三木三奈『アキちゃん』「文學界」2020年5月号


まず読み始めてから、いったい主人公「ミッカー」は何歳の時点からこの物語を振り返っているのだろうかと、ずっと頭から離れなかった。
(それは最後、本当に一番最後に明らかになる)
とうのもこの「突き指もしたことがない」主人公の救いようのない自己中心的な共感性のなさのようなものを、いつの時点で振り返り反省するのだろうかと思って読みすすめていたからだ。

ところが途中でアキちゃんの名前と秘密がはっきりして、「あっと」この小説の主題が一見はっきりすしたような気になる。
この段階で、まずは主人公の共感性のなさみたいなものについて、読者も一緒に試されているような感じがした。
正直なことを書けば、この瞬間、作者がずるいと思った。

しかし、私が感じたこの怒りとは、じつはアキちゃんを取り巻く社会全体の、やるせない共感性のなさに、私も含まれていることなのだと思い、
そうしたら、この小説は、この点が素晴らしいとうっかり思ってしまった。

でもこの作品の本当の狙いはそこにはないだろうとも感じた。
きっとこれは世の中に受けるテーマであって、本当の悲劇はそこではないのではないか?
あるいはそこにとらわれると、理解を小さくしてしまうのではないか?

ともかくミッカーが、安全な場所から、自分のことは棚に上げといて、他人の人生にいろいろ物申す態度が、今の社会全体に覆われているモヤモヤするようなところに、とにかく食い込んでると思った。

それは寛容な態度とは相容れない感情、
「わたしはそのときの猿にむけた感情をまったく同じものをアキちゃんに感じていた。それはいいようもないあわれみと、小石でもぶつけたたくなるような憎たらしさだだった」というところが、大きな課題として少なくとも自分には提示されたような感じがした。
でも「大人」な自分はいつかミッカーが心を入れかえるだろうと、うかつにも考えていた。

さて、一番の印象に残ったところは、アキちゃんの兄に対して、ミッカーがバレンタインチョコをあげようとする画策するところだった。

この計画がミッカーの単なる悪意を超えたところから、ミッカーを行動に駆り立てている背後の心情があるのではないか、という予感を感じながら読んでいくとすごくワクワクしてきた。

というのも、地の文でさえ、ミッカーは本音を吐くことなく、いちおう「こころから憎む人間の兄の顔というものを、一度見てやろう」という動機で、足繁く兄のバイト先に通い、しかもその店で欲しくもない本を何冊も買っている。

買い物のやり取りで、ミッカーは兄の手の指を見たりする。
「彼の青白い指先の爪はまるでマニキュアの塗る女のように長かった」
そして、爪が長くて髪が長いことを発見したミッカーは
そのことをアキちゃんに嬉しそうに報告する。しつこくキモいと言いながら。
そこからバレンタインチョコをあげようと思いつく。

それでもこんな事を言う。
「わたしはなにも本気で兄にチョコを渡すつもりでいたわけでなく、 ーそもそも渡せるくらいなら、とっくに話しかけているはずなのだー ただチョコを持って兄に会いに行くということがしたいのだった。そしてなにかの拍子にチョコを渡せる可能性に過剰な期待をかけては、都合のいい妄想をくりかえすのだった」

「ただ渡したいだけ」っていうことを、あっそうですかってながしてしまうことを鈍感だと非難されるならば、この場面はけっしてながしてはいけないところだと思う。ここではミッカーは「有能なスパイ」気取りを装うけれども。

この決して明かされることのない、ミッカーの本音。
それでもこの妄想の行き着くこところには、一番最後の「もっとずっと残酷なことを考えていた」というところの「残酷」に行くつくだろうと、こちらが妄想してしまう。

妄想だから飛躍してしまう。でもあえて書く。
ミッカーと兄が付き合ったり、結婚したり、子供に恵まれた家庭をもったりすること。

でもこの妄想の由来が、あるいは兄に対する思いや行動が、恋愛感情なく、アキちゃんに対する復讐心だけで行ったとして、そうした恋愛や結婚もあるかもしれないとか、
この作品自体がアキちゃんをだしにして、ミッカーのどろどろしたところを際立たせるように構成したのかもしれないとかと考えていくうちに、
冒頭から「アキちゃんを憎んでいた」って書いてあるのに、勝手に自分がアキちゃんの複雑な事情に気を取られて、下手な大人ぶった心持ちを、最終的にあざ笑らわれてしまうような、正直「やられた」感がでてきた。

読者を揺さぶり、読者を試し、少なくとも自分にとっては、ある意味社会的立場に囚われた表向きの倫理感に迫ってくる迫力がこの作品にはある。
しかしこの作品の評価が、なにか思想的な評価にすり替わってしまうなら、それはおかしなことになってしまうと思う。

すくなくとも自分にとっては、考えるきっかけを与えてくらたし、アキちゃんに寄り添わなくてはいけない状況下の中で、ミッカーにどれだけ寄り添うことができるかということも試してみようとも思うようになった。

そして思考実験として、ミッカーの心の中と、ミッカーの行動とをしっかり分けて考えてみれば、その行動じたいがなにか重大に問われるものでないないと思った。

心の中と、実際の行動が世の中に問われるのならば、それは行動であって、理論的にいえばどんなに妄想をしつくしたって、それが全く行動に反映されないならば、妄想にはなんの罪もないはずだ。

でもこれも大人のかりそめの倫理観かもしれない。

なぜならこの作品には「カルマ」が出てくる。
そして「アキちゃんへの憎しみ」が悪いカルマの根源と考えていた。しかしそれをやめようとしてもやめられず、アキちゃんがカルマを植え付ける存在だと認識しはじめ、悪いカルマを増やさないように、努力したが無理だった。

でも行動でなく内面で憎むことが悪いカルマだと考えるならば、
進んで心の中だけで考えたことが、罪になると思ったら、
それが良心の始まりのようなものなので、
少なくともミッカーが18才の頃には考えられなかったが
「ずっとあと」で考えれるようになったことの原点であったかもしれない。

なにも描かれていないけれど、
この物語を振り返った時点のミッカーは、
このカルマについてだいぶ思慮をつくし
振り返ることができるようになったのだろうか。

もしそうならばこの作品はとても救いのあるもののように思えてきて、
読後しばらたくたってから、あのモヤモヤ消えていった。

これが自分の内面とのすり合わせた結果で
最初に自分が望んだようなものに昇華させたのだとしても、
このプロセス自体が本当に楽しかった。