橋本啓子のエッセイ

橋本啓子「倉俣史朗の宇宙」第3回〜Just in Time (1986)

橋本啓子のエッセイ「倉俣史朗の宇宙」第3回

Just in Time (1986)


《Just in Time ジャスト・イン・タイム》(図1、注1)に衝撃を受けた人は多い。筆者もそのひとりだ。衝撃の理由は人によってさまざまだろう。この時計が、時刻がはっきり分からない時計であることに驚く人もいれば、デザイナーの柳原照弘の次の言葉のように感じる人もいる。

これを見た時、目の前にあるのは美しい時計ではなく、美しい時間なんだと思った(注2)。

kuramata_11_justintime図1
倉俣史朗
Just in time
1986年
メラミンボード、小枝、毛糸、ステンレス
51.5x36.5xD0.8cm
時計裏面の右下にシールあり

この文章ほど《ジャスト・イン・タイム》のもたらす感動を的確に、かつ詩的に表した文章はないのではないか。そう考えるのも、正確な時間よりも「美しい時間」をもたらすことこそ、倉俣が考えた、時計の最大の「機能」にちがいないからだ。1987年に倉俣が東洋プライウッド株式会社副社長(当時)の阿部博と行った対談は、そのような倉俣の考えと、それが《ジャスト・イン・タイム》とその置時計版である《Clock with Five Hands 5本針の時計》(1986、図2)の発想にいかにつながっていたのかを物語る。

1986_Clock with 5 Hands_Designed図2
倉俣史朗
Clock with Five Hands 5本針の時計
1986年
Photo by FUJITSUKA Mitsumasa

阿部:デザインを考える場合、機能があってその次に楽しさ、と考えられがちですが、倉俣さんは機能よりも何よりも最初に自分の表現というか、そういうものを前面にだされるという?
倉俣:そうですね。使い易いということが必ずしも機能的ということではなく、もっとメンタルなものを含んでこそ機能だと思うのです。(中略)……二十数年前から家具をつくり始め、当時も、面白いが機能的でないとか、合理性でないと言われたのですけれども、むしろ僕はそちら側に本当の合理性とか機能性というのがあるんじゃないかという考えがずっとありました。
(中略)
倉俣:時計にしても、まあ非常に精密な時間が必要とするのは別にして、時間さえわかれば木の枝の針でもいいんじゃないかと思うし。まず自分の美しいと思うことや楽しいと思うことが含まれていなくては、デザインしてもおもしろくない。
阿部:先生がデザインされた木の枝の時計とか、ニボシやちょうちょが、時、分、秒でバラバラに動いているような時計〔引用者注:《5本針の時計》〕を拝見しましたが、ああいう作品をみてしまうと商品化したら売れるだろうなとか、すぐそういうことを思ってしまうんですけれども(笑)。
(中略)
倉俣:これを展示したのは時計の展覧会なんですが、作ろうと思っていたイメージというのは前からあるわけです。細い小枝を使うという発想は、針という型にはまったものじゃなく、時の移り変わりというのが何かの形になったら面白いな、と。ビョンビョンしながら見えるのも面白いでしょう。どちらかというと、結局、自分が楽しんで作ってしまう。リクリエーション(笑)。クライアントがあって制約があるというのはなかなかそうはいかないですからね。(中略)(注3)

倉俣は、使い易いということよりも面白い(美しい、楽しい)ことの方が機能的であるという考えを抱いていた。彼はもちろん時刻を正確に表示する機能を否定しているわけではない。ただ、時間を見ようとふと時計に目を遣ると、針のかわりにニボシやちょうちょが動いていたり、ナイロン線のカーブがビョンビョンしながら動いているのを見て、思わずにこりとしてしまう、そういう瞬間が生活に与えられることは、実は大切な事ではないかと考えていたのだ。
 ならば、倉俣のデザインは、デザインというよりもむしろアートなのではないか、あるいはアートに機能を付加したものではないか、という意見が出るかもしれない。無論、そういう意見があってもいいと思うし、実際、倉俣自身、「……機能を果たしながら、なおオブジェとしても成立する両面性。その造形性が空間をもう一度目覚めさせ、見えなかったものを見せ、感じさせてくれるもの……理想としては、そんなものを創りたい(注4)」と記したこともあるから、全面的に否定はしないだろう。だが、個人的な考えをいえば、倉俣のデザインは、対談で質問されたような、初めに表現ありきの発想ではなく、生活のなかで有用品として使われることからデザインが練られていったように思う。
仮に《ジャスト・イン・タイム》が時計ではないとしたら、人々はこれをどのように受け止めるだろうか。線がビョンビョンし続ける、動く絵画として評価するのだろうか。それでも良いかもしれないが、「美しい時間」はもはやそこにはない。ビョンビョンする線は、動く髭となり、「時の移り変わり」の「形」ではなくなる。1日のうち、「美しい時間」を「見る」幸せはビョンビョンする線が秒針でなければ、得られないのだ。
《ジャスト・イン・タイム》と《5本針の時計》の4年前にあたる1981年にデザインした《スパイラルの時計A》(図3)では、「時の移り変わり」の「形」への変換が《ジャスト・イン・タイム》とは異なる視点から試みられている。ここでは、時計の針のみが際立つ文字盤を、すなわち、時間以外の一切の情報を排したボードを、プラスチックのカプセルの内部に封じ込めたのだ。倉俣は次のように語る。

1981_Spiral Clock A_Designed by図3
倉俣史朗
スパイラルの時計A
1981年
Photo by FUJITSUKA Mitsumasa

カプセルに時間を封印したいというわけではないのだが、現実的な時間の経過の明示と離れて、もうひとつの次元の異なる時の存在を表明(表情)したいというのがイメージの底にあった。それはたぶん、お祭りで見かける透明なセメダインみたいな素材を大きく吹くらまし、その中にお礼や、紙吹雪をいれたのを見かけたとき、その風船の内部で舞うそれらのものは、スローモーションの映像を見るようであり、その空間は次元の異なる遠い宇宙を感じたからだろう。この時計をデザインするとき、そんなことが潜在意識の中にあったのかもしれない。(注5)   

《ジャスト・イン・タイム》も《スパイラルの時計A》も、それに目をやった途端、流れていた時間が一瞬止まったように感じる。なぜそうなのか、いつも不思議でならないが、それこそ倉俣の思惑どおり、カプセルに入った時計や木の枝で出来た時計が、子どもの頃のお祭りの透明な風船や、日が暮れるまで公園で遊んだ記憶という遠い過去へと自分を引き戻すからなのかもしれない。倉俣のデザインは、本人が「デザインをするという行為の中でこれ等の幼少年期の体験が非常に大きな要素となっている(注6)」と再三述べているように、幼少期の記憶に想を得たものが多い。それも誰もが子どものときに感じる感覚を手がかりとしたものが多いのだ。
 そういうわけで、《スパイラルの時計A》のセメダイン風船の中に封印された時間も《ジャスト・イン・タイム》のビョンビョンする線の時間も、私たちが子どもの頃、時計を見ながら、無意識に時間を「形」にしていたことを思い出させるのかもしれない。数年前に本田和子氏の名著である『異文化としての子ども』(1982)を読んだとき、ますますこの感を強くした。
本田によれば、子どもにとって時間とは連続した流れではなく、非連続の「いま」である。そして、その「いま」とは瞬間としての「いま」ではなく、長さと厚みをもったかたまり、つまりひとまとまりの「出来事」なのだそうだ。これを説明するために、本田は次のエピソードを挙げている。

「とき」が「出来事」である証拠に、彼らは、時計の目盛りまでも出来事化してしまう。例えば、三歳児が空腹を訴えて昼食をねだった。保育者が、時計の文字盤の十一時を示して、「針がここまできたら、お弁当の用意をしよう」と約束した。再び遊び始めた彼が次に時計を見上げたとき、時計の針は十一時を四分ほど過ぎていた。楽しみにしていた「お弁当のとき」は、アッという間に彼を置き去りにしたのだ。恨めしげに時計を見上げて、べそをかいているその子どもに、保育者は笑いころげながら説明に窮していた(注7)。

これを読んで以来、筆者の中ではべそをかいている子どもと保育士の笑い声と《ジャスト・イン・タイム》とがつながっている。 Don’t cry, you are just in time !
はしもとけいこ

注1:《ジャスト・イン・タイム》と《5本針の時計》の制作経緯については1996年皮切りの回顧展「倉俣史朗の世界 Shiro Kuramata 1934-1991」(東京・原美術館ほか世界巡回)のカタログでクラマタデザイン事務所のアシスタントであった吉森智、五十嵐久枝が詳しく記している。右を参照。田中一光監修、植田実・原美術館ほか編『倉俣史朗』(展覧会カタログ)東京・財団法人アルカンシェール美術財団、1996年、78頁:吉森智、五十嵐久枝によるNo. 24、25の解説。
注2:柳原照弘「『ジャスト・イン・タイム』に、美しい“時間”を見た。」『Pen ペン』2008年7月15日号(225)91頁。
注3:「プリカーサー登場 インテリアデザイナー倉俣史朗氏を迎えて」(阿部博によるインタヴュー)『プリカーサー』東洋プライウッド株式会社、1987年10月号、1-2頁。
注4:倉俣史朗「空間の眠気を覚ましたい」(「時計」)『どりーむ』1982年1月号、16頁。
注5:倉俣史朗「掛時計」『ジャパンインテリア』1981年12月号(273)、86頁。
注6:倉俣史朗「記憶」『Nob』1976年春号(7)、114頁。
注7:本田和子『異文化としての子ども』紀伊国屋書店、1982年、57-58頁。

■橋本啓子
近畿大学建築学部准教授。慶應義塾大学文学部英米文学専攻、英国イースト・アングリア大学美術史音楽学部修士課程修了後、東京都現代美術館、兵庫県立近代美術館学芸員を務める。神戸大学大学院総合人間科学研究科博士後期課程において博士論文「倉俣史朗の主要デザインに関する研究」を執筆。以来、倉俣史朗を中心に日本の商環境デザインの歴史研究を行っている。神戸学院大学人文学部専任講師(2011-2016)を経て、2016年から現職。倉俣に関する共著に関康子、涌井彰子ほか編『21_21 DESIGN SIGHT 展覧会ブック 倉俣史朗とエットレ・ソットサス』東京:株式会社ADP、2010年(「倉俣クロニクル」執筆)、Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013(Book 2: Catalogue of Works全執筆)、埼玉県立美術館・平野到、大越久子、前山祐司編著『企画展図録 浮遊するデザイン―倉俣史朗とともに』東京:アートプラニング レイ、2013年(エッセイ「倉俣史朗と美術」執筆)など。

橋本啓子のエッセイ「倉俣史朗の宇宙」は今回から毎月12日に更新します。

●本日のお勧め作品は倉俣史朗です。
kuramata_07_feather倉俣史朗 Shiro KURAMATA
Floating Feather(黄)
c.a. 2004
Acrylic
14.0×9.5×8.0cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。


ときの忘れものは明日から「佐藤研吾展―囲いこみとお節介 」を開催します。
会期:2018年12月13日[木]―12月22日[土] 11:00-19:00 ※会期中無休
今日展示の設営に行ってきます。
作ったものを画廊の中に配置するわけですが、
今回の展示ではやはり、モノが群れること、群像というモノを作り出すときの、「空間」の作り方、捉え方について考えを巡らせています。空間というものを、自律した複数の物体が相互に関わりながら存在していて、それらの余白、結果として囲い込まれた場所、として最近は考えている。
かつての20世紀の建築では、空間というのは、箱(床壁天井)によって仕切られて作り出されるものであり、箱=建築という物体は、空間という幻のような価値観(あるいは非物体)に従属していたのか。
岡倉天心は「茶の本」ですこし違うニュアンスを言っていたかもしれませんが、日本の茶室や数奇屋のような、モノが謂れをもって周到に配置されているそれらは、人の行為に従属はしながらも、空間という全体に対しては無頓着に在るのではとも。(これは最近お点前に少し入れてもらったときに感じたこと)
モノと空間の関係を転倒させる、本来の位置(それは、近代の前のかつて装飾をまとった様式建築あたりやも)に振り戻そうとする一端になれば、と考えていて、そんな群体の話がいまとても気になっています、。
(20181212/佐藤研吾さんのfacebookより)>
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インド、東京、福島という複数の拠点を往還しながら創作活動に取り組んでいる建築家・佐藤研吾の初個展を開催します。
本展では、自身でデザインし制作した家具としてのハコや、ピンホールカメラ(ハコ)とそれを使って撮影したハコの写真、またハコのドローイングなど、独自の世界観をご覧いただきます。
会期中、作家は毎日在廊予定です。
以下の日程で以下のゲストをお迎えし、ギャラリートークを開催します。
※要予約、参加費1,000円、複数回参加の方は二回目からは500円
12/13(木)13時〜 ゲスト:中島晴矢さん(現代美術家)
12/14(金)18時〜 ゲスト:岸井大輔さん(劇作家)
12/15(土)18時〜 佐藤研吾レクチャー
12/21(金)18時〜 ゲスト:小国貴司さん(Books青いカバ店主)
12/22(土)18時〜 佐藤研吾レクチャー
ご予約はメールにてお申し込みください。 info@tokinowasuremono.com

●ときの忘れものは〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は通常は休廊ですが、「佐藤研吾展―囲いこみとお節介」(12月13日[木]―12月22日[土])開催中は無休で開廊しています。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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橋本啓子「倉俣史朗の宇宙」第2回〜Cabinet de Curiosite(1989)

橋本啓子のエッセイ「倉俣史朗の宇宙」第2回

Cabinet de Curiosite(1989)


 「ときの忘れもの」の綿貫氏から、《Cabinet de Curiosite カビネ・ド・キュリオジテ、図1》の出品が急遽決まったと聞いたとき、あのどこまでも透明な、色の光だけで出来たかのような飾り棚が秋の日差しを受けて瀟洒な回廊を照らし出す光景が頭の中に広がった。それはまるで、ずっと夢の世界の中にいた飾り棚が現実世界への扉を開けて家の内部に赴き、鎮座したかのようだった。
《カビネ・ド・キュリオジテ》は、1989年11月にパリのギャルリ・イヴ・ガストゥ(Galerie Yves Gastou)で開催された個展のために制作され、やはり同展に向けてつくられたサイドテーブル《Blue Champagneブルーシャンパン》(1989)やピンクのアクリルブロックの花瓶(図2)とともに倉俣が本格的に着色アクリルに挑んだデザインである。
倉俣史朗Cabinet
図1
倉俣史朗
Cabinet de Curiosite(カビネ・ド・キュリオジテ)」 
1989年 アクリル 
190.0 x 46.0 x 46.0 cm
撮影:タケミアートフォトス

倉俣史朗Flower Vase #1302図2
倉俣史朗
Flower Vase #1302
アクリル
W11.0xD11.0xH21.0cm
撮影:桜井ただひさ

 倉俣とアクリルとの付き合いは長い。1963年に三愛のインハウスデザイナーとして、銀座4丁目交差点のランドマークとなる三愛ドリームセンターの店舗内装を担当したとき、大きなアクリルのショーケースをいくつもデザインして業界内の話題となった。そして、もっとも知られる彼のアクリル家具といえば、《プラスチックの洋服ダンス》(1968)である。これは、既成の木製の箪笥のパーツを透明アクリルで型抜きして組み立てたもので、収納の意味をなさない丸見えの箪笥として多木浩二を初めとする批評家を驚かせた。見せる収納が定着した今では考えられないかもしれないが、ほんの数十年前までは箪笥にせよ、何にせよ、決まった形式が必ず存在していたから、透明ダンスは非常識以外の何物でもなかったのだ。常識や慣例を逸脱したものに対しては、人々は思考を停止するか、あるいはアヴァンギャルドなものとして認めるかのどちらかだった。倉俣の透明ダンスは後者の反応を得た訳だが、それが彼にとって良かったかどうかは分からない。いつのまにかつくられてしまった「知的操作のデザイナー」という倉俣のイメージは、本人を随分と悩ませたからだ。
 話を《カビネ・ド・キュリオジテ》に戻そう。《ミス・ブランチ》(1988)も展示された1989年のパリの個展のパンフレットには次の倉俣の文章がフランス語に訳されて記された。これを読むと着色アクリルの素材に彼が込めた思いが伝わってくる。

バラの花の椅子〈ブランチ・デュボア〉に加えて
新たに数点製作した。

嘘、忘却、分裂の軌道の中で
この数点の素材は現時点9月5日でまだ
電気炉・真空タンクの中でひっそりと眠っている。
何が生まれるか、私にも解っていない。
かすかな夢の記憶をたよりにすれば
固体と液体の中間、
見えることと見えないことの間
在ることとないことの間
いや中間、間というより型の気体化か?(注1)

 タンクから出てきたものを磨き、濁りひとつない透明な色があらわれたとき、倉俣はどんなにか嬉しかったろう。当時、アクリルの成型はそれぐらい難しかった。《ミス・ブランチ》の制作も数度の失敗を経て1988年11月の東京デザイナーズウィーク’88の展示にぎりぎり間に合った、と聞いたことがある。
 そして、文章に何度も出てくる「間」という文字――これは、「あいだ」と読むのだろうか、それとも「ま」だろうか。倉俣は地口が大好きだったから、どちらでも良い気がする。「間(ま)」といえば、磯崎新が企画し、倉俣も参加した1978-79年のパリ装飾美術館における「間――日本の空間と時間」展も忘れてはならない。倉俣は同展の「はし」の部門の展示において、板ガラスを組み合わせただけのハードエッジ絵画のような作品を出品した。沖健次によれば、これは「はし」を「端=エッジ」に読み替えて、ガラスエッジの鋭利さを最大限に引き出そうとした試みである(注2)。確かに倉俣はガラスの断面が好きだった。1981年の長谷川堯によるインタビュー記事の中で、倉俣は、《硝子の椅子》(1976)を制作したときに、ガラスの断面が自分にとって「独特の表情を持つもの」になったと語っている(注3)。
 しかし、倉俣はアクリルの「断面」について語ったことはない。アクリルの場合は、「固体と液体の中間 見えることと見えないことの間…」なのだ。それが何であるのかは、この個展と同年に手がけられた東京・青山のヨシキ・ヒシヌマのブティック(1989)の着色アクリルのインテリアに関して倉俣が書いた文を読むとより一層明らかになる。

私の内部には空間の臨界点をどこかで無化しようとする意識、無意識の衝動があるらしく、床、壁、天井というインテリアの基本構成要素の存在を“見えなくする”という操作をよくします。このプロジェクトではアクリルの微妙な色とつかみどこのない存在感=あるいは非在感ともいうべき=を表出させたいと考えました。このアクリルたちには“音色”という言葉を想起させる、かろやかで音楽に近い解放感があります。いってみれば、音と物質の中間地帯のような…。(注4)

 そう、《カビネ・ド・キュリオジテ》の色アクリル――それもどこまでも透明に近い色のアクリル――は、「つかみどこのない存在感=あるいは非在感」なのだ。無色の透明アクリルと色のついた透明アクリルはあまりに美しく接着されているために、ピンクや黄緑色をした液体は気化して存在と非存在の「間」を彷徨う。
 さらに、ここに使われている「音色」も倉俣が好んで用いた言葉のひとつだ。1989年に手がけた福岡のホテル・イル・パラッツオ内のバー《オブローモフ》(1989)では色とりどりの着色アクリルがテーブルのトップや脚に使われているが、本人の弁によれば、多くの色を空間に浮遊させることで、「色から音を感じとること、色がはじける音、音が遊ぶ…」(注5)等を目論んだらしい。「音色」の視覚化の試みとでもいうべきか。
 とはいえ、倉俣の「音色」をめぐる思考はそう単純ではない。「音色」という言葉は、早くは1977年4月の『ジャパンインテリア』誌への倉俣による寄稿記事に登場する。毎号、執筆者が異なるコラム「色の空間」のために書かれた記事だが、どういう訳か、掲載された作例は無色透明の《硝子の椅子とテーブル》(1976)だった。しかし、書かれものを読むと「透明」と「色」が倉俣の世界ではつながっていることが見て取れる。というより、やはりこれも倉俣の「間」なのだろう。

   あるとき、屋外で硝子の椅子を撮影していたところ、子どもたちが集まり、<見えない椅子だ>とよろこんでいた。椅子という実体を認めながら、言葉の上では見えないという。このわずかな透き間に実は広大な宇宙を見る思いがする。光が物体にあたり色として表出するのではなく、光そのもののなかに渾然とした色を感じる。日本の言葉に音色というのがある。ぼくのもっとも好きな言葉である。透明な音の世界に色を見、感じるそのことにいちばん魅せられ、視覚的に確認できる安心さと、透いものから色を感じ、色を想う。このふたつの翌深な色の世界にイマージュする(注6)。

 確かに1989年まで彼の色の使い方はペイントされた壁やアルマイト加工の棒等、「光が物体にあたり色として表出する」例がほとんどだった。《カビネ・ド・キュリオジテ》を含む1989年の着色アクリルの作例は、1977年当時、彼がはからずも記した「光そのもののなかに渾然とした色を感じる」という文言をまさに具現化したのだ。
 その「音色」の世界に彼をいざなったのは、子どもたちが喜んで言ったという「見えない椅子だ」という言葉だろうか。倉俣が子どもの造形感覚の純粋さや鋭さを愛してやまなかったことはよく知られている。そして、そうした子どもの感覚は大人になって知識や偏見を植え付けられると自然に消えてしまうと彼は信じていた。それゆえ、倉俣は、自らの幼少時代の記憶をつねづね想い起しては、それを発想の糧にしていたという(注7)。 
 《カビネ・ド・キュリオジテ》にもおそらく彼の子ども時代の記憶が潜んでいる。「驚異の部屋」と訳されるこのフランス語の作品名は、15-18世紀にヨーロッパの王侯貴族が動植物や石等の珍品や標本を陳列した部屋を意味する。倉俣はこの用語を知ったとき、自分の子ども時代の抽斗の中身を想い出したのではないかと思う。1979年に彼は子ども時代の抽斗の想い出について次のように記しているのだ。

数年前、多木浩二氏に抽斗を好んで作る意味を問われたことがあります。子供の時、ごちゃごちゃした抽斗の中に探し求めていたものは、コマやメンコという物理的なものではなく、ひょっとして存在しない何かを探していたようであり、その延長上で抽斗が好きで作っていると答えました。今、この押入れについての記憶を想い出していた時、ふと感じたことは、自分自身の存在であったのではないかという気がしました(注8)。

 ゆらめく色の光りから、子どもたちの声が聞こえては遠ざかっていく。《カビネ・ド・キュリオジテ》は倉俣自身なのだ。
はしもとけいこ) 

注1:1989年11月8日‐11月30日にパリ6区の12, rue BonaparteにあるGalerie Yve Gastouで開催された展覧会のパンフレット用に倉俣がしたためた文章。A4版1枚のパンフレットの表裏には、この文章の仏語版(前田宏訳)のほかにテネシー・ウィリアムズの回想文「『欲望という名の電車』の映画について」、田原桂一撮影による《ミス・ブランチ》の写真、前田宏による《ミス・ブランチ》のスケッチが掲載された。
注2:沖健次「倉俣史朗が追い求めたイメージと素材」21_21 Design Sight編『倉俣史朗とエットレ・ソットサス』ADP(Art Design Publishing)、2010年、114頁。
注3:長谷川堯「倉俣史朗が語る ガラスあるいは浮遊への手がかり」(倉俣史朗へのインタヴュー)『SPACE MODULATOR』1981年2月号(no. 58)、6頁。
注4:倉俣史朗「Boutique YOSHIKI HISHINUMA」『It’s PRACTICE 空間の演出に見る素材の研究21題』INAX、1991年、90頁。
注5:倉俣史朗「オブローモフ」『Hotel IL PALAZZO A City Stimulated by Architecture』六耀社、1990年。
注6:倉俣史朗「連載=色の空間=8 倉俣史朗」『ジャパンインテリア』1977年4月号(no. 217)、51頁。
注7:倉俣が、デザインの発想を自らの子ども時代の記憶から得ていることを記した記事は数多いが、たとえば次の記事がある。倉俣史朗「空感・雑感・実感」『ジャパンインテリア』1976年10月増刊号、137頁。倉俣史朗「日々の仕事の中で」『デザインエイジ』1976年12月号(no. 19)、10-11頁。
注8:倉俣史朗「押入れの中の記憶 押入れでふと思い出したこと」『モダンリビング』No. 2(1979年)、162-163頁。

橋本啓子
近畿大学建築学部准教授。慶應義塾大学文学部英米文学専攻、英国イースト・アングリア大学美術史音楽学部修士課程修了後、東京都現代美術館、兵庫県立近代美術館学芸員を務める。神戸大学大学院総合人間科学研究科博士後期課程において博士論文「倉俣史朗の主要デザインに関する研究」を執筆。以来、倉俣史朗を中心に日本の商環境デザインの歴史研究を行っている。神戸学院大学人文学部専任講師(2011-2016)を経て、2016年から現職。倉俣に関する共著に関康子、涌井彰子ほか編『21_21 DESIGN SIGHT 展覧会ブック 倉俣史朗とエットレ・ソットサス』東京:株式会社ADP、2010年(「倉俣クロニクル」執筆)、Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013(Book 2: Catalogue of Works全執筆)、埼玉県立美術館・平野到、大越久子、前山祐司編著『企画展図録 浮遊するデザイン―倉俣史朗とともに』東京:アートプラニング レイ、2013年(エッセイ「倉俣史朗と美術」執筆)など。

*画廊亭主敬白
倉俣史朗研究者の橋本啓子先生に「倉俣史朗の宇宙」と題してエッセイの連載をお願いしています。次回第3回は12月12日に掲載の予定です。以後毎月12日に更新します。どうぞご期待ください。

●今日のお勧め作品は、倉俣史朗です。
倉俣史朗花瓶倉俣史朗
Flower Vase #1301」(バイオレット)
アクリル
W8.0xD8.0xH22.0cm
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


ときの忘れものは倉俣史朗 小展示を開催しています。
会期:2018年10月9日[火]―10月31日[水]11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
倉俣史朗(1934-1991)の 美意識に貫かれた代表作Cabinet de Curiosite(カビネ・ド・キュリオジテ)」はじめ立体、版画、オブジェ、ポスター他を展示。
国内及び海外での倉俣史朗展のポスターはベストコンディションのものを出品しています。
また倉俣の作品集、書籍、カタログ、雑誌等も多数用意しました。
同時代に倉俣と協働した磯崎新安藤忠雄の作品も合わせて ご覧いただきます。
ブログでは橋本啓子さんの連載エッセイ「倉俣史朗の宇宙」がスタートしました。
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◆ときの忘れものは「Art Taipei 2018」に出展します。
taipei18ロゴ会期=2018年10月26日[金]〜10月29日[月]
会場:Taipei World Trade Center Hall One
ときの忘れものブース:S11
公式サイト:http://2018.art-taipei.com/
出品作家:葉栗剛野口琢郎木原千春作元朋子倉俣史朗安藤忠雄磯崎新光嶋裕介ル・コルビュジエ


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊ですが、次回企画の光嶋裕介新作展(11月8日ー11月18日)は特別に会期中無休です
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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橋本啓子「倉俣史朗の宇宙」第1回〜三木富雄展ポスター(1972)

橋本啓子のエッセイ「倉俣史朗の宇宙」第1回

三木富雄展ポスター(1972)


 2018年10月9日(火)から倉俣史朗(1934-1991)の展覧会が駒込のギャラリー「ときの忘れもの」で始まる。ご縁があって、不相応ながら今回の出品作を中心に倉俣史朗について書かせていただくことになった。学生時代にみた倉俣の、まるで生きているような引出し《変型の家具 SIDE1》(1970)(注1)が忘れられず、その魅力の謎を解き明かしたくて研究らしきものを開始したのが十数年前。今に至るまで、多くの方々にお世話になった。
 その中には哀しくも鬼籍に入られた方もいる。想い出話に花が咲き、2時間のインタビューのはずが、「これは倉俣の大河ドラマだよ。今日だけじゃ終わらないから、明日、また来なさい。何時がいいかな」と手帳をめくっておられたインテリアデザイナーの内田繁氏。「いまでも、倉俣さんだったらどう言うかな、って考えながらつくるのよ」とつぶやかれたガラス職人の三保谷友彦氏。そして、長いインタビューが夢のように瞬く間に過ぎていった批評家の多木浩二氏と造形家の山口勝弘氏。それぞれのお顔が脳裏に浮かぶたび、目頭が熱くなり、優しさに溢れた語り口が耳元に蘇る。
 倉俣の周囲にいて彼を支えた人々はそのように誰もが優しかった。それは、倉俣自身が誰よりも優しい人だったから、と皆、口をそろえて仰る。それで想い出したが、倉俣の有名な肘掛椅子《ミス・ブランチ》(1988, 図1)のタイトルの由来であるT・ウィリアムズの戯曲『欲望という名の電車』(1947年ブロードウェー初演、1951年映画化)の主人公ブランチは、劇の最後にこうつぶやくのだ――「……私はいつも見ず知らずの方のご親切にすがって生きてきましたの」(小田島雄志訳、新潮文庫)。

1988_MISS BLANCHE_図1
MISS BLANCHE
1988年

Photographed by HIROYUKI MORI

 戯曲でも映画でも観客が一等はっとさせられるこのセリフこそ、ひょっとしたら、倉俣が《ミス・ブランチ》に込めた意味ではなかったか。この考えは今、初めて筆者の脳裏にひらめいたのだけど、そう考えると、《ミス・ブランチ》は倉俣から周囲の人々への感謝のしるしであったように思えてくる。《ミス・ブランチ》の発想から生まれたアクリルブロックのオブジェが多数出品される今回の個展にあやかって、このエッセイもまた、倉俣研究でご教示いただいた方々への感謝のしるしとなればと思う。
 長い前置きになったが、それを書きたくなったのも、今回の出品目録がやはり倉俣の交流の広さを物語るものだからだ。しかもこの交流は、建築家やファッションデザイナーから小児科医に至るまで実に幅広い。今回のエッセイでは、倉俣と美術家の三木富雄(1937-1978)の交流について少し触れてみたい。
 出品作のひとつである三木の耳の彫刻をモティーフとするポスター(図2)は、1972年11月20日-12月10日に東京・日本橋の南画廊で開催された三木富雄の個展のために倉俣がデザインしたもので、単純な構成だけに視覚的なインパクトに満ちている。耳はアルミ合金の鋳造彫刻で、小川隆之が撮影した。耳の作品をつくり続けたことで知られる三木だが、意外にも耳だけで構成された個展は3度しか開かれておらず、この1972年の個展はその最後の機会となった(注2)。

倉俣史朗と三木富雄図2
「三木富雄展(南画廊)ポスター」
デザイン:倉俣史朗
写真:小川隆之
1972年 オフセット
103.7x73.5cm
三木富雄のサインあり
*今回の「倉俣史朗 小展示」に出品展示します。

 1972年当時、クラマタデザイン事務所でアルバイトをしていたインテリアデザイナーの沖健次は、三木が倉俣の事務所にしょっちゅう遊びに来たことや、事務所に耳の作品がいくつかあったことを記憶している。それほど倉俣と三木は仲が良く、このポスターも「倉俣さんが、MIKIの書体や大きさ、位置をいろいろ検討していたことを覚えています。その横の南画廊の文字はこの当時倉俣さんがよく使っていたフーツラ・ライトの文字です」と沖は回想する(注3)。
 デザイナーである倉俣と、美術家である三木とがいつ、どのようにして知り合ったのかは不明だが、やはり倉俣と親しかった彫刻家、田中信太郎は、1967年の倉俣のインテリアデザインによるサパークラブ《カッサドール》(東京・新宿)の開店祝いのパーティで三木富雄が田中を倉俣に紹介したと語っているから(注4)、遅くともそれまでにはふたりは出会っていた。もっとも、1960年代後半という時期を直に経験した人々に言わせれば、デザインと美術のような異分野に属する人同士がどこでどのように知り合ったのか等ということを訊くこと自体、まったくの愚問らしい。なぜなら、この時代には異分野の交流がまったく自然に行われていたからだという。アバンギャルドなクリエイターたちや批評家たちは必ず、話題の展覧会やイベントに顔を出し、馴染みの画廊やバーやクラブ等、特定のスポットに常に集っていた。それゆえ、アートや建築、インテリア、音楽といったジャンルの垣根を超える活動は、今では想像できないほど、自然発生的に行われたのだ。南画廊も皆の常連スポットのひとつだった。1956年から1979年まで一貫して現代美術を紹介し続けたこの画廊は、戦後日本の前衛美術の展開に大きく貢献したのだ。
 そのような時代だったからこそ、倉俣が三木や田中、そして《カッサドール》の壁画を担当した高松次郎のような美術家と出会う機会はいくらでもあり、まして駒込林町に家があった倉俣は中学の時分から上野の読売アンデパンダン展を見ていたから、「反芸術」の作家とは出会ってすぐに意気投合したはずだ。三木は1957年から1963年まで読売アンデパンダン展に出品したほか、銀座界隈の画廊で作品を発表している。彼より3才年長の倉俣はその間、銀座の三愛の店舗設計やウィンドウ・ディスプレイを担当しており、上野は無論のこと、銀座や日本橋の画廊で発表される前衛芸術はおそらくすべて見ていただろう。
 子どもの頃から接触、吸収した前衛美術は、アメリカンセンターの図書館に通い、『ARTFORUM』等の雑誌から得た海外の美術動向の情報とともに、終生にわたり倉俣のデザインにさまざまに作用することになる。いかなる作用を及ぼしたのかについては、あまりに多くの事が考えられるため、今ここでは三木と田中がその作用のあり方に深く関わったと指摘するにとどめよう。1986年に雑誌『SD』の企画で沖健次が行ったインタビューでも、倉俣はふたりの名をアートとの関わりをもたらした人物として挙げている(注5)。
 倉俣は三木を尊敬してやまなかったと聞くが、事実、建築批評家の長谷川堯が1973年に『商店建築』に寄せた記事には、倉俣が折に触れて三木と論議を交わしていたらしい部分が垣間見える。この長谷川の記事には長谷川と倉俣の会話が含まれているが、その中で三木の名前が次のように登場する。

倉俣「昨日あれからずっと考えてみたんだけど あの何で透明な素材を使って家具を作るかというギョーさんの質問 あれ。……この間三木富雄と話していたことから思いだしたんだけれど 結局すべてのことが「引力」に帰着するんじゃないかと考えたんです。」(注6)
(中略)
長谷川「引力ってあのニュートンの引力ですか(中略)でもどうしてそんなものを考えるようになったんだろう」
倉俣「だから直接には三木富雄なんかと話しているうちにそう思うようになったわけだけど 別ないいかたをすれば ぼくがいつもいうゼロからスタートして ゼロから発想して行くというやりかたで土を掘っていたら「引力」が出てきたということなのかもしれない。……」(注7)

 倉俣と三木がどのような会話をしたのかはこの記事を読むだけでは分からないが、この連載記事全体の内容から察するに、彼らが話題にしたのは、引力のような、人間を支配するものでありながら、身近に自然に存在するものであるがゆえに、それが人間の自由さを制限するものであることに気づかないことについてだったのだろうか。気づかず、支配するものという点では、耳も引力も同列であるかもしれない。
 いずれにせよ、この長谷川との会話を契機として、倉俣は引力(のちに重力、浮遊に言い換えられる)からの解放を終生、己のデザイン思想の根幹のひとつとして語ることになる。本エッセイの冒頭に挙げた《ミス・ブランチ》も例外ではない。倉俣は1989年に、パリで展示した《ミス・ブランチ》を含む一連の透明アクリルに色や羽根やバラを鋳込んだ作品について次のように語った。

「透明性だとか、浮遊性とか、重力の自由に対する願望っていうのはまず一番強いんじゃないか。重力という人間の法則を絶つところから、本当に解放されるんじゃないかな。それで気がつくと、結果として形となるような気がするんですけど。」(注8)

 このデザイン哲学は長谷川堯が倉俣にインタビューをした1972年から少しも変わっていない。三木の訃報を事務所の電話で聞き、所員がいるにもかかわらず、声をあげて泣いたという倉俣。彼が生涯、貫いた「引力」の哲学は三木富雄との強い絆の証でもあったのだ。
はしもと・けいこ

注1:1970年作の《変型の家具》は「Side 1」「Side 2」の2種類あり、1996年に原美術館で行われた回顧展図録では、正面の引き出し面が波打っている方が「Side 1」になっているが、その後、クラマタデザイン事務所で発見された倉俣によるスケッチ(カッシーナ社への指示として描いたスケッチ)では、側面が波打っている方に「Side 1」の記載があるため、筆者が作品カタログを執筆した英国ファイドン社から出されたモノグラフ(Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013)、側面が波打っている方を「Side 1」としている。
注2:耳の作品のみの個展は1963年の内科画廊(東京・新橋)、1965年と1972年の南画廊の3つである。三木富雄の活動の変遷については次の1992年の回顧展図録が詳しい。渋谷区立松濤美術館編『特別展 三木富雄』東京:渋谷区立松濤美術館、1992年。
注3:2018年9月29日付の沖健次氏から筆者あての電子メールによる。
注4:2006年4月29日に筆者が行った田中信太郎氏へのインタビューによる。
注5:倉俣史朗「インタビュー 内部からの風景4 倉俣史朗」(沖健次によるインタビュー)『SD』1986年5月号(no. 260)、42頁。
注6:長谷川堯「『伝説』にただようクラマタの秘境」『商店建築』1973年5月号(vol. 18, no. 5)、200頁。
注7:長谷川堯「ショーケースの悲哀――あるいは沈黙するクラマタの財産」『商店建築』1973年6月号(vol. 8, no. 6)、205頁。
注8:「浮遊する名作 ミス・ブランチ 倉俣史朗」(1989年に行われた前田宏によるインタビュー)『室内』2000年5月号(no. 545)、29頁。

■橋本啓子
近畿大学建築学部准教授。慶應義塾大学文学部英米文学専攻、英国イースト・アングリア大学美術史音楽学部修士課程修了後、東京都現代美術館、兵庫県立近代美術館学芸員を務める。神戸大学大学院総合人間科学研究科博士後期課程において博士論文「倉俣史朗の主要デザインに関する研究」を執筆。以来、倉俣史朗を中心に日本の商環境デザインの歴史研究を行っている。神戸学院大学人文学部専任講師(2011-2016)を経て、2016年から現職。倉俣に関する共著に関康子、涌井彰子ほか編『21_21 DESIGN SIGHT 展覧会ブック 倉俣史朗とエットレ・ソットサス』東京:株式会社ADP、2010年(「倉俣クロニクル」執筆)、Deyan Sudjic, Shiro Kuramata, London: Phaidon Press, 2013(Book 2: Catalogue of Works全執筆)、埼玉県立美術館・平野到、大越久子、前山祐司編著『企画展図録 浮遊するデザイン―倉俣史朗とともに』東京:アートプラニング レイ、2013年(エッセイ「倉俣史朗と美術」執筆)など。

●本日のお勧め作品は、倉俣史朗です。
kuramata_13_perfume-a倉俣史朗 Shiro KURAMATA
「Perfume Bottle No. 3」
2008年
ボディ:クリスタル
キャップ:アルマイト仕上げ
6.8x5.0x5.0cm
Ed.30
保証書付き(倉俣美恵子夫人のサイン入り)
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


ときの忘れものは倉俣史朗 小展示を開催します。
会期:2018年10月9日[火]―10月31日[水]11:00-19:00 ※日・月・祝日休廊
倉俣史朗(1934-1991)の 美意識に貫かれた代表作「Cabinet de Curiosite(カビネ・ド・キュリオジテ)」はじめ立体、版画、オブジェ、ポスター他を展示。 同時代に倉俣と協働した磯崎新安藤忠雄のドローイングも合わせて ご覧いただきます。
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●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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