中村茉貴の「美術館に瑛九を観に行く」

中村茉貴〜宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて 特別篇 2

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第19回
宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて


ちょっと寄道….特別篇 2

「美術館に瑛九を観に行く」の執筆依頼があったとき、愉しみな反面、「瑛九」にかんする記事を私に書けるかどうか不安があった。瑛九を展覧会で扱う学芸員をはじめ、瑛九のコレクター、瑛九に関心をもつ研究者、瑛九と親交のあった方、はたまた瑛九にそれほど関心がない方、さまざまな立場の方の眼に触れることを想定すると、ストレートな内容を書くだけでは面白みがない。そのような考えが頭をよぎって、展覧会レポートに+αとして「ちょっと寄道…」を加えた。その「寄道」が今回も大幅な「寄道」になってしまい、返ってお叱りをうけてしまうのではないかと思いながら、前回に引き続き瑛九が生まれ育った街について、かつて瑛九の(エスペラント語の)教え子であった鈴木素直氏の案内や山田光春『瑛九―評伝と作品』(青龍洞、1976年)を頼りにお届けしたい。なお、今回も宮崎県の銘菓「金城堂」の包装紙に使用されていた地図「宮崎市街図」とGoogleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」を参照しながらご一読願いたい。
https://drive.google.com/open?id=1cUFoWwqKUy8CARQBsUp2qtNQtuM&usp=sharing

特別篇_07作者不明「宮崎市街図」出版社不明、1930年頃
地図が制作された年代は昭和5年頃であり、解説と表記が異なることもある。
※下記、括弧内のページ番号は出典先『瑛九―評伝と作品』の掲載頁を表す。
※アルファベットは、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」と対応している。


L.宮崎尋常高等小学校[現宮崎市立宮崎小学校](pp.47-49他)
特別篇_08現在の宮崎小学校。手前に古い門柱が残る。

山田光春は『瑛九―評伝と作品』(以下、「評伝」と表記する)に、瑛九こと杉田秀夫の小学校在学時について次のように書いている。「一九一八(大正七)年の四月一日、秀夫は直に付き添われて宮崎尋常高等小学校(現宮崎小学校)に入学した。(中略)彼は幼稚園には行かず、この時はじめて集団生活を経験することになったのだから、そこに大きな抵抗を感じたのは、自然な成り行きであった。そのため、毎朝彼を学校に送り出すことは栄にとっての大きな苦労となって、坂本という気丈な看護婦が彼を押し出すようにして玄関から送り出すと、栄は急いで二階に上り、無事に行ってくれるようにと念じながら、カーテンの陰にかくれて、薩摩屋という家具屋の角を曲って姿が見えなくなるまで見送ったものだったという。しかし、そうしてほっとするのもつかの間で、学校から帰りを迎えるのがまた大変であった。」
文中にあった家具店「薩摩屋」は、杉田眼科から左に向かい、一つ目の角を右にまっすぐ進むと右手にある。地図上には示さなかったが、前回の上半分の「宮崎市街図」に「サツマヤ家具店」と表記された場所を確認する事ができる。

M.安楽寺・馬車(p.40、p.51-53)
安楽寺の裏手には、馬車乗り場があり、1914(大正3)年6月家族総出で馬車に揺られて青島へ出かけたことがあった。日豊線が鹿児島まで全通する1916(大正5)年頃まで、大淀川を渡って青島方面に行くには馬車を利用していた。1915(大正4)年母雪が病のため死去したことから、秀夫にとってはこの一日限りの小旅行が印象強く残っていたという。
また、小学5年生のときの秀夫は、毎日のように安楽寺へ訪れ、仏具(如意)に関心を示していた。住職の弘中慧見と秀夫は親しい仲になり、秀夫は住職から「サブ」と呼ばれ、住職は「ロマ」と呼んでいた。安楽寺という場所は、彼にとって日常から非日常へと放たれるところであったのかもしれない。

N.宮崎県立図書館(p.308、p.322、p.339)
特別篇_09宮崎県立図書館子供室入口(焼失)

現在は、宮崎県立美術館と同じ「宮崎総合文化公園」にあるが、旧県立図書館は、1915年に県庁の近くに建てられた。1950年には宮崎県立宮崎図書館から宮崎県立図書館に改称したことが切っ掛けとなり、1951年に帰郷した瑛九のもとに図書館の内装に関わる大きな仕事が待っていた。このことについて、評伝より以下に抜粋する。「宮崎に帰った瑛九は制作に打ちこむ傍で改装中の県立図書館の子供室入口の周囲に、館長中村地平の依頼による壁画を描いた。海と子供をテーマにしたその壁画は、この舘がその年の六月に開館されて以来長く子供たちに親しまれたが、惜しくも一九五九(昭和三四)年四月に同館が全焼した時、その建物と運命を共にしてしまった」ちなみに、壁画完成後から火事で焼ける前まで、図書館では下記の通り瑛九の展覧会が度々開催されていた。

1951年8月16〜20日「瑛九画伯個人展」
1952年3月21〜24日「瑛九画伯個展」
1955年4月21〜25日「瑛九個展」
1957年6月〜3日「瑛九近作個展」

1951年に行われた瑛九の展覧会では、油彩とフォト・デッサンに加え、エッチングが出品される。そのとき目録が発行され、そこに添えられたエッチングにかける瑛九の想いを振り返ってみたい。「創作版画というと日本では木版画を意味しますが、ヨーロッパやアメリカではエッチングと石版画が画家自身の手になる版画として愛されています。レンブラントはじめほとんど偉大な画家たちがエッチングを手掛けていますが、日本では単なる技術としてもてあそばれていて、すぐれた作家も一、二にすぎません。/日本が、浮世絵の為に世界の版画国と思われながら、日本の現代画家たちの手になるエッチングや石版がないのは残念です。僕も長年の版画への夢を最近実現しはじめた所です。僕のエッチングが鑑賞の手引きとなり、そして多数のエッチング愛好者を見出す事が出来たらうれしく思います。」(評伝より「個展目録『瑛九氏の言葉』」)
猪突猛進するタイプのように見えて、実は冷静に機を待っていたことが瑛九の発言から見て取れる。瑛九は国内外の美術動向の中で自分の立ち位置を俯瞰し、次にステップアップする方法として「エッチング」に取り組んでいる。

O.教育会館(pp.307-308)
特別篇_101950年2月11〜14日に教育会館で行われた「瑛九作品展」の展示会場。右から瑛九、都夫人、兄正臣である。
このときの出品作は、油絵92点、フォト・デッサン7点(うち着彩2点)、フォト・コラージュ2点、デッサン2点、水彩4点、合計107点にも及ぶ大個展であった。


特別篇_111945年頃の教育会館の外観写真である。教育会館は、昭和7年頃教員と県民の有志の資金援助で建てられた。正面玄関の二階部分に丸窓があるモダンな建物で、戦災を免れるも2000年に入って老朽化のため解体された。


P.宮崎商工会議所(pp.314-315)
旧商工会議所は大淀川沿いにあった。瑛九は商工会議所でも展覧会を開催している。評伝を紐解くと、1951年1月に本所において35点のフォト・デッサンを出陳したとあり、個展はたいへん盛会で半数が売約された。また、本展で瑛九の熱狂的なサラリーマンのファンが表れた。今まで全く芸術に関心の無かった人物であったが、瑛九の芸術論に心を奪われ、アトリエに毎日のように通った。古代から現代まで展開された瑛九の美術談話を彼はノートに取った。話は夜の1時2時過ぎまで続いたのにもかかわらず、翌朝アトリエに出かけると、真っ白だったキャンバスが作品に変わっていたという。彼は瑛九が魔法使いではないかと疑ったようだ。瑛九の講義ノートが明るめに出ることを願いたい…

Q.日房(p.99)
山田光春は、瑛九と知り合った直後、どのような親交を結んでいたのか、次のように述懐している。当時の瑛九と山田が戯れた地を転々と示していることから、少し長くなるが引用する。
「宮崎の地で秀夫という、唯一の友人をもつことになったぼくは、その後は土曜の午後になると急いでバスに乗って宮崎に生き、橘通りの停留所から郡司家に「ヒデチャンいますか?」と電話するようになった。電話嫌いの彼の電話口での応対はそっけなかったが、間もなくそこへやって来て、それから日曜の夜までのぼくらの生活が始まるのだった。よく橘橋の袂にあった日房というレストランの二階へ上って、霧島連峰や大淀川の静かな流れを眺めながらビールで気炎をあげたもので、それからは大淀川の堤の上を歩いたり、街に戻って古本屋をのぞいたり、時には映画を見たりして、結局は郡司家の彼の部屋にたどりついて夜遅くまで話したのであって、翌日もまた近郊を歩いたり、彼の画質に集って来る若者たちと語り、夜になって妻に帰るのだった。」(※「妻」は宮崎市から北に約30km離れたところにある地名。山田の赴任先の宮崎県児湯郡妻尋常高等小学校があった)
なお、日房があった場所は、現在宮崎市役所になっている。

R.橘橋(p.96他)
特別篇_12現在の橘橋から望む大淀川風景

鈴木氏、佐々木学芸員(県立美術館)、祝迫学芸員(都城市立美術館)に瑛九ゆかりの地を質問したとき、必ず出てきた場所が「橘橋」であった。評伝でも度々出てくる「大淀川」に掛かる橋で、宮崎市街と都城市・鹿児島方面を結んでいる。瑛九は、宮崎を訪れた友人を橘橋の袂に広がっている河原によく連れて行ったようだ。
評伝の中でひときわ目を引く橘橋にまつわるエピソードがある。1934年青島からの帰り道、大淀駅(現南宮崎駅)で下車して橘橋を渡る時であった。秀夫は、「これから四つんばいでどこまで行けるか競争しよう」と従妹や甥っ子に声を掛けて競走しはじめた。子供たちは恥ずかしさから早々に止めても、必死で続ける秀夫の異様な姿に周囲は心底心配したという。
秀夫はこの時期、作品制作を通じて経験を積み上げ、画家として生きる決心を固めていた。ところが、憧れの三岸好太郎を訪ねようとした矢先に、他界した事実を突きつけられ、ショックを受けている。この橘橋での一件は、何であっても「納得するまで、最後までやり抜きたい」という思いからこのような行動に至ったと想像する。

S.青島・海水浴場(p.95、p.207、p.246)
海水浴場のある青島へ行くのが杉田家の恒例行事であり、静養目的で赴くこともしばしばあった。1934年橘橋の一件と合わせて語られているのが青島でのエピソードである。秀夫は生魚を頭から食べはじめ、周囲を驚かせた他、肩まで海の波が押し寄せても座禅を組み続け、鬱積した気持ちをコントロール出来ずにいた。しかし、こうした中でも常に周りから支えられているところをみると、彼は本当に恵まれていると思う。
青島の風景は、実際に瑛九が描いた場所のひとつである。(生誕100年記念瑛九展図録「瑛九油彩画カタログレゾネ」No.38《青島の海》1940年)

T.宮崎農林高等学校(pp.98、99他)
現在の宮崎県総合文化公園(美術館、図書館、芸術劇場)がある敷地に本校は存在した。外観については、都城市立美術館を取材した第14回でも紹介した絵葉書のとおり、かなり洒落た洋風建築であった。
瑛九と親交のあった北尾淳一郎(1896-1973)は本校の教授であった。北尾は元々東京帝国大学農学部で動物学(昆虫)を専攻し、東京農工大学の学長も務めた人物である。瑛九は本校の美術展に出品されていた北尾の写真を見たことが切っ掛けで親しくなる。北尾は、宮崎の風景を被写体にした写真を発表していた。また、北尾が収集したレコードを聴くために、瑛九は度々農林高等学校の官舎に訪れていた。

U.宮崎県宮崎大宮高等学校 [旧宮崎県立宮崎中学校](p.78、p.297、pp.302-303他)
特別篇_13現在の大宮高校前

1924(大正13)年4月瑛九は宮崎県立中学校に入学するが、翌年春には退学している。この場所は、後に大宮高校となった場所で、瑛九はエスペラント語の指導者として本校に訪れていた。評伝には、画家の瑛九とは別の顔をのぞかせている場面を、次のように説明している。「彼はその頃、宮崎エスペラント会の機関誌が戦争のために廃刊されていたのを復刊するために、自ら原稿を書き、編集にも当たって、「LAGOJO」(よろこび)として刊行したが、これも日本人の精神を回復するための一つとして行ったのであろう。彼もまた、湯浅と佐藤が発足させた大宮高校エス語同好会を援助し、講演会を開いて後輩を指導した。同好会の機関誌「Studento en Nova Sento」(新時代の学生)の一号には、その第一回初等講習会の講師が瑛九と都であって、十名が参加したことなどが報道され、彼の筆によって、次のようにその指導法の一端が紹介されている《会話をなるべくエス語でやろう(中略)》(’50・11・5 Studento en Nova Sento 一号)」/このようにエス語習得の心構えを説いた言葉によって、勝れた啓蒙家であり教育者であったといわれる瑛九の一面を垣間見ることができるであろう。ところで大宮高校エス語同好会は翌年交友会の一つの部として認められ、三年生になった湯浅と佐藤との指導による第二回初等講習会には、実に百二十名を超す受講者が集まるまでに成長し、瑛九の直接の指導からは離れていった。」
先に挙げた1950年に教育会館で行われた瑛九の展覧会については、開催日前日にこの当時の大宮高校エスペラント部員の手によって作品が運び込まれ、陳列されたようだ。

V.宮崎県立宮崎大淀高等学校(現宮崎県立宮崎工業高等学校)(p.290)
妹杉子の結婚相手となった栗田恒雄は、大淀高校の教師をしており、彼の推薦から瑛九は本校でエスペラントを教えていたこともあった。なんと、丸島住宅へ引っ越しするときには、大淀高校のエス語の弟子たちがリヤカーを曳いて手伝ったという。ここでも瑛九は慕われた存在であったことが伺える。

W.宮崎神宮(p.43、p.61、p.177、pp.290-291他)
宮崎神宮を取り囲む森林の中には宮崎県総合博物館があり、宮崎県立美術館も近いため、ぜひ足を伸ばしてほしい場所である。神宮は地元では「神武さま」と呼ばれ親しまれているところで、瑛九もまたよく参拝していたところである。評伝には1939年に瑛九が宮崎神宮の社務所で神官と話している様子を郡司盛男が写真に撮ったと書かれている。この頃、眼鏡をはずし、袴にステッキというスタイルでいた瑛九は、生母の墓前や宮崎神宮で静座をしたり、詩を吟じたりして毎日過ごしていたようだ。
また、1949年谷口都を妻として迎えたときにも宮崎神宮へ参拝している。評伝の中で紹介された父直の日記には、簡潔にこう記されている。「九月五日 晴 神宮参拝 秀夫ノ結婚式ヲ行フ 谷口長太氏及婿児玉氏同道来駕タクシー送迎ヲナス 午後五時来リ七時共晩餐辞セリ」とある。なお、この時、杉田家の座敷で挙げた結婚式では、杉田家と谷口家の近親者のみが参列し、モンペ姿の花嫁に仕事着の花婿が三々九度の盃を交わした。そして、義父となる直から都は、次のことを告げられた。「あなたが、抱いている爆弾がいつ爆発するかわからないような秀夫と結婚して下さることは父親として心からうれしく、深く感謝いたします。しかし、秀夫は普通の者とはちがって芸術に進むという大きな問題をもっていますので、いつかは一緒にやって行けない時が来るかも知れません。もしもそんな時が来たならば、いつでもかまいませんから別れて下さい。私からそのことをこの席で特にお願いしておきます」このような優しくも厳しい言葉を都はずっと心に閉まって、瑛九とは最期まで片時も離れなかった。そして、未亡人となっても再婚することなく、先日106歳の誕生日を迎えたという。

X.岡山公園[現平和台公園](pp.171-172)
以前、第2回のアーツ前橋への取材でこの場所については取り挙げたことがあるが、評伝の中でも気に入っている場面のため、改めて下記に抜粋する。岡山公園は宮崎市を一望できる北尾淳一郎一押しの場所である。「午前中に瑛九兄弟と太佐との四人でフミタ写真館で記念撮影をして、午後には北尾の案内で岡山公園へ出かけた。平和公園となった今日では観光客で賑っているそこも、当時は訪れる人とてない小松林の平凡な小山に過ぎなかった。しかし、そこから宮崎平野を望む眺めは北尾が推奨するだけのことはあって、崇高さすら感じさせる壮麗なものであった。われわれが枯草の上に腰をおろして、その広濶な風景にみとれている間に姿を消した瑛九がいつまで待っても戻ってこないので不安になって探しにいったところ、彼はくさむらの茂みのかげにうづくまって、涙で顔をくちゃくちゃにして泣いていた。彼は風景の美しさに感極まって嗚咽していたのである」その後、北尾の書斎では瑛九を慰めるようにバッハのレコードがかけられていた。なんとも言い難い不思議な時間であったと想像する。

話が横道にそれてしまうが、この場面について気にかかってならなかったのは、このとき日名子実三《平和の塔(八紘之基柱)》が既にあったのか、無かったのか、である。公に出ている年号からたどれば、本作は紀元二千六百年記念の事業の一環として1939(昭和14)年5月に着工され、1940(昭和15)年11月には完成している。公園の近所にある宮崎神宮が神武天皇を祀っていることから記念事業が行われるのは、当然と言えば当然で、瑛九らが観に行った当時(1938年1月)は、着工の一年前で既に計画が発表されていたことが予想される。本書には一切この彫刻に触れていないが、瑛九はこの計画を既に知っていた可能性が高い。というのは、次のページには「その翌朝、油絵作品のすべてが片づけられた瑛九の部屋の壁に、『日の丸の 旗はためく 日本の風景』と毛筆で書かれた半紙の貼られていたのを見た」とあるからだ。瑛九は《平和の塔》が建立されることを知っており、ただ宮崎平野の風景に感激したわけではなく、変わりつつある未来の風景を見据えて涙を流していたのだろう。このような鋭敏な感覚の持主であったからこそ、瑛九は表現者として成功することになった。

特別篇_14現在の平和台公園。


特別篇_15エスペラント部の生徒と写る瑛九。1950年頃か。《平和の塔》に続く階段横で撮影されたことが分かる。


Y.宮崎大学(p.316、p.296)
宮崎大学で教鞭を執っていた塩月桃甫(1886- 1954、本名:善吉)について、評伝の中で次のように紹介されている。「桃甫は宮崎市外三財村の出身で東京美術学校卒業後台湾に渡って台湾美術展を創設し、それから三十年間を台湾美術振興のために力を尽くした人物である。敗戦後は宮崎に帰って宮崎大学で後進の指導に当り、瑛九はこの人を宮崎における唯一人の信頼できる先輩画家であるとして次のように言っている。/《宮崎で僕は一人の信頼する老画家を発見してよろこんでゐます。(中略)生活のケウイ〔脅威〕さえなければ、僕も宮崎にゐても、塩月氏がおる以上芸術上はさびしくないような気もしてゐます。しかし生活は仲々つらいし、内職はないので上京をけいかくしたのです。塩月氏としたしくなったのもごくさいきんなのです》(’49・11・?山田宛)」瑛九は、塩月の生活態度や啓蒙活動に強い関心を示していたようだ。
また、瑛九は宮崎大学からの依頼で「バイト」をしていた。いわゆる「仕事」が出来なかった瑛九が「バイト」と呼ぶのは、肖像画を描く事で、安中前宮崎県知事と甲斐善平前宮崎県会議長をモデルにした作品制作のことである。しかし、彼は湯浅英夫への書簡の中で「ぼくは食うために写真を見て肖像を描くといういやな仕事を今日までしなければならなかった」と訴えている。不服そうな顔をして筆を持つ瑛九の姿が目に浮かぶが、どこかほほえましくもある。

Z.宮崎駅(pp.99-100他)
瑛九は勤め人ではないが、当時としたらかなり列車を利用していると思う。車中でどのように過ごしていたか、書いている一文があるため紹介する。「その朝ぼくが広瀬から乗り込んで行った列車に、宮崎駅で写生用具を持って乗ってきた彼は、その頃毎晩のように見るという三十円の月給取になった夢について語り出し、鹿児島につくまでの四時間程の車中をしゃべり続けた」

特別篇_16宮崎駅で列車を待つ瑛九


特別篇_17戦時中に空襲で焼失した後に建てられた宮崎駅の駅舎。昭和30年代に撮影されたもので、この頃にも丸々と成長した特徴的なフェニックスがある。


a.一ッ葉浜(pp.50-51、p.207他)
特別篇_18一ッ葉浜の風景。2011年鈴木素直氏に案内していただいたときに撮影した。評伝に度々出てくるのは、宮崎市街地から一番近い海辺だからである。評伝によると、「秀夫が何時はじめて一ッ葉浜へ行ったのか明らかではないけれども、直の日記に見える限りでは、彼が二年生の夏休みを迎えた七月二十七日に、“正臣秀夫良氏一ッ葉浜へ行く”とあるのが最初になっている」と書かれ、その後も母や姉妹、学校からの遠足で一ッ葉浜へ行っているとある。

b.料亭「松月」(p.210)
評伝によると、1939年に北尾淳一郎は、「宮崎に帰ってきた瑛九を誘って一つ葉に遊び、入江に臨んだ料亭「松月」で一風呂浴びた後ぼら料理で酒を酌み交わしながら芸術談に時を忘れた」という。今はこの場所に「PILAW」というナポリピザの店がある。

c.住吉神社(p.49)
宮崎県の住吉神社は、日向住吉(旧二郎ケ別府)駅から東へ約2卆茲砲△襦I湘舛任盻撒反声劼何度か出てきており、最初に訪れたのは、秀夫が小学1年生になって間もない頃、3人の姉と継母栄と共に神社へ参詣している。

d.宮崎競馬場[現宮崎育成牧場](p.43)
父直の親友岡峰寅二郎がこの場所の近くで開業医(岡峰医院)をしていた。この野外広場では、簡易的な活動写真(映画)の上映会や飛行機のショーなどの巡業があった。小学生の秀夫は二階の窓からその様子を見物していたようだ。

e.富松良夫宅(p.100)
1929(昭和4)年に詩人富松良夫(1903-1954年、宮崎県出身)は26歳のときに自宅敷地内に絵画グループ「白陽会」のアトリエを建てる。瑛九が彼を訪ねて行ったときには、アトリエに転がり込んだと推測できる。瑛九は熊本滞在中に「大阪」という店などでビールを飲み、絵具の購入費に手持ちのお金をつぎ込んでしまう。豪遊の末、お金に困り借金をしようと良夫の所へ行ったこともあった。なお、このとき彼らは言い出せずに再び宿泊先に戻っている。

f.杉田家の墓
特別篇_19杉田家の墓に佇む兄正臣


特別篇_20現在の杉田家の墓(下原墓地)近くに郡司家の墓もある。
鈴木素直氏によるとこのモノクロ写真に掲載されている墓地と現在ある墓地は場所が異なるという。以前は、「宮崎市街図」下半分の左端(西側)辺りに掲載されている「墓地」に杉田家の墓があった。
その他、具体的な場所は特定できなかったが宮崎県内の瑛九ゆかりの地を以下に列挙する。また、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」には今回、掲載しきれなかったが、評伝に出てくる場所としてg〜nのマークをした。

◆画材店「王様」(pp.24-25)
図画教師中心に活動が展開されていた「宮崎美術協会」の創立総会は、この場所で行われていた。山田光春が宮崎の地を踏んで間もない頃、本総会に参加した。山田は1934(昭和9)年東京美術学校図画師範科を卒業し、赴任した先は知らない土地で知らない顔ばかり、このとき心細さは計り知れず「宮崎に来て、ピカソについて語り合う友達のいないことは淋しい」などと訴えていた。総会終了後、青年杉田秀夫(瑛九)が山田に声を掛けたことから、2人の親交がはじまっている。残念なことにこの画材店は、調査不足で確認できなかった。瑛九が画材を調達していたことも考えられるため、いずれ明らかにしたいと思う。

◆大潮社(p.202)
1939年6月9日〜12日「瑛九・杉田秀夫個人展覧会」が開かれる大掛かりな展示だったようである。宮崎市内にあるよう。

◆民芸店「杉」(年譜)
1968年に開催された遺作展では、県立図書館を第一会場とし、この場所を第二会場として活用していた。

◆うどん屋(p.305他)
評伝には「うどん屋」が何回か出てきている。海老原喜之助が宮崎に来た時にも案内している。気になる一行を紹介したい。「海老原は翌年の四月にも宮崎に来た機会に瑛九を激励し、瑛九の作品をもっているうどん屋などへ出かけて、瑛九が大へんお世話になっているそうですが、どうか今後もよろしくお願いします、と挨拶して廻り、デパートに寄って、彼を顧問に招聘するようにと話をして帰ったのだった。」
この「うどん屋」は県内でも老舗の「山盛りうどん」という話を宮崎滞在中に伺った。評伝では確認できなかった。

◆野尻村(pp.255-274)
1945年5月から終戦を迎えるまで疎開していた場所。このとき瑛九は筆ではなくペンを執り小説を書いた。または、書物を読みレコードを聴き、夕方は散歩をする毎日だったようだ。

以上で宮崎県内における瑛九のゆかりの地の調査報告は、いったん終了としたい。私が住む街である埼玉のことも同じように調査したいが、埼玉時代のことについては、評伝から確認できるところが非常に少ない。島崎清海氏からもっと話を伺いたかったと後悔の念が沸き上がるばかりである。ともあれ、埼玉・東京における瑛九の活動場所も少しずつ突き止めていきたいと思う。
今回の記事は、何よりも鈴木素直氏が現地で同行してくださったおかげで、机上で見ていた瑛九の活動場所を立体的に理解することができた。この場を借りて感謝を申し上げたい。なお、後になってご家族から知らされたことだが、私が調査に伺ったときに鈴木氏はかなり体に無理をされていたようである。しかし、迎えてくれた鈴木氏の「瑛九のことを伝えたい」という熱心な思いに背を向けて引き返す気持ちにはなれず、甘えてしまった。その後、体調が優れないようで心配である。一刻も早く回復することを祈っている。

最後に鈴木素直氏が瑛九の「現実について」(『アトリヱ』14巻6号、1937年)を読んで書かれたことをご紹介したい。

「最も時代的な精神はすぐれた知性をもつものと最も単純な生活とにあり」ミルクホールのおかみさんや散髪屋の親方の実話をあげながら、「単純な生活人は知性の実体を無意識な生き方の中で感得している」と述べている。そして「芸術家が単純な生活人の感得だけではすまされないのは、彼には表現しなければならぬ一事があるからだ」と言う。

たとえば、さきの大淀川、一ツ葉浜、宮崎高農など、県民に親しまれ瑛九が愛したものの様相や変容を、私たちは最も時代的な精神でとらえているだろうか。表現しなければならぬ芸術家は現実をどう描いているのだろうか。時の流れを傍観していいはずがない。


参考図版:
「宮崎市街図」1930年頃
杉田正臣編著『瑛九抄』杉田眼科内「根」、1980年
鈴木素直『瑛九・鈔』鉱脈社、1980年
宮崎日日新聞社編『写真集 宮崎100年』宮崎日日新聞社、1982年
野口逸三郎、富永嘉久編『写真集 明治大正昭和 宮崎』国書刊行会、1986年
山田光春『瑛九―評伝と作品』青龍洞、1976年

なかむら まき

●今日のお勧め作品は、瑛九です。
20170513_qei_159瑛九
《子供》
フォトデッサン
25.2×18.9cm

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中村茉貴〜宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて 特別篇 1

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第18回
宮崎・瑛九ゆかりの地を訪ねて


ちょっと寄道….特別篇 1

「美術館に瑛九を観に行く」の第14〜17回では、宮崎県立美術館と都城市立美術館で開催されていた展覧会の模様を紹介した。実はこちらの取材を進めながら、もう一つ並行して取り組んでいたことがあった。「瑛九の聖地巡礼」である。宮崎と云えば瑛九の出身地であることから、宮崎県に訪れたら、ぜひやりたいと長年胸に秘めていたことであった。とはいえ、宮崎の土地勘は全くない。情報不足で読み物に出来るか分からなかったが、生前瑛九と親交のあった宮崎在住の詩人鈴木素直氏の協力を得たことで、ぼんやりとしていた視野がクリアになった。そこで、表題のとおり「ちょっと寄道….特別篇」という枠を設けて、瑛九ゆかりの地を掘下げ、少しでも当時の空気感を届けることができたらと思う。

まず、現地へ行く前に私は『瑛九−評伝と作品』(青龍洞、1976年)から宮崎県に関する地名等をピックアップした。40年以上前に書かれた本書が現在の地名や建物(店舗)名と一致するかどうか、全く皆無に等しかったが、とりあえずめぼしいところを30カ所ほど列挙し、事前に鈴木素直氏と連絡をとった。

宮崎で鈴木氏に対面し、ひとつひとつ状況を伺ってみると、そのうちのほとんどが現存しない、あるいは遠隔地でとても今回のスケジュールではいけないという具合であった。しかし、その中でも瑛九の実家である杉田眼科、宮崎小学校、杉田家の墓標、郡司邸跡地などへは鈴木氏が車で案内できるということで、ガイドをお願いした。

以下には、鈴木氏の証言をもとに瑛九の実家や彼が通った場所を地図上で確認しながら、『瑛九―評伝と作品』に書かれた内容をいくつか参照したい。
参照先:「瑛九の聖地@宮崎」
https://drive.google.com/open?id=1cUFoWwqKUy8CARQBsUp2qtNQtuM&usp=sharing

特別篇_01杉田眼科医院および郡司邸(金城堂包装紙部分)
なお、こちらの画像は、宮崎の老舗銘菓「金城堂」の包装紙に印刷された地図「宮崎市街図」(出版社不明、昭和5年頃)の一部である。これを見ると中央部に横切る「南廣島通り三丁目」付近に「杉田眼科医院」があり、左中央部「南広島通り二丁目」沿いには、「郡司邸」とある。この地図入りの包装紙は、土産選びの最中に偶然見つけ、過去の地名を辿るのに大いに役立った。

特別篇_02「宮崎市街図」上半分・北側(出版社不明、昭和5年頃)
※地図が制作された年代は昭和5年頃であり、解説と表記が異なることもある。
※下記、括弧内のページ番号は出典先『瑛九―評伝と作品』の掲載頁を表す。
※アルファベットは、Googleマイマップ「瑛九の聖地@宮崎」と対応している。


A. 杉田眼科[杉田眼科医院](p.28他)
特別篇_03現在の杉田眼科
瑛九こと杉田秀夫は宮崎県宮崎郡宮崎町大字上別府(現宮崎市橘通東3丁目)に生まれる。『瑛九―評伝と作品』(以下「評伝」)の中で紹介されている瑛九の父直の日記には1911年4月28日に「格別ノ陣痛ナク午後六時三十分男子分娩」と記録されている。杉田家の父直は俳人としての活動をする一方で眼科医院の院長をしていた。

B. 郡司邸(p.50、pp.90-91、pp.116-117、p.211他)
特別篇_04画像の中央にある石碑には、「西郷隆盛駐在之跡」とある。かつてこの地にあった民家に西郷隆盛が約2か月滞在したことを伝える。実は、この場所、杉田家の親戚にあたる郡司邸があったところだと鈴木氏から教えていただいた。「生誕100年記念 瑛九展」の巻末にある油彩画カタログレゾネをみるとNo.81《郡司家の庭》(1942年)という作品がある。

郡司家は代々由緒ある家系で「佐土原島津家の家老職」であった。杉田家とは元々つながりはなかったが、姉杉田君子が郡司良(浜田家から郡司家の嫡子となる)と結婚し、郡司家と深い付き合いを持つようになる。なお、その後の郡司家は、義兄の良を含む3人が相次いで他界したことから、1932(昭和7)年に秀夫は用心棒として郡司家に身を置くようになる。この時期、かなりの数の油絵を制作したようだが、現存するものは極わずかしか存在ない。

特別篇_05郡司家で行われた送別会(「生誕100年記念瑛九展」p.221)
郡司邸は、人を送り迎えする玄関口として度々使用されていた。画像は1940年3月16日に開かれた上京する北尾淳一郎(1896-1973)の送別会の様子である。広々とした洋風の内装が目を惹く。なお、1935年エスペラント特派使節として宮崎に来ていた久保貞次郎の歓迎会も郡司邸で行われ、瑛九はその折に久保と知り合いになった。瑛九は「弟の秀夫です」と久保にあいさつをし、画室でシュルレアリスムの話をしたようだ。


C. フミタ写真館(p.120)
杉田家の向かいにあったという写真館。残念ながら現存しない。こちらの館主は、瑛九に対し、たいへん協力的であったと伝えている。こちらの写真館がなければ、瑛九の「フォトデッサン」の傑作は生まれなかったかもしれない。評伝の中に書かれた内容をみると、古賀春江画集を見たあとに制作意欲が高まっていた瑛九は「フミタ写真館の暗室へ飛び込んで猛然と制作を開始した。この時杉子や盛男を助手に頼んだけれども、そこの館主府味田安彦もこれを応援し、薬品の調合などを手伝っただけでなく、時々はウィスキーのサービスもしたものだと語っている」とある。このとき制作されたのが、『眠りの理由』(10点1組)を含む百点にも及ぶフォトデッサン(印画紙による作品)であった。その後も瑛九は、フミタ写真舘の暗室を借りることがあったようだ。「生誕100年記念 瑛九展」の巻末にある油彩画カタログレゾネNo.57には、当館をモチーフにした《フミタ写真館》(1941年、45.4×33.7、宮崎県立美術館蔵)が掲載されている。

D. 知事官舎(p.110)
当時、知事官舎は郡司邸の隣りにあった。1935年瑛九は、知事官舎に滞在中の清水登之(1887-1945年、栃木県出身)に会うことになっていたようだが、上野で開かれた中央美術展を見てきた帰りで、非常に気が立っており、ついに会うことはなかった。山田宛の書簡には「清水にはアワン。大家などにはアワンことにするです。本をかって、そいつをよむです。ハチきれるゼツボウ感でキャンバスをタタこう。ゼツボウが出発だ。」と綴っている。
なお、知事官舎が近いためか《安中宮崎県知事》(1951年、宮崎大学所蔵、「生誕100年記念 瑛九展」レゾネNo.216)という作品がある。1945年宮崎県知事に就任した安中忠雄を描いた肖像画である。

E. 谷口外科医院[私立宮崎県立病院](p.252)
1944年5月瑛九は宮崎神宮で腹痛に襲われ、この病院で腸捻転の手術を受けている。このとき瑛九は、担当医のことを次のように書いている。「院長の谷口熊雄は宮崎県立病院の院長として九州大学から召聘され、後に谷口外科医院を創設したこの土地の名士であり、担当の南田弘は文学芸術に関心をもつ若い医師で、回診の際に彼のところで画集を見ながらしばらく話して行くようなこともしばしばあったという」
術後の回復は良好とはいえず、瑛九は再入院するが、そのときも瑛九は南田医師のことを書簡に書き記している。瑛九は、手術後一年は重いものも持たないようにと南田医師からは注意を受けていたが、院長は特に注意するようにとは口にしなかったために、特に用心しなかった。「医術は経験だけではない」と瑛九は感じたようだ。
病院があった場所は、現在みやざきアートセンターが建つ。

F. 八幡社[八幡神社、現宮崎八幡宮](p.38)
杉田家の氏神を祀る神社であり、秀夫誕生のお宮参りはこちらであったと父直の日記に綴られている。

G. 安心堂書店(p.172)
瑛九は父親譲りの無類の読書好きで、小学生の頃には読書に集中しすぎるあまり、教員に怒られるほどであった。「古本屋」は、評伝の中で度々目にするが、兄正臣の日記から家の近くの「安心堂」であることが分かる。

なお、地図上の水色部分は、それぞれ墓地、教会、映画館である。鈴木氏によれば、「墓地」と書かれた場所にかつて杉田家の墓があった。杉田家の向かいにある「教会」は絵のモチーフになった可能性があるためにマークした。また、瑛九は、しばしば映画館に通ったことが評伝で確認することができる。「大成座」が果たして馴染みのところだったか定かではないが、可能性のひとつとしてマークしておいた。なお、杉田眼科医院の横の通りを北に進むと現在山形屋があり、その場所に「ロマン座」という映画館もあった。

以下は、「宮崎市街図」から外れたところにある瑛九ゆかりの地である。杉田家からみて北側にある地で位置情報は、冒頭で示した「マイマップ」の方で確認してほしい。

H. 橘通りロータリー
特別篇_06橘通りロータリー 現橘通り三丁目付近(『写真集 宮崎100年』宮崎日日新聞社、1982年、p.371)
鈴木素直氏よるとかつて橘通りの交差点にあったロータリーに、瑛九はよく酔っぱらって大の字で寝ていたという。ちなみに評伝では居酒屋「真」や「巴」に瑛九が通っていたことを伝えている。(p.172)


I. ヒマワリ画廊(p.290)
特別篇_07従弟の鳥原茂之が宮崎市広島通りに画廊を設立する。記念すべき第一回は、杉田作郎(父直)の傘寿の祝いで「杉田作郎氏短冊色紙展」が行われる。収集した芭蕉、蕪村、一茶の他、親交のあった紅葉、子規、虚子、不折、芋銭など、著名な人物のものが展示された。画像は、今の画廊で、一階は画材店で二階は会場として利用している。

J. 西村楽器店(p.114、p.117、p.148)
記憶に新しい東京国立近代美術館の常設展で展示物の中に、「西村楽器店」の会場名が入った資料があった。評伝によると店主池田綱四郎のはからいにより、瑛九らは2階のスペースを会場として度々活用していた。まさにこの場所で「ふるさと社」の展示、および宮崎での初の瑛九個展(1936年6月12・13日)が開催された。また、エスペラント劇「ザメンホフの夕べ」もこちらで行われていた。

特別篇_08宮崎県立美術館の佐々木学芸員から伺って、店舗のあった橘通り西3丁目訪ね歩いた。今はコーヒーショップに変わってしまったが、白い建物内に入っている店舗の説明を見ると「ニシムラビル」とあった。楽器店はなくなってしまったわけではなく、宮崎市内清水1丁目と大淀川に渡った先の中村東3丁目に店舗が移った他、九州・四国へと拡大している。


K. 丸島住宅(p.290、p.300、p.304)
特別篇_09画像は、瑛九がエスペラントを教えていた宮崎大宮高校の生徒たちと写っている丸島住宅の様子。鈴木氏から提供いただいた。
瑛九は1948年谷口都と結婚し、丸島町の市営住宅に引っ越すが、まだ戦災後の復興中で適当なところは無く、画像のとおり木造のバラックであり、実家暮らしとは目に見えてかなりの落差があったよう。海老原喜之助が瑛九を訪ねた時について、評伝では以下のように書かれている。「海老原は須田〔国太郎〕に誘われるままに宮崎へ来たのであった。そして内田〔耕平〕から瑛九のいるところを聞くとすぐに案内をたのみ、途中で杉田家を見て丸島町の彼の家へ行った。杉田家の門前に立った海老原は中へ入ろうとはせず、〔中略〕都に「この世に人間はいくらでもいるけれども、本当の人間というものはまれにしかいないのだから、どうか瑛九を大切にしてください。よろしくお願いします」と、丁寧に頭を下げて頼んだ」
2人きりになった瑛九と妻都は、普段からエスペラント語で会話していたようだ。慎ましやかな暮らしであっても、実りの多い暮らしであったことが想像される。

今回は、美術館の作品鑑賞ではないが、瑛九の誕生・芸術家デビュー・上京・病気・結婚など、人生の節目節目を地図上の場所から辿ることが出来た。瑛九が生活した環境や体験場所を地図上から探ることで、作品が描かれた「地」がどういうところだったのか、どういう経験を経て作品が制作されたのか想像しやすくなった。具体的に主な制作地をあげると、実家の杉田家・郡司邸・フミタ写真館・丸島住宅であったが、評伝でこれらの場所を見ると、各地での経験が瑛九に様々なインスピレーションを与えていたことが伺い知れる。郡司家では油彩画制作に傾倒し、フミタ写真館で印画紙による作品(フォトデッサン)を作り、丸島住宅では妻都の姿を多く描いている。想像以上に「画家と場所」が密接な関係にあることに気付かされた。

まだまだ紹介したいことは山盛りあるが、果たしてまとめきれるだろうか…次回は、「宮崎市街図」南側を中心に瑛九の足跡をたどりたい。

なかむら まき

*20170504/21時5分画廊亭主より追伸
石原輝雄さんからコメントをいただきました(下記参照)。この原稿をつくるのにヘロヘロになった中村さん、連休はひっくりかえっていたらしいけれど、石原さんのコメントで元気回復したらしい。読んでくださる方あってこそのブログです。引き続きのご愛読をお願いします。

●今日のお勧め作品は瑛九のフォトデッサンです。
20150504_qei_140_work瑛九
「作品」
フォトデッサン
40.8x31.9cm


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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

中村茉貴〜宮崎県立美術館「第4期コレクション展 瑛九の世界III」

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第17回

宮崎県立美術館
「第4期コレクション展 瑛九の世界III」


瑛九の収蔵作品数国内一である宮崎県立美術館に訪れた。今回、取材に応じていただいた佐々木明子学芸員によると、美術館所蔵の作品の総点数は980点。油彩100点、水彩41点、素描80点、版画589点、写真170点である。加えて1階展示室3は、別名「瑛九展示室」として、常時瑛九の作品や関係資料が展示されている。

宮崎県立美術館_01夕暮れ時の宮崎県立美術館外観。美術館は県総合文化公園の中に施設され、同じ公園内に県立図書館、県立芸術劇場が併設されている。美術館から見て左側の図書館には、父杉田直が収集した「杉田文庫」が保管され、右側の芸術劇場には瑛九の《田園B》を再現した緞帳がある。宮崎大学教育学部教授石川千佳子先生が《田園B》について詳しく書かれているため、下記に紹介する。
(参考:影山幸一「瑛九《田園B》──発光する反近代『石川千佳子』」、art scapeアート・アーカイブ探求2016年10月15日号より、http://artscape.jp/study/art-achive/10128470_1982.html


宮崎県立美術館_02会場入口。デモクラート美術家協会の宣言文と写真パネル、瑛九の略年譜が展示されている。


本展は、コレクション展示の第4期目「瑛九の世界掘廚任△襦1誘紊梁召法◆峙楮蠅糧術掘廖◆嵬症淵戰好鉢掘廖◆屬△佞譴襯ぅ瓠璽検廚3本のコレクション展が同時開催されていた。第1~3期にも瑛九の特設展示が開催され、第1期目は版画集を中心にした展示、第2期目は子供向けのミュージアム探検の企画に合わせて瑛九の作品を出品し、第3期目は音楽をテーマにしたものであった。第4期目については、グループに着目した展示である。つまり、年間を通して瑛九の作品を盛り込んだ展示が実施され、いつ来館しても鑑賞できるようになっている。

宮崎県立美術館_03《花の散歩》1954年、33.3×24.0、油彩・板、「QEi」のサインあり


宮崎県立美術館_04《作品- E》1936 年、45.7×53.4、油彩・キャンバス
初期の抽象的な作例のひとつ。2種類の長方形の物体をスタンプのように、幾度も画面に押し付けて構成している。


宮崎県立美術館_05向かって右から《女》1952年、27.5×22.5、フォト・デッサン
《Visitors to a Ballet Performance》、1950年、45.7 ×55.8、フォト・デッサン
フォト・デッサン集『眠りの理由』より、1936年、22.3×27.2、フォト・デッサン
「フォト・デッサン」の中でも異なる表現方法が認められる3点。《女》は印画紙にスプレー状のやわらかな彩色を施している。真ん中は、感光時に型紙を移動して、イタリア未来派のような効果を狙った表現を試みている。


宮崎県立美術館_06右から《鳥》1956年、52.9×45.4、油彩・キャンバス、「QEi」のサインあり
《蝶と女》1950年、80.7×65.5、油彩・合板、「Q」のサインあり
《並樹A》1943年、33.3×24.3、油彩・キャンバス


宮崎県立美術館_07《花火C》1957年、45.5×53.1、油彩・合板、「QEi」のサインあり
個々の色が画面を動き回っているような作品。W・カンディンスキーの抽象絵画を想わせるが、瑛九の作り出す画面には鋭さはなく、牧歌的な暖かさを感じる。


宮崎県立美術館_08左《飛びちる花びら》1958年、80.3×116.3、油彩・キャンバス、「Q」のサインあり
右《田園B》1959年、130.7×194.0、油彩・キャンバス、「QEi」のサインあり


宮崎県立美術館_09《田園B》部分
オレンジ色を差した「光源」には、《作品- E》のスタンプのような表現が見受けられる。瑛九の作品は、技法材料が変わっても過去の技法がふっと現れることがある。そこを発見するのが作品鑑賞時のたのしみのひとつである。


宮崎県立美術館_10《つばさ》1959年、259.0×181.8、油彩・キャンバス
佐々木学芸員によると、瑛九を目的として訪れる来館者は、特に晩年の作品を好むため、本作か《田園B》のどちらか1点を必ず瑛九展示室で公開しているという。


実は、本作《つばさ》を制作していた前後の瑛九のようすについて、文通仲間による記録が残っている。1959年10月美術教師木水育夫は、浦和(現さいたま市)の瑛九のアトリエを訪問し、次のことを目の当たりにしていた。

瑛九はランニングシャツ一枚で脚立に乗って二〇〇号の油絵にとりくんでいました。見とれていたぼくを見つけて、「筆がね、こうしてすーっと画面に吸い込まれるのですよ。」これがそのときの挨拶でした。「寝不足がたたって、こんなに足が腫むのです。」と足をさするのです。彼はアトリエいっぱいに立ててある大作を指さして、「弾丸は出来た。来年は大いに暴れましょう。」と元気に語ったのですが、その後彼は病魔におそわれたのです。

十一月。瑛九入院のしらせを受け、浦和の病院へ見舞いました。彼はベッドの上で、「大作が出来ているから、庭に出して張りめぐらしその中で見てほしい。」といいました。ぼくたちはアトリエから大作を庭に出して、彼のいうように見ました。

(P.Sプランニング編「木水さん語録」『瑛九からの手紙』瑛九美術館、2000年、p.179)

この当時の瑛九は、体調不良により半分無意識で点を打つ作業を続けていたのだろう。抽象画ではあるが、制作過程を想像するとシュルレアリスムの「自動筆記」のような状態であった。妻都によれば、食事もろくに採らずに絵筆を握っていたと証言している。陽光がさす庭に張り巡らされた瑛九の大作を鑑賞した木水等にとっては、光に包まれ、まさに夢心地だったと思う。

宮崎県立美術館_11向かって左から
《森の会話》(SCALE Iより、林グラフィックプレスによる後刷り、ed.11/60)1953 年、36.1 ×27.2、銅版画
《れい明》1957年、52.9×42.0、リトグラフ、「QEi」のサインあり
《舞台のピエロ》1957年、53.4×40.5、リトグラフ、「QEi」のサインあり、ed.17/20


宮崎県立美術館_12ここからは、グループに所属していた当時の作品や同志の作品が展示されたコーナー。向かって左側から、
《タバコを吸う女》1935年、32.4×23.7、油彩・ボール紙
《街》1947年、116.8×91.5、油彩・キャンバス、「Q Ei」のサインあり
《プロフィル》1950年、22.7×19.3、フォト・デッサン


《タバコを吸う女》本作は西村楽器店にて第1回「ふるさと社」展に出品された。「ふるさと社」のメンバーは、第15回都城市立美術館に列挙した通り、主に宮崎の有志と結成された。後者の《街》は第13回「自由美術家協会」展に出品され、《プロフィル》は第1回「デモクラート美術家協会」展の出品作。

宮崎県立美術館_13左から 難波田龍起《古代図様》1938年、31.5×40.4、油彩・キャンバス、矢橋六郎《竹林》1940年、80.3×99.8、油彩・キャンバス


1937年、瑛九は自由美術家協会の創立会員のひとりであるが、翌年に出品を見送り、その後退会して復帰している。創立当初から入退会や「改称」の多い団体で著名な人物が会を通じて作品を出品していた。2人も自由美術家協会に所属しているが、矢橋は山口薫等と1950年に退会し、難波田は1959年退会している。瑛九の関係者から伺った話では、戦時下にあった当時、「自由」や「創造」などを掲げた活動が難しく、常に目を気にするような状況があったようだ。戦後も美術界の活気が戻らず、「毎日連合展」が企画されることなる。山田光春『瑛九―評伝と作品』(青龍洞、1976年)には、その当時の様子を次のように書いている。少し長くなるが、当時のようすを伝える貴重な証言のためご紹介したい。

自由美術の仲間には、小野里[オノサト・トシノブ]のようにシベリヤに抑留された者や、荒井[竜男]のように家族とともに京都や北海道を転々とした末に東京に舞い戻った者などもいたけれども、多くは山口[薫]の群馬県箕輪や矢橋の岐阜県赤坂といったように、それぞれの郷里へ疎開したままになっていた。そのために出足はおくれ、一九四八(昭和二三)年の一月に小規模ながら三越で会員展を開き、その秋大阪で戦後はじめての公募展を開いたのがやっとであった。
しかしまだ、本格的な活動を始めたとはいえず、敗戦後の厳しい現実の中で、どのように活動を進めて行くべきかとの意見をまとめることは出来なかったので、翌年の二月、難波田、森[芳雄]、荒井等の在京会員に長谷川[三郎]らを加えた数名の会員が箕輪の山口の所に集まって協議をした。そこでの中心課題が、今後会をどのように発展させるべきかとの方針と方策の決定にあったことはいうまでもなく、討議は会の組織の改革という点にしぼられていった。戦後の荒波を乗り越えて会を前進させるには会員十数名といった貧弱な組織では困難だから、会員を充足することが目下の急務だとの意見は一致したけれども、その具体的な実現方法については、一挙に大量の会員を補充して会の体質改善を図るべきだとする説と、急速な建て直し策には危険が伴うから、徐々に拡充を進めるべきは早急に会員を大幅に増強して、名称を自由美術協会(家を除く)と改めて再出発することを決定した。そこで、新しい会員にはこれまでの会友と、麻生三郎、井上長三郎、糸園和三郎、小山田二郎、大野五郎、寺田正明、末松正樹、鶴岡政男、吉井忠、佐田勝、松本俊介、広幡憲等の新人を迎えることにしたのであって、瑛九の会員復帰もこうした改革の波に乗ったものであった。[中略]こうして戦後の活動を開始した自由美術協会は、この年の五月に設けられた「毎日連合展」にも参加し、十月には会場をこれまでの美術協会から東京都美術館に移して第九回展を開いたのであって、瑛九もそれに参加した。[pp.295‐296]

※このとき瑛九が毎日連合展に出品した作品は、《鳩》(生誕100年展図録レゾネNo.191)《窓を開く》(レゾネNo.189《窓をあける》)
※[ ]は筆者によるもの

宮崎県立美術館_14デモクラート美術家協会会員の作品。左から
泉茂《作品(蝶)》1959年、33.3×45.3、油彩・キャンバス
幹英生《風景》1953年、38.0×45.5、油彩・キャンバス
内田耕平《作品》年代不詳、27.2×21.9、油彩・ボール紙
加藤正《敗戦ヒロシマ(赤)血の爆発》1953年、60.4×72.6、油彩・キャンバス


宮崎県立美術館_15左の3冊は機関紙「DEMOKRATO」No.1-3、右は「デモクラート美術家協会解散通知」葉書


内田耕平と加藤正はともに宮崎県串間市出身である。今回は展示されていなかったが、同協会の井山忠行もまた宮崎出身である。

ちょっと寄道…

宮崎県立美術館_16みやざきアートセンター
ここは、2009年10月に宮崎市橘通3丁目にオープンした複合文化施設で、展示ギャラリー、創作アトリエ、小ホール、交流サロン、キッズルーム、多目的室、ライブラリー、屋上庭園が設置されている。市が管轄する施設ではあるが、運営は民間団体に委託されている「指定管理者制度」が導入されている。建物にはそこここに利用者がいて、「場」に活気があった。センター入口前の広場では、ペンキで塗られたアップライトピアノがあり、ひとりの若い男性がショパンの「華麗なる大円舞曲」を軽快に弾いていた。ニット帽に革のジャケット姿というラフな格好の彼は、ただそこにピアノがあったから弾いているというようすであった。時々通行人がベンチに腰を落ち着かせて、ピアノに耳を傾けていた。このような場所は中々課題が多いという噂を耳にするがここは、「箱もの」にならず、すっかり地域に馴染んでいるようすであった。このとき、イラストレーター「生鯣狼繊彭犬行われ、盛況だった。80年代の映画「スター・ウォーズ」等のポスターを手掛けたことで全国的に知られているが、宮崎ゆかりの人物として地元で高く評価されている。


ところで、こちらの5階アートスペースでは、宮崎ゆかり作家を紹介する常設展が行われていることもある。このときは、企画展の会場として利用されていたが、瑛九の作品も公開することがあったという。私は図々しくも瑛九の作品について何か紙ベースで閲覧できる資料がないか伺ったところ、宮崎市地域振興部文化スポーツ課の久米徳太郎氏が急きょ要望に応えてくださった。取材や研究目的といっても、忙しい合間をぬって機転を利かせていただいたことは非常に嬉しかった。聞くと久米氏は県立美術館の佐々木明子学芸員の教え子だったという。今回の記事を書くにあたって、お二人にはたいへんお世話になった。この場を借りて厚く感謝申し上げたい。

宮崎市が所蔵する瑛九の作品総点数は38点。
版画28点(銅版画18点、リトグラフ10点)
フォト・デッサン10点

本稿ではフォト・デッサンのタイトルを以下に抜粋する。
《波のたわむれ》25.4×30.5
《想い出》22.6×28.0
《光と影》22.15×28.4
《シルク》21.2×28.4
《プロフィル》22.15×27.3
《家族》不詳
《犬》21.9×26.8
《夢》22.0×22.0
《あこがれ》21.8×27.6
《二人》不詳

今後、5階ギャラリーで瑛九が展示される機会があるかどうかはわからないが、現代美術を中心にした展示や市展などが開催されている。県外から宮崎県立美術館に足を伸ばすときには、ぜひ立ち寄りたいアートスポットのひとつである。
会場:みやざきアートセンター
休館:毎週火曜日(火曜日が休日の場合は翌平日)は、18:00まで(入場は17:00まで)
時間:10:00〜22:00(入場は19:30まで)

宮崎県立美術館_17宮崎県立美術館のすぐ近くに宮崎神宮がある。銅鳥居に銅版葺きの屋根。以前、参拝したときは野生の鶏がいたが寒さのためどこかに隠れてしまったのだろうか。


宮崎県立美術館_18宮崎神宮の境内にある宮崎神宮徴古館。登録有形文化財である。このときは「揮毫作品展会場」として内部公開していた。


なかむら まき

●展覧会のご案内
「第4期コレクション展 瑛九の世界III」
会期:2017年1月5日[木]〜2017年4月16日[日]
会場:宮崎県立美術館
休館:月曜、祝日の翌日(土・日曜日、祝日を除く)
時間:10:00〜18:00(展示室への入室は17:30まで)

宮崎市出身の瑛九(本名:杉田秀夫)は、生涯を通じて常に新しい表現を求め、写真や版画、油彩など様々な技法に取り組みました。またその作品も、初期から晩年に至るまで、印象派やシュルレアリスム(超現実主義)風、抽象的な作品など、多彩に変化しました。
20代でフォト・デッサン集『眠りの理由』を刊行し、一躍美術界で脚光を浴びた瑛九は、様々な技法や表現を模索した後に、その集大成ともいえる点描による絵画空間へたどり着きました。
 今回の展示では、油彩や版画など、各領域の代表的な作品に加え、瑛九の美術団体における活動を特集して紹介します。没後60年近くを経て、今なお輝き続ける瑛九作品の魅力をお楽しみください。
(宮崎県立美術館HPより転載)

●今日のお勧め作品は瑛九のフォトデッサンです。
瑛九「子供」
瑛九
子供
フォトデッサン
25.2×18.9cm

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中村茉貴〜都城市立美術館「瑛九芸術の迷宮へ」その3

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第16回

都城市立美術館
UMK寄託作品による「瑛九芸術の迷宮へ」その3


 都城市立美術館で行われた展覧会に関するレポートも今回で最後を迎える。本展は、「1. 瑛九のはじまり」、「2. 増大するイメージ」、「3.色と形の挑戦」と三部構成になっており、その1では、1階会場1・2章のフォト・デッサンおよびガラス絵、初期油彩画を見てきた。その2は2階会場で展示されていた都城市ゆかりの詩人富松良夫と瑛九について、そして、その3では、2・3章に出品された銅版画、リトグラフ、晩年の油彩画等を紹介したい。

都城市立美術館_26階段を2階に上がると、《神話》(1956年、紙・エッチング、右下に鉛筆で「Q Ei」のサインあり、[特])が目に付くところに展示されている。会場を見渡すと瑛九の版画が整然と並んでいる。広々とした会場をも埋め尽くす作品点数の多さは、まさに圧巻である。
向かって右側の壁には、林グラフィックプレスが発行した銅版画の後刷り画集「SCALE」のシーリーズが展示されている。手前からSCALE兇茲蝓圓いり》(1957年、紙・エッチング)、SCALE靴茲蝓塢と少女》(1957年、紙・エッチング)、SCALE靴茲蝓埓院奸1956年、紙・エッチング、ドライポイント、ルーレット)、SCALE兇茲蝓圓燭燭い》(1956年、紙・エッチング)、SCALE垢茲蝓埒垢寮此奸1958年、紙・エッチング、館蔵品)、SCALE垢茲蝓埀世硫屐奸1958年、紙・エッチング、館蔵品)


都城市立美術館_27右から《街B》(1953年、紙・エッチング)、《なやみ》(1953年、紙・エッチング、[特])、《忘れた道》(1957年、紙・エッチング)


都城市立美術館_28《叫び》(1954年、紙・エッチング)、《小さな人魚》(1954年、紙・エッチング)

都城市立美術館_29参考画像:林グラフィックプレスで刷られたエッチングにはスタンプによる裏書がある。


original etching by Ei Q
limited edition of 60
published by Hayashi Graphic Press

林グラフィックプレスを設立した林健夫は、池田満寿夫と親交のあった人物としても知られる。都夫人の許可のもと瑛九が残した銅版の原版から後刷りされた版画集「SCALE」は、機銑后1974-76年、83年刊行)まであり、カタログも発行している。未発表作を含め全278点の銅版画(後刷り)が収録されていることからレゾネとして代用されることもしばしばある(全作品ではないが)。

銅版画のコーナーの次は、リトグラフの作品が並ぶコーナー。リトだけでも23点あり見応えがある。

都城市立美術館_30向かって右側から《蟻のあしあと》(1956年、紙・リトグラフ、[特])、《白い丸》(1956年、紙・リトグラフ、[特])、《街の燈》(1956年、紙・リトグラフ)、《スケート》(1956年、紙・リトグラフ)、《舟》(1956年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり)、《青の構成》(1956年、紙・リトグラフ、「Q」[特])、《夜明けに飛ぶ》(1956年、紙・リトグラフ、スタンプサインあり)※スタンプ(真岡市蔵)は久保貞次郎制作


都城市立美術館_31左から《航海》(1956年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《輪》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《拡声器》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《海底》(1957年、紙・リトグラフ、[特])、《考える鷺》(1957年、紙・リトフラフ)


都城市立美術館_32右から《迷路》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《風が吹きはじめる》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《舞台のピエロ》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり、[特])、《春の風》(1957年、紙・リトグラフ)


都城市立美術館_33右から《赤き微小》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり)、《飛ぶ》(1957年、紙・リトグラフ、「Q Ei」あり)、《流れるかげ》(1958年、紙・リトグラフ、「Q」あり、[特])


都城市立美術館_34右から《壁》(1958年、26.0×21.0、「Q Ei」あり、フォト・デッサン)、《顔》(1958年、25.5×20.5、「Q Ei」あり、フォト・デッサン)


都城市立美術館_35《森のささやき》(1958年、25.5×18.0、ボード・水彩、鉛筆により「Q Ei」、[特])、《春のめざめ》(1958年、43.5×28.5、紙・水彩、「Q Ei」あり、[特])、《虚ろな記憶》(1959年、38.5×22.5、紙・水彩、ペン、「Q Ei」あり、[特])


都城市立美術館_36《空の旅》(1957年、41.0×31.8、キャンバス・油彩、「Q Ei」あり、[特])、《土の中》(1957年、27.3×22.0、キャンバス・油彩、「Q」あり、[特])、《丸の遊び》(1958年、板・油彩、「Q」あり、[特])、《森》(1959年、キャンバス、油彩、「Q」あり、[特])


3回に渡って宮崎県の都城市立美術館の展覧会を紹介してきた。こちらの美術館に訪問して感じたことは、郷土の美術家を展示することが実に自然であるということ。家族写真を飾るかのように、シンプルで気持ちのいい雰囲気があった。いつからか地方美術館でも人気取りのための展示と高額な観覧料を払わないと入場できなくなってきたが、ここでは特別展以外は従来の博物館法に近いスタンスで作品を無料公開している。また、どこの館も展覧会事業費や、まして作品購入費は開館時よりもグッと落ち込んでいるはずであるが、それを見かねてか、テレビ宮崎(UMK)が代わって作品をコレクションしている。良いバランスで美術館が保たれている。薩摩藩の気風によるものかもしれない。平日の昼下がり、確かに来館者は少なかった。しかし、2人組のご婦人が「瑛九さん…」と親しげに呼んで作品を覗く様子に、ほっとする思いがした。

***

ちょっと寄道…

前回、瑛九と親交のあった都城市の詩人「富松良夫」を紹介した。
美術館で展示されていた詩集は高値で入手困難であるが、宮崎県の出版社「鉱脈社」で下記のように再編されている。

都城市立美術館_37富松良夫『黙示』表紙


都城市立美術館_38杉田正臣『父、暁天、瑛九抄』表紙


巻末を見ると、本書は「みやざき21世紀文庫」シリーズとして今まで刊行されたタイトルがズラリと並んでいる。小さな字でそれに付随して本シリーズが出来た経緯を書いている。たいへんユニークで興味深い取り組みをされているので下記に紹介したい。

平成七年秋に宮崎県立図書館で開催され、好評を得た「21世紀の子供たちに伝えるみやざきの100冊の本」展。「宮崎にもこんないい本があったのか」と評判を呼び「ぜひ手に入れたい」という声が相次ぎました。こうした県民の声に応えて、100冊の本を逐次刊行していこうと編集委員会が結成され、平成八年八月から「みやざき21世紀文庫」として第一期(全40巻、解説付。カバー絵・瑛九)の刊行が始まりました。

これこそ郷土愛の結晶である。史料編纂所が発行する県史とは別に読み物として親しみやすい。「郷土誌」ではあるが、ただの「郷土誌」ではない存在感である。一部の巻はネットショップで購入できて、つい最近まで東京国立近代美術館で行われた瑛九展の会期中には、兄正臣の著書がミュージアムショップで平置きされていた。そして、下線で示したように本シリーズは、全て「カバー絵・瑛九」なのである。宮崎県が瑛九をいかにだいじにしているのか一目瞭然である。

宮崎訪問時には、本シリーズの表紙を確認したいと思い宮崎県立図書館へ立ち寄ったものの、手に取る時間がなかった。宮崎でやり残してきたことのひとつで頭の片隅に置き、ブログ記事の構想を練っていると、段々と表紙のことが気になり、頭の中心にまでにじり寄ってきた。「このシリーズは100冊まであるのか。出版されているとすれば、瑛九名品100選ということになるのではないか」と、妄想が膨らんだ。

そこで、駄目もとで出版社に直接問い合わせをしたところ、有難いことに、鉱脈社の鳥井氏が対応していただいた。現在の発行されているタイトルと表紙絵について情報提供していただいたので、下記にリストを公表したい。

<鉱脈社 「みやざき21世紀文庫」シリーズ>
富松良夫『新編 黙示』 1996年: 《つばさ》 1959年、油彩、宮崎県立美術館蔵
中村地平『日向』 1996年: 《田園B》 1959年、油彩、宮崎県立図書館蔵
若山牧水『郷里の山河』1996年: 《泉》 1959年、油彩、個人蔵
石川恒太郎『日向ものしり帳』1996年: 《ブーケ(花束)》 1959年、油彩、宮崎県立美術館蔵
黒木淳吉『タ映えの村』1996年: 《題不明》1958年、油彩、宮崎県立美術館蔵
戸高保『白い浮雲の彼方に』1996年: 《蟻のあしあと》 1956年、リトグラフ、宮崎県立美術館蔵
三戸サツヱ『幸島のサル』1996年: 《丸のあそび》 1958年、油彩、宮崎県立美術館蔵
小野和道『浮上する風景』1996年: 《まと水》 1957年、油彩、長島美術館蔵
小川全夫『よだきぼの世界』1996年: 《丸( 2 )》 1958年、油彩、福岡市美術館蔵
城雪穂『藤江監物私譜/笛女覚え書』1996年: 《題不明》1957年、油彩、宮崎県立美術館蔵
渡辺修三『新編 谷間の人』1997年: 《愛の歌》1957年、油彩、宮崎県立美術館蔵
青山幹雄『宮崎の田の神像』1997年: 《まつり》 1958年、油彩、宮崎県立美術館蔵
岩切章太郎『無尽灯』1997年: 《ながれ一たそがれ》 1959年、油彩、個人蔵
中村地平『中村地平小説集』1997年: 《風船(仮)》1956年、油彩、個人蔵
松田壽男『日向の風土と観光』1997年: 《眼が廻る》 1955年、油彩、宮崎県立美術館蔵
黒木清次『日向のおんな』1997年: 《鳥》 1956年、油彩、宮崎県立美術館蔵
三原七郎『三等院長のメモ』1997年: 《アブストラクション》制作年不明、水彩、宮崎県立美術館蔵
三上謙一郎『死者を追って』1997年: 《花火》制作年不明、油彩、宮崎県立美術館蔵
賀来飛霞『高千穂採薬記』1997年: 《子供たち》1955‐56年、素描、宮崎県立美術館蔵
宮永真弓『海から聞こえる笛/つゆ草の花』1997年: 《芽》 1954年、油彩、宮崎県立美術館蔵
大迫倫子『娘時代』1998年: 《青の動き》 1956年、油彩、宮崎県立美術館蔵
神戸雄一『詩集 鶴、小説集番人』 1998年: 《空》 1957年、工ッチング、宮崎県立美術館蔵
安田尚義『高鍋藩史話』1998年 : 《蜃気楼》1957年、油彩、個人蔵
渡辺綱纜『紫陽花いろの空の下で』1999年: 《街》 1947年、油彩、宮崎県立美術館蔵
みやざき21世紀文庫編集委員会編『宮崎縣嘉績誌』1999年: 《題不明》制作年不明、フォト・デッサン、宮崎県立美術館蔵
若山甲蔵『日向の言葉』2000年: 《だだっこ》 1954年、油彩、宮崎県立美術館蔵
杉田正臣『父、暁天、瑛九抄』2000年: 《明るい森の中》 1958年、水彩、宮崎県立美術館蔵
以上、27巻

作品の所蔵先は宮崎県立美術館が大半であるが、中には長島美術館、福岡市美術館、個人蔵もある。なかでも気になる表紙タイトルは、『中村地平小説集』の《風船(仮)》1996年(生誕100年記念瑛九展レゾネNo.284)である。「風船」はご存知の通り、東京国際版画ビエンナーレに出品されたリトグラフ《旅人》(1957年)の画面上に表れているモチーフである。いずれも瑛九がつけたタイトルかどうか定かではないが、造型上何か関連がある可能性もある。また、著者の中村地平は、全国的に著名な人物であるが、宮崎県立図書館の館長を勤めるなど地域に貢献した人物でもある。1951年5月県立図書館に設置された「子供読書室」の瑛九の壁画(焼失)や、「花と絵の図書館」を館内に設けて児島虎次郎、塩月桃甫、瑛九の作品を展示したのは、彼が着任中のことである。

なお、本シリーズとは別に、鉱脈社の出版物では、福富健男『画家・瑛九の世界』2011年も刊行している。合わせて参照したい論文である。
なかむら まき

●展覧会のご案内
瑛九芸術の迷宮へ「瑛九芸術の迷宮へ」
会期:2017年1月5日[火]〜2017年2月26日[日]
会場:都城市立美術館
休館:月曜(祝日・振替休日の場合、その翌日は休館)
時間:9:00〜17:00(入館は30分前)
主催:都城市立美術館
入館料:無料


 本展では平成27年度にテレビ宮崎から寄託された瑛九作品を中心に、過去にテレビ宮崎が収集した特別出品作品を加えた、写真や銅版画、リトグラフなど約80点を展示いたします。宮崎ゆかりの美術作品が散逸することを防ぎ、県内の文化・芸術を長く伝え残したいという理念のもと築かれたこのコレクションは、代表的な版画やフォトデッサンに加えて、初期の油彩画やガラス絵など。今までほとんど紹介されていない貴重な作品も含まれています。
 当館は開館以来、瑛九作品の収集と企画展示を行ってきましたが、この度の寄託を機会に、瑛九の画業全体がより広く理解されることとなりました。この展示を通じて、瑛九の自由な時代精神を感じ取っていただければ幸いです。(本展HP「ごあいさつ」より転載)

取材にご協力いただいた都城市立美術館の祝迫眞澄学芸員、鉱脈社の鳥井氏には、この場をかりて深く感謝の意を表したい。

※第14回「美術館に瑛九を観に行く」の訂正とお詫び
「富松良夫宛 杉田秀夫書簡 昭和10年8月21日」より抜粋した文章に誤りがありました。訂正箇所は以下のとおり。
[誤]小さな花のもたらる → [正]小さな花のもたらす
[誤]目がくれて → [正]日が暮れて

中村茉貴〜都城市立美術館「瑛九芸術の迷宮へ」その2

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第15回

都城市立美術館
UMK寄託作品による「瑛九芸術の迷宮へ」その2


 前回に引続き、都城市立美術館で開催されていた「UMK寄託作品による 瑛九芸術の迷宮へ」展の報告である。今回は、2階会場に展示されていた瑛九と富松良夫の関係資料に着目したい。

 富松良夫(1903−1954)は、都城市で「南の宮沢賢治」として地元で愛されている詩人で、瑛九と若い頃から親しい関係にあった。良夫の弟富松昇(元宮崎市助役)は、1934年11月に瑛九のアトリエを訪ね、12月には瑛九と山田光春が富松家を訪ねる。翌35年には、瑛九、岡峰龍也、杉田杉(瑛九の妹)、富松昇、藤田頴男、山田光春が洋画研究グループ「ふるさと社」を結成する。

都城市立美術館_16会場の中心に展示された資料。覗きケースには、書簡2通と詩集1冊がある。壁には、瑛九のリトグラフやエッチングが展示されている。


都城市立美術館_17「富松良夫宛 杉田秀夫書簡 昭和10年8月21日」(1935年、都城市立図書館所蔵、部分)


本書簡に記載された内容を下記に少し抜粋したい。

 私は絵画藝術とソの今迄のジャンルに従ひたくはありませぬ。ヱかきは描くものであって、観る人ではありませぬ。ゆえに私はヱカキの批評に全てにといってもいいくらいキタイをおいておりませぬ。又ヱカキのみかたとソのめがねをかけてやるこの国の美術批評家の批評は画家以上に私には他人です。私は人間のコヱ(声)をほっします。ろうごくの窓からみえる一りんの小さな赤い花によする囚人の感情、一りんの小さな花のもたらす囚人への言葉に言えない様な一種の希望を。そういった所に絵画をおいて考へたく思っております。
(中略)
 今年になって、絵筆がにぎれない精神のじょうたいにいます。すこし評論をかこうかと思ひ、それによる自己成長をはかつております。自己と世界の対決で、日が暮れてしまふのです。一歩もうごけやしません。


東京国立近代美術館の「瑛九1935−1937闇の中で『レアル』をさがす」展に展示されていた山田光春宛の書簡と富松良夫宛の書簡はどこか違う雰囲気がある。尻込みせずに自論を主張する瑛九節は健在ではあるものの、言葉の端々に緊張感が漂っている。瑛九とほぼ同い年の山田に比べて良夫は7歳ばかり年上だった為かもしれないが、おそらく、それだけではない。書簡が書かれた時期は、杉田秀夫(瑛九)が画家を志してスタートを切った頃である。すでに詩集を出版している「文学者」と対峙して、自分は「絵描き」と称して考えを説明するも、まだ不慣れで硬さがある。良夫とは土俵は違っても同じ表現者としてシンパシーを感じていたようで、希望や自論をぶつけている。いわば、山田は何でも打ち明けられる同志で、良夫はもっとも身近な表現者の先輩という存在であったのかもしれない。瑛九はこの良夫との往復書簡を通じて「絵描き」として自己形成を図っていったのではないだろうか。

都城市立美術館_18「富松良夫宛 杉田秀夫書簡」(年代不詳、都城市立図書館所蔵)
上記の書簡より少し抜粋する。


 私の制作は量だけで、すこしもうまく行きませぬ。油絵之具になれることすらまだ中々に遠い事を思ふとちょっと困るので、わん力的大作にかりたてるわけです。

 「絵描き」同志ではないため、鼓舞するようなところはない。冷静に自分をふりかえって、良夫に報告している。

都城市立美術館_19ケースに入っている本は、富松良夫『詩集 黙示』1958年、龍舌蘭。
表紙は、瑛九の抽象的なフォト・デッサンで飾られている。上部の表題部分は帯状に裁断され、裏表紙の方に回り込んでいる。本書は、1954年良夫が亡くなったあとに編集された。表紙にフォト・デッサン、普及版にデッサン2枚(金属板印刷)、100部限定にエッチング2葉付きで販売された。


都城市立美術館_20本書に挿入されている作品。シュルレアリスムと抽象のあいだのようなスケッチである。タイトルはない。


都城市立美術館_21同書に挿入された作品。タイトルはない。細かな線は幾重にも重なり、花びらや貝殻のようなシルエットが見えてくる。それは、形を変え次第に上昇して消えてゆく、「言の葉」をあらわしているのだろうか。


以下に富松良夫の詩3篇を紹介したい。

   山によせて
ひかりの箭(や)をはなつ朝
山は霧のなかに生まれ
むらさきの山体は
こんじきの匂ひをもつ
あたらしい日を信じ
あたらしい世界のきたるを信じ
さらに深い山の発燃を信じ
にんげんの哀しさも
国の面する悲運のかげも
世界の精神的下降の現実も
わすれてはてるわけではないが
いまこのあざやかな
朝のひかりにおぼれ
悠々と非情の勁さにそびえてゐる
山にまなぼう


   聴く
ふかい夜のめざめ、しんとして揺るがない星の光を額にあてている、
わたしは信ずる、この秋の夜を徹る虫の音は白銀の穂尖だ
脳髄の心をすずしくすずしく刺しとおしてくる……繊やかさ
わたしの肉身はこゝに傾く、ああわたしはしづかに胸を反らすのだ
わたしは死なないであろう、そして無上にわたしは生きるのであろう
星にぬれ、露に濡れ、この窓にわたしの映像をいつまでも填め
わたしは信ずる、生存のはてしなく涼しいその一念を。


   雲
山は風に澄んでいる
凛然と霽れきつた山をわれはまつすぐに受けている
われは坐ったまま、白雲となつて飛ぶ
からだを透きとおらせ
白々と風とあらそう無際辺の旅をする
山脈を超えるとき、われはやまはだに触れて見るのだ
鋼いろのそのつめたさが胸にとおつてくるとき
爽々とわがこころを膊つ一脈の青韻があつた


良夫は日々の生活で得た刺激をあざやかな言葉にかえて、体験した感覚をよみがえらせようとしている。6歳で脊椎カリエスにかかり良夫の体は不自由であるが、詩は空中で生き生きと跳ねあがり、エネルギーに満ちている。情景豊かな表現は、秀夫(瑛九)の影響だろうか。以上のように瑛九と富松の二人の交流関係の結晶として展示されていた資料を詳しく見てみると、互いにいい影響関係にあったことが想像できる。

都城市立美術館_22参考資料:鈴木素直「同時代の軌跡―富松良夫と瑛九」(宮崎日日新聞、2001年11月16日)瑛九と富松良夫の関係を詩人鈴木素直氏は、新聞で次のような点を書いている。一部抜粋する。


・文学の道を歩む富松は美術への関心と共感に支えられ、画家瑛九の世界は文学に育てられた。一九二二、三年ごろから始まる友好関係の中で、文学と美術、さらに音楽の世界をたえずクロスさせながらお互いを刺激し続けた。

・両人とも「就職」することなく、経済的には恵まれない芸術創造だけの生涯を選んだ。

・兵役義務に従事していない。(中略)両人の負い目や戦争観の検証はあまりされていない。

・両人とも数多くの手紙を誠実にまた激しく書いている。


鈴木氏の指摘のとおり都城市立美術館の学芸員祝迫眞澄氏によると、富松関係資料の所在はあまりよくわかっていないという。書簡や瑛九の作品がどこかにある可能性は十分に考えられる。たとえば、愛知県美術館の山田光春アーカイブには、富松良夫に関係する書簡の写しやコピーが保管されている。

同じ宮崎県内でも「瑛九」については宮崎県立美術館(宮崎市)で展示されるという意識が高く、これほどまでボリュームのある展示はしてこなかったと語る祝迫学芸員。これを機に富松と瑛九の関係を、引き続き調査したいと意気込んでいた。

本展の続きは次回にまわし、
ちょっと寄道...

都城市立美術館のとなりには、市立図書館が併設されている。中に入ると、さすが都城市のスターである富松良夫のコーナーが設置されていた。良夫は、瑛九と連絡を取り合う前から美術に関心があり、1928年には絵画グループ「白陽会」を創立し、自らも絵筆を握っていた人物でもある。

都城市立美術館_23富松良夫『詩集 現身』龍舌蘭、1971年
本書の表紙も瑛九のフォト・デッサンで飾られている。


都城市立美術館_24オリジナルエッチング《雨》
雨のなかに妖しく佇む奇妙な構造物。わずかに開いた隙間を除くと何が見えるのだろうか。


都城市立美術館_25オリジナルエッチング《おとぎの国》
家々が立ち並び、全体的に賑やかな作品。3人の男女の他にも、よく見ると家のなかにも人の姿がある。傘をもつ男性に手を振り上げて挨拶をする人。太陽と星、光と影が同居する世界でどのような物語が展開されるのだろうか。


なかむら まき

●展覧会のご案内
瑛九芸術の迷宮へ「瑛九芸術の迷宮へ」
会期:2017年1月5日[火]〜2017年2月26日[日]
会場:都城市立美術館
休館:月曜(祝日・振替休日の場合、その翌日は休館)
時間:9:00〜17:00(入館は30分前)
主催:都城市立美術館
入館料:無料


 本展では平成27年度にテレビ宮崎から寄託された瑛九作品を中心に、過去にテレビ宮崎が収集した特別出品作品を加えた、写真や銅版画、リトグラフなど約80点を展示いたします。宮崎ゆかりの美術作品が散逸することを防ぎ、県内の文化・芸術を長く伝え残したいという理念のもと築かれたこのコレクションは、代表的な版画やフォトデッサンに加えて、初期の油彩画やガラス絵など。今までほとんど紹介されていない貴重な作品も含まれています。
 当館は開館以来、瑛九作品の収集と企画展示を行ってきましたが、この度の寄託を機会に、瑛九の画業全体がより広く理解されることとなりました。この展示を通じて、瑛九の自由な時代精神を感じ取っていただければ幸いです。(本展HP「ごあいさつ」より転載)

中村茉貴〜都城市立美術館「瑛九芸術の迷宮へ」その1

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第14回

都城市立美術館
UMK寄託作品による「瑛九芸術の迷宮へ」その1


 今回、訪れた先は都城市立美術館。ついに瑛九のふるさと宮崎県の地を踏む。ここで今、約80点にもおよぶ瑛九の初期から晩年に至る作品が一挙に公開されている。しかも驚くべきことに、この大コレクションは一民間企業「テレビ宮崎(UMK)」が築き上げたものである。

都城市立美術館_01都城市立美術館。暖かい陽気で、冬の冷たい風が心地よく感じた。木の下のベンチには読書をする中学生がいた。


都城市立美術館_021階展覧会の入り口。入場無料。かなりボリュームがある展示なのに申し訳ないという考えもよぎる。年に一度、他館から作品を借用する特別展と市民のために会場を空ける期間があり、その他はコレクション展示が企画されている。


取材に応じてくださった本展の担当学芸員祝迫眞澄氏によると、テレビ宮崎は、瑛九をはじめ地元のゆかり作家の作品を主にコレクションしているということであった。瑛九の作品だけでも全282点寄託があり、今回は額装されている作品87点とテレビ局で保管している33点を特別出品することになった。

都城市立美術館_03左は《人魚》(年代不詳、フォト・デッサン、28.0×22.0)、人魚の周りには魚が集まり、ゆらゆらとなびくワカメや巻貝が装飾的に置かれている。光と闇が交差する海の神秘的な世界を表現している。隣は《バレー》(1947年、フォト・デッサン、26.5×20.5)本作はテレビ宮崎で保管され、今回特別に展示している。(以後、特別出品は[特]と表記する)


都城市立美術館_04左は《サーカス》(制作年不詳、55.6×45.5、フォト・デッサン、[特])画面上で舞う演者8名がそれぞれに異なるポーズをとる。ガラスのコップにガラス棒、大小の輪っかが軽やかなリズム感を与えている。
右は《画題不明》(1948年、フォト・デッサン、44.3×54.6、[特])立膝をつく女性と跪く女性が象徴的に表現されている。《サーカス》と同様に大型な作品(全紙)である。


都城市立美術館_05こちらの壁面に展示されている作品4点は、左から《村》、《鼻高のプロフィール》、《Visiters to a Ballet Performance》、《家・窓・人》である。1979年「現代美術の父 瑛九」展(瑛九展実行委員会、小田急百貨店)の開催を記念して制作された細江英公のスタジオによるリプロダクション。下側にエンボスサインがある。原作は1950年から51年頃の作である。


瑛九展実行委員会編『瑛九展記念 フォト・デッサン』(細江英公スタジオによるリプロダクション 1979年)
10点セットで限定55部。収録作品は次のとおり。
 1. 芝居 
 2. 家・窓・人 
 3. Visiters to a Ballet Performance
 4. 鼻高プロフィール
 5. 森のつどい
 6. 庭
 7. 村
 8. 子供の部屋
 9. コンポジション
 10. ビルの人
 ※オリジナルは次の美術館が所蔵している。
 国立国際美術館:1 / 北九州市立美術館:2, 4, 6, 7, 9, 10 / 宮崎県立美術館所蔵:3, 5, 8

都城市立美術館_06左手前から《森のつどい》[特]、《ビルの人》、《芝居》、《コンポジション》。上記に同じく細江英公スタジオによるもの。右奥は、《画題不明》(年代不詳、板・油彩、22.0×27.3)。印象派風の明るい色調の背景が淡い黄で大胆に塗られている。画面には所々塗り残しがあり、円形や赤い模様、引っかいて描写された部分が見受けられる。意図的に空けられた穴も数か所あり、何か別の形態のものだったことを想像させる。


都城市立美術館_07左から《並木通り》(1941年、キャンバス・油彩、45.5×38.0、左下「H.Sugita」サインあり、[特])。生誕100年記念瑛九展のレゾネでは、山田光春の記録に含まれていなかったものとして掲載されている(No.056)。《庭》(1942年、キャンバス・油彩、左下「H.sugita」の鉛筆サインあり、[特])瑛九の関係者によれば本作の描かれた場所は宮崎高等農林学校の敷地内に広がっていた風景であるという。レゾネのタイトルは、《庭にて》(No.071)


都城市立美術館_08参考資料:宮崎高等農林学校 絵葉書(1918〜1932年発行か)
本校美術部の展示を瑛九は観に行っていた。
1934年宮崎美術協会展で北尾淳一郎(1896-1973)に会い親交を深めるようになる。1930年代のフォトデッサンに移り込むガラス棒(実験器具)は本校で制作に励んだときの作のようだ。北尾は東京帝国大学農学部で学び、1925年から1930年3月まで宮崎高等農林学校で教鞭をとっていた人物である。ドイツ、イタリア、フィンランドでの留学経験を持ち、写真やレコードを聴く趣味があった。1937年銀座ブリュッケにて「瑛九フォトデッサン・北尾淳一郎レアルフォト合同展」を開催している。


都城市立美術館_09《キッサ店にて》(1950年、キャンバス・油彩、左下に「Q Ei」あり、[特])、キュビスム風に構成された作品。テーブルには、グラスとコーヒーカップが並び、二人は会話を楽しんでいるよう。本作は以前、絵の具の剥離が酷く修復している。(レゾネNo.198)。隣は《卓上》(1947年、キャンバス・油彩、515×25.5、[特])縦長の画面に少し違和感を覚えた人もいるだろう。それもそのはず、瑛九にエスペラントを教わったことから親交を深めていた鈴木素直氏によると、完全だったころの作品をみており、長辺1/3くらいが裁断されているという。また、レゾネには天地が逆さまの像が掲載されている。


都城市立美術館_10向かって左から 《バレリーナ》(1950年、紙・水彩、28.0×20.0、左下「Q」のサインあり)、《バレー》(1950年、ガラス・油彩、22.7×15.8、[特])、《バレーの女》(1950年、ガラス・油彩、17.0×12.0)小品でありながらも、多彩な色面構成とスピード感のある筆跡が印象深い。ガラスの支持体を用いることで、バレリーナの繊細かつ華やかなイメージがより一層ひきたっている。この頃、バレーをモチーフにした作品をしきりに描いている。


都城市立美術館_11右から《人魚の恋》(1954年、エッチング、[特])、《背中合わせ》(1952年、エッチング)《夢の精》(1952年、エッチング)。いずれも瑛九のサインやエディションナンバーはない。しかし、どれもインクの載りが良く、図像がはっきりと表れている。


じつは、瑛九のエッチングの魅力は余白にあると私は思う。インクの拭き残しが空気の層となり、幻想的な空間をつくりあげている。インクの濃淡に幅があるために、歓喜も悲哀をも表現できる。他の人物が刷ったものは、その独特な雰囲気が損なわれてしまっているのである。

ところで、瑛九と共著『やさしい銅版画の作り方』(門書店)を出版した島崎清海は、かつて瑛九にエッチングを教わった時のことを次のように述懐していた。島崎氏がエッチングをはじめた頃、何度やっても上手く刷れず、瑛九に教えを請うた。島崎氏が準備した版とインクを使用し、瑛九が刷ると見事に刷れているという。島崎氏もはやる気持ちでそれに続いて刷りはじめると、注意が入ったという。後で振り返ってみると、紙を水に湿らせる工程のとき、瑛九はおしゃべりを長々としていたという。(「生誕100年記念瑛九」展図録、2011年、p.185)

おそらく、そこに正解や間違いはなく、銅版の腐食具合やインクの粘度など他の調整によりいい状態に持っていくことは出来たかもしれない。しかし、瑛九は幾度も試行錯誤をしたエッチングの経験から、島崎氏の版の状態を瞬時に見極め、最善の方法をやってみせた。生前、島崎氏はこの瑛九の「おしゃべり」という、ひと工程をたいへん気に入っていたようで、満面の笑顔で話していた。

都城市立美術館_12右からSCALE気茲蝓圓△ま》(紙・エッチング)、SCALE 兇茲蝓毀襪里燭燭い》(紙・エッチング、[特])、SCALE 靴茲蝓坩Δ硫函奸併罅Ε┘奪船鵐亜法SCALE 靴茲蝓團凜.ぅリン》(紙・エッチング)。


1階の会場展示はここでひと段落し、2階に続く。


***

ちょっと寄道…

瑛九の展示に隣接して、宮崎ゆかりの作家が展示されていたので紹介したい。本展の会場入り口には、平成27年テレビ宮崎が寄託した山田新一(1899 – 1991)の油絵8点も展示されている。

都城市立美術館_13山田新一の作品群。生まれは台北で、幼少期は父親の仕事に伴って、各地を転々としていた。宮崎県の旧制都城中学校に通い、本籍は都城市にあった。東京美術学校西洋画科に入学し、藤島武二に師事。日展や光風会で活躍する傍ら、各地で後進の指導に勤めた。佐伯祐三と親交の深かった人物としても知られる。


都城市立美術館_14美術館前には、山田新一の筆塚がある。緑青のふいたプレートには、頬杖をつく山田新一の像が刻まれている。


都城市立美術館_15こちらは、美術館所蔵の郷土作家のコーナー。左から秋月種樹《梅図》(年代不詳、146.7×67.0、紙本墨画)、山内多門《梅二題》(1917年、141.0×50.8、紙本墨画)、大野重幸《鳥骨鶏》(1976年、91.4×91.6、紙本彩色)、《鳥骨鶏(白)》(年代不詳、144.9×72.7、紙本彩色)。秋月種樹は、瑛九の父杉田直が漢詩を習うなど交流のあった人物。父直(俳号:作郎)は、宮崎県で有数の文化人として名を馳せ、江戸時代の俳諧資料などを含む貴重なコレクションが県立図書館で保管されている。

今回の取材では、都城市立美術館学芸員の祝迫眞澄氏がお忙しい合間をぬって、対応していただいた。この場をかりて感謝を申し上げたい。
なかむら まき


●展覧会のご案内
瑛九芸術の迷宮へ「瑛九芸術の迷宮へ」
会期:2017年1月5日[火]〜2017年2月26日[日]
会場:都城市立美術館
休館:月曜(祝日・振替休日の場合、その翌日は休館)
時間:9:00〜17:00(入館は30分前)
主催:都城市立美術館
入館料:無料


 本展では平成27年度にテレビ宮崎から寄託された瑛九作品を中心に、過去にテレビ宮崎が収集した特別出品作品を加えた、写真や銅版画、リトグラフなど約80点を展示いたします。宮崎ゆかりの美術作品が散逸することを防ぎ、県内の文化・芸術を長く伝え残したいという理念のもと築かれたこのコレクションは、代表的な版画やフォトデッサンに加えて、初期の油彩画やガラス絵など。今までほとんど紹介されていない貴重な作品も含まれています。
 当館は開館以来、瑛九作品の収集と企画展示を行ってきましたが、この度の寄託を機会に、瑛九の画業全体がより広く理解されることとなりました。この展示を通じて、瑛九の自由な時代精神を感じ取っていただければ幸いです。(本展HP「ごあいさつ」より転載)

中村茉貴〜東京国立近代美術館「瑛九1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」―その2 11月22日〜2017年2月12日

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第13回 東京国立近代美術館

東京国立近代美術館
「瑛九1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」―その2


前回に引き続き、東京国立近代美術館2Fギャラリー4で開催中の「瑛九 1935-1937闇の中で『レアル』をさがす」展を取り挙げる。

東京国立近代美術館_01展示会場の入り口。タイトルの字体は、丸みを帯び、一部に若草色を使用している。本展の出品作の多くは瑛九の初期の手のもの。芸術家デビューしたばかりの初々しい「瑛九」を反映しているよう。

前回は、山田光春旧蔵資料の内容と展覧会開催までの経緯などを本展企画の学芸員大谷省吾氏から伺い、第1〜3章に展示されたフォト・デッサン、コラージュ、デッサンをみてきた。今回は、山田光春の史料やエピローグに着目したい。

東京国立近代美術館_02書簡や雑誌などが並ぶ木製の覗きケース。新収蔵となった瑛九より山田に送られた書簡は117通。そのうち、1935〜37年に投函された10通が会場で公開されている。


東京国立近代美術館_03「杉田秀夫から山田光春あて書簡 1935年5月29日」(図録pp123‐124)
中央美術展(東京府美術館、1935年5月19日〜5月30日)に秀夫の《海辺》(F60)が入選したことから、展示を観に上京したときのことを次のように書いている。


「やはり宮崎でみるてんらん展とはとはすこしちがつてゐた。比較的でたらめなことをやつとる奴は一人もおらんかつた。技巧の上で。」

「みんなコテさきでかいてゐてコギレイで古アカデミツクか新アカデミツクか、職人ぞろいにはちがいない」と中央画壇の会場で感じた違和感を率直に述べている。

なお、書簡の終盤では、秀夫(瑛九)が「はじめて美術カンとやらにナラベてみておれは少々アホラしくなつてしまつた。クイツキたい奴ばかりだ。おい貴様もすこしゴウマンになつて田舎でじぶんのやりたい繪をかいてゐゐんだ」と山田に言い放っている。

このとき秀夫は、中央美術展の出品作が技巧面で優れていることを認めつつ、審査員の眼ばかりを気にして、自分の表現を追求しない画家に憤慨している。この経験がのちのデモクラート美術家協会の階級制を設けず、無審査で展覧会に臨む体制につながってゆく。瑛九が「前衛芸術家(アヴァンギャルド)」と位置付けられる所以は、「フォト・デッサン」という技法材料の新しさだけでなく、このような美術団体の制度にかんして一歩前進した考えを持っていたことも関係しているのだろう。

ところで、上記のような瑛九の権威に対する過激な発言は、別日の書簡で裏を返したように、逆の想いが綴られていることにも注目したい。

僕は日本画壇に失戀した うつとうしい感情なかで不眠にかかる。夏の不眠はつらい。失戀したのに僕は彼女にラブレターを書いた。(評論)失戀してかいたラブレターを出した僕へ僕はぼんやりした無表情な失意をしめしてゐる。
(瑛九より山田光春あて書簡 1936年7月17日、図録p.132)※括弧内は瑛九によるもの

以上のように、瑛九は日本画壇と自分の立ち位置が違うことを認識し、評論でもって画壇に認められることを渇望しているかのようだ。このことから、彼の中央画壇に対する執着がなくなったとは言い切れない。おそらく、彼の権威的なものを否定する態度は、排他的なものではなく、むしろ自己に向けられた「戒め」であったのだろう。権威(既成画壇)に依拠しないで、自己の表現を確立しようとする内省的なものであり、これを仲間と共に貫こうとしたと考えられる。

東京国立近代美術館_04第一回自由美術家協会展目録。
この頃、美術家が仲間と共につくった小さなグループが無数にあった。戦前戦後に作られた小グループの目録の中には、紙の酸化やガリ版刷りで数が少ないものもあり、原物の目録ひとつ探すことも難しい。
近代日本アート・カタログ・コレクション」シリーズは、初期美術団体の稀少な目録を収録している。同館のアートライブラリでは、開催中の図録と共に常に手に取りやすいところに配架している。
青木茂監修『近代日本アート・カタログ・コレクション73 (自由美術家協会/美術創作家協会)』(ゆまに書房、2004年)


東京国立近代美術館_05『瑛九油絵作品写真集』(複写)瑛九の没後に山田光春が油絵の行方を調査した記録。作品の写真の下には、タイトル、制作年、号数、所在地、所蔵者、確認日が丁寧に記されている。愛知県美術館には、写真集のもとになった35ミリのカラースライドを保管している。なお、宮崎・埼玉で開催された「生誕100年記念瑛九展」図録(pp.268‐292)にはレゾネとして、全555点のモノクロ図版が掲載されている。


東京国立近代美術館_06右上は山田光春『瑛九年譜』(1966年)、右下は「瑛九の会 設立趣意書」、左は山田光春『瑛九(杉田秀夫)住所・居所・旅行表』(1963年)。瑛九ファンは、この折れ線グラフに見覚えがあると思う。じつは、山田の著書『瑛九 評伝と作品』(青龍洞、1976年)の目次ページに瑛九の活動の軌跡として掲載されている。


東京国立近代美術館_07左から山田光春《作品》(1930年代後半、油彩・ガラス、35.5×45.5)、山田光春《作品》(1951年、油彩・ガラス、45.7×35.8)
黒いバックに原始生物のようなイメージが表現されている。瑛九や長谷川三郎もこのころガラス絵の作品を残している。


東京国立近代美術館_08エピローグが展示されているコーナー。油彩、エッチング、リトグラフと多岐にわたる瑛九の作品。手前から《赤の中の小さな白》(1937年頃、油彩・キャンバス、52.7×45.2、右下に「九」)、《ベッドの上》(1948年、油彩・厚紙、24.4×33.5、サインなし)、《赤い輪》(1954年、油彩・キャンバス、左下に「Q.Ei 1954」)、《シグナル》(1953年、エッチング、右下に「Q.Ei」)、《旅人》(1957年、リトグラフ、37.5×52.3、右下に「Q.Ei」)


東京国立近代美術館_09《赤の中の小さな白》について、瑛九のパトロンであった久保貞次郎(1909−1996、美術評論家)が次のように解説している。


瑛九がこの絵をかいたときは、二十六歳の頃だったが、その数年前からシュールのスタイルで制作していた。この作品はシュールから進んで抽象風になっている。燃えるような情熱を感じさせるこの画布は、瑛九の青年時代の心情をうつしだしているといえよう。赤と橙と黒の構成のなかに、小さな白と、それよりいっそう小さな青のスペースが、まるでかれの情熱を押さえるかのように、おかれている。一見ぎこちない筆づかいのなかに、謎のような複雑さがかくされているのが、みるひとに感じられるだろう。この謎の感情こそ、瑛九の作品のどれにも貫かれた資質であり、この性質はかれの稚拙な筆づかいとともに、芸術家瑛九の人生に対する真摯な探求のあらわれである。まだ、ヨーロッパの前衛芸術がわが国に本格的に紹介されなかったころ、かれは時代の空気を敏感にとらえ、かれのキャンバスにそれを定着した
(『日本の名画検〕硫100選』三一書房、1956年、検8)

東京国立近代美術館_10都夫人のはにかんだ姿が印象的な《ベッドの上》。瑛九は1948年、8月31日宮崎市丸島町へ転居し、9月谷口都と一緒になることから、本作は瑛九と都が同居をはじめたばかりの作品であることがわかる。大谷氏によると、本作の寄贈者日比野夫美子氏は、山田光春の助手として働いていた人物であり、彼女が『瑛九 作品と評伝』(1976年)の完成を都に報告しに行ったところ本作を譲り受けた。都夫人がずっと大事に持っていた特別な作品を、日比野氏に譲渡されたことは、彼女にとって最高の感謝のしるしであったと想像する。


東京国立近代美術館_11前回紹介したように《旅人》は、第1回東京国際版画ビエンナーレ展の出品作である。


東京国立近代美術館_12_晩年の油彩画3点。右手前から《れいめい》(1957年、油彩・キャンバス、80.3×65.2、左下に「Q.Ei 1957」)、《午後(虫の不在)》(1958年、油彩・キャンバス、130.0×162.5cm、左下に「Q.Ei 1958」、《青の中の丸》(1958年、油彩・キャンバス、90.9×116.7、右下に「Q.Ei 1958」)


展覧会のまとめとして、大谷氏が以前から調査されてきたコラージュ《レアル》(1937年、コラージュ・紙、31.8×26.2、右下に「Q.Ei/37」)について書かれている図録の内容をご紹介したい。

大谷氏は、山田光春旧蔵の書簡の中で、批評家が目の前の作品を観ずに、ただ同類の作家に当てはめる安価な見方をしていることを瑛九が痛烈に批判していると指摘し、次の瑛九の言葉を引用している。

「現代がいかに現実の語りにくい時代であるかといふことはもう充分だ。現実を充分に語りにくい現実が現実なので、現実がかたりにくい時代だからと云って、現実を安価に理解して公式的にかたづけて現実を見失つてゐることと現実とは断じて同一ではない筈である」(瑛九「現実について」『アトリヱ』14巻6号、1937年6月p.73)

この瑛九の言葉を受けて大谷氏は、以下のように結論づけている。

現実を理解するとは、どのようにしたら可能なのか。私たちは現実を理解したつもりでいて、実は既成概念の枠にものごとを押し込めて、安易に理解したつもりになっているだけなのではないか。瑛九はそうした問いを、これらの作品によって私たちに突きつけているように思われる。本当に「レアル」なものは、生半可な理性によって、捉えられるものではありえない。それは常に、理性の光の届かない闇の中で、手探りで探し求めなければならないものではないか。だとするならば、これらのコラージュはやはり闇のような暗黒の台紙の上で展開させなければならなかった
(大谷省吾、「闇の中で『レアル』をさがす―山田光春旧蔵資料から読み解く1935‐1937年の瑛九」[本展図録pp.15‐16])

「レアル」なものを表現するための方法として、先に技法材料を選択したわけではなかったということが、大谷氏の指摘から伺い知ることが出来る。読み返すと、理性では捉えきれない「レアル」なものを手探りで探した結果「コラージュ」となった。全身全霊で作品づくりに集中している彼を有名美術家と比較するのは確かにナンセンスである。

当時の絵描きや批評家と瑛九は、「視座」からして異なっていたのだろう。目の前にあるモチーフや出来事を見て写すのではなく、師事する先生の技術を見て写すものでもない。瑛九は、目に見えるものだけではなく、もっと深い人間の真に迫るところに意識を集中し、表現しようと試みていた。このような「視座」の違いに気付いたからこそ、青年瑛九は画壇との距離感が分からなくなった。

本展では、瑛九が、憤りや悲しみ、虚しさ、苦痛、希望などさまざまな感情を抱えていたことを作品や書簡等で確認することができた。山田光春は、このような率直に感情をあらわにする瑛九の様子をつぶさに掬い取ろうとしている。また、熱心に耳を傾ける山田であるからこそ、瑛九は心を開いてすべてを打ち明けていたのだろう。

最後に繰り返しになってしまうが、瑛九の活動からよみ取った大谷氏の言葉を自戒の念を込めて以下に抜粋する。

「私たちは現実を理解したつもりでいて、実は既成概念の枠にものごとを押し込めて、安易に理解したつもりになっている」(本展図録p.16)

忙しなく過ごす私たちは、面倒なことは大枠で捉えて、小さな物事を丁寧に見たり、考えたりしていないのではないだろうか。大枠で捉えたことに果たして意味があるのだろうか。今一度「レアル」なものを注視する勇気を持ちたいと思った。

***

<展覧会関連情報 々岷蕾(要旨)>
演題:「書簡から読み解く 1935 -1937年の瑛九」
講師:大谷省吾学芸員 / 日時:12月17日14時から
この日に行われた講演会には、瑛九の関係者や他館の学芸員が集まっていた。以前の取材の段階からおっしゃっていたが、瑛九には専門家をはじめディープなファンが多いため「マニアック」な話になるということであった。たしかに、かなりの数の固有名詞が登場し、凝縮された内容であった。この場で講演内容を少し紹介したい。

はじめに瑛九の生い立ちや家族の紹介をし、今回扱っている作品や資料群について説明があった。瑛九と山田光春が出会ったのは、1934年秋のこと。瑛九の甥が通う宮崎県の妻の学校で山田が教員をしていたことで接点を持った。平日は学校で土日しか対面できなかったころから、しだいに二人は書簡で情報交換するようになったという。同館の所蔵となった書簡はこのうちの117通。本展で展示された書簡(葉書含む)は10通で、図録には1935〜1937年の3年間に書かれた58通が収録されている。本資料群の調査をすることで、瑛九の野心や悩み、あるいは、当時の雑誌ではわからなかった前衛美術の活動について明らかになってくるという。

講演会では、書簡の中に出てくる作品や当時の雑誌などについて、写真や図版を用いて細かな解説が加えられた。ひとつひとつ挙げるとあと3回ブログの枠が必要になるため割愛させていただくが、以下3つの内容について注目したい。

1935年から36年の芸術家デビューを果たす頃のこと。中央美術展で展示された作品を観に意気揚々と上京した杉田秀夫(瑛九)の心の内が綴られた35年の書簡。また、36年の書簡に隠されていたフォト・デッサン集『眠りの理由』誕生秘話およびこれの発売に合わせて初個展を開いた銀座紀伊國屋画廊のこと。当時、どのような傾向の人物が画廊に出入りしていたのかを紹介された。

▲侫ト・デッサン集『眠りの理由』は、未だ謎の多い作品であること。まず、10点1組が揃っている所蔵先が実に少ないということ。公共機関では、横浜美術館・国会図書館(状態悪)・東京国立近代美術館のみ。ただし、フォト・デッサンの天地や順番は、すべて異なるという指摘があった。なお、大谷氏はフォト・デッサンの裏面に唯一鉛筆でタイトルが記されたときの忘れもののコレクションと西村楽器店(宮崎)で開かれた目録を頼りに作品の天地や順序をつけたとの報告があった。

1936年3月9日の書簡について。これは、瑛九が山田に「豫定表」と題し、芸術家としてどのような活動を展開してゆくかをひとことふたこと箇条書きにしているものである。大谷氏はこれに1時間かけて解説された。例えば、「土浦といふ日本で最も新しいけんちく家と共に新しい仕事をする。住むためのキカイとしての住宅とむすびつく我々の作品――壁写真」という一文。「土浦」は、建築家土浦亀城のことであり、彼は紀伊國屋画廊の内装を手掛けていることもあり、こちらの方面から話が出ていたのではないかという報告であった。なお、瀧口修造と映画をつくる予定は実現せず、その他に長谷川三郎との新しき同人展の予定などいくつかは実現するものの、本人が想定していたことよりも大きなものにならなかったのかもしれない。その後の瑛九は、すっかり意気消沈してしまう。

大谷氏は講演会の最後に次のことを付け加えた。いくつかの美術館に収蔵されている瑛九の作品や資料について、総覧できるような仕組み(データベース)を作ることや史料の細かな読み解きをする必要があるということ、これが実現したら瑛九ばかりでなく当時の美術団体の活動状況が見えてくる。確かに、講演会で扱われた書簡に書かれた名前を辿るだけでも、いま明らかになっている交友関係の幅よりももっと広かったのではないかと想像させるものだった。いち瑛九ファンとして、今後の進展を期待したい。
以上、1月7日にも同様の講演会が行われるため、詳しく知りたい方は、ぜひ足をお運びいただきたい。


<展覧会関連情報◆―蠡∈酩陛検
瑛九の関連作品が東京国立近代美術館の4階にまとめて展示してあると伺って、作品を確認しに行きました。

【4階‐5室】
東京国立近代美術館_13右手前から福沢一郎《牛》(1936年、油彩・キャンバス)、三岸好太郎《雲の上を飛ぶ蝶》1934年、油彩・キャンバス、北脇昇《最も静かなる時》(1937年、油彩・キャンバス)


東京国立近代美術館_14右から吉原治良《作品2》(c.1934年、油彩・キャンバス)、吉原治良《朝顔と土蔵》(c.1931-34年、油彩・キャンバス)、古賀春江《そこに在る》1933年(水彩・鉛筆・紙)、古賀春江《楽しき饗宴》(1933年、水彩・鉛筆・紙)
12月17日に行われた講演会では、瑛九が山田に「古賀春江ついでがあったらおかりしたい」(杉田秀夫より山田光春あて書簡、1936年1月20日、図録p.128)と画集を借りていることを指摘された。その他にも、吉原治良、福沢一郎などの名前が書簡に記載されている。瑛九は自分の殻に籠らず、同時代の画家の活動は一様にチェックしていたようだ。


東京国立近代美術館_15右からオノサト・トシノブ(小野里利信)《黒白の丸》(1940年、油彩・キャンバス)、村井正誠《URBAIN》(1937年、油彩・キャンバス)、長谷川三郎《アブストラクション》(1936年、油彩・キャンバス)、岡本太郎《コントルポアン》(1935/54年、油彩・キャンバス)


【3階‐7室】
東京国立近代美術館_16河原温《浴室》シリーズ1〜28(1953‐54年、鉛筆・紙)、河原温《孕んだ女》(1954年、油彩・キャンバス)、河原温《DEC. 14, 1966》(1966年、アクリリック・キャンバス)、河原温《Date Painting》(1994年、アクリリック・キャンバス)、河原温《Date Painting》(1994年、アクリリック・キャンバス)、河原温《Date Painting》(1994年、アクリリック・キャンバス)
「浴室」シリーズと「date painting(日付絵画)」が展示された部屋。2014年作者の河原温の生きた記録に終止符が打たれた。昨年行われたグッゲンハイム美術館の展示準備中だったようだ。生きながらにして世界で注目される美術館で個展開催が実現した河原温だが、20歳の頃は、瑛九の浦和のアトリエに通っていた。瑛九に論破されて苦しんだ河原温の渾身の作が「浴室シリーズ」である。


瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(表)瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(裏)


「瑛九1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」
会期:2016年11月22日[火]〜2017年2月12日[日]
会場:東京国立近代美術館 2Fギャラリー4
休館:月曜(1/2、1/9は開館)、年末年始(12 /28 〜 2017 年1/1)、1/10(火)
時間:10:00〜17:00(金曜・土曜は10:00〜20:00)
主催:東京国立近代美術館

<講演会のお知らせ>
大谷省吾氏(同館美術課長・本展企画者)
「書簡から読み解く 1935 -1937年の瑛九」
2017 年 1 月 7 日[土]14:00-15:30
場所:講堂(地下1階)
※開場は開演30分前、申込不要、聴講無料、先着140名

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ちょっと寄道....

東京国立近代美術館の近くに近代資料や美術品が展示されていることをご存知だろうか。別館の工芸館ではなく、「遊就館」と「昭和館」のことである。科学技術館と日本武道館を挟んだ先に同館はある。

じつは、瑛九の展示タイトルにある「闇の中」という言葉に、瑛九の個人的な悩みからくる「闇」と、戦争の色が濃くなってゆく社会の「闇」の二種が混在しているのではないかと思った。それは、瑛九が不眠症に悩まされている頃の次の書簡に見て取れる。

戦争は生きのこるものを作る。その點生活のドラマテックなしようちようである。
死をおそれないといふことがはじめて生きのこることにてんくわされる。生きおゝせなかつた人と生きのこるものとのビミメウさはまつたく不思議であろうが、作品のゆう劣はそれと同一なのではなからうか。

(瑛九より山田光春あて書簡1937年9月、図録p.144)

瑛九は、人として、あるいは芸術家として生き残ることが出来るか否かという瀬戸際に立たされている、不安や恐怖心を山田に打ち明けている。この頃の美術家については、戦争と隣あわせの生活を送っていたということも、頭の傍らで常に意識して作品を鑑賞したい。

東京国立近代美術館_17こちらは昭和館。「ぬりかべ」のような建物。1階は戦中・戦後のニュース映画を上映するシアタースペースと資料公開コーナー。4階は図書室。当時の貴重な雑誌などを検索・閲覧できる。5階は映像・音響室。文展や二科展の会場のようすを伝える映像もあった。


東京国立近代美術館_186・7階は常設展示室(大人300円)。昭和10年頃から昭和30年頃までの生活のようす伝える資料等が展示されている。エレベータで7階昇ると、突然、国会議事堂前の焼け野原(昭和20年5月25日空襲によるもの)が目の前に広がる。じつは、トリックアートで飾られた演出で、2015年のお正月明けに公開になったという。


展示室には、いくつか興味深い展示資料があった。そのなかでも2点だけ紹介したい。まず金10円と通し番号がつけられた日本万国博覧会の回数入場券(12枚綴り)。まるで株券のように大きく、細かな装飾が加えられている。また、「灯火管制」の解説が視覚的に理解しやすいものであった。瑛九の書簡でも灯火管制の記述が出てくるので以下に抜粋する。

もう太陽は上つたらしいが、晝もあま戸をあけない。毎晩トウ火くわんせいで、いつまでやらせるのかムキヱンキだとかいつてゐる奴もある。(瑛九より山田光春あて書簡1937年10月10日、図録p.145‐146)

瑛九はこの書簡の終わりにドストエフスキー『地下室(地下室の手記)』を読んでいることを山田に告げ、本書の主人公と自分を重ねている。瑛九は、精神的にも肉体的にも「闇の中」を経験していた。この真っ暗闇のなかで、瑛九は色彩の魅力に非常に惹かれていると山田に告げることになる(同年11月11日書簡)。この頃に制作していたのが《赤の中の小さな白》である。

東京国立近代美術館_19靖国神社の参道脇に広がる黄金色の絨毯。


東京国立近代美術館_20編⊃声匐内にある「遊就館」。武具、美術品、遺品等を約10万点収蔵し、特に近代史ゾーンの資料点数の多さは圧巻である。とくに千人針や遺影(一万柱)の展示の前では胸の詰まる思いがした。


東京国立近代美術館_211階玄関ホールには、零式艦上戦闘機(零戦)や機関車、加農砲が展示されている。会場に入ると、子供連れの家族や団体客、外国人観光客で賑わっていた。


東京国立近代美術館_223人の幼い子を持つ未亡人の逞しい姿を現している宮本隆《母の像》。編⊃声劼了夏擦箒内には、奉納された彫刻が数多く存在する。入口のゲートを抜け、エスカレーターで2階に昇ると日名子実三《兵士の像》もある。日名子実三の代表作といえば宮崎の平和台公園にある《平和の塔(八紘之基柱)》。かつて私も瑛九ゆかりの地を巡りながら、足を伸ばしたことがあった。


瑛九は1931年の徴兵検査で不合格となり、戦地に赴くことはなかったが、同館の所蔵にもある一部の美術家は、このような「現実」と向き合って作品を制作していた。

会場:昭和館
休館:月曜日 ※ただし、祝日または振替休日の場合開館、翌日休館。年末年始(12月28日から1月4日)
時間:10:00〜17:30(入館は17時まで)

会場:編⊃声辧〕圭館
休館:年中無休 ※6月末・12月末(26‐31日)臨時休業
時間:9:00〜16:30 
※元日24:00〜16:30/みたままつり期間中(7月13‐16日)、9:00〜21:00

本ブログの記事を作成するにあたって、東京国立近代美術館学芸員の大谷省吾氏(美術課長)、遊就館の鈴木亜莉紗氏(展示史料課 録事)、昭和館の菊池理恵氏(広報課)に取材の協力を得ました。貴重なお時間を割いていただき、この場を借りて深く感謝を申し上げたい。
なかむら まき


本日の瑛九情報!は上掲、中村茉貴さんの近美のレポートです。
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展は東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

●ときの忘れものは2016年12月28日(水)〜2017年1月16日(月)まで冬季休廊です。
いつもより長い冬休みですが、お正月早々、ART STAGE SINGAPORE 2017に出展するためです。
ブログは執筆者の皆さんのおかげで年中無休、年末年始も連日新鮮な情報、エッセイをお届けします。
メールやネットでのお問合せ、ご注文には1月6日より通常通り対応いたします(日曜、月曜、祝日は除く)。

◆銀座のギャラリーせいほうで開催される「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」には、ときの忘れものの新作エディションが発表されます。
会期:2017年1月10日[火]〜1月21日[土]*日・祝日休廊
201701_ISHIYAMA-ROKKAKU
主催/会場:ギャラリーせいほう
協力:ときの忘れもの
●オープニングパーティー
1月10日(火)17:00〜19:00
ぜひお出かけください。


◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
 ・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。
 ・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
 ・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・普後均のエッセイ「写真という海」は毎月14日の更新です。
 ・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
 ・小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。
 ・森下隆のエッセイ「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」は毎月21日の更新です。
 ・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。
 ・八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」は毎月25日の更新です。
 ・スタッフSの「海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
 ・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」はしばらく休載します。
 ・大野幸のエッセイ<ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサート>は随時更新します。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・光嶋裕介のエッセイ「和紙に挑む」は終了しました。
 ・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は終了しました(時々番外編あり)。
 ・荒井由泰のエッセイ「いとしの国ブータン紀行」は終了しました。
 ・森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」は終了しました。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイや資料を随時紹介します。
 ・「オノサト・トシノブの世界」は円を描き続けた作家の生涯と作品を関係資料や評論によって紹介します。
 ・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。
土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
 ・「関根伸夫ともの派」はロスアンゼルスで制作を続ける関根伸夫と「もの派」について作品や資料によって紹介します。
 ・「現代版画センターの記録」は随時更新します。
今までのバックナンバーの一部はホームページに転載しています。

中村茉貴〜東京国立近代美術館「瑛九1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」11月22日〜2017年2月12日

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第12回 東京国立近代美術館

東京国立近代美術館
「瑛九1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」


今回、瑛九の作品を求めて訪れた先は、東京国立近代美術館。実は、出身地の宮崎や後半生を過ごした埼玉のみならず、ここ東京でも瑛九の作品は大事にされてきた。

東京国立近代美術館_01東京国立近代美術館。ファインダーをのぞくと瑛九の点描を思わせる鮮やかな葉が飛び込んできた。


これまで、所蔵作品展を含めた企画もの約40本に瑛九の作品が展示され、近年では学芸員大谷省吾氏が本展にかんする論文2本を館報に掲載している。これについては、後に触れることにして、展覧会の内容に入りたい。

「瑛九1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」展は、2Fギャラリー4で開催されている。ほぼ初公開となっている作品や史料は、瑛九の仕事の中でもたいへん重要な位置を占めている時代のものである。

展示は、次の通り4部構成となっている。会場は、1935年から37年の活動に焦点を当てた第1〜3章のコーナーとエピローグとして瑛九の作品を総覧するコーナーの2つに分かれている。本展を取材するにあたって、展示を企画された学芸員大谷氏が展示会場を案内してくださった。

第1章 1935年(24歳)…「瑛九」以前の杉田秀夫
第2章 1936年(25歳)… 杉田秀夫が「瑛九」となるとき―『眠りの理由』前後
第3章 1937年(26歳)… ほんとうの「レアル」をもとめて― 第 1 回自由美術家協会展への出品前後
エピローグ …その後の瑛九と山田光春


山田光春(1912-1981)は、瑛九と若い時分から付き合いのあった人物であり、『瑛九―評伝と作品』(青龍洞、1976年)の著者である。本書を執筆するために、山田は関係者への情報提供を求め、さらには各地に点在していた油彩画の調査を自らの足で行った。収集された山田の資料は、主に愛知県美術館(第10回「美術館に瑛九を観に行く」参照)で保管され、中核を成す一部の資料群が東京国立近代美術館に収まったのである。

<東京国立近代美術館に収蔵された山田光春旧蔵資料>
フォト・デッサン『眠りの理由』10点組1セット、その他 12点
コラージュ 10点
ペンによるドローイング 42点
油彩 3点
スケッチブック 1冊
掛軸 1本
色紙 8点
書簡(瑛九から山田宛て117通、その他170通)
記録写真
印刷物(瑛九関係の書簡、展覧会図録、チラシ、ポスター、雑誌、新聞など)
山田光春作 ガラス絵 2点
(大谷省吾「闇の中で「レアル」をさがす――山田光春旧蔵資料から読み解く1935‐1937年の瑛九」p.7)


なぜ、東京国立近代美術館に本資料群が収蔵されたのか、大谷氏に経緯を伺うと次のようなことであった。2011年に行われた「瑛九 生誕100年記念展」を機に話が進み、山田光春のご遺族から2012年に本資料群を譲り受けたということであった。

新収蔵になった作品を常設展会場にただ並べたわけではなく、大谷氏は、瑛九の個人展として確立させ、さらに、通常のコレクション展ではほとんど作ることの無い図録を制作された。図録の予算を確保するためには、ポスターや展覧会オリジナルのチケットの費用を図録に当てたようだ。

図録の内容もたいへん充実している。特に巻末では、公にできる範囲で書簡の全文が掲載されている。翻刻は、山田光春のご子息山田光一氏が行い、大谷氏が校閲と注釈を担当している。今回のように、ご遺族が納得する形で作品等を受け入れ、ご遺族の意志をそのまま汲み取って公開できたことは、稀な事例だと思う。

東京国立近代美術館_02壁には《二人》(1935年、油彩・厚紙、40.8×32.1)が掛けられている。赤い服を着た女性が体をくねらせ、首を傾げている。どこか妖艶な雰囲気が漂う。ケース内には、山田光春に宛てた杉田秀夫(瑛九)の葉書が展示されている。


東京国立近代美術館_03右は「ふるさと社十月展 目録」(1935年)、左は「ふるさと社十一月展 目録」(1935年)。「ふるさと社」は杉田秀夫企画のグループ展で、毎月西村楽器店(宮崎市)で開かれていた。会場使用料は無料。十月展目録の表紙は秀夫が担当していた。瑛九の仕事の中で数少ない木版画である。11月展のほうは山田光春の作である。

東京国立近代美術館_04フォト・デッサン集『眠りの理由』10点(1936年、ゼラチン・シルバー・プリント)


東京国立近代美術館_05左は、フォト・デッサン集『眠りの理由』表紙(1936年、ゼラチン・シルバー・プリント)。右は、西村楽器店で行われた「瑛九氏フォトデッサン展目録」(1936年6月12‐13日、個人蔵)。本展図録(p.102)に《眠りの理由(8)》が貼付された状態の目録が掲載されている。また、大谷氏の著書『激動期のアヴァンギャルド シュルレアリスムと日本の絵画一九二八‐一九五三』(国書刊行会、2016年5月、p.280)には、この目録に1936年頃に制作された『眠りの理由』1点を含む全30点のフォト・デッサンの題名を収録している。


東京国立近代美術館_06右から《フォト・デッサン》(1936年、ゼラチン・シルバー・プリント、27.6×22.9、裏面に「Q.Ei/36」)、《フォト・デッサン》(1936年、ゼラチン・シルバー・プリント、24.5×27.4、裏面に「Q.Ei/36」)


東京国立近代美術館_07右から《フォト・デッサン》(1936年頃、ゼラチン・シルバー・プリント、22.8×27.8)、《フォト・デッサン》(1936年頃、ゼラチン・シルバー・プリント、27.7×22.7)、《フォト・デッサン》(1936年頃、ゼラチン・シルバー・プリント、22.7×27.5)
右側と中央のフォト・デッサンには人物のシルエットが写り込んでいる。『眠りの理由』の試作だろうか。


東京国立近代美術館_08瑛九より山田光春あて書簡[便箋4枚](1936年3月9日付、インク・紙、各22.2×14.4)。「マン・レイ」と比較されることに嫌気を感じていると伝えている。


東京国立近代美術館_09「前衛絵画の研究と批判」の特集が組まれた『アトリヱ』(14巻6号 、1937年6月)。瑛九のフォト・デッサンが表紙を飾っている。


東京国立近代美術館_10右から《レアル》(1937年、コラージュ・紙、31.8×26.2、右下に「Q.Ei/37」)
《作品》(1937年、コラージュ・紙、41.5×30.0、裏面に「Q.Ei/37」)
大谷氏の著作物には、瑛九がシュルレアリスムに傾倒した時代のコラージュについて言及している。「死」や「性」が現れている作品の持つ強いイメージについて、バタイユを例に挙げながら読み解いている。
【参照】大谷省吾『激動期のアヴァンギャルド』国書刊行会、2016年、pp.262‐283 /大谷省吾「[作品研究]変容する眼 : 瑛九のフォトコラージュについて」『現代の眼』No.551、東京国立近代美術館、2005年4・5月、pp.11-13 /大谷省吾「[作品研究] 山田光春旧蔵瑛九作品および資料について」『現代の眼』No.612、東京国立近代美術館、2015年6月、pp.14‐16


東京国立近代美術館_11右から《作品》(1937年、コラージュ・紙、41.5×30.0、裏面に「Q.Ei/37」)
《作品》(1937年、コラージュ・紙、28.0×23.5、裏面に「Q.Ei/37」)


東京国立近代美術館_12右から《作品》(1937年、コラージュ・紙、28.0×23.5、裏面に「Q.Ei/37」)
《作品》(1937年頃、コラージュ・紙、28.0×23.3、裏面に「Q.Ei/37」)


東京国立近代美術館_13右から《作品》(1937年頃、コラージュ・紙、33.8×22.5、右下に「Q.Ei/37」)
《作品》(1937年頃、コラージュ・紙、41.3×29.5、右下に「QEi」)


東京国立近代美術館_14右上《デッサン》(1936年、インク・紙、34.0×34.6)
右下《デッサン》(1936年、インク・紙、34.5×33.9、右下に「QEi」)
左上《デッサン》(1936年、インク・紙、34.5×33.9、右下に「QEi」)
本作は三岸好太郎の貝殻を想起させる。ときの忘れものにも、大きな貝殻が描かれたデッサンを取り扱っている。
【参考】《作品》紙・鉛筆、10.4×8.0
http://www.tokinowasuremono.com/artist-a06-eiq/qei_127.html
左下《デッサン》(1936年、インク・紙、34.5×33.9)


東京国立近代美術館_15こちらも1936年に制作されたデッサン7点。先ほどのデッサン群とは異なり、具体的なフォルムはなく、非定型のイメージが続く。オートマティスムを実践していたことがわかる作品である。


東京国立近代美術館_16《デッサン》(1936年、インク・紙、28.9×24.2)
こちらのデッサンには、「Q.Ei/36.3.28」の表記がある。「瑛九」を名乗りはじめたばかりのサインであるため、よく目にするサインと若干違いが見受けられる。


今回とりあつかう場所は、第1〜3章までとし、次回はエピローグを中心に紹介したい。試作を含めた本作品群は、1935〜37年という短い期間の断片ではあるが、芸術家として駆け出したころで、まるで原石のようにクリアで、なおかつ屈折した異様な光を放っている。

***

ちょっと寄道....

取材を終えた後、東京国立近代美術館のアートライブラリに立ち寄った。というのは、生前の瑛九が国立近代美術館(京橋)に出品した展覧会を確認したいと思った為である。瑛九が東京の美術館でどのように紹介され、これらのことが彼の活動にどのような影響を持ったのか、改めて資料から読み取りたい。

瑛九が出品されている展覧会を近美のアーカイブで辿ることができる。40件あるうち、東京(旧京橋・竹橋)の会場のものに着目し、中でも気になったタイトルを以下に挙げておく。
【参照先: 東京国立近代美術館 本館・工芸館企画展出品作家総索引(和・欧)検索―出品展覧会情報】http://www.momat.go.jp/AI/name_detail.php?%20id=%2002404

【タイトル】現代写真展:日本とアメリカ
【会  期】1953年8月29日 〜 1953年10月4日
【会  場】国立近代美術館(京橋)
【出 品 作】夜の子供達(1951年、フォト・デッサン)
※本作は、後に発行された図録で「作者寄贈」であること確認した。
             
【タイトル】抽象と幻想:非写実絵画をどう理解するか
【会  期】1953年12月1日 〜 1954年1月20 日
【会  場】国立近代美術館(京橋)
【出 品 作】たそがれ(エッチング)
※『瑛九・銅版画SCALE機戮房録されている《鍵A》と同じ版か

東京国立近代美術館_17
【タイトル】第1回東京国際版画ビエンナーレ展
【会  期】1957年6月15日 〜 1957年7月14日
【会  場】国立近代美術館(京橋) / 読売会館
【出 品 作】旅人(1957年、リトグラフ) / 日曜日(1957年、リトグラフ)
「デモクラート美術家協会」(2016年12月10日「ときの忘れもの」ブログ参照)が解散する切っ掛けになった展覧会。本展で入賞した泉茂にたいして瑛九は面白くなかったのではという関係者もいるが、改めて山田の著書を見返すと次のようなことが書かれている。

デモクラート美術家協会が発足して7年を経て、会員の状況が大きく変化していた。まず、主力メンバーであった人物が大阪から東京に移り、そのうちの何名かは、このころ既に退会していた。会員数は全盛期40数名であったが、28名にまで落ち込んでいた。そして、展覧会最終日7月14日に行われたデモクラートの総会で、瑛九は次のように発言していたことを山田が綴っている。

「このように仲間の多くが国際的な舞台で活躍するようになった今となっては、われわれのデモクラート美術家協会の存立の意味も理由も薄らいだのだから、これを機会に解散しようではないか」

この解散論を受けて協議の場を東京と大阪で設けたものの、何れも参加者が少なく意見がまとまらなかった。会の存続を願うものがいたなかで、展覧会閉幕から2日後に「デモクラート美術家協会解散通知」が会員に届けられる。内容は、以下のとおりである。

デモクラート美術家協会解散通知
戦後混乱の最中、大阪で瑛九を初め数人の美術家がデモクラート美術家協会を結成しました。
――既成画壇否定の立場で――
――デモクラチックに行動し、自分達の仕事を進めてゆこう――と。
グループには運動を通して何人かが加わり、何人かが去り、前衛運動としては永すぎるほどの約八年が経過しました。加わった人も、去った人も、日本の前衛美術運動には何らかの貢献を果たしたと私達は自負いたします。
デモクラートの運動が常識となってきた今日、現会員二八名の私達は賢明に日本の既成画壇がたどった道をさけようと思いますし、今後ますますデモクラチックに行動するために、ここに今まで私達を育てて下さった皆様方に感謝をこめてデモクラート美術家協会を解散することをお知らせします。
一九五七年七月一六日   デモクラート美術家協会

(『瑛九 評伝と作品』p.419)

以上のように東京の美術館で開催された国際展に参加したことが、「デモクラート美術家協会」ないし瑛九にとって、大きな節目となった展覧会であったことを重く受け止めたい。

【タイトル】抽象絵画の展開
【会  期】1958年6月7日 〜 1958年7月13日
【会  場】国立近代美術館(京橋)
【出 品 作】赤の中の小さな白(1937年頃、油彩) / 『眠りの理由』(1936年、フォト・デッサン) / レアル(1937年、コラージュ)

【タイトル】超現実絵画の展開
【会  期】1960年4月1日 〜 1960年4月24日
【会  場】国立近代美術館(京橋)
【出 品 作】『眠りの理由』(1936年、フォト・デッサン) / 赤の中の小さな白(1937年頃、油彩)
周知の通り、「超現実(主義)絵画」は「シュルレアリスム」と同義である。

東京国立近代美術館_18
【タイトル】「四人の作家:菱田春草 瑛九 上阪雅人 高村光太郎」
【会  期】1960年4月28日 〜 1960年6月5日
【会  場】国立近代美術館(京橋)
【出 品 作】労働(1947年頃、油彩)/駄々っ子(1954年、油彩)/月(1957年、油彩)/黄(1959年、油彩)/道のプロフィル(1953年、エッチング)/作品A(1937年、コラージュ)/かぎ(1954年、フォト・デッサン)/日曜日(1957年、リトグラフ)/他、約50点※図版がある作品のみ抜粋
瑛九が亡くなったのは1960年3月10日のことで、本展がはじまる1カ月ほど前のことである。当時の館報には、瑛九と関係の深かった人物である都夫人とオノサト・トシノブが寄稿している。オノサトは、瑛九がギリギリまで準備していた兜屋画廊の「瑛九油絵個展」(2月23〜28日)を手伝っていることから、本展についてもオノサトの協力を得ていた可能性が高い。
【関連資料】杉田都(談)「瑛九のこと」、オノサト・トシノブ「瑛九の芸術」『現代の眼』No.66 、1960年5月、p.5


東京国立近代美術館_19
【タイトル】戦後日本美術の展開:抽象表現の多様化
【会  期】1973年6月12日 〜 1973年7月29日
【会  場】東京国立近代美術館
【出 品 作】赤い輪(1954年、油彩)/午後(虫の不在)(1958年、油彩)
本展図録の表紙には、《午後(虫の不在)》が使用されている。

東京国立近代美術館_20
【タイトル】モダニズムの光跡:恩地孝四郎 椎原治 瑛九
【会  期】1997年2月11日 〜 1997年3月29日
【会  場】東京国立近代美術館 フィルムセンター
【出 品 作】フォト・デッサン(1936年、28.4×23.8)/デッサン6(1935年、鉛筆・紙
23.5×28.0)/フォト・デッサン その1(『眠りの理由』1936年)/フォト・デッサン その5(『眠りの理由』1936年)/題名不詳[フォト・デッサン](27.3×21.8、東京都写真美術館蔵)/フォト・デッサン その2(1936年、30.3×25.3)/フォト・デッサン その3(1936年、30.3×25.3)/赤の中の小さな白(1937年頃、油彩・キャンバス)/レアル(1936年、コラージュ)/作品D(1937年、コラージュ)/デッサン8(1936年、グァッシュ・紙、23.4×27.8)/デッサン1(1935年、コンテ・紙、27.4×22.3)

【タイトル】ばらばらになった身体
【会  期】2006年8月5日 〜 2006年10月15日
【会  場】東京国立近代美術館
【出 品 作】作品C(1937年、コラージュ)/無題(1937年、コラージュ)/レアル(1937年、コラージュ)/笑えぬ事実(1937年、コラージュ)
※検索結果に無いため補足

東京国立近代美術館_21
『近代日本美術の名作 : 東京国立近代美術館 ギャラリー・ガイド』東京国立近代美術館、1997年
ガイドブックの表紙に瑛九の《れいめい》(1957年、油彩)が使用されていることもあった。
【参考:瑛九について13】 http://www.tokinowasuremono.com/nv05-essay/essay_eikyuni/eikyuni02.html

本ブログの記事を作成するにあたって、東京国立近代美術館学芸員の大谷省吾氏(美術課長)に取材の協力を得ました。貴重なお時間を割いていただき、この場を借りて深く感謝を申し上げたい。
なかむら まき

●展覧会のご案内
瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(表)瑛九1935-1937闇の中で「レアル」をさがす(裏)


「瑛九1935-1937 闇の中で『レアル』をさがす」
会期:2016年11月22日[火]〜2017年2月12日[日]
会場:東京国立近代美術館 2Fギャラリー4
休館:月曜(1/2、1/9は開館)、年末年始(12 /28 〜 2017 年1/1)、1/10(火)
時間:10:00〜17:00(金曜・土曜は10:00〜20:00)
主催:東京国立近代美術館

瑛九とは何者か?
瑛九(えいきゅう、本名:杉田秀夫、1911−1960)は1936年にフォト・デッサン集『眠りの理由』で鮮烈なデビューを飾り、その後さまざまな技法を駆使しながら独自のイメージを探求した芸術家です。
当館は近年、彼の評伝を著した友人の画家、山田光春の旧蔵していた作品と資料を収蔵しました。
本展は、その中から約50点の初公開作品、書簡などの関連資料に加え、以前から所蔵している作品もまじえて、「レアル(リアル)」を求めて苦闘するデビュー前後の瑛九の実像を紹介します。(東京国立近代美術館HPより転載)

<講演会のお知らせ>
大谷省吾(当館美術課長・本展企画者)
「書簡から読み解く 1935 -1937年の瑛九」
2016 年 12 月17 日(土)14:00-15:30
2017 年 1 月 7 日(土)14:00-15:30
場所:講堂(地下1階)
※開場は開演30分前、申込不要、聴講無料、先着140名

20161122瑛九展チラシ20161122瑛九展チラシ 中

*画廊亭主敬白
本日の瑛九情報は本丸の竹橋からです。
上掲の中村茉貴さんによる「美術館に瑛九を観に行く」連載も12回目を迎えました。満を持して東京国立近代美術館に参上し、新たに収蔵されたコレクションをじっくりと見てきたようです。中村さんには4回分のチケットを渡しているので、レポートはまだまだ続きます(乞うご期待)。
ときの忘れもので開催中の「2016年を送る〜画廊コレクション展」にも瑛九の小品を展示していますが、昨日は随分と遠くからのお客様に楽しんでいただきました。先ず早朝にはイギリスからのお客様、午後には南米から一時帰国のMさんが久しぶりに来廊、ついで東京からはるか西方の某美術館の学芸員さんがわざわざ瑛九を見に道に迷いながら訪ねてきてくださいました。「近美は行かれましたか」と尋ねると「先ずこちらに伺いました」と嬉しいお言葉。土曜日まで滞在し、大谷省吾先生の講演会に参加されるとのことでした。

「美術館に瑛九を観に行く」第11回東京都現代美術館〜瑛九とオノサト・トシノブ

「美術館に瑛九を観に行く」第11回

東京都現代美術館「MOT Collection ONGOING」より、瑛九とオノサト・トシノブ


画廊亭主敬白
ぬかったというか、うっかりしていたというか。今回亭主がご紹介する東京都現代美術館でのコレクション展はとうに会期が終了しているばかりではなく、美術館そのものが大規模改修工事による休館に入ってしまいました(最低2年の長期にわたるらしい)。レポートが遅くなってしまい申しわけありません。この記事を読んで慌てて木場に向かわないようお願いする次第です。

昨年2月に始まった「美術館に瑛九を観に行く」連載は、日本各地の美術館を訪ね、企画展や常設展に展示されている瑛九を観て紹介するのを目的に、研究者やライターによる複数の執筆者のリレー連載を予定しているのですが、なかなか立候補者がおらず、第一回から中村茉貴さんがほとんどを執筆されています。

このところ、スタッフはアートフェアへの参戦で忙しく、亭主は事故による怪我のリハビリに神経が行ってしまい各地の美術館からいただくご案内は目を通すだけで、ろくに読みもしなかった。都現美が長期休館に入ること、休館前のコレクション展に瑛九が展示されていることなど、すっかり忘れていました。
社長が別件で都現美に伺い、ついでにコレクション展を拝見し、オノサト・トシノブの素晴らしい水彩と瑛九のフォトコラージュに感動し、「あら、知らなかったの」と亭主に皮肉を飛ばしたものだから、気が動転した亭主は中村茉貴さんに連絡する余裕もないまま、ぎりぎり最終日(5月29日)に駆けつけ、取材させていただきました。
写真はピンボケ、中村さんのレポートに数段落ちることをお許しください。
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都現美の玄関

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企画展は「スタジオ設立30周年記念 ピクサー展」と「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」の二つ。今まで見たことのない長蛇の列。こりゃあ入れるかなあと心配になりました。

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入館待ちの行列はあのでかい美術館の外まで延々と続いていました。

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現代美術の常設展はご覧の通りの閑散状態。すぐに入れました。

<東京都現代美術館の常設展示「MOTコレクション」では、約4,800点の収蔵品のなかから、毎回およそ100点を選び、多角的な視点により戦後・現代美術を紹介しています。
今期の「コレクション・オンゴーイング」は、特にポップアートと紙作品に焦点をあて、新収蔵品とともに展示します。ポップアートは、開館当初から現代美術の源泉として積極的な収集活動が行なわれてきました。とくにアンディ・ウォーホルやデイヴィッド・ホックニーの作品は、当館のコレクションを代表するものと言えるでしょう。今回はこれらを「アンコール」として構成します。また、収蔵品の大部分を占める紙を素材とした作品群は、保存上の理由からも、展示の機会が限られていました。今期は「紙の仕事」と題して、そうした作品の多彩な表情をお楽しみいただきます。あわせて、「新収蔵品」として、辰野登恵子(1950-2014)と豊嶋康子(1967-)の特別展示をいたします。
本展が、同時代の美術と向き合い形成される当館のコレクションの魅力に触れる契機となることを願っております。なお、会期終了後は、大規模改修工事による休館になります。>
(同館HPより)>
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展覧会ポスター

CIMG7842ポップアートの部屋
<現代美術の源泉であるポップアートは、開館当初より当館のコレクションの核を成してきました。そこで今回は、休館を前に、アンディ・ウォーホル財団から寄贈された貴重な新収蔵品とともに、ウォーホル、リキテンスタイン、ウェッセルマン、ホックニーといった60年代ポップの作品をまとめてご覧いただく部屋を設けます。(同館HPより)>

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「紙の仕事」

紙を素材とした作品の展示は、保存上の理由から照度や期間など多くの制約が課されています。そのような理由から、「MOTコレクション」でもなかなか多くをご紹介できませんでした。そこで今回は、これまで展示の機会の少なかった作品を含め、多彩な紙作品をご紹介します。当館ならではのラインナップで「紙の上の作品、紙による作品」の数々をお楽しみください。(同館HPより)>
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展示のコンセプト

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瑛九が1935年に制作したフォトコラージュ2点が出品されていました。
この頃、瑛九が好んで使用した黒い厚紙の作品は東京国立近代美術館にも収蔵されていますが、都現美にもあったなんて不勉強で知りませんでした。

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瑛九 EI Kyu
[フォト・コラージュB]
Photo-Collage B
1937
グラビア写真/厚紙 (コラージュ)
Photo gravure on cardboard(collage)
28x21.3cm

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瑛九 EI Kyu
[フォト・コラージュA]
Photo-Collage A
1935
グラビア写真/厚紙 (コラージュ)
Photo gravure on cardboard(collage)
41.5x29.5cm

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草間彌生の紙の作品

CIMG7853
会場の中央にはL字型壁面が特設され、オノサト・トシノブの紙の作品が展示されていました。

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オノサト トシノブ ONOSATO Toshinobu
いずれも福原義春氏寄贈作品(Gift of Mr.FUKUHARA Yoshiharu)

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オノサト・トシノブ
「四つの丸 白・黒・グレー Four Circles」
1958 水彩/カンヴァスボード Watercolor on r
28.4 x 19cm

CIMG7861左から、
「赤の丸 Red Circle」
1960 水彩/紙 Watercolor on paper
24 x 34cm

「四つの丸 白・黒・グレー Four Circles」

「一つの丸朱 One Red Circle」
1955 水彩/紙 Watercolor on paper
18.6 x 28cm

CIMG7857左から、
「二つの同心円 Two Concentric Circles」
1969 水彩/紙 Watercolor on Paper
16 x 23cm

「作品 Work」
1963 水彩/紙 Watercolor on Paper
13.8 x 20cm

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展示された作品群の中では小品ですが、熱心にご覧になる方も多い。

うっかり見逃すところでしたが、瑛九の1935年の初期作品2点に加え、オノサト・トシノブの1950〜60年代の秀作まで見ることができ充実したひと時でした。

もともと都現美の日本の戦後・現代美術のコレクションには定評があり、企画展よりコレクション展(常設展示)の方がいい、などとささやかれることもしばしばです。これは嫌味などではなく、NYのメトロポリタンでも、パリのルーブルでもあの凄い集客力の源はコレクション展示です。都現美はそれらの大美術館とは一けた二ケタ落ちるとはいえ、日本の前衛美術を俯瞰する上では最も良質なコレクションも持っているのだから、休館明けには、さらにコレクション展示に力を入れてほしいと切に切に願います。

取材にあたっては休館前日の超多忙な中にもかかわらず、牟田行秀先生、岡本純子先生には丁寧に対応していただきました。厚く御礼を申し上げます。

***

ちょっと寄り道....

CIMG7839
往路の東西線で偶然乗り合わせた小林美香さんとお嬢さん

CIMG7870帰りはバスに乗ったら、終点は東京駅北口でした。

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久しぶりのリアル大書店「丸善」に入りました。

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さすが充実の美術書コーナー

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平積みされた大谷省吾先生の新著『激動期のアヴァンギャルド: シュルレアリスムと日本の絵画一九二八-一九五三 』(国書刊行会)、思わず手に取ったのですが重いです、厚いです、少々高いです。他にも日頃の欲求不満を解消すべくまとめ買いして、宅急便で送ってもらいました。


●展覧会の記録
MOT Collection ONGOING コレクション・オンゴーイング
20160305現代美術館コレクション
「コレクション・オンゴーイング」
会期:2016年3月5日[土]〜5月29日[日]
会場:東京都現代美術館常設展示室
主催:東京都/東京都現代美術館
出品作家:ウィレム・デ・クーニング、トーマス・デマンド、デイヴィッド・ホックニー、ロイ・リキテンスタイン、アンディ・ウォーホル、トム・ウェッセルマン、オノサト・トシノブ、瑛九、草間彌生、太田三郎、辰野登恵子、照屋勇賢、豊嶋康子、福島秀子、吉岡徳仁、他
アトリウム・プロジェクト:大友良英+青山泰知+伊藤隆之
20160305現代美術館コレクション 冊子
同展冊子

●出品リスト
20160305現代美術館コレクション リスト20160305現代美術館コレクション リスト2


20160305現代美術館コレクション リスト320160305現代美術館コレクション リスト4

●今日のお勧め作品は、瑛九です。
qei_165瑛九
《花々》
1950年 油彩
45.5×38.2cm
*「瑛九油彩画カタログレゾネ 1925〜1959」No.202
(2011年、埼玉県立近代美術館・他『生誕100年記念 瑛九展』図録所収)

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆このブログで瑛九に関連する記事は「瑛九について」でカテゴリーを作成しています。
 ・「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」 第10回 愛知県美術館

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第10回

愛知県美術館
第1期コレクション展 出来事「いま、ここ」という経験


瑛九の作品が3点展示されていると綿貫さんから連絡を受けた。取材先は本企画のブログでぜひとも紹介したいと思っていた愛知県美術館。瑛九ファンにとっては聖地といえる場所のひとつである。

愛知県美術館_01愛知県美術館がある愛知芸術文化センターの外観。美術館のほかに芸術劇場と文化情報センターが併置されている複合施設。美術館のスペースには、一般向けに常時開放されているギャラリーがある。地下5階から12階まであり、2階から天井を仰ぎ見ると巨大な作品が宙に浮いている。


美術館がある場所は10階で、瑛九の作品はコレクション展示室の方に展示されている。
展示は3つに分かれており、展示室1は「木村定三コレクション 生誕300年 蕪村・若冲と江戸時代絵画」、展示室2は「20世紀の美術」、展示室3は「出来事―いま、ここという経験」が開催されている。瑛九の作品は展示室3にあった。

愛知県美術館_02与謝蕪村と伊藤若冲に焦点を当てた展示室1。
写真は向かって右から松村景文《三羽鶴図》、伊藤若冲《菊に双鶴図》、長沢芦雪《眼下千丈図》、伊藤若冲《三十六歌仙図》、伊藤若冲《伏見人形図》が展示されているケース。

蕪村と若冲は共に1716年生まれで、今年は生誕300年。なかでも、若冲の《三十六歌仙図》が今回の目玉であると担当学芸員の深山氏から紹介された。緻密な作風とは一転、漫画のキャラクターのような人物が豆腐料理や酒に興じている。深山氏は、さらに想像を膨らませ、描かれた人物にバンドメンバーの姿を重ねる。味付けされた豆腐はキーボードで皿は太鼓というように……あとは会場でご覧いただきたい。

愛知県美術館_03こちらは「20世紀の美術」の展示室。
手前左の壁にはポール・デルヴォー《こだま(あるいは「街路の神秘」)》がある。奥の壁には左からフランティシェク・クプカ、ライオネル・ファイニンガー、ジョアン・ミロ、フェルナン・レジェ、ベン・ニコルソンの作品が展示されている。展示室2の見どころは、ジム・ダイン《芝刈機》。設置されている白い木製の台は作品の一部であり、芝刈機のハンドル部分と絵画の位置がピッタリ合う高さになっている。

愛知県美術館_04ここから展示室3「出来事−いま、ここという経験」の第1章「痕跡に見る出来事」。
右の赤い作品は白髪一雄、その隣に元永定正、加納光於、田淵安一と作品が並ぶ。作家によって異なる奇抜な色と形を比較し、その制作過程を想像してみると面白い。


ところで、こちらの企画「出来事―いま、ここという経験」では、「国際展は日本でいつ始まったのか?」という問いかけを掲げている。島館長によれば、日本で初めて行われたといわれる大規模な国際展「第10回日本国際美術展 東京ビエンナーレʼ70」(1970年5月10日〜30日)は、東京・京都・福岡の他、愛知に巡回したと言う。会場は愛知県美術館の前身である愛知県文化会館で7月15日〜26日に開催されていた。横浜トリエンナーレをはじめ各地に広がりつつある国際展の出発点が、東京だけではなく地方に元々あったことを思うと感慨深い。

また、2016年は第3回目の「あいちトリエンナーレ」の開催年であり、愛知県美術館は2010年の第1回目から実行委員会に入り、国際芸術祭を支えてきたと島館長は語る。そのため、本展では「あいちトリエンナーレ」開催前に、1970年愛知県で繰り広げられた国際展を写真や新聞雑誌記事で振り返る目的があった。それに付け加えて、作家の経験した出来事が表現されているコレクションを展示することによって、鑑賞者にも追体験を促す狙いがある。

愛知県美術館_05虫ピンで留められた厚紙だけのキャプションには、学芸員が展示に傾けるこだわりを感じる。額に入っている3点の素描は麻生三郎で、奥は設楽知昭《目の服・上衣》。人が衣服を着用して、ちょうど地に足が着く位置に展示してある。


愛知県美術館_06瑛九《驚き》
1951年、フォト・デッサン(Q Ei 1951のサイン・年記あり)


愛知県美術館_07瑛九《しゃがんで》
1951年、フォト・デッサン(Q Ei 1951のサイン・年記あり)


愛知県美術館_08瑛九《作品》
制作年不詳、フォト・デッサン(裏に都夫人のサインあり)


《作品》に見られるメロンの皮に似た網目模様をもつ作例は、以前ときの忘れもので扱っていた《肖像》のように、1950年頃の作品にいくつか認められる。この網目は小さな破片にかたちを変えるなどして1952年頃までフォト・デッサンの画面を飾っている。

当時、瑛九が「ヒカリ染め」(『毎日グラフ』312号、1952年11月10日、毎日新聞社)で紹介したフォト・デッサンの作り方に、この網目模様を解くカギがあるため、以下に抜粋する。「僕は最初デッサンをかく、そしてきる。小さい調子をつかうときチュール、かなあみ、レース、模様ガラスなどをつかう」とある。恐らく瑛九は《作品》の背景に「模様ガラス(かすみガラス)」を使用していたのだろう。こちらの展示コーナーのなかでは瑛九の作品が一番古いが、表現は新しく、見劣りしない。そのとき身の回りにあった素材を用いて実験的に制作しているから、常に新しいイメージが形成されたのだ。他の作家と同様に、瑛九もまた印画紙というデリケートな素材と向き合って、試行錯誤を重ねる姿が目に浮かぶよう。

愛知県美術館_09ここから「第2章 出来事を共有する」のコーナー。
「人間と物質」展のカタログとポスターが展示されている。
カタログは2冊組となっており、上巻は各作家が作品のコンセプトを書き、下巻は展覧会の記録集という構成で編集された。

愛知県美術館_10安斎重男《The 10thTokyo Biennale, Tokyo Metropolitan Museum, May 1970》、大辻清司《eyewitness》が「第10回日本国際美術展 東京ビエンナーレʼ70」の出品作家や制作過程を捉えた写真。その他、覗きケースには関連雑誌を展示している。


当時の「人間と物質」展はアルテ・ポーヴェラ、もの派、コンセプチュアル・アート、パフォーマンス・アートなどで活躍していた作家が、その場に応じて作品制作を行うという展覧会スタイルであった。当時の参加作家は下記のとおり。庄司達は愛知の出身者。河原温は若いころ瑛九のアトリエに通っていた。
エドワルド・クラジンスキ/カール・アンドレ/クリスト/クラウス・リンケ/ジルベルト・ゾリオ/スタニラフ・コリバル/ディートリッヒ・アルブレヒト/ブゼム/ダニエル・ビュラン/スティーブン・カルテンバック/ジュゼッぺ・ペノーネ/バリー・フラナガン/ハンス・ハーケ/ソル・ルウィット/ジャン=フレデリック・シュ二―デル/リチャード・セラ/パナマレンコ/マリオ・メルツ/マルクス・レッツ/ヤン・ディベッツ/ライナー・ルッテンベック/ルチアーノ・ファブロ/ルロフ・ロウ/狗巻賢二/榎倉康二/河口龍夫/河原温/小池一誠/小清水漸/庄司達/高松次郎/田中信太郎/成田克彦/野村仁/堀川紀夫/松沢宥
(展示資料:阿谷俊也「日本国際美術展」毎日新聞夕刊、1970年7月13日より)

愛知県美術館_11「第3章 記憶の中の出来事」のコーナー。
後方の壁には1970年に制作されたアラン・デュケと吉田克朗の作品があり、手前の平台には、須田剋太と浜田知明(木村定三コレクション)の書簡および北川民次のスケッチブック([株]日動画廊名古屋支店寄贈)が展示さている。北川民次は、1949年に「名古屋動物園児童美術学校」を開設していることから、名古屋で活動していたときのスケッチだろうか。


最後に、本展のコンセプトや作品理解に役立つ資料として、「あいちトリエンナーレ2016」の芸術監督港千尋が書いた『記憶「創造」と「想起」の力』(講談社、1996年12月、p.168)のうち「記憶と歴史の相互作用」を一部抜粋して終わりたい。

1.人間の記憶は個々の事柄の痕跡が保存されてできているのではなく、現在との関係においてつねに生成しているものである。それは一度に入力されれば消えないような静的イメージではなく、環境との物理的な関わりにおいてダイナミックに変化してゆくものである。この点で人間の記憶はコンピューターの記憶とは異なる。

2.したがって回想は、回想される事柄とのみ関わるものではなく、回想している個人の感情や感覚とも関わる。カスパロフにとっての手の記憶やプルーストにとっての味や香りの記憶がよく示しているように身体感覚は記憶が成立するための前提条件であり、身体イメージは絶えず生成変化する記憶にとっての、基本的な枠組みとなっている。絵画や彫刻だけではなく、写真や映像芸術などあらゆる芸術的創造にとって、身体感覚と記憶の動的な関係は本質的である。

***

ちょっと寄り道....

愛知県美術館_12愛知芸術文化センター1階にあるアートライブラリー。
美術館付属の小規模な施設ではなく、芸術専門図書館として独立した施設。ライブラリーに配架されていた「資料収集方針」には、資料の収集方法として購入や寄贈の他に寄託があり、収集対象については、各分野の性格に合わせて具体的な資料形態を列挙している。その中には、一般の図書館では扱われないこともある「スライド」「美術館蔵品目録」「展覧会カタログ」「逐次刊行物」などを含む。芸術に特化した環境を整えるため、こうした規定を設けることは大変重要なことで、全国的に見ても貴重な例だと思う。


さて、冒頭で瑛九の「聖地」と書いたのは、『瑛九―評伝と作品』(青龍洞、1976年)の著者山田光春(こうしゅん)収集資料がこちらで管理されているためである。「山田光春アーカイヴ」のうち、瑛九の関連資料はなんと3825点。それも、今から12年前の2004年に公開したものというから驚くべきことである。アーカイヴの構築には少なくとも10年くらいは掛かるだろうから、かなり早い時期に高い目標をもって取り組んでいたことが想像できる。

愛知県美術館_13美術館の裏手にある公園で休息をとる女性像。鳩たちは彼女にすっかりなついているようす。朝倉響子《ラケル》1995年


愛知県美術館_14白い輪郭で縁取られた青い構造物は、ダリ風の時計や蜂などのイラストが施され、白字で「未来へ繋ぐ階段」と書いてある。二次元の空間に迷い込んだような錯覚に陥る。打開連合設計事務所《長者町ブループリント》2013年


愛知県美術館_15アートラボあいち長者町の外観。「あいちトリエンナーレ実行委員会」が入って、展示事業や情報発信を行っている。


愛知県美術館_16ボン靖二《ここにいる》


愛知県美術館_17アートラボあいち大津町の外観。丸窓が印象的な建物。こちらも「あいちトリエンナーレ」の会場のひとつである。


愛知県美術館_18情報コーナーには作家のポートフォリオやカタログなどを置いている。


愛知県美術館_19西山弘洋《象徴》が正面にかかっている。3階の展示スペース


愛知県美術館_202階の堀田直輝の展示スペース。左《斜光》、右《through》


愛知県美術館_21名古屋城。2016年6月1日から本丸御殿(対面所・下御膳所)の公開がはじまるよう。外では重機が音を立てて動いていた。


今回の取材では、お忙しい中、館長島敦彦氏と美術課長深山孝彰氏が丁寧に対応していただいた。この場を借りて深く感謝を申し上げたい。
(なかむら まき)

●展覧会のご案内
愛知県美術館第1期コレクション展
出来事「いま、ここ」という経験

会期:2016年4月1日[金] 〜 2016年5月29日[日]
会場:愛知県美術館(愛知芸術文化センター10階)
時間:10:00〜18:00、金曜日は20:00まで(入館は閉館の30分前まで)
休館:毎週月曜日
主催:愛知県美術館
出品作家:
[展示室1 木村定三コレクション 生誕300年 蕪村・若冲と江戸時代絵画]
与謝蕪村/呉春/松村景文/長沢芦雪/伊藤若冲/西村清狂
[展示室2 20世紀の美術]
ポール・ゴーギャン/エドゥワール・ヴュイヤール/アルベール・マルケ/ラウル・デュフィ/ピエール・ボナール/アンリ・マティス/エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー/フランティシェク・クプカ/ライオネル・ファイニンガー/ジョアン・ミロ/フェルナン・レジェベン・ニコルソン/ポール・デルヴォー/マックス・エルンスト/アド・ラインハート/サム・フランシス/ジム・ダイン
[展示室3 出来事―いま、ここという経験]
 1970年に東京都美術館を会場に開かれた東京ビエンナーレ「人間と物質」が、その始まりです。正式には、第10回日本国際美術展ですが、隔年で国際的な美術動向を紹介する展覧会として、毎日新聞社主催で開かれてきました。実は、この国際展は、美術批評家の中原佑介をコミッショナーにそれまでの国別を廃し、「人間と物質」というテーマを掲げ、国内外の最も先鋭な美術家たち40名を紹介、その内17名の海外作家が来日、12名の国内作家も会場にかけつけ展示を行うという、日本では初めての画期的かつ先駆的な、今や伝説となった国際展でした。
 しかも、東京だけでなく、京都、愛知、福岡にも巡回、実は愛知県美術館の前身である愛知県文化会館で開催されていたのです。あいちトリエンナーレの出発点はすでに40年前に用意されていたのです。
О第1章 痕跡に見る出来事 | 白髪一雄元永定正/岡乾二郎/加納光於/田淵安一/ルーチョ・フォンタナ/吉川民仁/デイヴィッド・スミス/荒川修作瑛九ロバート・ラウシェンバーグ/麻生三郎/設楽知昭/西村陽平/榎倉康二
О第2章 出来事を共有する | 安斎重男/大辻清司
О第3章 記憶の中の出来事 | パク・ヒョンギ/野田哲也澤田知子/アラン・デュケ/浜田知明/須田剋太/北川民次吉田克朗/野田弘志/設楽知昭/田中功起
※上記は愛知県美術館で作成された目録や展覧会要旨を抜粋したもの。
※企画展「黄金伝説―燦然と輝く遺宝 最高峰の文明展」も開催中。館蔵品のグスタフ・クリムト《人生は戦いなり(黄金の騎士)》を公開している。
「あいちトリエンナーレ2016」は愛知芸術文化センター他、名古屋市・豊橋市・岡崎市のまちなかで2016年8月11日(木・祝)〜10月23日(日)に開催される。

●今日のお勧めは瑛九です。
瑛九 面影
瑛九《面影
1936年
フォトデッサン
イメージサイズ:29.0x22.6cm
シートサイズ:30.2x25.0cm
作品裏面に都夫人の署名あり
※『瑛九作品集』(日本経済新聞社、1997年)140ページ所収

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆このブログで瑛九に関連する記事は「瑛九について」でカテゴリーを作成しています。
 ・「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
tokinowasuremono
緑豊かな青山のギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱い、毎月企画展を開催しています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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