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「日本史跡研究会」の今回の企画は
「徳川家康没四佰年、大関ヶ原屏風展へ行こう!」に参加

今回も私に大変な配慮を感謝します


江戸東京博物館に行く前に深川から両国界隈の史跡を巡った、
東京駅南口からまず江戸城の名残の石垣跡を探索、今は石垣などにプレートが張ってあり誰の屋敷が有ったか、人目でわかる、先祖の牧野邸跡地発見
次は深川へ地下鉄で移動、深川不動から隣の富岡八幡宮へ
此処に日本地図を製作した伊能忠敬の碑と像が立っている、
この富岡八幡宮から伊能忠敬は歩きはじめた
カラフト地図の間宮林蔵と伊能忠敬と同じく日本史跡研究会の方々と こちらも御徒で行く

伊能忠敬の墓は住み替え前の私の家側の源空寺に有る、
叉この近く正定寺、明和幼稚園の方が通りが良いが
そこには勝海舟の剣の師匠島田寅之助の墓も近くに有る
台東区清島丁、現東上野六と合羽橋、松が谷二丁これら知人の寺社

そして幕末、大君 徳川慶喜公方様につき従った町火消 新門辰五郎が建設会社で今も続いている、
新門辰五郎は鳥羽伏見戦で大阪をすて江戸へ戻った徳川慶喜公方様が置き忘れた家康以来の公方馬印の扇を江戸まで担いで戻った

我が館の普請をしていたのが新門辰五郎、
合羽橋、天海の清水寺のとおり妙な所に代々住んだ、
まったく、

住み替えて近くの石浜神社に散歩して碑文を見たら「大老 酒井雅楽頭屋敷跡地」

叉先祖だ

その前は麻布、桜田門も近く先祖関係がたんと有る


日本橋から門前仲町、清澄白河丁へ
今回は此処まで来たので 白河丁の松平定信白河の墓と阿茶様の墓も行くことになり
白河の墓は私しとりで行った、
祖母はかわりなく祖母なのだか白河の玄孫なんだと、自分の身に置き換えずババァ見たこと会った、

祖母は戊辰戦長岡城下で総大将田中為右衛門の長男として城下で戦闘をした田中為太郎叔父が臨終の時に会い、
床に伏した叔父田中為太郎に「おぉ、よう来た、母上そっくりで有る」と言われた事があるそうだ、
婆は白河の玄孫だ



だめでしょ、近くなのに来なければ、と友人に後で言われてしまった
面目なひ

幕末は白河子孫派閥系が老中を多く勤めてます、名前が松平他 真田 (板倉) 牧野と変わってますが子孫達
そして明治天皇も同じく
(訂正 安藤信正は白河じやないのかな?17s )

(阿茶の墓)
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元は今川家の武将の血筋で家康に最も側にいたお局様
家康と共に関ヶ原、大阪夏の陣まで共に進んだ方
阿茶は家康の知将軍師の本多正純候と家康の間も取り持ったとも言われてます
こちらは紀伊系でかの時代はおまん婆になる
お世話様で、
一礼

お寺の檀家の方でしょうか、親切に案内もしていただきました、他に吉原遊郭の差配したひとの墓等も説明していただきました、有り難う

お昼は勿論深川丼、量も十分に有り、炊き込みの御こげ丼とアサリ汁をかけた二種類、史跡研究会で来たレディーは食べきるのが大変の様だった、焦げ飯とアサリは美味しかった

そして両国大江戸東京博物館「大関ヶ原屏風展」へ

徳川家康の花押の現物も見る事ができた、
徳川慶喜公は御自分の慶の文字からの花押だが、歴代の中では上下に一本線が入る花押を真似ている御歴々もいます、
吉宗も家康の花押と同じく天下線を使い帆かけ船の形にしてる、

六十代頃の家康の肖像画はよい男に見えた、こちらも耳が大きいと良く言われるがこの絵は耳が普通に書かれており
おやっと、思ったりした

叉各部将の甲冑は艶光り、二代大君徳川秀忠公方の為色の鎧も美しい


「関ヶ原之戦」


どどうの如く緋威し鎧で進撃する井伊家、

本の旗と共に馳せる百戦錬磨の本多忠勝一門の進軍


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本陣 徳川家康押し潰しに進む


西軍大谷吉継は爪も無き手に軍配を握りしめて突撃、
武門習いに 生きて還さぬ 東軍 槍の藤堂鷹虎軍


関ヶ原では豊臣、石田三成側のほとんど戦わず日和見を決めていた
孤軍奮闘、迎え撃つ島津軍 が絵巻に見た


追撃の猛将本多忠勝を相手に島津軍はこの負け戦を、

島津 後詰め一番手壊滅


二番手切り刻まれる


三番、


全軍が一本の矢の如く
徳川軍の中を突き進み


逃げ切る


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じっくり眺めて見たいのですが、昼を回り大混雑で留まっていられなかった、



そして
本多忠勝肖像画横に家康が今川人質時代寄りの乳母(めのと)子守役で鳥居元忠の肖像画が展示されていた、

関ヶ原の前哨戦、「伏見の戦」は徳川家康が上杉討伐に伏見城から兵を引き上げた事が切っ掛けとなった、
石田三成は空に近い東海道の城を其のままにはしなかった、
伏見城主の鳥居元忠一門は、城を開けることは出来ない、主である
徳川の「おとり」になり滅する、
床に流れ血油付いた柱は寺の天井に使われて
今も見ることが出来る
その鳥居元忠の肖像画が猛将本多忠勝とならんでいた


戦う場を得たり華の武将を見た



公儀で生きる者達の美、即ち華は進退である勝負の後のしかばねの形では無い
其処までの模様
それが綺羅とよばれる


最後に乾杯


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「こたびは、要らぬ…」
(15s卯月吉日)










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読みやすく改め15s霜月

(15s ・備前・岡山藩主をハリスと安保交渉した堀田正睦と皇女和宮婚姻を結んだ安藤信正と勘違いしてました訂正しました)
(17s もうひとつ間違い備前と備中取り違えてました、山田方谷の処と知ってましたが、御免なさい「・備中・松山藩板倉勝静」でした、殆ど家臣が従わなくても徹底交戦した方、上野東照宮の神主に為った方 )