八束はじめ

建築家のドローイング第15回 ル・コルビュジエ(最終回)

リレー連載
建築家のドローイング 第15回
ル・コルビュジエ(Le Corbusier)〔1887−1965〕

八束はじめ


 既にとりあげられたフランク・ロイド・ライトと共に20世紀を代表する建築家であるル・コルビュジエは、後半生をフランス国民として過したが生まれはスイスの時計つくりの村ショー・ドー・フォンであり、そこの美術工芸学校からキャリアをはじめた。ル・コルビュジエとは、パリに出て画家オザンファンの知己を得、共に絵画運動「ピューリズム」を創設し、またシュール・レアリスト、ポール・デルメーと三人で雑誌「エスプリ・ヌーボー」をはじめたころからのペンネームであり、本名はシャルル・エドゥアール・ジャンヌレという。しかしパリに殆んど無名で出てきたスイスの田舎出の若者は、この一風変ったペンネームで発表した数多くの文章の刺激的で詩的なプロパガンダ性によって、そしてその予言的な調子を裏書きするパリの大改造プロジェクトや最初はドミノとかシトロエンと名づけられたモデル住宅のプロジェクト、そして筆名の高揚よりやや遅れてでてきた白いキュービックな、いわゆる「豆腐の角を切った」ような住宅群によって一躍時代の寵児となって、以後のほぼ半世紀近くそのペンネームによって世界の巨匠としてのステータスを保持しつづけていった。ヨーロッパの教養人なら、この巨人の名は、例えば美術におけるピカソのように、誰でも知っている(日本でそうでないとしたら、それはこの国におけるこれまでの建築への相対的無関心の証しでしかない)。彼が戦後の復興事業の核として手がけた巨大なアパートの連作ユニテ・ダビタシオン(マルセイユ、テント、フィルミニー、ブリ・アン・フォレそしてベルリンにつくられた)は現地の市民たちには戦前の彼の都市計画のタイトルを冠して「輝く都市」と呼ばれ誇りの対象であり、観光名所ともなっている。

輝く農家
ル・コルビュジエ Le Corbusier
「輝く農家」

 前述のようにこの巨匠はパリでのキャリアをむしろ画家としてスタートさせている。彼はあくまでデザイナー、建築家、技術者としてのトレーニングを受けたのだったが、パリでキュービズムをはじめとする前衛芸術運動に触れて自からの建築的な造型も変化させると共に、オザンファンの刺激によって絵を描きはじめた。以降死ぬまでの年月、彼は主として午前中を絵筆をとる時間にあてたのだった。もっとも「ピューリズム」の画家として登場する以前からも若きジャンヌレは例えばヨーロッパや小アジアへの旅行に際して尨大なスケッチ群を残している。そこで描かれているのは異国の街並みや建物、そして人々のざわめきや工芸品であった。そこでの主題は人々の生活であり、その詩情である。彼は19世紀的なヨーロッパ・ブルジョアジーの虚飾に満ちた生活やそれを彩る建築や装飾を嫌悪したが、東方の人々の千古の昔から変っていない素朴な生活やそのための日用品はこよなく愛した。後にナチス・ドイツなどの右翼民族主義者たちからキュービックで白い彼の住宅がムーア的(つまり非アーリア的、非ヨーロッパ的)と呼ばれたのは故なきとはしない。この性向はピューリズムの絵にもそのまま引きつがれている。彼は年長のピカソを尊敬し、長い交友関係を結ぶことになるが、この当時のキュービズムは彼には既にエピゴーネンによる抽象的技巧主義と見えた。ピューリズムではキュービズムの手法が多く引きつがれるが、そこでは常に彼がobjet-type(典型的なもの)と呼んだ、人々の生活に直結する水さしやコップなどがテーマとされた。彼の関心では常に新精神(エスプリ・ヌーボー)によって光をあてられた簡明率直な生活の詩であり、それは建築のスタイルが初期の「住居機械」と呼ばれたキュービックなものから後期のより彫刻的でマッシブなものへと移行しても変りがなかった。
 このことは、建物のスタイルと関りなくドローイングのスタイルは一貫していたことからもある程度伺い知ることができる。彼のドローイング、とくにインテリアのそれでは常に逞しい素朴な人間像が描かれている。それは18世紀の啓蒙期以来の「高貴な蛮人」のテーマの踏襲である。だが、それは同時に「新精神」によって武装されているのだ。逞しい人体の有機的な曲線は、しかしル・コルビュジエにとって住居機械の精確な直線と矛盾するものではなかった。何故乱ら両者を支配するのはギリシアの黄金比以来の正しく美しいプロポーションのシステムだったからである。彼はそれを後にモジュロールと呼ぶシステムにまとめた。それは片手を太陽に向けて伸ばした人体像の各部のプロポーションを基に展開されたシステムであり、ル・コルビュジエはこのシステムを建物の各部に用いつづけた。後期の、より逞しい、殆んど人間の素足のような柱脚をもち、肉感的なカーブをもった建物に対しても同様である。数学的な精確さと官能的な詩情との間には、この巨匠にとって、如何なる違いもなかったのかもしれない。

チャンディガールの「開いた手」ル・コルビュジエ Le Corbusier
チャンディガールの「開いた手」

 因襲的なアカデミズムは生涯を通じてル・コルビュジエの敵としたものだが、ボーザール流の手のこんだ大時代的な図面表現もまた彼のものではなかった。彼のドローイング・スタイルはペンの簡潔な線と簡単な色彩とだけから成り立っている。自からもまた敵からも「裸」のと形容されたそのスタイルにふさわしく、裸形の建築に陽光だけがふりそそぎ、緑が縁を飾る、そんなイメージだけをそれらのドローイングは送りつづけた。それはフリーハンドのスケッチにしても定規を用いた透視図にしても同じであった。大げさな線や派手派手しい色彩などは「新精神」にとっては無用の抜けがらに過ぎないのだ、とそれらのドローイングは語る。このスタイルはル・コルビュジエ・スタイルとして多くの若い建築家たちの真似る対象ともなった。例えばイタリアの夭逝した天才建築家ジュゼッペ・テラーニのドローイングは全くル・コルビュジエのそれの引き写しであるといってもよいし、この巨匠に深く私淑した丹下健三のかつてのドローイング・スタイルもまたそうである。例えばライトの場合にはそのスタイルを真似たのはほんの一部のエピゴーネンに過ぎない。このシリーズにとりあげられた他の建築家たちの場合にしてもそうである。それはおそらくル・コルビュジエのドローイングのスタイルが格別美しかったからというのでも。ましてや真似するに易しかったからというのでもない。多分それは、ル・コルビュジエのドローイング・スタイルは、ル・コルビュジエ本人と同じく最も典型的に時代の理想像を示していたから、つまり時代が最も待望していた太陽と緑と数学の詩学を体現していたからに他ならないのではないか?
 建築家としてのル・コルビュジエのスタイル上の変貌にも拘らず、彼のドローイング・スタイルは一貫してピューリスト的であったということは、ドローイングが建築に対して付帯吋な立場にしかないということで看過してよい問題ではない。筆者にはそれはしばしばいわれるル・コルビュジエの変貌の中に、単なるドローイング・スタイルのそれを超えて一貫したものがあったことの示唆と思える。思えば初期の「住居機械」の要素も後期のいわゆる「ブルータリズム」の肉感性もピューリズムの絵画に共に存在していたのである。それはこの20世紀最大の巨人がもう一人の巨人ピカソと共に最後のユマニストであったことの証しであったとは読めないか? 彼らの生涯にはスタイルの変転を超えた人間への信頼と愛情が一貫している。

シトロアン・ハウスル・コルビュジエ Le Corbusier
「シトロアン・ハウス」


国際連盟ル・コルビュジエ Le Corbusier
「国際連盟」


やつか はじめ

*現代版画センター 発行『Ed 第105号』(1985年1月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載

・「輝く農家」
・チャンディガールの「開いた手」
・「シトロアン・ハウス」
・「国際連盟」

現代版画センター 発行『Ed 第105号』

ル・コルビュジエ
33_corbusier_unite-11〈ユニテ〉より#11b

1965年
カラー銅版画
57.5×45.0cm
Ed.130  Signed
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

*画廊亭主敬白
建築家のドローイング」は今回が最終回です。
今から約34年ほど前、亭主が主宰していた現代版画センター の機関誌に当時新進気鋭の建築家だった八束はじめさんと彦坂裕さんのお二人に「建築家のドローイング」を連載していただきました。
磯崎アトリエに在籍していた八束さんを「あいつは優秀だから」と磯崎新先生に紹介され、執筆をお願いすると「毎月はたいへんだから、友人の彦坂君と交互に書くのなら」とリレー連載が決まりました。
第一回のジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージから始まった連載で取り上げる建築家の人選はお二人が相談して決め、第15回はル・コルビュジエでした。
お二人の心づもりではこの後も続けるはずだったのですが、亭主の突然の破産ですべてが中断してしまいました。原稿料も大半が未払いだった。悔やんでも悔やみきれない。
以来、亭主の胸に骨のように突き刺さっていたのが、この未完の大連載でした。
お二人にはブログへの再録を快く承諾していただき、毎回丁寧に校正もしていただきました。
彦坂裕さん、八束はじめさん、そして30数年前の原稿をテキスト化し、画像を新たに付け加えてくれた芳賀言太郎さんに、心より感謝いたします。
ほんとうは、彦坂さん、八束さんのお二人に第16回以降も書き継いでいただきたいのですが、それは若い世代にお任せしましょう。
偶然ですが、来月から倉方俊輔さんと光嶋裕介さんによる「悪のコルビュジエ」と題した新連載が始まります。これについては後ほど詳しくご案内します。
長い間のご愛読、ありがとうございました。

新年早々、銀座のギャラリーせいほうで開催していた「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」が21日に無事、大盛況のうちに終了いたしました。
磯崎新、安藤忠雄、難波和彦、山本理顕ら日本を代表する建築家はじめ、お二人の幅広い人脈を反映して連日たくさんのお客さまがいらしてくださいました。
お二人の新作エディションの発表展でしたが、おかげさまでたくさんの方にお買い上げいただきました。銅版、シルクスクリーンとも展覧会に間に合わせるため各1部づつ刷っただけなので、これからご注文いただいた分を超特急で刷り師に刷っていただかねばなりません。嬉しい悲鳴です。
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本日の瑛九情報!
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先日1月19日のブログのアクセスが突然急騰しました。
何のことかわからずアクセス解析をみると2011年11月14日の「大野の堀栄治さん訃報」という記事が原因でした。
世間的には全く無名な堀さんの5年も前の訃報記事がなぜ?
その日「石山修武・六角鬼丈二人展」の展評原稿を届けてくれた植田実先生からの情報でやっと謎がとけました。19日の朝のNHKテレビが福井県大野の堀さんの映像を放映したらしい。亭主はテレビがないのでまったくそういう情報には疎い。
まったくの偶然ですが、先日から瑛九の会を担った人たちを順次ご紹介していて、今日とりあげる堀さんもその一人です。
1965年、瀧口修造らを発起人として結成された瑛九の会は、機関誌『眠りの理由』の発行を軸に、展覧会や頒布会の開催、石版画総目録の刊行など、瑛九顕彰に大きな役割を果たしました。
福井県大野市の堀栄治さん(2011年没)は久保貞次郎の唱導した創造美育運動に参加した教師の一人でした。
瑛九の晩年に木水育男さんが組織した頒布会の中心メンバーであり、自らも大野で瑛九頒布会を独自に組織し、大野に多くの瑛九作品をもたらした大功績者でした。
瑛九没後も、堀さんは瑛九周辺の作家たちー池田満寿夫、泉茂、オノサトトシノブ北川民次ヘンリー・ミラー、キムラ リサブロー、靉嘔たちを支援し続けました。
中でも靉嘔先生の作品頒布には精力的に取り組み、美術館はもちろんギャラリーすらない人口僅か3万5千人ほどの山間の町で、靉嘔やフルクサスの大展覧会を組織しました。
大野3
2004年5月8日〜16日に多田記念大野有終会館で開催された「虹のふるさと大野 靉嘔展」のオープニングにて。
中央が靉嘔先生、右のベレー帽が堀栄治さん

堀栄治と令子2006年
2006年大野の堀さん宅にて
堀栄治さんと社長

堀さんの功績の一つとして忘れてはならないのは『福井創美の歩み』(1990年10月初版、2007年5月第5版発行)という手作りの記録集を残されたことです。
福井における創造美育運動、ひいては小コレクター運動の詳細な日録です。これについては明日詳しくご紹介しましょう。
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瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

建築家のドローイング 第13回 イワン・レオニドフ

リレー連載
建築家のドローイング 第13回
イワン・レオニドフ(Ivan Leonidov)〔1902−1959〕

八束はじめ


 20世紀のアヴァンギャルド芸術は政治、思想上のアヴァンギャルドとの両義的な結びつきをその大きな特徴としている。新しい芸術言語の獲得が、新しい社会空間への熱望と重ったというわけだが、こうした特質が建築というジャンルにある特権性を与えた。このことは芸術言語の最も透徹した革新者であったピエト・モンドリアンやカシミール・マレヴィッチらが建築に対して抱いていた感情によっても証し立てられるのだが、その意味で革命ロシアの建築とはアヴァンギャルド運動全体の精華たるべき位置を担っていた。しかし建築は、絵画や音楽とは違って、その実現に社会的、経済的及び技術的な制約が課せられる。最初のものは熟しすぎていたとすらいえるが、後二者はそれに反して革命後のソヴィエト=ロシアには充分備っていたとはいい難いものであった。無論ソヴィエト=アヴァンギャルド建築にも少ないとはいっても全体を合計すればかなりの数にのぼる実現例をさがすことはできる。しかし、傑出した作品もあるにせよ、そのうちのすべてが成功作とはいえないし、前述の制約から充分な効果を挙げているとはいえないものも少なくはない。多くのイマジネーションは――この時代のロシアにはきら星の如く才能が輩出したのだった――紙の上にとどまらざるを得なかったのである。構成主義に代表されるロシア・アヴァンギャルド建築は、そうした理由もあって、夥しい数のドローイングを産み出した。質、量共に圧倒的なものであるといってよい。彼らのスタイルは、西欧の新建築と基本的には同じ途を辿るものではあったが、幾何学的なモンタージュによるよりダイナミックな機械の隠喩性が強い。ドローイングもそうした修辞的な特性に呼応して、大胆に面のコントラストを強調したロシア的迫力に満ちたものが多い。革命の熱気とプロレタリアートを主役とする機械文明へのロマンティックな期待感がそこには漲っている、といってもよいだろう。

重工業イワン・レオニドフ Ivan Leonidov
「重工業省計画」

 しかし、これらのアヴァンギャルドたちの多士済々の中でもとりわけ異彩を放つ人物がいた。1902年生れの若いレオニドフである。彼は師匠格のヴェスニン兄弟や構成主義の理論的指導者であったギンズブルグらとは違って、革命後にその建築教育を受けた世代に属する。彼はドイツのバウハウスに相当するモダニズムの拠点、高等芸術技術学院(Vchutemas)でトレーニングを受けた。前述のヴェスニン兄弟の他に、構成主義とは一線を画すもう一つのアヴァンギャルドの潮流フォルマリストたちの領袖ラドフスキーもまた彼の教師の一人であった。彼は構成主義/フォルマリスト両派の特質を新たな言語の統一へと導くロシア・アヴァンギャルドの文字通り希望の星であった。彼の才能が喧伝されたのは、その卒業制作レーニン研究所計画(1927年)である。モスクワ市街を見おろす丘上に想定されたこの建築群の計画において、レオニドフはそれまでの構成主義者たちのスタイルとは全く違った独創的スタイルを呈示した。各々の機能によって分節された建築群は、一つ一つが極めて簡略化された幾何学的なエレメントにまで還元されている。そこには大きなオーディトリウムを内包する球形の建物が宙に浮かぶかの如き状態で設置されるという驚くべきヴィジョンまでもが示されていた。機械の隠喩やダイナミッタだがやや過多ぎみでもある構成主義特有の分節癖はそこではもはやマレヴィッチのシュプレマティズム的な「至高の言語」に場所を譲っている。マレヴィッチ自身が建築デザイン(といっても抽象的なプログラムの)に手を染めた作品がむしろアール・デコ的な装飾に近いものになっていったのに比べても、レオニドフの厳格な言語構成は全く新しいものであった。師のヴェスニンがこの計画案の模型を、讃嘆のあまり自宅にもち帰ってしまったというエピソードもうなずけるデザインである。このスタイル上での革新性はまたドローイングのスタイルの上でも共通している。レオニドフのドローイングでは、一切のディテールやテクスチャーや陰影は省略され、最も本質的な輪郭のみに限定されてしまっている。彼が好んで用いる白黒反転の手法はそれをより強調している。そこではもはやドローイングのメチエ的な要素、手の痕跡もまた一掃されているのだが、にも拘らず全体としてのスタイルは全く個性的である。

文化宮殿2イワン・レオニドフ Ivan Leonidov
「文化宮殿計画」

文化宮殿

文化宮殿3

 レオニドフはこの独自のスタイルを建築から更に都市のスケールにまで展開した。彼の20年代後半のプロジェクトは、無限に延伸していくロシアの大地の上に展開される至高のオブジェの構成として示される。それは都市と田園との対立を超えた新しい地平のイメージを具体的に示すものであり、ピラミッドのような古代の言語と飛行船に代表される最新鋭のテクノロジーのイメージとが、あらゆる対立の彼岸のうちで融解していた。
 レオニドフのスタイルが建築のスタイルなのかドローイングのそれなのか殆んど見分けがつかないものであったという事実が、技術、経済性と並んで、彼のプロジェクトの実現性をあやぶませるものであったことは否定できない。しかし彼は短いその実質的なキャリアの最後期に、実際の建物のデザイナーとしても比類のない天才であることを呈示してみせた。重工業省のコンペ応募案がそれである。ここでも基本的なコンポジションはそれまでと同様にシュプレマテイスト的であり、その幾つかのタワーのシルエットは隣接するクレムリンの聖ワシリー寺院と著しい対照を示してはいるのだが、これまでのプロジェクトとは違って建築的な細部が克明に画きこまれている。おそらくは、実現性をめぐって既に声高く叫ばれていた彼への批判に対する答として提出されたこの計画は、モダユテイと口シア的なイコン性との異様な結合を示している。それをモダンでないということは誰にもできはしないが、ただモダンであるとだけいうこともできない。一切が比類のない造型力のうちに昂進されてしまっている。そのドローイングもそれまでの線描主義とは当然違っているが極めて美しく構図化され、淡い彩色が付され、彼のドラフトマンとしてのメチエの高さを示している。
 この時代の寵児の不運はあまりに遅くかあまりに早くかに生まれすぎたことであった。その独創的なプロジェクトを実現する機会を殆んどもたぬまま、レオニドフの名はスターリン独裁下の建築分野での覇権をめざす者たちの第一の標的となった。構成主義とフォルマリズムの統合としての彼のスタイルは、その悪しき部分の統合であると烙印を押された。レオニドフのキャリアは実質的に10年にも満たず、彼はその人生の残りをアルコールに溺れることで過した。時折描かれるスケッチも、それ以上のまとまった形への展開は許されなかった。道路を隔てた酒屋へ運ぶ定まらぬ足元と一台の車の不幸な出会いが、この天才の満たされぬ後半生を断ち切った。その損失の大きさに気づいた者は、当時誰もいなかったはずである。

レーニン図書館計画イワン・レオニドフ Ivan Leonidov
「レーニン図書館計画」


やつか はじめ

*現代版画センター 発行『Ed 第103号』(1984年9月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「重工業省計画」
http://lost-vanguard.livejournal.com/3267.html
「文化宮殿計画」
https://www.google.co.jp/url?sa=i&rct=j&q=&esrc=s&source=images&cd=&ved=0ahUKEwjpkvfT-8fPAhUDmJQKHSOACrMQjhwIBQ&url=http%3A%2F%2Fdavidhannafordmitchell.tumblr.com%2Fpost%2F97467492123%2Fivan-leonidov-kulturpalast-moskau&psig=AFQjCNG60YbEi2_Td9OE9stvK_xiaUVPXQ&ust=1475904678699173
「レーニン図書館計画」
現代版画センター 発行『Ed 第103号』

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

●本日のお勧め作品は、内間安瑆の珍しい銅版と木版の併用作品です。
内間安王星_WINDOW NUANCE(ROSE) _600内間安瑆
《WINDOW NUANCE (ROSE)》
1978年
銅版+木版
イメージサイズ:30.0×22.0cm
シートサイズ:37.5×28.5cm
A.P. サインあり

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

本日の瑛九情報!
待望の<瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日〜2017年2月12日)。瑛九命の亭主としては大宣伝して顕彰に少しでもお役に立ちたい。会期終了まで瑛九情報を毎日発信したいと思います。
国立近代美術館が瑛九単独の回顧展を開くのは今回が初めてですが、瑛九が死去した1960年3月10日から僅か2ヶ月にも満たない4月28日から急遽瑛九回顧の展示を敢行したのが今泉篤男率いる国立近代美術館でした。
四人の作家1960 表紙
「四人の作家」展目録
会期:1960年4月28日―6月5日
国立近代美術館
出展作家:菱田春草、瑛九、上阪雅人、高村光太郎
没後直後のドキュメントをお読みください。

◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。

建築家のドローイング 第11回 フランク・ロイド・ライト

リレー連載
建築家のドローイング 第11回
フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)〔1867−1959〕

八束はじめ


 誰がいい出したのかは定かではないのだが、建築の世界では“form giver”ということばがある。近代建築の基本的なヴォキャブラリーをつくり出した、いうなれば言語創造者というような意味なのだが、通例これにあてられるのはフランク・ロイド・ライト、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエの三人ということになっている。いうなれば御三家という所だが、実際にはこの並べ方はあまりすわりの良いものとはいえない。60年代生まれのライトは80年代生まれの他の二人に比べれば二つも上の世代に属し、後二者(及びバウハウスの創立者グロピウス)が修業時代に席を置いたベーレンス(68年生れ)やこのシリーズでもとりあげたペルツイッヒ(69年生れ)よりも更に一、二年の年長である。1911年にドイツのヴァスムート社が出版したライトの作品集(ドローイング集)がヨーロッパの建築家たち(とくにオランダとドイツ、オーストリア)に多大の影響を及ぼしたことは、近代建築史を扱ったどの本にも記述されているあまりに有名な事実だが、当時既にロビー邸やユニティ・チャーチ、ラーキン・ビルなどの傑作を建てて新時代の旗手あるいは若き巨匠であったライトに比べ、コルビュジエもミースもまだ駆け出し以前、つまりベーレンス事務所での修業時代の前後である。二人ともライトの図面をくいいるように見つめた多くの若い群像の中の一人にすぎなかった。この時点で、もちろん、ライトは既に form giver であった。相互貫入し合う流動的なヴォリュームと空間の詩学はウィーンのロースにも、ベルリンのミースにも、またロッテルダムのいわゆる「デ・スティル」派にも多大のヒントを提供している。しかしライトが他の年少の二人と後々まで肩を並べたのは、この建築家が、何度かの沈黙やスランプの時期をはさみながらその度毎に劇的な復活を遂げたからに他ならない。常に自からをリサイクルしていく、不死鳥のようなとよく形容されるが、考えようによってはむしろ怪物めいた生命力は他に全く比類を見ない。強いていうなら、やはり90を超えて生き、つくりつづけたミケランジェロといった所だろうか。

ナショナル生命保険会社計画フランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright
「ナショナル生命保険会社計画」


 この70年近いキャリアの中でライトは全く夥しい作品をつくり、また計画案を残した。総計800を超すとあってはさすがのライトにしてもすべてが一級の作品とはいえず、建築家の名誉とはならぬものも少なからずあるが、それにしてもそれだけの数をこなしたということはライトに確かなメチエが備っていたことの証しであるとはいい得るだろう。それはこれらの膨大な作品群を紙上に定着したドローイングについてもあてはまる。あるいはむしろ、スタイルの上での何度かの変貌にも拘らず、ライトの底にはこのメチエの基盤が連続してあって、それが常に彼の巨匠としての質を保証していたのだといい得るということを、ドローイング群が証し立てているといってよいかもしれない。それらはいずれもライト流のドローイング・スタイルというものをはっきりと示している。もちろん後年に至るまで巨匠が自らそれらをおこしたわけではなく、専門のスタッフの手に委ねられていたようだが、誰が描いたにせよそれらはライトのドローイングなのである。つまり全く個性的でありながら、完全に個人の手のみに負っているわけではない。若年のライトが師のサリヴァンのフリーハンドで装飾の下絵をおこしていく手腕に舌を巻き、自分には到底真似できないので定規によって自らのスタイルを確立しようとしたというエピソードや後年ライトの作業場タリアセンを訪れたメンデルゾーンが例の達者なスケッチを巨匠に示してうならせたというようなエピソードはその辺の事情に関っている。ライトの仕事全体がそうした全くの手仕事とそれを排除して純粋な構成関係のみによっていたモダンなコンポジションとの中間に存在している。そしてライトはそこに全く独自な境地を発見したのだ。

ハーディー邸
フランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright
「ハーディー邸」


 このスタイルに最も良く似ているのは以前にとりあげたウィーンのオットー・ワグナーとその一派のドローイングである。この平行性が何らかの直接的影響関係によっているかは定かではないが、とくに例えばラーキン・ビルのインテリア・パースの線描の質や空間のとらえ方などは極めてワグナーに似ている。間接的に、つまり共通のソースの一つとしては、日本の浮世絵の手法がある。(ユーゲント・シュティル全体へのオリエンタリズムの影響は有名だし、ライトは帝国ホテルの仕事で滞日するより大分以前から度々版画のコレクションのために来日していたことが知られているが、両者には共に建物を遙かに上に置いて見上げる構図のとり方、植生のつかい方など多くの共通点を見ることができる。ヴァスムート版のライトのドローイングに魅せられたワグナー門下の若い学生であったルドルフ・シンドラーのように渡米してライトの門を叩いた人物もいたから、ウィーンとライトの関係は直接・間接に浅からぬものであったといえよう。(ついでながら、ライトのもとから独立してからも結局アメリカで生涯を送ることになったシンドラーのドローイングのスタイルも、当然、その両者の特徴を合せもっている。)

ミッドウェイ・ガーデンフランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright
「ミッドウェイ・ガーデン」


 一方、ライトのドローイングはやがて水彩などで着色されることが多くなる。それと同時に線の質もワグナーのような硬質なものから軟らかみを帯びた(しかしあくまで定規で引かれた)ものへと変っていく。ライト流ドローイングの線の質とその空間及びメチエとの関係について触れたが、おそらく、ライトのドローイングに関しても同じようなことがいえるはずである。そこでは線はもはやくっきりとしたハード・エッジな、つまりものの限界を明確にしるすものというよりは、ものの質感やヴォリューム感の中の過不足ない要素としておさまっている。ワグナーが鉄やスタッコ、硬質な大理石といった(ハード・エッジを可能とする材料を好み、空間もむしろ奥行きよりは浅く明快な構成をされているのに対して、木や帝国ホテルで用いた大谷石やロサンジェルスの住宅シリーズの化粧コンクリート・ブロックのように、むしろ柔らかい材料(角が丸みを帯びた)をライトが好んでいたことが、ドローイングの上にも確実に反映していると筆者は考えている。従って描かれたドローイングでも、つくり上げられた実際の建物でも、空間は、微妙な階調と、日本的なことばでいうなら、奥床しさ(ことばの本来の意味での)をもっている。日本人がライトを好む所以でもあろう。
 こうした、ドローイングにも通底している感覚は、例えば第二期の劈頭を飾る、いわゆる落水邸(カウフマン邸 1936)や、最高傑作といわれるジョンソン・ワックス・ビル(1936-9)更には戦後の代表作グッゲンハイム美術館(1959)などにも共通して受け継がれている。例えば落水邸は、一見豆腐の角を切ったいわゆるル・コルビュジエ風にキュービックな作品だが、仔細に見れば「住む機械」(ル・コルビュジエ)の鋭利さとは随分と違った作品である。これらの作品は初期の装飾的でまた同時に日本的/ユーゲント・シュティル的でなくもない作品群と、スタイルの上で比べれば遙かにモダンであり、ル・コルビュジェやミースとライトの名を並べしめたものだが、こうした感覚上の特質は変っていないのである。一人の芸術家の、究極的には変わりようのない体質というようなものは、むしろこのようなディテールの端々にあらわれるものであって、ある意味ではそのことをライトのドローイングほど如実に示しているものはない。

ナマコ・カントリー・ハウスフランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright
「ナマコ・カントリー・ハウス」


やつか はじめ

*現代版画センター 発行『Ed 第101号』(1984年4月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「ナショナル生命保険会社計画」
「ハーディー邸」
「ミッドウェイ・ガーデン」
「ナマコ・カントリー・ハウス」
毎日新聞社 発行『フランク・ロイド・ライト回顧展』、1991年より

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

●今日のお勧め作品は、フランク・ロイド・ライトです。
20160222_wright_01フランク・ロイド・ライト
「Gerts Walter Residence」
1905年
紙に水彩とインク
40.0x74.0cm

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◆八束はじめ・彦坂裕のリレー・エッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。

建築家のドローイング 第10回 ヘルマン・フィンステルリン

リレー連載
建築家のドローイング 第10回
ヘルマン・フィンステルリン(Hermann Finsterlin)〔1887−1973〕

八束はじめ


 ドイツにおける表現主義建築の運動は、第一次大戦後の絶望と混迷、更にその裏返しとしての強い再建への希望のもとに、一つの精神革命を志向した共同体としての体裁をとるに至った。もちろんこの熱病は間もなく引き去っていき、幾人かの残存者を残してもっと冷厳な合理主義の波にのみこまれていったのだが。この短期間の運動を主導したのはブルーノ・タウトに率いられた「芸術労働評議会」である。強いユートピア主義的色彩に染っていたこのグループは1919年にベルリンで「無名建築家」展を開催した。無名建築家ばかりでなく、建築への門外漢である美術家やはては素人までもが参加を呼びかけられた。混迷の中ではプロフェッショナルな技術の蓄積は問題にならず、ヴィジョンだけが肝要であった。参加作品の質は、当然のことながら一定の水準を示すものではなかったが、その中でとりわけ異彩を放ったのだがヘルマン・フィンステルリンの玩具とも彫刻とも建築ともつかぬ奇妙な有機的フォルムを示すドローイングであった。生物形態的なアナロジーは表現主義者の造形には多かれ少なかれ見られるものだったし、それに先行するアール・ヌーボーの主導的モチーフの一つ(といってもこの場合は植物的なモチーフが優勢だったが)であったから、必ずしもフィンステルリンの専売特許というわけではない。しかし彼の造形の特異さは一目でそれと知れる類のものであった。彼は500枚を超すドローイングを残したが、それらは様々なプログラム(例えば湖畔のヴィラ、衛生博物館といった)を与えられ、どれをとっても同じ形をしたものはなかったが、にも拘らず、どれをとっても同じ手になるものであることが歴然としていたのである。
 フィンステルリンはプロの建築家ではなかった。医学、物理、化学を学び、次いで哲学と画の修業を行ったが、建築のトレーニングは受けていないし、実際にそのドローイングが建設されることはなかった。文字通り、机上の空想に留まったわけだ。他の同志たちが表現主義のロマン的な恣意性を捨て、合理主義に転じた後もフィンステルリンはそれに同乗することなく、20年代の半ばからは建築から身を引き、50年後に没するまで画と著述に専念した。73年に彼の死亡記事が新聞に載った時、建築の世界から見れば半世紀も前に過去の人となった人物がそれまで生きていたという事実に奇妙な衡撃を受けたことを筆者は未だに覚えている。

湖畔の別荘
ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「湖畔の別荘」


 フィンステルリンが転身を行わなかった理由の一つが彼がプロフェッショナルなトレーニングを受けていなかったことにあるのは疑いを容れない。合理主義建築は近代技術から導かれた造形を第一にしたからである。しかし、それが決定的な理由とはいえない。信頼のおける協力者さえ介在すれば、例えばデオ・ファン・デースブルクのような美術家が実作をつくっている例はあるし、家具デザイナーであったリートフェルトは近代建築史上のメルクマールとなったシュレーダー邸を建て、以後プロの建築家として身を立てている。そもそも近代合理主義建築自体が、いわれるほどに高度なテクノロジーを駆使したものであったかも疑ってみる余地がある。フィンステルリンの造形的傾向(趣味)が合理主義のザッハリヒなそれと合致しなかったからという理由はもとより真実であろう。彼は後に人類が「プロメテウスの熱帯よりはミース・ファン・デル・ローエの砂漠を選んだ」ことを遺憾とする、という発言を行っている。プロメテウスは表現主義者の「ガラスの鎖」グループにおける彼自身の偽名(このグループは各々が偽名で名のることを旨としていた。)である。しかし、それは単なる恣意的な造形上の好みにとどまるものでなかった。他の建築家たちの転身の理由は、合理主義が「時代精神」を具現化するものだという信念に求められるが、フィンステルリンには、このテクノロジーに主導された進歩主義的なモダニズムのイデオロギーに対抗する思想があった。それはフォルムの自律的な発展、進化の途の上に自らの造形を位置づけるという思想で、ことばをかえていえば建築形態のダーウィニズムとでもいうべきものである。若い頃に医学を学んだフィンステルリンは建築におけるダーウィンをもって自認したのである。

博物館
ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「博物館」


 「ものの形態のABC、および形態の三重性の控えめな結合は、今日に至る迄、人間の建築の、不明確な語彙であった。」原形、つまり球の三つの同素的体状態とは、次の通りだ―球は、円錐形をめざして動いていく、そして絶えることなく棒状へと進み、ついには頂点や稜の多面体の抵抗作用があらわれることになる。こうした原形の二、三の特性は、融合したり、浸透したり、あるいは分かれたりしながら、互いに形態の雌雄が結び合って最初の雑種をつくりだした。だがこの雑種は、数千年を通じて不毛であつた。多種多様な、常に豊かに分かれていく立体の絶え間ない結合による〈形態自体〉の無限の変種への決意がなされなかったのだ。建築は、今日に至るまで、形態の崩壊であった。」「カサ・ノーヴァ」(新しい家)と題された1924年の論文でフィンステルリンはこう書いている。建築形態の「種の淘汰」をめざすフィンステルリン。彼はまたこうも書く。「不十分なものと満ちたりたものとが、すべてふるい分けられていくように、汝らのふるいをその最高の意志に合わせて調節せよ、それらは受胎にむくいるものではないのだ。汝ら、立体を知るものよ、球と面とで満足するな。それは人間の遺産に対する忘恩というものだ。」
 フィンステルリンの建築のドローイングがそれが置かれるべき周囲のコンテクストを一切示していないのは注意しておいてよいかもしれない。表現主義は本質的に都市的な芸術現象である。それへの反発が強い田園志向として結晶しているとしても、それは両義的なものであった。だが。フィンステルリンの場合は、周囲は都市どころか田園ですらない。むしろ建物と地盤との境界すら定かではない。土地の形すら芸術的なファンタジーの領域に編入されている。「カーサ・ノヴァ・テラ・ノヴァ」(新しい家、新しい大地)。それはあたかも遊星の上に築かれた異星人の住み家のようですらある。
 フィンステルリンの造形は彼の活躍した時代の技術に合致するものではなかった。しかし、その後の技術、空気膜構造やシェル構造などの発展からすれば、それらは将来とも実現不可能な形態ではなくなりつつある。実際、ミュンヘン・オリンピックのスタジアムの屋根などで特異な形態の追求を合理的に行っているフライ・オットーはデザイナーではなく構造技術者である。それはまだフィンステルリンのイメージには追いついていないが、時代は再び彼のものとなるかもしれない。それは本当に異星の上につくられることになるかもしれないのだ。「カーサ・ノヴァ」の最後に彼はこう書いている。「この世のものとも思われぬこの建築について、その技術上の可能性、この世の手段をお尋ねになるのですか?意欲のあるところ、そこには道があるのです。」

技術高等学校
ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「科学技術高等学校」


アトリエ
ヘルマン・フィンステルリン Hermann Finsterlin
「アトリエ」


やつか はじめ

*現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.99』(1983年12月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「湖畔の別荘」
http://www.flickriver.com/photos/quadralectics/8279863197/
「博物館」
現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.99』より
「科学技術高等学校」
http://lizgroth.tumblr.com/post/58177497632/archiveofaffinities-hermann-finsterlin-glass
「アトリエ」
https://www.flickr.com/photos/quadralectics/82798626

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。
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●今日のお勧め作品はマイケル・グレイヴスです。
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1989
紙に鉛筆、色鉛筆
Image size:13.0x81.0cm
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休み中のお問合せ等への返信は直ぐにはできませんので、ご了承ください。

建築家のドローイング 第8回 ハンス・ペルツィヒ

リレー連載
建築家のドローイング 第8回
ハンス・ペルツィヒ(Hans Poelzig)〔1869―1936〕

八束はじめ


 前々回にオットー・ワグナーのドローイングと実作とのスタイルの上での一致が、確かなメチエの介在の上に可能になったと述べたが、ユーゲント・シュティルにも何がしかのものを負っていることは疑い得ないにも拘らず、表現主義における――ここでは主にドイツのそれに限定しておく――ドローイングのスタイルは、そうした職人的なテクネーの延長上に確保されたものとは全く違っている。ワグナーの線描が、工作技術によって保証され、辿り得るものであったのに対して、表現主義者の作家たちのドローイングでは、線は実対化したものの境界というようなものではなく、つまり自律的なオブジェの構成要素というカテゴリーに入るものではなく、むしろある運動のプロセスであり、勢いという、本来定着して目に見えないものの行跡でしかない。主役を演ずるのは不動の客観物=オブジェではなく、その勢いを生じずにはおかないもの、つまりはその呼称にもあらわれている「表現」である。それが具体性に先行していることは、この運動ともまんざら無関係ではなかったヴォーリンガーの有名なゴシック芸術に関わるテーゼ、つまり「抽象」と「感情移入」に簡潔に要約されている。

第一次室内パースハンス・ペルツィヒ Hans Poelzig
「第1次室内パース」

 軽率の謗りを敢えて覚悟でいってしまうならば、「表現主義」と「表現主義的なるもの」との区別が可能であると思われる。この区分をひとまずしておくことによって、何故前者がオランダを除けば基本的にはドイツ固有の運動であったかを理解し得る。ラテン民族が表現主義的なアモルフのカオスを好まなかったという議論は、通俗的には説得性ありげに見えるが、ガウディ(スペイン)はアール・ヌーボーというより表現主義的な激しさすらもっているし、ル・コルビュジエ(スイスーフランス)の戦後のロンシャンの礼拝堂や、ミケルッチ(イタリア)の太陽の教会などはそれに対する反証となり得る。それが熱病のように共同化されて、時代の渦を形成していった所に、「表現主義」が一時代のスタイルとして成立し、またハンス・シャローンのような例外は別とすれば、作家たちがやがて病から治癒したかのようにそれから身を遠ざけていった一過性の理由を探ることができる。それはドイツの第一次大戦前後の社会的な大変動期のみに生じ得た、巨大な芸術と表現とのトランス状態であり、極度の個人主義と極度の集団主義、前進性と後進性とが不可分な形で煮つめられている坩堝であった。ヴォルテージの高さだけが問題であって、何であれ中途半端なもの、現状維持的なものは存在の余地がなかった。ペルツィヒの神話的な原始の共同体へのノスタルジーとルックハルト兄弟の有機的なファンタジーへの憧憬とメンデルゾーンの喧騒に満ちたダイナミズムとの間には、この変換期の作用の大きさ以外に共通するものを見つけるのは、必ずしも容易ではない。

ザルツブルグハンス・ペルツィヒ Hans Poelzig
「ザルツブルグの祝典劇場・第1次案外観」

 1869年に生まれたペルツィヒは、この時代の嵐とも痙攣ともいうべき運動に巻きこまれた建築家たちの中では最年長に属する。2才年上にはユーゲント・シュティルのオルプリヒ、1才年上には表現主義者にも影響を受けたべーレンスがおり、ウィーンのロースやホフマンよりは1才年長になる。後の近代建築運動の旗手となったグロピウス、ミース、ル・コルビュジエらよりは一世代半ばほど上にあたる。表現主義に身を投じた中でもタウト兄弟やメンデルゾーンにしても80年代の生まれである。この5年の違いは、彼らの原イメージとでもいうべきものに決定的な相違を与えている。ペルツィヒは、古いドイツの森林や山の深い響きに身を委ねながら育ち得た最後の世代である。彼は、同世代の建築家たちの多くとちがって、より若いアヴァンギャルドの運動にも理解と助力を与えたが、コンラード・ワックスマンのような技術者を育てたにも拘らず、本質的にはドイツの――後にはナチスの「血と大地」理論をも触発する――風土に根ざした神話的=ロマン的な共同体のイメージの上に生い立った建築家である。事実、こうしたイメージは、ペルツィヒのようにナチスから排除された建築家にも、5才下の、ナチスの寵を得たヴィルヘルム・クライスのような人物にも、またその中間にあったパウル・ボナッツなどにも共に通底している。ペルツィヒの最も著名な実現された建物、演出家マックス・ラインハルトのためのベルリンの大劇場はつららのような突起物が天井から無数に垂れ下がる幻想的なインテリアで一世を風靡したが、ドローイングに留まったビスマルク記念碑、コンスタンチノープルの友好の家、そしてザルツブルクの祝典劇場などのプロジェクトでは、こうした幻想性は更に著しく亢進されている。建築のマッスは鬱然としたうねりのうちに溶解されていて、もはやはっきりとした輪郭をもたない。それは霧の中から茫漠とした偉容をあらわしつつある塊のようでも、黒々と先端をうかがいしることもできない様子で濃厚に生い茂る森のようでも、底知れぬ深い洞窟のようでも、更にはまた巨大な蟻塚のようでもある。ワグナーの華麗なユーゲント・シュティルのドローイングがペンの鋭利な線(ハード・エッジ)を必要としたのとは対照的に、ペルツィヒはスケッチでは木炭を、詳細なレンダリングでは鉛筆を多く用いた。それらでつくられる線の柔らかさ、あるいはあらゆる方向に広がり蔓延していく曲面の微妙なテクスチャーが、ペルツィヒにとっては是非とも必要なものであった。そこに現出するものは南方の強い日ざしとは全く違った、ドイツの北方的な神話の空間であり、そうした古代の記憶を背負った共同体のイメージである。ここでは建築家はむしろ祭司なのである。柔らかいが大地に根ざした重さをたたえたその曲面の流れは、その祭儀をつつみこむ聖なる衣であり、時代の激動をその壁の厚みの外側で塞ぎとめている。ペルツィヒのドローイングほど、20世紀ドイツ社会の奥底に潜められた共同体への憧憬を能く表現し得ているものは他にない。

ビスマルクハンス・ペルツィヒ Hans Poelzig
「ビンゲルブリュッケのビスマルク記念碑―第1次案」

やつか はじめ

*現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.97』(1983年10月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「第1次室内パース」
https://thecharnelhouse.org/2015/08/17/return-to-the-horrorhaus-hans-poelzigs-nightmare-expressionism-1908-1935/hans-poelzig-festspielhaus-salzburg-1920-1922e/
「ザルツブルグの祝典劇場・第1次案外観」
http://socks-studio.com/2014/11/19/hans-poelzigs-festspielhaus-in-salzburg/
「ビンゲルブリュッケのビスマルク記念碑―第1次案」
現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.97』より

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

●今日のお勧め作品は、磯崎新です。
礒崎新「闇2」小磯崎新 Arata ISOZAKI
「闇 2」
1999年 シルクスクリーン
イメージサイズ:58.3×77.0cm
シートサイズ:70.0×90.0cm
Ed.35 サインあり

礒崎新「影1」600磯崎新 Arata ISOZAKI
「影 1」
1999年 シルクスクリーン
イメージサイズ:58.3×77.0cm
シートサイズ:70.0×90.0cm
Ed.35 サインあり

礒崎新「霧1」600磯崎新 Arata ISOZAKI
「霧 1」
1999年 シルクスクリーン
イメージサイズ:58.3×77.0cm
シートサイズ:70.0×90.0cm
Ed.35 サインあり

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建築家のドローイング 第6回 オットー・ワグナー

リレー連載
建築家のドローイング 第6回
オットー・ワグナー(Otto Wagner)〔1841一1918〕

八束はじめ


 建築家のドローイングと一言でいっても、それらのもつ意味は、必ずしも一様ではない。現実の建物のプレゼンテーションないし記録という意味もあれば、現実と離れて紙の上にだけ定着され得るプロジェクトである場合もある。このシリーズでとりあげられてきた建築家たちのドローイングでいえば、後者に属するケースが多かったわけだが、前回のシンケルと並んで今回とりあげるオットー・ワグナーの場合は、それとは違っている。ルクーガンディーが時代の趨勢からいえば全くマイナーな存在にすぎなかったのとは対照的にシンケルもワグナーも当時の建築家として望み得る最高の地位を極めた人々であり、数多くの、それも社会的にも重要な意味をもった実作を残している。当然、ワグナ−でも紙上で終ったプロジェクトは少なからずあるが、それでも、ワグナーにとってドロ−イングは実作で満たされぬことへの補償行為とは全く違うし、ましてブレやルクーのように実現されるはずもない幻想を紙面に定着しようとするものではなかった。その意味で彼のドローイングは全くオーソドックスな、実現されるべきもののプレゼンテーションとしてのそれである。ワグナーのドローイングを独特にしているものは、プロジェクトの内容というよりは、むしろ、表層的な部分、つまりそのスタイルである。正確にいえば、単なるドローイング・スタイルというにはとどまらない、その如何にも絵画的なスタイルが、逆に建築自体に及び、更には都市空間の全体の雰囲気にまで感応しているのである。つまり、この場合、ワグナーの建築芸術にとって、そしてそのドローイング・スタイルにとって、ウィーンという特異な都市の空間が、欠くべからざる醸成器になっているということだ。

美術アカデミー計画案
オットー・ワグナー Otto Wagner
「美術アカデミー案」

 ウィーンほど多くの書き手を惹きつけたまちは殆んどない。パリがそうだといってもよいが、それはヨーロッパ全体の首都である。ウィーンは、少なくともオーストリア・ハンガリー帝国の瓦解以降、ヨーロッパ全体から見ればローカルな都市にすぎない。にも拘らず、この都会がその住民に、そしてヨーロッパ文化に対して及ぼした呪縛は、パリに優に拮抗している。建築に関していえば、パリはマンサールやガブリエル、ブレ、ルドゥ、ガルニエ、ペレーそしてル・コルビュジエをもったが、彼らとその都市空間との関係は自からが生んだ建築家たちにウィーンが及ぼしたものとは同質のものではない。フィッシャー・フォン・エルラッハ(バロック)、ゼンパー(ネオ・バロック)、ワグナー(ゼツェッション)そしてロースや現代のハンス・ホラインに至るまでの建築家のスタイルは、ウィーンという都市への感応抜きには決して成立し得ないものである。アドルフ・ロースはウィーンのまちのもつブルジョア文化の世紀末的な虚偽性に対して、著述家カール・クラウスや作曲家アルノルド・シェーンベルクと共に激しい反発を示し、告発したのだったが、それもまたウィーンの精神文化、都市文化の一部であったには違いないのである。
 ワグナーは、こうしたハプスプルグ家の首都において、文字通りの重鎮であった。とくに1894年、53才で美術アカデミーの教授に就任することによってその名声及び影響力は決定的なものとなった。ワグナーは基本的にかなり晩成のタイプだったといってよい。彼が建築史に名を残す自己のスタイルを確立したのは、この時期あたりで、それ以前のスタイルは基本的に伝統の枠からはずれるものではなかった。ワグナーの新しいスタイルは全ヨーロッパ的な新しい流れ、つまり、フランスではアール・ヌーボーと呼ばれ、イタリアではスティロ・リバティと呼ばれ、ドイツではユーゲント・シュティルと呼ばれたものと密接に関っていたが、彼を旗頭とするウィーンのゼツェッションはその中で独自な位置を占めている。パリのギマールやトリノのダロンコ、バルセロナのガウディらと比べると、ワグナーのスタイルは本質的には古典主義に根ざしているために、世紀末的な退嬰性よりも、むしろ近代的な合理性へと容易に通底していくような種類のものであった。ドローイングを見ても、この本質的な部分での節度のような一線がはっきりと守られていたことを見てとるのは困難ではない。つまり初期のネオ・バロック的なデザインから比べるとゼツェッション時代のそれは著しく平面性(彫刻的というよりはレリーフ的な装飾性、量塊というよりは面で構成されたという感の強いマッス)と軽さを増しているとはいうものの、線はあくまで明確な輪郭を与えるように引かれている。ワグナーのドローイングで驚かされるのは、通例、実物とドローイングを比べると殆んど不可避的な両者の段差が、全くといってよいほど感じられないということである。ドローイングで獲得されている線や面の質がそのまま実作でも生かされているということは、確かなメチエの存在の証しでもあるが、それだけ絵画的なスタイルが採用されていたということでもある。ドローイングのスタイルが、例えば鋳鉄の技術的な可能性や、大理石の工場で整形されたうすいパネルの性能(平滑性)などと相談しながら決められていたといってもよい。ゼツェッションの特色である曲線は、確かに多用されるが、それはギマールのそれが植物が無差別的に繁茂していくといった趣きをもっていたのに比べれば、明らかに目的地を知って引かれた曲線である。むしろワグナーにおいては、古典主義の節度とゼツェッション的な曲線の魅惑とのバランスが確かめられながらデザインが進められている。ギマールやダロンコが時に悪趣味に堕しかねないのに対して、ワグナーがそうならないのは、その両者のヒエラルキーが決して侵されることがないためである。だから彼は、そのスタイル上の特徴(魅惑)を失うことなく、晩年の郵便貯金局では、完全に近代建築の規範に数えられる傑作をものし得た。ワグナーの世紀末は充分に世紀末でありながら、つまり金色を多用した華麗、繊細で脆そうな曲線の文彩によって存在性の稀薄さの故の、表面性の魅惑にいささかも欠けていないでありながら、しかも全く健康的である。この奇妙なバランスの感覚は、多分ウィーン風と呼び得るものなのだ。ウィーンの中心部にはエルラッハ(子)のバロックの宮殿のとなりにワグナーの華美なアパートがたち、その斜め向いにはロースがそれらの壘惑性と対抗するかのように無愛想なデパートをつくっているが、そのロースにも官能性の匂いは隠し得ない。そのまたそばにはホラインの小さな宝石屋がたっている。そのファサードには金色の崩れたような亀裂が入れられ、ホライン独特の孔のイメージを漂わせている。不思議なことにワグナーの健康性とロースやホラインのニヒリズムはよくあっている。それがウィーンなのだ。脆い表層と深層のバランスの上にたつことによって、それはいつでも世紀末的なのだ。

近代芸術のためのギャラリー
オットー・ワグナー Otto Wagner
「近代芸術のためのギャラリー」

やつか はじめ

*現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.95』(1983年8月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載
「美術アカデミー案」
現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.95』より
「近代芸術のためのギャラリー」
www.drawingcenter.org

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
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●今日のお勧めは刊行されたばかりの『野田哲也全作品 Tetsuya Noda The Works 1964-2015』特装版です。
野田哲也_レゾネ_表紙『野田哲也 全作品 Tetsuya Noda The Works 1964 - 2016』
2016年4月4日発行
著者 野田哲也
発行 阿部出版株式会社
29.7×22.2cm(A4判)
263ページ

特装版:75,000円(+税)
※特装版には下記のオリジナル版画が一点挿入されています。
日記 2014年1月22日野田哲也 Tetsuya NODA
"Diary; Jan. 22nd '14"

2014年
木版・シルクスクリーン
イメージサイズ:20.9×17.0cm
シートサイズ:26.5×20.5cm
Ed.100  サインあり

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◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
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 ・frgmメンバーによるエッセイ「ルリユール 書物への偏愛」は毎月3日の更新です。
 ・夜野悠のエッセイ「書斎の漂流物」は毎月5日の更新です。
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 ・杉山幸一郎のエッセイ「幸せにみちたくうかんを求めて」は毎月10日の更新です。
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 ・土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」は毎月13日の更新です。
 ・野口琢郎のエッセイ「京都西陣から」は毎月15日の更新です。
 ・森下泰輔のエッセイ「 戦後・現代美術事件簿」は毎月18日の更新です。
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 ・藤本貴子のエッセイ「建築圏外通信」は毎月22日の更新です。
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 ・小林美香のエッセイ「写真集と絵本のブックレビュー」は毎月25日の更新です。
 ・スタッフSの「海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。
 ・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は終了しました。
 ・荒井由泰のエッセイ「いとしの国ブータン紀行」は終了しました。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」と合わせお読みください。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・中村茉貴のエッセイ「美術館に瑛九を観に行く」は随時更新します。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」英文版とともに随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイや資料を随時紹介します。
 ・「オノサト・トシノブの世界」は円を描き続けた作家の生涯と作品を関係資料や評論によって紹介します。
 ・「瀧口修造の世界」は造形作家としての瀧口の軌跡と作品をテキストや資料によって紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造とマルセル・デュシャン」、「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。
 ・「現代版画センターの記録」は随時更新します。
今までのバックナンバーの一部はホームページに転載しています。

●ときの忘れものは連休明けの5月10日から、オクヤナオミの個展を開催します。
OKUYA_DM_1200
オクヤナオミ展
会期:2016年5月10日(火)〜5月28日(土)
*日・月・祝日休廊
本展では、パリ時代の油彩6点を中心にご覧頂きます。
同時期にアートフェア東京とアート釜山にも出展しますが、画廊は通常通り営業していますので、どうぞお出かけください。
(画面をクリックすると拡大します)

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●ときの忘れものは2016年3月より日曜、月曜、祝日は休廊します
従来企画展開催中は無休で営業していましたが、今後は企画展を開催中でも、日曜、月曜、祝日は休廊します。

建築家のドローイング 第4回 ジョセフ・マイケル・ガンディー

リレー連載
建築家のドローイング 第4回
ジョセフ・マイケル・ガンディー(Joseph Michael Gandy)〔1771―1843〕

八束はじめ


 T・S・エリオットに「マイナー詩人について」という一文がある。文学史に大書されているビッグ・ネームでなくとも、それなりの捨て難さをもっているという話であったと記憶している。建築家にあっても事情は同じである。前回とりあげたルクーにしても、現世的な建築家としてのキャリアとしたら、マイナーもマイナーという所で、歴史家カウマンによってその有名な著書に「三人の幻想的建築家ブレ、ルドゥ、ルクー」と語呂合せよく並べられてしまったが、実の所は他の二人に到底肩を並べられる盛名をはせていたわけでは全くない。三人が同じレヴェルに連ねられ得たのはドローイングという、建築本来からすればマージナルな領域において(それも後世からの見直しによって)でしかなかったのである。マージナルな領域とマイナーなステータスとの関連性という結びつきは、必ずしも因縁のないことではなさそうだ。
 ルクーよりも十二、三年ほど後にイギリスに生を享けたジョセフ・マイケル・ガンディーもまたこのような世界の住人であった。ルクーが遅く来すぎたように、ガンディーもまた時機を逸した人物である。イギリスはドーバー海峡を隔てた隣国フランスのような激動を経験したわけではなかったが、平穏無事な時代が世俗的な栄達を狙う人々にとっていつでも都合がよいとは限らないのは、建築の世界だけの話ではない。このころのイギリスに建築家にとってのメジャーな仕事に欠けていたわけではないが、それらはガンディーよりも二世代ほど上の建築家に握られていた。ガンディーと彼の同世代の建築家たちには、はやくいえば、出る幕がなかったのである。機会の問題だけではなかったかもしれない。上の世代にはジョン・ナッシュ、サミュエル・コッカレル、そしてジョン・ソーンなど才能ある建築家たちがいた。フランスにおけるブレやルドゥと同世代人であった彼らは、フランス人たちのようには―如何にもイギリスらしく―ファナティックでも独創的でもなかったが、それなりの確固たるスタイルをつくり上げることに成功した。ワーズワースやウォルター・スコット、コールリッジらとほぼ同年のガンディーの才能は、しかし、一時代を画すには必ずしも充分な容量をもったものとはいえなかった。いくつか、といっても決して多い数ではない。彼の実現した建物はさほど見るべきものではない。実務的な建築家としてのガンディーは全くマイナーな存在にすぎず、それのみでは歴史的に名を残し得なかったであろうことは間違いない。

ジョン・ソーン邸 インテリアJ・M・ガンディー Joseph Michael Gandy
「ジョン・ソーン邸インテリア」

 しかしよくしたもので、ガンディーにもとるべきものは備っていた。ドローイングの才能である。ガンディーは己れのマイナーな才能をこのマージナルな分野で生かしていくことで糊口を得ていた。こうしたドローイング・アーキテクトの伝統の源はローマに、とりわけ本連載の第一回でとりあげられたピラネージにある。フランスからもイギリスからも若い芸術家たちは、この古代の栄華の都に研修に赴き、ピラネージを中心とするサークルの色に染まった。ロマン主義の発生の一つの源がここにあったことは疑いがない。ガンディーもまたイタリア遊学をしたが、ここでも運のないこの人物が行った頃のローマは昔日の面影も翳りつつあって、ピラネージはとうに没し、あげくはフランス軍が革命の余勢をかってイタリア侵攻を行うという具合でガンディーはほうほうの態でイギリスに戻った。しかし帰った祖国でも仕事が待ち受けていたわけではない。若いガンディーに仕事を与えてくれたのはジョン・ソーンである。当時のイギリスの建築家の中で間違いなく最も独創的であったソーンは、いわばルドゥのイギリス版といってよい人物であったが、ガンディーはソーンのデザインした建物のレンダリングをすることで日々の糧を得ていた。ガンディーもこの、収入からいっても名誉からいっても得られる所の少ない―ドラフトマンはせいぜい徒弟の一種にすぎなかったから―仕事に打ち込んだ。貧窮のあげくに禁治産となり刑務所に収監されさえしながらも、ガンディーは「機械のごとくに描きつづけた」(J・サマーソン)彼はこのドローイングに、ソーンのドラフトマンとしてだけでなく己れの建築的ファンタジーを盛り込む途を見出した。それらのファンタジーには同時代の詩人たちのロマン的な夢想と共通するものが多い。彼が二つの著書「コテイジの設計」、「田園建築家」にまとめたスケッチ群は、当時の一般の田園生活への憧憬と対応したものだが、デザインとしては「あまりに風変りなので、この作者は建築家などではまったくなく、奇矯な素人か、独学の百姓なのではなかろうかと思わせるほどである。」(サマーソン)多分これらにはルドゥの影響が見てとることができるかもしれない。このフランスの幻想的建築家は、自分がかつて造営した王立製塩所に様々の施設を接ぎ木し、現実と想像の入り混った理想都市を計画し、晩年を費した作品の版画集の核としたのだが、その理想都市の効外にも多数の風変りな形をした田園住宅がふりまかれていたからである。そしてルドゥの作品集はソーンのコレクションにあったから、ガンディーがそれにヒントを得たことはおおいにありそうなこと、というより間違いなさそうなことである。とはいえ、ガンディーの田園住宅がルドゥのそれよりも一層つつましい規模で、表現もおとなしい所は如何にもイギリスらしく、またマイナー建築家らしい。

新議会J・M・ガンディー Joseph Michael Gandy
「新議会」

 ガンディーの真骨頂は、しかし、より多く水彩による幻想的なレンダリングにある。これらは厳密な意味では建築のドローイング、つまりデザイン行為のプレゼンテーションというよりは、むしろ絵として完結している。ルクーの幻想的プロジェクトもまた画布の上にしか留まり得ないものであったが、それでもプロジェクトとしての、つまり特定の建築的要素を選択し、配列するというデザイン行為としての意味に欠けていたわけではない。ガンディーの場合、それはさほど問題にならない。先に書いたように、彼のはあくまでレンダリングであり、しばしばソーンのプロジェクトのためのものであるか、またはそれから派生したものである。むしろそれは舞台的なものを想起させる情景図(シェノグラフィー)に近い。この意味で彼は、やはりピラネージや、ユヴァーラ・ビビエナ一族、そしてフランスのローマ・アカデミーの人々に連っている。最高作のひとつにサマーソンがあげている「英国皇帝の王国のための皇帝の宮殿」や「新議会」はその例である。よく見ると個々の部分が全体から奇妙に独立的なこの時代の様式上の特徴は伺えるが、むしろ印象的なのは霧の中からバロック風宮殿が湧き上ったようにしてふいに現われてきたというような風情である。つまりそれはデザインとしてというよりは情景としてより印象的なのである。ガンディーのとりあげる主題には、この時代の廃墟趣味と平行的なものではあるが、洞窟や墳墓があった。ブレをはじめとするフランスのヴィジオネールも多く墳墓をとりあげたが、それは超時代的な不変性の象徴としてである。ガンディーのそれは、もっとゴシック・ロマン的な暗い隠微な光と影の幻想的情景を演出するための手立てとしてとりあげられている。ブレのように初源的な幾何学の力強さによる建築的偉容ではなく、様々の小道具や情景描写がガンディーの幻想画のすべてである。その意味でガンディーの建築史上に占める位置は、同じく幻想的ではあってもフランスのヴィジオネールたちよりもずっとマイナーなものとならざるを得ない。そこには建築としてのオーセンティックなものが欠けていたし、結局彼は先の世代のエピゴーン以上ではなく、ただその粉飾のこらし方にちょっとばかり小才があったというにすぎないのかもしれない。しかしマイナーなものにもレゾン・デートルはある。ソーンの最高傑作の一つである自邸は古代エジプトのセティ一世の石棺を中心とする様々の考古学的オブジェの集塊による一種の墳墓空間となっているが、これがガンディーの絵に触発されたものだというのはありそうなことである。そしてこの印象的な吹きぬけのスペースをガンディーはやはりレンダリングしているのだが、それは現実よりも一層印象的な、殆んど非現実的とすら思わせる出来映えである。

こってーじ2J・M・ガンディー Joseph Michael Gandy
「コッテージ」

やつか はじめ

*現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.93』(1983年6月1日発行 )より再録
*作品画像は下記より転載
「ジョン・ソーン邸 インテリア」
IAR1411-Commuincation and media S2 2015
「新議会」
wikigallery.org
「コッテージ」
onlinegalleries

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

●今日のお勧め作品は、磯崎新です。
20160224_isozaki_13_tsukuba_iii磯崎新
「TSUKUBA III」
1985年
シルクスクリーン
イメージサイズ:56.0×56.0cm
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Ed.75
サインあり


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◆八束はじめ・彦坂裕のエッセイ「建築家のドローイング」(再録)は毎月24日の更新です。

建築家のドローイング 第3回 ジャン・ジャック・ルクー

リレー連載
建築家のドローイング 第3回
ジャン・ジャック・ルク−(Jean-Jacques Lequeu)〔1758−1826〕

八束はじめ


 いつの世でも不遇な人物というものはいるものらしい。ことにフランス革命というような人類史上に残る大事件が世の明暗を分けた時代においてはである。革命の大義がどうであろうと、「暗」の部分に追いやられた人々の中には時代の犠牲者と呼ぶしかない人々が少なからず出てくるのは止むを得ない。ジャン・ジャツク・ルクーの場合の不運は大革命の勃発時に、彼が30才そこそこの建築家であったことである。つまり、この天分に恵まれた人物はようやくその建築家としてのキャリアを築き始める端緒についたばかりであった。建築家という職能には、とりわけこの時代にあっては、国家権力あるいはその支配層との結びつきを保つという実務家としての仕事が宿命的に含まれている。逆にその権力の敵から見れば、建築家は大なり小なり体制派=反革命と映ずるのは当然の成り行きである。フランス大革命期は建築言語の上でも革命的な地殻変動をもたらした。不幸はこの政治革命と建築芸術の革命とが、密接な関係をもちながらも、決して等身大に重なり合わなかったということにあった。芸術革命の遂行者たちはしばしば政治には反動と見なされたし、実際それは必ずしも根拠のないいいがかりであったわけではない。前回とりあげられたブレはフランス・アカデミーの名声ある教授の座を一時追われかかった。ブレとしばしば比較されるクロード・ニコラ・ルドゥは投獄されギロチンにかけられる寸前までいった。しかし革命時にブレは61才、ルドゥは53才であった。ブレは既に最も重要な仕事を果たし終えていたし、ルドゥはその不遇な晩年を奇書ともいうべき版画による作品集「芸術、風俗、法制との関係から見た建築」に没頭することしか許されなかったとはいえ、その晩年は長いものではなかったし、革命前にはその完全な開花期の直前で断ち切られてしまったとはいえ、世に名声を謳われるには十分の作品群を残し得た。対してルクーは重要な仕事をするには若すぎた。偉大なジャック・ジェルマン・スワロ(パリのパンテオンの建築家)の甥フランソワ・スワロの下で幾つか行った設計はともあれ好評であり、郷里のルーアンでは王立アカデミーの準会員に推されるなどして、未来は希望と夢に溢れていたが、この準備段階は体制派のレッテルを貼られるには十分であっても、建築家ルクーの名を後世に残すにはあまりにも熟す期間が少なすぎた。大革命はこの若い建築家のキャリアを無慈悲に断ち切った。ルクーは役所のしがない製図工や測量事務所の仕事で糊口をしのぐことで後半世を送った。遺されている自画像は、如何にもこの人物の不運を象徴するかのように風釆の上らぬ、およそルドゥの肖像に見られるような輝かしい才気とは縁のなさそうなルクー像を伝えている。

Jルクー「ベルビューの寄合所」J.Jルクー Jean-Jacques Lequeu
「木こりのためのトルコ風の家」


 だが、実際には、やがて歴史の忘却の闇からルクーの名が再び浮上し、先輩のブレやルドゥと共にヴィジオネール(幻視者)という、この自画像のイメージにはおよそ似つかわしくない呼称を冠せられるに至らしめたものは、実にこの日陰の後半生に育まれた妄想によってであった。実生活での悲惨を補うかのように、実現とは全く切り離された自慰行為として画かれたルクーのドローイングの数々――それも生活の糧を得るために二束三文で売りに出されなくてはならなかったのだが――は、おそらく建築史上で最もファナティックな夢想に数えられるものである。

Jルクー「牛小屋」J.Jルクー Jean-Jacques Lequeu
「牛小屋」


 ブレやルドゥ、あるいは他のヴイジオネールたちにしても、その呼称にふさわしく、彼らのドローイングは前例のないほどに夢想的ではあった。ブレは当時の建築物を単純性と偉大性という啓蒙期の美学の中心的概念の象徴とさせたし、ルドゥは通例の建築の文法を著しく誇張した話法によって解体した挙句に、如何に強い性格を建築がまとい得るかを示してみせた。だがブレの巨大妄想にせよルドゥの「語る建築」にせよ、ドローイングはそれを果たさせぬ技術的、経済的、社会的環境への補償行為に過ぎなかった。そうした条件さえ許すならばそれは実現し得たのである。事実ルドゥは革命前に少なからぬこうた「奇作」を実現している。しかもルドゥはそのドローイングの殆んどを版画(エッチング)とさせている。それは作品集として数多く印刷し世に流通させるための手段であった。しかし孤独な妄想者ルクーにおいては事情は全く違う。彼の方は美しく彩色された絵画として残した。もはや社会への流通性は、その底辺に生きるだけがせい一杯の夢想家にとっては問題とならぬかのように。そしてこのドローイングは全くドローイングだけの世界である。現実に建つべき建築の姿が紙の上に残されたという性質のものではない。先輩ヴイジオネールの亜流に過ぎぬ作品のいくつかを別にすれば、ルクーのドローイングにあらわれる「建築」は、むしろ「建築風」なモチーフを借りた寓話とでも呼ぶべきものであった。18世紀から19世紀にかけては、建築においては純正な形式とされた古代ギリシアの建築様式の範例に忠実に従おうとする新古典主義が主流を形成していく過程に対して、異郷趣味に侵された折衷主義の享楽的な誘惑が纏わりついていく時代であった。ブレやルドゥは独創的なイメージによって規範性を超克しながらも、基本的には古代の偉容に憧憬した建築家たちである。彼らはその建築的なイメージをうつろい行く時間の進行の外部に置こうとした。それに対してルクーでは、様々の時代、様々の様式の断片がむしろ何の規準も脈絡もないままに選ばれているばかりか、動・植物などの不思議なモチーフがそれらと異様な形で結びつけられている。そこにはブレ、ルドゥのような偉容は全く欠如している。偉容を付与すべき典拠性、あるいはこの時代に好まれたことばでいえば単純性といったものはルクーには見当らない。一生日陰で過した不遇の身にはそのような晴れがましさは似つかわしくないといわんばかりである。古典建築様式も引用されるが、それはその本来の偉容を示すためというよりは、むしろパロディ化されるため、他のイメージによって浸喰されるためだが、これはいわゆる折衷主義とも違っている。何故なら折衷主義の殆んどは、むしろ単純で安定したイメージを流通させるために様々の様式を借りてくるだけに過ぎないからである。例えばクルーとほぼ同時代のイギリスの建築家ジョン・ナッシュが皇太子(後のジョージ4世)のために建てたブライトンのロイヤル・パビリオンはイスラム・ムガール風のネギ坊主のようなドームをもった建物であり、その中で彼はフェイクのヤシの木を配したが、それは単純な異郷趣味を満足させるためだけのものであって、オーセンティックな規範への背反はあったとしても、そのイメージは誰にでも分かりやすく流通し得るものであった。そこでのナッシュはいわばコマーシャルな建築家であって、現代の日本でも多く見られるコロニアル風のプレファブ住宅だとか、民家調の店舗だとかのデザイナーと本質的に変る所は何もない。しかしルクーの場合は全く様相が違っている。コマーシャルなイメージが安定した連想システムを梃子としているのに対して、ルクーの仕褂ける連想のからくりははるかに不安定で混乱した意表をつくような性質のものである。例えばエジプト趣味はルクーのとりわけ好んだモチーフの一つだが、それにも拘らず「イシスの神殿」にはゴシック的な装飾が施されている。牛乳の搾取場と題されたドローイングは簡素な古典様式のベースメントの上にロンバルディア・バンドと呼ばれるロマネスクの城砦のディテールが施され、その上に中国風の屋根を冠した小パビリオンが載っている。それらのつながりを示すものは何もない。辿られるべき文脈は欠落している。その上にルクーのシンボリズムには実はフリーメイソンの秘教的なそれもが忍ばされている。そのコードを読み解いていくとまたそこには別の意味がかくされている、という風なイメージの迷路がそこには形成されているのである。こうした異様だが美しい、謎めいたドローイングは死期の近しいことを悟ったルクー自身によって国立図書館に、50年間の密閉という条件つきで、寄贈された。その後のこの不運な人物の経緯を知っている者は誰もいない。

Jルクー「木こりのためのトルコ風の家」J.Jルクー Jean-Jacques Lequeu
「ベルビューの寄合所」


やつか はじめ

* 現代版画センター 発行『PRINT COMMUNICATION No.92』(1983年5月1日発行)より再録
*作品画像はエミール・カウフマン著・白井秀和訳『三人の革命的建築家 ブレ、ルドゥー、ルクー』(1994年 中央公論美術出版)より

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

*画廊亭主敬白
2015年11月から連載(再録)をはじめたリレー連載「建築家のドローイング」(毎月24日に掲載します)は、今から33年前、亭主が主宰していた現代版画センターの機関誌『PRINT COMMUNICATION 』に、当時まだ新進気鋭の建築家だった彦坂裕さんと八束はじめさんに交替で執筆していただいたものです。
全部で15回ありますが、今回再録にあたり、お二人に了解をとったところ、快く受けていただきました。再録にあたっては誤字脱字以外は最小限の修正しかしていません。画像については、当時の編集スタッフがお二人の蔵書から複写したのですが、今回は新たに画像を他の文献から集める予定です。
第二回エティンヌ・ルイ・ブーレーと今回(第三回)ジャン・ジャック・ルク−については、エミール・カウフマン著・白井秀和訳『三人の革命的建築家 ブレ、ルドゥー、ルクー』(1994年 中央公論美術出版)から引用させていただきました。
同書は、三人の建築家たちが20世紀の近代建築の先駆的な存在として評価されるきっかけとなった重要な文献ですが、お二人の執筆はその邦訳が刊行される10年も前のことでした。
今月と来月の第3回、4回は八束はじめ氏の執筆でお送りします。

●今日のお勧め作品は磯辺行久です。
磯部行久レリーフ磯辺行久
「ワッペン」
1962年
レリーフ、木
28.1x40.4x4.6cm
Signed

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ときの忘れもの
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ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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