瑛九

鈴木素直「瑛九・鈔」第5回(再録)

鈴木素直「瑛九・鈔」

第5回 版画に無限の楽しみ


 生きていたその時代には受け入れられぬほど独創性の強い芸術家の例はいくつもある。瑛九も異色、奇才、先鋭などのことばを着せられた時期がある。真価は理解されぬまま画壇から遠くあった彼の作品が没後十五年たつ今、各地で話題になっている。昨年だけでも、京都市美術館、北九州市立美術館、南天子画廊、フジテレビギャラリー、美術雑誌、版画雑誌などで展示、特集された、業界誌やオークションに引き出されることも多くなるとすなおに喜べない面もあるが、若い人たちの間に人気があることがわかった。彼の作品の魅力とはなんだろうか。
「僕は今サメてから夢をみるまでエッチング(銅版画)と石版の実ケンにボットウしています。」(昭和二六・一二・一五 内田耕平あて)瑛九が銅版画を手がけたのは二十五年の秋で、翌年には宮崎から浦和市へ移住した。それから七年間に二百七十八点の銅版画を制作しながら、未発表の作品も多い。今回はそのうちの十三点を含めて三十五点展示してある。「森の会話」「オペラグラス」などの代表作に見られるち密な描刻と違い、とび出るような白地の多い未発表の「鍵」「おこれる鳥」などには彼の制作過程の秘密がうかがわれて興味深い。彼の版画にエロチズムやポエジーを感じる人、神秘や想像の世界にあそばせてくれるという人も今回はもっとちがった感想をもつことができるだろう。
 石版画(リトグラフ)は三十一年銅版画からうつって、かきたてられたように制作されている。「リトの仕事に追われていて他のことがだんだんとめんどうくさくなっていきます(三一・一一・一五木水育男あて)「僕はまだ肉体労働に慣れていなかったのです。リトの印刷は確かに肉体労働です。それで僕は疲れて(中略)また健康が回復してみると僕の肉体は一変して非常に強くなりました。目下終日働いています」(三一・一二・二四 杉田正臣あて)
 彼の版画の特徴は、今の版画作家と違ってインクの配合も自分の実験で吟味納得の上、しかも自分の手で作品を刷っていることである。彼の石版画に表現された世界には、あそびをたのしみ、ユーモアがあるかと思えば、孤独があり、怒りがあり変化にとみ、やさしい目と思想の深さに支えられている。晩年の二カ年間で百五十八点の石版画を制作しているエネルギーにも驚く。かつて詩人滝口修造が「『通りすぎるもの』ということばが瑛九のイメージと結びつき、あえていえば完成型の画家ではなかったように思う」と書いた。あくことなき旅人であった瑛九が一枚の白紙に攻め入り自分の世界を築こうとしていた過程を言い当てたことばである。瑛九展を見て一枚の版画にも無限の楽しみがあることがわかった。
 命日をはさんで開催した主催者の意図にこたえるべき若い人の論評がもっとおこってほ しいし、彼の作品をもっと県民が見られる公的な施設と機会がほしいと思う。
※於県立図書館 75・3・3〜15
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すずき すなお
*鈴木素直『瑛九・鈔』(1980年、鉱脈社)より再録。

鈴木素直
1930年5月25日台湾生まれ、1934年(昭和9年)父の故郷宮崎市に帰国、大淀川、一ツ瀬川下流域で育つ。戦後、新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、瑛九が埼玉県浦和に移った後も親交を続け、故郷宮崎にあって、瑛九の顕彰に尽力した。宮崎県内の盲学校、小中学校(主に障害児教育)に長く勤務し、日本野鳥の会会員としても活躍した。2018年4月5日死去。享年87。
瑛九については新聞や雑誌に寄稿され、1980年宮崎の鉱脈社から『瑛九・鈔』を刊行した。ご遺族のご了解を得て、毎月17日に『瑛九・鈔』から再録掲載します。
20180426151054_00001鈴木素直
『瑛九・鈔』
1980年
鉱脈社 発行
63ページ
9.2x13.1cm

目次:
・出会い
・瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
・一枚の写真の現実 二十回忌に思う
・フォトデッサン
・版画に無限の楽しみ
・二人の関係 瑛九・池田満寿夫版画展
・“必死なる冒険”をすすめた画家後藤章
・瑛九―現代美術の父
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瑛九展『現代美術の父 瑛九展』図録(小田急)
1979年 瑛九展開催委員会発行
132ページ 24.0×25.0cm
同図録・銅版入り特装版(限定150部)

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20180426151147_00001鈴木素直
『詩集 夏日・一九四八ー一九七四』
1979年
鉱脈社 発行
102ページ
22.0x15.5cm

目次:
・鏡より
 鏡
 ことば
・夏に向ってより
 夏に向って
 その時小さいあなたへ
 春一番
 野鳥 I
 野鳥 II
 入江 I
 入江 II
 小さいカゴの中で
 病院にて
 孟蘭盆
 夏草 I
 夏草 II
 大いなる儀式
 ムラから
 来歴
・女たちより
 秋
 雨
 夜
 川
 鳥
・夏日より
 春
 いつも同じ石
 海
・詩集「夏日」によせて 金丸桝一
・覚書

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20180426151133_00001鈴木素直
『馬喰者(ばくろう)の話』
1999年
本多企画 発行
114ページ
18.5x14.1cm

目次:
・馬喰者の時間
・馬喰者の話
・馬喰者の煙管(きせる)
・馬喰者問答
・馬喰者の夢
・馬喰者の謎
・馬喰者の庭
・ふくろう
・青葉木莵異聞
・雲雀と鶉
・時鳥がうたう
・夕焼けの中の黒いカラス
・残暑見舞い
・眠っている男
・手術室にて
・残照記
・切り株
・八月の庭
・知念さんの地図

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20180426151116_00001鈴木素直
『鳥は人の心で鳴くか みやざき・野鳥民族誌』
2005年
本多企画 発行
265ページ
18.3x13.2cm

目次(抄):
・宮崎の野鳥・俗名考―消える方言とユニークな命名
・ツバメあれこれ
・方言さんぽ
・鳥十話
・日向の鳥ばなし
・宮崎県の鳥類
・自然に関わる伝承と農耕習俗―野鳥にまつわる俗信・俚言を中心に
・野鳥にまつわる民俗文化
・県北を歩く
・県南を歩く
・野鳥の方言・寸感
・後記
〜〜〜〜

宮崎瑛九展9鈴木素直さん鈴木素直さん(左)
鈴木素直さんは新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、その後教師となります。瑛九と親交を続け、没後はその顕彰に大きな役割を果たし、詩人、日本野鳥の会会員としても幅広い活躍をなさってきました。


●鈴木素直のエッセイ「瑛九・鈔」(再録)は毎月17日の更新です。

●今日のお勧め作品は、瑛九です。
qei_96_takeoff瑛九 Q Ei
《離陸》
1957年
リトグラフ
イメージサイズ:32.0x21.0cm
シートサイズ:54.3x38.5cm
Ed.22(A.P.)
サインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


ときの忘れものは第303回企画◆野口琢郎展 を開催します。
会期:2018年9月20日[木]―9月29日[土] 11:00-19:00 会期中無休
9月22日(土)17時よりレセプションを開催しますので、ぜひお出かけください。
展覧会カタログを刊行します(テキスト:金沢21世紀美術館館長・島敦彦さん)。
作家は会期中毎日在廊します
野口展


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
ただし9月20日[木]―9月29日[土]開催の野口琢郎展は特別に会期中無休です
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第24回

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第24回

東京国立近代美術館「瀧口修造と彼が見つめた作家たち―コレクションを中心とした小企画」


取材日の当日、東京メトロ竹橋駅の階段を昇ると、ギラギラの太陽に照らされたアスファルトが白く発光し、目を刺激した。皇居周辺を走るランナーも、このときばかりは酷暑のために姿を消していた。信号待ちで立っているだけでも体力を奪われ、暑さを避けるようにして東京国立近代美術館に飛び込んだ。今回の取材は、「瀧口修造と彼が見つめた作家たち」展である。瑛九の作品が前期と後期あわせて4点が出品されていることから、当館美術課長大谷省吾学芸員による案内で展示を拝見した。

展示を企画されたきっかけは、2017年12月3日大阪大学総合学術博物館主催のシンポジウム「〈具体〉再考 第2回1930年代の前衛」に、大谷氏が加藤瑞穂准教授から誘われて発表者として参加したことによる。討論された内容は、「「デモクラート美術家協会」、「実験工房」、「具体」それぞれの中心的役割を果たした瑛九(1911-1960年)、瀧口修造(1903-1979年)、吉原治良(1905-1972年)の接点に注目し、研究者による発表・討議を通して、戦前の1930年代にまで遡る彼らの活動やその志向、戦後との連続性などについて考え」るというものであった。特色のある活動を展開した彼らの表現の中で、共通する点と異なる点は何か、実際の作品を見ながら議論を深める狙いがあったようだ。

東京国立近代美術館01東京国立近代美術館(2階)展示室前

展示室に入ると、手のひらサイズの黒い冊子が置かれている。表紙は、瀧口修造が好んだラベルのデザインで展覧会名が入っている。瀧口のスケッチブックと見紛うばかりの凝った体裁のであるが、中を開くと、解説文、図版8点、瀧口修造略歴、作品リストが収録された小冊子である。(配布終了)

東京国立近代美術館02瀧口修造と妻綾子を撮影した写真が展示されている。大辻清司の撮影による「瀧口修造ポートフォリオ」から。

山積みとなっている書物が壁一面を覆い尽くしている。瀧口の書斎写真をじっくり見ていると、ある種の趣向が分かってくるため、度々雑誌等に掲載されることがあり、後年は研究対象として扱われている。壁面と化した本の背表紙や絵をのぞき込むと、瀧口のその当時の関心事や交友関係を知る手掛かりとなるのだろう。実際に慶応義塾大学アート・センターで書斎の写真に注目した展示企画が2018年1月22日〜 3月16日 に同大学アート・スペースにて開催された。過去にも、同センターの「瀧口修造アーカイブ」から瑛九も関わっていたタケミヤ画廊の企画展も行われたことがあり、見学させていただいた。今後も大学、美術館の双方でコレクションを積極的に公開していくことで、瀧口や彼に関連する美術家の研究が進むと考えられる。

東京国立近代美術館03参考資料)写真:口絵「瀧口修造の書斎1963」(大岡信『ミクロコスモス瀧口修造』1984年)、左下図版:《作品》1959年、油彩、37.8×44.5僉碧楷崟亀全峠ぁ惘誘綺酩塀検1997年)

瀧口は、作品も図書と同じく書斎に置いていた。写真図版の赤枠部分には、瑛九の作品が1点掛かっている。左下の油絵が写真と同じ作品である。瑛九の作品を瀧口がどのように入手したのか経緯は定かではないが、ひとつの可能性としていえるのは、瑛九夫人(都)が贈ったことである。大谷氏によると、瀧口は作品を購入して手元に置くというよりは、美術家が瀧口に贈るケースが多かったという。瑛九のこの作品は、現在、富山県美術館に収蔵されている。

東京国立近代美術館04瀧口修造のデカルコマニー4点(いずれも制作年不詳)が展示されている風景。

デカルコマニーを用いて制作された作品の多くは、浮かび上がった模様から、あるイメージを想像して、よりそれらしく見えるように加筆する。しかし、瀧口の場合は、ほとんどの作品に手を加えず、そのままの状態で留めている点が他の作家との大きな違いであると、大谷氏は説明していた。展示されているデカルコマニーは、どれも黒を基調として、淡いブルーや紫色が画面に落とし込まれている。紙上を這うように浮かび上がった模様をつぶさに観察してみると、暗闇でざわめく木々に見えたり、夕立の暗雲に見えたり、巨大な湖に見えたり、月面に見えたり、様々なイメージを膨らませることができる。見え方は、千差万別で大谷氏は「○○に見える」と〇〇と言葉を当てはめることさえ憚られるように説明していた。

東京国立近代美術館05バーント・ドローイング3点が展示されている風景。

紙を熱して浮かび上がる焦げや煤けた模様を作品とする技法である。3点をよく見ると、焦げて穴が開いた紙の下に赤い紙を重ねている作品、彩色した紙に火を入れた作品、もしくは、その逆の手順で火を入れた後に彩色している作品で、制作する度に変化を与えていることが分かる。このように実験的に制作される作品に偶然な発見があると、制作するたびにまた制作したい欲に駆られるのだろう。瀧口修造と聞くと、美術批評家・詩人というイメージが第一にわくが、晩年の瀧口は執筆活動をしないで、「美術家」のように作品制作に没頭していたようだ。大谷氏は、瀧口のバーント・ドローイングとルーチョ・フォンターナの作品をよく比較してほしいと語っていた。見比べると似て非なる作品で、フォンターナの目の覚めるような色と鋭く切り裂かれた画面と、どこか湿っぽい瀧口の作品は日本らしい味わいがある。

東京国立近代美術館06.ロト・デッサン2点。制作年不詳、紙、鉛筆

私が撮影した写真では見えづらいかもしれないが、こちらは、ただ黒くて四角い作品ではない。黒い用紙に鉛筆で同心円状の線が幾重にも重ねられた作品である。黒鉛のキラキラと輝く軌道を目で追っていると、画面に吸い込まれるような錯覚に陥る。展示室で直に見ていただきたい作品のひとつである。

東京国立近代美術館07『みづゑ』増刊「海外超現実主義作品集」1937年5月

戦前の日本で出版されたシュルレアリスム関係文献で最も充実した雑誌として有名で、美術ファンならお馴染みの資料である。なお、レクチャー(第二夜)でこの雑誌の詳細な説明を伺い、瀧口の異様な執着心が込められていたことを知った。上部の「みづゑ」と表記されている方がカバー(奥)であり、カバーを外した状態の冊子(手前)が分けて展示されている。「アルバム・シュルレアリスト」という表題の黒バックの表紙とその裏表紙を飾っているのが瀧口の作品である。作者として瀧口の銘はどこにも無いものの、海外のシュルレアリスム特集号で自身の作品を表に置く精神は、改めて考えると驚くべきことだと大谷氏は語る。

本展は、大きく三つのコーナーに分けられ、‖躙修造のコーナー、瀧口と交流のあった日本の美術家のコーナー、B躙が関心を寄せていた海外美術家のコーナーで構成されている。,梁躙の作品は当館が所蔵する全13点が出品され、↓のその他の作品が会場の大半を占め、一巡すると実に多彩な展示空間であることを知る。見るたびに新たな発見がある奥深い作品ばかりのため、瀧口のコーナーを見て他のコーナーを鑑賞したら、また瀧口のところを見返してほしいという。

東京国立近代美術館08左からポール・セザンヌ、ウジェーヌ・アジェ、マックス・エルンストの作品がある風景。瀧口は『近代芸術』(1938年)でセザンヌの作品に精神と物質との闘いを見ている。人の意識の届かない存在としての「物質」をどう捉えるか、という瀧口にとっての重要なテーマが論じられる大事な一例として示された。


東京国立近代美術館09右からイヴ・タンギー、ジョアン・ミロで、左はルーチョ・フォンターナ、ジョセフ・コーネルである。


東京国立近代美術館10左から福沢一郎、浅原清隆、浜田浜雄の作品。こちらは瀧口と交流の深かった美術家である。浅原が描いたハイヒールの立体構造と奥まったソールの部分を見ていると不思議なものに見えてくる。二次元のフラットな画面であるが、ルーチョ・フォンターナの作品を彷彿させる。


東京国立近代美術館11北脇昇《数学的スリル》とオブジェ。アトリエに残っていたという木片は、作品の中でライフル銃や逃げ惑う人物に姿を変えている。見立てに近い造形表現である。


東京国立近代美術館12大辻清司、北代省三・大辻清司、山口勝弘・大辻清司の写真。[後期展示]
撮影された対象が北代、山口によって制作されたオブジェである。彼らは、実験工房のメンバーである。


東京国立近代美術館13手前は荒川修作の《作品》があり、奥には河原温の《孕んだ女》がある。瀧口に限らず、「もの」(物質/物体/オブジェ)をどのように捉えるかは、作品制作の根底にある大きな問題であり、時代を経ても脈々と続く問題として、個々の作品を細かく見ていくと、展覧会に込められた重要なポイントになっているようだ。


次に、瑛九のコラージュ4点に注目したい。下記の作品をよくみると、1点目はまぶたからひたいにかけて切り取られた女性の顔面があり、眼球はなく、人体らしきカケラが連なるように構成されている。背景に当てられた赤い紙の効果で、バラバラの印刷物はひとつの個体となり、人ではない奇怪なイメージが形作られている。また、《作品D》は、能面のように眼球部分がくりぬかれた女性像、《笑えぬ事実》では、女性の顔が白目部分で切断され、同様に切り抜かれた別の顔と上下反転する形で接合されている。4つの瞳孔が空を仰ぎ、画面中央にぬうっと突出た腕は不気味さを増長している。

東京国立近代美術館14瑛九《無題》1937年頃、コラージュ・紙[前期展示]

東京国立近代美術館15瑛九《無題》1937年、コラージュ・紙[前期展示]、鉛筆で「Q Ei /’37」のサインあり

東京国立近代美術館16瑛九《作品D》1937年、コラージュ・紙[後期展示]

東京国立近代美術館17瑛九《笑えぬ事実》1937年、コラージュ・紙[後期展示]

これら瑛九の作品に関しては、大谷氏の論文「瑛九にとっての『現実』」で次のように解釈している。

瑛九が徹底的に拒否したのは、現実を公式化し、手垢にまみれた既成概念の枠を通して理解することであった。そうした惰性的な現実理解が、バタイユのいう「味気のない生をもたらした」とするならば、逆に瑛九が追い求めたのは、知識や概念を取り払った、むき出しの存在としての「レアル」なものということができるだろう。
(大谷省吾『激動期のアヴァンギャルド シュルレアリスムと日本の絵画1928-1953』2016年)

また、瑛九のコラージュについて、「表現者としての孤独と疎外のぎりぎりの地点からの反撃として生み出されたのだと考えられる」と大谷氏は解釈を加えている。
瑛九は幼少のころから本の虫で、国内外の美術表現は雑誌などから学んでいた。人一倍知識をため込んでいたといっても過言ではない。それは、独自の表現を模索していたからこそ、手あたり次第に目を通していたともいえる。「知識や概念」に向きあった上で目の当たりにした現実(レアル)には、ハッとさせられるくらいの空虚と確固たる魅力がそこにあることに気付いたのであろう。瑛九は「知識や概念」でがんじがらめになる予定調和的な表現ではなく、「孤独」な冒険に挑んだ。そのため、それまで積み上げてきたことを自嘲するかのように、アイロニカルと不穏に満ちた表現になった。

ところで、大谷氏は、大阪大学のシンポジウムや「瑛九1935-1937 闇の中で「レアル」をさがす」展(東京国立近代美術館ギャラリー4、2016年)で、瀧口と瑛九のふたりが1930年代に映画を製作する計画があったことを書簡の中から見出している。結局、瀧口の体調の悪化で頓挫するものの、フィルム(感光材料)を用いた表現に、ふたりとも関心があったことが分かる。作品を見ても分かるように、両者が同じ方向をめざした表現とは言い難いが、同時代の前衛美術家として互いに無関心ではなかったようだ。瀧口修造が瑛九について書いている記事を一覧で見ると、決して少なくはない。

<瑛九に関係する瀧口修造の執筆文献>
〔瀧口修造「自由美術家協会第一回展」『美之國』1937年8月〕
瀧口修造「フォト・デッサンに寄せる言葉」『瑛九フォト・デッサン展』目録(宮崎商工会議所、大阪梅田画廊)1951年1月−2月
瀧口修造「瑛九のエッチング」『美術手帖』1953年10月
瀧口修造の詩による版画集『スフィンクス』1954年
瀧口修造「(展覧会に寄せて)」『瑛九フォト・デッサン展』目録(高島屋ギャラリー)1955年1月
瀧口修造「福井の瑛九遺作展のために」『瑛九遺作展』目録(福井市繊協ビル)1960年5月
瀧口修造「瑛九をいたむ」『美時術手帖』1960年5月
瀧口修造「通りすぎるもの」『眠りの理由』1966年4月

瀧口修造の詩による版画集『スフィンクス』は、デモクラート美術家協会会員(北川民次、瑛九、泉茂、加藤正、利根山光人青原(内間)俊子)によって制作された版画と瀧口修造の詩がセットになったもので、瑛九のエッチングは、「五月のスフィンクス」という詩と組まれた。本展では、この作品が当然出品されていると予想していたが、実際は展示されていなかった。改めて調べると、こちらは久保貞次郎が発案したもので、すでに発表されていた瀧口の詩選集に版画を併せたものであった。このころの瑛九は、シュルレアリスムに傾倒していた時期で、銅版に下書きをせずに、頭に思い浮かぶままイメージを刻んでいた。


この瀧口修造展は、これまで評価されてきたシュルレアリスムの紹介者や前衛美術家の支援者という外面的な「瀧口像」ではなく、彼の心を動かした美術思想・表現、さらには個人的な嗜好にまで迫ろうとする瀧口の内面を覗く展示であった。また、比較対象として展示された作品を見ると、瀧口のオリジナリティを作品に見出すこともできる。

瀧口と瑛九に見受けられる共通の特徴としては、^貭蟯間、同じ技法による作品を実験的に繰り返し制作している点、∈酩覆離ぅ瓠璽犬鮓把蠅靴覆い海箸鮃イ鵑静澄↓写真メディアへの関心、ぅ轡絅襯譽▲螢好爐悗隆愎粥↓コこ扱歃儔函淵轡絅襯譽▲螢好函砲鵬欧垢襪海箸ない点が挙げられる。
瑛九は、瀧口の「実験工房」創立とほぼ同時期に「デモクラート美術家協会」という看板を掲げ、瑛九なりの「もの」(現実、レアル)の捉え方を実践してきた。瀧口は売れっ子の批評家でありながら、瑛九という画壇にいつかない人物を気に掛けていたのは、関心の対象や制作態度にかんして通ずるところがあったからかもしれない。

***
ちょっと寄道…


東京国立近代美術館18連続ミニレクチャー第二夜8月10日「瀧口修造とデカルコマニー」にて

展覧会の関連イベントとして行われているレクチャーでは、本展の企画者大谷省吾学芸員が5つのテーマを設けて、30分じっくりと解説するものである。第一夜と第二夜に伺うと、レジュメが用意され、レクチャーで触れられた参考文献の中の一文が掲載されている。大谷氏は、最新の研究成果を報告されるため美術関係者の注目度も高く、会場には、他館の学芸員や瀧口修造の研究者・土渕信彦さん、綿貫ご夫妻もお見掛けした。

第一夜では、「瀧口修造と“物質”」というテーマで、展覧会の開催概要や瀧口修造の関心の元となっている「物質」について掘り下げた内容であった。物質=「私」をとりまく世界、「私」という自我ではない、意識の外(無意識)にある部分を捉えたいと考えた時に、瀧口は「写真」に注目するようになった。印画紙に光が当たって制作される写真は、意識していないものも写し出すことが出来る。会場では、瀧口が関心を示していたウジェーヌ・アジェのスナップ写真が展示されている。

第二夜は、「瀧口修造とデカルコマニー」について、大谷氏は、オスカー・ドミンゲス、ジョルジュ・サンド、ロールシャハが制作したデカルコマニーの作例を挙げ、アンドレ・ブルトン『ミノートル』8号(1936年6月)にデカルコマニーが掲載されたのをきっかけに、わずか半年後に『阿々土』15号(1936年12月)で「対象の予想されないデカルコマニイ」として、作り方が紹介されたことを報告された。また、日本で開催された重要な展示としては、南画廊、新宿セバスチャンの個展の他に、東京府美術館に於いて開催された第5回新造形美術協会(1937年3月)で、瀧口が今井滋、瀧口綾子との共作(詩やデカルコマニー)を発表したことを挙げていた。また、展覧会終了後の5月には、雑誌でデカルコマニーを紹介していたことを示し、そのなかでも、特に重要なものとして、「作者が同時に熱心な鑑賞者になれるのもデカルコマニイです。」(「不思議な窓・デカルコマニイ」『アトリヱ』14巻5号、1937年)という妻綾子の一節を挙げ、デカルコマニーの本質と多様な表現性に触れていた。イメージの生成を循環してゆくことが、言葉では言い表せない何か、=「物質」を捉えることに繋がると考えらている。

瀧口のデカルコマニーについて、大谷氏は次のように解釈をしている。

近代的な表現主体としての作者の存在を相対化させるような性質が、もともとデカルコマニーにはあり、瀧口修造はその性質に身をゆだねているようにみえる。作者としての瀧口が作品の向こう側にいて、その表現意図を作品の表面から読み取らなければならない、というわけではないのだ。むしろ瀧口は作品のこちら側に私たちとともにいて、一緒に作品を見つめているのだと考えたほうがよい。
(中略)
作者と鑑賞者との境界が曖昧になるということは、「〇〇に見える」の「〇〇」が鑑賞者の数だけありうるということも意味する。

(大谷省吾「瀧口修造のデカルコマニーをめぐって」『瀧口修造展供2014年)

上記のように多角的なとらえ方ができるのがデカルコマニーの最大の魅力なのであろう。

東京国立近代美術館19東京国立近代美術館常設展の第9室写真・映像コーナー。

こちらには、細江英公の写真《薔薇刑》11点が展示されている。被写体となっている人物は、文筆家三島由紀夫である。元は、1962年銀座松屋で開催された「NON」展に20点組みで発表された写真である。翌年1963年には、写真集『薔薇刑』が集英社より発行された。
1968年には、《薔薇刑》の意思を引き継ぐように、澁澤龍彦編集の『血と薔薇』が創刊される。三島はここで再びモデルとなり、篠山紀信撮影《男の死》を発表することになった。

東京国立近代美術館20《薔薇刑》が展示されている風景。

細江英公は、瑛九に影響を受けた一人で、埼玉のアトリエに通い、フォト・デッサンの制作風景などを写真に収めている。細江は、瑛九の熱弁に触れて「ケロイド」ができたと比喩するほど、衝撃が走ったようだ。細江はデモクラート美術家協会にも参加している。

ちなみに、瀧口修造は下記の通り細江英公の写真集に寄稿している。
瀧口修造「鎌鼬、真空の巣へ」『鎌鼬』現代思潮社、1969年
瀧口修造「現前するガウディ」『ガウディの宇宙』集英社、1984年

東京国立近代美術館21夜の東京国立近代美術館の外観。ライトに照らされた梁が美しい。

夜間開館の実施中で、ゴードン・マッタ=クラーク展の会期中は21時まで、それ以降は20時まで開いている。美術館の前庭には、多田美波や現在開催中のゴードン・マッタ=クラークの作品が設置され、昼間とは別の表情を浮かべている。
また、見慣れないキッチンカーは、美術館内に店舗を持つ、L’ART ET MIKUNIが出店している。現在開催中の展示にあわせた期間限定のお店で、お弁当やローストビーフのサンドイッチ、ビール、日本酒、甘酒などの飲食ができる。総括ディレクター増田禎司氏にお話を伺うと、美術館の店内で出しているメニューを半額で提供しているものもあり、たいへんお得だという。桜の時期にも出店していて、評判が良いようだ。

夜の美術館では、学芸員によるミニレクチャーやボランティアによる展示解説などのプログラムがあるため、仕事帰りに作品を鑑賞して、外でゆっくりとくつろぐ来館者が多いようである。私も帰り際に冷やし甘酒をすすりながら野外彫刻を見ていると、昼間とは違った開放的な雰囲気を味わうことができた。日中に見かけなかった皇居ランナーの姿が見えると、暑さにも負けずに日常生活を送る日本人の柔軟な精神性を垣間見たような気がして、嬉しくなった。
(なかむらまき)

「瀧口修造と彼が見つめた作家たち―コレクションを中心とした小企画」
チラシ(部分)
会期:2018年6月19日(火)〜9月24日(月・祝)
会場:東京国立近代美術館 ギャラリー4(2階)
時間:10:00-17:00(金・土曜は20:00まで)
休館:月曜(7月16日、9月17日、9月24日は開館)、7月17日、9月18日
出品作家:赤瀬川原平/浅原清隆/荒川修作/アンリ・ミショー/イヴ・タンギー/ウジェーヌ・アジェ/瑛九/大辻清司/岡崎和郎/加納光於/河原温/北代省三/北脇昇/ジョアン・ミロ/ジョゼフ・コーネル/瀧口修造/ポール・セザンヌ/ルーチョ・フォンターナ/浜田浜雄/福沢一郎/マックス・エルンスト/野中ユリ/福島秀子/山口勝弘

開催概要
 美術評論家・詩人の瀧口修造(1903-1979)は日本にシュルレアリスムを紹介し、また批評活動を通して若手作家を応援し続けたことで知られています。そして彼自身もドローイングやデカルコマニーなどの造形作品を数多く残しました。この小企画では、当館コレクションより、瀧口自身の作品13点に加え、彼が関心を寄せた作家たちの作品もあわせてご紹介します。とはいえ、これはシュルレアリスム展ではありません。瀧口が関心をもって見つめた作家たちが、どのように「もの」(物質/物体/オブジェ)と向き合ったかに着目しながら、作品を集めてみました。彼らの「もの」の扱い方は実にさまざまです。日常の文脈から切り離してみたり、イマジネーションをふくらませる媒介としたり、ただ単純にその存在の不思議をあらためて見つめなおしたり……。そうした多様な作品のどのような点に瀧口は惹かれたのかを考えながら、彼の視線を追体験してみましょう。そして、瀧口自身の作品で試みられている、言葉の限界の先にあるものに思いを巡らせてみましょう。


「連続ミニレクチャー 瀧口修造をもっと知るための五夜」(入場無料)
講 師:大谷省吾(美術課長・本展企画者)
時 間:各回とも18:30-19:00
場 所:地下1階講堂
第一夜:7月27日(金)「瀧口修造と“物質”」
第二夜:8月10日(金)「瀧口修造とデカルコマニー」
第三夜:8月24日(金)「瀧口修造と瀧口綾子」
第四夜:9月 7日(金)「瀧口修造と帝国美術学校の学生たち」
第五夜:9月21日(金)「瀧口修造と福沢一郎」
〜〜〜〜
●今日のお勧め作品は、瑛九です。
おすすめqei17-024瑛九 Q Ei
『眠りの理由』(10点組)より
from "Reason of Sleep"
1936年
フォトデッサン(フォトグラム)
26.7×21.7cm
Ed.40
※9点セット

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
12

鈴木素直「瑛九・鈔」第4回(再録)

鈴木素直「瑛九・鈔」

第4回 フォトデッサン


 フォトデッサンとは耳なれないことばかもしれない。瑛九の説明によれば、「カメラなしの写真は不可能かもしれないが、印画紙を使うデッサンは可能だ。カメラを使わず印画紙に直接、光を当ててつくるデッサンだ」ということになる。
 カメラなしの写真は、写真術の発見者のひとりであるタルボットが、一八三九年に自分 でつくった感光材料に花をおいて光を当てた作品をつくっている。一九二〇〜三〇年代には、マン・レイとモホリ・ナギーの実験(フォトグラム)が有名である。しかし光の当て方による変化が一通り実験されると限界が見えてきた。瑛九は、この全く新しい未踏の世界を追求しはじめ、一九三六年(昭和十一年)「瑛九」の名でフォトデッサン集「眠りの理由」を発表した。大胆で新鮮な映像は、豊かなイメージと柔軟なフォルムとあいまって、日本の前衛芸術の先駆となった。
 彼はフォトデッサンを印画紙と絵画的手法の結びついたものと考え、印画紙を新しい画用紙として見ていた。だから、最初の光自体で描くことから、自分で作った物体(紙や針金その他)を使う方法にかわってきている。それは印画紙の性質をふんだんに駆使し、何年何十年たっても今朝つくりあげられたという錯覚にとらわれる程の鮮かな魂のふるえ、喜び、驚き、華麗、夢幻の世界を見せてくれる。
 戦後のフォトデッサンは、一九四八年、宮崎市の丸島町住宅の小さな部屋から、更にすみきった暖い愛情にみちた全紙大のものとなってうまれた。「私は一晩で一冊(大きな印画紙の包み)を使う(消化し、創造する)から精神的、王者である」(カッコ内は筆者)と言われる時期である。彼が修得し、つくりあげていった写真の技術と知識には専門の写真家をはるかに出しぬいたものがあった。しかも使用した材料、道具が高価で特別なものではなかったことも忘れてはならぬだろう。暗室は起居に使用していた戦後のあの狭い市営住宅の部屋であり、材料は市販のもの、身近にあるものを自由に変化させ、自在につくったものばかりであった。それは、当時しょっちゅう訪ねていた一五、六歳の私たちを興奮させ、夢みるものと似た感じさえあった。 前日には机の上に転がっていたピン、ぜんまい、レース、切り紙などが翌日訪ねた時には一枚の白と黒の別の世界をつくっていた。それらはすでに物体ではなく、流れるようなリズム感、ぞくぞくするエロチシズム、 ユーモア、夢などになって息づいていた。カメラを使わずに写真ができあがるということだけでも驚き、一枚の印画紙にこんなに吸いこまれていく透明感があろうとは想像もしなかった。 「ぼくはフォトデッサンによって画家からはみだし、写真家からはみだした。というのはぼくは印画紙をつかってデッサンしたからだ。ぼくはただぼくの精神を表現したかっただけだ。ぼくは今までの概念にあてはまらないものを表現したい。根本は光をさえぎったり、光を強く当てたりするところをつくって、欲している画像を形成しようと精神を集中する絵画的な造形精神である」
 これは瑛九の言葉だが、技法と態度をよくあらわしている。人間としての自由さ、誠実さ、きびしさでもあった。
※於県立図書館75・5・26〜31
すずき すなお
*鈴木素直『瑛九・鈔』(1980年、鉱脈社)より転載。

鈴木素直
1930年5月25日台湾生まれ、1934年(昭和9年)父の故郷宮崎市に帰国、大淀川、一ツ瀬川下流域で育つ。戦後、新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、瑛九が埼玉県浦和に移った後も親交を続け、故郷宮崎にあって、瑛九の顕彰に尽力した。宮崎県内の盲学校、小中学校(主に障害児教育)に長く勤務し、日本野鳥の会会員としても活躍した。2018年4月5日死去。享年87。
瑛九については新聞や雑誌に寄稿され、1980年宮崎の鉱脈社から『瑛九・鈔』を刊行した。ご遺族のご了解を得て、毎月17日に『瑛九・鈔』から再録掲載します。
20180426151054_00001鈴木素直
『瑛九・鈔』
1980年
鉱脈社 発行
63ページ
9.2x13.1cm

目次:
・出会い
・瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
・一枚の写真の現実 二十回忌に思う
・フォトデッサン
・版画に無限の楽しみ
・二人の関係 瑛九・池田満寿夫版画展
・“必死なる冒険”をすすめた画家後藤章
・瑛九―現代美術の父
〜〜〜〜

瑛九展『現代美術の父 瑛九展』図録(小田急)
1979年 瑛九展開催委員会発行
132ページ 24.0×25.0cm
同図録・銅版入り特装版(限定150部)

〜〜〜〜
20180426151147_00001鈴木素直
『詩集 夏日・一九四八ー一九七四』
1979年
鉱脈社 発行
102ページ
22.0x15.5cm

目次:
・鏡より
 鏡
 ことば
・夏に向ってより
 夏に向って
 その時小さいあなたへ
 春一番
 野鳥 I
 野鳥 II
 入江 I
 入江 II
 小さいカゴの中で
 病院にて
 孟蘭盆
 夏草 I
 夏草 II
 大いなる儀式
 ムラから
 来歴
・女たちより
 秋
 雨
 夜
 川
 鳥
・夏日より
 春
 いつも同じ石
 海
・詩集「夏日」によせて 金丸桝一
・覚書

〜〜〜〜

20180426151133_00001鈴木素直
『馬喰者(ばくろう)の話』
1999年
本多企画 発行
114ページ
18.5x14.1cm

目次:
・馬喰者の時間
・馬喰者の話
・馬喰者の煙管(きせる)
・馬喰者問答
・馬喰者の夢
・馬喰者の謎
・馬喰者の庭
・ふくろう
・青葉木莵異聞
・雲雀と鶉
・時鳥がうたう
・夕焼けの中の黒いカラス
・残暑見舞い
・眠っている男
・手術室にて
・残照記
・切り株
・八月の庭
・知念さんの地図

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20180426151116_00001鈴木素直
『鳥は人の心で鳴くか みやざき・野鳥民族誌』
2005年
本多企画 発行
265ページ
18.3x13.2cm

目次(抄):
・宮崎の野鳥・俗名考―消える方言とユニークな命名
・ツバメあれこれ
・方言さんぽ
・鳥十話
・日向の鳥ばなし
・宮崎県の鳥類
・自然に関わる伝承と農耕習俗―野鳥にまつわる俗信・俚言を中心に
・野鳥にまつわる民俗文化
・県北を歩く
・県南を歩く
・野鳥の方言・寸感
・後記
〜〜〜〜

宮崎瑛九展9鈴木素直さん鈴木素直さん(左)
鈴木素直さんは新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、その後教師となります。瑛九と親交を続け、没後はその顕彰に大きな役割を果たし、詩人、日本野鳥の会会員としても幅広い活躍をなさってきました。

●今日のお勧め作品は、瑛九です。
qei17-027『眠りの理由』(10点組)より
from "Reason of Sleep"

フォトデッサン(フォトグラム)
26.7×21.1cm
1936年
Ed.40
※9点セット
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


◆鈴木素直のエッセイ「瑛九・鈔」(再録)は毎月17日の更新です。

坂上義太郎〜コレクションを核に 「関西ゆかりのデモクラートの作家たち」展に寄せて

コレクションを核に
「関西ゆかりのデモクラートの作家たち」展に寄せて

坂上義太郎
(BBプラザ美術館 顧問)

1_泉茂《逃げたスペード》泉茂《逃げたスペード》1955年 銅版 和歌山県立近代美術館蔵


3_山中嘉一《方形の詩A》山中嘉一《方形の詩(A)》1957年(1998年再制作)石版 BBプラザ美術館蔵


6_吉田利次《作品》吉田利次《作品》1951年 銅版 個人蔵


7_吉原英雄《たわむれ》吉原英雄《たわむれ》1956年 油彩 和歌山県立近代美術館蔵

 1950年代の日本は、虚脱と飢餓の混乱期を経て、朝鮮戦争動乱の特需景気から、国際社会への復帰という激動の時代だった。
 戦災を受けなかった京都、東京の中央画壇から隔絶していた関西で反骨の意気を示した「パンリアル美術協会」、「四耕会」、「デモクラート美術家協会」、「具体美術協会」などの活発旺盛な結社とその作家たちが、見る見る国内外から評価を得、脚光を浴びつつ、日本の戦後美術の動向に大きな影響を与えている。
 なかでも、「デモクラート美術家協会」は、瑛九を中心に森啓、泉茂、吉田利次ら若手作家10名により大阪で結成されたグループで、その第1回展は1951年6月に大阪市立美術館で開催している。既成画壇、取り分け公募展組織への批判と反抗から生まれたこのグループは、東京と大阪でそれぞれ展覧会を開き、後に靉嘔、河原温、池田満寿夫、山中嘉一、吉原英雄らが加わった。
 今回、当館のコレクションである泉茂、山中嘉一のデモクラート以降の版画作品を核に、デモクラート時代の泉茂、吉原英雄の作品を和歌山県立近代美術館から、吉田利次の作品を関係者からお借りし、会場構成を行った。
展示室  (1)
展示室  (2)
展示室  (3)
展示室  (4)
展示室  (5)
展示室  (6)
展示室  (7)
展示室  (8)
展示室  (9)
展示室  (10)
展示室  (11)
展示室  (12)

 さてデモクラートとは、デモクラシーとアートを加えた合成語だ。因みに、デモクラートはエスペラント語で、民主主義を意味する。このグループは、久保貞次郎との交流を契機に果敢な版画制作を行っていたことが大きな特徴ともいえるだろう。
 例えば、瑛九が泉茂へ宛た書簡からも、当時の版画制作の過程が窺える。「[前略]僕がことさらに技術について無知なのにかかわらず技術技術といふことを云ふのが馬鹿らしいからです。技術は表現したい精神の強さによって創造されたもので、今あなたがなやんでいるエッチングのやり方にしろ最初の人はすべて発見したものであることを忘れないで下さい。あなたはあまりにもオーソドックスなものになってしまった技術のケンイのまえにふるえて・・・・ゐますよ。すべて自分で発見し、カイタクするくらいの意気ごみが必要です。[後略]」(1953年11月20日付消印)
 また泉自身も、その頃の思い出について興味深い講演をしている。「[前略]僕はこの時分レジェとエルンスト、これは全然傾向が違うんですけども、その二人が非常に好きで、ピカソとかマチスとかいうのよりも僕自身の内部では何となくもっと見たいと、もっと知りたいというんですか、それから絵のもっている野放図なスケールの大きさみたいなようなもの。それからエルンストは一種の正統的なシュールレアリストとしてのまあ発想。そういうようなもんに非常にひかれておったわけです[後略]」。(1980年3月、講演会「私の美術遍歴」『美術講演会・講座記録集 第2集』1982年3月)
 1950年代の版画作品が、シュールレアリスム風の表現へ繋がっていることを裏付けている内容ではないだろうか。
 1970年以降は、三角、四角、円といった幾何学的図形や雲形定規のレディメイドの形態を構成し、絵画化している。知的で撓やかな版画や瑛九と共に銅版画制作に腐心していた時代の珍しい泉茂の銅版(原版)を初公開するのも本展の特徴だ。
 山中嘉一は、1998年に神戸アートビレッジセンターでシルクスクリーン制作について講演を行っている。「1968年、毎日現代日本美術展にキャンバスに刷ったシルクスクリーン作品を出品したが、『これは版画作品でなく、絵画である』といわれた」。当時は、版画は紙に刷るものだというのが通念だった。その通念を日本で塗り替えたのは、山中が初めてであろう。このように山中は、関西でいち早くシルクスクリーン制作を始め、長年にわたり多くの作品を発表。色彩の「平面性」を追求し続けた山中の水平・垂直のストイックな絵画空間は、独創的である。
 昨年、主のいない吉田利次のアトリエを訪れた。<壁>(1948年)、<網を繕う男>(1965年)、<収穫>(1981年)などの油彩作品の迫力に圧倒された。
 1960年前後の日本は、政治・経済の変動期でもあった。そんな時代に翻弄されながら、明日を信じて、人間と労働を表現することに心血を注いだ吉田の強固な絵画姿勢に深い感銘を受けた。デモクラートの中でも吉田の存在は、異色といって過言ではないだろう。
 私が吉原英雄と出会ったのは、木版画家前田藤四郎の通夜の席だった。吉原は、初対面の私へ、「ここは、私の栄養補給地だった」とポツリ。「アトリエ中央の床が、一筋にてかつているでしょう。獣道ですよ」と話す吉原の眼に涙が。私も貰い泣きしてしまった。その席で、吉原作品について尋ねると、「絵画という静止画像の中でドンデン返しが出来ないか、それが僕のやりたい絵画です」と語ってくれたのが、今も忘れられない。
 本展は、大阪から発足したデモクラートが東西の多彩なメンバーで、美術や文学などの在り方を探り、版画の普及にと、相互に切磋琢磨した軌跡を辿るものである。今私は、改めてデモクラート解散後のメンバー各自の活動こそが、真のデモクラートのスタートではなかったのではと考えている。
さかうえ よしたろう)

*画像提供=BBプラザ美術館

「関西ゆかりのデモクラートの作家たち〜泉茂、山中嘉一、吉田利次、吉原英雄」
会場:BBプラザ美術館
会期:2018年 7月3日(火)〜9月17日(月・祝)
前期:2018年 7月3日(火)〜8月5日(日)
後期:2018年8月7日(火)〜9月17日(月・祝)

開館時間 :午前10時 〜 午後6時(入館は午後5時30分まで)
休館日: 月曜日(祝日の場合は翌火曜日)
入館料:一般 400(320)円 大学生以下無料 65歳以上の方半額
※()内は20名以上の団体料金
※7/7(土)は開館記念日として入館無料

■主催:BBプラザ美術館・株式会社シマブンコーポレーション
■協力:大阪芸術大学短期大学部・和歌山県立近代美術館
〜〜〜〜
●今日のお勧め作品は、吉原英雄です。yoshihara_08_kagaminomae
《鏡の前》
1998年
銅版(雁皮刷り)
13.0x10.0cm
Ed.100
サインあり
※アートフル勝山の会エディション
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから

※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


『内間安瑆・内間俊子展』カタログ
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 図版:51点、略歴収録
テキスト:内間安樹(長男、美術専門弁護士/ニューヨーク州)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
編集:尾立麗子
編集協力:桑原規子
翻訳:味岡千晶、他
価格:税込800円 ※送料別途250円(メールにてお申し込みください)

表紙_表1_内間展_修正_0628_600表紙_表4_内間展_修正_0628_600

版画掌誌「ときの忘れもの」第04号もぜひご購読ください。

◆ときの忘れものは内間安瑆・内間俊子展を開催しています。
会期:2018年7月17日[火]―8月10日[金] ※日・月・祝日休廊
内間安瑆の油彩、版画作品と内間俊子のコラージュ、箱オブジェ作品など合わせて約20点をご覧いただきます。図録も刊行しました(800円、送料250円)。

水沢勉版の音律―内間安瑆の世界」(版画掌誌第4号所収)
永津禎三内間安瑆の絵画空間
内間安瑆インタビュー(1982年7月 NYにて)第1回第2回第3回
201807_uchima

鈴木素直「瑛九・鈔」第3回(再録)

鈴木素直「瑛九・鈔」

第3回 一枚の写真の現実 二十回忌に思う


 瑛九って二十年すぎたいま、私は彼のことばと彼を育てた風景と人とを思う。
 写真は一九三九年(昭和十四年)のもの。見覚えのある旧橘橋と下流の本町橋も見え、 大淀川の生きた姿がある。やがて、第二次世界大戦が始まり、国内では日支事変下、各種統制令が公布されている。こうした緊迫した不安な社会に逆らうがごとく、瑛九は中国と 日本の古典の世界に没入し、酔っては羽織はかまにステッキという姿でちまたに奇態を演 じていた。
 そこへ群馬県桐生の友人小野里利信が瑛九を訪ねて来て、若い二人はーツ葉浜や西都原 を歩き、宮崎高農(現宮大農学部)内や大淀川べりで写生した。写真の画家はその時の小野里である。彼は今や日本を代表する画家の一人として「オノザトトシノブ」の名とモザイク風な版画とで知られている。当時「生きていた川」だった大淀川が「死の川」となりつつある現状に似て、彼が描いたこの天神山らしき風景画はその行方がわからない。
画像00001昭和14年の大淀川風景 人物は小野里利信画伯
(井之口希秀氏撮影)
「このもようは同じように見えても実は一波ごとに違っていてバッハの音楽のようだ」 (同人誌「龍舌蘭」一九三九年十月号に発表した北尾淳一郎「ーツ葉浜」文中の瑛九のことば)と語ったーツ葉浜もすっかり変わった。この日向灘の潮さいもやがて自然のしっぺ返しの音響に変容して、大淀川の足もとをおびやかす事態を引き起こすことだろう。
 さきの北尾氏は、創立以来一九四〇年三月まで前述した宮崎高農で教べんをとった動物 学者である。その宮崎高農のユニークな伝統と貴重な緑陰も大学移転で消滅してしまうの だろうか。彼は瑛九の芸術の最初の理解者であり、前衛写真家でもあった。一九三七年東京で開いた「瑛九フォトデッサン・北尾淳一郎レアルフォト合同展」は、同年六月号の 「アトリエ」誌上に瑛九が発表した作品と論文「現実について」とともに日本芸術史上、記念すべきものだった。この論文は、いま読んでもかなり挑戦的にみえるが、わかりやすい含蓄のある内容のものである。その中で彼は、「最も時代的な精神は最もすぐれた知性をもつものと最も単純な生活とにあり」ミルクホールのおかみさんや散髪屋の親方の実話をあげながら、「単純な生活人は知性の実体を無意識な生き方の上で感得している」と述べている。そして「芸術家が単純な生活人の感得だけではすまされないのは、彼には表現しなければならぬ一事があるからだ」と言う。まことに簡明な言い方で、ことの本質を突いている。芸術理解の現実と自分の立場を言ったのであるが、四十二年後の今、現実を見る時、このことばは、芸術に限らず現実について考える時、生きているし、生かさねばならぬと思う。
 たとえば、さきの大淀川、ーツ葉浜、宮崎高農など、県民に親しまれ瑛九が愛したものの様相や変容を、私たちは最も時代的な精神でとらえているのだろうか。表現しなければ ならぬ芸術家は現実をどう描いているのだろうか。時の流れを傍観していていいはずがない。私は、この一枚の写真に、現実に対する瑛九のことばと同じように一つの警告をよみとるのである。
 昨年、東京での瑛九の回顧展につづいて、今秋県総合博物館での企画もあるときく。期待したい瑛九展である。
すずき すなお
*鈴木素直『瑛九・鈔』(1980年、鉱脈社)より転載。

鈴木素直
1930年5月25日台湾生まれ、1934年(昭和9年)父の故郷宮崎市に帰国、大淀川、一ツ瀬川下流域で育つ。戦後、新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、瑛九が埼玉県浦和に移った後も親交を続け、故郷宮崎にあって、瑛九の顕彰に尽力した。宮崎県内の盲学校、小中学校(主に障害児教育)に長く勤務し、日本野鳥の会会員としても活躍した。2018年4月5日死去。享年87。
瑛九については新聞や雑誌に寄稿され、1980年宮崎の鉱脈社から『瑛九・鈔』を刊行した。ご遺族のご了解を得て、毎月17日に『瑛九・鈔』から再録掲載します。
20180426151054_00001鈴木素直
『瑛九・鈔』
1980年
鉱脈社 発行
63ページ
9.2x13.1cm

目次:
・出会い
・瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
・一枚の写真の現実 二十回忌に思う
・フォトデッサン
・版画に無限の楽しみ
・二人の関係 瑛九・池田満寿夫版画展
・“必死なる冒険”をすすめた画家後藤章
・瑛九―現代美術の父
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瑛九展『現代美術の父 瑛九展』図録(小田急)
1979年 瑛九展開催委員会発行
132ページ 24.0×25.0cm
同図録・銅版入り特装版(限定150部)

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20180426151147_00001鈴木素直
『詩集 夏日・一九四八ー一九七四』
1979年
鉱脈社 発行
102ページ
22.0x15.5cm

目次:
・鏡より
 鏡
 ことば
・夏に向ってより
 夏に向って
 その時小さいあなたへ
 春一番
 野鳥 I
 野鳥 II
 入江 I
 入江 II
 小さいカゴの中で
 病院にて
 孟蘭盆
 夏草 I
 夏草 II
 大いなる儀式
 ムラから
 来歴
・女たちより
 秋
 雨
 夜
 川
 鳥
・夏日より
 春
 いつも同じ石
 海
・詩集「夏日」によせて 金丸桝一
・覚書

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20180426151133_00001鈴木素直
『馬喰者(ばくろう)の話』
1999年
本多企画 発行
114ページ
18.5x14.1cm

目次:
・馬喰者の時間
・馬喰者の話
・馬喰者の煙管(きせる)
・馬喰者問答
・馬喰者の夢
・馬喰者の謎
・馬喰者の庭
・ふくろう
・青葉木莵異聞
・雲雀と鶉
・時鳥がうたう
・夕焼けの中の黒いカラス
・残暑見舞い
・眠っている男
・手術室にて
・残照記
・切り株
・八月の庭
・知念さんの地図

〜〜〜〜

20180426151116_00001鈴木素直
『鳥は人の心で鳴くか みやざき・野鳥民族誌』
2005年
本多企画 発行
265ページ
18.3x13.2cm

目次(抄):
・宮崎の野鳥・俗名考―消える方言とユニークな命名
・ツバメあれこれ
・方言さんぽ
・鳥十話
・日向の鳥ばなし
・宮崎県の鳥類
・自然に関わる伝承と農耕習俗―野鳥にまつわる俗信・俚言を中心に
・野鳥にまつわる民俗文化
・県北を歩く
・県南を歩く
・野鳥の方言・寸感
・後記
〜〜〜〜

宮崎瑛九展9鈴木素直さん鈴木素直さん(左)
鈴木素直さんは新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、その後教師となります。瑛九と親交を続け、没後はその顕彰に大きな役割を果たし、詩人、日本野鳥の会会員としても幅広い活躍をなさってきました。

●今日のお勧め作品は、瑛九です。
ari
瑛九《蟻のあしあと》
1956
リトグラフ
Image size: 35.5x22.5cm
Sheet size: 54.0x39.0cm
Ed.22
印あり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


◆鈴木素直のエッセイ「瑛九・鈔」(再録)は毎月17日の更新です。

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
12

278点の寄贈〜埼玉県立近代美術館ニュース「ソカロ」より

駒込に移転して一年が経ちました。
銀座では師匠・関根伸夫先生の個展があり、駒込では移転一周年謝恩企画「70-80年代を彩ったポスター繚乱」を開催しました。
亭主:「展覧会の企画ってのは何年やってもわからないね」
社長:「それがわかれば、苦労はしないわよ」

ときの忘れもの「70-80年代を彩ったポスター繚乱」
青山にあったときの忘れものが駒込に移転して早1年。それを記念してのポスター展は、画廊の企画展としても300回目という大変おめでたいものになりました。本日が最終日となりますが、かなりのお宝を破格のお値段で手に入れることができます🙂 Run!
(20180630/岡田昌浩さんのtwitterより)


70-80年代を彩ったポスター繚乱@ときの忘れもの アングラ系のポスター良かった。この頃はJUNが広告出してるのよね…他にも現代美術系のポスターも懐かしいものあり。
(20180630/かずちゃんのtwitterより)
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201806/関根伸夫2018年6月20日
41年前のポスターにサインを入れる関根伸夫先生
出品No.12)関根伸夫
「高橋悠治ピアノコンサート」(大島ホール/現代版画センター浜松支部)
1977年 シルクスクリーン(石田了一刷り)
72.5×51.3 mm 謝恩価格:8,000円(安い!


岡田さん、かずちゃんのtwitterなどでお褒めいただきましたが、肩の力を抜いて(銀座の関根展に注力するため)半ば在庫処分のつもりで開催したポスター展が来場者、売り上げ点数ともに記録的なヒットとなりました。
勤続13年のベテラン、大番頭の尾立もこんな盛況は記憶にないとか。
スタッフたちは連日朝から来廊されるお客様の対応に忙殺されました。
157点のポスターは集めたものではありません、主として現代版画センター時代に集まってしまったものが30〜40年間眠り続けていたのを少しおこして皆さんにお披露目しただけです。
企画した亭主はもちろん誰一人ヒットするなんて思いもしませんでした。
おかげさまでお客様の年齢層が一挙に若返った感じです。
お買い上げいただいた皆様へのお届けがそんなわけで少々時間がかかります。どうぞご理解ください。

20180630_zocalo06-07埼玉県立近代美術館で2018年1月16日〜3月25日の会期で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が開催されました(出品リスト参照)。
出品展示された280点のうち、278点をときの忘れものから埼玉県立近代美術館に寄贈いたしました。
同館ニュース「ソカロ」2018年6月-7月号に、瑛九と現代版画センターエディションに関する情報が掲載されましたので、ご紹介します。

20180529140333_00001
*瑛九の名作「手」は福井県勝山のNさんの旧蔵作品で、1981年3月のギャラリー方寸開廊記念展「瑛九 その夢の方へ」に出品されたものです。昨年埼玉県立近代美術館の所蔵となりました。

20180529140333_00002
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*文中にあるとおり、現代版画センターがエディションした作品など278点の寄贈手続きが完了しました。寄贈者は一応、有限会社ワタヌキ/ときの忘れもの・綿貫令子ですが、真の寄贈者は当時の版画センターを支えてくれた会員、支部の皆さんです。
1974〜1985年をともに疾走してくださった作家、刷り師、会員、支部の皆様にあらためて御礼を申し上げます。ありがとうございました。


●今日のお勧め作品は、瑛九です。
20170513_qei_157瑛九《作品》
1936年頃 吹き付け
27.4×23.0cm
スタンプサインあり
こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください
ときの忘れものの通常業務は平日の火曜〜土曜日です。日曜、月曜、祝日はお問い合わせには返信できませんので、予めご了承ください。

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
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JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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鈴木素直「瑛九・鈔」第2回(再録)

鈴木素直「瑛九・鈔」

第2回 瑛九への旅 東京・瑛九展を見て


 ここに一枚の写真がある。一九五四年の六月十九日、私は、浦和へ帰る瑛九さんを宮崎駅で見送った。その十日前、彼は「旅行がしたいのです。そして宮崎の友人たちに会ってよもやま話をしたいと思っています」と浦和からやって来ていた。そしてその翌々日「僕は昨晩、とても静かな町の自宅へ帰りつきました。今度の旅行で心機一転した心地です……」と兄の正臣氏へ手紙を送っている。
 それからちょうど二十五年たったこの六月八日、私は瑛九への旅へ出た。
 「現代美術の父」――東京・新宿の小田急百貨店のグランドギャラリーには、そう掲げてあった。東京で彼の芸術の全容が紹介されるのは初めてだし、文化庁後援というのも個人展としては珍しいことで、作品の選択と支持者の圧倒的な努力にふさわしいタイトルであった。
 宮崎市から浦和市へ転居した一九五一年、彼は「デモクラート美術協会」を創立した。そこで強く影響を受けて育った靉嘔池田満寿夫、早川良雄、細江英公や友人のオノザトトシノブらと瑛九の会が企画し、全国から油彩、フォトデッサン、エッチング、石版百七十八点が集められていた。
19790608_2

 会場へ入ると、精魂を刻み込んだ、あの晩年の点描による抽象画の激しさが、実におだやかに、だが思いもしなかった別の語りかけで私を迎えてくれた。見なれたつもりの田園B(県立図書館蔵)やつばさ(県総合博物館蔵)の大作すら、まだだれも踏み込まなかった新しい世界のように輝く。もっと目をみはったのは、さきほどと同じ一九五四年八月、東京での初めての油絵展で見た作品だった。芽、駄々っ子、フェニックスなどにあふれるユーモラスな明るさと造形力! 二十五年前、私には全くなじめない作品で、そのいやらしさに圧倒され、暑い日差しの街へ押しだされたみじめな思いをよく覚えている。だが私だけではなかったらしい。今回の開催代表者である木水育男氏が「みんな身に覚えがあるよ」と当時の個展評を読んでくれた。「どのタブロオも緊密さを欠き、質量にとぼしく、ただけばけばしいのはどうしたわけか……」(美術批評十月号・東野芳明)と。
 「ぼくの絵は現代を肯定している人ならだれでもわかる絵である。ぼくは平凡な作家だ」「ぼくは平凡な毎日が精神の上で大きなボウケンとスリルの世界です」(木水氏への手紙)と言った彼の誠実さと先駆者的活動が今わかる。
 東京に比べるなら「とても静かな町の自宅へ帰りついた」私に、東京の友人たちから電話があった。「瑛九展みたよ。宮崎の光が輝いていた。本当の緑の影があった。あれを乗り越えなければ、私たちが!」その若やいだ響きが、一九五〇年二月、戦後初めての瑛九作品展を思い起こさせた。当時新制高校になったばかりの大宮、大淀両校でエスペラントを教えていた瑛九夫妻を。リヤカーで彼の百三点の作品を会場の教育会館へ運び並べた若者たちを。
 貫き通した前衛精神と多彩な独創的作品が、今なお見る者をゆさぶりつづけている。この旅は老いへ向かっての旅ではなかったと思う。
すずき すなお
*鈴木素直『瑛九・鈔』(1980年、鉱脈社)より転載。

鈴木素直
1930年5月25日台湾生まれ、1934年(昭和9年)父の故郷宮崎市に帰国、大淀川、一ツ瀬川下流域で育つ。戦後、新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、瑛九が埼玉県浦和に移った後も親交を続け、故郷宮崎にあって、瑛九の顕彰に尽力した。宮崎県内の盲学校、小中学校(主に障害児教育)に長く勤務し、日本野鳥の会会員としても活躍した。2018年4月5日死去。享年87。
瑛九については新聞や雑誌に寄稿され、1980年宮崎の鉱脈社から『瑛九・鈔』を刊行した。ご遺族のご了解を得て、毎月17日に『瑛九・鈔』から再録掲載します。
20180426151054_00001鈴木素直
『瑛九・鈔』
1980年
鉱脈社 発行
63ページ
9.2x13.1cm

目次:
・出会い
・瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
・一枚の写真の現実 二十回忌に思う
・フォトデッサン
・版画に無限の楽しみ
・二人の関係 瑛九・池田満寿夫版画展
・“必死なる冒険”をすすめた画家後藤章
・瑛九―現代美術の父
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瑛九展『現代美術の父 瑛九展』図録(小田急)
1979年 瑛九展開催委員会発行
132ページ 24.0×25.0cm
同図録・銅版入り特装版(限定150部)

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20180426151147_00001鈴木素直
『詩集 夏日・一九四八ー一九七四』
1979年
鉱脈社 発行
102ページ
22.0x15.5cm

目次:
・鏡より
 鏡
 ことば
・夏に向ってより
 夏に向って
 その時小さいあなたへ
 春一番
 野鳥 I
 野鳥 II
 入江 I
 入江 II
 小さいカゴの中で
 病院にて
 孟蘭盆
 夏草 I
 夏草 II
 大いなる儀式
 ムラから
 来歴
・女たちより
 秋
 雨
 夜
 川
 鳥
・夏日より
 春
 いつも同じ石
 海
・詩集「夏日」によせて 金丸桝一
・覚書

〜〜〜〜

20180426151133_00001鈴木素直
『馬喰者(ばくろう)の話』
1999年
本多企画 発行
114ページ
18.5x14.1cm

目次:
・馬喰者の時間
・馬喰者の話
・馬喰者の煙管(きせる)
・馬喰者問答
・馬喰者の夢
・馬喰者の謎
・馬喰者の庭
・ふくろう
・青葉木莵異聞
・雲雀と鶉
・時鳥がうたう
・夕焼けの中の黒いカラス
・残暑見舞い
・眠っている男
・手術室にて
・残照記
・切り株
・八月の庭
・知念さんの地図

〜〜〜〜

20180426151116_00001鈴木素直
『鳥は人の心で鳴くか みやざき・野鳥民族誌』
2005年
本多企画 発行
265ページ
18.3x13.2cm

目次(抄):
・宮崎の野鳥・俗名考―消える方言とユニークな命名
・ツバメあれこれ
・方言さんぽ
・鳥十話
・日向の鳥ばなし
・宮崎県の鳥類
・自然に関わる伝承と農耕習俗―野鳥にまつわる俗信・俚言を中心に
・野鳥にまつわる民俗文化
・県北を歩く
・県南を歩く
・野鳥の方言・寸感
・後記
〜〜〜〜

宮崎瑛九展9鈴木素直さん鈴木素直さん(左)
鈴木素直さんは新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、その後教師となります。瑛九と親交を続け、没後はその顕彰に大きな役割を果たし、詩人、日本野鳥の会会員としても幅広い活躍をなさってきました。

●今日のお勧め作品は、瑛九です。
瑛九「作品-B」
瑛九「作品ーB(アート作品・青)」
1935年 油彩(ボード)
29.0×24.0cm(F3号)
※山田光春『私家版・瑛九油絵作品写真集』(1977年刊)No.19、

瑛九「逓信博物館A」
瑛九「逓信博物館 A
1941年 油彩
46.0×61.1cm
*「瑛九作品集」(日本経済新聞社)42頁所載

こちらの作品の見積り請求、在庫確認はこちらから
※お問合せには、必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記してください


◆鈴木素直のエッセイ「瑛九・鈔」(再録)は毎月17日の更新です。

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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鈴木素直「瑛九・鈔」第1回(再録)

鈴木素直「瑛九・鈔」

第1回 出会い


 思い出は時間が交錯した忘却の中に点々としか残らず、出会いだけが鮮鮮烈に浮かび出てくる。
 あれはちょうど昭和二十三年、太宰治の自殺直後の夏休み前であった。戦後まもない時で、活字に飢えていた私は発足したばかりの新制高校の二年生。ポケットにわずかの金をにぎって友人の湯浅英夫君(スタジオ・ユアサの先代)と古本屋によく通った。その日もそうだった。彼と街を歩いていると「英ちゃん」と呼びかけられた。彼は片手をあげながら若婦人に一礼した。「いっぱい本があるから遊びにおいで」と言われ、あとについて行った家が杉田眼科医院(瑛九の実家)である。
 玄関の上の新婚の二階部屋は、窓が白ペンキで塗られ、庭の緑の葉が夏の光にまぶしかった。部屋はたくさんの本と風変わりな油絵とわずかな調度品で構築された城――すべてが豊かな光の中で歌い踊っている童話の国に思えた。おもちゃののぞき眼鏡の奥深くまだ知らない世界がありそうな気がした、そんな子供時代を思い出したからである。そして白い窓のある二階の部屋はびっくり箱のように新鮮であった。まもなく丸子町の住宅に移られたがよくたずねていった。いつ制作されるのかわからぬほどの作品がつぎつぎに生まれていた。フォトデッサンを作られるころ「一晩で一冊(当時は貴重な一包みの大きな印画紙)使うから私は精神的な王者だ」(カッコ内は筆者)と言われたことがある。
 エスペラント講習会を大宮高校でやってもらったが、講師としても卓越した才能と深い友情の持ち主であることに若い講習生は魅せられた。あの度の強いめがねの奥にひそむきびしさと暖かさは奥さんの優しさとともに、私たちの人生に強い影響と励ましを与えた。
 狭いバラック住宅の中から魔法のように生まれ出るフォトデッサンを見てから、ぼくはずっと子供の夢を見続けている。教師という仕事が続けられたのはそのせいかもしれない。
 ともあれ、当時、高校生であったぼくが、三十二年後の今なお忘れられないのは、あのびっくり箱みたいな部屋や家の光景が、初夏の日差しに重なってくるからである。
すずき すなお
*鈴木素直『瑛九・鈔』(1980年、鉱脈社)より転載。

*画廊亭主敬白
先日の中村茉貴さんの連載エッセイ「美術館に瑛九を観に行く・第23回」の末尾に書かれている通り、宮崎の鈴木素直さんが4月5日に亡くなられました。
鈴木さんは1930年台湾で生まれ、34年(昭和9年)父の故郷宮崎市に帰国、大淀川、一ツ瀬川下流域で育ちました。
戦後、新制の大宮高校時代に瑛九からエスペラント語を習い、瑛九が埼玉県浦和に移った後も親交を続け、故郷宮崎にあって、瑛九の顕彰に生涯を捧げられました。今月5月25日には満88歳、米寿をお迎えになる直前の逝去でした。
宮崎県内の盲学校、小中学校(主に障害児教育)に長く勤務し、日本野鳥の会会員としても活躍されました。
瑛九については新聞や雑誌に寄稿され、また1980年には宮崎の鉱脈社から『瑛九・鈔』という小さな本も出版されています。あまり知られていない本(版元にもない)ですので、ご遺族のご了解を得て、これから毎月17日に『瑛九・鈔』から再録掲載いたします。

20180426151054_00001鈴木素直
『瑛九・鈔』
1980年
鉱脈社 発行
63ページ
9.2x13.1cm

目次:
・出会い
・瑛九への旅 東京・瑛九展を見て
・一枚の写真の現実 二十回忌に思う
・フォトデッサン
・版画に無限の楽しみ
・二人の関係 瑛九・池田満寿夫版画展
・“必死なる冒険”をすすめた画家後藤章
・瑛九―現代美術の父
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宮崎瑛九展9鈴木素直さん
2011年(平成23年)7月
鈴木素直さん(左)と綿貫不二夫
宮崎県立美術館「生誕100年記念 瑛九展」にて


鈴木素直さんは教師、詩人、日本野鳥の会会員としても幅広い活躍をなさってきました。
いくつかご著書を紹介します。
20180426151147_00001鈴木素直
『詩集 夏日・一九四八ー一九七四』
1979年
鉱脈社 発行
102ページ
22.0x15.5cm

目次:
・鏡より
 鏡
 ことば
・夏に向ってより
 夏に向って
 その時小さいあなたへ
 春一番
 野鳥 I
 野鳥 II
 入江 I
 入江 II
 小さいカゴの中で
 病院にて
 孟蘭盆
 夏草 I
 夏草 II
 大いなる儀式
 ムラから
 来歴
・女たちより
 秋
 雨
 夜
 川
 鳥
・夏日より
 春
 いつも同じ石
 海
・詩集「夏日」によせて 金丸桝一
・覚書
〜〜〜〜

20180426151133_00001鈴木素直
『馬喰者(ばくろう)の話』
1999年
本多企画 発行
114ページ
18.5x14.1cm

目次:
・馬喰者の時間
・馬喰者の話
・馬喰者の煙管(きせる)
・馬喰者問答
・馬喰者の夢
・馬喰者の謎
・馬喰者の庭
・ふくろう
・青葉木莵異聞
・雲雀と鶉
・時鳥がうたう
・夕焼けの中の黒いカラス
・残暑見舞い
・眠っている男
・手術室にて
・残照記
・切り株
・八月の庭
・知念さんの地図
〜〜〜〜

20180426151116_00001鈴木素直
『鳥は人の心で鳴くか みやざき・野鳥民族誌』
2005年
本多企画 発行
265ページ
18.3x13.2cm

目次(抄):
・宮崎の野鳥・俗名考―消える方言とユニークな命名
・ツバメあれこれ
・方言さんぽ
・鳥十話
・日向の鳥ばなし
・宮崎県の鳥類
・自然に関わる伝承と農耕習俗―野鳥にまつわる俗信・俚言を中心に
・野鳥にまつわる民俗文化
・県北を歩く
・県南を歩く
・野鳥の方言・寸感
・後記
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●今日のお勧め作品は瑛九です。
瑛九「逓信博物館A」
瑛九「逓信博物館 A
1941年 油彩
46.0×61.1cm
*「瑛九作品集」(日本経済新聞社)42頁所載
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◆ときの忘れものは没後70年 松本竣介展を開催しています。
会期:2018年5月8日[火]―6月2日[土]
11:00-19:00  ※日・月・祝日休廊

ときの忘れものは生誕100年だった2012年に初めて「松本竣介展」を前期・後期にわけて開催しました。あれから6年、このたびは素描16点による「没後70年 松本竣介展」を開催します。
201804MATSUMOTO_DM

「没後70年 松本竣介展」出品作品を順次ご紹介します
04出品No.17)
松本竣介
《作品》

紙にインク、墨
Image size: 30.5x22.3cm
Sheet size: 32.7x24.0cm
※『松本竣介展』(2012年、ときの忘れもの)p.6所収 No.4

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●本展の図録を刊行しました
MATSUMOTO_catalogue『没後70年 松本竣介展』
2018年
ときの忘れもの 刊行
B5判 24ページ 
テキスト:大谷省吾(東京国立近代美術館美術課長)
作品図版:16点
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
税込800円 ※送料別途250円


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
阿部勤設計の新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第23回

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第23回

埼玉県立近代美術館「モダンアート再訪 ダリ、ウォーホルから草間彌生まで 福岡市美術館コレクション展」

今回の訪問先は、福岡市美術館のコレクションが展示されている埼玉県立近代美術館。記憶に新しい現代版画センターの「版画の景色」展の熱がまだ冷めやらぬ会場に、再び熱を帯びた作品が並べられていた。16,000点余りの福岡市美術館のコレクションの中でも、1930年代から2000年代初頭に制作された70点の作品が選出された。展示構成は、「第1章 夢の中からだ」「第2章 不章 不穏な身体」「第3章 身体と物質―九州派・具体・アンフォルメル」「第4章 転用されるイメージ―ポップ・アートとその周辺」「第5章 イメージの消失―抽象と事物」「第6章 再来するイメージ」の6本立てであり、昭和戦前期から戦後のアートの流れを俯瞰してみることができる。出品された作品は、シュルレアリスム、ルポルタージュ絵画、具体、九州派、アンフォルメル、抽象表現主義、ミニマル・アート、ハプニング、ネオ・ダダ、ポップ・アート、グラフィティ・アート、ニュー・ペインティングなどで名を馳せた作家でかためられ、教科書が作れるくらいに充実していることがわかる。その中には、作家の代表作のひとつに数えることが出来る作品も含まれ、誰もが一目みて、目を輝かせてしまうような作品に出会える。

今回、取材にご協力いただいた埼玉県立近代美術館の学芸員吉岡知子氏によると、福岡市美術館は、2016年から2019年のあいだ大幅なリニューアルで改修工事を実施するために休館中で、その間、コレクションの一部を日本各地で公開することになったようである。

埼玉県立近代美術館01埼玉県立近代美術館がある北浦和公園入口。平日にもかかわらず、園内には、新緑を浴びる人たちが集まっていた。


埼玉県立近代美術館02会場に入ると、フジタ、シャガール、ミロ、デルヴォ―、ダリの作品が見える。向かって左側にある三岸好太郎《海と斜光》では、画面に収まりきっていない女性像(断片)が表現されている。瑛九は、三岸好太郎の亡き後、アトリエに訪問したことがあり、好太郎のデッサン約二十枚を自作のデッサンと交換している。宿を転々としていたころに部屋に貼りだして眺めていたようだが、久保貞次郎に2点預けた他は、散逸したようである。恐らく、一部の作品は、生活に困ってお金に換えたのではないかと想像する。(『瑛九―評伝と作品』)


埼玉県立近代美術館03河原温《孕んだ女(下図)》は、「浴室」シリーズのエスキースである。瑛九の妻都によると、河原温は瑛九に議論で勝つことが出来ず、部屋の片隅で泣いていた頃、この「浴室」シリーズが出来たという。(『版画芸術』No.112)


埼玉県立近代美術館04九州派のコーナー。菊畑の著書によると九州派のメンバーは、コールタールを煮やして、黒々としたそれを画面に塗布している。(『反芸術綺談』)
盛り上がった黒光りする物体をみると、まるで狂言「附子」の猛毒を想起させるような、はたまた「千と千尋の神隠し」に登場するカオナシのような不気味さがある。写真図版では見られない作品のマチエールを会場でぜひ確認して欲しい。


埼玉県立近代美術館05菊畑茂久馬《葬送曲No.2》部分。赤い顔をした幼児のイメージが反復して画面を覆い尽くす。


埼玉県立近代美術館06九州派の作品は、時代と共に行方不明になっていたが、黒ダライ児による調査がはじまり(『肉体のアナーキズム』)、その後、福岡市美術館で1988年から定期的に九州派の展覧会が企画され、2015年に行われた九州派展では、300頁を超す研究成果が『九州派大全』というかたちとなった。

埼玉県立近代美術館07マーク・トビー《収穫》、アントニ・タピエス《絵画No.XX察


埼玉県立近代美術館08具体美術協会の吉原治良田中敦子白髪一雄の作品が並ぶコーナー。

埼玉県立近代美術館09風倉匠《ピアノ狂詩曲6-97.P3》、パフォーマンスで使用された鞭と記録映像があるコーナー。映像では、鞭で打たれたグランドピアノがゴーン、ボーン、ビロンと唸っていた。高価なモノを痛めつけている異様な光景に、鑑賞者は釘付けとなって、しばらくその場を離れることが出来なくなっていた。


埼玉県立近代美術館10菊畑茂久馬《ルーレットNo.1》。菊畑は、南画廊で制作費の援助を受け、アトリエについては1963年に田中繁一、1964年に浅川邦夫から借りて「ルーレット」シリーズを制作している。九州派は破天荒な活動を次々に展開し、周囲からは「何を見せてくれるのか」という好奇な目で見られていたに違いない。


ところで、福岡市美術館のコレクション形成はどのように行われてきたのか。本展の図録には、以下のような記述が見受けられた。

(1)近代の西日本出身者や関係の深い作家の絵画・彫刻・工芸作品を系統的に収集し、合わせて各種の関係美術資料を収集する。
(2)近代美術の流れを展望できる内外のすぐれた作品を系統的に収集する。
(3)西日本に関係の深い近世以前の作品を収集する。

以上、このような方針でコレクションが形成されていることから、九州(宮崎県)の出身者である瑛九の作品は、(1)西日本出身者として収蔵の対象とされている。

埼玉県立近代美術館11瑛九《丸2》1958年、油彩・画布
本作は「第5章 イメージの消失―抽象と事物」の中で紹介されている。具象的な表現が見られた油絵から一転して、点描法に至る少し前の作品である。膨張色(進出色)である暖色系と収縮色(後退色)である寒色系を画面上で効果的にちりばめている。


埼玉県立近代美術館12《丸2》のサイン部分。左下に「Q Ei 1958」とある。近付いてみると、キャンバス地が見えるほど薄塗であることがわかる。瑛九は、複雑に混色をし、実験的に絵筆を置いているが、画面は濁らず、むしろ透明感が備わっている。瑛九は一部の美術評論家から「色彩家」と称されるほど、色遣いに長けた人物であった。


ところで、瑛九(杉田秀夫)の上京時と九州派の菊畑茂久馬の上京時の様子が時代は隔たるが若干重なるところがあった。両者とも、とっておきの新作(爆弾)を抱えて、東京に向かったことを紹介しておきたい。
瑛九は、1936年1月、古賀春江の作品に触発されてから、フミタ写真館で大量のフォトグラムを数週間で作り上げる。2月7日には、約百点のフォト・デッサンと、描きためていたペンデッサンをスーツケースにつめて、門司行の夜行列車に乗ったという。
一方の菊畑茂久馬は、1961年4月12日から国立近代美術館で行われる「現代美術の実験展」に《奴隷系図》を出品するために上京している。福岡中の銀行を回ってかき集めた十万円分の五円玉を丸太に貼り付け、五万円くらいになった袋を担いで夜行列車に乗ったという。
九州男児ならではの気質なのだろうか。両者とも次々と新しい表現に取り組み、周りを驚かせていた。

埼玉県立近代美術館13アンディ・ウォーホル《エルヴィス》、草間彌生《夏(1)》《夏(2)》


埼玉県立近代美術館14タイガー立石《大停電’66》、柳幸典《二つの中国》。蟻が巣を作る能力を利用して作られた、ユニークでメッセージ性の強い柳の作品。


埼玉県立近代美術館15ルイ・カーヌ、クロード・ヴィアラ、ジグマール・ポルケの作品があるコーナー。吉岡学芸員は、とにかく作品の大きさに驚いたという。2mを超す作品はざらにあり、中には3mを超える作品も展示されている。

埼玉県立近代美術館16マーク・ロスコ、桑山忠明、フランク・ステラの作品。国内外の作品が同じ空間に並べられているが、それほど違和感がない。


埼玉県立近代美術館17辰野登恵子、大竹伸朗の作品。両者とも海外のアートシーンを彩る巨匠たちに見劣りすることなく、展示室で異彩を放っていた。


埼玉県立近代美術館18リサ・ミルロイ、バスキア、やなぎみわ、金村修の作品が展示されているコーナー。


本展を通してみると、1979年に美術館が開館して以来、継続的に収集されていることが分かる。市立ではあるが、西日本および国内外の重要な作品を体系的に収集するための作品購入資金が継続的に確保されているようである。どこの美術館博物館でも作品購入資金は、無いものと頭にあったために非常に驚いた。また、コレクションの形成に挙げられている収集の三本柱に(1)のように、地元(西日本含む)の作品を積極的に収集していること、またそれと併せて「各種の関係美術資料」も収集の対象となっていることにも注目したい。先にも挙げたように、近年行われた九州派の展覧会図録『九州派大全』では、作品ばかりでなく、資料編の方もたいへん充実している。例えば、機関誌、案内状、ビラ、音声の記録のほか、美術評論などが収録されている。

なお、もうひとつ目を見張ったのは、アメリカ絵画の主要作家が網羅されていることである。1982年に開館した埼玉県立近代美術館では、印象派、エコール・ド・パリのコレクションが厚みをもってコレクションされているが、福岡市美術館では、1979年に開館したにもかかわらず、戦後のアメリカ絵画を早い段階から収蔵していることが分かる。吉岡学芸員は、一歩も二歩も歩みを進めている福岡市美術館について「先見の明がある」と評していた。

本展企画者のひとり尾崎信一郎(鳥取県立博物館副館長兼美術振興課長)の論考を見ると、第二次世界大戦の前後で強調されはじめた「身体」の表現に着目し、次のように語っている「表象される対象から表象する主体へ、作家たちの関心は表現された内容、描かれた身体ではなく、表現の形式、すなわち描く身体へとむけられているのだ。作家の行為が強調される時、行為を受肉する絵画の物質性への関心も深められた。」(本展図録「モダンアート再訪」)

確かに本展の作品を鑑賞していると、「身体」の存在や表現された行為の跡(物質性)が視界に入り、視覚からその作品のマチエールが皮膚感覚として受取ることになる。例えば、三岸好太郎の全身が見えない女性像、河原温のバラバラになった身体表現、白髪一雄の足で描かれた絵画、瑛九の油絵では大小さまざまな色彩の異なる「丸」のイメージを変容させることで現れてくるイリュージョンなど。よりリアルな表現形式を追い求めていくことで、作家個人(集団)による感覚は研ぎ澄まされていき、「小さな物語り」が紡ぎ出されるほどの個性的な表現となる。

福岡市美術館は、短いスパンで変化するモダンアートの動向を見逃さずに作品を収集することが出来ている。コレクションの豊かさを考えた時に、やはり政令指定都市になった時期が関係しているのではないかと思う。福岡市は1972年4月1日に政令指定都市に制定されており、これは全国で札幌や川崎と並ぶ7番目という速さである。1956年9月1日の1番手に並ぶ横浜、名古屋、京都、大阪をみると認めざるを得ないだろう。どこも大コレクションを持つ美術館を保有する都市である。美術のコレクション数と人の豊かさが比例するとは言い切れないが、大コレクションの公開は、多くの人の目を愉しませることのできるパワーを持っているということを、改めて認識させられた展覧会であった。

***

ちょっと寄道…


今回の展示では、福岡市美術館所蔵の大コレクションの中で瑛九の作品は1点のみの出品であった。しかし、『福岡市美術館所蔵品目録 日本作家・海外作家』(1979年)を開くと、瑛九の作品、特にフォト・デッサンを多数所蔵されていることがわかる。

油彩1点
水彩14点
インク7点
コンテ1点
エッチング(後刷り含む)73点
フォト・デッサン45点
リトグラフ15点 
全156点

埼玉県立近代美術館19こちらは、福岡市美術館で1982年2月2日 〜2月28日に行われた「フォトグラム展」の図録。瑛九、マン・レイ、モホリ=ナギ、山口正城の作品が一堂に会した。瑛九の作品は、《コンストラクション》《プレリュード》《自転車》を含むフォト・デッサン18点が展示された。
なお、それ以前の1978年9月12日〜9月21日には、福岡市アートギャラリーを会場にした「瑛九フォト・デッサン展」が福岡市美術館協会により行われた。1979年に美術館が開館する一年前に展覧会を開いて実績を重ねていたのである。




福岡市美術館のコレクションを取材するに当たり、九州に思いを馳せていた頃であった。4月5日に鈴木素直氏がお亡くなりになった。故人は高校生の時に瑛九からエスペラント語を学び、後には「宮崎瑛九の会」事務局長として瑛九の顕彰に生涯をささげた方である。盲・小・中学校教師・詩人・日本野鳥の会宮崎県支部長などを歴任していた。

埼玉県立近代美術館202011年宮崎県訪問時に案内していただいた一ツ葉の海岸付近。瑛九の自宅から一番近い海であり、初期の海辺の絵はここからの眺めだと教えていただいた。真夏の海辺に足を踏み入れると、靴の底がみるみる熱くなるのを感じた。フライパンのように熱い砂地に目を落として、その先に雑草が根をはっていることを不思議に思っていると、帽子をかぶっていなかった私に「コウモリはあるか」と心配して声を掛けていただいた。私はカバンに入れていた携帯用の日傘を慌てて開いて、するすると先を歩く鈴木氏の後を追ったのを鮮明に覚えている。瑛九が生活していた頃には無かったという漁港の加工場に伺うと、地元の方から冷えたジュースをごちそうになった。


埼玉県立近代美術館21瑛九が眠る杉田家の墓を訪れたときの写真。埃をはらって、花を供えて、一緒に手を合わせた。病気をする前のまだまだ若々しい姿の鈴木素直氏である。


埼玉県立近代美術館222018年1月に宮崎へ訪問した時に案内していただいた宮崎小学校。瑛九と鈴木氏の母校である。この時は、「遺影にするから写真を撮って欲しい。姉に送りたいから」と歯を見せて笑っていた。


鈴木素直氏には、2度も瑛九ゆかりの地を案内していただいた。瑛九が県外から来た人に案内していたという大淀川の河川敷の場所。遠くに見える霧島連峰の方角。瑛九が大の字になって寝転がっていたという交差点など、鈴木氏は間近で見ていた瑛九の姿を矢継ぎ早に思い出しては語って聞かせてくれた。

宮崎で鈴木氏と食事をご一緒していた時、多くの人に話しかけられている様子を目の当たりにした。人望が厚く、気さくで親しみやすいことが滲み出ているような人であった。
誠に残念ですが、ご冥福をお祈りいたします。
なかむら まき

●展覧会のご紹介
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「モダンアート再訪 福岡市美術館コレクション展」
会期:2018年4月7日[土]〜5月20日[日]
会場:埼玉県立近代美術館
時間:10:00〜17:30(入場は17:00まで)
休館:月曜(但し4月30日は開館)

20世紀美術は様々な美術運動の消長の歴史ととらえることができます。印象派に始まり、エコール・ド・パリ、シュルレアリスムから一連の抽象画にいたる流れは主にヨーロッパで育まれ、広い意味でモダンアートと呼ばれています。
そして第二次大戦後、モダンアートの舞台はヨーロッパからアメリカに移り、巨大な抽象絵画やポップアートといった新たな成果を生み出しました。日本でもこれらの動向に呼応する作品が制作される一方、明らかにそこから逸脱する作品も生み出されました。明治以降、日本において欧米の美術がいかに受容され、いかなる変容を遂げたかという問題は日本の近代美術史を論じるにあたって興味深い主題です。
1979年に開館した福岡市美術館は近現代美術と古美術を二つの柱とする16,000点に及ぶコレクションによって知られています。2019年のリニューアルオープンに向けて、美術館が大規模な改修工事に入ったことを得難い機会として、この展覧会では福岡市美術館が所蔵する近現代美術のコレクションによって、モダンアートの歴史をあらためてたどりたいと考えます。
ダリやウォーホルから草間彌生まで、ヨーロッパとアメリカ、そして日本のモダンアートを代表する優品70点あまりの魅力をお楽しみ下さい。
埼玉県立近代美術館HPより転載)

出品作家:赤瀬川原平/アルマン/アンディ・ウォーホル/アントニ・タピエス/イヴ・クライン/池田龍雄/石橋泰幸/瑛九/榎倉康二/海老原喜之助/大竹伸朗/オチオサム/尾花成春/風倉匠/金村修/河原温/菊畑茂久馬/草間彌生/工藤哲巳/クロード・ヴィアラ/桑山忠明/桜井孝身/サルバドール・ダリ/篠原有司男/ジグマール・ポルケ/嶋本昭三/ジャン・デュビュッフェ/ジャン・フォートリエ/ジャン=ミシェル・バスキア/ジョアン・ミロ/白髪一雄/タイガー立石/辰野登恵子/田中敦子/田部光子/中村宏/野見山暁治/原口典之/藤野一友/フランク・ステラ/ポール・デルヴォ―/マーク・トビー/マーク・ロスコ/松谷武判/マルク・シャガール/三岸好太郎/向井修二/元永定正/リサ・ミルロイ/ルイ・カーヌ/ルチオ・フォンタナ/ロイ・リキテンシュタイン/ロバート・ラウシェンバーグ/山崎直秀/レオナール・フジタ(藤田嗣治)/やなぎみわ/柳幸典/山内重太郎/横尾忠則/吉原治良

●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
新しい空間についてはWEBマガジン<コラージ12月号18〜24頁>に特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第22回

中村茉貴「美術館に瑛九を観に行く」第22回

埼玉県立近代美術館「版画の景色――現代版画センターの軌跡」


「現代版画センター」では、わずか11年の間で約80名の作家により700点あまりのエディションが積み上げられたという。今回の訪問先である埼玉県立近代美術館の展示では、青山以前の綿貫氏らの活動を知る好機となったばかりか、久保貞次郎の思想が同センターの人たちの中にミームとなって受け継がれ、それがまた多く美術家やそのコレクターのもとに届いていることを知った。「熱中せよ!」と、生前の久保貞次郎が教え子に言っていた言葉のとおり、展示室のそこかしこには、良い作家を全力で紹介しようとする、熱気に包まれていた。本展では、現代版画センターの活動の一部として、学芸員の選りすぐりの45名の作家が紹介された。

埼玉県立近代美術館01埼玉県立近代美術館入口。この日はあいにく曇り空であったが、格子状の建物と窓ガラスにやわらかな光が差しこみ、見事に調和していた。

埼玉県立近代美術館02展示室入口。グレーを基調としている今回の展覧会。図録をはじめ、ヴィジュアル・ブックの地色も同じくグレーである。版画の余白部分に入れられるサインやエディションなどをトリミングせずによく見せるためであろう。出品目録も版画に特化した仕様で、刷り師の名が加えられ、サインも自筆・スタンプ・刷り込みかどうかの違いまで分かるようになっている。コレクターや玄人好みの体裁で、非常に良くできていると思う。

埼玉県立近代美術館03入口をはいってすぐ、靉嘔の作品が展示されている。先陣を切る意味合いを含むアーティスト名で、期待を裏切らない定位置と華やかさに心が躍った。《虹の花》は、岡部徳三による刷りである。靉嘔の虹色のシルクスクリーンは、この人物あっての作品ともいわれるほどで、NYまで同行したことがあったという。展示の中盤のガラスケースにも《花の時間》などがあることから、同センターと靉嘔の付き合いの深さや彼の活躍ぶりを窺い知ることが出来る。

埼玉県立近代美術館04オノサト・トシノブのシルクスクリーン。
瑛九とは宮崎時代から長く付き合っている人物である。オノサトの作品も、安定的にコレクターが付いている作家のひとりである。オノサトもまた靉嘔と同様に展示は二ヵ所にあった。

埼玉県立近代美術館05関根伸夫が展示されているコーナー。もの派として活躍する中で、同センターを通じて制作された作品や活動もあった。《絵空事―風船》は、シルクスクリーンであるが、一部手彩色で一点ものの作品というニュアンスを含む。なお、プロジェクターで映し出された映像には、若かりし頃の関根の姿が見られるため、立ち止まって観てほしい。

埼玉県立近代美術館06『画譜』第3号特装版に添えられた戸張孤雁の後刷り。「新版画」を掲げたり、頒布会を開いたり、さらにアメリカ留学を果たした気高い人物である。若くして病に倒れ、その才能が惜しまれた。版画の普及活動も行っていた孤雁に対する尊敬の念もあったのだろう。


埼玉県立近代美術館07同センターで刊行された『版画ニュース』や『print communication』がファイリングされているコーナー。実際に手に取って読むことが出来る。展覧会、オークション、講演会、シンポジウムなど様々な活動が行われていたことが分かる。


展示を担当した埼玉県立近代美術館学芸員の梅津元によると、この展覧会の準備のために約3年を掛けて聞き取り調査と、次々と出てくる膨大な作品や史料と対峙をされたという。一見すると、奇を衒った印象を持つ企画展ではあるが、そもそも、従来の展覧会という枠組みでは納まり難い、圧倒的な情報と作品の質量であったため、結果として今の形に辿りついたと梅津氏は語った。確かに、作品の傾向を紐解くと、そこには、版画家だけでなく、画家、彫刻家、建築家、工芸家、映像作家までも制作していて、セットものの作品が数十点出品されている作家がいれば、1・2点しか出品していない作家までもいて、大小さまざまな形態である。また、質に着目すれば、加山又造のような日本画の作家の他、もの派、具体、デモクラート、自由美術、フルクサスなど、まさに多種多様な作家の作品が同じ展示室内に並べられているのである。作品ひとつを見ても、各々力のある独特の世界観を宿しているが、「現代版画センター」が中心に据えられていることで、個々の作品が独り歩きすることも、衝突することもなく、一括りの対象物として鑑賞できるようになっていた。作品の展示は、非常に気をつかったようで、アートフェアのように細かく区切られたブースが、一作家の個性を引き立たせていた。版画を中心した作品展とは思えないほど、躍動的でエネルギーに満ちていた。

埼玉県立近代美術館08島州一の作品。ジャンパー、ジーンズ、チェ・ゲバラをモチーフにしている作品もある。


埼玉県立近代美術館09(寄託含む)建築家磯崎新の作品。


埼玉県立近代美術館10菅井汲の作品。34点という本展で随一の出品数を誇る。さまざまなパターンの色面が和音を響かせながら変容する作品群で、ひとつひとつのメロディーをたどってゆくと、徐々に心が湧きたってくるような感覚があった。


埼玉県立近代美術館11山口勝弘の版画集『ANTHOLOGICAL PARINTS 1954-1981』に収録された作品。


「現代版画センター」を企画展として形成するために、梅津氏は次の3本の柱を立てたという。それは、「メーカーとしての現代版画センター」「オーガナイザーとしての現代版画センター」「パブリッシャーとしての現代版画センター」の3本である。「メーカー」としての活動は、オリジナル・エディションの制作と展覧会および頒布会であり、「パブリッシャー」としては、エディションの総目録をはじめニュースなどの刊行物の発行をしていたこと、「オーガナイザー」としては、数々の事業を自発的に行ってきたということを俯瞰してみることで浮かび上がったことで、展覧会では年譜や見取り図などでその影響力のほどを知ることができる。これは、三部構成となっている本展の図録にも「テキスト・ブック」「ヴィジュアル・ブック」「アトラス」というかたちで反映されている。要するに、現代版画センターが担った「メーカー」「パブリッシャー」「オーガナイザー」という3つの役割によって、作家だけではなく、コレクター、評論家、画廊、美術館、出版社とその他の異業種の者が分け隔てなく関わりあうことができて、それが結果として美術普及という大きな役割を果たしていたのである。まるで、台風の目のようだ。豪雨と強風により爪痕を残し、過ぎ去った後の空を仰ぐと雲一つない眩しいくらいの光で目の裏に残像をつくった。権力的・物質的なことだけではない「美術作品」を所有するという意味は、実に深いところから形成されていることを学んだ。

埼玉県立近代美術館12難波田龍起の作品。生前は瑛九を知る人物のひとりであった。


埼玉県立近代美術館13北川民次の作品。民次と次に紹介する瑛九、駒井哲郎の3作家は、現代版画センターのオリジナル・エディションではなく、特別にコレクション作品として展示している。


埼玉県立近代美術館14瑛九《海辺の孤独》1957年、リトグラフ、左下に鉛筆で「20/35」と右下に「Q Ei」のサインあり。


埼玉県立近代美術館15上の作品は、瑛九《離陸》1957年、リトグラフ、左下に鉛筆で「Epreuve d artiste」と右下に「Q Ei/57」あり。下の作品は、《着陸》1957年、リトグラフ、鉛筆により左下「1/20」と右下「Q Ei/57」とあり。


埼玉県立近代美術館16上から瑛九《作品2(works2 Yellow and Green)》1950年頃、木版、《作品1(works1 Yellow)》1950年頃、木版。
ともにインクで「瑛九作 谷口都」とあり。谷口都は、瑛九のパートナーである。瑛九が48歳という若さで逝去したあと、サインの無い作品にこのような署名をいれて、美術館や知人に預けた。

埼玉県立近代美術館17駒井哲郎の作品。

オリジナル・エディションではない3作家である北川民次、瑛九、駒井哲郎が本展に含まれているのは、その根底に好きな作家を後世に伝えるという意思とコレクターとして作品を所有する喜びを伝える上で、欠くことのできない存在なのだろう。

一方、現代版画センターがこれらの運動の軸としていた「オリジナル・エディション」づくりには、誰に版画制作の依頼をするかの会議を開き、様々な人に意見を募って決めていたという。この制作側と鑑賞者側(コレクター)が接点を持つ切っ掛けを「作品」を通じてつくるスタイルは、久保貞次郎が行っていた「小コレクター運動」が元になっていたと考えられ、梅津氏はこの運動が現代版画センターにスピリットとなって宿っているという。

ところで、小コレクター運動が本格始動するのは、1958(昭和33)年5月に真岡市の久保貞次郎邸で行われたのを第一回目とされているが、実はその一年前の1957年6月に「版画友の会」が発足し、頒布会が行われている。おそらく、これで手応えを感じ、継続的な運動へ発展することになったのであろう。丁度、久保が企てた小コレクター運動発足前の「会議」の様子を窺える書簡があるため、以下に紹介したい。

12月27日の夜、浦和の武さし野荘に、画家、蒐集家などのメンバーが集まり、良い画家を育てる方法とか、絵を集める話など、皆で一晩話し会いたいと云うプランをたてました。/27日の夜武さし野荘に10人位泊れるかどうか都合を聞いて、岩瀬さん宛返事を知らせて下さい。宿泊の金額も、その時知らせて下さいませんか。/大変ごめんどうなお願いですがよろしくお願いします。宿舎がOKなら通知はぼくの方でだします。その通知の時に印刷物に、発起人として、あなたとぼくの名前を使いたいと思いますが、よろしいでしょうか。要項は次の通りです。
…銘里鮟个好瓮鵐弌
アイオー、池田〔満寿夫〕、磯辺〔行久〕、木村利三郎、瑛九、尾崎〔正教〕、野々目〔桂三〕、大野〔元明〕、高森〔俊〕、砂山、ミセス野々目、岩瀬〔久江〕、長尾、高山和孝、伊藤善〔市〕、島崎〔清海〕、久保〔貞次郎〕、片岡(新潮社有望なる蒐集家の卵)
期日  12月27日午後1時〜28日昼解散
H駘僉 ―蒜馮饉己負担、会費150円
ぅ董璽沺〆廼瓩両霾鷂魎控擇啌┣茲僚集についての話し合い
ソ仞兵圓僚君に見せたい作品があったら、ご持参下さい。
以上の通りです。どうぞよろしくおねがいいたします。返事は折り返し至急お願いします。
久保貞次郎
m ikeda〔池田満寿夫〕
磯辺行久
岩瀬久江

(1957年12月20日付、久保貞次郎書簡より)※〔 〕は筆者による



上記のなかには、現代版画センターの創立に関わり、わたくし美術館運動を提唱した尾崎正教の名前があり、瑛九、池田満寿夫磯辺行久、靉嘔、木村利三郎の名前も確認することができる。この「武さし野荘」とは、浦和市常磐町(現在のひなぎく幼稚園のあたり)にあった公立学校共済組合による宿泊施設である。瑛九が浦和に移り住みついたころから、久保は、創造美育協会事務局を瑛九宅として、島崎清海を通じて重要な会議の場に武蔵野荘を選んでいた。小コレクターの会を発足するために話し合われた場が、埼玉県立近代美術館と同じ町内(常盤)というのは、やはりスピリットとしてこの土地に依拠しているからかもしれない。現代版画センターは、このような久保貞次郎の意志を引き継いだ持続可能な活動拠点となったことで、安定した作家支援と美術普及の形を実現した。

埼玉県立近代美術館18大沢昌助《机上の空論 黒》《机上の空論 赤》1982年、リトグラフ。
菅井汲竹田鎮三郎などの刷りも担当した森仁志(森版画工房)によるもの。世界最大級のプレス機を入れた2年後に制作された横2mを超す作品である。

埼玉県立近代美術館19右が内間安瑆の木版、左3点は藤江民のリトグラフである。共に版画とは思えないほど、色の表情が豊かである。


埼玉県立近代美術館20彫刻家舟越保武の石版画集に収録された作品。


埼玉県立近代美術館21資料閲覧および休憩スペース。展示室内に現代版画センターの関係資料が設置されているところは、3か所もあった。


埼玉県立近代美術館22柳澤紀子の銅版画。手彩色が施されている。


埼玉県立近代美術館23草間彌生の作品が展示されている風景。


埼玉県立近代美術館24建築家安藤忠雄のシルクスクリーン。


埼玉県立近代美術館25アンディ・ウォーホルのシルクスクリーンと1983年に行われた展覧会ポスターが展示されている。


埼玉県立近代美術館26映画作家ジョナス・メカスの作品。展覧会実行委員会との共同エディション。
常に新しいイメージを追い求め、新しい試みに挑戦していたことがわかる。

梅津氏によると、展覧会が始まると、当時勤めていた同センターのスタッフがあちこちから集まり、同窓会のように喜んでいたという。また、私のように当時を知らない鑑賞者は、ここまで熱く、ダイナミックな活動を展開していたことに驚く声も多かったという。

それから、本展図録の「A.テキスト・ブック」には、梅津元氏の論考に加え、細かく丁寧に取られた基本情報が収録されている。コレクターや初心者でも親しみ易い体裁にまとまっていて、『現代版画センターニュース』をはじめとする主要刊行物の総目録は、手元に置いておきたいものである。では、最後に1974年現代版画センターの創立後ほどなくして『版画センターニュース』(Vol.1,No.6、1975年7月20日)に掲載されていた「没後15年先駆者瑛九を囲む人々展」の開催文を下記に引用したい。

瑛九とはそもそも何者なのでしょう。瑛九には多くの友人と呼ばれる人、そして多くの弟子と伝える人々がいました。彼らは瑛九から学び、瑛九に何かを教えた人々です。その多彩な人間関係の中に、あのドロドロとした、洗練という言葉からは程遠い作品群があり、人間瑛九をめぐるドラマに尽きない興味が湧いて来るのは何故でしょう。靉嘔はじめ池田満寿夫、磯辺行久ら瑛九の教える人達のそのはじまりは、瑛九のタッチそのままであり、その後彼らは、各々の道を歩みながら着実にその世界を築いて行きました。作家瑛九は、同時に教育者、指導者瑛九でもあったわけです。

本展は、「現代版画センター」の活動全体を45名の作品から見るものであり、瑛九が特別に扱われていたわけではない。しかし、上記のように同センターの刊行物を参照すると、活動の起爆装置として、瑛九が挙げられていたことがわかる。この他にも尾崎正教、針生一郎、ヨシダ・ヨシエ、細江英公、北川フラム、難波田龍起などによる瑛九の関連記事が認められ、また、「ギャラリー方寸」のオープン企画も瑛九であったことも付け加えておきたい。(http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53192197.html

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ちょっと寄道…


今回の取材先は版画に特化した展覧会であり、埼玉であることから、以前から伺いたいと思っていた金森茂のご遺族のところにおじゃました。瑛九が旧浦和市に越してきて、リトグラフ(石版画)を学んだのが常磐町1丁目にあった金森茂の印刷工場であった。金森茂(1911年8月12日〜1976年6月27日)は東京に生まれ、もとは京橋の印刷屋に勤めていた。太平洋戦争で焼け落ちたあと、浦和に疎開し、そのまま工場の拠点とした。

埼玉県立近代美術館27瑛九のアトリエとゆかりの地。瑛九は1951年9月〜1952年2月までは、仲町の関口留吉の借家に住み、1952年3月からは本太に戸建てのアトリエに落ち着き、晩年をここで過ごした。線路を挟んで、現在のうらわ幼稚園向かいのマンションあたりに金森茂の印刷工場があった。金森と知り合った翌年の1957年には、寺内萬治郎らによって進められた美術館建設運動が功を奏し、別所沼のほとりには「埼玉県立美術館」が開館している。建設前から行われていた埼玉県展では、瑛九が審査員に加わっていることから、美術館建設に向けて何らかの形で協力、もしくは作品の展示計画があった可能性も考えられる。なお、久保貞次郎の書簡にあった「武蔵野荘」の位置はポイントしたところで、都夫人が買い物にいっていた「太陽堂薬局」「魚屋(魚徳 新井)」や浦和での初の個展会場「コバルト画房」は、それぞれ店構えが変わっているものの現存している。浦和には、戦前から美術家が集まりはじめて、活動しやすい環境作りが地元美術家や美術教師によって行われていた。瑛九にとっても浦和での生活は、充実していたことが窺える。
(出典:山田志麻子「瑛九のアトリエ――浦和での足跡をたどって」、『公済時報』12巻5号、参考:「浦和市全図」1958年)


瑛九は、1956年3月頃から工場に来るようになった。そのきっかけを与えたのは、瑛九と共著(『やさしい銅版画の作り方』1956年、門書店)を執筆した美術教師島崎清海の紹介であった。瑛九は、昼過ぎくらいにいつも妻都を連れ立って工場に現れたという。金森茂は、名刺や賞状などの印刷の依頼を受けていた職人で、美術関係に通じる仕事はしていない。そのため、工場では、口数の多い方でもない金森から特別に瑛九が教わっている様子ではなかった。瑛九は、黙々と作業をする金森の背中を見て、技術を学んでいたようである。瑛九も特に話しかける様子もなく、お互い無口だった。瑛九は、2・3人の職人が仕事をしている横で、自身の制作の機会を伺っているようでもあったという。制作中、都は現場を見るわけでもなく、金森の妻と奥の掘り炬燵に入って「おしゃべり」を楽しんでいたという。また、瑛九と都は、時々金森家でご飯を食べて帰る家族ぐるみの付き合いをしていた。巨大な口のようなイメージのリトグラフ《拡声器》《森の中》《大喰い》は、金森家に足を運んで着想を得たのかもしれない。

話を伺っていた中で、特に気になったのは、金森茂がたとえ中古であっても仕事道具の石板を譲るつもりになったことである。出会ってすぐに譲ったわけではないことから、瑛九のリトグラフに対する真摯な姿勢を認めたからではないかと想像する。瑛九が福井の美術教師木水育夫に送った書簡の中では、熱っぽく自らを「リト病」「職人のよう」と表現するほど、リトグラフにのめり込んでいた時期である。

埼玉県立近代美術館28金森茂のご遺族が所蔵するエッチング1点とリトグラフ2点。右上《赤いシグナル》1956年、リトグラフ、左下「7/10」、裏に「瑛九内 谷口都」サイン
右下は、《鳥と女》後刷り、エッチング、1953制作(版画集『瑛九・銅版画 SCALE II』1975)、鉛筆で左下に「48/60」と右下にスタンプサイン、裏に「瑛九内 谷口都」サイン
《太陽の下で》1956年、リトグラフ、左下に「5/14」、裏に「瑛九内 谷口都」サイン


調査には、長女久枝氏と孫孝司氏にご協力いただいた。また、今回は、金森茂の調査から突然に瑛九のアトリエの話に大きく飛躍し、特別にアトリエにも訪問することとなった。

埼玉県立近代美術館29瑛九のアトリエ兼住宅の外観。
孝司氏は、瑛九に会ったことは無かったが、小さい頃、犬に会うために来ていたという。瑛九はもともと犬嫌いであったが、犬の本を読んだら克服できて、犬を飼うようになった。

埼玉県立近代美術館30表から玄関に向かう敷石。
瑛九や池田満寿夫、靉嘔、細江英公、河原温、磯辺行久等も歩いたのだろう。

埼玉県立近代美術館31「アトリエでくつろぐ瑛九」(出典:「思わず誰かに話したくなるアートの話 美のひととき展」)

埼玉県立近代美術館32宮崎県立美術館で作成されたアトリエ内の見取り図(出典:「思わず誰かに話したくなるアートの話 美のひととき展」)瑛九が使用していた画材道具などは、宮崎で保管されている。常設展には瑛九のコーナーが設置され、アトリエ内の再現展示を行うこともある。


埼玉県立近代美術館33現在の瑛九のアトリエ内部。瑛九の作品は一点もない。瑛九が逝去して58年が経過し、都夫人の居住空間になっている。展示で使用したであろうパネルを捨てずに立てかけているところをみると、都夫人は人を招いたときの解説用として使用していたのだろうか。また、瑛九のいないアトリエにならないために写真を置いて、寂しさを紛らわしているのかもしれない。


埼玉県立近代美術館34梁と壁面の間には、珍しい細工が施してある。真っすぐではない自然のままの木材も親しみやすくて良いと思った。


埼玉県立近代美術館35今回、撮影に同行いただいた久枝氏は、アトリエがじきに無くなると話していた。
お皿の網目模様が、瑛九のフォト・デッサンに入れられた模様と重なって見えた。光を通さない皿の模様が印画紙に写るわけはないが、困惑しながら瑛九の痕跡を探そうとシャッターを切った。
瑛九のアトリエについては、うらわ美術館学芸員の山田志麻子「瑛九のアトリエ――浦和での足跡をたどって」(『生誕100年記念瑛九展』2011)に詳しく書かれている。

埼玉県立近代美術館36この戸を開けると、すぐに庭が続いている。瑛九がいた頃、ここはよく開け放たれていた。久枝氏が若かったころ、瑛九のいるこの前を通るとき、緊張してしまい避けていたと語った。右側に設置されている蛇口は、フォト・デッサンを現像するときに使っていたようだ。

埼玉県立近代美術館37室内で手鏡が掛かっているのを見つけた。おそらく、瑛九の次のフォト・デッサンのモチーフになっていたものである。

埼玉県立近代美術館38《お化粧》1954年、フォト・デッサン、宮崎県立美術館蔵(出典:『瑛九フォト・デッサン展』2005)

瑛九のアトリエをこのまま取り壊してしまうのは惜しいと、長年思い続けていただけに、今回このような形で紹介できて良かったと思う。2011年の3館共同の「生誕100年記念瑛九展」開催時にも周りからの勧めもあって、意見を伺うためにあちこちの瑛九関係者を尋ね歩いたことがあった。元は手元に置いておくための記録だが、今回のアトリエの話題に関連するものとして、一部公開することにした。なお、都夫人の他はすべて名前を伏せ、プライベートに関わるところは割愛した。



瑛九のアトリエ保存に関する聞き取り> 
実施期間:2011年6月6日〜11月6日
2011年7月4日 谷口ミヤ子(瑛九夫人):アトリエを残すことは、賛成。本当なら茅葺き屋根のまま残しておきたかったと話す。屋根が傷んでから、本当は葺き直したかった。今は、瓦屋根になっている。アトリエには、池田満寿夫や靉嘔たちが来て、電車が無くなるギリギリまでおしゃべりしていて、いつも走って帰っていった。皆、若かったから、「私が食べさせなければいけない」と思って、都は自転車で野菜を安く売ってくれるところまで買いに行っていた。満寿夫は、珍しく生魚が食べられず、都が漬けた漬物は喜んで食べた。

その他、瑛九関係者及び瑛九の作品を扱う美術関係者11名:アトリエに関して聞き取りを行ったところ、概ね4本の課題があることがわかった。
仝⇒関係の明確化/⊇ね、移築、管理するための資金源/A反イ鼎り/こ萢冓法について。以下には、簡単にまとめたものを掲載する。

仝⇒関係の明確化
・現在、アトリエの所有者や権利関係は誰にあり、その後は、どこで所有することにするのか。遺族か、近所の世話人か、市・県か? 権利が遺族や世話人にあるのなら、解放して利用して良いか交渉する必要がある。
・敷地(アトリエ)が担保になっている可能性がある。
・瑛九のアトリエに関して、(他人が)動くべきではないのでは。
・今はプライバシーの関係で、個人に踏み込んで聞くことができない。そのため、所有権がどこにあるのかわからない。著作権については、以前、親族関係ではない人が持っていた。(数年前に切れている)
・谷口ミヤ子さんが万が一亡くなったとして、そのあとの所有者がはっきりしないと保存会も立ち上げられない。
・ミヤ子さんの世話人に事情を伺う必要がある。

⊇ね、移築、管理するための資金源
・おそらく、アトリエの運営・管理を行政に頼むと、断られるだろう。
・市や県は、財政上負担したくないはず。
・民間(ボランティア)で運営・管理するとして、行政には補助金や広報のバックアップを頼むなどの方法がある。ただし、民間で運営・管理を負担する場合、市・県には「土地利用」として申請することになり、商品等の販売ができなくなる。
・募金をつのる。アトリエの修復・維持管理費。また光熱・水道・人件費。これらを賄えるだけの資金が回収できるのか。
・埼玉が無理なら宮崎に移築してもいいのでは。
・アトリエにものがなく、都さんの生活した跡が色濃く残っている。もし、アトリエを開放するのであれば、瑛九が現存していた当時を再現しなければならない。
・宮崎県立美術館でアトリエを移築する計画があった。現在はわからない。
・アトリエを残すなら埼玉でしか意味をなさない。
・アトリエの状態がとても悪い。シロアリやネズミの被害がある。
・宮崎に移築する計画はあったが、県民の同意を得るのは、現状として難しく、動くことは不可能。
・「わの会」に瑛九の作品を所有するコレクターがいて、資金があるのでは。
・美術館の経営も難しい昨今、アトリエを市で管理するのは難しい。
・公開したときに誰がアトリエを管理するのか。
・ヒアシンスハウスと違い、(移築したとしても)広い土地が必要。
・アトリエの維持管理という面だけではなく、建物と庭の時価が相当上がっているはずである。買い取るとなると億単位になるのではないか。少なく見積もっても1億。以前、レイモンドの建築を保存するため民間団体で活動したことがある。そのときは、3億で落としたが、結局、維持管理が難しく、市に寄付することになった。建築の管理を民間で行うのは、今のご時世では無理だろう。

A反イ鼎り
・さいたま市では、ヒアシンスハウスの前例がある。ヒアシンスハウスの建設に関わった人に相談すること。市とどのように話し合ったのか。人と資金はどのように集めたのか。
・ヒアシンスハウス設立までの経緯。文芸と建築の団体が協力している。建築の団体はボランティアにも定期的に入り、運営に大きく関わっているという。
・市または県に何を求めるか、説得をどうするのか。
・保存活動をするならば、組織を明確にしたほうがいい。どういう団体なのか。具体的な活動内容をまとめ、客観的に見えやすくする必要がある。また、著名人を募り、どのような職種の人物が組織にいるのか、外から見ても分かりやすくするといい。
・実際に動ける若い人を集める。美術に限らなくてもいい。地域の人。学生、建築家、行政に詳しい人物。
・アトリエの保存には賛成だが、主要メンバーとして活動するのは無理。
・有名な人を先に味方につければ、鶴の一声で実行可能でしょう。
・立場上、保存会に参加するのは難しいが、できるだけ協力はしたい。
・今は無理でも地域で呼びかけがあれば県も動くかもしれない。青木繁のアトリエ保存が現在進んでいる。ほかにも実現したケースはあるはず。

こ萢冓法
・瑛九展開催中にアトリエを保存するよう呼びかけてはどうか。まだあるのに勿体ない。地域で残すべき。
・瑛九のアトリエは残すべきだと思っている。
・瑛九のアトリエの保存には賛同したい。浦和には画家のアトリエが点在しているが、親族が抱えきれなくなり壊された例が数件ある。瑛九のアトリエと奥瀬英三のアトリエは残していきたい。
・活用方法を明確にしないと難しい。
・将来的にアトリエをどのように活用するのか。
・修繕・保存するだけではいけない。利用価値と目的を明確にする必要がある。
・かつて「瑛九のサロン」と呼ばれていたアトリエ。議論の場を提供、都さんの漬物を再現。アトリエに通っていた芸術家には、池田満寿夫、細江英公、AY-O、河原温、磯辺行久がいる。聞き取り調査等が必要だが、これらを売りにできるのでは。
・瑛九のアトリエを宮本三郎記念館のように、美術館の別館として存在させるのが理想ではないか。
・財産(作品等)がない状態で何を売りとするのか。
・アトリエにあった作品は、すべて埼玉や宮崎の美術館へ寄贈されている。その他、画材やエッチングプレス機は、宮崎県立美術館が所蔵しているため、展示は無理ではないか。ものがないとアトリエとして公開する価値はない。
・瑛九は埼玉の画家であり、アトリエは地域の財産である。

以上

なかむら まき


◆埼玉県立近代美術館で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が開催されています。現代版画センターと「ときの忘れもの」についてはコチラをお読みください。
詳細な記録を収録した4分冊からなるカタログはお勧めです。ぜひご購入ください(2,200円)。
会期:2018年1月16日(火)〜3月25日(日)
埼玉チラシAY-O600現代版画センターは会員制による共同版元として1974年〜1985年までの11年間に約80作家、700点のエディションを発表し、全国各地で展覧会、頒布会、オークション、講演会等を開催しました。本展では45作家、約280点の作品と、機関誌等の資料、会場内に設置した三つのスライド画像によりその全軌跡を辿ります。

○<(西洋美術館)新館の版画素描展示室で開催中の「マーグ画廊と20世紀の画家たちー美術雑誌『デリエール・ル・ミロワール』を中心に」
なにか埼玉県立近代美術館で開催中の『版画の景色 現代版画センターの軌跡』と通じるものがありましたね。

(20180316/タカハシさんのtwitterより)>

○<#埼玉県立近代美術館 の#版画の景色 展覧会を見てきましたよ〜
版画オールスター展覧会みたいで、とても面白かったです!

(20180121/uma_kunさんのinstagramより)>

○<日本に請われてウォーホルが描いた原画を元に日本の職人が摺ったキクが何とも言えない色合いで素敵でした。「版画の景色 現代版画センターの軌跡(埼玉県立近代美術館)」
(20180317/k_2106さんのtwitterより)>

西岡文彦さんの連載エッセイ「現代版画センターという景色は1月24日、2月14日、3月14日の全3回掲載しました。
草創期の現代版画センターに参加された西岡さんが3月18日14時半〜トークイベント「ウォーホルの版画ができるまでー現代版画センターの軌跡」に講師として登壇されます。

光嶋裕介さんのエッセイ「身近な芸術としての版画について(1月28日ブログ)

荒井由泰さんのエッセイ「版画の景色―現代版画センターの軌跡展を見て(1月31日ブログ)

スタッフたちが見た「版画の景色」(2月4日ブログ)

倉垣光孝さんと浪漫堂のポスター(2月8日ブログ)

嶋吉信さんのエッセイ〜「紙にインクがのっている」その先のこと(2月12日ブログ)

大谷省吾さんのエッセイ〜「版画の景色−現代版画センターの軌跡」はなぜ必見の展覧会なのか(2月16日ブログ)

植田実さんのエッセイ「美術展のおこぼれ 第47回(3月4日ブログ)

土渕信彦さんのエッセイ<埼玉県立近代美術館「版画の景色ー現代版画センターの軌跡」展を見て(3月8日ブログ)

現代版画センターに参加した刷り師たち(3月11日ブログ)

現代版画センターの生みの親 井上房一郎と久保貞次郎(3月13日ブログ)

塩野哲也さんの編集思考室シオング発行のWEBマガジン[ Colla:J(コラージ)]2018 2月号が展覧会を取材し、87〜95ページにかけて特集しています。

毎日新聞2月7日夕刊の美術欄で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が紹介されました。執筆は永田晶子さん、見出しは<「志」追った運動体>。

○3月4日のNHK日曜美術館のアートシーンで紹介されました。

朝日新聞3月13日夕刊の美術欄で「版画の景色 現代版画センターの軌跡」展が紹介されました。執筆は小川雪さん、見出は<版画に込めた情熱と実験精神>。

○月刊誌『建築ジャーナル』2018年3月号43ページに特集が組まれ、見出しは<運動体としての版画表現 時代を疾走した「現代版画センター」を検証する>。

○埼玉県立近代美術館の広報誌 ソカロ87号1983年のウォーホル全国展が紹介されています。

○同じく、同館の広報誌ソカロ88号には栗原敦さん(実践女子大学名誉教授)の特別寄稿「現代版画センター運動の傍らでー運動のはるかな精神について」が掲載されています。
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現代版画センターエディションNo.643〜No.650 岡田隆彦・柳澤紀子 詩画集『海へ』
現代版画センターのエディション作品を展覧会が終了する3月25日まで毎日ご紹介します。
表紙奥付

岡田隆彦・柳澤紀子 詩画集『海へ』
岡田隆彦:詩8篇
柳澤紀子:版画(銅版+手彩色)8点
刷り:山村兄弟版画工房
装幀:五十嵐恵子
発行日:1984年5月23日
発行者:綿貫不二夫、原勝雄
発行所:現代版画センター、浜松アートデューン
印刷・製本:クリキ企画印刷株式会社

サイン岡田隆彦サイン

I
I 詩

I
また海へ出るのだ、
荒れ狂う心をしずめるために。
おれの小舟よ、涙をぬぐえ!
行方知れずの母よ、
おれはいま、波を押しかえす。

II
II 詩

II
自分を洗っている海へ。
(語るなかれ) 海へ。
時が結晶してゆく、
したたかな器官のような
石のごとく物言わぬかたちへ
泳ぎついて、おれはつかむ。

III
III 詩

III
港の灯はクイーンズ・ネックレス。
船は和音を静かに食べている。
青い風は嗚呼、若い草を吹く。
溺れてしまいたい、だが
必ず浮上する。

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パンフレット_05
出品作家45名:靉嘔/安藤忠雄 /飯田善国/磯崎新/一原有徳/アンディ・ウォーホル/内間安瑆/瑛九/大沢昌助/岡本信治郎/小田襄/小野具定/オノサト・トシノブ/柏原えつとむ/加藤清之/加山又造/北川民次/木村光佑/木村茂/木村利三郎/草間彌生/駒井哲郎/島州一/菅井汲/澄川喜一/関根伸夫/高橋雅之/高柳裕/戸張孤雁/難波田龍起/野田哲也/林芳史/藤江民/舟越保武/堀浩哉 /堀内正和/本田眞吾/松本旻/宮脇愛子/ジョナス・メカス/元永定正/柳澤紀子/山口勝弘/吉田克朗/吉原英雄

ときの忘れもの・拾遺 ギャラリーコンサートのご案内
第7回 愛といのち

日時:2018年4月3日(火)18:00〜
会場:ときの忘れもの
出演:メゾ・ソプラノ/淡野弓子
   スクエアピアノ/武久源造   
プロデュース:大野幸
*要予約=料金:1,000円
予約:必ず「件名」「お名前」「連絡先(住所)」を明記の上、メールにてお申し込みください。

info@tokinowasuremono.com

◆ときの忘れものは「植田正治写真展ー光と陰の世界ーPart 供を開催しています。
会期:2018年3月13日[火]―3月31日[土] 11:00-19:00
※日・月・祝日休廊(但し3月25日[日]は開廊
昨年5月に開催した「Part I」に続き、1970年代〜80年代に制作された大判のカラー作品や新発掘のポラロイド写真など約20点をご覧いただきます。
201803_UEDA

●書籍・カタログのご案内
表紙植田正治写真展―光と陰の世界―Part II』図録
2018年3月8日刊行
ときの忘れもの 発行
24ページ
B5判変形
図版18点
執筆:金子隆一(写真史家)
デザイン:岡本一宣デザイン事務所
価格:800円(税込)※送料別途250円

ueda_cover
植田正治写真展―光と陰の世界―Part I』図録
2017年
ときの忘れもの 発行
36ページ
B5判
図版33点
執筆:金子隆一(写真史家)
デザイン:北澤敏彦(DIX-HOUSE)
価格:800円(税込)※送料別途250円


●ときの忘れものは昨年〒113-0021 東京都文京区本駒込5丁目4の1 LAS CASAS に移転しました。TEL: 03-6902-9530、FAX: 03-6902-9531
20170707_abe06新天地の駒込界隈についてはWEBマガジン<コラージ12月号>をお読みください。18〜24頁にときの忘れものが特集されています。
2018年から営業時間を19時まで延長します。
営業時間=火曜〜土曜の平日11時〜19時。日・月・祝日は休廊。
JR及び南北線の駒込駅南口から約8分です。
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ギャラリー&編集事務所「ときの忘れもの」は建築家をはじめ近現代の作家の写真、版画、油彩、ドローイング等を扱っています。またオリジナル版画のエディション、美術書・画集・図録等の編集も行なっています。
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