倉方俊輔のエッセイ

倉方俊輔「『悪』のコルビュジエ」連載を終えて

「『悪』のコルビュジエ」連載を終えて

倉方俊輔


これはとんでも無いことを引き受けたと感じたのは、2016年夏に光嶋裕介さんからお声がけいただいて、ル・コルビュジエに関する連載を受け、この期に未見の作品も訪れようと企てた秋のヨーロッパ旅行の最中だった。
だいぶ以前に、どなたかは忘れてしまったが、建築家はどれだけ後世に論文を産み出させたかに価値がある。コルビュジエを扱った論文は近ごろ多産で、アカデミックなポストを多くの人に与えているといった少し皮肉が入った文章を書かれていた記憶があって、それから数十年が経過した今回の旅行で、作品ごとに1冊、多いものでは2、3冊の書籍が刊行されているというコルビュジエ研究の一大蓄積を目にし、これは叶わないなあと改めて感じた。私も専門研究者なので、オリジナルの史料や作品を深く読み込まない文章が、どれだけ切ないものかは知っているつもりだ。切ないというのは、一見すると魅力的だが、スカスカで、そのスカスカさが時間が経つにつれ外面をも侵食して、見るに耐えないものになるから。
困った、困った。
連載では、2016年に世界文化遺産となった17のコルビュジエ作品のうち、過去に私が見たものと先の旅行の見学対象を合わせて12作品を扱うことにした。国内の作品でなじみが深い国立西洋美術館を1月号に掲載し、以後は竣工年の順に取り上げる。光嶋さんのドローイングが雑誌『建築ジャーナル』の表紙を飾る。私の文章は同誌の中に見開きで掲載される。同じ毎月1作品に光を当てながら、光嶋さんと私の仕事は同時に進めよう。光嶋さんのドローイングは、文章に添えるイラストではない。私の文章も、単なる描写対象の解説文ではない。だから並行して、自然に絡み合うに違いない。プロジェクトの概略は気心が知れた光嶋さんとなので、さっと決まった。
「『悪』のコルビュジエ」というタイトルも、ふとした拍子に降ってきた。本当に建築の世界は「善」ばかり。特に建築家の言葉はそうかもしれない。社会的な存在であるし、仕事を頼まれないと仕事が始まらない。クライアントを獲得するためには分かりやすく、良く、当時の時流に乗った言葉を吐かないといけないからだろうか。そうである。自分のやっていることが「悪」だなんて言ったら、クライアントに不誠実だろう。金を出したのはクライアントであって、あなたの作品ではないのだ。絵画や音楽などと勘違いしてはダメ。所員さん、大工さん、みんなで力を合わせて生まれたものである・・それはそうだが、だったら「建築家」は要るのか? 少なくとも近代のそれは、とてもエゴ(自我)イスティックな存在ではないのか。昨今のモダニズム評価の傾向のように、その前提を抜きに、近代の建築や建築家が良い物語の退屈さに懐柔されてしまっては、彼らが生み出した必要のなかった軋轢の意味が無いではないか。
そんなエゴの近代を乗り越える、なんて言葉が近年の「善」だが、簡単ではないだろう。必要なのかも怪しい。疑ったほうがいい。私たちが前進できるとしたら、「悪」の中にある価値を見出そうとすることからではないか。本人も悪い気が無かったりするし、大建築家ともなると全身建築家だから、見た目も口ぶりも紳士そのものだ。建築家の「善」に騙されないほうがいい。それは楽だけど。いい人にもなれるけど。
「『悪のコルビュジエ』というのは面白いですね。タイトルがいい」と先日、日本建築協会創設100周年の記念シンポジウムでご一緒した槇文彦さんが、控え時間に二人きりでしゃべっている時に微笑まれたので、驚いて尋ねると、富永譲さんが教えてくれたとのことで、コルビュジエに実際にお会いした建築家と、数十年来の誠実な研究・実践者である建築家の寛容さに恐縮するばかりだった。

そんな連載を終えることができたのは、なぜか。毎回、困った挙句、書き始めると文章ができてしまっていたのは、珍しい経験だった。おそらく、使えるものがないのが理由の一つ。事実にしても論理にしても、それだけで自明に新規であったり、社会の中で何かの役割を果たす正統性を有していないのだ。ゼロから書くしかないから、書いているうちに生まれる。波をせき止めない書き方は、このところの私が封印してきたものだった。
「悪」というタイトルも大きいだろう。「悪」なんだから、と開き直って、分かりやすい善悪の構図などに収めなくても良かったのが、二つめの理由。
昔の文章が好きだ。手で原稿を書いていた時代の文章が。ワープロ(後にパソコン)と異なり、いちいち消したり、位置を変えたりするのが手書きは面倒である。すでに文字として表してしまったものから、言葉を続けることになる。理屈を後付ける。流れの辻褄を合わせる。読者にとってはそれがリズムとなり、単語や構成の伏線が生まれ、単純に要約できたり、データとロジックとに還元できるものにならない。文章とは死んだものではない。ライブなのだ。昔の文章は、そんなものだったから今見ると長い。現在ならYoutubeのようなものだ。そんな文章の最後の書き手を建築界で挙げれば、藤森照信さんだと思う。世代が少し上だけど、現役の方で言えば、あと植田実さん。大好きだ。
私の初めての単著『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社、2005年)がそんな文章の実験でもあったのを今、思い出した。中学校からワープロを使っているので手書き能力を喪失した自分としては徹底的にコピーペーストで推敲して、エピゴーネン嫌いとしては誰かの文章に似ないように努めた12年前の経験が、期せずしてコルビュジエというテーマでつながった。
綿貫さんが「最終回の弁または連載を終えて」を書いてくださいとおっしゃって、何も思い浮かばずに書き始めたら意外に長くなった。「ときの忘れ物」だからだ。これが連載が誕生した第三の理由でもあるだろう。磯崎新さんの「悪」が大好きなのだが‐それが無いエピゴーネンが好きではないのだが‐、住まい学体系第100巻『栖すみか十二』(住まいの図書館出版局、1999年)は、肉体で書いた文章の最たるものと昔から認識していた。その立役者から画文集を依頼されたのだから、と言い訳にして、自分の枠を取り去れたのだと思う。

『悪』のコルビュジエ 連載12回の目次
表紙_600
・第1回 建築家の欲望 国立西洋美術館

表紙2月
・第2回 罪作りな延命 ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸

表紙
・第3回 答えない男 ペサックの集合住宅

表紙
・第4回 明白な夏 ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅

表紙
・第5回 一つのピリオド サヴォア邸

表紙
・第6回 透明な砦 ナンジュセール・エ・コリ通りのアパート(ポルト・モリトーの集合住宅)

表紙
・第7回 停泊させられた船 イムーブル・クラルテ

表紙
・第8回 時代からの出航 マルセイユのユニテ・ダビタシオン

表紙
・第9回 孤立するモダン ロンシャン礼拝堂

表紙
・第10回 歳月の手触り ラ・トゥーレットの修道院

表紙
・第11回 投げ出された自由 チャンディーガルのキャピトル・コンプレックス

表紙
・第12回 浮遊する永遠 フィルミニの文化と青少年の家

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』ほか。
生きた建築ミュージアム大阪実行委員会委員

●BSフジで毎週火曜 に放映される「ブレイク前夜〜次世代の芸術家たち〜」に光嶋裕介さんが紹介され、ユーチューブでも見ることができます。


◆埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が始まりました。
現代版画センターと「ときの忘れもの」についてはコチラをお読みください。
会期:2018年1月16日(火)〜3月25日(日)
埼玉チラシAY-O600現代版画センターは会員制による共同版元として1974〜85年までの11年間に約80作家、700点のエディションを発表し、全国各地で展覧会、頒布会、オークション、講演会等を開催しました。本展では45作家、約300点の作品と、機関誌等の資料、会場内に設置した三つのスライド画像によりその全軌跡を辿ります。同館の広報誌もお読みください。

○<「版画の景色 現代版画センターの軌跡」堂々オープンしました!
そうそうたる作家陣45名による約280点の作品・資料の展示。
大展示室、順路はありません。現代版画センターが提唱した作品との自由な出逢いをお楽しみください。

(20180116/埼玉県立近代美術館さんのtwitterより)

○<1月16日(火)〜3月25日(日)に埼玉県立美術館で開催される『版画の景色ー現代版画センターの軌跡』展に、ぼくの最初期の版画3点が展示されます。
「現代版画センター」は、1974年に綿貫不二夫さん(現・ときの忘れもの主宰)が立ち上げた、版画の普及とコレクターの育成を目指した運動体で、惜しくも1985年に倒産するまでの10年間に多くのアーティストに版画制作の機会を提供しました。
ぼくは1982年に「美学校」のシルクスクリーン工房による「プリントシンポジウム」という公開制作の場に呼ばれて、初めての版画を制作しましたが、そのときの版元が「現代版画センター」でした。その間の経緯などを、同展カタログでアンケートに答える形で執筆しています。

(20180104/堀浩哉さんのメルマガより)

○<埼玉近美、今日から始まった「版画の景色/現代版画センターの軌跡」展に出掛けてきた。たっぷり3時間の満足感。資料コーナーが閲覧しづらいのが難点。大展示場に順路表示がないが、自由に鑑賞してくださいの看板があれば、なお親切。欲しい作家の作品が満杯。中でも関根伸夫さんの版画に興味津々。  
埼玉近美「版画の景色/現代版画センターの軌跡」展の図録。オノサトトシノブ、菅井汲、元永定正、堀内正和、大沢昌助の当時のオリジナル版画が封入された特装版が破格との情報だったが、5人の作品が1点封入という形だった。5作品各10部ずつの限定50冊。私は、迷った挙げ句、元永定正を選択。

(20180116/ouro1008さんのtwitterより)

○<埼近美の現代版画センター展の初日に行けた。
カラフル、抽象、前衛、写実、、、
アートの超豪華フルコースって感じでした。。ほんと良い。これで1000円は安い、安すぎる。。
あと2回は行きたいなぁ。
展示を観たらアンディウォーホル好きになっちゃった

(20180116/もしゆかさんのtwitterより)

現代版画センターエディション番外 オノサト・トシノブ「GHC1(黄)」
現代版画センターのエディション作品を展覧会が終了する3月25日まで毎日ご紹介します。
オノサト・トシノブ_GHC1
1974年度入会プレミアム作品 オノサト・トシノブ「GHC1(黄)」
1974年  シルクスクリーン(刷り:岡部徳三) 10×10cm
Ed.1500 スタンプサイン
*レゾネ(『ONOSATO オノサト・トシノブ版画目録 1958-1989』ART SPACE 1989年刊)94番
現代版画センターのエディションNo.1は1月16日に紹介した靉嘔「I love you」ですが、実質的に最初に制作したのはオノサト・トシノブの入会プレミアム2点でした(もう一点は明日ご紹介します。
創立の1974年度から1980年度まで、毎年会員にはラージエディションによる「入会プレミアム作品」を送っていました。7年間、毎年二種類、計7作家(オノサト・トシノブ、木村茂、菅井汲、堀内正和、日和崎尊夫、元永定正、大沢昌助)の14作品が制作されました。エディション番号はついておらず、すべて番外作品です。
パンフレット_05

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

◆国立近現代建築資料館で2月4日[日]まで「紙の上の建築 日本の建築ドローイング1970s-1990s」展が開催中。磯崎新、安藤忠雄らの作品が出品されています。展覧会については戸田穣さんのエッセイをお読みください。
磯崎新「還元LECTURE HALL-2 」磯崎新
「LECTURE HALL-II」
1982年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:55.0x55.0cm
シートサイズ:90.0x63.0cm
Ed.75  サインあり
*現代版画センターエディション

ギャラリートーク「建築版画の世界」のご案内
植田実(住まいの図書館出版局編集長)× 石田了一(石田版画工房)× 綿貫不二夫(ときの忘れものディレクター)
司会:日埜直彦
日時:1月27日(土曜日)14時から
場所:文化庁国立近現代建築資料館
住所:〒113-8553 東京都文京区湯島4-6-15
入場方法:旧岩崎邸庭園からの入館となりますので、入園料400円(一般)が必要となります。

●日経アーキテクチュアから『安藤忠雄の奇跡 50の建築×50の証言』が刊行されました。
亭主もインタビューを受け、1984年の版画制作始末を語りました。日経アーキテクチュア編集長のコラム<建築家・安藤忠雄氏の言葉の力:第3回>で、出江寛先生、石山修武先生の次に紹介されていますので、お読みください。

◆ときの忘れものは「Arata ISOZAKI × Shiro KURAMATA: In the ruins」を開催しています。
会期=2018年1月9日[火]―1月27日[木] ※日・月・祝日休廊
磯崎新のポスト・モダン(モダニズム)ムーブメント最盛期の代表作「つくばセンタービル」(1983年)に焦点を当て、磯崎の版画作品〈TSUKUBA〉や旧・筑波第一ホテルで使用されていた倉俣史朗デザインの家具をご覧いただきます。他にも倉俣史朗のアクリルオブジェ、磯崎デザインの椅子なども出品します。
版画掌誌第2号
版画掌誌第2号
オリジナル版画入り美術誌
2000年/ときの忘れもの 発行
特集1/磯崎新
特集2/山名文夫
B4判変形(32.0×26.0cm) シルクスクリーン刷り
A版:限定35部:120,000円(税別 版画6点入り)
B版:限定100部:35,000円(税別 版画2点入り)


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
新天地の駒込界隈についてはWEBマガジン<コラージ12月号>をお読みください。18〜24頁にときの忘れものが特集されています。
06駒込玄関ときの忘れものの小さな庭に彫刻家の島根紹さんの作品を2018年1月末まで屋外展示しています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」 第12回(最終回)

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第12回(最終回) 浮遊する永遠 フィルミニの文化と青少年の家


倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 とりわけ20世紀の技師の魅力をたたえて、ル・コルビュジエは第一次世界大戦後の世界に登場した。古典的な芸術家ではないスタイルが、人々を引きつけた。作品が単なる個性の発露ではないこと、その場限りの芸ではないこと、新しい原理に根差していること、社会善の言葉で語れること。組織的な科学主義に、孤高の人文主義で対抗しようという古典的な「悪」ではなかったから、一人の心に格好良く映る。集団の頭脳が採用すべき解決策として判を押す。
 この時代の心と頭に響いていたコルビュジエの訴求力を、21世紀にいる私たちが同じ鮮烈さで感じるのは難しいだろう。それまでの社会を停滞とみなせるように発展し、まだ未来を改変する余地があると思えるほどに従来の存在基盤への自信を失い、同時にこの先の時代に自らや人間が適応できることを疑わず、その自らと人間全体との間に絶対的な隔たりを感じないで、新たな共同体が構成できるのだと信じ、そちらに舵を切ることが自らの使命だと思える人間が、その顔が見えるくらいに権力を̶今との比較で言えば̶独占していた時代に彼は、本人が望んだほどに多くはないが、一般解を垣間見させそうなくらいには十分な数の仕事を受けた。
 産み落とされた建築には、実は独善と言えるような決定の数々があったが、それらが次第に楽しまれるようになった。他方で、人々は過去に思い思いに目を向けるようになる。コルビュジエの作品がもつ歴史遺産や周辺環境との連関といった深みは研究され、また少なくともその身体は自由に浮遊が許されるようになった観光者の目的地リストに追加されていった。両者の流れは2016年、一連のコルビュジエの建築の世界文化遺産への登録という形で実を結んだ。フィルミニの一連の建築は、そのようなものである。

*****

 一帯は「フィルミニ=ヴェール」と呼ばれている。「ヴェール」(vert)とはフランス語で「緑」の意味。マルセイユのユニテ・ダビタシオンの建設を支持した元復興大臣のウジェーヌ・クロディウス=プティが、フィルミニ市長に就任した後に推進した構想に基づく。
 フランスの南東部の都市・フィルミニには、中世から知られる炭鉱があった。後に鉄鋼産業やアルミニウム製品の生産などで工業都市として栄えた。国家の発展に貢献した反面、労働者の生活水準や公害といった解決しなければならない問題も生まれた。そんな汚染された「黒いフィルミニ」に対して「緑のフィルミニ」を構築しようという意志が固有名詞になった。
 位置付けとしては、第二次世界大戦後に企画されたニュータウンの一つだ。戦争によって被害を受けた旧市街から離れた郊外に、人間らしい生活に必要な住宅、レクリエーション施設、交通、緑地が計算され、供給され、採掘場跡という使用価値としてはまっさらな場所が塗り替えられる。20世紀の諸問題を解決するものとして、白紙の上に意志を刻む都市計画の必要性を強調し、当時の世界各地で行われていたプロジェクトに大きな影響を与えたコルビュジエは、そのうちの一つにようやくかかわることができた。
 1954年に計画を依頼され、1956年に初期案を発表した。文化と青少年の家は没年となる1965年に完成し、それと一体となったスタジアムは1968年に竣工を見た。近くの丘の上には集合住宅であるユニテ・ダビタシオンが3棟計画されたが、建設されたのは1棟で、1967年に竣工して住民を迎え入れた。スタジアムの脇に設計したサン・ピエール教会は1973年に工事を開始したが、1978年に3階部分までの建設で中止され、2003年から工事が再開され、2006年に開館した。

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 このうち、コルビュジエの生前に完成した文化と青少年の家が、世界文化遺産を構成する17の建築の一つに登録されている。
 強い形である。上部がせり出した打ち放しコンクリートの壁が112m続いている。長辺側の柱は斜めに伸びて、吊り構造の屋根をケーブルで引っ張っている。構造の原理が形態に直結しているのは、工業都市の再生を力強く象徴する点でもふさわしく感じられるが、実際にはアイデアを転用した結果だ。
 初期案では、これと隣にあるスタジアムの観客席を一体化させていた。せり出した最上部を上下二段の観客席の庇とし、その背後に諸室を設けて、合理的に工費の削減を図ったのだ。その後、施設とスタジアムの管轄部署が異なるという理由で二つを分けざるを得なくなったが、断面形が面白いからと、そのまま残した。根無し草になってしまいそうな形態が、後付けの構法で根拠づけられたことになる。
 竣工時に用意された部屋は、図書館、音楽室、料理教室、子どもの作品の展示室など。要するに「文化センター」である。諸機能を取り揃えた施設によって、民主主義的な地域の文化が育まれる。そんな楽観的な近代主義からつくり出された、第二次世界大戦後の世界各地に典型的な。
 もちろん、必要な機能は時とともに移りゆく。現在では絵画室や彫刻室などが展示室に変わり、スタジアム側の傾斜した壁を正当づける椅子や台としてのひな壇は、フィルミニにおける巨匠の偉業を振り返る展示パネルで埋められている。それでも最上部のガラス窓の向こうにスタジアムの光景が覗くと、設計者がここで異なるアクティビティの出会いを目論んだことは鮮明だ。静かに止まることと思い切り動くこと、機能的な分離と並列を超えた可能性を目指して、形態は跳躍している。
 外から眺めた形態は、スタジアムの空間を取り囲むようなものではない。遠くに見えるユニテ・ダビタシオンや観客席の向こうのサン・ピエール教会と同様、異物として存在している。それぞれが異なる機能を有した物であることを形で示し、見る、見られる関係を促す。
 行為の形態化でコミュニケーションを図る手法は、ドアノブから都市までを通じたコルビュジエの特徴だ。形態への翻訳は独善的であり、彼が世を去れば弟子にも研究者にも再現不可能な個性の発露だが、機能や構造から説明できないことはない範囲にぎりぎり止まっている。その手法はスケールを超越して、軽快にジャンプしている。
 結局、ここにあるのは大地に根差した重厚さではなく、そこから一旦切り離されたリスタートとしての建築だ。ニュータウンという枠組みに忠実であり、そんな世界の理想主義に少なからず貢献したコルビュジエの変わらない近代性がわかる。

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フィルミニの文化と青少年の家
竣工年│1965
所在地│Route de Saint-Just Malmont 42700 Firminy,France
(撮影:倉方俊輔)
文化と青少年の家のエントランスで料金を払い、スタジアム(写真左下)、サン・ピエール教会(写真右下)とともに
観覧できる。ユニテ・ダビタシオンを含むガイドツアーも行われている。

*****

 技師は「根拠」とされていたものを疑い、分離し、再編する。戯れることだってできる。文化と青少年の家はピロティで既存の地上面から浮き上がり、大地の素材と絡み合っている。
 採石場跡は抽象的な土地とみなされていない。コルビュジエは荒々しい岩肌の上にコンクリートを流し込み、筆先で描くよりも奥深い抽象画を構成した。円形や直線は通常、自然界で目に入らない。人間が使える純粋な形は大地の中に人間が使える床面を設定し、動きを整理して、アクティビティの可能性を増大させる。
 宙に浮いた文化と青少年の家は、その強い形態で地表面と緊張関係を生み出している。また大地という素材がコンクリートと出会い、どちらか一方では得られない光景をもたらす。さらにスタンド側に伸びる廊下や階段は、機能的である以上に、幾何学のヒューマニティーと岩肌の生々しさの双方を強調する役割を果たしている。
 時代の要求や場所性といった目の前の即物性を受け止めながら、そこから浮いて遊ぶ。浮遊することで、同じようには二度とない近代という時代を永遠に刻んだコルビュジエがいる。

*****

 没後のフィルミニ=ヴェールの展開も、近代に典型的なものだ。1970年代にまちの近代工業は斜陽となり、以後の施設は荒廃した。文化と青少年の家の屋根は雨漏りし、ユニテ・ダビタシオンは維持運営の経費を捻出するために建物の中央に壁が挿入され、半分が使用されなくなる有様だった。
 そうした状態は芸術家や建築家の興味を引く。周辺の民間人の個別の活動が、次第に政治家や行政官の関心を呼び、施設の修復、再活用へという流れは、1980年代以降の世界の潮流と同期する。
 21世紀に入り、かつての工業都市が建築をアイデンティティに観光と定住の魅力を高める中、放棄されていたサン・ピエール教会の聖堂部分がつくられることに。コルビュジエ最後の作品が、没後41年にして完成した。
 生前に描かれたスケッチを可能な限り尊重し、実現性を与えたという内部空間は、浮遊する光が劇的な効果で刻一刻と変化し、写真映えすることで、訪れなければ本当のところはわからないと感じさせ、正統性に根拠づけられているからと人を来させる、21世紀のスペクタクルだ。ガウディのサグラダ・ファミリアがそうであるように。
くらかた しゅんすけ

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』ほか。生きた建築ミュージアム大阪実行委員会委員。

表紙『建築ジャーナル』
2017年の『建築ジャーナル』誌の1月〜12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当しました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載され、ときの忘れものが企画のお手伝いをしました。
倉方・光嶋お二人の連載は今回で終了です。
明日のブログで倉方さんの「連載を終えて」を掲載します。


●BSフジで毎週火曜 に放映される「ブレイク前夜〜次世代の芸術家たち〜」に光嶋裕介さんが紹介され、ユーチューブでも見ることができます。


●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。
20180118_08
光嶋裕介 《バルセロナ》
2016年 和紙にインク  45.0×90.0cm   Signed
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆ときの忘れものは「Arata ISOZAKI × Shiro KURAMATA: In the ruins」を開催しています。
会期=2018年1月9日[火]―1月27日[木] ※日・月・祝日休廊
磯崎新のポスト・モダン(モダニズム)ムーブメント最盛期の代表作「つくばセンタービル」(1983年)に焦点を当て、磯崎の版画作品〈TSUKUBA〉や旧・筑波第一ホテルで使用されていた倉俣史朗デザインの家具をご覧いただきます。他にも倉俣史朗のアクリルオブジェ、磯崎デザインの椅子なども出品します。

◆国立近現代建築資料館で2月4日[日]まで「紙の上の建築 日本の建築ドローイング1970s-1990s」展が開催中。磯崎新、安藤忠雄らの作品が出品されています。
展覧会については戸田穣さんのエッセイをお読みください。
磯崎新「還元TOWN HALL」磯崎新
「TOWN HALL」
1982年
シルクスクリーン(刷り:石田了一)
イメージサイズ:55.0x55.0cm
シートサイズ:90.0x63.0cm
Ed.75  サインあり
*現代版画センターエディション

ギャラリートーク「建築版画の世界」のご案内
植田実(住まいの図書館出版局編集長)× 石田了一(石田版画工房)× 綿貫不二夫(ときの忘れものディレクター)
司会:日埜直彦
日時:1月27日(土曜日)14時から
場所:文化庁国立近現代建築資料館
住所:〒113-8553 東京都文京区湯島4-6-15
入場方法:旧岩崎邸庭園からの入館となりますので、入園料400円(一般)が必要となります。

◆埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が始まりました。
会期:2018年1月16日(火)〜3月25日(日)
埼玉チラシAY-O600会員制による共同版元として1974年に創立した現代版画センターは1985年までの11年間に約80作家、700点のエディションを世に送り出し、全国各地で展覧会、頒布会、オークション、上映会、講演会、パネルディスカッション等を頻繁に開きました。今回の展覧会では45作家、約300点の作品と、機関誌・カタログ等の資料によりその全軌跡を辿ります。
同館の広報誌の記事もお読みください。

現代版画センターエディションNo.8 靉嘔「虹の花」
現代版画センターのエディション作品を展覧会が終了する3月25日まで毎日ご紹介します。
靉嘔虹の花
靉嘔 Ay-O
「虹の花」
1974年
シルクスクリーン(刷り:岡部徳三)
51.0x37.0cm
Ed.200 サインあり
*レゾネ『虹 靉嘔版画全作品集 増補版 1954-1982』(1982年 叢文社)268番では「Flower A」となっている。

パンフレット_05

●書籍のご案内
版画掌誌第2号
版画掌誌第2号
オリジナル版画入り美術誌
2000年/ときの忘れもの 発行
特集1/磯崎新
特集2/山名文夫
B4判変形(32.0×26.0cm) シルクスクリーン刷り
A版:限定35部:120,000円(税別 版画6点入り)
B版:限定100部:35,000円(税別 版画2点入り)


TAKIGUCHI_3-4『瀧口修造展 III・IV 瀧口修造とマルセル・デュシャン』図録
2017年10月
ときの忘れもの 発行
92ページ
21.5x15.2cm
テキスト:瀧口修造(再録)、土渕信彦、工藤香澄
デザイン:北澤敏彦
掲載図版:65点
価格:2,500円


安藤忠雄の奇跡安藤忠雄の奇跡 50の建築×50の証言
2017年11月
日経アーキテクチュア(編)
B5判、352ページ
価格:2,700円(税別)
亭主もインタビューを受け、1984年の版画制作始末を語りました。日経アーキテクチュア編集長のコラム<建築家・安藤忠雄氏の言葉の力:第3回>で、出江寛先生、石山修武先生の次に紹介されていますので、お読みください。
ときの忘れもので扱っています。
ときの忘れものでは1984年以来の安藤忠雄の版画、ドローイング作品をいつでもご覧になれます。


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
新天地の駒込界隈についてはWEBマガジン<コラージ12月号>をお読みください。18〜24頁にときの忘れものが特集されています。
06駒込玄関ときの忘れものの小さな庭に彫刻家の島根紹さんの作品を2018年1月末まで屋外展示しています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」 第11回

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第11回 投げ出された自由 チャンディーガルのキャピトル・コンプレックス


倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 コンクリートはあらゆることを可能にする。インド・チャンディーガルの議事堂の大きな樋のようにめくれ上がった庇は、真正面から眺めると消え入るほどに薄っすらした板柱に支えられているが、そのコンクリート面にいくつもの小さな彫刻が施されていることに、真横に回った時に気づくことになる。
 曲線の中で蛇が身を巻いている。別の窪みでは、牛を思わせる縁取りの内側が手の形に変貌していて、文字をもつ前の人間による洞窟画みたいだ。理性の限界を最初からあざ笑うそんな自然さは、人類の発生をゆうに越えてしまう。麦穂のような三葉虫のような彫り込みにも遭遇する。化石が時に見られるのは、若き日のル・コルビュジエが罵ったアカデミーの建築家が過去の様式や手の込んだ装飾とともに用いる天然の大理石の特権だが、ここで使われている素材に自然に混じり込むはずはないから、これら魅力的な発見物は、意図的に鉄筋コンクリートの型枠に付けて転写された図像である。
 数mmを追った眼のスケールを100m単位に一挙に移動させよう。大きな庇の上では円錐状の形が、天空の測定器のように突き出している。中間くらいのスケールでは、議事堂の正面で最も目立っているのが色鮮やかなエナメル焼き付けの絵画で、コルビュジエがアトリエで腕を振るった原画を元に、フランス政府からの寄付という形で段取りをつけて実現させたものだが、植民地の軛を脱して独立したインドが今後の国家全体の象徴でもあるとして取り組んだ新州都の議事堂の扉に、頼まれてもいない自分の絵を塗りたくる姿勢は、人としていかがなものだろう。1938年にアイリーン・グレイのカップ=マルタンの別荘《E.1027》の無垢な白の入り口をフレスコ画で汚した時からすると、許可はとっているから大人になったとは言える。
 先ほど絵と書いたが、作者の思いが平板に透けて見えてしまうこれらは、イラストと呼んだ方が適切かもしれない。先の彫り込み、蛇や牛などのいくつかはここにも登場する。上半分は別の生命体へのメッセージのような図柄で、廃墟と化したとき、建物は天体の運行と関係した何かとして認識されるに違いない。
 小さな彫刻も大きなシルエットも、その機能からは出てこない。モダニズム建築も結局は、機能的に見える形が取り付いたものが多いので、必要がない装飾というだけなら驚かない。だが、これらは近代的だったり、機械的だったりといった、未来を牽引するイメージですらない。
 コルビュジエは逆に過去へ、原始へと向かったのではないか。20世紀も後半に差し掛かり、西洋の成長主義の落日をいち早く理解したかつての近代化の牽引者は、アジアの大地に根を張った。晩年の営為は、1960年代末からのヒッピームーブメントの東洋思想への傾倒、さらには21世紀のアジアの時代を予言しているのだ…と言えたら良いのだが、突き出た円錐状のシルエットから火力発電所の冷却塔を連想するのは容易で、隣の三角錐との間にわざと走らせている空中歩廊はロシア構成主義の本歌取りだから、むしろ古き良き成長主義のイメージだ。
 とはいっても、後年のポストモダニズムのように形の意味を、例えば皮肉であるとは断言できない。あるいは本気かもと思い、宙ぶらりんになる。意図が簡単に透視できない。コルビュジエは二流の画家、一流の建築家なのである。インド・チャンディーガルのキャピトル・コンプレックスが単純な近代主義を逸脱しているのは理解できるとして、これから自分の力で近代化に向かおうというこの国で、彼は何を試みたかったのだろう?

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チャンディーガルのキャピトル・コンプレックス
竣工年│1955・58・62
所在地│Sector-1,_Chandigarh,_India
(撮影:倉方俊輔)
見学には現地で許可を得る必要がある。
2005年に撮影された内外の写真やチャンディーガルの様子は『ル・コルビュジエのインド』(彰国社)に詳しい。

*****

 インドのパンジャブ州は、1948年のパキスタン独立で失った州都を新たに建設する必要があった。設計は最初、アメリカ人の都市計画家アルバート・メイヤーと建築家マットヒュー・ノヴィッキー―コルビュジエのアトリエで仕事をしたこともある―に依頼されていた。しかし、デザインが始まってまもない1950年春、ノヴィッキーが飛行機事故で急逝してしまう。代わりの建築家を求めて、チャンディーガル計画の主任技師は、イギリスのマックスウェル・フライとジェーン・ドリューに接触し、彼らの推薦で同年秋、パリのコルビュジエのアトリエを訪ねたのだった。
 少ない俸給に同意し、1951年春に初めてインドを訪れたコルビュジエは、マイヤーの田園都市的なコンセプトを「輝く都市」に似たシンボリックなものに変更する。第二次世界大戦中の政治的判断を巡って疎
遠になっていた従兄弟のピエール・ジャンヌレに声をかけ、現地に駐在してもらった。彼とフライ、ドリューが市街施設の設計を担当した。コルビュジエは都市の「頭」にあたるキャピトル・コンプレックスのデザインに専念する。
 設計が終わり、高等裁判所は、そのうちで最も早く1955年に完成した。合同庁舎が1958年に竣工する。高等裁判所と向き合う形となる議事堂は1962年に完成。総督公邸の計画は却下された。屋外スペースに影の塔、幾何学の丘、殉教者のためのモニュメントが建設され、開かれた手のモニュメントがコルビュジエ没後の1986年に完成した。

 これら建築は、要求される機能を満たしている。合同庁舎は中廊下型の平面の中に必要な諸室を収容する。インドの強い日差しに対応したものと説明されるブリーズ・ソレイユは、特に広場に面した側において雄弁で、この長大な建築に退屈を与えないようにしている。規則的なブリーズ・ソレイユは行政の正確さを暗示し、中ほどはピッチを変えながら集積回路のような情熱を秘め、再び凪いで人間のスケールをはるかに超えるエントランスのピロティから連続し、吹き抜ける風の軽快さに呼応した下部となる。コンクリートの地肌は荒い。施工精度の悪さが、建築が労働の積み重ねであり、その価値のありなしの決定者は別次元の設計行為だという本質を明瞭にして、気候風土に根ざしたテクノクラートの本部であるという合同庁舎の理想に、個々の機能が集積した形状を通じた象徴性で応じている。
 裁判所におけるコンクリートは、また違う姿だ。最初から、遠目に見られることを意識した形に向かっている。連続ヴォールトによるキャノピーがそれである。裏側にはスロープが走る。外部空間がふんだんに用意されたヒューマンなスペースが続いている。そこまで抜ける通路は超人的なスケールだ。緑と黄と赤に塗られた板柱。数百mを隔てて、議事堂と挨拶を交わすには、これくらい大きな声でなくてはならないだろう。なぜ、ここまで両者は離れているのか。チャンディーガルのキャピトル・コンプレックスは、ヒマラヤ山脈が遠くに霞む広大な平野の中に、人知の場所を打ち立てることが使命だからである。少なくともコルビュジエは、それが地理的な広がりの中の建築の使命だと感じたからである。複数の建物と屋外スペースのデザインが共同することで初めて達成できるほどの大事業。コルビュジエはモデュロールを手掛かりに、コンクリートという素材によって、極小から極大までを入れ子にして連続的に造形した。どんな白いカンバスにも怖気づかない、この男の本領発揮ではないか。

*****

 あらゆることが可能になったときに、人は何をすべきか。チャンディーガルのキャピトル・コンプレックスを覆っているのは、多様な細部の存在にもかかわらず、シンプルさである。抑制による多様性、決定を投げ出す決定から、一つの方向に向いた成長主義の帰結とはまるで異なる作品性が生まれている。そうした強靭さを欠いては、広大な地理と悠久の時間に飲み込まれてしまうというゼロの誘惑が迫る亜大陸で。
 方向性は議事堂の内部に顕著だ。新たな独立国に必要な権威という性格に対し、幾何学のモニュメンタリティで応えている。意味や機能の決定から投げされた自由としてのグリッドの柱と円形の議事堂は、後期のコルビュジエの象徴と言えよう。
くらかた しゅんすけ

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』ほか。
生きた建築ミュージアム大阪実行委員会委員

表紙
『建築ジャーナル』
今年の『建築ジャーナル』誌の1月〜12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしています。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。

●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。
20171217_07
光嶋裕介 《パリ》
2016年 和紙にインク
45.0×90.0cm   Signed
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆埼玉県立近代美術館の広報紙 ZOCALO の12月-1月号が発行され、次回の企画展「版画の景色 現代版画センターの軌跡」が特集されています。館内で無料配布しているほか、HPからもご覧いただけます。

●書籍のご案内
版画掌誌5号表紙600
版画掌誌第5号
オリジナル版画入り美術誌
ときの忘れもの 発行
特集1/ジョナス・メカス
特集2/日和崎尊夫
B4判変形(32.0×26.0cm) シルクスクリーン刷り
A版ーA : 限定15部 価格:120,000円(税別) 
A版ーB : 限定20部 価格:120,000円(税別)
B版 : 限定35部 価格:70,000円(税別)


TAKIGUCHI_3-4『瀧口修造展 III・IV 瀧口修造とマルセル・デュシャン』図録
2017年10月
ときの忘れもの 発行
92ページ
21.5x15.2cm
テキスト:瀧口修造(再録)、土渕信彦、工藤香澄
デザイン:北澤敏彦
掲載図版:65点
価格:2,500円(税別) *送料250円
*『瀧口修造展 I』及び『瀧口修造展 II』図録も好評発売中です。


安藤忠雄の奇跡安藤忠雄の奇跡 50の建築×50の証言
2017年11月
日経アーキテクチュア(編)
B5判、352ページ
価格:2,700円(税別) *送料:250円
亭主もインタビューを受け、1984年の版画制作始末を語りました。
ときの忘れもので扱っています。

国立新美術館で開催中の「安藤忠雄展―挑戦―」25万人を突破、明日が最終日です(12月18日[月]まで)。
展覧会については「植田実のエッセイ」と「光嶋裕介のエッセイ」を、「番頭おだちのオープニング・レポート」と合わせ読みください。
ときの忘れものでは1984年以来の安藤忠雄の版画、ドローイング作品をいつでもご覧になれます。


●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」 第10回

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第10回 歳月の手触り ラ・トゥーレットの修道院


倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 裏方であったはずのコンクリートが、いつしか表に現れるようになった。ラ・トゥーレットの修道院は、そんなル・コルビュジエの作品の傾向を代表している。カトリックのドミニコ会の修道院として、フランスの南東部のローヌ県に1956年に着工し、1960年に完成した。
 コンクリートが主役であることは、第一印象から鮮明である。近づいて初めに視界に入るのは、一面の打ち放しコンクリートの壁だ。窓はまわりこむと下部に少し見えるだけでディテールも何もないから、建築の一部というよりも土木構築物のようだ。西に下る斜面をものともせずに続く眺めもダムを思わせる。地面まで充填されたコンクリートは荒々しく、型枠の跡を露呈している。構築物をつくって、工事は完了。
 同じことは手前に突き出た形についても言える。こちらは曲面だが、完全にフリーハンドの形状ではなく、直線を空中で移動させてつくられた形であって、上部に突出した3本の筒と同じく幾何学な操作だ。まっすぐな壁とは独立した原理が感じ取れる。これら最初に目にする光景だけでも、これから体験する造形が容易には統一して把握できないことを予告しており、共通するのはコンクリートそのものが表現になっている点である。
 入り口に進むと、造形と仕上げの変奏の幅がさらに広がる。まず出迎えるのは、打ち放しコンクリートでできたシンプルな正方形の門。同じ素材がその先で水平面となって、傾斜地にかけたブリッジの役割を果たしている。渡った先に曲面の壁が立つ。門番控室と応接室の機能をもつこれら小室の平面は、自由な房状であり、ロンシャン礼拝堂の壁と同様の吹き付け塗装で仕上げられている。ザラザラとした表面は、どんな形にも造形できるコンクリートの本性を示し、隣に置かれた凝固したコンクリートのオブジェが粘土のような性質を強調している。まわりを取り囲む型枠で構築された直線とは対照的だが、どちらもコンクリートという素材が可能にする手触りである。
 前方にコの字型の全貌がうかがえる。右手には先ほど反対側を目にした打ち放しコンクリートの箱。前方と左手の吹き付け塗装の翼と一緒になって、中庭を閉じている。中庭を囲む回廊を重視する伝統的な
修道院の構成に範をとっているのは明らかだが、それだけに逆転劇は一層、鮮やかである。
 中庭は人間によって使われていない。伝統的な修道院とは異なる。そこは傾斜地のままに残され、板状の壁で持ち上げられたピロティが、囲われているようであり、周辺と連続してもいる外部空間を形成している。西洋の中庭や庭園が多くの場合そうであるような人工の外部とは違って、ほったらかしにされた地面だ。板柱はというと、人工大地を持ち上げるマルセイユのユニテのような力強い身振りではなく、ただ地面とは無縁のレベルに床を設定しているだけで、下部が重厚で上部が軽快という古くからの建築の規範とは、これも逆である。
 これらの原理に収まらないのが、近づいたときに見た箱だ。ただ一つ、中庭の空間を堰き止めている。上下や軽快・重厚の区別もない。この部分が教会堂である。コルビュジエは飾りたてに抗し、建築であるのかどうかを疑わせる寡黙なデザインを、精神的な支柱である教会堂の証としている。

*****

 コンクリートは建築の全体だけでなく、細部のキャラクターも決定しているから、主役と呼ばざるを得ないのだ。入り口は建物の3階にあたる。目の前の2階レベルに左手の翼と右手の教会堂を結ぶ通路が走っている。通常の建物のようなディテールがないので、スケールは判断しづらい。建築と人間との関係性が鮮明になるのは、人の動きが入ったときだ。間隔が変動している方立越しの人影は、ガラスで筒抜けの状態から、いくぶん隠されたようになり、また明快にとリズミカルに変化する。方立には厚みがある。
だから、今度はこちらがガラスに斜めに向き合うように移動すると、抑揚の波を保ちながら壁へと近づいてゆく。
 このオンデュラトワールと呼ばれる窓割は、コルビュジエが考案した寸法体系であるモデュロールをもとに、当時コルビュジエの事務所に勤務していたヤニス・クセナキスによってアレンジされた。現代音楽家としても知られる人物による時間の中の芸術。ここでコンクリートはガラスに直接に接合され、互角に渡り合っている。ほっそりとした線材に姿を変えながらも、動かしがたい存在感はそのままに、人の動きで奏でられる強靭な弦であり続けている。弱い木材や金属では果たせない役割だ。
 ラ・トゥーレットの修道院において、コンクリートは内外の関係を繊細に規定し、個々の場所を性格づける役目を担っている。
 中庭から見た3階レベルは矩形を組み合わせた造形。先ほどのオンデュラトワールと同様に、縦長の形に準備された回転窓で換気が可能だ。壁面の印象は最上部が最も重たい。この4・5階の細い横長窓の向こう側に廊下が通り、修道士の個室群にアクセスできる。同じデザインが3階の外周にも見られる。こちらの内側も廊下だ。館内見学の際、入り口から最初に通過する特徴的な空間である。どちらの廊下の幅も建物の規模の割には狭い。上下に短い窓は視界を限定し、光の帯をつくる。外光のみが入る窓が角に設けられ、前方に伸びる空間の性格を強めている。外部からの光景が種明かしだ。窓の造形を見ると、前方を隠しながら上部から光を取り入れる仕組みがよくわかる。
 コンクリートの造形は場所ごとに内部と外部との関係を特徴づける名脇役であり、人懐っこいキャラクターとなっている。紹介を続けると、4・5階の外周に突き出た庇はブリーズ・ソレイユ(日除け)として内外の環境を調整すると同時に、重々しい造形と小石を混ぜた仕上げを通じて、個々が独立して内面に向き合う場所としての個室という性格を物語っている。最初に見た円筒形の筒は、教会堂から続いた空間である礼拝堂に光を届けるのだが、向きがまちまちなので太陽の動きに伴う日差しの変化は一層強調されて、それぞれの内側でコンクリートの荒い地肌に塗られた色彩を変容させる。反対の中庭側では鋭角的な筒型が一列に空に向けられている。キャノン・リュミエール(光の大砲)という物騒な命名。それもおかしくない形の強さで、下部の聖具室などに光を導入している。そして、メインの教会堂では単純な長方体のヴォイドに対して、コンクリートの造形が最小で最大の効果を挙げている。穿たられた亀裂から割り込む外光は変わりゆくことで、コンクリートの素材感を変化させ、寸法では規定できない空間の体験を生む。ここで証明された線の多さや素材の多様性に頼らなくても内部空間の変化と劇性と精神性が獲得できるという事実は、やがて東洋の安藤忠雄という建築家によって展開されることになる。

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ラ・トゥーレットの修道院
竣工年│1960年
所在地│Route de la Tourette_69210 Eveux_,France
(撮影:倉方俊輔)
日曜の午後にガイドツアーが実施されている。
宿泊は8月とクリスマス休暇以外の時期に可能であるが、門限に注意

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 以前のコルビュジエは、このようにはコンクリートを使っていなかった。1920年代の作品は時に壁面に色彩を施し、抽象的な面の構成として扱っていた。本作でも設計当初は鉄骨による建設も検討されていたから、コンクリートの可能性だけに邁進していたわけではない。予算が限られていたのは事実で、仕上げを削減したきっかけはそこにあるだろう。また、竣工当初のコンクリートはもっと白く、シャープだったから、現在訪問して抱く感慨はオリジナルではなく、歳月による付加物に過ぎないと判断することもできる。
 しかし、すでに見てきたように、本作のコンクリートは決して仕上げの欠落ではなく、素材のもつ味わいの十分な発露となっている。コルビュジエは素材を抽象化し、幾何学化するのではないやり方を1930年代以降、試みていった。それらを総合し、豊かさを獲得する手法として説得力をもって提出したのがラ・トゥーレットの修道院と言える。
 即物性による豊かさは、コンクリート以外の素材にも通底している。植物の扱いもその一つだ。本作の屋根は薄い土の層で覆われ、勝手に草が生えている。コンクリートの湿度と温度を一定に保ち、熱による膨張と収縮から守るために屋上を庭園にするという主張は1920年代と同じだが、かつてのようなつくり込まれた屋上庭園からは変化している。各部に見られる電球をむき出しにした照明や鉄を曲げただけの手すりにも、乏しさゆえの味わいがある。少ない決定を研ぎ澄ませ、偶然に委ねるほどに、コンクリートの肌理や植物の表情のように対象の手触りが浮上する事実にコルビュジエは一層、覚醒したようだ。光という素材に対しても同じだ。概念では一つとして処理されてしまうものに含まれる手触りを愛で、単純さの中
にある豊かさを引き出し、過ぎゆく時間を慈しむように、刹那を知覚しようとしている。
 コルビュジエは老いたのだろうか?
 老いたのだろう。工業化・資本化が進行する第二次世界大戦後の世界で、清貧な修道院という過去のロマンに想いを託した建築。時代と隔たり、個人的な変化を反映させているのだから、彼に規範を求めていた人々は戸惑うばかりだ。
くらかた しゅんすけ

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』ほか。
生きた建築ミュージアム大阪実行委員会委員

表紙
『建築ジャーナル』
今年の『建築ジャーナル』誌の1月〜12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしています。
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光嶋裕介 《ベルリン》
2016年 和紙にインク
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2017年10月
ときの忘れもの 発行
92ページ
21.5x15.2cm
テキスト:瀧口修造(再録)、土渕信彦、工藤香澄
デザイン:北澤敏彦
掲載図版:65点
価格:2,500円(税別)*送料別途250円
*『瀧口修造展 I』及び『瀧口修造展 II』図録も好評発売中です。


安藤忠雄の奇跡安藤忠雄の奇跡 50の建築×50の証言
2017年11月
日経アーキテクチュア(編)
B5判、352ページ
(NA建築家シリーズ 特別編 日経アーキテクチュア)
価格:2,700円+税 *送料:250円
亭主もインタビューを受け、1984年の版画制作始末を語りました。
ときの忘れもので扱っています。

ときの忘れものでは1984年以来の安藤忠雄の版画、ドローイング作品をいつでもご覧になれます。


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◆倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」 第9回

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第9回 孤立するモダン ロンシャン礼拝堂


倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 ロンシャン礼拝堂は、1955年に献堂された時から突出していた。一見して、既存のルールから外れていた。キリスト教の礼拝堂には見えなかった上に、それまでのル・コルビュジエの作品にも、一般化できる要素とできない要素とが混じり合っていたが、これほどまでに、来たるべき世界の普通を作品から抽出しようという思いを裏切るものはない。では、これは何であるのか。未来でないとしたら、彼はどの過去に戻ったのか。表現主義? 古典主義? あるいは実はモダニズムを内包しているのだろうか? ロンシャン礼拝堂が、それまでコルビュジエに共感していた同時代の建築家や批評家たちを戸惑いの渦に巻き込んだとはよく言われる形容だが、今見ても、やはりそうだっただろうと思う。
 完成から60年以上経った今でも突出し、孤立した存在であることには変わりない。結局、このような作品が世界の現代建築の潮流となることは ―形態などほんの一部の類似を除いては― なかった。では、逆に過去の建築の潮流に帰属させられたかというと、それも無理だった。
 もちろん、パルテノン神殿から地中海沿岸のヴァナキュラー建築、中世の修道院や船舶まで、さまざまなモチーフが意識と無意識の狭間を横切って流れ込んでいることは、研究者たちの努力によって明らかにされている。アーカイブに保管されている図面の描線1本が、仔細な寸法が、樋やドアノブといった細部が、標本を解剖するかのように検討された結果だ。研究がどんなに生真面目で部分的に見えても、根本には「これは何であるのか」という衝撃が存在しているだろう。この一つの建築は人を突き動かし、豊穣に生産してきた。
 そして、何であるかを一言で言い表すことは、ますます困難になった。多種多様な要素がここで一つに集まっているという特異点としての性格はいっそう強まった。あくまでもピン留めされることを拒否し、コルビュジエの作品の系譜の中でも孤立している。彼自身も賢明なことに、同様のものを繰り返さなかったのだ。
 これがキリスト教の礼拝堂だという事実は、孤立の理由の一つではあるだろう。研究者のウィリアム・J.R. カーティスは、最初に設計の話が来た時、コルビュジエがすでに教会は「死滅した制度」だと主張して辞退したことに触れ、「このばかげた返答は、マグダラのマリアが晩年を過ごしたといわれるエックス・アン・プロヴァンス近郊のサント・ボームに建つ神殿の計画案が拒否されたという不快な経験とおそらく無関係ではないだろう」と推測している(※1)。ロンシャン礼拝堂の以前に考えたキリスト教の建築は、この実現しなかった計画のみだった。死滅したもの、と考えたら、何でも可能だ。コルビュジエは、ここから新たに始めることにした。

*****

 屋根の形がまず目を引く。これを上手に例えられれば、これが何であるのかを言い当てられそうだが、屋根はあらゆる方向で姿を変える。結局、既存の特定のものに当てはめることを諦めなくてはならない。
 重いようで軽いような屋根だ。その厚みと打ち放しコンクリートの表面は、物体としての存在感を感じさせる。似たものは土木構造物のような実物しか思い付かない。圧倒的でありながら、浮いているから不思議なのだ。壁は、実際には純白を使うことはまれだった1920年代の「白の時代」の壁よりも真っ白く、小石を混ぜた吹き付け塗装を施すことで、何でつくられているかを体感させる。抽象的な平面ではないのだ。
 そんなわけで、ともに構築的な表情でありながら、別々の要素であることが強調された屋根と壁とは、鋭いコントラストをなすでも、合一するわけでもなく、戯れる。屋根と壁の間にスリットが開いているのが、外観からも分かるだろう。庇のように屋根が壁に優まさって重く立ち込めたかと思えば、裏手では屋根は見えなくなる。塔は両者の間にある。ある方向からは壁に連続し、別の方向からは屋根の曲面と共鳴する。重力と無重力の間を、形は行き来しているのだ。
 結びつけられることと離れることとが一つになっている。それは周辺環境との関係も同じだ。ロンシャン礼拝堂は、彫塑的である。先にも触れたように、既存のルールから離れて超然としているというだけでなく、先のようにぐるりと一周して観察できるほどに周囲から見られる建ち方だ。軽やかに、彫塑的に、周囲から浮き上がっているとひとまず言える。
 同時に周囲に、重く結びついている。もちろん「させられている」のではなく、自ら選択「している」のだ。重力や素材との関係と同様に、第二次世界大戦後のコルビュジエは、離れることの一辺倒ではなく、あえて結びつくことへと自由の領域を拡張した。
 張り出した屋根の下は外部礼拝のための場所である。それだけではなく、歩き回れば、それぞれの壁が周囲の地形とともにあることに気づく。建物はいわば外部を囲い込み、領域をつくり出しているのだ。これは彫塑的であることと矛盾しない。光の変化を際立たせる造形は、時間や季節に応じて周囲それぞれが持つ個別の性格を強調している。建設されることによって、この敷地はよりこの敷地らしくなっている。どこにでも移動可能な彫塑ではなく、周囲に緊結された1回限りの建築なのだとわかる。
 内部に進もう。外部とは異なる空間がある。しかし、明確なコントラストで、建物という領域に閉じたドラマを生み出すことはない。屋根も壁も、基本的には外部の正直な反転である。歩き回るにつれて、バラバラな体験が一つに結ばれることも外部での経験を思い起こさせる。厚い壁に穿(うが)たれた窓は、光を増幅する装置である。 窓ガラスに文字が手書きされている。いくつか読んでみよう。「Je vous salue marie」(マリアに敬意を)、「mere Dieu」(母、神)、「Lamer」(海)。言葉は礼拝堂のマリア信仰と共鳴しながら、ある者を信仰へ、ある者を形態のさらなる読み解きへと誘う。連想の効果が導入されている。
 壁の一部には、第二次世界大戦で破壊された以前の礼拝堂の石積みが使われている。コルビュジエはここが古くからの巡礼の地であり、かつて古代の神殿があったことに注意を喚起している。
 ロンシャン礼拝堂は、環境の中の装置としてある。自然を反映して周囲のランドスケープを強調し、これまで築かれてきた文化・言語の連想を利用し、場所の歴史を引き受けている。根本にあるのは造形であって、それが言葉以上に人々を善導することを設計者は信じている。礼拝堂は都市の中にあるのではないが、孤独なモニュメントではない。内部・外部を通じた人の集まりが想定されている。共同体への信仰は、ここでも健在なのだ。

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ロンシャン礼拝堂
竣工年│1955年
所在地│Colline de Bourlemont 70250 Ronchamp, France
(撮影:倉方俊輔)
季節によって公開時間が異なるが、一般に公開されている。
カトリックで聖母マリア生誕の日とされている9月8日と被昇天の8月15日に多くの信徒が集まる

*****

 ロンシャン礼拝堂は、この場所のさまざまなものと結びついて、個として建っている。モダンなのである。「モダン(modern)」は、ラテン語の「ちょうど今」が由来。まさに今、何をしたら良いかを先入観抜きに考える態度だ。過去からも考えないし、未来のルールをつくるためにあるのでもない。
 コルビュジエは礼拝堂という対象に、空(から)の姿勢で向きあった。この場所にある環境、歴史、用いられる資材。そして、連想できるさまざまなものを結び合わせたのである。現実主義と理想主義は手を携えるものであり、それに反するのはルールに縛られたものである。ここにあるのは設計者の誠実さがもたらした孤立だ。建設以来、多くの要素が読み解かれ、傑作として認識されている。
 しかし、ルールがないのだとしたら、それが良いものであることが、どうやって建設以前に算定できるのだろう。建築家への全権委任状ではないか。コルビュジエは恐ろしいことにモダンがルール化ではなくて、逆だということを示してしまった。傑作によって、世界中の建築家に勇気を与え、一定の者をその方向性に走らせ、そして建築家の「悪」がやがて反省させられることの根源かもしれない。

※1…ウィリアム・J.R. カーティス著、中村研一訳『ル・コルビュジエ̶理念と形態』(鹿島出版会、1992)p.203

くらかた しゅんすけ

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』ほか。
生きた建築ミュージアム大阪実行委員会委員

◆倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。

表紙
『建築ジャーナル』
今年の『建築ジャーナル』誌の1月〜12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしています。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。

●10月6日はル・コルビュジエの誕生日でした(Le Corbusier、1887年10月6日 - 1965年8月27日)。
生誕130年を祝う、今日のお勧め作品はル・コルビュジエです。
20171017_corbusier_31ル・コルビュジエ
《二人の女》
1938年
リトグラフ
イメージサイズ:17.6×26.7cm
シートサイズ:38.5×50.2cm
Ed.100
サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆ときの忘れものは「安藤忠雄展 ドローイングと版画」を開催しています。
会期:2017年9月26日[火]〜10月21日[土] 11:00〜18:00 ※日・月・祝日休廊
201709_ando

●六本木の国立新美術館で「安藤忠雄展―挑戦―」が開催されています。
会期:2017年9月27日[水]〜12月18日[月]
オープニングのレポートはコチラをご覧ください。

●ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」 第8回

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第8回 時代からの出航 マルセイユのユニテ・ダビタシオン


倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 優れた設計者が時代に乗って本領を発揮するとすれば、「建築家」は時代からズレたときに本領を発揮する。建築におけるモダニズムの中に、そんな作家の領分をはっきりと確保したのは、ル・コルビュジエだった。大文字の建築は延命した。モダニズムは建築の歴史の中の1ページとなった。作家の死が訪れることもなかった。建築の改革者ではなく、建築という聖域の擁護者としてのコルビュジエの像が明瞭になったのは、第二次世界大戦の後。戦後をちょうど20年生きた彼は、1965年に没した頃から一層、戦後から遡行して分析され、研究され、世俗の荒波の中にあってよく建築を守り抜いた聖人として、そのように建築家が存在できることのイコンとなった。
 マルセイユのユニテ・ダビタシオンは、その始まりである。1945年に復興・都市計画大臣のラウル・ドートリーから設計の話を持ちかけられ、官僚らとの多くの交渉の中での敷地や計画の変転を経て、1947年に着工した立体都市が、1952年に完成した。
 眺められるのは、打放しコンクリート仕上げで自らが何でできているかを露わにした、長さ約165m、幅が約24m、高さが約56mの直方体である。17層に337戸が収まっている。想定されている入居者は約1,600人。単身者向けから大家族向けまで、23種類の住戸タイプがある。
 巨大な直方体は34本のピロティに支持され、大地から浮き上がっている。ピロティは人間のスケールよりもはるかに大きい。構造体でありながら、描くカーブの中に配管類を通している。構造と設備は、直上のメガストラクチャーに続いている。コルビュジエが言うところの「人工土地」だ。中には機械設備が入る。構築された人工空間を、ピロティと人工土地はダイナミックな造形で持ち上げ、地上を歩行者に開放したことを誇っているのだ。
 直方体の中の共用廊下は、長手方向に5本しかない。各住戸は2層の構成となっていて、住戸内の階段で結ばれている。3階を1セットにして、断面方向に噛み合った形の真ん中に共用廊下が位置している。これは「室内道路」と命名された。廊下の総数を減らして空間を有効活用した分、幅は広い。上からも下からも中間に当たる7、8層の共用廊下は、そのまま公的なスペースへの動線になっている。確かに道路と呼べるかもしれない。ショッピングセンターがあり、薬局、郵便局、クリーニング店などが設けられ、ホテルの入り口もここに面している。
 この中間層にある公共施設を理由に、直方体の外観も変化する。2層吹き抜けの縦桟のブリーズ・ソレイユと、直接アクセスするための外階段がそれだ。ちまちました1層ごとの間取りにしなかったことと合わせて、遠望に応える存在感を増している。都市としての建築であることと、都市の中の建築であることは、こうして呼応し合っている。
 持ち上げられた直方体は、大きな声で大地と対話していた。都市と挨拶を交わした。最後に向き合うのは天空だ。この建物の最も造形的な要素は、屋上にある。幼稚園の入る部分は、まるで別に設計された一戸の独立住宅である。脚元のピロティとは異なって、こちらのピロティは戦前のサヴォア邸のごとく、重力と無縁であるかのような細い丸柱。ただし、外壁は打放しコンクリートと別物で、タイルが埋め込まれ、素材を扱う手の痕跡を強めている。
 脚元のピロティを反復するかのようでありながら、何も支えていないことで陽光の中でシュールレアリスティックな排気口。練ったコンクリートが放置され、凝固したような不整形な遊び場。タイルが輝くプールの水面。いずれも地中海沿いの都市であるマルセイユの空と海とに呼応する。同じ形状であるわけではなく、違う単語の同一言語であるようにコミュニケーションを交わしている。建築と既存の大地・都市との関係と同じように。
 建築は重力に規定されている。素材に規定されている。環境に規定されている。1920年代のコルビュジエは、それをいったん括弧にくくることで、人間の自由の幅を広げた。そんな条件に頼らない「無重力」の表現として、建築は十分に有効な、独自のアートであることを示した。
 マルセイユのユニテ・ダビタシオンでコルビュジエは、別の可能性を明快に提示した。重力、素材、環境は、もう表現において、あえて無視されてはいない。それらとかかわることができる。むろん、かかわらないことだってできる。どちらかを選択し、呼応の仕方を決めるのは人間だ。場合場合の選択によって、建築の可能性は拡張されている。
 建物は1952年の竣工以前から、すでに世界に影響を与え始めていた。第二次世界大戦後の復興において、模範の一つとなる作品として受け取られた。各地の集合住宅や都市再開発の中に、その残響を聞くことができる。

*****

 もちろん、現地を訪れて印象づけられるのは、後の多くの模倣者とは異なる存在感だろう。造形としての一体感がある。彫塑的な印象を強めているのが、打放しコンクリート仕上げだ。白あるいは淡い色彩に仕上げることが多かった戦前の彼の作品とは違った特徴は、すぐに世界中で流行した。打放しコンクリート仕上げという戦後の風潮に大きな影響を与えたことは、本作に関して特筆される事柄だろう。
 それでも戦前からのコルビュジエとの強い連続性は、組み立てられた感覚にある。1930年代以降、コルビュジエはジャン・プルーヴェと共同で、いくつものプロジェクトを進めた。これもその一つだった。当初、鉄骨造が検討されたが、遮音の関係などで断念された。代わりに採用されたのは、プルーヴェが提唱したワインラック状の構成である。鉄筋コンクリートのフレームの中に、工場生産した規格化されたユニットを挟むというものだ。結局はほとんど現場での生産となったが、コルビュジエは作品集において、ユ
ニット同士が独立してフレームの中に組まれていることを強調している。
 全体から分割するのではなく、独立した部分の組み立てとして建築を考える特徴が、戦前からコルビュジエには見いだせる。それが彼の後期作品と似て見えるかもしれない彫塑的なべたっとした造形作品との隔たり、配置計画から落とし込んでいく、ありきたりの集合住宅との違いでもある。
 単に住戸ユニットの特徴にとどまらない。ピロティ、人工土地といった構成も、個々の機能が組み立てられた一種の爽やかさを備えている。屋上のさまざまな要素にも、意味に取り囲まれた暑苦しさはない。工業主義的な威圧感からも、それと反対のテーマパーク感とも離れている。組み立てられた感覚があるからだ。
 個々の要素が分離して考えられることが、マルセイユのユニテ・ダビタシオンを孤立した傑作にはしなかった。各要素はそれぞれに発展可能だ。例えばピロティの脚の形態にしても、人工土地の考え方にしても、ビルディングタイプを超えて、それぞれに世界中で真似され、展開された。いや、都市的な複合体というビルディングタイプも、それ自体、独立して参照できる要素となる。全体を分解し、組み立てとして再構成し、しかも異なる機能が壁を隔てて同居する。組み立てられた感覚という持ち味は、クールにプログラムを再編するような、ずっと後年の建築にも影響を与えたことだろう。
 だから、言葉にすると奇妙かもしれないが、現在におけるマルセイユのユニテ・ダビタシオンの初体験には「初めて目にした」と「見たことがある」が同時にある。計画から70年近くの間に、この建築は散種され、私たちはすでに出会っている。

*****

 マルセイユのユニテ・ダビタシオンは、一方で重力・素材・環境と和解したことによる現地に適合した良作であり、他方で部分に分解されて世界各地の多くの設計者に消費されたのだろうか。その2つに解消できない要素がある。組み立てられた全体が目指した先だ。
 第二次世界大戦後の都市は、車によって変わった。ル・コルビュジエ自身も車による移動を念頭に置いた都市計画を下敷きに、マルセイユのユニテ・ダビタシオンの計画を練っている。しかし、なぜこの作品は、ここまで船舶のメタファーに満ちているのだろうか。
 車は第二次世界大戦後の都市をますます席巻する。個人が独立して所有し、自己顕示のできる存在である。機能が直接に反映した形態であることを超えて、流行し、買い換えるものだ。それは戦後の建築のメタファーで あるかもしれない。
 しかし、コルビュジエは、共同体である時代遅れの船舶にこだわっている。組み立ての向かう先は、そんな個人的な情念ではないだろうか。ここにいるのは、戦前のように時代に同伴する建築家ではない。
 ブリーズ・ソレイユや打ち放しコンクリートという本作における要素は、戦後に独立を果たした非ヨーロッパ諸国に用いられるだろう。個々にバラバラになるだけではなく、かといって世界一律でない、共同体としての船舶は、コルビュジエの思いを超えて、戦後という方向性のない世界に船出をした。そんな深みを持つ作品も、時代とズレたことによって可能になったのだった。
くらかた しゅんすけ

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』ほか。
生きた建築ミュージアム大阪実行委員会委員

表紙
『建築ジャーナル』
今年の『建築ジャーナル』誌の1月〜12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしています。
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●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。
20170917_04
光嶋裕介 "幻想都市風景2016-04"
2016年 和紙にインク
45.0×90.0cm   Signed
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埼玉県立近代美術館では15年ぶりとなる「駒井哲郎 夢の散策者」展が開催されています。
会期:2017年9月12日[火]〜10月9日[月・祝]
企画を担当された吉岡知子さん(同館学芸員)のエッセイ<企画展「駒井哲郎 夢の散策者」に寄せて―武田光司氏のコレクション>をお読みください。

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倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」 第7回

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第7回 停泊させられた船 イムーブル・クラルテ


倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 船のメタファーに、彼はなぜこれほど執着したのだろうか。最小限であること、動くこと、組み立てられていること、共同体であること。あるいは、水に触れること、水平線から顔を出していること、国境から自由であること、規格化されながら一品生産であること。
 第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期、石炭から重油へと燃料が変わって大型化した客船はさまざまな建築家たちにイメージを提供した。中でもル・コルビュジエの関心はほかにない次元だった。表面に流線型を用いるといったような直喩ではなく、多義的に建築の本質を揺らがせる隠喩(メタファー)として、挑戦を推進する内燃機関の一つとなった。
 1932年、スイスのジュネーブに姿を見せたイムーブル・クラルテは、そのかつてない達成である。9階建ての中に50戸の住宅や店舗などを納めた建物は、彼が実現した最初の本格的な鉄骨構造だ。
 コルビュジエは従来の建築の「つくり」だけでなく、「つくりかた」も問題の俎上に載せていた。これまでの連載では前者、つまり建築の構成に光を当ててきた。だが、後者の構法も問うていたことは言うまでもない。1914年に考案されたドミノシステムが初期の代表的なものだ。鉄筋コンクリートで水平な床と柱をつくる。その概念図に階段は描かれているが、窓も壁もない。別に階段だって、この位置になくても良さそうなものだが、規則的な根太のピッチに合わせて提案している。構造から解き放たれた窓や壁はどんな形でも取れ、階段も建築的プロムナードを構成するといった自由な「つくり」よりも、ここでは「つくりかた」に関心がある。構造とそれ以外という順序立ての問題なのだ。ドミノシステムは第一次世界大戦が始まって数カ月で、戦後復興のために考案されたという。当初、戦いは数カ月でかたがつくと両陣営の大多数が考えていた。にもかかわらず、長期化し、甚大な犠牲を払った大戦の後、コルビュジエの関心は、体験の集積による構成という「つくり」の方に向かっていったように見える。
 機会に恵まれなかったということがある。1925年にパリで開かれた現代産業装飾芸術国際博覧会に出品されたヴォアザン計画は鉄骨造で構想された。ヴォアザンの名は、資金の一部を提供したガブリエル・ヴォアザンにちなんでいる。第一次世界大戦中に航空機製造で成功した人物であり、大戦後は自動車の製造に軸足を移した。
 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、新しい「つくり」と「つくりかた」を展開してみせたのは鉄材だった。クリスタル・パレス(1851)やエッフェル塔(1889)が建ち、ヴィオレ=ル=デュクは鉄による構法が彼が信じるゴシック建築と同様に真実性の高い構成を可能にすることを著作を通じて流布させた。だが、第一次世界大戦中の鉄材の高騰は鉄骨造建築の可能性をゼロに近づけた(※1)。そんな中でもコルビュジエは鉄骨による乾式工法の研究に励んでいた。ヴォアザン計画もその一つだった。鉄筋コンクリートに対して、より規格化され、順序立てられた構法を視野に入れていたのだ。

*****

 イムーブル・クラルテは好機到来。クライアントであるエドモン・ヴァーネルは、ジュネーブの企業家で金属製造業を営んでいた。コルビュジエの規格化のアイデアに賛同し、この賃貸住宅の開発を手掛けただけでなく、彼自らが施工を受け持ち、技術的な実現を助けた。
 現在、訪れて目にした光景は楽しげだ。見た目の開放感は、多くの住戸がメゾネット形式であることにも由来している。東西方向に細長く、2層分のガラス窓が連続する中で、テラスの手すりは低く一直線に見える。いかにも鉄材であるように薄く、住戸間の仕切りも線による構成で、部材の集積でつくられている様子が強調されている。
 より根底的な開放感は「つくりかた」が目に見えていることによるだろう。窓の日よけが思い思いに開いて、生活の雰囲気が外に現れる。南側の1階部分にはガレージが並んでいて、鉄板を跳ね上げた奥に車が格納される。即物的な素材と即物的な行動が、全体の見た目をつくり出す。同じ船に乗る共同体としての意識が建築化されたのだ。鉄骨の接合は当時一般的なリベットではなく、溶接によって行われた。金属加工に通じたクライアントのおかげで、技術的にも船に追いつくという夢が実現した。
 階段も、もう一つのコルビュジエを見せている。平面としては東西方向に二分され、左右対称に2つ配置された共用階段かエレベーターで各住戸に入るようになっている。階段は単純な折り返しのつくりで、手すりもパイプを曲げたもの。変化に富んだ動線や手すりは、ここに導入されることはない。その代わりに最小限のスペースで連なり、積層の居住を可能にする理想の船の階段が設計されている。階段の脇に吹き抜けがあり、最上部に天窓が開く。階段も廊下も床がガラスブロックだ。上からの光がまばゆい。設計者は垂直の空間構成と明快な部材構成にスポットライトを当てている。1920年代を中心にコルビュジエが求めていた建築の無重力が、ここでは美学の助けを借りなくても、構法的な種明かしで達成されている。あっけらかんと、楽しげに。
 上がった先は広い屋上である。地平線からはるかに顔を出し、光を浴びて長椅子でくつろぐ女性の姿を作品集は捉えている。イムーブル・クラルテはコルビュジエの作品集第2巻の中で最も、人物が入った写真が多く掲載されている作品となっている。床から天井までのガラスからの光を受けて佇む子ども。テラスの椅子でくつろぐ父娘をサッシを開けた室内から見る母。装飾のない半透明のカーテンやテラスの庇が光線を調整している様子。鉄骨の柱は室内にむき出しになっている。コルビュジエは壁紙の色見本を用意し、住民が選択できるようにした。可動式間仕切りやつくり付け設備が準備され、コンパクトに暮らせるようにした。彼の常として水周りには特に配慮された。住まいを所有するのではなく、借りて選べることの自由が、物が配列された写真に現れている。同様の軽やかさが現在も感じられる。部材の構成も使われ方も透明で、大地に錨を下ろしていない感覚は、21世紀の今の社会のありようにいっそう共鳴しているのではないだろうか。
 とはいえ、現在の変わらず幸せであり続けているような姿は、困難を乗り越えたものである。新規の技術を用いたため、建物はすぐに大規模な修復を必要とした。1970年代初めには取り壊しの危機が生じ、当地の2人の建築家が建物を取得することで辛うじて救われた。1986年に歴史的記念物となり、2007年から2009年の本格的な復元工事を経て、今つくられたかのような軽快な姿を見せている。2016年、国境から自由であるというコルビュジエのインターナショナリズムを示す作品の一つとして世界文化遺産に登録された。

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イムーブル・クラルテ
竣工年│1932年
所在地│2 et 4, rue Saint-Laurent Genève,Suisse
(撮影:倉方俊輔)
店舗の部分は立ち入り可能。毎年9月の文化遺産の日の期間中は内部が公開される

*****

 だが、建築は動かない。イムーブル(Immeuble)は建物、不動産の意味。家具(meuble)とは違って、動かせない。その名を受け入れたコルビュジエだ。そんなことは分かっている。だから一層、船のメタファーが開花することも。
 どこでも可能なことと、ここでしかできないこと。イムーブル・クラルテは組み立てと着地とが互いの効果を高め合っている。2つの階段・エレベーターに対応して、2つのホールが1階に設けられている。高くくっきりと開いた北側のエントランスは打ち放しコンクリートで、反対側のガラスブロックに落ちる天窓からの明かりをのぞかせながら、この地面に接続する場所であることを明示している。先が行き止まりになった北側の小道はここに引き込まれ、意味が与えられる。店舗として用意された円形の張り出しも同様に、街路のいびつな交わり方を正当化する。浮いたような上部は、この1階部分でまちに停泊しているのである。そして、張り出しは上部に、船の甲板のようなテラスを生み出す。岸壁は船上でもあるかのように、メタファーに加担する。
 イムーブル・クラルテはどこにでも、あるいは、どこかで可能な漂泊する技術のサンプルである。同時に周辺の伝統的な建物にも増して、この都市のつくりに結び付けられた建築でもある。設計はいくぶん現実的なヴァーネルの意見も受け入れて進められた。そのことが良い建築を生んでいるのは確かだ。
 第一次世界大戦の勃発時にコルビュジエが夢見ていた技術的な新たな構築物は、現実に着地することができた。決して理想へと行き着けない運命は美学的に示され、なおさら感慨を呼ぶ。
 しかし、このような即物的ロマンティシズムは、いつまで可能なのだろうか。再びの大戦が迫っていた。コルビュジエももう若くはなかった。自らが悪を引き受けない、停泊させられた理想という悪いスタンスも、そのままではもう続けられないだろう。

※1…山名善之「ル・コルビュジエと鉄」『建築文化』1996年10月号、p.180-183

くらかた しゅんすけ

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表紙
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20170817_03
光嶋裕介 "幻想都市風景2016-03"
2016年 和紙にインク
45.0×90.0cm   Signed
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現在、ときの忘れもののメールアドレスより、多数の迷惑メールが発信されています。
内容は、英文の求人広告と、詳細を記載したというウェブサイトへのリンクです。
ときの忘れものが日本のお客様に英文の、または件名が無記入のメールを送ることはありません。
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◆ときの忘れもののブログは建築関連のエッセイを多数連載しています。
佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。

杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。

藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。

大野幸のエッセイ<ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサート>は随時更新します。

植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は随時更新します。

光嶋裕介のエッセイは随時更新します。

八束はじめ彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は終了しました。

芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は終了しました。

建築を訪ねて

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倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」 第6回

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第6回 透明な砦 ナンジュセール・エ・コリ通りのアパート(ポルト・モリトーの集合住宅)


倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 1917年にパリに出てきて10年あまり、故郷のラ・ショー=ド=フォンとシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリという本名を捨て、再スタートしたル・コルビュジエの勝利の証が1934年に完成した。ナンジュセール・エ・コリ通りのアパートである。
 何といっても、保守的なパリ市内に、機械時代の「新精神」に基づく集合住宅を打ち立てたのである。構造は工場のように合理的だ。正面の中央に独立して立つ打ち放しコンクリートの柱が、空間を構成しているのが積まれた壁ではないことを誇示している。荷重を支持しなくてよくなった外壁を、もはや重々しく仕立てる必要はない。ファサードは一面のガラスブロックと板ガラスという素材そのもので、なぜこの工業の時代にあって、人々は歴史の垢を引きずった様式的な形態にしがみついているのかと問いかける。大ぶりなガラスが使われている。サッシだけでなくバルコニーも金属で製作されている。道路に面した東西面のデザインは同一で、どこからどこまでが一戸なのかをうかがい知れない。単に光をできるだけ取り入れるという即物的な機能だけであれば、ここまでデザインする必要はない。ファサードが即物的に機能を果たす一機械としての住まいの表現であるのは明らかだ。工業製品は薄汚れもしないし、味も出ない。その代わりに交換可能なのだから、純粋に暮らしに奉仕することができる。人間が主人なのだ。
 過去のヒューマニズムの抜け殻を人文主義的だと捉えて未来を窒息させることと、これまで「非人間的」とされていたものの中に新しい精神を見出して踏み出すことと、どちらが人間を尊重しているだろうか。パリに出てきてからのコルビュジエは、鋭くそれを問うた。誰がつくったのかではなく物言わぬ工場や民家に、物言わせた。
 住まいを最重視したことも、従来の多数派とは違った行き方だった。住居が人間を形づくる基盤だと考えたからである。彼が思う「人間」をつくるための。1929年、2年前にパリからニューヨークまでの大西洋無着陸横断飛行を試みて消息不明になった第一次世界大戦で43機のドイツ機を撃墜したシャルル・ナンジュセールとフランソワ・コリという2人のフランスの英雄から命名されたナンジュセール・エ・コリ通りがパリ市内に辛うじて含まれる市境の道路だったとしても、当初は48m×24mの敷地全体にかかわる野望を抱きながら結局は北側のアール・デコ・スタイルの建物と南側のボザール・スタイルの建物と3分割して開発された残りの26m×13mの敷地しか設計できなかったとしても(※1)、文化的な都市の景観規制が自由気ままな壁面線を禁じて出窓やバルコニーの大きさも規定したとしても、これは第一次世界大戦後の建築におけるヒューマニズムの前衛戦を勝ち抜いた証だと言える。
 しかも、最上階がコルビュジエの住まいなのだ。1931年に設計が始まった時から8階と9階に加えて屋根の建設費も負担することを開発業者に提案して建物の共同所有者となり、1930年、フランス国籍を取得した年に結婚したモナコ出身の快活な女性イヴォンヌ・ガリスとともに大都会の眺望と屋上庭園の中で暮らした。ここは公私ともにサクセスストーリーに乗った、パリの建築家の橋頭堡(きょうとうほ)である。

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 今風に言えば、デザインは新しい貨幣価値を生じさせる。従来の常識を疑い、組み替えることによって潜在していた価値を顕在化させ、投下した資本に対してリターンをもたらす。コルビュジエはそんな才覚を持っていた。従来の勾配屋根をフラットルーフに置き換えることで、それまでは狭くて暗い使用人の屋根裏部屋でしかなかった最上部をリッチな空間に変貌させたのだ。実際にはこれを開発した業者は1935年に破産し、彼は資金回収のために建物を売却するという融資元の銀行との間で、自らの所有権を主張する長い裁判に巻き込まれただけだったが、やがてその発明は20世紀の資本主義社会の中で大いに模倣されるだろう。
 屋根裏部屋を追い出された使用人たちはどこに行ったか。半数はメインエントランスから最も遠い1階の裏手に向かった。慈悲深くも作品集にはこう記されている。「使用人たちの部屋は地上階に設けられることで、大抵はおぞましい屋根裏部屋に追い込まれる使用人たちを解放する(※2)」。もう半数は車庫や倉庫と一緒に地下へ。建築家は「西からの太陽がいっぱいの使用人たちの部屋は緑の植えられたイギリス風小庭に面している」と掲載図面に書き添えることを忘れていない。
 建物の平面は、横に長いH型だ。横棒に当たる部分が、エレベーターや階段や貨物用リフトといった垂直動線と、各住戸への入り口に当たる。1つの階に2戸または3戸が収まり、2つの中庭から各室に光を取り入れている。中央の1本だけ一直線からずれた5本の丸柱を配した平面は巧みで、それと隣家と接した壁面だけで支持されているため、改変可能な「自由な平面」であるのも特徴だ。天井高を法規で許される下限の2.5mまで詰めたことが、天井が高くて流動する1階の共有空間に寄与している。
 さあ、コルビュジエの家に急ごう。エレベーターは7階までしか止まらないため、8階の玄関までは階段を上がることになるが、おかげで大きなエレベーター機械が9階の屋上庭園に割り込むことはないし、心躍らせる移動の快楽はすでに始まっている。9階の内部空間は小さな日光浴室と来客用の部屋だけで、主な居住部分は8階にある。東側のアトリエ空間から西側のダイニングスペースの間の仕切りは、大きな回転扉が2つ。回転させれば、西と東の絶景を一度に味わえる。
 地上から離れ、光に満ち、数々の機器が人間の一挙一動の意味を高める。伸びやかなアトリエ空間と好対照なのが、機器がぎっしりと詰まった寝室だ。ダイニングスペースとの間を隔てる回転扉には衣装棚が付属し、ベッドの脚は83cmもあってテラスの欄干を越えて景色が目に入り、曲面で構成されたシャワールームは移動する船舶のそれを連想させる。
 重力を抜け出して空間は流動し、細部のデザインは人間の行動とともに楽しまれている。新しい精神に基づいた都市を、建築を、インテリアを、絵画を、コルビュジエは1920年代から旺盛に語っていた。今やそのすべてを手に入れたかのようだ。

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ナンジュセール・エ・コリ通りのアパート(ポルト・モリトーの集合住宅)
竣工年│1934年
所在地│24, rue Nungesser et Coli_75016 Paris ,France
(撮影:倉方俊輔)
ナンジュセール・エ・コリ通り側の外観。コルビュジエの住居部分はル・コルビュジエ財団によって管理されているが、現在は修復工事のために見学不可。工事終了は2018年2月27日が予定されている。

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 不吉なものもある。ダイニングスペースの長い大理石テーブルをコルビュジエは、イヴォンヌの言葉によれば、 霊安室の解剖台から発想したという。
 この作品の3年前に、コルビュジエはシャンゼリゼ通りに面したパリの一等地の建物を手がけている。億万長者のシャルル・ド・ベイステギ氏からの純粋な遊びとしての屋上改修の依頼に(※3)、ロートレアモン伯爵が1869年に記し、1920年代のシュルレアリスム運動の中で再評価された有名な一句「ミシンと蝙蝠傘との解剖台の上での偶然の出会い」の美しさで応えた。いつものように緑を幾何学に従属させる屋上庭園。まるで新時代のフランス式庭園だ。ここではそれに加えて、周囲の風景を切り取る生垣も大きなガラス窓もモーターで上下に動作させた。機械時代の空間の変容のデモンストレーションである。絨毯のような芝生と純白な壁が接するところには、偽物のロココ調の暖炉を取り付けた。文脈から浮遊した新精神は応用の幅を拡げ、爛熟している。
 2つの屋上庭園には、建築家が狂騒の1920年代の中で手にした成功とマニエラが集約されている。不吉ではないか。最上階で残されている行為は、そこから落下することだけだから。

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 前回の連載で語ったサヴォア邸は、一つのピリオドをなす傑作だった。その後に設計されたナンジュセール・エ・コリ通りのアパートは、第二次世界大戦後のコルビュジエの作風を予告するとされる。8・9階の自邸の部分のみ隣家と接した壁面を粗石積みでこしらえ、切り捨てたはずの素材性を導入しているからだ。また、ヴォールトの天井を支持するV字柱を積極的に構造表現として用いていることも挙げられる。しかし、それもこの時点では機械的なものと、コントラストをなすものを取り合わせるという、ほんの遊びだったかもしれない。当時、彼が描いていた絵画はシュルレアリスムの傾向を見せている。天に浮いているのに大地のようで、ツルツルのガラスにザラザラな原始感といった異化作用はそれに通じる。
 コルビュジエは1965年に没するまで、このアトリエで絵を描き、社会を眼下に収め、イヴォンヌを愛し、通常は午後に仕事場に向かった。
 建築は社会の中で建つ。しかし、大事なのは社会から切り離されること。それがモダニズムの根幹の一つではなかったか。社会から切り離され、自己と対話することが必要だ。社会には現在しかない。したがって自己との対話とは、過去の自分のつくったもの、思考した結果に向き合うことにほかならない。そのとき、「過去」と「未来」は同時につくられる。誰に頼まれたのでもなく、たった一人で。
 1920年代の成功をもとに、社会から立て籠もる砦をコルビュジエは築いた。誰にも邪魔されずに絵画を描き、それを眺めた。自分が設計したデザインに向き合い、その意味も次第に発見されていっただろう。彼の名声は、この作品を頂点として失墜し…といったことは起こらなかった。自己と対話するこの透明な砦が、新たな出発を育んだからだ。

※1…以下の経緯は基本的に次の文献に従った。
Jacques Sbriglio『Apartment Block 24 N. C. and LeCorbusier’s Home』(Springer Science & Business Media, 1996)
※2…ウィリ・ボジガー編、吉阪隆正訳『ル・コルビュジエ全作品集 第2巻』(A.D.A.EDITA Tokyo、1978)p.126
※3…ウイリアム J.R. カーティス、中村研一訳『ル・コルビュジエ̶理念と形態』(鹿島出版会、1992)pp.143-145

くらかた しゅんすけ

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』ほか。
生きた建築ミュージアム大阪実行委員会委員

表紙
『建築ジャーナル』
今年の『建築ジャーナル』誌の1月〜12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしました。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。

●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。
20170717_02
光嶋裕介 "幻想都市風景2016-02"
2016年 和紙にインク
45.0×90.0cm   Signed
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

●明日のブログは、石原輝雄のエッセイ「マルセル、きみは寂しそうだ。」第2回です。

移転記念コレクション展
会期:2017年7月8日(土)〜7月29日(土) 11:00〜18:00 ※日・月・祝日休廊
※靴を脱いでお上がりいただきますので、予めご了承ください。
※駐車場はありませんので、近くのコインパーキングをご利用ください。
201707_komagome_2出品作家:関根伸夫、北郷悟、舟越直木、小林泰彦、常松大純、柳原義達、葉栗剛、湯村光、瑛九、松本竣介、瀧口修造、オノサト・トシノブ、植田正治、秋葉シスイ、光嶋裕介、野口琢郎、アンディ・ウォーホル、草間彌生、宮脇愛子、難波田龍起、尾形一郎・優、他

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ときの忘れものは、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分、名勝六義園の正門からほど近く、東洋文庫から直ぐの場所です。

◆倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」 第5回

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第5回 一つのピリオド サヴォア邸


倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 今さら何が語れるだろう、サヴォア邸について。それでも訪れると、自分が最初に発見した物事でもあるかのように、言葉を発したくなる。そして、無知と私性を露呈させてしまう。
 傑作とは怖いものだ。相対する者を第一発見者であるかのように語らしめてしまうのだから。理性的な人間にはありえない態度だろう。さんざん踏み荒らされたものに対して、初めて向き合った人間が自分であり、真に理解できるのは私だけと信じるなんて。
 ル・コルビュジエは、かつて紀元前5世紀の古代ギリシアが産んだパルテノン神殿を、敵対するアカデミーの人間はまったく理解しておらず、自分が真の姿を見出したと語った。挑戦的な態度が功を奏して、知人の輪が広がり、裕福なクライアントへと行き当たった。そして、パリ郊外に残された。パルテノン神殿と同様に、冷静な表情で、人々に時空の狂った情熱を呼び起こさせる傑作が。

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 サヴォア邸は、独立した印象が強い。設計者は良好な景観を持った広い敷地の中に、正方形平面の1棟を配置することを選択した。建物は周りに左右されず、どの方向から眺められてもよいようになっている。
 独立した建築であるという印象に、ピロティが役立っている。それは大地から離れた感覚を与える。2階に生活の主要部分を置いて、良い眺めを得た暮らしを可能にしている。1階には、その優雅さを支える車庫や使用人の部屋などしかない。上階をメインの階とすることは、ルネサンス以来の格式ある邸宅の手法と、むしろ一致している。だが、そのようなアカデミックな邸宅の1階は多くの場合、重々しい。階高は低く、外壁を荒々しい石の仕上げなどとし、開口部も小さく粗野だ。重力に抗して、何とかそこに住む人間が息ができる余地を設けましたとでも言うように、実質本位な基礎のような出で立ちで、うやうやしく上階のピアノ・ノビーレ―主階のことで原義はイタリア語で「高貴な階」―を支えている。だが、サヴォア邸はそれとは違う。1階の階高も仕上げも2階と同じで、平面はより小さい。人も車も視線も透過させる作りによって、主階を目立たせている。
 面白いのは周囲を巡る丸柱の性格だ。もし、これがなかったら、もっとドラマティックだったに違いない。キャンティレバーなどで上下動線を有するコアから張り出させれば、従来の美学に対する技術による勝利を物語ることができる。もし、柱によって支えるのなら、このようにか細いものである必要があろうか。上階を雄々しく支えるポーズを取れば、彫刻的な一体感も出るだろう。
 そのどちらでもない丸柱は、機能的にではなく、美学的にこの建築を支持している。この内側にあるものを、象徴づけている。従来のような、建造物が重力に抗するための構成が人の心理に与える安心感に基づいたアカデミックな構図ではないと。連載第2回で扱ったラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸(1925年)や前回のヴァイセンホフ・ジードルングの住宅(1927年)の柱の系譜にあり、同じ設計者による後年のピロティの柱とは別種である。サヴォア邸が地理的・時代的背景から切り離された作品であることを語りたいための丸柱が、かえってこれを変遷の中に位置付けてしまった。結局のところ、ここにあるのは点対称の形をしたピリオドだ。
一つの文章を終え、時代を画し、意味と無限の無意味を含むような。
 改めて、サヴォア邸の全容に目を配りたい。外観は無重力な枠組みの設定だ。建ち方は大地に左右されていない。表と裏と左と右は等価であり、同一ではない。重力に縛られているようでもない。コンテクストを考えなくて済むという良好なコンテクストを得て、可能になった千載一遇のチャンス。奇しくもその時、設計者には、設定した枠組みに盛り込めるだけの設計経験の蓄積があった。
 こうしてサヴォア邸は、大地から切り離され、安心して鑑賞できる作品となった。さあ、外観以上に足を踏み入れ、素直に発見を楽しもうではないか。

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 無重力の中での統合が、サヴォア邸である。設計が行われた1928〜29年までにコルビュジエが実作や計画を通じて獲得した手法が、四角いカンバスの中に組み合わされている。フランス語のピリオド(période)という単語には、一つの主題を中心に、関係代名詞や接続詞などで2つ以上の節をバランスよく連ねた、意味的に完結している総合文(ペリオッド)という意味もある。
 内部には、ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸で出現していた上質な暮らしのイメージが、一層深い説得力で実現している。従来の豪邸のように過去からの物語に彩られたり、束縛されてはいない。重力に抗したドラマもない。素材は抽象化され、形態は幾何学的だ。しかし、貧相ではない。新しい豪奢がある。それは内部だけではなく外部も、マッスだけでなくヴォイドもデザインの対象とすることによって達成されている。
 2階のテラスと、最も広いサロン(ダイニングルーム)との間はガラスによって空気が区切られているのみである。腰掛ければ、建物の内外を気にすることなく、自分の空間として楽しめる。屋内の横長窓からは直接に周囲の風景が切り取られ、中庭の側に目をやれば、外壁によって切り取られた空間越しに風景が見える。まわりの世界はこの建築によって分節されている。中庭越しの向かいの屋根がかかった外部は、マッスの中に貫入したヴォイドの設計だ。ここで「図」と「地」は同時に規定されているのである。屋外に設えられたテーブルが、あちら側にいる私たちを連想させる。人間はもはや建築という壁に閉じ込められ、代わりに過去から与えられた良き趣味(bon goût)を持ったインテリアを与えられて、ソファに腰を落ち着かせているオブジェクトではない。自由に行動できる主体なのだ。そんな風に第一次世界大戦後の土地に縛られないクライアントに、彼らに見合った建築的趣味の回答を与えている。これもラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸と同様だ。
 行動する人間の自由が、称揚されている。それがカンバスに意味を生じさせる。平面のほぼ中央に位置しているスロープが、異なる性格を持った1階から3階までを接続している。こうした戯画的なまでの各階の整理は、ヴァイセンホフ・ジードルングの1棟2戸の住宅でも試されていた。物質としての各階の断絶と、人間の行動がその間をつなぐこととの対立から生まれる妙味は、ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸で効果を発揮していたスロープの導入で、より大きくなった。
 スロープは身体的だ。階段と違って視覚を、理性による分別の始まりではなく、目線で追うことによる身体の連続的な認識の予感として機能させる。スロープは後ずさりすることだってできる少し傾いた床だ。階段とは違って視覚抜きの、身体の動きを可能にする。発明を通じて建築は、1階から2階へという階梯や順序を強化するのではなく、崩すことだってできる。経験の順番は、一層自由になる。
 移動する身体は出会うだろう。ふとした天窓からの光に。突如として艶かしい人体のようなバスルームの曲面に。思わせぶりな枠取りで切り取られた遠くの緑と近くの屋上庭園との近接に。経験は、統合される。抽象画のように、意味と構成の補助線は各自で引かれ、何度も組み替えられる。視覚だけでなく、人間の持つ感覚のすべてを発揮して。
 純粋芸術には欠けている実用が、人間の純粋経験を促すのだから、建築は面白い。ペサックの集合住宅と同様の意図が、ここにも盛り込まれている。説明する建築家の言葉も、定義するのではなく、想像を掻き立てる。時にはぐらかし、意味の発見へと誘う。画家であったコルビュジエだからこそ、ファインアートではない建築の性格を援用できたのかもしれない。

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サヴォア邸
竣工年│1931年
所在地│82 Rue de Villiers, 78300 Poissy, France
用途│住宅
(撮影:倉方俊輔)
パリ郊外のポワシー駅から歩ける距離にあり、現在8ユーロの入場料で邸内を自由見学できる(月曜休)

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 語るのは、これくらいにしたい。それにしても、住宅が傑作になるとは、どういうことだろうか。
 住宅は本来、限られた人間にしか体験できないものであるはずだ。それが語られ、参照される作品になるとは。よく知られているように、サヴォア邸が住宅として使われた時期は短い。第二次世界大戦前後には荒廃して当初の姿を失っていた。評価の高まりは、コルビュジエが自らまとめた作品集がなければ起こらなかった。計画案がその第1集に掲載され、竣工作は入念にセレクトされた写真と魅力的な文章を通じて第2集の冒頭を飾っている。
 著名な建築批評家たちによって物語られ、傑作としての位置付けが確定しつつあった1950年代におけるサヴォア邸を文化財へという動きには、自らの過去の作品の保存にそれほど熱心とは言えないル・コルビュジエも同調した。1964年にフランスの歴史的記念物に指定され、その後の数次の改修を経て、竣工時の姿で広く公開されるに至った。
 作者は罪つくりである。一つには、一つの住宅によって建築の歴史に刻まれるという確証を、続く建築家たちに与えてしまったから。機能がなくなっても評価されてしまうとは、機能主義や合理主義とずいぶん遠い作品主義ではないか。
 あと一つ、ここからコルビュジエは次の文章に向かったから無責任だ。スマートでスムースな文体ではなく、そこから排除されていた力動感、素材性、構造の表現が導入される。次のステップに進むためのまとめだというのは後知恵である。サヴォア邸で終わっていたとしても不思議ではない。これを盛期コルビュジエとして、後のチャレンジが遊びに流され、全体性が崩れさり、だからこそ後世の応用者の手の内で使える断片としては多少興味を誘う程度の衰退期だったとしても。しかし、彼は次に進んだ。みんなが目指したところに、もういなかった。移動する自由のためのピリオドを残して。本人に悪気はないから、たちが悪い。
くらかた しゅんすけ

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』ほか。
生きた建築ミュージアム大阪実行委員会委員

表紙
『建築ジャーナル』2017年5月号
今年の『建築ジャーナル』誌の1月〜12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしました。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。

●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。
20170617_08
光嶋裕介
「バルセロナ」
2016年  和紙にインク
45.0×90.0cm  サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
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ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

ただいま引越し作業中
6月5日及び6月16日のブログでお知らせしたとおり、〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。
電話番号も変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
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営業時間も7月1日から11時〜18時に変更します。
JR及び南北線の駒込駅南口から約10分、名勝六義園の正門からほど近く、東洋文庫から直ぐの場所です。
お披露目は7月初旬を予定しています。
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◆倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」 第4回

倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」

第4回「明白な夏 ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅」


倉方俊輔(建築史家/大阪市立大学准教授)


画:光嶋裕介(建築家)
原画

 ル・コルビュジエのヴァイセンホフ・ジードルングの住宅は、1927年にドイツのシュトゥットガルト郊外で開催された住宅展の顔だ。2棟の住宅が敷地の入り口で建つ。
 コルビュジエは7月23日から10月31日までの会期中に40歳を迎えた。住宅展に参加した16人(組)の建築家のうち、最年少のマルト・スタムは当時まだ27歳、最年長のペーター・ベーレンスは59歳だった(※1)。2棟の住宅は、その中核に当たる年齢にふさわしい。屋根は傾かずにフラットルーフで、明るく白い外壁は平滑に塗られ、テラスが外気と人間の間をつないでいる。鮮やかな外観が会場の住宅群に共通する特徴を印象付け、ここから始まるのが世代や個性を超えた一つの物語であることを伝える。
 モダニズムの展開において神話的と言えるこの住宅展には会期中、約50万人が来訪した。評判や悪評に誘われた90年前の参加者と同様、私たちも傾斜を生かした回遊路を歩き、さまざまな形式に遭遇できる。それぞれの住宅は個性を殺して規格化されているわけではない。敷地を無視した一定の間隔で建設されているわけでもない。「実験」のか細さではなく、すでにあったかのように堂々と語られる大きな物語。1棟は斜面から伸び上がり、もう1棟が奥で庭とともにあ
るコルビュジエの作品は、そんな複数の作家で編まれた会場の経験も予告している。
 彼が時代を代表する見事な表紙を描いている。ほんの2年前のレスプリ・ヌーヴォー館では、そうではなかった。それがここでは、多様性の中の統一を示す、模範的な教科書の役割を、さらりと遂行している。

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 これが鮮やかな夏の奇跡だとすれば、ミース・ファン・デル・ローエが目配りの効いたプロデューサーのごとく振る舞えたことも、驚くに値しないかもしれない。コルビュジエより1つ年上の彼は、ヴァイセンホフ・ジードルングを主催したドイツ工作連盟の副会長に就任しており、芸術監督の立場から、この社会的にインパクトのある実践を指揮した。
 準備は1925年に始まった。ドイツ工作連盟は、シュトゥットガルト市の公共住宅計画のうち約60戸を、健康的で実用的なモデル住宅群の建設に充ててもらうことに成功した。プロモーションの場であり、会期が終わった後は貸し出される市営住宅の敷地は、元から市が保有していたもので、最終的に21棟63戸が建設された。
 ミースは当初から、フラットルーフの住宅が地形に沿う形で分散配置された全体計画を念頭に置いていた。それらはさまざまな住戸タイプからなり、敷地の最も高い場所と両脇にはほかより高層の建物が建って、全体を引き締める。重要なのは、現代の風潮を代表するに足る一流の建築家たちが参加リストに並び、その作品が競い合うようにあって、新時代の建築のマニフェストになっていることだと考えた。
 1924年から29年までの時期は、第一次世界大戦の敗戦で成立したドイツ共和国が社会的な秩序を回復し、ヒトラーによる第三帝国成立の契機となる世界恐慌が勃発する以前の安定期として知られる。実験的で
社会的なヴァイセンホフ・ジードルングも、当時のシュトゥットガルトの工業的な復興と自由主義的な思想なしには考えられない、束の間の大戦間の輝かしい文化的達成だった。
 この時期のミースは、生涯で最もマニフェスト的に映る。すなわち、言語を操り、社会的に行動し、グループをなす建築家という像に最も接近していた。1923年に創刊された雑誌『G』をハンス・リヒターやエル・リシツキーと共同編集し、プロジェクトや論考によって人目を引いた。1924年にはフーゴ・ヘーリングらとともに、ベルリン市の保守的な建築行政を打ち破る若手建築家のグループ「リング」を立ち上げ、ドイツにおける新しい建築の機運を推進した。ドイツ工作連盟に参加したのも同じ頃からで、この1907年に創設された伝統ある団体が大戦間にも主導的であることを知らしめたヴァイセンホフ・ジードルングの建築家リストには「リング」の構成メンバーが多く含まれている。
 信頼関係にあった市の担当者とともに、建築家の選定は国際的な視野から行われた。ミースは地域主義的なシュトゥットガルト中央駅が今も威容を誇る地元の建築家パウル・ボナーツをリストから外し、コルビュジエの招聘にはこだわった。書籍を通じた名声が、住宅展に大きな価値を添えると分かっていたためである。
 こうしてコルビュジエは、ミースと初めて出会った。ただし、シャルル・エドゥアール・ジャンヌレとルートヴィッヒ・ミースであれば、16年前に顔を合わせている。1910年に数カ月間だけだが、コルビュジエはベルリンのペーター・ベーレンスの事務所で働いていた。同じ頃にミースも勤めており、当時の印象をミースは懐想している。「一度だけ、事務所の入り口で出っ食わしたよ。彼は出ていくところで、私は入るところだった」とだけ(※2)。
 ミースが生まれたのはドイツのアーヘンだった。そこからベルリンへ出たのはコルビュジエが故郷のラ・ショー=ド・フォンからパリに向かった1917年よりもだいぶ早い1905年で、父親と母親の旧姓をつないでつくった仮名「ミース・ファン・デル・ローエ」によってインターナショナルでどこか意味深な趣をまとったのは、コルビュジエがその名を決めた翌年の1921年だった。
 蚊帳の外に置かれた重鎮ボナーツの手厳しい計画への批判や、決して実務的とは言えないミースの性格に起因する進行の遅れなどがあったものの、ヴァイセンホフ・ジードルングの実現によって彼は、インターナショナルな現代建築家としての地位を確かにしたと言える。ミースが権限を持つ参加建築家のリストには、師だったベーレンスや、同事務所の先輩として背中を追っていたワルター・グロピウス、表現主義的で作風は必ずしも相容れないハンス・シャロウン、そして自らと同様に実績よりプロジェクトと言論によって名高いコルビュジエも含んでいた。
 この夏、生涯で最もマニフェスト的だったのは、コルビュジエも同じかもしれない。ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅は、前年に発表した「新しい建築の5つの要点」のきっかけとして作品集の中に置かれている。その後、ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面構成の5つは「近代建築の五原則」であるかのように受容されることになる。第一次世界大戦後の世相の中で名を形づくった2人は、40歳代らしく急進的であり過ぎない時代のリーダーとして1927年、明白さの中に溶け合うように見えた。

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ヴァイセンホフ・ジードルングの住宅
竣工年│1927年
所在地│Weissenhofmuseum im Haus Le Corbusier Rathenaustrasse 1- 3 70191 Stuttgart
用途│住宅
(撮影:倉方俊輔)
2006年から1戸が博物館として公開され、計画から現在に至るまでの改変や復元の過程が良く分かる

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 しかし、ここにあった物語とは、一体何だったのだろうか。住まいという建築家の美学にとっての新たな領域? 生活の基礎の再定義による建築家の社会貢献? あるいは第一次世界大戦の悲劇の後にルネサンスが訪れ、美学と社会性が握手する夢?
 コルビュジエもミースも、そんな明快な白昼夢にまどろまないことにおいて共通し、同時に対照的だった。
 入り口の裏手の高台まで上がれば、ミースの設計による24戸3階建の集合住宅の全貌が姿を表す。白く四角い建物に窓が規則的に穿たれた、彼にとって初めての鉄骨構造の建物だ。屋内の壁は耐力から解き放たれ、間取りの変更も可能になった。出展作品中で最も、住宅問題の解決という社会的使命に誠実に応えているかのようである。
 それにしては厳然としすぎだ。団地のようであり、さらに言えば工場のようであり、甘さのない割り切りにおいて、単純な美学の表出にも、社会的な事象への応答にも見えない。時代の要求に応え、時代の技術を駆使することによってこそ、時代に左右されない存在感が生まれる。そんなミースの時代精神の思想は、この時から描かれたプロジェクトではなく、現実の姿をとるようになった。

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コルビュジエとミースのただ一度の共演は、互いに形態のエールを送っているようで微笑ましい。ミースの集合住宅の南側立面にはテラスが突き出している。けれど、それは椅子を向き合わせるのがやっとの窮屈なもので、反復の凄みを強める役目しか果たしていない。
 他方でコルビュジエが従兄弟のピエール・ジャンヌレとともに設計した1棟2戸の住居は、1階に並ぶ鉄骨柱がミースの作品を連想させる。だが、はるかに享楽的なポーズであり、柱で持ち上げられた2階が、暮らしのための空間になっている。ほかに用意された1階の家事室、書斎と称された3階の階段脇のスペース、そして鉄骨柱という限定された要素が、この空間と屋上庭園の無限定感を強調している。2戸がつながり、さらに横に伸びていくかのようだ。この空間の使用法は次のように解説される。
 「大きな部屋を得る方法として動く間仕切りを使用、これを引き込むことで実現する。寝台車のように、夜だけこの仕切りを利用するのだ。昼間は、端から端まで開け放たれて大きな居間となる。夜には、眠るためのものはすべて―ベッドや必要な戸棚類―各細胞ブロックに隠れたものが出て来る。横に沿ったワゴンリ(寝台車)の国際規格の車輌と全く同じ寸法の廊下が、夜のための通路となる(※3)」。
 目的に応じた部屋を準備することに自らの美学を使う多くの設計者と異なり、ミースのユニバーサル・スペースに近いわけだが、丘の下のコルビュジエは何と違った場所にいるのか。彼のもう1棟の独立型住宅は、長く温めていたシトロアン型住居の実現で、こちらの名前は自動車のシトロエンになぞらえたものだ。ここでもメタファーが形態から想像が動き始める感覚を高め、機械が人間中心ではない自由をもたらし、空間は定義を喪失する。規定の美学や社会性は意味を失い、笑いを通じて時代は超克される。
 ここから言語と形態の両面でミースはますます寡黙に、コルビュジエは饒舌になっていく。ヴァイセンホフ・ジードルングは明白に見えた夏の証だ。
くらかた しゅんすけ

※1…経緯は基本的に以下の文献に依拠した。
『Weissenhof Museum Im Haus Le Corbusier Katalog Zur Ausstellung』(2008)
※2…フランク・シュルツ著、澤村明訳『評伝ミース・ファン・デル・ローエ』(鹿島出版会、2006)p.45
※3…ウィリ・ボジガー/オスカル・ストノロフ編、吉阪隆正訳『ル・コルビュジエ全作品集 第1巻』(A.D.A EDITA Tokyo、1979)p.136

■倉方俊輔 Shunsuke KURAKATA
建築史家。大阪市立大学大学院工学研究科准教授。1971年東京都生まれ。著書に『東京レトロ建築さんぽ』『ドコノモン』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』、編著に『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』『これからの建築士』ほか

表紙
『建築ジャーナル』2017年4月号
今年の『建築ジャーナル』誌の1月〜12月号の表紙を光嶋裕介さんが担当することになりました。
テーマはル・コルビュジエ。
一年間にわたり、倉方俊輔さんのエッセイ「『悪』のコルビュジエ」と光嶋裕介さんのドローイング「コルビュジエのある幻想都市風景」が同誌に掲載されます。ときの忘れものが企画のお手伝いをしました。
月遅れになりますが、気鋭のお二人のエッセイとドローイングをこのブログにも再録掲載します。毎月17日が掲載日です。どうぞご愛読ください。

●今日のお勧め作品は、光嶋裕介です。
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光嶋裕介
「幻想都市風景2016-03」
2016年  和紙にインク
45.0×90.0cm  サインあり
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◆倉方俊輔のエッセイ「『悪』のコルビュジエ」は毎月17日の更新です。
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