無名から無限へ

平野 到

 フォトエッチングによる銅版画の画面が左右に並置されて、ひとつの作品を成している。左の画面はロンドンの街並みであり、右はその風景から抽出されたモチーフが配されている。モチーフは人物と事物であり、それらは風景の中では周囲と区別されたトーンで示され、抽出された画面では比率や配置が実際の風景とは異なって表現されている。
 左右ふたつの画面を見ていると、自ずと人物と事物の対比が浮かびあがってくる。ロンドンの風景の中に存在していた両者は周囲の文脈から切断され、新たな関係のもとで紙面の上に配置されている。果たして両者の間に何か意味や物語があるのか。それとも空間や構図といった造形的配慮に何か原理があるのか。見る人は、あれこれ探ろうとするに違いない。だが、両者のモチーフが風景の中から選択された理由も含め、これらの問いかけに対する明確な説明を見出すのは不可能であろう。結局、私たちの眼は左右の画面を往来しながら、ロンドンの何の変哲もない風景とそこから選択された断片を、もう一度じっくり見る行為に戻っていくのである。
 今回の吉田克朗の個展の中心になっている、12点組の版画連作《LONDON 供(1975年)の印象を綴るならば、こんな言葉になるかもしれない。

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『LONDON II』より「Fitzmaurice Place」


 吉田克朗は1973年1月から約1年間、文化庁芸術家在外研修制度の助成を受けてロンドンに滞在し、フォトエッチングの技術を習得した。1970年前後の吉田に関しては、もの派の動向に関連した作品が知られているが、1960年代末から写真製版を用いたシルクスリーンを手掛けており、第1回ソウル国際版画ビエンナーレ(1970年)で賞を受賞するなど、版画界においても頭角を現していた。ロンドンでは「プリントワークショップ」という版画工房に通い、自ら撮影した写真を素材とする版画制作を、シルクスリーンではなくフォトエッチングで実践している。留学中の1973年には、その成果として9点組の版画シリーズ《LONDON》(以下、気班週)を完成させている。帰国後も、ロンドンで撮影した写真を素材にしたフォトエッチングの制作を継続しており、その二番目のシリーズとしてまとめたものが《LONDON 供奸憤焚次↓兇班週)にあたる。このシリーズ兇1975年9月のギャラリー・ココ(京都)での個展で初めて発表され、翌月の青画廊(東京)の個展の折にも紹介された。
 気鉢兇呂匹舛蕕皀蹈鵐疋鵑良景が素材になっているが、形式上には違いがある。気郎酩覆ひとつの画面で構成されるの対し、兇郎険Δ佞燭弔硫萍未嚢柔される。加えて、風景の中で異なるトーンによって表現されているモチーフが、気録擁のみであるが、兇倭綾劼里茲Δ某擁と事物のふたつになっている。こういった形式上の相違に着眼すれば、気茲雖兇諒が要素の関係性を重視していると言えるかも知れない。
 一方、両シリーズに共通している重要な特質がある。それはいわば、無名の風景への眼差しだ。ロンドンを徘徊して撮影した写真は、観光客のそれとは全く異なり、名所やドラマチックな光景を捉えたものではない。敢えて、特定の意味が付与された風景は避けられている。また、日常的な街路に対し、通りの反対側から向けられた吉田の眼差しは、そこに登場する人物の視線と決して交わっていない。人物の姿勢を見れば明らかであるが、彼らのほとんどは横向きか後ろ向きである。まるで傍観者のように現実世界から少し距離をとって風景を捉えた吉田の写真は、観光客が自分の想い出のために風景を一方的に撮影/所有して持ち帰ろうとする類のものとは異なる。吉田の眼差しは世界に対して控えめで、謙虚であり、決して眼前の風景を侵犯していないのだ。この点は、今回の個展で補足的に展示されているリトグラフの作品《Work “46” 》(1975年)にも通じる特徴であろう。《Work “46”》はシリーズ兇汎瑛佑法風景とそこから抽出されたモチーフで構成される作品であるが、日常の光景に向けられた眼差しは、吉田特有のものと言ってよい。

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Work “46”


 ところで、吉田克朗に関する研究課題として、常に問われる点がある。もの派の系統の作品とそれ以外の作品との関連性である。吉田は1969年初頭から、物体の素性を通して知覚されるものを手掛かりにした作品を精力的に制作し、それらは後にもの派の典型的な作例として、世界的に評価されることになった。異質な物体の組み合わせ、物体の状態への着眼、重力やテンションの視覚化、即物的な光の導入など、もの派の作法の多くは吉田のプランが先んじていたことが、当時の本人による制作ノートを辿るとよく分かる。ところが、こういった傾向を示す作品を吉田が手掛けたのは、わずか数年に過ぎない。その後、もの派の作風からいち早く撤退し、版画や絵画へと制作の比重を移していった。
 しかし、吉田の物体を扱う作品とそれに並走して着手された版画は、表現媒体が異なるものの決して断絶した制作ではなく、基底においては連続性・共通性がある。誤解される場合も少なくないが、物体による作品において吉田が重視していたのは、物体そのものというより、それがどう見えるかという視覚上の問いかけであった。もともと画家を志した吉田にとって、この問いかけはごく自然であったはずだ。また、扱う物体やその組合せの多くは、吉田が日常的に接している現実の風景を着想にしている場合が多い。即ち、現実世界を見ることから出発し、そこでふと気づいた光景や物体を抽出し、三次元空間に組み立て直し、それらを新たな視点によって提示するのが、吉田の作法なのだ。ただし、特定の意味や文脈が喚起されるものは慎重に避けられており、極力中立的な対象だけが選択される。だからこそ、取るに足らない日常へ、ありふれた事物へと吉田の視線は常に向けられるのである。
 吉田のもの派の系統の作品をこのように捉えれば、ロンドン・シリーズのような写真を素材にした版画との連続性が見えてくるであろう。両者には、何の変哲もない現実/日常を新たな観点から再発見していくところにおいて、共通点があるのだ。即ち現実世界に眼を向け、事物にしろ、人物にしろ、風景にしろ、そっと寄り添うようにして無名なものたちを拾いだし、現実とは少しだけ異なる方法でそれらを提示するのである。ただしその際、吉田は無名のものたちを侵犯せず、その尊厳を保とうとしているようにも見える。だからこそ、物体を扱う作品の際は主体的な手をほとんど介在させないし、ロンドン・シリーズのような版画の場合はその眼差しが常に控えめで、謙虚なのではないか。london-12「Kensington Church Street」
『LONDON II』より「Kensington Church Street」


 1970年11月30日の吉田克朗の制作ノートに、物体と対峙し接触する際について記したこんな文章が登場する。
 「ある1つの作品がある。そして僕がそれに対した時、そのもの・・から何(ママ)んらかの僕自身が挑発された場合、そのもの・・が僕という個人に何(ママ)んらかの働きかけを一方的に行ったのでもなく、僕自身がそれに働らきかけたのでもない。そのもの・・と僕とは相呼応して同時に気がついたのだ。そしてそのものの呼吸と僕の呼吸とが同一時点に並列状態として並ぶ事ができたのだ。そう、そしてそのもの・・と呼応をするという事は、そのものと僕とを含んだところの様子という態の中での呼吸が合致したということなのだ。そのような宇宙自身と僕自身とが合体した時、その態は僕にとってかけがえのない特定の態となる。その時こそ、僕自身が宇宙になり、宇宙が僕自身となることができるのである。」
 冒頭には「ある1つの作品」と記されているが、上記の引用は、吉田が現実世界をどのように見ていたかを端的に伝える文章として解釈できるであろう。また、「もの」という単語を「風景」に置換することも可能であろう。すると、この引用はロンドンの風景と吉田自身の関係を語るものとして立ち上がってくる。即ち、ロンドンの日常風景と自分自身が優劣なく対等な立場となって、両者の呼吸が呼応する瞬間を待ち、その時に宇宙を感得していたのかも知れない。そう考えると、無名の風景を主題化したロンドン・シリーズに、どこか無限のものが見えてくるのだ。

ひらの いたる・埼玉県立近代美術館学芸員

■平野 到 (ひらの いたる)
埼玉県立近代美術館学芸主幹。1965年生まれ。1991年より埼玉県立近代美術館に勤務し、「矩形の森―思考するグリッド」(1994)、「1970年―物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち」(1995)、「イスラエル美術の現在」(2001)、「長澤英俊展」(2009)、「清水晃/吉野辰海」(2012)、「浮遊するデザイン―倉俣史朗とともに」(2013)、「ピカソの陶芸」(2014)、「ディエゴ・リベラの時代」(2017)などの展覧会に携わる。

●今日のお勧め作品は、吉田克朗です。
おすすめ「St. Martin in the Fields」
吉田克朗 Katsuro YOSHIDA 『LONDON II』より「St. Martin in the Fields」
1975年 フォトエッチング アクリルケース入り12点組
シートサイズ:31.0x43.3cm
Ed.20部  各作品に限定番号と作者自筆サイン入り

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◆ときの忘れものは吉田克朗 LONDON 1975を開催しています。
会期:2018年8月24日[金]―9月8日[土] 11:00-19:00※日・月・祝日休廊
吉田克朗(1943-1999)は「もの派」の中心作家として物性の強い立体作品を制作する一方、風景や人物のスナップ写真を使ったシルクスクリーン(後にフォトエッチング)による版画を精力的に制作しました。本展では『LONDON II』シリーズなど15点をご紹介します。
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