公方 徳川わ廣 (たなか) TYCOON

2016年11月

【 ザッ オーガスソブリン( the August Sovereign )】洛中思案

テーマ:洛中思案

習慣としていて固執している物事で、自分は揺るぎ無い信念を持ってる正しく良い事で有ると思ってる方や集団、

そういうものと接して頑固物と言われた事がある、
と、言っても

私の感性は     御飯が好き、
                             春は   桜の花のもと が良い

無くなったら許せない、美味しいでし
ょ!
だな、
これな   数寄者 馬鹿 な私のこだわりと云うだけ、
(私の希望とかの内向的なものからナショナリズムへ)

邦国の歴史と押し出せる中心人物が多く作り上げた
政府王朝にパックス内に新規部門 採用も此の集団は難しいし、
かゝ割りも有るだろう
「さあ一緒にやりましょう」と使い捨てにも出来ないし
叉、さあ一緒にと言われたら、出せるのは私の 首級だ


此の頑迷さに、自分、叉は団体の精神の安定感を持たせる、
自分を優位に置き換える、皇帝化だな、小家族主義 だな、

そのぶら下がり小家族の奴等は実に質悪に成る者も居るのだ、
内なる敵の緒卿に成ってしまう者な、


お上


Twitter
https://twitter.com/tanakaTokugawa/status/802460000639545344



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(玄関開けたら
すぐ御飯  )

#ハッシュタグ
#王様#お姫様#御まんま

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(上野原辺Google因り)


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恋塚一里塚(山梨県上野原市)
日本史跡研究会々長blog

http://blogs.yahoo.co.jp/tsjqu183/14514604.html
2016/11/23
書庫山梨県の史跡

  【恋塚一里塚】
 所在地:上野原市犬目1353-8
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 甲州街道の起点である江戸日本橋から21番目(約84繊砲鮗┐弘賣つ諭

 慶長9年(1604)、徳川秀忠は日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するように指示。大久保長安の指揮の元に行われています。
 現在残る恋塚一里塚は直径約12m、高さ約5mの円丘であり、当初は道の左右に存在していましたが…道路の拡張工事によって削られてしまい、一基の塚のみが残されています。

 『甲州道中宿村大概帳』には、「左右の塚共犬目宿地内立左杉、右松」と記載されています。
 明治34年(1901)、中央線が開通するまで旅人が塚の木陰で休んだり、人夫や馬を借りる際の駄賃を決める基準として大いに利用されていました。

 山梨県内で唯一残る一里塚として大変貴重な「恋塚一里塚」
 談合坂SAにほど近い犬目宿から山梨市に向かう途中にありました当日は濃霧の影響で撮影が…
 「犬目宿」もまだまだ散策不足ですので…再び訪れなくてはならないと思います。

 (参考資料)
  現地案内板Google因り

わ廣文)
共に回った相模のladyは八丁堀同心屋敷跡地は面影もなく残念だと云ふ

江戸橋と日本橋の間の通りに
勝海舟が西郷隆盛に手土産にした、
老舗の蛇ノ目寿司屋や
幕の内弁当の「弁松」辺りも観光し鉄砲州稲荷へ

相模のお嬢は伝法に
此の社は木造で気に入ったよ、
小説に岡っ引きを連れた同心旦那達が御参りする稲荷と、

楽しんでいた
(Google因り)
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【平成28年度第1回博物館研修『松島 瑞巌寺と伊達政宗』見学! その6】

日本史跡研究会々長blog紹介
http://blogs.yahoo.co.jp/tsjqu183/14495836.html
2016/11/13
書庫研究会イベント

 秋の日は釣瓶落としといいますが、日暮れにはもう少々時間があります。

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      八丁堀与力・同心組屋敷跡                                   中央区八丁堀3-17-9


 江戸時代初期に埋め立てられたこの地はもともと寺町であった。
 寛永12年(1635)、江戸城下の拡張計画によって玉円寺のみを残し、多くの寺が移転。この地一帯に町奉行与力・同心組屋敷が建てられました。

 与力は徳川家直臣であり、同心はその配下の侍衆です。

 与力は知行200石で300~500坪の屋敷地を与えられ、同心は30俵二人扶持で100坪ほどの屋敷地であった。

 江戸初期は江戸町奉行・板倉勝重の配下として与力10人、同心50人であったが、南北町奉行所が成立すると、与力50人、同心280人と増加しています。

 与力・同心たちは町の治安に活躍していますが…生活費を得るために町民に屋敷地を貸すものも多く、加藤枝直・千蔭父子や井上文雄などの文化人や学者などを輩出した地でもあります。

 「八丁堀の旦那」ってな感じでドラマチックなイメージがある八丁堀しかし…あれっ?全くイメージと違うって当たり前なんですが…
それにしても案内板だけで当時を偲ぶのはねえ(普段いっていることと違う点は御容赦下さいませ)

 ということで珈琲ブレイクして当時を偲びました

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 鉄砲洲稲荷神社 中央区湊1-6-7

 承和8年(841)、荏原郡桜田郷の住民が土産神を生成大神として祀ったことにはじまるとされる。
 大永年間(1521~1528)、新京橋へと遷座し、八丁堀稲荷神社と称した。

 寛永元年(1624)、稲荷橋南東詰めに移転しますが、明治元年(1868)、現在地へと再び移転しています。

 現在、鉄砲洲稲荷神社は修築中であるのか…境内にある富士塚などには近づけませんこりゃぁ、
また来なきゃならないなぁと秘かに思いました


 時刻は16:00過ぎ…まだ懇親会には早いなぁと一行は付近を散策することに

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徳船稲荷神社 中央区新川2-20

 新川の地は越前松平家下屋敷跡であり、その屋敷内に小さな稲荷が祀られていたという。

 明暦3年(1657)、振袖火事はこの地にも及んだが御神体は類焼の寸前で免れ、大正11年(1922)、恵比須稲荷に安置されていました。

 関東大震災で再度御神体は救出され、昭和6年(1931)、墨田川畔に社は復活され町の守護神として鎮座するも、戦災で全焼

 昭和29年(1954)、同処に再現される。しかし、平成3年(1991)、中央大橋架橋工事のために現在地へと遷座しています。

 とここで日没もさることながら、それまで何とか持っていてくれた天気が雨がぽつ、ぽつと

 瞬く間に雨は強く降ってきました

 本当であれば、この後「於岩稲荷田宮神社」まで足を運ぶつもりだったんですが…。

 本来の予定は終了しているということもあって無茶はしませんでした

 そして、新橋において懇親会を行い、解散致しました。今回の研修に参加いただいた皆様、ブログ記事をご覧になっていただきました方々、本当にありがとうございました

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(Google因り)

【 しのぶ その後 】 洛中思案

テーマ:洛中思案

「常盤しのぶ」

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Twitter文)
⇒ 
https://t.co/Mr2N8flsJ9

随筆者の名は知らぬが…と、数年前冒頭に書き出し、

今回も同じ書き出しに使ったが、
中村吉右衛門氏 
馴染みの店で見る しのぶ の美しさを表した文に

感化されしのぶが欲しく為った話し


廿代の頃 吉右衛門氏の文に感銘し
しのぶが欲しかった
本年数枚ほどの葉から 植え替えのちに此処までに為った

晩秋となり室内置きにしている
鉢と共についてきた蝿取り蜘蛛が
たまに側に来て 跳ねている


【常盤しのぶ】洛中思案(16s8,16)
http://blog.livedoor.jp/tokugawawakou/archives/1060280274.html

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【 「同心の地 水天宮、堀部安兵衛屋敷跡地辺」日本史跡研究会々長blog紹介】

テーマ:日本史跡研究長Yahoo blog

わ廣文)

人形丁で皆と共に甘酒を喫しました、普段甘いものは観てるだけのことが多いのですが、
はい、と手渡され  喫した、
それが、程よい甘味と塩味が良く美味しかった、
まぁ酒気にしかれましたねひ

塩梅がおつ、二百円

水天宮では相模より来ていたお嬢さんは冷やし飴をば注文してました、
さむい時期はあっためて 飴湯 と云う、
そいつはどんな味わいか 喫してみたかった、
そいつは 砂糖を溶かして生姜汁入れた物だったと、長年の疑問が解けたと喜んでいた、

人形丁、水天宮は七五三 ハロウィンで賑わってた

堀部安兵衛武庸の碑の目の前に橋があり、其処を渡った先が 霊岸島と呼ばれた地域になり 鉄砲州稲荷 や 於岩稲荷 があります
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【平成28年度第1回博物館研修『松島 瑞巌寺と伊達政宗』見学!】 その5
日本史跡研究会々長blog紹介
http://blogs.yahoo.co.jp/tsjqu183/14494103.html
2016/11/12
書庫研究会イベント

 さて、先ずは前回のクエスチョンの正解から…。

 何故?人形町に甘酒横丁があるのか?

 甘酒は古来より『身体の点滴』と呼ばれていました。そんな甘酒は妊婦さんには特別であったんだと思われます

 人形町は次なる目的地に大いに関係した街なんです。


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水天宮 中央区日本橋蛎殻町2-4-1

 文政元年(1818)9月、久留米藩主・有馬頼徳は三田にあった江戸上屋敷内に久留米水天宮の分霊を勧請した。

 藩邸内であったため、一般庶民の参拝は難しかったのですが、久留米水天宮を信仰する多くの江戸庶民は一般参拝の許可を求める伺書が幕府に提出。

 幕府はこのような事例には関与しないといった公式見解が出され、久留米藩は毎月5の付く日に一般に開放し参拝を許可したという。

 江戸庶民は「情け有馬の水天宮」と唄い、この寛大な処置を讃えたと伝わります。
 有馬家の会計記録には水天宮金という売上項目が存在し、安政年間(1854~1860)の記録では年間2000両の売上があり、重要な副収入であった


 明治4年(1871)、上屋敷が移転することとなり、一時赤坂に遷座されるが、明治5年(1872)、久留米藩中屋敷跡である現在地に移転しました。

 水天宮が明治になって現在地に移転すると、人形町は江戸時代に勝るとも劣らないほど賑わったんでしょうね。

 今も水天宮は多くの参拝者で賑わっていました水天宮では氷水なる飲み物も販売されていました。

 甘酒然り、氷水然り、どちらも妊婦さんの滋養強壮にはもってこいの飲み物

 水天宮の門前であり、多くの参拝者が訪れることから甘酒横丁は発展したのだと思われます。


 賑やかな水天宮を後に一行は次なる目的地に向かいました

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地図御用所跡 中央区日本橋茅場町2-12-7先

 文化11年(1814)、九州地方の測量から帰った伊能忠敬は深川黒江町から八丁堀亀島町に転居しました。屋敷の敷地は約150坪であったという。

 屋敷は忠敬の居住のためだけでなく、測量図を作成するための地図御用所として利用されました。

 文政元年(1818)、忠敬はこの居宅で死去しています。

 しかし、忠敬死去後も忠敬居宅は地図御用所として使用され続け、文政4年(1821)、忠敬門弟や天文方下役等の手によって、実測による初めての日本全図『大日本沿海與地全図』が完成しています


 次の目的地までな~んにも史跡ないなぁって思いながら歩いていて発見 

 これまでも研究会では伊能忠敬所縁の史跡を訪れていましたので…ラッキーな発見でした。


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堀江安兵衛武庸之碑 中央区八丁堀1-14

 昭和44年(1969)、八丁堀一丁目町会によって建立されました。

 堀江安兵衛武庸は寛文10年(1670)、越後国(現在の新潟県)柴田藩溝口家家臣・中山弥次右衛門の長男として生まれました。

 天和3年(1683)、櫓失火の責を負って父が新発田藩を追われ浪人となり、程なく父は死去。親類縁者のもとを点々としています。

 元禄元年(1688)、江戸へ出て、堀内正春の道場に入門すると、すぐさま剣術の才で頭角を現し、免許皆伝となり、堀内道場四天王と呼ばれるようになった。


 元禄3年(1690)、大名屋敷からの出張稽古の依頼も沢山あって収入が安定し、牛込天龍寺竹町(現在の新宿区納戸町)に一戸建ての自宅を持っている。

 元禄7年(1694)2月11日、同門の菅野六郎左衛門が高田馬場で果し合いをすることとなり、武庸は助太刀をし、相手方3人を切り倒している。

 これを知った赤穂藩浅野家家臣・堀部金丸が養子縁組を希望し、はじめは断わっていたが浅野長矩に中山姓のまま養子縁組してもよいという異例の許可を出され、堀部家の婿養子となった。

 武庸は浅野家家臣となり、200石の禄を与えられている。

 元禄11年(1698)、尾張藩主・徳川光友正室・千代姫が死去した際に浅野家の弔問の使者となっています。

 その後、元禄14年(1701)3月14日、松の廊下事件が発生し、赤穂藩は改易。元禄事件へと続く。

 武庸の簡単な略歴ですが…八丁堀一丁目のこの地にも居住していた武庸。居住していた時期は?

 いずれにしても、浅野家に召し抱えられる前のことでしょう。(後日調査してみます)

 さて、雲行きも次第に怪しくなってまいりました。次の目的地へと向かいますが、それは次回で。
その6 に続く


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(霊岸島  於岩稲荷)
中央区湊辺り

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