木村光佑

針生一郎「現代日本版画家群像」 第10回 木村光佑と黒崎彰

現代日本版画家群像 第10回
木村光佑と黒崎彰

針生一郎


 一九六〇年代の末、文字どおり彗星のように登場した二人の作家ほど、版画の新しい息吹きを感じさせたものはない。一九三六年生まれの木村光佑と、三七年生まれの黒崎彰である。どちらも関西に育ち、デザインから版画に進み、雑多な要素から養分を汲みとって、振幅の大きい仕事をくりひろげ、数々の国際賞を受賞した点では、多分に共通性がある。だが、その上で木村がリトグラフやシルクスクリーンを中心とし、黒崎があくまで木版に固執するばかりでなく、芸術観の上でも二人は対称的であって興味深い。
 木村光佑は大阪天満の繊維問屋の長男である。だが、彼の高校時代、父の病気のため店は倒産し、病床に債権者たちがつめかけたとき、光佑はその窮境を救うため、煙草をくわえて不良学生然とその部屋に闖入し、生意気だと債権者たちに殴られたらしい。このハプニングに気勢をそがれて債権者たちは帰ったが、光佑は殴られて以来耳が遠くなって、ヴァイオリニスト志望を断念した。その後、大道で商品を売る父を手伝いながら、彼は「いまにみておれ」という負けじ魂をつちかい、高校の美術教師や高校美術展でみとめられたのをさいわい、京都美大日本画科に進んだ。美大時代はアルバイトに追われながら、ボクシング・ジムに通って、フェザー級四回戦ボーイとなったが、それでも対象を量塊としてよりも、塗りかさねた色彩の集積としてとられる、日本画の技法はしっかり身につけたようだ。
 美大を出るとすぐ、木村は大阪読売広告社に就職し、今度は印刷・製版の技術を職人たちから学びながら、グラフィック・デザインに芸術的情熱をそそいだ。だが、三年後に十二指腸潰瘍にかかって六ヵ月入院し、その間にフリーランスの生活を求める心境になって、退院後七人のスタッフとともにデザイン工房「アトリエ・グロッタ」をはじめた。そこでも、注文制作に芸術作品のような個性を発揮して、スポンサーに好評を博するうち、六八年、友人にすすめられて、現代日本美術展に版画を出品し、入選する。人物横顔のシルエット、眼と太陽、女のトルソなどを、写真の二重写しのようにかさねあわせたり、モンタージュした亜鉛版リトグラフで、デザイナーとして印刷技術から汲みとったものが、存分に生かされている作品だった。紀伊国屋画廊かいち早くこの無名の新人に眼をつけ、翌年企画展にとりあげると、木村は亜鉛版リトにシルクスクリーンを併用しながら、出所も分野もさまざまな映像を散在ないし交錯させた上に、淡い色彩の帯を走らせ、カタログ時代を先どりするような世界をつくりあげて注目をひいたのである。
 同じ六九年にはじまる“out of time”シリーズは、この作家が版画にもたらした新風をあざやかに告知している。「季節はずれ」とか「時期おくれ」のこの言葉に、木村は「時間からの脱却のエクスタシー」といった、実存主義的なニュアンスもこめているのかもしれない。例によって機械の部品、人物、新聞、古代美術、日本の民家、宇宙図、抽象図形などを刷り重ね、一九七〇年イギリスのブラッドフォード版画ビエンナーレ受賞作では、紙にリト、アクリル板にシルクで刷って、イメージを透かしかさねている。この傾向は、七一年にはじまる「現在位置」シリーズにもうけつがれ、二枚のアクリル板の内側にシルクで刷って、その中間に鏡をおいたり、アクリルの内面を鏡面にしたりして、映像を複雑精巧にかさねあわせる。このシリーズによって、七一、七二年彼はジャパン・アート・フェスティヴァル、リュブリアナ版画ビエンナーレ、箱根・彫刻の森国際彫刻展、クラコフ版画ビエンナーレ、オスロ版画ビエンナーレなどでつづけざまに受賞した。とりわけ、《現在位置―存在A》では、ネガとポジ、虚像と実在、抽象と具体がマルチスクリーンのように交錯して、現代生活の多次元的なアクチュアリティを感じさせる。

DSCF8169_600木村光佑
「アウトオブタイム OUT OF TIME (81-3) S」
1981年
フォトリトグラフ
39.7x51.8cm
サインあり
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 木村光佑が版画を複製・印刷技術の一環としてみていることは、すでに上述の経過や作風からも明らかだが、京都美大では彫刻科に入ろうとして、伝統ある日本画科を結局選んだように、立体作品にもなみなみならぬ意欲をみせている。七二年の紀伊国屋画廊個展には、銅メッキした直方体のスチールに、球状や直方体状の孔を穿ち、社会生活を規制するフレームを象徴し、同年ユーゴのフォルマ・ビバ彫刻シンポジウムに参加して、五本の角材に溝や空洞を少しずつずらして彫り、ネガとポジの関係をあらわし、七三年の宇部野外彫刻展には、アクリルの立方体にステンレスの球体、ステンレスの球体にアクリルの立方体を、少しずつ位置をずらして入れたものを五個ずつ地面にならべ、《カプセル小宇宙》と名づけた。
 一方、彼は一九七〇年ごろからエッチングもこころみ、《能面》や《文楽人形》シリーズを制作しているし、七五年以後動物や樹木を達者な手描きで写実的に描いたリトも発表している。同じ七五年に制作された《一つのエピローグ》は、亜鉛版の飛ぶ鳥と写真制版の上に彫刻刀で縦横にひっかいた男女の顔を示し、彼自身のひとつの転機への予感を物語るかのようだ。たしかに、わたしはクラコフで彼の《現在位置―存在A》をみたとき、尖鋭な現実感覚と同時に表層的な底の浅さも感じとったが、これをこえるのが木村の課題かもしれない。
 黒崎彰は満鉄化学研究所技師の長男としで大連に生まれたが、母の病弱のため生後三ヵ月で神戸の実家にひきとられ、まもなく母は死亡した。七歳のとき、父方の里である大津へ、さらに草津へ疎開し、敗戦でふたたび神戸の母方の家に移ったが、小学五年のとき、父が再婚した実母の妹とその娘をつれて帰国する。双方の大家族をたらいまわしにされた多感な少年期が、彼の芸術家としての地を形づくったにちがいない。中学に入ると、父のすすめで芦屋の新制作洋画研究所に通い、白髪一雄、網谷義郎、西村元三朗ら年長の青年たちとともに石膏デッサンにうちこみ、さらに神戸市民美術教室にも通ってデッサンやクロッキーにはげんだ。油絵も中学二年から手がけ、高校時代には新制作調モダニズムにあきたりなくなった。一年浪人後、京都工芸繊維大に入ったのは、「絵描きでは飯が食えない」という父の忠告のせいだけではなく、やはりモダニズム絵画への批判のせいらしい。
 だが、当時のデザイン界は、日本経済の復興に支えられて機能主義的モダニズム一辺倒だから、黒崎彰が大学の教授たちの授業に反撥するのは当然だった。彼は古本屋をあさって文学書に耽溺し、とりわけ結核で二年間休学中、モーリヤックの『イエスの生涯』やドストエフスキーの全集に熱中した。絵画では北斎に思想性を発見し、その系譜を幕末浮世絵のなかに求めて、当時はまだ学生でも買える大蘇芳年の作品を集めはじめた。西洋では、ゴヤ、ムンク、ゴーガンらの版画に、サロン絵画と異質な黒い情念と哲学があると感じた。大学を六年かかって出ると、帝塚山学院や近畿大学で基礎造形を教えながら、黒崎は自分の決意を明確にしカトリックの洗礼をうけ、神戸出身の画家村上華岳に傾倒し、華岳や劉生を思わせる油彩風景画を描いた。だが、油絵ではどうしてもカタルシスをみいだせず、カトリック的主題の表現を求めて、一九六五年、レクイエムの主題による木版画を二点制作する。それは技法的には未熟ながら、亡霊や幽鬼にみちた罪業と恐怖の世界を、表現主義的に追求して迫力がある。
 木版画に独自な方向をみいだした黒崎は、京都の浮世絵複製画の刷り師を訪れてかさね刷りやぼかしの技法を学びはじめた。それらの技法をふまえて、六八年の《浄夜》シリーズ以後、これまでの平面的な空間を立体的にするため、人体の断片や細い帯に透視図法をとりいれるとともに、版の重層法から分解法に移り、染料のかわりにポスター・カラーと墨を用いた。主題としてはなおカトリック的だが、色彩はサイケデリックなまでに強烈となり、立体的に描かれた幻影たちは、むしろ此岸の官能と罪悪をおびてうごめく。このシリーズの後期には階段が登場し、バックの赤い門と漆黒の闇がえたいの知れない超現実の空間を現出する。六九年の《寓話》シリーズでは、階段が箱に入ったり、透明なケースに収められて宙吊りにされ、その下に亡霊のような生きものの断片がかさなりあう。
 とりわけ、五年間の集大成とみられるのは、七〇年の《赤い闇》シリーズだ、情念の地獄を意味するらしいタイトルだが、乳房や臀部など女体の部分を思わせる有機体が、人形や玩具のようにオブジェと化してかさなり、例によって赤い壁や階段入りの箱、漆黒の闇にかこまれて、舞台空間のように抽象化されている。京都の画材店主に教えられて、西ドイツの顔料にアラビアゴムと膠をまぜて調合をくふうし、七、八十度刷りというおどろくべき技法の発明によって、ようやく芳年の血の色に通ずる死とエロスの世界を、知性とユーモアをもって表現することができたのである。これがクラコフや東京の版画ビエンナーレで、受賞したのも当然だろう。《赤い闇》の一部は、正方形を四十五度傾けた菱形の作品群となっている。

kurosaki_04_gensou_mori黒崎彰
「Fantastic Forest 幻想の森」
1973年
木版
イメージサイズ:56.0×38.7cm
サインあり


 これら国内、海外での受賞の結果、黒崎彰は母校の京都工芸繊維大の教師に招かれ、七二年にはクラコフ版画ビエンナーレに招かれて制作を実演した。わたしも同じときクラコフに招かれたので、多くの市民や芸術家が彼の人柄と作品に共感していたのを知っている。版画をはじめた当初、彼は自画自刻自摺の職人技術に固執していたが、七、八十度刷りには厖大な時間と労力を要する上に、同年輩の刷り師内山宗平が訪れて話し合いの末、刷りをゆだねてみると内山刷りの方がはるかに尖鋭な効果をもつので、浮世絵時代の分業と協業の必然をみとめざるをえなかった。七三年には文化庁在外研修生として一年間欧米に滞在し、とりわけカンディンスキーの木版画とジャン・バブティスト・ジャクソンの色彩木版画を研究したらしい。このとき、ロンドンで東京版画ビエンナーレに国際審査員として来たピーター・バードと再会し、その依頼で毎年夏モーリー美術大で木版画技法を教えることになった。こうした国際的活躍の結果のひとつは、七五年シロタ画廊から出版された亜鉛凸版、木版併用の画集“America, love and peace”で、そこには男女の性的結合の接写写真が転写されている。「鎮魂」と「浄夜」の主題から出発した黒崎彰は、ドストエフスキーやモーリヤック、ゴヤやムンクにみちびかれながら、ますます現世のエロスの通俗性のなかに下降しつづけている。
(はりゅう いちろう)
*版画センターニュース(PRINT COMMUNICATION)No.74より再録
1981年11月 現代版画センター刊

◆故・針生一郎の「現代日本版画家群像」は「現代版画センター」の月刊機関誌「版画センターニュース」の1979年3月号(45号)「第1回 恩地孝四郎と長谷川潔」から1982年5月号(80号)「第12回 高松次郎と井田照一」まで連載されました。
ご遺族の許可を得て再録掲載します。30数年前に執筆されたもので、一部に誤記と思われる箇所もありますが基本的には原文のまま再録します。

針生一郎(はりゅう いちろう)
1925年宮城県仙台市生まれ。旧制第二高等学校卒業、東北大学文学部卒業。東京大学大学院で美学を学ぶ。大学院在学中、岡本太郎、花田清輝、安部公房らの「夜の会」に参加。1953年日本共産党に入党(1961年除名)。美術評論・文芸評論で活躍。ヴェネツィア・ビエンナーレ(1968年)、サンパウロ・ビエンナーレ(1977年、1979年)のコミッショナーを務め、2000年には韓国の光州ビエンナーレの特別展示「芸術と人権」で日本人として初めてキュレーターを務めた。2005年大浦信行監督のドキュメンタリー映画『日本心中 - 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男』に出演した。和光大学教授、岡山県立大学大学院教授、美術評論家連盟会長、原爆の図丸木美術館館長、金津創作の森館長などを務めた。2010年死去(享年84)。

◆ときの忘れもののブログは下記の皆さんのエッセイを連載しています。
 ・大竹昭子のエッセイ「迷走写真館 一枚の写真に目を凝らす」は毎月1日の更新です。
 ・新連載・石原輝雄のエッセイ「マン・レイへの写真日記」は毎月5日の更新です。
 ・君島彩子のエッセイ「墨と仏像と私」は最終回を迎えました。
 ・新連載・芳賀言太郎のエッセイ「El Camino(エル・カミーノ) 僕が歩いた1600km」は毎月11日の更新です。
 ・故・針生一郎の「現代日本版画家群像」の再録掲載は毎月14日の更新です。
 ・鳥取絹子のエッセイ「百瀬恒彦の百夜一夜」は最終回を迎えました。
 ・井桁裕子のエッセイ「私の人形制作」は毎月20日の更新です。
  バックナンバーはコチラです。
 ・森下泰輔のエッセイ「私のAndy Warhol体験」は毎月22日の更新です。
 ・小林美香のエッセイ「母さん目線の写真史」は毎月25日の更新ですが、今月4月は休載します。
 ・「スタッフSの海外ネットサーフィン」は毎月26日の更新です。
 ・植田実のエッセイ「美術展のおこぼれ」は、更新は随時行います。
  同じく植田実のエッセイ「生きているTATEMONO 松本竣介を読む」は終了しました。
  「本との関係」などのエッセイのバックナンバーはコチラです。
 ・飯沢耕太郎のエッセイ「日本の写真家たち」は英文版とともに随時更新します。
 ・浜田宏司のエッセイ「展覧会ナナメ読み」は随時更新します。
 ・深野一朗のエッセイは随時更新します。
 ・「久保エディション」(現代版画のパトロン久保貞次郎)は随時更新します。
 ・「殿敷侃の遺したもの」はゆかりの方々のエッセイ他を随時更新します。
 ・ときの忘れものではシリーズ企画「瀧口修造展」を開催し、関係する記事やテキストを「瀧口修造の世界」として紹介します。土渕信彦のエッセイ「瀧口修造の箱舟」と合わせてお読みください。

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◆ときの忘れものは2014年4月19日[土]―5月6日[火 祝日]「わが友ウォーホル〜氏コレクションより」を開催します(*会期中無休)。
ウォーホル展DM
日本で初めて大規模なウォーホル展が開催されたのは1974年(東京と神戸の大丸)でした。その前年の新宿マット・グロッソでの個展を含め、ウォーホル将来に尽力された大功労者がさんでした。
アンディ・ウォーホルはじめ氏が交友した多くの作家たち、ロバート・ラウシェンバーグ、フランク・ステラ、ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、萩原朔美、荒川修作、草間彌生らのコレクションを出品します。

●イベントのご案内
4月25日(金)18時より、ジョナス・メカス監督「ファクトリーの時代」の上映会を開催します(※要予約/参加費1,000円)。
※必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申込ください。

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本日のウォーホル語録

<ときどき、ぼくには悪意があるといって、非難する人がいる――フィルムに納めたり、録音するために、仲間が自滅するのをただ見ていると言ってね。でもぼくは自分のことを悪いとは思わない。ただ現実的なだけだ。ぼくは小さいときに、自分がカッとなって、誰かに指図しても、何も起こらない、ということを学んだ。実際には黙っている方がもっと大きな力を持つということを学んだのだ。少なくとも、そうすれば人は自分自身を疑いはじめるかも知れないからね。時が満ちさえすれば、人は変わる。そうれまでは絶対にやろうとはしない。死ぬまで気づかずに終ってしまう人もいる。本人がその気にならないかぎり、誰もその人を変えることはできない。その気になったら、誰も止められないのと同じようにね。
―アンディ・ウォーホル>


ときの忘れものでは4月19日〜5月6日の会期で「わが友ウォーホル」展を開催しますが、それに向けて、1988年に全国を巡回した『ポップ・アートの神話 アンディ・ウォーホル展』図録から“ウォーホル語録”をご紹介して行きます。

小林孝亘の初期ドローイング、南桂子、木村光佑〜お薦め作品

夏休みも今日でおしまい。
明日から通常の営業にもどります。
亭主と社長は前半は名古屋のアートフェアに参加出展していたので、実質的な休みは後半の一週間でしたが、久しぶりに映画館に行ったりして、のんびりすることができました。

このところアートフェアなどイベントが多く、ご案内が遅れてしまいましたが、ちょっと珍しい作品など、新入荷作品をいくつかご紹介します。
DSCF8158_600

小林孝亘《作品》
1994年 ペン画
イメージサイズ:10.0×5.5cm
シートサイズ:13.8×22.0cm
サインあり

DSCF8169_600

木村光佑
《アウトオブタイム OUT OF TIME (81-3) S》
1981年 フォトリトグラフ
イメージサイズ:39.7×51.8cm
シートサイズ:54.5×72.5cm
サインあり

70年代の版画の時代を代表する木村光佑が81年に制作した「アウト•オブ•タイムシリーズ」はポーランドのクラコフ国際版画美術展でゴールドメダル賞、韓国ソウル国際版画美術展で優秀賞を受賞しています。文字通り木村の代表作です。
南桂子サボテンと塔

南桂子《サボテンと塔》
1978年  銅版
35.7x28.2cm
Ed.100 サインあり

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