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自販機ポルノの出版社として、1980年前後に大きく名を売ったのが、アリス出版です。なんせ、歌謡曲の「アリス」というグループの元になったとまで噂されるほどで、多いモノでは5万部を超える雑誌やグラフ誌を、毎月数十点出していた。自販機本は表紙がふたつあるので、おいら、忙しい時期にはひとりで一ヶ月に十数点の表紙を作った覚えがあります。1979年の暮れだが。

このアリス出版の歴史をたどれば、自販機ポルノ発祥から全盛期にかけての雰囲気というのが理解できるわけで、まぁ、おいらも一時期、身を置いていたために、聞き書きも含め、知ってる事も多いので、この章ではアリス出版の歴史についてジックリ語りたいと思います。

昭和ポルノ史
昭和ポルノ史・序説
第一章 非合法エロ写真と実話誌
第二章 エロ系実話誌の世界
第三章 初期通販本と松尾書房
第四章 エドプロと初期通販本版元
第五章 北見書房と素人モデルたち
第六章 自販機ポルノは港町で生まれた
第七章 初期自販機ポルノの世界

第八章 アリス出版の栄枯盛衰




    アリス出版の創設

 現物に沿ってアリス出版の歴史をたどってみよう。頼りになるのは奥付と、あとは勘だけだ。奥付と言っても、自販機本では「発行年月日」は記載されてないわけです。でも、アリス出版は頻繁に引越ししているので、住所だけでも大雑把な年代測定は可能です。

 まず、最初期のモノとして、発行元が「東京出版」になっている物があります。実は、東京出版というのは版元ではなく、この種のグラフ誌の取次会社だ。東京雑誌グループのグラフ誌は、どの版元の本もここを経由してオペレーターにまわり「劇画アリス」や「少女アリス」とかの雑誌は「共同」という会社を経由してオペレーターに渡る。奥付が東京出版になっているのは1975年頃の発行で、もっとも古いと思われるのだが、この会社自体はその後もずっと、豊ビルの四階にあった。アリス出版というのは普通の出版社と違って、単なる「編集プロダクション」であって、正式な発行元ではないわけですね。あくまでもカネを握っているのは「東京出版」であり、「共同」です。で、最初期のグラフ誌は、のちにアリス出版社長となる小向氏が、檸檬社という出版社に勤めていた時代にアルバイトとして仕事を受けて作っているので、アリス出版名なしで、東京出版名義の本が存在するわけです。

たとえば「女子高生シリーズ第三弾・紺色の処女」なんだが、発行は東京出版になっているが、発行人の名がアリス出版の社長になる小向氏です。「濡れていく処女」というのもそうです。これらのグラフ誌、1975年から遅くとも1976年までの発行です。小向氏が自販機本作り始めたのが1975年という事なので、「東京出版」名義のグラフ誌というのが、その時期です。最初は個人的な撮影方法だったと思われるんだが、単にヌードモデルが裸になっているだけ、という撮り方で、ストーリー性とか、あまりないです。

 やがて、小向氏は檸檬社をやめて自販機本に専念するようになり「平和出版」というブランド名を名乗るようになる。1976年頃だと思う。平和出版時代には、前述のLANDA.SSが製作に参加している本も多い。LANDA.SSの中川氏というのは劇団出身の映画青年だったので「兄妹」などは映画のスチールかと見まがうほどの出来栄えだ。ちなみに「兄妹」は、撮影はSMの大家である杉浦則夫氏です。平和出版時代には、このLANDA.SSが作ったと思しき作品がずいぶん多いです。まぁ、ストーリー物はほとんどそうかも知れない。

 もっとも平和出版を名乗っていた時代はさほど長くないです。神田方面に同名の老舗エロ本出版社があったので、すぐに名前を変える事になる。ここでやっと「アリス出版」と名乗るようになるのだ。

 西池袋に東都自動車ビルというのがあるのだが、1977年くらいまで、アリス出版はそこに居を置く。アリス出版は編集プロダクションなので、印刷までは関与しない、入校までを、当初、グラフ誌は一冊40万円で請負い、毎月四冊作っていたという。一冊の撮影には20万ほどかかるので、毎月80万で女子事務員の給料や家賃まで払わなくてはならず、あまり楽な商売ではないです。もっともすぐに点数が増え、雑誌まで作りはじめる。雑誌は撮影なし、ポジも使いまわし、編集も外注なので、アリス出版としては率が良いわけで、これでやっと経営的には安定する。1977年になってからだと思うが、豊ビルの五階に引越し。もともとここの四階には東京出版が入居していたので「上があいたから、こっち来いや」という程度の話だと思う。

 中川氏の言葉によれば、下請け外注扱いだった編集プロダクションLANDA.SSが、KUKIという出版社を作ってビニ本なども作りはじめたのが1976年だというが、東京雑誌系でもこの時期になるとアリス出版の下請けを離れて自前のブランドでグラフ誌を出版するようになる。東都自動車ビル時代には、アリス出版のグラフ誌はかなりの部分をLANDA.SSに頼っていた感があって、単体のヌードはともかくストーリー物はLANDA.SS製作が多い。そのLANDA.SSが独立する事によってアリス出版では自前でコンセプトを作らざるを得なくなる。そこで出てきたのが「菊一文字」と「花一文目」だ。

 エロ本の撮影作業というのは、技術的にはそんなにむずかしい事ではなかったりするわけです。もちろんプロのカメラマンにはプロなりの技というのがあるのだが、些細なライティングの違いよりパンツの食い込みとか透け具合とかが大事なので、カメラの腕というより撮影ディレクションの方が大事なのだ。

 アリス出版の社長というのは芸術家肌の人で、他人の撮る写真には物足りなかったのだろう、「不純異性交遊」「堕胎」などのセーラー物で、独特のアンダーグラウンド世界を作り出す。この時代にはカメラはハッセル、照明は大型ストロボというのがエロ本屋の常識だったのだが、ニコンFにコダクローム詰めて自然光で撮るという、まあ、社長だから許されるけど社カメだったら怒られる手法ではある。キーワードとしては、「セーラー服」とか「少女」とか。基本的にアングラ本ならでは、の、擬似ロリータです。それも、シャドーの多い、陰鬱な映像です。

 豊ビル時代には、この「菊一文字」名義のグラフ誌も多い。またLANDA.SSの関係で中川氏の友人であったアリス出版出入りのデザイナーも、「花一文目」という名義でSM物などを撮っている。いずれも既成の方法論を壊して、新たな方法論を構築するための行為だと言えなくもない。別の言葉では「自分で撮れば安あがり」とも言うが。一冊あたりの制作費が安いので、杉浦則夫氏のような業界売れっ子カメラマンを使うと採算が苦しいわけです。

 そんな中、山田定幸という人が入社する。この人はそれまでのアリス出版のカラーと違った社会派的なセンスの持主で、豊ビル時代には「日本売春史」というとんでもないグラフ誌を作っている。特攻隊員と女郎のカラミ、もんぺにセーラー服の娘を襲う男、野原の土管でパンパンと復員兵、60年安保で警察に追われ、飲み屋に逃げ込んだ大学生とオンナ…といった具合で、ちゃんと「売春史」になっていながらグラフ誌の予算内で撮っているのが偉い。

 他にも「痴漢電車」シリーズとか婦警さん物とか性犯罪を扱った物とか、タブーに挑戦するような本が次々に作られる。実話誌のところで触れた「雑倫」の規定を思い出して貰いたい。つまり、これもまたセーラー物と同じように東日販系のエロ本では出来ない仕事なのだ。1977年後半から1980年頃まで、アリス出版のグラフ誌はほとんど彼が中心になって作られている。

 1979年の春には僕が入社し、亀和田氏が退社するのだが、両者ともにあまりグラフ誌には関わってないので置いておくとして、やはり1979年、僕より少し遅れて、その後AV監督に転身する豊田薫が入社する。東京雑誌グループは1980年くらいが最盛期になるのだが、その時期を控えて活発に新人が入っていたのだ。手狭になったために、アリス出版は1979年の秋には白井ビルというところに引っ越すが、ここは長くはない。ほどなくサンケエビルというところに再び引越し。ちなみにいずれも池袋である。

   アリス出版・その全盛期

 サンケエビルへの引越しについては面白いエピソードがある。
 ちょうどサンシャイン60がオープンして池袋東口が注目されていたのだが、当初、東京雑誌グループはそのサンシャイン60に入居したくて申し込んでいたのだそうだ。ところがエロ本屋だから、という理由で断られ、代わりに入居したのがあの詐欺集団、豊田商事です。妙な因縁というのはあるものだが、ライブドアが六本木ヒルズに入居してるようなもんだろう。時代は繰り返す。いつの世も詐欺師は羽振りが良くて、いつの世もエロ本屋は被差別賤民だ。

 そんなわけでサンケエビルはサンシャイン通りをちょっと入ったところだ。自前でグラフ誌を作って納品していたエルシー企と合併したのもこのころで、アリス出版では急にスタッフが増えていた。また「A&L」というモデルクラブも同じフロアに合流した。これは女性週刊誌で募集をかけて女の子を集め、アリスとエルシーに供給するのが役目。また外部のモデルクラブとの交渉窓口でもある。

 1979年以降の数年間は素人モデルの全盛期だ。脱げるかどうか不明の新人モデルは、たいていセーラー物か少女物で撮影することになる。擬似ロリ物は露出度が少ないし、あまり大股開きとかしなくて済むからだ。ちゃんと脱げる事が確認できると、次にはカラミとかSMとか。ちょっと可愛い娘だとグループだけでも五、六本の撮影が入る。社外のモデルクラブにとっても、むやみに撮影の多いアリス出版はお得意さんで、毎月数十本は撮っていたから業界一だった。

 最盛期は1980年だが、なんせ僕一人で月10本撮っていました。でも、僕自身は編集兼業なので多くない。他にも専業のカメラマンが二人以上いた。一人はエルシー企画から合流した岡克己というカメラマンで、編集者が一人しかいない会社に専属カメラマンが存在するというのも妙なものだが、グラフ誌の編集部というのはそういうものだ。アリスにも専属のカメラマンがいたし、サンケエビル時代には石垣章というカメラマンが半分専属みたいに活躍する。こうした専属カメラマンは、ほぼ毎日撮影やってます。

 このサンケエビル時代には、スタッフが増えたので、複数の編集者がグラフ誌を作ってます。前述の社会派・山田定幸、その後AV監督として名をあげる豊田薫、グラフ誌でなく雑誌を中心に動いていた僕も多少は作っているし、エルシー企画の系列編集者もいる。これらが同時期にグラフ誌を作っていたのだ。編集者、お抱えカメラマンなど、スタッフも20名以上になっていたわけで、合併前のエルシー企画や、豊ビル時代のアリス出版にはそれぞれ編集者、カメラマンが一人ずつくらいしか居なかったのと、大きな違いです。もっとも、ズブの素人をどんどん投入していただけなので、キャリアのある編集者というのはいないです。

 その頃には部下もいたので、僕は編集仕事は部下にまかせて、A&Lに入り浸っては、新人モデル漁りに励んでいた。女性週刊誌の募集広告で来たモデルは「下着・水着」という条件なので、いきなり「ヌード」とは言えない。同じフロアーとはいっても廊下を隔てて別の部屋なので、エロ本も置いてない。そこら辺は曖昧にしたまま、強引に「下着」という言葉だけを了承させて撮影を入れるわけです。「水着はちょっと時期はずれだからねえ」とか言って。下着だとエロ本に使えるけど、水着だとあんまり色っぽくないんで自販機ポルノではあまり使われないわけです。それに下着だとそのまま「肩紐ずらして、そうそう」「片っぽだけオッパイ出して手で隠してみようか」という具合に脱がせやすい。

 女の子を泣かせたり怒らせたりしないで裸にできれば大成功なんだが、なんせ相手が素人なので大変だ。冗談抜きで、部屋の灯りを消して真っ暗にして、目をつぶって撮った事すらある。それでも僕はアシスタントなしで一人で撮っていたので脱がせるのは得意だった。遠くに連れ出すというのもテクニックのひとつで、機嫌を損ねても勝手に帰れないくらい遠くまで行ってしまえば、女の子も覚悟を決めるというもの。これは僕の話ではないが、都内の街頭で露出プレイの撮影やってたら、いきなりモデルがタクシー拾って逃げてしまった、なんていう笑い話もある。

 で、話はちょっと脱線するのだが、松尾書房だ。松尾書房は「下着と少女」というのが売り物だったわけだが、なぜ「裸の少女」でなく「下着と少女」なのかという答えがここにある。素人娘を撮影するのに「下着の撮影だから」というのは説得しやすいのだ。現場でオッパイ出すか出さないかは、モデルの自己責任である。オッパイ見せなくても松尾の撮影は成立するのだが、箱根とか富士五湖とかまで連れ出され、暗くなるまで貸別荘に軟禁(?)され、さあ、脱げ、それ脱げとやられればオッパイくらいは見せてもいいかな?と弱気になってしまう。僕はそんな鬼畜な撮影をしていたわけだが、改めて松尾書房のグラフ誌をじっくり眺めてみて、多分、同じ方法論で撮られているんだろうな、という気がした。

 撮り方の違いは写真そのものの違いをもたらす。この当時の写真は、普通の女の子に頼み込んで裸になってもらって撮ったドキュメンタリーなのだ。

 もっとも、そんなロマンチックな撮影ばかりではない。
 自販機本の売り物はカラミだった。ビニール本はパンツの透けという武器があったのだが、未成年も含めて不特定多数の読者を相手にする自販機本ではPTAがうるさく、表現に制約がある。そこで、日活ロマンポルノみたいなストーリーをスチールで絵解きして見せたのが、自販機本だ。こうしたカラミも東日販系の出版社ではタブーとされていたので、売り物になっていた。

 とはいえ、当初は男役がズボンも脱がないという、形だけのカラミだったのだが、次第にエスカレートして行く。僕がアリス出版に入社するのは1979年の春なのだが、そのきっかけは「図解SEX講座」というグラフ誌の男役だった。一日5千円のアルバイト。ここではパンツを食い込まされたり、下ろされたりした覚えがあるのだが、このころから男役の脱ぎっぷりもエスカレートしている。同じく1979年に東京雑誌グループの版元が合同で「淫花」という豪華本を作っているのだが、そこではグラフ誌初の本番撮影が行われた。モデルがいつもの倍のギャラを貰って大喜びしていたのを、僕も見ている。1979年の夏のことだ。
 そんな中、1980年の8月、アリス出版に激震が走った。

   アリス出版の末路

 アリス出版を創立した社長は、会社が大きくなって喜んでいたかというといちがいにそうとも言えなかった。東京雑誌グループ専属の単なる編集プロダクションなので、忙しいだけで儲かるわけでもないし、そもそも芸術家肌の人間なので経営にさほど興味があるわけでもない。

 しかも、モデルクラブに騙されて未成年を使ったとか、マソコにベーコン貼りつけて撮ったヤツがいて「あまりにキタナイ」と摘発されたりとか、本人の責任でもないような気の毒な「事件」が続く。あげくの果てにはアリス出版で仕事をしたカメラマンが「傷害罪」で捕まる、などという「事件」まで起きた。

 傷害罪というと女の子を殴ったとか想像するが、実は、SMの撮影で陰毛を剃っただけの事だ。これで捕まっていたらSM専門誌のカメラマンは毎日逮捕されなきゃならない。ただ、警察が誰かを捕まえようと思ったらどんな手段でも取りうる、という事だ。素人モデルの女子大生を呼びつけて「被害届を出さないと親にバラすぞ」と脅せば良い。

 1980年というと、日本PTA全国協議会が有害図書販売規制立法請願を国会に提出したという年だ。そこでもっとも問題だったのは、自販機ゆえに未成年でも自由にエロ本が買えるという事であり、その代表格として目の敵にされたのが、業界最大手のアリス出版だったというのは、想像に難くない。小向氏が顧問に退いたり、エルシー企画が合併されたりといった動きの中で、編集プロダクションでなく、自前で本を出して儲けたいという元エルシー企画社長の明石氏が1980年の8月に独立し、古くからのアリス出版、エルシー企画のメンバーのほとんどがそれに同行するという「事件」が起きたのだ。

 なんせ、世の中ではビニ本ブームが起きていた。この機を逃したらゼニ儲けのチャンスは再び巡って来ないぞ、というわけで、ビニ本の元祖であるエドプロ出身の明石氏の血が騒いだのだろう。もっとも、これは喧嘩別れしたわけではないので、分裂した群雄社も、その後も外注として東雑グループの雑誌・グラフ誌を作っている。グラフ誌は「八月書房」というブランド、雑誌は「海鳴書房」だが、あくまでも群雄社の主力はビニ本ルートだ。

 その後も残ったメンバーでアリス出版は続く。1974年あたりから始まった自販機ポルノも、機械が償却を迎えるとともに更新されることなく減らされて行き、それにつれて発行部数は激減してしまう。初期のメンバーが全て抜けたアリス出版だが、その自由な社風を慕って集まった優秀な若手編集者ががんばっていたので内容的にはクオリティの高いグラフ誌を作り続けていた。竹熊健太郎、神崎夢現、藤原カムイといった面々がそうで、その後メジャーで活躍するスタッフが経営的には苦しい後退戦を闘う。

 1981年の8月以降には、サンケエビルから近所の長谷川ビルという場所に引越す。明らかにアリス出版は縮小に向かっていた。長谷川ビル時代のグラフ誌の悪戦苦闘ぶりはそのページ数を見ただけでもわかる。元々、東京雑誌グループの自販機本はカラー32ページ、モノクロ32ページで始まったのだが、東都自動車ビル時代には既に64ページオールカラーになっている。1978年以降はグループ以外のグリーン企画、桜桃書房なども含めて64ページオールカラーというのが業界基準なのだが、1981年、長谷川ビルに移って以降はその原則が崩れる。ページ数が減ったうえに一部がモノクロになったり、また1983年に関口ビルというところに移ると、今度はオールカラーに戻ったかと思えばページ数が逆に増えたり、でも増えた分は下着の通販広告だったりと、頻繁にスタイルが変わる。多分、値段も変わったと思うが、自販機本には定価がついてないのでわからない。元は500円だったが、関口ビル時代には値上げしていたはずだ。

 アリス出版がその後、どうなったのかは定かではない。生まれた時と同じように、いつしか消えて行ったとしか言いようがない。僕のコレクションで確認されている限りでは「セーラー服純情組」というのがある。タイトルがおニャン子とかのパクリなので1985年くらいだと思われるが、そこに記された奥付の住所は高田馬場のマンションの一室だ。サンシャイン60をワンフロアー借りあげようかという勢いだった時代から、わずかに五年後という事になる。

 もっともエロ本屋というのはしぶとい連中でもある。それで消えたのかと思いきや、なんと「21世紀まで仕事してたよ」と証言する人もいる。なんでも、いよいよ事務所を閉める事になって、同業者に大量のポジを引き取らないかという交渉があったそうだ。結局、話は潰れたのでポジは行方不明だが、アリス出版の残党は編集プロダクションとして生き延びていたそうです。
「ほら、エロ本屋さんてマジメだから」と、自分も根っからのエロ本屋の事情通が教えてくれた。なんでも大手旅行雑誌の下請けとして、温泉取材の記事などを手がけ、コツコツとマジメに働いていたそうです。