保坂和志『花揺れ土呟く』「文學界」2017年8月号



このブログの一番の目的は
小説との新しい出会いを求めること。

特に読んだことのない作家の作品を
なるべく前提意識無しで読み、
作家の過去に縛られること無く
いま目の前にある作品の中に入りたいのである。

これは1つの理想論であるが、
自分の作品から受けた感情の出所をはっきりとしたいことと
経験上から小説を楽しむという点ではそうしておいたほうが
純粋に楽しめると思うからだ。

心が強人ならば、作家の過去の作品や、作品以外での発言などに振り回されないで
自分の心ひとつで作品に純粋な態度で臨めるはずだが
それは私には無理なのだ。

作家のプロフィールや評論、スタイル、作風、あるいは顔写真。
そうしたもの達が読む前に、この作品はこんな作品であろうという決めつけ生む。
すると歪な作品に対する感想をが生まれてしまう気がするのである。
「私はこの作品を読んでこう思った」という確信が持てなくなってしまう。

こんな前置きが長くなってしまったのは
この作品が作者が全面出て、作者の過去について綴られた作品だから。

あらすじは特にない。
主人公の過去にあった出来事を恣意的にチョイスしている作品だ。

主人公の視点は近所の建物の建ったり壊れたりを気にすることであり
そのとき敷地にある樹木が伐採されるかされないかだったり
ジョン・レノン、ボブ・ディラン、日活ロマンポルノ、小島信夫、安藤忠雄
こうしたカルチャーは主体的な選択なのか受け売りなのか微妙なラインなところを散りばめたり
野生の動物たちに眼差しを向けつつ
外猫ファミリーという新しい(都合の良い)猫の飼い方をしていたり、
六十五歳だけど自己イメージは三十歳で年長らしい喋り方をしたいけど自己イメージが邪魔で、三十歳の話し方をしたり、
「ある小説を二週間書くということは、そこで書いたこと、書きそびれたこと、書きながらアタマを掠めたことが書いているあいだ持続することだ」という創作動機であったり、

こうした主人公の視点や関心事が、
私にとってはほとんどが共感を持って、でも気に入らない。だから苛立出しい、リアリズムを感じる。
そして半人生を語るこの作品の中で趣旨は「私はこうして生きてきた」という自慢話なのだが
問題はこの作人の主人公が保坂和志という人物であることである。

作者が過ごした過去を作者が意味づける。
ただしその意味付けのあり方に読者である私が違和感を覚えたとして
それは作品に対する違和感なのか、作者に対する違和感なのか難しくなってしまう。

過去にはそうした区分けができないで、ごちゃごちゃになってしまう。
何度もそうした間違いをしてきたが、
今では作品は作品、作家は作家と読めるようになってきたと思っていた。

ではこの作品はどうか・・・

おそらくこの作家の違う作品に出会った時
読むか、読めるか、感情的にならずにすむか、
その感情の中でも勝ち負けとかいう、作品の本質とは違うところの気持ちが全面に出てこないだろうか?

初めて読んだ作家だけど、いきなりこうした悩みを受け取ることがあるとは
このブログを書き始めてから、思いもしなかった。