松本竣介の世界

松本竣介と野田英夫

今日6月8日は松本竣介の命日です。
(1912年4月19日 - 1948年6月8日 享年三十六)
戦後間もない昭和23年僅か36歳の短い生涯を終えました。
没後その評価は高まる一方ですが、美術館レベルでの回顧展が開かれる割には、画廊での展観はほとんどないと言っても過言ではありません。余りにも残された作品数が少なく、その多くが既に公私立の美術館に収蔵されてしまっているからです。つまり作品が市場に出ることがめったにない。

松本竣介1-38松本竣介「少女」
1942年頃 インク、墨、紙
35.0x26.0cm
※『松本竣介素描』(1977年 綜合工房)47頁所収
※『松本竣介とその時代』(2011年 大川美術館)図録27頁所収 No.53

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同じように夭折してしまった作家にアメリカ合衆国生まれの日系人、野田英夫がいます。
(1908年7月15日 - 1939年1月12日 享年三十)
アメリカで生まれ、日本での滞在が少なかったこともあり、竣介と同じようにその作品が市場に出ることはめったにありません。

この二人に焦点をあてた「松本竣介と野田英夫」展が昨年秋、桐生の大川美術館で開催されました。
展覧会については喜夛孝臣先生(練馬区立美術館学芸員)に「花束の如く美しく―『松本竣介と野田英夫―大川美術館収蔵品を中心に―』展を見て―」と題して執筆していただきました(2016年11月29日ブログ)。
大川美術館といえば松本竣介のコレクションで有名ですが、野田英夫の出品作品については私どもも少しお手伝いした関係で、社長と桐生を訪ねたことは2016年11月30日ブログに書きました。

そのときのカタログをご紹介します。
01『松本竣介と野田英夫―大川美術館収蔵作品を中心に―』展図録
2016年
大川美術館 発行
65ページ
23.0x18.1cm
1,500円(税込) 
※送料別途250円


目次:
・ごあいさつ 寺田勝彦
・野田英夫図版
・松本竣介図版
・野田英夫について
・松本竣介について
・野田英夫略年譜
・松本竣介略年譜
・野田英夫出品リスト
・松本竣介出品リスト

02


03


04


05

下に紹介する作品は大川美術館の『松本竣介と野田英夫―大川美術館収蔵作品を中心に―』展に出品され、カタログにも掲載されています。
noda_05_1104_5野田英夫
「風景」
1936年
油彩、ペン、紙
24.0x33.3cm
*『野田英夫展』カタログNo.7
(1979年、熊本県立美術館)


noda_02_1104_2野田英夫
「作品」
水彩、紙
25.4x30.9cm


noda_07_1104_7野田英夫
「東京植物園写生」
1936年
クレパス、紙
22.7x28.2cm
サインあり
*『野田英夫展』カタログNo.72
(1979年、熊本県立美術館)


noda_04_1104_4野田英夫
「作品」(出品No.4)
紙にペン
33.7x26.3cm


noda_06_1104_6野田英夫
「作品」(出品No.6)
紙にペン
18.8x24.4cm


noda_08_1104_8野田英夫
「作品」(出品No.8)
方眼紙にペン
12.9x9.1cm


noda_09_1104_9野田英夫
「作品」(出品No.9)
紙にペン
12.9x9.1cm


noda_13_1104_13野田英夫
「作品」(出品No.13)
紙にペン
21.3x17.3cm


noda_21_1104_21野田英夫
「作品」(出品No.21)
紙にペン
16.8x23.3cm


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喜夛孝臣 花束の如く美しく―「松本竣介と野田英夫―大川美術館収蔵品を中心に―」展を見て―

花束の如く美しく
―「松本竣介と野田英夫―大川美術館収蔵品を中心に―」展を見て―

喜夛孝臣
(練馬区立美術館学芸員)

 画家松本竣介野田英夫の二人展が群馬県桐生市にある大川美術館で開かれている。
 大川美術館は6000点以上におよぶコレクションを背景に常設展示を中心に運営してきた。これは、美術館の創設者大川栄二氏の「同じ絵を何度も観ないと真の味は分からない」 という考えを反映したものであり、こうした思いのもとにとりわけ大事にしてきた画家が、松本竣介と野田英夫である。コレクションもこの二人を軸に形成され、靉光や麻生三郎、国吉康雄舟越保武難波田龍起ら彼らと交流のあった画家たちの作品が数多く収蔵されている。
 一方で、大川美術館では、1989年の開館以来、自主企画の展覧会も継続して開催しており、今回の展覧会はちょうど100回目にあたる。この記念すべき節目を迎えるにあたって企画されたのが、コレクションの中核をなす松本竣介と野田英夫の展覧会であり、展示替えを行いながら、竣介と野田のほとんど全てのコレクションを展示するという。本展は、「絵は人格」であると考え、人と人とのつながりを重んじながらコレクションを形成してきたこの美術館の原点ともいえる展覧会である。
 会場に入って、まっさきに目に付いたのは、松本竣介の《街》(1938年)であった。
 アメリカ生まれの日本人画家である野田英夫は、1934年に一時帰国し、翌年にディエゴ・リベラに学んだモンタージュ風の手法によって都市生活の断面を描いた《帰路》(本展未出品、東京国立近代美術館蔵)を発表する。竣介は、この作品に影響を受けたといわれ、自身でも様々な人々や街並みの断片を重なり合わせて描くモンタージュの技法に取り組むことになった。竣介の《街》は、そうした取り組みの最初の作品であり、竣介と野田を同時に展観し、そこから見えてくるものを探ろうとする本展では欠かせない作品といえよう。

野田英夫 帰路野田英夫
《帰路》
1935年
油彩・カンヴァス
97.0×146.0cm
(東京国立近代美術館蔵)


3 松本竣介《街》松本竣介
《街》
1938年
油彩・合板
131.0×163.0
(大川美術館蔵)


 野田の《帰路》には、腕を組み深刻そうな面持ちの労働者が黙々と歩く姿が大きく描かれる。彼はおそらく失業者なのであろう。そこには移民の子である野田によるアメリカ社会の矛盾に対するまなざしや、切実なメッセージが託されているように思える。一方、竣介の《街》には、ワンピースを着た女性、靴磨きの青年や犬の散歩をする少年、労働者やソフト帽をかぶった紳士らが闊歩する街角の情景と、時計塔や煙突のある建物が立ち並ぶ幻想的な都市風景が描かれる。詩情溢れる作品であり、野田のような社会性は希薄である。
 竣介は、「人間風景」というエッセイの中で、次のように書いている。
 「名も知らないやうな路傍の人にさへ、自己の感情に対する以上の同感を感じることがある。それは純粋な精神の接触から生じる同感なのだと思ふ。純粋な状態に於てのみ僕達はどのやうな人とも手を握り合ふ心になれるのだ」(註1)
 竣介のこの絵には、名も知らない路傍の人たちに対する、「自己の感情に対する以上の同感」が基調としてあるのではないか。
 こうして自らの思想や感情を強く押し出すのではなく、他者に心を寄せて描いた竣介が、「今、沈黙する事は賢い、けれど今たゞ沈黙する事が凡てに於て正しい、のではないと信じる」と、あえて自らの言葉によって、戦時中に個人の制作を続けることの意義について発言した「生きてゐる画家」の重みについてあらためて考えさせられる(註2)。これは、陸軍省情報部の鈴木庫三少佐らによる「国防国家と美術」座談会に応答して書かれた一文であり(註3)、本展では、竣介が妻禎子と編集にあたった随筆の雑誌『雑記帳』などの資料とともに紹介されている。ここで竣介は、国策の為に筆を執れとする軍人たちの発言に対し、人間としての本源的な問題を追及する芸術家の仕事を擁護する見解を真っ向から提示している。自粛という言葉がはやる重苦しい空気の中であり、今以上に同調圧力が強かった時代である。その中で自己を賭して発言した竣介の言葉には、目先のことではなく、「ヒューマニティー」を重んじ、よりよき未来を模索する若者たちによる、この時代を代表する精神を見るような思いである。
 野田と竣介の二人の絶筆が近くにならべられており、同時にみることができたのも得がたい機会であった。野田の 《野尻の花》(1938年)は、ヒメジオンや鬼アザミなど妻のルース・ケルツが野尻湖辺で摘んできた野花を描いた作品である。野田は、妻を伴った避暑の一夏から体調に異変をきたし、その後、絵筆をとることもなく亡くなった。竣介の《建物(青)》(1948年)は、第2回美術団体連合展に出品するために描かれた作品の一つである。ペディメントと巨大な柱をもつ、神殿のように荘厳な建物が描かれている。竣介は本作を肺結核が進行した高熱のさなかに制作し、出品後まもなくに亡くなっている。野田は30才、竣介は36才という若さであった。彼らの絶筆は、あまりにもはやく訪れた二人の死をつきつけてくる。
 展覧会の中心を占めていたのは、彼らのドローイングやスケッチであった。むさぼるように読書に没頭する男性や、手紙を書く女性の姿をとらえた野田のスケッチには、どこか知性に対する素直な信頼のようなものが見えて明るい気持ちにさせられる。このように彼らのスケッチには、自らの手と頭で考えてきた彼らの視線がそのままに写し出されている。

野田 野尻の花野田英夫
《野尻の花》
1938年
油彩・ボード
33.0×24.0
(信濃デッサン館蔵)


12松本竣介建物松本竣介
《建物(青)》
1948年
油彩・カンヴァス
24.0×33.0
(大川美術館蔵)


 これらは、もともとは何冊かのスケッチ帖であったのだろう。彼らの死後にそれらは解体され、一枚一枚大事に額に納められ、一度に何枚も展示できるようにされたのだ。彼らはあまりに若くして亡くなった。そのため作品の数はそれほど多く残されていない。30才で亡くなった野田には、とりわけそれが顕著である。竣介と野田に親しく交わっていた人びと、彼らに敬意をもつ者たち、そうした竣介と野田の死後に残された者たちは少しでも作品に宿した彼らの精神が後世にのこるように、普通なら反故にしてしまいそうなものでさえも、慈しんできたのである。彼らのスケッチを一つ一つ丹念に眺めるうちに、そうした営みまでが想像されてくる。
 常設の特集展示コーナーでは、今回の企画展にあわせ「当館コレクションによるアメリカシーンの画家たち〜野田英夫と松本竣介の言葉とともに」も開催されている。ここでは野田と竣介の言葉とともに、彼らに影響を与えたジョージ・グロッスやジョン・スローンの絵などが展示されている。そのなかに絵画制作について語る野田の次の言葉が紹介されていた。
「我々が絵画するに当って我々は現象世界の一部を描写することだけに満足してはならない。絵画のもつ複雑な世界、それは、文学的内容、造形的骨格、詩的情操等が描かれなければならない。作家の世界観の深度が造形的知性と相まって、渾然として花束の如く美しく表現された時、我々は一つの絵画に何度も足を運ばずに居れないのである」(註4)
 竣介が絵だけではなく、野田の言葉にも影響を受けていたであろうという指摘がなされていた。確かにその通りであろう。野田の制作態度は、竣介の態度でもある。ともに彼らは社会に向き合いながら、「花束の如く美しく」、彼らの世界観を画面に固着させている。
 時代に対峙して瑞々しい精神を屹立させてきた二人の絵には、今、大きな時代の曲がり角を迎えようとする私たちひとりひとりのありようを振り返らせる力を持っているように思う。
きた たかおみ) 

註1:松本竣介「人間風景」『人間風景 新装増補版』中央公論美術出版、1990年(初出:『生命の藝術』3巻4号、1935年4月)
註2:松本竣介「生きてゐる画家」『みづゑ』437号、1941年4月
註3:「国防国家と美術」『みづゑ』434号、1941年1月
註4:野田英夫「ヒラノニマス・ボッシュ」『みづゑ』396号、1938年2月

「松本竣介と野田英夫―大川美術館収蔵品を中心に―」
会場:大川美術館
   〒376-0043 群馬県桐生市小曾根町3−69
   tel. 0277-46-3300
会期:2016年10月1日(土)〜12月18日(日)
HP: http://okawamuseum.jp/index.php
松本竣介と野田英夫 (1)

松本竣介と野田英夫 (2)

※画面をクリックしてください。

喜夛孝臣 Takaomi KITA
1978年生まれ。早稲田大学卒、同大学院博士課程満期退学。早稲田大学會津八一記念博物館助手、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館学芸員を経て、現在、練馬区立美術館学芸員。
担当した企画展は、「戦争画の相貌—花岡萬舟連作—」(09年)、「新耽奇会展—奇想天外コレクション」(13年)、「あしたのジョー、の時代」(14年)、「没後50年“日本のルソー”横井弘三の世界展」(16年)、「朝井閑右衛門—空想の饗宴」(16年)など。

●本日のお勧め作品は、松本竣介です。
松本俊介04松本竣介 Shunsuke MATSUMOTO
《作品》
紙にインク、墨
Image size:30.5x22.3cm
Sheet size:32.7x24.0cm

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本日の瑛九情報!
先日ご紹介した通り、この秋は東京、鎌倉、桐生の各美術館で松本竣介が展示されています。上掲の大川美術館といえば竣介。瑛九より一つ年下の1912年生まれ。竣介36歳、瑛九48歳、ともに若死にですが遺された作品数は圧倒的に瑛九が多い。詳しくは亭主の駄文「松本竣介と瑛九」をお読みください。
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

神奈川近美・鎌倉別館で「松本竣介 創造の原点」10月8日〜12月25日

美術の秋、鎌倉、東京、桐生の三つの美術館で松本竣介の作品が展示されています。
竣介ファンの亭主としては嬉しい限り。

鎌倉で「松本竣介 創造の原点
2016 10 27 c2016 10 27 d


会場:神奈川県立近代美術館鎌倉別館
〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-8-1
会期:2016年10月8日〜2016年12月25日
休館:月曜日
坂倉準三の設計になる本館はこの春、遂に閉鎖されましたたが、鎌倉にはもう一つ別館があります。
1984年に大高正人の設計により開館した神奈川県立近代美術館・鎌倉別館です。しかしこの別館も、今回の竣介展を最後に改修工事のためしばらく休館となるそうです。
改修前の最後の展覧会をお見のがしなく!
20161010_鎌倉 (1)
ひっそりと佇む本館。県の重要文化財に指定されるとかで、とりあえず建物は壊されずにすみそうです(ほっ)。
鎌倉駅からここまでだって老人の足では十分に遠い、ましてや観光地と化した小町通の歩きにくさといったらない。別館はさらにゆるやかな坂道をとぼとぼ数百メートル先にあります。

20161010_鎌倉 (2)
最後の50mが辛い!

20161010_鎌倉 (3)
ようやくたどり着きました。

20161010_鎌倉 (4)
選挙じゃあるまいし、のぼり旗というのも何かちょっと・・・・竣介には似合わないと思うんですが。

20161010_鎌倉 (5)
前庭の彫刻群はいいですね。

館内は撮影禁止だったので、写真レポートはここまでですが、亭主にとっては「立てる像」を見られただけでも来た甲斐がありました。
p053 立てる像600≪立てる像≫
1942
油彩・画布
162.0x130.0cm
神奈川県立近代美術館蔵

1973年の秋、薄暗い本館の松本竣介記念室(いまは無い)で対面して以来、鎌倉で、東京で、盛岡で幾度みたことでしょうか。この絵を見るたびに、亭主は美術を仕事にして良かったとしみじみ思うのであります。
20161112_Shunsuke Matsumoto『松本竣介 創造の原点』図録
2016年
88ページ
神奈川県立近代美術館 発行

 1948年6月、松本竣介は病に倒れ36歳という若さで世を去りました。
東京に生まれ盛岡で少年時代を過ごした竣介は、戦前から活動を開始し、戦中には麻生三郎、靉光、寺田政明らと「新人画会」を結成。困難な時代においても自由な個の表現者であろうとする姿勢を貫きました。その彼の死から10年後の1958年、神奈川県立近代美術館では「松本竣介・島崎鶏二展」を開催しました。それが公立の美術館で松本竣介の作品がまとめて展示された初めての展覧会でした。
その後、当館はご遺族などからの寄贈を受け、1968年に旧鎌倉館の一室を「松本竣介記念室」として公開しました。1984年に鎌倉別館が開館してからしばらくの間、展示室の一部を「松本竣介コーナー」として展示替えしながら作品を紹介。さらに、2012年には生誕100年を記念し葉山館で大規模な回顧展を開催するなど、松本竣介は常に当館の活動のひとつの軸となってきました。
時代の不安な様相を独自の静謐さで包んだ都会風景や温かな視線が注がれた人物像、複雑に交錯するモンタージュと呼ばれる技法を応用した情景など、時代を超えて人々を魅了し続ける松本竣介の絵は、今や当館のコレクションにとって最も重要な位置を占めるばかりでなく、昭和前期の近代洋画史に欠くことのできないものとなっています。
今回の展覧会では、 2012年の回顧展を機に新たに発見された《聖橋風景》を含む油彩、素描とあわせて彼と関わりの深い作家の作品を展示するとともに、竣介が残したスケッチ帖などを手掛かりにして、その創造の原点を探ります。(同館HPより)

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東京竹橋で「奈良美智がえらぶMOMATコレクション」
2016 10 272016 10 27 b


「近代風景〜人と景色、そのまにまに〜」
会期:2016年5月24日[火]〜11月13日[日]
会場:東京国立近代美術館
休館:月曜
当代一の人気作家・奈良美智さんがセレクションした近美のコレクション展示です。
〜〜〜
アーティスト、奈良美智がMOMATのコレクションから作品をセレクトします。
大学時代の恩師、麻生三郎や、麻生とともに戦争の時代を生きた松本竣介。村山槐多のたくましい少女像や、奈良が「手袋とスカーフの色が大事」と語る榎本千花俊の女性像。美術史にとらわれることなく好きな作品を選んだら、自然と1910-50年代の人と景色を描く作品にしぼられたといいます。
おもに「人」を描くアーティストと思われがちな奈良ですが、実は街や野原といった「景色」も「人」と同じぐらい重要なものと考えています。「人」と人の外にある「景色」、ふたつが合わさって「風景」になる、と奈良は語ります。
おなじみの名作からふだんあまり展示されない作品まで、約60点がずらりと並びます。奈良が作家、作品に寄せたコメントもご紹介します。奈良美智の目を通して、作品の新しい魅力に出会いましょう。(同館HPより)
〜〜〜
奈良さんといえば贋作まで出回る超人気作家ですが、美術出版社が刊行した分厚いカタログレゾネの第1番は、レゾネ編集当時ときの忘れものにありました。旧蔵者は私たちの現代版画センター時代からの長年の顧客であった弘前のKさんです。
地元の若い作家たちの支援もずっと続けておられたKさんのコレクションによる「奈良美智24歳×瑛九24歳 画家の出発」展を開催したのは2010年9月でした。
奈良さんの初期作品3点(中の一点は奈良さんの意向でレゾネには収録されませんでしたが高校時代の作品で、他の2点が初個展出品作品でレゾネに収録されました)と、時代は遠く隔つとも初個展が奇しくも同じ24歳だった瑛九の初期作品を展示しました。詳しくは『奈良美智24歳×瑛九24歳 画家の出発』展カタログをお読みください。

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群馬県桐生で「松本竣介と野田秀夫」
2016 11 022016 11 02 b

「松本竣介と野田秀夫」
会期:2016年10月1日[土]〜12月18日[日]
会場:大川美術館
休館:月曜(ただし9月19日[月・祝]は開室)
サラリーマン・コレクターの典型ともいうべき大川栄二さんがおそるべき執念で集めたのが松本竣介(1912〜48年)と野田英夫(1908〜39年)の若くして亡くなった画家の作品でした。日本近代洋画を中心に約6,500点を数える収蔵作品を持つ大川美術館ですが、山の斜面に建つ建物(某企業の社員寮だった)の改装設計を担当したのが、竣介のご子息・松本莞さんです。
大川美術館といえば竣介と言われるように、質量ともに(もっとも竣介の遺した総点数は他の巨匠たちに比べればごく僅かですが)日本有数のコレクションです。
今回の展示では、松本竣介と野田英夫の同館所蔵のコレクションのほぼすべてを展示するらしい(すいません、亭主はまだ行っていません)。昨年新しく発見され、アメリカの所蔵家より寄贈された野田英夫の油彩画《ポキプシー》と、松本竣介《街》を起点に信濃デッサン館をはじめ、個人の所蔵家による魅力的な水彩、素描作品などもあわせて展観されます。
ときの忘れものも少しお手伝いしました。
近日中に詳しいレポートをお届けします。


●本日のお勧め作品は、松本竣介野田英夫です。
20161104_20松本竣介
「女の横顔(2)」
※「松本竣介没後50年展―人と街の風景―」(1997年 南天子画廊)図録19ページ所収
1945年頃
紙にインク、墨
イメージサイズ:25.5x19.0cm
シートサイズ:27.3x19.7cm


20161105_noda_05_1104_5野田英夫
「風景」
紙に油彩・ペン
24.0x33.3cm
※1979年の熊本県立美術館「野田英夫展」出品作品


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上田浩司さん(MORIOKA第一画廊)逝く

morioka7
「東京に行っても、ニューヨークに行っても、ヨーロッパに行っても、盛岡に居ても、みんなね、同時代の地球の一角にそれぞれ居る……」
画廊物語10
MORIOKA第一画廊
上田浩司 Koji Ueda

写真・文●阿部稔哉


*『てんぴょう 010』(アートヴィレッジ刊、2002年1月25日発行)より再録

 岩手県盛岡市。

 不来方城と呼ばれた街の中心にある城跡をたずねた。前日に降った初雪のことが気になったが、まだ見事な紅葉は残っていた。立派な石垣の上に登ると盛岡の市街が一望でき、はじっこに石川啄木の句碑があった。
 「不来方の お城の草に 寝転びて 空に吸われし 十五の心」。
 15歳の啄木が、学校を抜け出して寝転んだころにあっただろう広い空の持つ吸引力は、マンションやビルがさえぎる現代の空では、もうそれほどの力は無さそうだった。
 新幹線が通ってから便利になったのはいいが、引き換えに街の情緒が無くなったとはよく聞く話で、ここでも他の地方都市と同じことが進行したようだ。
 現在、盛岡は東北のひとつの地方都市として認識されるが、おそらく以前は、ただ「盛岡」だったのだ。まだ何者でもなかった石川啄木や宮沢賢治が学び、松本竣介が写生をして歩いた「盛岡」は、今はない。
 城跡のすぐ下にあるMORIOKA第一画廊の前まで来たとき、ガラスのむこうの店内に、長身の男性の姿があった。雰囲気は作家のそれに近いものを感じさせたが、その男性が上田浩司さんだった。名刺には役職の肩書きが記されていなかった。
 上田さんはまず最初に、この「画廊物語」という企画に自分がどれほど不適格な人間かを説明し、取材してみてモノにならないことも考えられるから、その際は経費を弁償したいという趣旨を話してくれた。取材がいやなのか、それとも謙遜なのかと初め思ったが、そうではなく本当に自分は不適格な人間だと感じているようすだった。
 いろいろな取材の現場に立ち会って来たが、経費の弁償まで申し出られたことは多分初めてだ。
 「なにせね、こちゃこちゃこちゃこちゃ独善的にやってきたとごろですから、ポリシーが一貫してやってきた感じではないんで……。だいたい私が画廊をやるこどになったのは、松本竣介さんという方が無くなるごとがきっがけなんですよ」
 上田さんは、やわらかくゆったりとしながらも抑揚の効いた言葉で話す。電車の中で耳にした地元の高校生たちの使う、標準語の平坦なイントネーションが混じる話し方とは、時間の流れかたが違って感じた。
 今はなくなった「盛岡」がこの人の中には生きている、と思った。
 冬の澄んだ夕暮れ、日没の後しばらくすると、深く青味を帯びた空気にあたり全体が包まれることがたまにある。日中には気づかなかった、青空の向こうにある成層圏が降りて来たと思わせるつかの間の時間だ。そんなとき風景は、青く静かに沈み透明度を増すように見える。
 松本竣介が描いた印象的な東京の街の風景にも、昼と夜の狭間で世界を浸す、そんな冬の透明な光を感じさせるものがある。北を知っている人なのだろう。
morioka6

morioka8

 上田浩司さんは昭和7年に盛岡に生れる。父は東京生まれで、母が盛岡生まれだった。もの心ついたときには絵が好きでよく描いていた。
 中学生のとき松本竣介が東京で亡くなる。終戦の年昭和20年11月に、岩手出身で中学同期の舟越保武との2人展が盛岡の百貨店で行われた。松本竣介がどんな作家かは詳しく知らなかったが、この展覧会をきっかけに、その人間と美術について深く考えるようになっていた。
 「生前の竣介さんとはお目にかかってお話したことは一度もないんですが、そっから竣介さんとの本格的な深い自分なりの絆ができましてね」
 松本竣介の家も上田さんとちょっと似ていて、父が盛岡出身で母は東京出身だ。竣介の生れは東京だが、小さいときから盛岡で育っている。そんなことも思春期の上田少年には身近に感じられたのだろう。松本竣介という存在が、美術の仕事をすることになる種となって、上田少年の心にしまい込まれた。


 MORIOKA第一画廊の前身は医師、高橋又郎によって昭和39年に設立された盛岡画廊だった。高橋氏はすでにその時代、将来の日本が高齢化社会になることを見通し、お年寄りたちが安心して暮らせるユートピアのような所をつくろうと考えていた人物だった。その壮大で先見的な計画の一環に、美術を取り入れようと考えていたようだ。
 上田さんは美術の好きな友人と共に、盛岡画廊によく遊びに行くようになっていた。目抜き通りの一本裏にある落ち着いたいい場所だった。
 ところが昭和41年に店子として入っていた建物の建て替えを機に、画廊が閉じられることになる。上田さんは自分たちのよりどころがなくなると感じ、盛岡画廊の名前を引き継いで、みんなが集まれる場をまもることを決める。34歳になっていた。
 愛好家が画廊をやっても、令静さを欠いて失敗するからやめろと忠告する人もいたが、盛岡画廊で出会った友人たちが、心強い支えになっていた。
 しかし画廊の経営なんて知るわけもなく、持ち金も少ない。自分や友人たちが持っている作品を集めて並べる、「サロンのような場所」だったと話す。
 ちょうどそのころ藤田嗣治が亡くなる。東京の画商たちが、藤田の作品がこれまでうまあい具合に売れるようになる、と色めきたっているのを知り「ふとどきだってことになりまして」、立派じゃないけど、みんなの持っている藤田作品を20〜30点集めて、自分たちの藤田嗣治展を開いた。
 「売るための展覧会じゃないんです。お通夜みたいなもんです」と話す。
 画廊には、それまで美術に縁遠かった近所の人たちも遊びに来るようになり、地元の作家や美術の好きな人、夕方になるとお酒を飲みたくなる人など「多種彩々」な連中が集まった。
 ピカソの版画などを集めて並べていた。サロンの遊びで始めた展覧会のようなものが評判になり、いろんな人が訪れた。その中のある一団の人たちは、ピカソとは人の名前ではなくて、訳のわからない絵の総称がピカソというものだと思っているらしかった。ピカソの作品はもちろんだが、名前さえ知らなかった人たちが結構いたことに、上田さんは驚きとまどう。
 そんなことが、サロンとしてではなく、画廊として、画商として再出発する契機になる。
 ある傾向の作家ばかりをやるのではなく、多様なものを、いろんな人たちに見てもらおうと、昭和44年に盛岡画廊は当初の場所に戻って再開する。翌年には目抜き通りに面した第一書店という大きな書店ビルの3階へ移転する。床面積は60坪もあった。
 ビルのオーナーは契約した後になって、第一書店ビルに入るんだから画廊も「第一」の文字があった方が良いといい出し、本意ではなかったが、ここにMORIOKA第一画廊が誕生する。しばらくは電話帳の「も」の所と「た」の所のどちらにも載っていた。
 案内状のハガキは印刷代を安くあげるため、そのときたまたま機械に入ってるインクで刷ってもらったりした。色指定なんてあったもんじゃない。
 「自分自身ね、自分で描いたものでもないのにさ、作品を人に渡してお金を受け取ってね、利益を上げようなんてとっても恥ずかしくて出来なかった」と笑う。
 地方の小都市ゆえ金持ちがそれほどいるわけではないから、比較的手に入りやすい版画に力を注いでいた。有名になった作家がたまにつくるブランド品の廉価版のような作品ではなく、その作家にとって重要な意味合いを持つと思えた場合のものに限った。
 しかし一種の印刷物でもある版画のオリジナリティーをわかってもらうのには時間がかかった。
 そんなとき上田さんは、生れてきた自分の娘に「り土」(りと)と名前をつける。リトグラフの「り土」だ。かわいらしくなるようにと「リ」は平仮名にした。「上田り土」。これを見た友人たちは「上田、本気だな」と版画にかける上田さんの心情を察したという。今彼女は父親の下で、画廊の仕事を手伝っている。
 仕事中のり土さんに、変わった名前をつけた父親に対して、恨んだことはなかったかと尋ねると、即座にきっぱり「それはないです」と笑顔で答えてくれた。「あれは犠牲者なんです」と上田さんもなんだか嬉しそうに笑っている。
 尊敬出来る家族を持つことが、こんなに美しいものかと取材中に不意をつかれてしまった。
 版画の価値をわかる人たちが潜在的にいた街ではあったが、当時はそれぞれが孤立したままだった。その人たちがポツポツと立ち寄るようになり、やがて毎日のように集まるようになってくれた。それがとっても楽しい場所だったと上田さんは振り返る。いつの間にか、展覧会の初日には大勢の人が来てくれるようになっていた。
 画商となって初めて売れたのはオノサトトシノブの版画だった。800円だと記憶している。次に売れたのはフォンタナで、それは上田さんが居ないときにたまたま盛岡に立ち寄った東京の画商が、懐から現金を出してあっという間に持って行ったという。
 上田さんにとって、オノサトトシノブは版画が重要な表現手段になった代表的な作家の一人だという。オノサトの自選展覧会を行ったり、奥さんと一緒に盛岡に来てもらったこともある。
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松田松雄 「風景(民―A)」 
162x162 油彩、キャンバス 1977

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松田松雄 「風景28−93」 
98x61 紙、墨 1993

 画廊スペースの半分ほどに、喫茶店が設けられている。表通りから見ると喫茶店の方が目立ち気軽に入店できる。大きな窓の向こうには木々に覆われた城跡があり、店内には絵がある。コーヒーの香りが漂う居心地のいい空間だ。10年ほど前、誘いを受けて前にいたところから移って開いた。
 盛岡で「一番目立つ」というこの場所で、知人の老舗の蕎麦屋の女将に相談し、一緒に喫茶店を開いてもらうことにした。
 喫茶店「舷」の名づけ親は、岩手出身の彫刻科・舟越保武だ。「舟越先生の看板をいただけば、そのもとでは悪いことができなくなるわけ」。
 舟越氏は病気をした後で右手が動かなかった。2ヶ月ぐらいかかって考え、震える左手で書いてくれたのが「舷」という一文字だった。墨汁がぽたぽた落ちていたが、そのまま頂いた。上田さんは親指で輪を作り、「こんな小さく書いてもらったんだけど、それを大きく引き伸ばして喫茶店の看板にした」と笑う。
 彫刻家が利き手がない左手で書いた小さな字は、大きく引き伸ばしてもびくともしなかった。「鉢巻して気合を入れて書けば強いのが書けるなんて、あれウソもいいとこですよ」。舟越保武は寡黙な人物で言葉より態度でしわりじわりと、そんなことを教えてくれたと上田さんはいう。
 舟越やオノサトをはじめとして、上田さんはつき合いの長い作家が多い。
 「若い作家と出会ったら最低20年はつき合いたいんです。あのね絵というのは20年たつと売れ始めるんです」
 20年という時間は現代ではいかにも長い。まるで木を育てているようだ。しかし売るためだけにその期間をつき合うとすれば、割りに合わない。相手は木ではないのだ。
 20年つき合う理由は、実は別の所にあるようだった。
 「作家の喜びとか苦しみとか、変貌して行く気配。その過程に触れたいじゃない。」
 そういって上田さんの顔はほころんだ。
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 画廊の顧客の中にも、同じ時代を生きるひとりの人間として、作品と出会って作家を知り、そういう部分を共に生きて行きたいという雰囲気がある。だから気の合いそうな作家は盛岡に呼んで、地元の愛好家や作家との交流をしてもらう。
 上田さんが思春期に松本竣介を知り、その後、靉光や瑛九を知り、深い所で自分なりの絆を持てたと感じたにも関わらず、それらの作家たちに、もう会えなくなっていたこと。そのときの残念さとさびしさとが、地元と作家との交流をさせている。
 銀座の貸し画廊の前を通りかかったとき、ガラス越しに気になる作品があった。知らない作家だったが、ヒョイと中に入って驚いた。作品はコラージュと銅板画で『文明嫌悪症』というタイトルの連作だった。お金も持ち合わせていないのに、値段も聞かずについ「これ全部ほしい」と画廊の人に告げた。
 奥から出てきた青年に、自分は無名の作家だが、いきなり入ってきて全部買うだなんて、そんな乱暴なことをいう人は嫌だ、といわれて、すっかりその作家が大好きになってしまう。それが相笠昌義だった。
 「恥ずかしかったあ。だいたい盛岡では自分が人にそんなことをいってたくせに、そんな無神経なことを喋ってしまって」と笑う。
 ほどなくして相笠氏が結婚したとき、お祝いの個展を行なうと、新婚旅行で盛岡にも来てくれた。
 そのころの作品は手放さずに今も保管している。昭和40年代中ごろのことだ。
 相笠氏と近い世代の作家は、作家として最初から関わった人が多い。
 「あまり有名ではないですけれども、亡くなってしまった松田松雄という方は、なんか、私の画廊と共に生きたという感じがしますね」
 『芸術生活』という雑誌の公募コンクール展で初めて会ったときから、人間として正面から付き合っていくだろうなと感じた人だった。
 松田松雄は美術学校などでの教育を受けておらず、ほぼ独学で絵を描いていた。絵に専念するため勤めていた会社を辞めたにも関わらず、コンクールへの出品は自分からでなく、知り合いに薦められてのことだった。
 激しく熱いものをかかえながらも、表面に出てくる人柄は、おだやかで控えめな人物が思い浮かぶ。それはそのまま上田さんへの人物像と重なってしまう所がある。
 松田松雄は自分のスタイルが出来上がってくると、それを解体して一生のうちにどこまで変貌して行けるかと、実験的に生きた男だったという。その何回かの解体と生成の現場に、上田さんは若いときから友人としても立ち会えた作家だった。そこまで自分を貫いて生き続けてきた作家たちへの敬意が、上田さんには常にある。
 無名の作家が売れ出すと、売れた作品と同じスタイルのものを、いつまでも制作し続けてしまうことがある。そうすると上田さんは疎遠になるが、松田氏のような作家とは、「どちらかがいなくなるまで」の付き合いになる。
 反対に気の合わない作家とは、作品だけの付き合いがしやすいのも、地方の良さだと話す。
 東京に月に10日くらいいて、おもに美術館などと取引をしていた時期がある。いわば「出稼ぎ」だ。儲けるというより「ささやかにね、それで画廊を維持する経費を払って」と上田さんはいう。
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松田松雄 「風景デッサン―12」 
162x162 油彩、キャンバス 1986

 岩手県立美術館にはMORIOKA第一画廊から入った形になっているものは非常に少なく、他の画廊から入れてもらったものが多い。別の美術館でも岩手の若い作家の場合は特にそうで、地方の画廊から入ったとなると、作家がその先へ成長しないのだという。若い作家の地方コンプレックスの解消には、東京の画廊が収めた形にするほうが効果が上がるというのだ。そんな所に地方の不利な立場がにじむが、地方だからこそやれることもまた多い。
 「東京辺りだったら、ぶっ叩かれるような遊びの展覧会も、盛岡だったら出来るわけさ。そんな展覧会のほうが、みんなで物事を考えやすいとか、見えやすいとかがあるしね」
 地元の国立大学の美術科から卒業生が出るころ、作家を目指す学生たちは、地元に残ってもいいのか、やはりニューヨーク辺りに行くべきなのかと、自分のこれからに悩むことになる。そんなとき行ったのが、日本ではあまり知られてはいないけれど、海外で自分の居場所を見つけて、美術の仕事で生きている作家たちの展覧会だ。
 「東京に行っても、ニューヨークに行っても、ヨーロッパに行っても、盛岡に居ても、みんなね、同時代の地球の一角にそれぞれ居ると、それぞれの場所にそれぞれ存在して、ものを考え制作するというごく当たり前のことを、一般に認識してもらえることになればいいなあ、という風に思って…。そんな風なことです」
 売れるにこしたことはないが、どのくらい売れたかよりも、どういう人が選んでくれたかの方が重要だと、若い作家たちにはいっている。
 「私ね、下手な絵が嫌いなんです。でもね、うまさが表に見えで来きてしまう絵は、もっと嫌いなんです」
 そういうわれて店内を見渡すと、多様なものを見せるという、画廊の再出発の時の考えを反映してか、絵はもちろんのこと、オブジェや版画や、さまざまな作品が展示してある。それなのに、ばらついた感じは受けない。一見重苦しい作品のなかにも、軽やかさがあったりするものが多い。この統一感は何処から来るのだろうか。
 穏やかな印象の上田さんのなかには、大きな鬼がどっしりと、動かずにあぐらをかいて座っていて、その鬼が画廊の仕事だけでなく、立ち居振る舞いなど、上田さんの意識していないところまで、すべてを律している気がする。
 彫刻家で詩人の高村光太郎は、63歳のときから7年間、岩手の山裾の粗末な小屋にひとり暮らした。その生活の中から生れた詩に「岩手の人」という一編がある。

 岩手の人眼静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ強固に張りて、
 口方形なり。
 岩手の人沈深牛の如し。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 ついにその成すべきを成す。
 斧をふるって巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニッポンの脊骨岩手の地に、
 未見の運命を坦ふ牛の如き魂の造形を。

 上田さんの鬼は、この詩の中のどこかにいる気がした。それは愚直でさえある鬼だ。宮沢賢治だったら「デクノボー」と呼んだのかもしれない。
 MORIOKA第一画廊の入り口に近い壁に、画廊と共に生きたような気がするという、今年亡くなった松田松雄の小さな絵が2枚かかっている。作品としては発表されていない絵だ。松田氏が上田さんの家に滞在していたときに描いたものだ。
 抽象画とか具像画とかの形を超えた、「精神の解放区」を目指し、変貌を続けた作家の2枚の小さな絵は、心に映ったものがそのまま素直に出たような、明るい色彩の盛岡の絵だった。今は上田さんの宝物になっている。

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MORIOKA第一画廊

盛岡市内丸2−10−1TVI 1階
 電話 019−622−7935

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*アートヴィレッジ発行『てんぴょう 010』(2002年1月25日発行)より再録


*画廊亭主敬白
去る6月25日、岩手県盛岡市で現代美術一筋に50年を超えるギャラリー活動を展開されたMORIOKA第一画廊の上田浩司さんが亡くなられました。
追悼の心をこめて雑誌『てんぴょう』第10号(2002年1月25日発行)に掲載された記事を発行人の許可を得て(ご遺族の了解も)全文再録させていただきました。
私たちが美術業界に入って以来、ずっと尊敬し、教えを受けてきた知る人ぞ知る大画商でした。虎ノ門パストラルなど一緒に仕事をさせていただきご指導を受けました。
いずれ盛岡の人たちによって上田さんとMORIOKA第一画廊の軌跡がまとめられることでしょう。
9月7日(水)17時より、MORIOKA第一画廊でお別れ会が開催されます。亭主と社長も刷り師の石田了一さんたちと参加します。
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松本竣介
《作品》
紙にインク、墨
イメージサイズ:30.5x22.3cm
シートサイズ:32.7x24.0cm

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吉増剛造、松本竣介、そして戸張孤雁

現在、「ときの忘れもの」で開催中のルイーズ・ニーヴェルソン展ですが、1970年後半に名古屋のアメリカン文化センターという所で個展がありました。
確か、彫刻家・篠田守男氏のニーヴェルソンについての講演がありました。当時の館長の方が美術に造詣が深く、アメリカの現代作家の紹介をされていました・・・。

名古屋のSさんのメールより>

展覧会はやってみるもんだ、といまさらながらの述懐です。
ただいま開催中の「ルイーズ・ニーヴェルスン展」、来廊者は日に一名乃至数名と例によって愚痴ったら、その効あってか少し来る人も増えました。
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来る人のほとんどが作家を知りません。
「黒い箱の・・・」と言うと、「ああ、あの人」という反応が少し。
亭主はメアリー・カサット(Mary Stevenson Cassatt, 1844〜1926年)、ジョージア・オキーフ(Georgia O'Keeffe 、1887〜1986年)と並び、アメリカを代表する(20世紀を代表する)女性作家と信じておりますが、いかんせん見る機会がなければ若い世代には伝わらない。
因みにGoogleで検索してみると僅か4800件、オキーフの64,000件と比べても格段に少ない。
国内でニーヴェルスンを所蔵する美術館は、川村美術館、原美術館、新潟市美術館、富山県立近代美術館、愛知県美術館、福岡市美術館など、そこそこあるのですが・・・・・・

偶然ですが、ロンドンのPACE Galleryでニーヴェルスンの1950年代中頃から亡くなる88年までの活動に焦点をあてた展覧会が開かれています。ぜひネットでご覧になってください。画像が立体を中心に43点も掲載されています。さすがです。
亭主が「いい、いい」というものだから、脅迫に負けて購入者もぼつぼつ出現(!)。おかげさまで干天の慈雨のごとき喜びを社長は味わっております。
会期は来週末までです。ぜひお出かけください。

さて竹橋の東京国立近代美術館声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」展が開催されています。

20160607吉増剛造展20160607吉増剛造展 裏
「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」
会期:2016年6月7日[火]〜2016年8月7日[日]
会場:東京国立近代美術館
   〒102-8322 千代田区北の丸公園3-1
時間:10:00〜17:00 (金曜日は20:00まで) ※入館は閉館の30分前まで
休館:月曜(7/18は開館)、7/19(火)

ナショナル・ミュージアムで詩人の個展、画期的な展覧会です。
絵画や彫刻ではなく「詩」をテーマに何を展示するのか、難しい課題ですが、吉増先生だから可能になったともいえるでしょう。企画者の保坂健二朗(同館主任研究員)さんへのインタビューをぜひお読みください。

国立の美術館には、ある時代において先進的な展覧会を行う使命があります。そのミッションに吉増さんは合致する人物だった」(同インタビューより)

他の数多の美術館が予算削減、議会向けの入場者の見込める展覧会の開催に右往左往する現状から考えれば、まことにうらやましい「国立」ならではのスタンスですが、最近の竹橋、常設も含め大健闘しています。
20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_01
社長とオープニングに行ってまいりました。

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_02
展覧会は8月7日まで。

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_04
植田実先生と待ち合わせ。

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_24
アラーキーは最前列で吉増先生にエールを送っていました。

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_28吉増剛造ご夫妻
吉増先生にはジョナス・メカス展の折にギャラリー・トークをお願いしました。

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_30柳澤紀子さんと吉増先生

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_33おびただしい日記、メモ、原稿などが真っ暗な空間に展示されています。

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_32会場を仕切るのは黒い布。

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_31文字が打ち込まれた銅板や、カセットテープなど「詩人」という言葉にはいりきらない多くのものが展示されています。

親交のあるジョナス・メカスさんの映画上映もあります。
「リトアニアへの旅の追憶」(監督/ジョナス・メカス、日本語字幕付、16ミリフィルムによる上映)
2016年7月16日(土)14:00-16:00(開場;13:30/吉増剛造によるアフタートークあり)
2016年7月17日(日)14:00-15:30(開場;13:30)
会場:東京国立近代美術館 地下1階講堂
定員:先着140名
要観覧券、要整理券(整理券は当日10:00より1階受付で配布)
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吉増展と同時開催の「MOMATコレクション」もぜひお見逃しなく。
20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_21
東近美は昨年、松本竣介の作品を11点収蔵したのですが、以前から所蔵している作品とあわせ、3階6室と2階ギャラリー4で展示しています。竣介ファン必見です。

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_19
松本竣介の素描
植田実先生には生誕100年展のおりに全会場をまわっていただき「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」を全14回にわたりブログに連載していただきました。

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_17
駒井哲郎の銅版画

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_14
亭主大興奮!!!
戸張孤雁の彫刻が展示されています。

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_11
戸張孤雁「唱える女」(c.1914年)

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_12
戸張孤雁「唱える女」

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_10
戸張孤雁「煌めく嫉妬」(1924年)

20160606 東京国立近代美術館「吉増剛造展」レセプション_06
戸張孤雁「水面を眺める女」(1914年)

吉増剛造、松本竣介、駒井哲郎、戸張孤雁らのベストの作品を一度に鑑賞、おなか一杯の一日でありました。

●今日のお勧めは松本竣介の素描です。
04_ShunsukeMATSUMOTO
松本竣介《兵士》
鉛筆、紙
イメージサイズ:14.0×18.0cm
シートサイズ:14.5×19.0cm

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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

松本竣介の素描「アートフェア東京」出品作品より

5月12日(木)〜5月14日(土)に有楽町駅前の東京国際フォーラムにて「アートフェア東京2016」が開催され、内外157ギャラリーが参加します。
昨年に続き、ときの忘れものも出展いたします。

●出品作品を順次ご紹介していますが、本日は松本竣介の素描作品です。

01_ShunsukeMATSUMOTO出品No.12)
松本竣介
《人物(W)》
1942年
鉛筆、紙
イメージサイズ:36.5×26.0cm
シートサイズ:36.5×26.0cm
『松本竣介素描 1912〜1948』P.32掲載
(1977年、綜合工房発行)


02_ShunsukeMATSUMOTO出品No.13)
松本竣介
《都会(4)》
インク、チョーク、紙
イメージサイズ:20.0×27.5cm
シートサイズ:20.0×27.5cm
『松本竣介素描 1912〜1948』P.52掲載
(1977年、綜合工房発行)


03_ShunsukeMATSUMOTO出品No.14)
松本竣介
《自画像》
鉛筆、紙
1943年頃
イメージサイズ:31.0×22.5cm
シートサイズ:31.0×22.5cm

04_ShunsukeMATSUMOTO出品No.15)
松本竣介
《兵士》
鉛筆、紙
イメージサイズ:14.0×18.0cm
シートサイズ:14.5×19.0cm


05_ShunsukeMATSUMOTO出品No.16)
松本竣介
《風景(4)》
インク、紙
イメージサイズ:9.0×12.0cm
シートサイズ:12.0×16.0cm
スタンプ印あり


06_ShunsukeMATSUMOTO出品No.17)
松本竣介
《人物(W)》
ペン、水彩、紙
イメージサイズ:14.5×9.5cm
シートサイズ:14.5×9.5cm
スタンプ印あり


●松本竣介の画集、カタログのご紹介
『松本竣介素描 1912〜1948』
松本竣介素描 1912〜1948
限定1,500部
1977年 綜合工房 発行
147ページ
函サイズ:35.0x27.7cm
価格:20,000円(税別)


目次:
・図版
・図版目録
・年譜(朝日晃編)


『松本竣介油彩 1912〜1948』
松本竣介油彩 1912〜1948
限定1,200部
1978年 綜合工房 発行
162ページ
函サイズ:35.0x27.7cm
価格:35,000円(税別)


目次:
・図版
・松本竣介論 静かで透明な知性と造型の人 土方定一
・作品総図録
・年譜(朝日晃編)


『松本竣介手帖』全6冊
『松本竣介手帖』(全6冊)
1985年 綜合工房 発行
函サイズ:17.0x12.5x5.1cm
価格:25,000円(税別)


内容:全6冊
1)『TATEMONO 建物』 16.1x11.9cm 90ページ
2)『ONNA 女』 16.1x11.9cm 58ページ
3)『TEASI 手足』 16.1x11.9cm 52ページ
4)『KOZU 構図』 16.1x11.9cm 54ページ
5)『ZATU 雑・志賀高原』 16.1x11.9cm 90ページ
6)別冊『エッセイ・評論』 16.1x11.9cm 60ページ
  目次:人間愛の画家(中野孝次)、松本竣介における線の内質(朝日晃)、年譜・遺作集一覧(朝日晃編)

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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。
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ロゴ
「アートフェア東京2016」
一般公開:5月12日(木)14:00〜21:00
5月13日(金)12:00〜21:00
5月14日(土)10:30〜17:00
会場:東京国際フォーラム
   〒100-0005 東京都千代田区丸の内3-5-1

ときの忘れものブース:N16
出品作品:瑛九松本竣介瀧口修造野田英夫関根伸夫
ゴッタルド・セガンティーニ、ハインリッヒ・フォーゲラー恩地孝四郎ピエト・モンドリアンセルジュ・ポリアコフオノサト・トシノブ

ヨコハマトリエンナーレ開幕

横浜で3年に一度行われる現代アートの国際展の5回目となる「ヨコハマトリエンナーレ2014」が始まりました。
20140801ヨコハマトリエンナーレ

ヨコハマトリエンナーレ 2014
「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」

会期:2014年8月1日[金]―11月3日[月・祝]
主会場:横浜美術館、新港ピア(新港ふ頭展示施設)
アーティスティック・ディレクター:森村泰昌(美術家)

「忘却巡り」の旅に出る
 私達はなにかたいせつな忘れものをしてはいないだろうか。気がつかないまま先に進んでしまったり、ホントは気がついているのに、知らないふりをして立ち去ったり。
 そういう「忘却」の領域に敏感に反応する芸術表現がある。表現者がいる。
 ヨコハマトリエンナーレ2014は、人生のうっかりした忘れもの、人類の恒常的な忘れもの、現代という時代の特殊な忘れものを思い出すための、いわば「忘却巡り」の旅である。
 さまよい、とまどい、はっと感じとり、いろいろ想像し、そしてしばし立ち止まって考える。序章にはじまり、全部で11の挿話からなる、そんな心の漂流記。
 いざ、「忘却の海」へ。

ヨコハマ」トリエンナーレ2014
アーティスティック・ディレクター
森村泰昌

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ヨコハマトリエンナーレ2014」のアーティスティック・ディレクター森村泰昌さんの短いメッセージの中に、「忘れもの」が四遍も出てくる。さらに昨年ときの忘れもので小回顧展を開いた松本竣介殿敷侃が選ばれている。まるでわが「ときの忘れもの」のためにあるようなトリエンナーレ(笑!) 
7月31日のオープニングに足を運びました。

参加作家・団体:バス・ヤン・アデル、スタンリー・ブラウン、エリック・ボードレール、カルメロ・ベルメホ、アリギエロ・ボエッティ、マルセル・ブロータース、ジョン・ケージ、ヴィヤ・セルミンス、ジョゼフ・コーネル、ヴィム・デルボア、福岡アジア美術トリエンナーレ、福岡道雄、ドラ・ガルシア、イザ・ゲンツケン、ギムホンソック、ジャック・ゴールドスタイン、フェリックス・ゴンザレス=トレス、イライアス・ハンセン、日埜直彦、釜ヶ崎芸術大学、笠原恵実子、葛西絵里香、エドワード&ナンシー・キーンホルツ、キム・ヨンイク、木村浩、マイケル・ランディ、ルネ・マグリット、カジミール・マレーヴィチ、アグネス・マーティン、松井智惠、松本竣介、松澤宥、アナ・メンディエータ、三嶋安住+三嶋りつ惠、Moe Nai Ko To Ba、毛利悠子、ピエール・モリニエ、メルヴィン・モティ、村上友晴、中平卓馬、奈良原一高、大竹伸朗、大谷芳久コレクション、ブリンキー・パレルモ、マイケル・ラコウィッツ、タリン・サイモン、坂上チユキ、グレゴール・シュナイダー、ジョシュ・スミス、サイモン・スターリング、アリーナ・シャポツニコフ、高山明、殿敷侃、トヨダヒトシ、土田ヒロミ、ヤン・ヴォー、和田昌宏、アンディ・ウォーホル、イアン・ウィルソン、やなぎみわ、吉村益信、アクラム・ザタリ、張恩利(ザン・エンリ)、他

ヴェニスビエンナーレはじめ、大規模な国際展として開かれるトリエンナーレやビエンナーレはそのときの最先端の表現を紹介するのが基本になっていますが、今回の森村さんは違った。
「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」という難しいテーマ(?)を掲げ、「今回はいわゆる旬の作家を紹介するショーケースではなく、我々が大切だと思っているテーマを反映するビビッドな作家たちを選んでいる。生と死の関係を考えることは忘却というテーマを考える上ですごく重要。若い作家も、既に亡くなった作家も、特に意識せず選んだ」というラインナップが上掲の参加作家・団体です。
〜〜
とりあえず、見た順に面白そうな作品(撮影許可があるもの)を掲載します。
CIMG5785久しぶりの横浜美術館

CIMG5786招待状。

CIMG5787ヴィム・デルボア「低床トレーラー」

CIMG5788内覧会受付

CIMG5789たくさんの方にお会いしましたが、代表して深野一朗さん

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CIMG5791

CIMG5792ジョン・ケージの楽譜

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CIMG5794村上友晴

CIMG5796木村浩

CIMG5798フェリックス・ゴンザレス=トレス(1996年没)の色紙を積み上げる作品。一葉ずつ人の手に渡り共有されることで初めて成立する作品で実にわかりやすく、たくさんの人たちが手に手に抱えていました。

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CIMG5804ドラ・ガルシアの作品。
焚書をテーマにしたレイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』を鏡文字で“複製”した本がうずたかく積んでありましたが、これは持ち去り厳禁(読むのは可)。

CIMG5806薄暗い箱(撮影禁止)の中には松本竣介から疎開先の夫人と子息に宛てた書簡が展示してあります。恐らくほとんどの人が気づかなかったのでは・・・・・・

CIMG5807大谷芳久コレクション

CIMG5808これだけのキャプションでは内容が伝わるかしら・・・

CIMG5809 Moe Nai Ko To Baの“世界でただ一冊の本”はずいぶんと人気でした。レイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』へのオマージュとして制作されたもの。スターリン政権下に口伝で残されたアンナ・アフマートヴァの詩など7本のテキスト、ナチスの爆撃を避けて空っぽになったエルミタージュ美術館を描いた素描、志賀理江子の写真等が収録されています。造本のファンには必見。

CIMG5810

CIMG5811奈良原一高の写真作品。「王国」シリーズより、トラピスト男子修道院を写した《沈黙の園》、女子刑務所に取材した《壁の中》が展示されていました。奈良原さんの写真作品はときの忘れものでも11月に開催予定の「瀧口修造とマルセル・デュシャン展」に出品予定です。

CIMG5813福岡道雄の1966年の彫刻作品《飛ばねばよかった》

CIMG5814 アリギエロ・ボエッティ(1940〜1994年没)の平面作品。
1960年代にイタリアで生まれた先鋭的な美術運動「アルテ・ポーヴェラ」に参画。伝統的な美術素材を捨て、工業化社会からこぼれ落ちる廃棄物等を素材として取り上げた。

CIMG5816

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CIMG5819サイモン・スターリング
アイルランドの詩人W.B.イェーツが日本の能に触発されて書いた詩劇『鷹の井戸』の1916年初演当時の写真から、面や衣装を再現した作品。
荒涼たる絶海の孤島を舞台に、ケルト神話の英雄クーフリンと老人、井戸を守る鷹の精による不老不死の水をめぐる物語で、ロンドンでの初演で鷹の精を踊った伊藤道郎は一躍社交界の寵児となった。

CIMG5820

CIMG5822Temporary Foundation
《法と星座・Turn Coat / Turn Court》は、林剛+中塚裕子が1983年から1985年に「京都アンデパンダン展」で発表した「Court」シリーズにおける「視ること・話すこと」の位相を変え「身体・領土・健康・安全」へと再配置する試み。

CIMG5823

CIMG5825鏡に写る亭主

CIMG5827第六話「おそるべき子供たちの独り芝居」はジョセフ・コーネルからアンディ・ウォーホルまで7作家の作品。

CIMG5828懐かしきコーネルの箱。

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CIMG5831マイケル・ランディの巨大な「アート・ビン」
300㎥の大きさに及ぶ美術のためのゴミ箱をエントランスホールに設置、作家たちが失敗作や過去の作品を持ち寄り捨てる。
ヨコトリに選ばれなかった作家たちがリベンジとして多数参加するらしい(?)。

CIMG5832左上から自らの作品を投げ捨てる作家。

CIMG5835グレゴール・シュナイダーのインスタレーション

CIMG583616歳の時に地元のギャラリーで初個展を開催。同年より、壁の前に壁を建て、部屋の中に部屋を設けて自宅を改造する作品《家 u r》に着手。同作はその後現在に至るまで(そしておそらくは生涯)続けられる作家の代表作。

CIMG5837

以上で横浜美術館は一巡して、次会場へはバスで移動。
CIMG5840新港ピア会場

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CIMG5843安斎重男さん(中央)

CIMG5847
亭主の一番のお目当てはこれ。
殿敷侃の「お好み焼き」

CIMG5848


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CIMG5851笠原恵実子
10年間に渡り世界各地の教会の献金箱を撮影した写真と、そのフィールドリサーチを元に自ら創り出した彫刻作品で構成されるインスタレーション「オファリング」。

CIMG5852

CIMG5853イライアス・ハンセンのフラスコなど実験器具のような手製のガラスの器に、木や金属、ビニールなど異素材の既製品を組み合わせたオブジェ

CIMG5855

CIMG5856

以上、大急ぎで二会場を回ったので見落としたものも多数あります。
画像はありませんが、とても感銘を受けたのが、メルヴィン・モティ(オランダ、1977年生まれ)の映像作品《ノー・ショー No Show》でした。
歴史に埋没した物語、隠匿された事実の掘り起しを創作の基盤とし、映像をはじめ、素描、オブジェ、本等多様な形で作品化している作家ですが、第二次世界大戦中に戦火を恐れて収蔵品を館外へ避難させた空っぽのエルミタージュ美術館で、ギャラリーツアーを行い続けた、ある男性職員の話を再現したもの。柔らかな光が差し込む静謐な画面に揚々と熱心に作品解説する声が響き渡り、窓の光がだんだんと消えていく画面の美しさに映像表現の可能性を強く感じました。
作家のインタビューをぜひお読みください。

ついでに「エルミタージュの猫」というサイトものぞいてください。

このごろアマゾンばっかりでリアル書店に行かなくなってしまい、反省しきりでしたが、久しぶりに本屋でまとめ買いした中に、ひのまどか著『戦火のシンフォニー レニングラード封鎖345日目の真実がありました。
第二次世界大戦の独ソ戦で悲惨を極めたのが900日におよぶレニングラード封鎖でした。100万人を超す死者、人肉まで食う飢餓の極限状況の中、レニングラードに残った音楽家たちがショスタコーヴィチ作曲の〈交響曲7番〉を初演するまでの日々を描いたノンフィクションです。
偶然とはいえ、ヨコトリでエルミタージュ美術館の映像を見、同じレニングラードのオーケストラの話を読むことになり、歴史というのは僅か70年で忘れ去られていく可能性があることに思い至り粛然としました。

また話が横道にそれてしまいました。
亭主の私見によれば、今回のヨコトリ、「美術史」がキーワード。
それにしてはキャプションが少しそっけなかった。
特に、わが松本竣介と殿敷侃の出品作品については、あれでは一般の方々はなんのことかわからなかったのではないでしょうか。

二人の出品作について少し補足します。

■松本竣介の家族あて手紙
松本竣介(ヨコハマトリエンナーレ2014の出品作家サイトより引用)
日本の近代美術を代表する画家の一人。美術協会の新設に寄与するなど、戦後の画壇を背負って立つ人物として嘱望されながらも早逝した。本展では、終戦前後、疎開した妻と息子宛に綴った書簡を通じて、芸術家がどのような姿勢で世の中を見つめ、創造に臨んできたか、時代を経ても変わることのない精神のあり様を紹介する。
『松本竣介展』手紙
マケタ、マケタ、ニホンワアメリカニマケタ。
オトコノコワ、ミナ メニナミダヲタメ、ゲンコツヲニギツテ、ザンネンダ、ザンネンダ、ト、イツテヰルヨ。
カンボーモ、ソーダロー。
オトーサマワ、カンボークライノトキカラ、グンジンニナツテ、アメリカヲマカシテヤロート、オモツテヰタケレド、グンジンニナレナカツタ。
モウニホンジンワ、グンジンニワナレナイノダヨ。
ドーシタラ、、イイダローカシラ、リツパナヒトニナルコト。
リツパニナルトワ、ドンナトコロデモ、イケナイコトヲシナイコト。
カンボー、リツパナヒトニナレ。
九月四日    オトーサマカラ
カンヘ
NHKプラネット東北・NHKプロモーション 発行
『生誕100年 松本竣介展』図録(2012年)より転載

東京大空襲のあった1945年3月の下旬、長女・洋子の出産を控えた妻・禎子と息子の莞は、松本家の郷里である島根県松江市に疎開する。東京に残った竣介は、家族が戻ってくるまでの約1年9ヵ月の間、頻繁に家族にあてて手紙を送っている。時に絵も添えられた手紙には、戦中から戦後にかけての東京での暮らしぶりが詳細に記されていると同時に、厳しい時代に生きる画家としての心境もしたためられている。また莞にあてたカタカナ文字の文面からは、我が子の成長を遠くで見守る父の強い思いが伝わってくる。(『生誕100年 松本竣介展』図録より)

ときの忘れもの『松本竣介展』カタログ
『松本竣介展』図録 表紙『松本竣介展』図録
2012年12月14日 ときの忘れもの 発行
15ページ
25.6x18.1cm(B5判)
執筆:植田実
図版:30点掲載
価格:800円(税別)
※送料別途250円

2012年12月〜2013年1月に開催した「松本竣介展」のカタログです。
ときの忘れものでは松本竣介の希少画集、カタログも頒布しています。
ブログでは、植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」を連載しましたので、こちらもぜひお読みください。
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■殿敷侃のお好み焼とテレビ
『殿敷侃 逆流する現実』お好み焼
殿敷侃
山口―日本海―二位ノ浜、お好み焼[重量約2トン]
Photo by Yomiuri Shinbun

『殿敷侃 逆流する現実』テレビ
殿敷侃
BARRICADE TELEVISION ←→ YAMAGUCHI
Found Objects
60 TV sets
Gallery Nakano, Yamaguchi
Nov.20 1989
Photo by Y. Yamada

SOS PLAN 発行『殿敷侃 逆流する現実』(1990年)より転載

逆流する現実 殿敷侃 REVERSING REALITY TADASHI TONOSHIKI
原爆投下直後の広島市内で二時被爆し、ガンと闘いながらも50歳で夭逝した広島出身の美術家・殿敷侃(1942-1992)の作品集。
1987年に山口県二位ノ浜の海外に打ち寄せられたゴミを焼いて固めた作品「お好み焼き」をはじめ、80年代に行われた殿敷の前衛的なインスタレーションを豊富な写真でその軌跡を辿ろうとする内容。

ときの忘れもの『殿敷侃 遺作展』カタログ
Tonoshiki表紙600『殿敷侃 遺作展』カタログ
2013年
ときの忘れもの 発行
15ページ
25.6x18.1cm
執筆:濱本聰
図版:21点
価格:800円(税別)
※送料別途250円

2013年8月に開催した「殿敷侃 遺作展」のカタログです。
広島で生まれた殿敷侃は、被爆体験をもとにヒロシマにまつわる遺品や記憶を細密極まる点描で描き、後に古タイヤなどの廃品で会場を埋めつくすというインスタレーションで現代社会の不条理に対して批判的・挑発的なメッセージを発信し、1992年50歳で亡くなりました。
このブログでは「殿敷侃の遺したもの」を記録するため「久保エディション第4回〜殿敷侃」はじめ、濱本聰(下関市立美術館)さん、山田博規さん(広島県はつかいち美術ギャラリー)、友利香さん、土屋公雄さん、西田考作さんらに寄稿(再録も含む)していただきました。
殿敷侃の文献資料はコチラで紹介しています。

ヨコハマトリエンナーレ2014に殿敷侃と松本竣介が選ばれました

ちょっと嬉しいニュースです。

横浜トリエンナーレは、横浜で3年に一度行われる現代アートの国際展。
2001年にスタートし、今年で5回目となる「ヨコハマトリエンナーレ2014」が、アーティスティック・ディレクターに森村泰昌さんを迎え、2014年8月1日[金]〜11月3日[月・祝]まで開催されます。
主会場は、横浜美術館、新港ピア(新港ふ頭展示施設)。

先日、逢坂恵理子さん(横浜トリエンナーレ組織委員会委員長、横浜美術館館長)、森村泰昌さんらが記者発表して参加作家の第二弾を発表しましたが、昨年ときの忘れもので小回顧展を開いた松本竣介殿敷侃が選ばれました。

二人とも物故作家ですが(詳しくは同トリエンナーレのサイトをお読みください)、森村泰昌さんによれば「今回はいわゆる旬の作家を紹介するショーケースではなく、我々が大切だと思っているテーマを反映するビビッドな作家たちを選んでいる。生と死の関係を考えることは忘却というテーマを考える上ですごく重要。若い作家も、既に亡くなった作家も、特に意識せず選んだ」とのこと。
他にもアンディ・ウォーホル、ピエール・モリニエ、ジョゼフ・コーネル、吉村益信らも物故ですが選ばれました。
旬の作家には縁のないときの忘れものにとっては思いがけない朗報でした。

twitterで樋口ヒロユキさんが<広島の美術作家、故・殿敷侃さんが、横浜トリエンナーレに出品することが正式に決まりました。311以降の日本に生きる私たちにとって、とても大切な作家だと思います。>とつぶやいていましたが、これを機会に殿敷さんのことを知っていただければと思います。

●『殿敷侃 遺作展』カタログのご案内
Tonoshiki表紙600『殿敷侃 遺作展』カタログ
2013年
ときの忘れもの 発行
15ページ
25.6x18.1cm
執筆:濱本聰
図版:21点
価格:823円(税込)
※送料別途250円

2013年8月に開催した「殿敷侃 遺作展」のカタログです。
広島で生まれた殿敷侃は、被爆体験をもとにヒロシマにまつわる遺品や記憶を細密極まる点描で描き、後に古タイヤなどの廃品で会場を埋めつくすというインスタレーションで現代社会の不条理に対して批判的・挑発的なメッセージを発信し、1992年50歳で亡くなりました。
このブログでは「殿敷侃の遺したもの」を記録するため「久保エディション第4回〜殿敷侃」はじめ、濱本聰(下関市立美術館)さん、山田博規さん(広島県はつかいち美術ギャラリー)、友利香さん、土屋公雄さん、西田考作さんらに寄稿(再録も含む)していただきました。
殿敷侃の文献資料はコチラで紹介しています。
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松本竣介(ヨコハマトリエンナーレ2014の出品作家サイトより引用)
日本の近代美術を代表する画家の一人。美術協会の新設に寄与するなど、戦後の画壇を背負って立つ人物として嘱望されながらも早逝した。本展では、終戦前後、疎開した妻と息子宛に綴った書簡を通じて、芸術家がどのような姿勢で世の中を見つめ、創造に臨んできたか、時代を経ても変わることのない精神のあり様を紹介する。
●『松本竣介展』カタログのご案内
『松本竣介展』図録 表紙『松本竣介展』図録
2012年12月14日 ときの忘れもの 発行
15ページ
25.6x18.1cm(B5判)
執筆:植田実
図版:30点掲載
価格:823円(税込)
※送料別途250円

2012年12月〜2013年1月に開催した「松本竣介展」のカタログです。
殿敷侃と違いあらためて紹介するまでもなく日本の近代美術史を代表する作家ですが、ときの忘れものでは松本竣介の希少画集、カタログを頒布しています。
またブログでは、植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」を連載しましたので、こちらもぜひお読みください。
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル〜氏コレクションより」を開催しています(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

本日のウォーホル語録

<一緒に仕事する仲間に何を望むかと言えば、ぼくのやろうとしてることを、いくぶん誤解してくれることだ。根本的な誤解ではないよ。あちこち、小さな誤解があるといいと思ってる。そこから何がしたいかを、誰かが完全には理解しなかったり、彼らにこうしてくれ、と言ったことを、ちゃんとよく聞いていなかったりとか、テープの録音状態がまずかったりとか、彼らの気まぐれの方が勝ってしまったときは、結局、ぼくのオリジナル・アイディアより、そっちの方から出てきてしまったものの方が、ずっと好きになってしまう。そうして、あなたのアイディアをまちがって受けとってしまって、仕上げてしまった作品を、また別の人にわたして、(その上に)あなたの最初のアイディアをやるように、頼むのも良いだろう。もし人々が、まったくあなたを誤解することなしに、あなたが言った通りに、寸分の違いもなくやるとしたら、彼らはただあなたのアイディアの送信器にすぎなくて、あなたはじきにうんざりしてしまうだろう。しかし、もしあなたが、あなたのことを誤解する人たちと一緒に仕事をすれば、送信器(トランスミッション)のかわりに変換器(トランス・ミューテイション)を得ることになって、長くやっていこうと思ったら、はるかに面白いことになる。ぼくのために働いてくれる人は、ものごとに自分なりの考えを持ってる人がいい。それなら彼らはぼくを退屈させないから。まあ、互いに友だちでいられるくらい、気持ちの通じる人がいいけど。
―アンディ・ウォーホル>


4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催していますが、亭主が企画し1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介します。

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 14(最終回)

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 14(最終回)

とりあえず一区切り
植田実


 昨年4月、画家の誕生月にあわせて始まった「生誕100年 松本竣介展」の巡回第1会場・岩手県立美術館に、綿貫不二夫さんに襟首をつかまえられるように連れて行かれた日の、それ以前は私はこの画家についてどれほど知っていたのか、まったく思い出せない。
 その名前と、せいぜい10点前後ぐらいの作品が記憶にあったのか。いや、そんな知識以上に、すでに評価の定まった、完成した正統派の画家だから関心の手がかりが見つからない、同世代ならむしろ鶴岡政男や寺田政明や桂ゆきみたいなヘンな画家にならまだ私が言いたい余地は残っているかも、みたいな気持ちだったのではないか。
 ただ綿貫さんからは「竣介の歩いた都市(街)について」というテーマをもらったのでその範囲内でなら何か書けるかも知れないと思った。思ったがその前段階として作品を見ていかなければならない。結局、時代を追って主に建築と都市(街)を描いた作品を自分なりに読み解いてみるのが精一杯だったが、多くの作品にはすでに定説ともいうべき、ちゃんとした解読がなされており、時代との関係における画家像も形成されているようで、そのあたりはとりあえず避けて進みながら最晩年の作品まで辿りついたものの、彼の営為全体から端的に感じられる若々しさと豊かさとをうまく表現することはできなかった。だが時代ごとの作品に、松本竣介という人の思いがけない奥行きが次々と見えてきた驚きは少しは書きとめておいたつもりだ。
 また、岩手をはじめ、神奈川、宮城、島根、東京の各美術館における巡回展の追っかけのなかで、同じ作品がそれぞれの展示空間とその構成次第でいかに多様な変化を見せるものかを初めて知ったのは幸か不幸か。もう二度とない体験だろう。
 最晩年の作品にまで言及してしまったし、そのあと竣介の書いたもの、編集したものについてもひと通り紹介してしまったので、もう終るしかない。このあとは資料を読んだり関係者の方々のお話をきく機会を得たいと思っているが、それは少し先のことになるだろうし、その前にこれまで書いた分を読み返して何らかの始末をつけねばならぬ。私にとっては画家はもちろん建築家でさえ、ひとりの作家について1年以上書き続けたのは初めてのことで、しかも自分は研究者じゃないんだからという自覚での文体維持はまるでうまくいかなかった。あらためて綿貫さんからもらった、画家の歩いた都市(街)についてというテーマを思い浮かべながら、松本竣介を再トレースしてみたい。ということで、この未完の連載を読んで下さった方々にお礼を申し上げ、一区切りとさせていただきます。
(2013.7.10 うえだまこと)

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子さんのエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・土渕信彦さんのエッセイ「瀧口修造の箱舟」は毎月5日の更新です。
 ・君島彩子さんのエッセイ「墨と仏像と私」は毎月8日の更新です。
 ・植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・鳥取絹子さんのエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は毎月16日の更新です。
 ・井桁裕子さんのエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
  バックナンバーはコチラです。
 ・小林美香さんの新連載「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新です。
 ・新連載「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月28日の更新です。
 ・浜田宏司さんのエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
 ・荒井由泰さんのエッセイ「マイコレクション物語」は終了しました。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。

今までのバックナンバーはコチラをクリックしてください。

◆ときの忘れものは、2013年7月10日(水)〜7月18日(木)「7月の画廊コレクション〜ドローイング展」を開催します(*日曜・月曜・祝日休廊
短い会期で、7月14日・15日は休廊ですのでご注意ください。
ドローイング展魔方陣
若林奮、大宮政郎、小野隆生、松本竣介、蛯名優子、O Jun、舟越直木、二木直巳、辰野登恵子

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 13

生きているTATEMONO 松本竣介を読む 13

「デッサン」と「エッセエ」(承前)
植田実


 松本竣介編集の『雜記帳』が、その寄稿者たちに投げた「エッセエ」問題は、さまざまな波紋として見えている。里見勝蔵の「エツセのエツセ」(第2号)では自分は大作の好きな画家にたいして小品を描くのが好きで、文学でもエッセエを愛好するとして「百鬼園隨筆集」を例に挙げているし、田中千代松の「エッセエに就てのエッセエ」(第3号)ではモンテーニュにまた立ち戻りつつ、文学の一ジャンルとしてのエッセエの広がりをさらに考察している。
荻原朔太郎も書いている。「エッセイに就て」(第5号)では、エッセイ(荻原の表記)の日本語訳は「論文」あるいは「隨筆」、また「隨想」となっているがどれも適訳ではなく、それはこの種の文学が日本にないことを意味する。その理由は簡単で、日本の文学には歴史的に「思想性」がなかったからだ。エッセイとはいわば「思想性の情操化」であり「思想詩」ともいうべき文学なのだ。といった視点から「エッセイの進歩性は、文化におけるインテリゼンスの向上と正比例をする」とし、ただこの国でもやっと若いエッセイストが生まれてきたとして、保田與重郎の名を挙げている。次の第6号にはその保田が寄稿しているが、編集側が荻原に示唆されてさっそく保田に原稿を依頼したのかもしれない。
『雜記帳』でのやりとりはそんな具合に若々しく活発だ。でもこれを続けるときりがないので、あと印象に残る文章のなかから5編(あまりにも少ないが)を拾い出し、それぞれの一部を書き移してみる。

「背中を睡眠用に使ふのは人だけで、龜が仰向けに寢てゐたり、鶏が枕をして背中で安眠してゐる様子を私は見たことがない。龜や象は背中の方が表で腹の方が裏であると思ふが間違つてゐるだらうか。人では腹や乳房のある方が表である。しかし昔はさうでなかつたにちがひなく、今でさへも洋装の婦人の立歩く様子は、背中から腰、臀にかけての出入の曲線の凹凸が大きく、眺めては大層婉ではあるが、上肢を前につかせた方が樂な姿勢でありさうに思ふのは私だけだらうか。日本服の婦人の背腰の帯は、私のやうな想像をさせないための魂膽からの技巧だと睨んだのは僻目であらうか。」
 八並誠一「手足」(第1号)
 創刊号から終刊号まで、ほとんど毎号寄稿している作家で、旧「小説派」「兜虫」同人と紹介されているが、どのエッセエも実に奇抜な面白い視点から書かれ、しかしあるときにはロシア人少年の眼を通して東京の情景を描いた素晴らしい小説があったりで、この八並誠一という人がすっかり好きになってしまった。思いがけない常連はほかにもたくさんいる。

「秋、殊に十月半ばから色づき初めたかと見る間に、見る見る中にベルリン市街は街路樹の並木の列を通して黄金色の層をひきます。それは今云つたリンデンの盛り上る繁みの續きが、いち早く秋を感じて黄金色にふくれ上るからです。その街路樹の線(ライン)がベルリンの各方向から集つて、結びといふやうな焦點をチーヤ・ガルテンといふ市の大森林公園におきます。(中略)その一大樹海のチーヤ・ガルテンが殆んどリンデンの木で、其處へ來て黄金の葉の盛り上りが實に尨大な焦點を示します。その光景は、私が斯ういふ風にお話しをするその口をきらない中に、といふ位、またも慌だしく移りはじめます。」
 岡本かの子「晩秋初冬のベルリン」(第3号)
 科学者のような精密な自然観察がそのまま見事に美しい都市描写になっている。その光景は、「さうしたベルリンでヒツトラーは叫んでゐるのよ。」に始まる後半部で、あの時代の混乱と飢渇の様相に一転する。さすが岡本かの子と思いつつ読んだ文末に、(松本禎子談話筆記)とあって、さらに驚いた。その後の同様な談話筆記は編集部と匿名的になっているが、その実力は推して知るべし。

「音羽のとほりの電車道の裏側などには、格子戶のある二階造りの長屋がこまかく向ひ合つてゐる。うしろ側が一段高くなり、そこには木が繁つてゐる。如何にも東京の昔からの町中住ひといふ感じがある。
 文理科大學の近所も、石だゝみを敷いた坂が多くて坂にはやはり大きな欅などがあつて、石疊の道には水が流れることもなくじゆくじゆく流れてゐるやうな濕つぽさ。高い欅の木の下には下宿屋の二階に布團が干してある。髪をきれいに束ねてきちんと半えりを合せ、まつ白い割烹着をかけた奥さんが、半臺をおろした魚屋と話してゐる。あたりはひんやりとしてゐる。」
 窪川(佐多)稻子「文學的故郷」(第5号)
 残された、あるいは失われつつある風景ではない。東京をそこに住む人々ごとすっぽりと包みこんでいる地形や木々や家々や空気が、匂い立つように織りこまれている。そして窪川は、自分の文学的感情が小石川や本郷の雰囲気のなかで養われていたことに気づく。
 このほか多くの人々が住まいの周辺の日常や新しく現れてくる風景を描いている。そんな題材はエッセエと相性がよかったのだろうが、それらはいまかけがえのない記録として、読む者を誘い込む。

「一見してフオツカーだなと氣がつく程度の繪を描いてゐながら、小兒麻痺にかゝつた畸型兒のやうに弱々しい車輪がついてゐたり、折角苦心慘憺してユンケルスの猫背を模寫してゐながら、その肝心の猫背がどうにも我慢のならない曲線だつたり、かと思ふと、未來の飛行機なんていふ挿繪に、あれで精いつぱい腦味噌を絞つた擧句なんだらう、操縱席にあたる部屋に車井戶みたいな妙な器械や二十年も前の操縱装置をくつつけて見たり拝見する方が只管閉口頓首する挿繪ばかりである。」
 佐藤喜一郎「飛行機の繪」(第12号)
 大人から子どもまで、世界の飛行機に夢中になっていた時代である。今だって電車や自動車好きがいるのと同じだ。専門知識はもちろん皆無だった小学生の私も、デザインについてはうるさかった。というかこの時代の世界の戦闘機や爆撃機のカッコよさはダントツで、50から100種機までをその場でリストアップするなんてカンタンだった。上のフォッカーやユンケルスはそうした飛行機の名称で、佐藤はそれぞれのデザイン特性を的確におさえながら、昨今は飛行機の描き方がどんどんいい加減に、不正確になっていると憤慨している。そのデリケートで皮肉っぽいおかしな形容が、あの頃の感性のひだをそっくり思い出させる。飛行機に限らず、衣服、楽器、建築その他のデザインジャンルにも及ぶ各専門家あるいは愛好家の、しかし気難しい考察にこだわらないエッセエが、『雜記帳』を多角化している。そのような多角化は当然、デザインといった狭い枠まで外してしまっている。

「生產者大衆 の 感情 が いかに 正しい もの で ある か と ゆう 事 わ、 これ だけ でも 分かる。 それ わ 實に 生產點 に ある 所 から 來た 正しさ だ。 國語 の 整理 わ、 生產者 の 立場 に 立って、 生產者大衆 の 感情 お 基礎 と して 行わなければ ならない。 すべての 作家、 批評家、 すべての 文化人 が 今や そーゆう 大きな 任務 お 持って ゐる。 生產點 に あって、 正當に 發達しよー と して これまで 發達する こと の 出來なかった、 その 生きた 感情、 生きた 言葉、 それ だけ が インテリ の マンネリズム お 打ちこわし、(以下略)」
 高倉テル「國語 の 混亂 に ついて」(第13号)
 高倉テルの名は新聞や雑誌でよく見かけた。私が中学あるいは高校生のころだろうか。彼の国語改革は、上に見るような自分の書くものもすべてその信念による。従来の日本語表記の破壊と再構築の頑なさが、いまさらに痛快ですらある。『雜記帳』にはこんな時代の感触まで生身のまま保存されている。

 寄稿者のだれもが、「エッセエ」にこだわりながらも実に自由に書いている。だが勝手気ままにではない。前回に引用した竣介の「物をエッセエする態度」「もつと地道な眞摯な科學的批評を日常生活に徹底させる」意を受けているかのようで、だからいま読んでもとても新しい。その合間を縫って美しいデッサンや詩が挿入され、さらには全体の品の良さを守るが如きアナトール・フランスの短篇(三好達治訳)が毎号連載されたりして、さまざまな樹種で賑わう小さな植物園みたいなのだ。創刊から数号を重ねるうちに早くもそうした完成したスタイルをつくりあげているのに驚くほかはないが、竣介はそこに安住していない。どのエッセエもデッサンも等しく自由に枝葉を拡げ花咲かせている構造は、その先50号、100号と続けても安定しているだろう。編集者や出版社にとっては理想の雑誌だが、画家はそれに満足してはいなかったのではないか。
 第5号から特輯が組まれるようになるが、それを雑誌の焦点とするというよりは安定した誌面のなかに偏心した方向をつくり出し、流れを呼ぼうと考えた。『雜記帳』の編集方針をそのように想像したくなる。その特輯タイトルを見るだけでも目のつけどころが面白いし、号を追ってのチェンジアップが効いている。
 第5号 日本的なものゝ明日
 第6号 ヒューマニズムの動向
 第7号 女性展望
 第9号 日本の反省
 第10号 夏の景物・旅の一節
 第11号 幼年・少年
 第12号 民族の素描・人の印象
 第13号 時の隨筆
 第14号 今年の追憶
 第13、14号では特輯の文字を冠していないし、編集側の意図を控えめにしたような工夫がまた見られるが、例えば「民族の素描・人の印象」など、隨筆雑誌ならではの、同時に隨筆の意味を更新していくための絶妙な仕掛けと思わずにはいられない。
 安定ではなく、動きへとひそかに向かう編集は、目次や本文の具体的な文字組みにも反映している。本文は1段組み、2段組み、3段組みが一応基本だが、それは誌面上の序列に拘泥しているわけではなく、むしろ序列を切り崩すかのように自在に構成されている。ある作家の連載なども同じフォーマットで続けずに、号によって2段組みから3段組みに変わったり。第10号以降はケイに囲われた4分の1段組みが誌面の下端に割り込み、そこに編輯後記があったりして、さいごのページには編輯後記は74ページ(つまりなかほど)を見よ、みたいな注がついていたりする。雑誌は目次ページから始まり、編輯後記のページで締めくくるという序列さえも転換しようとしたにちがいない。目次ページ自体の構成も同じ。毎号さまざまなタイプの活字と装画を組み合わせているが、ある号の目次は項目とページの順序をなぜかアトランダムに並べてさえいる。
 表紙にもそうした動きが及んでいる。「雜記帳」のタイトルロゴは第5号以降は垂直・水平ラインのコントラストをより強調した明朝体になるものの、そのがっちりしたプロポーションは変わらない。ところがその位置は毎号上下に動いている。このタイトルロゴに重なる通し号数(1、2、3、…)の数字ロゴとの関係で動かしているからだ。両者は絡み合い、お互いを攪拌し合っている。雑誌のメインタイトルの地位ですら安閑とはしていられないかのようだ。
 けれども『雜記帳』の誌面を無心に見る限り、明晰で整然としている。編集者の「デッサン」力なのだろう。彼は文字さえも、長短・大小、疎密の線の風景として(つまりデッサンにおける描線と同じものとして)見ていたのではないか。見事な編集の技を見せながら内実はアンチ編集というべき『雜記帳』は内容と不可分の誌面構成に、いいかえれば表層ではなく構造に、あくまで画家として対していることが強く迫ってくる。そこから彼の絵画作品にひそんでいる批評性の複雑な構造を計ることができるかもしれない。
 1941年の『みづゑ』1月号の座談会記事「国防国家と美術」と、それに対する反論として書かれた竣介の「生きてゐる畫家」(同誌4月号)は有名だが、国家の緊急時における美術をどうこう言う以前の、美術の基本的な理解のあまりの素朴さ、貧弱さに、竣介は唖然としたのではないか。
 彼にはすでに美術の本来の姿が見えていた。それを現実のものにするためには個々の美術作家の努力だけではなく、より大きな「高度の環境」をつくることが第一条件だと考えていた。『雜記帳』はその環境づくりの一端だったにちがいない。それをいま知るには遺されたそのものに接するしかなく、仮に再編された記録があったとしても肝心な部分は抜け落ちてしまうだろう。そのことをもっともよく知る人々の手によって1977年6月8日、全14冊の完全復刻版が刊行された。
(2013.6.10 うえだまこと

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13号spacer_1514号spacer_1514号 裏表紙

 「生誕100年 松本竣介展」図録に掲載されている『雜記帳』の表紙写真を見るかぎり、天地はもちろん小口も断裁されているが、この復刻版は前回指摘したように小口を折り丁のまま残しているために袋状のページになったところがある。この仕様が意図的であることは、この全14冊のセットに付けられたペーパーナイフでも分かる。ほかの付録として、全号の目次をまとめた小冊子もある。
 第14号については裏表紙も掲載する。さいごまで同誌の維持会員募集を呼びかけていた。この号が最終号になるとは当の竣介たちも思っていなかったはずである。


ペーパーナイフ



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執筆:植田実、図版:30点、略歴
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 ・植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実さんのエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は毎月15日の更新です。
 「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
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