「体力測定で何が好き?」→「幅跳び」→「ふらいはい」。
「レクイエム」って曲のサビで叫んでるのは多分僕です。
さて今回何を書くのかなんですが、普段自身所有のブログを週1で更新してまして、しかもそちらの文章はかなり説明的なことをやっているので困りました。そういえば毎年年末にまとめエッセイ的なことを書いており、今年2025年の分のネタもある程度浮かんでいたので、それを流用します。
ぜひふらはのブログにも寄っていってください。面白いので。正直自己紹介はそっちの中身を見てもらった方がよくわかります。
https://fk-com-exp.hatenablog.jp/
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大阪人に生まれたかったな、と思うことが時々ある。
自分は生まれも育ちも横浜市民であり、今も上大岡から往復3時間以上かけて早稲田に通っている。ほんの少し、祖父母の実家の広島の血が混入している程度だ。
なぜ東京よりも大阪が良かったか。それは、会話に人間としての価値が置かれているからだ。
大阪人は皆持ちネタをいくつも抱えているという。その強弱が対人関係に大きく影響を与える。いかに面白い話をして、人を惹きつけられるかが大事なのだ。
確かに落ち着いて考えれば、一般人が面白く会話をすることに経済的な価値を見出すのは難しい。けれど大阪にはその価値が残っているから、憧れるのだ。
ふらはは小学生とかの頃、話のネタを考えるのが好きだった。自分が大阪人ならもっとモテただろうな、と思いたくなる。
逆に東京は、他者に対して無頓着である。それは譲り合いのマナーというよりも、むしろ自分の世界を完結させて身を守る手法と言える。僕もそんな東京人の1人。
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大学生になってバイトを始めた。まあそれは当然なのだが。塾などで高校生の試験監督をしている。
で、たまに前で喋ることがある。試験開始は何時ですとか、解答用紙前に流してください、とか。一応これでも僕は高校時代からの演劇部出身であるため、文章内で強調する点は意識して読みたくなるし、後ろまで届く安定した声量を出したくなる。
現代のバイトは、個人の時間資源に「演じること」を追加して金銭を生んでいる、と言える。サービス業である。飲食店でも家庭教師でも同じだ。過去の労働(旧石器時代まで遡れば明らかだが)は肉体労働が全てであったのに対して。
そういう意味で、現代は「大演者時代」と言える。バイト、友人or恋人関係、授業、サークル、電車、家。対する人間に、あるいは存在する空間に一人ひとりが合わせることで、最適な自己を実現している。「全ての人間は役者に過ぎない。しかもひとりひとりが生涯にいくつもの役を演じ分ける」。ふらはも高校時代、演劇の運営者側だったが、24区では下っ端を演じなければならない。嘘です。
そうした環境下で、大多数の現代人が演劇に触れたことがない(ま小中のカリキュラムのせいだと思うが)のは非常に残念であるし、それがあるねじれを産んでいると思う。
バイトのマニュアルには、受験生への対応などが細かく記載され、基本的にバイトはそれを音読している。
それは感情を取り払ったセリフ・演技で対応することだ。(多数の)運営者たちはそれがベストで問題を回避できる方法と考えているのであろう。もっといえば、模試で問題行動やカンニングがほぼ起こらないのは、お金を払った上で、互いが監督者・受験者という役割を演じることに徹し、無駄な衝突を避けているからということになる。
例えば、電車が少し遅れただけで車掌が謝る。「お客様対応のため3分ほど遅れております、迷惑をおかけします申し訳ございません」。少し考えれば、これは1行前に申し訳をしているすごく矛盾した表現である。
しかし、マニュアルに沿って感情をなくすことでトラブルが避けられるバイト、は演劇の視点から考えれば本来変なのである。なぜか。
スタニスラフスキー・システムという言葉がある。スタニスラフスキーはロシア人だが、長すぎて今だに名前を覚えられない。彼が発明した演出論は賛否がありながらも現代まで受け継がれ、良くも悪くも基本となっている。その内容を非常にざっくり言うと、役者自身の経験を元にそのキャラクターの心情を組み立て、そして自然でリアルな演技を目指そうね、というものである。つまりその人自身の即時的な感情が全ての基礎なのである。もちろん気持ちの全てを相手に出すわけではない。あくまで現実的な調整の中でだ。しかし、感情を無視したマニュアル対応では、相手を納得させることなど無理なのでは? という結論がこれからは得られる。
確かにコンビニに行くたびにレジで「うぇーい、元気か⁉︎」とか言われたら、僕も発狂したくなる。しかし、コンビニレジの店員さんの顔くらいは目線を上げて見てあげたい、と普段から思っている。
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特定の空間においてマニュアル的に演じること。相手を機構の一つだと思って話すこと。それは無関心だ。今のところ、それでトラブルは回避できているかもしれないし、各々のパーソナルな空間が守られているのかもしれない。
だが、相手は生身の一人の人間である。みんな違う。何を考え、どんな感情を抱き、次に何をしてくるのかはわからない。相手を画一化し、自分とは分化して扱うことは(もっと言えば自分自身を理性で特定してしまうことは)分断を生む。自分とは違うものへの理解を失い、偏見に囚われる。極端な話、ジェノサイドなどはそういう方面から始まりうるのだと思う。今も世界各地で紛争や弾圧は続いている。
感情を拒否せず、自分と相手とを分けず、生身でぶつかっていくこと。異なる価値観の相手を1から理解しようと、「話す」こと。それは演劇や脚本の基本のキであると同時に、今の世界において本当に求められていることではないのだろうか。
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「話す」ことにスポットを当てた完全オリジナルの脚本作品・「ハナさない手」。これを書き上げて、今年の夏に某コンクールに出した。以前から、今回書いたようなモチーフを扱ってみたかったのは確かだ。
26年の夏にはふらはのブログ上にあげられる見込みである(でもずいぶんと先だが)。それも含めて、今後のふらはにご期待くれればと思う。
……なんだよ全体構成、あんたの宣伝に向かってたのかよ。「ハナさ」のあとがきっぽいことが書けてなかったので、少しこの場でさせてもらいました。
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最後まで読んでいただきありがとうございます。この24区ブログもまだまだ更新続きますので、ともども今後ともよろしくお願いします。
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劇団24区第56回公演
『とびきりのハッピーエンドを君に』
主宰・脚本演出 PEN
だから私は万年筆を取った。
小説家である林野は、この世界が小説であることを知っていた。何を書いても、何をしても人気が出る。そんな決められた人生が、林野は気に食わなかった。作者の鼻を明かすため、彼はなんの設定もないモブに告白するが⋯⋯
これは小説家と、とある少女の物語。
【キャスト】
蓮文
くりむ
米D
さの
未知乃タビ
赤沼柚月
あごん
ふらいはい
ネモ
【スタッフ】
脚本・演出 PEN
演出補佐 赤沼柚月、89
音響 脆依もる、旅乃栞、ふらいはい
照明 行蒔梓奈、オルファ、蓮文、ネモ
舞台美術 ハク、汐那仮眠、くりむ、米D、ねお、やわらか
舞台監督 ベトナム赤帽子、くりむ、赤沼柚月
衣装・小道具 くりむ、オルファ、汐那仮眠、足袋、はく、やわらか
制作 ねお、道案内、脆依もる、やわらか
宣伝美術 未知乃タビ、米D、高菜
WEB やわらか、ネモ
安全対策 オルファ、汐那仮眠、ふらいはい、ネモ
音響操作 りあー
照明操作 やわらか
【日時】
11月28日(金) 18:00〜
11月29日(土) 13:00〜/18:00〜
11月30日(日) 13:00〜
【場所】
早稲田大学 学生会館B202
【チケット】
チケット予約制(フリーカンパ制)
◎公演詳細はこちら
https://stage.corich.jp/stage/408736
◎予約ページはこちら
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