水原涼『クイーンズ・ロード・フィールド』「群像」2017年8月号


仲の良い友だちと、腹を割って全てを打ち明けれれるはずの間柄の友だちでも、秘密ができる。
でも、じつはそれが、友だちと関係を維持していくためについてしまった嘘だから、
それがバレてしまうと、友情自体が解消してしまう危機感を覚える。
だから嘘をつき続けてしまう。
本当は一番嘘を言いたくない友だちなのに。

グレイグ、モリー、アシュリー、ロベルトは
アシュリとロベルトが喧嘩をして、グレイグとモリーが仲裁に入って、
だけど皆んなで先生に怒られたのが仲良くなったきっかけだった。13歳のときだった。

モリーは体が不自由な妹がいる。
アシュリーは黒人であるがゆえに嫌な目になっている。
ロベルトはキャッスル・カルドニアンFCのアカデミーに入ったけれどもプロにはなれそうもない。

でも主人公グレイグは自分は何もないことを引け目に感じてしまった。
だから兄から虐待を受けていたという嘘を何十年もつく。
それでみんなとバランスが取れていると思う。
しかし兄アーロンは家にこもっている以外はとてもいいやつなので、
いつかその嘘がバレるのではないかと心配していた。

やがてこの街でみんなおとなになっていった。

友だちに嘘は突きたくないが、逆に友だちだからついていた嘘は許される、それが友情を守るためであれば。

そしてこの街の人達にはキャッスル・カルドニアンFCとそのホームグラウンド、クイーンズ・ロード・フィールドがある。
そこのゴール裏で一緒に騒げば、それが1つの証になる。
モリーが亡くなって、親の世代は引退し、娘・アリスが大きくなっても。
カルドニアンFCとクイーンズ・ロード・フィールドは変わらないのだ。


私もサッカーのひいきチームがあって、それが時には重くのしかかったり、
逆に人生の嫌なことを、サッカーチームで解消することも出来る。
このことは自分もそうであるからとても身にしみる。
サーポータのチームとの関係も一人ひとりが少しづつ違って
またその濃淡は一人の中でも時期によって色々あることが
じんわりと伝わってくる。

スコットランドのどこかの物語だけど
もしこれを日本を舞台にすると
サッカーファンとクラブの係を描く時に、
スコットランドと違って、もう一つサッカーというものはなんぞやとかを描く作業が生じてしまい
サッカーがあたりまえのサラリとした生活を、描きにくくなってしまう。
でも個人的にはスポーツクラブとファンの関係、それと纏わりつく人生と歴史は世界中にあると思っている。
それでもこれを日本を舞台にしたらやっぱりサッカーの情景を背後に漂わせながら物語を進めることは難しいような気がした。

でも最近行けてないスタジアムに行かなくてはと思ってしまった。

最後に、主人公グレイグが妻のモリーを亡くして、ずっと悲しみに打ち拉がれている。
娘のアリスもうんざりするくらいに。
しかしつぎの思いがグレイグにはある

「人が一人死ぬということは、その人が周りの人と交わしていた親密な言葉が一つ滅びるということだ」

言葉が人と人との意志のやり取りの手段であり、標準的な言語以上のローカルなものがあるし、
そのローカルの最たるものがある特定の人同士の会話だろう。

グレイグが悲しんだ2人だけで築いたものが永久に失われてしまう言葉は
たしかに悲しいけれど、それはグレイグだけではなくてどんな人間でも感じる切なさだろう。

その悲しみをサッカーの応援を通じて乗り越える。
いやサッカー文化と地域社会の営みの日常性で乗り越える。
あるどこかの街でそうしたことが行われている。
悲しみと楽しみをバランスを探りながら人は生きていく。