夜野悠のエッセイ

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」第12回(最終回)

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

第十二回(最終回)◇「書斎」も漂流する―知の方舟とles épave(漂着物)

書物が言葉を運ぶ方舟ならば、書斎もまた書物を運ぶひとつの方舟である。エッセイ『書斎の漂流物』、今回は筆者自身が漂流物となって、書斎の佇まいの変遷とともに、この知的航海を振り返ってみたい。「レ・ザパァヴ (les épave)」というフランス語がある。「漂着物」という意味だが、調べてみると意味は、おんぼろ車 漂着物 ボロボロにされたもの 廃船 廃虚 敗残 残骸 海難 漂流物 破壊 荒廃 難破 難破する 難破船…などどれも浮沈を繰り返してきたわが「知の方舟」を表現するのに当てはまりそうである。各時代の書斎は筆者の精神的航海と人生に密接にリンクしている。

PHOTO1写真<1>
ノアの方舟。書物が言葉を運ぶ方舟ならば、書斎もまた書物を運ぶひとつの方舟である。


わが書斎の歴史は大学時代に始まる。池袋のはずれの家賃三千円の三畳のぼろアパート。時代は1969年、東大安田講堂陥落の年。この超狭小の空間に18歳から22歳まで5年も暮らした。あるとき大学で精神医学を専攻していたころ、同級生15人近く(思い出してみれば、ほぼ女性だった)をこの部屋に招待し、すき焼きパーティをしたことがあった。隣同士の隙間もなく座り、よくこんな人数が入ったかのか不思議。良家のお嬢様が多く、今から思えばこのようなみすぼらしい貧乏下宿に招かれ吃驚していたのではなかろうか。若さゆえとは言え赤面の至りである。岩波文庫の赤帯(外国文学)、青帯(哲学・歴史など)、黄帯(日本の古典文学)、緑帯(日本の近現代文学)…と片っ端から東西のクラシックを読破したのもこのころ。「この男には読むことが一切であり、書物があたかも性愛の対象だった」(「黄金仮面の王」マルセル・シュオブ−解説種村季弘 コーベブックス 1972年)のかもしれない。河出書房新社のドストエフスキー全集を手に入れ、書簡、日記のたぐいまですべて読みつくした。三畳時代は書斎の揺籃期であった。

この後、会社に入り長崎、福岡、東京などを転々、最後は仙台で早期退職。この時代、特に前半は仕事が忙しく、ゆっくり本と戯れることも少なく、いわば書斎の「暗黒時代」であった。

PHOTO2写真<2>
仙台時代の寮の書斎。仕事の合間に古書店を巡る日々。マニアックな古本レコード屋『S』や、仙台のブックカフェのはしり『火星の庭』や倉庫型古書店『万葉堂』など。本当の意味での書斎はここから始まった。『聊斎志異』など中国の不思議な怪異譚の世界にはまったのもこのころ。


PHOTO3写真<3>
書斎の書棚から。パリのパサージュについて書かれた『PARIS CAPITALE DU XIXe SIECLE, LE LIVRE DES PASSAGES』(WALTER BENJAMIN , Les Éditions du Cerf 1989年)と著者ベンヤミン。「蒐集家の意識のなかでは一冊一冊の本の一番重要な運命は、自分自身との邂逅、自分自身の収集品との邂逅です。真の蒐集家にとっては、一冊の古書を手に入れることは、その本が生まれかわることです。…切り取ること、引抜くことはそれぞれ新たな新生の手順なのです。古い世界を新しくする…」(『蔵書を荷解きする』ベンヤミン 「『パサージュ論』熟読玩味」鹿島茂 青土社 1996年)。ベンヤミンの著作は旅をするときの必携書物であった。


PHOTO4写真<4>
書斎の書棚から。絵本『海の小娘』(若き日の横尾忠則と宇野亜喜良が本のページの始めと終わりからそれぞれ絵物語を展開、本の真ん中でそれぞれの作品が出会い重なる凝った作りになっている。 朝日出版 1962年)。東京・井の頭公園隣接のアパートに住んでいたころ、吉祥寺にあった絵本専門店で入手。棚に二冊あったが1冊で我慢したのは同好の士への武士の情け。


PHOTO5写真<5>
寺山修司関連資料の棚。一時期、演劇や実験映像、短歌などへの関心から寺山修司関連の文献や資料を徹底的に蒐集したことがあった。『にっぽん劇場写真帖』(室町書房 1968年)をはじめとする初期の希少本、音楽、映像なども含め600点ぐらい。今では書棚の片隅にひっそり。


PHOTO6写真<6>
仙台の寮時代の書棚(一部)


PHOTO7写真<7>
仙台の寮のテラスで読書。テーブルと椅子はパリで使われていたもの。


PHOTO8写真<8>
仙台時代によく読んでいたのがヘンリー・ミラー。蔵書のなかでも大きな位置を占めている作家の一人。写真は美しい装丁の『Order and Chaos chez Hans Reichel』(Henry Miller A-Z限定26部特装版署名入り Published by Loujon Press, Tucson, Arizona 1966) 。「根が生の流れの中にあれば、人は蓮のごとく水面に浮び、花を開き、実を結ぶであろう。…彼の内部にある生命は生長発展となって発現するであろう。しかも生長発展は、無限の課程である。凋落も死も生長の一部であるがゆえに、彼は枯れることをおそれない」(ヘンリー・ミラーの言葉『セクサス』大久保康雄訳 ヘンリー・ミラー全集解説 新潮社 1966年)


PHOTO9写真<9>
東京・阿佐ヶ谷時代の書斎。とても落ち着く空間だった。2011年3月11日の大地震と原発事故がなかったら、ここでずっと過ごしていたかもしれない。「室内は芸術の避難場所であり、この室内の真の居住者は蒐集家である。(『パリ-19世紀の首都』ベンヤミン ―「『パサージュ論』熟読玩味」 鹿島茂 青土社 1996年)


PHOTO10写真<10>
東京・阿佐ヶ谷時代の書斎。1DKの狭い空間に天井まで届く書棚をぎっしりと本が占有。このころに、シュルレアリスムの文献など書物コレクションの原型がほぼ完成。


PHOTO11写真<11>
阿佐ヶ谷時代によく読んでいたグスタフ・ルネ・ホッケの蔵書のうち『迷宮としての世界』のドイツ版原書(中央 DIE WELT ALS LABYRINTH ,GUSTAV RENE HOCKE ,ROWOHLT 1957年)


PHOTO12写真<12>
阿佐ヶ谷時代、よく読んでいた建築家キースラー関係の本と山口勝弘の「不定形美術ろん」(学芸書林 1967年)キースラーの構想した建築物は軟体動物のような不定形な姿で知られる。


PHOTO13写真<13>
建築家前川國夫設計の阿佐ヶ谷住宅。ここに住みたかったが、すでに取り壊しが決まっていて阿佐ヶ谷住宅に隣接するアパートを探し出し住んでいた。昭和の空気がそこに保存されていた。喧噪の都会にあって、そこだけ時間の流れが止った昭和のサンクチュアリ(聖域)であった。


会社を退社後移り住んだ阿佐ヶ谷の9年(1993年から)は、書斎の黄金時代。古書店との蜜月が続く。阿佐ヶ谷北口にあった『銀星舎』や名曲喫茶『ヴィオロン』、阿佐ヶ谷南の『書源』など。『銀星舎』の主人とは今でも交流が続いている。会社を辞めた直後の3年間、当時明治学院大学で教鞭をとっていた巖谷國士氏のゼミ(院ゼミ、4年ゼミ、3年の仏語<ランボー「イリュミナシオン」講読>)に参加。埼玉県立近代美術館であった澁澤龍彦展を訪れていた巌谷氏に頼み込んでゼミに入れてもらい、3年間皆勤賞で出席した。ゼミは他大学の学生や社会人も受け入れ、素晴らしい講義と学者としての懐の深さに敬服。今でも感謝の気持ちを忘れることはない。

PHOTO14写真<14>
パリ7区の屋根裏部屋のアパルトマン時代の「ポータブル」ミニ書斎。わずか7平方メートル。フランスでは9平方メートル以下に人が住むと違法?になるらしい。カナダ半年、モロッコ2か月 パリ2年(2012年から2013年) 海外を漂流した臨時書斎。 どこに行っても現地で集めた蔵書は、書棚を眺めてみると国内に残した書斎を縮小した形となっているから不思議だ。長い間に形成された嗜好がそうさせるのか。「パリは風景となってかれに開かれ、部屋となってかれを閉じ込める」(「新しい天使」 ベンヤミン著作集13巻 1994年 晶文社)


PHOTO15写真<15>
パリ7区のアパルトマン7階からの眺め。わずか7平方メートル、エレベーターなし。食料や水の買い出しは大変だった。


PHOTO16写真<16>
パリ時代に入手したボードレールの『パリの憂鬱』の豆本(『LE SPLEEN DE PARIS機↓供 BAUDELAIRE ,ÉDITION DE L’ABEILLE D’OR 1930年)。「完全な遊歩者にとって、情熱的な観察者にとって、数の中に、波打つものの中に、運動の中に、うつろい易いものと無限なるものの中に住いを定めることは、涯しもない快楽である」(「ボードレール全集4」―『現代生活の画家』 阿部良雄訳 筑摩書房 1987年)


PHOTO17写真<17>
パリの屋根裏部屋時代に入手したフーリエ全集(Oeuvres completes de Ch. Fourier ,Édition Antropos Paris, 1966年 後ろの美しいブルーの本)。モンマルトル墓地にあるにあるフーリエのお墓にもお参りした。「恋愛と食こそそういう有益なものなのだということがわかるだろう。この二つを人間にとって今よりもっと大切なものにし、このうえなく強力な熱狂の動因に基礎をおいて宗教的統一の絆をつくりあげるには、両者を神のように崇めるべきなのだ」(「愛の新世界」シャルル・フーリエ 福島知己訳 作品社 2006年)


PHOTO18写真<18>
2011年からほぼ3年、海外に滞在。途中阿佐ヶ谷から福岡へ荷物を移した時の仮の書斎


PHOTO19写真<19>
2013年、パリ7区の屋根裏部屋を引き払い、京都へ。京町屋に転居。


PHOTO20写真<20>
ノヴァーリスは書斎のそれぞれの時代を問わず、愛読している。『断片』(ノヴァーリス 第一書房 1939年)と、美しい装丁の函入り(第一書房 1931年版)。「我等は目に見えるものよりも、目に見えざるものと、より近く結ばれている」(『断片』)。


PHOTO21写真<21>
京都の町屋時代の書斎。奥には坪庭があり、真っ白な山茶花や椿、姫林檎の花が咲いた。


PHOTO22写真<22>
森山大道や石元泰博、中平卓馬などの写真集。写真集のコレクションは書斎作り初期のころから進めていた。


PHOTO23写真<23>
京都の町屋の書斎(2013年から2016年)天井が高く、和とモダンの趣のある書斎。『実験映画の夕べ』などプライベートサロンを何度か催した。書斎の第二期黄金時代。一番愛着深い空間だ。


PHOTO24写真<24>
京都の町屋の書斎(2013年から2016年)。ここで過ごした日々が懐かしい。 


PHOTO25写真<25>
京都の町屋時代を終え、2016年から平安神宮近くの家に転居。現在の書斎。あらためて書棚を見回してみると、シュルレアリスム関連の本、資料が圧倒している。


PHOTO26写真<26>
京都(現在の書斎、一階)。書庫は二階にあるが、蔵書の重みで床が抜けないか心配。書斎の第三期黄金時代になるか。それでもなお書斎は膨張し続ける。
最近は「和」の世界にどっぷり漬かりつつある。能を物語、文学として「読む」と、現代にも通じる精神世界が浮き上がってくると感じることがある。現世に執着する死者が霊となって生者と対話する能舞台。世阿弥らの描く妄執、物狂(ものぐるひ)の情念世界に共感を覚える。観世元雅の「弱法師(よろぼし)」は親から捨てられ盲目となった俊徳丸が乞食坊主となってさすらい、ついに親と対面する。心眼で周囲の障害物がいっさい消え去り、「見るぞとよ、見るぞとよ」と輝く難波の海の彼方に西方浄土を見る。「すべての美しい風景は心のうちにある」(『能を読む 元雅と禅竹―夢と死とエロス』梅原猛、観世清和監修 角川学芸出版 2013年)のである。筆者のように旅から旅に明け暮れた遁世者(トンゼモノ)には、能の世界は心に深く浸透する。

PHOTO27写真<27>
梅原猛、観世清和監修のシリーズ『能を読む』(角川学芸出版)。


PHOTO28写真<28>
「日本の伝統音楽」「にっぽんの子守唄」のレコード。フリージャズや実験音楽も聴いてきたが、最近は雅楽や能、声明(しょうみょう)、土着的な民謡など日本の音楽のルーツにつながるものに惹かれる。


ここまで知の大海を「漂流」し、現在の書斎にたどり着いて感じたことは、はるか時空を超えた古人(いにしえびと)との出会いと対話の楽しみであったように思う。偉大な人々を書斎に召還し、ゆっくり語り合う知の愉悦。書棚の書物は時代とともに一部は入れ替わり、増殖していった。ただ、植物を愛着をこめて育てるように書斎の書棚にしばしば手を伸ばし、二重三重になって書棚の背後に隠れた本を入れ替えたり手入れを怠ると、書斎はあっという間に「知のモルグ(死体置き場)」になってしまう。書斎は「生きている」のだ。

PHOTO29写真<29>
新居に移ってから入手したアンドレ・ブルトンの手書きテキストとイブ・タンギーの絵による本『VOLIERE(鳥かご)』(Andre BRETON & Yves TANGUY,Pierre Matisse New York 1963年)の一部。


PHOTO30写真<30>
京都の某「変態骨董屋」の片隅で奇跡の発見。つい最近超格安で入手したロシアバレエの公演プログラム『BALLETS RUSSES』(L’édition Artistique 1928年 公演チケット入り)。表紙デザインが美しく秀逸。ネットで調べたところ十万近い価格。こういうものが意外なところから出てくるのが京都の奥深さ。


いつかは訪れるであろうコレクションの解体と再生。書斎の主が不在になれば、書斎はその引力の中心点を失って崩壊する。アンドレ・ブルトンや瀧口修造らの知の巨大な宇宙が形成されていた書斎でさえ、本人がいなくなれば一気に消え去ってしまう。一般の市井人の書斎などあっけない。蒐集した書物や作品も実は所有しているようで所有していないのだ。人生が時間を借りているように、所有物も生きている間、借りているに過ぎない。
書斎はいつの日か解体され、散り散りになった愛する本たちは、また見知らぬだれかの手にわたって、新たな書斎の一部となる。そして次の世代の知の箱舟=書斎が形成されるのである。書斎の解体は寂しいことではあるが、菅原道真の
「東風吹かば
匂いおこせよ
梅の花
主なしとて
春な忘れそ」の歌を思い起こしたい。

「遊民の最後の旅は死であり、その目標は新しさである。『未知の底に 新たなるものを見いだすために』」(『ベンヤミン著作集6』−『ボードレール』 晶文社 1992年)。さて、この沈没船のような書斎でしばしやすらう書物たちは主なきあと、いったいどこへ漂流していくのだろうか。

―『書斎の漂流物』(完)―

よるの ゆう

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)−モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論掘戮如◆慄鳴鮮1987−消えゆく夢幻の風景』、昨年12月の同展『記憶論検戮任麓命燭肇轡絅襯譽▲螢好爐鬟皀繊璽佞砲靴深命織ぅ鵐好織譟璽轡腑鵝慙上のVOLIERE(鳥かご)―路傍に佇む女神たち』を展示。京都市在住。

*画廊亭主敬白
京都の石原輝雄さんの推薦で連載をお願いした夜野悠さんですが、毎回実に濃厚な香りただよう書斎の漂流物の数々をご紹介していただきました。
まさにあっという間の一年(12回)で、今回で最終回だなんてとても残念です。
実は亭主も担当の秋葉もときの忘れもの全員がまだ夜野さんとお目にかかっていません。一年の間にはその機会もあるだろうとのんびりしていたのがそもそもの間違い、夜野さん、ご挨拶もせずたいへん失礼しました。
ほんとうにありがとうございました。京都でお会いできるのを楽しみにしています。

●男性陣はNY、留守を守るのは社長以下女性陣。終日来廊者もなく静かに・・・暮れようとしたそのときドアを開けて入ってきたのはイランの彫刻家夫婦とその父親、もちろん初めてです。奈良のどこかに彫刻を設置に来日し、宿泊した大阪のホテルに飾ってあった絵がいたく気に入り、さっそくスマホピコピコして検索したら、当然のことながら(エヘン)googleトップにでたのは「ときの忘れもの」。
めでたくお買い上げいただきました。とても穏やかで仲の良いご家族でした(トランプさんに見せてあげたい)。
ということで本日のお勧め作品は、百瀬寿です。
01_Square-Y_and_P_by_S_and_G百瀬寿
"Square - Y and P by S and G"
1984
53.0×53.0cm
Ed.150 サインあり

02_Square-Golds_Metallic_G_and_B百瀬寿
"Square - Golds, Metallic G and B"
1984
53.0×53.0cm
Ed.150 サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆ニューヨークで開催されるArt on Paperに出展します。
artonpaper_small_600


会期:2017年3月2日[木]〜3月5日[日]
VIPプレビュー:2017年3月2日(木)
一般公開:2017年3月3日(金)〜5日(日)11:00〜19:00
(5日は12:00から18:00まで)
会場:Pier 36 New York
299 South St, New York, NY 10002
ときの忘れものブースナンバー:G15
公式サイト:http://thepaperfair.com/ny
出品作家:瑛九磯崎新安藤忠雄内間安瑆野口琢郎光嶋裕介細江英公植田正治堀尾貞治ジョナス・メカス草間彌生マイケル・グレイヴス、他
*若干ですが招待券があります。ご希望の方はメールにてお申込みください。

◆ときの忘れものは「小野隆生コレクション展」を開催します。
会期:2017年3月7日[火]―3月25日[土] *日・月・祝日休廊
201703_ONO
岩手県に生まれた小野隆生は、1971年イタリアに渡ります。国立ローマ中央修復研究所絵画科を卒業し、1977〜1985年にイタリア各地の教会壁画や美術館収蔵作品の修復に携わり、ジョットやティツィアーノらの作品に直接触れ、古典技術を習得しました。1976年銀座・現代画廊で初個展開催。資生堂ギャラリー[椿会展]に出品。「ライバルは500年前のルネサンスの画家たち」との揺るぎない精神でテンペラ画手法による制作をしています。2008年池田20世紀美術館で「描かれた影の記憶 小野隆生展 イタリアでの活動 30年」 を開催しました。
本展では、小野の1970年代の初期作品から2000年代の近作まで、油彩・テンペラ・ドローイングなど約15点をご覧いただきます。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
 ・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。
 ・新連載・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
 ・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
 ・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
 ・新連載・倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。
 ・小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。
 ・森下隆のエッセイ「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」は毎月21日の更新です。
 ・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」は毎月25日の更新です。
 ・スタッフSの「海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
 ・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」はしばらく休載します。
 ・大野幸のエッセイ<ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサート>は随時更新します。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・普後均のエッセイ「写真という海」は終了しました。
 ・八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は終了しました。
 ・光嶋裕介のエッセイ「和紙に挑む」は終了しました。
 ・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は終了しました(時々番外編あり)。
 ・荒井由泰のエッセイ「いとしの国ブータン紀行」は終了しました。
 ・森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」は終了しました。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイや資料を随時紹介します。
 ・「オノサト・トシノブの世界」は円を描き続けた作家の生涯と作品を関係資料や評論によって紹介します。
 ・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。
土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
 ・「関根伸夫ともの派」はロスアンゼルスで制作を続ける関根伸夫と「もの派」について作品や資料によって紹介します。
 ・「現代版画センターの記録」は随時更新します。
今までのバックナンバーの一部はホームページに転載しています。

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」第11回

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

第十一回◇妖精のディスタンス―瀧口修造の小宇宙

瀧口修造といえば、筆者はまずこの写真を想起する。瀧口修造は1958年、パリ9区・フォンテーヌ通り42番地にあるシュルレアリスムを主導したアンドレ・ブルトンの書斎を訪れた。まるでシュルレアリスム界の大天使と熾天使とが美の法廷で会見でもしているかのようだ。

photo1a写真<1>
『アンドレ・ブルトンと瀧口修造−第13回オマージュ瀧口修造展』(1993年 佐谷画廊 撮影:ルネ・ロラン)から。


瀧口修造。戦前から戦後、国際的な超現実主義運動の動きのなかで、常に日本の中心点にいた人である。筆者にとって、はるか遠くにいて至近の距離にいる憧憬の存在。実験詩や、コスモポリタン的な美の視点で俯瞰する美術評論、美のミクロコスモスを絵具と紙で吸い取ったデカルコマニーなどの作品群…。日本のシュルレアリスムのLe point sublime(至高点)にあった人であることは間違いない。
瀧口修造(1903-1979)は富山県出身で医師の家に生まれたが、跡を継がず慶応義塾大学で西脇順三郎に師事、モダニズムやシュルレアリスムの影響を受けた。アンドレ・ブルトンの『超現実主義と絵画』(1930)の翻訳を手始めに『近代芸術』(1938)などシュルレアリスムの紹介や美術評論に力を尽くしたほか、阿部芳文と詩画集『妖精の距離』(1937年)、『瀧口修造の詩的実験1927-1937』(思潮社 1967年)を刊行するなど詩人として知られる。『アンドレ・ブルトン集成』(人文書院 1970−71年)の編集にも携わった。1951年代の実験工房やタケミヤ画廊での若手アーティストの発掘や交流にもエネルギーを注ぎ、若い芸術家たちが新しい美の形を発見、発表する空間を与えた。瀧口修造の美の原点は「…発生の現場に惹きつけられるだけである」(瀧口修造「白と黒の断想」幻戯書房 2011年)という創作の現場に立ち会う興味にあったのかもしれない。

photo2a写真<2>
瀧口修造のサイン


瀧口修造の周辺にはアーティスト、作家、詩人、音楽家らが綺羅星のごとく並ぶ。「実験工房」関係では山口勝弘北代省三福島秀子、武満徹、大辻清司、秋山邦晴らが関わった。オブジェ『検眼図』をともに制作した岡崎和郎、版画家の加納光於とは『稲妻捕り』(1978年)の共著もある。音楽家武満徹や『プサイの函』の松澤宥との深い精神的交流もよく知られている。海外ではアンドレ・ブルトンをはじめ、マルセル・デュシャンサム・フランシスらと交流。タピエスとは詩画集『物質のまなざし』を、ミロとは詩画集『手づくり諺』をそれぞれ刊行した。
「同時代」と遠く離れていた筆者の青春時代。なぜか時代にくるりと背を向け、時代の最前線と直接触れ合えなかったことが悔やまれる。たとえば1969年に設立された「美学校」。土方巽、種村季弘、唐十郎、澁澤龍彦、粟津則雄らの諸氏が初年度の講師陣。当時のそれぞれの分野の最前線にいた錚々たるメンバーである。瀧口修造は「声が小さい」ということで当初予定していた講師陣からはずれたそうだが…。大学に行かず「美学校」に通っていれば、また違った人生になっていたことだろうと時々ふと思う。「同時代」という最高のオペラの最前列席のプラチナチケットを持ちながら見逃してしまったような悔しさがある。

photo3a写真<3>
美学校の当時の広告(雑誌『美術手帖』 1969年4月号)。講師陣の顔ぶれは、ただただ「凄い!」というしか言いようがない。この広告では瀧口修造の名前がある。


photo4a写真<4>
古本の中に挟まっていた瀧口修造の生写真。額装して書斎に飾ってある。


だいぶ以前、買い求めた古本から書斎の瀧口修造の生写真がパラリと出てきたことがあった。何の本にはさまれていたのか失念したが、瀧口修造と親しかった東野芳明が所蔵していたとされる写真のなかに同じものがあるのをネット上で見つけた。撮影者は不詳だが、これも求めているものの情念による引力の働きであろうか。
富山から送られてきた瀧口修造特集の雑誌『とやま文学』(第34号)が届いた日、狼のミニチュアを道端で拾った。こうしたオブジェとの出会いもまたシュルレアリスム的偶然であり、何かの誰かからのメッセージ、交信だと思うようにしている。「連帯を求めて孤立を恐れぬ孤独な一匹狼であれ」という異界からのシグナルか。なにか見えざるものの「引力」が働いているのを感じる時がある。

photo5a写真<5>
道端で拾った狼のミニチュアと雑誌『とやま文学』


2005年に世田谷美術館であった『瀧口修造 夢の漂流物』展。瀧口のたくさんのデカルコマニーに囲まれた美術館の大広間で、高橋悠治によるバッハの「マタイ受難曲」のピアノによるオマージュ演奏があった。瀧口修造が天界からその場に召喚されたように感じるほど鬼気迫る演奏だった。瀧口の作品とバッハのマタイ受難曲の音楽が溶融し、音のデカルコマニーとして記憶のなかに転写されたような気がする。

photo6a写真<6>
『瀧口修造 夢の漂流物』展では、瀧口修造のデカルコマニーが多数展示されていた。作品を眺めていると、まさに「有の世界が無を訪れ、無の世界が有に呼びかける」(「黒の中のオレンジ」瀧口修造−『現代の思想6 美の冒険』 平凡社 1968年)空間がそこにあることをひしひしと感じた。


photo7a写真<7>
『瀧口修造 夢の漂流物』展の関連イベント「デカルコマニー体験」で作った筆者の習作。


慶応義塾大学が2009年に出版した瀧口修造と旅をテーマにした変型本『瀧口修造1958−旅する眼差し』(限定400部)。瀧口の旅をオブジェ化したような本だ。1958年、瀧口修造がヨーロッパ滞在中に撮影した写真を中心に構成。「旅の手帖」や綾子「夫人宛絵葉書」のファクシミリやオリジナルプリントなどが同梱され特製ボックスに収めてある。

photo8a写真<8>
『瀧口修造1958−旅する眼差し』から。手前は瀧口修造撮影のベルギー・ブルッヘ(ブリュージュ)の写真。


photo9a写真<9>
『瀧口修造1958−旅する眼差し』から。下は機中の瀧口修造。


あるとき瀧口修造の署名本がどうしても入手したくなり、東京在住中たまたま訪れた神保町の古書店で『畧説 虐殺された詩人』の署名本を見つけた。署名本は著者をわが書斎に「降臨」させる筆者にとっては精神の触媒のようなものなのである。

photo10a写真<10>
瀧口修造の署名本『畧説 虐殺された詩人』


東京在住中に、青山のとある古書店でレアな同人誌『マリオネット』の創刊号(1971年 限定150部)を手に入れる機会があった。本の扉には瀧口修造の詩『人形餞』が掲載されている。「人よ、人はみなおのれの人形をかくしもつ。人間の人形。それはなんと孤独で、隠れたがることか…」。まるで金属板に精神の鉄筆でもって書かれたかのような詩がここにある。

photo11a写真<11>
同人誌『マリオネット』創刊号。種村季弘の「夢遊者の反犯罪」、富岡多恵子「人形の生死」なども所収。


photo12a写真<12>
同人誌『マリオネット』の扉の瀧口修造の詩『人形餞』。まるで金属板に鉄筆で書かれたかのよう。


シュルレアリスムの自動筆記で創作されたとも思える実験詩『瀧口修造の詩的実験1927-1937』(思潮社 1967年)と、黒の紙に黒の活字で印刷された見えないものが見える人にしか読めないという詩の隠喩とも思える『地球創造説』(書肆山田 1973年)は言葉のオブジェ、オブジェの言葉であろうか。「詩は信仰ではない。論理ではない。詩は行為である」(『詩と実在』瀧口修造−『現代詩手帖』2003年11月号 思潮社)とする瀧口の文学的実験である。

photo13a写真<13>
『瀧口修造の詩的実験1927-1937』


photo14a写真<14>
『地球創造説』。黒の紙に黒のインクで詩を印刷している。「両極アル蝉ハアフロデイテノ縮レ髪ノ上デ音ヲ出ス…」(瀧口修造)


2003年冬、瀧口修造の蔵書が収められている多摩美術大学を訪れる機会があった。東京大空襲で高円寺にあった家が焼け、ブルトンからの手紙や当時蒐集した貴重なシュルレアリスムの資料が焼失したという。ここに収蔵されているのはその後入手したものだそうだ。展示されている書物を見回すと、筆者の書斎にある同じ本を多く見つけ、嬉しい思いを抱いた記憶がある。「マラルメにしたがえば、書物は精神(エスプリ)の楽器である。しかし書物もまた、時に貝殻のやうに、乾燥し、風化し、時間の不思議な光沢を発するのではなからうか」(「近代藝術」瀧口修造 1938年 三笠書房)。同じ精神の楽器で「言葉の音楽」を一緒に聴いたという喜びを感じたのである。

photo15a写真<15>
多摩美術大学所蔵の瀧口修造の蔵書の一部。筆者の書斎にあるシュルレアリスム関係の同じ本を多く見つけた。


瀧口修造は写真論について随所に書いている。筆者も畏敬するアッジェの写真について『新しい写真の考え方』(瀧口修造、渡辺勉ほか 毎日新聞社 1957年)で、瀧口は「ただ怪奇なものを漁って撮ったり、砂漠で貝殻や流木を撮ることだけがオブジェでなく、このアトジェ(アッジェ)のような卑近な事物の非情な記録からも物の精、物の妖気のようなものが感じられるのです」(「アトジェの『飾窓』」から)とアッジェの写真の本質をつく文章を綴っている。
また、『新しいショーウインドー<ウインドーディスプレイ>』(雑誌みずゑ別冊3号 1953年)の巻頭、「飾窓の小美学」と題し、アッジェの写真について触れている。「アジェ(アッジェ)のような巷の写真師は、この飾窓の物体(オブジェ)の季節を最初に感得した詩人の一人ではなかったろうか」。写真家を詩人とみなすところが瀧口らしい見方である。

photo16a写真<16>
『新しいショーウインドー<ウインドーディスプレイ>』(雑誌みずゑ別冊3号。「およそ額縁のある飾窓というものは、それ自身で超現実的なカラクリなのである」(同号『飾窓の小美学』瀧口修造)。


photo17a写真<17>
書斎の瀧口修造(1969年)


photo18a写真<18>
瀧口修造の書斎の机


瀧口修造の書斎には、世界中のシュルレアリストやアーティストらから贈られた作品が展示室のようにぎっしり並び、瀧口修造の居場所を中心にオブジェの小宇宙を構成している。『マルセル・デュシャン語録』(美術出版社 1968年)のなかで、瀧口は「ある日ふとオブジェの店をひらくという考えが浮かんで、それがひとつの固定執念になりはじめた」と述べている。

photo19a写真<19>
2004年春、富山にある瀧口修造のお墓参りをした。お墓の裏側に、瀧口修造が夢見た幻のオブジェの店の名前「Rrose Selavy」(ローズ・セラヴィ)の文字が刻まれている。デュシャンが「オブジェの店」の看板にと命名を許しサインした。


photo20a写真<20>
瀧口修造関係の筆者の蔵書の一部


瀧口修造の『遺言』と題された詩がある。同じ精神のフィールドにいる人たちへのメッセージだ。天界からわれわれを優しく包むように見守ってくれる。

「年老いた先輩や友よ、
 若い友よ、愛する美しい友よ、
 ぼくはあなたを残して行く。
 何処へ? ぼくも知らない
 ただいずれは、あなたも会いにやってきて
 くれるところへ・・・
 それは壁もなく、扉もなく、いま
 ぼくが立ち去ったところと直通している。
 いや同じところだ。星もある。
 土もある。歩いてゆけるところだ。
 いますぐだって・・・ ぼくが見えないだけだ。
 あの二つの眼では。さあ行こう、こんどは
 もう一つの国へ、みんなで・・・
 こんどは二つの眼で
 ほんとに見える国へ・・・」
(「遺言」瀧口修造)

photo21a写真<21>
瀧口修造・綾子夫妻(大辻清司撮影 雑誌『とやま文学 第34号』より)


瀧口修造は静かな声の人であったという。瀧口修造という人間そのものがオブジェのような存在だったのではないだろうか。鉱物でたとえると水晶のような硬質で透明なパーソナリティ。俗世界や諍いとは程遠く、静謐な微笑とともに「見えないもの」を宇宙的なパースペクティブで幻視する人であったように思う。
シュルレアリスムとは本来、作品が美術館という美のモルグに収まったり、美の解剖学者のような研究者に切り刻まれ、本質とかけ離れた微細な成果を漁るものではなく、時代を超越した終わることのない精神の永続革命であろうと思う。待ったなしで「生を刈り取り」精神の永続革命を目指し、ひっそりと隠者のように潜む市井のシュルレアリストたちに、瀧口修造は天界から「出発は遅くとも夜明けに」(瀧口修造「白と黒の断想」幻戯書房 2011年)と、終着駅のない精神の旅への参加を呼びかけることであろう。

photo22a写真<22>
瀧口修造のロトデッサン(マルセル・デュシャン生誕130年記念『瀧口修造・岡崎和郎二人展』2017年2月8日まで 京都・ART OFFICE OZASAギャラリー)より。暗黒の太陽のようなロトデッサンが、額のガラス面に反射した筆者の顔に能面のように貼りついた。


よるの ゆう

作成日: 2017年1月22日(日曜日)

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)−モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論掘戮如◆慄鳴鮮1987−消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。

●本日のお勧め作品は、瀧口修造です。
20170205_takiguchi2014_III_14瀧口修造
「III-14」
デカルコマニー、紙
イメージサイズ:18.5×13.9cm
シートサイズ :18.5×13.9cm

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

●本日の瑛九情報!
〜〜〜
瑛九「吹き付け」表
瑛九《作品》
吹き付け
イメージサイズ:表 35.5×31.2cm/裏 31.5×28.5cm
シートサイズ :39.7×31.2cm
スタンプサインあり
*裏面にも作品あり

瑛九 吹き付け(裏)
同裏面

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」第10回

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

第十回◇映像の悦楽、映画の日々−『シベールの日曜日』から実験映画まで

若き時代の「映画の日々」が懐かしい。映画にのめりこんでいたのは、大学時代。東京・池袋のはずれにある3畳一間の貧乏下宿で、東大安田講堂の陥落や新宿騒乱、反戦デモなど時代の熱いうねりを肌で感じながら、引きこもりがちの生活を送っていた。暗いジャズ喫茶の片隅や部屋で一人、岩波文庫を片っ端から濫読し、「心地よい青春」を世捨て人のように放棄していた時代。読書にあきると池袋文芸坐地下や映画のイベント、京橋フィルムセンターなどをはしごして一日五本の映画を観ることも。当時のメモを見ると、年間350本以上も映画を観ていた。当時入手した京橋フィルムセンターの冊子を見ると、フランスやイタリア、ドイツ、イギリス、スウェーデン、アメリカなどの古典的な映画からヌーヴェルバーグなど幅広く系統的に映画を観ていたことが思い出される。映像という虚構の世界にどっぷり漬かった暗い青春時代、未知の世界を照らし出す映画というファンタスマゴリー(幻燈装置)が道標だった。この早すぎる隠遁の時期は「fuga mundi 世俗世界からの逃避」(『パリ、貧困と街路の詩学』今橋映子 1998年 都市出版)であった。

photo05写真<1>
学生時代に通った京橋フィルムセンターの当時の特集映画カタログ


人それぞれに運命の女ファムファタールとの出会いのような映画との遭遇があるかもしれない。『シベールの日曜日』(セルジュ・ブールギニョン監督 1962年 フランス映画)は若き日の筆者にとって、そういう映画だった。ベトナム戦争時、戦闘機のパイロットだったピエール(ハーディ・クリューガー)が事故で記憶を失う。復員してパリ郊外のヴィル・ダブレーで暮らしていたある日、親に強制的に寄宿学校に入れられようとしていた少女フランソワーズ(パトリシア・ゴッジ)と駅で出会う。記憶を失い少年のような心を持つ31歳のピエールと親に捨てられた12歳の少女との交流が始まり毎週日曜日、ヴィル・ダブレーの美しい湖畔を散歩する。純真な少年と少女のような逢瀬を見て、住民があらぬ噂をたてる。心配になった同棲中の看護師マドレーヌがこっそり二人の様子をうかがうが、二人のほほえましい交流を見て杞憂だったことがわかる。悲劇はピエールとフランソワーズが森の小屋で二人だけのクリスマスパーティをしようとした際に起こる。何度この映画を観たことだろうか。映像詩と言ってもよいモノクロの美しい映像と少年の心を持った男と少女との純愛。背景にある戦争の傷跡と、ふたりの「純愛」を異常と切り捨てる現実の汚れた常識にまみれた大人たちが、二人を悲劇のクリスマスへと追いやっていく。当時、放映された吹き替え版の録画ビデオを持っていて大切に保管していたが、知り合いの画家に貸したところビデオが行方不明になってしまった苦い記憶がある。その後、絶版になっていたビデオを入手したほか、ドイツ版や字幕入りの日本版などいろいろなバージョンを集めた。つい数年前、ブルーレイ版が出たが、なぜか買い逃してしまったのが悔やまれる。当時観た時にあった最後のシーンの一部がカットされていたのが気になったからかもしれない。今ではプレミアムがついて手が出ない。ビデオやDVD版をチェックしたところやはり記憶に残っていたインパクトのある印象的なシーンが削除されていた。この映画の完全版は今や映画館で観た記憶の中にしか残っていないのが残念だ。

photo01写真<2>
映画『シベールの日曜日』から。ベトナム戦争中に記憶を失った男ピエールを演じたハーディ・クリューガー(左)とシベール(フランソワーズ)役のパトリシア・ゴッジ


photo04写真<3>
映画『シベールの日曜日』のビデオ、ドイツ版と日本語版のDVDとパンフレットなど


photo02写真<4>
パリの映画館ル・シャンポ。数年前、パリ在住中に『シベールの日曜日』が上映されていた。この映画をここで立て続けに五回見に行った記憶がある。


photo03写真<5>
『シベールの日曜日』のロケ地ヴィル・ダブレー。美しい湖畔と森。ロケ地を訪れてつくづく実感したのは、ドラマは人がいて初めて成り立つという当たり前すぎることだった。ここがあの映画の舞台であったことは確かだが、空虚な風景はあの濃密なポエジーあふれる映画のシーンを再現することは決してない。「実在の町を一切が外見となった書割の町に変容させる魔術的視力」(『ボードレールの世界』―「覗く人 都会詩人の宿命」種村季弘 青土社 1976年)が必要なのかもしれない。強力な魔術的想像力が…。 


いろいろな映画を観てきたが、やはり実験映画への愛着を語らないわけにはいかないだろう。なかでもアメリカの実験映画女性作家マヤ・デレン(1917-1961)抜きには実験映画は語れない。印象に残る作品は『午後の網目』(Meshes of the afternoon 1943)だ。モノクロームのシュルレアリスティックな映像が、迷路のような暗い夢の世界を紡ぎだす。当初、音楽はつけられていなかったが、のちに日本人の音楽家Teiji Itohが東洋的な不思議な音楽を添えている。マヤ・デレンは1953年に米国で行われた「詩と映画」についてのシンポジウムで「イメージは…作者の心の中から始まるのです。夢やモンタージュや詩のイメージは…<垂直的>なもので、論理的な行為ではありません…夢やモンタージュは事件の論理的な連続ではなく、普通の感情から成立している事実が寄せ集められてひとつの中心に導かれたものなのです」(『アメリカの実験映画』 アダムズ・シトニー編 1972年 フィルムアート社 石崎浩一郎訳)と述べている。『午後の網目』で見せた「反現実」としての夢が映画のイメージの発条装置として機能している。「この『反現実』こそ、まさに本物の現実であり、グノーシス派が『光の財宝』のただなかへの跳躍によって到達する現実である」(「魔術的芸術」アンドレ・ブルトン 河出書房新社 1997年 巖谷國士ほか訳)と言えよう。

photo06写真<6>
アメリカの実験映画作家マヤ・デレン


photo07写真<7>
マヤ・デレンの実験映画集のDVDと、カナダ・モントリオールの古書店で手に入れた珍しいマヤ・デレンの評論冊子『AN ANAGRAM OF IDEAS ON ART ,FORM AND FILM』(THE ALICAT BOOK SHOP PRESS ,NEW YORK 1946 写真上) 


トロントのマニアックなDVD屋などで手に入れた実験映画のDVDを知人に観てもらおうと、2014年11月に当時住んでいた京都市内の京町屋で『実験映画の夕べ』を開催。 有名な『午後の網目』(Meshes of the afternoon 1943) をはじめとするアメリカの実験映画やマン・レイなどの珍しい映像を上映した。

photo08写真<8>
『実験映画の夕べ』の番号入り限定10部で手作りしたパンフレット


photo09写真<9>
『実験映画の夕べ』のパンフレットと上映タイトル


photo10写真<10>
京都市内の京町屋で開催された『実験映画の夕べ』の様子。画家、デザイナー、マン・レイ研究家、古書店主、翻訳者らが集まった。


ドゥシャン・マカヴエィエフ監督(1932−)のカルト的な映画『SWEET MOVIE』(1974年製作のフランス・西ドイツ・カナダの合作映画)も、前衛的映画という面では興味深い作品のひとつだ。マカヴェイエフ監督は当時のユーゴスラビア出身で、1965年に『人間は鳥ではない』で劇場長編作品監督デビュー。以後前衛的な作品を手掛け、映画界に衝撃を与えてきた。中でも『SWEET MOVIE』はグロテスクで変態的で、かつ詩的、人間の中に抱える暗黒の情動の爆弾がさく裂するかのような映像が連続する。パリのエッフェル塔で伊達男が歌うシーンは深く印象に残る。人間の奥に潜む「悪」を歌いあげる『悪の歌』―。

「暴力が支配する世界
人々が苦しむのを見るのは楽しい
俺は生きるために死ぬ
この衝動を許してほしい
血の川 大虐殺
もっと欲しいと俺は叫ぶ
俺の心の太陽が輝く夜を祝おう
歴史を動かすような
野性の馬として俺は生きる
金色のたてがみ 宴を求め さまよう
剣をもってしても
馬を飼慣らすことはできない
あちこちで反乱 だから俺は歌う
俺の墓から馬が生まれる
神をも恐れぬ馬達が」(映画『SWEET MOVIE』より)
ストーリーらしいストーリーはなく、無関係で不気味な映像やシーンがコラージュされている。残酷で不毛な美しい愛の暗黒世界を描いた。映画タイトルの「スィート」とは程遠く、胆汁のような苦さが残るカルト映画の極北と言ってもよい作品だ。

photo011写真<11>
カルト映画「SWEET MOVIE」のビデオやレコード、マカヴエィエフ監督の作品群の一部。映画音楽はギリシャ出身の作曲家マノス・ハジダキス(1925-)が担当している。


photo12写真<12>
ロバート・フランクの映像集『FILM WORKS』(2016年)とロバート・フランクのレアDVD『チャパカア』(1999年) 


つい最近、ロバート・フランク(1924-)の映像集『FILM WORKS』(2016年)とロバート・フランクのレア映画『チャパカア』(1999年 DVD)を入手した。 ロバート・フランクと言えば、写真集『アメリカン』("Les Americains" 1958年)など写真家として知られるが、映像作品も多く手掛けてきた。真っ白な木箱に収められた『FILM WORKS』は再発売だが、初版にない洒落たデザインのケースとなっている。『チャパカア』はドラッグにおぼれた男の悪夢と妄想が不思議な映像で脈絡なく展開する。随所にロバート・フランクらしい映像のイメージがちりばめられている。

photo13写真<13>
実験映画やジョナス・メカス、ゴダール、ヴェンダースなど映画関係の本と、シュルレアリスム関係のビデオやDVDの一部。家ではDVDやブルーレイで映画を観ることがほとんどだが、往年のレーザーディスク(LD)も健在。タルコフスキー全作品とゴダールの映画や、DVD化されていない珍しい映画やドキュメンタリーはLDでしか観ることができない。最近手に入れたゴダールの初期映像集『ソニマージュ / 初期作品集』(1975、76年 ブルーレイ 写真<13>中央)はゴダールの実験的で野心的な映像集で興味深い。


映画と本。わが青春時代はこのふたつが手に手を取って孤独な時間を埋め尽くした。なかでも映画は「現実」以上に、心の中の「現実」となっていた。映画は当時の筆者にとって「幻想的な食べ物」(「ユートピアと文明」ジル・ラプージュ 紀伊国屋書店 1988年)だった。食事は貧しくとも、本とともに映画は精神的栄養を支えた。映画が人生に及ぼす作用は大きい。「一つ一つのイマージュは、それが作用するたびに、あなたがたに全宇宙を修正するよう強いる」(「パリの農夫」ルイ・アラゴン 思潮社 1988年)。映画とは「生」を変え、人生に魔術的化学変化を促すファンタスマゴリー(幻燈装置)であるのかもしれない。
よるの ゆう

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)−モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論掘戮如◆慄鳴鮮1987−消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。

●本日のお勧め作品は、ジョナス・メカスです。
20170105_mekas_01_walden_22ジョナス・メカス
WALDEN #22
「yes this was my Walden this was my chidhood
this was my winter there in a dream」

2005年
ラムダプリント
30.0x20.0cm
Ed.10
サインあり


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

本日の瑛九情報!
〜〜〜
1月2日のブログでお正月に瑛九を展示している美術館は、東京国立近代美術館はじめ、沖縄県立博物館・美術館埼玉県立近代美術館久留米市美術館大川美術館宮崎県立美術館都城市立美術館の7館あると紹介しましたが、瑛九おっかけ隊の中村茉貴さんから早速メールが入り、府中市美術館の「ガラス絵 幻惑の200年史」展に瑛九のガラス絵が展示されていることを知らせてくれました。
8館目! 会期が長いので、これは行けそうです。
ガラス絵 幻惑の200年史
府中市美術館
会期:2016年12月23日〜2017年2月26日(日)
透明なガラス板に絵を描き、反対の面からガラスを通して鑑賞する、ガラス絵。古くは中世ヨーロッパの宗教画に始まり、中国を経て、日本へは江戸時代中期に伝わりました。
 それから、およそ200年。新奇な素材の輝きと色彩が人々の眼を驚かせ、幕末明治期には異国風景や浮世絵風のガラス絵が盛んに描かれました。大正・昭和初期には、小出楢重、長谷川利行という二人の洋画家がガラス絵に魅了されて自身の芸術の重要な一部とし、戦後も藤田嗣治、川上澄生、芹沢けい介、桂ゆきといった多彩な作家たちが取り組んでいます。
 透明なガラス面を通して見える、絵具そのものの艶やかな色の世界。通常の絵画と絵の具を重ねる順番を逆転させる、緻密な計算と技巧。そして、装飾を凝らした「額」と相まって生まれる、きらびやかな存在感。本展では海を渡って日本に伝えられた海外のガラス絵から、近代以降の多様な作品までの約130点によって、見るものを幻惑し続けるガラス絵の魅力と歴史を紹介します。(府中市美術館HPより)
主な出品作家:畦地梅太郎、糸園和三郎、宇佐美圭司、瑛九、大沢昌助、桂ゆき、金山平三、川上澄生、北川民次、小出楢重、司馬江漢、白髪一雄、清宮質文、鶴岡政男、長谷川利行、藤田嗣治、南薫造、他
〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」第9回

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

第九回◇消えたスワンベリ―謎のコレクターK氏とディープな仙台の蛸壺文化

極北のエロティシズム―。スウェーデンの北方の小都市マルメのアトリエに閉じこもり、過剰とも思える装飾的な技法と奔放な造形で、太古の黄金時代にもつながるエロスを追求した画家スワンベリ(スワンベルクともいう)。描かれた作品のすべてが女性で、精神の深奥に眠る古代の女神たちがこの世に召喚される。この凍りついたエロスの燐光を放つ北方の不思議な絵師の魅力に取り憑かれて久しい。 
スウェーデンのマルメに生まれたスワンベリ(1912-1994)は、17歳のころ、ヴァイオリン職人を目指したがうまくいかず、映画の看板描きの仕事をしながら、夜は工芸学校に通った。22歳の時、ポリオにかかり、生涯このときの障害が残る。1940年、運命の女性グンニと結婚、絵のモチーフになるとともに、彼女はスワンベリを献身的に支えた。1953年、パリで開かれたグループ展に出品していたスワンベリの作品をシュルレアリスムの指導者アンドレ・ブルトンが見て惚れ込み、シュルレアリスムの機関紙「メディオム」(3号)で特集、表紙の絵を飾り、ブルトンが序文「スワンベリ頌」を寄せた。その後パリの「封印された星」画廊で個展。1958年、ランボーの詩『イリュミナシオン』の挿絵画集『Arthur Rimbaud ILLUMINATIONER』をスウェーデンで出版、ブルトンに絶賛された。1960年、ニューヨークの国際シュルレアリスム展に出品し、多くのシュルレアリストらから評価を得た。

Photo1写真<1>
装飾的な技法と奔放な造形で極北のエロスを追求したスワンベリの絵(『空の薄青色の蘭とスターの十頭の欲望』<左>1969年と、『女の発光力のもとで』<右>1975年)


「おんなは虹いろの部屋に住むこの孤独なもの、その肌は蝶の群れの奇異な色とりどりの衣裳のしたに、またさまざまな出来事、匂い、朝の薔薇の指たち、澄んだ太陽たち、黄昏時の青い恋人たち、大きな眼をした夜の魚たち、といったもののしたに秘めているのだ」(スワンベリ『おんなに憑かれて』 瀧口修造訳)と喝破するスワンベリとシュルレアリスムの接近は必然であった。シュルレアリスムの魔術的手法「自動筆記」を発明したブルトンがスワンベリの描く世界に見たものは、エロスのオートマティスムであったのかもしれない。

Photo2写真<2>
シュルレアリスムの機関紙『メディオム』(1954年3号)でスワンベリが特集され、表紙の絵を飾った。


20年近く前だったろうか、東京の古書街・神保町のとある若手が始めた古書店で、1958年にスウェーデンで出版された『Arthur Rimbaud ILLUMINATIONER』のサイン本を見つけ、大変高価であったが、スワンベリの署名本はめったになく躊躇なく即決した。家に帰って、仔細にチェックすると、なんと三か所にスワンベリのサインがあったのには驚いた。書物の精霊の粋な計らいか、はたまたフーリエの「情念引力」の手助けだろうか。

Photo3写真<3>
アンドレ・ブルトンに絶賛されたランボーの詩『イリュミナシオン』の挿絵画集『Arthur Rimbaud ILLUMINATIONER』(1958年)のサイン本。


Photo4写真<4>
『Arthur Rimbaud ILLUMINATIONER』(1958年)の扉の献呈署名。


Photo5写真<5>
『Arthur Rimbaud ILLUMINATIONER』(1958年)の巻末署名


Photo6写真<6>
『Arthur Rimbaud ILLUMINATIONER』(1958年)から。リトグラフ右下にスワンベリのサイン


ランボーの詩『イリュミナシオン』は難解といわれる。しかしスワンベリはイマジネールの力によってその詩境の高みに絵画の表現で、やすやすと到達している。ヘンリー・ミラーは『ランボー論』で、「墓の彼方で彼はいまなお『伝達』している」と述べているが、スワンベリは地下からの詩霊ランボーの言葉を、増殖する詩的エロスのイメージの現像として受信したのではないだろうか。

Photo7写真<7>
『Arthur Rimbaud ILLUMINATIONER』(1958年)から『大売出し』
「売り出しだ。大衆向きの無秩序、高価な愛好家向きのこたえられない満足、信者や恋人向きのむごたらしい死!」(『大売出し』−『ランボー全詩集』 青土社 中地義和訳 1994年)


Photo8写真<8>
『Arthur Rimbaud ILLUMINATIONER』(1958年)から『夜明け』
「ぼくは夏の夜明けを抱いた。宮殿の正面ではまだ動くものはなかった。…ぼくは歩いた。すると宝石たちが目を凝らし、翼が音もなく舞い上がった。」(『夜明け』−同 中地義和訳)


スワンベリがランボーの詩を通して幻視したものはなんであっただろうか?ユイスマンスが『さかしま』で称揚した人工的なエロスの身振りか、はたまたエロスのマニエリスムか。瀧口修造は「詩に秘んでいる生殖力としての一種の行為乃至は身振りの要素に、画家は敢えて直面した」(『骰子7の目』別巻 河出書房新社 1976年−「水晶の腕に」)とランボーの構築した言葉の水晶宮にスワンベリが到達した美の道筋を明かす。

Photo9写真<9>
スワンベリのポートレート(スウェーデン・マルメ市のアトリエ)


アンドレ・ブルトンはスワンベリの描く女たちについて「ここにはまさしく、《いまだかつて見たことのないもの》のありとあらゆる矢にねらわれた、宇宙の中心をなす女がいる」(『骰子7の目』別巻 河出書房新社 1976年−『ヴァイキングの女』 巖谷國士訳)と述べている。北極光に貫かれ、凍えた美の楽園のルネサンスを謳歌するスワンベリの女たち。エロスの曼陀羅がそこにある。

Photo10写真<10>
スワンベリ関係の蔵書の一部


下の写真<11>のフランス装の一冊の本には苦い思い出がある。アンドレ・ブルトンらによる『FAROUCHE A QUATRE FEUILLES』(1954 édition Bernard Grasset)。だ。

Photo11写真<11>
ブルトンの『FAROUCHE A QUATRE FEUILLES』(1954)


シンプルなフランス装の装丁だが、この版は限定版で、スワンベリ、Simon Hantaï らシュルレアリストによる署名入りのオリジナル版画が四点入っている。この本を見つけたのは仙台に赴任していたころ、よく昼休みに足しげく通っていたカルトなレコードと古本の店「S」だ。ある日、訪ねてみると、店の入り口近くの壁に入ったばかりというこの本が飾られていた。まさかこんな稀少本がこんなところにと思って手に取りページを繰ったところ、四枚あるはずの版画のうち巻頭のスワンベリの版画だけがない。値段を聞くと市場価格の十分の一の「ウン万円」。コレクション本としては価値が落ちるがそれでも三枚の署名入りオリジナル版画がある。この本の出所はだいたい想像できたので、消えた一葉のスワンベリはいつかこの本の中に舞い戻るであろうと買い求めた。「S」の店主にこっそり聞くと、案の定、友人のコレクターK氏所有のもので、スワンベリ好きのK氏がスワンベリの版画だけを本から抜き取り、額装して寝室に飾っているとのことだった。あれから十数年、ことあるたびに消えたスワンベリの版画をK氏に譲ってほしいと言うのだが、いまだに巻頭のスワンベリはコピーのままだ。「不在」のものに対する愛惜ほどトラウマになるものはない。

Photo12写真<12>
ブルトンの『FAROUCHE A QUATRE FEUILLES』の切り取られた空白のページとオリジナル版画のコピー


この本の元所有者である謎のコレクターK氏との出会いはある取材で自宅を訪れた時のこと。なにかのきっかけで映画の話になり「ゴダールの映画では何が一番好きか」と問われ、マイナーな作品『男性・女性』と答えると、同じ映画が好きだったK氏とぐっと距離が縮まった。仙台は「よそ者」をちょっとやそっとのことでは受け入れてもらえない街と聞いてはいたが、まったくその通りで五年たってやっと懐に飛び込めた気がする。仙台は文化も表面的に際立ったものが目立ちにくいが、K氏や「S」の店主のように個人個人が「蛸壺的に」ばらばらに文化的にディープなものをそれぞれ抱え込んでいる。仙台を蛸壺文化の街と思う所以である。

Photo13写真<13>
謎のコレクターK氏。シュルレアリスムをはじめ、内外の前衛芸術のコレクションは素晴らしい。自身のコレクションを公開するため私設美術館を開いたこともある。


Photo14写真<14>
K氏と打ち解けるきっかけとなったゴダールの映画『男性・女性』(1966年)のLD。歌手としても知られるシャンタル・ゴヤがアンニュイな時代に生きる女性を好演。


Photo15写真<15>
仙台にある魔窟のレコード屋「S」で蒐集したレアなレコードの一部。会社の昼休みに立ち寄ってはせっせと実験音楽などレアな盤を片っ端から聞かせてもらっていた。唐十郎劇中歌集『四角いジャングルで唄う』、フリージャズ奏者・阿部薫の『OVERHANG PARTY』『なしくずしの死』、山谷初男『はっぽん』『新宿』などなど。


スワンベリとともに、仙台在住時代に関心を寄せていたのが、不思議なイメージを小空間に閉じ込めた「箱の魔術師」ジョゼフ・コーネル(1903-1972)。コレクションした雑誌の切り抜きや骨董、古い写真など身近にあるものを箱の中に縮小したインスタレーションのようにして配置し、シュルレアリスティックで静謐なイメージの小宇宙を創り出した。

Photo16写真<16>
ジョゼフ・コーネルのポートレート(自宅の庭で)。コーネルは幼少時、父親の死とともに家計が苦しくなり職業を転々とした。コーネルは人見知りで引きこもりがちな性格だったと言われ、母親と小児脳性麻痺の弟と米国ニューヨーク州の小さな家でひっそりと暮らした。箱の作品のほか、コラージュ、実験映画も手掛けている


Photo17写真<17>
ジョゼフ・コーネルの作品


Photo18写真<18>
コーネルのアトリエに置かれたジャンヌ・モローのLPジャケット


Photo19写真<19>
書斎に飾っている同じジャンヌ・モローのLPジャケット。奇しくもコーネルと趣向が一致していたのがうれしい。


スワンベリにせよコーネルにせよ、世の美術界の動向など頓着せず、ひたすらアトリエに籠り、日常から隔絶された創造のガラスの城から作品を生み出し続けた孤高の美の求道者であった。スワンベリとコーネル、彼らもまた美のイマジネールを駆使する幻視者に連なる人たちであろう。

Photo20写真<20>
ジョゼフ・コーネル関係の蔵書の一部


作成日: 2016年11月23日(水)
よるの ゆう

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)−モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論掘戮如◆慄鳴鮮1987−消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。

●本日のお勧め作品は、ジョセフ・コーネルです。
20161205_cornell_01ジョセフ・コーネル
「アンドレ・ブルトン」
1960年頃
Collage by Joseph CORNELL on the photo by Man Ray
24.6x17.9cm
サインあり


マン・レイが撮影したブルトンの肖像のうちでもっとも著名なソラリゼーションによる写真に、コーネルがブルーの水彩で縁どりを施したもの。 裏面全体もブルーに塗られ、コーネルによるサインとタイトルが記されている。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

本日の瑛九情報!
〜〜〜
何事も平均化され、うやむやにされがちな現状にとって、山田光春氏の多年にわたる瑛九探求が『瑛九』として刊行されることはうれしい。瑛九の周辺に熱い友情と支持のサークルがあることも注目してよいことだが、本書はそうした地層の結実であるのみならず、ひとりの芸術家の生死についての記録の集成に異例な情熱を傾けてきた山田氏の瑛九論はおそらく世上の跳ね返った天才芸術論ではなく、私たちにはまだ身近な存在であり、決して鬼面人を驚かす謳い文句つきの画家に陥らぬものをもち、しかも彼を絶えず動かしつづけながら倒れた人間像の在りかを身近かに示してくれるはずである。ふたたび「やあ」といってふと訪ねてくれる瑛九を想うとき、少くとも私にはこの本からあらたに学びたい多くのものがあるはずである
瀧口修造【『瑛九』を待ちながら】山田光春著『瑛九』青龍洞内容見本1976年6月より)〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」第8回

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

第八回◇キューバからの贈り物―南方への憧憬

書斎の窓を開け放つと急に南方の風を感じたい時がある。ふっと頬をなで横切っていく風。遠い地の果てから運ばれてきた風。それは爽やかな風なのか?はたまた微量の毒素と血の匂いを含んだ遠い歴史の怨念がまじりあった南米やアフリカからの熱い風だろうか?幼年時代からの南方への憧れ。想像するだけで、ぞくぞくするような興奮を呼び起こす熱帯のジャングル。いつか南方の地へと、思いを抱き続けていた。「南国のひなびた保養地は北国の大都市の実体をきわだたせ、モスクワはパリの肖像の欠落を埋める。… 空間的な隔たりは容易に時間的な隔たりへの感覚を鋭敏にする」(『ヘルメース』カール・ケーレニイ−『モスクワの冬』ベンヤミン 訳者あとがき 晶文社 藤川芳朗訳)。日差しが衰弱した冬の日、書斎の一隅で、熱い風の吹く遠い異国の辺境を夢見ることがある。
2011年の大地震と原発事故以降、日本をしばらく遠ざかっていた2013年夏、ふとしたきっかけで、憧憬の地のひとつだったキューバを訪れる機会があった。スペイン植民地時代、独立戦争、アメリカの半植民地時代、そして1959年のキューバ革命と半世紀ぶりの歴史的な国交回復…。時代に翻弄されたキューバ。ハバナの裏町は、スペイン植民地時代のコロニアル建築様式の建物群が廃墟然と立ち並ぶ。過酷な歴史を乗り越えてきた人々の表情は貧しい中にも不思議な明るさを持っているように感じた。

cuba01写真<1>
ハバナの裏町 裏町や路地裏、そこではゲニウス・ロキ(土地の精霊)が旅人の導き手となる。「裏町を行こう、横道を歩もう。…理窟にも議論にもならぬ馬鹿々々しい処に、よく考えて見ると一種物哀れなような妙な心持のする処があるからである」(『日和下駄 一名東京散策記』永井荷風)


わずか十日間の滞在だったが、着いて数日後にひどい腹痛に襲われた。目を閉じると頭の周りを妖怪や悪魔、魑魅魍魎が飛び交う悪夢の連続。滞在期間の半分近くを裏町の民宿のベッドの上で過ごし最後は病院へ。どうにか回復して、残された最後の三日間、もう二度と来られないかもしれないと思うと矢も楯もたまらず、日の出とともに裏町に繰り出し、路上を撮影しながら深夜まで徘徊。この時の撮影記録が、ひょんなことから昨年5月の京都国際写真祭KYOTO GRAPHIE(「KG+」)の写真展「古巴(キューバ)−モノクロームの午後」の開催につながった。

cuba02写真<2>
写真展「古巴(キューバ)−モノクロームの午後」のインスタレーション展示のひとつとして限定一部(大、小サイズ)で手作りの写真集『Cuba monochrome』を作った。


cuba03写真<3>
手作り写真集『Cuba monochrome』から。ハバナの裏町。
ハバナの街には意外にも古書店が多かった。街の中心街近くの広場には常設で古書市が開かれている。もちろんチェ・ゲバラやフィデル・カストロら革命にからんだ本も多いが、なかにはアメリカの半植民地時代に持ち込まれたとみられる稀少な書物もある。


cuba04写真<4>
キューバで出版された写真集『EL CUBANO SE OFRECE』(Iván Gañas 1986年)


cuba05写真<5>
内容は素晴らしいが、紙質がわら半紙に近く、恐ろしく印刷が悪い。


cuba06写真<6>
ハバナの古書店に秘蔵されていたバレーデッサンの稀覯本『ADAGES & PAS DE DEUX』(MONIQUE LANCELOT,SERGE LIFAR Paris, éditions Arabesques 1950年 限定130部版)を入手。オリジナルデッサン二葉 デュシャン風の横顔をデザインした表紙が面白い。


cuba07写真<7>
バレーデッサンの稀覯本『ADAGES & PAS DE DEUX』の躍動感あふれるオリジナルデッサン


cuba08写真<8>
バレーデッサンの稀覯本『ADAGES & PAS DE DEUX』から


シュルレアリスム関連の文献を調べるうち出会ったのがメキシコの写真家アルバレス・ブラボ(1902年-2002年)。アッジェらの影響を受け、ニューヨークのジュリアン・レヴィ・ギャラリーで1935年、アンリ・カルティエ・ブレッソン、ウォーカー・エバンスとともに参加した「ドキュメンタリーとアンチグラフィック」と題された三人展の後、1938年、ディエゴ・リベラの紹介でシュルレアリスムの指導者アンドレ・ブルトンとメキシコに亡命中のレフ・トロツキーと出会い、貴重な記録写真を撮影。その後もブルトンに評価されたブラボはシュルレアリスムの雑誌に写真を掲載している。ブラボの写真に、ありふれた日常風景の中に潜む静謐な「死の影」を読み取ることができる。

cuba09写真<9>
マヌエル・アルバレス・ブラボと元妻ロラ・アルバレス・ブラボ(左下隅)の写真集


cuba10写真<10>
マヌエル・アルバレス・ブラボの写真


メキシコは暗黒の歴史を持っている。「マヤ人が『太陽の排泄物』と名付けた黄金」(参照:『メキシコの夢』ル・クレジオ 新潮社 1991年 望月芳郎訳)を求め、スペインの征服者(コンキスタドール)により破壊し尽くされたアステカ文明。呪術の夢で覆われた都市は一握りのコンキスタドールによって血なまぐさい殺戮の原野と化し消滅した。「Ducunt fata volentem,nolentem trahunt. (運命は欲する者を導いて行き、欲しない者を引きずって行く)」(セネカの言葉 -『西洋の没落』第二巻 オスヴァルト・シュペングラー 五月書房)。運命に引きずられた悲劇のアステカ王モクテスマ。太陽信仰と血の生贄、呪術に満たされた神話と夢の世界は彼とともに消え去っていく。
メキシコには「死者の日」があり、盛大に祝われる。死と生まれ変わりの象徴としての骸骨が飾られ、「死」を明るく祝福する。マヤ、アステカを源流とする過去の文明はメキシコに独特の死の美学をもたらした。骸骨の絵師として知られるメキシコの画家ホセ・グアダルーペ・ポサダ(1852年-1913年)。骸骨に姿を変えた人間たちを登場させ、あざ笑うかのように醜い現実を風刺する。「骸骨は用い方さえうまければ、いかなる主題にとり入れてもすぐれた装飾となりうる…」(『幻想芸術』マルセル・ブリヨン−『晩年のボードレール』松井好夫 煥呼堂 1979年)。ポサダは、「阿呆船」に乗り阿呆頭巾をかぶって死の踊りを舞い続ける人間どもを骸骨として描くことでその愚かさを喝破する。

同じあしたは二度来ない、
雪のように溶けてゆく。
魂が消えてゆくときに、
はじめてあしたがやってくる
(『阿呆船』 ブラント 尾崎盛景訳 現代思潮社)

cuba11写真<11>
書棚から抜き出したポサダの本の一部と、ペルー製の骸骨のオブジェ。


cuba12写真<12>
骸骨をモチーフにしたポサダのイラスト。人は一生涯、ダンス・マカーブル(Danse Macabre 死の舞踏)に明け暮れる。


南国とシュルレアリスムと言えば、キューバのシュルレアリストの画家ウィフレード・ラムを思い浮かべるが、カリブ海のマルティニーク島ともかかわりが深い。数年前、カナダのモントリオールの古書店で「南国の再発見」を特集した雑誌『HERMISPHERS』(Editions Hémisphères New York 1944年 YVAN GOLL編集)を入手した。アンドレ・ブルトンがカリブ海のマルティニーク島を訪れた際の印象を元にした『蛇使いの女』『偉大なる黒人詩人』『震えるピン』所収で、『HERMISPHERS』はエグゾティスムとシュルレアリスムに焦点を当てている。
「…よく笑う混血の少女たちが四方へ散っていく。たいていは肌より明るい色の髪をした少女たち。これら虹色の影を伴った美しい肉体は、どんな木の精に暖められるのかしら。カカオの木?コーヒーの木?ヴァニラの木かしら?それらの葉っぱは幼年期の未知の欲望が身を潜めたコーヒー袋の紙に象られ、永続的な神秘を飾り立てる」(アンドレ・ブルトン 『マルティニーク島 蛇使いの女』−「震えるピン」より エディション・イレーヌ 松本完治訳)
南国とは、扉が開かれた書物である。失われた古代の感覚と夢に一瞬にして到達する「野をひらく鍵」(アンドレ・ブルトン)が密林の奥に秘匿されている。

cuba13写真<13>
「南国の再発見」を特集した雑誌『HERMISPHERS』。


cuba14写真<14>
雑誌『HERMISPHERS』から。アンドレ・マッソンによる挿絵。未踏の密林は熱帯の暗黒の夢に満ちている。「ジャングルに棲む捕食動物にとっては、規則は<殺すか、殺されるか>であるのに対し、社会に棲む人間にとっての規則は<社会から閉めだされるか、閉め出されないか>である」(『内面への亡命』R・ジャカール 第2章・忍従と抑圧の原注 誠信書房)。都会の密林には精神を食い散らす「疎外」という名の猛禽類が潜んでいる。
晩年のランボーは詩作を捨て、ひたすら南方の最果ての地アフリカやアラブへと向かった。「ヨーロッパを離れるのだ。海の風がぼくの肺腑を焼くだろう。辺境の気候がぼくの肌をなめして浅黒くするだろう。泳ぎ、草を踏みしだき…ぼくは戻ってくるだろう。鉄の四肢、褐色の肌、荒々しい眸をして…」(『地獄の一季節』アルチュール・ランボー 『ランボー全詩集』(湯浅博雄ほか訳)。精神の南下。精神の上昇と下降。極から極へ。ランボーにとって「遠方とは追放の地」(『意識産業』−旅行の理論 エンツェンスベルガー)だったのである。


cuba15写真<15>
アフリカやアラブからのランボーの手紙を集めた『Les lettres manuscrites de RIMBAUD』(Claude Jeancolas編集 Editions Textuel 1997年)と、「その後」のランボーの軌跡を描いた『Passion L’album d’une vie Rimbaud』(Claude Jeancolas Edité par Textuel  1998年))


cuba16写真<16>
Les lettres manuscrites de RIMBAUD』から。ランボーの手紙と筆跡。


cuba17写真<17>
『Passion L’album d’une vie Rimbaud』から。「詩人ランボー」から「商人ランボー」へ。地獄陥ちの軌跡を描く。


死の前日、ランボーが妹イザベルに口述筆記させた奇怪な「最後の通信(メッセージ)」。

一荷 歯一本のみ ( Un lot 1 dent seul )
一荷 歯二本 ( Un lot 2 dents )
一荷 歯三本 ( Un lot 3 dents )
一荷 歯四本 ( Un lot 4 dents )
一荷 歯二本 ( Un lot 2 dents )
(『ランボーの沈黙』竹内健 紀伊國屋新書 カッコ内は仏語原文)

「歯」とは現実的には貿易品の「牙」(象牙?)のことか。しかし筆者もこの訳(dent,dents)を「歯」ととらえたい。詩を捨て、南方アフリカの奥地を商人として彷徨ったランボーが死の床で発した解釈不能なシュルレアリスティックな最期の「詩」として…。この翌日1891年11月10日午前10時30分、ランボーは37歳の生涯を終えた。「遊民の最後の旅は死であり、その目標は新しさである。<未知の底に 新たなるものを見いだすために>」(『ベンヤミン著作集6』−「ボードレール」 晶文社)。詩の極北を極めたランボーがたどり着いたのは、過酷な南方の「言語なき砂漠」だった。

また見つかった!
なにが?永遠。
太陽と
  溶け合う海
(『地獄の一季節』アルチュール・ランボー 『ランボー全詩集』 青土社 湯浅博雄訳)

作成日: 2016年10月23日(日)
よるの ゆう

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)−モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論掘戮如◆慄鳴鮮1987−消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。

●本日のお勧め作品は、ロベール・ドアノーです。
20161105_doisneau_04_kyabareロベール・ドアノー
「L'ENFER キャバレー地獄」
1952年
ゼラチンシルバープリント
35.0×24.5cm
サインあり


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
 ・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。
 ・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」はしばらく休載します。
 ・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
 ・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・普後均のエッセイ「写真という海」は毎月14日の更新です。
 ・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
 ・小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。
 ・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。
 ・八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」は毎月25日の更新です。
 ・スタッフSの「海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
 ・光嶋裕介のエッセイ「和紙に挑む」は毎月30日の更新です。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は終了しました。
 ・荒井由泰のエッセイ「いとしの国ブータン紀行」は終了しました。
 ・森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」は終了しました。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイや資料を随時紹介します。
 ・「オノサト・トシノブの世界」は円を描き続けた作家の生涯と作品を関係資料や評論によって紹介します。
 ・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。
土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
 ・「関根伸夫ともの派」はロスアンゼルスで制作を続ける関根伸夫と「もの派」について作品や資料によって紹介します。
 ・「現代版画センターの記録」は随時更新します。
今までのバックナンバーの一部はホームページに転載しています。

◆ときの忘れものは「ルリユール 書物への偏愛―テクストを変換するもの―展」を開催します。
会期:2016年11月8日[火]〜11月19日[土] *日曜、月曜、祝日休廊
reliure_DM
造本作家グループLes fragments de M(略称frgm)は2011年10月、三人の製本家と一人の箔押し師が集まり、ルリユールをもっと多くの方々に知っていただき、より身近なものとして慈しんでもらうことを願い、活動を始めました。
メンバーは羽田野麻吏さん、平まどかさん、市田文子さん、中村美奈子さんで、2014年11月よりブログでfrgmのエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」を連載しています。
「ルリユール」とはフランス語で「製本」を意味し、書店で売られているいわゆる機械製本も含める語ではありますが、一方で工芸としての製本を強く想起する言葉として、フランス語圏の国々では使われています。工芸としての製本とは、読書家・愛書家が自らの蔵書を製本家に依頼して、世界に一つの作品に仕立て直す(具体的には山羊革や仔牛革などを表装材に用い、その上に革や他の素材による)装飾を施していきます。
本展ではfrgm皆さんのルリユール作品約35点をご覧いただきます。
●イベントのご案内
展覧会最終日の11月19日(土)19時より、港千尋さん(写真家、著述家)を招いてギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。
E-maii. info@tokinowasuremono.com

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」第7回

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

第七回◇怪鳥ロプロプとコラージュ―イメージの幻視者マックス・エルンスト

怪鳥ロプロプがわが書斎に降り立ったのは、いつのことだっただろうか。「ロプロプ」とは言うまでもなくシュルレアリスムの巨人マックス・エルンストが創造した想像上の巨大な怪鳥のことである。マックス・エルンストがまだ十代だったある夜、最愛の友人の桃色インコ「オルネボム」が死んだ。翌朝、父親が妹ロニの生まれたことを伝えると、オルネボムの精気が妹に乗り移ったような錯覚に陥り、エルンストは気絶してしまうほどのショックを受けたという。以後、「鳥」のイメージはエルンストの中で、生涯「死と再生」のイメージのシンボルとして繰り返しコラージュや絵画などの作品に登場する。怪鳥ロプロプはエルンストの青春期の悲劇的な出来事の中で生まれた暗黒のフェニックスであったといえよう。

ernst01写真<1>
マックス・エルンストのコラージュロマン『百頭女』(1929年)の中では、「鳥類の王」である怪鳥ロプロプがパリの街燈に夜の食事を運ぶシーンも登場する。


マックス・エルンストが再発見した幻視的コラージュ。まったく関係のない図版を切り貼りし、デペイズマン(異化作用)によって、不思議で異様な世界が再構築される。エルンストによれば、デペイズマンとは「デペイゼ(=追放する、異国に追いやる、環境をかえる)という動詞から来る言葉で、事物を日常的な関係から追放して異常な関係のなかに置き、ありうべからざる光景をつくり出す行為」。異なるイメージの衝突により、非日常的な異世界が立ち現われる。エルンストの言う「詩的火花」の発火装置がコラージュの断片に仕掛けられている。「そこでは、すべての事象は暗い因襲の檻から解き放たれ、<自己>は無化し、軽々と匿名の大気に溶けいっている」(『すべての因襲から逃れるために』武満徹)。想像力は解き放たれ、一枚のコラージュから何千もの物語が生まれる。作品を見るものが想像力を自由に駆使することによって、作者と共同で創造の一部の担い手になると言ってもよいだろう。
コラージュを偏愛するようになったのは、「合理」がすべてを采配する会社組織に属しているころだったように思う。内なる自由な精神生活さえ「常識」や「合理」によって規制される窮屈な状況に辟易していた時、精神を一瞬にして異世界へと誘うエルンストのコラージュの世界に出会った。現実逃避ではなく精神の解放をもたらす、シュルレアリスムという形而上の桃源境への入り口の鍵を手に入れたのだった。
エルンストの絵画論『絵画の彼岸』(河出書房新社 巌谷國士訳 1975年)によると、「1891年4月2日午前9時45分、マックス・エルンストははじめて感覚の世界と接触した。かれは母親がワシの巣のなかにおき、7年間ワシによってはぐくまれた卵から出てきた」と鳥人エルンスト誕生について記している。エルンストが生まれたケルン近郊はローマ帝国の植民地で、魔術道士コルネリウス・アグリッパの出身地。東方の三博士の遺骨が祀られたカテドラルもある。エルンストの生誕地ケルン近郊のブリュールには純潔を守り命を絶った1万千もの処女の骸骨が修道院に飾られているという。エルンストの生地周辺には魔的な雰囲気が醸成されていた。エルンストはノヴァーリスやヘルダーリンなどのドイツロマン派やホフマンやルソー、ドストエフスキーなどを耽読していた。
コラージュのイメージの原型となる幻覚的体験をしたのはエルンストが7歳の時だった。はしかにかかり熱にうかされてベッドから見える木の羽目板の模様が異様な眼玉や鼻、鳥の頭などに見えたという。エルンストはこうした幻覚的ビジョンを雲や壁のしみなどから意図的に引き起こすのが悦楽的な行為だったようだ。エルンスト自身、こうした幼児の体験が「霊感や啓示の過程と直接結びつく、デッサンや絵画における二、三の技術的可能性(フロッタージュ、コラージュ、デカルコマニー)を探求させた」(『絵画の彼岸』)としている。イメージの見者エルンストは偏執狂的ともいえる超視力への欲望について「わたしの眼は、外部から襲い掛かる驚異的な世界だけでなく、わたしの若い夢のなかに執拗かつ規則的にほとばしり出ては消えてゆく、あの神秘的で不気味なもうひとつの世界に渇えていた。<はっきり見ること>はわたしの神経の安定のための必然的要求となった。そして<はっきり見る>ためには、ただひとつの手段しかなかった。視野に入ったものすべてを紙に定着すること。デッサンすること」(『ラインの回想』マックス・エルンスト−『美術手帖1960年6月号 特集マックス・エルンスト』のエッセイ「幻視の芸術家」大岡信より)だったと分析する。
エルンストによると、コラージュの発想が生まれたのは1919年のある雨の日のこと。「ライン川のほとりにあるとある街にいるとき、人類学や微生物学、心理学、鉱物学、古生物学 などの教室用実験材料を載せたある挿絵入りカタログをたまたま苛立って眺めていると、そのページから次々と妄想が生まれた」(『絵画の彼岸』)という。異なるイメージ同士の不意の出会いが「私のもっとも秘密の欲望を露呈するドラマと化した」(同)。挿絵入りカタログから生まれた奇怪な妄想のイメージ。エルンストの奇想天外、魔訶不思議な暗黒の情景に筆者は憑りつかれたのだった。

ernst02写真<2>
マックス・エルンストの『百頭女』と『慈善週間または七大元素』のドイツ新版(Zweitausendeins 1975年 ミュンヘンの古書店で入手)

ernst03写真<3>
エルンストのコラージュロマン『百頭女』から


夜の女王が闇を支配する。ありとあらゆる日常の反転、想像力の陰画の風景。怪鳥ロプロプが生息する夜の世界。エルンストのコラージュロマンは夜の物語である。「・・・この瞬間、夜の町は忽然として、その冷たい魚の肌のやうな新鮮さと、本源的快楽と恐怖を取り戻すだらう。暗い濃厚な情緒に咽喉元までたっぷり涵されながら、彼がゆくあらゆる町角は、殺意のある口をあんぐりとあけている。その晩彼が會った夜は、正しく本物の夜なのだ」(『美の襲撃』三島由紀夫 講談社 1961年)。夜の想像力の支配者エルンストの『百頭女』はまさに殺意に満ちた百鬼夜行の異様な「本物の夜」の情景を魔術的コラージュで描いた暗黒ロマンであった。シュルレアリスムは夜につくられたのである。こうしたコラージュロマンは『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(1930年)、『慈善週間または七大元素』(1934年)へと続く。パリのポンピドゥーセンターに展示されているエルンストのコラージュを何度も見る機会があったが、あらゆる角度から目を凝らして見ても、紙を貼り合わせて作られたもの(パピエ・コレ)には見えないほど精巧に作られ、すべてをエルンストが描いたように思われた。

ernst04写真<4>
エルンストのコラージュロマン『百頭女』から

ernst05写真<5>
『慈善週間または七大元素』(1934年)から


ernst06写真<6>
『慈善週間または七大元素』(1934年)から


エルンストの作品の中でも特に惹かれるのが『七つの微生物』(SEPT MICROBES, LES ÉDITIONS CERCLE DES ARTS 1953年)。オスカー・ドミンゲスが始めたデカルコマニーの手法によって生成されたミクロコスモスの中に広がる広大な想像宇宙。10cm四方から極小の5mm四方まで様々な大きさに貼られた絵と詩的なメッセージ。微小な絵に描かれた雄大な想像のミクロコスモスの大地。この本の紹介を見て、オリジナルがどうしてもほしくなり、フランスの古書店から取り寄せた。

ernst07写真<7>
エルンストの『七つの微生物』(1975年版)


ernst08写真<8>
エルンストの『七つの微生物』(1975年版)から


ernst09写真<9>
エルンストの『七つの微生物』(1975年版)から


エルンストと言えば、毎年のようにオマージュ瀧口修造展を企画していた佐谷画廊の故佐谷和彦氏のことを思い出す。筆者の当時の自宅近くの阿佐ヶ谷に近い荻窪に、銀座からギャラリーを移してから、たびたび散歩の途中でばったり会い、善福寺川沿いのベンチに座って佐谷さん手持ちのビールをご馳走になった思い出も。「同じフィールドにいる人間同士だね」とにこやかに佐谷さんが話していたのが懐かしい。家から近かったこともあり、佐谷画廊をたびたび訪ねた。その時に見せてもらったエルンストのオリジナルのフロッタージュ『博物誌』(1926年 ジャンヌ・ビュシェ刊)は圧巻だった。200万円という価格を聞いて「見るだけ」であったが、眼福にあずかった。エルンストは『絵画の彼岸』の中で、フロッタージュについて「床板に手あたり次第に紙をあて、黒鉛でその上をこすることによって」得られた幻覚的なイメージの蒐集に憑りつかれたと述べている。床板から生まれる妄想的イメージの数々…。「人間の顔、様々な動物、…岩山、海、洪水」。筆者も子供のころ、眠りに落ちる前、天井の壁のシミに人の顔や奇怪な動物、妖怪のようなものを見て、恐れおののいた思い出がある。エルンストはそれを客観化し、自ら持つ幻視、瞑想能力を強化することによって世界の原初的なイメージを紙の上に定着した。

ernst10写真<10>
『博物誌』(1926年)のフロッタージュ


ernst11写真<11>
『博物誌』(1926年)のフロッタージュ


2005年12月、エルンストのお墓参りをしようとパリのペール・ラ・シェーズ墓地を訪れた。お墓の場所がわかりにくく、なかなか見つからなかったが、集合墓地の一角にようやくエルンストのお墓を見つけた。あのシュルレアリスムの巨人のお墓にしてはあまりにも小さく、質素すぎて少なからずショックを受けた記憶がある。エルンストのお墓は約40センチ四方のプレートで覆われた小さなもの。黒の御影石に金文字で「MAX ERNST 1891-1976」とだけ刻まれている。近くには無縁墓となったのか、蓋が外れ、中が見えるほど放置されたものもあった。もしビル・ゲイツ並みの富豪だったらエルンストの彫刻(エルンストとドロテア・タニングが一緒に写った作品 写真<13>)でお墓を建ててあげたいと思ったものである。エルンストは「作品こそがわが墳墓」と言うかもしれないが…。

ernst12写真<12>
ペール・ラ・シェーズ墓地の質素なマックス・エルンストのお墓


ernst13写真<13>
マックス・エルンストと妻のドロテア・タニング。ペール・ラ・シェーズ墓地にこのエルンストの彫刻がお墓としてあったなら…>


パリの古書店を巡るたびにエルンストの署名本を入手したいと念じていたが、2010年、パリ5区にあった古書店で、ついに手に入れることができた。献呈署名本で、タイトルは『Écritures』(Éditions Gallimard 1970年初版)。本の扉に「a Jaqueline Bour entre deux verre du champagne」(「二つのシャンペングラスの間で…」)と書かれており、つがいの鳥が対話でもしているかのような不思議な絵文字が添えられている。

ernst14写真<14>
献呈署名本『Écritures』(1970年)


ernst15写真<15>
献呈署名本『Écritures』(1970年)と、本の扉に描かれたエルンストの絵入りサイン。対話する鳥の絵文字。怪鳥ロプロプの「幼鳥」だろうか。古代文字のような絵文字で構成された作品は『マクシミリアナ、または天文学の無法な演習』(1964年)がある。


エルンスト関係の蔵書の中でも稀少書の部類に入るのがポール・エリュアールとの共作『不滅者の不幸』(LES MALHEURS DES IMMORTELS, ÉDITION DE LA REVUE FONTAINE 1945年版 初版は1922年)。神保町の仏古書を扱うT書店のバーゲンセールで入手した「宝物」。1800部刊行されたうちの「1番」で、T書店の店主は「1番という番号からして、もしかしたらエルンストの手元にあったものかもしれない」と言っていた。手放すのを惜しんでか「この本は将来、家宝になりますから」と筆者に手渡すとき念を押して話したのを記憶している。

ernst16写真<16>
『不滅者の不幸』(1945年版) 


ernst17写真<17>
『不滅者の不幸』(1945年版)から


ernst18写真<18>
『不滅者の不幸』(1945年版)から


エルンストの友人ポール・エリュアール邸の壁に描いた絵を集めた美しい装丁の本もお気に入りの一冊だ。『MAX ERNST PEINTURES POUR PAUL ELUARD』(Éditions Denoël 1969年)。エルンストの絵はエリュアールがこの家を去った後、上から塗料や壁材で覆われ、隠されていたが、エリュアールの娘が思い出し発見されたという。

ernst19写真<19>
ポール・エリュアールの家の壁画に描かれた絵を集めた美しい装丁の本『MAX ERNST PEINTURES POUR PAUL ELUARD』(1969年)


ernst20写真<20>
『MAX ERNST PEINTURES POUR PAUL ELUARD』(1969年)から


ernst21写真<21>
『MAX ERNST PEINTURES POUR PAUL ELUARD』(1969年)から


ernst22写真<22>
幻視者マックス・エルンスト


マックス・エルンストはある意味、魔術的想像力で世界を再創造した「宇宙創成者(デミウルゴス)」(「畸型の神 あるいは魔術的跛者」種村季弘 青土社)のような存在であったかもしれない。イメージ同士の衝突による日常から非日常への暗転。ランボーの意識的な錯乱とのアナロジー。黒い地下想像力と「ポエジーの発火」によって描かれた魔的な作品世界。「シュルレアリストとは、これらの《呪われた場所》に近づくことのできた、いわば選ばれた人間である。かれは狂人によって、理性の絶対的な有効性を疑うように強いられる。半ば明晰で半ば錯乱したかれのメッセージは、知性にコントロールされた言葉よりも、ときとして一層真理に近づく」(「シュルレアリスムとカフカ」 マヤ・ゴート 審美文庫 金井裕訳)。「見ること」を究極的に極めたマックス・エルンストは偉大な幻視者の系譜に連なる一人であったと言ってもよいだろう。

ernst23写真<23>
マックス・エルンスト関係の蔵書の一部

 
作成日: 2016年9月22日(木)
よるの ゆう

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)−モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論掘戮如◆慄鳴鮮1987−消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。

●本日のお勧め作品は、マックス・エルンストです。
エルンスト「緑の蜥蜴」
マックス・エルンスト
兵士のバラードより<ジャン・ピエールは緑の蜥蜴>
1972年  カラー石版
イメージサイズ:22.6×18.3cm
シートサイズ:38.3x29.0cm
H.C 将供伸将記
Signed

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」第6回

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

第六回◇「一冊の写真集」が二人の人生を変えた−運命的なカナダとの縁

「何か」の力が働くと感じるときがある。人との出会い、本との出会い、蒐集すべき「モノ」との遭遇…。大きな見えない力が時には、慣れ切った日常感覚を覆し覚醒を促す。その力を及ぼすのは迷路に迷い込んだ遊歩者を導く土地の精霊ゲニウス・ロキだろうか、あるいは悪戯っぽくもう一つの冒険へと誘う妖精か、はたまた運命の設計図に赤い糸で線をひく守護神か…。最初の出会いというのはいつも不思議なものである。「およそ事の初めには不思議な力が宿っている」(『ガラス玉演戯』ヘルマン・ヘッセ 高橋健二訳)のかもしれない。
カナダとの縁、それはある古本屋での不思議な出会いにさかのぼる。まだ会社勤めをしていたころ、休みの日になると東京・神保町などの古書店めぐりをするのが楽しみだった。今から十二年前の「その運命の日」、JR高田馬場駅から早稲田通りに続く古書店街をぶらぶらしていた。古書店めぐりも慣れてくると、神保町ではどことかお気に入りの店が決まってくる。早稲田の古書店街では美術、写真、文学など一味違う本格的な品ぞろえのI書店に寄るのが定番コース。暑い夏の盛り、店に入ると、コンクリート打ちっぱなしの吹き抜けの壁が冷やっとして心地よい。いつものように、シュルレアリスム関係の棚を漁っていたところ、カウンターで店の主人とカタコトの日本語で、なにやらやり取りしている外国人の姿があった。耳を澄ませていると、どうも、ネットに出ていた本がまだあるかどうか尋ねているらしい。途切れ途切れに聞こえてきたのは「バラケイ」「マダアリマスカ?「カイタイ」…。「バラケイ」と聞いてぴんときた。写真集バブルのころには五十万円近くで取引されていた細江英公の写真集『薔薇刑』の初版本を熱心に探しているのか「バラケイ」「バラケイ」を連発している。店の主人が「売り切れ、ソールドアウト」と言うと、本当にがっかりした様子で、気の毒に思った筆者は、思わず「その写真集なら持っているので譲ってもいいですよ」とその外国人に声をかけた。それがお互いの運命を変えるカナダ人Pとの不思議な出会いの始まりだった。後日、自宅近くのJR阿佐ヶ谷駅前の喫茶店で待ち合わせ、三島由紀夫をモチーフに独特の写真世界を表現した細江英公の写真集『薔薇刑』(杉浦康平デザイン 細江英公と三島由紀夫による連名サイン入り 限定1500部 集英社, 1963年刊)を持参。Pは仔細になめまわすように本の状態を確認し売買成立。この『薔薇刑』は箱が黒く塗装された段ボール紙製で傷みやすく、なかなか良い状態のものは少ない。実は仙台に赴任していたころ、古書店で出来上がったばかりの古書目録を見せてもらったとき、ある本のところで目が釘づけになった。当時でも二十万円以上で取引されていた『薔薇刑』がなんと一万円!一桁間違えたとしても安い。すぐにその当の古書店に電話を入れ取り置きを依頼。手に取るとまさに本物の初版『薔薇刑』だった。状態も悪くない。書斎の宝物となった。

「一冊の写真集」がきっかけとなってカナダ人の写真集コレクターPと知り合うことになったが、その後2年近く音信不通に。気にはしていたもののすっかり忘れていた数年後、偶然にも渋谷の古書店でばったりPと再会したのだった。古書マニアに限らず、精神的に近いフィールドにいる同士というものは、東京やパリなどの大都会でも、不思議とマグネットに導かれるように出会ったりするものだ。同じ精神的趣向のベクトルが「その特定の場所」へと誘うからかもしれない。その再会が縁でカナダ人Pとの交流が再開した。カナダ、とりわけモントリオールとトロントとの特別なつながりは、その後のある「決定的な出来事」によって始まった。

canada01カナダとの「赤い糸」になった細江英公の写真集『薔薇刑』(限定1500部 集英社, 1963年刊)


2011年3月11日。誰しも忘れることのできない一日だ。東北を中心とした巨大地震とそれに伴う福島原発事故。ちょうど阿佐ヶ谷の自宅前の路上で遭遇、周りの風景から輪郭が消え、大きな揺れは二重画像のように見えた。立っていられないほどで、急いで部屋に戻ると書棚の本は飛び出し、家具や大型スピーカー、食器などのガラスの破片が散乱。急いでインターネットで国内や海外発のニュースを中心に状況を調べると、東京ではなく東北が大被害を受け、巨大津波が襲ったとのこと。家族の安否を確認した後、会社を辞める直前まで赴任していた仙台の友人たちや、知人に連絡。その後の福島第一原発の爆発映像を見て、風向きによっては東京も放射性物質を含んだ濃い放射能ブルームが来る可能性があると判断。2回目の大きな爆発映像を見た直後の3月15日早朝、濡れたタオルで口と鼻を覆いながら羽田空港へ向かった。実はこの日昼前に関東方面へ濃い放射能ブルームが流れ、ホットスポットができたという。取るものもとりあえず羽田から福岡へ。ネットカフェで10日間ぐらい過ごした後、ソウル経由でパリへ。パリでアパルトマンを借り数か月過ごし、ミュンヘン、バルセロナ、ロンドンにしばらく滞在した後、Pのいるカナダへ。モントリオールでアパートを確保してビザ期限ぎりぎりの半年間滞在。その後、パリ7区のエッフェル塔近くの屋根裏部屋に2年弱滞在した。大地震と原発事故によって押し出されるように図らずも海外へ。「疫病を防ぐ最良の方法はそれから逃げることだ」(『疫病流行記』ダニエル・デフォー 現代思潮社)という本能的直感でもって災いの発生源から遠ざかった。
3・11を契機に始まった筆者自身の「漂流」が新しい書斎の蒐集物をもたらすことになった。「どこに位置しようと誰にでも自分の南がある」(ドゥルーズの言葉 『ランボー・横断する詩学』野村喜和夫 未来社)と、この言葉を旅の聖なる指標として肝に命じた。
モントリオールはケベック州にあるフランス語文化圏の都市で、トロントやバンクーバーなど英語圏の都市とは人の気風や風土もかなり異なる。1960年代から70年代のヒッピー文化の残り香が漂う、どちらかといえば「ラテン的」な土地柄だ。

canada02モントリオール界隈。街の至る所にペイントアートがある。


モントリオールはレコード屋や古書店が多く、街歩きをしているとパリの裏町に紛れ込んだような錯覚を覚える。古書店はパリのちょっと入りづらい店の雰囲気と違って、かなりオープンで店主も気さくだ。パリの古書店でも探すのが難しいシュルレアリスム系の本が見つかることもある。値段もパリより3割ぐらい安い。

canada03カナダで入手した希少本。擦り切れたアンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』(AU ÉDITIONS DU SAGITTARE 『溶ける魚』収録 1924年 写真左)と、HÉMISPHÈRES DÉCOUVERTE DES TRPOIQUES(アンドレ・ブルトンらによる特集・『熱帯の発見』ÉDITIONS HÉEMISPHÈRES New York 1944年 写真右)


canada04ヘンリー・ミラーの希少本『ORDER AND CHAOS CHEZ HANS REICHEL』 (THE 26 COPY CRIMSON OASIS , A-Z 26 Copies INSCRIPTION EDITION Signed by Henry Miller Loujon Press 1966年 限定26部 サイン入りで、とても凝った装丁)以前、オークションで落札し損ねた本をカナダで発見し入手。


canada05モン・ロワイヤルの古書店(その後モントリオールを訪れた時には、この壁のペイントアートはなくなっていた)


トロントに滞在中、飛行機で3時間半のキューバに行く機会があった。人生最悪の食中毒(まる五日間寝たきり、最後は病院へ)にもめげず、残された最後の三日間でハバナの裏町を撮ったのがソニー製のコンパクトデジタルカメラRX100M2。昨年京都市内で開いた写真展「古巴(キューバ)−モノクロームの午後」(京都国際写真際KYOTOGRAPHIE KG+ 2015年5月1日−7日)の2m近い布幕に引き伸ばしてもびくともしない写真の画質を見て、Pはこのカメラがほしくなったのか、コレクションしているダブりの写真集と物々交換しないかと持ち掛けてきた。コンデジと稀少写真集とを物々交換…悪かろうはずがない。コンパクトデジカメが超レアな写真集の数々に化けた。写真集の状態は決して良いとは言えないが中はきれいだった。

canada06稀少写真集に「化けた」SONY製コンパクトデジタルカメラRX100M2


canada07コンパクトデジカメと物々交換したHenri Cartier-Bressonなどの稀少写真集(下)


カナダから戻ると、希少な写真集を自分だけでなく、友人、知人らで「眼福」を共有しようと、ことし四月まで住んでいた京都の町屋で、「カナダからの漂着物・稀少写真集を見る会」を催した。お披露目したのは、有名なHenri Cartier-Bressonの代表的な写真集『THE EUROPEANS(ヨーロッパの人々)』(1955年 フランス 初版 ミロによるカバー)と、『THE DECISIVE MOMENT(決定的瞬間)』(1952年 フランス 初版 マチスによるカバー)のほか、植物のオブジェのようなクローズアップ写真で知られるKarl Blossfeldtの『WUNDER IN DER NATUR(自然の驚異)』(1942年版 ドイツ版 最初の版ではないがレアな写真集)、Halke Hajekの実験的な写真集『EXPERIMENTELLE FOTOGRAFIE』(1955年 ドイツ 初版)など。

canada08


canada09以前住んでいた京町屋で久々にブックサロンとして、「カナダからの漂着物・稀少写真集を見る会」を開く。


カナダ人の友人Pが住むトロントは北米屈指の金融街である。大手銀行や保険会社などの超高層ビルが競うように立ち並ぶ。不動産バブルが続き、地価が高騰を続けている。そんな金融都市・トロントだが、都会のエアポケットのような「裏トロント」といってもよい場所がある。それがトロントの裏街・ケンジントン・マーケットだ。ヒッピー文化の香りが残り、「ゆるい」時間が流れるアンダーグラウンド的な穴場。どんな都市にもちょっと危険な匂いのするノワールな「危うい場所」というのがひとつぐらいは存在する。東京でいえばゴールデン街や歌舞伎町、パンク発祥の地のロンドン・カンデンタウン、パリなら多国籍な街ベルヴィル界隈とか…。そういう場所がなければ、どんなに清潔な近代的都市も、精神的に窮屈すぎてきっとくつろげないであろう。真夏の早朝、ケンジントン・マーケットにある「ジミーズ・カフェ」の落書きだらけの屋外テラスで、まだ冷やっとした空気を吸い込み、熱いコーヒーと手に入れたばかりの古本を読みながらまったりするのは至福の喜びだ。

canada10トロントにも何度か長期滞在した。写真はケンジントン・マーケット界隈


canada11ケンジントン・マーケットにある人気の「ジミーズ・カフェ」。ジミー・カーターや、ジミー・ヘンドリックスら「ジミー」にちなんだ写真や絵が飾られている。フランクでとても落ち着くカフェだ。


canada12モントリオールやトロントの古書店などで入手した本や写真集の数々


「一冊の写真集」から結びついたカナダの街と人々−。「出会いは絶景である」(俳人永田耕衣)とはよく言ったものである。2011年の日本脱出以来、過ごしたモントリオールやトロント、パリ、ミュンヘン、バルセロナ、ロンドン、キューバのハバナ、モロッコのタンジール…。「一冊の写真集」をきっかけにしたPとの出会いがなかったとしたら、こうした旅や、旅先のさまざまな人との結びつき、希少な本の蒐集もなかったかもしれない。私事で恐縮だが、モントリオールでの滞在中に家族が訪問したことがきっかけとなって、絵本作家の娘がワーキングホリディでモントリオールに住み、そのときに知り合った現地のカナダ人と結婚するという結果も生んだ。予測不可能な運命とは不可思議で面白い。カナダ人の友人Pも、「一冊の写真集」で筆者と結びついたことが縁で、日本に何度か住み多くの日本人の知己を得、「日本は第二の故郷」と言わせるほど彼の人生に深い影響を与えた。
「一冊の写真集」を通した出会いと3・11体験がなかったら、安全地帯の書斎で、室内旅行者として引きこもり、きっと空想の旅を続けていたであろう。半ば押し出されるようにして日本を後にした三年間の「逃亡生活」は、自分自身のレゾンデートルを見極めるための一回限りの筋書きのない舞台だったのかもしれない。「そして私は自分の地理を知るために旅をする」(マルセル・レジャ『狂人の芸術』の「ある狂人[の手記]」より−ベンヤミン『パサージュ論慧垰圓陵景蘯圈抓簀判馘后法帖I者はこの三年にわたる海外滞在でこの言葉の意味するところを深く確信したのだった。
よるの ゆう

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)−モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論掘戮如◆慄鳴鮮1987−消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。

作成日: 2016年8月15(月)
-------------------------------
●本日のお勧めは細江英公です。
細江英公鎌鼬受賞記念
細江英公
1970年3月30日
1970年 23.6×29.5cm
ゼラチン・シルバー・プリント
サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」第5回

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

第五回◇エルメティック(神秘的)な邂逅−シュルレアリスムの画家平沢淑子

どんよりとした灰色の冬空の下、のどかなフランスの田園地帯が列車の車窓をよぎっていく。ぼんやりと過ぎゆく風景を眺めていると「なぜここにいるのだろう」という不思議な気持ちが湧いてきた。会社を50代前半で早期退職した翌年の2005年12月1日早朝、筆者はパリ・モンパルナス駅からTGVでボルドーに向かっていた。ある画家との出会いが不可思議な旅へと導いたきっかけだった。不意打ち的な出会いと旅。「貝原益軒は『旅路のことは知り尽すまで出発を待っていては旅行はできなくなる』と言っているが、そうしておとずれた予定外のところこそ、旅では欠かせない何かをもたらす」(「日本人の旅・雑考」山本さとし著 エナジー叢書)。偶然の出来事や未知の人への遭遇に身をゆだね、咄嗟に「予定外」の旅に出ようと思いたったのだった。その年の11月8日、当時東京・有楽町にあったフジテレビギャラリー(東京都千代田区有楽町1−12−1、現在は閉廊)で開催された「平沢淑子 −瀧口修造へのオマージュ展」を訪れた時のこと、パリでシュルレアリスム精神を受け継ぐ画家平沢淑子さんと言葉を交わす機会があった。当時シュルレアリスムに傾倒していた筆者は、瀧口修造やピエール・ド・マンディアルグ、アンドレ・ブルトンの娘オーブや寺山修司らと交流のあった平沢さんと話すうち意気投合、12月にボルドーで開かれる平沢さんの個展のお手伝いをすることになった。「言葉(ランガージュ)なき人が詩人と意志疎通するのは、こうした内部の音域 によってである」(ヘンリー・ミラー『ランボー論』小西茂也訳)。詩人(画家)と響きあうある種の通底音を持ち合わせていたのかもしれない。

hirasawa012005年11月、東京・有楽町のフジテレビギャラリー(当時)で開催された「平沢淑子−瀧口修造へのオマージュ展」


平沢淑子さんは慶應義塾大学を卒業後、1963年、NHKのアナウンサーとして入局。エドワード・ケネディや米俳優マーロン・ブランドら著名人とのインタビューをするなど活躍し3年後に退社した。その後パリを訪れたことをきっかけに画家を志し渡仏、独学で油彩技術を身につけ、1975年にリヨンアートセンター・国際現代美術展で大賞を受賞するなどいくつもの賞を受賞した。パリでアンドレ・ブルトンとも近い距離にあった美術批評家ジョゼ・ピエールと出会ったのをきっかけに、シュルレアリスム周辺の人たちとも親しくなり、1977年にシュルレアリスム系の画廊『ル・トリスケル』で初めての個展「妖精の距離」を開いた。個展にはアンドレ・ブルトンの未亡人のエリザや娘のオーブ、チェコのシュルレアリスムの画家トワイヤン、作家のピエール・ド・マンディアルグやミッシェル・レリスら錚々たる人たちが訪れたという。

hirasawa02初個展が開かれたパリの「ル・トリスケル画廊」、ピエール・ド・マンディアルグらの姿も


hirasawa03画家平沢淑子さん(写真2と3は、いずれも画集『Yoshiko』 Somogy éditions d'art ,Paris 1999より)


平沢さんはあらゆる出会いは「偶然の必然」なのだという。平沢さんの著書『月時計のパリ』(講談社 1984年)の中で、フランスの生物学者ジャック・モノ―の「すべての偶然は必然による。それは生物による実験で実証されている」という言葉を引き合いにだし「『偶然』と思えるさまざまな出会いが、じつは『必然』の糸に操られている…」(『月時計のパリ』)と考えている。筆者との出会いについても「偶然にみえて必然の出会い」で、「エルメティック」(神秘的)な出来事のひとつと彼女は言って、1999年にパリで出版された平沢さんの画集『Yoshiko』(Somogy éditions d'art ,Paris 1999)に「Dans l'espace d'hermétique」(神秘的な空間のなかで…)とサインしてくれた。

hirasawa04画集『Yoshiko』(Somogy éditions d'art ,Paris 1999) のサイン(写真右)


個展期間中、フジテレビギャラリーに毎日のように通い、平沢さんの絵を繰り返し見ているうちに、どうしても作品を手元に置いておきたいという気持ちが強まり、展示されていた大作「帰還−詩人・瀧口修造へのオマージュ」(111×100cm)の購入を即決した。「この作品では、ずっと心がとらわれていた形、六芒星の中に海を描いた。瀧口修造には、錬金術において黄金の一歩手前の形とされる『賢者の石』の平面図としての六芒星を捧げたかった」(『月時計のパリ』)と自作を解き明かす。「瀧口先生が亡くなった後、ショックを受けてしばらく絵が描けなくなった。やっと筆をとって描き始めたのが『帰還−S.Tに』だった。私にとっては、この絵が瀧口修造の顔のない肖像画だった。生々しくて瀧口先生の写真も見ることもできず、顔が描けなかった。わたしにとって遊戯の空間であるチェス盤に封印された星の中に(象徴的な)海を描いた」と筆者に語ってくれた。作品をじっと眺めていると、精神の闇の宇宙の浪間に、見えない瀧口修造のポートレートが浮き上がってくるかのようにも思える。平沢さんの作品群を見ていると、ノヴァーリスの「我らは目にみえるものよりも、目に見えざるものと、より近く結ばれている」(『断片』)という言葉が浮かぶ。

hirasawa05平沢さんの作品(画集『Yoshiko』 Somogy éditions d'art ,Paris)−左側は『妖精の距離2』 1980年)。中央は当時入手した『帰還−詩人・瀧口修造へのオマージュ』(1983年)。右側は幼少時の記憶をモチーフにした『砂時計のなかの蝶』(1980年)


hirasawa06ギャラリーの会場でアンドレ・ブルトンの声に耳を傾ける平沢淑子さん−平沢さんによると、亡くなる前の手紙で、瀧口先生がしきりに「アンドレ・ブルトンの声を記録したレコードがほしい」と書いていた。レコード番号も書いており、本当にブルトンの声を最後に聞きたいのだなと思ったが、その望みを生前にかなえることができなかったという。この思いをかなえようと、筆者はブルトンの声が収められたCDを家から持ってきて、個展会場に飾られていた瀧口修造の写真の前で平沢さんや、ギャラリーのスタッフらで聴いた。


hirasawa07平沢さんとの「偶然の必然」の出会いから、訪れることになったボルドー。ローマ時代の遺跡が残り、古い建物が並ぶボルドーの街並みは整然としている。女性的な感じのする流れのセーヌ川にくらべると、ガロンヌ川は流れも雄大で男性的だ。


曇天で肌寒い冬のボルドーは思いのほか華やいでいた。12月に入るとノエルの夜店が広場に立ち並ぶ。夜になると色とりどりのイルミネーションの光の中で、子供たちが目を輝かす。2005年12月1日、パリからTGVで到着後、宿とかなり離れた建物にフロントがある奇妙な安宿を確保して、トラムで展覧会場のあるタランスの 美術館「LE FORUM DES ART」へ向かった。現地で平沢さんと合流し作品展示の設営を手伝った。
平沢さんの作品の展示はボルドー大学が企画した国際会議のプロジェクトの一環で美術館との共催。翌2日開かれた国際会議には「シュルレアリスムと性」の著書で知られるグザヴィエル・ゴーチエ氏ら英米仏独など十数カ国の研究者、作家、アーティストらが参加した。個展が終わった5日、フランスで「カミヨン」と言う小型トラックに作品を載せ、平沢さんの達者な運転でパリへ向かった。パリまで600キロ以上の長距離ドライブ。車中で、寺山修司のこと、瀧口修造のこと、娘菜月さんのこと、マンディアルグ、トリスケル画廊、NHK時代の事などを問わず語りに聞いた。

hirasawa08ボルドー郊外タランスで開かれた平沢淑子展の会場の様子。未発表作品を含む計十六点が展示された。


hirasawa09帰国後、東京とボルドーでの平沢淑子展の様子や作品、旅の記録を一冊にまとめた私家版記録写真集『TOKYO-BORDEAUX』を限定3部で手作りした。


hirasawa10平沢さん周辺の著名人。左上・瀧口修造、左下・アンディ・ウォーホル、中央・ピエール・ド・マンディアルグ、右・作曲家武満徹


平沢淑子さんの周辺には様々なアーティストや詩人、音楽家らが吸い寄せられるように集まった。中でも、平沢さんの作品を深く理解していた詩人、美術評論家瀧口修造との結びつきは強く、パリと東京間で30通もの手紙のやり取りをしたという。
平沢淑子さんの初個展のカタログに瀧口修造が「エクスプレスで」というタイトルの詩的な序文を寄せた。「絵画とは、なんという物理の落とし子でしょう。この突っ立っている面は!…けさも、きのうのように、あなたは流れの早い潮の絵具に手を染めるでしょう。だから、私は水しぶきが描く三つ巴の虹の贈物を、ここから、速達でお送りしたいものです。(原文仏語)」。1979年、パリで瀧口修造が亡くなったとの知らせを受けて、平沢さんが東京の瀧口の自宅に電話したところ、綾子夫人が電話口にでて「瀧口は今、パリに行きました」と話したそうだ。平沢さんは瀧口が亡くなった後、「ショックを受けてしばらく絵が描けなくなった」という。平沢さんによると、瀧口修造が亡くなる数日前、アンドレ・ブルトンの娘オーブさんのところに瀧口から電話があった。「瀧口は電話口でエモーショナルになり感動したのか声にならず、会話にならなかった」との秘話も明かした。

hirasawa11平沢淑子さんの周辺の著名人・寺山修司(『月時計のパリ』 講談社 1984年より)。バックの写真は若き日の平沢淑子さん(画集『Yoshiko』 Somogy éditions d'art ,Paris 1999)


シュルレアリスムの画家平沢淑子と昭和のアンダーグラウンド世界を疾走した奇才・寺山修司、不思議な結びつきである。演劇実験室『天井桟敷』を主宰し、実験映画、前衛短歌、評論、脚本など多彩な才能の寺山と平沢さんが出会ったのはNHKアナウンサーの駆け出し時代で、インタビューしたことがあったという。用意した質問の意味が分からず躊躇していると、寺山が「ぼくが代わって質問してあげようか」と切り出されたことも。その後、偶然パリで再会し、急速に接近していった。寺山は、当時新進の画家だった平沢さんを優しく見守る姿勢で、演劇公演でパリに行くたびに平沢さんを訪ねることがあったという。「寺山がパリを離れるとき、家に帰ってみると、アトリエが赤いバラの花でいっぱいになっていた。真ん中に一輪うなだれている赤いバラが一輪。(別れの寂しさを表す)寺山の演出に驚いてしまった」と平沢さんは寺山とのエピソードを明かした。
寺山の「もしも自由を手に入れようと思ったら、それは『時に威嚇的に、時に優しく頭上にあるもの―天空的なもの』といつも関わっていなければならない」(『映写技師を撃て』 寺山修司)というスタンスが、形而上的で精神性の高い絵画世界を描く平沢さんとどこか共通するところがあったのかもしれない。寺山が47歳で急逝したとの知らせが日本からあった時、平沢さんは「その知らせは受け取れません」と答え、動揺を隠せなかった。その後、寺山の劇団『天井桟敷』にパリから電話して、劇団関係者に「電話機をできるだけ寺山の(遺体の)近くに置いて」と頼み、無言の時間がしばらく続いた後、電話を切ったという。

hirasawa12平沢淑子関係の本、資料の一部。写真右端上は、限定三部で手作りした東京とボルドーの平沢淑子展と「不意打ち的」に訪れた旅を記録した写真集「TOKYO-BORDEAUX」 。平沢淑子さんの作品には、水をテーマにした「ウォーター・ピラミッド」、「プリズム化する水」シリーズ、絵画的実験の「妖精の距離」、「遊戯の空間」を描く「ラ・マレーヌ」のシリーズなど抽象的で精神性を求める作品が多い。細密画のポートレートや、発光ダイオード”により波動する実験的な「緑の光線」のシリーズもある。


hirasawa13ボルドーの個展会場で自作を語る平沢淑子さん(2005年12月)。平沢さんはある時、パリのカフェで「絵を描く行為は(天上に通じる)<縦軸>しかない。神との対話かもしれない。描いていると、いつも(神と)会うからこわい。(神に)近づこうとしたときの(アトリエでの)修練はすごいものです」と創作に取り組む姿勢を筆者に語ってくれたのが印象的だった。


秋田県出身の平沢さんは剣道の祖で剣聖・愛須移香の十九代目の末裔として陰流の教えを大切にしている。「月と影。もし誰かが影に取り組まなければ、光は現れないだろう」(平沢淑子さんのWeb略歴より)。創作の姿勢にもその考えが反映されている。「影」のなかに存在する「見えないもの−アンヴィジーブル(invisible)の力」を信じる平沢さん。「独学した人は、他人が見えないものを見ることができる」(『ル・コルビジェ』 C・ジェンクス 『コルビジェの手紙』 佐々木宏訳 鹿島出版会)のかもしれない。
創造とは神秘的で錬金術的な世界。「『死んでいる』物質と『生きている』物質とが錬金術によって止揚されるので ある。…錬金術は…『すべてのもの』が、生きていたところの…あのカオスの根源状態にさかのぼっていくのである』」(「金と魔術」ハンス・クリストフ・ビンスヴァンガー 法政大学出版)。絵画とはエルメティック(神秘的)な空間の中での精神遊戯、人間の古層の記憶の果てしない召喚作業と言えないだろうか。平沢淑子さんの作品世界に身をゆだねていると、そう思えてくるのだ。
よるの ゆう

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)−モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論掘戮如◆慄鳴鮮1987−消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。

●今日のお勧め作品は、駒井哲郎です。
20160805_komai_11駒井哲郎
「嵐」
1962年
エッチング(亜鉛版)
18.5×18.5cm
Ed.20 Signed
※レゾネNo.175(美術出版社)

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」第4回

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

第四回◇アンドレ・ブルトンの署名本と、「聖地」フォンテーヌ通り42番地

シュルレアリスムの「聖地」は意外な場所にあった。パリ9区にあるフォンテーヌ通り42番地。クリシー通りから一本入った路地にあり、近くにはピガール広場など歓楽街も近い下町エリア。シュルレアリスムの盟主アンドレ・ブルトンが住んでいた場所だ。シュルレアリスム関係の稀少書や資料を集めるうち、いつかこの「聖地」を訪れたいと思っていた。長年勤めていた会社を50代前半で早期退職した翌年の2005年12月、その機会がやってきた。「聖地」を訪れるにはやはり灰色の雲が低く垂れこめた冬のパリがふさわしい。フォンテーヌ通りの壁の表示を確認しながら歩くと、ほどなく劇場とキャバレーに挟まれた入り口の上に「42」の表示板を確認することができた。シュルレアリスムの精神的主導者だったアンドレ・ブルトンが思索を重ねた場所、ブルトンが長年にわたって蒐集したシュルレアリスム関係の絵画やオブジェ、アフリカなどのプリミティブな美術品が空間を埋め尽くす「驚異の部屋」、「知の水晶宮」が目の前の建物にかつてあった、と考えると気持ちが高ぶってくる。

breton1フォンテーヌ通り42番地の入り口。コメディ劇場とキャバレーに挟まれている。


breton2フォンテーヌ通り42番地のプレート。


breton3フォンテーヌ通り。奥にキャバレー「ムーラン・ルージュ」の赤い建物が見える。


住人が中に入って行くのについて行くと四面、建物に囲まれた四角い中庭に出た。一本の木がオブジェのように突っ立っている。強力なシュルレアリスム精神の「魔術的波動」を世界のシュルレアリストに向けて発信するアンテナでもあるかのように…。かつて、この入口の狭い通路や中庭をブルトンやシュルレアリストらが歩いていたかと思うと、一種不思議な感銘を覚えた。「私はと言えば、これからも私のガラスの家に住み続けるだろう。そこではいつも誰が私を訪ねてきたか見ることができ、天井や壁に吊られたすべてのものが、魔法のごとく宙にとどまり、夜になると私はガラスの寝台にガラスの敷布をかけてやすむ。やがてそこには私である誰かがダイヤモンドに刻まれ見えてくるだろう」(「アンドレ・ブルトン集成1」−「ナジャ」巖谷国士訳 人文書院 1970年)。部屋から主が消えても、「見えない」シュルレアリスムの聖なる城がここに確かに存在している。

breton4ブルトンが居住していた建物の中庭。一本の木がブルトンの指令を世界中のシュルレアリストたちに発信する「アンテナ」でもあるかのように突っ立っている。


今はもう消えてしまったブルトンの書斎。マックス・エルンストデュシャン、ピカビア、アルプ、ダリ、ミロ、カンディンスキー、モロー、アフリカのプリミティブな呪術人形やマスク…ありとあらゆる世界の「魔術的芸術」を一堂に集めた巨大なシュルレアリスム精神の書斎宇宙がここにあった。ポンピドゥーセンターにブルトンの部屋の一部が再現されているが、残念なことにブルトンの蒐集品はオークションなどでほとんど散逸してしまった。この「驚異の部屋」を写真集として残した本が『42 rue Fontaine L'atelier d'André Breton』(Julien Gracq édition Adam Biro 2003)だ。主なき超現実的な空間をすみずみまで写真映像で切り取っている。オークションの目録『André Breton 42, rue Fontaine』(Calmels Cohen 2003)に付属のDVDでは、この「驚異の部屋」の蒐集品の数々を映像で紹介している。

breton5ブルトンの「驚異の部屋」の本『42 rue Fontaine L'atelier d'André Breton』(Julien Gracq édition Adam Biro 2003 パリの古書店で入手)


breton6オークションの目録『André Breton 42, rue Fontaine 』(Calmels Cohen 2003)に付属のDVD


いつごろからだったろうか、パリを訪れる際、まずシュルレアリストらのお墓参りをするのが習慣になっていた。パリの厳しさを忘れないために。ル・コルビュジェは「パリはあらゆる瞬間に鞭のぴしゃっという音がしていて、夢みる人にとっては死である」(『ル・コルビュジェ』 C・ジェンクス コルビュジェの手紙 佐々木宏訳 鹿島出版会 1993年)と述べている。心が浮足立っていると、「サン・メルシイ(非情)」なパリはその本来の姿を隠し何も見せてくれない。2005年7月、パリのはずれ17区にあるバティニョル墓地のブルトンのお墓を訪ねた。ブルトンのお墓は墓地のかなり奥の方にあり探し当てるのに随分時間がかかった。ブルトンのお墓はシンプルだが、墓石の上に立体的な五芒星の形のようなオブジェが置かれており一目でそれと分かる。お墓の前で写真を撮ろうと構えたとき、買ったばかりのデジタルカメラがまったく動かなくなってしまったことがあった。なにか墓の下から強力なエネルギーが働いてカメラの動作を狂わせたのか、ブルトンと対面するのにふさわしい精神状態に達していなかったのか、いったん出直さざるを得なかったことを覚えている。

breton7パリ17区バティニョル墓地にあるアンドレ・ブルトンのお墓。墓碑銘にはブルトンの『現実僅少論序説』(INTRODUCTION AU DISCOURS SUR LE PEU DE RÉALITÉ Librairie Gallimard 1927)からとられた「Je cherche l'or du temps(「私は時の黄金を探す」)」という言葉が黄金色の文字で刻まれている。ブルトンを慕い訪ねてきた人が置いたのだろうか、色とりどりの小石がお墓の端っこにオブジェのように並べられていた。


breton8ブルトンの墓碑銘「Je cherche l'or du temps(「私は時の黄金を探す」)」の言葉が載っている『現実僅少論序説』(INTRODUCTION AU DISCOURS SUR LE PEU DE RÉALITÉ, Librairie Gallimard 1927)。「現実僅少論」−現実は幻想であり、見えないもののなかにこそ真実の世界があるとも解釈できるこの本のタイトル。それがシュルレアリスムの作法のすべてを物語っているような気がして、本の内容というよりもそのタイトルに「言葉のオブジェ」として強い衝撃を受けた記憶がある。


当時シャルル・フーリエにも傾倒していた筆者はブルトンの『シャルル・フーリエへのオード』(Ode à Charles Fourier, Revue Fontaine 1947)の原書を入手したいと思っていた。初版をグランパレの大古書市で入手したものの、ブルトンの署名本がどうしてもほしいという気持ちが強くなった。パリの古書店の情報を集めているとき、予約制の古書店があることを知った。2010年6月、パリ18区のイスラム系住民が多いその地区を訪ね、住所を頼りに歩いていくと、雑然とした住宅街の一角にその場所を見つけた。看板もない隠れ家的古書店だ。呼び鈴を鳴らすと奥から店主と思しき人が現れ、中に招じ入れられた。一見外見は普通の住家に見えたが、建物の内部は「あっ」と思わず声が出るほどの巨大な書斎空間になっている。吹き抜けの天井まで埋め尽くす書物、地下にも本が整然と展示されている。一般的な古書店では見ることのできない稀少書の数々がさりげなくいたるところに置いてあり、古書蒐集家なら思わず溜息が出てしまうであろう。『シャルル・フーリエへのオード』のブルトンの署名本の有無を尋ねると、あっけなくすぐに棚から取り出してくれた。その署名本には仏語版『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル)の訳者André Bayへの献辞が書かれていた。予約制の隠れ家古書店を訪ねてみて、見えないところに秘密や美があるパリの文化の懐の深さをあらためて感じた次第であった。

breton9『シャルル・フーリエへのオード』の署名本。「エンドレスハウス」など不定形で有機的な建築で知られる建築家フレデリック・キースラーによる凝った装丁。仏語版『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル)の訳者André Bayへの献辞とブルトンの署名(写真右)。


パリの路地裏を探索していると、ふとブルトンの『ナジャ』のような女性に出会わないか密かなときめきを感じることがある。「ナジャ」とは霊感を呼ぶ妖精のような謎の女性で、想像力の宇宙の住人にとっては守護天使のような存在である。「私とは誰か?」という言葉で始まるブルトンの「自伝的」小説『ナジャ』(Nadja)は自動筆記(オートマティスム)の手法で1928年に書かれた。突然目の前に現れた謎の女性ナジャは一見不可解で不思議な暗号に満ちた詩やデッサンをブルトンに示す。都会のセイレーンのように、あるいは旅人に謎をかけるスフィンクスのように…。『ナジャ』は「どこまでも、扉のように開いたままの、鍵をさがさないですむ書物」(『ナジャ』アンドレ・ブルトン 巖谷国士訳)である。一行の裏に潜む言葉の路地裏が通底器のようにあらゆる人々の精神の地下世界とつながっている。シュルレアリスム、それは精神の永続革命である。「美しく憂鬱な女王たる思考」(『現実僅少論序説』アンドレ・ブルトン)の磁場のなかで、思想の路地裏にひっそりと遍在する日常精神からの逸脱、浮遊を求める超現実の隠者たち、精神の永続革命を模索するシュルレアリスムの逸民たちに向けて、アンドレ・ブルトンの「ガラスの城」から超現実の言葉の電波が今も発信続けられている。シュルレアリスムの聖地・フォンテーヌ通り42番地―そこから世界に…。

breton10ブルトンの小説『ナジャ』の表紙と、『ナジャ』の中に出てくるジャック=アンドレ・ボワファールの写真。2015年1月にパリを訪れた際、ボワファールの写真展がポンピドゥーセンター地下にオープンしたばかりのギャラリーで開かれていた。何気ない日常のパリの路上風景を撮影したものだが、不思議とそれがシュルレアリスムの超現実感覚とつながっている。ボワファールはシュルレアリストの一員だったが、のちに本業の医学の世界に戻った。強力な「日常」という磁場に張りつけられている人々に社会の重力を脱し精神の浮遊を促すのがシュルレアリスムのひとつの作用ではないだろうか。有用性のある伝達可能なものではなく、見えないもの、「伝達不可能なものの役割こそが、たぐいない快楽の源泉となるのである」(『ナジャ』アンドレ・ブルトン巖谷国士訳)。『ナジャ』は、「日常」の裏側にある超現実の見えない想像力の扉を可視化する。


breton11ブルトン関係の蒐集した本、映像、レコードの一部。主にパリの古書店やレコード店で入手したものが多い。写真中央のブルトンの肖像画が描かれたガリマール社発行の小さな本は、パリ15区ブラッサンス公園内にある行きつけの古書店主がプレゼントしてくれたもの。


作成日: 2016年1月9日(土)

よるの ゆう

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)−モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論掘戮如◆慄鳴鮮1987−消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。

●今日のお勧め作品は、ジョゼフ・コーネルです。
20160705_cornell_01ジョゼフ・コーネル
「アンドレ・ブルトン」
1960年頃
Collage by Joseph CORNELL on the photo by Man Ray
24.6x17.9cm
サインあり

マン・レイが撮影したブルトンの肖像のうちでもっとも著名なソラリゼーションによる写真に、コーネルがブルーの水彩で縁どりを施したもの。 裏面全体もブルーに塗られ、コーネルによるサインとタイトルが記されている。


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」第3回

夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」

第三回 路上の幻視者アッジェ−手焼きのオリジナルプリント

早朝、パンとミルクと砂糖という質素な朝食を終えると、男はいつものように大型の写真機材をかかえて人影もまだまばらなパリの街に出る。男の名はジャン・ウジェーヌ・オーギュスト・アッジェ(Jean-Eugène-Auguste Atget 1857-1927)。パリの路地やときには郊外まで歩いて、消えゆく古きパリの風景の断片を、たんねんに写真に撮り約30年間に8000枚もの貴重な映像記録を残した。
若き日のアッジェは商船の給仕として欧州、北アフリカ、南米などをまわった。1880年代後半から1990年代後半にかけて、アッジェは生涯の伴侶となったヴァランティーヌ・ドラフォスとともに旅役者をしていたが解雇され1897年に失意のうちに単身パリへ。41歳で画家を志すも断念、1898年ごろから「芸術家のための資料」(Documents pour artistes)として、生活の糧を得るため写真を撮り始め、画家のアトリエを訪ね、売り歩いた。
18センチ×24センチのガラス乾板を使う大型の木製の暗箱カメラを使用。ガラス乾板の感度が低く露光時間との関係で、街角から動くものは半ば消え、アッジェの写真特有の人物の「ブレ」が現実感を奪い不思議な陰翳のあるポエジーを生み出している。ヴァルター・ベンヤミンはアッジェの写真について「ほとんどすべてに人影がない。…どこも寂しい場所というのではない。気分というものが欠如しているのだ。都市はこれらの写真の上では、まだ新しい借り手が見つからない住居のように、きれいにからっぽである。…アッジェの写真が犯行現場のそれに比せられたのは故なきことではない」と『写真小史』(1931年 久保哲司訳)のなかで述べている。写真から生きているものは消え、生命のないものは生き残る。時が止まり、永遠の時間の粒子が印画紙に定着する。
すでに19世紀に、ボードレールは詩集『悪の華』の中で「古いパリはもはやない」と言い切っているが、アッジェは今、まさに消え行こうとしている古きパリの最後の残滓を写真で掬い取ろうとしていた。アッジェは「大都会が投げ出したもの、すて去ったもの、軽べつしたもの、うち砕いたもの等すべてのものを目録につくり、蒐集する」(「『人工楽園』ボードレール 松井好夫訳)ことを天職にした。

atget1ショーウインドウのアッジェの写真(ゴブラン通り 1926年)


瀧口修造は「ただ怪奇な物を漁って撮ったり、砂漠で貝殻や流木を撮ることだけがオブジェでなく、このアトジェ(アッジェ)のような卑近な事物の非情な記録からも物の精、物の妖気のようなものが感じられる」と『新しい写真の考え方』(毎日新聞社 1957年)の中で述べている。人影の消えた路地や古色蒼然としたパサージュ、ショーウインドウで虚無の微笑をたたえるマネキン…。「アッジェは行方知らずになったもの、漂流物のようなもの」(『写真小史』ベンヤミン)を、だれもが見過ごしていた風景から救出しようとしていたのかもしれない。

アッジェの写真と原版を蒐集、再評価に貢献したベレニス・アボット。彼女が撮ったアッジェ晩年の写真と、壮年期のアッジェの写真(パリ国立図書館)とでは人物のイメージに大きな違いを感じる。アッジェというと晩年の老いたポートレートを思い浮かべるが、若き日のアッジェの写真を見ると、体格もがっしりしていて、エネルギッシュな印象を受ける。40代から写真を撮り始めたアッジェ。毎日のように12キロ近くもある重い機材をかかえ、パリの街中を歩きまわって撮影することができたのも、この体格なら納得できる。

atget2ベレニス・アボットが撮影した晩年のアッジェの写真


atget3若いころのエネルギッシュなアッジェの姿(パリ国立図書館資料)。老写真師というアッジェに抱くイメージとの落差を感じる。


消えゆくパリ風景の単なる記録を超えた「何か」を感じさせ、見るたびに新しい発見があるアッジェの写真。いつか、アッジェ自身が焼いたオリジナルプリントを間近で見たい、できることなら手に入れたいという気持ちが強くなった。その願いがついにかなうときがやってきた。2007年の初めごろだったろうか、日本ではなかなかない写真専門のオークションが東京で開催された。そこにはアッジェの写真が数点、出品されていたが、なかでもアッジェらしい特徴が良く出ている路地の写真にくぎ付けとなった。パリ1区のバイユール通りからアルブル・セック通りのホテルTrudonに向かって撮影された『L'Hôtel de Trudon La rue de l'Arbre-Sec vue depuis la rue Baileul 1903』だ。迷うことなく入札、落とすことができるか心配だったが無事落札した。アルビューメン(鶏卵紙)のアッジェ自身による手焼きプリントで、やや褐色を帯びている。写真の裏にアッジェの手書きで、撮影場所がインクで書かれている。ホテルの窓から覗く人影、通りの街角に佇む親子らしい消えかかった残像のような姿が認められる。

atget4オークションで手に入れたアッジェのオリジナルプリント


atget5オリジナルプリントの裏に書かれたアッジェ自身による撮影場所のメモ
パリ国立図書館(BNF)で、アッジェの大回顧展があることを知り、2007年6月、この回顧展を見るためにだけパリに飛んだ。所有する同じオリジナルプリントの写真を見つけ、手に入れたものがまがうべくもない「本物」だったという安堵感を覚えた。後で調べると、アッジェの写真集(『アッジェ 巴黎』 リブロポート 1993年)のなかにも同じ写真が掲載されていた。「google street」で見ると、バイユール通りから見た「ホテルTrudon」の建物は現在も残っており、オリジナルプリントの写真の風景が当時とほぼ変わっていないことがわかる。


atget6パリ国立図書館であったアッジェ回顧展のカタログに掲載されていたオリジナルプリントと同じ写真


atget7「google street」で、バイユール通りから見た現在の風景。ほとんど当時と同じ姿。
アッジェの作品の価値を最初に見抜いたのはパリのシュルレアリストだった。シュルレアリスムの機関紙『REVOLUTION SURRÉALISTE』(1926)には、橋の上で煤(すす)をつけたガラス板をかざし一斉に日食を見る人たちの不思議な写真が使われた。アッジェは名前が載るのを好まず撮影者名はない。


atget8アッジェとシュルレアリスム―機関紙の写真 (『REVOLUTION SURRÉALISTE』 1926)−アッジェ回顧展(BNF)のカタログより。


atget9アッジェ関連の本の一部。左上の『写真集アッジェのパリ』(朝日新聞社 1979年)はパリでマン・レイら著名な写真家のプリンターとして知られるピエール・ガスマンがアッジェの乾板を使って焼き付けた写真を集めている。


ある写真展で、ピエール・ガスマンが焼いたアッジェの写真のリプリントが展示されているのを見て吃驚したのを覚えている。アッジェが自身で焼いたオリジナルプリントの当時の鶏卵紙独特の仕上がりとは異なるモダンで緻密なプリントで、ディテールや豊かな諧調が余すところなく再現されていて、写真の技術はアッジェの時代にすでに完成されていたことを改めて思い知らされた。

アッジェは撮影の際、エッフェル塔など観光的なモニュメントを意識的に避けた。古きパリの残像だけを抽出し、風景やモノ、人々の日常の営みを写真として図鑑化、カタログ化した。路上の幻視者アッジェは消えかかった古きパリを透視し、「カメラオブスキュラ」という魔術的な暗箱の中で、パリという巨大な都市を映像によって腑分けをしたと言えよう。
よるの ゆう

■夜野 悠 Yu YORUNO
通信社記者を50代前半で早期退職後、パリを中心にカナダ、ドイツ、モロッコなど海外を中心に滞在、シュルレアリスム関係を中心に稀少書や作品などを蒐集する。2015年5月に国際写真祭『KYOTO GRAPHIE』のサテライトイベント『KG+』で、モノクロの写真・映像、キューバの詩で構成した写真展『古巴(キューバ)−モノクロームの午後』を開催。同年12月には京都写真クラブ主催の『第16回京都写真展 記憶論掘戮如◆慄鳴鮮1987−消えゆく夢幻の風景』を展示。京都市在住。

●今日のお勧め作品は、マン・レイです。
20160605_ray_44マン・レイ
「KIKI」
ペンと水彩
イメージサイズ:36.0×24.0cm
ペンサインあり


こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


◆夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。
tokinowasuremono
緑豊かな青山のギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱い、毎月企画展を開催しています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
Archives
Categories
最新コメント
記事検索
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ