佐藤研吾のエッセイ

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第9回

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」

第9回 インドの先住民Santal-Kheladangaの人々の家づくりについて-脱線2の2

シャンティニケタンの家作りのプロジェクトについて、続きを書きたい。前回、インドと日本の間を巡る自分自身の旅を、一つの物語として建築の中に架構する、などという回りくどい宣言をしてその稿を括ってしまった。現代の、様々なモノが容易にそして手早く出力・生産できてしまう世界において、建築は明らかに作られる速度が遅い。工場生産、部材の規格化が著しい日本でも、小さな住宅が建てられるのに半年程度はかかる。インドだと、雨季に工事が滞ったり、予期せぬ停滞やレンガを積み上げていくような人力仕事が主なので、1年弱あるいはそれ以上はかかる。ウェブコンテンツやアプリ開発に比べれば牛歩の如くである。さらには設計自体は建設工事が始まる前からやっているので、正味2年くらいはその住宅の何かしらを考え続けているのだ。

自分自身の移動の径を一つの物語として建築の中に架構するとは、つまるところ、そんな長らく続く建設過程における幾つかの要所となる段階で、自分がインドにいるべきか、日本にいるべきかを定めながら、プロジェクトを進めていこうということである。さらには、日本から自分に限らず、友人の大工・青島雄大、そして幾人かの作り手と共にシャンティニケタンの現場へ向かい、工事を協働する。建築はあくまでも実体のものであるから、”日本の家”なるものをインドで作って見ようとする時点で、何らかの折衷、あるいは並存の状況が現れることは間違いない。ならば変に取り繕うのではなく、両者が並存する舞台をいくらかの時間的尺度を備えて設えてみようとしている。

舞台と言っても、強引な乱闘、異種格闘技戦を現場で催す訳ではない。建築の主構造は、当初は木造を目指したが、現地の職方の技術の素朴さと気候の湿潤さゆえの虫の被害を考慮して、鉄筋コンクリート+レンガ積造とし、現地の職工が担当する。今年の4月から工事はスタートしたが、根切り、基礎工事、コンクリート打設、レンガ壁積、など絶え間なく現場から私のところに写真が送られてきている。現場ではコンストラクション・マネジャーが一人いるようだが、細かな指示や日本にいる私との調整はなんと施主自身がやっている。2017年10月現在、すでに二階の壁までは現場でできており、若干の工事の遅れはあるが年末までには躯体は完成しそうな見込みである。

171004-1現場写真。コンクリートの構造とレンガ壁はほぼ同時に施工される。レンガ壁に穴を空けておき、そこに竹を差し込んで内部足場とする。分業化されていない多能工が融通の利く材料を使って取り組む場当たり的な現場であるからこのようなアクロバットができるのだろう。空いた壁の穴はいくつかそのまま残す予定である。背後に施主がコツコツと手入れする鬱蒼とした庭が見える。


171004-2現場写真。梁の型枠を支える支保工は竹とレンガブロック。


171004-3現場写真。2階はね出し部分の床の型枠。


171004-4現場写真。1階内部空間。現場では仕上げられるところから適宜工事を進めている。


日本からやってくる我々は、コンクリート+レンガの躯体が出来上がったあとの内部空間で木造と木工家具を主とした工事を行う。日本からいくらかの木材と部材を持って大工と共にインド現地に入り、階段の手すりを含む吹き抜け空間での立体架構を基点として内部全体に造作を布置する。野物と化粧という関係を少し広く捕まえるとすれば、インドの職工が作るコンクリート+レンガが野物となり、日本の大工を始めとする我々の内部造作が化粧となる。野物というものは本来化粧に隠され、また化粧は下地としての野物に従う(化粧に合わせて野物が設えられるとも言えるが)ものであるが、ここでは化粧である内部造作それ自体がシステムを持って自律し、必ずしも野物を隠さない。内外の序列と工事の順序を持ちながら両者の並存、力関係をどう調停するかが肝だろうと考えている。

先月、東京・北千住のある建設現場の中の一画を占拠して、このシャンティニケタンの家作りの準備をしていた。北千住の現場も、比較的規模の大きいコンクリート躯体に対して新たに木工造作を挿入する形であり、その現場での作業から様々なアイデアが飛び火してくる。主に家具についてのアイデアを思いついたので、早速、大工・青島にそのプロトタイプを制作してもらった。それぞれの家具が備えている赤い小さなキューブは、日本から道具、あるいはお土産まがいのエレメントを詰めてインドに持っていくための梱包箱である。そしていくつかの脚部材も日本から持ち込み、ノックダウン方式で、その箱と共に現地で家具として組み立てようとしている。現地ではさらにインドの溶接工に依頼して鉄部材を用意してもらい、木工家具とドッキングさせる。異なる作業段階の時間的な偏差と、長距離移動の手間が、このプロジェクト自体の根拠となっており、また創作表現の基軸を担う。私自身がインドにこだわって滞在と移動を続けているのは、そんな表現の可能性を確かめたいからである。

171004-5木工家具のスケッチ。箱のアイデアは実は以前からあった。持ち運びができまた収納ともなる、長持のようなスケールと、江戸時代の裁縫台の構成が組み合わさったような形をイメージしていた。それが日本-インド間を移動するという前提を備えて工作プロセスを含めて変容した。


171004-6木工家具の制作。制作は青島雄大。


171004-7プロトタイプとして制作した木工家具。足元の十字部分に鉄のフレームを現地で差し込み座面を付加する。背後にあるのは住宅の内部模型。


さとう けんご

■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。
URL: http://korogaro.net/

◆佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。

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会期:2017年9月26日[火]〜10月21日[土] 11:00〜18:00 ※日・月・祝日休廊
201709_ando

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オープニングのレポートはコチラをご覧ください。カタログと展示はまったく違う構成になっており、建築展として必見の展覧会です。

イベントのご案内
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細江先生を囲んでのレセプションはどなたでも参加できます。

11月8日(水)18時飯沢耕太郎ギャラリートーク<細江英公の世界(仮)
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11月16日(木)18時より 植田実・今村創平ギャラリートーク<ポンピドーセンター・メス「ジャパン・ネス 1945年以降の日本における建築と都市」展をめぐって(仮)>
*要予約:参加費1,000円
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佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第8回

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」

第8回 インドの先住民Santal-Kheladangaの人々の家づくりについて-脱線2の1

第6回目の投稿(「脱線1」)の冒頭で、インドへの再訪が年末に延期となってしまったと書いたが、それは現地でいま進めている住宅建設(家づくり)のプロジェクトに遅れが出てしまったからである。今回はそのプロジェクトについて書いてみる。第6回目投稿と同じく脱線であるが、Kheladanga村の外に出て、南東へおよそ10kmほど離れたところの話であるので、6回目よりも大きく脱線する。といってもKheladangaがそもそも森の中にあるのに対し、プロジェクトの敷地はシャンティニケタンの中心部、Visva-Bharati大学と地続きにある住宅地域の一区画である。

そもそも、シャンティニケタンをはじめて訪れたのは2016年の春である。詩人ラビンドラナート・タゴールが一世紀前に創設した学校を見てみたいという素朴な動機からであった。また岡倉天心や横山大観をはじめとする幾人かの日本の表現者がベンガル地方を訪れていたことにも興味があった。そして大学を訪問し、日本語学科や芸術学科の教授らに面会して、その日に何かやろうと思い立ち、In-Field Studioという短期学校(ワークショップ)の開校を提案した。その後何回か足を運んで調整をし、2017年3月にIn-Field Studioを開催した(http://infieldstudio.net/)。その記録は少々遅滞してしまっているが、もうじき公開する予定である。

一方、住宅建設のプロジェクトは、そのIn-Field Studioの活動とは全く別に、けれども同じ町で同じ時期に始まった。先述のシャンティニケタン初訪問の2016年春に、その報告をインターネットにあげたところ、それをどこかで見たのか、知らぬインド人からメールが届いた。彼はシャンティニケタンに住み暮らしており、新しい家を地に作りたいと言う。そして、「日本の家」を作りたいとメールで書いてきた。すでに土地を購入し鬱蒼とした庭を作り続けており、設計図も現地建築家と相談して作成をしていた。その設計図について意見をもらいたいと言う。ほうほうと同封のファイルを開いてみると、「日本の家」とは決して形容できない、中華風の窓が取り付き、給水タンクを内包する煙突状のレンガ造りの塔屋も備えた、少々不思議な姿形をした家の設計図であった。ぜひやらせてほしいと、半ば勝手にこちらからも図面を作って返事を出した。自分が「日本の家」を設計できるという確信はなかったし、ましてや「日本の家」とは何かを考えても記号的なイメージだけが頭をよぎるだけで、その皮相な感触にそもそも自分が納得することができない。けれども、ともかく主にメールでスケッチや言葉を送りあい、途中2回ほど現地に模型を持って行っての打ち合わせを重ね、計画案を修練させていき、2017年春から現地で建設がスタートした。

1模型を眺める施主のNilanjan氏と現地建築家のMilon氏。


2施主がコツコツと拵えてきた庭。夏みかんや柿の木など、日本にも馴染みの深い草木が育っている。


こうして進んでいった家づくりであるが、実はもう一つの背景がある。シャンティニケタンは、詩人ラビンドラナート・タゴールが20世紀初頭に学校を創設した場所であることは先述の通りである。その学校には国外からも多くの指導者が集まり、日本からは仏教家、柔道家、そして芸術家といった様々な人間がその地を訪れた。岡倉天心もまさにそのころ都市カルカッタに滞在して『The Ideas of the East(東洋の理想)』を執筆し、シャンティニケタンでタゴールにも会っている。そしてシャンティニケタンを訪れた日本人の中に、カサハラ・キンタローという一人の大工がいた。彼の目的は、釈迦の悟りの地として知られるインド北東部の聖地ブッダガヤの修復とその調査であったが、道中のシャンティニケタンに立ち寄った。当時タゴールは周辺農村の自立復興のため農村の人々に木工技術を教えることのできる人間を探しており、カサハラが抜擢された。彼は木工だけでなく日本の庭作りも教え、タゴールの家にはカサハラによる内部造作と日本庭園が残されている。また郊外の森の中には瞑想のためのツリーハウスが建設されている。

3カサハラ・キンタローについて。なかなかネットや書籍などで探しても情報が無かったのだが、シャンティニケタンに”KASAHARA”というカフェが最近オープンし、そのレジカウンターの後ろに貼ってあった。


4シャンティニケタン郊外の森の中にカサハラが建設したツリーハウス。タゴールがしばしば瞑想の場所として使っていたという。ぼやけた写真であるがよく見ると幾つかの木組みの工夫がなされている。(写真:『Architecture of Santiniketan』より抜粋)


およそ一世紀前のこんな出来事、日本とインドをつなぐ先人の動きをまずはなぞってみようと考えた。たとえ近代化のフレームの中にあろうとも、「日本」とは何か、「日本」をどうするかを求めた彼らの行動は、確実にこのプロジェクトの創作の原点になるだろうとも直観した。

「日本の家」を求めるにあたって、行動と意志が先行した当時の彼らのように、自分自身が日本とインドの間を行き来する移動の軌跡(経験)自体を建築として具現化できないか。岡倉天心が「Asia is one」と高らかに宣言し、中国やインドに実際に彼自身が赴き現地の人々と思想を交わすことで、「アジア」と いうフィクショナルな領域を仮構したように、「日本」という幻影まがいの存在を幻影のままに、シャンティニケタンのこの計画で日本とインドの間を 巡る自分自身の旅を一つの物語として建築の中に架構してみようと考えた。

続く。

5プロジェクトの模型。


(このインドの家づくりのプロジェクトについて、SDレビュー2017(東京展:9月13日-24日、京都展:10月2日-29日)の展覧会に出展する予定です。http://www.kajima-publishing.co.jp/sd2017/

さとう けんご

■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。
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佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第7回

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」

第7回 インドの先住民Santal-Kleladangaの人々の家づくりについて-その2

Kheladanga村の家々の庭はどれも広く、村人らの生活に欠かせない場所になっている。ある家の庭について思い出してみる。2メートルほどの高さの土の壁で囲まれていて、村の中央を抜ける一本の道に面する扉と、村の外の森か田畑に面した勝手口の二つがついている。扉はそれぞれ木の板とトタン板でできている。トタン板でできた扉はよく見たら大きな缶詰めの一部も継ぎ接ぎされていてその造形力に思わず感服してしまう。庭に面する壁には農機具や料理道具、鏡や歯ブラシなど大小さまざまな生活の道具が吊り下がっている。村の共用井戸から汲んできた水を貯めておく甕が庭の隅に置いてあり、その横には小さな祠が祀られている。祠は植木鉢のように台座の上から細い木が植えられている。庭の地面は固く艶やかで、ゴミはほとんど落ちていない。家の人が泥や灰汁を薄く塗って丁寧に掃除しているからである(第5回投稿を参照)。庭にはしばしば藁や漆喰でできた巨大な穀物貯蔵庫がボンッと置かれている(モライと呼ばれていた)。貯蔵庫は湿気や虫から守るために足元には丸太が敷かれて浮き、上に行くほど外側に傾いた逆円錐の形をしていて、ネズミが登ってくるのを防いでいる。貯蔵庫の横には竹で編まれた、座ったり寝たりするのにちょうどよさそうな簡易なベッドが置かれており、おばあさんがゴロリとくつろいでいる。屋根は無いが、その庭は彼らの生活の中心になっているようであった。そして食事の準備も彼らは庭の中でやる。地面を掘ってできた小さな火山のようなものがある。それが炊事のための竃(かまど)である。他の家の庭では2、3個も竃が点在してあったり、庭のど真ん中にあったりもする。この竃は横穴から枯葉や木枝を焼べて上の噴火口のような穴に鍋を載せて使う。様々な大きさの鍋を使い分けているようだった。鍋は底が丸くなっており穴に載せやすくなっている。

1Kheladanga村の村長の庭。大鍋用の竃と小鍋用の竃が真ん中に並んでいる。


住居において、炉や炊事場がどこに位置しているかは最も興味深く、またその住居での生活様式を如実に表現し得る本質的な主題である。残念ながら、筆者はインドの事情に首を突っ込んではいるものの、インドの住居史にあまり詳しくないので、気候と風土は違うが日本の炊事場に少し脱線してみる。
日本の民家の変遷は、古くは竪穴式住居あたりから始まる土間だけがあった室内に、床が敷かれ、空間が仕切られていく(=間取り)プロセスとして見ることができる。祭祀に関係の深い、南方由来の高床式住居の形式も村の長の住居などでは見られたようだが、気候的に火を住居内に取り込まなければならなかった日本の住居は土間を基軸に考えるべきだろう。土間は外へ出入りができる生業の作業場所であり、火や水を使う炊事場であった。床が敷かれ広間ができると、採暖や家族の団欒のための、そしてしばしば炊事にも用いられる囲炉裏が大黒柱近くの床に切られるようになり、囲炉裏は土間からも容易に使うことができる広間と土間の境界の位置にあった。

Kheladanga村が位置するインド・西ベンガルの地域は高温湿潤の気候で一年を通して火を使った採暖は必要がなく、むしろ室内の温度は常に下げておきたい。なので庭に付属してある、寝起きをするための家屋の外に炊事場があるのは当然である。けれども、庭を含めた周囲の土壁までの空間を一つの民家として眺めれば、まるで見えない大屋根が架けられたような、日本の農村民家と同じ姿が見えてくる。「庭」と今まで呼んできた外部空間はむしろ「土間」と呼び直すべきかもしれない。(逆に土間の空間を「ニワ」と呼ぶ地域も日本にある。)家の内と外という境界の概念は、気候、大地の環境によって応変させなければ、その場所固有の生活の内実を取りこぼしかねないようである。

2隣の住居での調理の様子。壁には様々な道具が掛けられている。前述の通り上に屋根はない。


3調理中の炊事場。真ん中にあるのは包丁で、刃物は下の板に据え付けられ、切る食材を手前から手で押しあてて刻む。横の枯葉は火元の燃料。


家族生活の分業でいえば、日本もインドも炊事は専ら主婦の仕事である。日本のある地域では、主婦でなければ鍋ぶたに手を触れることができないという慣習すらあったとされる。Kheladanga村の男性たちは昼間は町に出かけ、村には女性と子供しか残っておらず、料理を作ったり、掃除をしたりと、それぞれ家の仕事をしていた。

イヴァン・イリイチは、そうした家庭生活を支え維持するための仕事が、近代においては資本主義という生産論理に支配された社会の中で無報酬労働、”シャドーワーク”として貶められていることを嘆いた。近代以降、賃労働に対して、家事仕事は抑圧されるべきものとされ、産業が生み出した商品を貨幣で購入し、省力化することが推奨されていく。

一方、建築史家・鈴木博之は現代社会で装飾が生み出される契機を紐解く中で、機能主義が貫徹する生産の論理とは異なる理屈を孕んだ、台所の近代化について興味深い言及をしている。
「農民の主婦は、野良仕事が重労働であった時代には、台所が近代化されることを嫌がって、昔ながらの台所で火吹き竹を吹いているほうを望みました。その時間、休息なるからですね。台所だけ近代化すれば、その分野良に駆り出されるわけです。野良仕事が機械化されてから、はじめて台所も近代化されました。」(*1)
この指摘は、インドのKheladanga村の中で出会った、昼間の静かに子供たちとくつろぐ女性たちの姿にも通じるものもあるのではないか。前回の投稿では、土木インフラ事業がもたらす村の風景の移り変わりについて書いたが、近い将来、炊事をはじめとする家事仕事の在り方も段々と変化していく。その変化の過程をどのように眺めるか。鈴木の指摘は、現場の生臭い理屈であるが、機械化・技術の転換を村の外から要請されつつある今のKheladangaにおいて、その変化の姿はただ一つの像に結ばれるわけではないという可能性を示唆してくれているようにも思えるのである。

(*1 鈴木博之「近代が装飾を生むとき-建築史の視点から」『建築 未来への遺産』、東京大学出版会、2017年6月。(初出:『広告』1982年11・12月号))

4巨大穀物貯蔵庫モライのスケッチ(佐藤研吾)


さとう けんご

■佐藤研吾(さとう けんご)
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●今日のお勧め作品は、関根伸夫です。
023_関根伸夫関根伸夫
「月の雨」
1988年
金箔、キャンバス
45.5x38.0cm
裏面にサインあり


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佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第6回

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」

第6回 インドの先住民Santal-Kleladangaの人々の家づくりについて-脱線1

村の家づくりについて何回か書いてみたい、と前回の投稿の終わりの方で呟いてみたが、その文章を書いたすぐ後に、インドに行く時期が今年の夏から年末に延期となってしまったため、さらに書く時間ができてしまった。なので、今回はちょっと寄り道をしてみたい。寄り道といっても、書いている自分は今日本にいるので、自分の頭の中での寄り道、すなわち思考のこね回し、整理整頓である。ということで、家づくりだけではなく、その家の周りに存する村の風景と、村でこの前自分が取り組んだ些細な仕事について書こうと思う。

近年、ケラダンガ村の中央の道の両端と真ん中あたりに3つの井戸ができ、村の人々の生活には欠かせないものとなっている。朝水を甕に組み、家の中へ運んで調理に使う。食べ終わったあと、食器をまとめて井戸へ持ってきて洗う。昼、村の男達が働きに出かけたあと、井戸でお母さんらが自分の体と子供達の体を洗う。村には上下水道は整備されておらず、家のなかには、トイレも風呂もない。排泄をするときには井戸で水をバケツに汲んで村の外まで運んでいって用を足す。私が村を訪れたのは乾季の時期であり、近くの運河は干からびていたので、もしかすると雨季には運河を用いたまた異なる水のライフスタイルがあるのかもしれないが、ともかく彼らにとって水は村の共有資源である。

1村の西端の井戸。


2村の東端の井戸。村人が水を汲んだあと、辺りに残った水でイノシシが体を洗っている。


そんな井戸の脇に、中央政府が主導する貧困農村地域へのインフラ整備事業の一環としてごく最近、2017年の2月下旬から3月上旬にかけて、水路が作られた。いままで井戸の近くに垂れ流しだった生活排水を村の外へ流すためのものである。雨季には大量の雨が溜まって家の中まで流れ込むことがあるそうで、その冠水を防ぐためでもあるという。けれども、この水路は見たところ周りの民家の床高さよりも高い位置にあるので、果たして冠水対策に有効かどうかは疑問である。また水路の幅は40センチほどと幅広く、村に暮らす子供やヤギやニワトリなどの小さな動物たちは、自由に渡ることができなくなっているようであった。さらに水路は村の端で終わっており、汚水は周囲に広がってしまっている。間違いなく、必要なものと考えられて設置されたのであろうが、十分に村の生活を考慮したデザインとは正直言い難い。
現地の人に聞けば、こうした下水インフラ事業の失敗は、政府と村人との間のコミュニケーションの不足が原因であると言う。さらには、これまでの村の人々の暮らしと、画一的で場当たり的なトップダウンの施策との間にあるギャップを埋めずに事業を済ませてしまったことに問題があるのだろう。そんなギャップを抱えつつ、村の人々の生活は変わりつつある。彼らはすでに携帯電話をもち、プラスチックの食器や化繊の洋服を着こなす。かつての村の風景は確実に変化している。そして、新しくできた水路は、そんな村の風景の移り変わり、村の生活の変化を象徴している。

32017年2月。まだ水路は作られておらず、緩やかな窪みに沿って排水が流れている。


42017年3月。レンガを積み仕上げにモルタルを塗った水路が新しくできていた。向こう側には子ヤギが草を見つけて食べている。


こうした村の状況について、崩壊という言葉を付すのはおそらく正しくない。伝統が失われた、あるいは文化が消えてしまったなどという言葉をしばしば耳にするが、そこで生活を営む人々がいる限り、そんなことはありえない。人の生活とは断絶することなくその場所にあり続け、たとえ昔から在ったものが淘汰されて消えて、目に見えている生活様式が変わろうとも、生活を営もうとする彼らの意思は尊厳あるものとしてそこに存在し続けるからだ。

ありとあらゆる変化を受け止め、向き合うことが必要である。新たにできた水路、トップダウン式かつ無配慮な近代的インフラ設置もまた一つの変化として、その現在の有様に向き合うべきではないか。けれども、変化の筋径の先はまだ決まったものではない。そこに、デザインの力が必要なのではないか。先のインフラ施策のような、不可避かもしれない”大きな技術”普及の大波に対して、淘汰されかねない小さなモノもまたその大波を乗りこなし、大小入り乱れる世界として状況を変容させていく別種の技術、デザインが必要であるはずだ。それがこのケラダンガ村に滞在しての私の確信であった。場当たり的であり、現況に対する積極的受容性から生まれる前進主義とでも言えようか。

村での滞在中、ワークショップIn-Field Studioではディレクションを担当する傍ら、私自身も期間中、小制作に取り組んだ。村に設置された先の水路の上に、子供やヤギたちが自由に行き来できるよう、竹で組んだ幅1.5メートルほどの小さな橋を作った。竹の組み方は、一部村の人に縄の縛り方を教わりながら。ワークショップに参加した他の講師ら(Sapan Hirpara, David Bauer, Brendan Finney)も、それぞれ小さな橋を水路の上に作った。どの橋もそれなりの工夫を凝らしつつも、現場で調達できる材料でできた率直で素朴なデザインである。もちろん村の人々も作ることができる。おそらく私たちが作った小橋を使っているうちにさらなる改善すべき点が見つかるだろう。それを随時村の人たちが直していってくれることも予期しながら、作った。この小橋が、村のかつての生活風景と近代化の大波の技術を共生、癒合させる端緒とならないかと、かすかな希望を抱いている。

5小さな橋の制作。村人に縄の編み方を教えてもらう。


6制作した橋。段差ができないように踏み面を水路天端に揃え、両端の竹から吊り下げる構造としている。


7村の井戸の脇に設置


ラビンドラナート・タゴールは「国際主義とナショナリズムは矛盾せず、ヒューマニズムには国境がない」という言葉を残している。それからおよそ100年が経った今、所謂グローバリゼーションによって私たちは国境を越えて世界を自由に移動し、画一的に普及するテクノロジーが私たちの生活を取り囲むようになった。そんな現代世界において、タゴールの言葉はある新たな技術観、あるいはデザインの可能性を示唆しているようにも思える。つまり、「国際主義」と「ナショナリズム(=国民主義)」は、それぞれ”新しい大きな技術”と”古い小さな技術”に置換され、両者を矛盾なく繋ぎ留めるのが「ヒューマニズム」というデザインの根拠ではないか。「ヒューマニズム」とは何か、「ヒューマニズム」を備えたデザイン・技術とはどのようなものか、私はまだ全然わからない。けれども、古いモノが淘汰され新しいモノが生まれるその刹那の変容の過程を、絶えずその場所の人間あるいは生き物と共に注視することから生まれるデザインには、ある確信めいた強度があるのではないかと思うのである。

そんな理想めいた考えは、インドの暑さの中で朦朧と思い浮かんだ、というわけでもない。今私は日本で、そんな考えになるべく近づこうとしていて、そのフィールドが福島・大玉村でやっている活動「歓藍社」である。インドからは遠く離れてしまうのでこの投稿の中では詳述はしないが、歓藍社では福島原発事故後の村の生活風景をどのように自分たちで組み立て直すか、そんな取り組みの可能性を藍染の作業を通じて探そうしている。そしてインドで考えていることとほぼ隔たりなく繋がっている(一人の個人の活動なので当然といえば当然であるが)。7月中旬(16日-17日)には現地大玉村で小さな藍染のお祭りを開催する予定でもあり、今後も福島-東京-インドの複数拠点から創作の思考を紡いでいきたいと思う。ささやかな野心である。

8歓藍社 大地-農業-道具-建築-生活を一続きのモノとして思考することが一つの目標である。(言うは易く行うは難しではあるが)


さとう けんご

■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。福島・大玉村で藍染の活動をする「歓藍社」所属。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰。
URL: http://korogaro.net/

●今日のお勧め作品は、アントニン・レイモンドです。
20170707_raymond_02アントニン・レイモンド
《色彩の研究》
インク、紙
64.1×51.6cm
サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

駒込開店初日を迎えました。
ささやかですが、本日7日12時より、新しい空間のお披露目をいたします。

12時〜19時、ご都合の良い時間にお出かけください。
201707_komagome
立体:関根伸夫、北郷悟、舟越直木、小林泰彦、常松大純、柳原義達、葉栗剛、湯村光
平面:瑛九、松本竣介、瀧口修造、オノサト・トシノブ、植田正治、秋葉シスイ、光嶋裕介、野口琢郎、アンディ・ウォーホル、草間彌生、宮脇愛子、難波田龍起、尾形一郎・優、他

〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました(詳しくは6月5日及び6月16日のブログ参照)。
電話番号と営業時間が変わりました。
TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531 
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜18時。日・月・祝日は休廊。

12

JR及び南北線の駒込駅南口から約10分、名勝六義園の正門からほど近く、東洋文庫から直ぐの場所です。

◆佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第5回

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」

第5回 インドの先住民Santal-Kleladangaの人々の家づくりについて-その1

今年の3月、インド・西ベンガル州のシャンティニケタン郊外に位置するある農村に1週間ほど滞在し、現地のリサーチと村の修理を含む建設・制作を行うIn-Field Studio(http://infieldstudio.net/)という7日間の学校を開催した。講師を含めて日本からは10名が参加。インド西部のバローダからは15名、現地シャンティニケタン(インド東部)から17名、そしてドイツから2名が参加した。メンバーの専門は建築に限らず、ファッションデザイン、アート、社会学、そして生態学など多岐にわたった。国も言語も異なり、加えて専門も異なる人間による協同は、コラボレーションというよりもむしろ、ほとんどケンカあるいは牙むき出しの格闘技に近い荒々しいものでもあった。日本人とドイツ人はまず腹を下し、人によっては数日寝込んでしまったりとなかなかにその格闘での困難を強いられていた気もする。とはいえ得難い本格的な多元性という小世界が顕れ出ていたなという実感が、数ヶ月が既に過ぎてしまった今も込み上げてくる。

そんな雲集霧散な私たちの協同作業であったが、ある一つの探究すべき目標があった。それは現地の村の人々の生活である。見知らぬ人々の生活に接し、またその交感からモノづくりを始めようという意図があった。村の名前をケラダンガ(Kheladanga)という。彼らはサンタル族(Santal)というビハール州や西ベンガル州周辺のインド東部に住む先住民部族に属する。シャンティニケタンは詩人ラビンドラナート・タゴールが学校を創設したことで始まった町であるが、それよりはるか昔から当然サンタルの人々はその地に居住していた。村人の多くがヒンドゥーではないアニミズム的な土着信仰を今も続け、村の中でブタを飼い、食べる。また人々の婚姻もほとんどがサンタルの村間で行われているという。彼らはかつて狩猟を中心に行う非定住の生活をしていたと言っていた、いつの日か、恐らくは近代の英領インドの地税政策の整備の中で次第に定住し、村を成したのだと思われる。彼らは村の近くで農業を営み、休耕期にはしばしば町へ行って出稼ぎの仕事をしている。

彼らの村は運河に近い一本の細道に沿って両側に民家が並ぶ線状の構造を持っている。どの民家も土壁で作られていて道に面して小さな扉付きの入口を設けている。その入口をくぐり抜けるとまず中庭があり、彼らの生活領域が広がっている。彼らの生活は室内で完結しない。キッチンの釜場は庭の端にあり、また歯磨きの柳の小枝あるいは歯ブラシも庭の壁にかかっている。そして隣には鏡の破片が壁に埋め込まれており、どうやら皆この小さな鏡を使って身だしなみを整えているらしい。生活のための水は村の中央と端にある2箇所の井戸から汲み取ってバケツで運んでくる。どの家もヤギやニワトリ、ブタ、そしてしばしばウシを飼っている。ニワトリとヤギたちは民家の中庭に住んでいてしばしば外の道に出てくるが、ブタは放し飼いで道の傍らに彼らの寝床の小屋が建っている。ウシはブタ寝床の近くの軒下につながれている。村の道はまだ舗装されておらず自動車は通れない。なので村の中はとても静かで動物たちの鳴き声と子供たちの笑い声だけが聞こえて来る。

村の朝は早い。だいたい夜明けとともに家の中でゴソゴソと朝食の準備をして釜場に火をたいていた。朝ごはんが終わるか終わらないかの時間で、彼らは毎日家の土間の床を掃除する。水と土、そして釜場から出た灰汁を混ぜ、箒か布でそれをすくい取って土間に塗っていく。その塗る手の軌跡が土間にテクスチャーを残し、乾くとかすかな波形を描き出す。毎日掃除をする彼らの家にはゴミはほとんど落ちていない。壁も床も土でできているので、泥を塗っていく掃除は住居の補修にもなっている。入口や釜場の手前など、生活の要所のスポットには何やら円形の模様を描いている。聞けばおまじないだと言う。掃除という生活の日常と小さな信仰、そして家づくりがシームレスにつながっている。

1床掃除。多くの家がこのように壁の土台・基礎部分が盛り上がっている。壁と床の切れ目はどこまで同じ材料で掃除をするかで決まっていて、下地の土にほとんど差はないようである。


2釜場からとった灰汁を混ぜて床塗りの材料としている。


3床掃除は女の仕事であるらしい。彼女が手を振る弧の大きさで床の表情(デザイン)が決まってもいる


4家の中庭のいくつかの場所にこうした小さな円形の模様がある。


5ウシの糞と土を混ぜて床の材料をつくっている。これは先ほどの黒塗りをする前の下地で、壁の材料とほとんど変わらない(もしかしたら材料の配合には差があるのかもしれない)


ある家では外壁の一部を作り直していた。村の近くの林に彼らが使う土が取れる泥切り場がある。そこから土を自分の家の中庭へ運んできて水とウシの糞を混ぜて粘土を作る。そして型枠も何も無しに粘土を積み上げていく。およそ40センチほど積んだところで仕事をやめ、一週間ほど乾かしてからその上を作るそうだ。なので壁を作るのに1ヶ月ほどかかるらしい。粘土の壁ができたらその上に別種の砂と色粉を混ぜた土を塗って仕上げる。仕上げの色や模様は家ごとに、壁ごとに異なり彼らの村の風景を彩る。粘土の下地壁は男の仕事で、仕上げは女の仕事であるらしい。そしてまた、屋根葺きは男の仕事で、先ほどの床塗りは女の仕事であるらしい。自然な分業がなされているのだ。そんな感じで、彼らは家のどこかでいつも小さな補修現場をやっている。家づくり、あるいは家直しは字のごとく、「家事」の一つであるのだ。
何回かここで彼らの家づくりを断片的に記していきたいと思う。

6村の裏の林にある泥切り場。ここから土を運んでいく。


7壁づくりの様子。成形するための道具は彼の手である。筆者もやらせてもらったがこれがなかなか難しい。絶妙な土への接する時間と手を動かす速さが必要だった。


8別の家でも壁をつくっていた。こちらは既にあった壁の補修。


9「Kheladangaのニワトリ」佐藤研吾、40x30cm


さとう けんご

■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰 (http://infieldstudio.net/)。 URL: http://korogaro.net/

●今日のお勧め作品は、元永定正です。
20170607_motonaga150520_20元永定正
《とんぼみたいな》
1979年
シルクスクリーン
イメージサイズ:60.0×45.0cm
Ed.150
サインあり


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◆佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第4回

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」

第4回 スタジオ・ムンバイの洗練された野暮の詳細について

唐突だが、最近の筆者のインドでの拠点らしき場所は、バローダ(Vadodara)というインド西部の小都市と、シャンティニケタン(Santiniketan)というインド東部の小さな町の2つである。 どちらも何となく、さあ時代を下ってみよと諭してくるようなジットリとした少しばかりの古めかしさを感じさせる場所だ。文化も人々の気質も異なるインドの西と東の間の往還は、さらに遠い東からやってきた(ヨーロッパ中心とすれば極東)自分にとっては、広大なインドという大地を見渡すにはなかなか良い経験になってもいる。東西をひとまず踏査したとなれば、じきに北へ南へそして中心へと突入していかねばならないが、 残念ながら私は南と中心にはほとんど行ったことがない。今回はその一端を垣間見ることができた北インドの滞在記(滞在といってもこの時はたった1日)を綴ることにしたい。

2017年2月下旬の朝、デリー空港からRishikesh行きの飛行機に乗る。プロペラ機のようなとても小さな飛行機。航空会社はSpice Jetというイカした名前をしている。50分ほどでDheradun空港に到着。山に囲まれ空気の澄んだ場所である。標高はおそらくけっこう高い。ヒマラヤにほど近いインド北部に位置するRishikeshはかつてのThe Beatlesがヨガの修行をやった地としても有名で、山を切り開くように渓谷となって流れるガンジス川に沿って数多くの修道場と寺院が集まる場所である。あいにく今の自分はあまりYOGAの瞑想には興味が無いので、今回はその聖地には行かずに空港近くのホテルに立ち寄り荷物を置いて、早速Maki Textile Designの新工房「Ganga Maki Studio」へ。タクシーの運転手をあっち行け、いやコッチだ、などとナビしながら向かう。新工房はRishikesh中心部からはいささか離れた郊外にある(地域的にはDheradunか)。民家と畑が交互に現れて緩やかに登っていく細道を抜けてしばらくしてスタジオに到着する。オープニングセレモニーをやるとのお知らせを年初めに聞き、今回バローダから飛行機を乗り継いで向かったわけだが、自分はインド国内からの出席なのでとても近場の来訪者のようだ。多くの人が日本からはるばるやってきている。布やファッションの関係の人々も多い。
新工房はムンバイに拠点を置くStudio Mumbai Architectsの設計である。日本ではまだ実作は無いが、数年前に東京のギャラリー間他で展覧会が開催されており、その展示物の特に木の加工の精度の高さと使われている材の硬さにびっくりした記憶がある。

DSCN6103台地状の小山を背後に据える新工房


新工房は背後に横に長い小山を背負い、傾斜する広大な敷地に沿って幾つかの建物が配置されている。一本の坂道を軸として両側に建物が並び、登った先には工房の人々が住む宿舎が並ぶ。高台に建つ宿舎からはリシケシの盆地を一望できる巨大な風景が広がっていた。宿舎の各部屋は横並びになって石造の縁側で繋がっている。縁側は地面から600mmほど上がったところにあり、およそ150mm角程度しかない石の柱で石の扁平梁を支え、さらにその上に同種の石の薄板が屋根材として敷かれている。この詳細にはいきなり仰天した。扁平梁と柱の接合部は初歩的な組手で納められており、寸法は明らかに木造のそれである。が、この扁平梁は400*30mm程(正確に寸法とれず)という木造の架構ではまず不可能な奇妙な造形で、その上にただ石板が並び載っているだけなのだ。石という重い素材でなければ、この「ただ置くだけ」という淡白単純なディテールは生まれないのだろう。モノとモノの単純な接合はそれらの物質の重さを消し去り、量塊の浮遊を際立たせる。ギリシャのパルテノン神殿然りの石造による木造架構の模倣かとも考えたが、空間のスケールはパルテノンのようには全く逸脱していない。なんとなく、木造の架構に見えたのは単なる寸法の近さだけでは無さそうで、素材の重さと接合部の納まりの関係が生み出すある絶妙な力学(物理的なというより美学的な)がその架構に独特の浮遊感を与えているのかもしれない。ミース・ファンデル・エ・ローエがバルセロナ・パヴィリオンでやった、巨大な地層的断面を露出させた大理石の薄壁における石の模様と目地の万華鏡的関係に近しい。素材が本来持つ暴力性をいかに統御するか。スタジオ・ムンバイは素材への関わり方の原理を、こんな実践の中で掴かみとっている 。

DSCN6098宿舎手前の回廊


坂道に面する建物の通路を抜けると、四方を建物で囲まれた中庭がある。周囲の建物の屋根は中庭に向かって軒を下げ、その中庭の地面もまた傾斜にそって窪み、建物と建物の間を抜けて下の斜面に続いている。大地と雨水の流れに沿った率直なデザインである。下の斜面に続く細道は西面し、夕方には下からダイダイ色の柔らかな陽の光が細道を抜けて中庭の地面を登ってくる。素朴さと崇高さを紡ぎ合わせたかのような、あるいは素朴と崇高が表裏一体となった、そんな場所であった。勾配を急にしている屋根材は、ここでは金属板の竪ハゼ葺とポリカの波板、そして一部に藁葺きの組み合わせである。隣の石板葺と並ぶといささか拍子抜けするような珍妙な構成であるが、どちらも現地では安い素材という意味で共通している。論理の物足りなさというよりかは、各所における緩急のついた論理の深度の振れと合理的判断の両者を同時に鑑みるバランス感覚が敷地全体に貫徹されているのを感じた。それは、ともすれば無配慮無頓着が生み出す偶発のもののようにも見えるが、大工が作った建物を納得するまで何度もやり直させたスタジオ・ムンバイの核、ビジョイ・ジェイン氏による現場での決断の積み重ねによる必然の状況なのであろう。

DSCN6121中庭で行われた、ツガイの牛たちによる儀式


先ほどのポリカの波板でできた軒屋根は極太の竹の架構で支えられている。接合部では金物は一切使わずに径2-3mm程のオレンジの細紐で丁寧に緊結されている。荒々しいかつ簡素な素材の扱い方として、ある種のモダンな要素を付与するこうしたデザインが有効なのは確かであろうが、この軒はそれだけで終わらない。軒の先端に目をやると竹を半割にして作った雨樋が取り付いており、その雨樋を支持する部材がとても奇妙な造形をしている。太竹を加工し手桶の取手のような部分を突き出して、まるで巨大な昆虫が勢い良く外に飛び出すかのようにポリカ屋根下に並んだ小割りの竹に括り付けられているのだ。先ほど、「素材の暴力性の統御」という言葉を書いてみたが、この雨樋支持のディテールにおいては、素材の暴力性を造形によってより増幅させ、あたかもその暴力がその部分になければならないという必然を帯びさせることで、自然の理の如きモノの根元的な在り方を模索している。

DSCN6060庇端部に取付く竹の雨樋の詳細


そしてこの軒屋根廻りで最も鋭い仕事をしていたのはなんといっても梁竹の端部処理である。一見ただの無垢の丸太だろうと見えていた梁の木口は、なんと穴の空いた竹に別の竹の塊を叩き込んだものであった。構造材の木口をどのように表現するかは素材間、部材間の自由な応答関係を実現しようとする作家にとって見過ごせない部分である。建築はすべからく有限の材料の量と種類の組み合わせによって生まれるわけだが、材料の切り出しはそうした有限性の設定であり、材料の切断面一つをとっても、その作家の素材との格闘の有様を窺い知ることができるのだ。始めから無垢材を叩き込もうと考えていたのか、それとも架構の出来上がりを見た上で場当たり的に叩き込んだのかはわからない。けれども結果として、無垢片を叩き込まれた竹材は本来の竹に抱く空洞の観念を消し飛ばし、どっしりと重い架構のフィクションをそこに現出させている。野暮な素材を相手に頑なに批評的な眼でもって繰り返される様々な試行錯誤がこの新工房には横溢していた。
スタジオ・ムンバイの仕事は、しばしばインドの手仕事の濃密さや、インドの粗野な風土から抽出される洗練のデザインとして形容されがちである。けれども今回の訪問では、「インド」という分厚いヴェールを剥ぎ取った先にある一人の作家の生々しいマテリアルとの応酬の様をこのプロジェクトで目撃した。ようやく、自分自身からも異なるものとしての「インド」が脱色され始めたのかもしれない。

DSCN6074軒を支える竹の端部処理


さとう けんご

■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰 (http://infieldstudio.net/)。 URL: http://korogaro.net/

●今日のお勧め作品は、石山修武です。
06石山修武
「NARUKO」
1998年
ドローイング
54.0x38.0cm
サインあり


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◆佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第3回

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」

第3回 Bishnupurのムクリ屋根

この文章を書いている今の筆者は、ウェストベンガル州のシャンティニケタンで期間限定の学校(In-Field Studio)をやってきた直後の帰りの飛行機にいる。本来ならばその体験をここにザッと綴ってその生々しさを定着させるべきなのであろうが、如何せんその期間を全速力で駆け抜けた結果の食傷気味(しかも昨日大きな川エビを食べてしまいそれがどうも具合が悪い)なのである。消化にもうすこし時間がかかりそうなので、ならば付かず離れずと言ったところのシャンティニケタンから南西に100kmほど離れた場所に位置するBishnupur寺院遺跡群に飛んで行ってみたい。

01


Bishnupur(ビシュヌプル)にはウェスト・ベンガル地域特有と言って良いムクりのある屋根を持つ寺院建築が数多く残る。かつて17世紀頃には王朝があったが、今はその廃墟めいた遺構 が残るだけで、いくつかの小さな農村集落がその遺跡群と共に点在している。
四方の軒先を垂らしたような曲線を描く屋根を持つBishnupurの寺院建築は、雨量の多いこの地域の工夫の成果であるらしい。オーナメントの造形は明らかに木造架構を模しており、屋根の造形は藁葺小屋の有機性からきているものかもしれない。近くの集落の簡易な土壁で作られた民家の屋根も、今は多くがトタンの波板で作られているがなんとその屋根もムクれている。板自体の形を切って加工しているわけではないので、おそらく梁と垂木を載せている外壁上部の形状がすでに彎曲しており、そこに垂木と屋根板材を押し付けて固定しているのであろう。その証拠に軒先端部には針金で下に向かって引っ張りがかけられていた。板材の無かった昔は当然藁葺きでこの形ができていたのであろうが、素材を換えて完全レンガ造の寺院建築にも踏襲されていたのかと思うととても興味深い。建物の素材や架構技術を超えて、 大地と建築造形の間に極めて洗練された関係性を見出すことができるからだ。そしてBishnupurの寺院遺跡群はこのムクリ屋根に呼応するかのように建築全体を変形させ絶妙なバランスを成している。

02


いくつかの建築の立面は屋根のムクリに合わせて表面材の形状も平行四辺形状に扁平させていた。これは木造架構時点での表現展開というよりもレンガ積造となった後での独自の洗練の形であろう。土着的形状の模倣と踏襲から生まれたデザインが建築全体の力学の系を統序しており、それは構造表現を中軸に据える近代建築のデザインに引けを取らない。むしろBishnupurの建築群のデザインは、構造力学という内的な原理ではなく、水の流れという外側の環境に素朴に応じた造形表現を志向していることを考えれば今の時代にこそダイレクトに突き刺さるデザインである気もするのである。

03


周囲に民家風の屋根を配して中央にピラミッド状のヴォリュームを据えたこの寺院なんかは明らかに記号的操作であり、密教的な神話的世界の表現にも通底するものがあるのではないか。連続ムクリ屋根の下はそれとは関係なく一続きのボールド天井の内部空間がある。イスラム建築などはドームの内外の機能と形状がハリボテのごとく一致、むしろ外部意匠が内部空間に帰属している。しかしこのベンガルの建築は内部と外部がまるで一致していない。日本の書院造の飾り天井と同じ考えであり、構造から自由になった表現が生んだ内外の乖離である。

04


05


Bishnupurの建築群の中でも特に驚いたのが、この双頭の建築である。二つの大きくムクんだ切妻小屋状が横に並んでド真ん中に無骨な直方のヴォリュームが載っている。こじんまりとしていながらも端正で構成的なデザインである。けれども、反対側に回ってみて度肝を抜かれてしまった。ヒンドゥー建築の基本は左右対称、平面的線対称だと思っていたが、この建築は入り口が片側の一つにしかない。反対側にはフェイクのアーチ装飾すらないのである。わざわざ同じ二つの小屋を並べたのに開口部で対称を大きく崩している。中国にこのようなデザインのものがあるかどうかはわからないが、少なくとも日本では近世初頭の書院造の代表である園城寺光浄院に見ることができる。光浄院は九間の会所空間からの変形と周囲の折り重なった動線計画の末にあのような表現が生まれたとも考えられるが、ベンガルの、Bishnupurの建築がいかなる環境下でこのデザインを持ち得たのか想像は尽きない。半ば様式化された寺院建築がそれぞれにトランスフォームしていく様は、まさに人間の生活がそのまま反映される民家の生きた姿と同じものがあり、ベンガルの建築たちの伸びやかさに憧れを抱くのである。

03sato佐藤研吾
「インドの子供と椅子」(40cm×30cm)


さとう けんご

■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰 (http://infieldstudio.net/)。 URL: http://korogaro.net/

◆佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。

●今日のお勧め作品は磯崎新のドローイングです。
053磯崎新「作品」
1986年
コンテ、パステル、紙
45.8×75.0cm
サイン、年記あり、為書きあり

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第2回

佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」

第2回 タゴールの落書き

ラビンドラナート・タゴールの文学作品について、残念ながら私はベンガル語の原文で彼の詩を読むしかできないのであるが、優れた訳書の数々によってとても美しく情熱高い言葉の連なりに出会うことができる。私はヒンディー語、ベンガル語、そしてその他のインドの地方言語の区別もあまりついていないし、文字の判別はもっとできない。ベンガル語について私が分かるのはシャンティニケタンの友人が時々”〜オーム”、”〜ロウー”などという語尾を会話の節々に出したりするのが耳に残っているくらいだ。
タゴールは詩や戯曲、エッセーや文明論など数多の文章を残している。けれども私がもっとも興味を抱いているのは彼が残した絵画についてだ。文学作品に比べてあまり広く知られていないが、タゴールは70歳を過ぎた頃から実に多くの絵画作品を作っている。人間と動物たちが光と闇の中で溶け合うような、どこか翳りのある絵の数々。彼らはしばしば異形の造形を持ち、画面の中で伸びやかな曲線のコンポジションを作り出している。それらの絵からは、タゴールの詩やベンガルへの愛溢れる躍動するエッセーとは全く別種の、静かでとても重い不動の存在感を感じるのである。

170224-1*1
タゴールの詩稿ノート


170224-2*2
タゴールの詩稿ノート


タゴールの絵の始まりは、どうも彼が詩稿を練る最中に紙に書いた言葉を塗りつぶしたりした時のインクの塊らしい。 それが文と文の隙間や紙面の余白にまで延び続き、蛇になり、鳥になり、そして人間となっていった。小学校の頃誰もが一度は勉強の合間、ノートの隅に落書きをしたことがあるのではないだろうか。彼はその些細な落書きを、彼の膨大な執筆作業の中でコツコツと育て上げた。それは文字を書き続けた彼の時折の余暇でもあったのであろう。ペン先の動きに任せてそのままインクを紙に染み込ませ続けた結果、描かれた造形が次第に生命力を持ち始めたのである。彼は後に「絵が黙っているように、私は説明など出来ない。絵は表現するが、言葉をもって叙述するものはなにひとつない」とも語っている。言葉の偉人であるタゴールによって、行間や紙の余白から言葉にならない、えも言われぬ造形の数々が生み出されたということが興味深い。彼の才能の多彩さに感服するとともに、絵を描くこと、造形することが持ち得る世界の広大さを改めて痛感する。

170224-3*3
「獣形フォルムに乗る小鳥」


170224-4*4
「花咲く木と女」


老年になってタゴールはその詩稿に描かれたモノたちを画用紙やキャンバスの上に展開し始めた。その絵はとても、暗い。詩稿での描画と同様、 彼らは入念にインクあるいは顔料で塗り込まれている。 粗々しい筆使いであるが彼らははっきりとした輪郭を持つ。よく輪郭を見てみると実は鉛筆の下書きによって周到にその造形が描かれ、また場所によってははみ出た絵具を丁寧に削り落として輪郭線を作り出してもいる。有と無の明確な境界の設定、生き物たちに確たる造形を与えようとするタゴールの意思が伺える。人間か動物かの分け隔てはそこにはなく、ただただ生きているということを自身の体の造形を持って表明しているかのようだ。そしてしばしば本来あるはずの手や足といった体のパーツは捨象され、彼らは顔を持った一つのオブジェクトとして画面の中に横たわっている。なんとなく、横たわる、という表現が合っている気がしている。ゴロンと大地に座り込み存在感を辺りに漂わせつつ、静かに外界の様子を伺っているような、ドクンドクンと大地と共振する彼らの生命の重い鼓動が伝わってくるのだ 。

画像:
*1 =http://blogs.wsj.com/indiarealtime/2011/12/08/rare-tagore-notebook-up-for-auction/
*2 =『Architecture in Santiniketan :Tagore’s concept of space』Samit Das, Niyogi Books,2013。
*3,4 =『ラビンドラナート・タゴール 生誕150周年記念号』Public Diplomacy Division Ministry of External Affairs Government of India 。

さとう けんご

■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰 (http://infieldstudio.net/)。 URL: http://korogaro.net/

●本日のお勧め作品は、六角鬼丈です。
20170307_03六角鬼丈
「奇想流転(奇合建築)」
2017年 シルクスクリーン
Image size: 41.5x69.0cm
Sheet size: 56.0x75.0cm
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◆佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。

新連載・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」第1回

新連載・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」

第1回 シャンティニケタンの大地と生活

 ラビンドラナート・タゴールと岡倉天心、そして宮沢賢治のかつての活動を複合・融合できないかと考えている。融合とは、彼らが遺した何某かを掴み取り、自分の活動の端緒としてみたいということだ。皆およそ100年前の人間たちである。けれども彼らにはいささかの古臭さも感じない。感じない、ととりあえず思い込んでみることが肝要である。最近めっきりはまってしまった石川淳の『狂風記』で出てきたように、過去を掘って掘って掘り進めてみればバッと未来を掘り出すことができる、という妙な確信めいたものも感じてのことでもある。少なくとも彼らは、若輩の自分には未だ到達し得ない知見と活動の次元を持っていた。最近しばしばインド(と東北)を訪れることになってより一層彼らの活動の凄みを肌身で感じるのである。経済が上がり調子でかつ人口もいまや中国を抜きそうかというくらいに過密に発展するインドにおいてその都市の空気を感じるとともに、発展あるいは進展の根にある“Indian-ness”とは何なのだろうか。さらにはその根を育てるインドの大地とはどのようなものなのであろうか。そんな空想を一人、異邦者として思い巡らせている。
 タゴールは1901年にコルカタからおよそ200km北の広野であったシャンティニケタンの地に一つの学校を創設した。それはたった6人の教師と5人ほどの学生からなるとても小さな学校であったという。このシャンティニケタンを拠点としてタゴールは自らの創作活動を続け、またインドの古典や伝統文化を強調し、主たる言語としてベンガル語を採用しつつも、日本や中国、そして中東文学にも触れる国際色豊かな教育環境を生み出し海外からの講師や学生も集まった。当時コルカタに存在した政府官僚育成のための教育機関のプログラムとはまるで異なる、規律で縛るのではなく自己の発意によって知識を得ていく、ある種「インフォーマル」な学校の創設であった。授業の多くが屋外で行われ、先生と学生らは木の下に円座して学びの場が作られた。タゴールは1921年に後継のVisva-Bharati大学を設立し、1世紀以上経った今も大学の構内では木の下に円座して学んでいる美しい光景をみることができる。そしてほぼ同時期の1922年に隣のシュリニケタンに農村復興機関(シュリニケタン協会)を設立した。農村の人々が経済的な自主独立を果たし、またかつてのインドがそうであったように文化的生活の復興の両立を目的として近郊農村での教育活動および農業技術発展の試みがなされた。地域性あるいは土着性への内的志向と、国境を問わず異なる文化圏へと知見を押し広げていくヴェクトルが交錯し、さらにはその重合する人間活動を豊潤な自然が包み込む、確かな意思に基づく理想的な実践、実験の場が生まれていたのだろうと思う。

170127-1シュリニケタンの青空教室(※1)


170127-2旧シュリニケタン農場(※2)


170127-3現在のVisva-Bharati University授業風景


 そんな一世紀前の光景を想像してみようと私は2016年秋、シャンティニケタン周辺の農村を訪れた。シャンティニケタン周辺の幾つかの村は当然ながらタゴールが学校を作るはるか昔からその地にある集落である。ある部族集落の民家を訪問する。小さな庭にニワトリとヤギと牛を囲っている。入り口の門には小さな赤い印があった。神様を示しているらしい。民家は竹とPalmツリーという南国由来のヤシの木を骨組としている。Palmツリーは日本ではあまり馴染みの無い木であるが、表情は荒く硬い材なのでしばしばこの地域の基礎や、屋根の架構としても使われている。別の村Kheladanga(Kendangan) やSantalには何やら家の壁に様々な立体的オーナメント(壁画)が描かれてあった。また壁の足元は若干基壇状になり 黒色と赤色の別種の土で塗り分けられている。聞けばVisvaBharati Universityの芸術家が作品制作の手伝いとして村の人を雇い、村人は技術を習得し持ち帰り、独自に自分たちの村で実践をしているらしい。芸術と民俗の融合をここで見つけた、と強く感じた。タゴールが追い求めた生活の一端が、あるいはインド農村が歩むべき所謂近代化とは別種の径の可能性がここにあるのではないか。異邦孤高の我が境遇によって極論めいた確信をその時抱いたのである。

170127-4Keladanga村の民家の門


170127-5Santal村のはずれに位置していた民家の壁


 村々を訪問したその日の夜、知人の紹介で彼の師であるRaj Kumar Konar氏の元を訪れた。彼はVisva-BharatiのSilpa-Sadana(インダストリアルデザイン)の教授であり、Santiniketanの良心的知性の持ち主であった。二時間ほど絶え間無く彼は喋り続けていたが、最も私にとって重要であったのは、インドの建築の始まりはTheater, Dramaであるとの指摘である。そしてタゴールもまたそうした空間感覚を持っていたのだという。建築は凍れる音楽であるという言葉をしばしば見かけることもあるが、Dramaという人間の身体が場所と、大地と共振するその姿に建築の始原を見出すその感覚が素晴らしいと思った。
 また現代のシャンティニケタンの農村にはすでに本格的なクラフト・工芸文化は失われつつあるとの指摘もあった。商品経済がすでに浸透しそのための労働に成り代わりつつある、とも。Vernacularであればベンガル南部の奥地の村落を探したほうが良い。そこには家具の無い、土の文化があると。
 彼の言っていることはかなりよく理解できる。
 良くも悪くもタゴールが設立した大学は、土着の周辺村落に大きな影響を与えて現在にいたる。それは当然タゴールが意図したことでもある(Rural-development Dept.の設立など)。先述のように農民経済の回復と土着文化の精神性の復活こそがシャンティニケタンの地に学校を作った目的でもあった。その資質は100年の間に変容し、インド国内貨幣経済の普及によってその発展の方向性を変えざるを得なかったのだとも思う。
 けれども、だからこそ今、その地で取り組む必要があるのではないか。ある種の崩壊過程、大地の変容過程にこそ、現代の創作につながる筋道を見つけなければいけないのではないか。未だ幸い残存する辺境の未開文化を探し求めても仕方が無い。環境は時間とともに変わっていくとしても、どんなに叩きのめされても消えないものこそがその場所の"伝統"としてあるのだと考えたい。

170127-6Keladanga村のウシとヤギ(スケッチ)


※1,2=『ラビンドラナート・タゴール 生誕150周年記念号』Public Diplomacy Division Ministry of External Affairs Government of India。その他は筆者撮影。
さとう けんご

■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。インドでデザインワークショップ「In-Field Studio」を主宰 (http://infieldstudio.net/)。 URL: http://korogaro.net/


*画廊亭主敬白
路あるところでは私は私の道を見失う
大海には 青空には どんな道も通っていない
路は小鳥の翼の中、星の篝火の中、移りゆく季節の花の中に隠されている
そうして私は私の胸にたずねるーーお前の血は見えざる路の智慧をもっているかと。
      タゴール詩集より(山室静訳)

まだ若い建築家による新しい連載のスタートです。
佐藤研吾さんを知ったのは建築家の石山修武先生のスタッフとしてですが、彼がインドに渡りワークショップを開催している話の中にヴィシュヴァ・バラティ大学の名が出てきて、思わずあたまが半世紀前に飛びました。
祖父篠原龍策が蔵書を売り払ってまで資金繰りに奔走し土浦の地に己の理想をかけた女学校を建てたのは昭和の初期でした。母も小学校の教師でした。どうもその血が騒いだらしい。詩集『ギーターンジャリ』によってアジア初のノーベル文学賞を受賞したタゴールに憧れ、小さな野外学校から出発したヴィシュヴァ・バラティ大学に留学したいと本気で考えたのでした。そんな夢はとっくに忘れていたのですが、佐藤さんの話で懐かしく思い出したのでした。
前回の佐藤さんのエッセイ<『異形建築巡礼』を注釈する>もあわせてお読みください。

●本日のお勧め作品は、石山修武です。
20170207_1713石山修武
「谷に残った者たちは安穏にくらした」
2017年
銅版
イメージサイズ: 60.7x44.8cm
シートサイズ: 74.3x53.5cm
Ed.3  サインあり
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●本日の瑛九情報!
〜〜〜
近年、国内ばかりでなく海外での瑛九評価が高まっています。今月に入ってからもアメリカから二組のキューレターや画商が瑛九作品を見にわざわざときの忘れものにいらっしゃいます。
宮崎で生まれ育ち、浦和で亡くなった(死んだのは東京の病院で)瑛九は生涯ただの一度も日本を出たことはありません。
中学校すら出ていない(つまり小学校卒)瑛九はしかしエスペラント語を学び、海外の雑誌や画集を取り寄せ、海外の動向にも目を配り、思考は常に世界的な視野を失いませんでした。
その瑛九の夢は自分の作品(ことにフォトデッサン)が世界の舞台で評価されることでした。
海外での作品発表の機会がただ一度ありました。
1953年1月、PIP(Photographic International Publicity)という雑誌から、オリオン商事という版権の専門会社を通じてニューヨークで個展を開催しないかという話が持ち込まれ、瑛九は自分のフォトデッサンが国際的なレベルでも評価されることを確信して、小判(四つ切)15点、大判(全紙)25点の計40点のフォトデッサンをアメリカに送ります。

僕も遂に米国から大きな申込みがやってきました。多分父上からそのことに就てはお聞き下さったでしょう。家内が父上へ手紙を書きましたから僕からは詳しく申上げません。
僕は今度こそ僕にとって絶好のチャンスだと思ってゐます。おそらく、僕の一生のうちで最も大きな事件となるでしょう。・・・

  (1953年3月9日 兄の杉田正臣宛 瑛九書簡より)>

欧米での作品発表に向けての瑛九の高揚した思いが伝わってきます。
しかし、残念なことに個展は実現せず、同年3月にアメリカの有力写真展「トップス・イン・フォトグラフィー展」に僅か5点が出品されただけで、のちに(3年も経ってから)二つの写真雑誌「フォトグラフィ」と「アート・フォトグラフィ」に紹介されただけで終わりました。
RIMG0765_トリミング_600
瑛九
浴み
1952年頃
フォトデッサン
(ゼラチン・シルバープリント)
26.5x21.6cm
*国際的な舞台での発表を夢見て、瑛九がニューヨークに送った作品です。

RIMG0768_裏面
P.I.P. PHOTO BY
PLEASE CREDIT
ORION
QE-44 Bathing, Photo Dessin, by Kyu Ei

THIS PHOTO IS SOLD WITH
ONE TIME PUBLICATION RIGHTS ONLY
P.I.P. 173 WEST 81 ST. NEW YORK 24. N.Y.
鉛筆で「浴み」とあり


瑛九の生前に果たされなかった夢は、私たちの時代で何とかして実現したい、そう思うこのごろです。
〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催中です(11月22日〜2017年2月12日)。野外応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

●<今月のお勧め作品>を更新しました。

◆新連載・佐藤研吾のエッセイ「大地について―インドから建築を考える―」は毎月7日の更新です。

佐藤研吾のエッセイ〜『異形建築巡礼』を注釈する

『異形建築巡礼』を注釈する

佐藤研吾


 日本の文化的地点に関して極めて自覚的な書物である。また、ともすれば海を渡り時空を飛び越えて世界の諸地を諸文明を疾風の如く猛然と、嵐のような筆致で闊歩する本である。そして何よりも読者が念頭に置くべきは、この本(連載)は著者、毛綱毅曠と石山修武の二人のタイマン勝負の舞台であること。よって読者はどこかへ置き去りにされることもしばしば。毛綱が先攻でその博覧の大波によってあらゆる奇物、奇怪を召喚し、対する後攻の石山は人間の性とも言うべきの生々しい創作の営為の数々を書き綴る。両者一歩も譲らぬ攻防、いやというよりも殴り合いの計八番勝負である。そこへ横から注釈を添えようにも、一矢すら報いる隙は無し。しかしそれでもと、両著者の吐息(荒息)が立ち込める本書の頁の画面にわずかに空いた上下のマージンに兎にも角にも小文字を埋めていく。むしろとりあえず画面を埋めなければ、40年前の両人は振り返ってみてもくれない。最低限のマナーである。40年前の両人とは、毛綱毅曠、石山修武ともに30才前後の青年である。つまり自分とほとんど年がかわらないではないか。明らかなレベルの差に心の底から震え上がり、けれどもコノヤロウと注釈作業に没頭した。
 この本では、唯の一言で言い表してしまう、言い切ってしまうような淡白で理知的な言葉は存在しない。言い切ることのできないモノを探そうと両著者は数多の言葉を積み重ね、これでもかと言葉が言葉を呼び寄せる。けれどもそれが詩人のようなエッセーに出てくる抽象的な言葉などではなく、常に具体的な何モノかの事象が持ち出される。幸い、具体物が本文に登場してくれればこちらの注釈作業はその具体に没入することで、本文の言葉の巨山から抜け出ることができるのである。そしてこちらも負けじと具体物の情報を加えていく。注釈という従属関係にある立場をわきまえつつ、巨山とまではいかずとも頁によっては小さな丘程度の盛り上がりとなった注釈の群を本文の巨山に添え、あわよくば一帯の連峰として本文に接続させる。
 今の時代に本書が復活したその心は、現在という時代そのものもまた異形であるということだ。この本は過去の異形な遺物を収集したカタログ本では全くなく、明らかにモノの根原を凝視しようとする創作論としてある。著者二人のための創作論ではない。建築という創作世界自体を問い詰めようとする探求の書であり、その命題は広大甚大で現在もなお我々の前に横たわっているのである。巻末に付された石山の新論考「異形の建築群」は40年前の本文群に対する現在からの応答=注釈であり、探求は今なお続いていることを著者自身が表明してくれている。我々は心してその探求のキャッチボールの球の行方を追走すべきだろう。

(さとうけんご)

20161220石山修武異形建築巡礼
石山修武編著/毛綱毅曠著
2016年
国書刊行会
335ページ
26.5x19.5cm


20161220石山修武_目次目次
(クリックしてください)

■佐藤研吾(さとう けんご)
1989年神奈川県横浜生まれ。2011年東京大学工学部建築学科卒業。2013年早稲田大学大学院建築学専攻修士課程(石山修武研究室)修了。同専攻嘱託研究員を経て、2014年よりスタジオGAYA。2015年よりインドのVadodara Design AcademyのAssistant Professor、および東京大学工学系研究科建築学専攻博士課程在籍。 http://korogaro.net/

*画廊亭主敬白
〜〜〜
 厳しい冬の季節になりました。
 このたび、亡き盟友毛綱モン太(毅曠)と併走し、廃刊になった雑誌月刊「建築」に50年弱の昔に連載した「異形の建築」を、国書刊行会より初めて単行本化する運びとなりました。
 今の時代は何処にも異形の影も形も見当たりませんが、それだからこそ再び世に問うのも意味ないことではあるまいとも考えました。
 それ故、新しく100枚程の書き下ろしも加えました。そんな事で出版記念の集まりを持ちたいと考えました。
 お忙しい折ですが、是非当日もご参会下さいますようお願い申し上げます。
 最後になりましたが、お身体を大切にご自愛ください。
2016年10月吉日 石山修武
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・-
『異形建築巡礼』出版記念パーティ
日時:2016年11月25日(金)18時30分 ・ 20時00分(開場:18時)
会場:国際文化会館東館地下1階 岩崎小彌太記念ホール
発起人:安藤忠雄、安西直紀、伊藤毅、酒井忠康、坂田明、菅原正二、鈴木杜幾子、難波和彦、松村秀一、渡辺豊和、渡邊大志
〜〜〜
『異形建築巡礼』出版記念パーティに植田実先生のお供で出席しました。
帰りに渡された本は厚さが2.8cmもある。いまどきこんな厚くて重い本、誰が読むんだ、とぶつぶついいながら寝しなに読み出したら止マラナイ、面白いんである。お経みたいなクセのある毛綱先生の文章に、歯切れのいい石山節がつっかかり、文字通りガチンコ勝負の名著なのだが、面白いのはそれだけではない、本文の上下にびっしり詰まった「註」が凄い。
奥付を見ると、三者連名である。
 編著   石山修武
 著    毛綱毅曠
 注釈   佐藤研吾

鬼才二人の名文に堂々と渡り合い、335ページの大著に<クロード・ニコラ・ルドゥー>から<伝家の宝塔>まで402個もの「註」を加えたのがまだ20代の若者と知り、早速原稿を依頼しました。考えてみれば雑誌に連載時は<毛綱毅曠、石山修武ともに30才前後の青年>だった。まだ佐藤研吾さんは生まれていないけれど、時を超えて三人は同世代なのである。

本日の瑛九情報!
〜〜〜
瑛九のほぼ全てのリトグラフ作品を所蔵し、1974年から2010年まで、実に7回もの瑛九展を開催してきたのが山形県酒田の本間美術館です。
瑛九リトグラフ展」 1974年 (昭和49) 2月2日〜2月23日
瑛九石版画・館蔵品展」 1983年 (昭和58) 12月1日〜12月24日
瑛九とその仲間たち」 1988年 (昭和63) 3月1日〜3月31日
瑛九、泉茂、利根山光人、靉嘔、四人展 一1950年代の作品を中心に一 」 1996年 (平成 8) 2月1日〜2月25日
1998年本間美術館・瑛九リトグラフ展
瑛九リトグラフ展」 1998年 (平成10) 4月8日〜4月28日 >

瑛九とデモクラートの作家たち・戦後前衛の探求」 2002(平成14) 12月3日〜2003年 (平成15)1月22日
没後50年 瑛九リトグラフ展」 2010年 (平成22) 11月25日〜12月20日
7回もの瑛九顕彰展を開いた本間美術館、瑛九とは一見無関係に見える酒田の町とそこに住む人たちについては、このブログで幾度か触れてきましたのでお読みください。
世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか:2011年02月02日>
酒田大火、その復興に尽力した人々:2011年02月03日>
酒田大火から40年:2016年10月29日>〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。
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ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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