「本間美術館と瑛九」

田中章夫


 本間美術館は第二次世界大戦の敗戦から間もない、1947年(昭和22)5月に開館し、本年5月に70年目を迎えます。開館当時は社会の激変の時代でした。本間美術館は、荒涼とした世相を危惧し、先人たちが遺した優れた美術品を展示することで、敗戦で荒廃した人々の心を励まし、日本人としての誇りを取り戻して欲しいとの願いと、日本の芸術文化を活性化させたいという強い意志を持って、戦後、全国初の私設美術館として、また地方美術館の先駆けとして開館しました。そこには、地方の教育と文化のために貢献してきた本間家の祖先以来の方針が生かされたものでした。
 本間美術館は、江戸時代、荘内藩主酒井侯の領内巡見の休憩所、明治時代以降は皇族や政府の高官、文人墨客を接待する酒田の迎賓館として利用された、本間家の別荘「清遠閣」と庭園「鶴舞園」を公開し、本間家伝来の美術品の展示から始まりました。
 開館当初は、後援団体である「酒田美術協会」と、企画・運営を行っていたこともあり、一般の関心も高く、また、文部省を始め多くの文化行政機関や作家、蒐集家、学者、市民のご支援を戴き、古美術から現代美術までの格調の高い展覧会から、地域の子供達の作品の展示まで多彩で活発な展観を行って来ました。
 展覧会とともに開館以来、作品の収集にも努めて、現在では凡そ3000件の収蔵品となっています。収蔵品は古美術より現代美術までを包含するもので、絵画、書跡、彫刻、工芸、さらに郷土資料までを含む、美術工芸全般と歴史資料に及んでいます。
  なかでも、美術館の収蔵品の中核を成しているのは、国、県、市の指定文化財が多く含まれる、本間家寄贈の約500点の日本と東洋の古美術品です。他にも多くの作者や個人から作品寄贈があり収蔵内容を充実させています。
  ところで、一般的に、古美術専門と見られがちな本間美術館ですが、開館より収集を始めた作品に現代版画があります。瑛九泉茂靉嘔などデモクラートの作家たちが収集さ れ、瑛九のリトグラフはほぼ全作品収蔵されていることなど、戦後の前衛芸術活動にも関心を寄せていました。新しいことへの関心は本間家の伝統であり、また、初代館長本間順治、二代館長本間祐介が、幾多の困難を克服してきた本間家の歴史の中で育まれ、本質を見極める能力を持ち、時代に柔軟に対応できる才能と美術館への熱い情熱のある館長であっ たことによると思われます。サロン・ド・メ展出品のロボの偶像を本間祐介が購入し、植村鷹千代を驚かせたのもこの頃です。
 さらに、開館後の美術館活動で特筆すべきは、子供たちを対象とする展覧会を重要視したことがあります。敗戦後、国家主義から民主主義へと社会の改革が進められ、戦後の民主教育が始まると、本間美術館は明日を担う子供たちに、心や感性を豊かに育てる美術や作品発表の場を提供することを使命ともしていました。開館初年度より「学生児童画展」を開催し、この展覧会を担ったのが開館より美術館に勤めた佐藤七郎でした。後に、戦後の教育界に大きな影響を与えた創造美術教育と、この運動に熱心だった教師たちと連携を深めて、長く「山形県児童画展」を開催し県内の児童画指導に当たっています。当然、創造美育の久保貞次郎については、美術評論家の今泉篤男より、美術評論家、コレクター、美術教育の指導者として紹介されていたと思われますが、美術館として直に関わりが始まっ たのは、1951年(昭和26)5月2日から5月13日までの会期で開催された「世界児童画展ー久保貞次郎コレクションー」からでした。会期中の5月4日には久保貞次郎美術教育座談会、翌5日には講演会が行われました。この時、佐藤七郎は美術教育のほかに現代版画や瑛九について学んだと思われます。これを契機に佐藤七郎が現代版画、瑛九を中心にデモクラート作家たちの作品収集に取り組むことになったと考えられます。以後、久保貞次郎にはコレクションでの展覧会、児童画展公開審査会、講演会でお世話になって います。この関わりの中で、瑛九とは、1954年(昭和29)10月1日から10月1 4日の会期で、久保コレクションにより開催した「ルオー『ミセレエレ』と版画展」の列品解説と座談会のために来館した折に、佐藤七郎が親しく交流するようになったようです。1956年(昭和31)の「西欧と日本 現代石版画展ー久保コレクションー」には瑛九より出品を戴き、1958年(昭和33)にはリトグラフの全作品にあたる140点を購入しています。ところが、1959年(昭和34)12月30日の消印のある手紙が最後になったと佐藤七郎より伺っています。瑛九の歿後、1961年(昭和36)に『瑛九石版画写真図録』を作製し瑛九への追悼としました。
 なお、リトグラフの未収集の作品は、佐藤七郎が在職の最後まで都夫人などより購入、補充し現在145点になります。
 本間美術館では、これまで収蔵リトグラフによる瑛九と、彼と関連する展覧会を7回開催していますが、これからも近代美術史上重要な作家である瑛九の人と作品の紹介を続けて参ります。

(たなかあきお 本間美術館館長)

■田中章夫
昭和25年(1950)山形県酒田市に生まれる。
昭和48年(1973)駒沢大学卒業。
昭和49年(1974)財団法人本間美術館に学芸員として採用。
平成 6年(1994)財団法人本間美術館主任学芸員
平成18年(2006)財団法人本間美術館副館長
平成19年(2007)財団法人本間美術館常任理事、館長に就任
平成25年(2013)公益財団法人本間美術館業務執行理事、館長に就任

現在:山形県博物館連絡協議会理事
    公益財団法人酒田市美術館理事
    公益財団法人致道博物館理事
    酒田市松山文化伝承館運営委員会委員

本間美術館_1
酒田の本間美術館

本間美術館_表_600本間美術館_裏_600

「没後50年 瑛九リトグラフ展」 
会期:2010年11月25日〜12月20日
主催:本間美術館
山形県酒田市御成町7-7 電話:0234-24-4311
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2010年開催の「没後50年 瑛九リトグラフ展」会場風景

本間美術館_3
2010年開催の「没後50年 瑛九リトグラフ展」会場風景


●<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されていますが(2016年11月22日〜2017年2月12日)、外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信しています。
本日の瑛九情報!は、本間美術館の瑛九顕彰活動です。
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1965年に瀧口修造、久保貞次郎、木水育男らの呼びかけで結成された「瑛九の会」は、機関誌『眠りの理由』を創刊号(1966年4月20日)から第14号(1979年6月8日)まで刊行し、瑛九顕彰に大きな役割を果たしました。瑛九の会を担った人たちを順次ご紹介していますが、それとは別に瑛九の画業を評価し、作品を収集、幾度も展覧会を開いてきたのが本間美術館でした。
なかでも佐藤七郎さんの功績はもっともっと知られてよいはずと亭主は思っています。

◎本間美術館で開催された瑛九と瑛九関連展覧会
瑛九リトグラフ展」1974年(昭和49)2月2日〜2月23日
瑛九石版画・館蔵品展」 1983年(昭和58)12月1日〜12月24日
瑛九とその仲間たち」 1988年(昭和63)3月1日〜3月31日
瑛九、泉茂、利根山光人、靉嘔、四人展 一1950年代の作品を中心に一 」 1996年(平成 8)2月1日〜2月25日
1998年本間美術館・瑛九リトグラフ展
瑛九リトグラフ展」 1998年(平成10)4月8日〜4月28日

瑛九とデモクラートの作家たち・戦後前衛の探求」 2002(平成14)12月3日〜2003年(平成15)1月22日
没後50年 瑛九リトグラフ展」 2010年(平成22)11月25日〜12月20日

◎本間美術館で開催された瑛九作品が出品された展覧会
西洋と日本 現代石版画展ー久保コレクションー」1956年(昭和31)9月19日〜9月30日
西洋と日本 デッサン展ー久保コレクションー」1958年(昭和33)10月1日〜10月12日
現代日本版画展・泉茂渡米後援版画頒布会」1959年(昭和34)4月9日〜4月26日
館蔵現代版画より Colorfulー刷りと色彩と」2002年(平成13)1月8日〜1月31日

亭主が現代版画センター時代に頻繁に訪れたのは岩手県盛岡、秋田県大曲、山形県酒田と鶴岡、福井県勝山などでした。中でも酒田は瑛九が生前訪れたこともあるゆかりの町でした。
酒田の町と人々についてはこのブログでたびたびご紹介してきました。
世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか:2011年02月02日>
酒田大火、その復興に尽力した人々:2011年02月03日>
酒田大火から40年:2016年10月29日>

瑛九の没後、生地宮崎をはじめ福井、埼玉や東京などで幾度も回顧展が開催され、そのたびにカタログなど立派な資料も刊行されてきましたが、(なぜか亭主にもわからないのですが)、それらのカタログ文献には「酒田の本間美術館」の瑛九顕彰の記録がまったくといいほど記載されていません。
上掲、本間美術館館長の田中章夫先生のエッセイにあきらかな通り、どこよりも早く瑛九に注目し作品を収蔵し、また幾度も瑛九とその関連の展覧会を開いてきたにもかかわらずです。
瑛九の会編集・刊行となっている「瑛九石版画総目録」も実は田中先生の文章にあるとおり、最初に写真アルバムという形で収蔵作品をまとめた本間美術館の石版画アルバムがもとになっているのです。

本間美術館の顕彰記録がなぜ回顧展のカタログ等から漏れてしまったのか。
関係者も多く差し障りもあるのですが、亭主が思いつく原因をあげてみましょう。
1)生前から福井、東京を中心に熱心な瑛九支援者が存在し、専門研究者が出現する前に、それら支援者(ある意味では素人)の手により、多くの情報(カタログ、機関誌、パンフレット)が出されたが、遠く山形県からの情報が届かず(届いても、人的交流が少なく)、漏れてしまった。
瑛九の会の機関誌『眠りの理由』創刊号には、78名の会員名簿が掲載されています。内訳を見ると群馬(1名)、栃木(2名)、埼玉(5名)、東京(15名)、神奈川(2名)、福井(12名)、愛知(19名)、大阪(2名)、広島(1名)、宮崎(17名)、海外(2名)です。かなり地域的に偏っており、東北、北海道はただの一人もいません。
発足当時から情報も西高東低にならざるを得なかったのでしょう。
2)地域的にかなり偏った人脈の中から多くの情報が出され、後続の美術館の学芸員たちはそれら既存の情報に振り回され、酒田の本間美術館の孤立した活動に気がつかなかった。
3)ひとたび決定版的カタログが作られると、(日本の悪弊ですが)次に続くカタログはそれらを鵜呑みにしてしまい、原典や他の情報で検証することなく、それらを踏襲引用するという孫引きの弊を逃れられなかった。
蛇足的に加えるならば東北の人特有の謙虚さも遠因かも知れません。事実、田中館長もこの原稿依頼に対しては私どもが恐縮するほど遠慮され、なかなかうんと言ってくださらなかった。
たまたま亭主は山形県に多くの顧客をもっており、当時健在だった佐藤七郎さんにもお世話になっていたので、本間美術館の活動はよく知っていました。
亭主が編集に参加した日本経済新聞社刊の『瑛九作品集』にも本間美術館所蔵作品を収載しています。
あらためて、酒田の本間美術館の瑛九顕彰活動に敬意を表したいと思います。

瑛九「森のドラマ」瑛九 Q Ei
森のドラマ
1956年  リトグラフ
24.5x41.0cm
Ed.20 サインあり


◆ときの忘れものは「Circles 円の終わりは円の始まり」を開催しています。
会期:2017年1月18日[水]―2月4日[土] *日・月・祝日休廊
201701_Circles
オノサト・トシノブソニア・ドローネ菅井汲瑛九、高松次郎、吉原治良など円をモチーフに描かれた作品をご覧いただきます。