高橋亨のエッセイ

高橋亨「元永定正のファニーアート」第3回 The Funny Art of Sadamasa MOTONAGA

高橋亨「元永定正のファニーアート」第3回(1980年執筆)

The Funny Art of Sadamasa MOTONAGA

▼元永定正の絵

1.「ファニー」
 元永定正の絵の特色はまず第一にフォルムの異様さである。初期にはそれが静的なかたちであらわされ、次にはアンフォルメル風の流動する混沌の相をもってあらわれてくる。あふれ流れる色彩のカオスは初期のフォルムがもった明確な輪郭をのみこみ、奔放強烈に異様さを発散する。それはあくまでなまなましく、ときに性的なイメージとつながり、また男性的で、図太くのさばる。だがその異様さは超越的なものではない。元永はかつて「具体」誌にかいたエッセーで「私は我々の持っている感覚は原始海洋中に生活をしていたアミーバ状態のときからの習性もどこかに残っている、と云うよりもそれが重大な要素を持っているのではないかと考える。」とのべているが、元永の絵に見られる原初的な生命形態ともよぶべきフォルムは、そのような感覚とつながっているようにも思える。元永が生命的なものに関心をもちつづけていることは、そうした画面からみても明らかであり、それゆえにかれのフォルムが示す異様さは人間という生命、またその感覚あるいは想像力にたいして親和的な一面をもつのであろう。ぶきみなうちにユーモラスな表情さえのぞかせる。同じエッセ―で「または阿呆くさい美、狂気の美、笑う様な美、メチャクチャな美、強い美、弱い美、けったいな美、グロテスクな美、その他あらゆる未知な美を展開する。」とかいたのは、グタイのグループ全体の仕事ぶりについてのべたものだが、まるで自分自身について語ったかのように、そっくり元永の作品にあてはまるといってよさそうである。未知の世界に向けて一種強健な楽天主義をもつ人間が、自信をもったり笑ったり破裂したりしながら、陽気に力強く生を更新してゆく過程から吐きだされてくる、といった感じのするのが元永の絵である。

元永定正_05_元永作品元永定正
「作品 F112」
1968年 キャンバス、水性アクリル・カラー
183x368cm
*画像『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


 このような絵を元永自身は「ファニー」ということばでよんでいる。題名を「FUNNY」とつけた作品もある。奇妙な、けったいな、ということの形容詞は、だれも見たことのない未知のものをつくりだそうというグタイの考えかたが反映しているが、とりわけ元永個人の作品にふさわしい意味と響きをもっている。なんともいいようのない変なものであると同時に、どこかふざけたようなおもしろさをもつもの、それがファニーであろうが、異様ななかにもユーモラスな親近感をたたえた元永の絵にあてはまる。元永の絵には初期からそういう性質がみられるのだが、その「ファニー」の響きは66年に元永が渡米して以後の作品で、いっそう透明さをましてくる。

2.流しからスプレーへ
 その年の10月、元永定正はニューヨークのジャパン・ソサエティの招きでアメリカを訪れた。滞在は1年ほどで翌年帰国したが、それを機会に元永は技法を変え、3つ目の時期にはいることになる。不案内な土地で材料の調達が思うようにいかないというのが理由のひとつで、従来のエナメル塗料による流しをうちきり、アクリルえのぐを使ったスプレーでえがくことをはじめた。その方法は今日までつづけられている。

元永定正_28_元永作品元永定正
「しろくにゃり」
1975年
キャンバス、水性及油性アクリル・カラー(手描き、スプレー)
162x131cm
*画像『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


 生命的でまた物質的な流動が消え、均質なマチエールに変わったのは当然だが、明確な輪郭をもつフォルムに変貌したのが一番の外観的特徴である。アンフォルメルの色彩のカオスにおおわれていたフォルムの輪郭が再び明快にあらわされてくる。その意味では初期の様態にたちかえったともいえそうだが、当時のそれのぎごちなさや生硬さはもうみられない。アンフォルメルをへた元永のフォルムは、豊かなふくらみとやわらかみをたたえるようになる。
 もっともフォルムの明確化という点だけみれば、渡米以前すでに60年代前半からその方向があらわれはじめている。流しでフォルム全体をおおうのではなく、はっきりした輪郭をもつお化けのような形が、ドロドロを口や頭から吐きだし、あるいはからだから四方に噴出するといった画面が渡米の前までつづいている。64年の第6回現代日本美術展優秀賞受賞作も、そうしたくっきりしたフォルムの一部に、流しの技法を部分的に使った作品のひとつである。まとまりのあるフォルムでイメージをあらわそうとする考えは元永の本来の意思であり、アンフォルメルの流動する波を自分で頭からかぶった時期にあっても、そのつよい意思は消えることなく底流していたのである。そうした元永の絵は、塗料の流しによる技法をやめ、吹きつけをあらたな技法として用いることによって、塗料が語った物質性がほとんど消えさるのと同時に視覚性が明瞭になり、フォルムと色彩は純粋に絵画的なイメージとしてあらわされるようになる。そのいわば絵画としての純度が、元永のイメージが透明さを加え、奥行きのある想像力が「ファニー」なものを柔軟なしぐさで生産してゆくのに役立っているといえるだろう。

3.抽象漫画宣言
 渡米以後つまり66年から79年にいたる最近15年の間の元永定正の絵は、ゆるやかな変化と再生の軌跡をえがいている。だいたい元永の絵は、同じようなフォルムが再三くりかえし現われることが多い。それは最初の「山の絵」以来、独特で固有の形態感覚を身につけ、その感覚はほとんどたえず生命的なものをまさぐりつづけているからでもあろう。しかしそれらは単なるくりかえしではなく、同じようなフォルムがあらたなシチュエーションのなかで再生し、そのたびに「おかしな」ものとして生を得るというところに、元永の停滞を知らない創造力がうかがえる。
 69年の第9回日本国際美術展に出品した「Work N. Y. No.1」はこの時期の初めの作で、岩石のようにややでこぼこにひろがる大きな色面がふたつ重なり、半分かくれた方は下に足のようなものがのび、流しの時代のなごりを感じさせるが、もう一方は輪郭の外側を吹きつけのぼかしによる太陽のコロナのような明るい光の輪がとりまいている。この輪郭の外縁または内縁や、形の一部にぼかしを用いる手法は、以来特色のひとつとなり、明確な輪郭線をやわらげ、平板な色面に立体感をもたせるなどの効果をあげている。また間接照明のようなやわらかい光の効果となったりする。

元永定正_29_元永作品元永定正
「Work N. Y. No.1」
1967年
油性・水性樹脂系絵具、キャンバス、パネル
274x212cm
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


元永定正_30_元永作品元永定正
「作品 FUNNY 79」
1967年
油性・水性樹脂系絵具、キャンバス、パネル
213x275cm
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


 同じ年の「作品 FUNNY 79」は、太いのや細いのや二本ずつ腕のはえた抽象ぬいぐるみ人形がふたつ立っているようなユーモラスな画面である。このような大きなフォルムから小さいフォルムがいくつか分枝する構造をその後も試みている。それらのひとつひとつのフォルムは、細長いマユのようなソフトな感触で包まれ、有機的で生きものの印象にちかい。
 70年ごろからの作品に、ローマ字のQを題名に使った絵がいくつか現われる。軟体動物がQの字にまがったようなフォルムで、そのヴァリエーションも多い。漫画のポパイの顔のような感じである。漫画というと、元永が63年8月の美術手帖に「私の抽象漫画宣言」をかいたことを思いだす。まだ画面が強烈な流しでいろどられていたころだが、そこに掲載された簡単な線がきのデッサンは、当時のつよい表現のタブローよりは、ソフトなムードのうちにユーモラスな側面がひろがってきた渡米以後の作品に近い。この宣言というのは漫画のような抽象画があってもいいじゃないかという主張で、元永のいう「ファニーアート」が、奇妙さのうちにおかしさ、おもしろさをはらんだフォルムの追求であることを物語っているだろう。またファニーアートというと、74年に大阪でひらいた個展「衝突」に“元永定正のファニーアート”というサブタイトルがついていたことが思いだされる。これは赤と緑のえのぐをいれたふたつの洗面器をブランコのように揺り、ぶつかってえのぐが飛び散る物理的アクションのイヴェントだが、はじめに手を貸し、あとは偶然と自然の法則にゆだねるそのやりかたは、アンフォルメル時代の流しの技法に共通するといえよう。そういえば初期の煙を吐きだしたイヴェントも同様であった。とにかくそうしたアクションまでふくめてファニーアートとよんでいるのである。

元永定正_24_元永元永定正
「衝突(赤と緑)」
1974年
丸い金属製のたらいに赤と緑の絵具を入れてハンモックに吊り下げ、左右にひろげてぶつける。赤と緑が混じり合って飛び散る。
「衝突―元永定正のファニーアート」(大阪・信濃橋画廊)
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載


画面におけるフォルムのおもしろさだけでなく、作家としての活動全体の方向として考えられているといってよいだろう。元永は若いころさまざまの職につきながら、なぐさみに漫画をかいていた時期があったというが、奇妙でおもしろいものにたいする関心は元永の半生を貫いてきた主軸なのだ。まじめさや深刻さが買われ、漫画などは本格的な芸術の仲間からはずされがちなこの世界で、元永の主張と作品を通じての実践は居直るような大胆さということができよう。その画面はそうした方向にともなうある種の軽さをむしろ積極的な特色として、フォルムのもつスケールの大きさと空間的な豊かさをもって。独特のおおらかな世界にひろげてゆく。おかしな題名も多い。「NYU NY-U NYU NYU 」「KURU KURU RIN」「ぽぽぱぱ」「YON K-URU」―題名までファニーだ。

元永定正_23_元永元永定正
右:「くにゃりとくにゃり」陶器 長さ60x高さ10cm
中:「たまのでるかたち」陶板 30x30cm
左:「くねくねくね」陶器 長さ60x高さ10cm
制作年はすべて1972年
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載


元永定正_22_元永上)西郷コミカ温泉
(屋根・煙突のペインティング)
1977年
屋根には白いペンキ、煙突には赤いペンキをそれぞれ流した。「西郷コミカ温泉」は大阪・守口市にあるユニークな公衆浴場。レストランや中庭、小ホールといった施設をもち、地域住民の新たな活動の場として利用されている。
下)「HAHAHA HOHOHO」(西郷コミカ温泉浴室壁画)
1977年
耐水性特殊ラッカー(手描き、スプレー)
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載


元永定正_31_元永作品西郷コミカ温泉浴室壁画
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


元永定正_32_元永作品西郷コミカ温泉浴室壁画
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


元永定正_25_元永元永定正
「作品 布と針金」
1972年
自然石、針金、布、他
高さ30cm
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載


4.第4の時期へ
 これまでおよそ四半世紀にわたる元永定正の足どりを、三つの時期にわけて眺めてきた。かなり長い道のりであるにもかかわらず、元永の足跡はたどりやすいということができる。途中の上り下りや屈折はあっても、かれのいうファニーなイメージをとらえようとするフォルム追求の一本の道として確かに連続しているからである。分かれ道や迷路はまったくなかったといってよい。おそらく道をきりひらいた元永自身がこれまで迷わず来たからにちがいない。これほど一本の道をえがける作家は今日数少ないのではないか。
 その道の三区間のなかで、アンフォルメルとともに一躍名をあげたころが、元永にとって力のこもった展開の時期として重要なことはさきにのべたが、渡米から今日までの第三の区間もそれに劣らぬ質と量をきずいており、発展性という点からすればより注目すべきではないかと思われる。アンフォルメルにかかわる時期の絵は、印象の強烈さにおいて一番だが、かなり一定したフォルムがつづいている。流動性にあふれたえのぐのオートマティスムが、フォルムの類型化を許さないようにみえながら、その技法自体が逆にフォルムの自由な展開を束縛するという点がみられる。また流れいりまじる色彩のカオスは、無限の可能性を秘めながらも、それがつねに始原状態であることによってかえってひとつのパターンを形成しようとする。それは具体美術宣言がうたった物質と精神の対等のかかわりが、そのかかわりゆえにイメージを制約することともいえるだろう。
 三つ目の時期ではそうした物質性からぬけでて、絵画本来の姿というべき純粋視覚的な表現に達することによって、元永の想像力はむしろのびのびと夢をはせることができたのだと思われる。この過程は元永の師吉原治良がさまざまな試みとアンフォルメルをへて、晩年の「円」においてかたち自体の世界へ達したそれと相通じるものがあり、また絵画一般の問題としてさらに考えてゆかねばならぬことだろう。
 このような発展のうえにたって、最近の元永の絵はいろいろと変化を加えてきた。グタイ・グループにはいった55年に「外国人が日本の書を始めて見た場合その形の面白さを見る。日本人は意味を読む。意味は観念だ。観念があるために形の面白さを感ずることが出来ない。」と「具体」誌にかいた元永の考えはおそらくいまも変わらず、なにものも意味しないフォルム自体の表現性を追及する基本姿勢は変わっていない。そのイメージはさまざまな連想をよぶ豊かな能力をもつが、その連想は人間の日常世界の次元に、以前にもましてより強く導かれるという傾向が、近年の画面のなかに感じられる。さまざまな形や線を複合する構図上のあらたな試みがそこに加わって、ある絵は明るく楽しげな人間世界の風景にみえたりする。ほのぼのと夢幻的に明るんだ地平の空に、なにかが浮かんだり空飛ぶ円盤が舞いあがったりするような絵もある。それらは無邪気ともいえるほどの開放的な空間の詩情をさそうものであり、また後者は元永の宇宙的空間への関心を想像させたりする。すでに71年の第10回現代日本美術展出品作「Z-ZZZZ」などにもそうした傾向がうかがえたが、最近の元永の画面にみるひとつの方向といってよいだろう。そこに感じられる日常次元へのあまりにもすれすれの近接と、また「ファニー」のいわば通俗化を、今後元永がどのようにあつかってゆくかに興味がもたれる。

元永定正_27_元永作品元永定正
「ZZZZZ」
1971年 キャンバス、水性及油性アクリル・カラー(手描き、スプレー)
182x368cm
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


01元永定正
「オレンジの中で」
1977年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:47.0x61.0cm
シートサイズ:50.0x65.0cm
Ed.100
サインあり


09元永定正
「いいろろ」
1977年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:47.0x61.0cm
シートサイズ:50.0x65.0cm
Ed.100
サインあり


 うるんだネオンのような光を放つ色の線が現われたり、あるいはこどものなぐりがきのような細い線のドロウイングが画面の空白にちりばめられたりするのも、最近みられるあらたな試みである。ことに後者は元永の絵をもう一度無意味な地点から組みかえようとする気配とも受けとられるが、カリグラフィーに関心をつよめているという元永定正の第四の時代がはじまろうとしていることかもしれない。

たかはしとおる

*『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より再録掲載
第1回
第2回

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motonaga_book3
『元永定正』
1980年2月10日
現代版画センター 発行
60ページ
22.0x11.0cm
執筆:金関寿夫、高橋亨

高橋 亨 Takahashi Toru
1927年神戸市生まれ。美術評論家、大阪芸術大学名誉教授。
東京大学文学部を卒業後、1952年に産経新聞大阪本社に入り、文化部記者として主に展覧会評など美術関係を担当して11年後に退社。具体美術協会の活動は結成直後から実見し、数多くの批評を発表。美術評論活動を続けながら1971年より26年間、大阪芸術大学教授を務める。兼務として大阪府民ギャラリー館長(1976―79)、大阪府立現代美術センター館長(1979―87)。
大阪府民ギャラリーでは、具体解散後初の本格的な回顧展「具体美術の18年」(1976)開催と、詳細な記録集『具体美術の18年』の発行に尽力。その他、徳島県文化の森建設顧問として徳島県立近代美術館設立に参画し同館館長(1990―91)、滋賀県立近代美術館館長(2003―06)を歴任。

●出品作品を順次ご紹介します。
08元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《かさねいろだま》
1984年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:66.0×46.0cm
シートサイズ:75.0×55.0cm
Ed.150 サインあり

09元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《いいろろ》
1977年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:47.0×61.0cm
シートサイズ:50.0×65.0cm
Ed.100 サインあり

10元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《ふにゃらくにゃら》
1979年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:43.0×95.0cm
シートサイズ:50.0×104.0cm
Ed.85 サインあり

11元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《さんかく》
1979年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:95.0×43.0cm
シートサイズ:104.0×50.0cm
Ed.85 サインあり

12元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《みぎひだり》
1979年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:95.0×43.0cm
シートサイズ:104.0×50.0cm
Ed.85  サインあり

13元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《うきふたつ》
1979年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:43.0×95.0cm
シートサイズ:50.0×104.0cm
Ed.85 サインあり


14元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《せのひくいおれんじはまんなかあたり》
1984年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:46.0×66.0cm
シートサイズ:55.0×75.0cm
Ed.150 サインあり

15元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《ひだりうえにぐりーんのぎざぎざ》
1984年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:45.0×65.0cm
シートサイズ:55.0×75.2cm
Ed.150 サインあり

16元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《すうしきもある》
1984年
スクリーンプリント(刷り:石田了一)
イメージサイズ:46.0×66.0cm
シートサイズ:55.5×75.0cm
Ed.150 サインあり

17元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《ぎざぎざ》
1979年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:60.0×45.0cm
シートサイズ:65.5×50.0cm
Ed.150 サインあり

18元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《おれおれまがり》
1979年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:45.0×60.0cm
シートサイズ:50.0×65.5cm
Ed.150 サインあり

19元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《ぱぱぴぴぷう》
1979年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:45.0×60.0cm
シートサイズ:50.0×65.5cm
Ed.150 サインあり

20元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《とんぼみたいな》
1979年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:60.0×45.0cm
シートサイズ:65.5×50.0cm
Ed.150 サインあり

21元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《しろいせんから》
1979年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:45.0×60.0cm
シートサイズ:50.0×65.0cm
Ed.150 サインあり

22元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《うえうえ》
1984年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:27.5×40.0cm
シートサイズ:44.5×59.5cm
Ed.150 サインあり

◆ときの忘れものは2015年6月3日[水]―6月13日[土]「元永定正 もこもこワールド」を開催しています(*会期中無休)。
263_motonaga02具体グループで活躍した元永定正は1970年代から本格的に版画制作に取り組みます。本展では1977〜1984年に制作された版画代表作30点をご紹介します。
出品リストは既にホームページに掲載しました。価格リストをご希望の方は、「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してメールにてお申し込みください
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高橋亨「元永定正のファニーアート」第2回 The Funny Art of Sadamasa MOTONAGA

高橋亨「元永定正のファニーアート」第2回(1980年執筆)

The Funny Art of Sadamasa MOTONAGA

▼グタイと元永定正

1.静的な初期作品
 グタイの初期における元永定正の作品はおよそ3つのタイプにわけることができる。ひとつは芦屋市展で目をひいたという麦わらのツノをはやした石ころである。55年10月東京の小原会館でひらいた第1回具体美術展にも同様な作品をならべている。もうひとつは透明ビニールに着色した水をたたえたもので、グタイは56年に芦屋の同じ場所で今度は独自に「具体野外美術展」をひらいた。そのときは10メートルもある細長い筒状のビニールに水をいれ松の木から木へハンモックのように何本もわたした。水の重みで中央で折れた直線と、ビニールに水がたまったやわらかい曲線がおのずから空間を構成し、透明な色つきの水の美しさがアクセントをつくりだした作品である。この会場ではもうひとつ水を利用した作品をつくった。2×10メートルの浅いプールに、色セロファンで三角や四角にかこんだ舟にローソクをともしていくつか浮かべたもので、風にゆれ動いて美しい夜の作品である。それはお盆の精霊流しのようだといわれた。56年小原会館での第2回具体美術展では、四角の枠に張ったさまざまな色のビニールをつるして、その中央に水をたたえた作品を試みている。元永のこうした水による造形は、いずれも簡単な仕掛けでたくまざる効果をうんでいるのが特徴で、また重力や風など自然の力と法則をうまくとりいれている点が注目される。このころ元永は水のほかに煙も使っており、57年に大阪と東京の産経会館でひらいた「第1回舞台を使用する具体美術」では、舞台から大きな煙の輪を観客の頭の上にただよわせ、翌年大阪朝日会館でのその2回目の試みでは、ホールの天井までのびた巨大な透明のチューブから煙をはきださせたりした。こうした煙の作品も水のそれと同系列にいれることができるだろう。
元永定正_09_元永元永定正
「作品 水」
1956年 鉄枠にビニール、水
90x90cm
5個制作し、会場によってレイアウトを変えた
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


元永定正_10_元永元永定正
「作品 煙」
1956年 木
中央:90x90x90cmの箱、左右:180x90x90cmの箱
ボックスから煙が打ち出された瞬間。
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載


 吉原治良は56年12月号の芸術新潮に「具体美術宣言」をかき、それはグタイの思想を語るいわば唯一の公式見解となっているが、そのなかで「具体美術に於ては人間精神と物質とが対立したまゝ、握手している。」「個人の資質と選ばれた物質とがオートマチズムのるつぼの中で結合されたとき、われわれは未知の、未だ見て経験しない空間の形成に驚いた。」とのべている。物質を人間の精神と対等の存在としてとらえ、その自律性の尊重をうたったこの宣言は、50年代当時における先見的な思想として今日再評価されているものだが、同じころの元永の水や煙の仕事はそのグタイ思想を、おそらく偶然に、具体化している。これらの作品においてかれは、物質の物理的な存在形態のひきだし役にとどまっているといってよい。そうでありながらその形をひきだすにさいしてのデリカシー、ユーモア、抒情、あるいは意外性を見のがすことはできない。それらはのちの元永の作品に通じる特性であり、また石ころの作品にもみられるものである。元永定正というと、いわゆるアンフォルメル時代を頂点とするきわめて男性的で、強烈で、なまなましく生命力のあふれた作風が、特色として語られることが多い。事実そうした質もこの作家の一面として注目しなければならないが、同時にその半面を見のがすことはできない。力にたいする優しさ、動にたいする静、奔放さにたいする繊細さ、有機的生命にたいする無機質、そうした両面を混然とさせながらその独自性を確立してゆく元永の歩みのなかで、初期はその優しく静かな一面をナイーヴな感性でつづった時代である。具体美術宣言をなぞっていえば、人間精神と物質とが静かに対立し、優しく握手している時代だ。
 元永の初期のその時代に、グタイの全体は必ずしもそうではなかったという点にも注意しなければならない。たとえば第2回野外展で嶋本昭三は、アセチレンガスの爆発力で手製の大砲からえのぐを飛ばして大画面をえがいており、先に書いたように第1回具体美術展での白髪や村上の行為はきわめて激しく、そうした強烈で動的な側面がグタイにたいする印象を支配したことは確かだろう。それにたいして元永は、舞台においても、めまぐるしく電球を点滅させる田中敦子の電気服や、その他の会員の肉体を使ったアクションのなかで、その煙の作品は場内を煙だらけにした強引さはあったとしても、どこか悠然としたところがあり、また作者自身はその物質が演じる奇観のかげにいた。グタイの他の作家たちとくらべても、この時期の元永は静かな男であったといえる。

2.初期の油絵
 こうしたオブジェと、水や煙という流動物による試みのほか、元永定正の初期の仕事として油絵がある。油絵といっても、そのえのぐは塗料の溶液に自己流の顔料をまぜたしろものだそうだが、とにかく絵画である。前記のように芦屋市展に初めて出品したのは裸婦像だが、翌年から抽象画をだしはじめた。第1回具体美術展では着色した石ころ、天井からぶらさげたさかさくらげのような水の彫刻とともに、壁面には大小さまざまの絵を展示した。それは丘の上に棒がならんだようなもの、ナマコ状のにゅうとした形の上に点がならんだもの、あるいは空に飛行船がうかんだような絵、ビル街のゆがんだシルエットのような絵、雲のかたまりに雨の足がはえたような絵、また一筆がきでいびつな楕円を大小ならべたもの、こどもがかく太陽のような丸に放射状の線をえがいたものなどである。翌56年の芦屋市展出品作には宙を飛ぶ三角形のくらげのような絵がある。これは後年の画面にUFOのようなイメージのものが現れるその原型のようでおもしろい。第2、第3回具体美術展には先のまがった潜望鏡のような絵もでている。それに坊主頭に毛のはえたような作品である。

元永定正_11_元永作品元永定正
「作品」
1956年
油性・水性樹脂系絵具、キャンバス、パネル
159x112cm
*『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


 このようにグタイにはいったころの元永はいろんなフォルムを試みており、自分の鉱脈をさぐりだすための試掘の段階であることを示している。だがその試みるフォルムはことごとく、かれのいう“けったいなもの”であり、未知の表現、未見の形態を要求するグタイ精神をまともに受けとめて、自己流にさぐろうとした姿がある。この時期の元永のそうした絵のほとんどが“…のような”という形容をさそう性質をもっていることに注意したい。それらのなかで、坊主頭に毛のはえた“ような”絵は、実は元永が神戸にすみはじめたころ眺めた裏山の夜景の印象がイメージをうんだものだという。六甲山系の摩耶山頂に夜な夜な輝くネオンのまたたきが、坊主頭のフォルムの上の点々あるいは粗い毛の行列になった。つまり実景が原型になっている。そのあたりに元永のこうした絵を“…のような”と形容したくなる一因があるといえそうだが、しかしそれはかれの画面のなかで完全に抽象化されている点がより重要である。なぜならそれらの絵は山の風景画としておもしろいのではなくて、ただぬうっとした大きなフォルムと、それにくっついた点または短い線のとりあわせが、異様でまたユーモラスなのだ。純粋に抽象画のもたらす興趣である。またこれは一例であり、元永の絵がすべてイメージの原型を現実の視覚体験にもっているわけではない。にもかかわらずそれらの画面が“…のような”という日常の事物を借りた比喩をうながすのは、元永のイメージがある種のアンティームな次元からうまれでるためではなかろうか。うまれでるというのがわるければ、日常ときわめて親近な次元に位置しているといえばよいだろう。かれの画面がこののちも、グタイのさまざまな絵のなかでことに親しみをもって迎えられていったのも、そうした性質によるものと思われる。未知の領域へ果敢な冒険をつづけたグタイにあって、元永の作品はこの点でやや異なるニュアンスを秘めている。

3.グタイとアンフォルメル
 グタイは当初からの活発な創造活動にもかかわらず、ようやく認知されるようになったのはニ、三年たってからである。吉原治良は「当時、『具体』は誹謗と黙殺の真只中にあった。……日本の批評家たちは誰かが、一口味わったあとでないとなかなか喰いつこうとはしない。ミシェル・タピエは実に内外を通じて『具体』と真正面から取組んだ最初の批評家であった。」と残念がっている。当時の美術界は抽象分野においてもまだ微温的なモダンアートが大勢をしめていたこと、具体美術展は第一回から東京でひらかれているのに、関西のグループということで、中央にかたよった日本の美術機構に受けいれられなかったこと、また今日のPR時代ではふつうのことだが、グタイは最初から広報活動がゆきとどいていて、それがかえって売名的と受けとられる場合もあったことなど、いろんな事情はあったようだが、要するにグタイの運動が当時の美術概念を超えていたことが根本であろう。地元大阪でも好奇心はかきたてられても、どのように評価すべきかおおかたのひとはとまどっていたという印象がある。
 それが57年にパリから初来日したタピエによって大きくクローズアップされたのが、グタイがいわば公認されるきっかけになり、さらにタピエを通じて海外にグタイが進出する道がひらかれたのであった。そして何人かのグタイ会員が日本を代表する現代作家としてそだってゆく。そのなかで吉原治良は別格として、グタイの双璧とよぶべき作家が元永定正と白髪一雄である。
 タピエは51年3月にパリで「激情の対決」展、52年6月に「アンフォルメルの意味するもの」展を組織し、アンフォルメル(非定型)の主張を展開しはじめており、精力的に各国をまわって自分の尺度にかなう作家と作品を発掘していたが、日本ではグタイ・グループや勅使河原蒼風、実験公房の福島秀子らの作家に関心をよせた。アンフォルメルについては、フランスから帰った批評家富永惣一によってすでに伝えられ、56年11月には「世界・今日の美術展」で多くのアンフォルメル絵画が紹介されて注目をひきつつあったが、57年になるとタピエのほか、アンフォルメル作家にかぞえられていたフランスのジョルジュ・マチウ、アメリカのサム・フランシス、在パリ作家の今井俊満らがおとずれてそれぞれ作品展をひらき、マチウによる制作の実演公開なども行われ、また再びアンフォルメル作品をならべた「世界現代芸術展」がひらかれるなどあって、いわゆるアンフォルメルの嵐がまきおこることになる。60年代がはじまるころまでその嵐は“熱い抽象”の類型を増殖しつづけるが、公募団体展にも大きな影響をあたえ、その抽象勢力が立場を逆転して具象より優位にたったといわれたのもこのころである。

元永定正_14_元永作品元永定正
「作品 ミッシェル・タピエ氏に捧ぐ」
1958年
布、油彩
230x150cm
*『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


元永定正_15_元永「空中展覧会」
1960年
国内・国外合わせて30名の作家から寄せられた絵を大きく引き伸ばし、アドバルーンにつけて空に浮かべた。手前右が元永定正の作品。
インターナショナル・スカイ・フェスティバル(大阪・高島屋屋上)
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載


 タピエはグタイの活動に最大級の賛辞を呈し、グタイの吉原治良は日本ではえられなかった理論的裏づけをタピエのアンフォルメル運動にみいだしたから、両者が一挙に緊密な関係になったのは当然であり、58年にグタイはタピエの協力のもとに、外国作家とグタイおよびタピエ選択による日本作家の作品による「新しい絵画世界展《アンフォルメルと具体》」を東京、大阪その他でひらいた。こうしてグタイは新しい世界的潮流のなかでクローズアップされ、日本におけるアンフォルメルの牙城とみられるようになり、初期につづくグタイの中期としての、いわばアンフォルメル時代を迎えるが、ただグタイの事実上のアンフォルメル絵画は、タピエの来日以前から、いいかえるとアンフォルメル旋風が吹きはじめる前から、グタイのなかでひとつの動向をなしていたということは、やはり事実として認めておく必要はあるだろう。それはすでに足でかいていた白髪一雄、大砲でえのぐを飛ばした嶋本昭三だけでなく、グタイがグループ結成とともに出した「具体」誌1号所収の絵は、あらあらしく盛られたマチエール、奔放なカリグラフィ、中心を捨てた画面全体への拡散、オートマティスムといったアンフォルメル絵画の一般的な様態を驚くほどはっきりと示している。グタイのアンフォルメルはむしろグループ結成以前からはじまっていたともいえる。
 もっとも、グタイの絵がすべてそうであったというのではなく、たとえば金山明は画面の端に直線をちょっといれただけの絵をかいたりしており、きわだった対照をなしている。元永定正の絵もちがっていた。57年10月にひらいた第4回具体美術展出品の画面には、まだあの山の光景に触発されたというイメージがえがかれている。ただ、頭だけ見えていた親指が根本まで現われたような異様さがまし、のちのかれの絵によくみられるフォルムの骨格が定まってきたようにみえる。頂上の小さな点もまだならんでいる。このように当時の元永の絵にはまとまったひとつのフォルムがあった。いろいろな方法でフォルムをこわし拡散させようとしていた多くのグタイの絵と、その点で異なっていたのであり、その形は平塗りの色面でつくられ、マチエールに激しい所作はみられない。初期の元永の絵はアンフォルメル一般とは異なる資質をもっていたといってよい。

4.元永定正の“流し”
 タピエ初来日の翌年ひらいた「新しい絵画世界展」でもマッス状のフォルムによる表現はかわらないが、こぶしをつきだした腕のような形で、ぶきみで強烈なヴァイタリティをたたえ、元永の表現にみる特色のひとつが現われはじめている。同時に技法のうえでも変化がみえはじめる。それまでの絵におけるフォルムは明確な輪郭でえがかれていた。57年の出品作には筆痕が勢いよく輪郭の外に飛びでた画面もあるが、試みにとどまったようだ。だが今度は元永の絵が変貌してゆく確かなきざしである。そしてそれは偶然はじまったと作者自身はいっている。この絵の少し前から、明確なフォルムの面上でマチエールの動きがはじまっていた。日本画で使われるたらしこみという技法で、色面に変化をつけることをはじめていたのだが、あくまで輪郭の内部での処理のつもりであったそれが、たまたま流れて外にはみだしてしまったのである。ところがよくみると意外におもしろい効果がでていたのだという。「新しい絵画世界展」の出品作はそんな効果がなまなましさを加えているようだ。
 やがて元永の絵の強烈な“顔”になるあの奔放自在に流れ、まじりあう悪夢のような色彩の饗宴は、このように偶然からうまれたかもしれない。だがおそらく偶然だけではない。初期の絵においていわば無口で静的なフォルムのなかにじっと満を持していた元永の生命力がせきをきったように、どっとあふれでた観がある。ものがあふれでるのは必然である。内に満ち、たたえきれなくなってあふれるのだ。元永の絵はそのあふれでるという表現がおそらくふさわしい。元永のえのぐの流しは、ただえのぐがキャンバスの表面を流れて模様をのこすといったものではなく、むしろキャンバスの内側からえのぐがあふれでて、飛沫をあげ流れにじんだようにみえる。外を流れるのでなく、内から外へ流れでるのである。元永の流しは実際、画面のひとつ、またはいくつかの地点から四方に流れだし、下方へしたたりおちる流動の軌跡をえがくものが多い。同じところから何色ものえのぐが湧出をくりかえすことも多い。そのたびに原初的な生命の創造がくりかえされ、他の色とまじりあいながらカオスを現出する。

元永定正_17_元永作品元永定正
「作品」
1962年
油性・水性樹脂系絵具、キャンバス、パネル
173x274cm
*『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


 赤、黄、黒、緑その他の強烈な色彩があふれ流動する元永定正のそうした画面では、その流しの効果のもつ卓抜な表出力のゆえに、いっさいがオートマティスムによって演じられているかのようにみえるが、しかしそこでも明確なフォルムが底にあるという事実は興味ぶかい。つまり下絵があるのである。元永の当時の技法については、画家佐々木豊による「塗料の魔術」(美術手帖1966年4月)というアトリエ訪問記がくわしく伝えているが、スケッチブックにかきためた単純なフォルムのデッサンをキャンバスに簡単な輪郭線で拡大する。そのフォルムを元にして、あらかじめ見当をつけた流しを行なう。わずかな傾斜をつけて床にねかせたキャンバスをえのぐが時間をかけてじわじわと流れる。そうした流しをくりかえすのである。流れたえのぐは最初の輪郭線を消し去り、その境界からあふれでてカオスと化すが、初め予定したフォルムの構造そのものは最後まで残るのだという。決してすべてがオートマティスムからうまれでるのではない。このように一定のフォルムを基本にし、それを保持しようとするところに、外観は変貌しながらも、やはり初期以来かわらない元永の作画姿勢とその絵の質があり、またその表現のどうどうとしながらも激しい意思的な強さは、そこからうまれるのだろう。
 しかし同時に、オートマティスムによるえのぐ自体のあふれでる痕跡の強力な効果も、いうまでもなく元永の絵の特質である。元永が流しに使うえのぐは実は、合成樹脂系のエナメル塗料で、油えのぐは「品がよすぎて」よくないのだという。かれの絵のような流しにはエナメル塗料は使いやすいという理由もあるが、庶民的なけんらんさともいえそうなその色彩の強さのもとでもあろう。そしてそれはどろどろとし魔術的な妖しさを秘めながら、決して陰微ではなく、カラッとして開放的である。フォルムは有機的生命的だが、マチエールは無機的に乾いている。それはひとつには塗料という物質自身が、元永が自分の絵は「引力がつくる」というその自然の法則のもとにくりひろげるオートマティスムが、おのずからそうさせるのではなかろうか。吉原治良が具体美術宣言で「具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質に生命を与えるものだ。」とかき「物質は物質のままでその特質を露呈したとき物語りをはじめ、絶叫さえする。」といったグタイの物質観が、元永の絵において典型的に具体化されているように思える。元永はエナメル塗料に生命を与え、その物質が絶叫している。

元永定正_18_元永作品元永定正
「聖火」
1964年
油性・水性樹脂系絵具、キャンバス、木パネル
322x182cm
*『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


 この時期のフォルムは頭があって、尾が下にのびた巨大なオタマジャクシのようなものが多い。それは初期の“山の絵”の坊主頭のつづきであることを印象づけ、また細長い潜望鏡のような形との関連を思わせることもある。その頭の部分でえのぐが散り、物質同士が複雑微妙にからみあって、相克と融和の色彩ドラマを演じるが、そうしたありさまは威嚇したり哄笑したり、あるいは毒気をはきだしたりする奇怪なお化けのようにもみえる。それは強烈にグロテスクだが、どこか陽気で人なつこくユーモラスである。まじめくさらない明るいふざけ、おかしさも元永の絵の特色であり、むしろ資質の中核をなすものとして、のちの画面に発展してゆくことになる。

5.元永定正とアンフォルメル
 ダタイがマーサ・ジャクソン画廊で初めての海外展である具体ニューヨーク展をひらいた58年ごろから、元永自身が渡米する66年ごろまでつづいたこうした作品によって、元永定正は現代美術のにない手として高い評価をかちえた。59年イタリアの第11回プレミオ・リソーネ展で買上賞にえらばれたのを手はじめに、64年の第6回現代日本美術展、66年の同第7回展ではたてつづけに優秀賞を受賞している。その前の61年にひらかれた第6回日本国際美術展での、初めて招待され出品した元永の絵の果敢なたたかいは、賞こそのがしたがひとつの語り草になっている。その選考の場で元永の作品は、当時画壇の第一人者と目された林武とグランプリを争い、結局は結着がつかずこの年はグランプリなしということになり、ふたりとも他の賞も逸してしまった。いわば元永は初陣にもかかわらず古豪林武と相討ちを演じたわけで、画壇新勢力の登場をつよく印象づけたのである。
 こうして元永は現代美術作家としての位置を確かなものにし、またグタイ・グループの代表的存在とみられるようになったが、タピエによるアンフォルメルの潮流のなかで脚光をあびたグタイの代表作家とは、すなわち日本におけるアンフォルメルの代表作家と目されることでもあった。足でえがいたアクション・ペインター白髪一雄とともに、元永はそうした印象を強烈にあたえたのである。たしかにこの時期の元永の絵は流しのオートマティスムによって、えのぐという物質自体が生命力にあふれた混沌の世界をうみだしており、アンフォルメルとよぶのがふさわしい。だが元永のこのアンフォルメル絵画の印象の強烈さは、かれにたいする見方をそこに固定化するおそれをはらんでおり、この時期を基準に元永を解釈することは作家としての本質を見のがすことになりかねないのである。むしろ元永におけるアンフォルメルは、イメージを追い求める一貫した過程のなかでの一段階としてとらえるのが、作家の実像により迫る方法だと思われる。そのように理解したうえで、この時期は元永の軌跡のなかでのひとつのピークということができる。元永が脚光をあびはじめる60年代初めは、すでにヨーロッパではヌーヴォー・レアリスムが、アメリカではネオ・ダダイズムがおこり、また日本でもそれに呼応するように荒川修作篠原有司男らがグループ「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」を結成して、アンフォルメル以後の世界がひらかれつつあった。そのようにしてアンフォルメル旋風が通りすぎていったあとで、逆に元永にたいする評価がたかまったということは、かれの絵にアンフォルメル以外のつよい魅力と質があったということでなかろうかと思われる。

たかはしとおる 続く)
第1回は6月2日に掲載しました。
第3回は6月6日に掲載します。

*『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より再録掲載

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motonaga_book3
『元永定正』
1980年2月10日
現代版画センター 発行
60ページ
22.0x11.0cm
執筆:金関寿夫、高橋亨

高橋 亨 Takahashi Toru
1927年神戸市生まれ。美術評論家、大阪芸術大学名誉教授。
東京大学文学部を卒業後、1952年に産経新聞大阪本社に入り、文化部記者として主に展覧会評など美術関係を担当して11年後に退社。具体美術協会の活動は結成直後から実見し、数多くの批評を発表。美術評論活動を続けながら1971年より26年間、大阪芸術大学教授を務める。兼務として大阪府民ギャラリー館長(1976―79)、大阪府立現代美術センター館長(1979―87)。
大阪府民ギャラリーでは、具体解散後初の本格的な回顧展「具体美術の18年」(1976)開催と、詳細な記録集『具体美術の18年』の発行に尽力。その他、徳島県文化の森建設顧問として徳島県立近代美術館設立に参画し同館館長(1990―91)、滋賀県立近代美術館館長(2003―06)を歴任。

●出品作品を順次ご紹介します。
01元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《オレンジの中で》
1977年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:47.0×61.0cm
シートサイズ:50.0×65.0cm
Ed.100 サインあり

02元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《ひかりでているあかしかく》
1984年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:66.0×46.0cm
シートサイズ:75.2×55.0cm
Ed.150 サインあり

03元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《ノーベル賞オマージュゆかわ》
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一+平賀裕敏)
イメージサイズ:65.7×46.0cm
シートサイズ:76.0×56.0cm
Ed.100 サインあり

04元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《ノーベル賞オマージュ さとう》
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一+平賀裕敏)
イメージサイズ:66.0×46.0cm
シートサイズ:75.8×55.7cm
Ed.100 サインあり

05元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《ノーベル賞オマージュ ともなが》
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一+平賀裕敏)
イメージサイズ:66.0×46.0cm
シートサイズ:75.5×55.5cm
Ed.100 サインあり

06元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《ノーベル賞オマージュかわばた》
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一+平賀裕敏)
イメージサイズ:46.0x66.0cm
シートサイズ:56.0x76.0cm
Ed.100 サインあり

07元永定正 Sadamasa MOTONAGA
《ノーベル賞オマージュふくい》
1983年
シルクスクリーン(刷り:石田了一+平賀裕敏)
イメージサイズ:45.8x66.0cm
シートサイズ:56.0x76.0cm
Ed.100 サインあり

◆ときの忘れものは2015年6月3日[水]―6月13日[土]「元永定正 もこもこワールド」を開催しています(*会期中無休)。
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具体グループで活躍した元永定正は1970年代から本格的に版画制作に取り組みます。本展では1977〜1984年に制作された版画代表作30点をご紹介します。
出品リストは既にホームページに掲載しました。価格リストをご希望の方は、「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してメールにてお申し込みください
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高橋亨「元永定正のファニーアート」第1回 The Funny Art of Sadamasa MOTONAGA

高橋亨「元永定正のファニーアート」第1回(1980年執筆)

The Funny Art of Sadamasa MOTONAGA

▼グタイについて
 1948年の京都では、八木一夫らを中心とする前衛陶芸グループ「走泥社」が7月に誕生したのにつづいて、10月には日本画出身者の前衛グループ「パンリアル美術協会」が三上誠、下村良之助らによってつくられた。太平洋戦争後の美術界に、戦前の前衛の継承とはちがったあらたな勢力が胎動をはじめるきざしであった。阪神地区では54年12月、グタイ・グループすなわち「具体美術協会」が結成されている。以上は関西におけるグループの登場だが、瑛九が「デモクラート美術協会」をつくったのは51年、同じ年東京では山口勝弘福島秀子らの総合芸術グループ「実験工房」がうまれ、55年に河原温、池田龍雄らの「製作者懇談会」が結成された。活動的なグループがあいついで登場したこうした数年は、日本美術の先端が美術団体依存の戦前型から、グループ展や個展を中心とする現代型へ移っていった構造的な転換期であった。また構造の変革と同時に、今日につながる現代美術への道がひらかれていった時期である。のちに戦後新人の主舞台のひとつとなる読売アンデパンダン展が東京都美術館ではじまったのは49年、日本国際美術展と現代日本美術展はそれぞれ52年、54年に第1回展をひらいている。こうしたなかでグループとしてことに注目されるのが具体美術協会である。グタイは72年3月に解散したが、その足かけ18年にわたる活動は、50―60年代における前衛美術の重要な部分でありつづけ、ときにその中枢であった。

1.吉原治良とグタイ
 具体美術協会は吉原治良を代表者とし、最初15人のメンバーをもって結成された。吉原は戦前からの二科会会員ですでに前衛画家として知られた存在であった。1905年大阪市にうまれ、関西学院高商部卒業の年に最初の個展をひらいている。そのころ知遇をえた藤田嗣治のすすめにしたがって34年から二科展に出品をはじめたが、当時から純粋抽象の絵を試みており、その日本における先駆けとしての業績は評価に値いする。また38年に山口長男斉藤義重らと二科に九室会をつくり、昭和10年代における前衛美術運動の一翼をになった活動も見のがせない。こうした吉原はグタイに集まった世代の一まわりも二まわりもちがう新人たちをひっぱって、ひたむきな前衛への志向と卓抜な企画、演出力をもって、つぎつぎと斬新な試みを展開していった。
 グタイの初期の活動のなかで注目されるのは兵庫県芦屋でひらいた2度の野外展(55、56年)大阪、東京の劇場における「舞台を使用する具体美術」(57、58年)および東京の小原会館での第1回具体美術展(55年)などである。それらを通じて、グタイの作家たちが既成の概念を捨て、未踏の道をさぐろうとしたさまざまな実験がみられる。そのうち比較的よく知られているのは、ハプニングという表現形式に先鞭をつけたことである。第1回展において白髪一雄が壁土の泥の山と取り組合をした行為、村上三郎が何重もの紙のパネルにトンネルをあけた体当たり、あるいは舞台における多くの実演は、ハプニングの創始者とされるアラン・カプローも認めるとおり、世界における先駆けであった。この展覧会では、リーダーの吉原も「油絵がじみになってしまった…」と書いているように、タブロー的な作品より、オブジェその他の形式をとるもののほうが中心をしめたということが、初期のグタイの特徴をよく示している。電線でつないだ20個のベルの音が、会場をかけめぐって手元に帰ってくる田中敦子の作品は、聴覚と空間の知覚を組みあわせたきわめて斬新な着想であり、金山明の2つの球体のオブジェは、同僚会員の嶋本昭三が「従来より常識的に処理されていた自己の作品との関係についての新しい試み」と正しく指摘したように、その球のひとつは赤い光を放ちながら、のちのいわゆる環境芸術的な視野を先取りするものといえた。こうしたグタイ作品の新しい思考と着想は、その他野外展などでまだまだ多くの、またときに奇異な、実例をあげることができるが、それらの多数の可能性にみちた萌芽が、その後あまり成熟と発展を示さなかったという事実は惜しまれる。現代の芸術のなかで思想的に深化することなく、いわば着想の段階にとどまってしまったものが多いことは残念だが、思想よりあくまでも行動に訴えようとしたところにむしろ具体美術の本質があった。
 そのことは吉原治良のグタイにおける存在、およびその指導理念と無縁ではない。「私は美術に関して他人に教えるということはしない。作家たちが内包している資質を見つけ出して、賛成したり反対したりするだけだ」といっていた吉原は、グタイの年若い会員たちにただひとことだけ教えた。それは「他人の真似は絶対するな」ということである。指導理念というより信念とよぶべきものであった。そのオリジナリティの要求はたいへんきぎしく、嶋本昭三が前の日よいとほめられた作品に似たものを次の日吉原にみせると、「これはきのう見た」とプイと横をむき、とりつくしまもなかったという。自分があみだした仕事を自分が模倣することも許されなかったという。たえず自己を更新してゆくことは前衛の宿命であり、また創造の生理ともいうべき条件であるから吉原の指摘は正しいが、その要求のきびしさと、それにこたえようとする会員たちのあせりは、思想をそだてるより行動をいそがせたと想像することができる。
 ある文章で吉原は「具体というところは理屈ぎらいなところがある」と半分ひとごとのようにいっているが、嶋本も「吉原治良はもともと議論ずきでなく実戦型であったため、理論派のものはやめる傾向にあった」と回想している。理論より行動、作品が先だとするグタイのこうした姿勢、あるいはその吉原をめぐるグタイのふんいきについて、旧会員たちの次のことばは参考になる。「<具体>には芸術論は無用であった。無言の作品がそれに代わるというのが<具体>であった。」(今井祝雄)「『あかん』と『えーやないか』以外はほとんど作品についての批評はなかった。それは実にはっきりしていて痛烈なものがあった。自分の作品を誰も不思議に説明しなかった。」(名坂千吉郎)「今も実感が蘇るのは、冬のピナコテカ(注・具体美術協会が大阪の中之島に開いた小美術館、グタイピナコテカ)の底冷えと吉原先生のこわかった事であす。搬入した作品の前に先生が来られると、足がガクガクしました。」(堀尾昭子)
 以上は兵庫県立近代美術館が79年冒頭にひらいた「吉原治良と具体のその後」展カタログに、旧会員たちが寄せた“具体と私”という回想文からの引用である。この企画展は吉原治良の遺作と、会員作家の72年グループ解散以後の作品を併陳したもので、リーダーなきあとの会員たちの動向をとらえようとしたものであることはいうまでもないが、この展覧会がもらたした印象は、吉原不在のグタイはありえないということである。グタイは具象的表現を徹底的に排除したのであったが、そうした作品が姿をみせたことなど変化の一端であり、なによりも全体に迫力や充実感がなく、作品相互の質的なアンバランスがめだち、このグループにはやはり足がガクガクするほどの吉原の鋭い目が必要であったことを感じさせたのである。
 美術グループは普通よくにたレベルのものの同志的結合により、いわば横の糸でつながっているものだ。ところがグタイの場合は事情がちがっており、横のつながりが決してないわけではないが、それ以上に代表者吉原治良との関係が強い。結成当時すでに業績と名をあげていた画家吉原にたいし、一般会員たちはほとんど無名の新人で、年齢のうえでも大きな差があった。その新人たちはグタイ・グループにはいることによって、吉原に弟子入りしたようなかっこうになった。グタイの会員たちはいろんな文章のなかで、その多くが「師吉原治良」とかいている。かれらは文字どおり師事したのである。グタイは初めにあげた戦後のグループのなかで例外的なタテ型社会をきずいたグループであった。タテの頂点を失ったとき、つまり72年2月に吉原が亡くなると、翌3月グタイがただちに解散してしまったのは、多少の内部事情はあったにせよ、むしろ当然といわねばなるまい。元永定正が前記“具体と私”において「正規の勉強をしたことがない私にとってそれはかけがえのない美術学校のようだった。具体は無くなったが偉大な作家吉原治良校長先生のもとで学んだ私は此の頃、具体美術学校をやっと卒業したような気持になっている。」とかいたのは適切な表現だろう。
 グタイにみるようなグループのありかたにはおそらく問題があり、リーダーの独裁によってメンバーである個人が抑圧されねじまげられる危険がある。事実吉原を独裁者とみて退会したものもいるわけだが、全体としていえば吉原が自分の考える一方向にグループをひっぱった形跡は認められない。かといって無方向ということともちがうのである。吉原が“先生”であることを否定し、会員作家が本来もつところの資質の開発が自分の役割りといったことばは信じてよいだろう。それはグタイがうんだ多彩な足跡と多種多様な作品が証明している。グタイにおける批評がよい、わるい、という失語症のような単純な表現でのみなされたということはこのことと考えあわせると興味ぶかい。その場合よい、わるいの判定は一定の理論に照らしてうまれるのではなく、ただ作品が体現しまたは内包する可能性を見抜く洞察力がすなわち判断力であった。オリジナルであること、内面にうまれた形のないものを物質を通じ視覚的に具体化することだけを前提として了解しあい、そのうえで発せられるよい、わるいのことばは、無方向ではないと同時に、けっして一方向への意思表明ではないところの、また大阪流ともいえそうな、多くの含蓄をはらんだ言語表現なのだ。吉原の「新しい好い作品を見分ける嗅覚は獣のように鋭かった。」と元永がかいたのも、こうした没理論的判断力のグタイにおけるすぐれた機能を肯定したうえでのことばとして受けとられる。
 いずれにしてもこうした吉原治良とグタイの関係図式は、一面で問題をはらんでいたとしても、そこから世界に通じる多くのしごとをうみだし、現代美術をになうすぐれた作家をそだてたことからすれば、きわめて有効に機能したといわねばならないだろう。そのグタイがそだてた代表作家のひとりが元永定正である。

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元永定正_01_元永元永定正
「作品 水」
1956年
ポリエチレン・チューブ、色水
野外具体美術展(芦屋湖畔)
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


元永定正_02_元永作品元永定正
「作品 のびる(煙)」
1958年
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載
直径1m・長さ30mのポリエチレンの袋が穴からのびる。ファンで風を袋の中に送って赤い煙を入れる。袋に小さな穴があって赤い煙が吹き出ているところ。第2回舞台を使用する具体美術展

元永定正_03_元永元永定正 作・演出
「毛糸人間」
1970年
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載
毛糸のコスチュームから出たひもを引っぱっていくと、しだいに中の人物が露出する。「具体演劇」ともいうべき作品のひとつ。
具体美術まつり(大阪万博博覧会・お祭り広場)

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2.グタイ結成のころ
 具体美術協会は1954年の年末に結成されたが、その2年前ごろから創立会員のひとり嶋本昭三が、紹介によって吉原治良に指導をうけるようになったのがきっかけで、次第に若い無名作家たちが集まりはじめたようだ。吉原の次男通雄も当時新しい試みをはじめており、この嶋本と吉原通雄を中心に「前衛美術協会」がつくられた。当時かれらは神戸や大阪でのグループ展のほか、芦屋市展とゲンビ展というふたつの舞台を中心に活動した。芦屋市展は吉原治良が地元芦屋市で48年に結成し、みずから代表者となった芦屋市美術協会が毎年ひらく展覧会で、いまでは各市に市展とよばれるものがあるが、芦屋のそれは当初から新人の思いきった試みを積極的にとりあげることで注目され、やがてグタイと深いつながりができた異色の市展である。ゲンビ展はこれも吉原を中心に須田剋太、津高和一、中村真、植木茂など関西の前衛的な美術家が、52年に研究会としてつくった「現代美術懇談会」の主催により京阪神でひらかれていた展覧会であり、ひろくさまざまなジャンルをとりいれていた。
 グタイはこの前衛美術協会を前身としてうまれた。ただしその間メンバーの出入りははげしく、具体美術協会ができてからも、その結成には参加しながら展覧会には出品しないまま去ったものも何人かいる。嶋本は「喧騒の中に生れた具体」と、当時のふんいきを伝えているが、結成と同時に刊行をはじめた機関紙「具体」の第1号に吉原治良は「われわれはわれわれの精神が自由であるという證しを具体的に提示したいと念願しています。」とかいた。「具体」というグループの名称は嶋本の発案といわれる。
 ところでこの出発時のメンバーには、のちにグタイの代表選手となる元永定正や白髪一雄の名前はみえない。白髪は当時出品していた新制作展の抽象画仲間と「0(ゼロ)会」という研究会をひらいていたが、かれはゲンビ展にも参加しており、そこで知りあった吉原治良や嶋本のさそいに応じて0会を解散してグタイに加入した。白髪のほか村上三郎、金山明、田中敦子の4人である。白髪はすでに0会のころから足の裏で絵をかくアクションペインティングをはじめていたほか、村上は墨をぬったゴムホースをキャンバスに投げつけたりし、田中は布地だけでシンプルな造形を、金山はモンドリアン式の抽象をおしすすめ、何もかいていないキャンバスだけの作品に達したりしていたということだが、かれらはかれらで、グタイに入会してその「けたはずれのクレージイな仕事」にびっくりしたという。「松丸太で古カンバスをたたいてもみくちゃにした岡田博の作品」や「バイブレーター(電気あんま)に櫛のようなものをとりつけて描」いた鷲見康夫の絵とか「土くれや小石、灰などを使って地べたの一部を切りとって来たとしか見えないような」吉原通雄の作品などである。グタイに参加してから出品しはじめた芦屋市展では「50号くらいの油絵にベニヤ板をかぶせて釘づけにし、…“見せヘン”と板の上に稚拙な書体で書いた」金木義男や「立方体の寒天の塊」で、人がそばを通ると「ぶるぶる震えていた」酒光昇といった若い出品者の仕事にもかれらは驚かされた。ことに大阪弁でかいた「見せヘン」の個人意識は、吉原治良をもはねかえしそうな強烈さである。吉原に認められることを熱望しながら、しかし作品のうえでおべんちゃらをしたわけではないグタイの作家の若い姿をみるような感じがする。以上の引用は白髪が67年7月から12月まで「美術手帖」に連載した「冒険の記録」からである。

3.元永定正の登場
 白髪がエピソードでつづったそのグタイの記録によると「この頃、黒や赤や黄の原色に塗られた丸い石に、麦わらの短い角を植えつけたユーモラスな作品が出品されて人目をひいていた。“漫画を彫刻にしたようなもんや”といわれたが、この作品は具体の重要なメンバーとなった元永定正の出品したものであった。だが彼はまだわれわれの前にその長身をあらわさなかった。」
 それは白髪ら0会から具体入りした4人が初めて出品した55年の第8回芦屋市展のことで、元永がグタイの作家たちの前に姿をあらわすのは同じ年7月にひらかれた「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」の会場である。これは芦屋市美術協会の主催によるものだが、吉原治良の発案にもとずき、またグタイが中心になったから、グタイの第1回野外展といわれている。「冒険の記録」によると、こんなぐあいだったらしい。
―――そこへ1人の背の高い日本人ばなれした大男があらわれて、吉原治良の前に立った。年のわりに深いしわがよった大きな顔に大きな鼻、目はやさしくにこにこしていて、柔和な人なつこい感じがする。「ぼく、元永定正といいますねん。作品はここにぶらさがってます。芦展には、石にむぎわらの角をつけた作品を出して、賞をもらいました」
 彼が指さすところに大きな氷嚢のような、狸の金玉のようなものがぶらさがっていた。それは昼間からみなの目についてはいたが、作者の姿が見えず、元永定正なる人物がどの男なのかほとんどだれも知らなかった。この大きな氷嚢のような作品は、当時まだめずらしかったポリエチレンの布に入れて松の木からぶら下げたもので、水を使った作品としては、世界最初のものであったかも知れない。―――
 その元永の作品は食紅で染めた水をたたえた水の彫刻で、ルビーのように透明に輝いた。それはみんなの賞賛をえて、元永はまもなくグタイの会員として迎えられたのである。

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元永定正_08_元永元永定正
「作品 水」
1955年
30cmくらいのポリエチレン袋に色水を入れて吊るし、ライトの光をあてた。
第1回具体美術展
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載


元永定正_08_元永作品元永定正
1956年
第2回具体美術展
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


元永定正_07_元永元永定正
「作品 石」
1955年
自然石にエナメル塗料を塗って切ったストローをつけた
20〜30cm
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載


元永定正_07_元永作品元永定正
1961年
*画像:『元永定正作品集1955-1983』(1983年、灰塚輝三 発行)より転載


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元永定正_06_元永元永定正
「黄色の裸婦」
1952年
キャンバス、油彩
(20号F)
*画像:『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より転載


 このようにかくと、元永定正はいかにもふらりとやってきて、たちまちグタイのメンバーになったかのように思われるが、じつはもう少し手順をふんでいる。「みづゑ」1973年6月号の吉原治良特集に寄せた元永の「『具体』と吉原治良」によると、53年の第6回芦屋市展に裸婦の絵を出品し受賞したということである。1922年に伊賀忍者の里、上野市にうまれた元永が神戸に移り住んだのは52年で、その翌年から出品をはじめたのだろう。そのころまで主に裸婦をえがいていたようだが、芦屋市展で見たモダンアートの新鮮さに圧倒され、翌年の第7回展には「我流でほんのなぐさみのつもりでかいたアブストラクトの絵と彫刻」を出品したのが、新聞の地方版に写真入りで紹介され審査委員長吉原治良のほめことばがのった。しかし吉原の印象にのこったのは、白髪の記憶と同じく第8回展の作品であったらしく、のちに61年東京画廊での元永の個展カタログに吉原は「1955年6月、私は芦屋市展の応募作品の中に数個の着色された石ころの作品を発見した。」とかいている。伊賀上野で官展系の画家浜辺万吉に絵の手ほどきをうけていた元永は、当時から美術雑誌でしばしば吉原の作品に目をとめ「俗に吉原人形といわれていた頃の、顔の小さな細長い色の綺麗なセミアブストラクトの作品は大好きで、こんな作家には是非会いたいと思っていた私」であったという。

(たかはしとおる 続く)
第2回は6月4日
第3回は6月6日に掲載します。

*『元永定正』(1980年、現代版画センター発行)より再録掲載

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『元永定正』
1980年2月10日
現代版画センター 発行
60ページ
22.0x11.0cm
執筆:金関寿夫、高橋亨

高橋 亨 Takahashi Toru
1927年神戸市生まれ。美術評論家、大阪芸術大学名誉教授。
東京大学文学部を卒業後、1952年に産経新聞大阪本社に入り、文化部記者として主に展覧会評など美術関係を担当して11年後に退社。具体美術協会の活動は結成直後から実見し、数多くの批評を発表。美術評論活動を続けながら1971年より26年間、大阪芸術大学教授を務める。兼務として大阪府民ギャラリー館長(1976―79)、大阪府立現代美術センター館長(1979―87)。
大阪府民ギャラリーでは、具体解散後初の本格的な回顧展「具体美術の18年」(1976)開催と、詳細な記録集『具体美術の18年』の発行に尽力。その他、徳島県文化の森建設顧問として徳島県立近代美術館設立に参画し同館館長(1990―91)、滋賀県立近代美術館館長(2003―06)を歴任。

*画廊亭主敬白
本日から3回(6月2日、4日、6日)にわけて、35年前にご執筆いただいた「元永定正のファニーアート」を再録掲載します。
再録の許可をいただくために、久しぶりに高橋亨先生に電話しました。お歳をめしたとはいえ、はりのある声でお元気な様子でした。ますますのご健勝を祈る次第です。

◆ときの忘れものは2015年6月3日[水]―6月13日[土]「元永定正 もこもこワールド」を開催します(*会期中無休)。
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具体グループで活躍した元永定正は1970年代から本格的に版画制作に取り組みます。本展では1977〜1984年に制作された版画代表作30点をご紹介します。
出品リストは既にホームページに掲載しました。価格リストをご希望の方は、「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してメールにてお申し込みください
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ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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