小林紀晴のエッセイ

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第13回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第13回

小正月 03

 どんど焼きの翌日、つまり早朝に雪に紛れたおひねりを拾った日の昼間、今度は子供がお獅子のなかに入って、約100軒の地区すべての家を回る。これは子供にとって大仕事でもある。
 どんど焼きのときと同じくリヤカーに太鼓を乗せて、それを叩きながら昔から決められたコースを一軒の抜けもなく巡らなくてはならない。
 いま考えれば、よく子供だけに任せたものだと思う。大人はそれだけ自分たちのことを信頼していたということになるのかもしれないが、とにかく大人は一切関与しない。6年生、5年生だけで遂行された。全員で6、7人くらいだ。
 お獅子のなかに入るのは二人で、交代しながらその役目を行う。どの家でもご祝儀をくれるのだが、平均は千円札一枚くらいだと記憶している。ときに5千円札が入っていたりして驚くのだが、それはきまって厄年の人がいる家で、さらにミカン箱付きだったりする。そんな大物を乗せるためにリヤカーは必需品なのだ。
「お獅子御免と〜悪魔っ払い〜!」
 御幣を持った先頭の者が玄関先で元気よく声を張り上げる。そして、なかば勝手にずかずかと家のなに入っていく。もちろん靴は脱ぐ。お獅子もそれに続く。
 先頭の者は「お祝いなして、お祝いなして、お祝いなして・・・・」と唱えるように御幣を振り回し口にしながら、適当に部屋から部屋を歩き、また玄関に戻ってくる。なにが「悪魔っ払い」でなにが「お祝い」なのか、口にしている本人たちにもまるでわかっていないけど、とにかく昔からそうときまっている。最後は玄関あたりに家の人が待ち構えていて、お獅子の口からご祝儀袋をいれてくれるのだ。
「ありがとう」
「ご苦労様」
 必ず声をかけてくれるので、なんだか本当に役に立っている気がして、うれしくないわけがない。
 お獅子役は順番でする。後足役より前足・頭役の方が断然楽しい。近所とはいえ、よその家に勝手に入っていくのだからかなり興奮する。なにより最後にご祝儀袋がお獅子の口のなか、眼前にやってくる感覚はたまらない。
 約100軒まわるのに夕方まで、丸一日かかる。どの家を回って、どの家を回っていないかは、もちろん記録する。次第にリヤカーはミカン箱で一杯になり重くなっていく。数人で引っ張らないと動かなくなる。道のほとんどは雪で覆われていて足場が悪いし、なにより夕方になると凍り出すので、滑りやすいのだ。
 正直、かなり疲れる。それでも誇らしい気持ちはかわらない。自分たちが、すべての家から本当に「悪魔っ払い」しているような気持ちになるからだ。すると、強靭で神聖な存在にも思えてもくる。

(次回に続く)
01小林紀晴
「Winter 11」
2015年撮影
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160719_kobayashi_07_work小林紀晴
〈ASIA ROAD〉より1
1995年
ヴィンテージC-print
Image size: 18.6x27.9cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください。
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆ときの忘れものは「小野隆生コレクション展」を開催しています。
会期:2017年3月7日[火]―3月25日[土] *日・月・祝日休廊
201703_ONO
岩手県に生まれた小野隆生は、1971年イタリアに渡ります。国立ローマ中央修復研究所絵画科を卒業し、1977〜1985年にイタリア各地の教会壁画や美術館収蔵作品の修復に携わり、ジョットやティツィアーノらの作品に直接触れ、古典技法を習得しました。1976年銀座・現代画廊で初個展開催。資生堂ギャラリー[椿会展]に出品。「ライバルは500年前のルネサンスの画家たち」との揺るぎない精神でテンペラ画による肖像画を制作をしています。2008年には池田20世紀美術館で「描かれた影の記憶 小野隆生展 イタリアでの活動 30年」 を開催しました。
本展では、小野の1970年代の初期作品から2000年代の近作まで、油彩・テンペラ・素描など約15点をご覧いただきます。

◆ときの忘れものは「アートフェア東京 2017」に出展しています。
logo_600
会期:2017年3月16日[木]〜3月19日[日]
一般公開:3月17日(金)13:00〜20:00
一般公開:3月18日(土)11:00〜20:00
一般公開:3月19日(日)10:30〜17:00

会場:東京国際フォーラム 〒100-0005 東京都千代田区丸の内3-5-1
ときの忘れものブースナンバー: N15
公式サイト: https://artfairtokyo.com/
出品作家:堀尾貞治六角鬼丈小野隆生秋葉シスイ松本竣介瑛九オノサト・トシノブ植田正治瀧口修造

●アートフェア東京の出品作品の一部をご紹介します
瑛九_フォトデッサン_2瑛九
《作品》
1950年
フォトデッサン
27.8x22.0cm
サインあり


02松本竣介
《作品》
紙に鉛筆
35.5x28.8cm


03瀧口修造
《V-10》
デカルコマニー、紙
13.5x10.0cm


04小野隆生
《剽窃断片図 (フェルメール)》
1976年
油彩、キャンバス
33.0x24.3cm
サインあり


05植田正治
《作品》
光沢印画紙にカラー焼き付け
Image size: 19.2x28.4cm
Sheet size: 25.5x30.5cm


06堀尾貞治
ドローイング集『あたりまえのこと』(10点組)より
ミクストメディア
38.0x27.0cm
それぞれにサインあり


07六角鬼丈
《奇想流転(奇合建築)》
2017年
シルクスクリーン
Image size: 41.5x69.0cm
Sheet size: 56.0x75.0cm
Ed.15
サインあり


08オノサト・トシノブ
《Silk-2》※レゾネNo.20
1966年
シルクスクリーン
32.0x40.0cm
Ed.120
サインあり


09秋葉シスイ
《次の嵐を用意している》(15)
2015年
油彩、キャンバス
91.0x73.0cm(F30号)
サインあり


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◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
 ・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。
 ・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
 ・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
 ・倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。
 ・小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。
 ・森下隆のエッセイ「鎌鼬美術館——秋田県羽後町田代に開館」は毎月21日の更新です。
 ・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」は毎月25日の更新です。
 ・スタッフSの「海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
 ・笹沼俊樹のエッセイ「現代美術コレクターの独り言」はしばらく休載します。
 ・大野幸のエッセイ<ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサート>は随時更新します。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は終了しました。
 ・普後均のエッセイ「写真という海」は終了しました。
 ・八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は終了しました。
 ・光嶋裕介のエッセイ「和紙に挑む」は終了しました。
 ・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は終了しました(時々番外編あり)。
 ・荒井由泰のエッセイ「いとしの国ブータン紀行」は終了しました。
 ・森下泰輔のエッセイ「戦後・現代美術事件簿」は終了しました。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイや資料を随時紹介します。
 ・「オノサト・トシノブの世界」は円を描き続けた作家の生涯と作品を関係資料や評論によって紹介します。
 ・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。
土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
 ・「関根伸夫ともの派」はロスアンゼルスで制作を続ける関根伸夫と「もの派」について作品や資料によって紹介します。
 ・「現代版画センターの記録」は随時更新します。
今までのバックナンバーの一部はホームページに転載しています。

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第12回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第12回

小正月02

 しめ飾りなどが山のように積まれたそれに火が放たれると、辺りが急に明るくなる。足元の雪がレフ板の効果を発揮するからか、誰もの顔が赤く照らされる。みな笑っているように見えるから不思議だ。きっと炎がまぶしいからに違いない。火傷するほどに熱い。
 手にした柳の枝の先のおめえ玉を火のなかにすぐに入れたくなるのだが、じっと我慢だ。火の勢いが強いときに入れると、枝があっとう間に燃えて大事なおめえ玉が炎のなかに落ちてしまう。そんなことをするのは低学年の子供だけで、大人も高学年の子供もじっと炎が小さくなるのを待つ。
 見上げれば、書き初めの書き損じが空高く舞っていく。
「雪だるま」「お正月」「冬の朝」なんて文字がかろうじて読める。高く舞い上がれば舞い上がるほどに字がうまくなると、学校の先生も親も大人はみな真面目な顔をして口をそろえたけれど、そう言われるたびにそんなことはないだろうし、そもそも大人はまったく信じてはいないだろうなと思っていたけど、火の粉と共に闇にそれがひらひらと勢い良く上がっていく姿を目にすると、もしかしたら本当なのかもしれないという気持ちになってくる。
 1時間ほどすると、火の勢いはだいぶ落ち着いてくる。その頃を見計らって老人たちも姿を見せる。太い廃材などが熾火になっている辺りをめがけて、おめえ玉をかざす。とにかく遠火で焼くのがこつだ。
 焦げ目がついて、ぷっくりと内側から膨らんできたら食べごろだ。慎重に枝の先から外して、口に運ぶ。熱々だと意外なほど美味しい。ちなみにこれを食べると「一年間、歯を病まない」と言われている。これまた迷信に違いないことはわかっているつもりだけど、そんな気がしてくる。
 食べ終えて、火の勢いが小さくなると厄投げとなる。私を含めた子供はこれをなによりも楽しみにしている。今年厄年をむかえる人たちが、土手の上からいろんなものを投げるのだ。それを大人も子供の真剣に拾う。
 投げられるもので一番多いのはみかん。拾って一番嬉しいのはおひねりに入った小銭(時々、お札が入っていることも)。お菓子も撒かれる。ただ、とにかく暗く、さらに地面は雪なので、おひねの白い紙はあっという間に、わからなくなる。懐中電灯の明かりだけが頼りだからだ。
 ちなみに最近では、みかんはあまり投げられなくなった。投げると潰れてしまうし、踏まれやすいという理由からだ。うまい棒や小分けされたスナック菓子が人気だ。雪に落ちても濡れないのだ。
 ちなみに数年前、私が厄年のときには軍手を投げた。事前にビニール袋に一組ずつ小分けしたものだ。50組ほどだろうか。前の年に母が拾って「一番役にたったもの」という理由からだ。
 こうして、どんど焼きは終わる。
 ただ、実はまだ終わっていない。数人の子供は翌朝、できるだけ早い時間にどんど焼きの会場になった田んぼへ再び向かうのだ。大人はほとんど来ない。いや、子供も欲張りな男子だけだが。
 理由は前の晩に雪に紛れてしまい、まだ拾われていないおひねりを探すためだ。必ず幾つか取りこぼしがある。それを狙って、早朝に向かうのだ。他の誰かより少しでも早ければ、その分、確実に収穫は多くなる。だから薄暗いうちに行くことになる。
 気温はマイナス15度ほど。吐く息が白く、まつ毛と眉毛の先端が白くなる。息をするたびに喉の奥が痛い。防寒靴の先で雪をかき分ける。ザッ、ザッと心地いい音が耳に届く。すぐ隣にはどんど焼きの真っ黒の灰。そこにはもう誰も目を向けない。

01_600小林紀晴
「Winter 10」
2015年撮影
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160319_kobayashi_05_work小林紀晴
〈DAYS ASIA〉より2
1991年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
Image size: 24.3x16.3cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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◆小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第11回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第11回

小正月01

 小正月というものを意識しなくなって久しい。子供の頃は確実にそれを意識していたというのに・・・・。
 雪と寒さに閉じ込められ季節の数少ない楽しみだった。小学校には小正月休みというものがあって、1月15日を中心に3、4日ほど休みになった。きっと、その存在がもっとも大きかったのだろうが、そのあいだに子供が主役の行事がつまっていた。

 15日の晩にどんど焼が行われる。その行事は全国的に行われているものだが、北関東から甲信越にかけて特に盛んな印象がある。あるいは、ほかの地方について私が知らないだけなのもしれない。
 私の地元でも古くから行われてきた。地区のはずれの雪で埋まった田んぼの真ん中に正月に使ったしめ飾り、松、だるま、書き初めの書き損じたものなどを高く積む。トラック数台分ほどの量だろうか。先端は屋根ほどの高さまでなる。
 それらを各家から集めるのが子供達の役目で、一台のリヤカーを数人でひいた。道路はどこも雪がカチカチに凍っているから坂道は危険でもあった。
 あつめたそれらを、とにかくできるだけ高く積み上げる。きまって先端にだるまを乗せる。まだ低学年の頃に6年生が自作した弓と破魔矢を使って、先端のだるまを射るのを目撃したことがある。見事に貫通して驚いた。
 山積みにする準備は明るいうちに終えるが、日が暮れ出す頃に再びでかける。そのときの胸の高鳴りはいまでも忘れることはない。空になったリヤカーには太鼓を乗せる。それを叩きながら地区の端から端まで、声を合わせて囃し立てるのだ。
「どんど焼きに来ておくれ!は〜やくしないと灰になる!どんど焼きに来ておくれ!は〜やくしないと灰になる!」
 どの家も雪をかぶってひっそりとしている。背後の山は黒々としていて、あたかも死んでいるかのようだ。果たして家のなかに人がいるのだろうか。心配になるほどだが、自分たちの声がきっと、こたつの脇の誰かに届いていることを信じて、声を張り上げる。
 振り向くと、下級生が我慢しきれなかったというふうに家から道路に飛び出してきて、じっとこっちを見ていたりする。そんな姿を目にすると自然と頬が緩む。無言のうちに通じ合っている気持ちになるからだ。
 さらに大人の姿のちらほらと現れ始める。大人もまたこのときをじっと待ってことに気がつく。すると自分たちのことが誇らしい気持ちになる。地区の役になっているという実感からだろうか。
 誰の手にも同じものが握られている。重そうに両手でもっていたり、肩にかけている姿もある。おめえ玉(まゆ玉)だ。柳の枝の先にいくつもつけられている。食紅で赤や緑といった毒々しい色に染められている。もちろん、ただの白もある。上新粉で作られた団子だ。一般的には蚕のまゆを模したものといわれているが、私の地元ではあまりその形をしていない。先端は丸いのだが、枝側はすっと細まっている。
 柳の枝は正月がすぎた頃に父が近くの河原へ行き、ナタで切ってきたものだ。父曰く「柳は火にくべても燃えにくいから」とのことだ。
 おめえ玉を作るのは母の役目で、出来上がったそれを柳の枝につけていくのを私は時々手伝った。完成したそれは、しばらく部屋の鴨居などにひっかけておく。乾燥させるためではなく、単純に飾って眺めるためだと思う。
 太鼓の音と自分の叫び声がきっかけとなり、それぞれの家からおめえ玉を持ち出す瞬間が来た。それがいまだ。そう思うと自然と胸が高まった。

600小林紀晴
「Winter 09」
2015年撮影
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20

こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。
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本日の瑛九情報!
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瑛九の会は、1965年結成、機関誌『眠りの理由』を創刊号(1966年4月20日)から第14号(1979年6月8日)まで刊行し、瑛九顕彰に大きな役割を果たしました。瑛九の会を担った人たちを順次ご紹介します。
先ずは発起人の一人で福井の頒布会を組織して晩年の瑛九を支援した木水育男さんです。
1981年\600\1981年3月1日_ギャラリー方寸_瑛九その夢の方へ_13.jpg
1981年3月1日
東京渋谷のギャラリー方寸にて
瑛九その夢の方へ」展オープニングで挨拶する木水育男さん(右)
正面に展示されているのが現在は東京国立近代美術館所蔵の「青の中の丸」

木水育男さんは1919年(大正8)9月8日福井県鯖江に生まれ、福井師範学校を卒業後、教師となります。1940年(昭和15)応召、終戦まで北支、南方に歴戦。1945年(昭和20)12月南方より復員、国民学校教師に復職し、1980年(昭和55)福井県武生南小学校校長を退職するまで教師として子ども達に接します。その間、北川民次、土岡秀太郎、久保貞次郎、瑛九らと出会うことによって新しい美術教育に情熱を傾けました。1951年(昭和26)創造美育協会(創美)設立に参加し、その活動を通じて泉茂、靉嘔ら多くの作家達と親交し、支援を続けました。1997年(平成9)6月3日死去、享年77。
没後2011年、故郷の鯖江で「瑛九との軌跡 木水育男(奥右衞門)を巡る人々」展が開催されました。

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『瑛九からの手紙』
2000年9月8日発行、発行人:木水クニオ、 発行:瑛九美術館
29.6×21.0cm 209頁
20170114183744_00005 のコピー
『木水育男追悼集ー木水さんとわたしー』
1999年2月20日刊
編集・発行:「木水育男追悼集」出版発起人会
20.5×15.0cm 354頁

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20170114183744_00004


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RIMG0740瑛九水彩鉛筆1956年600瑛九
「ターゲット」
1956年 水彩、鉛筆
23.3×19.8cm
サイン、年記あり

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〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆銀座のギャラリーせいほうで「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」が開催中。ときの忘れものの新作エディションが展示されています。
会場の展示スナップはコチラをご覧ください。
会期:2017年1月10日[火]〜1月21日[土]*日・祝日休廊
201701_ISHIYAMA-ROKKAKU
主催/会場:ギャラリーせいほう
協力:ときの忘れもの
石山修武の新作銅版画の詳細はコチラをご覧ください。
石山修武_ (30)石山修武
「大きな伽藍もつくられた」
2016年  銅版
Image size: 60.7x44.8cm
Sheet size: 74.3x53.5cm
Ed.3  Signed
シート価格:100,000円(税別)

六角鬼丈の新作シルクスクリーンの詳細はコチラをご覧ください。
04六角鬼丈「輪景(金光教)」
2017  シルクスクリーン
Image size: 36.5x69.0cm
Sheet size: 56.0x75.0cm
Ed.15  Signed
シート価格:100,000円(税別)

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◆小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第10回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第10回

クワガタムシ 02

 森のなかにクワガタムシが潜んでいる木を何本記憶しているか。その数でほぼ捕れる数はほぼ決まる。
 樹木の皮がめくれていたら、その境にゆっくりと指を這わす。指を割れ目にできるだけ食い込ませる。注意深く感触をみる。異物に指が当たったら、クワガタムシの可能性が高い。
 クワガタムシは夜行性なので昼間は木の陰や皮の割れ目に潜り込み、隠れていることが多い。だから昼間から樹液を吸っていることはほとんどない。学校の図書館の本には、昼間は土に潜って寝ていると書かれていたけど、正しくない気がする。何より土を掘って見つけ出すことはかなり効率が悪い。木の根元に限ってもかなり広く、そこを掘り返すとなると無駄な労力となることは子供でもわかる。だから基本的に土は掘り返さない。
 樹液がでているあたりや皮の境にいなかったら、次にすることは決まっている。木の幹を思い切り蹴飛ばすのだ。木の上の方の幹や枝にとまっているクワガタムシを落とすためだ。といっても、回し蹴りではない。そんなことをしたら痛すぎて足がいくつあってもたりない。飛び蹴りだ。走りながら木に近づいて、タイミングを見計らって飛び跳ねて足の裏で「ドン」と押す感じだ。
 子供がそんな蹴りをしたくらいで木が揺れるものだろうか、たとえ揺れたとしても、そんなことでクワガタムシが落ちてくるものなのか。そう思われがちだが、冗談みたいに落ちてくる。詳しい理由はわからない。樹木の表面に昆虫の爪は引っかかりにくいのかもしれない。
 蹴飛ばすときには暗黙のルールがある。一人で蹴飛ばすこと。そう決まっている。クワガタムシが落ちて来たら蹴飛ばした者の所有となるからだ。何人かで蹴同時に飛ばして、仮に一匹だけ落ちてきたら、分けることができなくなる。つまり喧嘩になりやすい。ささやかな少年たちのトラブル回避の知恵といえる。そもそも最初に誰が考えたのだろうか。
 それでも落ちてこなかったら、次は2人で蹴飛ばす。木がさらに大きく揺れる。一匹落ちてきたら最初に蹴飛ばした者のもの。2匹落ちてきたら一匹ずつ分ける。もっと落ちてきたら、じゃんけん。ほかは基本的にすべて第一発見者が所有者となる。
 
01小林紀晴
「Winter 08」
2014年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


 標高1000メートル近い山里の夏は短い。
 お盆が終わると急に涼しくなり、秋風が吹く。するとどういうわけか白樺の木の存在感が急に増す。青い葉がザワザワと鳴るからだろうか。小学校の夏休みも同時に終わる。8月17日とか18日から二学期が始まるのだ。
 もう山には入らない。そんな気分ではなくなる。急速にクワガタムシに対する興味も薄れていく。自分でも不思議なのだが、これは毎年変わることのない。
 そう感じるのは、結末がすぐそこまで来ていることに気がつき、身構え始めるからかもしれない。あれほど熱を上げて採集したクワガタムシが一匹、また一匹と死んでいくからだ。次第に動きが鈍くなり、やがてその続きのように動きを止める。あたかも電池が切れたように映る。ほとんどがそんな死に方をしていく。
 完全に動かなくなったものをそっと水槽からつまみ出す。そして庭の片隅に埋める。それを繰り返す日が何日も続く。
 ふと夢から覚めたような感覚がやってくる。
 何故夏のあいだ、あれほど熱狂して山へ入っていたのか。貪欲に捕ることを繰り返したのか。そんな自分の姿が信じられなくなっていくのだ。
 9月の半ばまでに、すべてのクワガタムシは水槽のなかからいなくなる。だからといって、たまらない寂しさがやってくるわけでもない。ただ、夏は死んだのだ、という思いが身体の奥から突き上げてくる。
こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
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新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
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20160319_kobayashi_05_work小林紀晴
〈DAYS ASIA〉より2
1991年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
Image size: 24.3x16.3cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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本日の瑛九情報!
〜〜〜
瑛九のほぼ全てのリトグラフ作品を所蔵し、1974年から2010年まで、実に7回もの瑛九展を開催してきたのが山形県酒田の本間美術館です。
本間美術館 瑛九「旅人」
瑛九「旅人」
リトグラフ
本間美術館所蔵

瑛九ファンなら誰でも(とは言いませんが)知っている本間美術館の瑛九展開催記録が宮崎県立美術館開館記念「魂の抒情詩ー瑛九展」図録(1996年)にも、宮崎県立美術館、埼玉県立近代美術館、うらわ美術館の三館で開催された「生誕100年記念 瑛九展」図録(2011年)所収の<没後の展覧会歴>からもすっぽり抜け落ちてしまったのは不思議というほかありません。
神奈川県立近代美術館(1951年 カマキン)よりも、ブリヂストン美術館(1952年)よりも、国立西洋美術館(1959年)よりも早い、戦後間もない1947年(昭和22年)に開館したのが本間美術館でした。
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」とうたわれた日本最大の地主だった本間家は戦後の農地解放で解体されましたが、本間家に伝わる文化財を美術館をつくることによって散逸を防いだのでした。伊勢物語などの古美術、有名な雛人形から、瑛九のリトグラフ149点まで、幅広い収蔵品を誇っています。
明日は本間美術館の瑛九展開催記録をご紹介します。〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第9回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第9回

クワガタムシ 01

 梅雨が明けると、きまった友達数人と毎日のように山に入った。クワガタムシを捕るためためだ。
 クワガタムシは、あまり山奥にはおらず、割と里に近い雑木林にしかいない。あるいは単純に、子供だったから奥まで足を踏み入れていないだけだったのかもしれない。それでも西に続く山並みを眺めてみれば奥にいくほど植林されていて、ほとんどは唐松だから、やはりいないはずだ。唐松林には不思議なほどクワガタムシは姿を見せない。
 ちなみに、カブトムシは小学校6年間のあいだにメスを一匹だけ捕まえただけだった。その数が極端に少ないのは標高1000メートルという寒冷な気候と関係があるのかもしれない。

 小学4年生の夏は当たり年だった。夏休みまでに40匹ほどのクワガタムシをすでに捕まえていた。
 種類でいうと、コクワガタが一番多く、次にミヤマクワガタ、ノコギリクワガタといった順だ。すべてをひとつの大きな水槽にいれて飼うと、ムシたちは餌を取り合ってケンカを頻繁にする。私はわざとケンカさせて、それを見たかった。
 餌はスイカとかメロンなどで、いまのように市販されている専門の餌などないのだから、とにかくショウジョウバエがすぐに発生して、水槽の中を飛び交っていた。
 そんな大漁の年には、新たにコクワガタを捕まえても全然嬉しくない。もちろん、捕まえれば大切に家に持って帰るのだが、どこか「まあ、どっちでもいいや」という気分もある。だから、コクガワタのオス5匹と、ミヤマクワガタのオス一匹を交換しよう、などという話が一緒に山にはいる友達とのあいだで自然にでてきて、
「じゃあ、あとオスを一匹追加でよこせ」
「ダメ、そのかわり、メスを一匹つける」
などという取引が行われるのだった。
小学生にとってメスのコクワガタは悲しいほど人気がなく、押し付けるような存在だった。

 ではクワガタムシはどこで捕るのか。
 山といっても、もちろん広い。漠然と歩いていては絶対に捕まえられない。コツは当然ながら存在する。親に教えてもらったわけでも、本を読んで知識を得たわけでもなく、もちろん学校の先生が教えてくれるわけでもないが、毎日、毎日山を歩いているなかで自然に身につけた。それだけ捕ることに本気だったのだろう。だから、私たち数人は立派な狩人だったといえるはずだ。
 クワガタムシは明るい林にいる。蔓が絡んで前が見えなかったり、前に進めないような藪のなかにはいない。クヌギとか栗などが混じっている雑木林が狙い目だ。そんな林は必ずというほど歩きやすく、風通しもいい。地面は枯葉が堆積していることが多い。もちろん下草や蔓が絡んだ細い枝の木がそのあいだに生えていたりすることもあるが、全体の印象として乾いているのが特徴だ。
 そんな場所を見つけると、注意深く木を一本一本観察していく。まずは太い木の幹を見る。樹液が出ていないかをチェックして回るのだ。皮がめくれて、木そのものが傷を負ったように見える感じが理想的だ。だから自然と日陰の北側が多くなる。傷がジュクジュクと膿んでいるようなイメージだ。 
 すぐに見つかるものではないが、丁寧に見ていけば、ほぼ見つかる。指で触ってみてベタついていることが重要だ。すでに小さなアリが列をなして歩いていることも目印となる。
 
yabu 20161114_600小林紀晴
「Winter 07」
2014年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20

こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160819_kobayashi_10_work小林紀晴
〈ASIA ROAD〉より2
1995年
ヴィンテージC-print
Image size: 18.7x28.2cm
Sheet size: 25.3x30.3cm
サインあり

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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

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小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第8回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第8回

キノコ採り 03

いま考えれば、不思議な気持ちに、さらにちょっと信じられない気もするのだが、小学生の頃、毎年秋に「キノコ遠足」というものが存在した。
 祖父が車の鍵をなくした同じ山の中腹にある池を目指して、全学年で遠足に行き、池のほとりで班ごとに「キノコ汁」をつくるのだ。それをおかずに、おにぎりを食べるという実にシンプルなものだ。私は毎年とても楽しみにしていた。
 学校には年季の入った専用の巨大な鍋がいくつもあり、底がボコボコで真っ黒だった。山で枯れ枝を拾って火を焚き、鍋で「きのこ汁」をつくるのだ。6年生が鍋を背中に背負う係と決まっていた。後ろから見ると亀を連想させた。
 信じられない気がするというのは、キノコ汁に入れるキノコを学校から目的地の池へ行くあいだいに子供たちが山で採りながら向かったことだ。キノコを採るとなると本来の道から当然それることになる。そうしなければ採れない。
 そもそもの道も、人が一人通れるだけのけもの道に毛が生えた程度の道なのだから相当に迷いやすい。そこから藪に入ってキノコを採る。誰もが山中でチリチリになってしまうことは必至だ。低学年はともかく、3、4年生くらいか勝手にそうしながら、池にむかって山中を歩いた。
 先生の方がよっぽど山を知らないと子供心に私は思っていた。先生たちは同じ諏訪の中でも諏訪湖に近い町の出身者が多く、山が身近ではなかった。キノコにも詳しくない。
 先生がキノコを採っていた記憶はない。誰かが迷って、たどり着かなかったという話も聞いたことがない。子供たちもそれなりに山に詳しかったということだろう。徒歩で2、3時間の道のりだ。

 6年生のとき、遠足の途中の山中でキノコを採ることが急に禁止された。「親が採ったキノコを家から持ってきてください、遠足の途中で採ってはいけません」ということになった。
 私はかなり不服だった。どれだけ自分が多く採れるか、それを鍋にいれられるかが張り合いだったし、腕の見せどころだったからだ。
 もしかしたら、新興住宅地の子が増えてきたことと関係があったのかもしれない。地区の一角に山を切り崩してできた建売の宅地できて、そこから通ってくる子は基本的に外から来た転校生だったので、山に慣れていなかったし、キノコのことも知らなかった。その親たちも当然知らなかっただろう。
 それでも、家からキノコを持って来いとなると、遠足のためにキノコを用意しなくてはならない。新興住宅地の親はどうやって、キノコを準備したのだろうか。大変なことだ。すべての親が山で採れるはずがない。キノコはどこにでも生えているわけではなく、それなりに山に詳しくなければ採れないからだ。だからといって、代わりに椎茸やシメジをスーパーで買って持っていくわけにもいかない。どうやって調達したのだろうか。
 キノコ汁は最後に味噌を入れて仕上げる。味噌汁の延長みたいなものだから子供でも簡単に作れる。汁はねっとりとしている。ジコボウの表面についたネバネバが汁全体にまわっていくからだ。それが喉をゆく感じが私は好きだった。
 
 遠足の帰り道はキノコ狩りとなる。こちらは禁止されなかった。途中まで列になって先生に引率される形で歩くのだが、途中からひとりふたりと藪のなかに消えていく。先生もそのことをわかっていながら、何も口にしない。誰もがキノコを採りたい気持ちをずっと抑えていたのがわかる。
 私もすっと藪にまぎれる。もう先生が呼び止められないところまで、走るように進む。誰もまだ足を踏み入れていない奥へ、無数の枝と葉をかき分け、泳ぐように進む。
 葉と枝が身体に当たる音がまさっていく。自分の息の音が大きく響く。振り向いてみる。誰の姿もない。ずっと前から、ここにひとりでいたような気持ちになる。戻ろうかと一瞬思う。でも、キノコを採りたい、一つでも多く採りたいという気持ちがそれを打ち消す。これは本能か。
 祖父もまたそれに突き動かされたから、車の鍵をなくしてしまったのか。もし祖父のように日が落ちるまで山から抜け出せなかったら、どうしたらいいのだろうか。急に怖くなる。それでも私は奥へ、キノコが群生し、まだ誰も手を触れていない場所を求めて、走るように進む。

小林紀晴Winter06小林紀晴
「Winter 06」
2014年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160719_kobayashi_07_work小林紀晴
〈ASIA ROAD〉より1
1995年
ヴィンテージC-print
Image size: 18.6x27.9cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第7回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第7回

キノコ採り 02

 誰もどうすることもできなかった。ただ、西の山を見上げては、
「困ったよう・・・・」
「どうゆうずら」
 などと口にすることしかできない。誰もが無力だった。
 完全に日が落ちると、山の稜線と空の境目がわからなくなった。すると、急に祖父が闇に飲み込まれ、二度ともどって来られないような気がして不安に襲われた。
 父に早く帰ってきてほしかった。きっと父だったら、どうにかしてくれるような気がしたからだ。
 庭にみんなで棒立ちに待っていても仕方がないので、私たちは家に入ることにした。祖母と母と姉と兄とで遅い夕飯を食べた。誰もほとんど口をひらかなかった。想像できることより、できないことの方が圧倒的に多く、そのことに私は戸惑った。
 やがて父が帰宅した。少し安堵したけど、事情を知ってこわばっていく父の顔をみると、再び不安に襲われた。
「これから、探しに行ってくる」 
 そんな父の言葉を期待した。山をよく知っている父だったら、たとえ暗くても祖父を探しだしてくれるのではないか。そんな気がしたからだ。でも、父は黙ったままだった。
「いまから探しに行けないの?」
 私は遠慮がちに父に言ってみた。
「無理だ」
 即答だった。
 1時間ほどして、突然、玄関がガラガラと音をたてた。
「いま、帰ったぞ」
 驚いたことに祖父の声だった。全員が居間を飛び出した。
 確かに祖父が立っていた。どこかに怪我をしているわけでもなさそうだった。
「どうしただ」
 祖母が訊ねた。
「山で車の鍵を落とした」
「じゃあ、歩いてけえって来ただか」
「いや、あのトラックに助けてもらった」
 祖父は外にでていった。
 家の前の道路にはエンジンがかかったままの大きなトラックが停まっていた。ヘッドライトもついていた。よく見ると、荷台には丸太らしきものが山積みになっていた。
 祖父はトラックの方にではなく、家の裏に向かった。そのあたりには祖父が大事に育てている椎茸を育てるための原木が塀沿いに置かれている。長さ50センチほどのクヌギの原木に椎茸の菌を打ち込んで、以前から育てているものだ。祖父はそれを両脇に一本ずつ抱えて戻ってきた。そしてトラックへ向かった。
 トラックから降りてきたのは、父ほどの年齢の男だった。よく日に焼けて頭に鉢巻を巻いている。いかにも山で仕事をしているという感じだった。ニコニコと笑っていた。私は安心した。
 祖父は家の裏とトラックを往復して計4本の椎茸の原木を運び、トラックの男に渡した。さらに採ったばかりのキノコも渡した。ここまで無事に送ってくれたことへの感謝の印だということは、子供でもすぐに理解できた。トラックが走り去る時、祖父は何度も、深く頭を下げていた。
 落ち着いたところで、祖父から訳を聞いた。
 日が落ちる前にキノコ狩りを終えて、山から林道に出たという。車が停めてあるところまで戻り、ドアを開けようとポケットに手を入れると、あるはずのキーがないことに初めて気がついた。山中のどこかで落としてしまったのだ。しばらく車の周りを探したが見つかるはずがなかった。一日中、山を歩いたので、それをたどることなど不可能だ。やがてすぐに日が落ちたという。 
 歩いたら家までは5、6時間はかかる距離らしく、夜道を歩くのは危険すぎるので野宿するしかないと諦め始めたとき、遠くからエンジン音が聞こえたという。キツネに化かされているのかもしれないと思ったが、ヘッドライトが見えたので、祖父は道の真ん中に立った。そして両手を広げた。どうしても、停まってほしいと必死だったという。

shika-no-tatazumi小林紀晴
「shika no tatazumi」
C-Print
14x11inch
Ed.20

 その事件について、私はその後も時々考える。山は怖いものだと深く心に刻まれるきっかけにもなった。大人になってからも同じように思い出したように考える。
 あるとき、ふと、何故、椎茸の原木だったのだろうかと思うことがあった。採ったばかりのキノコはわかるとして、何故、祖父は椎茸の原木をお礼に渡したのだろうか。人によっては、ありがた迷惑になりそうなものだからだ。単純に椎茸そのものあげるのは理解できる。でも原木は相当に場所をとるし、なにより育てなければいけない。それも適した日陰となる場所が必要だ。
 そのあたりのことは車のなかでトラックの男とすでに話された後だったのだろうか。いや、送ってもらっているあいだに、お礼について話すとは考えにくい。
 私の勝手な解釈だが、祖父の性格なども考えるとトラックの男には何も打診も相談もなく、一方的に椎茸の原木を渡したような気がする。でも、もらってくれたのだから、迷惑というわけでもなかったのだろうか。
 故人となった祖父に聞くことはできない。
次回に続く。

こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160319_kobayashi_05_work小林紀晴
〈DAYS ASIA〉より2
1991年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
Image size: 24.3x16.3cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第6回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第6回

キノコ採り 01

 前回まで数回に渡ってキツネに化かされた話を書きましたが、先日、ある書籍を読んでいると、同じくキツネに化かされる話がでてきて、それによると、キツネに化かされることが多いのは山と人間が暮らす境界あたりとあり、かつてKが怖気付いて動けなくなったのは、まさにそんな地点に当たるので、彼のおじいさんが言っていた話はまんざら嘘ではなかった、いや、本当に違いないと改めて思うのでした。

 その法則に沿うならば、これから書こうと思っている話は完全にキツネの領域ということになるのだろうか。
 毎年9月の声を聞くと、父と祖父は狂ったように(まさにその表現がふさわしい)、キノコを採るために山に頻繁に入った。父は毎週日曜日のことで、すでに国鉄を定年退職した祖父は平日に一人で行くことも多かった。
 改めて振り返ってみれば、父と祖父はそれほどキノコを食べたかったのだろうか、という気もする。ただ、祖父がまだ若く父が子供だった時代は、自給自足に近かったはずで、食糧事情はかなり切実だったはずだ。私が子供の頃も、秋に採ったキノコを必ず酢漬けにし、正月明けまで食べていたから、もっと前の時代には、キノコもまたなくてはなら食糧のひとつだったのだろう。
 とはいえ、採るキノコの種類はたった3つ。そう決まっていた。父も祖父も、おそらく近所のおじさんたちも、それ以外は絶対に採らなかったし、口にしなかった。山にはもっと食べられるキノコが確実に存在しているはずだというのに。でも、新たに情報を得て、採る種類を増やすという発想は誰の頭にもなかった。
 私は子供なりにその理由がわかっていた。万が一、毒キノコを誤って食べて、中毒を起こすことを誰もが極度に恐れていたからだ。その認識だけは子供の私にも明確にあった。
 一度だけ祖父に聞いたことがある。どうして、それだけしか採らないし、食べないのかと。
「どういうだかは知らん。昔からそう決まってるだで、同じもんをただ食べるだ」
 こうして文字にしてみれば、明らかに「思考停止」しているといえなくもない。創造も発展もない。でも、「思考停止」は明らかにリスクを背負わなくてすむ。これは無言のうちの「掟」かもしれない。きっと「掟」は、ときに思考を停止させるためにある。
 ジコボウ、チョコダケ、クリタケ。
 この3つしか採らないし、食べない。徹底している。
 ジコボウは大きめのキノコで全体が焦茶色をしていて、傘と軸にかなりヌメリがあり、傘の裏はスポンジ状になっている。松茸の倍ほどに大きくなることもある。株で生えることはなく、独立して一本で生えているが、身が崩れやく、時期を逃して採るとボロボロと崩れる。味噌汁に入れると、なめこ汁のようで、私は喉をいく感触が好きだった。
 チョコダケは真っ白でおチョコのように傘が逆三角形をしている。雨が降ると実際に水がたまったりもする。地元の方言でコウモリ傘が風であおられて、上を向いてしまうことを「チョコになる」というのだが、もしかしたら語源はそこから来ているのかもしれない。味はあっさりしている。
 クリタケはその名の通り、栗の倒木などに寄生するキノコだ。傘の部分が茶色で、シメジのように株で群生して生えることが多い。ヌメリはなく、味は淡白だ。
 ただ地元の呼ばれ方なので、それぞれのキノコの学名などと一致するのかは私は知らない。

re  no newkks k_KIS2353_小林紀晴
「shika no hashiri」
C-Print
14x11inch
Ed.20


 ある日、夕方になっても祖父が帰ってこなかった。一人でキノコ採りに西の山に入った日のことだ。
 西の山はあまりに広大で沢が多く、どのあたりに祖父がいるのかは誰にもわからない。やがて、太陽はその方向に沈んだ。日が暮れる頃まで山に入ったままというのは、常識では考えられない。明るいうちに山を下ることは子供でも頭に入っている。だから、祖父に何かしらの不測の事態が起きているとは幼い私にも十分理解でできた。もしかしたら、すでに不吉なことが起きてしまった後なのか、とさえ考え始めた。さまざまな思いが胸の内にヒシヒシとやってきた。
 祖母は、
「困ったよう・・・・」
 と呟いた。
 母は無言だった。父はまだ仕事から戻っていなかった。
こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160819_kobayashi_10_work小林紀晴
〈ASIA ROAD〉より2
1995年
ヴィンテージC-print
Image size: 18.7x28.2cm
Sheet size: 25.3x30.3cm
サインあり


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小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第5回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第5回

狐 02

 Kのあまりの険相な顔に、これはただごとではないという気持ちに包まれた。ただ、私にはまったくその実感がないのだから、急激に何かが乖離していくような感覚があった。たったいま立っている空間そのものに亀裂でも入っていくような、あるいは、目の前にいるKが別の誰かになっていくような。「狐に化かされる」というKの恐怖とはまったく違うことがらに恐怖を抱き始めた。
「じゃあ、別の道だ」
 私は答えた。
 Kが絶対にこの道を通りたくないということが痛いほどわかったからだ。少し戻れば、山を迂回する道がある。3倍の距離と時間がかかるが、もはやそうするしかないだろう。
 私一人、たった数十メートルの「狐に化かされる」かもしれない目の前の道を走る抜けることはできるだろう。でもKを置き去りにすることはできない。深い谷が足元にあって、一人は羽を持ち空を飛べて、一人は羽をもたない。そんな状況にいつの間にか陥っていた。
 私たちは、来た道を戻った。黙って歩いた。話しかけても、Kはほとんど返事をしなかった。途中から迂回の道にそれた。
 西の山に日が隠れると、あっという間に暗くなって、また別の恐怖が私の背中に覆いかぶるようにやってきた。こんな時間まで、子供だけで山のなかにいたことはない。
 熊がでたらどうしよう。
 思いつきのようなことが頭に浮かんだ。すると本当に熊が出てきそうな気がして、Kにそのことを言いたかったけど、きっと、大した答えなど返ってこないだろう。だから、飲み込んだ。狐より熊の方がずっと恐ろしいし、危険じゃないのか。そんな思いに捕らわれた。すると、こうして遠回りしていることや、Kに対しても次第に腹が立ってくるのだった。
 幽霊がでたらどうしよう。
 次にそんな、ありきたりの恐怖がやってきた。

re 8  I-B_600小林紀晴
「Winter 05」
2014年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


 私たちはなんとか里に下ることができて、それぞれの家にたどり着いた。
「どこ行っていただ?」
 当然ながら、親は心配して帰りを待っていた。
 私はことの顛末を父に説明した。興奮している自分に気がついた。父とKのお父さんは小学校の同級生なので、当然、Kの戦争で亡くなったおじさんのことも知っているはずだ。その前提で話した。
「ああ・・・そういうこんか」
 父はそれだけを口にした。反応はあまりに意外なものだった。
「狐に化かされるなんて、そんな馬鹿なはずはない」、とか「そりゃ、迷信だ」とか、そんな答えが返ってくるものとばかり思っていた。
 なのに、父の態度は真逆で、それだったら仕方がない、いや、正しい行いとでも言いたげに映った。
 本当に父はそれ以上、口を開かなかった。だから何も聞けなくなった。明らかに父は何かを知っているし、隠している。
 もしかしたら、父も幼い頃、狐に化かされたことがあったのではないか。その後、そう思うようになった。
 
 私が上京してから数年後、Kが恐怖に怯えた場所は突然消えた。山も川もことごとく消えた。市営のアパートができる計画があって、山が丸ごと削られたのだ。
 あれだけの山の土を果たしてどこへ運んだのだろうか。最初に目にしたときは、とにかく唖然とした。まるで風景が変わってしまったのだから。違う場所に間違って立っているような錯覚を覚えた。こういうのを「狐に鼻をつままれた」とでもいうのだろうか。そう思うと笑いすら込み上げてきた。
 すると不思議なことにKと私が体験したあの日の出来事が、急に記憶違いだったような気がしてくるのだった。それは間違いなく本当のことだというのに。
 同時に、私は「狐に化かされる」という恐怖が確かに存在したことが、誰かに受け継がれることも、語られることもなく消えていくことに気がついた。実際に、私は東京生まれの自分の子供にそのことを話したことがない。近い将来、確実に日本昔話のなかでだけ語られる「虚像の話」となってしまうことだろう。 
 私はあの日、父に口を開かせるべきだったのだろうか。その父もいまはいない。
こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160719_kobayashi_07_work小林紀晴
〈ASIA ROAD〉より1
1995年
ヴィンテージC-print
Image size: 18.6x27.9cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第4回

小林紀晴のエッセイ「山の記憶」 第4回

狐 01
 小学4年生のとき、Kという同級生と山にクワガタ捕りに行った。雑木林で、栗とかクヌギの樹を思い切り蹴飛ばすと、面白いようにクワガタが降ってきた。さらに樹液が湧き出したあたりを注意ぶかく探して、5匹ほど捕まえることができた。一度にそんなに捕れることは珍しく、だから二人して興奮した。気がつくと周りが暗くなり始めていた。こんなに遅くまで山にいたことはなかった。私たちは急いで山を下った。
 里まであと少しというところで、Kが突然、足を止めた。
「じいちゃんが、暗くなってから、この道はぜったいに通っちゃいけねいって言った」
 夕暮れがそこまで迫っている。西の山にすでに太陽は隠れ、空が恐ろしいほどに真っ赤に染まっていた。私は少しでも早く家に帰りたかった。でもKは立ち止まったままで、動こうとしない。
「通ったら、狐に化かされるだ」
 次にそんなことを言い出した。
「狐?」
「じいちゃんが子供の頃、ここで狐に化かされて、道に迷って夜中まで家に帰ってこれんことがあっただ。だで、ここは、日が暮れてからは絶対に通っちゃいけねえっていわれている」
 Kの顔を見ると、さっきとはまるで違った。少し震えているようにも映った。冗談を言っているふうには見えなかった。私はなんと言葉を返していいのかわからなくなったが、やっと思いついたことを口にした。
「でも、おめえのじいちゃん、戦争で死んでるら」
 本当のことだ。出征先の南のどこかの島で若くして亡くなったというのは、近所の者は誰でも知っていることで、親からも聞かされていた。つまりKが生まれた時、じいちゃんはすでにこの世にいないのだから、そんな話など聞けるはずなどない。
「だで、とうちゃんから聞いただ。とうちゃんが、じいちゃんからここで狐に化かされことがあるで、絶対に通っちゃいけないって言われただ。それをとうちゃんから教えてもらった。そういうこんだ」
 腑に落ちたけど、ちょっと信用できないという気もしてきた。
「違う道を通って帰る。ここは本当に駄目だ」
「大丈夫だ!」
「駄目だ! 絶対にそうする」
 遠回りすれば確かに里に戻れる道はあるが、3倍くらいの距離と時間を要するだろう。
 私は改めてKが「狐に化かされる」という目の前の道の続きをじっと目にしてみた。来るときは太陽に照らされて、緑がキラキラと反射していた。車がやっと一台通れるほどの土と砂利の農道。それが同じ場所とは思いえないほど、いまは陰鬱だ。
 右側に山が迫っていて崖のようになっている。その斜面と上に生えた木々の葉や蔓が覆いかぶさるように道に垂れ下がっている。左側は川だけど、水の流れは見えない。ススキに隠れているからだ。その手前には何本か木が生えていて藪になっている。さらに草の蔓が狂ったように絡み付いていて、鬱蒼としている。トンネルのように薄暗い。

01小林紀晴
「Winter 04」
2014年撮影(2014年プリント)
ゼラチンシルバープリント
16x20inch
Ed.20


 通過したら、本当に狐に化かされるのだろうか。そもそも、化かされるって、なんだ。私は考えた。狐が目の前に現れるのか? でも、走れば、ほんの数秒で、走り抜けることだってできそうだ。
「お願い、お願い、遠回りしよう。お願い!」
 Kの声は叫びに近かった。驚いたことにKは私の腕を握った。そして、来た道を後ずさり始めた。振り返るとKはいまにも泣き出しそうな顔をしていた。その向こうに巨大な西の山が立ちはだかるようにあって、黒く沈んでいた。
(次回に続く)
こばやし きせい

小林紀晴 Kisei KOBAYASHI(1968-)
1968年長野県生まれ。
東京工芸大学短期大学部写真科卒業。
新聞社カメラマンを経て、1991年よりフリーランスフォトグラファーとして独立。1997年に「ASIAN JAPANES」でデビュー。1997年「DAYS ASIA》で日本写真協会新人賞受賞。2000年12月 2002年1月、ニューヨーク滞在。
雑誌、広告、TVCF、小説執筆などボーダレスに活動中。写真集に、「homeland」、「Days New york」、「SUWA」、「はなはねに」などがある。他に、「ASIA ROAD」、「写真学生」、「父の感触」、「十七歳」など著書多数。

●今日のお勧め作品は、小林紀晴です。
20160319_kobayashi_05_work小林紀晴
〈DAYS ASIA〉より2
1991年
ヴィンテージゼラチンシルバープリント
Image size: 24.3x16.3cm
Sheet size: 25.3x20.3cm
サインあり


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◆小林紀晴のエッセイ「山の記憶」は毎月19日の更新です。
tokinowasuremono
緑豊かな青山のギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱い、毎月企画展を開催しています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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