小林紀晴のエッセイ

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第15回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第14回

 今回は趣向を変えて、過去に書いた文章をご紹介したいと思います。
 幼い頃の山に関する出来事で、私がこれまでもっとも繰り返し書いてきた事柄は「スガリ」についてです。地蜂を食する文化が長野県にはあるのですが、私の生まれ育った八ヶ岳の裾野も例外にもれず、それを食べます。俗に「蜂の子」と呼ばれるものです。そもそも「スガリ」の語源は巣狩と思われますが、確かなことはわかっていません。ちなみにイナゴも日常的に食べます。
 繰り返し同じ事柄を書く。私はこのことを意識してやっています。同じことを再び書くことに当初は大きな抵抗がありました。新鮮味はないし、何より二番煎じではないかという思いがあったからです。
 でも、ある著名な小説家で、私より4つほど年上の方(あえてお名前はだしません日本人です)が、「自身にとって大切なことは、時に触れ、何度でも繰り返し書くべき。年齢によって、その意味、理解の濃度と深度は変わっていくから」という意味のことを書かれた文章を読み、多いに影響をうけ、同時に「繰り返し書いてもいい」ことに気がつき、背中を押されもしました。
 それから時折、私は記憶をたどりながら、「スガリ」をできるだけ別の方法で改めて書くことにしています。
 今回は、昨年の春(2016)に『文學界』(2016年5月号・文藝春秋)に発表しました中編小説「山人」のなかから、引用してみたいと思います。最新の「スガリ」の文章です。小説なのであくまで、架空の人物が登場します。東京生まれ東京育ちの主人公の少年が、両親を急に亡くし、父方の祖父母の元に引き取られ、そこで新たな生活を始めるといったストーリーです。
 少し長いですが、お読みください。

―――――――――――――――――――――――――――――――

 昨日、じいちゃんとぼくは一緒に田んぼに行って、二匹のトノサマガエルを捕まえた。二匹ともプラスチックの虫かごに閉じ込め、ぼくの手の中にある。ときどきなかでカエルが跳ねる。そのたびにぼくは立ち止まって虫かごを両手でつつむ。もし、カエルが逃げてしまったら、スガリができなくなるからだ。
 じいちゃんがトノサマガエルを捕まえるさまは、手品でもみせられているようだった。糸の先の釣り針に器用にトンボをつけ釣竿をゆすると、トンボがまるで飛んでいるかのように土手と稲のあいだ、水面近くをふらふらとゆれた。しばらく繰り返していると、黒々としたものが水面から突然、勢いよくトンボめがけて飛びだした。じいちゃんが持った釣竿の先端が激しく上下に揺れた。釣り糸がきらきらと光って、次の瞬間、じいちゃんの手のなかにカエルが収まっていた。じいちゃんが閉じた手のひらをゆっくりと開くと、緑と黒の濡れた肌が見えた。黒い目も見えた。指のあいだから、後ろ足がにゅっと出たので驚いた。
「これがオウゲエロだ」
(略)
 じいちゃんは魚籠から取り出したビニール紐で、近くの木の枝にカエルの足を縛りつけた。カエルは力なげに両手をだらりと垂らしている。さらにベルトにつけた革のケースからナイフを出すと、刃をカエルの背中にすっと走らせた。次にその切り口に指を入れ、こじ開けるように皮をはぎ出した。お尻の方から頭の方へ指を滑らせる。魚をさばくみたいに見えた。器用だ。きれいに皮が剥けた。鶏肉を連想させた。そのあとで、カエルの身体のあちこちにナイフで切れ目のようなものを入れていった。そのあとでぎゅっと一度握ると血が吹き出した。家の祖先はカエルじゃなかったのか。
「始めるぞ」
 血の匂いで蜂が来る。そのことは知っている。でも、こんなに残酷なことをする必要なんてあるのだろうか。
「なんか文句でもあるだか? じいちゃんも、父ちゃんに教えてもらっただ」
 じいちゃんはあごをあげ、その姿勢のまま、じっと動かない。飛んで来る蜂を待っているようだった。
 十五分ほどたっただろうか。驚いたことに吊るされたカエルをめがけて蜂がやってきた。最初は注意深くカエルの周りをぐるぐると飛んでいたけど、やがてピタリとカエルの背中にとまった。
 なにも匂ってなどいない。ぼくにはわからないそれが、どうして蜂にはわかるのか。じいちゃんにも、嗅ぎ分けられるのか。地蜂はどれほど遠くからこの臭いを嗅ぎつけたのだろうか。ぼくも上を向いた。ゆっくりと回れ右をするようにぐるりと一周してみた。カエルと蜂とじいちゃんはこうして目には見えないものでつながっているのに、ぼくだけが、誰とも、どこともつながっていないのではないか。
 カエルにとまった蜂に、じいちゃんがそっと親指を近づけた。蜂はおとなしく爪の先に乗った。爪の上にはあらかじめナイフでマッチ棒の先ほどの大きさに切られたカエルの肉片が乗っている。肉片には真綿がつけられている。先を縒って器用に結んであるのだ。それもまたあっという間につくった。
 じいちゃんはじっと動かない。ぼくも黙って地蜂を見つめた。蜂はおそるおそるという感じに肉片を抱えた。かすかな羽音を立て、やがて空中に舞った。ぐるりとじいちゃんとぼくの頭の上に円を一度描くと、迷わず沢の上流の方向へ、真綿の白が遠ざかっていった。
(略)
 じいちゃんはどこまで行ったのだろうか。沢をそのまま上がっていったのか。自分がどうすればいいのかが、わからない。カエルが吊るされた場所へ戻るべきか。きっとそうすべきだろう。じいちゃんもそこに戻ってくるのだから。このまま斜面を下り、沢に沿って歩けば戻れるだろう。ぼくは足元を見る。自分が歩いて来た足跡はない。
 あの舌がだらりと垂れた血だらけのカエルが吊るされた場所で、じいちゃんを待つことがどうしようもなく恐ろしく感じられた。でもここにいても仕方がない。歩きだすと、何度も転んだ。そのたびに手のひらは泥だらけになり、爪の先にもそれがつまった。藪をかきわけようとした時、棘で左手の中指をざっくりと切った。
 戻ってきたじいちゃんに中指を切ったことを訴えると「つばでもつけとけ」と相手にされなかった。「泥がついているから、なめられない」と言い返すと「だったら頭を使え」と沢を指差した。「水道の水じゃなきゃ、やだ」なんて言ったら、怒鳴られることはわかっていた。でも、そんな水で傷を洗いたくはなかった。ぼくは代わりにじいちゃんを睨んだ。
「そういうやつは、とっととけえれ、性悪はいるだけで邪魔ずら。だで都会育ちはダメだ」
 じいちゃんはカエルの方に背を向けた。
 太陽が頭の真上を通りすぎた頃、じいちゃんは立ったまま、ばあちゃんが作ってくれたおにぎりを食べた。じいちゃんもぼくも時計を持っていないので、正確な時間はわからない。じいちゃんは不機嫌そうで、ほとんど何も口にしなかった。ぼくも同じように立ったまま食べた。食べ終わると、じいちゃんは虫かごに入れていたもう一匹のカエルを潰した。一匹目のカエルは乾き始め、もう血の匂いがしなくなったからだ。ぼくはその姿をぼんやりと見つめた。じいちゃんがゆっくりと動物に姿を変えていくような気がした。
 日が傾きだした頃、迷ったのだけど、
「ぼくもやりたい」
 と告げた。このままでは帰れないと思ったし、何よりじいちゃんを見返してやりたかった。
「そうか、やってみろ」
 駄目だ、と言われる気がしたので意外だった。
 見よう見まねで左手の親指の先にじいちゃんと同じように蜂を乗せた。じいちゃんの視線を感じ、緊張した。指先が震えていた。どういうわけか蜂は肉を握ろうとはせず、指の上をゆっくり甲の方に歩いてきた。蜂にからかわれているような気がした。怖くなって思わず手を振り払った。次の瞬間、手首の内側に鋭い痛みが走った。
「刺された!」
 じいちゃんはぼくの手を掴み、いきなりくわえた。硬い。吸いだした。
「しょんべんをかけろ、アンモニア消毒だ。自分のをかけろ」
 手首を見ると、赤く腫れ上がっていた。蜂に刺されたからなのか、じいちゃんが勢いよく吸いついたからなのか判別がつかなかった。混乱した。
「ほれ、めたしろ」
 自分のそれが効くとはとても思えなかった。
「……じいちゃんのをかけてほしい」
 とっさに答えた。じいちゃんは「めたしろ」とまた言った。ぼくは大きな声でもう一度言った。
「じいちゃんのがいい」
 すると、じいちゃんは迷うことなく、ぼくの左手を股間にもっていった。大げさなほどしぶきがあがって、じいちゃんのズボンに無数のシミをつくった。ぼくのシャツにも顔にもそれは跳ね返った。温かく、心地よかった。いままで何度も蜂に刺されたのに生きているじいちゃんのおしっこなのだから、毒など簡単に流れ去ってしまうだろう。
(略)
 じいちゃんはどれほどカエルが吊るされた木と藪の先を、行ったり来たりしたのだろうか。三、四十回ほどだろうか。
「見失った、くそ」
 吐き捨てるように、毎回そう言いながら戻ってきた。そのときまでには大抵、吊るされたカエルに地蜂が数匹留まっていた。だから休む間もなく、祖父は次の蜂に真綿のついた肉片を持たせ、地蜂が空中に舞い上がると、あっという間にまた藪のなかに消えていった。
 一日中追い続けたからといって、必ず巣が見つかるとは限らない。いや、見つからないことの方が多い。夕方、じいちゃんも諦めかけていたのだろう、「あと二回だけ」と力なく言って、藪のなかに消えていった。やがて、「見つけたぞ」と興奮気味に声を上げながら、戻ってきた。ぼくに抱きつかんばかりだった。
 手には何も持っていなかった。不思議に思って訊くと「目印をつけてきた」と言った。他人が見ても目印だと思わないもの、つまり木の枝をつかって自分にしかわからない目印をつくったという。以前のように巣をすぐに獲らないのは、相当にわかりにくい場所なので「ぜってえ誰かに獲られる心配はねえぞ。だで、巣が大きくなる秋までこのまま太らせる」のだという。
 やはり動物に近い。普段は隠している動物の本能が目を覚まし、こぼれ出している。それが匂った。なのに、じいちゃんは気がついていない。ぼくはじいちゃんをまじまじと見上げた。これから先、自分にそんなものが備わるなどとは、到底思えなかった。初めてうらやましく思った。
 
―――――――――――――――――――――――――

 小説はここまでです
 文章のなかの幾つかのことは本当にあった出来事です。私はその地で生まれ育ちましたが、初めて父と祖父に連れていってもらった「スガリ」の体験は強烈な記憶としていまも残っています。父と祖父が、突然、野性に目覚めたような、そこへ帰っていくような、あるいは別の動物になっていくような恐ろしさを何よりも感じました。
 この独特の「スガリ」の方法を、いつ誰が編み出したのか。知る術もありませんが、先人が考え出した原始的な方法で蜂の巣を見つける。そのことに驚きもしました。
 次回も、また別の小説に書いた同じく「スガリ」の場面をご紹介したいと思っています。地元で生まれ育ち青年になった男たちが、久しぶりに再会し同窓会的に「スガリ」をする話です。

01小林紀晴
「Winter 13」
2015年撮影
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160319_kobayashi_05_work小林紀晴
〈DAYS ASIA〉より2
1991年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
Image size: 24.3x16.3cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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201705UEDA_DM
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小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第14回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第14回

小正月 04

 お獅子はすべての家を回り終わると、夕方、公民館へ向かう。リヤカーはすでにミカン箱が山積みになっている。
 公民館の畳敷きの閑散した部屋にミカン箱を運び、箱からミカンを出す。ドドドッと畳の上に広がっていく。それを見るのが、毎年どういうわけか好きだった。氷のように冷たく冷えた畳が、ふと暖かく感じられるからだろうか。
 ただ、子供たち全員の感心ごとはミカンのほうにはなく、やはりご祝儀の方にある。すべての封筒から丁寧に現金を取り出し広げ、正確にどの家からいくらもらったかを記録する。
 いま考えれば不思議な気もするが、すべてのお金を子供だけで山分けした。その場に大人の姿はまったくなかった。6年生がその役目を果たし、平等にわけていった。記憶に間違いなければ、そうだったはずだ・・・・。
 一人当たりの金額は2、3万円ほどだっただろうか。当然ながら、子供にとってはかなりの大金で、当然ながら魅了的だった。お年玉に匹敵、あるいはそれ以上の金額だったはずだ。
 さらに、ミカンも山分けされる。でも、すべては山分けさなかった。量が多すぎるからだ。ただ、残りのミカンがどう処理されたのかはまったく記憶にない。あとで親たちが車で運んだのだろうか。とにかく持って帰れるだけのミカンを持つのが習わしだった。置いていくわけにはいかないから、という感じだった。
 外はもう薄暗くなっている。山分けしたお金を封筒にいれて大事に防寒ズボンのポケットに押し込む。
 ミカンは誰もがダンボールの切れ端の上に乗せた。それに紐をつけて、あたかもソリのようにして家まで引き摺って持って帰った。いやソリのようではなく、ソリそのものと呼んでもいいのかもしれない。ところどころアスファルトが露出しているところがあるが、ほぼ自宅までの道は雪か氷に覆われているから、思いのほか楽なのだ。
 急に冷え込んだ空気を頬に感じながら、紐を引っ張った。闇が空から降ってくるような感覚があった。きっと足元が雪で明るいからに違いない。空の方が地面より暗く見えるのだ。そのなかを歩くのは心地よかった。
 さすがにずっとミカンが乗ったダンボールを引っ張っていると、息が上がり、じんわりと汗をかく。だから首元だけがひんやりとする。立ち止まり、息を整える。防寒ズボンのポケットにいれた封筒をズボンの上から確認してみる。かすかな膨らみがわかる。大金がここには入っていると思うと、自然と心が弾む。
 なのに、その後にふと寂しさが差し込む。楽しみにしていた小正月が終わってしまったと実感するからだろう。年末からクリスマス、正月、小正月と続いていた冬の楽しみはここまでだ。明日からは、殺風景で色のない日だけがだらだらと続く。そう思うと、急に憂鬱になる。
 
 翌日、私は熱を出した。突然、節々が痛くて目がさめた。体温計で熱を測ってみると38度ほどあった。インフルエンザかもしれない。とっさに思った。
「厄を貰ってきちまったかもしんねえ」
 父が唐突に言った。
「厄?」
「ほれ、お獅子のなかにへえって家を回ってたで、悪い厄をもらっちまったずら」
「そういうことって、あるの?」
 急に不安になった。
「ああ」
 父はそんな答え方をした。
 熱は4日ほど続いた。医者にも行ったけどインフルエンザではなかった。家族の誰もが、それ以上何も口にしなかった。 
 私はいまでも、あのとき厄をもらって熱が出たと信じている。

01小林紀晴
「Winter 12」
2015年撮影
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

◆小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160819_kobayashi_10_work小林紀晴
〈ASIA ROAD〉より2
1995年
ヴィンテージC-print
Image size: 18.7x28.2cm
Sheet size: 25.3x30.3cm
サインあり

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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆ときの忘れものの次回企画は「植田正治写真展―光と陰の世界―Part I」です。
会期:2017年5月13日[土]―5月27日[土] *日・月・祝日休廊
201705UEDA_DM
初期名作から晩年のカラー写真など約15点をご覧いただきます。どうぞご期待ください。
●イベントのご案内
5月13日(土)17時より、写真史家の金子隆一さんによるギャラリートークを開催します(要予約/参加費1,000円)。
必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申し込みください。
info@tokinowasuremono.com

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第13回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第13回

小正月 03

 どんど焼きの翌日、つまり早朝に雪に紛れたおひねりを拾った日の昼間、今度は子供がお獅子のなかに入って、約100軒の地区すべての家を回る。これは子供にとって大仕事でもある。
 どんど焼きのときと同じくリヤカーに太鼓を乗せて、それを叩きながら昔から決められたコースを一軒の抜けもなく巡らなくてはならない。
 いま考えれば、よく子供だけに任せたものだと思う。大人はそれだけ自分たちのことを信頼していたということになるのかもしれないが、とにかく大人は一切関与しない。6年生、5年生だけで遂行された。全員で6、7人くらいだ。
 お獅子のなかに入るのは二人で、交代しながらその役目を行う。どの家でもご祝儀をくれるのだが、平均は千円札一枚くらいだと記憶している。ときに5千円札が入っていたりして驚くのだが、それはきまって厄年の人がいる家で、さらにミカン箱付きだったりする。そんな大物を乗せるためにリヤカーは必需品なのだ。
「お獅子御免と〜悪魔っ払い〜!」
 御幣を持った先頭の者が玄関先で元気よく声を張り上げる。そして、なかば勝手にずかずかと家のなに入っていく。もちろん靴は脱ぐ。お獅子もそれに続く。
 先頭の者は「お祝いなして、お祝いなして、お祝いなして・・・・」と唱えるように御幣を振り回し口にしながら、適当に部屋から部屋を歩き、また玄関に戻ってくる。なにが「悪魔っ払い」でなにが「お祝い」なのか、口にしている本人たちにもまるでわかっていないけど、とにかく昔からそうときまっている。最後は玄関あたりに家の人が待ち構えていて、お獅子の口からご祝儀袋をいれてくれるのだ。
「ありがとう」
「ご苦労様」
 必ず声をかけてくれるので、なんだか本当に役に立っている気がして、うれしくないわけがない。
 お獅子役は順番でする。後足役より前足・頭役の方が断然楽しい。近所とはいえ、よその家に勝手に入っていくのだからかなり興奮する。なにより最後にご祝儀袋がお獅子の口のなか、眼前にやってくる感覚はたまらない。
 約100軒まわるのに夕方まで、丸一日かかる。どの家を回って、どの家を回っていないかは、もちろん記録する。次第にリヤカーはミカン箱で一杯になり重くなっていく。数人で引っ張らないと動かなくなる。道のほとんどは雪で覆われていて足場が悪いし、なにより夕方になると凍り出すので、滑りやすいのだ。
 正直、かなり疲れる。それでも誇らしい気持ちはかわらない。自分たちが、すべての家から本当に「悪魔っ払い」しているような気持ちになるからだ。すると、強靭で神聖な存在にも思えてもくる。

(次回に続く)
01小林紀晴
「Winter 11」
2015年撮影
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160719_kobayashi_07_work小林紀晴
〈ASIA ROAD〉より1
1995年
ヴィンテージC-print
Image size: 18.6x27.9cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり

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◆小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第12回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第12回

小正月02

 しめ飾りなどが山のように積まれたそれに火が放たれると、辺りが急に明るくなる。足元の雪がレフ板の効果を発揮するからか、誰もの顔が赤く照らされる。みな笑っているように見えるから不思議だ。きっと炎がまぶしいからに違いない。火傷するほどに熱い。
 手にした柳の枝の先のおめえ玉を火のなかにすぐに入れたくなるのだが、じっと我慢だ。火の勢いが強いときに入れると、枝があっとう間に燃えて大事なおめえ玉が炎のなかに落ちてしまう。そんなことをするのは低学年の子供だけで、大人も高学年の子供もじっと炎が小さくなるのを待つ。
 見上げれば、書き初めの書き損じが空高く舞っていく。
「雪だるま」「お正月」「冬の朝」なんて文字がかろうじて読める。高く舞い上がれば舞い上がるほどに字がうまくなると、学校の先生も親も大人はみな真面目な顔をして口をそろえたけれど、そう言われるたびにそんなことはないだろうし、そもそも大人はまったく信じてはいないだろうなと思っていたけど、火の粉と共に闇にそれがひらひらと勢い良く上がっていく姿を目にすると、もしかしたら本当なのかもしれないという気持ちになってくる。
 1時間ほどすると、火の勢いはだいぶ落ち着いてくる。その頃を見計らって老人たちも姿を見せる。太い廃材などが熾火になっている辺りをめがけて、おめえ玉をかざす。とにかく遠火で焼くのがこつだ。
 焦げ目がついて、ぷっくりと内側から膨らんできたら食べごろだ。慎重に枝の先から外して、口に運ぶ。熱々だと意外なほど美味しい。ちなみにこれを食べると「一年間、歯を病まない」と言われている。これまた迷信に違いないことはわかっているつもりだけど、そんな気がしてくる。
 食べ終えて、火の勢いが小さくなると厄投げとなる。私を含めた子供はこれをなによりも楽しみにしている。今年厄年をむかえる人たちが、土手の上からいろんなものを投げるのだ。それを大人も子供の真剣に拾う。
 投げられるもので一番多いのはみかん。拾って一番嬉しいのはおひねりに入った小銭(時々、お札が入っていることも)。お菓子も撒かれる。ただ、とにかく暗く、さらに地面は雪なので、おひねの白い紙はあっという間に、わからなくなる。懐中電灯の明かりだけが頼りだからだ。
 ちなみに最近では、みかんはあまり投げられなくなった。投げると潰れてしまうし、踏まれやすいという理由からだ。うまい棒や小分けされたスナック菓子が人気だ。雪に落ちても濡れないのだ。
 ちなみに数年前、私が厄年のときには軍手を投げた。事前にビニール袋に一組ずつ小分けしたものだ。50組ほどだろうか。前の年に母が拾って「一番役にたったもの」という理由からだ。
 こうして、どんど焼きは終わる。
 ただ、実はまだ終わっていない。数人の子供は翌朝、できるだけ早い時間にどんど焼きの会場になった田んぼへ再び向かうのだ。大人はほとんど来ない。いや、子供も欲張りな男子だけだが。
 理由は前の晩に雪に紛れてしまい、まだ拾われていないおひねりを探すためだ。必ず幾つか取りこぼしがある。それを狙って、早朝に向かうのだ。他の誰かより少しでも早ければ、その分、確実に収穫は多くなる。だから薄暗いうちに行くことになる。
 気温はマイナス15度ほど。吐く息が白く、まつ毛と眉毛の先端が白くなる。息をするたびに喉の奥が痛い。防寒靴の先で雪をかき分ける。ザッ、ザッと心地いい音が耳に届く。すぐ隣にはどんど焼きの真っ黒の灰。そこにはもう誰も目を向けない。

01_600小林紀晴
「Winter 10」
2015年撮影
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160319_kobayashi_05_work小林紀晴
〈DAYS ASIA〉より2
1991年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
Image size: 24.3x16.3cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第11回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第11回

小正月01

 小正月というものを意識しなくなって久しい。子供の頃は確実にそれを意識していたというのに・・・・。
 雪と寒さに閉じ込められ季節の数少ない楽しみだった。小学校には小正月休みというものがあって、1月15日を中心に3、4日ほど休みになった。きっと、その存在がもっとも大きかったのだろうが、そのあいだに子供が主役の行事がつまっていた。

 15日の晩にどんど焼が行われる。その行事は全国的に行われているものだが、北関東から甲信越にかけて特に盛んな印象がある。あるいは、ほかの地方について私が知らないだけなのもしれない。
 私の地元でも古くから行われてきた。地区のはずれの雪で埋まった田んぼの真ん中に正月に使ったしめ飾り、松、だるま、書き初めの書き損じたものなどを高く積む。トラック数台分ほどの量だろうか。先端は屋根ほどの高さまでなる。
 それらを各家から集めるのが子供達の役目で、一台のリヤカーを数人でひいた。道路はどこも雪がカチカチに凍っているから坂道は危険でもあった。
 あつめたそれらを、とにかくできるだけ高く積み上げる。きまって先端にだるまを乗せる。まだ低学年の頃に6年生が自作した弓と破魔矢を使って、先端のだるまを射るのを目撃したことがある。見事に貫通して驚いた。
 山積みにする準備は明るいうちに終えるが、日が暮れ出す頃に再びでかける。そのときの胸の高鳴りはいまでも忘れることはない。空になったリヤカーには太鼓を乗せる。それを叩きながら地区の端から端まで、声を合わせて囃し立てるのだ。
「どんど焼きに来ておくれ!は〜やくしないと灰になる!どんど焼きに来ておくれ!は〜やくしないと灰になる!」
 どの家も雪をかぶってひっそりとしている。背後の山は黒々としていて、あたかも死んでいるかのようだ。果たして家のなかに人がいるのだろうか。心配になるほどだが、自分たちの声がきっと、こたつの脇の誰かに届いていることを信じて、声を張り上げる。
 振り向くと、下級生が我慢しきれなかったというふうに家から道路に飛び出してきて、じっとこっちを見ていたりする。そんな姿を目にすると自然と頬が緩む。無言のうちに通じ合っている気持ちになるからだ。
 さらに大人の姿のちらほらと現れ始める。大人もまたこのときをじっと待ってことに気がつく。すると自分たちのことが誇らしい気持ちになる。地区の役になっているという実感からだろうか。
 誰の手にも同じものが握られている。重そうに両手でもっていたり、肩にかけている姿もある。おめえ玉(まゆ玉)だ。柳の枝の先にいくつもつけられている。食紅で赤や緑といった毒々しい色に染められている。もちろん、ただの白もある。上新粉で作られた団子だ。一般的には蚕のまゆを模したものといわれているが、私の地元ではあまりその形をしていない。先端は丸いのだが、枝側はすっと細まっている。
 柳の枝は正月がすぎた頃に父が近くの河原へ行き、ナタで切ってきたものだ。父曰く「柳は火にくべても燃えにくいから」とのことだ。
 おめえ玉を作るのは母の役目で、出来上がったそれを柳の枝につけていくのを私は時々手伝った。完成したそれは、しばらく部屋の鴨居などにひっかけておく。乾燥させるためではなく、単純に飾って眺めるためだと思う。
 太鼓の音と自分の叫び声がきっかけとなり、それぞれの家からおめえ玉を持ち出す瞬間が来た。それがいまだ。そう思うと自然と胸が高まった。

600小林紀晴
「Winter 09」
2015年撮影
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20

こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。
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本日の瑛九情報!
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瑛九の会は、1965年結成、機関誌『眠りの理由』を創刊号(1966年4月20日)から第14号(1979年6月8日)まで刊行し、瑛九顕彰に大きな役割を果たしました。瑛九の会を担った人たちを順次ご紹介します。
先ずは発起人の一人で福井の頒布会を組織して晩年の瑛九を支援した木水育男さんです。
1981年\600\1981年3月1日_ギャラリー方寸_瑛九その夢の方へ_13.jpg
1981年3月1日
東京渋谷のギャラリー方寸にて
瑛九その夢の方へ」展オープニングで挨拶する木水育男さん(右)
正面に展示されているのが現在は東京国立近代美術館所蔵の「青の中の丸」

木水育男さんは1919年(大正8)9月8日福井県鯖江に生まれ、福井師範学校を卒業後、教師となります。1940年(昭和15)応召、終戦まで北支、南方に歴戦。1945年(昭和20)12月南方より復員、国民学校教師に復職し、1980年(昭和55)福井県武生南小学校校長を退職するまで教師として子ども達に接します。その間、北川民次、土岡秀太郎、久保貞次郎、瑛九らと出会うことによって新しい美術教育に情熱を傾けました。1951年(昭和26)創造美育協会(創美)設立に参加し、その活動を通じて泉茂、靉嘔ら多くの作家達と親交し、支援を続けました。1997年(平成9)6月3日死去、享年77。
没後2011年、故郷の鯖江で「瑛九との軌跡 木水育男(奥右衞門)を巡る人々」展が開催されました。

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『瑛九からの手紙』
2000年9月8日発行、発行人:木水クニオ、 発行:瑛九美術館
29.6×21.0cm 209頁
20170114183744_00005 のコピー
『木水育男追悼集ー木水さんとわたしー』
1999年2月20日刊
編集・発行:「木水育男追悼集」出版発起人会
20.5×15.0cm 354頁

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RIMG0740瑛九水彩鉛筆1956年600瑛九
「ターゲット」
1956年 水彩、鉛筆
23.3×19.8cm
サイン、年記あり

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瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆銀座のギャラリーせいほうで「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」が開催中。ときの忘れものの新作エディションが展示されています。
会場の展示スナップはコチラをご覧ください。
会期:2017年1月10日[火]〜1月21日[土]*日・祝日休廊
201701_ISHIYAMA-ROKKAKU
主催/会場:ギャラリーせいほう
協力:ときの忘れもの
石山修武の新作銅版画の詳細はコチラをご覧ください。
石山修武_ (30)石山修武
「大きな伽藍もつくられた」
2016年  銅版
Image size: 60.7x44.8cm
Sheet size: 74.3x53.5cm
Ed.3  Signed
シート価格:100,000円(税別)

六角鬼丈の新作シルクスクリーンの詳細はコチラをご覧ください。
04六角鬼丈「輪景(金光教)」
2017  シルクスクリーン
Image size: 36.5x69.0cm
Sheet size: 56.0x75.0cm
Ed.15  Signed
シート価格:100,000円(税別)

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◆小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第10回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第10回

クワガタムシ 02

 森のなかにクワガタムシが潜んでいる木を何本記憶しているか。その数でほぼ捕れる数はほぼ決まる。
 樹木の皮がめくれていたら、その境にゆっくりと指を這わす。指を割れ目にできるだけ食い込ませる。注意深く感触をみる。異物に指が当たったら、クワガタムシの可能性が高い。
 クワガタムシは夜行性なので昼間は木の陰や皮の割れ目に潜り込み、隠れていることが多い。だから昼間から樹液を吸っていることはほとんどない。学校の図書館の本には、昼間は土に潜って寝ていると書かれていたけど、正しくない気がする。何より土を掘って見つけ出すことはかなり効率が悪い。木の根元に限ってもかなり広く、そこを掘り返すとなると無駄な労力となることは子供でもわかる。だから基本的に土は掘り返さない。
 樹液がでているあたりや皮の境にいなかったら、次にすることは決まっている。木の幹を思い切り蹴飛ばすのだ。木の上の方の幹や枝にとまっているクワガタムシを落とすためだ。といっても、回し蹴りではない。そんなことをしたら痛すぎて足がいくつあってもたりない。飛び蹴りだ。走りながら木に近づいて、タイミングを見計らって飛び跳ねて足の裏で「ドン」と押す感じだ。
 子供がそんな蹴りをしたくらいで木が揺れるものだろうか、たとえ揺れたとしても、そんなことでクワガタムシが落ちてくるものなのか。そう思われがちだが、冗談みたいに落ちてくる。詳しい理由はわからない。樹木の表面に昆虫の爪は引っかかりにくいのかもしれない。
 蹴飛ばすときには暗黙のルールがある。一人で蹴飛ばすこと。そう決まっている。クワガタムシが落ちて来たら蹴飛ばした者の所有となるからだ。何人かで蹴同時に飛ばして、仮に一匹だけ落ちてきたら、分けることができなくなる。つまり喧嘩になりやすい。ささやかな少年たちのトラブル回避の知恵といえる。そもそも最初に誰が考えたのだろうか。
 それでも落ちてこなかったら、次は2人で蹴飛ばす。木がさらに大きく揺れる。一匹落ちてきたら最初に蹴飛ばした者のもの。2匹落ちてきたら一匹ずつ分ける。もっと落ちてきたら、じゃんけん。ほかは基本的にすべて第一発見者が所有者となる。
 
01小林紀晴
「Winter 08」
2014年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


 標高1000メートル近い山里の夏は短い。
 お盆が終わると急に涼しくなり、秋風が吹く。するとどういうわけか白樺の木の存在感が急に増す。青い葉がザワザワと鳴るからだろうか。小学校の夏休みも同時に終わる。8月17日とか18日から二学期が始まるのだ。
 もう山には入らない。そんな気分ではなくなる。急速にクワガタムシに対する興味も薄れていく。自分でも不思議なのだが、これは毎年変わることのない。
 そう感じるのは、結末がすぐそこまで来ていることに気がつき、身構え始めるからかもしれない。あれほど熱を上げて採集したクワガタムシが一匹、また一匹と死んでいくからだ。次第に動きが鈍くなり、やがてその続きのように動きを止める。あたかも電池が切れたように映る。ほとんどがそんな死に方をしていく。
 完全に動かなくなったものをそっと水槽からつまみ出す。そして庭の片隅に埋める。それを繰り返す日が何日も続く。
 ふと夢から覚めたような感覚がやってくる。
 何故夏のあいだ、あれほど熱狂して山へ入っていたのか。貪欲に捕ることを繰り返したのか。そんな自分の姿が信じられなくなっていくのだ。
 9月の半ばまでに、すべてのクワガタムシは水槽のなかからいなくなる。だからといって、たまらない寂しさがやってくるわけでもない。ただ、夏は死んだのだ、という思いが身体の奥から突き上げてくる。
こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160319_kobayashi_05_work小林紀晴
〈DAYS ASIA〉より2
1991年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
Image size: 24.3x16.3cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

本日の瑛九情報!
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瑛九のほぼ全てのリトグラフ作品を所蔵し、1974年から2010年まで、実に7回もの瑛九展を開催してきたのが山形県酒田の本間美術館です。
本間美術館 瑛九「旅人」
瑛九「旅人」
リトグラフ
本間美術館所蔵

瑛九ファンなら誰でも(とは言いませんが)知っている本間美術館の瑛九展開催記録が宮崎県立美術館開館記念「魂の抒情詩ー瑛九展」図録(1996年)にも、宮崎県立美術館、埼玉県立近代美術館、うらわ美術館の三館で開催された「生誕100年記念 瑛九展」図録(2011年)所収の<没後の展覧会歴>からもすっぽり抜け落ちてしまったのは不思議というほかありません。
神奈川県立近代美術館(1951年 カマキン)よりも、ブリヂストン美術館(1952年)よりも、国立西洋美術館(1959年)よりも早い、戦後間もない1947年(昭和22年)に開館したのが本間美術館でした。
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」とうたわれた日本最大の地主だった本間家は戦後の農地解放で解体されましたが、本間家に伝わる文化財を美術館をつくることによって散逸を防いだのでした。伊勢物語などの古美術、有名な雛人形から、瑛九のリトグラフ149点まで、幅広い収蔵品を誇っています。
明日は本間美術館の瑛九展開催記録をご紹介します。〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

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小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第9回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第9回

クワガタムシ 01

 梅雨が明けると、きまった友達数人と毎日のように山に入った。クワガタムシを捕るためためだ。
 クワガタムシは、あまり山奥にはおらず、割と里に近い雑木林にしかいない。あるいは単純に、子供だったから奥まで足を踏み入れていないだけだったのかもしれない。それでも西に続く山並みを眺めてみれば奥にいくほど植林されていて、ほとんどは唐松だから、やはりいないはずだ。唐松林には不思議なほどクワガタムシは姿を見せない。
 ちなみに、カブトムシは小学校6年間のあいだにメスを一匹だけ捕まえただけだった。その数が極端に少ないのは標高1000メートルという寒冷な気候と関係があるのかもしれない。

 小学4年生の夏は当たり年だった。夏休みまでに40匹ほどのクワガタムシをすでに捕まえていた。
 種類でいうと、コクワガタが一番多く、次にミヤマクワガタ、ノコギリクワガタといった順だ。すべてをひとつの大きな水槽にいれて飼うと、ムシたちは餌を取り合ってケンカを頻繁にする。私はわざとケンカさせて、それを見たかった。
 餌はスイカとかメロンなどで、いまのように市販されている専門の餌などないのだから、とにかくショウジョウバエがすぐに発生して、水槽の中を飛び交っていた。
 そんな大漁の年には、新たにコクワガタを捕まえても全然嬉しくない。もちろん、捕まえれば大切に家に持って帰るのだが、どこか「まあ、どっちでもいいや」という気分もある。だから、コクガワタのオス5匹と、ミヤマクワガタのオス一匹を交換しよう、などという話が一緒に山にはいる友達とのあいだで自然にでてきて、
「じゃあ、あとオスを一匹追加でよこせ」
「ダメ、そのかわり、メスを一匹つける」
などという取引が行われるのだった。
小学生にとってメスのコクワガタは悲しいほど人気がなく、押し付けるような存在だった。

 ではクワガタムシはどこで捕るのか。
 山といっても、もちろん広い。漠然と歩いていては絶対に捕まえられない。コツは当然ながら存在する。親に教えてもらったわけでも、本を読んで知識を得たわけでもなく、もちろん学校の先生が教えてくれるわけでもないが、毎日、毎日山を歩いているなかで自然に身につけた。それだけ捕ることに本気だったのだろう。だから、私たち数人は立派な狩人だったといえるはずだ。
 クワガタムシは明るい林にいる。蔓が絡んで前が見えなかったり、前に進めないような藪のなかにはいない。クヌギとか栗などが混じっている雑木林が狙い目だ。そんな林は必ずというほど歩きやすく、風通しもいい。地面は枯葉が堆積していることが多い。もちろん下草や蔓が絡んだ細い枝の木がそのあいだに生えていたりすることもあるが、全体の印象として乾いているのが特徴だ。
 そんな場所を見つけると、注意深く木を一本一本観察していく。まずは太い木の幹を見る。樹液が出ていないかをチェックして回るのだ。皮がめくれて、木そのものが傷を負ったように見える感じが理想的だ。だから自然と日陰の北側が多くなる。傷がジュクジュクと膿んでいるようなイメージだ。 
 すぐに見つかるものではないが、丁寧に見ていけば、ほぼ見つかる。指で触ってみてベタついていることが重要だ。すでに小さなアリが列をなして歩いていることも目印となる。
 
yabu 20161114_600小林紀晴
「Winter 07」
2014年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20

こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160819_kobayashi_10_work小林紀晴
〈ASIA ROAD〉より2
1995年
ヴィンテージC-print
Image size: 18.7x28.2cm
Sheet size: 25.3x30.3cm
サインあり

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小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第8回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第8回

キノコ採り 03

いま考えれば、不思議な気持ちに、さらにちょっと信じられない気もするのだが、小学生の頃、毎年秋に「キノコ遠足」というものが存在した。
 祖父が車の鍵をなくした同じ山の中腹にある池を目指して、全学年で遠足に行き、池のほとりで班ごとに「キノコ汁」をつくるのだ。それをおかずに、おにぎりを食べるという実にシンプルなものだ。私は毎年とても楽しみにしていた。
 学校には年季の入った専用の巨大な鍋がいくつもあり、底がボコボコで真っ黒だった。山で枯れ枝を拾って火を焚き、鍋で「きのこ汁」をつくるのだ。6年生が鍋を背中に背負う係と決まっていた。後ろから見ると亀を連想させた。
 信じられない気がするというのは、キノコ汁に入れるキノコを学校から目的地の池へ行くあいだいに子供たちが山で採りながら向かったことだ。キノコを採るとなると本来の道から当然それることになる。そうしなければ採れない。
 そもそもの道も、人が一人通れるだけのけもの道に毛が生えた程度の道なのだから相当に迷いやすい。そこから藪に入ってキノコを採る。誰もが山中でチリチリになってしまうことは必至だ。低学年はともかく、3、4年生くらいか勝手にそうしながら、池にむかって山中を歩いた。
 先生の方がよっぽど山を知らないと子供心に私は思っていた。先生たちは同じ諏訪の中でも諏訪湖に近い町の出身者が多く、山が身近ではなかった。キノコにも詳しくない。
 先生がキノコを採っていた記憶はない。誰かが迷って、たどり着かなかったという話も聞いたことがない。子供たちもそれなりに山に詳しかったということだろう。徒歩で2、3時間の道のりだ。

 6年生のとき、遠足の途中の山中でキノコを採ることが急に禁止された。「親が採ったキノコを家から持ってきてください、遠足の途中で採ってはいけません」ということになった。
 私はかなり不服だった。どれだけ自分が多く採れるか、それを鍋にいれられるかが張り合いだったし、腕の見せどころだったからだ。
 もしかしたら、新興住宅地の子が増えてきたことと関係があったのかもしれない。地区の一角に山を切り崩してできた建売の宅地できて、そこから通ってくる子は基本的に外から来た転校生だったので、山に慣れていなかったし、キノコのことも知らなかった。その親たちも当然知らなかっただろう。
 それでも、家からキノコを持って来いとなると、遠足のためにキノコを用意しなくてはならない。新興住宅地の親はどうやって、キノコを準備したのだろうか。大変なことだ。すべての親が山で採れるはずがない。キノコはどこにでも生えているわけではなく、それなりに山に詳しくなければ採れないからだ。だからといって、代わりに椎茸やシメジをスーパーで買って持っていくわけにもいかない。どうやって調達したのだろうか。
 キノコ汁は最後に味噌を入れて仕上げる。味噌汁の延長みたいなものだから子供でも簡単に作れる。汁はねっとりとしている。ジコボウの表面についたネバネバが汁全体にまわっていくからだ。それが喉をゆく感じが私は好きだった。
 
 遠足の帰り道はキノコ狩りとなる。こちらは禁止されなかった。途中まで列になって先生に引率される形で歩くのだが、途中からひとりふたりと藪のなかに消えていく。先生もそのことをわかっていながら、何も口にしない。誰もがキノコを採りたい気持ちをずっと抑えていたのがわかる。
 私もすっと藪にまぎれる。もう先生が呼び止められないところまで、走るように進む。誰もまだ足を踏み入れていない奥へ、無数の枝と葉をかき分け、泳ぐように進む。
 葉と枝が身体に当たる音がまさっていく。自分の息の音が大きく響く。振り向いてみる。誰の姿もない。ずっと前から、ここにひとりでいたような気持ちになる。戻ろうかと一瞬思う。でも、キノコを採りたい、一つでも多く採りたいという気持ちがそれを打ち消す。これは本能か。
 祖父もまたそれに突き動かされたから、車の鍵をなくしてしまったのか。もし祖父のように日が落ちるまで山から抜け出せなかったら、どうしたらいいのだろうか。急に怖くなる。それでも私は奥へ、キノコが群生し、まだ誰も手を触れていない場所を求めて、走るように進む。

小林紀晴Winter06小林紀晴
「Winter 06」
2014年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160719_kobayashi_07_work小林紀晴
〈ASIA ROAD〉より1
1995年
ヴィンテージC-print
Image size: 18.6x27.9cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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◆小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第7回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第7回

キノコ採り 02

 誰もどうすることもできなかった。ただ、西の山を見上げては、
「困ったよう・・・・」
「どうゆうずら」
 などと口にすることしかできない。誰もが無力だった。
 完全に日が落ちると、山の稜線と空の境目がわからなくなった。すると、急に祖父が闇に飲み込まれ、二度ともどって来られないような気がして不安に襲われた。
 父に早く帰ってきてほしかった。きっと父だったら、どうにかしてくれるような気がしたからだ。
 庭にみんなで棒立ちに待っていても仕方がないので、私たちは家に入ることにした。祖母と母と姉と兄とで遅い夕飯を食べた。誰もほとんど口をひらかなかった。想像できることより、できないことの方が圧倒的に多く、そのことに私は戸惑った。
 やがて父が帰宅した。少し安堵したけど、事情を知ってこわばっていく父の顔をみると、再び不安に襲われた。
「これから、探しに行ってくる」 
 そんな父の言葉を期待した。山をよく知っている父だったら、たとえ暗くても祖父を探しだしてくれるのではないか。そんな気がしたからだ。でも、父は黙ったままだった。
「いまから探しに行けないの?」
 私は遠慮がちに父に言ってみた。
「無理だ」
 即答だった。
 1時間ほどして、突然、玄関がガラガラと音をたてた。
「いま、帰ったぞ」
 驚いたことに祖父の声だった。全員が居間を飛び出した。
 確かに祖父が立っていた。どこかに怪我をしているわけでもなさそうだった。
「どうしただ」
 祖母が訊ねた。
「山で車の鍵を落とした」
「じゃあ、歩いてけえって来ただか」
「いや、あのトラックに助けてもらった」
 祖父は外にでていった。
 家の前の道路にはエンジンがかかったままの大きなトラックが停まっていた。ヘッドライトもついていた。よく見ると、荷台には丸太らしきものが山積みになっていた。
 祖父はトラックの方にではなく、家の裏に向かった。そのあたりには祖父が大事に育てている椎茸を育てるための原木が塀沿いに置かれている。長さ50センチほどのクヌギの原木に椎茸の菌を打ち込んで、以前から育てているものだ。祖父はそれを両脇に一本ずつ抱えて戻ってきた。そしてトラックへ向かった。
 トラックから降りてきたのは、父ほどの年齢の男だった。よく日に焼けて頭に鉢巻を巻いている。いかにも山で仕事をしているという感じだった。ニコニコと笑っていた。私は安心した。
 祖父は家の裏とトラックを往復して計4本の椎茸の原木を運び、トラックの男に渡した。さらに採ったばかりのキノコも渡した。ここまで無事に送ってくれたことへの感謝の印だということは、子供でもすぐに理解できた。トラックが走り去る時、祖父は何度も、深く頭を下げていた。
 落ち着いたところで、祖父から訳を聞いた。
 日が落ちる前にキノコ狩りを終えて、山から林道に出たという。車が停めてあるところまで戻り、ドアを開けようとポケットに手を入れると、あるはずのキーがないことに初めて気がついた。山中のどこかで落としてしまったのだ。しばらく車の周りを探したが見つかるはずがなかった。一日中、山を歩いたので、それをたどることなど不可能だ。やがてすぐに日が落ちたという。 
 歩いたら家までは5、6時間はかかる距離らしく、夜道を歩くのは危険すぎるので野宿するしかないと諦め始めたとき、遠くからエンジン音が聞こえたという。キツネに化かされているのかもしれないと思ったが、ヘッドライトが見えたので、祖父は道の真ん中に立った。そして両手を広げた。どうしても、停まってほしいと必死だったという。

shika-no-tatazumi小林紀晴
「shika no tatazumi」
C-Print
14x11inch
Ed.20

 その事件について、私はその後も時々考える。山は怖いものだと深く心に刻まれるきっかけにもなった。大人になってからも同じように思い出したように考える。
 あるとき、ふと、何故、椎茸の原木だったのだろうかと思うことがあった。採ったばかりのキノコはわかるとして、何故、祖父は椎茸の原木をお礼に渡したのだろうか。人によっては、ありがた迷惑になりそうなものだからだ。単純に椎茸そのものあげるのは理解できる。でも原木は相当に場所をとるし、なにより育てなければいけない。それも適した日陰となる場所が必要だ。
 そのあたりのことは車のなかでトラックの男とすでに話された後だったのだろうか。いや、送ってもらっているあいだに、お礼について話すとは考えにくい。
 私の勝手な解釈だが、祖父の性格なども考えるとトラックの男には何も打診も相談もなく、一方的に椎茸の原木を渡したような気がする。でも、もらってくれたのだから、迷惑というわけでもなかったのだろうか。
 故人となった祖父に聞くことはできない。
次回に続く。

こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160319_kobayashi_05_work小林紀晴
〈DAYS ASIA〉より2
1991年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
Image size: 24.3x16.3cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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◆小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第6回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第6回

キノコ採り 01

 前回まで数回に渡ってキツネに化かされた話を書きましたが、先日、ある書籍を読んでいると、同じくキツネに化かされる話がでてきて、それによると、キツネに化かされることが多いのは山と人間が暮らす境界あたりとあり、かつてKが怖気付いて動けなくなったのは、まさにそんな地点に当たるので、彼のおじいさんが言っていた話はまんざら嘘ではなかった、いや、本当に違いないと改めて思うのでした。

 その法則に沿うならば、これから書こうと思っている話は完全にキツネの領域ということになるのだろうか。
 毎年9月の声を聞くと、父と祖父は狂ったように(まさにその表現がふさわしい)、キノコを採るために山に頻繁に入った。父は毎週日曜日のことで、すでに国鉄を定年退職した祖父は平日に一人で行くことも多かった。
 改めて振り返ってみれば、父と祖父はそれほどキノコを食べたかったのだろうか、という気もする。ただ、祖父がまだ若く父が子供だった時代は、自給自足に近かったはずで、食糧事情はかなり切実だったはずだ。私が子供の頃も、秋に採ったキノコを必ず酢漬けにし、正月明けまで食べていたから、もっと前の時代には、キノコもまたなくてはなら食糧のひとつだったのだろう。
 とはいえ、採るキノコの種類はたった3つ。そう決まっていた。父も祖父も、おそらく近所のおじさんたちも、それ以外は絶対に採らなかったし、口にしなかった。山にはもっと食べられるキノコが確実に存在しているはずだというのに。でも、新たに情報を得て、採る種類を増やすという発想は誰の頭にもなかった。
 私は子供なりにその理由がわかっていた。万が一、毒キノコを誤って食べて、中毒を起こすことを誰もが極度に恐れていたからだ。その認識だけは子供の私にも明確にあった。
 一度だけ祖父に聞いたことがある。どうして、それだけしか採らないし、食べないのかと。
「どういうだかは知らん。昔からそう決まってるだで、同じもんをただ食べるだ」
 こうして文字にしてみれば、明らかに「思考停止」しているといえなくもない。創造も発展もない。でも、「思考停止」は明らかにリスクを背負わなくてすむ。これは無言のうちの「掟」かもしれない。きっと「掟」は、ときに思考を停止させるためにある。
 ジコボウ、チョコダケ、クリタケ。
 この3つしか採らないし、食べない。徹底している。
 ジコボウは大きめのキノコで全体が焦茶色をしていて、傘と軸にかなりヌメリがあり、傘の裏はスポンジ状になっている。松茸の倍ほどに大きくなることもある。株で生えることはなく、独立して一本で生えているが、身が崩れやく、時期を逃して採るとボロボロと崩れる。味噌汁に入れると、なめこ汁のようで、私は喉をいく感触が好きだった。
 チョコダケは真っ白でおチョコのように傘が逆三角形をしている。雨が降ると実際に水がたまったりもする。地元の方言でコウモリ傘が風であおられて、上を向いてしまうことを「チョコになる」というのだが、もしかしたら語源はそこから来ているのかもしれない。味はあっさりしている。
 クリタケはその名の通り、栗の倒木などに寄生するキノコだ。傘の部分が茶色で、シメジのように株で群生して生えることが多い。ヌメリはなく、味は淡白だ。
 ただ地元の呼ばれ方なので、それぞれのキノコの学名などと一致するのかは私は知らない。

re  no newkks k_KIS2353_小林紀晴
「shika no hashiri」
C-Print
14x11inch
Ed.20


 ある日、夕方になっても祖父が帰ってこなかった。一人でキノコ採りに西の山に入った日のことだ。
 西の山はあまりに広大で沢が多く、どのあたりに祖父がいるのかは誰にもわからない。やがて、太陽はその方向に沈んだ。日が暮れる頃まで山に入ったままというのは、常識では考えられない。明るいうちに山を下ることは子供でも頭に入っている。だから、祖父に何かしらの不測の事態が起きているとは幼い私にも十分理解でできた。もしかしたら、すでに不吉なことが起きてしまった後なのか、とさえ考え始めた。さまざまな思いが胸の内にヒシヒシとやってきた。
 祖母は、
「困ったよう・・・・」
 と呟いた。
 母は無言だった。父はまだ仕事から戻っていなかった。
こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

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20160819_kobayashi_10_work小林紀晴
〈ASIA ROAD〉より2
1995年
ヴィンテージC-print
Image size: 18.7x28.2cm
Sheet size: 25.3x30.3cm
サインあり


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tokinowasuremono
緑豊かな青山のギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱い、毎月企画展を開催しています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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