2017年04月09日

もしかしたら、現役で20年目まではいかないのではないか?と思っていた、現在の職場での人生。
気が付けば、今月からスタッフ歴20年目に突入した。
ああ、これたのだ、20年・・・・・。

思えば、適応が無理なら淘汰しかない、と連呼していた日々があった。
『業務環境への適応』という高みを目指した、相談支援専門員時代、適応出来ない先にあるのは、淘汰だった。
犒弉茘瓩塁の中にいた頃には本当に、自然界の野生の生き物の物語を見るたびに、我が身と重ね、『淘汰』という言葉がクローズアップされていた

1年半、毎週カウンセリングを受け続けて、メンタルな面での支えとしていたが、そこでも、犒弉茘瓩ら離れて何ヶ月か経って漸く、「本当はいっそ、淘汰されたほうが楽だと感じたことがあった」と本音を漏らしていた。
現役の専門員でいた内は、やはり『適応』と連呼していたのだ。
やはり現役故の、【見張られている感】という縛りがあったのかも知れない。

例えば、「自分が抱えきれない数のケースを抱えている」と感じた時、或るデータから、自分のケース数が『市内の相談支援専門員全体で見た場合の平均』であることが判明し、それまで『負担』がテーマだった私は、負担ではなく平均と思うことを目標にした

例えば、自分にはそんなややこしいこと、今から急にやれと言われても無理だから「出来ない」と訴えても、あろうことか「出来る」の一言だけ返ってきて終わり、という時もあった。
この日は実は自傷行為も発症してしまい、早く帰りたいと思っていた絶不調の日だったのだが、一人苦痛の居残りとなった。

例えば、これは仮の話だが、何か警察が登場するような事件が起きるかも知れないとなった時、その場合に備えて気を付けておくのが、業務範囲の一つであった。
だけど、『気を付けておく』の中身を理解するのは難しい
本当に何か起こったら、誰から、どう責任を取れと言われるのか?どの見方が正しいと見なされ、『(私が)未然に防ぐことが出来た筈』みたいな解釈を、されることになるのか。
想像すれば、恐いことばっかりだったような気がする。

今年の2月頃だったか、丁度インフルエンザになって仕事を休んでいた時、一度、変な夢を見た
私は深夜の事故現場に立っていた。
目の前に多数のパトカーと救急車、消防車がおり、カラーコーンや立ち入り規制テープが張られていた。
そこで私は、ものも言えずにただただワナワナと震えて佇んでおり、忙しく現場検証をする警察官が、時折私にチラッと視線を走らせていた。
私は、その場から立ち去ることを許可されていない身だった、という夢である。
当に『悪夢』そのものであったが、久しぶりに目覚めの直後、心臓がバクバクと音を立てて鳴っていた。

減疫時代・・・・・もとい、現役(の専門員)時代、自分の業務だとは把握出来かねる範囲(請求的な気付きとか、時間数の表記的な気付きとか、書類の準備的な気付きとか)をいつやれと言われるか分からない恐怖から、薬を強めたという経緯もあった。
それでも、薬だけでは、やはり完全に自分をコントロール出来るとは言えない。

それが証拠に(目には見せようがないが)、現役時代は朝起きて5分ぐらい経つと、決まって強烈なモヤに襲われたのだ。
本当に物凄い勢いで、みるみる心に暗いモヤ(暗闇と言ってもいいが)が襲ってきて、毎朝、「自分は鬱病なのではないか?」と疑ったほどだった
その気分と闘いながら、ひたすら犒弉茘瓩里燭瓩暴亢个靴討い拭

総合責任者みたいに扱われる仕事だから、計画に入っているというだけで、「何とかしないといけない」となる。
自分でも到底カバーしきれない、把握しきれないことを、一番総合力がある体(てい)で何らかの判断をしたり、難しい絡みの舵取りをしないといけないのが仕事だった。
最悪の事態を想定して本当に最悪の事態になった時は、周りからの目線というものを感じると、『突き上げられる感』が半端なかった

利用者のために、と制度の上ではなってはいるが、実際は審査会とか地区担の評価を意識して、ありのままのニーズは書きようがない閉塞感があった。
支援機関との間で問題が起きれば、元々そこを探して選んだ自分が、結局は批判される局面がある訳だから、ちゃんと、人に批判されないことに重点を置いた言動を、組み立てていかないといけなかった。
周りや書類だけに翻弄されていて、対象者本人が、いち脇役みたいになってしまうことがあった。

元々私は、支援の仕事をしたかった。
だからこの世界に入ったし、長らく自分の仕事にやり甲斐を感じてきた。
だが、時代が変わって新体制に編入され、犒弉茘瓩鬚笋蠅海覆気覆い函∋抉腓靴討襪箸聾なされない世の中になった。
どこまで頑張っても、自分の仕事の先に人間がいて、支援しているという実感は、最早育たなくなった。
ケース数にしても、別に好き好んで多くした訳ではない。
増えたのにはハッキリした理由がある。

犒弉茘瓩隆超に適応出来ず、発達障害という診断が下されたため、周りも私に配慮してくれることになった。
そこで、色々ややこしいケースは私の担当とはせず、比較的安定していて動きの少ない、私でもこなせる(と見なされた)ケースが私の担当となったのだ。
つまり、【私では無理】か【私でも出来る】の二択の判断となり、【私でも出来る(少なくとも出来なくはないだろう)】というケースは、軒並み私の担当になったのである。
そうなると、数自体は私が断トツに多くなった。
いまだかつて、私の職場でケース数が20を超えたのは、私だけだ。

数だけでは勿論、しんどさは測りかねるが、実際に動いてみたら、程なくして想定外にイレギュラーなややこしい動きにばかりなったケースだらけで、しかし一度担当になった以上は、それ相応に抱えないといけないから、その過程で精神的に病んでしまった。
限界を超えたのは2015年6月である
だから翌7月より全面的に服薬に頼り、その後、カウンセリングも受け始めた。
引退出来ると判ったのは2016年3月で、この時点では、自分がどこまで無理しているかという感覚自体が麻痺していたから、よく解らなかった

【セルフネグレクト】という言葉があるが、ある種、自分に当てはまる。
この時期、実家に帰るたびに母親からよく言われていたことが、「口臭がひどい」であった。
自分では気付かなかったが、余程口臭が凄かったらしく、顔をしかめて言ってきていた。
退疫・・・・・もとい、退役後は、全然言われなくなった。
一度自分から母親に訊いた時は、「ああ!もう全然しない。やっぱりあんたストレスやったんやねぇ」と言ってきた。
身体は正直と言えばそれまでだが、それにつけても口臭は、人に不快を与えるのに自分ではとんと自覚が持てないのが困る

セルフネグレクト・・・・・、だが、ネグレクトしていない時もあった。
ジムで運動している時だ。
頭は死んでいても、身体は生きていた。
私が身体に「動こう」と呼びかけると、待ってましたとばかりに、素直に喜んで運動してくれるのだ
そんな我が身体の反応が嬉しくて、変なことを言うようだが、涙が出てきそうになったことが、実際、あったのだ。
身体は、ただ【生きよう】としてくれている。
身体は健気に、私の誘いに応えてくれる。
精神の病みなど関係ないとばかりに、ただ生き生きと、身体は活動し続ける。
そんな我が身体がとても愛おしく感じられてきて、ランニングマシーンの上で目が潤んだのだ。
走っている人は顔を外側(窓側)に向けているから、人に見られる心配は無かったが、走りながら泣いた人なんて、そうそうはいないだろう。

運動して一定の体力は維持出来ていたと思うが(だからソーラン節は踊れた)、実は犒弉茘瓩ら離れて以降、体重が2kg増えた。
この2kgというのが、意外と大きいのだ
増える前は、普通にしていてもどうも変だった。
身体の芯に力が入らないというか、勿論元気は元気なのだが、どこか『有るべきエネルギーが欠乏している』という感触があったのだ。
それが、体重が増えると無くなった。
やはりストレスでの体重減って、あったんだなという事が、終わってみて体重が増えて初めて判った。

最後に、私は心が弱くなると音楽に近付きたくなる傾向があるらしい。
だから犒弉茘瓩どんどん激務になるのと比例して、ライブ通いという新しいライフワークが始まった
これは、発達障害診断に伴うピアの皆さんとの出会いと並んで、犒弉茘瓩鬚笋辰瞳覯姪に良かったことだと思っている。

今日は日曜日。
本来は職場のお花見の予定だったが、雨天見込みで中止になった。
だから、またライブを聞きに行ってくる。

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 11:34│コメント(1)トラックバック(0)

2017年02月27日

「自分の苦手なことだけが評価の対象となる人生を送らなくても、自分にも出来ることがあることを再認識する人生を送る」

計画相談を通じて得た人生訓は、これであった。

計画相談では、苦手なことを出来てナンボだった。
違う言い方をすると、障害受容禁止令を出してナンボだった。
だから、自分の弱点以外に興味を持たなくてもよかった。
「もっと自分にだって出来ることがあるのに」と切なくなっても、そういう切なさを振り払うことが、相談支援専門員の資格と言ってよかった。

計画相談が現実だった時代、私にとって、公私の時間問わず、24時間、自分が置かれるべき場所は計画相談であって、それ以外の場所は、『一時休憩所』に過ぎなかった。
こんな制度に切り替わってしまう前、もっと大切にしていて、能動的に取り組んでいた仕事(事業)があった。
そんな『懐かしい仕事』を、計画相談の時代もやる機会というのは確かにあった。
だけどその時の私は、『束の間、一時帰省が許された被拘束者』という状況であった。

どうせ本来の立ち位置としては、また計画相談に戻らないといけないんだから、今だけ計画以前の時代に帰れている、という気持ちだ。
勿論つらかったし、泣いたこともあった。
家で一人で泣く分にはまだ良かったが、やばかったのは職場で無性に涙が込み上げてきて、そのまま溢れ出した時だ。
取り敢えず目が痒いフリをしたり、急に鼻炎になったフリをして、顔は絶対にパソコンから背けないようにしていたが、気持ちは解るにしても職場で泣いたのは今振り返っても失態だった。
まあ、バレずに済んだんだから良しとしよう。
今はもう時効だから、何がバレたところで構やしない。

相談支援専門員の重荷から離れると、現在の環境はほぼ、計画の時代に於ける『一時帰省中』だ。
もちろん丸っきり昔と同じ訳ではないが、それでも、いろいろ有難いのである。
その詳細はもう少し後で述べる。

計画相談の世界は、或る独特性があった。
それは、『上の立場に見られる』ということだ。
何回か私は関係者から、「上に上がられました(つまり出世して上の立場になった)もんねぇ」と言われた。
或る時なんか、「根箭さんを立てて、やはり真っ先に何でも根箭さんに集中して」というようなことを言われたこともあって、内心目を白黒させていた。
何とも嬉しくない空気・・・・・。

一体全体、何故この役職が「上の立場になった(いわゆる、偉くなったということ?)」かのごとき解釈をされるのだろう?
答えは、この役職に義務付けられた役割にあると思う。

実際は、相談支援専門員は、上の立場でも下の立場でも何でも無い。
正しくは、横の立場だ。

当事者本人を中心に、支援のネットワークという輪があって、その中の、いち支援機関(ドラマでいうところの、いち登場人物)に、相談支援専門員というのがあるのだ。
それぞれの支援機関には、重要な役割があり、どれが欠けてもいけない。
そして相談支援専門員の場合は、制度の定めるところにより、書類系の総合的なやり繰りや、計画案・計画書の作成、モニタリング、そして計画案を作成して受給者証が発行されれば、それに伴う担当者会議を開催するのが義務であった。

そう、相談支援専門員は、どちらかというと、『仕切る・進行させる』的な役割が与えられる立場だったのである。
一般に『仕切る人』や『進行する人』、『招集をかける人』は、【上】に見られる。
会社組織に於いても、会議を招集する権限のある人は、やはり【上】の人だろう。
だから、相談支援専門員が、妙に【上】みたいに見られたのだ。

私は【上】だなんて思われたくない。
『偉くなりたい』というタイプとは違うし、そういう意味でも、見た目的印象から【上】と見られる窮屈さには、内心耐えかねるものがあった。


ここ最近、私の仕事は、事務所内でのいろんな入力作業や単純作業などが、ウエイトを占めるようになっている。
もちろん、他にも色々あるが、内務的な仕事に費やす割合のほうが、明らかに増えたのである。
私はこれを、純粋に有難いと思っている。
元々私は、単純作業は決して嫌いなほうではなかった。
寧ろ、かなり長時間集中力が持つほうで、それを強みだと評価されたこともあったのだ。

だけど今は全く違うアプローチ、即ち、「単純作業に長時間割いていても、急な他の仕事にほとんど干渉されない。内務的役割に集中することが許される立場になった」ことに、大変な喜びと有難味を感じているのだ。
単純作業ならではの安心感や平穏さというのがある。
『単純』という言葉の語感から、どこか敬遠されがちなところはあるが、今の私だから解る良さというものがあるのだ。

計画相談の時代、余りにも多方面に、敢えて『自分の判断という体(てい)で』首を突っ込んでいかないとならなかった。
人に自分でも解らない分野のことを聞いたり、人が訊かれたくないであろうことも訊かなくてはならなかった。
これ以上範囲を広めたくなくても、広めない自由というのは無かった。

殊に緊急の会議ともなれば、周りに「あの人も呼べ、この人も呼べ」と言われたら、やはり言われた以上は呼ばなくてはならなかったし、結果、自分ではまとめ切れない人数になってしまった。
だけど、自分のキャパシティーに合わせた仕事をするのが計画相談ではないし、会議でもいつの間にか自分は批判される立場になっていたのだと判った。

私は同時に2つ・3つのことをこなすのが苦手で、会議で聞きながら書きながらというのは、しんどい作業なのだが、担当者会議の場合、カンファレンス記録を書かないといけないから、ちゃんと内容を書き留めておかないといけなかったし、また、制度上、進行も招集も兼ねる役割だったので、会議については飽くまでも進行が目標であった。
前夜は必ず、何時間も進行の原稿を読み上げて練習した。
そして当日、練習通りの要領で進行出来なくなると、パニックになった(勿論その場では隠す義務があった)。

あんまりあちこちから、一括集中的に問い合わされるのは好きじゃなかった。
私は高機能自閉症(知的障害のない自閉症)という側面もあり、ただただアンテナを広げておく人生ほど不用心なものはない。
だけど、計画相談ではどうも、家にいてもあちこちからチェックされている様な感じがあったから、セキュリティー感が欠けてしまいそうな生活だった。

他人から強制的にドアを開けられるのならまだ分かりやすいが、自分からわざわざドアを全開して、丸で自分がそれを選んだかのように外向けに見せないといけないのが、何ともつらかった。
だから相談支援専門員としてフェードアウトしていった頃、私はつくづく思っていた。

『もう、周りいいや。これからは自分だ』

今までは、周りの都合に合わせるのが仕事だった。
周りで何かややこしいことが起こった時、自分も混乱しながらしかし、収集係は自分だったし、人の問題でも自分が問題を引き起こしたみたいだった。
そんな環境にいた反動で、自分の自閉的な一面が、より強くせり出したのだろう。
だからこその「もう、周りいいや」、そして単純作業に安息の地を求めた。

今は少し情況が変化してきている。
即ち、もっと外に出て、運動や行動にも参加してみようという気持ちになっているのだ。
私の職場は、運動体でもある。
計画相談の囲いにがんじがらめにされて、心は閉鎖的になっていたが、その間も外ではいろんなことが起こっている。
檻の中に閉じこもっているのではなく、外の現実にも接してみようという訳だ。

外に出ると言えば、現在の私は、「旅行に行きたい」、「趣味が目的の外出をしたい」という気持ちを持てる生活になっている。

計画相談の制度に変わる以前、『旅行に行けるのはすごいことだ』とは普通に思っていたが、『旅行に行きたいという気持ちを持てるのはすごいことだ』とは、一度も思ったことが無かった。
こうした、人間としての気持ちの存在そのものが『決して当たり前ではなかったんだ』と気付いたのは、人生に於いてプラスなのかも知れない。

約1年半、カウンセリングにもほぼ毎週通っている。
そういう時間も設けることで、この試練を掻い潜ってきたし、最初にカウンセラーから「根箭さんの仕事はどういう仕事ですか?」と訊かれた時は、暫し間(ま)を置いて、「自分次第で、人に迷惑が掛かるかどうかが決まる仕事」と答えたものだ。

迷惑は、これからも周りには掛けると思う。
もちろん、本当は掛けたくないが。

ただ、計画相談の時は、周りは常に私を気に掛け、ほっといたら利用者さんが困る結果になると思ったら、それを回避すべく周りで相談し合って、私にどんなフォローをしたら混乱させずに済むかを考えてくれていた。

それでも私は混乱したことが多かった。
今改めて、心苦しく思う。
計画相談は、自分の本質が分かった仕事だったが、これからは、今一度自己肯定感を復権させられる社会生活を送っていきたい。
喜怒哀楽、どれも感じながら・・・・・。

今日でブログ開設12周年。

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 22:52│コメント(2)トラックバック(0)

2017年01月03日

結局はこういう事だったと思う。
計画相談で自分が直面していた現実は、『自分を殺さなきゃ自分は生き残れない』というものだった。

意味が解らないという方も、おられるだろう。
確かに、これだけ聞くと、一見意味が通らないと思うかも知れない。

もう少し言葉を補足すると、『自分の素の部分や特性を消さないと、肩書きとしての自分は生き残れない』ということだ。
要は、『自分というものが生きている状態で仕事するのは適応とは言えない。相談支援専門員という肩書きらしさだけを前面に出して、初めて適応と言える』という話だったのである。

以上。


・・・・・・とまあ、これだけで終わらせても別にええんやけど、もうちょい喋くろうか。

私は、およそ自分を消し去らなきゃいけないというプレッシャーに迫られたことは、人生でそんなに無い。
役者を目指していた時は、役者というのは役の人物になり切ろうと思ったら、自我というものを捨てなければならない。
だから究極の『自分を殺す』になっていたとも取れるのだが、不思議と芝居で他人を演じるというのは、今やれと言われても苦にはならない
寧ろ、違う形で自分の内面を結果的にあぶり出せそうな予感もするから、楽しみに感じるのである。

しかし、役職や肩書きとしての自分を『振る舞う』ということは意味が違う。
型にハメ、表現に意識を向けてはいけないという世界だから、窒息死しそうになるのだ。
実際、相談支援専門員という肩書き枠で生きていた時は、内心、真空パックみたいに感じており、前回投稿でも書いたとおり、食事をしていてもどこか無味乾燥だった。

『制度としての自分』を演じなきゃダメだから、『個人としての特色』は削除しなければ適応とは言い難かったのだ。

明らかに、職場の私に向けての空気も、『計画相談の良さに気付き、計画相談を受け入れてこそ、最大級に歓迎出来る』というものであった。
別に素の自分のままでも嫌われることはないし、障害特性の存在も理解はしていたのであるが、それでも皆にとって一番無難なのは、飽くまでも私が計画相談をプラスに思え、相談支援専門員的な毎日を送ることに馴染むこと、というのは、厳然たる事実だったと思う

だから、私は自分のことを「頭がおかしい」と思ったこともあった。

「どうして計画相談が好きになれないのだろう?」
「こんなにも計画相談に馴染めない俺って、人間性がおかしいのではないか?」
「もっと計画相談と一体化しなくては。だってそうしないと職場を裏切ることになるだろう!」

いろいろ罪に感じ
、計画相談を受け入れられない自分を一心に否定しようとした。
変わらない自分を否定することにこそ、価値があると思った。
だけど、結局は無理な相談だった。
自分は、自分以上にもなれないし、自分以外にもなれない。好きも嫌いも、自分は自分でしかいられない。
散々もがき苦しんだ中で辿り着いた、これが結論だった。

前にも書いたが、『相談支援専門員』と口にするだけでも気が重く感じていたし、他の同職の人に相談することも下手だった。
どのタイミングでどうやって相談したらいいか、切っ掛けを掴みづらいのもあったし、何より怖かったのは、周りに相談すると、先ずは自分の社会感覚のズレを指摘されるところから始まることだ
いろいろ、私の考えの中身や方向性の間違いをダメ出しされ、混乱の嵐が吹き荒れる中、感覚の訂正から入らないといけなくなる
これが怖くて、人に相談することは、かなりのハイリスクだったのだ。
元来、精神的に弱い人間だから、いざ相談するという覚悟も、なかなか決められなかった。

今は、「何で物事を、そこまで一面的に考えていたんだろう?」と疑問に思う。
「そこまでして、計画相談一つに偏重しないといけない世の中とでもいうのか?」という気持ちも当然あるが、当初はなかなかそんな大胆な事を切り出す度胸はなかった。

世の中、好きなことを仕事にしている人はそう多くないかも知れないが、ここまで嫌いな(苦手な)ことを仕事にしていた人や、嫌いな仕事を好きに思えないことを異常だと感じた人も、また多くはないかも知れない。
『仕事が大好きだから、どんなに頑張っても無理だと感じない』という人と過去に出会ったことがあるが、そういう人の人生とは、およそ対極の世界で生きていたと言える。

俺は自分を殺せなかったが、それによって自分は生き残った。

これからは、仕事もそうだが、やはり一度しか無い人生だから、もっと楽しんで生きるようにしたい。
もう、そんなに若くはないんだし。

トコトコ日記(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 15:25│コメント(4)トラックバック(0)

2016年12月03日

今振り返って、何でオレは一旦は、ここまで計画相談の受け入れてしまったのだろう?と、多少は後悔の念も混ざりながら、不思議がることがある。

もちろん、直接的な理由は飽くまでも「制度のため」である。
それはそうだろう。だって制度が変わったから、もう事業所としての体制的にそうならなくてはならなくなったのだから、時代に従うしかないのである。

別に私が個人的にどう思ったからとか、気持ちがどうこうとか、意思がどうこうだとか、そんな自発的な理由ではない。
飽くまでも、制度が変わって「こうなるべき」という環境になったから、環境に編入、または制度に編入されたまでの話だ。


しかしそれでも、本当に向いていないとこの時点で明白になっていたならば、さすがに違う選択肢を採っていたことも有り得ただろう。最終的に計画相談の業務を受け入れた背景には、2つの大きな勘違いがあった。

1つは、『利用者と過去に関わりがあったという経験が、ものすごく役に立つ』というものである。
私はまだ、障害者の制度そのものが誕生する5年前から、この世界で働いている。だから当然と言えば当然ながら、過去に介護に入った等で、面識・関わりのある当事者が多かったのだ。
従って計画の制度になるにあたっても、私の事業所に作成依頼が来た当事者の中には、元々私と関わりのある人が、少なからずいた。
そういう人の多くは、実際、私が担当になった。
理由も、「(私が)本人のことを以前から知ってるから」

そうしたこともあって、つい私も、本人との関わりの経験が、計画相談でものすごくプラスに生きると錯覚してしまったのだ。
実際には、完全にとは言わないが、過去に対象当事者と関わりがあったか無かったかというのは、大して意味は持たない。
そういう、人との関わりの経験がモノを言うという業務では、必ずしもないからだ。

やはり大切なのは、計画相談として間違えずに制度的な手順を踏まえ、行政に対する交渉力や説明力があり、書類的なことや対応的なことなど、実務能力があることだ。
ことに行政に対しては、過去の本人との関わりなど、事も無げに否定されるようなところがあった。
20年も前から一人暮らし(ヘルパーが付いての)をしている対象者が、一人暮らしを続けるのに必要な時間数を計画案として出そうとしたところ、『グループホームが何故向いていないと断言出来るのか証明しなければならない。この計画案では、審査会にも通せない』という結論になった
要するに、計画案を私が解っている実情に基づいて立てたところで、審査会が余計なテコ入れをしてハネるからアウト、となりかねなかったのである。

結局、私一人の無力さでは太刀打ち出来る訳もなく、理事長にいろいろ作戦を立ててもらって一緒に動き、ようやく時間数が下りた次第である。
表向き、担当は私ということになってはいたが、実質的には上司の戦術に頼りっきりで、自分の無力さに対する気付きを得ただけという部分が、大きかった。

幾ら対象者と過去に面識があるからと言って、計画としての様々な実務能力が無くては意味が無い。
過去の関わりが生きる、というのは大方、絵にもならない幻に過ぎなかった。

2つは、『障害当事者としての自分らしさが、計画相談の中で光っていく』というものだった。
これなんぞは、とんでもない大勘違いである。
今思い返したら本当に、『アホか!』というような寝ぼけた発想であった。


計画相談というのは、なるほど、支援する対象者というのは障害当事者だし、関わる対象というのは、当事者の家族など、障害者支援の関係者である。
但し、それらの人と関わる相談支援専門員自体は、飽くまでも定型発達の世界であり、一般概念の世界である。計画相談の空気というのは、標準の社会人的な空気であって、とても発達障害(ADHD)としての特性が共存出来るような空気感ではないのだ。
相談支援専門員は、一般企業にも通用する社会感覚を持つ人に適した職種なのである。


実際、相談支援専門員をやっている同僚も言っていた。「計画相談の世界は、(CIL豊中の職種の中でも)かなり一般企業の感覚に近い仕事だと思いますよ」。
それだったら、私が自分の素の姿だけでは適応出来る筈がないのだ。
実際、やってみたらそういう現実は痛いほど身に染みた。
私も空気が読めないようで、実は妙に察知出来るところがある。

相談支援専門員としての現場に於いては、一部例外はあったかも知れないが、ほとんどの場合、『自分の障害特性を活かして、その中で個性を光らせ、生き生きと社会生活を送る』というのは、空気感的にとても無理であった。
何とも甘い幻想を抱いていたものである。
そして最後に『優等生願望』だ。これ、俺にもやっぱりあるんだなぁと、つくづく思った。

ある時期まで私は、積極的に計画の業務に取り組む姿をアピールしていた。
これは一つには、慣れ親しんだ支援センターの業務である以上、私もどうにかして適応出来る術がある筈だ、という、何やら『神話を信じる』にも近い感情が働いていたこともあるのだが(もちろん、一方で心のどこかでは現実を悟っていた)、計画を頑張ることで周りも安心してくれるし、評価されることで自分もホッとしていたのだ。
やはり自分が何を期待されているかと言えば、これからの時代は飽くまでも計画相談であって、周りの期待に応えられる自分でありたい、という願望もあった。

体調さえも悪くなるほど機能不全に陥っていた頃、私が2つの酷似した書類の区別を見付けようと思ってどうしても見付けられず、3時間ぐらい頑張ったところでとうとう同僚に「違いを教えて」と頼んだら、「自分から何が必要で何が解らないかを見付けて、訊いてきてくれたのはすごく嬉しい」と評価された。
やはり評価されると、それが束の間でもモチベーションになったのだ。
結局は心身ともに状態が悪化し、全て『失せる』ことになる訳だが・・・・・。

ちなみに、違いを見付けられなかったという2種類の書類は、実は同一の書類で元より違いが無いことが同僚のチェックが入った結果判り、実際よく似ている2種類の書類をファイルから取り出す際、同じ書類を2枚取るミスを犯していたことが判明した。
しかし、2枚とも既に利用者さんの署名と印鑑をもらっていたため、結局私は、2枚の書類の内の一方を、その日の内に慌てて記入して、利用者さんに無理を言ってお宅に訪問させてもらい、事情を説明してもう一度署名と印鑑をもらうという手間を取らせてしまった。

この様に、私が後々『距離を置きたい』としか感じなくなった役職に、一度は適応しようと、なまじっかな前向きになったのは、制度に編入されるしかないという現実もさることながら、私の大きな勘違いや褒められざる願望があったのである。

トコトコ日記(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 22:29│コメント(0)トラックバック(0)

2016年11月10日

トンネルの、最後の難関・・・・・。
それは、変更に伴う事業所を見付けることであった。
変更で介護体制が大幅に変わったから、新たにその介護にはいってもらえる事業所を見付けなくてはならない。
しかも、普通に考えるならば極めて見付かりにくい条件の内容だったため、必死で探したのだ。

計画相談だし、「そういうのは難しいから無いですよ」は通用しない。
与えられた条件だから、そのとおりに探して見付けるのがノルマで、ノルマ達成が当然の目標だった。

既存の事業所には勿論、早い段階で2回相談したが、いずれも対応出来ないという返答だった。
だから新しいところを探すしか無かった訳で、探しに探して漸く奇跡的に見付かったとしても、だからそれでいいという話ではなくて、やはり利用者さんと相性が合って、気に入ってもらえるかが肝心だった。

難壁をエグッてホントに奇跡的に見付かったその時、関係者から一本の連絡が入った。
「既存の事業所で何とか繋がりそうな状況になってきたから、新しい事業所探しは保留にしてほしい」
一瞬頭が真っ白になったが、結果は既存の事業所で繋がることになったので、見付けた事業所は断らなければならなかった。


実は、別にADHDの症状という訳ではないのだろうが、私はとにかく必死のパッチで、わらにもすがるかのごとく、ものすごいテンションで事業所に依頼をしていた。
依頼の仕方が激しかった分、直後に断るのは余程神経を使わなくてはならなかったが、まあ計画相談だし、要するにそういうのも仕事の内だ。

私は悩みに悩んだ末、敢えて少し日数を置いて事業所に電話をし、断るだけではなく、もう1ヶ所、『急ぎではないがヘルパー事業所が見付かったら有難い』と言われていたケースがあることを思い出した。
早速その対象者に電話をして意思確認を確認した上で、いよいよ件の事業所に電話をし、『先ず新規ケースを紹介し、そのあと、この間言っていたケースは状況が急に変わって断らざるを得なくなったと伝えた』。

結果はOKで、新規の仕事を持ってきただけあってそのことに感謝をしてもらえ、且つ、断ったほうは「状況の変化はありますので」と理解を示してくれた。
テンションが上がり過ぎないよう、気を付けて断ることが上手く出来たから、全身の力が抜けた。
最後の難関は、こうして肩透かしを食らう形ではあったが、無事決着がついた。

さて、その間に、新しい相談支援専門員へのケースの引き継ぎは順調に進んだ。
そして、長らく自分を悩ませていた2つの身体症状、『呼吸のしづらさ』と『歯茎の痛さ』も、引き継ぎが進むのに伴い、解消されていった。
自分の名刺も、『相談支援専門員』の肩書きを削除した、新しい物に作り替えた。

身体症状の内、半年以上、断続的に(最後は連日)起こった『呼吸のしづらさ』については、メンタルクリニックの診断で、実はパニック発作だったことが判っていた。
曰く、「一見パニック障害の症状に思えるが、根箭さんの場合はいわゆるパニック障害があるというのではなく、発達障害の二次障害としてパニック発作が起こっている。要するに環境が障害特性にとって良くないから、パニック発作が出る訳であって、環境を改良することで解消させることが出来る」

ネットで自分でも調べてみたら、発達障害に二次障害があることが分かった。
二次障害というと、脳性麻痺など、身体障害の現象のように思えていたのだが、発達障害にもあったのだ。
原因は環境だった。
そういう発作が起こっていることも確認されたから、診断書→相談支援専門員退役となったのだ。
合理的配慮だった。

パニック発作が癒えたことで、普通に健康を感じて暮らせるようになった。
食事も、ただ無機質に食べていただけ、という感触も強かったのだが、楽しんで、味わいながら出来るようになった。
人間、やっぱり食事を楽しめるというのは大きいと、つくづく実感している。

食事といえば、昨年11月11日〜11月16日まで、私は急性腸炎になった。
ただ、直接の原因が計画相談の書類の動き上の大きなミスで、それさえ無ければ、九分九厘急性腸炎にはなっていなかったので、今でも思い出すと苦しい症状と共に、とても事前に防ぐには限界を超えていたレベルのミスに対して、悔しさも蘇ってくる。

急性腸炎では、生涯最大の腹痛を体験した。
水も薬も、点滴さえも受け付けなかったので、
まだ当月更新で計画案を出していないケースもあったのに、こんなことでどうする!と、内心自分を叱責していた。
計画案が間に合わなかったら、またそのせいで自分が利用者さんを困らせることになるだろうが!と。

ずっと、休日返上は当たり前、振休という言葉を死語にして皆勤を続けてきたが、急性腸炎によって、2日連続の欠勤を余儀なくされた。
結局、いろんな休日出勤を集めて、その内の振休という形で処理してもらった。
全ては行き届いた多方面への確認と、書類の原本的な気付きが欠けていたから起こった悲劇である。
あんなエゲツない腹痛は、もう二度と味わうもんではない。

このように計画相談には、色々な書類チェックが山ほどある。
今年夏、或る一斉確認作業があり、その作業を、自分の旧肩書きでの最後の仕事としてやった時は、先ずペースが早過ぎるのと、話の内容が複雑過ぎて全然付いていけなかったが、自分が調べて対応すべき範囲が終了すると、これをもっていよいよ、旧肩書きは終了した。

2016年9月30日限りで、正式に相談支援専門員の職を終了。
約3年間苦しめられ、自分を発達障害の診断へと推す引き金になった業務は、ようやく終結となったのだ。
いろいろな幸運や配慮があってこその前職終了、本当に感謝感謝である。

トコトコ日記(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 10:49│コメント(0)トラックバック(0)

2016年06月26日

3月中旬のある日、私は理事長に呼ばれて面談室に行った。
特に理由に心当たりが無かったので「何やろな?」と思って行ったが、そこで思い掛けないことを言われた。

先ずは、「根箭君、今でも毎週、メンタルクリニックにカウンセリングと診察に行ってるのか?」と訊かれ、私が「はい」と答えると理事長は、「次に行った時、診断書を書いてもらってきてくれ」と言ってきたのだ。
「診断書ですか?」と私がややビックリした顔をして聞き返すと、理事長は更に予想外の話をしてきた。

「今月でヘルパーステーションの管理者が退職するのは聞いてたと思うけど、実は4月から支援センターに転属になって、相談支援専門員をやる事になった。既に研修は受けている。当人は『ケアマネの仕事をしたい』という理由で退職を希望していたから、ケアマネの仕事だったら、相談支援専門員は障害者版ケアマネのような存在だから、仕事内容はよく似てる。やってみないか?と訊いたら、数日して『やります』と返ってきた。ついては根箭君のケースを丸々引き継いでもらうことにしたので、来月からは根箭君は2人一組のように動き、9月末をもって相談支援専門員としては終了とする。それをやる上で、根箭君自身の現在の状態を、専門医の見立てで判断してもらう方がより根拠付けになるので、診断書がほしい

私は、このタイミングでいきなりトンネルの出口が見えてきたという展開に驚きながら、取り敢えず診断書については「解りました」と答えた。
そして数日後、いつものようにメンタルクリニックにカウンセリングに行った私は、開口一番、「計画相談の仕事を辞めることが出来るようになりそうです!」と、顔に喜色を浮かべて伝えた。
カウンセラーも思わずビックリした反応をされたが、私も内心まだ半信半疑な部分がありながらも、理事長より言われたことを丁寧に復唱したのだ。
そして言われていたとおり、診察の席で院長先生に診断書の発行をお願いした。
経緯を訊かれたので要点を説明した後、私本人の気持ちとしても、「元々自分に合わないと解っていながらも、無理して相談支援専門員をやっていました。だけど、呼吸が苦しくなったり(後日、発達障害の二次障害でパニック障害の症状が併発していたと判明した)、歯茎が痛くなったりするという身体的症状もあり、混乱ばかりの仕事で自分でも限界です」と打ち明けた。

院長先生はすぐに診断書を発行してくれたが、そこには「患者(私)は以前より、コンサータとレキソタンを服用している。現在の職務は負荷が多く、配属替えが望ましい。根本的に、多くの人や機関と頻繁に絡まなくてはならない職種は、適していない。発達障害の特性が根幹にあることを、無視してはならない」と書かれていた。
スーッと呼吸が楽になったような気分で、翌日、早速理事長に診断書を渡すと、「よっしゃ」と言って受け取った。読みながら、「薬飲まないと仕事に耐えられないっていう時点でなぁ・・・・・。ほかの相談支援専門員は、おそらく誰も薬は飲んでいない」と言ってきた。

かくて私は昨年度末をもって、引き継ぎ期間ののち、相談支援専門員から引退出来ることが、正式に決定した。
「どうせ今年1年も、ずっと計画をやっていくしかないんだろう」と観念していたところへの、突然の今回の動き、未だにほっぺたをつねりたい様な心地だ。
4月1日、年度初め初日がちょうど定期会議の日と重なり、席上、理事長より今回の私の牋枡悪瓩里海箸報告された。
「何か一言」と振られた私は、「今まで計画相談の仕事を辞めたいと言い出せなかった理由は、結局ほかのスタッフに負担を押し付けるだけの話だったから。つまり、まさか新しい相談支援専門員が一人増えるとは、夢にも思っていなかったという事。他のみんなも大変な思いをしながら計画相談をやっているのは、見ていてよく解っていた。それだけに、自分だけが計画をやらずに、それでも変わらず支援センターに勤務出来るか、自信が無かったが、今回の理事長からの提言で吹っ切れた。感謝している」と、胸の内を素直に話した。

一人の障害当事者スタッフ(相談支援専門員ではない)から、「これを機に、ピア・カウンセリング集中講座も受けてみたら?」と提案され、私も、「まさに自分でもそれを考えたかった。前々から受けたいと思っていたが、どうせ計画相談に時間を食われて余裕なんて無いんだろうから、所詮、受講は無理だと諦めていた。今後、時間に余裕が出来たら、早期に受講したい」と前向きな気持ちで答えた。

これで、事務所全体にも認知してもらえた。
本当に感謝感謝だし、絶妙のタイミングで新しい相談支援専門員が入ったことを先ず幸運だと思ったし、今後も現在と同じ勤務態勢で支援センターで働けるという事を、心から喜ばしく思った。

・・・・・まだ、山はあった。
動きが激しくて、レアな条件で事業所を探さなくてはならないケースがあったのだ。
あちこち同時進行で連絡を取り続け、調整をすることは至難の業だった。まさに診断書に書かれていた『根幹に障害特性の問題』というものだったが、最後の大きな山を越えるしかなかった。
会議のセッティングや進行も、今まで散々緊張の連続で神経がすり減っていたのを、もう一辛抱という気持ちで残りの会議をこなそうと努力した。

決して間違いばっかりだった訳ではない。
だけど多くの場合、いつの間にか自分が大きなミスを犯していて、本来なら気付かないといけないタイミングでは、全く気付く余地が無かった。
計画相談はとにかく、「いつの間にか」が多過ぎた。それもこれも、自分の書類的な気付きや、受給者証的な気付きが弱過ぎたせいだった。
一方で、役割を過剰に捕らえ、動き過ぎて「そこまで抱え込むのはおかしい」と注意されたこともあった。
だから最後まで自分の立ち位置を掴みかねる仕事だったのだ。

そんな暗いトンネルの日々からも、漸くおさらば出来る時期が見えてきた。
とにかく、今は最後の難関を・・・・・。
しかし、この難関は意外な肩透かしで決着が付く事になる。(つづく)

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 16:52│コメント(0)トラックバック(0)

2016年05月03日

今年に入り、本来なら、もっとエンジンが掛かる筈であった。
負担が10から6または7に減るであろう計画相談の業務に向けて、新たにモチベーションが生まれると思ったからだ。
「少なくとも今年1年は計画相談に耐えていける」
そう、ポジティブに捉える自分もいた、ほんの一瞬・・・・・。

いざ今年の仕事が始まると、私はどこか、計画相談の仕事を避けようとしている気持ちがあることに気付いた。
極力、計画相談以外の仕事に集中することで、自分を言わば『蘇らせよう』としていたのである。
1月4日、仕事始めの日、私は計画相談の仕事を全くやらなかった。
仕事は幾らでもあったのだが、「せめて正月明けの日ぐらいは」という気持ちで、ひたすら広報誌など、計画相談以外の仕事だけを夢中でやった。
この時点で、歯車が狂っていることに気付いていた。

相談支援専門員』・・・・・。
電話で自らをこう語るのも、何やら内心疎ましくなっていた。
言葉だけで疲れを感じるのである。
1月中旬の時点で、完全なガス欠、エンストの状態であった。

しかし、相談支援専門員である限り、現実は容赦がない。
まあ、社会人なのだから、仕事というのがそもそも容赦ないのは常識だが、それ以上、数段上のレベルに於いて容赦がなかった。
「そういう仕事なんだから」と受け止めるだけだったが・・・・・。

去年を10としても、今年は9ぐらいにしかならなかった。
8以下を夢見る方が無駄になってきたので、毎日、障害特性や混乱に耐えながら、計画相談をこなすように努力していた。
でも、2月、3月と、物凄い負担度になっていた。
昨年、ケース数を減少させていたことは、ここまでくると本当に命綱だった。

状況の変化に対応し、急な変更に対応し、変更なんだから書類があるし、書類仕事が増えることをしっかり受け止めなければならなかった。
会議その他、多機関との調整や連絡等々も忙しいのも、飲み込むのは当然であった。
しかし、そのための精神的キャパシティーが、去年よりもグングン増えると昨年末時点では期待していたのだが、減少の一途を辿った。

ショックだったのが、一度あれやこれやの調整に追われ、パニックから自傷行為が出てしまったことだった。
事務所の中では久しく起こっていなかったのだ、感情抑制のための薬を飲んでいるから。
それが、薬をいつもどおり飲んでいたにも関わらず
、一度だけではあるが、自傷が出てしまった。
当分の間、ショックを引きずっていた。

難しい動きや条件の中で、一つ報告をすると、その結果としてかえって仕事の難易度が上がったりもした。
だから報告したからと言って、それでそのまま負担度は変わらないとは、思ってはいけない事が解った。
ましてや人に相談するというのは、その結果として、より難しい課題を突き付けられたり、混乱の度合いが増えることだって、充分に想定しないといけないのだ。
相談する前よりも、相談した後のほうが、負担が軽くなることを期待しているのなら、相談するのは止めなさい、と自分に言った。
何事も、甘くみてはいけない。


2月以降、2つの身体症状が、私を悩ませていた。
一つは、呼吸のしづらさである。

去年の夏頃にも一度覚えたことがあったが、その後、症状が出ていたのか治まったのかよく判らないまま、気が付いたら数ヶ月が経っていた。
ここにきて、今度はかなりしんどい症状となって、現れた。

事務所にいる時も、実家にいて急に計画相談に関する電話が掛かってきた時も発症はしたが、一番多いのは、仕事の後、家に居る時であった。
とにかく呼吸がスムーズにいかない。
一瞬、不整脈か?過呼吸か?それとも動悸か?なんや?と思うような、息がしにくい症状である。
対処法は、ひたすら深呼吸をすることであった。
深呼吸に集中することで、楽になってくるのである。
焦って普段通りに呼吸をしようとすると危ない。
深呼吸をして、その上で、処方されている抗不安剤を飲んで早めに寝る、これが一番だった。

「眠れるのか?」と思われるかも知れないが、抗不安剤は導眠剤でもあるのだ。
幸い、薬を飲めば効いてくれて、次第に症状が楽になるのを覚えた。

ジムで運動している時などは全くどうもない。
つまり、原因は精神的なものだとハッキリ判り過ぎているから、心臓内科に行こうなどとは、はなっから思わなかった。
でも、夜、家ではほぼ毎晩キツかった。
こんなんに慣れないといけないというのは、過酷だと感じたが、やっぱり今の制度だから計画をやらないといけない、と思った。

もう一つの身体症状は、歯茎の痛みである。
口の中全体、歯茎がうずく様に痛くなってきたのである。

歯の痛みというのも、本当につらいから厄介だった。
これは事務所に居る時によく発症した。

こちらのほうは、或いは虫歯もあるかも知れないと思い、掛かり付けの歯医者に行ってみた。
そしたら、やはり虫歯も2本ほど発生しており、このまま放っておくといずれ自覚症状が出てくるという事だったので、治してもらった。
歯茎の痛みについては、「長時間パソコンの前でしんどい業務に集中していると、口の中が乾き、その結果雑菌が入りやすくなる。それと、日頃から歯を喰いしばっている事はないですか?」
と訊かれた。

私は、実際にはマンガみたいに歯を喰いしばる顔はしていないものの、気持ちの上では常に歯を喰いしばる思いで仕事をしている、と答えた。
どうやら、無意識に歯に力を入れている可能性もありそうだった。

総合的に難しい仕事だった。
先ず自分がどういう立ち位置で、どこまでが自分の負担で、どこまでは抱え込まなくていいのか(というより抱え込まないほうがいいのか)、自分の仕事の範囲をどう捉えるべきなのか、という解釈が難しかった。
それと、制度のガイドラインも、読んだら読んだ箇所を暗記は出来ても、意味は正しく飲み込めなかった。

そういう業務への適応を強いるしかない、と思いながら、身体の症状の内、特に呼吸の違和感のほうは余り人にも言わないまま、とにかく対処すれば良いと判断していた。
そんな中、3月に入って、事態は思いも掛けない方向へと進む。(つづく)

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 00:36│コメント(2)トラックバック(0)

2016年03月29日

今年になって、これが最初のブログ投稿となるが、本当は年明け早々にも上記タイトルで書くつもりでいた。
ロクにエンジンが掛からず、漸く掛かった(というより、半ば無理矢理掛けた)後は、結局はまた余裕の無い日々ばかり送る内に、いつしか3月も終わりになってしまった。

前回、前々回での投稿でも書いたとおり、私は相談支援専門員という、大変にハードルの高い仕事をしている。
通院・服薬・カウンセリングの三点セットが揃って初めて何とか勤まるという仕事で、服薬もせず、しらふで勤まる仕事ではとてもない。
負担度は並大抵ではないのだ。

その『負担度』について、昨年終盤、軽減処置を施してもらった。
私から見れば、かなり大胆とも言いたくなる軽減処置を実施してもらったのだが、その切っ掛けとなったのは、カウンセラーからの助言であった。

カウンセリングは、昨年の10月から受け始めた。
間もなく半年になる訳だが、受けようと思った動機は、昨年の9月にメンタルクリニックでのピアセッション(同じ障害の人たちが集まっての、勉強会)に行った際、ピア仲間が私の異変に気付き、「絶対に一度カウンセリングを受けたほうがいい。お金を払って受けるだけの価値はある」と勧めてきたことだ。

実際に受けてみて、先ず何よりも、『中断の心配が無く、自分が話や相談を出来る時間として、一定時間が保証される』というのが、どれだけ心を落ち着かせるかが分かった。
そして、『自分の脳内の混乱ぶりを自ら整理し、言葉に変換することで、状況確認につながる』ということも分かった。
この2つが、カウンセリングを受けて得た気付きであったが、初回の時、私は1時間の持ち時間の中で、ひたすら、同じことを繰り返していた。
それは、『業務環境への適応』

そう、『業務環境への適応』こそが、相談支援専門員という狷饋Νを続ける上で、何よりも基本であり、大切なことだったのだ。
これ無くしては、計画相談業務の狷饋Ν畄兮海詫り得なかった。

『障害の受容』というのも、大切であることは昔から解っていた。
しかし、計画相談をやる以上、あまり『障害の受容』という方向に気持ちが行くと、それは客観的業務的なことより、個人的主観的な事情に、重きを置くことになってしまう。
そうなってはいかに服薬をしているとはいえ、業務に対して後ろ向きになってしまうから、やはり『業務環境への適応』を第一に考えたのだ。
要するに、理想論ばかりでなく現実的に、ということであった。

この、『業務環境への適応』という言葉を、バカの一つ覚えみたいに何度も何度も口にしていた、カウンセリング初期の私であったが、次第にカウンセラーから、助言が出てくるようになる。
それは、『負担を軽減したほうが良い』ということであった。
ハッキリ言って、その頃の私は負担が基本と思い過ぎて、どの程度自分で負担を自覚しているか、サッパリ判らない状態だった。
それでいて、体調には微妙な違和感を覚えつつあり、それを意識的に蹴散らしている状況だった。
カウンセラーという第三者で専門職の人から、「負担が大き過ぎる」と言われたら、それは意味のあることになるのは確かだった。

同じ頃、実は職場の同僚の一人からも、同じ事を言われていた。
その同僚は、それより2ヶ月ほど前に入職してきた相談支援専門員で、一通り仕事の流れや職場の様子を把握した上で、私に一言、こう言ってきたのだ。
「根箭さんはケース数が多過ぎると思います」

同僚は私の職場でこそまだ新しかったが、他事業所で充分なキャリアを積んでいるほか、社会人としても私とほぼ変わらない年数、過ごしている。
その同僚の目線から、「ケース数が多過ぎる」と言われたならば、これも一つの客観的見方と言えた。
カウンセラーと同僚、この2人から、偶然にも同じ時期に『負担が多過ぎ』という指摘を受けた私は、そのことを或る機会に理事長に報告、すると理事長も、「やはりカウンセラーの視点からそのように言われているのなら、無視しないほうがいいな」と言ってきた。

私のケース数減少・負担軽減は、こうして実現する運びとなった。
この後、事務局会議に於いて私自ら相談・依頼を行い、結果、受け入れられて、現在に至るケース数減の体制となったのである。

「今年を10としたら、来年は6ぐらいの負担度になる」と理事長も昨年末、私に一言声を掛けてきており、私は波乱過ぎた昨年の流れを断ち切り、気を新たに今年の正月を迎えた。
しかし、そこから始まったのは意外な展開であった。(つづく)

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 22:07│コメント(0)トラックバック(0)

2015年12月30日

今年(2015年)も間もなく終わる。
今年は本当に、振り返ろうとしてもフーッと気が遠くなるような、目が回り過ぎる一年だった。

社会一般に於ける、今年を表す漢字は『安』だったようだ。まあ安保問題から来たのだろうとすぐピンと来たが、私個人にとっての今年を表す漢字はというと・・・・・、

』である。

とにかく、緊張の絶えない1年だった。
緊急への対応という役割が否応なしに増えたし、カンファレンスや役所との交渉等、緊張との闘いを強いられる役割を、自分が果たすのが責任となった。
制度が変わり、相談支援専門員が抱えるべきとされる範囲が増えたからである。

自分の不得手な面や役に立てない面が、常に先行々々で前面に出たし、障害(ADHD)の影響とも受け取れる、自分の悪い面での特徴が放出された。
自分は確かに発達障害があり、どうしても健常者とは違うのだということを、再自覚した一年と言える。


もちろん、障害に甘えない、障害を言い訳にしない、障害に逃げない、障害を免罪符に使わない、といったことは、大切なルールである。
社会で生きていく上で、人からの信頼を失くすことが一番いけないから、自分に甘くしないことは、自分なりには心掛けたつもりである。
しかし、どう評価されるかは、それは周りが決めることであって、下手に自分で評価しようとしても、結局は自分に甘くなってしまう。

今年は『』な年であった。
『急』でもいいかな?とは考えた。常に急ぎの仕事のオンパレードで、ことに手続き事や事業所探しは、急ぐことが何より大切で、ノルマとなるからだ。
「気が急(せ)いて」という言葉もあるが、より自分の心境とか内面をあぶり出すという点で考えると、やはり『』かな?と考えた次第である。

今年はいろいろと日常生活が変化した年でもあった。
6月末頃より、睡眠状態や仕事に対する頭脳的なスタミナに急激に異変を感じ、7月から毎日服薬と隔週通院が始まった。
今では服薬をしない場合、計画相談の仕事は半日も集中力が持たない状態になった。
来年も、服薬あっての計画相談である。

そして10月からは毎週カウンセリングと毎週通院が始まった。
この、カウンセリングを受け始めたことが、自分の業務に対する姿勢や業務環境を変えることの、一つの大きな切っ掛けとなった
のだが、そのことの詳細については次の投稿で言及するとしよう。

一つ、結論だけここで述べておくと、来年以降、かなりの負担軽減を実現出来ることになった。
担当ケース数が20から14に減り、尚且つ一番難しい1つのケースが、自分単独ではなく、3人共同の担当となった。
これで来年は、極限まで負担がスリム化、つまり、今出来るギリギリのところまで負担を軽くしてもらった、そういう環境で送る1年となる。
その、来年1年間で、果たして自分がどうなるか?それによって、計画相談の仕事を更に続けていけるかどうかが決まる。
そういう意味では、来年1年間を表す漢字は、気が早いようだが現時点で既に『試』と決まっている。そして来年1年間、じっくり試した結果、次の年(=2017年)が始まった時点で、いよいよ自分が計画相談を続けていくかどうか、最終判断を下すことになるから、必然的に再来年の漢字は『判』となるのである。

翌年どころか翌々年の漢字まで決まった状態で年を越すのは、もちろん初めてである。だが、これは即ち、それだけ来年が、本当の意味での真価が問われる重要な1年になるということを、意味している。

『緊』な一年だった2015年だが、この『緊』の中には実は、良い意味での緊張感を味わったという体験も含まれている。
それは、クリスマスパーティーでソーラン節を踊ったことである。
ソーラン節に関してだけは、終始一貫、いい意味での緊張感を体験することが出来た。
9月〜10月頃、私は事務所では口をきく気力すら失せている状態であった。
旅行にも行く気が起こらず、もしまとまった休みと予算があるのなら、旅行よりは入院をしたい、と本気で考えていた。
周囲に辛うじて言葉を発する時も、「俺、もうこの仕事長くないよ」が口癖のようになっていた。

そんな中で唯一、自分が元に近い状態に帰り、生き返った気分にさせてくれたのが、ソーラン節の練習、そしてまずソーラン班の存在だった。
一人だけではなく、みんなでお互い合わせながら踊ったり、振り付けの打ち合わせをする中で、笑顔や、時には冗句さえも復活していた。
一番自分が危機的な状況だったあの頃、もしソーラン班が無かったら、どうなっていたか分からない。
会話や気力が戻る機会が少なく、本当に入院していたかも知れない。
その意味では、ソーラン班の存在に、心から感謝である。

今年を含めた3ヶ年、『緊 試 判』。
『緊』だけの年が延々何年も続くことだけは、メンタルや脳機能に弱点を抱える人間としては、出来るだけ避けたいところだ。

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 18:49│コメント(3)トラックバック(0)

2015年09月08日

5ヶ月ぶりの、ブログ更新となった。
「毎月更新」とか、背伸びした目標を立てるのは、もう止めよう。
ひんぱんにページ自体は開いているが、何だかんだ言って、書ける内容(=内面模様や近況)を抽出していくのは難しいし、気力がなかなか湧かない時も多い。
年に何回か、気が向いたら更新しよう。

さて、まだ「ようやく夏の到来」と思っていたら、超駆け足で暦の上での夏も終わり、もう秋口に入ってしまった。
今年、7月の初め頃から、私に新しい習慣が一つ加わった。
それは、服薬である。


今の仕事は、自分の障害の特性が非常に出やすいタイプの仕事だし、毎日が自分の特性との真剣勝負になっている。
次から次へと舞い込んでくる書類仕事に、書式順守の徹底、それに『この証書が発行されたからには、必ず担当者会議を開く』といった義務もあるから、会議の招集や進行(他機関や初対面の人たちとの)といった不得手なことも、絶対こなさなくてはいけない。

利用者の方の状況が変われば、直ちに事業所探しなど、とにかく緊急に見付からなくても探し続けるのが当然だし、複数ケースの想定外の事態やタイトな日程が、一気に重なることもままある。

今年6月〜7月に掛けて、いろいろ重なって全部急いでいっぺんにこなしていた。
理解が追い付く追い付かないではなく、とにかく状況に対応して期限を最大限早めて急ぐのが仕事だから、全部こなしていたのだが、その過程で定期診療・服薬生活に切り替わる結果となった。

現在服用している薬は2種類で、一つはコンサータ、もう一つはレキソタンである。
コンサータは、仕事の優先順位の整理を助けたり、一気にあれやこれやが重なってパニックになるという、発達障害で最も起こりやすい症状を和らげる作用がある。
そのため、他の発達障害者や類似した障害の人も服用しており、私自身も、発作的にテンパって訳分からなくなるという、本来の自分の部分が制御されている。

コンサータはまた、『脳のスタミナ剤』とも言えるような作用を併せ持つ。
発達障害、中でも私のようなADHD(注意欠陥多動性障害)の人は、普通の人(知能的障害の無い人)に比べて、集中力や注意力が続きにくく、また、普通の人なら何でもない細かい作業(書き写しや普段の喋り)に於いてミスが発生しやすいため、そのことに極端に神経を使い、結果、脳が疲れ切る。
また、慣れない面子や状況に於いて『自分が仕切る、上の側に立つ』という役割が、特に私の場合、天敵であるため、そういう役割(専門職の人も出席した担当者会議など)の後は思考不能に陥り、6月後半頃は、よく事務所で熟睡(居眠りではない。完全に意識が無い)してしまっていたのだ。

元々、長時間の会議に集中するのは不得手なほうで、会議の回数や種類自体が増えるので、そういう時に、コンサータは威力を発揮してくれている。
何だかんだ言って、一日中、ほぼ意識が落ちることなく仕事に向かえるようになったのは、薬のお陰だ。

そしてもう一つの薬であるレキソタン、これは、興奮状態や不安状態を和らげ、導眠作用もあるという薬である。
昔から、会議が続く日の前夜は、比較的眠りが悪かった。
それでも自分の職場内での会議だったし、仕事の内容が、広報誌の編集やホームページの更新、点字名刺の作成といった内務作業が主だったから、適応はまだ出来ていたほうだった。

今は違う。
元々の仕事も残存しているが、以前の主役から一転、完全な脇役。
そして主役は先程来説明している、書類作成・対外調整系仕事(正確にいうと、サービス等利用計画作成業務)である。

そのため、例えば緊急の担当者会議の前夜などは、極度の緊張から不眠症に陥った。
どうしても、会議の結果このケースにどう対応しなければならなくなるか、その前に、会議そのものを滞りなくこなせるのかどうか、不安が止まらないからである。
何度か、一睡も出来ないまま、翌朝、いざケースの対応へと向かったのだが、或る朝、道路を渡る時にあまりにもボーッとし過ぎていて単車と接触してしまい、無意識の内に自分がピョンと飛んでいたからお互い怪我は無かったものの、単車の人からは「もっと周りをちゃんと見て下さい」と注意された。

そういうこともあって、レキソタンが欠かせない薬となった。
とにかくこれが無かったら、今頃は重度の睡眠障害者で、一日の業務の後半は熟睡で当たり前、というとんでもないことになっていた可能性が高い。

だから、レキソタンのお陰で先ず『眠れる』という体調(脳調)を確保し、朝も思いのほか早出の融通が利くようになった。

最も、薬だから副作用のリスクや耐性もある。

コンサータは、簡単に言うと錠剤単体で3種類の内容量(強度)があるのだが、私は一番最初の2週間、『少』で試し、副作用が全く無かったので『中』に変えた。
すると、若干の食欲不振に陥ったり、感情抑制の作用が効き過ぎて、一見無気力に近い状態が見られるようになった。
それでも嫌いな仕事をしていない時は無気力にならないから、やっぱり環境にも依るのだろうが、現在は通常は『少』に戻しつつ、会議の日など、特に脳のスタミナが必要な日には『中』を飲むようにしている。
食欲不振は、薬の服用後、ある一定時間経過した時点で発生することから、飲む時間そのものをズラすことで、対処出来るのである。

そしてレキソタンである。
一度だけ、久しぶりの休み明けの日に、思いの外効かなかったことがあった。
久しぶりに味わう不眠状態に私は焦り、本来、あまり望ましいとは言えないが、午前4時頃にもう一錠飲んだ。
そしたら漸く眠りに就けたが、目が覚めたのは9:35だった。
出勤は9:00。
当然、大遅刻(!)になり、焦ったのは言うまでもないが、それにしても無断遅刻になってしまった場合(寝坊)、必ずしばらくして連絡が入る。
今回は、連絡の電話が鳴っても目が覚めなかったのか・・・・・と思って携帯2つ(業務用・個人用)を見て、異変に気付いた。
画面が真っ暗。どうやら、無意識に(恐らく2錠目を飲んだ時)、どちらの携帯の電源も切ってしまっていたようなのだ。
だから電源を入れたら当然、着歴と新着メールがあり、私は取り急ぎメールで詫びて事情を説明し、出勤した。

薬だって神様ではない。
丈夫で元気な人でも風邪を引く時があるのと同じように、何かの不具合が起こる日はある。
だけど、普段は毎日効いてくれているので嬉しい。
総じて副作用が少なかったのは一番幸いだった。


この2種類の薬は、いずれも然るべき専門医療機関からの処方箋が発行されないと、通常の薬局では絶対に手が入らない。
また、ADHDなど、特定の障害に対応した、或る意味特殊薬品の性格も持つため、一気に長期間分の処方は許されず、最長で2週間分とされている。
従って、2週間に1回、自分が発達障害の診断を受けたメンタルクリニックに通院している。
定期的にカウンセリングを受けること自体、自分には必要になっているし、有効手段である。

もちろん、具体的な仕事内容を絡めての相談は、職場の上司や同僚にしている。
クリニックでは、全般的な調子の報告をしているというのが正解だろう。
そのクリニックで知り合った、同じ障害で同じ服薬の人からは、自立支援医療の話も、「どうですか?」と持ち掛けられた。
院長先生も、広汎性発達障害は基本的に自立支援医療の対象となると言っていた。
当面、医療費は自己負担でも生活に困らない状況だと思うが、今後の検討課題としたいと思っている。

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 00:16│コメント(2)トラックバック(0)

2015年04月09日

今年は毎月ブログを更新しようと思っていたが、2月、3月と投稿ゼロで終わって、いきなり目標達成ならずだった。
まあ書くことが無ければパスしても勿論いいのだが、書くことはあった。
ただ、投稿不精になっていただけだ。

今年の2月でこのブログも10周年になっていた。
だが、無言スルーで、記念ムードも無し。
最も、ホームページ本体の開設記念日のほうが自分の中では重要だから、いちコンテンツの10周年は、スルーでもいいのだが。

3月は年度末。
年度末に付き物なのが、組織における人事異動だ。
私は昔から、この人事異動というのを魔物のように感じている。
いつ誰がどういう根拠で決めるのか、具体的に説明が公開されるわけでもないし、よく見えてこない。
いつの間にか決められて、絶対君主、逆らうのは無し。
相撲の世界の古い言い方に置き換えれば、『無理へんに拳骨』という感じがするのである。

考えようによっては、単に手間ばかり増えるだけで、極めて不合理だ。
リコールでも出ない限り、せっかく状況や流れを把握している者同士が、チームを組んで仕事をやってきたのだから、急に、それも責任ある立場のメンバーが変わらないほうがいい。
変わると、下手したら何もかも方針が変わりかねないリスクも孕んでおり、そういう環境の変化には、しばしば戸惑いを覚えるのである。

もともと私は、社会環境の変化に対してあまり強いほうではないから、個人的にはそういう理由もあって、反応過敏になる。
でも、否応なしに訪れる社会環境の変化を受け入れるのが、社会人である資格のようにも思える。

最近も、場面によって脳機能の落差が激しい。
仕事で何とか一つ一つコントロールをしていってる反面、プライベートでは以前にも増して記憶疾患が目立ってきたのだ。
昨日なんて外食に行って、さっき店に入る直前に見た料理の名前(少し長かったが)が、注文する段になって急に出てこなくなり、一旦店員を外してもう一度外まで見に行ったりした(メニューを見るよりそっちのほうが早いと思った)。

そして2度目は注文出来たものの、大盛りにしようと意識していたのに、それを言うのを忘れた。
腹ぺこだったから、少々足りない晩飯となってしまった。
次からは、少し長めの名前の料理を注文したい時は、先ず写メで撮って、それを見ながら注文することにした。

本当に、ボケにとって文明の利器というのは有難いものだ。
これがもし30年前だったら、恐らくまあ、紙にメモして店に入っていただろう。
とにかく、長い名前になると覚えにくくなってきたのには、自分でも参った次第だ。

相変わらず探し物は絶えないし、いくら入れる場所を決めても、前もって準備しようと決めても、何回か続けて出来たら、必ず忘れる時が出てくる。
相撲でいえば、序盤・中盤・終盤に必ず一つは星を落として12勝3敗。
実際の相撲では好成績だが、今のこの話では「12勝したからいいだろう」なんて問題ではない。

久しぶりにツラツラ書いた。

トコトコ日記(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 18:29│コメント(1)トラックバック(0)

2015年01月10日

年が明けてから10日。
仕事始めから1週間。

光は見えてきた。
見通しは俄然明るくなってきたと思う。
6日(火)までは灰色模様だった。
先月の26日、ドタンバで一筋の光が差し込んでいたお陰で、翌日に仕事納めを迎えた段階では、まだ完全なる黒色模様にはならなくて済んでいた。
そうして年越しを迎えたわけであるが、灰色模様というのは、言わば黒のほうに転がる可能性も低くないということだ。

そんな気分で迎えた7日(水)が転機になった。
新しいデイサービスに行ってみた。
結果は見事に吉だったのだ。
まだ実際の利用が始まったわけではないから、早々に大吉と結論付けることは控えるべきなのかも知れないが、それでも初詣で引いた大吉が、少し予言味を帯びてきたようにも感じる。

ただ、周りの各機関に知らせるのを、どうスムーズに、順序立ててやるかが大きな課題であった。
どうも今回、そういうのが苦手という側面がよく出ているからだ。
しかし、今日までにそれも上手くいった。
一つ流れが進むと、どんどん好気流が流れてきてくれるのが嬉しかった。
胸の中が暖かくなっている。
人間、ホッとしてくるとこうなるのだ。
いかにそれまで、気が張りっぱなしだったかの証だった。

その一方、ほかのことで、少々失敗もした。
やはり私なんぞは特に、一つのことに内心掛かりっきりになると、その副産物としてほかの方面に対して隙が生じてしまうのだ。
少々準備が遅れたり、勘違いをしていてそのせいで時間に遅れてしまったりした。

否が応でも(表現は悪いが)、周りのいろいろな機関と関わらなければならないこの仕事は、身内以外から見られる割合が非常に高くなるので、常に注意を払わなくてはいけないのだ。
これは、私のようなアンバランスなタイプにとっては、大変苦手なことである。

だけど・・・・・、失敗は教訓へのチャンス。
失敗は挽回且つ倍返しへの序幕でもある。

そう思って、プラスに捉えていきたいと思う。
どっち道、時計の針は逆には戻せないのだから。
・・・・・なんて、いつまでこんなふうに考えられるか、分からないけど(照笑)。

明日から3連休。
3日目は仕事があるけど、2連休にはなる。
これが本当の年末年始だ。
そう思えてならない。
ようやく光が見えてきた、今このタイミングで迎える連休こそが、本当の意味での区切りの休みなのだ。

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 22:16│コメント(0)トラックバック(0)

2015年01月01日

元日。取り敢えず、地元の神社に初詣に行ってきた。
そこで初めて、今年が私(の年齢)にとって後厄にあたり、去年が本厄だったことを知った。
そして、おみくじを引くと何年かぶりの大吉だった。

だけど、厄が晴れたとか吉が大なりとか、別に今の私の心には響かなかった。
取り敢えず定期定例みたいな感じで、おみくじは引いたのだけど、結果に対しては、「あっそ」という感じ。

現実の私は、とても気分が晴れているとは言えない。
難しいケースの担当の専門員となり、今や一部支援者から、「利用者と社会資源とのつながりをぶった切った」、「何も動こうとしない」、「支援する気が全くない」と決め付けられている状態。
実際にはもちろん、精一杯動いてはきたのだが、私の障害(ADHD、発達障害)の影響もあったであろう失敗も犯し、とにかく今は、その失敗のことだけしか突かれない傾向があるのだ。

今後、このケースで自分が担当者として働いたと認められる状況が来るのかどうかは、まだ判らない。
利用者側(本人は児童であるため、その家族)からは、「根箭さん(私の本名)の動きは良かったと思う。新しい社会資源は結果として良くなかったが、そんなことは、ふたを開けてみないと分からないことでしょ」と言われている。
決して否定されていないが、別の方角から余りにも完全否定されると、自分は同じ支援員でも、悪者という名の支援員に見えてきたりする。

今は心がしんどい。
私の仕事は相談支援専門員といって、介護保険でいう介護支援専門員(ケアマネージャー)の障害者版である。

ここ何年かやってきて感じること。
相談支援専門員というのは、ある日から突然、そのケースの総合統括・マネージャーという立場になり、或る意味に於いて、最高責任者にも相等する存在になる。

私にとっては、初めて出会った全く新しいケース。
そのケースには、既に関わりの長い支援者や支援チームが何人もおり、その人たちは、私から見ればもちろん、先輩。
私は、突然割って入ってチームメンバーに加わったも同然の、新参者である。
しかし、新参者であっても、立場としては最高責任者相等で、そのケースに関して最もよく把握している、最もよく理解している者ということになり、私は正しく支援に動かなければ、時には周りからのバッシングに遭う可能性だって、無いとは言い切れない。

少し極端に言えば、昨日まで入社していなかった新入社員が、入社初日からいきなり最高責任者の職を任され、その会社のシステムを全把握をしているのが当たり前と見なされる、に近い状況。それが今の私の役職なのである。

当然、私はそういうプレッシャーと義務感を自覚して、職責を全うしなくてはならないし、否応なしに自分が人の運命を左右しかねない立場に置かれることになる。
そういった難しい仕事を、自分の障害やその特性のことにも十分に注意をしながら、自己マネジメントをしっかりやりつつ、行わなければならない。
それが、障害者版ケアマネだ。


取り敢えず、自分の中でろくに年末年始の気分に切り替わらないまま、目の前の光景だけは、ババーッと紅白をやって、ババーッと行く年来る年をやって、ババーッと年が明けて、気が付いたら取り敢えず出掛けて初詣の列に並んでいた。

去年は、11月末から12月があまりにも過酷だった。
今年は更に茨の道になることは必至だから、いろいろ方法を探して、気を確かにしていかなくてはならないのだ。
とにかく、身体自体は元気に動くから、疲労骨折を起している心を何とか持たせたら、今年一年は乗り切れる。

私の望みは次の年越しを迎える時、もう少し心穏やかになっていることである。
甘い望みかも知れないが。

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 21:34│コメント(0)トラックバック(0)

2014年12月03日

私は、13年前から職場で、広報誌『CIL豊中通信』の編集員をやっている。
時に、編集長の代行を務めたこともある。

最新号では、『出生前診断を考える』という、かなりシリアスなテーマを取り上げた。
当初の予想より、直接届いてきた反響の声が少ないのがいささか残念ではあるが、きっとみんな心の中では何らかのインパクトを感じ、センセーショナル故、声や文字にはせずに思いを“保存”しているのだと思っている。

さて、現在もまた、次なる広報誌の記事作成本番の時期である。
そして先日、或る方より短歌の投稿を頂いた。
短歌そのものは、まだ掲載広報誌自体が未公開であるため、勝手に作品をこちらで先行公開することは出来ないが、内容は、「辛い時こそが学びの時であり、苦労が私にそのことを教えてくれる」というものであった。

正直、私は読んだ瞬間、全身に電気が走ってしまった。
何というタイムリーな、今この状況の時に、こんな毎日の時に、このような内容の短歌と出会う。そんな奇遇なタイミングって、本当にあるのか?これ、本当に偶然なのか・・・・・!!

思わず短歌に向かって、心で「ハハーッ!」と言ってしまった。
あまりにも今の自分にとって、意味があり過ぎた。
明らかに、自分への戒めと見て取れた。

今までだってそりゃ、大変な時ぐらい幾度もあった。
絶望に近い状況を生きていた時だって、そりゃあ有るわけだが、ここ最近のしんどさも、なかなかの高次元である。

こんな制度になって、こんな職務になったために、毎日濃密にキツい日々を送っている。
肉体的にも、なかなか身体をイジめる(良い意味でだが)日々が続いており、或る意味、二足のわらじ。
まあ、それを言い出すと全員が二足のわらじともなるが、私も今ばっかりは、「よくぞ身体がしっかり持っている」と、我ながら感心せずにいられない。

ともかく、こういう絶妙な出会いと、絶妙なカウンターパンチを食らう時が、人生には有るということである。

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 23:20│コメント(0)トラックバック(0)

2014年10月13日

teikiken去る9月30日、私はバスの通勤定期の期限が切れるため、半年ぶりに通勤定期を購入したが、今回より定期券は、専用ICカード『hanicaカード』と同一になり、これまで定期券範囲外の区間を乗車する際に使っていたhanicaが、同時に定期券も兼ねることになった。

定期券がICカード兼用に切り替わったのは、本年6月17日からで、それ以降、最初に定期券を購入した今回より、私も『カード定期』となったのだった。

従来のペーパー定期と最も違う点は、乗車する際に必ずカードリーダーにタッチしなくてはならなくなったこと。
もしそれを忘れると、降りる際にリーダーにタッチするとエラーとなってしまい、すぐには降りられないという状況になるのだ。
まあ、ほんの数秒タイムロスが出るだけだが、それさえも嫌って苛立つ乗客はたまにいるし、運転士にも余計な手間は掛けないに越したことはない。

私は10月1日以降、乗車する際もカードのタッチを忘れないよう努めようと思った。
ところが、これが思いの外、なかなか出来ない。
習慣とは恐ろしいと言えばオーバーだが、どうしても乗車する際に定期入れを取り出し、定期券をリーダーに当てるということを思い出せないのである。

今月になって、もう既に20回はバスに乗っているが、乗車する際に定期をタッチ出来たのは3回ほどしかなく、それも自分の前に乗った人がタッチしているのを見て慌てて思い出したとか、起点で早めに乗って発車待ちの途中、後から乗ってきた人がタッチした音を聞いて慌てて思い出したというケースばかりである。
最初から、いわゆる偶然の切っ掛け無しに自力だけで思い出した例は、いまだ一度もない。

後で慌ててタッチした時は、一旦乗ってから慌てて定期入れをカバンから取り出したため、車内通路で、ほかの乗客の邪魔になりそうになって焦った。

ホントにこれほど、新しい習慣に苦戦するとは思っていなかった。
元来私はバスが大好きで、バスに乗ることに関しては、あまり【苦手】という場面は無かった。
まあ「こういう乗客が傍にいると苦手」とかいうのはあるが、それは飽くまでも『人』の問題であって、バスのシステムでここまで難敵と感じる場面は無かったのだ。

難敵というと大袈裟に聞こえるが、とにかく『前もって思い出しておく』ということが何時になったら出来るのか、目下のところ見込みが全然無い。
そう言えば私は、たまに先払い制の路線バスに乗る時も、思わず間際まで財布を出すのを忘れ、慌てたことがある。

バスに乗る時は、とにかく『乗り込む』という動作に集中しているから、同時にもう一つのことを思い出し、もう一つの行動をちゃんと取るということが、実は難しいのかも知れない。
たまたま現場がバスであるだけで、要は自分の苦手な局面に晒されているのかも知れない。
そうだとすると、これからも厄介なことになる。

乗るバスは毎回違うのだから、まさかバスにメモを貼る訳にはいかないし、定期新時代に、私は思い掛けず適応出来なくなっている。

※左上画像は、もう二度と登場することはないペーパー式定期券(クリックすると実物比4倍に表示されます)

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 22:35│コメント(1)トラックバック(0)

2014年07月17日

今日で私は41歳となった。

40歳の1年間は、大きな出来事が4つあった。
その中でも最大の出来事は、広汎性発達障害と診断されたことである。

今後は、これが私の人生の多くの部分を、左右することになるだろう。
もちろん、障害者である以前に、一人の人間であり、一人の大人であり、一人の市民である。
しかし、発達障害というものが、自分にとっての恒久的なテーマになることは間違いない。

2つ目の大きな出来事は、ジム(フィットネス)に通い始めたことである。
40歳になって初めて冬物のズボンを履こうとした昨年11月下旬、どのズボンも前が届かなかったり、辛うじて届いてもキツキツで全く履けなかったことに流石に強い焦りを感じ、すぐさま少路駅前のコスパに入会したのが始まりであった。

かねてよりフィットネスには通わなくてはと思っていたが、運動嫌いゆえ、億劫で通えていなかった。
それが、この時ばかりは観念して通い始めたのだが、月最高5回(今月は更新出来る見込み)ながらも、順調に続いており、肉体面では大きく変化をもたらした。
メタボが改善されてきたし、何より姿勢が伸びてきた。

ズボンを履いても、ベルトを締めても、それまでよりは一段と余裕が生まれ、人間変われば変わるものなんだと実感する日々である。

3つ目の出来事は、これは私個人というよりは世の中の動きによるものであるが、パソコンをWindows8.1の新しい物に買い替えたことである。
サポート終了直後までXPで粘っていたが、パソコン自体も8年使っていて老朽化も激しく、消費税アップには間に合わなかったが、買い替えたものである。

そして買い替えと同時に、これが4つ目の出来事であるが、インターネット接続を、ケーブルテレビからフレッツ光に乗り換えた。
そこまで劇的に速くなったとは必ずしも感じていないが、まあ、メジャーどころの接続会社に変えて、この先もこれで安定していくだろう。

以上、40歳の1年間の出来事を振り返ったが、やはり1つ目と2つ目が最も重要で、この2つだけでも40代最初の1年は、非常に大きな大転換期となった、と実感している。
40代2年目も、何か大きな節目・変化を体験したい。

トコトコ(HPトップページへ)


tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 21:44│コメント(2)トラックバック(0)

2014年02月27日

半年間、このブログを放置してきた。
最近、別のことで何かと忙しいのに加え、パソコンのディスプレイが、何回かに1回しか(立ち上げの)起動しなくなっているから(つまり、起動しない時は画面は真っ暗)、なかなかブログにも辿り着けなかったのだ。

さて、今年に入ってからの大きな出来事と言えば、タイトルに書いたとおり、ノロウィルスに掛かったことだ。
よもや私がこの病気に掛かることは有るまい、とタカをくくっていたところ、見事に掛かってしまったのである。

1月21日・・・・・。
朝目が覚めた時から、胸に異様なムカつきを覚え、また、お腹が尋常じゃないぐらいギュルギュルなっていた。
そしてトイレに行くと、考えられないような下痢が出たのだ。

その時はそれで治まるものだと思っていた。
ところが、胸のムカつきはますますひどくなり、久しく味わわずに済んでいた『吐き気』を催してきた。
そして・・・・・、
10:20頃だっただろうか。
耐えかねてトイレに入ると、思いっきり嘔吐してしまったのである。
本当に、その時が苦しさの極致だった。

嘔吐をするのは、実に丸9年ぶりだった。
9年前の2月下旬、風呂上りに急に気分が悪くなり、そのままトイレで嘔吐したのを最後に、一切することは無かったのだ。
もちろん、自己最長の間隔で(それまでは2年と置かず、何らかの理由で嘔吐した)、「とうとう吐いてしまった。記録が止まったか」という気持ちになってしまったが、それより何より、9年も体験が無かっただけに、免疫がすっかり無くなっていたのだ。

だから苦しさは尋常ではなかった。もう忘れていたような感覚である。
さすがに全部吐ききると気分は楽になり、私はすぐさま、近所に在る市民病院に行ったが、アキレス腱を断裂した時同様、診察に辿り着くことは出来ず、別の馴染みの病院に行って、そこで診察を受けることが出来たが、普通に座っているのもしんどくて、机に伏せないと姿勢を維持出来ないほどであった。

また、吐き気を覚え、トイレに入るもさすがに何も出てこず。その代わり、下痢は断続的に出た。
この時は、ノロウィルスとは診断されず、吐き気止めと水分補給の点滴をして、一旦帰宅した。
喉が渇いたので普通に水分を摂取したが、食欲は無かった。
通常、私は体調を崩しても食欲は落ちず、この時は「おかしいな」と思った。

夕方頃、またも嘔吐をしてしまい、よもやの1日2回の嘔吐。これはもう何年ぶりか分からない。
病院にとんぼ返りし、肛門に思いっきり検査薬を注入して(痛タタタ・・・・!!!)検査に掛けたところ、ここでノロウィルスと診断されたのだ。

再び点滴で吐き気止めと栄養補給。
2度目の嘔吐の原因は、既にその時ノロウィルスの症状が出ていたところへ、一気に水分を補給したことだった。
胃腸が刺激を受け過ぎる状態になっていたから、まともに消化しきれなかったのだ。

でも、昼間の診断では胃腸の痙攣だけで、ノロの言葉は出てこなかったのだぞ・・・・・。

ともかく、夕方、時間外ながら点滴処置をおこなってくれた後は、ひたすら安静だった。
水分は、ちょうどお酒をチビリチビリと飲む時みたいな、少量ずつしか摂取出来ず、喉の渇きをこらえなければならなかったが、吐き気よりマシだ。
その晩も気分は良くなかった(とにかく身体がダルかった)が、吐き気だけは止まってくれた。
下痢は続いていた。

翌日の昼食から、先ずは少量ずつ食事再開。
非常にゆっくりと食べ、身体も細くなってしまったが、元々体重オーバーだったから丁度良いかも、とか思っていた。
発症日が火曜日だったが、仕事は次の日曜日まで休まなくてはならなかった。

この間、トイレ周辺を始め、消毒を行い、仕事は休んでもその時、大事な会議のための調整がなかなか付かなくて苦労していたから、その調整だけは電話やメールで、事務所・他機関とやり取りしていた。
本当に完全休養では、とても仕事は間に合わない。調整が難航して、遅れていたのだ。

1月26日、この日は日曜日でも本来なら朝から研修に行かなければならなかった。
しかし、人が多く集まる場所であることを懸念して、パス。
ノロは、感染する病気である。

私の体調自体は、発症3日後にもなると、すっかり気分も良くなってきて、食事以外、普段どおりの動きは出来るようになったから、犬の散歩もやったし、ちょうど大相撲初場所が開催中だったから、とにかく連日、中継時間丸々相撲を見た。
こんなことは、ギックリ腰で一週間リタイアした、2007年1月以来である。

1月27日より職場復帰。1週間ぶりであったが、本当に、自分がノロウィルスに掛かるとは思わなかった。
実際になってみて、想像していたより大層な事態にはならなかったが(隔離など)、それでも、もう二度と掛かりたくないし、何はともあれ、吐き気は当分ごめんだ。

次は何年、嘔吐なしの記録を作れるか・・・・・。


ところで、本日をもって、ブログ開設9周年となった。日本一の間隔更新のブログでも、9年やっていると、それなりに数は重なってきたかな・・・・・?

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 09:25│コメント(1)トラックバック(0)

2013年08月29日

早いものだな。
もう8月も終わりになってきた。
猛暑になった、さあ大変だと言っていたら、もう秋が近し。
本当に日が過ぎるのが早い・・・・・。

ブログもまた2ヶ月書き込んでいなかった。
書き込みたいと思う時はそりゃ、あるんだよな。
その日その日、いろいろ『ワーッ!』となったり、『グアーッ!!』と落ち込んだりして、ひと思いにブログで吐いてやる!と・・・・・。

だけど家に帰るだろ?
そしたらもう書き綴る気力が無くなっていて、書かずに風呂入って寝てしまうんだ。
本来長文書くのが好きでも、構文するだけの頭が回らなくなるんだな。
それの繰り返しで、毎日毎日、過去のブログで書いてきたのと同じ様なネタには事欠かないのだけど、書くのをパスして1ヶ月、2ヶ月・・・・・。

これが、私のブログが数ヶ月に1回しか更新されなくなっている理由だ。

コンスタントにネタがあるのはいい事なんだろうけど、激しく神経を消耗するネタばっかり、あまりに枚挙に暇が無いと、帰って更新不精になってしまう
・・・・・悲しい現実だな。

「何で俺という人間は」と思うヘマとか、「俺しかしない」ミスとか、「常識では有り得ない」間違いは、今日も俺の人生に於いて、舞台を独り占めして暴れまくっている。
その姿はあまりに華麗で、見ている目の方が耐性を失ってクラクラしてしまう程だ。

それくらいに、俺の特性と俺の失敗は、今日も飛ぶ鳥を落とす勢いになっている。
いい加減、撃ち落されて死に絶えた方が、まだタチがいいんだが・・・・・。

ネタが多過ぎるのと細か過ぎるのとで、頭の整理が毎日追い付かない。
夜な夜な整理に明け暮れている内に、深夜になり、寝つきも悪くて、睡眠も充分に取れたとは言えなくなっている。

まあ、仕事を辞めでもしない限り、この悪循環から抜ける手は無いのだろうが、取りあえず、年齢も四十になった
四十代・・・・・、ただの犹綾渋紊留篦広瓩箸いΔ世韻僚叔で終わるのか、それとも、何か新しい自己認識が待ち受けているのか・・・・・?

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 15:51│コメント(3)トラックバック(0)

2013年06月23日

今日、6月23日(日)。
本当だったら、神戸市北部〜三田市方面へ、趣味活動に赴く予定だった。
しかし、日課である実家の飼い犬の散歩以外、一切外に出る事は無い一日に終わった。
その理由は、決して悪天候だったからではない。

実は昨日、私が担当のある講演会が開催され、何とかそれ自体は無事に終えられたのだが、またまた後に尾を引くボケミスをやってしまった。
自分はいつでもボイスレコーダーの担当で、講演会の録音を行うのであるが、途中の休憩時間に一旦録音ポーズ(一時停止)のボタンを押した後、そのまま再開ボタンを押すのを忘れてしまったのだ。

因みに以前使っていた(今でも代役として使う事はある)ボイスレコーダーは、録音ポーズのボタンを押しても、10分ぐらいすると勝手に解除されて、自動的に録音が再開されていた。

今回、そのレコーダーの感覚とごっちゃになっていなかったと言えば嘘になるのかも知れないが、とにかく、休憩が終わる前後、他の周りの動きにばかり目を配り、録音係としての、重要かつ簡単な動作を忘れてしまったのだ。
全く、シャレにならない。

勿論、ビデオ録画はしていたから、明日、『録音代行データ』と題して、未録音に終わった部分の文字起こしをビデオより行い、録音データとワンセットで保存するつもりでいるが、わざわざ一手間も二手間も仕事を増やしたロスタイムは大きい。

馬鹿なミスに気付いてからは、昨日も何やらガクッとしてしまって、一向にホッとした気持ちが起こらず、今日も『達成感』『解放感』を引っ提げて趣味外出をしようと思っていたのが、“心土産無し”の状態になったから、行く気が失せてしまった。
ある意味、自宅謹慎である。

趣味外出は、また日を改めて行う予定ではあるが、飽くまでも私の気分次第なので、実行するという保証は無い。

今回の講演会では、総じて私の特性がよく出た。
今まで何をやらせてもそうだったのだろうが、特に強烈に、私の特性が出たと言わざるを得ないと痛感している。

自分の特性が出るというのは、嫌なものだ。
本心、特性がむやみに出なければ出ない程、仕事としては完熟度が高いし、自己認識値も上がるのだ。
特性が出た時点で危なくなるのだから、特性が露呈しない様、自己をコントロールし、普通に仕事を成し遂げたみたいな成果が出ないと満足出来ないのだが、今回は激しくアウトだったと感じる。

録音ミス、その他6割ぐらいは『後手後手』という印象が、自分自身の中では強く残った。
仕事を通じて自分を見た時というのは、きっと落ち込む時だ。
とにかく明日以降、他の業務も忙しい中、ミスの埋め合わせに気合いを注入しないといけない。

本番前、密かに心に期していた、終了後の『達成感』は、当面お預け。
味わえるのは、ミスの埋め合わせをきちんと完成させてからだ。

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 22:12│コメント(3)トラックバック(0)

2013年04月29日

今年は2月に2回体調を崩してダウンし、その後も引き続き過酷だったが、漸く小休止というか、一旦山を越えた感じだ。

GWは、3日と4日は介護だが、6日は休みだ。
まあ、趣味に没頭し、実家の愛犬と戯れて、束の間の休息を楽しもうか。

それでも、連日、ある種自分自身の中での闘いというのは強いられている。
昔からの事だし、その内容はしばしば詳細をこのブログで書き綴ってきたが・・・・・。

しんどい特徴というのがある。
どうしても出てしまう症状(?)というのがある。
今こうしてパソコンに入力している間にも出てくる。

感情のコントロール、つまり情緒面の管理は相変わらず出来ない。
勿論、全くとは言わないが、あまり出来ない。
しばしばある種の爛侫薀ぅ鵐悪瓩鬚垢襦
上手く説明は出来ないけどな・・・・・。

元々神経質で、音に過敏だし静電気に超過敏、急な変化には対応しにくいし偶然人と身体同士触れるのがメッチャ抵抗がある!!
人からはオーバーと言われる反応の仕方ばかりしている。

だけどオーバーというのは、私の解釈では、人の視線や注意を意識して、わざと大きく目立つ様に反応する事だと思う。
私の場合は反対なのだ。
人前では寧ろ、人前である事を意識して極力反応を抑える。
壁の方を向いて顔一杯に感情を表し、喉を潰す様なイメージで小さく擬音の様な声を出している。

しかし自宅などで一人でいる時は、人に見られていないという安心感から、目一杯声を張り上げ、自傷行為も交えながら当分の間、パニックに身を任せているのだ。
まあ、目立たない様に自傷をやる事なら、職場でもあるけどね・・・・・。

この様な感じで毎日を送っている。
根本的に、何か厄介で扱い難いものがあると感じるが、それ以上、ハッキリとは説明が付かない。
こんな有り様の自分との付き合いが、これからも強いられるだけだ。

トコトコ(HPトップページへ)

tokotoko_nikkitokotoko_nikki at 00:15│コメント(3)トラックバック(0)