八束はじめ・彦坂裕「建築家のドローイング」

建築家のドローイング第15回 ル・コルビュジエ(最終回)

リレー連載
建築家のドローイング 第15回
ル・コルビュジエ(Le Corbusier)〔1887−1965〕

八束はじめ


 既にとりあげられたフランク・ロイド・ライトと共に20世紀を代表する建築家であるル・コルビュジエは、後半生をフランス国民として過したが生まれはスイスの時計つくりの村ショー・ドー・フォンであり、そこの美術工芸学校からキャリアをはじめた。ル・コルビュジエとは、パリに出て画家オザンファンの知己を得、共に絵画運動「ピューリズム」を創設し、またシュール・レアリスト、ポール・デルメーと三人で雑誌「エスプリ・ヌーボー」をはじめたころからのペンネームであり、本名はシャルル・エドゥアール・ジャンヌレという。しかしパリに殆んど無名で出てきたスイスの田舎出の若者は、この一風変ったペンネームで発表した数多くの文章の刺激的で詩的なプロパガンダ性によって、そしてその予言的な調子を裏書きするパリの大改造プロジェクトや最初はドミノとかシトロエンと名づけられたモデル住宅のプロジェクト、そして筆名の高揚よりやや遅れてでてきた白いキュービックな、いわゆる「豆腐の角を切った」ような住宅群によって一躍時代の寵児となって、以後のほぼ半世紀近くそのペンネームによって世界の巨匠としてのステータスを保持しつづけていった。ヨーロッパの教養人なら、この巨人の名は、例えば美術におけるピカソのように、誰でも知っている(日本でそうでないとしたら、それはこの国におけるこれまでの建築への相対的無関心の証しでしかない)。彼が戦後の復興事業の核として手がけた巨大なアパートの連作ユニテ・ダビタシオン(マルセイユ、テント、フィルミニー、ブリ・アン・フォレそしてベルリンにつくられた)は現地の市民たちには戦前の彼の都市計画のタイトルを冠して「輝く都市」と呼ばれ誇りの対象であり、観光名所ともなっている。

輝く農家
ル・コルビュジエ Le Corbusier
「輝く農家」

 前述のようにこの巨匠はパリでのキャリアをむしろ画家としてスタートさせている。彼はあくまでデザイナー、建築家、技術者としてのトレーニングを受けたのだったが、パリでキュービズムをはじめとする前衛芸術運動に触れて自からの建築的な造型も変化させると共に、オザンファンの刺激によって絵を描きはじめた。以降死ぬまでの年月、彼は主として午前中を絵筆をとる時間にあてたのだった。もっとも「ピューリズム」の画家として登場する以前からも若きジャンヌレは例えばヨーロッパや小アジアへの旅行に際して尨大なスケッチ群を残している。そこで描かれているのは異国の街並みや建物、そして人々のざわめきや工芸品であった。そこでの主題は人々の生活であり、その詩情である。彼は19世紀的なヨーロッパ・ブルジョアジーの虚飾に満ちた生活やそれを彩る建築や装飾を嫌悪したが、東方の人々の千古の昔から変っていない素朴な生活やそのための日用品はこよなく愛した。後にナチス・ドイツなどの右翼民族主義者たちからキュービックで白い彼の住宅がムーア的(つまり非アーリア的、非ヨーロッパ的)と呼ばれたのは故なきとはしない。この性向はピューリズムの絵にもそのまま引きつがれている。彼は年長のピカソを尊敬し、長い交友関係を結ぶことになるが、この当時のキュービズムは彼には既にエピゴーネンによる抽象的技巧主義と見えた。ピューリズムではキュービズムの手法が多く引きつがれるが、そこでは常に彼がobjet-type(典型的なもの)と呼んだ、人々の生活に直結する水さしやコップなどがテーマとされた。彼の関心では常に新精神(エスプリ・ヌーボー)によって光をあてられた簡明率直な生活の詩であり、それは建築のスタイルが初期の「住居機械」と呼ばれたキュービックなものから後期のより彫刻的でマッシブなものへと移行しても変りがなかった。
 このことは、建物のスタイルと関りなくドローイングのスタイルは一貫していたことからもある程度伺い知ることができる。彼のドローイング、とくにインテリアのそれでは常に逞しい素朴な人間像が描かれている。それは18世紀の啓蒙期以来の「高貴な蛮人」のテーマの踏襲である。だが、それは同時に「新精神」によって武装されているのだ。逞しい人体の有機的な曲線は、しかしル・コルビュジエにとって住居機械の精確な直線と矛盾するものではなかった。何故乱ら両者を支配するのはギリシアの黄金比以来の正しく美しいプロポーションのシステムだったからである。彼はそれを後にモジュロールと呼ぶシステムにまとめた。それは片手を太陽に向けて伸ばした人体像の各部のプロポーションを基に展開されたシステムであり、ル・コルビュジエはこのシステムを建物の各部に用いつづけた。後期の、より逞しい、殆んど人間の素足のような柱脚をもち、肉感的なカーブをもった建物に対しても同様である。数学的な精確さと官能的な詩情との間には、この巨匠にとって、如何なる違いもなかったのかもしれない。

チャンディガールの「開いた手」ル・コルビュジエ Le Corbusier
チャンディガールの「開いた手」

 因襲的なアカデミズムは生涯を通じてル・コルビュジエの敵としたものだが、ボーザール流の手のこんだ大時代的な図面表現もまた彼のものではなかった。彼のドローイング・スタイルはペンの簡潔な線と簡単な色彩とだけから成り立っている。自からもまた敵からも「裸」のと形容されたそのスタイルにふさわしく、裸形の建築に陽光だけがふりそそぎ、緑が縁を飾る、そんなイメージだけをそれらのドローイングは送りつづけた。それはフリーハンドのスケッチにしても定規を用いた透視図にしても同じであった。大げさな線や派手派手しい色彩などは「新精神」にとっては無用の抜けがらに過ぎないのだ、とそれらのドローイングは語る。このスタイルはル・コルビュジエ・スタイルとして多くの若い建築家たちの真似る対象ともなった。例えばイタリアの夭逝した天才建築家ジュゼッペ・テラーニのドローイングは全くル・コルビュジエのそれの引き写しであるといってもよいし、この巨匠に深く私淑した丹下健三のかつてのドローイング・スタイルもまたそうである。例えばライトの場合にはそのスタイルを真似たのはほんの一部のエピゴーネンに過ぎない。このシリーズにとりあげられた他の建築家たちの場合にしてもそうである。それはおそらくル・コルビュジエのドローイングのスタイルが格別美しかったからというのでも。ましてや真似するに易しかったからというのでもない。多分それは、ル・コルビュジエのドローイング・スタイルは、ル・コルビュジエ本人と同じく最も典型的に時代の理想像を示していたから、つまり時代が最も待望していた太陽と緑と数学の詩学を体現していたからに他ならないのではないか?
 建築家としてのル・コルビュジエのスタイル上の変貌にも拘らず、彼のドローイング・スタイルは一貫してピューリスト的であったということは、ドローイングが建築に対して付帯吋な立場にしかないということで看過してよい問題ではない。筆者にはそれはしばしばいわれるル・コルビュジエの変貌の中に、単なるドローイング・スタイルのそれを超えて一貫したものがあったことの示唆と思える。思えば初期の「住居機械」の要素も後期のいわゆる「ブルータリズム」の肉感性もピューリズムの絵画に共に存在していたのである。それはこの20世紀最大の巨人がもう一人の巨人ピカソと共に最後のユマニストであったことの証しであったとは読めないか? 彼らの生涯にはスタイルの変転を超えた人間への信頼と愛情が一貫している。

シトロアン・ハウスル・コルビュジエ Le Corbusier
「シトロアン・ハウス」


国際連盟ル・コルビュジエ Le Corbusier
「国際連盟」


やつか はじめ

*現代版画センター 発行『Ed 第105号』(1985年1月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載

・「輝く農家」
・チャンディガールの「開いた手」
・「シトロアン・ハウス」
・「国際連盟」

現代版画センター 発行『Ed 第105号』

ル・コルビュジエ
33_corbusier_unite-11〈ユニテ〉より#11b

1965年
カラー銅版画
57.5×45.0cm
Ed.130  Signed
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

*画廊亭主敬白
建築家のドローイング」は今回が最終回です。
今から約34年ほど前、亭主が主宰していた現代版画センター の機関誌に当時新進気鋭の建築家だった八束はじめさんと彦坂裕さんのお二人に「建築家のドローイング」を連載していただきました。
磯崎アトリエに在籍していた八束さんを「あいつは優秀だから」と磯崎新先生に紹介され、執筆をお願いすると「毎月はたいへんだから、友人の彦坂君と交互に書くのなら」とリレー連載が決まりました。
第一回のジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージから始まった連載で取り上げる建築家の人選はお二人が相談して決め、第15回はル・コルビュジエでした。
お二人の心づもりではこの後も続けるはずだったのですが、亭主の突然の破産ですべてが中断してしまいました。原稿料も大半が未払いだった。悔やんでも悔やみきれない。
以来、亭主の胸に骨のように突き刺さっていたのが、この未完の大連載でした。
お二人にはブログへの再録を快く承諾していただき、毎回丁寧に校正もしていただきました。
彦坂裕さん、八束はじめさん、そして30数年前の原稿をテキスト化し、画像を新たに付け加えてくれた芳賀言太郎さんに、心より感謝いたします。
ほんとうは、彦坂さん、八束さんのお二人に第16回以降も書き継いでいただきたいのですが、それは若い世代にお任せしましょう。
偶然ですが、来月から倉方俊輔さんと光嶋裕介さんによる「悪のコルビュジエ」と題した新連載が始まります。これについては後ほど詳しくご案内します。
長い間のご愛読、ありがとうございました。

新年早々、銀座のギャラリーせいほうで開催していた「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」が21日に無事、大盛況のうちに終了いたしました。
磯崎新、安藤忠雄、難波和彦、山本理顕ら日本を代表する建築家はじめ、お二人の幅広い人脈を反映して連日たくさんのお客さまがいらしてくださいました。
お二人の新作エディションの発表展でしたが、おかげさまでたくさんの方にお買い上げいただきました。銅版、シルクスクリーンとも展覧会に間に合わせるため各1部づつ刷っただけなので、これからご注文いただいた分を超特急で刷り師に刷っていただかねばなりません。嬉しい悲鳴です。
---------------------------------

本日の瑛九情報!
〜〜〜
先日1月19日のブログのアクセスが突然急騰しました。
何のことかわからずアクセス解析をみると2011年11月14日の「大野の堀栄治さん訃報」という記事が原因でした。
世間的には全く無名な堀さんの5年も前の訃報記事がなぜ?
その日「石山修武・六角鬼丈二人展」の展評原稿を届けてくれた植田実先生からの情報でやっと謎がとけました。19日の朝のNHKテレビが福井県大野の堀さんの映像を放映したらしい。亭主はテレビがないのでまったくそういう情報には疎い。
まったくの偶然ですが、先日から瑛九の会を担った人たちを順次ご紹介していて、今日とりあげる堀さんもその一人です。
1965年、瀧口修造らを発起人として結成された瑛九の会は、機関誌『眠りの理由』の発行を軸に、展覧会や頒布会の開催、石版画総目録の刊行など、瑛九顕彰に大きな役割を果たしました。
福井県大野市の堀栄治さん(2011年没)は久保貞次郎の唱導した創造美育運動に参加した教師の一人でした。
瑛九の晩年に木水育男さんが組織した頒布会の中心メンバーであり、自らも大野で瑛九頒布会を独自に組織し、大野に多くの瑛九作品をもたらした大功績者でした。
瑛九没後も、堀さんは瑛九周辺の作家たちー池田満寿夫、泉茂、オノサトトシノブ北川民次ヘンリー・ミラー、キムラ リサブロー、靉嘔たちを支援し続けました。
中でも靉嘔先生の作品頒布には精力的に取り組み、美術館はもちろんギャラリーすらない人口僅か3万5千人ほどの山間の町で、靉嘔やフルクサスの大展覧会を組織しました。
大野3
2004年5月8日〜16日に多田記念大野有終会館で開催された「虹のふるさと大野 靉嘔展」のオープニングにて。
中央が靉嘔先生、右のベレー帽が堀栄治さん

堀栄治と令子2006年
2006年大野の堀さん宅にて
堀栄治さんと社長

堀さんの功績の一つとして忘れてはならないのは『福井創美の歩み』(1990年10月初版、2007年5月第5版発行)という手作りの記録集を残されたことです。
福井における創造美育運動、ひいては小コレクター運動の詳細な日録です。これについては明日詳しくご紹介しましょう。
〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

建築家のドローイング 第14回 ヤコブ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ

リレー連載
建築家のドローイング 第14回
ヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ(Yakov Georgievich Chernikhov)〔1889〜1951〕

彦坂裕



 彼は遅れてやってきた、それが定説であった。
 無論、それにはいくつかの意味が込められているように思われる。たとえば彼は、レニングラード(当時のペテルスブルク)の帝室美術アカデミー在学中に絵画から建築へと転身し、戦争や政治体制の激変をはさみながらもアカデミーを卒業し世に出たのは1925年、すでに35歳の年であった。ほぼ同年生れのギンスブルグやリシツキー、さらにはかなり年下のレオニドフといった、もうその時代においてロシア・アヴァンギャルドとして汎西欧的にも名を知られ、活躍していた人材と比べると、文化運動へのコミットメントにおける後発感は決してぬぐえるものではなかった。

摩天楼の宮殿
ヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ Yakov Georgievich Chernikhov
「摩天楼の宮殿」

 またその後も彼は主として地味な教職や実務建築家として活動し、当時のソヴィエト建築のインテリゲンチャ(OSAやASNOVAのモダニスト、ジョルトフスキーやシュセフといったアカデミスト、あるいはロレイトやドミトリエフのような建築技術者たち)とも、また彼がその生涯を送ったレニングラードのモダニスト・スクールを築いた活動家たちとも孤立した存在であった。その意味では、やはり同じプロレタリアート出身のめざましい造型能力をもった孤高の建築家メルニコフのシチュエーションと似ていなくもない。周知のように。20年代初頭のソヴィエト・ロシアにおける建築の「構成主義」(Constructivism)には、実際、大きく二つの方向が認められた。一つはヨーロッパ機能主義にも近い、技術主義・社会生産主義を信奉するグループ、これはヴェスニンやギンスブルグを中心とするOSA(現代建築家協会)で、いわば急進的な構成主義運動の推進主体でもあった。彼らは往々にして芸術否定にも走ったが、建築形成の基礎を効用性や社会需要の問題と同時的に捉えていた。革新的な機関誌『SA』によって、その運動は喧伝されている。もう一つは形態合理主義・フォルマリスムを信奉するグループ、これはラドフスキー主導のASNOVA(新建築家協会)で、知覚や心理分析、さらに写実美術的なものを総合的に開発する表現性に豊んだ運動を展開した。20年代末のVKHUTEMAS(ヴフテマス)(高等技術学院)での教育の基盤をこのグループがつく力上げたことはよく知られている。一方、レニングラードへと眼を向ければ、「ZHIVSCULPTARKH」グループ(それはASNOVAの母体でもあった)の表現主義性やマレーヴィッチの影響(「シュプレマティズム立体構築」の実験はこの地で行なわれた)が支配的であり、反芸術的なプロパガンダはここではそれほど縁があったものとは言えなかった。遅延した彼の、これまたいささかアナクロニスティックな芸術至上主義――周知のように、20年代はイデオローグやプロパガンディストの時代であり、芸術のセンスで建築を語る時代ではないとはよく言われることばだ――も、こうした非社会的な形態の実験と容易に馴じんでいったものと考えてもいいのではないだろうか。

荘厳なモノリスヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ Yakov Georgievich Chernikhov
「荘厳なモノリス」

 彼、ヤコフ・G・チェルニホフは、遅れてやってきた。にもかかわらず、いやそれ故にこそ、彼はロシア構成主義のフォーマルな特質とその可能性を十全に開発したのみならず、表現上の驚くべきほどの明晰な形態構築方法を実験的に探求し得たのであった。彼の「構成主義」とは、まさに構築形態文法そのものであり、他の進歩的な構成主義者たちのように、それをある世界観を具体化する総合的なデザイン哲学のひとつのプロセスとしては考えなかった。他の構成主義者たちは、しかしそれ故に、次々と社会に裏切られていく運命にもあったのだ。社会の変化は、彼らの運動よりも迅速だった。新しい社会のために描いた新しいフォーマルな言語は、宙吊られたまま歴史に残留してしまったのである。だが、表現とその方法論、そして教育という文脈の上でしか、いや伝統的な芸術の系譜上でしか構成主義を考えなかったチェルニホフは、逆説的に、構成主義言語の自律性を見事に提示してしまうという結末を招来したのである。

建築ファンタジー第66番ヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ Yakov Georgievich Chernikhov
「建築ファンタジー第66番」

 チェルニホフは生涯で公刊・未公刊合せて50冊以上の著作と17,000にものぼるデザインドローイングを残した。すでに在学中より〈ソヴィエトのピラネージ〉の名を博し、卒業後の展覧会でもセンセーショナルな評価を得たが、1930年を前後して出版された精力的な著作に彼の思想はほとんど要約されていると言っていい。すなわちそれらは、『現代建築の基礎』(1930年)、『建築形態と機械形態の構築』(1931年)、そして『建築ファンタジー、101の構成』(1933年)などであり、これらはいずれもチェルニホフのテーマでもある〈複合形態が構築される諸原理の分析・体系化〉や、〈構築形態文法を学習し得るような教育・トレーニングメソッド〉を余すところなく伝えている。

建築ファンタジー第80番ヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ Yakov Georgievich Chernikhov
「建築ファンタジー第80番」

 もともとグラフィックの領域で出発した彼は、正統な芸術のコンテクストにのったシュプレマティズムの問題性をグラフィックのイデオロギーとして考えた。プライマリーなものからより高度で複合したものを生成するプロセスは、純粋な建築規範のシステムそのものともなる。それは、形態生成の透徹した科学へと向かう情熱にもほかならない。もちろん、いわゆる非対象的(ノン・オブジェクティブ)なフォルムも、彼日く「ファンタスティックな形態の構築系をつくる」ことに寄与するというわけだ。
 選別された形態エレメントのあらゆる相関性と結合、さらに構成における特定の意味をもつ形態の排除、それはチェルニホフによる新たな調和の原理であり、反古典的な原理でもあった。いわば古典建築に見られる〈反復のリズム〉は、より現代的な〈関係性のリズ
ム〉に置換される。それはまた革命建築の本質を形成する重要なファクターだと言ってもいいだろう。
 「構成主義の基本となる要素は、構造体をつくり上げようとするあらゆる要素の可能な限り多様な結合である」と彼は書く、「(象嵌、包囲、歪曲……といった)これら全ての基本的な関係性は、本質的に単純ではあるが複雑な組合せをつくり出すことができ、それが産む形の洗練さや豊かさはわれわれを驚かす」(「構成主義の基礎」『建築形態と機械形態の構築』より)

建築ファンタジー第28番ヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ Yakov Georgievich Chernikhov
「建築ファンタジー第28番」

 おそらく、われわれはここに最近のオプ・アートやコンピュータ・グラフィックスにも通底するドローイング原理を垣間見ることができるかも知れない。事実、幾つかの彼のドローイングには、明らかにそのような類似性(先見性)が現れている。汎用性に富むアクソノメトリック図法も、随所で多用される。
 もっとも、これらの構築原理は、ASNOVAのフォルマリストたちの探求に負っている部分も多くあるのと同時に、『アーキテクチュラル・デザイン』誌の編集委員でもあり、近年この分野の研究のオーソリティと言ってもいいキャサリン・クック女史が語るように、その形態変形の思想はOSAのギンスブルグのそれにも架橋しうるものであるとすれば、チェルニホフの業績は本質的に革命後ロシアの現象であると共に、またすこぶるユニヴァーサルでコスモポリタン的な現象でもあるという両義性をも示すものだと言うことも可能だろう。
 レンダリングの方法を教育システムにのせて普及させることは、その単純化された技術的表現のプロセスともどもに、大衆への接近として認識された。建築計画の表現方法上の簡略化、標準化、迅速化されたものの発見への切実な要求は、社会主義建築のテンポの速さにも対応していたと言っていい。したがって、チェルニホフのテーマは、この社会主義建設期の創造的個性を飛躍的に拡大する方法でもあるはずであった。
 32年の党中央委員会の芸術家の組織統合に関する公布以来、単一化された建築家同盟の発足や社会主義リアリズムの進展による革命言語の払拭・隠弊は、次第に顕著なものになっていった。チェルニホフはそれ以後も失脚することなく、生涯レンダリング・デザイン
の第一人者として教壇に立ち続けた。その間も未来の建築を私的な世界のうちに描くことを、彼は止めていない。だが、社会的な意味内容を失ったレンダリングは、ますますその象徴色を強めていく。その中には、中世ロシアの古風なスタイルやバビロン、新石器時代を惹起する夢想的なものも多く含まれている。彼にとって、伝統とは不変の価値の宝庫でもあったのだ。
 チェルニホフのドローイングは、本質的に、着彩で見なければいけない。その革新的な構成の背後には、中世ロシアの多色装飾をもつ建築やレニングラードの色付いた街が覗いている。今世紀の最も急進的なアヴァンギャルド運動の最期の精華も、この国独自の固有な歴史的文脈に位置付いているのだ。

建築ファンタジー第84番ヤコフ・ゲオルギーヴィッチ・チェルニホフ Yakov Georgievich Chernikhov
「建築ファンタジー第84番」


ひこさか ゆたか

**現代版画センター 発行『Ed 第104号』(1984年11月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載

・「摩天楼の神殿」
http://archiveofaffinities.tumblr.com/post/4383046325/iakov-chernikhov-skyscraper-palace-composition
・「建築ファンタジー第28番」
http://www.dataisnature.com/?p=1653
・「荘厳なモノリス」
・「建築ファンタジー第66番」
・「建築ファンタジー第80番」
・「建築ファンタジー第84番」
現代版画センター 発行『Ed 第104号』

■彦坂 裕 Yutaka HIKOSAKA
建築家・環境デザイナー、クリエイティブディレクター
株式会社スペースインキュベータ代表取締役、日本建築家協会会員
新日本様式協議会評議委員(経済産業省、文化庁、国土交通省、外務省管轄)
北京徳稲教育機構(DeTao Masters Academy)大師(上海SIVA-CCIC教授)
東京大学工学部都市工学科・同大学院工学系研究科修士課程卒業(MA1978年)

<主たる業務実績>
玉川高島屋SC20周年リニューアルデザイン/二子玉川エリアの環境グランドデザイン
日立市科学館/NTTインターコミュニケーションセンター/高木盆栽美術館東京分館/レノックスガレージハウス/茂木本家美術館(MOMOA)
早稲田大学本庄キャンパスグランドデザイン/香港オーシャンターミナル改造計画/豊洲IHI敷地開発グランドデザイン/東京ミッドタウングランドデザインなど

2017年アスタナ万博日本館基本計画策定委員会座長
2015年ミラノ万博日本館基本計画策定委員会座長
2010年上海万博日本館プロデューサー
2005年愛・地球博日本政府館(長久手・瀬戸両館)クリエイティブ統括ディレクター

著書:『シティダスト・コレクション』(勁草書房)、『建築の変容』(INAX叢書)、『夢みるスケール』(彰国社)ほか


本日の瑛九情報!
〜〜〜
瑛九の浦和にアトリエには多くの若い作家たちが訪れます。学生時代の磯崎新(建築家)もその一人です。
瑛九が結成した「デモクラート美術家協会」が1951〜1957年の活動期間を終え、解散したきっかけは会員の泉茂が第一回東京国際版画ビエンナーレ展で新人賞を受賞したことでした。
1957年に国立近代美術館と読売新聞社の共同主催で開催された第1回東京国際版画ビエンナーレ展はアメリカを始め世界中で版画制作が大きな関心を集めていた時代であり、60年代の「版画の時代」の幕開けを告げる大規模な国際展でした。
同展は池田満寿夫など国際的スターを生みますが、やがて当初の熱気が冷め、その存在意義が問われていき、1979年の第11回をもって終了します。
その最後のビエンナーレ展で受賞したのは河口龍夫(北海道立近代美術館賞)、李禹煥(京都国立近代美術館賞)、榎倉康二(東京都美術館賞)と、意外に思うかも知れませんが磯崎新(佳作賞)でした。
20150219_isozaki_17_naibuhuukei磯崎新 Arata ISOZAKI
内部風景III 増幅性空間―アラタ・イソザキ
1979年  アルフォト
80.0x60.0cm
Ed.8  サインあり
*第11回東京国際版画ビエンナーレ展受賞作品

第1回展で泉茂が華々しく受賞し、最後の第11回では磯崎新が版画の概念を大きく逸脱したアルフォト(金属板)によって受賞しました。不思議な因縁を感じます。
〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。

建築家のドローイング 第13回 イワン・レオニドフ

リレー連載
建築家のドローイング 第13回
イワン・レオニドフ(Ivan Leonidov)〔1902−1959〕

八束はじめ


 20世紀のアヴァンギャルド芸術は政治、思想上のアヴァンギャルドとの両義的な結びつきをその大きな特徴としている。新しい芸術言語の獲得が、新しい社会空間への熱望と重ったというわけだが、こうした特質が建築というジャンルにある特権性を与えた。このことは芸術言語の最も透徹した革新者であったピエト・モンドリアンやカシミール・マレヴィッチらが建築に対して抱いていた感情によっても証し立てられるのだが、その意味で革命ロシアの建築とはアヴァンギャルド運動全体の精華たるべき位置を担っていた。しかし建築は、絵画や音楽とは違って、その実現に社会的、経済的及び技術的な制約が課せられる。最初のものは熟しすぎていたとすらいえるが、後二者はそれに反して革命後のソヴィエト=ロシアには充分備っていたとはいい難いものであった。無論ソヴィエト=アヴァンギャルド建築にも少ないとはいっても全体を合計すればかなりの数にのぼる実現例をさがすことはできる。しかし、傑出した作品もあるにせよ、そのうちのすべてが成功作とはいえないし、前述の制約から充分な効果を挙げているとはいえないものも少なくはない。多くのイマジネーションは――この時代のロシアにはきら星の如く才能が輩出したのだった――紙の上にとどまらざるを得なかったのである。構成主義に代表されるロシア・アヴァンギャルド建築は、そうした理由もあって、夥しい数のドローイングを産み出した。質、量共に圧倒的なものであるといってよい。彼らのスタイルは、西欧の新建築と基本的には同じ途を辿るものではあったが、幾何学的なモンタージュによるよりダイナミックな機械の隠喩性が強い。ドローイングもそうした修辞的な特性に呼応して、大胆に面のコントラストを強調したロシア的迫力に満ちたものが多い。革命の熱気とプロレタリアートを主役とする機械文明へのロマンティックな期待感がそこには漲っている、といってもよいだろう。

重工業イワン・レオニドフ Ivan Leonidov
「重工業省計画」

 しかし、これらのアヴァンギャルドたちの多士済々の中でもとりわけ異彩を放つ人物がいた。1902年生れの若いレオニドフである。彼は師匠格のヴェスニン兄弟や構成主義の理論的指導者であったギンズブルグらとは違って、革命後にその建築教育を受けた世代に属する。彼はドイツのバウハウスに相当するモダニズムの拠点、高等芸術技術学院(Vchutemas)でトレーニングを受けた。前述のヴェスニン兄弟の他に、構成主義とは一線を画すもう一つのアヴァンギャルドの潮流フォルマリストたちの領袖ラドフスキーもまた彼の教師の一人であった。彼は構成主義/フォルマリスト両派の特質を新たな言語の統一へと導くロシア・アヴァンギャルドの文字通り希望の星であった。彼の才能が喧伝されたのは、その卒業制作レーニン研究所計画(1927年)である。モスクワ市街を見おろす丘上に想定されたこの建築群の計画において、レオニドフはそれまでの構成主義者たちのスタイルとは全く違った独創的スタイルを呈示した。各々の機能によって分節された建築群は、一つ一つが極めて簡略化された幾何学的なエレメントにまで還元されている。そこには大きなオーディトリウムを内包する球形の建物が宙に浮かぶかの如き状態で設置されるという驚くべきヴィジョンまでもが示されていた。機械の隠喩やダイナミッタだがやや過多ぎみでもある構成主義特有の分節癖はそこではもはやマレヴィッチのシュプレマティズム的な「至高の言語」に場所を譲っている。マレヴィッチ自身が建築デザイン(といっても抽象的なプログラムの)に手を染めた作品がむしろアール・デコ的な装飾に近いものになっていったのに比べても、レオニドフの厳格な言語構成は全く新しいものであった。師のヴェスニンがこの計画案の模型を、讃嘆のあまり自宅にもち帰ってしまったというエピソードもうなずけるデザインである。このスタイル上での革新性はまたドローイングのスタイルの上でも共通している。レオニドフのドローイングでは、一切のディテールやテクスチャーや陰影は省略され、最も本質的な輪郭のみに限定されてしまっている。彼が好んで用いる白黒反転の手法はそれをより強調している。そこではもはやドローイングのメチエ的な要素、手の痕跡もまた一掃されているのだが、にも拘らず全体としてのスタイルは全く個性的である。

文化宮殿2イワン・レオニドフ Ivan Leonidov
「文化宮殿計画」

文化宮殿

文化宮殿3

 レオニドフはこの独自のスタイルを建築から更に都市のスケールにまで展開した。彼の20年代後半のプロジェクトは、無限に延伸していくロシアの大地の上に展開される至高のオブジェの構成として示される。それは都市と田園との対立を超えた新しい地平のイメージを具体的に示すものであり、ピラミッドのような古代の言語と飛行船に代表される最新鋭のテクノロジーのイメージとが、あらゆる対立の彼岸のうちで融解していた。
 レオニドフのスタイルが建築のスタイルなのかドローイングのそれなのか殆んど見分けがつかないものであったという事実が、技術、経済性と並んで、彼のプロジェクトの実現性をあやぶませるものであったことは否定できない。しかし彼は短いその実質的なキャリアの最後期に、実際の建物のデザイナーとしても比類のない天才であることを呈示してみせた。重工業省のコンペ応募案がそれである。ここでも基本的なコンポジションはそれまでと同様にシュプレマテイスト的であり、その幾つかのタワーのシルエットは隣接するクレムリンの聖ワシリー寺院と著しい対照を示してはいるのだが、これまでのプロジェクトとは違って建築的な細部が克明に画きこまれている。おそらくは、実現性をめぐって既に声高く叫ばれていた彼への批判に対する答として提出されたこの計画は、モダユテイと口シア的なイコン性との異様な結合を示している。それをモダンでないということは誰にもできはしないが、ただモダンであるとだけいうこともできない。一切が比類のない造型力のうちに昂進されてしまっている。そのドローイングもそれまでの線描主義とは当然違っているが極めて美しく構図化され、淡い彩色が付され、彼のドラフトマンとしてのメチエの高さを示している。
 この時代の寵児の不運はあまりに遅くかあまりに早くかに生まれすぎたことであった。その独創的なプロジェクトを実現する機会を殆んどもたぬまま、レオニドフの名はスターリン独裁下の建築分野での覇権をめざす者たちの第一の標的となった。構成主義とフォルマリズムの統合としての彼のスタイルは、その悪しき部分の統合であると烙印を押された。レオニドフのキャリアは実質的に10年にも満たず、彼はその人生の残りをアルコールに溺れることで過した。時折描かれるスケッチも、それ以上のまとまった形への展開は許されなかった。道路を隔てた酒屋へ運ぶ定まらぬ足元と一台の車の不幸な出会いが、この天才の満たされぬ後半生を断ち切った。その損失の大きさに気づいた者は、当時誰もいなかったはずである。

レーニン図書館計画イワン・レオニドフ Ivan Leonidov
「レーニン図書館計画」


やつか はじめ

*現代版画センター 発行『Ed 第103号』(1984年9月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「重工業省計画」
http://lost-vanguard.livejournal.com/3267.html
「文化宮殿計画」
https://www.google.co.jp/url?sa=i&rct=j&q=&esrc=s&source=images&cd=&ved=0ahUKEwjpkvfT-8fPAhUDmJQKHSOACrMQjhwIBQ&url=http%3A%2F%2Fdavidhannafordmitchell.tumblr.com%2Fpost%2F97467492123%2Fivan-leonidov-kulturpalast-moskau&psig=AFQjCNG60YbEi2_Td9OE9stvK_xiaUVPXQ&ust=1475904678699173
「レーニン図書館計画」
現代版画センター 発行『Ed 第103号』

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

●本日のお勧め作品は、内間安瑆の珍しい銅版と木版の併用作品です。
内間安王星_WINDOW NUANCE(ROSE) _600内間安瑆
《WINDOW NUANCE (ROSE)》
1978年
銅版+木版
イメージサイズ:30.0×22.0cm
シートサイズ:37.5×28.5cm
A.P. サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

本日の瑛九情報!
待望の<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日〜2017年2月12日)。瑛九命の亭主としては大宣伝して顕彰に少しでもお役に立ちたい。会期終了まで瑛九情報を毎日発信したいと思います。
国立近代美術館が瑛九単独の回顧展を開くのは今回が初めてですが、瑛九が死去した1960年3月10日から僅か2ヶ月にも満たない4月28日から急遽瑛九回顧の展示を敢行したのが今泉篤男率いる国立近代美術館でした。
四人の作家1960 表紙
「四人の作家」展目録
会期:1960年4月28日―6月5日
国立近代美術館
出展作家:菱田春草、瑛九、上阪雅人、高村光太郎
没後直後のドキュメントをお読みください。

◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。

建築家のドローイング 第12回 ヒュー・フェリス

リレー連載
建築家のドローイング 第12回
ヒュー・フェリス(Hugh Ferriss)〔1889−1962〕

彦坂裕


 時代と寝た都市があるとしたら、1920年代のニューヨークはまさにそのような都市ではなかっただろうか。それも19世紀のパリが女としてであったのに対して、この都市はいささか倒錯的な関係において――もちろん、スカイスクレーパーたちが巨大な陽根のシンボルであるという、フロイト流の解釈をも含めて――そうなったのである。ほとんど夢遊病的な確信、『アスピリン・エイジ』誌のイザベル・レイトンではないが、そんな比喩もこの都市に可能なのだろう。錯乱、無法、密集、猥雑、夢想、そして人種にジャズにフラッパー、これらが理想的な〈カオス〉の状態に和解されているメトロポリス、そこは同時に大衆文化とそれがはらむ狂気現象の温床とでもいうべき場にちがいなかったはずである。
 言うまでもなく、大衆の夢遊世界のフェティシズムは、シュルレアリスムのフラヌール(逍遙者)同様、集団的記憶に彩られたイコンという記号を惹起する。それはいわば、移り気で浮気っぽい捏造された偶像にほかならないのだが、スーパースターでも大自然でも、チャンプでも旧約聖書でも、極端な言い方をすれば、それがわかりやすく大衆訴求をし、エキサイティングでかつ超越的なものであればイコンたり得るのだ。メトロポリスに見られる建築的な舞台仕立ては、その意味でむしろ象形文字の機能すらもち始めることになる。イコンをファッショナブルに消費するアールデコのスタイルがメトロポリスを席巻する。神話の生産機構が都市に内蔵化されることになるわけだ。
 建設生産活動において、とくに神話生産の飼育場としての役回りを引受けたのは、ほかでもない、博覧会であった。ニューヨークのスカイスクレーパーのプロモーターでもあったハーヴェイ・ウィリー・コーベットは、パートナーのヘルムと共に、1925年(ところでこの年はパリ現代装飾産業美術国際博、いわゆるアールデコ博の開催年であった)に〈ソロモンの神殿復原図〉を公けにしたが、これは26年のフィラデルフィア博において実際につくられるはずのものとして構想されたものであった。にもかかわらず、これは考古学的検証を目的としたものなどでは全然なく、むしろコーペットにより目論まれた来たるべきスカイスクレーパーの神話学創成以外の何ものでもなかったのである。博覧会は未来の都市や建築のヴィジョンを実験・体験する世界にほかならなかったのだ。〈ソロモンの神殿〉、それはハリウッドの史劇大作セットの光景をも呈しているのだが、そのドローイングは稀代のレンダラー、ヒュー・フェリスによって描かれたものであった。

ソロモンの寺院ヒュー・フェリス Hugh Ferriss
「ソロモンの寺院」

 エキスパート・ドラフトマンシップは1900年代では建築教育の一環に組込まれていた。実際、フェリスもパリのボザールから派生したその教育をワシントン大学で受けているのだが、当時のカリキュラムは歴史回顧というすこぶる退行的な色合いの濃いものであった。過去の模倣をやめて未来を見据えよ、レンダリングとはイマジネーションにおけるエキササイズである。事実、フェリスは最初のスカイスクレーパー、ウールワースビルを設計中のカス・ギルバートの事務所にはいり、1915年には自分のスタジオをマンハッタンに構える。この時彼は実務の世界から、「建築のコンセプションを視覚化するというテーマをもつ絵画芸術」(フェリス)たるレンダリングの世界へと生涯の選択をするのである。A・プラツェクによれば、建築のレンダリングの目的は六つに整理される。すなわち、…鶲討気譴新造物を有利に実現すること、建築家の描く理念を結晶化させることに、4成の建造物の建築上の意味を解釈すること、そして、づ垰垠弉茲離イドならびにクライテリアとして寄与すること、タ靴靴ぅ織ぅ廚侶築を展開すること、最後に、人間の価値に与える建築の心理学的影響を強化することのために、と。前三者は、当然のことながら、今までよく知られたレンダリングの目的である一方、後三者はむしろ未来に向けて投企された目的にほかならない。フェリスは、幻想的かつプログレッシヴなスピリットで、これら六項目を総合的に成就したのだとプラツェクは言う。この意味において、ニューヨークのフェリスは誇り高きローマのピラネージに匹敵するというわけである。ちなみにフェリスが’18年に建築ドローイング作品を初めて世に問うた時、パワーと魅力を備えたその作品をめぐる興奮のさなかで、『アーキテクチュラル・フォーラム』誌は、ピラネージを18世紀のヒュー・フェリスとすら称して憚らなかったほどであった。
 フェリスこそは、近代アメリカのメトロポリスそしてスカイスクレーパーという商業の伽藍の最良の解釈者であり、ヴィジョンを描くイデオローグであるのだ。

ゾーニングヒュー・フェリス Hugh Ferriss
「ゾーニング」

 彼のキャリアに決定的な影響を与えたのは先述のコーベットとの邂逅であったわけだが、〈ソロモンの神殿〉のみならず、16年に制定されたニューヨークのゾーニング法(とくにゾーン利用計画よりも街路に光と空気を入れるためのセットバック規制)に建築の黙示録的な造形ヴィジョンを与えた一連のドローイングは、「来たるべき建築」(ニューヨーク・タイムズ紙、1922・3/19号)の予言者として彼の名を一躍有名なものにしたのである。けだし、ゾーニング規制からモダンスピリットを抽出したのであった。氷山のような冷たい無機質の王国、古代エジプトやバビロンを彷彿とさせる崇高なフォルム、一部に(とくにセットバックした建物の冠部に)彫刻的装飾が施された新規なシンボリズムなどがここに十分垣間見ることができるのだが、これらの特質をインヴォルヴしたスカイスクレーパー群が驚異的な速度感とパノラマ性、さらにハレーション・カタルシスという光の効果をもつメトロポリスにセッティングされた、そのような情景を集めたアンダーソン・ギャラリーでの〈未来都市ドローイング〉(1925年)の成功は、フェリスの地位を確固と築くものになったと言っても間違いではないだろう。

トリボロー橋の橋頭堡ヒュー・フェリス Hugh Ferriss
「トリボロー橋の橋頭堡」

 1929年にはドローイング集『明日のメトロポリス』が公刊される。ゾーニング法の結果生成された17の建物を描く第1部の〈今日の都市〉、未来へのプログレッシブな提案を内包した第2部の〈プロジェクトの趨勢〉、奇跡的でかつ尋常ならざるマッスの饗宴である第3部の〈想像のメトロポリス〉から成るこの精力的な図集は、単なるユートピア的理想図の展開というより、むしろ既存の都市への確たる告発・批評であった。なかでもメトロポリスの交通問題への視点にそれが顕著であるが、このメトロポリスの上部構造の神話的世界――というのは形而下の欲望空間としてのニューヨークに対してフェリスはアンタッチャブルなポーズを崩さない。すなわち都市の為政者的な眼差しが彼のヴィジョンを貫いているのだ――は、実際、世界恐慌のあおりを受けて徐々に腐食し、そのプロジェクトは真実神話的領域を彷徨うことになっていく。
 1940年にルーズヴェルトは、「銀行とスカイスクレーパーの時代は終焉した」と公言する。商業の伽藍は産業の伽藍へと逆行するかのように、ダム、発電所、橋梁、工場、飛行場、ハイウェイといったニューディールの落胤的土木産業の基幹施設がクローズアップされる、いや正確には、再びクローズアップされるように見えた。1953年に公刊された『建物のパワー』は、こうした産業施設や実作(とくにライト)の写生、コマーシャルなものとしては唯一世界博の施設が描かれている。事実、未曽有の狂乱的な商業世界博である39年のニューヨークで、フェリスはデザインコンサルタントを務めたのだった。
 それはある意味では夢遊病者の覚醒であったのかも知れない。だが、おそらくは大衆消費空間の祝祭=20年代の多幸なニューヨーク、時代と繁栄と自由とのうたかたの蜜月を送ったこの都市を天井の権威ともあおいだ時期こそ、フェリスがその中において最も、あのスカイスクレーパーの月光によるハレーションよりも輝いた時空間ではなかっただろうか。
 神話が真実の神話として歴史に幽閉され始めた30年に、フェリスは友人のフランク・ロイド・ライトとラジオ対談を行う。伝統こそはそれ自身で真実であること、伝統に従ってのみ新しいものが生れることを彼らは語った。それは古くて新しい、また同時に新しくて古い都市ニューヨークに生を刻んだ天才レンダラーのヴィジョンをも暗黙のうちに言い当てていたとも言えるだろう。
 伝統は、いつでもそうなのだが、守られるべき対象ではなく、作られるべきそれなのである。

メトロポリスのスカイスクレーパー・ハンガーヒュー・フェリス Hugh Ferriss
「メトロポリスのスカイスクレーパー・ハンガー」


ひこさか ゆたか

**現代版画センター 発行『Ed 第102号』(1984年7月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
・「ソロモンの寺院」
現代版画センター 発行『Ed 第102号』
・「ゾーニング」
https://enigmafoundry.files.wordpress.com/2006/11/hugh-ferriss-zoning-law.jpg
・トリボロー橋の橋頭堡」
現代版画センター 発行『Ed 第102号』
・「メトロポリスのスカイスクレーパー・ハンガー」
http://silodrome.com/skyscraper-hangar-in-a-metropolis-hugh-ferriss/

■彦坂 裕 Yutaka HIKOSAKA
建築家・環境デザイナー、クリエイティブディレクター
株式会社スペースインキュベータ代表取締役、日本建築家協会会員
新日本様式協議会評議委員(経済産業省、文化庁、国土交通省、外務省管轄)
北京徳稲教育機構(DeTao Masters Academy)大師(上海SIVA-CCIC教授)
東京大学工学部都市工学科・同大学院工学系研究科修士課程卒業(MA1978年)

<主たる業務実績>
玉川高島屋SC20周年リニューアルデザイン/二子玉川エリアの環境グランドデザイン
日立市科学館/NTTインターコミュニケーションセンター/高木盆栽美術館東京分館/レノックスガレージハウス/茂木本家美術館(MOMOA)
早稲田大学本庄キャンパスグランドデザイン/香港オーシャンターミナル改造計画/豊洲IHI敷地開発グランドデザイン/東京ミッドタウングランドデザインなど

2017年アスタナ万博日本館基本計画策定委員会座長
2015年ミラノ万博日本館基本計画策定委員会座長
2010年上海万博日本館プロデューサー
2005年愛・地球博日本政府館(長久手・瀬戸両館)クリエイティブ統括ディレクター

著書:『シティダスト・コレクション』(勁草書房)、『建築の変容』(INAX叢書)、『夢みるスケール』(彰国社)ほか

●本日のお勧め作品は安藤忠雄です。
安藤忠雄_舟と顔安藤忠雄
「舟と顔(仮)」
1973年 カンバスに油彩
45.0×134.5cm
Signed

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。

建築家のドローイング 第11回 フランク・ロイド・ライト

リレー連載
建築家のドローイング 第11回
フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)〔1867−1959〕

八束はじめ


 誰がいい出したのかは定かではないのだが、建築の世界では“form giver”ということばがある。近代建築の基本的なヴォキャブラリーをつくり出した、いうなれば言語創造者というような意味なのだが、通例これにあてられるのはフランク・ロイド・ライト、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエの三人ということになっている。いうなれば御三家という所だが、実際にはこの並べ方はあまりすわりの良いものとはいえない。60年代生まれのライトは80年代生まれの他の二人に比べれば二つも上の世代に属し、後二者(及びバウハウスの創立者グロピウス)が修業時代に席を置いたベーレンス(68年生れ)やこのシリーズでもとりあげたペルツイッヒ(69年生れ)よりも更に一、二年の年長である。1911年にドイツのヴァスムート社が出版したライトの作品集(ドローイング集)がヨーロッパの建築家たち(とくにオランダとドイツ、オーストリア)に多大の影響を及ぼしたことは、近代建築史を扱ったどの本にも記述されているあまりに有名な事実だが、当時既にロビー邸やユニティ・チャーチ、ラーキン・ビルなどの傑作を建てて新時代の旗手あるいは若き巨匠であったライトに比べ、コルビュジエもミースもまだ駆け出し以前、つまりベーレンス事務所での修業時代の前後である。二人ともライトの図面をくいいるように見つめた多くの若い群像の中の一人にすぎなかった。この時点で、もちろん、ライトは既に form giver であった。相互貫入し合う流動的なヴォリュームと空間の詩学はウィーンのロースにも、ベルリンのミースにも、またロッテルダムのいわゆる「デ・スティル」派にも多大のヒントを提供している。しかしライトが他の年少の二人と後々まで肩を並べたのは、この建築家が、何度かの沈黙やスランプの時期をはさみながらその度毎に劇的な復活を遂げたからに他ならない。常に自からをリサイクルしていく、不死鳥のようなとよく形容されるが、考えようによってはむしろ怪物めいた生命力は他に全く比類を見ない。強いていうなら、やはり90を超えて生き、つくりつづけたミケランジェロといった所だろうか。

ナショナル生命保険会社計画フランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright
「ナショナル生命保険会社計画」


 この70年近いキャリアの中でライトは全く夥しい作品をつくり、また計画案を残した。総計800を超すとあってはさすがのライトにしてもすべてが一級の作品とはいえず、建築家の名誉とはならぬものも少なからずあるが、それにしてもそれだけの数をこなしたということはライトに確かなメチエが備っていたことの証しであるとはいい得るだろう。それはこれらの膨大な作品群を紙上に定着したドローイングについてもあてはまる。あるいはむしろ、スタイルの上での何度かの変貌にも拘らず、ライトの底にはこのメチエの基盤が連続してあって、それが常に彼の巨匠としての質を保証していたのだといい得るということを、ドローイング群が証し立てているといってよいかもしれない。それらはいずれもライト流のドローイング・スタイルというものをはっきりと示している。もちろん後年に至るまで巨匠が自らそれらをおこしたわけではなく、専門のスタッフの手に委ねられていたようだが、誰が描いたにせよそれらはライトのドローイングなのである。つまり全く個性的でありながら、完全に個人の手のみに負っているわけではない。若年のライトが師のサリヴァンのフリーハンドで装飾の下絵をおこしていく手腕に舌を巻き、自分には到底真似できないので定規によって自らのスタイルを確立しようとしたというエピソードや後年ライトの作業場タリアセンを訪れたメンデルゾーンが例の達者なスケッチを巨匠に示してうならせたというようなエピソードはその辺の事情に関っている。ライトの仕事全体がそうした全くの手仕事とそれを排除して純粋な構成関係のみによっていたモダンなコンポジションとの中間に存在している。そしてライトはそこに全く独自な境地を発見したのだ。

ハーディー邸
フランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright
「ハーディー邸」


 このスタイルに最も良く似ているのは以前にとりあげたウィーンのオットー・ワグナーとその一派のドローイングである。この平行性が何らかの直接的影響関係によっているかは定かではないが、とくに例えばラーキン・ビルのインテリア・パースの線描の質や空間のとらえ方などは極めてワグナーに似ている。間接的に、つまり共通のソースの一つとしては、日本の浮世絵の手法がある。(ユーゲント・シュティル全体へのオリエンタリズムの影響は有名だし、ライトは帝国ホテルの仕事で滞日するより大分以前から度々版画のコレクションのために来日していたことが知られているが、両者には共に建物を遙かに上に置いて見上げる構図のとり方、植生のつかい方など多くの共通点を見ることができる。ヴァスムート版のライトのドローイングに魅せられたワグナー門下の若い学生であったルドルフ・シンドラーのように渡米してライトの門を叩いた人物もいたから、ウィーンとライトの関係は直接・間接に浅からぬものであったといえよう。(ついでながら、ライトのもとから独立してからも結局アメリカで生涯を送ることになったシンドラーのドローイングのスタイルも、当然、その両者の特徴を合せもっている。)

ミッドウェイ・ガーデンフランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright
「ミッドウェイ・ガーデン」


 一方、ライトのドローイングはやがて水彩などで着色されることが多くなる。それと同時に線の質もワグナーのような硬質なものから軟らかみを帯びた(しかしあくまで定規で引かれた)ものへと変っていく。ライト流ドローイングの線の質とその空間及びメチエとの関係について触れたが、おそらく、ライトのドローイングに関しても同じようなことがいえるはずである。そこでは線はもはやくっきりとしたハード・エッジな、つまりものの限界を明確にしるすものというよりは、ものの質感やヴォリューム感の中の過不足ない要素としておさまっている。ワグナーが鉄やスタッコ、硬質な大理石といった(ハード・エッジを可能とする材料を好み、空間もむしろ奥行きよりは浅く明快な構成をされているのに対して、木や帝国ホテルで用いた大谷石やロサンジェルスの住宅シリーズの化粧コンクリート・ブロックのように、むしろ柔らかい材料(角が丸みを帯びた)をライトが好んでいたことが、ドローイングの上にも確実に反映していると筆者は考えている。従って描かれたドローイングでも、つくり上げられた実際の建物でも、空間は、微妙な階調と、日本的なことばでいうなら、奥床しさ(ことばの本来の意味での)をもっている。日本人がライトを好む所以でもあろう。
 こうした、ドローイングにも通底している感覚は、例えば第二期の劈頭を飾る、いわゆる落水邸(カウフマン邸 1936)や、最高傑作といわれるジョンソン・ワックス・ビル(1936-9)更には戦後の代表作グッゲンハイム美術館(1959)などにも共通して受け継がれている。例えば落水邸は、一見豆腐の角を切ったいわゆるル・コルビュジエ風にキュービックな作品だが、仔細に見れば「住む機械」(ル・コルビュジエ)の鋭利さとは随分と違った作品である。これらの作品は初期の装飾的でまた同時に日本的/ユーゲント・シュティル的でなくもない作品群と、スタイルの上で比べれば遙かにモダンであり、ル・コルビュジェやミースとライトの名を並べしめたものだが、こうした感覚上の特質は変っていないのである。一人の芸術家の、究極的には変わりようのない体質というようなものは、むしろこのようなディテールの端々にあらわれるものであって、ある意味ではそのことをライトのドローイングほど如実に示しているものはない。

ナマコ・カントリー・ハウスフランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright
「ナマコ・カントリー・ハウス」


やつか はじめ

*現代版画センター 発行『Ed 第101号』(1984年4月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「ナショナル生命保険会社計画」
「ハーディー邸」
「ミッドウェイ・ガーデン」
「ナマコ・カントリー・ハウス」
毎日新聞社 発行『フランク・ロイド・ライト回顧展』、1991年より

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

●今日のお勧め作品は、フランク・ロイド・ライトです。
20160222_wright_01フランク・ロイド・ライト
「Gerts Walter Residence」
1905年
紙に水彩とインク
40.0x74.0cm

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆八束はじめ・彦坂裕のリレー・エッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。

建築家のドローイング 第10回 ヘルマン・フィンステルリン

リレー連載
建築家のドローイング 第10回
ヘルマン・フィンステルリン(Hermann Finsterlin)〔1887−1973〕

八束はじめ


 ドイツにおける表現主義建築の運動は、第一次大戦後の絶望と混迷、更にその裏返しとしての強い再建への希望のもとに、一つの精神革命を志向した共同体としての体裁をとるに至った。もちろんこの熱病は間もなく引き去っていき、幾人かの残存者を残してもっと冷厳な合理主義の波にのみこまれていったのだが。この短期間の運動を主導したのはブルーノ・タウトに率いられた「芸術労働評議会」である。強いユートピア主義的色彩に染っていたこのグループは1919年にベルリンで「無名建築家」展を開催した。無名建築家ばかりでなく、建築への門外漢である美術家やはては素人までもが参加を呼びかけられた。混迷の中ではプロフェッショナルな技術の蓄積は問題にならず、ヴィジョンだけが肝要であった。参加作品の質は、当然のことながら一定の水準を示すものではなかったが、その中でとりわけ異彩を放ったのだがヘルマン・フィンステルリンの玩具とも彫刻とも建築ともつかぬ奇妙な有機的フォルムを示すドローイングであった。生物形態的なアナロジーは表現主義者の造形には多かれ少なかれ見られるものだったし、それに先行するアール・ヌーボーの主導的モチーフの一つ(といってもこの場合は植物的なモチーフが優勢だったが)であったから、必ずしもフィンステルリンの専売特許というわけではない。しかし彼の造形の特異さは一目でそれと知れる類のものであった。彼は500枚を超すドローイングを残したが、それらは様々なプログラム(例えば湖畔のヴィラ、衛生博物館といった)を与えられ、どれをとっても同じ形をしたものはなかったが、にも拘らず、どれをとっても同じ手になるものであることが歴然としていたのである。
 フィンステルリンはプロの建築家ではなかった。医学、物理、化学を学び、次いで哲学と画の修業を行ったが、建築のトレーニングは受けていないし、実際にそのドローイングが建設されることはなかった。文字通り、机上の空想に留まったわけだ。他の同志たちが表現主義のロマン的な恣意性を捨て、合理主義に転じた後もフィンステルリンはそれに同乗することなく、20年代の半ばからは建築から身を引き、50年後に没するまで画と著述に専念した。73年に彼の死亡記事が新聞に載った時、建築の世界から見れば半世紀も前に過去の人となった人物がそれまで生きていたという事実に奇妙な衡撃を受けたことを筆者は未だに覚えている。

湖畔の別荘
ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「湖畔の別荘」


 フィンステルリンが転身を行わなかった理由の一つが彼がプロフェッショナルなトレーニングを受けていなかったことにあるのは疑いを容れない。合理主義建築は近代技術から導かれた造形を第一にしたからである。しかし、それが決定的な理由とはいえない。信頼のおける協力者さえ介在すれば、例えばデオ・ファン・デースブルクのような美術家が実作をつくっている例はあるし、家具デザイナーであったリートフェルトは近代建築史上のメルクマールとなったシュレーダー邸を建て、以後プロの建築家として身を立てている。そもそも近代合理主義建築自体が、いわれるほどに高度なテクノロジーを駆使したものであったかも疑ってみる余地がある。フィンステルリンの造形的傾向(趣味)が合理主義のザッハリヒなそれと合致しなかったからという理由はもとより真実であろう。彼は後に人類が「プロメテウスの熱帯よりはミース・ファン・デル・ローエの砂漠を選んだ」ことを遺憾とする、という発言を行っている。プロメテウスは表現主義者の「ガラスの鎖」グループにおける彼自身の偽名(このグループは各々が偽名で名のることを旨としていた。)である。しかし、それは単なる恣意的な造形上の好みにとどまるものでなかった。他の建築家たちの転身の理由は、合理主義が「時代精神」を具現化するものだという信念に求められるが、フィンステルリンには、このテクノロジーに主導された進歩主義的なモダニズムのイデオロギーに対抗する思想があった。それはフォルムの自律的な発展、進化の途の上に自らの造形を位置づけるという思想で、ことばをかえていえば建築形態のダーウィニズムとでもいうべきものである。若い頃に医学を学んだフィンステルリンは建築におけるダーウィンをもって自認したのである。

博物館
ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「博物館」


 「ものの形態のABC、および形態の三重性の控えめな結合は、今日に至る迄、人間の建築の、不明確な語彙であった。」原形、つまり球の三つの同素的体状態とは、次の通りだ―球は、円錐形をめざして動いていく、そして絶えることなく棒状へと進み、ついには頂点や稜の多面体の抵抗作用があらわれることになる。こうした原形の二、三の特性は、融合したり、浸透したり、あるいは分かれたりしながら、互いに形態の雌雄が結び合って最初の雑種をつくりだした。だがこの雑種は、数千年を通じて不毛であつた。多種多様な、常に豊かに分かれていく立体の絶え間ない結合による〈形態自体〉の無限の変種への決意がなされなかったのだ。建築は、今日に至るまで、形態の崩壊であった。」「カサ・ノーヴァ」(新しい家)と題された1924年の論文でフィンステルリンはこう書いている。建築形態の「種の淘汰」をめざすフィンステルリン。彼はまたこうも書く。「不十分なものと満ちたりたものとが、すべてふるい分けられていくように、汝らのふるいをその最高の意志に合わせて調節せよ、それらは受胎にむくいるものではないのだ。汝ら、立体を知るものよ、球と面とで満足するな。それは人間の遺産に対する忘恩というものだ。」
 フィンステルリンの建築のドローイングがそれが置かれるべき周囲のコンテクストを一切示していないのは注意しておいてよいかもしれない。表現主義は本質的に都市的な芸術現象である。それへの反発が強い田園志向として結晶しているとしても、それは両義的なものであった。だが。フィンステルリンの場合は、周囲は都市どころか田園ですらない。むしろ建物と地盤との境界すら定かではない。土地の形すら芸術的なファンタジーの領域に編入されている。「カーサ・ノヴァ・テラ・ノヴァ」(新しい家、新しい大地)。それはあたかも遊星の上に築かれた異星人の住み家のようですらある。
 フィンステルリンの造形は彼の活躍した時代の技術に合致するものではなかった。しかし、その後の技術、空気膜構造やシェル構造などの発展からすれば、それらは将来とも実現不可能な形態ではなくなりつつある。実際、ミュンヘン・オリンピックのスタジアムの屋根などで特異な形態の追求を合理的に行っているフライ・オットーはデザイナーではなく構造技術者である。それはまだフィンステルリンのイメージには追いついていないが、時代は再び彼のものとなるかもしれない。それは本当に異星の上につくられることになるかもしれないのだ。「カーサ・ノヴァ」の最後に彼はこう書いている。「この世のものとも思われぬこの建築について、その技術上の可能性、この世の手段をお尋ねになるのですか?意欲のあるところ、そこには道があるのです。」

技術高等学校
ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「科学技術高等学校」


アトリエ
ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「アトリエ」


やつか はじめ

*現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.99』(1983年12月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「湖畔の別荘」
http://www.flickriver.com/photos/quadralectics/8279863197/
「博物館」
現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.99』より
「科学技術高等学校」
http://lizgroth.tumblr.com/post/58177497632/archiveofaffinities-hermann-finsterlin-glass
「アトリエ」
https://www.flickr.com/photos/quadralectics/82798626

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。
------------------------
●今日のお勧め作品はマイケル・グレイヴスです。
DSCF4989 のコピー
1989
紙に鉛筆、色鉛筆
Image size:13.0x81.0cm
Signed
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

●ときの忘れものは、ただいま夏季休廊中です(2016年8月21日[日]〜8月29日[月])。
休み中のお問合せ等への返信は直ぐにはできませんので、ご了承ください。

建築家のドローイング 第9回 エリッヒ・メンデルゾーン

リレー連載
建築家のドローイング 第9回
エリッヒ・メンデルゾーン(Erich Mendelsohn)〔1887−1953〕

彦坂裕


 いったい、フォルム自体が建築や芸術の可能性を切り開いてゆくことなどあるものだろうか、しかも、それが近代の産業社会の中において?フォルムのユートピアなど、とうの昔に破産を余儀なくされた概念だったはずではなかったのだろうか?
 「表現派」と呼称されることの多いメンデルゾーンにも、こうしたアポリアは影のようにつきまとう。フォルムが何がしかの心の状態や感情といったものを表現しうるという考え方は、伝統的なアカデミーがもつ思想の素直な継承でもあるわけだが、変転極まりないテクノロジー革新や世界大戦という空前のイヴェントに揺れる近代社会においては、むしろ建築家自らの精神の激昂とでもいうべき「生のフォルム」とその社会へのコミットの仕方が問題にされるのである。メンデルゾーンのこうしたポレミーク(問題性)に対する対応は大きく分けて3つあり、それらがポリフォニーを形成しながら、いわゆる「メンデルゾーン的迷宮」をつくっていると思われる。
 その一つは、ニーチェの断固さにも似た「建設への意志」の姿勢である。大戦中メンデルゾーンによって記された「新しい建築への省察」には、予言めいた調子で時代精神の表現としての建築がいかにあるべきか、それが生と同じ厳格な法則に従わねばならぬ必然性の支配下にあること、その深遠な法則にもとづくことによってのみ「建設への意志」の自由が保証され、未来への展開が可能となることが語られている。実際彼は、アインシュタインの理論に大いに関心を示しており(1913年にメンデルゾーンはアインシュタインに初めて会っている。ちなみに、一般相対性理論は15年に発表された)、神秘なるもののうちに発見されるべき法則、秩序、規律に深い憧憬を抱いていた。理性の、というより、不変の速度法則たる光が、ここでは、建築創造の法則を導くといっていい。
 第二に注目されるのは、近代テクノロジーへの応答である。それは未来派と共通のイメージの源泉をもつ広義のダイナミズムに顕著だ。ガントリー起重機やキュナード社の汽船に霊感を受け、動力エネルギーを身近な問題として把える感性は、1923年のダイナミズムと機能に関する興味深い講演論稿「近代建築思潮のインターナショナルな暗合」や、内的な緊張をはらんだコンストラクションのスケッチ――これらはメンデルゾーンに関して通例的に語られる彫刻的なというよりもむしろ構成主義的な色彩が濃い――に溢出している。それは機能というものを、あたかも抑制することによって劇的な緊張感を産出する詩学に融解させんとする試みであり、こうした爆発一歩手前、オルガスムス寸前の充血状態にも似たダイナミズムの観点が、彼をして幻想的な表現主義の美学を標榜するアムステルダム派や社会的な機能を線細く追求するロッテルダム・サークルと差異づけることになると考えられよう。

メンデルゾーンエリッヒ・メンデルゾーン Erich Mendelsohn
「起重機をもつ建物」

 最後にしてすこぶる重要な対応は、形態の操作を近代のメトロポリス=消費空間との関係で把えたことである。コスモポリタンのメンデルゾーンにとっては、資本主義化され、表層的なヴァイタリティに充ちた大都会を、カオスと化した非連続の集積体(モンタージュ)として見る醒めた眼があったというべきだろうか。あるいは、若き日のライテルやバルとの邂逅、カンディンスキーやクレー、さらにはダダのグループやその周辺のアヴァンギャルドたちとの親交が産んだ認識とでもいうべきだろうか。商業建築(とくに百貨店)や公共娯楽施設の現代社会における決定的な重要性を彼は十全に感得し、アドルフ・ベーネ言うところの「広告建築」(Reklamearchitektur)言語をフォルムのコンプレックスによって現出させ、新たなスタイルをこれら消費産業社会の申し子たちに与えたのである。それは、主として、建築がセッティングされる都市のコンテクストへの関係付けとして立ち現れる――まるで既成のタブローにショッキングなコラージュを施すように、都市活動の、そして都市自体のヴオルテージを高めていくのである。
 メンデルゾーンの作品も、実際、こうした三つのアスペクトを追うように展開されていったと考えてもいい。そして、一生をかけて描き続けた彼のドローイングは、作品やプロジェクト、さらに彼自身の思考を実験する場でもあったのだ。

メンデルゾーン2エリッヒ・メンデルゾーン Erich Mendelsohn
「港の倉庫」

 1919年、ベルリンのパウル・カッシラー画廊に、彼は「鉄とコンクリートの建築」と題する建築ドローイングの展覧会を催した。これがきっかけとなって彼はオランダの「ウェンディンヘン」(ヴィエデフェルトの主宰した過剰な手工芸を賞讃する表現主義一派の雑誌名。アムステルダム派の公式な発言が収録されていた)スクールに招聘され、仕事への道が開けていったが、ほぼ第一次大戦(1914−18)をはさんだこの時期のドローイングは、それ以後の実施を前提としたスケッチや即興風の幻想画よりもはるかに面白いものが多い。最初期の歌劇用衣装デザインからペルツィヒやオルプリッヒを彷彿とさせる有機的な形をもつもの、未来派然とした工業建築や生産施設、そしてメンデルゾーン固有な積層する立面や水平にピッチの利いた円筒などをもつメガストラクチャーに至るまで、彼の生涯のイマジネーションがここに集約された感がなくもない。

メンデルゾーン3エリッヒ・メンデルゾーン Erich Mendelsohn
「自動車車体工場」

 コントラストの強烈さ、明快さ、そしてスピードあるタッチで描かれる幾多のドローイング、ここには来たるべき建築の造形はあたかもこのスピードがなければ予見し得ぬといわんばかりの信念が溢れている。とくに、シンメトリーや水平性には、絶対の確信、いや、信仰にすら近い感覚を見ることができるだろう――そこには「世界の軸性」をいささか隠喩的なポーズで示そうとするル・コルビュジエよりも、はるかに徹底したフォルムのフィロソフィーがある。常にアイレヴェルから仰ぐようにそびえるマッスは、多くの場合、片立面が陰影として描かれ、この光の作用によってマッス=質量を運動化する効果を醸し出す。とすれば、ダイナミズムとは、明らかに、このマッスとそこに充電されたハイ・ヴォルテージのエネルギーとの相関であり、錬金術の塩にも代わる「光」があたかもこの相関の触媒の役割を担うという古典的な三位一体の構図の新訳がここに垣間見れるのではないだろうか。
 それは、極端に言ってしまえばE=mc2の宇宙。旧世界とは比較にならぬ速度で疾駆する生活の興奮や機能への欲望、そして消費社会の中にさえも、法則を、絶対的な法則を掴みとろうとするパトスそのものにほかならなかったはずである。混沌と化した自然(諸現象)に律を与えんとするシチュエーションにおいて、ニュートン/ブーレーをアインシュタイン/メンデルゾーンに対照させるのもいいだろう。
 アインシュタイン塔建造の後、メンデルゾーンはL・サリヴァンやF・L・ライトに会いにアメリカに渡る。あらゆる明敏な欧州建築家同様、彼もこの国の天を突く摩天楼やエンジニアリング建築に感銘を受けるのだが、こうした反欧州的要素の讃歌は、かの「カリガリ博士」のように、西欧ブルジョワ主義の規範を周縁から侵犯するヴェクトルの告知にほかならなかったのである。

メンデルゾーン4エリッヒ・メンデルゾーン Erich Mendelsohn
「光学機器工場」


ひこさか ゆたか

*現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.98』(1983年11月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
・「起重機をもつ建物」
・「港の倉庫」
・「自動車車体工場」
・「光学機器工場」
現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.98』

■彦坂 裕 Yutaka HIKOSAKA
建築家・環境デザイナー、クリエイティブディレクター
株式会社スペースインキュベータ代表取締役、日本建築家協会会員
新日本様式協議会評議委員(経済産業省、文化庁、国土交通省、外務省管轄)
北京徳稲教育機構(DeTao Masters Academy)大師(上海SIVA-CCIC教授)
東京大学工学部都市工学科・同大学院工学系研究科修士課程卒業(MA1978年)

<主たる業務実績>
玉川高島屋SC20周年リニューアルデザイン/二子玉川エリアの環境グランドデザイン
日立市科学館/NTTインターコミュニケーションセンター/高木盆栽美術館東京分館/レノックスガレージハウス/茂木本家美術館(MOMOA)
早稲田大学本庄キャンパスグランドデザイン/香港オーシャンターミナル改造計画/豊洲IHI敷地開発グランドデザイン/東京ミッドタウングランドデザインなど

2017年アスタナ万博日本館基本計画策定委員会座長
2015年ミラノ万博日本館基本計画策定委員会座長
2010年上海万博日本館プロデューサー
2005年愛・地球博日本政府館(長久手・瀬戸両館)クリエイティブ統括ディレクター

著書:『シティダスト・コレクション』(勁草書房)、『建築の変容』(INAX叢書)、『夢みるスケール』(彰国社)ほか

●今日のお勧め作品は安藤忠雄です。
安藤忠雄 アーバンエッグ
安藤忠雄 Tadao ANDO
「中之島プロジェクト [アーバンエッグ2]」
1988年
シルクスクリーン
105.0x175.0cm
Ed.55  Signed

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。

◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。

建築家のドローイング 第8回 ハンス・ペルツィヒ

リレー連載
建築家のドローイング 第8回
ハンス・ペルツィヒ(Hans Poelzig)〔1869―1936〕

八束はじめ


 前々回にオットー・ワグナーのドローイングと実作とのスタイルの上での一致が、確かなメチエの介在の上に可能になったと述べたが、ユーゲント・シュティルにも何がしかのものを負っていることは疑い得ないにも拘らず、表現主義における――ここでは主にドイツのそれに限定しておく――ドローイングのスタイルは、そうした職人的なテクネーの延長上に確保されたものとは全く違っている。ワグナーの線描が、工作技術によって保証され、辿り得るものであったのに対して、表現主義者の作家たちのドローイングでは、線は実対化したものの境界というようなものではなく、つまり自律的なオブジェの構成要素というカテゴリーに入るものではなく、むしろある運動のプロセスであり、勢いという、本来定着して目に見えないものの行跡でしかない。主役を演ずるのは不動の客観物=オブジェではなく、その勢いを生じずにはおかないもの、つまりはその呼称にもあらわれている「表現」である。それが具体性に先行していることは、この運動ともまんざら無関係ではなかったヴォーリンガーの有名なゴシック芸術に関わるテーゼ、つまり「抽象」と「感情移入」に簡潔に要約されている。

第一次室内パースハンス・ペルツィヒ Hans Poelzig
「第1次室内パース」

 軽率の謗りを敢えて覚悟でいってしまうならば、「表現主義」と「表現主義的なるもの」との区別が可能であると思われる。この区分をひとまずしておくことによって、何故前者がオランダを除けば基本的にはドイツ固有の運動であったかを理解し得る。ラテン民族が表現主義的なアモルフのカオスを好まなかったという議論は、通俗的には説得性ありげに見えるが、ガウディ(スペイン)はアール・ヌーボーというより表現主義的な激しさすらもっているし、ル・コルビュジエ(スイスーフランス)の戦後のロンシャンの礼拝堂や、ミケルッチ(イタリア)の太陽の教会などはそれに対する反証となり得る。それが熱病のように共同化されて、時代の渦を形成していった所に、「表現主義」が一時代のスタイルとして成立し、またハンス・シャローンのような例外は別とすれば、作家たちがやがて病から治癒したかのようにそれから身を遠ざけていった一過性の理由を探ることができる。それはドイツの第一次大戦前後の社会的な大変動期のみに生じ得た、巨大な芸術と表現とのトランス状態であり、極度の個人主義と極度の集団主義、前進性と後進性とが不可分な形で煮つめられている坩堝であった。ヴォルテージの高さだけが問題であって、何であれ中途半端なもの、現状維持的なものは存在の余地がなかった。ペルツィヒの神話的な原始の共同体へのノスタルジーとルックハルト兄弟の有機的なファンタジーへの憧憬とメンデルゾーンの喧騒に満ちたダイナミズムとの間には、この変換期の作用の大きさ以外に共通するものを見つけるのは、必ずしも容易ではない。

ザルツブルグハンス・ペルツィヒ Hans Poelzig
「ザルツブルグの祝典劇場・第1次案外観」

 1869年に生まれたペルツィヒは、この時代の嵐とも痙攣ともいうべき運動に巻きこまれた建築家たちの中では最年長に属する。2才年上にはユーゲント・シュティルのオルプリヒ、1才年上には表現主義者にも影響を受けたべーレンスがおり、ウィーンのロースやホフマンよりは1才年長になる。後の近代建築運動の旗手となったグロピウス、ミース、ル・コルビュジエらよりは一世代半ばほど上にあたる。表現主義に身を投じた中でもタウト兄弟やメンデルゾーンにしても80年代の生まれである。この5年の違いは、彼らの原イメージとでもいうべきものに決定的な相違を与えている。ペルツィヒは、古いドイツの森林や山の深い響きに身を委ねながら育ち得た最後の世代である。彼は、同世代の建築家たちの多くとちがって、より若いアヴァンギャルドの運動にも理解と助力を与えたが、コンラード・ワックスマンのような技術者を育てたにも拘らず、本質的にはドイツの――後にはナチスの「血と大地」理論をも触発する――風土に根ざした神話的=ロマン的な共同体のイメージの上に生い立った建築家である。事実、こうしたイメージは、ペルツィヒのようにナチスから排除された建築家にも、5才下の、ナチスの寵を得たヴィルヘルム・クライスのような人物にも、またその中間にあったパウル・ボナッツなどにも共に通底している。ペルツィヒの最も著名な実現された建物、演出家マックス・ラインハルトのためのベルリンの大劇場はつららのような突起物が天井から無数に垂れ下がる幻想的なインテリアで一世を風靡したが、ドローイングに留まったビスマルク記念碑、コンスタンチノープルの友好の家、そしてザルツブルクの祝典劇場などのプロジェクトでは、こうした幻想性は更に著しく亢進されている。建築のマッスは鬱然としたうねりのうちに溶解されていて、もはやはっきりとした輪郭をもたない。それは霧の中から茫漠とした偉容をあらわしつつある塊のようでも、黒々と先端をうかがいしることもできない様子で濃厚に生い茂る森のようでも、底知れぬ深い洞窟のようでも、更にはまた巨大な蟻塚のようでもある。ワグナーの華麗なユーゲント・シュティルのドローイングがペンの鋭利な線(ハード・エッジ)を必要としたのとは対照的に、ペルツィヒはスケッチでは木炭を、詳細なレンダリングでは鉛筆を多く用いた。それらでつくられる線の柔らかさ、あるいはあらゆる方向に広がり蔓延していく曲面の微妙なテクスチャーが、ペルツィヒにとっては是非とも必要なものであった。そこに現出するものは南方の強い日ざしとは全く違った、ドイツの北方的な神話の空間であり、そうした古代の記憶を背負った共同体のイメージである。ここでは建築家はむしろ祭司なのである。柔らかいが大地に根ざした重さをたたえたその曲面の流れは、その祭儀をつつみこむ聖なる衣であり、時代の激動をその壁の厚みの外側で塞ぎとめている。ペルツィヒのドローイングほど、20世紀ドイツ社会の奥底に潜められた共同体への憧憬を能く表現し得ているものは他にない。

ビスマルクハンス・ペルツィヒ Hans Poelzig
「ビンゲルブリュッケのビスマルク記念碑―第1次案」

やつか はじめ

*現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.97』(1983年10月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「第1次室内パース」
https://thecharnelhouse.org/2015/08/17/return-to-the-horrorhaus-hans-poelzigs-nightmare-expressionism-1908-1935/hans-poelzig-festspielhaus-salzburg-1920-1922e/
「ザルツブルグの祝典劇場・第1次案外観」
http://socks-studio.com/2014/11/19/hans-poelzigs-festspielhaus-in-salzburg/
「ビンゲルブリュッケのビスマルク記念碑―第1次案」
現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.97』より

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

●今日のお勧め作品は、磯崎新です。
礒崎新「闇2」小磯崎新 Arata ISOZAKI
「闇 2」
1999年 シルクスクリーン
イメージサイズ:58.3×77.0cm
シートサイズ:70.0×90.0cm
Ed.35 サインあり

礒崎新「影1」600磯崎新 Arata ISOZAKI
「影 1」
1999年 シルクスクリーン
イメージサイズ:58.3×77.0cm
シートサイズ:70.0×90.0cm
Ed.35 サインあり

礒崎新「霧1」600磯崎新 Arata ISOZAKI
「霧 1」
1999年 シルクスクリーン
イメージサイズ:58.3×77.0cm
シートサイズ:70.0×90.0cm
Ed.35 サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。

建築家のドローイング 第7回 アントニオ・サンテリーア

リレー連載
建築家のドローイング 第7回
アントニオ・サンテリーア(Antonio Sant'elia)〔1888―1916〕

彦坂裕


 イタリアは完全に遅れてしまった。
 産業革命を経ずに、いうならば19世紀という100年を完璧に欠落させたまま今世紀の近代期に短絡したこの国は、その時点での文明・文化の後進ぶりは誰の眼にも明らかなことであった。経済力や国際関係上の力はもちろんのこと、何よりもその近代精神の欠如は著しいものだったといってよい。それは無意味なまでの新しいものへの嫌悪、規律(ディシプリン)の不在が招来する怠堕なアナーキズム、批評意識とは縁遠い個人主義といった体質に顕著である。アヴァンギャルド運動ですらそうした体質から逸れ得るものではなかった。
 戦後イタリアで、かの「有機的建築」への道を開いた反ファシスト批評家ブルーノ・ゼヴィは、過去を払拭し、表現の革新を惹起した未来派の黙示録的な激情の中にさえも、過去の崇拝(カルト)への軽蔑と過去それ自体への軽蔑の混同を目撃しうることを指摘する。インターナショナルな運動としては失敗し、一時はキュビスムや表現主義とも接触はあったものの、結局は地方主義・愛国主義の道具立てへと堕落の道を辿った未来派の運命も、おそらくこうした背景が引金になっているにちがいない。当時、それでも電力に関してはイタリアはヨーロッパの先進国であった。未来派の独善的創始者マリネッティが、「電気」を近代の象徴とみなし、それに芸術的意味を発見したとしても不思議ではないのだ。

『新都市』への習作
アントニオ・サンテリーア Antonio Sant'elia
「『新都市』への習作」
Study design for a new town, 1914


 1910年前後、世界は、牧歌的・ロマン的な社会から近代の工業社会へと、急速に、しかもいくつかの位相では短絡的にシフトしつつあった。モンマルトルはロマンティックな老癩病患者であった。未来主義的な都市とは、新しい大建設工事現場や自動車が氾濫するミラノであった。建築家はもはや大聖堂や王宮を設計するのではない。大ホテルを、駅を、巨大な道路を、港を、屋内市場を、照明のついたアーケードをつくるのだ。
 テクノロジーが風景を刷新する。その進歩の産物である「速度」、「運動」――これが新しい社会の尺度として君臨することになる。スピードへの愛、というわけだ。マリネッティ日く、典範となるオブジェクトは、レーシング・カー、タービン、機関車、魚雷艇、飛行機、造船所、それに発電所といったものなのである。一方、テクノロジーのこうした野性的な産物のもう一つの局面とは、スペクタクルと化した近代生活・環境の実現化であった。近代精神の、最もエキサイティングな場としての大都市(メトロポリス)が新たな意味付けをもってここに登場する。都市空間は一種、セレモニーの様相を呈したメガロマニアックな機械といった風情を帯びてくる。それは劇場としての都市、舞台セットとしての都市にほかならない。運動、光、大気、音響が、そこには満ち溢れ、めくるめく眩暈を誘うのだ。
 イメージは、常に、驚異的でなくてはならない。マリネッティの「フリー・ワード」によるタイポグラフィ改革、不条理劇の先駆となる「総合劇」、ルッソロの騒音芸術などに代表される新音楽、それに数々の実験映画――これらのファンタスティックな未来派の冒険にとって不可欠なキャラクター、それがアントニオ・サンテリーアの描く未来主義都市・建築のドローイングであり、それのもたらす構想とイメージであった。

未来都市
アントニオ・サンテリーア Antonio Sant'elia
「未来都市」
citta nuova 1914


 サンテリーアは早熟な建築家であった。彼は己れのプロパガンダ的なドローイングの中で生命の炎を燃やし尽したといってよいだろう。テクノロジーとそれまで培われてきた建築の伝統を容赦なく野合させ、それを一挙に神学的な次元にすら高めるという賭けにも近い離れ業を、サンテリーアは現実のものにしてしまったのである。
 その初期の計画案は、フランスから浸透してきつつあった文学的なデカダンティズムに彩られていると同時に、ウィーンに形態上のソースを求めることができる。彼はダンテの『地獄』の詩にイラストを描いているし、後に親交をもつロモロ・ロマーニのデカダンティズムのモチーフにも影響を受けていた。また、表現の活力を明確な統制形式にのって顕示するオットー・ワグナーやそのシューレ(学派)に見られる尺度を失した装飾主義的な動向(なかでも、エミール・ホッペの「花様式」(フローレアーレ)も、その意味では典範的機能をもっていた。

発電所
アントニオ・サンテリーア Antonio Sant'elia
「発電所」
Power station


 建築の革新が異国の形態上の伝統をもって始められ、独自の語法が飛躍的に創造される、にもかかわらず、それは中性的なものでは決してなく、あくの強い個性やときとして魔術的ですらあるような雰囲気を漂わせていく。そしてその後に展開する建築運動が、どちらかというと抽象的でマニェリスティックな形態特質をもち、往々にして実践化に際しナショナリズムと深い関係をとり結んでしまう――そんな見取図を描くとするなら、前世紀ドイツ新古典主義期のF・ジリー/K・F・シンケルの関係とイタリア近代のA・サンテリーア/G・テラーニのそれが透かし絵のように重なってこないだろうか。ムッソリーニ政権傘下のイタリア合理主義の巨峰ジュゼッペ・テラーニは、サンテリーアのもつ象徴主義的スタイルとは異なるよりインターナショナルで透明度の高い言語で建築を語らしめたとともに、一方、コモ湖畔にサンテリーアの素描にもとづく「戦没者モニュメント」を実施化し、オマージュを捧げている。(だがその実作ではサンテリーアのもつダイナミズムが、むしろテラーニの手によって古典的かつスタテッィクなものに変貌させられている)。ちなみに、ジリーもサンテリーアも弱冠28歳にして悲劇的な死を遂げた。にもかかわらず、彼らのドローイングがはらむイメージの清冽さと迫力は、彼らをして建築の世界における巨星の如く燦然と輝かせ、その輝きは未だに衰えることを知らない。
 サンテリーアの詩には、コンストラクションの抒情性(リリズム)がある。その解剖学的な構図の根源には、詩的に昇華された技術の形而上学がひそんでいる。単純で丈高、傾斜したエレメント、パースペクティヴによって強調された垂直性・上向性、マッスの貫入と運動、材質の均質性、比類なき空間の連続性、土木的センスをもつメガロマニア………こうした語法がダムや発電所、あるいは巨大建造物や未来都市をテーマに緊迫したエンジニアリングの舞台をつくり上げるのだ。
 表現派のメンデルソーンを思わせる彫刻的で単明な外形をもつ工場、滑らかな表面を這いまわるベルトコンベアーやリフト、それに夥しい数の控え壁、そんな風景が都市にも同様に開けている。それは機械主義の讃歌であると同時に、人間がかくなる機械文明によって変容を強いられ、適応性によって選択される危機感の溢出でもあったとみていい。遅れてきた国に住む者だけが抱くことのできる、そして抱かざるをえなくなる感情にほかならない。「機械化された都市の中では、人は循環するか、そうでなければ滅びてしまう――という事実の認識にサンテリーアの全てのデザインは負っている」、それは近代建築史に未来派を復権させたレイナー・バンハムのことばでもあった。

ミラノ2000
アントニオ・サンテリーア Antonio Sant'elia
「ミラノ2000」
Electric Power Plant 1914


 とすれば、サンテリーアは近代の機械文明とそれが開く可能性に建築的なヴィジョンを与えただけなのだろうか。彼は建築に文明的な、社会的な視点をとり込もうとしたのでは決してない。そうではなく、建築それ自体が文明であり社会たりうることを夢見たのだ。
 「今日、われわれはトリエステで眠ろう。さもなくば、英雄たちとともにパラダイスで眠るのだ。」
サンテリーアの最期のことばは、確信をもって、その夢の所在を暗示しているようだ。

宗教建築
アントニオ・サンテリーア Antonio Sant'elia
「宗教建築」 1915



新都市
アントニオ・サンテリーア Antonio Sant'elia
「チッタ・ヌオーヴァ(新都市)」
citta nuova 1914


ひこさか ゆたか

*現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.94』(1983年9月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
・「『新都市』への習作」
http://www.allposters.com/-sp/Study-Design-for-a-New-Town-1914-Posters_i1590098_.htm

・「未来都市」
https://www.flickr.com/photos/evandagan/3199631234

・「発電所」
https://paperarch.wordpress.com/italian-futurism/

・「ミラノ2000」
https://jp.pinterest.com/pin/158751955585346827/

・「宗教建築」
『死ぬまでに見たい名建築家のドローイング300』ニール・ビンガム、谷本開作訳 エクスナレッジ 2014年

・「チッタ・ヌオーヴァ(新都市)」
『死ぬまでに見たい名建築家のドローイング300』 ニール・ビンガム、谷本開作訳 エクスナレッジ 2014年

■彦坂 裕 Yutaka HIKOSAKA
建築家・環境デザイナー、クリエイティブディレクター
株式会社スペースインキュベータ代表取締役、日本建築家協会会員
新日本様式協議会評議委員(経済産業省、文化庁、国土交通省、外務省管轄)
北京徳稲教育機構(DeTao Masters Academy)大師(上海SIVA-CCIC教授)
東京大学工学部都市工学科・同大学院工学系研究科修士課程卒業(MA1978年)

<主たる業務実績>
玉川高島屋SC20周年リニューアルデザイン/二子玉川エリアの環境グランドデザイン
日立市科学館/NTTインターコミュニケーションセンター/高木盆栽美術館東京分館/レノックスガレージハウス/茂木本家美術館(MOMOA)
早稲田大学本庄キャンパスグランドデザイン/香港オーシャンターミナル改造計画/豊洲IHI敷地開発グランドデザイン/東京ミッドタウングランドデザインなど

2017年アスタナ万博日本館基本計画策定委員会座長
2015年ミラノ万博日本館基本計画策定委員会座長
2010年上海万博日本館プロデューサー
2005年愛・地球博日本政府館(長久手・瀬戸両館)クリエイティブ統括ディレクター

著書:『シティダスト・コレクション』(勁草書房)、『建築の変容』(INAX叢書)、『夢みるスケール』(彰国社)ほか
~~~~~~~~~~~
●今日のお勧めはドメニコ・ベッリ Domenico Belliです。
ベッリ「宇宙の恋人たち」
ドメニコ・ベッリ Domenico Belli
GLI AMANTI OEL COSMO 宇宙の恋人たち
1970 油彩
94.0x67.0cm Signed

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。

建築家のドローイング 第6回 オットー・ワグナー

リレー連載
建築家のドローイング 第6回
オットー・ワグナー(Otto Wagner)〔1841一1918〕

八束はじめ


 建築家のドローイングと一言でいっても、それらのもつ意味は、必ずしも一様ではない。現実の建物のプレゼンテーションないし記録という意味もあれば、現実と離れて紙の上にだけ定着され得るプロジェクトである場合もある。このシリーズでとりあげられてきた建築家たちのドローイングでいえば、後者に属するケースが多かったわけだが、前回のシンケルと並んで今回とりあげるオットー・ワグナーの場合は、それとは違っている。ルクーガンディーが時代の趨勢からいえば全くマイナーな存在にすぎなかったのとは対照的にシンケルもワグナーも当時の建築家として望み得る最高の地位を極めた人々であり、数多くの、それも社会的にも重要な意味をもった実作を残している。当然、ワグナ−でも紙上で終ったプロジェクトは少なからずあるが、それでも、ワグナーにとってドロ−イングは実作で満たされぬことへの補償行為とは全く違うし、ましてブレやルクーのように実現されるはずもない幻想を紙面に定着しようとするものではなかった。その意味で彼のドローイングは全くオーソドックスな、実現されるべきもののプレゼンテーションとしてのそれである。ワグナーのドローイングを独特にしているものは、プロジェクトの内容というよりは、むしろ、表層的な部分、つまりそのスタイルである。正確にいえば、単なるドローイング・スタイルというにはとどまらない、その如何にも絵画的なスタイルが、逆に建築自体に及び、更には都市空間の全体の雰囲気にまで感応しているのである。つまり、この場合、ワグナーの建築芸術にとって、そしてそのドローイング・スタイルにとって、ウィーンという特異な都市の空間が、欠くべからざる醸成器になっているということだ。

美術アカデミー計画案
オットー・ワグナー Otto Wagner
「美術アカデミー案」

 ウィーンほど多くの書き手を惹きつけたまちは殆んどない。パリがそうだといってもよいが、それはヨーロッパ全体の首都である。ウィーンは、少なくともオーストリア・ハンガリー帝国の瓦解以降、ヨーロッパ全体から見ればローカルな都市にすぎない。にも拘らず、この都会がその住民に、そしてヨーロッパ文化に対して及ぼした呪縛は、パリに優に拮抗している。建築に関していえば、パリはマンサールやガブリエル、ブレ、ルドゥ、ガルニエ、ペレーそしてル・コルビュジエをもったが、彼らとその都市空間との関係は自からが生んだ建築家たちにウィーンが及ぼしたものとは同質のものではない。フィッシャー・フォン・エルラッハ(バロック)、ゼンパー(ネオ・バロック)、ワグナー(ゼツェッション)そしてロースや現代のハンス・ホラインに至るまでの建築家のスタイルは、ウィーンという都市への感応抜きには決して成立し得ないものである。アドルフ・ロースはウィーンのまちのもつブルジョア文化の世紀末的な虚偽性に対して、著述家カール・クラウスや作曲家アルノルド・シェーンベルクと共に激しい反発を示し、告発したのだったが、それもまたウィーンの精神文化、都市文化の一部であったには違いないのである。
 ワグナーは、こうしたハプスプルグ家の首都において、文字通りの重鎮であった。とくに1894年、53才で美術アカデミーの教授に就任することによってその名声及び影響力は決定的なものとなった。ワグナーは基本的にかなり晩成のタイプだったといってよい。彼が建築史に名を残す自己のスタイルを確立したのは、この時期あたりで、それ以前のスタイルは基本的に伝統の枠からはずれるものではなかった。ワグナーの新しいスタイルは全ヨーロッパ的な新しい流れ、つまり、フランスではアール・ヌーボーと呼ばれ、イタリアではスティロ・リバティと呼ばれ、ドイツではユーゲント・シュティルと呼ばれたものと密接に関っていたが、彼を旗頭とするウィーンのゼツェッションはその中で独自な位置を占めている。パリのギマールやトリノのダロンコ、バルセロナのガウディらと比べると、ワグナーのスタイルは本質的には古典主義に根ざしているために、世紀末的な退嬰性よりも、むしろ近代的な合理性へと容易に通底していくような種類のものであった。ドローイングを見ても、この本質的な部分での節度のような一線がはっきりと守られていたことを見てとるのは困難ではない。つまり初期のネオ・バロック的なデザインから比べるとゼツェッション時代のそれは著しく平面性(彫刻的というよりはレリーフ的な装飾性、量塊というよりは面で構成されたという感の強いマッス)と軽さを増しているとはいうものの、線はあくまで明確な輪郭を与えるように引かれている。ワグナーのドローイングで驚かされるのは、通例、実物とドローイングを比べると殆んど不可避的な両者の段差が、全くといってよいほど感じられないということである。ドローイングで獲得されている線や面の質がそのまま実作でも生かされているということは、確かなメチエの存在の証しでもあるが、それだけ絵画的なスタイルが採用されていたということでもある。ドローイングのスタイルが、例えば鋳鉄の技術的な可能性や、大理石の工場で整形されたうすいパネルの性能(平滑性)などと相談しながら決められていたといってもよい。ゼツェッションの特色である曲線は、確かに多用されるが、それはギマールのそれが植物が無差別的に繁茂していくといった趣きをもっていたのに比べれば、明らかに目的地を知って引かれた曲線である。むしろワグナーにおいては、古典主義の節度とゼツェッション的な曲線の魅惑とのバランスが確かめられながらデザインが進められている。ギマールやダロンコが時に悪趣味に堕しかねないのに対して、ワグナーがそうならないのは、その両者のヒエラルキーが決して侵されることがないためである。だから彼は、そのスタイル上の特徴(魅惑)を失うことなく、晩年の郵便貯金局では、完全に近代建築の規範に数えられる傑作をものし得た。ワグナーの世紀末は充分に世紀末でありながら、つまり金色を多用した華麗、繊細で脆そうな曲線の文彩によって存在性の稀薄さの故の、表面性の魅惑にいささかも欠けていないでありながら、しかも全く健康的である。この奇妙なバランスの感覚は、多分ウィーン風と呼び得るものなのだ。ウィーンの中心部にはエルラッハ(子)のバロックの宮殿のとなりにワグナーの華美なアパートがたち、その斜め向いにはロースがそれらの壘惑性と対抗するかのように無愛想なデパートをつくっているが、そのロースにも官能性の匂いは隠し得ない。そのまたそばにはホラインの小さな宝石屋がたっている。そのファサードには金色の崩れたような亀裂が入れられ、ホライン独特の孔のイメージを漂わせている。不思議なことにワグナーの健康性とロースやホラインのニヒリズムはよくあっている。それがウィーンなのだ。脆い表層と深層のバランスの上にたつことによって、それはいつでも世紀末的なのだ。

近代芸術のためのギャラリー
オットー・ワグナー Otto Wagner
「近代芸術のためのギャラリー」

やつか はじめ

*現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.95』(1983年8月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「美術アカデミー案」
現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.95』より
「近代芸術のためのギャラリー」
www.drawingcenter.org

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

●今日のお勧めは刊行されたばかりの『野田哲也全作品 Tetsuya Noda The Works 1964-2015』特装版です。
野田哲也_レゾネ_表紙『野田哲也 全作品 Tetsuya Noda The Works 1964 - 2016』
2016年4月4日発行
著者 野田哲也
発行 阿部出版株式会社
29.7×22.2cm(A4判)
263ページ

特装版:75,000円(+税)
※特装版には下記のオリジナル版画が一点挿入されています。
日記 2014年1月22日野田哲也 Tetsuya NODA
"Diary; Jan. 22nd '14"

2014年
木版・シルクスクリーン
イメージサイズ:20.9×17.0cm
シートサイズ:26.5×20.5cm
Ed.100  サインあり

ときの忘れもので扱っています。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
 ・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。
 ・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」はしばらく休載します。
 ・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
 ・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
 ・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
 ・森下泰輔のエッセイ「 戦後・現代美術事件簿」は毎月18日の更新です。
 ・小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。
 ・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。
 ・八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」は毎月25日の更新です。
 ・スタッフSの「海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
 ・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は終了しました。
 ・荒井由泰のエッセイ「いとしの国ブータン紀行」は終了しました。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイや資料を随時紹介します。
 ・「オノサト・トシノブの世界」は円を描き続けた作家の生涯と作品を関係資料や評論によって紹介します。
 ・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
 ・「現代版画センターの記録」は随時更新します。
今までのバックナンバーの一部はホームページに転載しています。

●ときの忘れものは連休明けの5月10日から、オクヤナオミの個展を開催します。
OKUYA_DM_1200
オクヤナオミ展
会期:2016年5月10日(火)〜5月28日(土)
*日・月・祝日休廊
本展では、パリ時代の油彩6点を中心にご覧頂きます。
同時期にアートフェア東京とアート釜山にも出展しますが、画廊は通常通り営業していますので、どうぞお出かけください。
(画面をクリックすると拡大します)

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

●ときの忘れものは2016年3月より日曜、月曜、祝日は休廊します
従来企画展開催中は無休で営業していましたが、今後は企画展を開催中でも、日曜、月曜、祝日は休廊します。
tokinowasuremono
緑豊かな青山のギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱い、毎月企画展を開催しています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
Archives
Categories
最新コメント
記事検索
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ