森本悟郎

森本悟郎のエッセイ「その後」第39回

森本悟郎のエッセイ その後

第39回 中平卓馬(1938〜2015)(1) 記憶のなかの中平卓馬像


C・スクエアの企画はすべてぼくが決めていたと思われているふしがあるが、そんなことはない。設置当初から運営委員会方式を採用し、展覧会の企画案はぼくのであれ委員のであれ、公平に会議で俎上に載せられる。企画の承認は全員一致が原則だったから、だれの提案であっても退けられる可能性はある。思いのほか開催ハードルは高いものだった。
1996年4月の運営委員会で「中平卓馬の展覧会を開きたい」と発言したのは委員の写真家・高梨豊さんだった。一瞬ぼくは耳を疑った。個展のような作品発表形態をずっと拒否してきたのが写真家・中平卓馬だと思っていたからだ(89年に森山大道さんの展示スペース〈FOTO DAIDO〉で「あばよX」展を開催していたことは後に知った)。中平さんを知る他の委員たちも驚いたに違いない。「できるんですか」と尋ねると、「やりたいと思っているはずだ」と答え、中平さんがほぼ毎日ひとりで写真を撮りに出かけていること、撮影済みフィルムが溜まった頃合いに高梨さんから声をかけ、現像所まで一緒に行っていることなど、中平さんの近況を語った。
ぼくが「中平卓馬」という名を最初に目にしたのは1960年代の終わり頃だったろうか。当時ぼくの大きな関心事は芸術と社会的問題で、自分のアンテナに引っかかったさまざまな雑誌や本を読み漁っていた。今ではそれがどの雑誌だったか忘れたが、ちょっと気になる写真と文章に出会った。それは情動的にみえながら静謐さを湛えた画像と挑発するような社会的思想的発言だったように記憶しているけれど、それは後からつくりあげたイメージかもしれない。しかし「卓馬」という名前は紛れもなく印象に刻まれた。中平さんが高梨豊、多木浩二、岡田隆彦、森山大道らと出していた『provoke』(プロヴォーク)については情報こそ目にしていたものの、実際に手に取ったことはなかった。

01『provoke』第1号(1968年11月1日9日)

さらに中平卓馬をくっきりと銘記したのは70年代初め、パロディ事件として知られた「白川・アマノ裁判」の論戦を通じてだった(とはいうものの白川・写真家協会側は「盗人」呼ばわりするばかりで、もっぱら論陣を張ったのはアマノ側)。これは山岳写真家の白川義員氏が撮影した画像をフォトモンタージュ作品に無断使用したと、デザイナーのマッド・アマノ氏を損害賠償で訴えた裁判で、この時アマノ擁護の急先鋒は木村恒久さんだった。フォトモンタージュ作品を大々的に展開していた木村さんにはとても他人事ではなかったからだ。ぼくは赤瀬川原平さんの「千円札裁判」とともに芸術裁判のゆくえに興味津々で、関連記事も追いかけていた。そんな中で中平さんのアマノ擁護論も見つけたのだった。それは、

白川義員氏のアルプスの写真が表現であるとするならば、マッド・アマノ氏の「軌跡」もまた同等の表現であると私は考える。問題はまずこの一点を認めたうえで初めて立てられるべきである。その際マッド・アマノ氏が白川義員氏の写真を素材として使ったのは、〈中略〉それが既存のイメージであるからにほかならない。(中平卓馬「複製時代の「表現」とはなにか」『朝日ジャーナル』1972年9月29日号)

という原作のオリジナリティに対して疑義を挟むものであり、白川作品については「フジヤマ、ゲイシャなどと同列の絵はがき的なアルプスの「美しい」写真」(同)とまで言い切っている。

02(左)白川作品 (右)アマノ作品 
(「著作権その可能性の中心」〈http://copylawyer.blogspot.jp/2015/06/220131213.html〉より)


ぼくが中平さんに注目したのは、写真家以前にまずこのような論客としてである。作品を意識的に見はじめたのも、その言説との整合性を確認するためだった。ジャンルを問わず表現に関心をもっていたとはいえ、当時ぼくの興味の大半は絵画で、写真の比率が高いわけではなかった。それでも写真は気になるメディウムであり、少しずつ、つとめて写真も見るようになっていった。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、ハ・ミョンウンです。
20170603_ha_17_MINIseriesハ・ミョンウン 河明殷
"MINI series(5)"
2011年
Foamex acrylic
22.0x15.0x3.1cm
サインあり

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森本悟郎のエッセイ「その後」第38回

森本悟郎のエッセイ その後

第38回 角偉三郎 (2) 展覧会とその後


角偉三郎さんに初めて会ったのは1994年7月のこと。展覧会作家としてではなく、勤務先の中京大学へのアートワーク提供者としてだった。その後、輪島の仕事場や各地の展覧会場で作品に触れ話を聞くうちに、ふだん作っている器ではないもので展覧会を企画できないかと考えるようになった。
いつだったかそんなことを角さんに話したところ、見せたいものがあるから輪島まで来ませんか、と誘いを受けた。輪島駅に出迎えてくれた角さんは、「お昼はまだですね」と訊ね、「手仕事屋」という門前の蕎麦屋に案内した。そこで供されたそばは、ざるならぬ角さんのへぎ板に盛られていた。「実はこれの大きなのを作りましてね、それを見てもらいたくて」。
食後連れて行かれたのはそこからほど近い、別荘地となっている山の中腹に建てられたアトリエだった。「曼荼羅工房」と名付けられたその建物は、外壁全てが柿渋で塗装された下見板張りという輪島の伝統的な木造建築で、土間は赤土と砂利に消石灰とニガリを混ぜた本格的な三和土(たたき)である。考えごとをするとき、一人になりたいときにここへ来る、漆芸の仕事だけでなく、執筆や書もこの工房で行うのだという。多忙を極める作家の隠れ家という趣きだった。
見せられたのは90×180cmほどもある巨大なへぎ板だった。蕎麦が盛られたへぎ板は薄く剥いだ板を継いだものだったが、それは丸太から割り出した角材を継いだといった感じで、捩れ、平らな面はどこにもないながら、重厚で存在感の際立つ板は、床に置くとそのまま卓となるのだった。「これを10枚、立木のように床から立てるというのはどうでしょう」と言った角さんの頭の隅には、へぎ板を作品としてではなく素材として使うという、インスタレーションのイメージが浮かんでいたのだろう。人の背よりも高い大へぎ板が林立する様子は、迫力があって確かに面白い。しかしそれだけではコンセプトとしていささか弱いように思えた。
幾度か目にした仕事場には、そこで働く人たちは気にも留めないが、傍目には実に興味深いものがたくさんあった。例えば下地漆を塗った器を並べる板。これには長い間に垂れた漆が堆積し、高台の跡が紋様をなしていて、もとの用途を離れて漆のオブジェとなる。あるいは作業工程で使われた濾紙や密閉ラップは事後捨てられるものだが、付着した漆が乾くと、漆をまとった抽象的オブジェに変容する。そんな話を角さんとやりとりしているうちに、大へぎ板とラップの2種類で展示を構成してみようということになった。最大と最小の組み合わせである。
「黙森」と題した展覧会は2000年の掉尾(11.18〜12.16)で、角さんはちょうど60歳だった。大へぎ板を立てるため固定用金物を特注し、ラップはガラス容器やこれも特注のアクリルボックスを用意して、生物標本か宝石のように展示した。会場の中央に大木が林立するようにへぎ板を配置し、周囲をその雫のようなラップで囲んだ。対照的な2種類のオブジェによるインスタレーションだが、主役はもちろん〈漆〉だった。

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C・スクエアの個展が角さんにとって劃期となったかどうかはわからない。それでも展覧会には満足したと言い、また器に戻りますと笑ったことを覚えている。たぶん、作品を売らなくてもよい展覧会というものを楽しんだことだろう。
展覧会から5年後、能登の和倉温泉に角偉三郎美術館ができ、そのひと月後に心不全で亡くなった。美術館のオープニングには招待を受けながら仕事のために出席できなかったし、葬儀も同様だった。いつか再開したいと語っていた、沈金の仕事に戻ることなく不帰となったのも残念である。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、宮脇愛子です。
20170528_miyawaki_15宮脇愛子
"Work" (15)
2013年
紙に銀ペン
イメージサイズ:24.5×24.5cm
シートサイズ :42.1×29.7cm
サインと年記あり

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森本悟郎のエッセイ「その後」第37回

森本悟郎のエッセイ その後

第37回 角偉三郎(1940〜2005) (1)漆芸界の異端児か?


C・スクエアという展示場所について、ぼくは特定のジャンルにこだわるつもりは当初からなかった。それは〈全ての表現は等価である〉という確信がもたらしたものだ。だからC・スクエアをコンテンポラリーギャラリーとみる人がいても、それが〈同時代の〉という本来の意味であれば結構なのだが、狭義の〈現代美術〉というカテゴリーを指すならば、それは正鵠を射ていないといえる。ぼくが求めたのは多様な表現であり、時代を共に生きる表現ということだった。
その意味で、漆芸家の角偉三郎さんは正しくコンテンポラリーの表現者だった。
角さんは伝統的な漆芸の町である輪島にあって、同業者から愛され畏敬もされながら、異端とも評される作家だった。制約が多い伝統工芸品としての輪島塗の要件を踏み外しているようにみられたからである。若くして卓越した沈金※※技術によって日本現代工芸美術展で現代工芸賞、日展で特選を受賞するも、ある時期から自身の生き方と漆芸を重ね合わせるように、その来し方行く末を探るようになる。網野(善彦)史学に触れるとともに民俗学や柳宗悦の民芸論にも親しみ、日本列島という地理的特性、わけても能登の風土が育んだものへ目を注いでゆく。そんな中での能登半島柳田村で作られていた生活雑器、合麓椀(ごうろくわん)との出会は、角さんの後半生を決定づける漆芸の原点となる。

03角偉三郎「盛椀」


何度も塗り重ねて磨き上げられ、さらに沈金や蒔絵で加飾されるものもある華美で端正な伝統的輪島塗とは対照的に、漆を垂らすように扱ったり、手指で直接漆を塗りつけたりと少々アナーキーにもみえる角作品は、その実〈伝統的〉と称する工芸よりさらに遡った〈伝統〉への回帰だったのかもしれない。あるいは文化地理学的観点から、畿内で発達し洗練された乾漆に代表される西国文化と東北や関東で普及した荒々しい鉈彫りに代表される東国文化の出会いを、その中間地点である能登の地で受け止めようとしたのかもしれない。
いずれにせよ下地専門職人の家に育った角さんは、漆の扱いに関してまずは伝統に忠実だった。しかし同時に漆のもつ可能性も徹底的に追求した。漆のもつ可能性とは、角さんにはただ塗料としての漆にとどまらず、そのベースとなる〈木地〉も含んでのことである。木地師にはずいぶんルーティンから外れた難題をもちかけたという。その一つに〈へぎ板〉がある。〈へぎ〉とは〈剥ぐ・剥がす〉の訛言で、木材を楔などで割き、それを継いで板にしたのがへぎ板なのだが、割ったへぎ目は鋸で切るように真っ直ぐにはならないし厚みもそれぞれバラつきが出て、継いでもデコボコの状態となる。端正で寸法も均一に作るのが輪島木地師の矜持とすれば、これは抗いたくなるような仕事だったはずだ。そこを角さんは説得し、押し通した。いつだったか、京都高島屋での大規模な個展のオープニングに、角さんは木地師はじめ工房の職人さんたちを引き連れて出席、その場で彼ら一人ひとりを紹介して謝辞を贈った。作品に名前こそ出ないが、彼らの支えがあっての仕事であることを伝えたかった、とのことだった。

04角偉三郎「へぎ板」


※ 輪島塗の要件:通商産業省告示第172号(昭和50年5月10日)
  http://www.wajimanuri.jp/about/towa
※※ 沈金:漆器の表面に文様を毛彫し、そこに金粉・金箔を埋め込む技法。

もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、馬場檮男です。
20170428_baba_02_akai馬場檮男
「赤いタンク」
1984年
リトグラフ
イメージサイズ:17.5×19.0cm
Ed.365
サインあり


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森本悟郎のエッセイ「その後」第36回

森本悟郎のエッセイ その後

第36回 合田佐和子 (3) C・スクエアで見せたかったこと


C・スクエアで第60回目の企画となる「記憶ファンタジー 合田佐和子展」は2003年12月1日が初日だった。既述のように、そのちょうど1週間前まで「合田佐和子 影像 ―絵画・オブジェ・写真―」展(渋谷区立松濤美術館)が開催されているというタイトなスケジュールのなか、合田さんは自宅では出品作品が搬出を待つように整えてあり、会場では展示作業の指揮にもあたるという、まことに親身な対応ぶりだった。思い返せば最後の、ほんとうに元気な姿を目にしていたのだった。

01「記憶ファンタジー 合田佐和子展」ポスター

じつは松濤美術館での個展はC・スクエアのそれより後に決まったものだったが、ぼくたちは美術館との会期の重なりや展示内容の重複を避けることに努めた。わけても内容については、松濤を経験した人が見ても新たな発見があるようなものにしたいと考えた。それは合田佐和子という作家を振り返るのでなく、今まさに生成しつつある作品の現場を見せる、というところに焦点を当てようということだった。展示作品は極力新・近作に絞り込むこととし、ほかでは見られないような試みについても作家と一緒に検討した。
合田さんが作品制作のモチーフとするためにポラロイドで撮影した石や花の写真をスキャンし、C・スクエアがもっていた大判プリンターでB0大(1030×1456mm)に拡大して、タブローのように見せたのもその試みのひとつだった。写真をもとに描く合田さんの絵画は、独特の色遣いや省略法によって他に類例を見ない個性的な作品になるのだが、極端に拡大されたポラロイド写真はそのまま合田さんのペインティングのようにぼくの目には映った。それは合田さんの創作の秘密を垣間見るような思いでもあった。

02会場風景-1 ※左の大きな5点が拡大したポラロイド写真


03会場風景-2


04会場風景-3

個展の1年後、巖谷國士美術論集出版記念展「封印された星 瀧口修造と日本のアーティストたち」でも合田さんの作品はC・スクエアの壁面を飾った。そのときも作品集荷と返却に合田邸を訪ねている。ただそれ以後、展覧会に足を運んではいたものの、お目に掛かる機会が次第になくなっていった。2012年5月に地元鎌倉で個展(「合田佐和子展 ミルラ」GALLERY B)というので、秋山祐徳太子さんと出かけたが、体調不良との由で作家は不在だった。──そして連載第34回の「ラスト・シーン」展の話に戻るのである。

05「封印された星」展 会場風景 中央の2点が合田作品


具合が良くないとも、電話では元気そうだったとも、いろいろと人づてに聞いていたのだが、昨年2月、突然訃報が舞い込んだ。その月初めには井上洋介さんの逝去があり、気分が沈んでいたところへ追い打ちをかけられたのだった。
合田さんと井上さんはキャラクターも表現上も対極にあるように見えるが、ともに画家・イラストレーターとして活躍しながら、たとえば寺山修司の天井桟敷の美術を担当するなど、カテゴライズできないほど幅広い活動をしたことなど、共通項はいろいろある。
合田さんが生前最後の展覧会を開いたのはみうらじろうギャラリーで、今後も年に1回ぐらいの割で開催するとのこと。興味のある方はホームページ(http://jiromiuragallery.com)に注視されたい。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、関根伸夫です。
関根伸夫「位相ー大地」シルク関根伸夫 「位相ー大地供
1986年 シルクスクリーン
58.7×78.4cm
Ed.75 Signed

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森本悟郎のエッセイ「その後」第35回

森本悟郎のエッセイ その後

第35回 合田佐和子 (2) 二つの回顧展


前に「赤瀬川原平とライカ同盟」で触れた「ライカ同盟写真展[博多来襲]」のオープニング・レセプションを了えた翌日、福岡空港から高梨豊さん赤瀬川原平さんは東京に帰り、ぼくと秋山祐徳太子さんは高知に向かった。合田さんの生まれ故郷にある、高知県立美術館の「森村泰昌と合田佐和子」展(2001.2.11〜3.25)初日に駆けつけるためだ。
合田さんの展覧会はいくつも見ていたが、このような規模の回顧展は初めてだった。すでに合田展開催を決めていたぼくは、同展がどのような作品を選び、どのようなくくりで配列するのか、ということに関心をもっていた。その意味では2人展とはいうものの会場を分け、個展を二つ並べたような構成はありがたかった。その合田会場は最初期のものから最新作までの作品が、ほぼ時系列とスタイルによってグルーピングされていた。これは美術館展示の常套的配列であるが、合田佐和子という美術家がいかに生まれ、どのような表現を展開してきたかを端的に伝えるにはすぐれた方法である。
200点近い作品を一堂に展示できるのはさすがに美術館ならではで、C・スクエアの「種村季弘[奇想の展覧会]実物大」(1999)で展示した作品に再会したり、それまで見たことのなかった、高校時代の『セルフ・ポートレート』(1955)や武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)時代の金属・ガラス・陶器・木などを組み合わせたオブジェなどが見られたのも楽しい体験だった。難をいえば絵画とオブジェに偏していて、ポスター・ブックワーク・写真といった合田さんのもう一つの世界が欠落していた。これは展示スペースをシェアしなければならない、2人展という制約がもたらした結果だったのだろう。

01「森村泰昌と合田佐和子」展図録ボックス


02「森村泰昌と合田佐和子」展図録合田版表紙

東京渋谷の松濤美術館で開かれた回顧展、「合田佐和子 影像 ―絵画・オブジェ・写真―」展(2003.10.14〜11.24)は高知展より一層多彩な作品によって、作家の多才を際だたせようとするものだった(ちなみに合田さんは武蔵美時代渋谷区在住だったという)。白井晟一設計の個性的なこの建物の特性を活かして、2階の展示室に初期作品を、地下展示室に近作を配していた。それは単に時系列で作品展開を見せようというのでなく、モノクローム写真をもとに描き始めた初期のやや暗い作品と、エジプト移住敢行(1985〜86)以後の、画面から光を発するような明るい作品とを対照させることで、誰の目にも合田作品の変貌ぶりを際だたせようという試みだった。それは中庭に射す光によって地下展示室の方が2階展示室よりも明るく感じるという、館の構造を知悉している企画者ならではの発想から生まれたものだろう。

03「合田佐和子 影像 ―絵画・オブジェ・写真―」展図録表紙

美術館では個展によって作家の個性と全体像を浮かび上がらせることができる。
では、小規模なわがC・スクエアではどんな合田佐和子展ができるのだろうか、と高知以後ずっと考えていた。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品はクリストです。
 (2)クリスト
《The Museum of Modern Art Wrapped (Project for New York)(Schellmann 37),》
1971年
オフセットリトグラフ
シートサイズ:71.2×55.5cm
Ed.100
Signed

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森本悟郎のエッセイ「その後」第34回

森本悟郎のエッセイ その後

第34回 合田佐和子 (1) 不在の展覧会


C・スクエア最後の公式な企画展は、映像作家のかわなかのぶひろさん、美術家の鴻池朋子さん、そして写真家の畠山直哉さんによる「ラスト・シーン」展(2013年12月16日〜2014年1月25日)だった。だが、この展覧会にはもう一人出展するはずだった作家がいた。合田佐和子さんである。
この展覧会はC・スクエアという長編映画の掉尾を飾るラスト・シーンに見立てて開催しようというもので、発案者は専門家委員で写真家の高梨豊さんだった。かわなかさんは自身のがんによる胃の全摘手術体験を経たからだろうか、近年、親しい友人や自らの〈死〉と向きあう、まさに人生のラスト・シーンを見つめるような作品を作り続けている。鴻池さんは壮大な神話的世界をさまざまな表現手法を駆使して構築しているが、それは結末のない物語である。しかしそれゆえに、どこを採ってもラスト・シーンと見做すことができる。畠山さんは東日本大震災で肉親と故郷の風景を失うというアイデンティティに関わる体験から、以後、故郷である陸前高田を撮り続けている。未曾有のカタルシス以後、つまり〈ラスト・シーン以後〉への視線を持ち続けている。選ばれたのはそのような理由からだった。

「ラスト・シーン」展リーフレット-1「ラスト・シーン」展リーフレット


「ラスト・シーン」展リーフレット-2

展覧会の企画会議で合田さんが選ばれたのは、委員で名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉さんが発した、「合田さんの絵は映画のシーンから採ったものだからというわけではないけれど、どの作品もラスト・シーンみたいに見えないだろうか」という言葉がきっかけとなったものだ。言われてみれば、合田さんが描いたあの潤むような瞳の後ろにはエンドマークが控えていそうではないか、と会議出席者は思い浮かべたことだろう。

「90度のまなざし」  2003「90度のまなざし」2003


「ポーラ・ネグリの眼」1988「ポーラ・ネグリの眼」1988


合田さんに出展の意向を尋ねると、嬉しそうに「いいわよ、でも身体の調子が良くないから新作は無理かも」と答えた。その時ぼくが思い描いたのは、個展(「記憶ファンタジー」2003年)と被らない作品であること、できる限り新しいものであること、という作品イメージである。まだ1年半の猶予をもってすれば、新作の1点や2点は出してもらえるだろうと期待もしていた。
年末にラスト・シーン展開催を控えた秋日、出品作品選定のため、約束の時間に鎌倉市浄妙寺の合田邸を訪ねた。ところが、呼鈴を押しても声をかけてもまったく応答がない。事前に確認してあったから留守はないはずとはいえ、不意の用向きでちょっと近所へ、という可能性も無くはなかろうとしばらく待つことにした。
1時間待ったところで、書き置きを戸口に残して辞去した。ひょっとしたら道すがら出会うことがあるかも知れないと、歩いて鎌倉駅に向かった。鶴岡八幡宮にさしかかるあたりだったろうか、携帯電話が鳴った。電話の主は娘さん、合田ノブヨさんだった。電話口で、合田さんはぼくが到着する少し前に緊急入院したこと、フィジカルではなくメンタルな原因のため見舞い無用であること、コミュニケーションに支障があり退院がいつになるか不詳ゆえ今回の出展は難しいこと、などを伝えられた。
こうしてラスト・シーン展は合田さん不参加のまま開催することになった。出展作家たちはそれをとても残念がっていた。そこには合田さんの作品が一緒に並ばないこと、合田さんに会うことができないという無念の思いがあったのではないか。
合田さんは「種村季弘 奇想の展覧会―戯志画人伝[実物大]」展、「記憶ファンタジー 合田佐和子展」、「巖谷國士美術論集出版記念展『封印された星 瀧口修造と日本のアーティストたち』」展の3回、C・スクエアに出展している。次回はそのあたりについて触れてみたい。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年名古屋市生まれ。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーC・スクエアキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。現在、表現研究と作品展示の場を準備中。

●今日のお勧め作品は、浮田要三です。
20170128_ukita_09浮田要三
「巻物」
油彩・キャンバス
130.5×95.0cm
サインあり


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本日の瑛九情報!
〜〜〜
瑛九没後も半世紀にわたり浦和のアトリエを守り、瑛九顕彰に尽力し、他によくある「独り占め」などせずに、遺されたすべてを快く公開したのが今もご健在の都夫人です。
1997_09_5_フジテレビG瑛九作品集記念展
瑛九作品集刊行記念展オープニング
1997年9月5日
会場:フジテレビギャラリー(お台場)
綿貫不二夫と杉田都(瑛九夫人)
後列左から、秋山祐徳太子、中上光雄、森下啓子、靉嘔

都夫人の物心両面にわたるご協力により実現したのが『瑛九作品集』です。
瑛九作品集『瑛九作品集』
1997年10月1日 
日本経済新聞社発行
204ページ 
B4変形判(32.0×26.0cm)
クロス装
図版 : 油彩130点、コラージュ・フォトデッサン45点、銅版画39点、リトグラフ23点、
他に参考図版68点
監修 : 本間正義
(美術評論家連盟会長、前埼玉県立近代美術館長)
作家論 : 五十殿利治(筑波大学助教授)
年譜・文献 : 横山勝彦(練馬区立美術館学芸員)
編集:綿貫不二夫、三上豊

都夫人のご健康を心から祈っています。
〜〜〜
瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

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森本悟郎のエッセイ「その後」第33回

森本悟郎のエッセイ その後

第33回 井上洋介(1931〜2016)(3) 井上さんを介して


昨年12月29日にこんなツィートがあった。
「トムズボックスの店、2015年12月28日にて閉店しました。閉店というのは閉店で29日から、来ていただいてもやっておりませんからね。来ないでくださいね。だから30日もやっておりませんよ。お正月もやりません。ずーっと閉店ですからね。本当に有難うございました。土井章史」
絵本の編集者で出版人でもある土井さんが、1993年から続けてきた絵本の書店を閉じたのだった。トムズボックスは品揃えが個性的で、コアな大人のファンも多かった。ギャラリースペースとなる壁面もあり、月替わりで土井さん好みの絵本作家やイラストレーターたちの作品を展示販売していた。ラインナップは荒井良二、井上洋介、宇野亞喜良、片山健、スズキコージ、長新太、和田誠ほかそうそうたる作家たちで、なかでも長さんと井上さんは別格だった。ちなみに店のロゴマークは井上さんの手になるもの。入り口にはその木製看板が下がっていた。

トムズボックスのロゴマークトムズボックスのロゴマーク


トムズボックスという存在を知ってはいたが、ぼくが初めて訪ねたのは井上洋介展が決まってからで、井上さんから土井さんを紹介されてのことである。以後、ぼくは上京するとしばしば訪れることになる。店番はいつも土井さんというわけではないが、たまに店主がいるときは、〈洋介さん〉の近況を訊ねるところから話がはじまるのだった。
井上さんは散歩好きで、一人浅草や江東地区を歩いてはスケッチするのだが、遠方へのひとり旅は苦手なようで、C・スクエアでの個展の際は土井さんを伴って現れた。井上さんは心から土井さんを信頼していたのだった。その土井さんが店じまいをしてから1カ月ちょっと後の2月3日、井上さんは亡くなった。

「井上洋介 絵画作品展」が渋谷のギャラリーで開かれた(アツコバルー、2016年11月26日〜12月25日)。会期中にアリス研究家の桑原茂夫氏と土井章史さんの対談があり、展示を見がてら聴講した。ぼくの井上洋介像と重なるところがたくさんあり、情景を思い浮かべながら頷いたものだが、土井さんから新たに学ぶことも多かった。
※今後の井上洋介展覧会情報はこちら

対談・桑原茂夫×土井章史『こんなにすごい画家がいた!井上洋介さんのこと』
桑原茂夫(左)×土井章史(右)
(2016年12月21日)


井上真樹さん同会場でお目に掛かった長女の井上真樹さん



横浜在住で神奈川県職員(司書)だった大内順さんも、井上洋介展を機に井上さんから紹介された一人だった。大内さんはぼくと同世代で、コレクションしている作家が秋山祐徳太子、吉野辰海、美濃瓢吾と、その嗜好が重なることからすぐにうち解け、親しくなった。大の井上洋介ファンで、コレクションの柱はむろん井上作品だった。ぼくたちはたいてい「井上さん」とか「洋介さん」と呼んでいたが、彼は「洋介先生」としか言わなかった。それほど敬愛していたのである。
大内さんは2005年に癌で亡くなった。その通夜の席で見た井上さんの打ちひしがれた姿は忘れられない。まるで最愛の息子を失ったかのような落ち込み方だった。
※「野毛地区街づくり会」のホームページで大内さんが書いた文章を見つけた。
http://noge-town.net/?p=9010

ドイツ文学者で評論家の種村季弘さんは井上さんを介して知り合ったわけではないが、井上さんを語る上で外すことができない。
種村さんが平素から井上さんに畏敬の念を抱いていたことを知っていたので、展覧会リーフレットに紹介文を依頼したところ、「橋と坂の妖怪画家」という画家・井上洋介の姿をくっきりと浮かび上がらせる、珠玉の小文を寄せていただいた。

種村・井上・梅村井上展初日に中京大学・総長室で
(左から種村季弘さん、井上洋介さん、梅村清弘総長・理事長〈当時〉)


その後、種村さんの美術家論集『奇想の展覧会 戯志画人伝』出版を記念して、書中取り上げた実作品で展覧会をしようということになり、31人に及ぶ作家の作品を集め「種村季弘 奇想の展覧会 戯志画人伝【実物大】」展を開いた(C・スクエア、1999年)。展覧会取材に訪れたNHK「新日曜美術館」スタッフの「どこでインタビューを?」との問いに、すかさず種村さんは井上作品の前を指定した。取材に立ち会いながら、「種さんほんとうに井上さんが好きなんだな」と感じ入ったものだ。
※種村さんも2004年に亡くなった。いずれ種村さんについても書くことがあろう。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、元永定正です。
20161228_motonaga150520_23元永定正
「のびるしろ」
1981年  シルクスクリーン
36.0×57.0cm
Ed.150  サインあり

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本日の瑛九情報!
〜〜〜
今回の近美の展示物のメインは山田光春さん旧蔵の作品・資料群です。
山田さんの功績のひとつは膨大な資料を集め、人々にインタビューして瑛九の評伝を刊行したことですが、そのもととなったのが瑛九の会の機関誌『眠りの理由』への連載でした。
瑛九の会の設立趣意書をお読みください。
20161228_eiq

発起人の筆頭は瀧口修造、ついで久保貞次郎、杉田正臣、杉田都、オノサト・トシノブ山田光春、宇佐美兼吉、木水育男の8人。事務所は当初は東京の尾崎正教宅に置かれ、のちに福井県勝山の原田勇さんが担当されました。
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瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で開催されています(11月22日〜2017年2月12日)。外野応援団のときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。

森本悟郎のエッセイ「その後」第32回

森本悟郎のエッセイ その後

第32回 井上洋介(1931〜2016)(2) たくさんの抽斗


井上さんが意識的に絵を描きはじめたのは小学校5年生頃。亡くなった兄の残した油絵画材を使うようになってのことである。絵の具を買い足しにひとり文房堂へ通ったとは、じつに早熟な絵画少年ではあった。クレヨンや水彩と異なり、重厚なマチエール表現が可能な油彩は構築していくような感覚があり、初めの一筆から画家気分を味わうことができることを、経験者ならご存知だろう(大抵は途中からそれが錯覚だったことに気づくのだけれど)。この時分から井上少年は画家になる決意をしていたという。
当時はルオーに惹かれた。藤田嗣治のようには描けないが、ルオーのようになら描ける、という思いがあったようだ。後年の油彩画はルオーの色彩や宗教的静謐さはないものの、荒々しい黒く縁取られた形体や筆触にその片鱗を認めることができるだろう。そういえばイエローオーカーやバーントアンバーに黒色を混ぜたような、井上さんのタブローに見られる暗褐色の色調は、武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科時代の教授である麻生三郎の影響があるかもしれない。ぼくが武蔵美に在学していた1960年代末から70年代初頃の油絵専攻学生作品にもそんな色遣いがずいぶんあった。

室内図室内図


階段階段


油画の主要なモチーフとなっていたのは〈食〉〈穴〉〈行列〉〈室内〉〈電球〉などで、これらは戦中戦後に体験した飢餓、着弾跡、戦災で焼け出された人たち、空襲警報の恐怖、灯火管制などがベースとなっている。そんなテーマを扱うにはこの手法と色調がピタリだった。


戦後、井上さんは都立日本橋高校美術科で版画を学んでいる。先生が版画家で、版画しか教えてくれなかったのだそうだ(入学したのは夜間定時制で、日中は土方仕事に就いていた)。この経験がのちに独自の木版画を生むこととなる。力強く太い、黒々とした輪郭線で形づくられた画面は、素朴な外見に似合わず、まことに周到に構成されたものである。木版作品はそのメディウムの特性からか、油彩にない伸びやかな空気が漂っていて、仕事の合間の楽しみとして制作されたのであろうことが窺える。

『乱風図異』トムズボックス(2004)より『乱風図異』トムズボックス(2004)より



絵の好きな子供にはよくあるが、井上さんも漫画好きで、漫画を描いては雑誌に投稿していたようだ。大学在学中に読売新聞の漫画投稿欄で注目され、漫画家・小島功に誘われて独立漫画派に参加。画家と漫画家という二つの顔を持つことになる。初期の井上さんの漫画はベン・シャーンを彷彿させるようなペンのタッチが見られるなど、同時代美術の動向を意識しながら試行している様子が窺われる。この1950年代、中村宏・池田龍雄・河原温らによって手がけられたアヴァンギャルド芸術の一方法としてのルポルタージュ絵画が、漫画との親近性が強いものであったことも、井上さんの漫画表現に少なからず影響していることだろう。スタイルが確立したのは、60年代初めに「マンガをやめようと思い、しめくくりの意味」(『井上洋介の世界』立風書房)で自費出版した『井上洋介漫画集 サドの卵』だった、とぼくは見ている。以後そのスタイルを駆使しながら多様なテーマを深化させていくのだが、井上さんの芸術的な漫画は美術評論家や文士、編集者たちの注目するところとなり、展覧会開催や挿絵の仕事へと広がっていく。

04「ツムジ」
『がんま』1号 独立漫画派(1956)


05『井上洋介漫画集 サドの卵』(1963)



初の漫画集である『サドの卵』に先立つ1960年、井上さんは絵本『おだんごぱん』(福音館書店)を出している。これはロシア民話の邦訳に、木版画風の挿絵をつけたものである。井上さんが一般の人たちに知られているとすれば、絵本作家・挿絵家としてであり、わけても「くまの子ウーフ」(神沢利子・作)シリーズで育った親子は多いはずだ。


井上さんの活動の場は絵画・漫画・イラストレーション・絵本と幅広いが、同時にその手法も油彩・水彩・鉛筆・ペン・墨・木版・リノリウム版、さらに蠟画なるものまで多彩である。多くの作家はリニアに作風を変えていくが、井上さんは同時並行でさまざまな媒体と画材と技法を使い分ける(ついでながら、詩にも俳句にも味わい深い作品を残している)という、じつに豊かな抽斗をもったアーティストでありアルティザンだった。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、エド・ベイナードです。
20161128_baynard_01_hanaエド・ベイナード
「花」
1980年   木版
作品サイズ:70.0×100.0cm
A.P.11/16  Singed

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本日の瑛九情報!
遂にナショナル・ミュージアムで実現した瑛九の回顧展示。担当されたのは大谷省吾さん、近美の主任研究員です。県立美術館などでは「学芸員」と言いますが、国立美術館(独立行政法人)の場合はなぜか「研究員」。先日分厚い研究書を出版したばかりです。もちろん瑛九にも触れています。
201606大谷省吾大谷省吾
『激動期のアヴァンギャルド
シュルレアリスムと日本の絵画 一九二八−一九五三』

2016年 国書刊行会 発行
664ページ
21.7x17.0cm
8,800円(税別)
*ときの忘れもので扱っています。メールにてお申し込みください。

瑛九 1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす>展が東京国立近代美術館で始まりました(11月22日〜2017年2月12日)。ときの忘れものは会期終了まで瑛九について毎日発信します。

◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。

森本悟郎のエッセイ「その後」第31回

森本悟郎のエッセイ その後

第31回 井上洋介(1931〜2016)(1) アヴァンギャルド美術家だった!


01井上洋介さん


ぼくが井上洋介という存在を意識しはじめたのは1960年代半ばからで、矢崎泰久が編集・発行していた雑誌『話の特集』を購読するようになってからである。同誌は書き手の多彩さはもとより、エディトリアルデザインでも当時の最先端を示すものだった。これはアートディレクターとしての和田誠の力によるところ大である。執筆者が凄い。ざっと挙げるだけでも石原慎太郎、伊丹十三、五木寛之、稲垣足穂、井上ひさし、色川武大、植草甚一、永六輔、遠藤周作、岡本太郎、小沢昭一、小田実、開高健、金井美恵子、金子光晴、邱永漢、栗田勇、小松左京、斎藤竜鳳、澁澤龍彦、高橋和巳、田中小実昌、田辺聖子、竹中労、タモリ、筒井康隆、寺山修司、野坂昭如、深沢七郎、星新一、三島由紀夫、山下洋輔、吉行淳之介などなど。ヴィジュアルに起用されたのは、イラストレーションが井上洋介、宇野亞喜良、片山健、黒田征太郎、鴨居羊子、佐伯俊男、長新太、矢吹申彦、米倉斉加年、山口はるみ、山下勇三、山藤章二、横尾忠則、和田誠らで、写真が浅井慎平、荒木経惟、沢渡朔、篠山紀信、須田一政、立木義浩、高梨豊、奈良原一高、深瀬昌久、藤倉明治、柳沢信など(※すべて50音順)。時代が時代とはいえ、まことに贅沢なラインナップだ。

2『話の特集』1966年2月創刊号
表紙イラストレーションは当時29歳の横尾忠則


井上さんの作品は毎号載るわけではなかったが、グロテスクで残酷でエロティック、かつユーモアのある世界に強く惹かれた。わけても1969年に掲載された「林檎地獄」は衝撃的だった。以来ずっと機会ある毎に展覧会や印刷物で作品を追いかけていたから、ぼくが展覧会を企画するのは自然ななりゆきだった。
出展を依頼する以前から、秋山祐徳太子さんや立石大河亞さんを通じて井上さんとは知己をえていたが、展覧会打合せで初めて市川市の自宅をお訪ねした。玄関を入ると、主人とともに何匹かの猫が出迎えてくれた。当時何匹いたのか忘れたが、10匹以上だったのではなかったか。外と内の区別なく、出這入り御免だったようだ。ふと、馬場のぼるの『11匹のねこ』が頭に浮かんだのを覚えている。上がって左手が仕事場で、決して狭い部屋ではないが、仕事机と座椅子、来客用座布団の周りは画材や資料、画架に描きかけのキャンヴァス、ベニヤ板の版木などが雑然と置かれ、2人座るのがやっとという具合。ここからイラストレーションや版画(小は蒲鉾板から大は180×90cmのベニヤ板まで)、ドローイング、油絵など、多彩な技法によるさまざまな作品が産み出されてきたのだとは、信じられないほど狭隘な制作場所だった。しかしそこは来訪者のぼくでも気分が落ち着き、仕事に集中するには格好の空間だろうと思われた。
その折に若い頃の作品も見ることができた。主に1950年代のもので、それらは画家・井上洋介を正当に戦後日本アヴァンギャルド美術の系譜に位置づけることを証拠立てるものだった。武蔵野美術学校(現武蔵野美術大学)の学生時代から漫画家として認められる一方で、タブローにも真正面からとり組んできたことがよくわかる。このあたり、以前紹介した立石大河亞さんと重なる。

C・スクエア第21回企画「井上洋介展1997『人間幻燈』」は1997年9月に開催した。思えばこの年は中村宏、木村恒久、中平卓馬、真島直子と、個性的で〈濃い〉展覧会が多かった。長年の餓えを、ぼくは一気に晴らすつもりだったのかもしれない。

3井上洋介展ポスター


4展示風景-1(第1会場)


5展示風景-2(第1会場)


6展示風景-3(第2会場)


もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、赤瀬川原平です。
20161028_akasegawa_nezisiki赤瀬川原平
「ねじ式」
1969年 シルクスクリーン
51.7x75.5cm
Ed.100 サインあり

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※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

◆森本悟郎のエッセイ「その後」は毎月28日の更新です。

森本悟郎のエッセイ「その後」第30回

森本悟郎のエッセイ その後

第30回 赤瀬川原平とライカ同盟(10) 倉敷、そして……


2009年1月に倉敷市役所でライカ同盟の記者会見が開かれた。市内アイビースクエア内の展示施設「アイビー学館」を改装し、そのお披露目にライカ同盟展を開催するという公式発表のためだ。この展覧会を支援したのが倉敷商工会議所で、翌日はその創設80周年記念シンポジウムに伊藤香織市長、大原美術館理事長で倉敷商工会議所会頭(当時)の大原謙一郎氏とともに3同盟員がパネリストとして登壇した。

記者会見ライカ同盟記者会見


倉敷へは倉敷商工会議所からお声がかかった前年秋に続いてこの時が2度目。「どうせ撮るなら四季を」ということで、その後さらに2度撮影に訪れている。最初は倉敷市内(近隣の市町を併合し、市域は案外広い)にこだわっていたものの、回を重ねるごとに越境し始め、結果的には岡山県下も含んだ作品構成となった。これはパリでも博多でも同様で、足が向いた先が撮影地というわけだ。

赤「文字の力」倉敷市玉島赤瀬川原平「文字の力」倉敷市玉島


秋「寶の山」倉敷市下津井秋山祐徳太子「寶の山」倉敷市下津井


高「こんにちは」倉敷市下津井高梨豊「こんにちは」倉敷市下津井


展覧会は『ライカ同盟写真展 ライク・ア・クラシキ』として、この年10月に開催(おわかりだろうが、「ライク・ア」は「ライカ」と掛詞になっている)。会場が広いため、撮り下ろしの倉敷と旧作のパリとを並べ、さらにライカ同盟が選んだ写真コンテスト「クラフォト2009」の入選作も展示した。

倉敷ポスター『ライカ同盟写真展 ライク・ア・クラシキ』ポスター


クラフォト_ポスター写真コンテスト「クラフォト2009」ポスター



倉敷展の頃はライカ同盟もぼくも、これからどこを撮ってどこで展覧会をしようか、などと倉敷以後について話していたものだ。しかし3人揃ったライカ同盟展は倉敷が最後となった。
撮影はそれでも続けていて、3人が顔を揃えたこともあれば、赤瀬川さんと秋山さんの2人ということもあった。2010年10月、曇り空のもと、三河島周辺をライカ同盟と歩いた。撮影後は新宿で反省会となり、それはいつも通りライカ散歩のルーティンだった。だが、こののち3人揃っての撮影機会はこなかった。それはもっぱら赤瀬川さんの健康問題によるものだった。
翌春か、赤瀬川さんから目眩がするという話を聞いた。それも以前あった目眩とは違うようだと(これはのちに脳出血だったことが判明)。その後、胃癌が見つかり全摘手術を受ける。退院後の2012年4月頃だったか、電話越しに聞いたのは耳に心地よいいつもの赤瀬川さんの声ではなく、ひどく年老いた人のようだった。5月には秋山さんと『「墓活」論』(PHP研究所)に描かれている赤瀬川家の墓(鎌倉・東慶寺)を訪ね、宗匠から礼状をもらったが、2年後にご自身が入ることになるとは露ほども思っていなかった。

赤瀬川原平『「墓活」論』赤瀬川原平著『「墓活」論』


赤瀬川家墓前で_赤瀬川家墓前の秋山祐徳太子さん



赤瀬川さんが亡くなった翌年、「追悼 赤瀬川原平」と題して秋山さん、高梨さん、ぼくの3人で座談会をした(『日本写真年鑑 2015』公益社団法人 日本写真協会)。その最後で僕が「原平さんが亡くなったことで解散ということになりますか?」と問いかけると、高梨さんは「いや解散しません。精神のリレーは続けます」と答えた。しかし秋山さんからも高梨さんからも、未だ「そろそろ散歩しようか」という話は出ていない。解散はしていないが、以来、活動がないままである。
この座談会より前に雑誌『日本カメラ』から依頼された追悼文に、ぼくは「赤瀬川さんがライカ同盟の扇の要で、調整役だった」(2014年12月号)と書いた。生前赤瀬川さんが属していた「路上観察学会」や「日本美術応援団」は、前者はそれぞれ得意とする分野を持つメンバーたちによって今後も活動することだろうし、後者は赤瀬川さんの後任に南伸坊さんが就いている。しかし〈かなめ〉を失ったライカ同盟は、今や名目だけの存在というべきではないか、とぼくは見ている。赤瀬川さんを措いてその任の務まる人がいなければやむをえないというものだ。これは寂しいことだが、宗匠没後の現実がそれを物語っている。赤瀬川さんの逝去はライカ同盟初展覧会から20年目。ちょうど潮時ということだったのかもしれない。
ともに80を過ぎた高齢ながら、健康が許す限り秋山さんも高梨さん(こちらはプロだから当たり前だが)も写真を撮り続けることだろう。ぼくはこの二人の写真ファンでもあるから、それはそれで観る楽しみは残されている。だが、それは秋山さんの写真であり高梨さんの写真であって、ライカ同盟の写真ではない。ライカ同盟の写真は、〈ライカ同盟3人による写真〉だったのだから。
もりもと ごろう

森本悟郎 Goro MORIMOTO
1948年愛知県に生まれる。1971年武蔵野美術大学造形学部美術学科卒業。1972年同専攻科修了。小学校から大学までの教職を経て、1994年から2014年3月末日まで中京大学アートギャラリーキュレーター。展評、作品解説、作家論など多数。

●今日のお勧め作品は、秋山祐徳太子です。
20160928_aikyama_05_sankaku秋山祐徳太子
「三角男」
1989年
ブリキ彫刻
H27×11.5×11.5cm
台座の裏にサインと年記あり


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ときの忘れもの
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