 黒》《机上の空論 赤》1982年、リトグラフ。
菅井汲竹田鎮三郎などの刷りも担当した森仁志(森版画工房)によるもの。世界最大級のプレス機を入れた2年後に制作された横2mを超す作品である。

埼玉県立近代美術館19右が内間安瑆の木版、左3点は藤江民のリトグラフである。共に版画とは思えないほど、色の表情が豊かである。


埼玉県立近代美術館20彫刻家舟越保武の石版画集に収録された作品。


埼玉県立近代美術館21資料閲覧および休憩スペース。展示室内に現代版画センターの関係資料が設置されているところは、3か所もあった。


埼玉県立近代美術館22柳澤紀子の銅版画。手彩色が施されている。


埼玉県立近代美術館23草間彌生の作品が展示されている風景。


埼玉県立近代美術館24建築家安藤忠雄のシルクスクリーン。


埼玉県立近代美術館25アンディ・ウォーホルのシルクスクリーンと1983年に行われた展覧会ポスターが展示されている。


埼玉県立近代美術館26映画作家ジョナス・メカスの作品。展覧会実行委員会との共同エディション。
常に新しいイメージを追い求め、新しい試みに挑戦していたことがわかる。

梅津氏によると、展覧会が始まると、当時勤めていた同センターのスタッフがあちこちから集まり、同窓会のように喜んでいたという。また、私のように当時を知らない鑑賞者は、ここまで熱く、ダイナミックな活動を展開していたことに驚く声も多かったという。

それから、本展図録の「A.テキスト・ブック」には、梅津元氏の論考に加え、細かく丁寧に取られた基本情報が収録されている。コレクターや初心者でも親しみ易い体裁にまとまっていて、『現代版画センターニュース』をはじめとする主要刊行物の総目録は、手元に置いておきたいものである。では、最後に1974年現代版画センターの創立後ほどなくして『版画センターニュース』(Vol.1,No.6、1975年7月20日)に掲載されていた「没後15年先駆者瑛九を囲む人々展」の開催文を下記に引用したい。

瑛九とはそもそも何者なのでしょう。瑛九には多くの友人と呼ばれる人、そして多くの弟子と伝える人々がいました。彼らは瑛九から学び、瑛九に何かを教えた人々です。その多彩な人間関係の中に、あのドロドロとした、洗練という言葉からは程遠い作品群があり、人間瑛九をめぐるドラマに尽きない興味が湧いて来るのは何故でしょう。靉嘔はじめ池田満寿夫、磯辺行久ら瑛九の教える人達のそのはじまりは、瑛九のタッチそのままであり、その後彼らは、各々の道を歩みながら着実にその世界を築いて行きました。作家瑛九は、同時に教育者、指導者瑛九でもあったわけです。

本展は、「現代版画センター」の活動全体を45名の作品から見るものであり、瑛九が特別に扱われていたわけではない。しかし、上記のように同センターの刊行物を参照すると、活動の起爆装置として、瑛九が挙げられていたことがわかる。この他にも尾崎正教、針生一郎、ヨシダ・ヨシエ、細江英公、北川フラム、難波田龍起などによる瑛九の関連記事が認められ、また、「ギャラリー方寸」のオープン企画も瑛九であったことも付け加えておきたい。(http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53192197.html

***

ちょっと寄道…


今回の取材先は版画に特化した展覧会であり、埼玉であることから、以前から伺いたいと思っていた金森茂のご遺族のところにおじゃました。瑛九が旧浦和市に越してきて、リトグラフ(石版画)を学んだのが常磐町1丁目にあった金森茂の印刷工場であった。金森茂(1911年8月12日〜1976年6月27日)は東京に生まれ、もとは京橋の印刷屋に勤めていた。太平洋戦争で焼け落ちたあと、浦和に疎開し、そのまま工場の拠点とした。

埼玉県立近代美術館27瑛九のアトリエとゆかりの地。瑛九は1951年9月〜1952年2月までは、仲町の関口留吉の借家に住み、1952年3月からは本太に戸建てのアトリエに落ち着き、晩年をここで過ごした。線路を挟んで、現在のうらわ幼稚園向かいのマンションあたりに金森茂の印刷工場があった。金森と知り合った翌年の1957年には、寺内萬治郎らによって進められた美術館建設運動が功を奏し、別所沼のほとりには「埼玉県立美術館」が開館している。建設前から行われていた埼玉県展では、瑛九が審査員に加わっていることから、美術館建設に向けて何らかの形で協力、もしくは作品の展示計画があった可能性も考えられる。なお、久保貞次郎の書簡にあった「武蔵野荘」の位置はポイントしたところで、都夫人が買い物にいっていた「太陽堂薬局」「魚屋(魚徳 新井)」や浦和での初の個展会場「コバルト画房」は、それぞれ店構えが変わっているものの現存している。浦和には、戦前から美術家が集まりはじめて、活動しやすい環境作りが地元美術家や美術教師によって行われていた。瑛九にとっても浦和での生活は、充実していたことが窺える。
(出典:山田志麻子「瑛九のアトリエ――浦和での足跡をたどって」、『公済時報』12巻5号、参考:「浦和市全図」1958年)


瑛九は、1956年3月頃から工場に来るようになった。そのきっかけを与えたのは、瑛九と共著(『やさしい銅版画の作り方』1956年、門書店)を執筆した美術教師島崎清海の紹介であった。瑛九は、昼過ぎくらいにいつも妻都を連れ立って工場に現れたという。金森茂は、名刺や賞状などの印刷の依頼を受けていた職人で、美術関係に通じる仕事はしていない。そのため、工場では、口数の多い方でもない金森から特別に瑛九が教わっている様子ではなかった。瑛九は、黙々と作業をする金森の背中を見て、技術を学んでいたようである。瑛九も特に話しかける様子もなく、お互い無口だった。瑛九は、2・3人の職人が仕事をしている横で、自身の制作の機会を伺っているようでもあったという。制作中、都は現場を見るわけでもなく、金森の妻と奥の掘り炬燵に入って「おしゃべり」を楽しんでいたという。また、瑛九と都は、時々金森家でご飯を食べて帰る家族ぐるみの付き合いをしていた。巨大な口のようなイメージのリトグラフ《拡声器》《森の中》《大喰い》は、金森家に足を運んで着想を得たのかもしれない。

話を伺っていた中で、特に気になったのは、金森茂がたとえ中古であっても仕事道具の石板を譲るつもりになったことである。出会ってすぐに譲ったわけではないことから、瑛九のリトグラフに対する真摯な姿勢を認めたからではないかと想像する。瑛九が福井の美術教師木水育夫に送った書簡の中では、熱っぽく自らを「リト病」「職人のよう」と表現するほど、リトグラフにのめり込んでいた時期である。

埼玉県立近代美術館28金森茂のご遺族が所蔵するエッチング1点とリトグラフ2点。右上《赤いシグナル》1956年、リトグラフ、左下「7/10」、裏に「瑛九内 谷口都」サイン
右下は、《鳥と女》後刷り、エッチング、1953制作(版画集『瑛九・銅版画 SCALE II』1975)、鉛筆で左下に「48/60」と右下にスタンプサイン、裏に「瑛九内 谷口都」サイン
《太陽の下で》1956年、リトグラフ、左下に「5/14」、裏に「瑛九内 谷口都」サイン


調査には、長女久枝氏と孫孝司氏にご協力いただいた。また、今回は、金森茂の調査から突然に瑛九のアトリエの話に大きく飛躍し、特別にアトリエにも訪問することとなった。

埼玉県立近代美術館29瑛九のアトリエ兼住宅の外観。
孝司氏は、瑛九に会ったことは無かったが、小さい頃、犬に会うために来ていたという。瑛九はもともと犬嫌いであったが、犬の本を読んだら克服できて、犬を飼うようになった。

埼玉県立近代美術館30表から玄関に向かう敷石。
瑛九や池田満寿夫、靉嘔、細江英公、河原温、磯辺行久等も歩いたのだろう。

埼玉県立近代美術館31「アトリエでくつろぐ瑛九」(出典:「思わず誰かに話したくなるアートの話 美のひととき展」)

埼玉県立近代美術館32宮崎県立美術館で作成されたアトリエ内の見取り図(出典:「思わず誰かに話したくなるアートの話 美のひととき展」)瑛九が使用していた画材道具などは、宮崎で保管されている。常設展には瑛九のコーナーが設置され、アトリエ内の再現展示を行うこともある。


埼玉県立近代美術館33現在の瑛九のアトリエ内部。瑛九の作品は一点もない。瑛九が逝去して58年が経過し、都夫人の居住空間になっている。展示で使用したであろうパネルを捨てずに立てかけているところをみると、都夫人は人を招いたときの解説用として使用していたのだろうか。また、瑛九のいないアトリエにならないために写真を置いて、寂しさを紛らわしているのかもしれない。


埼玉県立近代美術館34梁と壁面の間には、珍しい細工が施してある。真っすぐではない自然のままの木材も親しみやすくて良いと思った。


埼玉県立近代美術館35今回、撮影に同行いただいた久枝氏は、アトリエがじきに無くなると話していた。
お皿の網目模様が、瑛九のフォト・デッサンに入れられた模様と重なって見えた。光を通さない皿の模様が印画紙に写るわけはないが、困惑しながら瑛九の痕跡を探そうとシャッターを切った。
瑛九のアトリエについては、うらわ美術館学芸員の山田志麻子「瑛九のアトリエ――浦和での足跡をたどって」(『生誕100年記念瑛九展』2011)に詳しく書かれている。

埼玉県立近代美術館36この戸を開けると、すぐに庭が続いている。瑛九がいた頃、ここはよく開け放たれていた。久枝氏が若かったころ、瑛九のいるこの前を通るとき、緊張してしまい避けていたと語った。右側に設置されている蛇口は、フォト・デッサンを現像するときに使っていたようだ。

埼玉県立近代美術館37室内で手鏡が掛かっているのを見つけた。おそらく、瑛九の次のフォト・デッサンのモチーフになっていたものである。

埼玉県立近代美術館38《お化粧》1954年、フォト・デッサン、宮崎県立美術館蔵(出典:『瑛九フォト・デッサン展』2005)

瑛九のアトリエをこのまま取り壊してしまうのは惜しいと、長年思い続けていただけに、今回このような形で紹介できて良かったと思う。2011年の3館共同の「生誕100年記念瑛九展」開催時にも周りからの勧めもあって、意見を伺うためにあちこちの瑛九関係者を尋ね歩いたことがあった。元は手元に置いておくための記録だが、今回のアトリエの話題に関連するものとして、一部公開することにした。なお、都夫人の他はすべて名前を伏せ、プライベートに関わるところは割愛した。



瑛九のアトリエ保存に関する聞き取り> 
実施期間:2011年6月6日〜11月6日
2011年7月4日 谷口ミヤ子(瑛九夫人):アトリエを残すことは、賛成。本当なら茅葺き屋根のまま残しておきたかったと話す。屋根が傷んでから、本当は葺き直したかった。今は、瓦屋根になっている。アトリエには、池田満寿夫や靉嘔たちが来て、電車が無くなるギリギリまでおしゃべりしていて、いつも走って帰っていった。皆、若かったから、「私が食べさせなければいけない」と思って、都は自転車で野菜を安く売ってくれるところまで買いに行っていた。満寿夫は、珍しく生魚が食べられず、都が漬けた漬物は喜んで食べた。

その他、瑛九関係者及び瑛九の作品を扱う美術関係者11名:アトリエに関して聞き取りを行ったところ、概ね4本の課題があることがわかった。
仝⇒関係の明確化/⊇ね、移築、管理するための資金源/A反イ鼎り/こ萢冓法について。以下には、簡単にまとめたものを掲載する。

仝⇒関係の明確化
・現在、アトリエの所有者や権利関係は誰にあり、その後は、どこで所有することにするのか。遺族か、近所の世話人か、市・県か? 権利が遺族や世話人にあるのなら、解放して利用して良いか交渉する必要がある。
・敷地(アトリエ)が担保になっている可能性がある。
・瑛九のアトリエに関して、(他人が)動くべきではないのでは。
・今はプライバシーの関係で、個人に踏み込んで聞くことができない。そのため、所有権がどこにあるのかわからない。著作権については、以前、親族関係ではない人が持っていた。(数年前に切れている)
・谷口ミヤ子さんが万が一亡くなったとして、そのあとの所有者がはっきりしないと保存会も立ち上げられない。
・ミヤ子さんの世話人に事情を伺う必要がある。

⊇ね、移築、管理するための資金源
・おそらく、アトリエの運営・管理を行政に頼むと、断られるだろう。
・市や県は、財政上負担したくないはず。
・民間(ボランティア)で運営・管理するとして、行政には補助金や広報のバックアップを頼むなどの方法がある。ただし、民間で運営・管理を負担する場合、市・県には「土地利用」として申請することになり、商品等の販売ができなくなる。
・募金をつのる。アトリエの修復・維持管理費。また光熱・水道・人件費。これらを賄えるだけの資金が回収できるのか。
・埼玉が無理なら宮崎に移築してもいいのでは。
・アトリエにものがなく、都さんの生活した跡が色濃く残っている。もし、アトリエを開放するのであれば、瑛九が現存していた当時を再現しなければならない。
・宮崎県立美術館でアトリエを移築する計画があった。現在はわからない。
・アトリエを残すなら埼玉でしか意味をなさない。
・アトリエの状態がとても悪い。シロアリやネズミの被害がある。
・宮崎に移築する計画はあったが、県民の同意を得るのは、現状として難しく、動くことは不可能。
・「わの会」に瑛九の作品を所有するコレクターがいて、資金があるのでは。
・美術館の経営も難しい昨今、アトリエを市で管理するのは難しい。
・公開したときに誰がアトリエを管理するのか。
・ヒアシンスハウスと違い、(移築したとしても)広い土地が必要。
・アトリエの維持管理という面だけではなく、建物と庭の時価が相当上がっているはずである。買い取るとなると億単位になるのではないか。少なく見積もっても1億。以前、レイモンドの建築を保存するため民間団体で活動したことがある。そのときは、3億で落としたが、結局、維持管理が難しく、市に寄付することになった。建築の管理を民間で行うのは、今のご時世では無理だろう。

A反イ鼎り
・さいたま市では、ヒアシンスハウスの前例がある。ヒアシンスハウスの建設に関わった人に相談すること。市とどのように話し合ったのか。人と資金はどのように集めたのか。
・ヒアシンスハウス設立までの経緯。文芸と建築の団体が協力している。建築の団体はボランティアにも定期的に入り、運営に大きく関わっているという。
・市または県に何を求めるか、説得をどうするのか。
・保存活動をするならば、組織を明確にしたほうがいい。どういう団体なのか。具体的な活動内容をまとめ、客観的に見えやすくする必要がある。また、著名人を募り、どのような職種の人物が組織にいるのか、外から見ても分かりやすくするといい。
・実際に動ける若い人を集める。美術に限らなくてもいい。地域の人。学生、建築家、行政に詳しい人物。
・アトリエの保存には賛成だが、主要メンバーとして活動するのは無理。
・有名な人を先に味方につければ、鶴の一声で実行可能でしょう。
・立場上、保存会に参加するのは難しいが、できるだけ協力はしたい。
・今は無理でも地域で呼びかけがあれば県も動くかもしれない。青木繁のアトリエ保存が現在進んでいる。ほかにも実現したケースはあるはず。

こ萢冓法
・瑛九展開催中にアトリエを保存するよう呼びかけてはどうか。まだあるのに勿体ない。地域で残すべき。
・瑛九のアトリエは残すべきだと思っている。
・瑛九のアトリエの保存には賛同したい。浦和には画家のアトリエが点在しているが、親族が抱えきれなくなり壊された例が数件ある。瑛九のアトリエと奥瀬英三のアトリエは残していきたい。
・活用方法を明確にしないと難しい。
・将来的にアトリエをどのように活用するのか。
・修繕・保存するだけではいけない。利用価値と目的を明確にする必要がある。
・かつて「瑛九のサロン」と呼ばれていたアトリエ。議論の場を提供、都さんの漬物を再現。アトリエに通っていた芸術家には、池田満寿夫、細江英公、AY-O、河原温、磯辺行久がいる。聞き取り調査等が必要だが、これらを売りにできるのでは。
・瑛九のアトリエを宮本三郎記念館のように、美術館の別館として存在させるのが理想ではないか。
・財産(作品等)がない状態で何を売りとするのか。
・アトリエにあった作品は、すべて埼玉や宮崎の美術館へ寄贈されている。その他、画材やエッチングプレス機は、宮崎県立美術館が所蔵しているため、展示は無理ではないか。ものがないとアトリエとして公開する価値はない。
・瑛九は埼玉の画家であり、アトリエは地域の財産である。

以上

なかむら まき


◆埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が開催されています。現代版画センターと「ときの忘れもの」についてはコチラをお読みください。
詳細な記録を収録した4分冊からなるカタログはお勧めです。ぜひご購入ください(2,200円)。
会期:2018年1月16日(火)〜3月25日(日)
埼玉チラシAY-O600現代版画センターは会員制による共同版元として1974年〜1985年までの11年間に約80作家、700点のエディションを発表し、全国各地で展覧会、頒布会、オークション、講演会等を開催しました。本展では45作家、約280点の作品と、機関誌等の資料、会場内に設置した三つのスライド画像によりその全軌跡を辿ります。

○<(西洋美術館)新館の版画素描展示室で開催中の「マーグ画廊と20世紀の画家たちー美術雑誌『デリエール・ル・ミロワール』を中心に」
なにか埼玉県立近代美術館で開催中の『版画の景色 現代版画センターの軌跡』と通じるものがありましたね。

(20180316/タカハシさんのtwitterより)>

○<#埼玉県立近代美術館 の#版画の景色 展覧会を見てきましたよ〜
版画オールスター展覧会みたいで、とても面白かったです!

(20180121/uma_kunさんのinstagramより)>

○<日本に請われてウォーホルが描いた原画を元に日本の職人が摺ったキクが何とも言えない色合いで素敵でした。「版画の景色 現代版画センターの軌跡(埼玉県立近代美術館)」
(20180317/k_2106さんのtwitterより)>

西岡文彦さんの連載エッセイ「現代版画センターという景色は1月24日、2月14日、3月14日の全3回掲載しました。
草創期の現代版画センターに参加された西岡さんが3月18日14時半〜トークイベント「ウォーホルの版画ができるまでー現代版画センターの軌跡」に講師として登壇されます。

光嶋裕介さんのエッセイ「身近な芸術としての版画について(1月28日ブログ)

荒井由泰さんのエッセイ「版画の景色―現代版画センターの軌跡展を見て(1月31日ブログ)

スタッフたちが見た「版画の景色」(2月4日ブログ)

倉垣光孝さんと浪漫堂のポスター(2月8日ブログ)

嶋吉信さんのエッセイ〜「紙にインクがのっている」その先のこと(2月12日ブログ)

大谷省吾さんのエッセイ〜「版画の景色−現代版画センターの軌跡」はなぜ必見の展覧会なのか(2月16日ブログ)

植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ 第47回(3月4日ブログ)

土渕信彦さんのエッセイ<埼玉県立近代美術館「版画の景色ー現代版画センターの軌跡」展を見て(3月8日ブログ)

現代版画センターに参加した刷り師たち(3月11日ブログ)

現代版画センターの生みの親 井上房一郎と久保貞次郎(3月13日ブログ)

塩野哲也さんの編集思考室シオング発行のWEBマガジン[ Colla:J(コラージ)]2018 2月号が展覧会を取材し、87〜95ページにかけて特集しています。

毎日新聞2月7日夕刊の美術欄で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が紹介されました。執筆は永田晶子さん、見出しは<「志」追った運動体>。

○3月4日のNHK日曜美術館のアートシーンで紹介されました。

朝日新聞3月13日夕刊の美術欄で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が紹介されました。執筆は小川雪さん、見出は<版画に込めた情熱と実験精神>。

○月刊誌『建築ジャーナル』2018年3月号43ページに特集が組まれ、見出しは<運動体としての版画表現 時代を疾走した「現代版画センター」を検証する>。

○埼玉県立近代美術館の広報誌 ソカロ87号1983年のウォーホル全国展が紹介されています。

○同じく、同館の広報誌ソカロ88号には栗原敦さん(実践女子大学名誉教授)の特別寄稿「現代版画センター運動の傍らでー運動のはるかな精神について」が掲載されています。
---------------------------------
現代版画センターエディションNo.643〜No.650 岡田隆彦・柳澤紀子 詩画集『海へ』
現代版画センターのエディション作品を展覧会が終了する3月25日まで毎日ご紹介します。
表紙奥付

岡田隆彦・柳澤紀子 詩画集『海へ』
岡田隆彦:詩8篇
柳澤紀子:版画(銅版+手彩色)8点
刷り:山村兄弟版画工房
装幀:五十嵐恵子
発行日:1984年5月23日
発行者:綿貫不二夫、原勝雄
発行所:現代版画センター、浜松アートデューン
印刷・製本:クリキ企画印刷株式会社

サイン岡田隆彦サイン

I
I 詩

I
また海へ出るのだ、
荒れ狂う心をしずめるために。
おれの小舟よ、涙をぬぐえ!
行方知れずの母よ、
おれはいま、波を押しかえす。

II
II 詩

II
自分を洗っている海へ。
(語るなかれ) 海へ。
時が結晶してゆく、
したたかな器官のような
石のごとく物言わぬかたちへ
泳ぎついて、おれはつかむ。

III
III 詩

III
港の灯はクイーンズ・ネックレス。
船は和音を静かに食べている。
青い風は嗚呼、若い草を吹く。
溺れてしまいたい、だが
必ず浮上する。

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

パンフレット_05
出品作家45名:靉嘔/安藤忠雄 /飯田善国/磯崎新/一原有徳/アンディ・ウォーホル/内間安瑆/瑛九/大沢昌助/岡本信治郎/小田襄/小野具定/オノサト・トシノブ/柏原えつとむ/加藤清之/加山又造/北川民次/木村光佑/木村茂/木村利三郎/草間彌生/駒井哲郎/島州一/菅井汲/澄川喜一/関根伸夫/高橋雅之/高柳裕/戸張孤雁/難波田龍起/野田哲也/林芳史/藤江民/舟越保武/堀浩哉 /堀内正和/本田眞吾/松本旻/宮脇愛子/ジョナス・メカス/元永定正/柳澤紀子/山口勝弘/吉田克朗/吉原英雄

ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサートのご案内
第7回 愛といのち

日時:2018年4月3日(火)18:00〜
会場:ときの忘れもの
出演:メゾ・ソプラノ/淡野弓子
   スクエアピアノ/武久源造   
プロデュース:大野幸
*要予約=料金:1,000円
予約:必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申し込みください。

info@tokinowasuremono.com

◆ときの忘れものは「植田正治写真展ー光と陰の世界ーPart 供を開催しています。
会期:2018年3月13日[火]―3月31日[土] 11:00-19:00
※日・月・祝日休廊(但し3月25日[日]は開廊
昨年5月に開催した「Part I」に続き、1970年代〜80年代に制作された大判のカラー作品や新発掘のポラロイド写真など約20点をご覧いただきます。
201803_UEDA

●書籍・カタログのご案内
表紙植田正治写真展―光と陰の世界―Part II』図録
2018年3月8日刊行
ときの忘れもの 発行
24ページ
B5判変形
図版18点
執筆:金子隆一(写真史家)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
価格:800円(税込)※送料別途250円

ueda_cover
植田正治写真展―光と陰の世界―Part I』図録
2017年
ときの忘れもの 発行
36ページ
B5判
図版33点
執筆:金子隆一(写真史家)
デザイン:北澤敏彦(DIX-HOUSE)
価格:800円(税込)※送料別途250円


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
20170707_abe06新天地の駒込界隈についてはWEBマガジン<コラージ12月号>をお読みください。18〜24頁にときの忘れものが特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第21回

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第21回

富岡市立美術博物館
平成29年度 常設展示
「昭和の前衛―日本のシュルレアリスムと作家たち―」


今回の訪問先は、富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館。その名称のとおり、美術館・博物館・記念館の機能が融合した複合施設である。また、道を挟んだ斜め向かいには、県立自然史博物館もあり、まさに知の集積地となっている場所である。今回は有難いことに、肥留川裕子学芸員から画廊宛に瑛九の作品を展示しているというお知らせを受けて、取材することが叶った。

富岡市立美術博物館_01一面灰色の空から出現したかのような雲形の屋根を持つ建物。聞くところによると、富岡の山(建物のある地形)から着想を得て設計されたという。特徴的な建物であることから、建築を学ぶ学生たちが見学に訪れることもある。設計は、東京都現代美術館の設計も手掛けた建築家柳澤孝彦(1935-2017)である。


富岡市立美術博物館_02入口に続く回廊を歩いていると、来館者を観察するような視線を注ぐ女性像がある。見慣れない者を見て「あら、遠いところよく来たね」と声を掛けてきそうな表情を浮かべている。こちらは、掛井五郎《母》(1991)の作品である。


富岡市立美術博物館_032階ロビーには、開けた休憩スペースが広がっている。天候や季節によって刻一刻と変わる空をガラス越しに望むことが出来る。ここには、コーヒーメーカーも設置されており、展示を観て疲れた身体に嬉しいセルフ式の挽きたてコーヒーを楽しめるサービスもある。この他に館内は、1階に市民ギャラリー、ミュージアムショップ、図書室を配し、2階には、郷土資料展示室、企画展示室、常設展示室、福沢展示室1〜3があり、各展示物にあったスペースを備えている。


富岡市立美術博物館_04展示室入口。本展の開催動機ともいえる、郷土作家の福沢一郎(1898-1992)の存在は大きく、福沢と同世代の画家に着目し、特に1920年代後半から30年代後半にかけての作品に見受けられたシュルレアリスムの表現に注目している。


展覧会の冒頭では、以下のような紹介がなされている。「本展では、当館の収蔵作品から戦前〜戦後にかけて活動し、シュルレアリスムの影響を受けた作家たちとその作品をご紹介します。彼らは昭和という激動の時代の中で、シュルレアリスムを通して何を描き出そうとしたのでしょうか。彼らの作品を通して、昭和期に花開いた日本の前衛絵画の一端に触れていただければと思います」
肥留川学芸員は、日本人画家によるシュルレアリスムの作品を積極的に公開することで、西洋の「シュルレアリスム」についての理解度ではなく、一人一人の作品の特徴を浮き彫りにしていきたいと語り、一点一点の作品について解説していただいた。

富岡市立美術博物館_05右側の120号の大きな油彩は古沢岩美(2012-2000)の作品。戦後に再制作された作品である。古沢は福沢一郎等と共に1939年に立ち上げた美術文化協会の同人である。


左側2点は築比地正司(1910-2007)の作品。彼は群馬県邑楽郡出身で、中学卒業後に上京し、川端画学校を経て1929年東京美術学校に入学した人物である。1938年から約2年間福沢絵画研究所に通っていた。展示中の戦前の作品は、アカデミックでありながらも、シュルレアリスムのような異空間を演出していることから、福沢一郎の影響が考えられる例である。戦後は、農民の生活風景を描いたことから、地元では「群馬のミレー」と称されているという。

富岡市立美術博物館_06右から早瀬龍江(1905-1991)、杉全直(1914-1994)、白木正一(1912-1995)の作品が並ぶ。彼らは福沢絵画研究所に通っていた画家として紹介している。
杉全直は、東京美術学校在学中に所属していたグループ「貌」で、福沢一郎を招いた研究会を開くほど、早くから福沢に傾倒していたようである。1942年制作の《土塊》はシュルレアリスムに興味を持っていた当時の作品である。


富岡市立美術博物館_07こちらは、早瀬龍江と白木正一の作品である。2人は、福沢絵画研究所に通っていた当時に意気投合し、夫婦になった。1958年からはニューヨークに住み、制作活動を展開し、帰国した1989年以降は埼玉県飯能に住み、画廊や美術館で作品を発表した。彼らが夫婦になる前後や渡米する前後の表現の違いにそれぞれ注目して欲しいと肥留川学芸員は語る。特に早瀬の《戯れ》は、それ以前のヒエロニムス・ボス風の奇怪な空想上の生きものを描いていた《楽園》《水の中》の頃とは違い、自己の内面をえぐり出した「自画像」を描き、内向的な視点を外に向かわせようとする試みが見えてくる。


富岡市立美術博物館_08画像は、瑛九の作品《曲乗り》(1955-56年、油彩・カンヴァス、60.5×73.0)および《母》(1953年[1974年刷]エッチング・紙、29.3×24.0)である。《曲乗り》の大きな車輪の下には、「Q.Ei 55-6」という書込みがある。


前者のタイトルである《曲乗り》は、自転車にまたがり曲芸を披露する人物と考えられ、回転する車輪を象徴するような同心円が背景に描かれ、サーカスの高揚感が色彩で以て表現されている。多くのシュルレアリストにとって、サーカスは格好の題材として取り入れられていたが、具体的に新聞やサーカス史を調べてみると、戦前から戦後に掛けて様々なサーカス団が技を競い合っていた時期と重なっていることが分かる。ただの想像や模倣ではなく、実際に実物を見てからイメージを変容していった可能性も否定できないのである。大正2年頃には、自転車がサーカスの演目に加えられていることが、新聞などから辿ることができ、特に「日本アームストロング」という団体は、海外遠征をするほど躍進を遂げていたことが先行研究で明らかになっており、自転車5人曲乗りや一輪車の曲乗りが披露されていた(阿久根巌「木下サーカス草創期の記録を探す」『木下サーカス生誕100年史』2002年)。また、作品が制作された前年1954年については、木下サーカス団が丸テントを設置する興行スタイルをはじめた年であり、一般層も気軽にサーカスを観覧できるようになったと考えられ、新聞などではサーカスに関するニュースが度々報じられた。

富岡市立美術博物館_09参考資料:「日本アームストロング一行木下巡業隊」絵葉書より


なお、瑛九にかんしては、サーカス団員の姿を捉えようとしただけではなく、都夫人の自転車を乗る姿も重ねているともいえないだろうか。というのは、都夫人によるとさいたま市(旧浦和市)にアトリエを構えた1950年代、彼女はよく自転車に乗って野菜を買いに出かけていたのである。特に自転車に乗ることが出来なかった瑛九は、都夫人の自転車を乗りこなす姿を見るうちに、いつしかサーカス団員のイメージを思い浮かべていたとも考えられる。肥留川学芸員による解説パネルでは、「特定のジャンルや表現、イムズに囚われることなく、常に真摯に己の真実を求め続けたその制作態度は、日本のシュルレアリスムの流れの中でもとりわけ異彩を放っていると言えるでしょう」と、瑛九を評価している。確かに瑛九は当時の「イムズ」を学びながらも、自己の身の回りの物事や表現材料をよく見てから作品を制作するため、オリジナリティに溢れている。おそらく、《曲乗り》についても、どこかで見た経験がかたちとなった可能性は十分に考えられる。

富岡市立美術博物館_10画像は、2011年に行われた展覧会『生誕100年記念 瑛九展』(宮崎県立美術館、埼玉県立美術館、うらわ美術館)の図録に掲載されている自転車やサーカスに着想を得た作品群である。
※ No.6-46《自転車にのる女》、No.6-47《(題不明)》、No.6-48《自転車》、No.6-49《自転車のり》、No.6-50《サーカス》


ちなみに、福沢と瑛九の接点は認められないが、読書家である瑛九はアトリエ社発行の福沢一郎著『シュールレアリズム 超現実主義:近代美術思潮講座』(4巻)を手にとっていたはずである。また、山田光春による評伝でも触れられているように、瀧口・福沢の逮捕の一件は前衛芸術界に大きな波紋を呼んだ。当時は、美術家グループ(団体)を作って、作品展示をするのに共産主義の大会として活動をした方が、物事が上手く運んだようであり、瑛九については、1946年日本共産党に入党し、「新宮崎美術協会」を創立、展示を終えるとすぐに離党している。1936年フォト・デッサンを発表した瑛九は、いよいよ大きく羽ばたこうと空を仰いだ途端に、「戦争」という暗雲が立ち込めて視界が遮られてしまった。戦時下の瑛九は、やはり思うように活動が出来なかったようで、鬱積した気持ちを抱えたまま疎開地や友人宅を転々とし、身を隠すような生活を送っていたのである。

***

ちょっと寄道…


富岡市立美術博物館_11福沢一郎記念美術館は同じ建物内にあり、「特集展示 福沢一郎と『本』」と「福沢一郎 物語を描く」が開催されていた。画像は、覘きケースに福沢一郎が手掛けた装丁の図書や雑誌類が展示されている風景である。福沢一郎は富岡市出身であり、1991年93歳にして文化勲章を受章するなど、生前から評価が高かった。そのため、福沢一郎の画業を顕彰し、未来へと作品を引き継ぐ方法として、美術館博物館建設の構想中に個人記念館も設置された。このような複合施設は、今ではそれほど珍しくない空間設計ではあるが、開館した1995年においては画期的な試みであった。創立から20年以上経った今では、認知度も高まり、福沢一郎の作品に関する相談を受けるようになったという。個人の美術館として、アトリエを改装した「私立」が多い中で、「公立」の施設は、長期的な作品の維持管理を考える上では理想的といえる。


富岡市立美術博物館_12こちらは、福沢一郎のアトリエを再現した展示スペースである。戦前から使用されてたイーゼルには、あちこち油絵が付着している。後方の昇降台は、大型の作品制作の時に使用していたようだ。隣には、1992年の絶筆とされる作品が置かれている。
なお、福沢一郎が1898-1992年に使用したアトリエとして、世田谷に今も現存しており、1994年には「福沢一郎記念館」として開館している。さらに、現在は八王子市夢美術館で行われている展覧会「昭和の洋画を切り拓いた若き情熱 1930年協会から独立へ」でも福沢一郎の作品《骨董店》と《寡婦と誘惑》が展示されている。


富岡市立美術博物館_132014年世界遺産に登録された旧富岡製糸場にも足を運んだ。こちらは、表玄関にもなっている「東置繭所」である。現在は、主に展示室として利用されているところである。富岡市では、製糸場を含む関連施設を回遊するバスが走り、観光客向けの店舗が少しずつ増えているようであった。あいにくこの日は雨であったが、赤煉瓦の建物と赤いサルビアの鮮やかさに目を見張った。


富岡市立美術博物館_14東置繭所2階の内部。この場所には、チョークで書いたような落書きがある。現地に訪れた際は探して欲しい。


富岡市立美術博物館_15製糸場の浮世絵が制作されている。20名ばかりの女性が横並びでフランス式の機械を操る様は、たいへん珍しい光景であったと思う。女性の表情や顔の向きはバラバラであることから、隣の人と会話をしたり、仕事ぶりを見に来た男性の事を噂したりしているのかもしれない。
一曜斎国輝《上州富岡製紙場之図》明治5年(1872)頃(富岡市立美術博物館編「錦絵にみる器械製糸―美術博物館の収蔵品から」より)


富岡市立美術博物館_16フランス式繰糸器(復元)の展示と実演の様子。繭をお湯で煮てほぐれた一本の糸口を見つけ出し、機械で巻き取っているところである。繊細で髪の毛よりも細い糸を扱うため、女性の小さい手の方が向いていたのだろう。


富岡市立美術博物館_17巻き取りが終わりそうな繭があると、素早く別の繭の糸を絡ませている。


富岡市立美術博物館_18グレーの巨大な円盤は、UFOではなく鉄製の水槽である。明治8年頃に設置され、その貯水量はおよそ400tにもなる。奥には長い煙突があり、これらで先に紹介したように生糸を巻き取る際のお湯を沸かすために使用されていた。


富岡市立美術博物館_19こちらは、西置繭所の保存修理を見学できる施設である。ヘルメットを借りて、内部に入ることができる。私が見学したときは、素屋根の解体中であった。修理の様子は、行く時期によって変わるようである。滅多に見ることのできない特別な瞬間をぜひとも見学していただきたい。


最後にひとこと書き添えておきたいことがある。富岡製糸場という世界遺産を抱えるようになったことで、同市内にある美術館への来場者は増加したのではないかと、私は想像していたが、どうやらあまり変化はないようであった。理由は、同市であっても製糸場からは距離があり、「車」でしか来られないのである。製糸場の見学者は、どのみち知の集積地である同館にも関心が繋がっているはずであり、製糸場の周辺を回るバスが美術館の方へも行通ってくれたら、かなり行き易くなるのではないかと思う。
なかむら まき

●展覧会のご案内
平成29年度 常設展示
「昭和の前衛―日本のシュルレアリスムと作家たち―」
会期:2017年9月9日[土]〜11月30日[木]
会場:富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館
休館:月曜日(祝日・振替休日にあたる場合はその翌日)
時間:9:30〜17:00(入館は16:30まで)

●中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。

●今日のお勧め作品は、瑛九です。
20171118_qei_115瑛九《風景》
板に油彩
23.7×33.0cm(F4)
サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

*画廊亭主敬白
11日のブログにメキシコ地震被災地支援・チャリティー頒布会出品全100点のリストを掲載した直後から多くの参加の申し込みをいただきました。皆様の暖かなお気持ちに感謝するばかりです。しかし無情にも今度はイラン・イラク国境地帯でM7.3という大地震が襲い、多くの死傷者が出ているようです。少しでも被害が食い止められることを祈らずにはおられません。

●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
12

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第20回

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第20回

豊田市美術館
特別常設展示「岡乾二郎の認識―抽象の力―現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」


「抽象芸術」について説明を求められたときに、すんなりと回答を云えるだろうか。一般的に「抽象芸術」とは、モチーフを具体的に表現するよりも色や形(質感、量感)の表現を追求した言語化し難い美術表現のひとつである。また、芸術家の名前を挙げて作品のあるがままを解説しても、聞き手は理解できないかもしれない。しかし、そのような「抽象芸術」のイメージに一石を投ずる画期的な展覧会が行われた。

豊田市美術館チラシ-1豊田市美術館チラシ-2
※本展は既に終了した展覧会であり、掲載時期が大幅に遅れたことを予めお詫びしたい。
なお、本展の担当者である千葉真智子学芸員は、ときの忘れものの2017年5月9日ブログに展示にかんする記事を寄稿している。
また、企画者である岡乾二郎「抽象の力」を併せて参照されたい。
【岡乾二郎:http://abstract-art-as-impact.org/jp-text.html

豊田市美術館_01丘の上に佇む美術館。自然に溶け込むフォルムでありながら、8カ所の展示室、ギャラリー、ミュージアムショップ、レストラン、ライブラリーを備えた広々とした空間がある。表の広場には彫刻が設置され、別棟に茶室もある。


今回、取材にご協力いただいた千葉真智子学芸員は、本展について「作品が生き生きしている」という印象を語られた。美術館で行われる展覧会は、たとえば、「没後50周年記念展」というように作者の生没年を念頭に掲げた記念事業として開催される場合が多々ある。しかし、本展は岡乾二郎氏が担当した展示企画が際立つものであり、岡氏が作品一点一点を選定し、最新の研究成果を取り入れていることで、「抽象」の見方、例えば当時の技法や地域的な広がり、時代性、思想などを考えるきっかけを与えるものであった。そもそも、博物館法に則って運営されている美術館では、当然学芸員が常駐し、展覧会を企画している。本展で変わっていた点は、特別展ではなく常設展(主に同館収蔵の展示物を活用したもの)を外部の人物が企画したということに驚きを感じた。遠巻きに考えれば、同館学芸員がコレクションの新たな活用法を模索した結果であったとしても、この取り組みにより、千葉学芸員が「作品が生き生きしている」と感じたことは、鑑賞者である我々にも通じるものとなった。様々な発見を予感させる、非常にポジティブな雰囲気に包まれた会場であった。

豊田市美術館_02展覧会の入り口はバウハウス、デッサウを思わせるデザイン。


豊田市美術館_03会場では、そこかしこに作品理解を深めるための工夫があった。
壁一面に展示されているのは、明治9年発行の教科書『幼稚園(おさなごのその)』である。玩具を通して色、形、数の基礎について学び、また、整然と並べられた玩具から子供の創造力を養うことを目的とした冊子である。さまざまな幾何学的な図像が教科書にちりばめられ、観ていると好奇心が湧いてくる。


豊田市美術館_04原色で彩られた木製の玩具。背景に展示されている田中敦子《’94B》(1994年、合成樹脂エナメル塗料、カンヴァス)とイメージが重なる。


豊田市美術館_05モジャモジャと絡まりあって球状の形態になった針金は、高松次郎《点》(1961年、ラッカー、針金)の作品である。これも田中敦子の《’94B》とリンクする。それはまた、神経細胞の染色体かシナプスか、宇宙空間に浮かぶ塵をも想像させる。インスピレーションを得た芸術家は手先や頭を動かし、試行錯誤を重ねる。ことばをひとつひとつ紡いで物語がつくられるように、「作品」は制作される。


本展は、これまで位置づけられてきた「抽象芸術」の概念を解きほぐすような展示で抽象芸術に関する作品一点一点と向き合うことに重きが置かれた。一点を集中的にみると、「抽象芸術」として紹介されている作品が、はたして今までそういう位置づけであったかという疑問を感じるだろう。

ところで、作品を理解する方法として体系的に論じているE・パノフスキー『イコロジー研究』は、図像解釈の方法を段階的に示したもので、第一段階の自然的主題は、色や形(質感、量感)等を視覚から得る理解のこと。第二段階の伝習的主題は、作品に表現された図像の具体的なモチーフから意味や物語の理解を深めること。第三段階は、作品が制作された背景に着目するもので、時代・地域・文化(習慣)・思想(宗教)等、作品の着想や根源的なものに迫ることである。とりわけ「美術史」に位置づけられる有名作品は、少なくともこれら三つの段階を見出す事ができる、というのである。近代は「視覚の時代」といわれる。評論家や観衆の客観的な視点が加わり、次第に作品制作へ傾ける美術家の意識やモチベーションは変わっていった。パノフスキーを挙げたのは、図像を解釈しようとする行為そのものに近代の個人主義的なまなざしがあり、その後にあらゆる美術史家や哲学者、批評家、そして美術家に影響を与えることとなったことを頭の片隅に置く必要があると感じているためである。このような環境で芸術作品の表現が深まり、抽象芸術は派生してきたのかもしれない。

たとえば、会場には、熊谷守一《シヂミ蝶》(1958年、油彩、板)が展示され、その隣には、うごめく無数の虫を記録した日記帳(1902–1922年)があった。熊谷守一は、見たものを寝かせてから筆をおろす画家である。実際に日記帳を見返してこの作品を描いたのかどうかは定かではないが、脳裏に焼き付いたイメージであったに違いない。芸術家がどのように作品制作に至ったかを日記帳を通じて視覚的にみることができる。小さな体で石ころの周りをひらひらと舞う紫色のシジミ蝶。そこには、シジミ蝶が見せる穏やかな生の痕跡が美しく表現されている。

豊田市美術館_07壁一面に展示されているバインダーは、『現代建築大観』(1929年頃、個人蔵)の一部が挟み込まれている。元は帙に入っている作品集のようだが、このように一枚一枚展示されているところを見ると、かなりヴォリュームが増して見えた。バインダーを使用した展示は、一見遊び心を感じさせるが、建築デザインを見比べられる機能的な面も備えた展示空間に仕上がっていた。手前には、ドナルド・ジャッドがデザインしたミニマルな形状の《椅子》(1988年制作、マホガニー)が展示されている。


テクノロジーの発達でモノが豊かになり、集団(共同体)ではなく個人で物事を考える社会が「近代」である。個人主義的な発想はモノの見方や創作物にも表れ、次第に個人の「感覚」、「感情」が重要視されるようになった。やがて、個人でありながら万人にも受け入れられる客観的な意識をも作品に込めようとする。岡乾二郎氏は、恩地孝四郎の作品を例に次のように書いている。

『月映』は北原白秋、萩原朔太郎、室生犀星、山村暮鳥という同時代の詩人たちの仕事との共鳴をもって結成されたが、これらの詩人たちの仕事はいまだ表出されなかった感情、思考の流れを強い視覚的イメージによって喚起、結びつけることにおいて、象徴主義からイマジズムへの架け橋をするような新しさがあった。『月映』はそれに呼応し、見慣れた外部世界には対応物をもたない、より喚起力のあるイメージの創出こそを目指したのである。
(中略)
つまり版画は複数の別の画面を重ねて、一枚の画面を作り出す、統合の芸術だということだ。最後に統合されて出現するイメージは元の個々の版木のどこにも存在しない。まさにフレーベルの《恩物》(積み木)の幾何形態を回転したときに現れる像と同様である。イメージは版を刷るという作業の中でのみ現れる僥倖だった、ともいっていいだろう。
(「抽象の力」より)

豊田市美術館_08こちらは、坂田一男《コンポジション》など3点。フランスでポスト印象主義やキュビスムを学んだことが基礎となっているものの、帯状に連続するモノトーンの情景は、抽象ともミニマリズムともいえる。作家独自の表現が展開されている。


豊田市美術館_09向かって右側の熊谷守一の作品の隣には、ハンス・アルプ《灰色の上野黒い形態の星座》(1937年、木)、《ひと、ひげ、へそ》(1928-29年、木)があり、左側に斎藤義重《作品》、《トロウッド》(1973年再制作)が展示されている。色・形が似通ってみえるユーモラスな作品群。覗きケースは、ジョン・ケージによって点・線・面が組み合わされた独特な楽譜《Fontana Mix》(1982年、シルクスクリーン、個人蔵)の展示があった。


豊田市美術館_10長谷川三郎の版木とその作品の《自然》(1953年、木版)。ひと彫りひと彫りの積み重ねで版木が作られ、版木6点が組み合わさって、一つの画面(版画作品)が生まれる。その過程が、視覚的に示されている。


第二次世界大戦後、長谷川は、可変的なトポロジカルな構造を形成する方法として《マルチ・ブロック》という版画技法を開発する[fig.135]。蒲鉾板を使い彫ったブロック状の版木をランダムに画面にばらまき、そのつど異なる画面を構成する手法である。《環境》という用語を長谷川が用いていたように、これは環境デザインや音楽の作曲にも応用できる方法である。戦後、長谷川と交流をもった現代音楽家ジョン・ケージ(1912-1992)の図形楽譜はあきらかに長谷川の絵画の構造を踏襲してもいた。
ところで「新しい写真と絵画」という論考は実はそもそも、長谷川が瑛九の作品に見出した可能性を論じた文章だった。1930年代という重苦しい時代になされた、もっとも奇蹟的な達成は瑛九のフォトデッサンにあったといっていい。
 (中略)
1936年1月、瑛九は長谷川三郎を訪ね、のちに『眠りの理由』(1936)[fig.137]としてまとめられることになる一連のフォトデッサンを見せる(そして、もちろん長谷川はその可能性を見逃さなかった)。その翌年、瑛九を加えて自由美術家協会が結成される。
 瑛九のフォトデッサンの上では、本来、異なる時間に属するモノ(当然、同じ空間尺度も持ちえない)たち、また、そのモノたちを照らした、同じく別の時に輝いたはずの光たちが、一つの画面を充たし、ありえるはずがない一つの光として溶解し互いを反照しあっていた。いつ、どこにも定位できない時間と空間。にもかかわらず、これらの異なる次元にあるモノたちはありえるはずのない同じ《いま、ここ》で一緒に一つの光を呼吸しあっている。その確実性が驚くべき実在感をもって顕現している。
(「抽象の力」より)

岡氏が指摘するように瑛九は意識的に光を駆使して作品を制作していることが分かるテキストがある。瑛九は1930年「フォトグラムの自由な制作のために」(『フォトタイムス』7巻8号)の中で「光にたいする鋭敏なる印画紙の力をかりてかつてなにものをも他の材料の使用をゆるさなかったコンストラクションが生まれ、又ぼうだいなる現実を構成せんとすれば作者の意のままに表現できる」と書いている。若くして核心に触れるこのフォトグラム論は、今では、瑛九の作品評価に欠かせないものである。写真(印画紙)の際限のない可能性と、現実を捉え表現しようと果敢に取り組む意欲が上記の一文に垣間見える。これが長谷川三郎をも巻き込む瑛九作品の根底にあるものなのだろう。

豊田市美術館_11向かって左側には、恩地孝四郎《ポエムNo.22 葉っぱと雲》(1953年、マルチブロックプリント)、隣は瑛九がフォト・デッサンを制作する際に作られた型紙(制作年不詳、紙、個人蔵)と、1936年頃に制作された瑛九のフォト・デッサン(1936年、個人蔵)である。瑛九は、自作の型紙や身の回りの物、ペン書きしたセロファンを印画紙の上に置き、様々な表現を実験的に組み合わせて、ひとつの画面をつくりあげた。切り取る型紙も様々で、印画紙を再利用することもままあった。2011年ときの忘れもので瑛九の型紙が一堂に展示され、うらわ美術館でも2015年「作家の手の内――スケッチ、デッサン、エスキース」展で瑛九の型紙が展示された。


豊田市美術館_12こちらも瑛九の作品。フォト・デッサン集『眠りの理由』表紙の別バージョン(1936年、個人蔵)。また、白い輪と眼鏡のある作品、ぼんやりと車輪のある作品、赤や緑で着彩された作品などひとつとして同じフォト・デッサンはない。何れも実験的に様々な工夫で画面構成を試みている1936年頃の作である。


インターネットの普及や物流の発達により、個人の「感覚」、「感情」が地域や国を超えて表現できるようになった昨今。私たちは別のステージに昇ったのかもしれない。そろそろ俯瞰的に日本で表現活動をした芸術家ついて見直し、当時の「抽象芸術」を再評価する動きがもっと活発になってよい頃である。岡乾二郎氏企画の「抽象の力」展は、そのような気構えが感じられた展覧会であった。


***

ちょっと寄道…



愛知県への取材は、今回で2度目となった。瑛九と何かと縁のある愛知県。前回の訪問では、愛知芸術文化センター内の愛知県美術館やアートライブラリーへお邪魔した。こちらには、瑛九研究の大著『瑛九 評伝と作品』(1976年、青龍洞)の著者山田光春の収集資料が保管されている。山田は1912年愛知県生まれであった。

今回、名古屋市美術館へも足を伸ばす事になったのは、豊田市美術館への取材が叶ったことが大きいが、同館で積極的にコレクションしている作品に関心があった為である。

以下に挙げる展示は、やはり会期が終了したあとで恐縮だが、興味深い内容であった為に紹介したい。それは、常設展示として企画されていた「メキシコ・ルネサンス:日本に与えた影響―北川民次と二科会の画家」展である。

名古屋市美術館は開館以前の1983年から収集をはじめており、1985年以降は、郷土ゆかりの作家である荻須高徳、北川民次、荒川修作、河原温、桑山忠明の5人を重要作家として位置付け、彼らと関係の深い4つのジャンルを収集の柱に据えている。それは、「1、郷土の美術/2、エコール・ド・パリ/3、メキシコ・ルネサンス/4、現代の美術」である。このなかで、北川民次と河原温については、瑛九とも関係があった人物である。特に北川民次については、瑛九が美術教育に関心をもちはじめた当時から一目を置いていた人物であった。

名古屋市美術棺_01名古屋市美術館前。開館30分前に到着し、建物の写真撮影のために公園内を散策した。すると、改修工事に入るという告知が貼られていた。美術館建設ラッシュに開館した建物は、都市部を中心にどこもかしこも老朽化による改修工事ラッシュに突入している。


名古屋市美術館_02こちらは常設展示室の一室で、向かって右側から
フリーダ・カーロ《死の仮面を被った少女》1938年、北川民次《赤津陶工の家》1941年(左下に朱書きで「二千六百一年/北川民次寫/赤津陶工ノ家」とある)、ディエゴ・リベラ《プロレタリアの団結》1933年【部分】。解説パネルには、冒頭次のように書かれていた。「オロスコ、リベラ、シケイロスの三巨匠による壁画運動をはじめ、1920年代から40年代にかけて展開したメキシコ近代美術は、同時代の美術家たちに少なからぬ影響を与えています。」
建物を取り壊す際に撤去されることの多い壁画で、更に中心的人物のひとりであるリベラの作品が、一部でも名古屋市美術館で観覧できるのは、たいへん貴重なことである。


ところで、メキシコの美術運動は、昭和戦前期の1923年に北川民次がメキシコに渡ったことから日本へ伝えられ、影響を受けた芸術家は多い。その中でも、瑛九、藤田嗣治、岡本太郎については壁画の制作にも取り組んでいる。周知のとおり、岡本太郎の作品の中でも格別に大きい《明日の神話》は、渋谷駅構内(JRと井の頭間の連絡通路)で見られる。もとはメキシコにあった壁画で2008年に移設された。また、藤田嗣治が制作した大壁画としられている《秋田の行事》についても、2013年に新設された秋田県立美術館へと移設された。瑛九の代表作のひとつである《カオス》は、元は真岡市の久保ギャラリー(現久保記念観光文化交流館・美術品展示室)の外壁に設置されたが、現在東京都現代美術館に収蔵されている。

北川民次に影響を受けた芸術家の中でも、愛知県出身の竹田鎮三郎は、若い頃から民次に師事し、現在もメキシコで活動を続けている。近年では、2006年跡見学園女子大学花溪記念資料館、2013年プロモ・アルテギャラリー、2015年川崎市岡本太郎美術館で個展が開催された。また、竹田の活動は自身の創作活動だけに留まらず、岡本太郎の《明日の神話》移設に携わった他、児童美術の活動も行っており、非常にバイタリティのある作家である。彼の活動記録を確認できる例である「ガテマラと児童画交換 メキシコにいる、竹田鎮三郎君の世話で神奈川、埼玉の幼小中の児童画五十二点をガマテラに送った。ガマテラの日本児童画展は十月九日より十六日まで開かれ、新聞、TVなどでさわがれ、すこぶる好評だった。引きつづき各地に巡回されるよし」(1964年、創造美育)という記述からは、民次のメキシコでの美術教育を継承し、久保貞次郎の仕事にも協力していたことが分かる。日本から遠く離れたメキシコの地で、地道に活動を行ってきた民次の弟子である竹田鎮三郎が検証される日がくることを期待したい。

名古屋市美術館_03手前は、北川民次《トラルパム霊園のお祭り》1930年
画面にところどころ明るい色を配し、細部にわたって描かれている本作は、民次の作品の中でも比較的珍しい。続いて、マリア・イスキエルド《生きている静物》1947年、ホセ・クレメンテ・オロスコ《メキシコ風景》1932年などが並ぶ。


名古屋市美術館_04右側から、安藤幹衛《守る》1975年、《解放》1957年、北川民次《雑草の如く供1948年。画面を見ると大胆で力強いイメージが描き出される一方で、何度も置いている筆跡からは繊細な一面も併せ持っていることが分かる。特に二次大戦前後に反響のあったメキシコ美術は、庶民の生活を逞しく描く特徴があり、日本においても芸術家を始め多くの人々の心に響いた。大画面にもなるメッセージ性の強い表現から、公共の場における美術の可能性が開け、人種や宗教などの社会問題を体現する美術表現として評価されるようになった。


美術館に伺った際に同時開催していた「異郷のモダニズム−満洲写真全史−」展についても非常に興味深く拝見させていただいた。異国の地での写真撮影で、報道写真や記録写真が充実するのは想像に難くない。しかし、そればかりでなく、幽玄な風景や見慣れない建物や調度品を目の当たりにして撮影されたピクトリアリズム写真も展示されていたことも、この当時の写真の面白いところであった。霞か煙が一面に漂うシルエットの写真、荒れた大地の凹凸をメインに捉えた写真など。瑛九も活動していた1930年頃の写真動向についても何れこの場を借りて言及したい。

今回、豊田市と名古屋市の美術館を訪れたが、何れもコレクションが豊かで、どの会場も鑑賞者が多かった。おそらく、利用者へのサービスが長けており、駅から美術館への導線はもちろんのこと、近隣施設との連携や街歩きのガイドマップも充実しているためであろう。また、まだ日本で定着していない寄付金制度を設けており、リーフレットの作成・配布は好感が持てた。地域の人や他県の人も安心して鑑賞できる展示会場づくりには、従来行ってきた事と時代にあった動向とを吟味しながら、将来を見据えた活動を展開していく必要がある。豊田市や名古屋市は新旧を意識し、しっかりとした軸を持っていることが分かり、美術館としての機能を最大限生かそうという努力が感じられた。

なお、これまで展覧会の会期中に記事を執筆することを第一の目的としていたが、展覧会終了後に記事を掲載することになり、取材先の美術館および読者にお詫び申し上げたい。現在の豊田市美術館では「奈良美智 for better or worse」展、「森千裕-omoide in my head」展を開催している。また、名古屋市美術館は、現在は改修工事のために休館中で10月7日からは「ランス美術館」展、「中村正義をめぐる画家たち」展が開催される予定である。
なかむら まき

●今日のお勧め作品は、瑛九です。
20170830_qei_169瑛九
《(作品名不詳)》
フォトデッサン
27.0×22.0cm
裏面にサインあり


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

中村茉貴〜宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて 特別篇 2

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第19回
宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて


ちょっと寄道….特別篇 2

「美術館に瑛九を観に行く」の執筆依頼があったとき、愉しみな反面、「瑛九」にかんする記事を私に書けるかどうか不安があった。瑛九を展覧会で扱う学芸員をはじめ、瑛九のコレクター、瑛九に関心をもつ研究者、瑛九と親交のあった方、はたまた瑛九にそれほど関心がない方、さまざまな立場の方の眼に触れることを想定すると、ストレートな内容を書くだけでは面白みがない。そのような考えが頭をよぎって、展覧会レポートに+αとして「ちょっと寄道…」を加えた。その「寄道」が今回も大幅な「寄道」になってしまい、返ってお叱りをうけてしまうのではないかと思いながら、前回に引き続き瑛九が生まれ育った街について、かつて瑛九の(エスペラント語の)教え子であった鈴木素直氏の案内や山田光春『瑛九―評伝と作品』(青龍洞、1976年)を頼りにお届けしたい。なお、今回も宮崎県の銘菓「金城堂」の包装紙に使用されていた地図「宮崎市街図」とGoogleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」を参照しながらご一読願いたい。
https://drive.google.com/open?id=1cUFoWwqKUy8CARQBsUp2qtNQtuM&usp=sharing

特別篇_07作者不明「宮崎市街図」出版社不明、1930年頃
地図が制作された年代は昭和5年頃であり、解説と表記が異なることもある。
※下記、括弧内のページ番号は出典先『瑛九―評伝と作品』の掲載頁を表す。
※アルファベットは、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」と対応している。


L.宮崎尋常高等小学校[現宮崎市立宮崎小学校](pp.47-49他)
特別篇_08現在の宮崎小学校。手前に古い門柱が残る。

山田光春は『瑛九―評伝と作品』(以下、「評伝」と表記する)に、瑛九こと杉田秀夫の小学校在学時について次のように書いている。「一九一八(大正七)年の四月一日、秀夫は直に付き添われて宮崎尋常高等小学校(現宮崎小学校)に入学した。(中略)彼は幼稚園には行かず、この時はじめて集団生活を経験することになったのだから、そこに大きな抵抗を感じたのは、自然な成り行きであった。そのため、毎朝彼を学校に送り出すことは栄にとっての大きな苦労となって、坂本という気丈な看護婦が彼を押し出すようにして玄関から送り出すと、栄は急いで二階に上り、無事に行ってくれるようにと念じながら、カーテンの陰にかくれて、薩摩屋という家具屋の角を曲って姿が見えなくなるまで見送ったものだったという。しかし、そうしてほっとするのもつかの間で、学校から帰りを迎えるのがまた大変であった。」
文中にあった家具店「薩摩屋」は、杉田眼科から左に向かい、一つ目の角を右にまっすぐ進むと右手にある。地図上には示さなかったが、前回の上半分の「宮崎市街図」に「サツマヤ家具店」と表記された場所を確認する事ができる。

M.安楽寺・馬車(p.40、p.51-53)
安楽寺の裏手には、馬車乗り場があり、1914(大正3)年6月家族総出で馬車に揺られて青島へ出かけたことがあった。日豊線が鹿児島まで全通する1916(大正5)年頃まで、大淀川を渡って青島方面に行くには馬車を利用していた。1915(大正4)年母雪が病のため死去したことから、秀夫にとってはこの一日限りの小旅行が印象強く残っていたという。
また、小学5年生のときの秀夫は、毎日のように安楽寺へ訪れ、仏具(如意)に関心を示していた。住職の弘中慧見と秀夫は親しい仲になり、秀夫は住職から「サブ」と呼ばれ、住職は「ロマ」と呼んでいた。安楽寺という場所は、彼にとって日常から非日常へと放たれるところであったのかもしれない。

N.宮崎県立図書館(p.308、p.322、p.339)
特別篇_09宮崎県立図書館子供室入口(焼失)

現在は、宮崎県立美術館と同じ「宮崎総合文化公園」にあるが、旧県立図書館は、1915年に県庁の近くに建てられた。1950年には宮崎県立宮崎図書館から宮崎県立図書館に改称したことが切っ掛けとなり、1951年に帰郷した瑛九のもとに図書館の内装に関わる大きな仕事が待っていた。このことについて、評伝より以下に抜粋する。「宮崎に帰った瑛九は制作に打ちこむ傍で改装中の県立図書館の子供室入口の周囲に、館長中村地平の依頼による壁画を描いた。海と子供をテーマにしたその壁画は、この舘がその年の六月に開館されて以来長く子供たちに親しまれたが、惜しくも一九五九(昭和三四)年四月に同館が全焼した時、その建物と運命を共にしてしまった」ちなみに、壁画完成後から火事で焼ける前まで、図書館では下記の通り瑛九の展覧会が度々開催されていた。

1951年8月16〜20日「瑛九画伯個人展」
1952年3月21〜24日「瑛九画伯個展」
1955年4月21〜25日「瑛九個展」
1957年6月〜3日「瑛九近作個展」

1951年に行われた瑛九の展覧会では、油彩とフォト・デッサンに加え、エッチングが出品される。そのとき目録が発行され、そこに添えられたエッチングにかける瑛九の想いを振り返ってみたい。「創作版画というと日本では木版画を意味しますが、ヨーロッパやアメリカではエッチングと石版画が画家自身の手になる版画として愛されています。レンブラントはじめほとんど偉大な画家たちがエッチングを手掛けていますが、日本では単なる技術としてもてあそばれていて、すぐれた作家も一、二にすぎません。/日本が、浮世絵の為に世界の版画国と思われながら、日本の現代画家たちの手になるエッチングや石版がないのは残念です。僕も長年の版画への夢を最近実現しはじめた所です。僕のエッチングが鑑賞の手引きとなり、そして多数のエッチング愛好者を見出す事が出来たらうれしく思います。」(評伝より「個展目録『瑛九氏の言葉』」)
猪突猛進するタイプのように見えて、実は冷静に機を待っていたことが瑛九の発言から見て取れる。瑛九は国内外の美術動向の中で自分の立ち位置を俯瞰し、次にステップアップする方法として「エッチング」に取り組んでいる。

O.教育会館(pp.307-308)
特別篇_101950年2月11〜14日に教育会館で行われた「瑛九作品展」の展示会場。右から瑛九、都夫人、兄正臣である。
このときの出品作は、油絵92点、フォト・デッサン7点(うち着彩2点)、フォト・コラージュ2点、デッサン2点、水彩4点、合計107点にも及ぶ大個展であった。


特別篇_111945年頃の教育会館の外観写真である。教育会館は、昭和7年頃教員と県民の有志の資金援助で建てられた。正面玄関の二階部分に丸窓があるモダンな建物で、戦災を免れるも2000年に入って老朽化のため解体された。


P.宮崎商工会議所(pp.314-315)
旧商工会議所は大淀川沿いにあった。瑛九は商工会議所でも展覧会を開催している。評伝を紐解くと、1951年1月に本所において35点のフォト・デッサンを出陳したとあり、個展はたいへん盛会で半数が売約された。また、本展で瑛九の熱狂的なサラリーマンのファンが表れた。今まで全く芸術に関心の無かった人物であったが、瑛九の芸術論に心を奪われ、アトリエに毎日のように通った。古代から現代まで展開された瑛九の美術談話を彼はノートに取った。話は夜の1時2時過ぎまで続いたのにもかかわらず、翌朝アトリエに出かけると、真っ白だったキャンバスが作品に変わっていたという。彼は瑛九が魔法使いではないかと疑ったようだ。瑛九の講義ノートが明るめに出ることを願いたい…

Q.日房(p.99)
山田光春は、瑛九と知り合った直後、どのような親交を結んでいたのか、次のように述懐している。当時の瑛九と山田が戯れた地を転々と示していることから、少し長くなるが引用する。
「宮崎の地で秀夫という、唯一の友人をもつことになったぼくは、その後は土曜の午後になると急いでバスに乗って宮崎に生き、橘通りの停留所から郡司家に「ヒデチャンいますか?」と電話するようになった。電話嫌いの彼の電話口での応対はそっけなかったが、間もなくそこへやって来て、それから日曜の夜までのぼくらの生活が始まるのだった。よく橘橋の袂にあった日房というレストランの二階へ上って、霧島連峰や大淀川の静かな流れを眺めながらビールで気炎をあげたもので、それからは大淀川の堤の上を歩いたり、街に戻って古本屋をのぞいたり、時には映画を見たりして、結局は郡司家の彼の部屋にたどりついて夜遅くまで話したのであって、翌日もまた近郊を歩いたり、彼の画質に集って来る若者たちと語り、夜になって妻に帰るのだった。」(※「妻」は宮崎市から北に約30km離れたところにある地名。山田の赴任先の宮崎県児湯郡妻尋常高等小学校があった)
なお、日房があった場所は、現在宮崎市役所になっている。

R.橘橋(p.96他)
特別篇_12現在の橘橋から望む大淀川風景

鈴木氏、佐々木学芸員(県立美術館)、祝迫学芸員(都城市立美術館)に瑛九ゆかりの地を質問したとき、必ず出てきた場所が「橘橋」であった。評伝でも度々出てくる「大淀川」に掛かる橋で、宮崎市街と都城市・鹿児島方面を結んでいる。瑛九は、宮崎を訪れた友人を橘橋の袂に広がっている河原によく連れて行ったようだ。
評伝の中でひときわ目を引く橘橋にまつわるエピソードがある。1934年青島からの帰り道、大淀駅(現南宮崎駅)で下車して橘橋を渡る時であった。秀夫は、「これから四つんばいでどこまで行けるか競争しよう」と従妹や甥っ子に声を掛けて競走しはじめた。子供たちは恥ずかしさから早々に止めても、必死で続ける秀夫の異様な姿に周囲は心底心配したという。
秀夫はこの時期、作品制作を通じて経験を積み上げ、画家として生きる決心を固めていた。ところが、憧れの三岸好太郎を訪ねようとした矢先に、他界した事実を突きつけられ、ショックを受けている。この橘橋での一件は、何であっても「納得するまで、最後までやり抜きたい」という思いからこのような行動に至ったと想像する。

S.青島・海水浴場(p.95、p.207、p.246)
海水浴場のある青島へ行くのが杉田家の恒例行事であり、静養目的で赴くこともしばしばあった。1934年橘橋の一件と合わせて語られているのが青島でのエピソードである。秀夫は生魚を頭から食べはじめ、周囲を驚かせた他、肩まで海の波が押し寄せても座禅を組み続け、鬱積した気持ちをコントロール出来ずにいた。しかし、こうした中でも常に周りから支えられているところをみると、彼は本当に恵まれていると思う。
青島の風景は、実際に瑛九が描いた場所のひとつである。(生誕100年記念瑛九展図録「瑛九油彩画カタログレゾネ」No.38《青島の海》1940年)

T.宮崎農林高等学校(pp.98、99他)
現在の宮崎県総合文化公園(美術館、図書館、芸術劇場)がある敷地に本校は存在した。外観については、都城市立美術館を取材した第14回でも紹介した絵葉書のとおり、かなり洒落た洋風建築であった。
瑛九と親交のあった北尾淳一郎(1896-1973)は本校の教授であった。北尾は元々東京帝国大学農学部で動物学(昆虫)を専攻し、東京農工大学の学長も務めた人物である。瑛九は本校の美術展に出品されていた北尾の写真を見たことが切っ掛けで親しくなる。北尾は、宮崎の風景を被写体にした写真を発表していた。また、北尾が収集したレコードを聴くために、瑛九は度々農林高等学校の官舎に訪れていた。

U.宮崎県宮崎大宮高等学校 [旧宮崎県立宮崎中学校](p.78、p.297、pp.302-303他)
特別篇_13現在の大宮高校前

1924(大正13)年4月瑛九は宮崎県立中学校に入学するが、翌年春には退学している。この場所は、後に大宮高校となった場所で、瑛九はエスペラント語の指導者として本校に訪れていた。評伝には、画家の瑛九とは別の顔をのぞかせている場面を、次のように説明している。「彼はその頃、宮崎エスペラント会の機関誌が戦争のために廃刊されていたのを復刊するために、自ら原稿を書き、編集にも当たって、「LAGOJO」(よろこび)として刊行したが、これも日本人の精神を回復するための一つとして行ったのであろう。彼もまた、湯浅と佐藤が発足させた大宮高校エス語同好会を援助し、講演会を開いて後輩を指導した。同好会の機関誌「Studento en Nova Sento」(新時代の学生)の一号には、その第一回初等講習会の講師が瑛九と都であって、十名が参加したことなどが報道され、彼の筆によって、次のようにその指導法の一端が紹介されている《会話をなるべくエス語でやろう(中略)》(’50・11・5 Studento en Nova Sento 一号)」/このようにエス語習得の心構えを説いた言葉によって、勝れた啓蒙家であり教育者であったといわれる瑛九の一面を垣間見ることができるであろう。ところで大宮高校エス語同好会は翌年交友会の一つの部として認められ、三年生になった湯浅と佐藤との指導による第二回初等講習会には、実に百二十名を超す受講者が集まるまでに成長し、瑛九の直接の指導からは離れていった。」
先に挙げた1950年に教育会館で行われた瑛九の展覧会については、開催日前日にこの当時の大宮高校エスペラント部員の手によって作品が運び込まれ、陳列されたようだ。

V.宮崎県立宮崎大淀高等学校(現宮崎県立宮崎工業高等学校)(p.290)
妹杉子の結婚相手となった栗田恒雄は、大淀高校の教師をしており、彼の推薦から瑛九は本校でエスペラントを教えていたこともあった。なんと、丸島住宅へ引っ越しするときには、大淀高校のエス語の弟子たちがリヤカーを曳いて手伝ったという。ここでも瑛九は慕われた存在であったことが伺える。

W.宮崎神宮(p.43、p.61、p.177、pp.290-291他)
宮崎神宮を取り囲む森林の中には宮崎県総合博物館があり、宮崎県立美術館も近いため、ぜひ足を伸ばしてほしい場所である。神宮は地元では「神武さま」と呼ばれ親しまれているところで、瑛九もまたよく参拝していたところである。評伝には1939年に瑛九が宮崎神宮の社務所で神官と話している様子を郡司盛男が写真に撮ったと書かれている。この頃、眼鏡をはずし、袴にステッキというスタイルでいた瑛九は、生母の墓前や宮崎神宮で静座をしたり、詩を吟じたりして毎日過ごしていたようだ。
また、1949年谷口都を妻として迎えたときにも宮崎神宮へ参拝している。評伝の中で紹介された父直の日記には、簡潔にこう記されている。「九月五日 晴 神宮参拝 秀夫ノ結婚式ヲ行フ 谷口長太氏及婿児玉氏同道来駕タクシー送迎ヲナス 午後五時来リ七時共晩餐辞セリ」とある。なお、この時、杉田家の座敷で挙げた結婚式では、杉田家と谷口家の近親者のみが参列し、モンペ姿の花嫁に仕事着の花婿が三々九度の盃を交わした。そして、義父となる直から都は、次のことを告げられた。「あなたが、抱いている爆弾がいつ爆発するかわからないような秀夫と結婚して下さることは父親として心からうれしく、深く感謝いたします。しかし、秀夫は普通の者とはちがって芸術に進むという大きな問題をもっていますので、いつかは一緒にやって行けない時が来るかも知れません。もしもそんな時が来たならば、いつでもかまいませんから別れて下さい。私からそのことをこの席で特にお願いしておきます」このような優しくも厳しい言葉を都はずっと心に閉まって、瑛九とは最期まで片時も離れなかった。そして、未亡人となっても再婚することなく、先日106歳の誕生日を迎えたという。

X.岡山公園[現平和台公園](pp.171-172)
以前、第2回のアーツ前橋への取材でこの場所については取り挙げたことがあるが、評伝の中でも気に入っている場面のため、改めて下記に抜粋する。岡山公園は宮崎市を一望できる北尾淳一郎一押しの場所である。「午前中に瑛九兄弟と太佐との四人でフミタ写真館で記念撮影をして、午後には北尾の案内で岡山公園へ出かけた。平和公園となった今日では観光客で賑っているそこも、当時は訪れる人とてない小松林の平凡な小山に過ぎなかった。しかし、そこから宮崎平野を望む眺めは北尾が推奨するだけのことはあって、崇高さすら感じさせる壮麗なものであった。われわれが枯草の上に腰をおろして、その広濶な風景にみとれている間に姿を消した瑛九がいつまで待っても戻ってこないので不安になって探しにいったところ、彼はくさむらの茂みのかげにうづくまって、涙で顔をくちゃくちゃにして泣いていた。彼は風景の美しさに感極まって嗚咽していたのである」その後、北尾の書斎では瑛九を慰めるようにバッハのレコードがかけられていた。なんとも言い難い不思議な時間であったと想像する。

話が横道にそれてしまうが、この場面について気にかかってならなかったのは、このとき日名子実三《平和の塔(八紘之基柱)》が既にあったのか、無かったのか、である。公に出ている年号からたどれば、本作は紀元二千六百年記念の事業の一環として1939(昭和14)年5月に着工され、1940(昭和15)年11月には完成している。公園の近所にある宮崎神宮が神武天皇を祀っていることから記念事業が行われるのは、当然と言えば当然で、瑛九らが観に行った当時(1938年1月)は、着工の一年前で既に計画が発表されていたことが予想される。本書には一切この彫刻に触れていないが、瑛九はこの計画を既に知っていた可能性が高い。というのは、次のページには「その翌朝、油絵作品のすべてが片づけられた瑛九の部屋の壁に、『日の丸の 旗はためく 日本の風景』と毛筆で書かれた半紙の貼られていたのを見た」とあるからだ。瑛九は《平和の塔》が建立されることを知っており、ただ宮崎平野の風景に感激したわけではなく、変わりつつある未来の風景を見据えて涙を流していたのだろう。このような鋭敏な感覚の持主であったからこそ、瑛九は表現者として成功することになった。

特別篇_14現在の平和台公園。


特別篇_15エスペラント部の生徒と写る瑛九。1950年頃か。《平和の塔》に続く階段横で撮影されたことが分かる。


Y.宮崎大学(p.316、p.296)
宮崎大学で教鞭を執っていた塩月桃甫(1886- 1954、本名:善吉)について、評伝の中で次のように紹介されている。「桃甫は宮崎市外三財村の出身で東京美術学校卒業後台湾に渡って台湾美術展を創設し、それから三十年間を台湾美術振興のために力を尽くした人物である。敗戦後は宮崎に帰って宮崎大学で後進の指導に当り、瑛九はこの人を宮崎における唯一人の信頼できる先輩画家であるとして次のように言っている。/《宮崎で僕は一人の信頼する老画家を発見してよろこんでゐます。(中略)生活のケウイ〔脅威〕さえなければ、僕も宮崎にゐても、塩月氏がおる以上芸術上はさびしくないような気もしてゐます。しかし生活は仲々つらいし、内職はないので上京をけいかくしたのです。塩月氏としたしくなったのもごくさいきんなのです》(’49・11・?山田宛)」瑛九は、塩月の生活態度や啓蒙活動に強い関心を示していたようだ。
また、瑛九は宮崎大学からの依頼で「バイト」をしていた。いわゆる「仕事」が出来なかった瑛九が「バイト」と呼ぶのは、肖像画を描く事で、安中前宮崎県知事と甲斐善平前宮崎県会議長をモデルにした作品制作のことである。しかし、彼は湯浅英夫への書簡の中で「ぼくは食うために写真を見て肖像を描くといういやな仕事を今日までしなければならなかった」と訴えている。不服そうな顔をして筆を持つ瑛九の姿が目に浮かぶが、どこかほほえましくもある。

Z.宮崎駅(pp.99-100他)
瑛九は勤め人ではないが、当時としたらかなり列車を利用していると思う。車中でどのように過ごしていたか、書いている一文があるため紹介する。「その朝ぼくが広瀬から乗り込んで行った列車に、宮崎駅で写生用具を持って乗ってきた彼は、その頃毎晩のように見るという三十円の月給取になった夢について語り出し、鹿児島につくまでの四時間程の車中をしゃべり続けた」

特別篇_16宮崎駅で列車を待つ瑛九


特別篇_17戦時中に空襲で焼失した後に建てられた宮崎駅の駅舎。昭和30年代に撮影されたもので、この頃にも丸々と成長した特徴的なフェニックスがある。


a.一ッ葉浜(pp.50-51、p.207他)
特別篇_18一ッ葉浜の風景。2011年鈴木素直氏に案内していただいたときに撮影した。評伝に度々出てくるのは、宮崎市街地から一番近い海辺だからである。評伝によると、「秀夫が何時はじめて一ッ葉浜へ行ったのか明らかではないけれども、直の日記に見える限りでは、彼が二年生の夏休みを迎えた七月二十七日に、“正臣秀夫良氏一ッ葉浜へ行く”とあるのが最初になっている」と書かれ、その後も母や姉妹、学校からの遠足で一ッ葉浜へ行っているとある。

b.料亭「松月」(p.210)
評伝によると、1939年に北尾淳一郎は、「宮崎に帰ってきた瑛九を誘って一つ葉に遊び、入江に臨んだ料亭「松月」で一風呂浴びた後ぼら料理で酒を酌み交わしながら芸術談に時を忘れた」という。今はこの場所に「PILAW」というナポリピザの店がある。

c.住吉神社(p.49)
宮崎県の住吉神社は、日向住吉(旧二郎ケ別府)駅から東へ約2卆茲砲△襦I湘舛任盻撒反声劼何度か出てきており、最初に訪れたのは、秀夫が小学1年生になって間もない頃、3人の姉と継母栄と共に神社へ参詣している。

d.宮崎競馬場[現宮崎育成牧場](p.43)
父直の親友岡峰寅二郎がこの場所の近くで開業医(岡峰医院)をしていた。この野外広場では、簡易的な活動写真(映画)の上映会や飛行機のショーなどの巡業があった。小学生の秀夫は二階の窓からその様子を見物していたようだ。

e.富松良夫宅(p.100)
1929(昭和4)年に詩人富松良夫(1903-1954年、宮崎県出身)は26歳のときに自宅敷地内に絵画グループ「白陽会」のアトリエを建てる。瑛九が彼を訪ねて行ったときには、アトリエに転がり込んだと推測できる。瑛九は熊本滞在中に「大阪」という店などでビールを飲み、絵具の購入費に手持ちのお金をつぎ込んでしまう。豪遊の末、お金に困り借金をしようと良夫の所へ行ったこともあった。なお、このとき彼らは言い出せずに再び宿泊先に戻っている。

f.杉田家の墓
特別篇_19杉田家の墓に佇む兄正臣


特別篇_20現在の杉田家の墓(下原墓地)近くに郡司家の墓もある。
鈴木素直氏によるとこのモノクロ写真に掲載されている墓地と現在ある墓地は場所が異なるという。以前は、「宮崎市街図」下半分の左端(西側)辺りに掲載されている「墓地」に杉田家の墓があった。
その他、具体的な場所は特定できなかったが宮崎県内の瑛九ゆかりの地を以下に列挙する。また、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」には今回、掲載しきれなかったが、評伝に出てくる場所としてg〜nのマークをした。

◆画材店「王様」(pp.24-25)
図画教師中心に活動が展開されていた「宮崎美術協会」の創立総会は、この場所で行われていた。山田光春が宮崎の地を踏んで間もない頃、本総会に参加した。山田は1934(昭和9)年東京美術学校図画師範科を卒業し、赴任した先は知らない土地で知らない顔ばかり、このとき心細さは計り知れず「宮崎に来て、ピカソについて語り合う友達のいないことは淋しい」などと訴えていた。総会終了後、青年杉田秀夫(瑛九)が山田に声を掛けたことから、2人の親交がはじまっている。残念なことにこの画材店は、調査不足で確認できなかった。瑛九が画材を調達していたことも考えられるため、いずれ明らかにしたいと思う。

◆大潮社(p.202)
1939年6月9日〜12日「瑛九・杉田秀夫個人展覧会」が開かれる大掛かりな展示だったようである。宮崎市内にあるよう。

◆民芸店「杉」(年譜)
1968年に開催された遺作展では、県立図書館を第一会場とし、この場所を第二会場として活用していた。

◆うどん屋(p.305他)
評伝には「うどん屋」が何回か出てきている。海老原喜之助が宮崎に来た時にも案内している。気になる一行を紹介したい。「海老原は翌年の四月にも宮崎に来た機会に瑛九を激励し、瑛九の作品をもっているうどん屋などへ出かけて、瑛九が大へんお世話になっているそうですが、どうか今後もよろしくお願いします、と挨拶して廻り、デパートに寄って、彼を顧問に招聘するようにと話をして帰ったのだった。」
この「うどん屋」は県内でも老舗の「山盛りうどん」という話を宮崎滞在中に伺った。評伝では確認できなかった。

◆野尻村(pp.255-274)
1945年5月から終戦を迎えるまで疎開していた場所。このとき瑛九は筆ではなくペンを執り小説を書いた。または、書物を読みレコードを聴き、夕方は散歩をする毎日だったようだ。

以上で宮崎県内における瑛九のゆかりの地の調査報告は、いったん終了としたい。私が住む街である埼玉のことも同じように調査したいが、埼玉時代のことについては、評伝から確認できるところが非常に少ない。島崎清海氏からもっと話を伺いたかったと後悔の念が沸き上がるばかりである。ともあれ、埼玉・東京における瑛九の活動場所も少しずつ突き止めていきたいと思う。
今回の記事は、何よりも鈴木素直氏が現地で同行してくださったおかげで、机上で見ていた瑛九の活動場所を立体的に理解することができた。この場を借りて感謝を申し上げたい。なお、後になってご家族から知らされたことだが、私が調査に伺ったときに鈴木氏はかなり体に無理をされていたようである。しかし、迎えてくれた鈴木氏の「瑛九のことを伝えたい」という熱心な思いに背を向けて引き返す気持ちにはなれず、甘えてしまった。その後、体調が優れないようで心配である。一刻も早く回復することを祈っている。

最後に鈴木素直氏が瑛九の「現実について」(『アトリヱ』14巻6号、1937年)を読んで書かれたことをご紹介したい。

「最も時代的な精神はすぐれた知性をもつものと最も単純な生活とにあり」ミルクホールのおかみさんや散髪屋の親方の実話をあげながら、「単純な生活人は知性の実体を無意識な生き方の中で感得している」と述べている。そして「芸術家が単純な生活人の感得だけではすまされないのは、彼には表現しなければならぬ一事があるからだ」と言う。

たとえば、さきの大淀川、一ツ葉浜、宮崎高農など、県民に親しまれ瑛九が愛したものの様相や変容を、私たちは最も時代的な精神でとらえているだろうか。表現しなければならぬ芸術家は現実をどう描いているのだろうか。時の流れを傍観していいはずがない。


参考図版:
「宮崎市街図」1930年頃
杉田正臣編著『瑛九抄』杉田眼科内「根」、1980年
鈴木素直『瑛九・鈔』鉱脈社、1980年
宮崎日日新聞社編『写真集 宮崎100年』宮崎日日新聞社、1982年
野口逸三郎、富永嘉久編『写真集 明治大正昭和 宮崎』国書刊行会、1986年
山田光春『瑛九―評伝と作品』青龍洞、1976年

なかむら まき

●今日のお勧め作品は、瑛九です。
20170513_qei_159瑛九
《子供》
フォトデッサン
25.2×18.9cm

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

中村茉貴〜宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて 特別篇 1

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第18回
宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて


ちょっと寄道….特別篇 1

「美術館に瑛九を観に行く」の第14〜17回では、宮崎県立美術館と都城市立美術館で開催されていた展覧会の模様を紹介した。実はこちらの取材を進めながら、もう一つ並行して取り組んでいたことがあった。「瑛九の聖地巡礼」である。宮崎と云えば瑛九の出身地であることから、宮崎県に訪れたら、ぜひやりたいと長年胸に秘めていたことであった。とはいえ、宮崎の土地勘は全くない。情報不足で読み物に出来るか分からなかったが、生前瑛九と親交のあった宮崎在住の詩人鈴木素直氏の協力を得たことで、ぼんやりとしていた視野がクリアになった。そこで、表題のとおり「ちょっと寄道….特別篇」という枠を設けて、瑛九ゆかりの地を掘下げ、少しでも当時の空気感を届けることができたらと思う。

まず、現地へ行く前に私は『瑛九−評伝と作品』(青龍洞、1976年)から宮崎県に関する地名等をピックアップした。40年以上前に書かれた本書が現在の地名や建物(店舗)名と一致するかどうか、全く皆無に等しかったが、とりあえずめぼしいところを30カ所ほど列挙し、事前に鈴木素直氏と連絡をとった。

宮崎で鈴木氏に対面し、ひとつひとつ状況を伺ってみると、そのうちのほとんどが現存しない、あるいは遠隔地でとても今回のスケジュールではいけないという具合であった。しかし、その中でも瑛九の実家である杉田眼科、宮崎小学校、杉田家の墓標、郡司邸跡地などへは鈴木氏が車で案内できるということで、ガイドをお願いした。

以下には、鈴木氏の証言をもとに瑛九の実家や彼が通った場所を地図上で確認しながら、『瑛九―評伝と作品』に書かれた内容をいくつか参照したい。
参照先:「瑛九の聖地@宮崎」
https://drive.google.com/open?id=1cUFoWwqKUy8CARQBsUp2qtNQtuM&usp=sharing

特別篇_01杉田眼科医院および郡司邸(金城堂包装紙部分)
なお、こちらの画像は、宮崎の老舗銘菓「金城堂」の包装紙に印刷された地図「宮崎市街図」(出版社不明、昭和5年頃)の一部である。これを見ると中央部に横切る「南廣島通り三丁目」付近に「杉田眼科医院」があり、左中央部「南広島通り二丁目」沿いには、「郡司邸」とある。この地図入りの包装紙は、土産選びの最中に偶然見つけ、過去の地名を辿るのに大いに役立った。

特別篇_02「宮崎市街図」上半分・北側(出版社不明、昭和5年頃)
※地図が制作された年代は昭和5年頃であり、解説と表記が異なることもある。
※下記、括弧内のページ番号は出典先『瑛九―評伝と作品』の掲載頁を表す。
※アルファベットは、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」と対応している。


A. 杉田眼科[杉田眼科医院](p.28他)
特別篇_03現在の杉田眼科
瑛九こと杉田秀夫は宮崎県宮崎郡宮崎町大字上別府(現宮崎市橘通東3丁目)に生まれる。『瑛九―評伝と作品』(以下「評伝」)の中で紹介されている瑛九の父直の日記には1911年4月28日に「格別ノ陣痛ナク午後六時三十分男子分娩」と記録されている。杉田家の父直は俳人としての活動をする一方で眼科医院の院長をしていた。

B. 郡司邸(p.50、pp.90-91、pp.116-117、p.211他)
特別篇_04画像の中央にある石碑には、「西郷隆盛駐在之跡」とある。かつてこの地にあった民家に西郷隆盛が約2か月滞在したことを伝える。実は、この場所、杉田家の親戚にあたる郡司邸があったところだと鈴木氏から教えていただいた。「生誕100年記念 瑛九展」の巻末にある油彩画カタログレゾネをみるとNo.81《郡司家の庭》(1942年)という作品がある。

郡司家は代々由緒ある家系で「佐土原島津家の家老職」であった。杉田家とは元々つながりはなかったが、姉杉田君子が郡司良(浜田家から郡司家の嫡子となる)と結婚し、郡司家と深い付き合いを持つようになる。なお、その後の郡司家は、義兄の良を含む3人が相次いで他界したことから、1932(昭和7)年に秀夫は用心棒として郡司家に身を置くようになる。この時期、かなりの数の油絵を制作したようだが、現存するものは極わずかしか存在ない。

特別篇_05郡司家で行われた送別会(「生誕100年記念瑛九展」p.221)
郡司邸は、人を送り迎えする玄関口として度々使用されていた。画像は1940年3月16日に開かれた上京する北尾淳一郎(1896-1973)の送別会の様子である。広々とした洋風の内装が目を惹く。なお、1935年エスペラント特派使節として宮崎に来ていた久保貞次郎の歓迎会も郡司邸で行われ、瑛九はその折に久保と知り合いになった。瑛九は「弟の秀夫です」と久保にあいさつをし、画室でシュルレアリスムの話をしたようだ。


C. フミタ写真館(p.120)
杉田家の向かいにあったという写真館。残念ながら現存しない。こちらの館主は、瑛九に対し、たいへん協力的であったと伝えている。こちらの写真館がなければ、瑛九の「フォトデッサン」の傑作は生まれなかったかもしれない。評伝の中に書かれた内容をみると、古賀春江画集を見たあとに制作意欲が高まっていた瑛九は「フミタ写真館の暗室へ飛び込んで猛然と制作を開始した。この時杉子や盛男を助手に頼んだけれども、そこの館主府味田安彦もこれを応援し、薬品の調合などを手伝っただけでなく、時々はウィスキーのサービスもしたものだと語っている」とある。このとき制作されたのが、『眠りの理由』(10点1組)を含む百点にも及ぶフォトデッサン(印画紙による作品)であった。その後も瑛九は、フミタ写真舘の暗室を借りることがあったようだ。「生誕100年記念 瑛九展」の巻末にある油彩画カタログレゾネNo.57には、当館をモチーフにした《フミタ写真館》(1941年、45.4×33.7、宮崎県立美術館蔵)が掲載されている。

D. 知事官舎(p.110)
当時、知事官舎は郡司邸の隣りにあった。1935年瑛九は、知事官舎に滞在中の清水登之(1887-1945年、栃木県出身)に会うことになっていたようだが、上野で開かれた中央美術展を見てきた帰りで、非常に気が立っており、ついに会うことはなかった。山田宛の書簡には「清水にはアワン。大家などにはアワンことにするです。本をかって、そいつをよむです。ハチきれるゼツボウ感でキャンバスをタタこう。ゼツボウが出発だ。」と綴っている。
なお、知事官舎が近いためか《安中宮崎県知事》(1951年、宮崎大学所蔵、「生誕100年記念 瑛九展」レゾネNo.216)という作品がある。1945年宮崎県知事に就任した安中忠雄を描いた肖像画である。

E. 谷口外科医院[私立宮崎県立病院](p.252)
1944年5月瑛九は宮崎神宮で腹痛に襲われ、この病院で腸捻転の手術を受けている。このとき瑛九は、担当医のことを次のように書いている。「院長の谷口熊雄は宮崎県立病院の院長として九州大学から召聘され、後に谷口外科医院を創設したこの土地の名士であり、担当の南田弘は文学芸術に関心をもつ若い医師で、回診の際に彼のところで画集を見ながらしばらく話して行くようなこともしばしばあったという」
術後の回復は良好とはいえず、瑛九は再入院するが、そのときも瑛九は南田医師のことを書簡に書き記している。瑛九は、手術後一年は重いものも持たないようにと南田医師からは注意を受けていたが、院長は特に注意するようにとは口にしなかったために、特に用心しなかった。「医術は経験だけではない」と瑛九は感じたようだ。
病院があった場所は、現在みやざきアートセンターが建つ。

F. 八幡社[八幡神社、現宮崎八幡宮](p.38)
杉田家の氏神を祀る神社であり、秀夫誕生のお宮参りはこちらであったと父直の日記に綴られている。

G. 安心堂書店(p.172)
瑛九は父親譲りの無類の読書好きで、小学生の頃には読書に集中しすぎるあまり、教員に怒られるほどであった。「古本屋」は、評伝の中で度々目にするが、兄正臣の日記から家の近くの「安心堂」であることが分かる。

なお、地図上の水色部分は、それぞれ墓地、教会、映画館である。鈴木氏によれば、「墓地」と書かれた場所にかつて杉田家の墓があった。杉田家の向かいにある「教会」は絵のモチーフになった可能性があるためにマークした。また、瑛九は、しばしば映画館に通ったことが評伝で確認することができる。「大成座」が果たして馴染みのところだったか定かではないが、可能性のひとつとしてマークしておいた。なお、杉田眼科医院の横の通りを北に進むと現在山形屋があり、その場所に「ロマン座」という映画館もあった。

以下は、「宮崎市街図」から外れたところにある瑛九ゆかりの地である。杉田家からみて北側にある地で位置情報は、冒頭で示した「マイマップ」の方で確認してほしい。

H. 橘通りロータリー
特別篇_06橘通りロータリー 現橘通り三丁目付近(『写真集 宮崎100年』宮崎日日新聞社、1982年、p.371)
鈴木素直氏よるとかつて橘通りの交差点にあったロータリーに、瑛九はよく酔っぱらって大の字で寝ていたという。ちなみに評伝では居酒屋「真」や「巴」に瑛九が通っていたことを伝えている。(p.172)


I. ヒマワリ画廊(p.290)
特別篇_07従弟の鳥原茂之が宮崎市広島通りに画廊を設立する。記念すべき第一回は、杉田作郎(父直)の傘寿の祝いで「杉田作郎氏短冊色紙展」が行われる。収集した芭蕉、蕪村、一茶の他、親交のあった紅葉、子規、虚子、不折、芋銭など、著名な人物のものが展示された。画像は、今の画廊で、一階は画材店で二階は会場として利用している。

J. 西村楽器店(p.114、p.117、p.148)
記憶に新しい東京国立近代美術館の常設展で展示物の中に、「西村楽器店」の会場名が入った資料があった。評伝によると店主池田綱四郎のはからいにより、瑛九らは2階のスペースを会場として度々活用していた。まさにこの場所で「ふるさと社」の展示、および宮崎での初の瑛九個展(1936年6月12・13日)が開催された。また、エスペラント劇「ザメンホフの夕べ」もこちらで行われていた。

特別篇_08宮崎県立美術館の佐々木学芸員から伺って、店舗のあった橘通り西3丁目訪ね歩いた。今はコーヒーショップに変わってしまったが、白い建物内に入っている店舗の説明を見ると「ニシムラビル」とあった。楽器店はなくなってしまったわけではなく、宮崎市内清水1丁目と大淀川に渡った先の中村東3丁目に店舗が移った他、九州・四国へと拡大している。


K. 丸島住宅(p.290、p.300、p.304)
特別篇_09画像は、瑛九がエスペラントを教えていた宮崎大宮高校の生徒たちと写っている丸島住宅の様子。鈴木氏から提供いただいた。
瑛九は1948年谷口都と結婚し、丸島町の市営住宅に引っ越すが、まだ戦災後の復興中で適当なところは無く、画像のとおり木造のバラックであり、実家暮らしとは目に見えてかなりの落差があったよう。海老原喜之助が瑛九を訪ねた時について、評伝では以下のように書かれている。「海老原は須田〔国太郎〕に誘われるままに宮崎へ来たのであった。そして内田〔耕平〕から瑛九のいるところを聞くとすぐに案内をたのみ、途中で杉田家を見て丸島町の彼の家へ行った。杉田家の門前に立った海老原は中へ入ろうとはせず、〔中略〕都に「この世に人間はいくらでもいるけれども、本当の人間というものはまれにしかいないのだから、どうか瑛九を大切にしてください。よろしくお願いします」と、丁寧に頭を下げて頼んだ」
2人きりになった瑛九と妻都は、普段からエスペラント語で会話していたようだ。慎ましやかな暮らしであっても、実りの多い暮らしであったことが想像される。

今回は、美術館の作品鑑賞ではないが、瑛九の誕生・芸術家デビュー・上京・病気・結婚など、人生の節目節目を地図上の場所から辿ることが出来た。瑛九が生活した環境や体験場所を地図上から探ることで、作品が描かれた「地」がどういうところだったのか、どういう経験を経て作品が制作されたのか想像しやすくなった。具体的に主な制作地をあげると、実家の杉田家・郡司邸・フミタ写真館・丸島住宅であったが、評伝でこれらの場所を見ると、各地での経験が瑛九に様々なインスピレーションを与えていたことが伺い知れる。郡司家では油彩画制作に傾倒し、フミタ写真館で印画紙による作品(フォトデッサン)を作り、丸島住宅では妻都の姿を多く描いている。想像以上に「画家と場所」が密接な関係にあることに気付かされた。

まだまだ紹介したいことは山盛りあるが、果たしてまとめきれるだろうか…次回は、「宮崎市街図」南側を中心に瑛九の足跡をたどりたい。

なかむら まき

*20170504/21時5分画廊亭主より追伸
石原輝雄さんからコメントをいただきました(下記参照)。この原稿をつくるのにヘロヘロになった中村さん、連休はひっくりかえっていたらしいけれど、石原さんのコメントで元気回復したらしい。読んでくださる方あってこそのブログです。引き続きのご愛読をお願いします。

●今日のお勧め作品は瑛九のフォトデッサンです。
20150504_qei_140_work瑛九
「作品」
フォトデッサン
40.8x31.9cm


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

中村茉貴〜宮崎県立美術館「第4期コレクション展 瑛九の世界III」

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第17回

宮崎県立美術館
「第4期コレクション展 瑛九の世界III」


瑛九の収蔵作品数国内一である宮崎県立美術館に訪れた。今回、取材に応じていただいた佐々木明子学芸員によると、美術館所蔵の作品の総点数は980点。油彩100点、水彩41点、素描80点、版画589点、写真170点である。加えて1階展示室3は、別名「瑛九展示室」として、常時瑛九の作品や関係資料が展示されている。

宮崎県立美術館_01夕暮れ時の宮崎県立美術館外観。美術館は県総合文化公園の中に施設され、同じ公園内に県立図書館、県立芸術劇場が併設されている。美術館から見て左側の図書館には、父杉田直が収集した「杉田文庫」が保管され、右側の芸術劇場には瑛九の《田園B》を再現した緞帳がある。宮崎大学教育学部教授石川千佳子先生が《田園B》について詳しく書かれているため、下記に紹介する。
(参考:影山幸一「瑛九《田園B》──発光する反近代『石川千佳子』」、art scapeアート・アーカイブ探求2016年10月15日号より、http://artscape.jp/study/art-achive/10128470_1982.html


宮崎県立美術館_02会場入口。デモクラート美術家協会の宣言文と写真パネル、瑛九の略年譜が展示されている。


本展は、コレクション展示の第4期目「瑛九の世界掘廚任△襦1誘紊梁召法◆峙楮蠅糧術掘廖◆嵬症淵戰好鉢掘廖◆屬△佞譴襯ぅ瓠璽検廚3本のコレクション展が同時開催されていた。第1~3期にも瑛九の特設展示が開催され、第1期目は版画集を中心にした展示、第2期目は子供向けのミュージアム探検の企画に合わせて瑛九の作品を出品し、第3期目は音楽をテーマにしたものであった。第4期目については、グループに着目した展示である。つまり、年間を通して瑛九の作品を盛り込んだ展示が実施され、いつ来館しても鑑賞できるようになっている。

宮崎県立美術館_03《花の散歩》1954年、33.3×24.0、油彩・板、「QEi」のサインあり


宮崎県立美術館_04《作品- E》1936 年、45.7×53.4、油彩・キャンバス
初期の抽象的な作例のひとつ。2種類の長方形の物体をスタンプのように、幾度も画面に押し付けて構成している。


宮崎県立美術館_05向かって右から《女》1952年、27.5×22.5、フォト・デッサン
《Visitors to a Ballet Performance》、1950年、45.7 ×55.8、フォト・デッサン
フォト・デッサン集『眠りの理由』より、1936年、22.3×27.2、フォト・デッサン
「フォト・デッサン」の中でも異なる表現方法が認められる3点。《女》は印画紙にスプレー状のやわらかな彩色を施している。真ん中は、感光時に型紙を移動して、イタリア未来派のような効果を狙った表現を試みている。


宮崎県立美術館_06右から《鳥》1956年、52.9×45.4、油彩・キャンバス、「QEi」のサインあり
《蝶と女》1950年、80.7×65.5、油彩・合板、「Q」のサインあり
《並樹A》1943年、33.3×24.3、油彩・キャンバス


宮崎県立美術館_07《花火C》1957年、45.5×53.1、油彩・合板、「QEi」のサインあり
個々の色が画面を動き回っているような作品。W・カンディンスキーの抽象絵画を想わせるが、瑛九の作り出す画面には鋭さはなく、牧歌的な暖かさを感じる。


宮崎県立美術館_08左《飛びちる花びら》1958年、80.3×116.3、油彩・キャンバス、「Q」のサインあり
右《田園B》1959年、130.7×194.0、油彩・キャンバス、「QEi」のサインあり


宮崎県立美術館_09《田園B》部分
オレンジ色を差した「光源」には、《作品- E》のスタンプのような表現が見受けられる。瑛九の作品は、技法材料が変わっても過去の技法がふっと現れることがある。そこを発見するのが作品鑑賞時のたのしみのひとつである。


宮崎県立美術館_10《つばさ》1959年、259.0×181.8、油彩・キャンバス
佐々木学芸員によると、瑛九を目的として訪れる来館者は、特に晩年の作品を好むため、本作か《田園B》のどちらか1点を必ず瑛九展示室で公開しているという。


実は、本作《つばさ》を制作していた前後の瑛九のようすについて、文通仲間による記録が残っている。1959年10月美術教師木水育夫は、浦和(現さいたま市)の瑛九のアトリエを訪問し、次のことを目の当たりにしていた。

瑛九はランニングシャツ一枚で脚立に乗って二〇〇号の油絵にとりくんでいました。見とれていたぼくを見つけて、「筆がね、こうしてすーっと画面に吸い込まれるのですよ。」これがそのときの挨拶でした。「寝不足がたたって、こんなに足が腫むのです。」と足をさするのです。彼はアトリエいっぱいに立ててある大作を指さして、「弾丸は出来た。来年は大いに暴れましょう。」と元気に語ったのですが、その後彼は病魔におそわれたのです。

十一月。瑛九入院のしらせを受け、浦和の病院へ見舞いました。彼はベッドの上で、「大作が出来ているから、庭に出して張りめぐらしその中で見てほしい。」といいました。ぼくたちはアトリエから大作を庭に出して、彼のいうように見ました。

(P.Sプランニング編「木水さん語録」『瑛九からの手紙』瑛九美術館、2000年、p.179)

この当時の瑛九は、体調不良により半分無意識で点を打つ作業を続けていたのだろう。抽象画ではあるが、制作過程を想像するとシュルレアリスムの「自動筆記」のような状態であった。妻都によれば、食事もろくに採らずに絵筆を握っていたと証言している。陽光がさす庭に張り巡らされた瑛九の大作を鑑賞した木水等にとっては、光に包まれ、まさに夢心地だったと思う。

宮崎県立美術館_11向かって左から
《森の会話》(SCALE Iより、林グラフィックプレスによる後刷り、ed.11/60)1953 年、36.1 ×27.2、銅版画
《れい明》1957年、52.9×42.0、リトグラフ、「QEi」のサインあり
《舞台のピエロ》1957年、53.4×40.5、リトグラフ、「QEi」のサインあり、ed.17/20


宮崎県立美術館_12ここからは、グループに所属していた当時の作品や同志の作品が展示されたコーナー。向かって左側から、
《タバコを吸う女》1935年、32.4×23.7、油彩・ボール紙
《街》1947年、116.8×91.5、油彩・キャンバス、「Q Ei」のサインあり
《プロフィル》1950年、22.7×19.3、フォト・デッサン


《タバコを吸う女》本作は西村楽器店にて第1回「ふるさと社」展に出品された。「ふるさと社」のメンバーは、第15回都城市立美術館に列挙した通り、主に宮崎の有志と結成された。後者の《街》は第13回「自由美術家協会」展に出品され、《プロフィル》は第1回「デモクラート美術家協会」展の出品作。

宮崎県立美術館_13左から 難波田龍起《古代図様》1938年、31.5×40.4、油彩・キャンバス、矢橋六郎《竹林》1940年、80.3×99.8、油彩・キャンバス


1937年、瑛九は自由美術家協会の創立会員のひとりであるが、翌年に出品を見送り、その後退会して復帰している。創立当初から入退会や「改称」の多い団体で著名な人物が会を通じて作品を出品していた。2人も自由美術家協会に所属しているが、矢橋は山口薫等と1950年に退会し、難波田は1959年退会している。瑛九の関係者から伺った話では、戦時下にあった当時、「自由」や「創造」などを掲げた活動が難しく、常に目を気にするような状況があったようだ。戦後も美術界の活気が戻らず、「毎日連合展」が企画されることなる。山田光春『瑛九―評伝と作品』(青龍洞、1976年)には、その当時の様子を次のように書いている。少し長くなるが、当時のようすを伝える貴重な証言のためご紹介したい。

自由美術の仲間には、小野里[オノサト・トシノブ]のようにシベリヤに抑留された者や、荒井[竜男]のように家族とともに京都や北海道を転々とした末に東京に舞い戻った者などもいたけれども、多くは山口[薫]の群馬県箕輪や矢橋の岐阜県赤坂といったように、それぞれの郷里へ疎開したままになっていた。そのために出足はおくれ、一九四八(昭和二三)年の一月に小規模ながら三越で会員展を開き、その秋大阪で戦後はじめての公募展を開いたのがやっとであった。
しかしまだ、本格的な活動を始めたとはいえず、敗戦後の厳しい現実の中で、どのように活動を進めて行くべきかとの意見をまとめることは出来なかったので、翌年の二月、難波田、森[芳雄]、荒井等の在京会員に長谷川[三郎]らを加えた数名の会員が箕輪の山口の所に集まって協議をした。そこでの中心課題が、今後会をどのように発展させるべきかとの方針と方策の決定にあったことはいうまでもなく、討議は会の組織の改革という点にしぼられていった。戦後の荒波を乗り越えて会を前進させるには会員十数名といった貧弱な組織では困難だから、会員を充足することが目下の急務だとの意見は一致したけれども、その具体的な実現方法については、一挙に大量の会員を補充して会の体質改善を図るべきだとする説と、急速な建て直し策には危険が伴うから、徐々に拡充を進めるべきは早急に会員を大幅に増強して、名称を自由美術協会(家を除く)と改めて再出発することを決定した。そこで、新しい会員にはこれまでの会友と、麻生三郎、井上長三郎、糸園和三郎、小山田二郎、大野五郎、寺田正明、末松正樹、鶴岡政男、吉井忠、佐田勝、松本俊介、広幡憲等の新人を迎えることにしたのであって、瑛九の会員復帰もこうした改革の波に乗ったものであった。[中略]こうして戦後の活動を開始した自由美術協会は、この年の五月に設けられた「毎日連合展」にも参加し、十月には会場をこれまでの美術協会から東京都美術館に移して第九回展を開いたのであって、瑛九もそれに参加した。[pp.295‐296]

※このとき瑛九が毎日連合展に出品した作品は、《鳩》(生誕100年展図録レゾネNo.191)《窓を開く》(レゾネNo.189《窓をあける》)
※[ ]は筆者によるもの

宮崎県立美術館_14デモクラート美術家協会会員の作品。左から
泉茂《作品(蝶)》1959年、33.3×45.3、油彩・キャンバス
幹英生《風景》1953年、38.0×45.5、油彩・キャンバス
内田耕平《作品》年代不詳、27.2×21.9、油彩・ボール紙
加藤正《敗戦ヒロシマ(赤)血の爆発》1953年、60.4×72.6、油彩・キャンバス


宮崎県立美術館_15左の3冊は機関紙「DEMOKRATO」No.1-3、右は「デモクラート美術家協会解散通知」葉書


内田耕平と加藤正はともに宮崎県串間市出身である。今回は展示されていなかったが、同協会の井山忠行もまた宮崎出身である。

ちょっと寄道…

宮崎県立美術館_16みやざきアートセンター
ここは、2009年10月に宮崎市橘通3丁目にオープンした複合文化施設で、展示ギャラリー、創作アトリエ、小ホール、交流サロン、キッズルーム、多目的室、ライブラリー、屋上庭園が設置されている。市が管轄する施設ではあるが、運営は民間団体に委託されている「指定管理者制度」が導入されている。建物にはそこここに利用者がいて、「場」に活気があった。センター入口前の広場では、ペンキで塗られたアップライトピアノがあり、ひとりの若い男性がショパンの「華麗なる大円舞曲」を軽快に弾いていた。ニット帽に革のジャケット姿というラフな格好の彼は、ただそこにピアノがあったから弾いているというようすであった。時々通行人がベンチに腰を落ち着かせて、ピアノに耳を傾けていた。このような場所は中々課題が多いという噂を耳にするがここは、「箱もの」にならず、すっかり地域に馴染んでいるようすであった。このとき、イラストレーター「生鯣狼繊彭犬行われ、盛況だった。80年代の映画「スター・ウォーズ」等のポスターを手掛けたことで全国的に知られているが、宮崎ゆかりの人物として地元で高く評価されている。


ところで、こちらの5階アートスペースでは、宮崎ゆかり作家を紹介する常設展が行われていることもある。このときは、企画展の会場として利用されていたが、瑛九の作品も公開することがあったという。私は図々しくも瑛九の作品について何か紙ベースで閲覧できる資料がないか伺ったところ、宮崎市地域振興部文化スポーツ課の久米徳太郎氏が急きょ要望に応えてくださった。取材や研究目的といっても、忙しい合間をぬって機転を利かせていただいたことは非常に嬉しかった。聞くと久米氏は県立美術館の佐々木明子学芸員の教え子だったという。今回の記事を書くにあたって、お二人にはたいへんお世話になった。この場を借りて厚く感謝申し上げたい。

宮崎市が所蔵する瑛九の作品総点数は38点。
版画28点(銅版画18点、リトグラフ10点)
フォト・デッサン10点

本稿ではフォト・デッサンのタイトルを以下に抜粋する。
《波のたわむれ》25.4×30.5
《想い出》22.6×28.0
《光と影》22.15×28.4
《シルク》21.2×28.4
《プロフィル》22.15×27.3
《家族》不詳
《犬》21.9×26.8
《夢》22.0×22.0
《あこがれ》21.8×27.6
《二人》不詳

今後、5階ギャラリーで瑛九が展示される機会があるかどうかはわからないが、現代美術を中心にした展示や市展などが開催されている。県外から宮崎県立美術館に足を伸ばすときには、ぜひ立ち寄りたいアートスポットのひとつである。
会場:みやざきアートセンター
休館:毎週火曜日(火曜日が休日の場合は翌平日)は、18:00まで(入場は17:00まで)
時間:10:00〜22:00(入場は19:30まで)

宮崎県立美術館_17宮崎県立美術館のすぐ近くに宮崎神宮がある。銅鳥居に銅版葺きの屋根。以前、参拝したときは野生の鶏がいたが寒さのためどこかに隠れてしまったのだろうか。


宮崎県立美術館_18宮崎神宮の境内にある宮崎神宮徴古館。登録有形文化財である。このときは「揮毫作品展会場」として内部公開していた。


なかむら まき

●展覧会のご案内
「第4期コレクション展 瑛九の世界III」
会期:2017年1月5日[木]〜2017年4月16日[日]
会場:宮崎県立美術館
休館:月曜、祝日の翌日(土・日曜日、祝日を除く)
時間:10:00〜18:00(展示室への入室は17:30まで)

宮崎市出身の瑛九(本名:杉田秀夫)は、生涯を通じて常に新しい表現を求め、写真や版画、油彩など様々な技法に取り組みました。またその作品も、初期から晩年に至るまで、印象派やシュルレアリスム(超現実主義)風、抽象的な作品など、多彩に変化しました。
20代でフォト・デッサン集『眠りの理由』を刊行し、一躍美術界で脚光を浴びた瑛九は、様々な技法や表現を模索した後に、その集大成ともいえる点描による絵画空間へたどり着きました。
 今回の展示では、油彩や版画など、各領域の代表的な作品に加え、瑛九の美術団体における活動を特集して紹介します。没後60年近くを経て、今なお輝き続ける瑛九作品の魅力をお楽しみください。
(宮崎県立美術館HPより転載)

●今日のお勧め作品は瑛九のフォトデッサンです。
瑛九「子供」
瑛九
子供
フォトデッサン
25.2×18.9cm

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

中村茉貴〜都城市立美術館「瑛九芸術の迷宮へ」その3

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第16回

都城市立美術館
UMK寄託作品による「瑛九芸術の迷宮へ」その3


 都城市立美術館で行われた展覧会に関するレポートも今回で最後を迎える。本展は、「1. 瑛九のはじまり」、「2. 増大するイメージ」、「3.色と形の挑戦」と三部構成になっており、その1では、1階会場1・2章のフォト・デッサンおよびガラス絵、初期油彩画を見てきた。その2は2階会場で展示されていた都城市ゆかりの詩人富松良夫と瑛九について、そして、その3では、2・3章に出品された銅版画、リトグラフ、晩年の油彩画等を紹介したい。

都城市立美術館_26階段を2階に上がると、《神話》(1956年、紙・エッチング、右下に鉛筆で「Q Ei」のサインあり、[特])が目に付くところに展示されている。会場を見渡すと瑛九の版画が整然と並んでいる。広々とした会場をも埋め尽くす作品点数の多さは、まさに圧巻である。
向かって右側の壁には、林グラフィックプレスが発行した銅版画の後刷り画集「SCALE」のシーリーズが展示されている。手前からSCALE兇茲蝓圓いり》(1957年、紙・エッチング)、SCALE靴茲蝓塢と少女》(1957年、紙・エッチング)、SCALE靴茲蝓埓院奸1956年、紙・エッチング、ドライポイント、ルーレット)、SCALE兇茲蝓圓燭燭い》(1956年、紙・エッチング)、SCALE垢茲蝓埒垢寮此奸1958年、紙・エッチング、館蔵品)、SCALE垢茲蝓埀世硫屐奸1958年、紙・エッチング、館蔵品)


都城市立美術館_27右から《街B》(1953年、紙・エッチング)、《なやみ》(1953年、紙・エッチング、[特])、《忘れた道》(1957年、紙・エッチング)


都城市立美術館_28《叫び》(1954年、紙・エッチング)、《小さな人魚》(1954年、紙・エッチング)

都城市立美術館_29参考画像:林グラフィックプレスで刷られたエッチングにはスタンプによる裏書がある。


original etching by Ei Q
limited edition of 60
published by Hayashi Graphic Press

林グラフィックプレスを設立した林健夫は、池田満寿夫と親交のあった人物としても知られる。都夫人の許可のもと瑛九が残した銅版の原版から後刷りされた版画集「SCALE」は、機銑后1974-76年、83年刊行)まであり、カタログも発行している。未発表作を含め全278点の銅版画(後刷り)が収録されていることからレゾネとして代用されることもしばしばある(全作品ではないが)。

銅版画のコーナーの次は、リトグラフの作品が並ぶコーナー。リトだけでも23点あり見応えがある。

都城市立美術館_30向かって右側から《蟻のあしあと》(1956年、紙・リトグラフ、[特])、《白い丸》(1956年、紙・リトグラフ、[特])、《街の燈》(1956年、紙・リトグラフ)、《スケート》(1956年、紙・リトグラフ)、《舟》(1956年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり)、《青の構成》(1956年、紙・リトグラフ、「Q」[特])、《夜明けに飛ぶ》(1956年、紙・リトグラフ、スタンプサインあり)※スタンプ(真岡市蔵)は久保貞次郎制作


都城市立美術館_31左から《航海》(1956年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《輪》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《拡声器》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《海底》(1957年、紙・リトグラフ、[特])、《考える鷺》(1957年、紙・リトフラフ)


都城市立美術館_32右から《迷路》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《風が吹きはじめる》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《舞台のピエロ》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《春の風》(1957年、紙・リトグラフ)


都城市立美術館_33右から《赤き微小》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり)、《飛ぶ》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり)、《流れるかげ》(1958年、紙・リトグラフ、「Q」あり、[特])


都城市立美術館_34右から《壁》(1958年、26.0×21.0、「Q Ei」あり、フォト・デッサン)、《顔》(1958年、25.5×20.5、「Q Ei」あり、フォト・デッサン)


都城市立美術館_35《森のささやき》(1958年、25.5×18.0、ボード・水彩、鉛筆により「Q Ei」、[特])、《春のめざめ》(1958年、43.5×28.5、紙・水彩、「Q Ei」あり、[特])、《虚ろな記憶》(1959年、38.5×22.5、紙・水彩、ペン、「Q Ei」あり、[特])


都城市立美術館_36《空の旅》(1957年、41.0×31.8、キャンバス・油彩、「Q Ei」あり、[特])、《土の中》(1957年、27.3×22.0、キャンバス・油彩、「Q」あり、[特])、《丸の遊び》(1958年、板・油彩、「Q」あり、[特])、《森》(1959年、キャンバス、油彩、「Q」あり、[特])


3回に渡って宮崎県の都城市立美術館の展覧会を紹介してきた。こちらの美術館に訪問して感じたことは、郷土の美術家を展示することが実に自然であるということ。家族写真を飾るかのように、シンプルで気持ちのいい雰囲気があった。いつからか地方美術館でも人気取りのための展示と高額な観覧料を払わないと入場できなくなってきたが、ここでは特別展以外は従来の博物館法に近いスタンスで作品を無料公開している。また、どこの館も展覧会事業費や、まして作品購入費は開館時よりもグッと落ち込んでいるはずであるが、それを見かねてか、テレビ宮崎(UMK)が代わって作品をコレクションしている。良いバランスで美術館が保たれている。薩摩藩の気風によるものかもしれない。平日の昼下がり、確かに来館者は少なかった。しかし、2人組のご婦人が「瑛九さん…」と親しげに呼んで作品を覗く様子に、ほっとする思いがした。

***

ちょっと寄道…

前回、瑛九と親交のあった都城市の詩人「富松良夫」を紹介した。
美術館で展示されていた詩集は高値で入手困難であるが、宮崎県の出版社「鉱脈社」で下記のように再編されている。

都城市立美術館_37富松良夫『黙示』表紙


都城市立美術館_38杉田正臣『父、暁天、瑛九抄』表紙


巻末を見ると、本書は「みやざき21世紀文庫」シリーズとして今まで刊行されたタイトルがズラリと並んでいる。小さな字でそれに付随して本シリーズが出来た経緯を書いている。たいへんユニークで興味深い取り組みをされているので下記に紹介したい。

平成七年秋に宮崎県立図書館で開催され、好評を得た「21世紀の子供たちに伝えるみやざきの100冊の本」展。「宮崎にもこんないい本があったのか」と評判を呼び「ぜひ手に入れたい」という声が相次ぎました。こうした県民の声に応えて、100冊の本を逐次刊行していこうと編集委員会が結成され、平成八年八月から「みやざき21世紀文庫」として第一期(全40巻、解説付。カバー絵・瑛九)の刊行が始まりました。

これこそ郷土愛の結晶である。史料編纂所が発行する県史とは別に読み物として親しみやすい。「郷土誌」ではあるが、ただの「郷土誌」ではない存在感である。一部の巻はネットショップで購入できて、つい最近まで東京国立近代美術館で行われた瑛九展の会期中には、兄正臣の著書がミュージアムショップで平置きされていた。そして、下線で示したように本シリーズは、全て「カバー絵・瑛九」なのである。宮崎県が瑛九をいかにだいじにしているのか一目瞭然である。

宮崎訪問時には、本シリーズの表紙を確認したいと思い宮崎県立図書館へ立ち寄ったものの、手に取る時間がなかった。宮崎でやり残してきたことのひとつで頭の片隅に置き、ブログ記事の構想を練っていると、段々と表紙のことが気になり、頭の中心にまでにじり寄ってきた。「このシリーズは100冊まであるのか。出版されているとすれば、瑛九名品100選ということになるのではないか」と、妄想が膨らんだ。

そこで、駄目もとで出版社に直接問い合わせをしたところ、有難いことに、鉱脈社の鳥井氏が対応していただいた。現在の発行されているタイトルと表紙絵について情報提供していただいたので、下記にリストを公表したい。

<鉱脈社 「みやざき21世紀文庫」シリーズ>
富松良夫『新編 黙示』 1996年: 《つばさ》 1959年、油彩、宮崎県立美術館蔵
中村地平『日向』 1996年: 《田園B》 1959年、油彩、宮崎県立図書館蔵
若山牧水『郷里の山河』1996年: 《泉》 1959年、油彩、個人蔵
石川恒太郎『日向ものしり帳』1996年: 《ブーケ(花束)》 1959年、油彩、宮崎県立美術館蔵
黒木淳吉『タ映えの村』1996年: 《題不明》1958年、油彩、宮崎県立美術館蔵
戸高保『白い浮雲の彼方に』1996年: 《蟻のあしあと》 1956年、リトグラフ、宮崎県立美術館蔵
三戸サツヱ『幸島のサル』1996年: 《丸のあそび》 1958年、油彩、宮崎県立美術館蔵
小野和道『浮上する風景』1996年: 《まと水》 1957年、油彩、長島美術館蔵
小川全夫『よだきぼの世界』1996年: 《丸( 2 )》 1958年、油彩、福岡市美術館蔵
城雪穂『藤江監物私譜/笛女覚え書』1996年: 《題不明》1957年、油彩、宮崎県立美術館蔵
渡辺修三『新編 谷間の人』1997年: 《愛の歌》1957年、油彩、宮崎県立美術館蔵
青山幹雄『宮崎の田の神像』1997年: 《まつり》 1958年、油彩、宮崎県立美術館蔵
岩切章太郎『無尽灯』1997年: 《ながれ一たそがれ》 1959年、油彩、個人蔵
中村地平『中村地平小説集』1997年: 《風船(仮)》1956年、油彩、個人蔵
松田壽男『日向の風土と観光』1997年: 《眼が廻る》 1955年、油彩、宮崎県立美術館蔵
黒木清次『日向のおんな』1997年: 《鳥》 1956年、油彩、宮崎県立美術館蔵
三原七郎『三等院長のメモ』1997年: 《アブストラクション》制作年不明、水彩、宮崎県立美術館蔵
三上謙一郎『死者を追って』1997年: 《花火》制作年不明、油彩、宮崎県立美術館蔵
賀来飛霞『高千穂採薬記』1997年: 《子供たち》1955‐56年、素描、宮崎県立美術館蔵
宮永真弓『海から聞こえる笛/つゆ草の花』1997年: 《芽》 1954年、油彩、宮崎県立美術館蔵
大迫倫子『娘時代』1998年: 《青の動き》 1956年、油彩、宮崎県立美術館蔵
神戸雄一『詩集 鶴、小説集番人』 1998年: 《空》 1957年、工ッチング、宮崎県立美術館蔵
安田尚義『高鍋藩史話』1998年 : 《蜃気楼》1957年、油彩、個人蔵
渡辺綱纜『紫陽花いろの空の下で』1999年: 《街》 1947年、油彩、宮崎県立美術館蔵
みやざき21世紀文庫編集委員会編『宮崎縣嘉績誌』1999年: 《題不明》制作年不明、フォト・デッサン、宮崎県立美術館蔵
若山甲蔵『日向の言葉』2000年: 《だだっこ》 1954年、油彩、宮崎県立美術館蔵
杉田正臣『父、暁天、瑛九抄』2000年: 《明るい森の中》 1958年、水彩、宮崎県立美術館蔵
以上、27巻

作品の所蔵先は宮崎県立美術館が大半であるが、中には長島美術館、福岡市美術館、個人蔵もある。なかでも気になる表紙タイトルは、『中村地平小説集』の《風船(仮)》1996年(生誕100年記念瑛九展レゾネNo.284)である。「風船」はご存知の通り、東京国際版画ビエンナーレに出品されたリトグラフ《旅人》(1957年)の画面上に表れているモチーフである。いずれも瑛九がつけたタイトルかどうか定かではないが、造型上何か関連がある可能性もある。また、著者の中村地平は、全国的に著名な人物であるが、宮崎県立図書館の館長を勤めるなど地域に貢献した人物でもある。1951年5月県立図書館に設置された「子供読書室」の瑛九の壁画(焼失)や、「花と絵の図書館」を館内に設けて児島虎次郎、塩月桃甫、瑛九の作品を展示したのは、彼が着任中のことである。

なお、本シリーズとは別に、鉱脈社の出版物では、福富健男『画家・瑛九の世界』2011年も刊行している。合わせて参照したい論文である。
なかむら まき

●展覧会のご案内
瑛九芸術の迷宮へ「瑛九芸術の迷宮へ」
会期:2017年1月5日[火]〜2017年2月26日[日]
会場:都城市立美術館
休館:月曜(祝日・振替休日の場合、その翌日は休館)
時間:9:00〜17:00(入館は30分前)
主催:都城市立美術館
入館料:無料


 本展では平成27年度にテレビ宮崎から寄託された瑛九作品を中心に、過去にテレビ宮崎が収集した特別出品作品を加えた、写真や銅版画、リトグラフなど約80点を展示いたします。宮崎ゆかりの美術作品が散逸することを防ぎ、県内の文化・芸術を長く伝え残したいという理念のもと築かれたこのコレクションは、代表的な版画やフォトデッサンに加えて、初期の油彩画やガラス絵など。今までほとんど紹介されていない貴重な作品も含まれています。
 当館は開館以来、瑛九作品の収集と企画展示を行ってきましたが、この度の寄託を機会に、瑛九の画業全体がより広く理解されることとなりました。この展示を通じて、瑛九の自由な時代精神を感じ取っていただければ幸いです。(本展HP「ごあいさつ」より転載)

取材にご協力いただいた都城市立美術館の祝迫眞澄学芸員、鉱脈社の鳥井氏には、この場をかりて深く感謝の意を表したい。

※第14回「美術館に瑛九を観に行く」の訂正とお詫び
「富松良夫宛 杉田秀夫書簡 昭和10年8月21日」より抜粋した文章に誤りがありました。訂正箇所は以下のとおり。
[誤]小さな花のもたらる → [正]小さな花のもたらす
[誤]目がくれて → [正]日が暮れて

中村茉貴〜都城市立美術館「瑛九芸術の迷宮へ」その2

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第15回

都城市立美術館
UMK寄託作品による「瑛九芸術の迷宮へ」その2


 前回に引続き、都城市立美術館で開催されていた「UMK寄託作品による 瑛九芸術の迷宮へ」展の報告である。今回は、2階会場に展示されていた瑛九と富松良夫の関係資料に着目したい。

 富松良夫(1903−1954)は、都城市で「南の宮沢賢治」として地元で愛されている詩人で、瑛九と若い頃から親しい関係にあった。良夫の弟富松昇(元宮崎市助役)は、1934年11月に瑛九のアトリエを訪ね、12月には瑛九と山田光春が富松家を訪ねる。翌35年には、瑛九、岡峰龍也、杉田杉(瑛九の妹)、富松昇、藤田頴男、山田光春が洋画研究グループ「ふるさと社」を結成する。

都城市立美術館_16会場の中心に展示された資料。覗きケースには、書簡2通と詩集1冊がある。壁には、瑛九のリトグラフやエッチングが展示されている。


都城市立美術館_17「富松良夫宛 杉田秀夫書簡 昭和10年8月21日」(1935年、都城市立図書館所蔵、部分)


本書簡に記載された内容を下記に少し抜粋したい。

 私は絵画藝術とソの今迄のジャンルに従ひたくはありませぬ。ヱかきは描くものであって、観る人ではありませぬ。ゆえに私はヱカキの批評に全てにといってもいいくらいキタイをおいておりませぬ。又ヱカキのみかたとソのめがねをかけてやるこの国の美術批評家の批評は画家以上に私には他人です。私は人間のコヱ(声)をほっします。ろうごくの窓からみえる一りんの小さな赤い花によする囚人の感情、一りんの小さな花のもたらす囚人への言葉に言えない様な一種の希望を。そういった所に絵画をおいて考へたく思っております。
(中略)
 今年になって、絵筆がにぎれない精神のじょうたいにいます。すこし評論をかこうかと思ひ、それによる自己成長をはかつております。自己と世界の対決で、日が暮れてしまふのです。一歩もうごけやしません。


東京国立近代美術館の「瑛九1935−1937闇の中で『レアル』をさがす」展に展示されていた山田光春宛の書簡と富松良夫宛の書簡はどこか違う雰囲気がある。尻込みせずに自論を主張する瑛九節は健在ではあるものの、言葉の端々に緊張感が漂っている。瑛九とほぼ同い年の山田に比べて良夫は7歳ばかり年上だった為かもしれないが、おそらく、それだけではない。書簡が書かれた時期は、杉田秀夫(瑛九)が画家を志してスタートを切った頃である。すでに詩集を出版している「文学者」と対峙して、自分は「絵描き」と称して考えを説明するも、まだ不慣れで硬さがある。良夫とは土俵は違っても同じ表現者としてシンパシーを感じていたようで、希望や自論をぶつけている。いわば、山田は何でも打ち明けられる同志で、良夫はもっとも身近な表現者の先輩という存在であったのかもしれない。瑛九はこの良夫との往復書簡を通じて「絵描き」として自己形成を図っていったのではないだろうか。

都城市立美術館_18「富松良夫宛 杉田秀夫書簡」(年代不詳、都城市立図書館所蔵)
上記の書簡より少し抜粋する。


 私の制作は量だけで、すこしもうまく行きませぬ。油絵之具になれることすらまだ中々に遠い事を思ふとちょっと困るので、わん力的大作にかりたてるわけです。

 「絵描き」同志ではないため、鼓舞するようなところはない。冷静に自分をふりかえって、良夫に報告している。

都城市立美術館_19ケースに入っている本は、富松良夫『詩集 黙示』1958年、龍舌蘭。
表紙は、瑛九の抽象的なフォト・デッサンで飾られている。上部の表題部分は帯状に裁断され、裏表紙の方に回り込んでいる。本書は、1954年良夫が亡くなったあとに編集された。表紙にフォト・デッサン、普及版にデッサン2枚(金属板印刷)、100部限定にエッチング2葉付きで販売された。


都城市立美術館_20本書に挿入されている作品。シュルレアリスムと抽象のあいだのようなスケッチである。タイトルはない。


都城市立美術館_21同書に挿入された作品。タイトルはない。細かな線は幾重にも重なり、花びらや貝殻のようなシルエットが見えてくる。それは、形を変え次第に上昇して消えてゆく、「言の葉」をあらわしているのだろうか。


以下に富松良夫の詩3篇を紹介したい。

   山によせて
ひかりの箭(や)をはなつ朝
山は霧のなかに生まれ
むらさきの山体は
こんじきの匂ひをもつ
あたらしい日を信じ
あたらしい世界のきたるを信じ
さらに深い山の発燃を信じ
にんげんの哀しさも
国の面する悲運のかげも
世界の精神的下降の現実も
わすれてはてるわけではないが
いまこのあざやかな
朝のひかりにおぼれ
悠々と非情の勁さにそびえてゐる
山にまなぼう


   聴く
ふかい夜のめざめ、しんとして揺るがない星の光を額にあてている、
わたしは信ずる、この秋の夜を徹る虫の音は白銀の穂尖だ
脳髄の心をすずしくすずしく刺しとおしてくる……繊やかさ
わたしの肉身はこゝに傾く、ああわたしはしづかに胸を反らすのだ
わたしは死なないであろう、そして無上にわたしは生きるのであろう
星にぬれ、露に濡れ、この窓にわたしの映像をいつまでも填め
わたしは信ずる、生存のはてしなく涼しいその一念を。


   雲
山は風に澄んでいる
凛然と霽れきつた山をわれはまつすぐに受けている
われは坐ったまま、白雲となつて飛ぶ
からだを透きとおらせ
白々と風とあらそう無際辺の旅をする
山脈を超えるとき、われはやまはだに触れて見るのだ
鋼いろのそのつめたさが胸にとおつてくるとき
爽々とわがこころを膊つ一脈の青韻があつた


良夫は日々の生活で得た刺激をあざやかな言葉にかえて、体験した感覚をよみがえらせようとしている。6歳で脊椎カリエスにかかり良夫の体は不自由であるが、詩は空中で生き生きと跳ねあがり、エネルギーに満ちている。情景豊かな表現は、秀夫(瑛九)の影響だろうか。以上のように瑛九と富松の二人の交流関係の結晶として展示されていた資料を詳しく見てみると、互いにいい影響関係にあったことが想像できる。

都城市立美術館_22参考資料:鈴木素直「同時代の軌跡―富松良夫と瑛九」(宮崎日日新聞、2001年11月16日)瑛九と富松良夫の関係を詩人鈴木素直氏は、新聞で次のような点を書いている。一部抜粋する。


・文学の道を歩む富松は美術への関心と共感に支えられ、画家瑛九の世界は文学に育てられた。一九二二、三年ごろから始まる友好関係の中で、文学と美術、さらに音楽の世界をたえずクロスさせながらお互いを刺激し続けた。

・両人とも「就職」することなく、経済的には恵まれない芸術創造だけの生涯を選んだ。

・兵役義務に従事していない。(中略)両人の負い目や戦争観の検証はあまりされていない。

・両人とも数多くの手紙を誠実にまた激しく書いている。


鈴木氏の指摘のとおり都城市立美術館の学芸員祝迫眞澄氏によると、富松関係資料の所在はあまりよくわかっていないという。書簡や瑛九の作品がどこかにある可能性は十分に考えられる。たとえば、愛知県美術館の山田光春アーカイブには、富松良夫に関係する書簡の写しやコピーが保管されている。

同じ宮崎県内でも「瑛九」については宮崎県立美術館(宮崎市)で展示されるという意識が高く、これほどまでボリュームのある展示はしてこなかったと語る祝迫学芸員。これを機に富松と瑛九の関係を、引き続き調査したいと意気込んでいた。

本展の続きは次回にまわし、
ちょっと寄道...

都城市立美術館のとなりには、市立図書館が併設されている。中に入ると、さすが都城市のスターである富松良夫のコーナーが設置されていた。良夫は、瑛九と連絡を取り合う前から美術に関心があり、1928年には絵画グループ「白陽会」を創立し、自らも絵筆を握っていた人物でもある。

都城市立美術館_23富松良夫『詩集 現身』龍舌蘭、1971年
本書の表紙も瑛九のフォト・デッサンで飾られている。


都城市立美術館_24オリジナルエッチング《雨》
雨のなかに妖しく佇む奇妙な構造物。わずかに開いた隙間を除くと何が見えるのだろうか。


都城市立美術館_25オリジナルエッチング《おとぎの国》
家々が立ち並び、全体的に賑やかな作品。3人の男女の他にも、よく見ると家のなかにも人の姿がある。傘をもつ男性に手を振り上げて挨拶をする人。太陽と星、光と影が同居する世界でどのような物語が展開されるのだろうか。


なかむら まき

●展覧会のご案内
瑛九芸術の迷宮へ「瑛九芸術の迷宮へ」
会期:2017年1月5日[火]〜2017年2月26日[日]
会場:都城市立美術館
休館:月曜(祝日・振替休日の場合、その翌日は休館)
時間:9:00〜17:00(入館は30分前)
主催:都城市立美術館
入館料:無料


 本展では平成27年度にテレビ宮崎から寄託された瑛九作品を中心に、過去にテレビ宮崎が収集した特別出品作品を加えた、写真や銅版画、リトグラフなど約80点を展示いたします。宮崎ゆかりの美術作品が散逸することを防ぎ、県内の文化・芸術を長く伝え残したいという理念のもと築かれたこのコレクションは、代表的な版画やフォトデッサンに加えて、初期の油彩画やガラス絵など。今までほとんど紹介されていない貴重な作品も含まれています。
 当館は開館以来、瑛九作品の収集と企画展示を行ってきましたが、この度の寄託を機会に、瑛九の画業全体がより広く理解されることとなりました。この展示を通じて、瑛九の自由な時代精神を感じ取っていただければ幸いです。(本展HP「ごあいさつ」より転載)
ときの忘れもの
blogランキング

ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
ときの忘れもの
ホームページはこちら
Archives
Categories
最新コメント
記事検索
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ