文芸誌の旅

【ネタバレ注意】5つの文芸誌を中心に、創作や評論のレビューをしていきたいと思っています。

文芸誌の楽しみは、突然の出会いがあること。
読んだことのない作家の作品、
新しい人の作品
自分の中に既存の知識に邪魔にされずに読める至福の媒体。
小説の中にまだ知らない人との出会いを期待しながら・・・

なお作品に深く入り込んで、共感しながら、
それが過剰化して妄想スレスレの、批評でない批評です。
必然的にネタバレがあります。
とうかご容赦を。

「インポッシブル・アーキテクチャ展」埼玉県立近代美術館

MTDB6271[1]

埼玉県立近代美術館「インポッシブル・アーキテクチャ展」に行ってきました。
実際に建設されることのなかった建築物を紹介する興味深い展覧会でした。
その実現しなかったもののアイディアや設計図のほか、
一部は模型やCGを使って再現したものがありました。

この展覧会の私の当初の目的展示物はタトリンの「第三インターナショナル記念塔」でした。
この展覧会を代表する展示物で冒頭にありました。
特に長倉威彦さんの監督によるCG作品がすごい迫力で
仮に実際に建設されていてどんなフォルムになっているだろうかを
リアルを飛び越えて、想像力を掻き立てられます。
なのでロシア・アヴァンギャルド、構成主義の象徴的作品ですが、
このCGによりその定義を飛び越えて
近代建築のむき出してある意味純粋な作品であると思います。


またこの作品は政治的な作品そのものですが、
今回の展示物の多くが公共事業の要請並びにコンペディションに応じたものが多く
ほぼ何らかの政治的なメッセージを内包しているか
または政治的な影響を受けざるを得ないものばかりです。

というのも巨大な建築物そのものが政治手段ないし権力手段であった歴史があることと、
仮に建築者・主体がそうした意図がなかったとしても
必然的にその存在が政治的帯びざるを得ない運命をもっています。

それはデザインする建築家自身もそうした意図があるかないかによらす
政治的な運命にさらされます。

そもそも巨大建築物が建設される(あるいはされない)ということは
誰かの思いが実現すると当時に、誰かが常に犠牲になるという側面も忘れてはいけません。
単にコンペの勝ち負けでなく、破壊される自然、変化する景観などが常に伴い、
誰かの思いの実現が、誰かの思いを奪う可能性をどこかに感じながら
今回の展示物を見ないと重要な点を見失ってしまうでしょう。

ということで、この展覧会ではザハ・ハディト氏が中心となった「新国立競技場」がもう一つの目玉となっています。
この作品もまさに政治的であって、時代も近いこともあり
私達に単に作品の芸術的な観点だけなく
実現(あるいはその頓挫)のプロセスを同時代人として、
様々な議論をかきたてる存在であるので、
そこには純粋な芸術的な鑑賞が許されません。


いずれにしても政治性というのはそうした人々の意志の選択となにかの断念の両方を伴うことを思いながら、
そのプロセスを明らかにすることと、放っておけば消えてしまいかねない存在に光を当てること、
そこにこの展覧会の価値があるのだと思います。

異彩を放っていたのが川喜田煉七郎の「霊楽堂」でした。
山田耕筰にインスパイアを受けて考案されたオーディトリウムですが、
わたしが注目したのはあるスケッチに、詩がコラージュのように貼り付けれていたからです。
「「白き手の獵人」より」とあって、詩が冒頭が手書き、途中から活字体で記載されていて
詩の本文をメモらなくて(おそらく公式の図録に当然乗っているの思ったのですが、特に記載されてなく)
不確かなのですが、記憶の限りでは、
この詩は三木露風の詩集「白き手の猟人」に収めれている「死したる恋」だと思います。

われらが深く眠りしは、
見えがたき日の何時(いつ)なりし。
心は目を閉ぢ、記憶は去れり。
まことなりしか我が恋よ。
鐘の音は燃ゆるに似たりー
苦しき酔の涙もて、ああ我涙もて、
鐘の音は鳴り響かん。
見えがたき日の彼の声は
わが膚の上に鳴り響かん……

三木露風と山田耕筰は童謡「赤とんぼ」の作詞者と作曲者の関係であり、
おそらくこの方面を詳しく調査すれば
この川喜田の「霊楽堂」のもっと深い意味を読み取ることができるかもしれませんが、
そこまでたどり着かないまでも
この展覧会の中にあって
ひとつ内面的な思考を放っていて
とにかく印象的でした。

単に鑑賞するということだけでなく、
我が事として持ち帰ることを
教えてくれる
とても素晴らしい展覧会だと思いました。

原民善「夏の花」『日本近代短篇小説選昭和編2』(岩波文庫)

IMG_0047

この作品を読み、
主人公と街を歩く。
歩いてみても
私にはその悲惨さを
おそらく私がもしそこにいることができたとしたら
感じ取れれるであろうということと同じくらいには
決して感じることはできないないことは承知ししつつも

それでも気づいたことがある。

そして私のようにあとから来た時代の人は
そのことを忘れてしまいがちが、

広島の人たちが被爆したとき、
そこにいた人は誰も何が起きたのか知る由もなかった。

もし仮に
いま東京に原子爆弾が投下されたら
立ち上るきのこ雲を見て、
理解の道筋を確認することはできるだろう。

いったい自分が何によって死んでいくのかを
知らずに死んでいくということ、
またそのことに関して
自分にどのような主体的な関わり
はっきりいえば
そのような目に合うことについて
何らかの落ち度があったのかどうかという問いと
その問いが成立しないとという虚しさに、
非人道的な関係性が、
この小説にある。

森本智子『枇杷』「mon」vol.13

Evernote Snapshot 20181029 115008


よく人生を知っている人は、
物を持ちすぎないことが大事だと言う。

物にこだわる人ほど取得してしまうのだし、
取得してしまったら、捨てられないし
残してしまったら、あとに残る人の良心に波風を立たせてしまうし・・・


この作品で
両親はもちろん、妹せりかも片付けられない人として出てくるが、
主人公自身が、作中いたるところで捨てようと気合を入れたり、せりかに発破をかけるのだが、
それでも同じ手放すにしても、クリーニングする、近所の触れ回る、メルカリを使うなど、なんとか単純廃棄を避けようとする。
そうした細かい描写が、この作品をうまく包み込んでいるように感じました。

物語は亡き両親とある女性の三角関係に発展しましたが、
私が気になったのは、売買の結末についてでした。

買い手は八十代を超えた夫婦だから、
余命もそれほどないし、終の棲家を見つけたと思われるので、
なるべく早く、自分たちが住みやすい家を立てたいので、すばやく調査・解体・建築に入りたい事情があったのだろう。

川村も、ベテラン不動業者として、個人的な感傷が、取引を滞らせる、あるいはマッチング自体が破断になることなのどの経験から
なるべく速やかに手続きを済ませたいのだろう。

そしてそれにたいする売り手の反発も相まって、期限として設定していた、梅雨直前の6月1日に姉妹、老夫婦、不動産業者の三者が揃う売買契約の場が、いったいどんなドラマが展開されるのだろうかと、待ち構えていました。

そうしたことがなかったのが、すこし残念でした。

生意気な事を言わせてもうならば、もったいないと思いました。

でも、物が捨てられない、片付けは発掘に似ている。
そこは自分もそんなことを思いながら、なかなか片付けられない、そうした人間なので、とてもとても(そしてチクチクするほど)伝わってきました。

プロフィール

タカピン

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ