堀栄治

建築家のドローイング第15回 ル・コルビュジエ(最終回)

リレー連載
建築家のドローイング 第15回
ル・コルビュジエ(Le Corbusier)〔1887−1965〕

八束はじめ


 既にとりあげられたフランク・ロイド・ライトと共に20世紀を代表する建築家であるル・コルビュジエは、後半生をフランス国民として過したが生まれはスイスの時計つくりの村ショー・ドー・フォンであり、そこの美術工芸学校からキャリアをはじめた。ル・コルビュジエとは、パリに出て画家オザンファンの知己を得、共に絵画運動「ピューリズム」を創設し、またシュール・レアリスト、ポール・デルメーと三人で雑誌「エスプリ・ヌーボー」をはじめたころからのペンネームであり、本名はシャルル・エドゥアール・ジャンヌレという。しかしパリに殆んど無名で出てきたスイスの田舎出の若者は、この一風変ったペンネームで発表した数多くの文章の刺激的で詩的なプロパガンダ性によって、そしてその予言的な調子を裏書きするパリの大改造プロジェクトや最初はドミノとかシトロエンと名づけられたモデル住宅のプロジェクト、そして筆名の高揚よりやや遅れてでてきた白いキュービックな、いわゆる「豆腐の角を切った」ような住宅群によって一躍時代の寵児となって、以後のほぼ半世紀近くそのペンネームによって世界の巨匠としてのステータスを保持しつづけていった。ヨーロッパの教養人なら、この巨人の名は、例えば美術におけるピカソのように、誰でも知っている(日本でそうでないとしたら、それはこの国におけるこれまでの建築への相対的無関心の証しでしかない)。彼が戦後の復興事業の核として手がけた巨大なアパートの連作ユニテ・ダビタシオン(マルセイユ、テント、フィルミニー、ブリ・アン・フォレそしてベルリンにつくられた)は現地の市民たちには戦前の彼の都市計画のタイトルを冠して「輝く都市」と呼ばれ誇りの対象であり、観光名所ともなっている。

輝く農家
ル・コルビュジエ Le Corbusier
「輝く農家」

 前述のようにこの巨匠はパリでのキャリアをむしろ画家としてスタートさせている。彼はあくまでデザイナー、建築家、技術者としてのトレーニングを受けたのだったが、パリでキュービズムをはじめとする前衛芸術運動に触れて自からの建築的な造型も変化させると共に、オザンファンの刺激によって絵を描きはじめた。以降死ぬまでの年月、彼は主として午前中を絵筆をとる時間にあてたのだった。もっとも「ピューリズム」の画家として登場する以前からも若きジャンヌレは例えばヨーロッパや小アジアへの旅行に際して尨大なスケッチ群を残している。そこで描かれているのは異国の街並みや建物、そして人々のざわめきや工芸品であった。そこでの主題は人々の生活であり、その詩情である。彼は19世紀的なヨーロッパ・ブルジョアジーの虚飾に満ちた生活やそれを彩る建築や装飾を嫌悪したが、東方の人々の千古の昔から変っていない素朴な生活やそのための日用品はこよなく愛した。後にナチス・ドイツなどの右翼民族主義者たちからキュービックで白い彼の住宅がムーア的(つまり非アーリア的、非ヨーロッパ的)と呼ばれたのは故なきとはしない。この性向はピューリズムの絵にもそのまま引きつがれている。彼は年長のピカソを尊敬し、長い交友関係を結ぶことになるが、この当時のキュービズムは彼には既にエピゴーネンによる抽象的技巧主義と見えた。ピューリズムではキュービズムの手法が多く引きつがれるが、そこでは常に彼がobjet-type(典型的なもの)と呼んだ、人々の生活に直結する水さしやコップなどがテーマとされた。彼の関心では常に新精神(エスプリ・ヌーボー)によって光をあてられた簡明率直な生活の詩であり、それは建築のスタイルが初期の「住居機械」と呼ばれたキュービックなものから後期のより彫刻的でマッシブなものへと移行しても変りがなかった。
 このことは、建物のスタイルと関りなくドローイングのスタイルは一貫していたことからもある程度伺い知ることができる。彼のドローイング、とくにインテリアのそれでは常に逞しい素朴な人間像が描かれている。それは18世紀の啓蒙期以来の「高貴な蛮人」のテーマの踏襲である。だが、それは同時に「新精神」によって武装されているのだ。逞しい人体の有機的な曲線は、しかしル・コルビュジエにとって住居機械の精確な直線と矛盾するものではなかった。何故乱ら両者を支配するのはギリシアの黄金比以来の正しく美しいプロポーションのシステムだったからである。彼はそれを後にモジュロールと呼ぶシステムにまとめた。それは片手を太陽に向けて伸ばした人体像の各部のプロポーションを基に展開されたシステムであり、ル・コルビュジエはこのシステムを建物の各部に用いつづけた。後期の、より逞しい、殆んど人間の素足のような柱脚をもち、肉感的なカーブをもった建物に対しても同様である。数学的な精確さと官能的な詩情との間には、この巨匠にとって、如何なる違いもなかったのかもしれない。

チャンディガールの「開いた手」ル・コルビュジエ Le Corbusier
チャンディガールの「開いた手」

 因襲的なアカデミズムは生涯を通じてル・コルビュジエの敵としたものだが、ボーザール流の手のこんだ大時代的な図面表現もまた彼のものではなかった。彼のドローイング・スタイルはペンの簡潔な線と簡単な色彩とだけから成り立っている。自からもまた敵からも「裸」のと形容されたそのスタイルにふさわしく、裸形の建築に陽光だけがふりそそぎ、緑が縁を飾る、そんなイメージだけをそれらのドローイングは送りつづけた。それはフリーハンドのスケッチにしても定規を用いた透視図にしても同じであった。大げさな線や派手派手しい色彩などは「新精神」にとっては無用の抜けがらに過ぎないのだ、とそれらのドローイングは語る。このスタイルはル・コルビュジエ・スタイルとして多くの若い建築家たちの真似る対象ともなった。例えばイタリアの夭逝した天才建築家ジュゼッペ・テラーニのドローイングは全くル・コルビュジエのそれの引き写しであるといってもよいし、この巨匠に深く私淑した丹下健三のかつてのドローイング・スタイルもまたそうである。例えばライトの場合にはそのスタイルを真似たのはほんの一部のエピゴーネンに過ぎない。このシリーズにとりあげられた他の建築家たちの場合にしてもそうである。それはおそらくル・コルビュジエのドローイングのスタイルが格別美しかったからというのでも。ましてや真似するに易しかったからというのでもない。多分それは、ル・コルビュジエのドローイング・スタイルは、ル・コルビュジエ本人と同じく最も典型的に時代の理想像を示していたから、つまり時代が最も待望していた太陽と緑と数学の詩学を体現していたからに他ならないのではないか?
 建築家としてのル・コルビュジエのスタイル上の変貌にも拘らず、彼のドローイング・スタイルは一貫してピューリスト的であったということは、ドローイングが建築に対して付帯吋な立場にしかないということで看過してよい問題ではない。筆者にはそれはしばしばいわれるル・コルビュジエの変貌の中に、単なるドローイング・スタイルのそれを超えて一貫したものがあったことの示唆と思える。思えば初期の「住居機械」の要素も後期のいわゆる「ブルータリズム」の肉感性もピューリズムの絵画に共に存在していたのである。それはこの20世紀最大の巨人がもう一人の巨人ピカソと共に最後のユマニストであったことの証しであったとは読めないか? 彼らの生涯にはスタイルの変転を超えた人間への信頼と愛情が一貫している。

シトロアン・ハウスル・コルビュジエ Le Corbusier
「シトロアン・ハウス」


国際連盟ル・コルビュジエ Le Corbusier
「国際連盟」


やつか はじめ

*現代版画センター 発行『Ed 第105号』(1985年1月1日発行)より再録
*作品画像は下記より転載

・「輝く農家」
・チャンディガールの「開いた手」
・「シトロアン・ハウス」
・「国際連盟」

現代版画センター 発行『Ed 第105号』

ル・コルビュジエ
33_corbusier_unite-11〈ユニテ〉より#11b

1965年
カラー銅版画
57.5×45.0cm
Ed.130  Signed
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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください

八束 はじめ Hajime Yatsuka
建築家・建築批評家
1948年山形県生れ。72年東京大学工学部都市工学科卒業、78年同博士課程中退。
磯崎新アトリエを経て、I983年(株)UPM設立。2003年から芝浦工業大学教授。2014年退職、同名誉教授。
代表作に白石市情報センターATHENS,
主要著書に『思想としての日本近代建築』。

*画廊亭主敬白
建築家のドローイング」は今回が最終回です。
今から約34年ほど前、亭主が主宰していた現代版画センター の機関誌に当時新進気鋭の建築家だった八束はじめさんと彦坂裕さんのお二人に「建築家のドローイング」を連載していただきました。
磯崎アトリエに在籍していた八束さんを「あいつは優秀だから」と磯崎新先生に紹介され、執筆をお願いすると「毎月はたいへんだから、友人の彦坂君と交互に書くのなら」とリレー連載が決まりました。
第一回のジョヴァンニ・バティスタ・ピラネージから始まった連載で取り上げる建築家の人選はお二人が相談して決め、第15回はル・コルビュジエでした。
お二人の心づもりではこの後も続けるはずだったのですが、亭主の突然の破産ですべてが中断してしまいました。原稿料も大半が未払いだった。悔やんでも悔やみきれない。
以来、亭主の胸に骨のように突き刺さっていたのが、この未完の大連載でした。
お二人にはブログへの再録を快く承諾していただき、毎回丁寧に校正もしていただきました。
彦坂裕さん、八束はじめさん、そして30数年前の原稿をテキスト化し、画像を新たに付け加えてくれた芳賀言太郎さんに、心より感謝いたします。
ほんとうは、彦坂さん、八束さんのお二人に第16回以降も書き継いでいただきたいのですが、それは若い世代にお任せしましょう。
偶然ですが、来月から倉方俊輔さんと光嶋裕介さんによる「悪のコルビュジエ」と題した新連載が始まります。これについては後ほど詳しくご案内します。
長い間のご愛読、ありがとうございました。

新年早々、銀座のギャラリーせいほうで開催していた「石山修武・六角鬼丈 二人展―遠い記憶の形―」が21日に無事、大盛況のうちに終了いたしました。
磯崎新、安藤忠雄、難波和彦、山本理顕ら日本を代表する建築家はじめ、お二人の幅広い人脈を反映して連日たくさんのお客さまがいらしてくださいました。
お二人の新作エディションの発表展でしたが、おかげさまでたくさんの方にお買い上げいただきました。銅版、シルクスクリーンとも展覧会に間に合わせるため各1部づつ刷っただけなので、これからご注文いただいた分を超特急で刷り師に刷っていただかねばなりません。嬉しい悲鳴です。
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本日の瑛九情報!
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先日1月19日のブログのアクセスが突然急騰しました。
何のことかわからずアクセス解析をみると2011年11月14日の「大野の堀栄治さん訃報」という記事が原因でした。
世間的には全く無名な堀さんの5年も前の訃報記事がなぜ?
その日「石山修武・六角鬼丈二人展」の展評原稿を届けてくれた植田実先生からの情報でやっと謎がとけました。19日の朝のNHKテレビが福井県大野の堀さんの映像を放映したらしい。亭主はテレビがないのでまったくそういう情報には疎い。
まったくの偶然ですが、先日から瑛九の会を担った人たちを順次ご紹介していて、今日とりあげる堀さんもその一人です。
1965年、瀧口修造らを発起人として結成された瑛九の会は、機関誌『眠りの理由』の発行を軸に、展覧会や頒布会の開催、石版画総目録の刊行など、瑛九顕彰に大きな役割を果たしました。
福井県大野市の堀栄治さん(2011年没)は久保貞次郎の唱導した創造美育運動に参加した教師の一人でした。
瑛九の晩年に木水育男さんが組織した頒布会の中心メンバーであり、自らも大野で瑛九頒布会を独自に組織し、大野に多くの瑛九作品をもたらした大功績者でした。
瑛九没後も、堀さんは瑛九周辺の作家たちー池田満寿夫、泉茂、オノサトトシノブ北川民次ヘンリー・ミラー、キムラ リサブロー、靉嘔たちを支援し続けました。
中でも靉嘔先生の作品頒布には精力的に取り組み、美術館はもちろんギャラリーすらない人口僅か3万5千人ほどの山間の町で、靉嘔やフルクサスの大展覧会を組織しました。
大野3
2004年5月8日〜16日に多田記念大野有終会館で開催された「虹のふるさと大野 靉嘔展」のオープニングにて。
中央が靉嘔先生、右のベレー帽が堀栄治さん

堀栄治と令子2006年
2006年大野の堀さん宅にて
堀栄治さんと社長

堀さんの功績の一つとして忘れてはならないのは『福井創美の歩み』(1990年10月初版、2007年5月第5版発行)という手作りの記録集を残されたことです。
福井における創造美育運動、ひいては小コレクター運動の詳細な日録です。これについては明日詳しくご紹介しましょう。
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瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(2016年11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

3月10日は瑛九の命日

東日本大震災の発生から明日で4年、地震、津波、原発事故と激甚な被害が襲いましたが、あの日の恐怖をいまも忘れることはできません。
復興にはまだまだ時間がかかるでしょう。特に原発事故の始末については人類の破滅にもつながる恐れがあり、今の拙速ともいえる政治の動きには懸念を持たざるを得ません。
震災で奪われた多くの人たちのご冥福を明日は静かに祈りたいと思います。

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本日3月10日は瑛九(本名・杉田秀夫)の命日です。

1911年4月28日に宮崎で生まれた瑛九は1960年3月10日に49歳の誕生日を目前に亡くなりました。
晩年の瑛九を支えた福井の人たちについては、このブログでもたびたび言及してきました。
その一人、福井県大野の堀栄治さん(2011年没)が遺してくれた労作に『福井創美の歩み』(1990年10月初版、2007年5月第5版発行)という手作りの記録集があります。福井における創造美育運動、ひいては小コレクター運動の詳細な日録です。
第5版から、瑛九の死の前後の記録を再録してみましょう。

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1960年3月10日
瑛九 午前8時30分 急性心不全で永眠

3月15日
午後2時から自宅で無宗教による告別式が行なわれる
池田満寿夫自作の[鎮魂歌―心から瑛九に捧げる―]を静かに読みあげる

3月19日
坂井ブロック 児童美術普及のため絵の見方についての会合を持つ

3月28日〜29日
瑛九宅を訪問して、瑛九の遺作を整理する
・木水・谷口・堀・藤本・中村 6名


瑛九 遺作
・エッチング 605点
・リトグラフ 1,567点
・フォトデッサン705点(*)
・吹付デッサン66点
・コラージュ 27点
・カット 32点
・デッサン 427点
・油絵吹付 11点
・油絵リアリズム 32点
・スケッチブック 30点
・油絵30号まで 175点
・水彩 247点
・毛筆 6点
・ガラス絵 9点
(*引用した第5版にはフォトデッサンの項目が脱落しており、この項だけ初版の記述を再録しました。亭主記)

・堀、瑛九の絶筆の詩「ヒミツ」を謹写して福井瑛九の会、会員に渡す

(「読売新聞に『花ひらく瑛九氏の遺作』12人の教員グループ」という記事がのる。

 超現実主義派の草分けの一人として特異な作風で知られた画家、清和市本太五の四四、瑛九氏(四八)(本名杉田秀夫氏)は、
 さる十日慢性ジン炎がもとで東京神田の病院でなくなったが、生前九年間も同氏を支持し続けて来た福井県小、中学の若い先生たちのグループ六人が春休みを待って二十八日、浦和の瑛九氏宅に集まった。
 都未亡人を慰め、遺作の整理をするとともに、瑛九氏の遺志をくんで五月のはじめ福井市内で初の遺作展を開くことになった。)
   

3月26日
福井小コレクター例会 福井市三上ビル
・撲九後援会のこと、遺作展のことについて話し合う

5月1日
瑛九遺作展の準備 福井市三上ビル

5月3日
瑛九遺作展のために資金カンパをする
・北川民次のリト8点(中間は58年の12月に入手した「子供を抱く二人の裸婦」を1点宛拠出する)泉のリト5点集まる

5月7日
「瑛九遺作展」が福井繊協ビルで福井瑛九の会主催によって開かれ
・遺作80余点が陳列される
・浦和市より 瑛九夫人、岩瀬久江女史、宇佐美兼吉
・大阪より 福野正義・松本弘駆けつける(福野「故瑛九に捧げる詩」を500部持参する)

5月29日
国立近代美術館「物故作家四人展」4月27日より(菱田春草・高村光太郎・瑛九・上阪雅人)を見るために上京 堀・福野

5月30日
堀・福野、瑛九宅訪問(瑛九宅で中西末治と合う)
・福井の瑛九の会 仲間に頒布するために次の作品を預かる
エッチング 特大 13点、リトグラフ 征版13点、ミノ版 13点、水彩 13点、
油10号 1点、8号 3点、3号 1点、ガラス絵6号 1点
福野 水彩 リト大 油10号 各1点
中西個人で油20号 8号 4号 2号 各1点、10号 2点、デッサン 3点 購入する
20150307182903_00001_600

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瑛九が亡くなって僅か二週間後の3月末、福井の教師たち6人が春休みをつかって瑛九のアトリエに入り、遺された作品を整理、カウントしたことは特筆にあたいします。フォトデッサンだけでも亡くなったときに705点もアトリエに残されていました。いかに瑛九にとって重要な表現手法だったかがわかります。
瑛九夫人の都さんはその後一年かけて、銅版とリトグラフを撮影し、手作りの最初の銅版とリトグラフのレゾネ(写真アルバム)を制作します(この写真アルバムがその後の瑛九資料の底本ともなるのですが、当然のことながら誤記や重複などあり、それらを修正し正確な記録を作成するのが今後の研究者たちの課題です)。

亡くなって二ヶ月も経たないで、国立近代美術館の今泉篤男先生の決断で4月27日(オープニング)から瑛九の初めての回顧展示四人の作家」展が開催されます。続いて5月7日から福井瑛九の会主催の「瑛九遺作展」が福井繊協ビルで開催されました。
いま考えてもおそるべき速攻といわねばなりません。
四人の作家1960 表紙
「四人の作家」展目録
会期:1960年4月28日―6月5日
国立近代美術館
出展作家:菱田春草、瑛九、上阪雅人、高村光太郎

瑛九顕彰の道がこのときあけられ、以後、各地で瑛九の画業顕彰の試みが続けられました。

このように木水育男さん、堀栄治さんなど福井の皆さんが晩年の瑛九を支え、没後の顕彰に大きな役割を果たしたことは事実ですが、しかしそれを過大評価するあまり「福井だけが瑛九の理解者」だったと賞賛するのは贔屓の引き倒しです。
瑛九は決して経済的に豊かだったとは言えませんが、その周囲に驚くほど精神的に豊かな人脈が広がっています。人柄、内外美術への識見、才能が愛されたからにほかなりません。
瑛九没後もひとり浦和のアトリエを守り、瑛九顕彰に尽力し、他によくある「独り占め」などせずに、遺されたすべてを快く公開したのが今もご健在の都夫人です。
宮崎の実家の眼科医院を継いだ杉田正臣さんも弟瑛九のために常に暖かな理解と支援を惜しみませんでした。
瑛九の友人の画家・山田光春さんは瑛九没後、資料を渉猟し詳細な評伝を刊行します。さらにカメラを片手に日本全国のコレクターを訪ね歩き瑛九の油彩画を撮影記録し、カタログレゾネ『私家版・瑛九油絵作品写真集』を写真アルバムの形式で1977年に作成しました(限定5部、都夫人、木水育男、久保貞次郎らに渡された)。
瑛九の美術界への扉を開けたのはエスペランティストの同志、久保貞次郎先生でした。日本有数の大コレクターだった久保先生の果たした役割こそ、誰よりも大きく、まさに瑛九の最大の理解者、支援者でした。

幸いになことに、これらの人たち全員に亭主はお目にかかることができ、瑛九の人となりを直接うかがう幸運に恵まれました。
これからも画商として、瑛九顕彰に微力を尽くしたいと思っています。
先ずは、20日から始まる「アートフェア東京」での瑛九展示にご期待ください。

●今日のお勧めはもちろん瑛九です。
瑛九油彩吹付け600瑛九
「手」
1957年 板に油彩吹き付け
46.4×38.3cm(F8号)
※山田光春『私家版・瑛九油絵作品写真集』(1977年刊)No.286
※宮崎県立美術館他『生誕100年記念 瑛九展』図録所収・油彩画カタログレゾネ(2011年刊)No.346

RIMG0732瑛九水彩1958年600瑛九
「作品」
1958年 水彩
26.2×19.2cm
サイン、年記あり

RIMG0740瑛九水彩鉛筆1956年600瑛九
「ターゲット」
1956年 水彩、鉛筆
23.3×19.8cm
サイン、年記あり

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◆ときの忘れものは「アートフェア東京2015」に出展します。
アートフェア東京DM_600
オープニングプレビュー:3月19日[木]18:00-21:00 
※招待状をお持ちの方のみ
一般公開:3月20日[金]―22日[日]
会場:東京国際フォーラム・ガラス棟地下2階、展示ホール
(東京都千代田区丸の内3-5-1)
ときの忘れものブースナンバー:S15
出品:葉栗剛、秋葉シスイ、野口琢郎、木坂宏次朗、瑛九、松本竣介、瀧口修造

◆ときの忘れものの3月前半の展示は「花見月の画廊コレクション」です。
201503collection
「花見月の画廊コレクション」
会期:2015年3月3日(火)〜3月14日(土)
*日曜、月曜休廊
出品:舟越桂、ベロック、中山岩太、瑛九、奈良原一高、細江英公、マン・レイ、小野隆生、他

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